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小説191(オリビアを聴きながら)

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フォレストシンガーズストーリィ191

「オリビアを聴きながら」


1

 抹茶アイスを食べながら、育子ちゃんと合唱部室の裏手の芝生のところにいた。夏が近くて陽射しは強いのだが、ここは涼しい風が吹いていて気持ちがよかった。
「もうじき夏休みだよね。育子ちゃんは合宿には行くんでしょ?」
「合宿の前にテストがあるから、がんばらなくっちゃね。つぐみちゃんも合宿には行くんでしょ?」
「行く行く。合宿の話しは先輩たちからは聞いてるけど、カップルになると夜中に抜け出して海辺を散歩して、キスしたりするんだって。育子ちゃんにはそんな相手はいる?」
「いてへんけど……」
 天然パーマだと聞いているセミロングヘアを揺らして、育子ちゃんがぽっと頬を染める。赤くなるってことはいるんだな、言えよぉ、と育子ちゃんをつついていると、人の姿が見えた。
「誰かいる? 新入生? こんなところで内緒話?」
 あらわれたのは四年生の八幡さんだった。長身の八幡さんは腰に手を当てて私たちを見下ろし、育子ちゃんが言った。
「ここに入ったらいけないんですか」
「いけないよ。出ていきなさい」
「はい、すみません」
 いけないんだったら出ていこうかと、育子ちゃんとふたりで立ち上がると、八幡さんは言った。
「あなたたちの名前は? どこの出身?」
「堀内育子、大阪です」
「中川つぐみ、東京です」
 自己紹介はしたのだが、合唱部は人数が多いので覚えてもらっていないのだろう。立っていても八幡さんは私たちよりもかなり背が高いので、見下ろして言った。
「堀内さんも中川さんも背が低くてぽっちゃりだよね。中川さんは東京の子だからいいんだけど、堀内さんは大阪弁が入ってる」
「大阪弁もいけないんですか」
「東京で大阪弁で喋るなんて、恥ずかしくないの? 堀内さんは大阪弁を矯正して標準語になりなさい。それに、ふたりとも痩せなさい」
「三年生の実松さんは、堂々と大阪弁で喋れって言うてはりましたよ」
「中川さんも実松くんみたいに大阪弁で喋って、みんなに笑われたいの? あなたは一年生でしょ。先輩に向かって口答えだなんて生意気なの。あやまりなさい」
「別に口答えってほどでも……」
 私も言うと、八幡さんはものすごく怖い顔になった。
「生意気な子たちね。男子部には先輩に反抗した後輩に与える罰があるらしいよ。ランニングだって。あなたたちも走ってきなさい」
「えええ?」
 ワンピースにサンダルのこんな格好でランニング? 育子ちゃんとふたりして困っていると、八幡さんは意地の悪い笑みを浮かべた。
「サンダルなんて脱げばいいじゃない? ワンピースだって脱げば? 合唱部は先輩命令には絶対服従なんだよ。一年生のくせして合宿でデートだなんて話しもして、子供のくせに生意気すぎるのよ」
「八幡さんも人の話しを立ち聞きしてはったんやから、お行儀が悪いんとちがいますか」
「堀内さん、あんたってほんとにほんとに生意気だね。その大阪弁を聞いてるとむかついてくるのよ。服を脱いで走ってきなさい。下にはキャミソールを着てるんでしょ。脱いでも大丈夫だよ」
「いやです」
「そこまでさからうの? だったら退部!!」
 なんでこのひとはこんなに怒っているのだろうか。退部させられるくらいだったら走ろうか。私はそう思っていたのだが、育子ちゃんは言い返した。
「そしたら、女子部のキャプテンに聞いてきます」
「木山さんは今日は来てないよ。四年生の命令はキャプテンだって他の誰だって同じなの。あやまりもしないで口答えばっかりしてる子たちは、キャンパス一周。行きなさい」
 そこに男性の声が聞こえてきた。
「女同士だとセクハラにはならないのかもしれないけど、おまえの言ってることは無茶だぜ。俺も立ち聞きしてたんだけどさ、部室の裏手に入ったらいけないなんて規則はねえだろ。それを言いがかりって言うんだよ」
「徳永くん……あんたには関係ないじゃない。男子部は女子部には口出し厳禁だよ」
「どうでもいいことだったら口出しはしないけど、おまえのほうこそ罰ランニングだよ。おまえが走ってこい」
「罰ランニングは男子部の……」
「そうだな。女子部にはそんな罰はないよな。おまえが一年生に退部だなんて申し渡す権利もないだろ。男子部キャプテンに中に入ってもらうか」
「本橋くんに告げ口するの?」
「されたら困るのか」
 このひとは男子部四年生の徳永さんで、キャプテンとは本橋さんだ。一年生女子は男子部の先輩とはほとんど触れ合ってもいないが、徳永さんとキャプテンと、副キャプテンの乾さんはよく知っている。なにしろ有名人なのだから。
 徳永さんは皮肉っぽく、八幡さんは怒って、ふたりで言い争いをしているのを、育子ちゃんと私はいたたまれない気持ちで聞いていた。
「おまえはヒステリー気質なんだよな。誰かに告白でもしてふられたか」
「おまえって呼ばないでっ!!」
「ああ、これは失礼。あなたはヒステリー気質ですね。ヒステリー女には特効薬があるんですよ。やってみましょうか」
「特効薬?」
「俺がその気にならないうちに、とっとと行っちまえ。俺はおまえみたいな女を見てると、張り倒したくなるんだ。俺だけじゃないだろうな。おまえは男の精神衛生によくない女なんだよ。新入生の前で女を殴ったりはしたくないからしないけど、それ以上言うとひっかついでどこかに連れていって、痛い目に遭わせるぞ」
「……あんたってあんたって……」
「俺はそんな奴だよ。誰かみたいに、女は殴らないなんてかっこいいというか、かっこつけた台詞は口にしない。殴られたいのか、八幡早苗」
「……大嫌いっ!!」
 本当にヒステリーみたいな声を出して、八幡さんは走り去っていき、育子ちゃんと私はほーっと息を吐いた。
「堀内さんと中川さんか。気にするな。ああいう女には殴られたいのか、も効き目がありそうだから言ったまでだ。きみらは別になんにも悪くない。芝生のところには立ち入り禁止ではないんだから、好きなだけお喋りすればいいよ」
 手を上げて徳永さんは行ってしまい、育子ちゃんと私は顔を見合わせた。
「八幡さんも怖いけど、徳永さんも怖そう。私、退部したくなってきた」
「退部なんかしたらあかんよ。ええんとちゃう、言うだけやったら。ほんまに殴ったりしたらいややけど、八幡さんって……」
「うん、まあね。これからは八幡さんには近寄らないでおこうね。徳永さんにも近寄りたくないけど、八幡さんは絶対にいやだ」
「私も八幡さんとは話ししたくないな。八幡さん、誰かにふられたんやろか」
「そういうふうに考えるのって失礼だけど、そうかもね」
「かもね」
 もう一度お喋りをする気にはならなくて、育子ちゃんと連れ立って帰った。
 夏合宿では、育子ちゃんとは同室ではなかったのだが、三日目ぐらいに会ったときに話してくれた。昨夜、育子ちゃんは実松さんに告白されたのだそうだ。
「五月に公園の薔薇の花を見にいったでしょ。あのときにはじめて話して、同じ大阪出身やて知って、仲良くなりかけてた。そんでね、昨夜……」
「つきあうんだね。嬉しい?」
「嬉しい」
 実松さんは大阪弁のみで男子部名物であるようだ。中背でたくましいほうの身体つきで、顔立ちは普通だし、歌も上手というほどではないのだが、優しそうに見える。育子ちゃんとはお似合いにも思えた。
「つぐみちゃんはどうなん?」
「私には彼なんてできそうにないな。太ってるから?」
「八幡さんが言ったことを気にしてる? つぐみちゃんと私は似た体型やんか。私に彼ができたんやから、つぐみちゃんにもできるよ」
「自信満々台詞だね。育子ちゃんのほうが可愛いから、私にはできないよ」
「そんなことないって」
 それから、育子ちゃんはこうも言った。
「実松さんは内緒にしておきたいらしいから、つぐみちゃんもみんなには言わんといてね」
「言わないよ。秘密の恋って素敵」
 どうして秘密にしたいのかは知らないが、私が口外するわけはない。絶対に言わないと約束した。
 大学に入ったのは恋をしたいからではないけれど、恋がしたい。育子ちゃんが告白されたと聞いてうらやましくて、だけど、合唱部の一年生にはかっこいい男の子はいない。尾崎くんなんかだといいかもね、と思っていたのだが、彼にも彼女ができたと、同じ一年生の館山くんが話してくれた。
「尾崎は三年生の榛名さんに告白したんだってよ。酒巻は四年生の山田さんとつきあってたそうなんだけど、合宿の一夜にふられたらしいぜ。泣いてたって噂があるんだ」
「酒巻くんが山田さんにふられて泣いてたの?」
「そうなんだって。つぐみちゃん、酒巻をなぐさめてやる?」
「ふられて泣く男の子なんてやだよ」
「だったら、俺とつきあう?」
「ジョークでしょ」
「うん、ジョーク」
 ジョークだったら言うな、と言い返して、私には彼はいないと知られているから、ジョークで口説かれるのかと暗くなっていた。
 一年生の男の子は年上女性好みが多いのか。でなかったらジョークでつきあおうなんて言う奴しかいない。ルックス的にも歌的にもたいしたのがいない一年生男子なんて、私も興味はない。小さくて弱虫であるらしい酒巻くんにだって、全然興味はなかった。
 男子部の先輩たちともぼつぼつ話しぐらいはするようになっていたのだが、私もルックスには自信がないし、歌も上手ではないのだから、むこうから言ってくれたらともかく、こっちから告白する勇気はない。告白しようと思えるほどには、好きなひとも出てこなかった。
 育子ちゃんと実松さんは仲良く交際を続けていて、私たちが二年生、実松さんが四年生になった春には、実松さんが男子部キャプテンとなった。
「小笠原さんがキャプテンで、本庄さんが副キャプテンだっていうのが妥当だって前評判だったんだけど、実松さんは彼らになにやら……だったらしいよ」
「なにやらって?」
「なんやろね。私もよくは知らんから」
「フォレストシンガーズがあるから?」
「そうかもね」
 くすっと笑っていた育子ちゃんは、実松さんとつきあっているのだから、男子部の内部事情も知っているのだろうに、詳しくは話してくれなかった。
 フォレストシンガーズとは、去年のキャプテンの本橋さんと副キャプテンの乾さん、現四年生の本庄さんと小笠原さん、三年生の三沢さんの五人で結成された、男子合唱部出身のヴォーカルグループだ。その噂も私は耳にしていた。
 彼らは私から見れば先輩であり、ほんのちょっとお話はした程度の知り合いにすぎない。けれど、今はアマチュアである彼らがプロになったら、と思うと楽しみだった。


図書館で調べものをしてからの帰り道、三沢さんに会った。私は三年生になり、三沢さんは四年生になって、本年度男子部キャプテンになっている。三沢さんとも通り一遍の会話はしたものの、私なんかは覚えていないだろうかと思っていると、彼が声をかけてくれた。
「中川つぐみちゃん、勉強してたの?」
「あ、はい。帰るところです」
「俺もだよ。こいつと喋ってて遅くなっちゃったんだ。紹介するね、同じゼミの三浦。三沢と三浦の燦々コンビ。この燦々はスリーではなくて、きらめく燦々だよ」
「三浦俊樹です。よろしく。俺は三沢とは燦々コンビってほどには親しくないんだけどね」
「中川つぐみです。よろしくお願いします」
 頭を下げて挨拶すると、三沢さんが言った。
「三浦と俺は親しいじゃん。同じ学部の奴は皆友達。同じ大学の奴は皆友達」
「おまえに言わせたら、同じ地球に生きてる奴は皆友達だろ」
「おー、三浦くんはよく知ってらっしゃる。つぐみちゃん、送っていくよ」
 辞退しようとしたのだが、いいからいいから、駅までね、と三沢さんが言う。三人で話をしながら歩いているうちに、夕食を食べていこうとなった。
「ああやって三人で歩いていると、三浦とつぐみちゃんがカップルに見えるんだろな。俺はちっこいから、三浦の弟にでも見えるんじゃない?」
「おまえみたいな弟はいらないけど、そんな言い方はつぐみちゃんに悪いじゃないか」
「悪い?」
「悪くはありません」
 さほどに背は高くないが、清々しい雰囲気を持つ感じのいいひとだ。ひとつ年上の三浦さんとだったら、カップルに見られたとしても悪い気持ちにはならなかった。
「俺たち、メンバーチェンジしたんだ。ヒデさんは梅雨のころにやめちゃって、かわりに木村章って奴が入ったんだよ。つぐみちゃんはヒデさんは知ってるだろうけど、章は知らないだろ」
 三沢さんが言い、私はうなずいた。ヒデさんとは小笠原英彦。育子ちゃんの彼の実松さんと、本庄さんと小笠原さんは、合唱部の同学年男子の中では名物の三人組だった。
 育子ちゃんと実松さんはずっとつきあっているので、育子ちゃんから話はたまには聞く。小笠原さんが脱退したとまでは聞いていないが、フォレストシンガーズがプロにはなれていないとは聞いていた。
「つぐみちゃんも三浦も知っての通り、フォレストシンガーズはアマチュアだから、練習は公園でやってるんだよ。よかったら聴きにきてくれない? お客さまがいてくれたら、プロとなってからのステージのリハーサルにもなるもんね」
「行きたい」
 私が言うと、三浦さんも言った。
「俺も行きたいな。つぐみちゃん、一緒に行こうよ」
 その日はごはんを食べて最寄の駅まで送ってもらい、約束の日時に三浦さんと待ち合わせた。待ち合わせの駅は本橋さんのアパートの近く、フォレストシンガーズが歌の練習をしている公園の近くでもあるのだそうで、三浦さんと一緒に公園に向かった。
「つぐみちゃん、差し入れでも持ってきたのか? でかいバッグだな。俺が持つよ」
「重くもないんですよ。中身はエビフライサンドイッチですから」
「エビフライサンドイッチって手作り? 俺も食いたいな」
「母に手伝ってもらって作りました。たくさんあるからどうぞ」
「つぐみちゃんって自宅通学だよね」
「そうです。三浦さんは?」
「俺は横浜。三沢は横須賀だから、俺の自宅とはわりに近いんだよ。俺は自宅から通ってるんだけど、あいつはひとり暮らしだろ。いいないいな、なんて話をしてて親しくなったんだ。俺も三沢も経済で、教室で会ったりもしたからね」
「私も経済です」
 そのような話もしながら公園に到着すると、フォレストシンガーズの歌が聴こえてきた。
「……私は合唱部にいますから、小笠原さんのいたころのフォレストシンガーズの前身……まだフォレストシンガーズじゃなかったころの五人の歌だったら聴いたことがあります。木村さんが入ると……うまく言えないけど、素敵」
「すげえうまいんだな。俺ははじめて聴いたけど、これでもプロにはなれないって、大変な世界なんだろうね」
「そうでしょうね」
 そこで話しはやめて、ふたりして歌を聴いていた。
 歌っていたのはフォレストシンガーズのオリジナル曲だろうか。私は知らない歌だったのだが、夏の夜風と美しいハーモニーに陶酔してしまって、気がつくと三浦さんに寄り添っていた。
「あ、ごめんなさい」
「きみの髪の香りがする。つぐみちゃん、もっとくっついて」
「……やだ」
「いや?」
「ジョークはやめましょうね」
「俺、マジだよ。あとでね」
 どきんとしたのを押し隠して、一旦練習をやめて私たちを見ている五人に近寄っていった。
「やあやあ、今夜はお客さまが来て下さったんだね。三浦くんとは初対面だから自己紹介しますと、乾隆也です。今夜はありがとう」
「本庄繁之です。いい香りが……」
「シゲさん、食欲は後ほどにしてね。三浦、おっす。つぐみちゃんにはキスキスキス」
 投げキッスをする三沢さんの頭をはたいてから、木村さんが頭を下げた。
「やめろよ、馬鹿幸生。木村章です。はじめまして」
「本橋です。ようこそ。ほんとにいい匂いがするんだよな」
「はい、差し入れです」
 わーい、と三沢さんが叫び、三浦さんが持ってくれていたバッグからサンドイッチの包みとアイスティのポットを出して、七人で食べてお喋りをした。
「うまかったーっ」
「ごちそうさま」
「ありがとう」
「つぐみちゃーん、愛してるぅっ!!」
「俺も愛してるよーっ!!」
 五人が口々に言い、本橋さんはリーダーとして、代表するように言った。
「これでまた一段と元気が湧いたよ。つぐみちゃん、ごちそうさま。今夜はありがとう」
 三浦さんも言った。
「うまかったよ。俺さ……あのさ……うん、あとで……」
「おー、三浦? どうかした?」
 三沢さんが三浦さんをつんつんつつき、三浦さんは三沢さんにキックする真似をしていた。そんなにおいしいと言ってもらって、お礼も言ってもらって、私は照れてしまっていた。私のほうこそ、素敵な歌を聴かせてもらってありがとう、と言いたくて、上手に言えずにいた。
「俺たち、きっときっとプロになるよ。こうして応援してくれている人もいるんだ。合唱部の後輩たちだけじゃなくて、メンバーの学部の友達だとかもいるんだよな。つぐみちゃんのサンドイッチは最高にうまかったよ。ほんとにありがとう、三浦、つぐみちゃん、感謝するよ」
 乾さんが言ってから、三浦さんに内緒話をした。
「そんなんでは……そんなんかな。乾さん、俺は……」
 三浦さんも内緒話をしかけ、乾さんに、おーし、しっかりやれ、と言われて背中を叩かれていた。彼らの内緒話の内容は、帰り道で判明した。
「つぐみちゃんと会うのは二度目だけど、ひと目惚れってのかふた目惚れってのか、つきあってほしい。好きだよ、つぐみちゃん」
 黙ってうなずいて、手をつないだ。


2

 俊樹、つぐみと呼び合うようになってから二年余り、ふたりともに大学を卒業し、一般企業に就職してからも、交際は続いている。俊樹とはつきあっているけれど、学生時代の友達とは会わなくなって、育子ちゃんとも話しもしなくなった。
 育子ちゃんは実松さんと続いているのかな。実松さんも一般企業勤務の営業マンになったから、農家の嫁になりたいだなんて、風変わりな夢を持っていた育子ちゃんとは別れたんだろうか。私がそんなことも考えていた秋に、フォレストシンガーズデビューの報を聞いた。
 その日は夜に俊樹とデートの約束をしてから、私は近くのビルにある建設会社に出かけていった。私の職場は建設機材を扱っているので、課長のお使いで届けものにいったのだ。
「総務部の高田ですね。少々お待ち下さいませ」
 受付の美人に要件を告げると、彼女は内線で総務部に連絡してくれる。その横にいたもうひとりの受付の女性が顔を上げた。
「……見覚えのある顔なんですけど、私を知ってます?」
「八幡さん!」
 知らないと言うべきだった。大学に入学して合唱部に入部して、夏にもなっていないころに育子ちゃんと私に、ヒステリーまじりで怒った八幡早苗さんではないか。
 あれからは彼女には近づかないようにしていたのだが、女子部では嫌われているようだとの話は聞こえてきていた。美人だからって鼻にかけて、太った女や地方出身者を見下げる。そのような話しを聞いたからもあって、育子ちゃんも私も敬遠していたのだ。
 彼女は三年も年上だから、近づかないでおこうとすれば可能だった。なのだから、あれからは怒られたりはしなかったのだが、他の女子に意地悪しているのは見えた。聞こえてもきていた。
 その八幡さんがこんなところで働いている。卒業後の消息はまったく知らなかった八幡さんは、建設会社の受付嬢になっていたのか。美人なのだから会社の表玄関で会社の顔になっているのはうなずけるのだが、会いたくなかった。
「私の名前を知ってるのね。お仕事ですか。ランチでもいかが?」
 お断りします、と言っては、これからだってこの会社には来るのだから、後々まずいことになる。私はやむなくうなずいた。
 お互いの会社は比較的近距離にある。職種も近い。仕事はじきに終わってランチタイムになって、お昼休みが終わってから社に帰ればいいのだから、八幡さんとともにランチを摂るという羽目になってしまったのだった。
「あれから考えてたんだけど、あなたは私と同じ大学の合唱部の後輩だよね」
 和風レストランに入ると、八幡さんは私の好みも聞かずに、ローカロリー定食をふたつ注文した。
「そのぽっちゃり太った体格にも顔にも覚えがあるのよ。名前は覚えてないんだけど、太った女の子には忠告してあげたから、あなたにも言ったんだろうな。ダイエットしなかったの?」
「してません。彼はふっくらした女の子が好きだと言いますから」
「彼がいるの? 嘘ぉ。見栄を張ってるでしょ」
「いいえ。います」
「彼がいたとして、彼が太った女が好きだと言ったとしても、本音じゃないよ。痩せた美人に浮気されないようにしてね」
「ご忠告は感謝します」
「私はプロポーションはいいけど、太らないように努力してるから、あなたにローカロリー定食でおつきあいするわ。おいしくはないんだけど、カロリーは抑えてあるのよ」
 おいしくないごはんは食べたくないのだが、おごってくれるつもりならば我慢しよう。
「合唱部だったんだったら知ってるでしょ。本橋くん」
「フォレストシンガーズの本橋さんですよね。フォレストシンガーズってデビューしたんですよね」
「そうみたいだけど、売れないで消えちゃったらいいのにね」
「そうなんですか」
 どうしてそう思うのだろう、と考えていると、八幡さんは私の名前すらも尋ねずに言った。
「私、本橋くんとつきあってたのよ」
「ああ、そうだったんですか」
「早苗、好きだ、つきあってくれ、って、泣きそうな顔で告白されたんだよ。私は別に本橋くんなんてなんとも思ってはいなかったんだけど、つきあってくれなかったら死ぬとまで言われたんだから、死なれたら目覚めがよくないじゃない」
 合唱部には誰が誰を好きだとか、誰と誰がつきあっているとかいう噂もあったが、本橋さんと八幡さんは聞いたことがない。卒業してからなのだろうか。
「あのころの本橋くんはお金がなくてね。今でもないんだろうけど、もっとなかったのよ。ホテル代も食事代も私が出してあげてたの。デートのときにはいつもおごってあげてたわ。感謝はしてくれたんだけど、そのうちには当たり前みたいになっちゃうのよね。早苗、金貸して、早苗、あれ買って。それってヒモじゃないの」
「本橋さんがそんなことを言うんですか」
「疑ってるの?」
「いいえ」
 恋人同士の関係は他人には見えないものである。私は自分に言い聞かせて、運ばれてきた定食に箸をつけた。味がなくて油っけがなくてまずかった。
「おいしくないよね。おいしくないものを食べたほうがダイエットにはいいんだよ。でね、そんなんだから捨ててやったんだ。誕生日にカトレアのブーケを持ってきて、捨てないでくれって泣いてすがられたんだけど、お金と身体が目当ての男なんて、って言って捨ててやったの」
「はあ、それはそれは」
「ジャスミンティを飲んで、音楽を聴いていた夜に、電話が鳴ったのよ。誰からかかってきてるのかは知ってたけど、出てやらなかった。愛なんて最初からなかったんだから、消えもしないのよ。オリビアなんて嫌いだし」
「……オリビアを聴きながら、ですね」
「なによ、なにが言いたいの?」
「いいえ。ごちそうさまでした」
「ごちそうさま? 割り勘に決まってるでしょ。私は本橋くんにお金を搾り取られてたんだから、貧しくなっちゃったんだからね」
「はあ、そうですか」
 割り勘だったら二度と誘わないで下さいね、とも言えないので、まずいランチにお金を払った。夜は俊樹とデートだ。夜にはおいしいものが食べられるだろうか。


 料理はわりに上手な俊樹が手料理をふるまってくれると言うので、彼の部屋に行った。俊樹は大学を卒業してからひとり暮らしになったので、デートは彼の部屋ででもできる。ちゃんこ鍋をつつきながら、私は言った。
「合唱部の先輩に会ったんだ。俊樹は知らないだろうけど、フォレストシンガーズの本橋さんや乾さんと同い年の女性だよ」
「合唱部ったら俺は三沢しか知らないよ」
「三沢さんとは連絡は取り合ってるの?」
「あいつはケータイも持ってないって言ってるけど、フォレストシンガーズの公式サイトがあるから、そっちにメールすると届けてもらえるんだ。三浦俊樹って書いておいたら、三沢にだったら誰だかわかるもんな。他の人も俺の名前は覚えてくれてるらしいよ。だからってほとんどメールもしないけど、その先輩がどうした?」
 昼間に八幡さんが言った言葉を話すと、俊樹が怒り顔になった。
「俺は本橋さんとは二、三度しか話したこともないけど、そんな男じゃねえよ。三沢からだって話しは聞いてる。そんな奴がフォレストシンガーズのリーダーをやってられないだろ」
「そうなんだかどうかは私は知らないよ。私だって八幡さんの話は全部は信じてないもん」
「信じるなよ。しかし、むかつく女だな。八幡なんて女は俺はまったく知らないけど、おまえだって仲が良かったんでもないだろ。なんのためにそんな話をするんだろ」
「オリビアを聴きながら、をアレンジしてたみたいだね」
 食事がすむと、俊樹がCDを持ってきた。

「お気に入りの歌 一人聴いてみるの
 オリビアは淋しい心 なぐさめてくれるから
 ジャスミンティーは 眠り誘う薬
 私らしく一日を 終えたいこんな夜
 出会った頃はこんな日が
 来るとは思わずにいた
 Making good things better
 いいえ すんだこと 時を重ねただけ
 疲れ果てた あなた 私の幻を愛したの

 眠れぬ夜は 星を数えてみる
 光りの糸をたどれば 浮かぶあなたの顔
 誕生日には カトレアを忘れない
 優しい人だったみたい けれどおしまい
 夜更けの電話 あなたでしょ
 話すことなど 何もない
 Making good things better
 愛は消えたのよ 二度とかけてこないで
 疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの」

 そうそう、この歌に近かった。なんだかかっこつけた女、かっこつけた歌、と私は思っていて、八幡さんも格好をつけたかったのだろう。俊樹はパソコンを起動して、フォレストシンガーズ公式サイトにアクセスしていた。
 毎日はデートできない。自宅通勤の私は彼の部屋にも泊まれない。終電に間に合うように帰ったその翌日、俊樹から届いたメールにはこう書いてあった。
「三沢に聞きたいことがあるって、フォレストシンガーズサイトにメールしたんだ。そしたら三沢から深夜に電話がかかってきた。八幡って女の話しだって言ったら、俺んちに来るってよ。あいつも気になってるらしくてさ、おまえも来られないか」
 日時は一週間後。行くよと返信して、その夜には私も俊樹のアパートに行った。三沢さんと俊樹は今夜も鍋料理を囲んでいて、三沢さんが言った。
「つぐみちゃん、久しぶり。きみたちはこうなったんだね。結婚するの?」
「結婚もそのうちには考えるけど、今は八幡って女の話しだろ。つぐみ、この前の話を三沢にもしてやれよ」
「俊樹はどうしてそんなに気にするの?」
「俺も本橋さんはさ……三沢から聞いてるせいだろうけど、あのひとは男が惚れる男なんだよ。だろ、三沢?」
「あらま、俊樹くんってばうちのリーダーに惚れてるんだ。はいはい、意味が別なのは知ってますよ。つぐみちゃん、話して」
 促されて話すと、三沢さんは無言になって聞いていた。その顔がだんだん憤慨の表情になっていく。こんな顔の三沢さんははじめて見た。
「嘘だよ。全部嘘だ。細かくなんて言いたくないけど、嘘だからね。信じないで、つぐみちゃん」
「信じてませんよ。俊樹にも言ったけど、オリビアを聴きながらのアレンジですよ」
 俊樹が「オリビアを聴きながら」のCDをかける。三沢さんは不機嫌な顔になっていたのだが、歌を聴いていると表情がゆるんだ。
「こんな話はリーダーにもシゲさんにもしたくないし、三浦にもつぐみちゃんにもしないよ。ふたりともに、八幡さんと本橋さんにはなんにもなかった、八幡さんの妄想だって信じてくれたらいいんだ。リーダーがそんなこと……絶対にないよ」
「おまえも疑ってるのか」
「馬鹿野郎。俺はリーダーを信じてるよ。信じてる以前に、知ってるんだよ」
「シゲさんってのはなんでそこに出てくるんだ?」
「乾さんにも章にも、こんな話はしないんだよ」
 三沢さんと俊樹の会話を聞いていると、思い出されてきた。
「一年生のときだったかな。あのときって、八幡さんは誰かにふられてヒステリーなのかって思ってたの。その誰かって本橋さんだったりして。八幡さんも本橋さんも四年生の年ですよね。三沢さんはそういう話は聞いてます?」
「そういう話はちらっと聞いたよ。ヒステリーって?」
 そのときには徳永さんが八幡さんを諌めてくれた。諌めるというよりも、荒っぽく叱責したというか、言葉でやっつけたというか、の感じだった。
「育子ちゃんと私に怒ってた八幡さんに、徳永さんが言ったんですよ。殴られたいのか、八幡早苗、あの口調、怖かった」
「徳永さんって意外なひとだね」
 細かくは覚えていなくても、徳永さんが育子ちゃんと私を助けてくれて、八幡さんを激しくきびしく叱責したのは覚えている。優しさやあたたかさはかけらもない口調だった。
「俺はよそのひとから徳永さんの話をきくたびに思うよ。幸生はぬらりひょんだって言われてるけど、徳永さんのほうがよっぽどだよな」
「俺は徳永さんって知らないよ」
「彼も歌手志望だって。早くデビューできるといいな」
「おまえたちはデビューしたからって、余裕の発言だな」
「余裕なんてねえよ」
 俊樹に向かって舌を出してから、三沢さんは言った。
「そんときに徳永さんに殴られたらよかったんだよ」
「八幡さんがですか?」
 私が言うと、俊樹も言った。
「女を殴ったりすると、乾さんに殴られるんじゃないのか」
「だから俺はしませんよ。乾さんに叱られるからじゃなくても、俺は他人は殴らないの。でもさ、徳永さんがそうしてくれたら……あの女じゃ改心もしないか。これは妹たちの決まり文句なんだけど……最低」
 八幡さんがか。三沢さんの口調には憎しみが漂っているように聞こえる。
 彼女はこの三沢さんにまで憎まれるようななにをしたの? 私にはかすかにしか読めないけれど、これからもなるべく、なるべくではなく、できる限り八幡さんには近寄らないでおこう。仕事で会っても逃げよう。私の自衛策はそれしかなさそうだ。

END





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