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小説189(銀色のグラス)

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フォレストシンガーズストーリィ189

「銀色のグラス」


1・繁之

 ビールも日本酒も好きではないという美江子さんは、今夜はワイングラスを手にしている。仕事帰りに幸生と美江子さんと俺の三人で食事に来て、幸生と俺はビール、美江子さんは白ワイン。幸生と美江子さんがお喋りしているのを楽しく聞かせてもらっていると、ふっと揺れた。
「地震?」
 美江子さんが目を丸くし、幸生が美江子さんの肩を抱き寄せた。
「大丈夫ですよ。俺が守ってあげるから」
「守ってもらうほどの揺れでもないよね。おさまったみたいね。でも、幸生くん、ありがとう」
「ワインがこぼれちゃいましたね」
 微震だったようで、俺も安心した。幸生は美江子さんの肩から腕をはずし、口ずさんだ。

「こぼれたワインは涙のしずくさ
 銀色のグラスにうつるあなたの姿
 沈む夕陽のような恋が僕の命さ

 こぼれたワインは涙のしずくさ
 たったひと夜だけの愛に夜明けはないさ」

 幸生の大好きなグループサウンズの歌だ。美江子さんはお絞りでテーブルにしたたったワインを拭っていて、俺は言った。
「ひと夜だけだったら夜明けなんかありませんよね。当然ですよね」
「シゲくんにはこんな経験はないの?」
 目元がほんのり赤らんでいて、酔い心地になっている美江子さんは色っぽい。いや、色っぽいってのはさ……そりゃまあ……いや、まあまあ、素朴な感想であってだな、などなどと、ここにはいない恭子に言い訳する。
 透ける素材の淡いブルーのブラウスに、グレイのスカート。グレイのスーツのジャケットは椅子の背もたれにかけてある。俺は美江子さんを、学生時代には先輩として、シンガーとなってからはマネージャーとしての目でしか見たことはないのだが、綺麗だな、色っぽいな、程度だったら考えなくもない。
 ブラウスの下には白い……なんだろ、これは。キャミソールとか言うんだっけ? 美江子さんの胸元に視線が漂いそうになって目をそらし、俺は咳払いした。
「ないの? ひと夜の経験は?」
「シゲさんったら、スケベな目」
 気づかれていたようで、幸生がにっと笑う。美江子さんは幸生の頭をこつんとやってから、同じ質問を繰り返した。
「あるんでしょ……ああ……あるね」
「ええ? 美江子さんったらなにか知ってるんですか。シゲさんの一夜の恋の経験? あるんだあるんだ。そりゃああるよね」
「幸生くん、しつこく尋ねたらいけないのよ」
「美江子さんが言い出したくせに。でも、そうですね。言いたがらないのに尋ねるのは人としていけないことだって。乾さんだって言ってますよね」
「そうだよね。幸生くんにはあるんでしょ」
「ありますよ。美江子さんにもある?」
「あるけどね」
 へ? あるのか。女性にもそんな経験は……いや、あってもおかしくはないのだろう。恭子にもあるのかもしれないが、妻には聞きたくない。美江子さんだったら聞いてみたいような、聞くのは失礼なのかと思うような。
 幸生にしても本橋さんや乾さんや章だったら突っ込むくせに、俺や美江子さんにはしつこく尋ねようとはしない。幸生が思い出したのは俺のあれなのであろうが、美江子さんはまったく知らないはずだ。知られたくはないから言いたくない。
 三十年近くも生きていれば、恋愛方面でも人にはなにかとある。俺ほどに経験の足りない男はほとんどいないのではないかとも思うが、俺にもなーんにもなかったのではない。
 それにしたって、俺は苦い思い出しかない。思い起こすとふわっとした気持ちになる、結婚前の淡い恋ってのはあるけれど、ひと夜ではなく幾夜かのあのひとのことなんか、思い出したくもない。記憶の奥底に封印しておきたかった。
「それって恋だったんですか」
 幸生が訊き、美江子さんが答えた。
「私は恋のつもりだったよ。ふられたってとこかな」
「美江子さんでもふられたことはあるの?」
「何度だってあるのよ。幸生くんのは恋だったの?」
「そのときには恋のつもりだったけど、振り返ってみれば、俺は彼女に恋してたんだろか、ってね。恋ってなんなんでしょ」
「難問を持ち出さないで」
「真実の恋ってなに?」
「乾くんに教えてもらったら?」
「乾さんも教えてくれないんですよ。シゲさんと恭子さんの恋が真実の恋?」
 急に問われたって、俺にだって答えは出ない。幸生は俺に答えを求めていたのではないようで、美江子さんに向かって言った。
「結婚に至るのが真実の恋ってわけでもないでしょ。あたしは幸生くんと結婚したいの、ってさ、変則的プロポーズみたいのを女の子にされたことはあるんですよ。俺はその気にはなれなくて、結婚しないんだったらつきあってられないって言われて、捨てられました。あれは真実の恋じゃなかったのかな」
「ふーん、幸生くんって女性からプロポーズされたんだ。もてるんだね」
「だから言ってんじゃん。俺はもてるんですよ」
「そうだね。よかったね」
 本気に受け取っているのかいないのか、美江子さんは幸生の台詞をかわしている。幸生もジョークまじりなのか、さらに言っていた。
「美江子さんも俺もこの先も独身だったら、結婚しましょうよ」
「……三十すぎても独身だったら……もう三十はすぎちゃったけどね」
「俺はもうちょっと二十代が残ってますよ」
 美人を見れば男はよろめく。俺は面食いだと言われているが、俺ではなくても男だったら美人には心を動かされるだろう。
 長いこともっとも身近にいた美江子さんは美人だ。本橋さんが、山田なんか美人じゃねえよ、と言いたがる気持ちがわからない。そんな美人の美江子さんには、俺もかすかな揺れを幾度か感じた。先刻の地震程度の微震だったのだし、恋愛感情ではないのはもちろんだけど。
 恋に正しいや正しくないはないのかもしれないが、一夜の恋なんてよくない。遊びや気まぐれで寝るなんていけない。いつか、俺は泉水にも言った気がする。
「私はまだ経験ないんだよ」
 フォレストシンガーズがデビューしたころだったか。俺は二十三歳だったのだから、幼馴染の泉水も同じ年だった。その泉水が言ったので、俺も言った。
「本当に愛し合う男がいないからだろ。そういうことはそういう相手とするものだよ」
「……シゲらしい台詞かもね」
 大笑いしたあとで泉水は、そんなシゲが好き、と言った。
 あの意味は今もってよくわからないが、友達として好き、だったのは当然だ。俺も友達としての泉水は好きだから、男と女であるにも関わらず、色っぽい感情は一切ないのも当然だ。そんな友達はいいものだと思う。
 泉水は結婚して離婚したという。俺の友達にも結婚した奴は何人かいて、二十七歳の結婚は早すぎはしない。三十をすぎた本橋さんや乾さんや美江子さんが結婚していないのも、さらに若い残りふたりが独身なのも、まあ、尋常ではあろう。
 真実の恋がなんなのか、俺には答えは出せそうにもないけれど、恭子との恋がそうなのだとしたら、これからもずっと、恭子と恋をしていられたら、それ以上の幸せはない。
 ヰタ・セクスアリス、乾さんに教わったのだったか、森鴎外の小説タイトルから「性の目覚め」とも言われる。俺はおくてだったのだから、「春の目覚め」は遅かった。その上にもてなかったのだから、二十六歳になるまでは彼女なんてできなかった。
 初の彼女は恭子。それ以前にもまったくなくはなかったけれど、本当の意味での恋人はあとにも先にも恭子だけだ。
 小学校高学年ともなると、早い奴らは教室でも少年野球のグラウンドでも、ひそやかにそんな話をしていた。俺は中学生になっていてさえも、そんな話の仲間入りはできなかった。姉が、男の子って不潔、とぷんぷんしていたときには、俺はこう問いかけたものだった。
「そいつ、風呂に入ってないんか? 髪の毛がにおうとか?」
「そういう意味じゃないんだけど、いいよいいよ。繁之はそれでいいよ。ってのか、遅い、お父さん? 繁之って中学生にしたら……」
「ええんやないのかな。うーん、しかし……」
 父までが心配そうに俺を見て、母は言った。
「ええやないの。そんなんは早過ぎなくてもいいの」
 そうだよね、と姉はうなずき、父は不安そうにしていたが、あのときには俺はなにを言われているのか、ほとんど理解もしていなかった。
 姉がいるのだから、女の子というものをまるで知らなかったわけではない。泉水という友達もいたから、女の子ってのはね、と話してくれたけれど、俺は上辺だけしか聞いていなかったのだ。高校生になると、母が父に言ったようで、父が怒った声で尋ねた。
「繁之はいわゆるその……」
「お父さん、なんで怒ってる?」
「怒ってはおらんが……」
 あとになってから、父は怒っていたのではなく、照れていたのだと知った。父も俺に似て照れやすい体質なのだった。
「そういうことはだな、あの……うん、お母さん、俺には言えん」
「なにを言われてるかわかってる、繁之?」
「わからん」
 高校生だったのだから、やっとやっと、父が言わんとしていることをなんとなくは理解し、恥ずかしいのでわかっていないふりをしておいた。
 結婚してようやく、恭子という存在ができて、遅ればせも遅ればせに、女ってのは……などという話題にもついていけるようになった。俺は女は恭子しか知らない。深くつきあった女は恭子しかいないのだから、昔のゆきずりのような相手は思い出したくもないのだから。
 浮気願望ゼロだなんて、かっこいいことを言うつもりはないけれど、一夜の恋なんかしたくない。ナンパもしないし一夜の恋もしたくないって、男としては欠陥品だと幸生に言われようとも、したくてもできないんだろと言われようとも、俺は俺なのだから。
 そのくせ、こころもち寂しくなくもなく、美江子さんと幸生のきわどい方向に進もうとしている話題を聞いている。こんな話しになると聞き役に徹するのも、いつもの俺だった。


2・隆也

 ひとりですごすバーでのひととき。グラスの中のワインを見ていたら、幸生が言っていたのを思い出した。
「金色のカップたちが歌ってる銀色のグラス。この間、シゲさんと美江子さんと三人で、そんな話をしていたんですよ」
「ゴールドカップ……ゴールデンカップスか。「銀色のグラス」って歌があるよな」
「そう、それ」
 なんの話をしていたのか、詳しく言ってくれなくてもわかる。この歌は「ゆきずりの恋」がテーマだ。俺にもそんな経験は……なくはない。
 愛している女しか抱かないとの主義を持っているつもりだが、むこうは俺を愛してもいないのに、抱いた女はいる。彼女に猛烈にアタックされて、愛しているのかいないのか、の状態で衝動的に抱いた女もいる。
 そんな恋は金色のガラスカップのように砕け散って、俺はひとり。彼女を好きだけど、彼女は俺をどう思ってる? 俺は彼女を愛しているのか? そう考えている女性はいるけれど、今夜の俺はひとりだ。いつになくワインなんか飲んで、センチメンタル気分に浸っていた。
「ん?」
 かたわらの席に音もなく、ひとりの女性が腰かけた。煙草をくわえている。火をつけてほしいのか。俺はテーブルのライターで彼女の煙草に火を差し出した。
「あなたも吸うんでしょ」
「ええ。バーは禁煙じゃないでしょ」
「吸わないひとも多いから、ライターと灰皿を置いてるひとのそばにすわりたかったの」
「はい、どうぞ」
 美しい喫煙ポーズだった。年の頃なら俺と同じくらいか。シルバーグレイのワンピースを着て、あるかなしかのセクシーさを含んだまなざしで俺を見る。彼女の前にもワイン。つまみもなしで、優雅にワインを飲んでいた。
「食後酒ですか」
「ついさっき、仕事が終わったの。くたびれちゃって食事をする気にもならなくて、食べるよりも飲みたくて」
「夕食がまだなんですか。食べずに飲むと毒ですよ。なにか注文しましょう」
「いらないんだけど、あなたが食べたいんだったらどうぞ」
「俺は仲間たちと弁当を食ったんですよ。仕事中の夕食だったから酒は飲めなくて、すこし飲んで帰ろうとここに来ました。おススメはハウスワインだって言われましてね」
「私も。ワインだけ飲んでたら回ってきちゃった」
 ほのかに酔った女性は美しい。なんの仕事をしているのかと尋ねもせずに、ゆきずりの女性と酒を飲む。こんな夜にはワインは似合っていた。
「おつまみじゃなくて会話を肴にしましょうか」
「じゃあね、チーズの乗ったカナッペでも」
「あなたが食べてね」
 名乗りもしない女性と、ワイングラスを合わせた。チーズの乳脂肪が胃に皮膜を作って、すきっ腹で飲むよりは身体にいいと、教えてくれたのは誰だったか。ミエちゃんだったか別の女性だったか、受け売り話なんかしなくてもいいだろう。
 俺は空腹ではないのだが、女性の身体によくない行為はさせたくない。だから乾さんって、おふくろみたいにお節介なんだよな、と誰かに言われている気もするが、運ばれてきたチーズカナッペを勧めると、彼女は手に取ってちびっとかじった。
「どこかで見たような気がするんだけど……」
「俺を? 彼氏に似てるんですか」
「彼氏なんかいないわ」
 仕事も知らない、名前も知らない。彼女は俺に見覚えがあると言っているが、ゆきずりのひとを相手に、フォレストシンガーズの乾隆也です、と告げるのも野暮かもしれない。俺は彼女をまったく知らないのだから、話ははずまない。
 それでもこうしていると楽しい。美しい女性が美しいポーズでワインを飲み、煙草を吸う。俺の煙草にも火をつけてくれる。俺は酒には強くないので、ほんわりと回ってくると口説きたくなってきた。
 いけないいけない、そんな真似をしたら幸生や章に意見できなくなっちまうだろ。俺は愛し合ってる女としかベッドインはしないんだ。一度もゆきずりの相手とは寝たことはないんだ。そう言っていたのを訂正しなくてはならなくなる。
 訂正なんかしなくてもとぼけていればいいようなものだが、そんなことをしようものなら、後ろ暗いおのれが気まずくなって、幸生や章に懺悔したくなる。シゲは絶対にしないとしても、本橋だってやっているのだろうけれど。
 女性の中にもいるのだろうが、男は誰だって一度ならず、そのような経験をしているはずだ。いけないのか? 彼女の目の中にもセクシャルな色が見え隠れしていて、誘ってほしそうにも思える。彼女のほうから誘ってくれたら、今夜の俺は彼女の獲物になってもいいような。
 幸生はミエちゃんとそんな話をしたと言っていた。ミエちゃんにもあるのか。ゆきずりの恋が? 俺はミエちゃんに一部は幻想の女性像を重ね合わせているけれど、彼女は生身の人間なのだ。本人だって言っていた。
「現実の女は花ではないのよ。大和なでしこなんかじゃないの。尾籠な話だってえっちな話しだって、実践だってするんだからね」
 かたわらで煙草を吸ったりワインを飲んだりしている彼女に、ミエちゃんの面影が重なって揺れる。俺はミエちゃんを? ミエちゃんを……?
 そんな目で見ると、彼女はミエちゃんにいささか似ている。中肉中背の身体つきも、大人の女性らしい意思の強そうな表情も、それでいてちょっぴり酔ってくると、しどけなさが加わってくる色っぽさも。あなたの名前は……? 尋ねたくなってくる。
 バーの中にはピアノ曲が流れている。踊ろう、と誘ってフロアに連れ出して、彼女の耳元で言ってみたい。好きだよ、今夜だけ、俺の恋人になって、きみを抱きたい。言ったらどうなるのだろうか。
 外に出ればホテルなんていくらだってある。ゆきずりの女性とゆきずりのホテルに入って、ひと夜の恋。そうしてどうしていけない? 彼女さえうなずいてくれたならば、大人の男女の恋のゲームはいけなくなんかない。
 ホテルの一室で彼女の服を脱がせて、抱き上げてベッドに運んでいく俺の姿が見える。ひと夜の恋に虚しく燃えている俺か……虚しすぎる。やっぱり駄目だ。
「黙っていると会話が肴にもならないんだけど? どうかしたの? 彼女を思い出してるの?」
「俺にも彼女なんかいないんだけどね。なあ、寝ないか」
「は?」
「おまえに惚れちまったよ。寝ようぜ。行こうぜ」
「あなたねぇ……」
「ってね、一度、こんなふうに高飛車に女性を口説いてみたいんですよ。俺だってこの年まで生きていたら、女性を口説いたことは幾度もありますよ」
「そりゃあそうでしょうね」
「だけど、いつだって低姿勢に出ていたな。あなたが好きです、あなたを愛しています。そんなふうにしか口説いた経験はないんだ」
「だから、見知らぬ女にだったらやってみたの? 悪い冗談だね」
 笑ってもいるようだが、怒りの色が目の中をかすめて、彼女はワイングラスに視線を落とした。怒っているのだとしたら、グラスの中身を顔にぶちまけられるか。横っ面を張り飛ばされるか。いっそそれも爽快だろう。
「俺は女性をおまえと呼んだこともないんですよ。彼女と喧嘩をして、おまえなんか嫌いだよ、って心で毒づいたり、そんなのだったらあるけど、面と向かっては恋人にだっておまえとは言わない。おまえって呼ばれるのはどうですか」
「好きなひとにだったらいいわ」
「そういうものですか」
「おまえだなんて見下げた呼び方は大嫌い、って女もいるから、気をつけてね」
「そうですよね」
 一瞬は怒ったのかもしれないが、怒りが燃えたのではないようで、彼女は穏やかに微笑した。
「こうやって男性とお酒を飲んでいて、口説き文句のひとつも言ってくれなかったら私も物足りなくて、私って女としての魅力がないのかしら、なんて思えてきていたところ。私はそういう女だけど、女だってさまざまいるんだから、誰にでもは言わないほうがいいのかもね」
「そうなんでしょうね」
「あなたのジョーク、楽しかった」
「それはどうも」
 ジョークにしてしまえてよかったのだろうか。彼女はすらりと立ち上がり、バッグを探っていた。
「お帰りですか。遅い時刻ですから、タクシーでしょ。あなたが出そうとしている金は、タクシー代になさって下さい」
「送ってはくれないの?」
「あなたを送ると狼になりますよ」
「あなたのその危険なジョーク、素敵よ」
 じゃあね、ごちそうさま、彼女はそう言い残して店から出ていった。
 どうやら彼女は俺よりも一枚上手であったようだ。ゆきずりの恋ではなくて、ゆきずりの酒、そんな夜もあってもいい。彼女のグラスに残った銀色にも見えるワインが、俺に語りかけている。俺はミエちゃんが? 彼女はミエちゃんに似ていたから?
 もっと早く我が心に気づいていれば、いつまでもきみと俺とは友達だと、そう決める前に気づいていれば、俺はきみが好きだ、抱きたい、と口説いて、ミエちゃんをホテルだか俺の部屋だかにさらっていっていれば、彼女と俺の関係はこうではなかったのか。
 とうに機会を逸してしまって、ミエちゃんは手の届かぬ「友達」という名の、触れられないひとになったのか。
 それでいいと思っていたけれど、今夜の俺の心は激しく揺れ動く。今さら一歩を踏み出せなくて、彼女が俺を友達だとしか思っていない以上、口説きもできなくて、ずっとずっとこのままか。名前を知らない女性が残していったチーズカナッペを口にしても、味は感じなかった。
 
 
3・真次郎


「こぼれたワインは涙のしずくさ
 かわす言葉もなく
 強く抱き合う恋」

 強く抱き合う恋、のフレーズがリフレインする。
 店内には酔客が大勢いて、誰かがカラオケで古い歌を歌っている。幸生の好きなGSの歌だ。歌っているのは若い奴ではないだろうが、高くて太い声なので、男なのだか女なのだかも不明。まあ、どうでもいいのだが。
 隅っこの席で俺はひとりでグラスを傾ける。歌詞のような一夜の恋ではないけれど、俺の中には恋のような、そうでもないような想いがわだかまっている。
 三十をすぎてから何度、女と寝たのか。あんなものは恋ではなくて、単なるセックスだ。みずえ、ヒカリ、最近ではベッドにまで入ったのはそんなものだが、以前には俺だって、単なるセックスだったら何人もの女とした。
 かわす言葉もなく抱き合っただけの女は、たった今はどこでどうしているのか。俺ではない男の腕に抱かれて、幸せな眠りを貪っていてほしい。
 どこかの男に抱かれて、真次郎っていう馬鹿野郎がいたんだよ、と言っていてもいい。真次郎って馬鹿野郎は忘れてくれていればさらにいい。俺だって忘れたよ、あいつもあいつも、おまえもおまえも。忘れてないじゃないか、馬鹿野郎と、俺が俺を罵る。
 恋の終わりはさらっと清々しく、忘れてしまうのが一番なのに、思い出してしまうのはあいつのせいだ。こんな気持ちで、俺はあいつにプロポーズできるのか。
 ソロとして海辺でのイベントに出演した際に、恭子さんとシゲと山田がライヴを聴きにきてくれた。四人で浜辺にすわって話していて、俺は決意したはずだった。山田にプロポーズしよう。ふられるってこともあるのだろうけど、言わなくてはなんにもはじまらない。
 決意はしたものの実行できないでいるうちに、俺たちはデビュー八周年記念の初の全国ライヴツアーに出た。ツアーには山田は同行していなくて、それが妙に気の休まるだらしない俺だった。
 それからヒカリとごたごたがあった。ヒカリとは別れ話をして、俺は自棄酒を飲み、「向日葵」で星さんと金子さんに喧嘩を売って、かなり荒っぽく叱りつけられた。学生時代から先輩には叱られつけているのだが、こたえたのはヒカリがからんでいたせいか。
 恩義のある先輩たちに暴言を吐いたのだから、俺は頭を丸めた。今も頭はスキンヘッドで、頭上と心がすうすう寒い。
 むこうが俺を忘れたのだとしても、俺はかつて何人もの女を相手に罪をこしらえた。ヒカリをはじめとするすべての女に対するけじめをつけるためにも、俺は頭を剃った。意識していたのは先輩たちへのお詫びだったのだが、女たちに対するけじめでもあったのだ。
「だからリーダーって体育会っつーか、任侠っつーか」
 心だか頭だかで呆れ笑いしているのは幸生であろうが、引っ込め。
 スキンヘッドはファンのみなさまにも好評だったようで、似合っていると言ってもらったのだからいい。乾あたりは勘ぐっていたのだろうが、とりたててコメントもしなかった。剃れと言ったのは俺の心の中の乾だったのだが、奴は実のところはどう考えているのか。
 社長だって周囲の人間たちだって、俺のスキンヘッドには非難は浴びせなかった。山田なんぞはけらけら笑っていた。
「おまえのせいもあるんだろうがよ」
 とは言わない。言いたいけれど、山田には言わない。
 「銀色のグラス」の歌は聞こえなくなっていても、耳元で歌詞の内容が鳴り響く。一夜だけの恋……恋なんかじゃないさ。単なるセックスだろ。  
 だけど、ヒカリとは一夜だけではなかった。セックスだけでもなかった。心と心が触れ合う感情を「恋」と呼ぶのならば、ヒカリとの間にはまぎれもなく恋はあった。俺はヒカリに対しても罪を作ったのか。
 ヒカリと知り合う前に、俺は海辺で山田にキスした。学生時代からの友人でしかなかった山田美江子を、俺は好きなのか。好きだからキスしたんだろ。俺はおまえをただひとりの俺の女にしたい、だからこそ、おまえにプロポーズしたいんだ。
 なのに、言えずにいる。山田もキスなんかしなかった顔をしている。数年前にキスをしてからはお互いにとぼけていて、あれって現実だったのか、などと俺も考えていたのだが、その後にまたもや、あったのだった。
 キスごときに数年ごしだなんて、俺はそんなまだるっこしい男ではないはずだ。学生時代から好きになった女にはアタックして、ふられたらすっぱり諦めて、新しい恋をした。女に告白する場合は勇気もある、肉食男だったはずなのに。
 喧嘩も嫌いではないのだから、俺は乾のような草食系ではない。いや、乾も女に関しては草食でもないし、フォレストシンガーズでは意外に、シゲが草食だったりするのかもしれないが、まあ、それもいいのだった。
 プロポーズして山田が受けてくれたら、結婚となるからか。結婚だからためらっているのか。山田とならば気心も知れている。女らしくなくて気が強くて、強すぎるほどに我も強くて、男をやっつけるのが趣味であるような女で、俺はあいつのそういうところも好きなのに。
 なんだってこうためらうのか。プロポーズなんて勢いにまかせて突き進むべきなのに、ヒカリが残っているせいか。
「だいたいからして、キスしたときに一気呵成にやりゃあよかったんだよな。あそこで踏みとどまってしまったから、あれから別の女と寝たりつきあったり、ややこしくなりすぎたんだよ」
 ひとりで飲んでいるのをいいことに、俺は愚痴ぐちばっかり言っていた。
「あのときはライヴだったから、宿に帰るとみんながいただろ。そんなの気にせずに、どこかのホテルへおまえを連れていって抱いて、帰って宣言すればよかったな。俺は山田と結婚するぞ、ってさ。誰も文句は言わずに喜んでくれただろうに」
 秘密は露見していない自信がある。山田だって言っていないだろうから、俺が黙っていれば誰も気づかない。気づかせるのは結婚が確定したとき。が、いつになるのやら。
 結婚が決まってから、プロポーズしたあとでおまえをはじめて抱くのか? おまえを抱いたら俺の気分がすっきりするのか。ヒカリなんか忘れられるのか。ヒカリは故郷に帰って見合いして結婚すると言っていたのだから、そうしていると信じよう。どこかの誰かの腕に抱かれて、俺を忘れたと信じよう。でないと進めない。
 ゆきずりや一夜限りや、単なるセックスともさよならだ。俺は山田と結婚する。プロポーズしよう、明日、しよう。
 数年ごし、悩み続けていたのが晴れた。その翌日にプロポーズしたら、山田は満開の薔薇のごとくの笑顔でうなずいてくれた。
「今夜は俺んちに来るか。泊まっていけよ」
 スタジオの裏手でふたりっきりで、プロポーズ直後の余韻を味わいつつ、俺は言った。
「勝負下着とかってのが……いて」
 ごちっと俺の頭を叩いてから、山田は言った。
「本橋くんのアパートに泊まるのははじめてじゃないけど、ふたりだけははじめてだよね」
「言われてみたらそうだな。おまえさ……」
「本橋くんって、結婚しても私をおまえと呼ぶつもり?」
「他になんと呼べってんだよ」
「私は本橋くんには、山田、おまえとしか呼ばれたことがないよね。夫におまえと呼ばれる生活は嬉しくないんだけど、相手が本橋くんなんだから、しようがないのかな」
 合唱部で出会ったのは乾と山田がほぼ同時。俺はふたりともに、おまえと呼んできた。俺は乾、山田と呼び捨てにして、乾は山田をミエちゃんと呼んでいた。乾は山田を、あなただのきみだのとも呼んでいたが、俺はいつだって、山田、おまえだった。
「あなたと呼べってか。おまえが呼べよ」
「あなた?」
「うげ、気色悪い」
 こうなったからと言っても、俺は変われない。昔とちっとも変わらないやりとりをかわしてから、別々にスタジオに戻っていった。
 プロポーズのあとなのだから、今夜は山田と俺の初夜なのか。初夜だなんて言葉を思い浮かべただけでも、頭をかきむしりたくなる。先にアパートに帰って待っていると、山田がやってきた。山田ははじめて見るような色気のある表情をしていて、紙バッグからシャンパンと銀のグラスをふたつ、取り出してテーブルに並べた。
「冷えたのを買ってきたからね」
「銀のグラスか」
「だいぶ前に幸生くんとシゲくんと、銀色のグラスの話をしてたの」
「ゴールデンカップスの?」
「そうだよ。本橋くんも知ってる?」
「歌は知ってるよ。GSったら幸生の領分だから、あいつが教えてくれた歌だったら知ってる」
「歌ってって言うには……」
 初夜には似つかわしくないか。俺はキッチンに立って、帰りに買ってきたチーズを切った。シャンパンの栓も抜いた。
「おつまみもあるなんて、本橋くんにしたら上出来だよね」
「……飲んで食って寝よう」
「うん」
 おまえにも恥じらいってあるのか。今夜のおまえはふるいつきたいほどに色っぽくていい女だ。知らなかった。はじめて知った。山田美江子も可愛い女の面を持っていたのだ。
 銀色のグラスは歌としては「ゆきずりの恋」を歌っているけれど、目の前にあるふたつのグラスは、俺たちの婚約祝いのためのもの。俺はシャンパンよりも早く山田を抱きたかったけれど、山田にもロマンティックな気持ちがあるようだから、つきあってやろう。
 このグラスは歌とも関わってるのか。おまえにもあんな経験はあるんだろ。俺にもあるけど、これからはふたりともに、そんなものとは卒業して、互いだけを見つめて生きる。
 いや、結婚とはお互いを見つめるものではなく、ふたりして同じ方向を見つめるものだとも言う。山田とシャンパングラスを合わせて、グラスの中身を飲み干して、自然に寄り添って抱き合って、身体をまさぐり合って、服を脱がせ合う。
 はじめて見るおまえのオールヌードは綺麗だよ。綺麗だとか愛してるだとかは言わないけど、そう思ってる。もうじき夫婦になるおまえを抱き上げて、ベッドに運んで抱いて、抱き合うだけではない暮らしがはじまるんだ。
愛してる……昔の女には言ったこともあるけど、おまえには言えないのはなぜだろう? 本当の恋だからか。
 仲間たちに結婚を発表しなくてはならないと考えると、恥ずかしさが余って怒りたくなりそうだけど、そんなことはあとから考えよう。愛してるとは言えないけど、いつかは必ず、おまえに捧げる歌を書くよ、美江子。


END

 
 



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~ Comment ~

ハル

ぬぅぅ、見知らぬ女に乾くんが喰われる!なんて思って読んでたら、
何事もなく……。
行きずりなんていけません!乾くん!!と、叫んでしまいそうですが、
乾くんなら女性の方から誘われそうです。
 
乾くんが吹いていたトロンボーンは、
私自身、始める前は「あの棒のどこでどう音を変えてるのか?」なんて思っていましたが、
単純なことで、場所が決まっているのでした。
1~7(ポジションといい主に1~6を使います)の場所に、
あの棒を動かし、あとは口で音程を変えます。
ド=6 レ=4 ミ=2 ファ=1 ソ=4 ラ=2 シ=4 ド=3
という感じです。
今、吹いたらきっと音はでないと思います(笑

猫カフェは母と行きました。
母は実家でずっと猫を飼っていて、もちろん猫好きで、
飼いたいと思っているみたいなのですが、
父が許してくれず・・・・・毛やふんなどの匂いがいやなようです。
畳や障子がバリバリになってしまうのも嫌がる理由のひとつです。

金魚以外飼ったことがないので、
いつか猫と一緒に暮らせる日を夢見ています。

ハルさんへ

いつもありがとうございます。
フォレストシンガーズの面々はシゲ以外は、ゆきずり経験、ありますねぇ。
私の偏見なのかもしれませんが、魅力的な女性とそういう雰囲気になったら、断固拒否する男性のほうが少数派かと。
誰かに尋ねても正直に答えないと思いますが。

管楽器って特に、いや、弦楽器だってむずかしいですけど、吹く楽器ってまともに音が出せないんですよね。
私は小学校の縦笛やハモニカも苦手でしたから、トロンボーンなんて絶対に無理。

楽器のうちではピアノが、まだしもいちばん易しいのですってね。
ピアノとギターはかじりましたが、やっぱり無理。
楽器演奏のできるひとには憧れを抱き、作曲のできるひとには尊敬を抱きます。
ハルさんは作曲はなさったこと、あります?

お母さまも猫好きでいらっしゃる。いいですね。
一緒に猫カフェかぁ。
私のいちばん身近にいる家族は。

「猫カフェ? 気持ちわるぅ。
猫島? 猫だらけの島になんか行くと襲われそうで怖い。ぞっとする」
と申しますので、それもまた無理です。
ひとりででもいつかは行きたいのですけどね。
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