番外編

番外編60(異・水晶の月)

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少年


番外編60

「異・水晶の月」


1

 寮長、金子将一、大学四年生。本橋真次郎、乾隆也、三年生。小笠原英彦、本庄繁之、二年生。木村章、三沢幸生、一年生。
 理系大学である鷺の森大学男子学生寮には、現在のところ七人の寮生がいる。小規模な寮ではあるのだが、空き部屋もあって、来春には鷺の森大学を受験する予定の高校三年生男子を二名、夏休みに試験的に滞在させると決まった。大学見学のオープンキャンパスの寮版のようなものだ。
 高校は夏休みに入った七月初旬に、二名の男子が寮に到着した。栗原準、酒巻國友、そろって小柄な高校生たちは、寮長の前に立っていた。
「大学はまだ夏休みではないので、寮にはみんないるよ。ただ、試験期間だからな、みんなは勉強してるだろ。図書館や教室にいるかもしれない。休みになっても全員が帰省はしないと言っていたから、触れ合えるだろうな。おまえたちはおまえたちが使うと決まった部屋に荷物を置いて、ざっと整理してこい。昼メシどきになったら寮にいる奴らに紹介するから」
 はいっ、とかしこまって返事をしたのは國友で、準は無言でいた。それから、準と國友は教えられた部屋に入った。この寮に滞在するのは一ヶ月間、ふたりともにスーツケースを整理しながら、國友が言った。
「準くんって呼んでいい? よろしくね」
「僕はなんて呼べばいいの?」
「好きなように呼んでくれていいよ。同い年なんだものね。仲良くやろうね。きみって僕と体格も似てて、親近感が湧いちゃうよ」
「体格は似てるけど、声は全然ちがってるね」
「準くんの声は高くて、僕の声は低いもんね。背はきみのほうがすこし高いかな。僕ほど小さい男子高校生ってあんまりいないもんな」
「そうでもないんじゃない? 僕とだってそんなに身長は変わらないよ」
「うん。だから僕は安心したよ。金子さんみたいな人ばっかりだと、怖そうだしさ」
「他の先輩たちってどんなひとなんだろうね」
 百六十センチ前後の準や國友と比較すれば、将一は二十センチは背が高いだろう。秀麗な面差しで低く響きのいい声をしていて、四つの年齢差がこうまで見た目にもあらわれるのかと、準や國友は同様に落胆気分になっていたのだった。
 クロゼットに洋服を入れたり、部屋の掃除をしたりしつつも話をして、準と國友は仲良くなった。ふたりは気が合いそうなので、それだけはともに安心していた。ひと通りの片づけをすませて、窓辺にもたれて麦茶を飲んでいると、庭から男の声が聞こえてきた。
「シゲ、試験勉強してるのか。息抜きしようぜ。野球やろうや」
「野球か」
 応じる声は、準や國友の部屋の並びの窓から聞こえた。
「ふたりでだったらキャッチボールか、ヒデ?」
「キャッチボールでもええんやけんど……お? そこから覗いてる坊やたちは、寮の見学のために泊まり込むって聞いてる高校生か。俺は小笠原英彦。ヒデさんって呼べよ。おまえらも降りてこい。四人で野球やろうぜ」
 英彦に言われて、國友が応えた。
「僕は体力がないんで、スポーツは苦手なんですけど……準くんはどう?」
「僕も同じだよ」
 小声で準が言うと、庭にいる英彦も言った。
「受験勉強だって体力はいるだろ。おまえら、見るからにひ弱そうだな。俺が鍛えてやるから降りてこい。こら、シゲ、おまえもさっさと降りてこい」
 どすっと音がして、三つばかりむこうの窓から、がっしりした青年が庭に飛び降りるのが見えた。
「おまえらも飛び降りてこいよ」
 シゲと呼ばれているのだから、本庄繁之であろう。繁之が庭から手を振っている。飛び降りるなんて怖いよ、と準と國友の意見は一致したので、階段を使って庭に出ていった。
「酒巻國友です。彼は栗原準くんです。よろしくお願いします」
「おーっす、俺はヒデ、こいつはシゲだ。庭は広いから四人で遊びの野球だったらやれるぜ。俺がキャッチャーやるから、シゲがピッチャーな。準が打つか。國友は守れ」
「おまえら、寮の話は金子さんから聞いたのか?」
 まだそれほどは、と國友が言うと、繁之が教えてくれた。
 二階に寮生の部屋が並んでいて、北から、木村&三沢。小笠原&本庄。本橋&乾。と同学年同士でひと部屋となっている。本橋と乾の部屋から三つ、空き部屋があって、そのうちの一室を準と國友が使うことになったのだ。
「今んところは金子さん以外は部屋にいないみたいだな。昼メシまでは身体を動かして、メシ食って昼寝して……」
「ヒデ、そしたら勉強はいつするんだよ?」
「今日の分は終了やきに」
「嘘つけ。起きたのはついさっきだろ」
「いいからいいから。活動は夜でもいいんだよ」
 将一ほどではないが、背が高くてすらりとしている英彦も、中背で筋肉質の繁之も体力はある。おまえらもやれと命令されていやいやながらも野球をはじめたら、準も國友もじきに弱音を吐きたくなった。それでも國友はなんとかやっていたのだが、準がしまいにべそをかき出した。
「僕、こんなの嫌いなんだよ。野球なんかしたくないよ」
「なんだったらしたいんだよ?」
 怖い顔で英彦が尋ね、準はおどおどと応じた。
「ここには勉強するためと、大学に合格したら住ませてもらえるんだから、下見ってことで来たんです。最初から先輩にしごかれるんだったら、僕はこんな寮で暮らしたくないよ。帰ろうかな」
「準くん、それはまだ早すぎない?」
「クニちゃんは平気なの? ここにいるの?」
「僕もしごかれるのはいやだけど、今は遊びみたいなものですよね。音を上げるほどでもないよ。準くん、しっかりしなくちゃ」
「いやだよぉ。クニちゃんまでそんなこと言うなんて……やだやだ、帰りたいよ」
 繁之と呆れ顔を見合わせていた、英彦が言った。
「これしきで帰りたいなんて言う奴は、帰ったらえいがか。俺たちはおまえらと遊んでやっただけで、しごきなんて言われたら心外だよ。なあ、シゲ?」
「その通り。ちなみに、ヒデは高知の出身で、えいがか、ってのは映画にするって意味ではなくて、いいんだよ、ってぐらいの意味だよ。ヒデ、俺がいつも言ってるだろ。無闇に土佐弁を遣うな。よその地方の人間には通じないんだから」
「土佐弁なんちゃぁ、どうでもえいがか」
「土佐弁を遣いすぎだよ」
 ほっとけほっとけ、と英彦は言い、繁之は心配そうに準を見やったものの、ふたりでキャッチボールに戻ってしまった。國友は準の肩に手を乗せた。
「準くんは体力なさすぎだね。僕よりもひどいかもしれないよ。それでは受験勉強だって乗り越えられないんじゃない? そのぐらいで泣くってのもさ……泣くなよ」
「ほっといてよ。泣きたいんだから」
「子供じゃないんだから、そんなんでぴいぴい泣くと先輩たちに笑われるよ」
「どうせ僕は体力もなくて弱虫で泣き虫だよ。いいんだ、帰るんだからほっといて。泣き止んだら帰るよ。それまで泣かせてよ」
「困ったな。あ、金子さん?」
 英彦と繁之が寮長に会釈する。将一は國友を軽く押しやって準の前に立った。
「おまえは病弱なのか」
「病弱ってほどではないけど……」
「身体的に問題があるわけではないんだな。医者に運動を止められていたり、気をつけないといけないところがあるってわけでもない?」
「別に……ないよ」
「だったらさ、ヒデ、鍛えてやれよ」
「俺が鍛えるんですか? こんな女みたいなのを?」
「女みたいだなんて言ったら女に失礼だよ」
「それもそうかな」
 英彦は笑っていて、準は泣きべそ顔で言った。
「僕はどうせ女以下だもん。いいんだもんっ!!」
「そうやって反抗する元気があるんだったら、別の方面に力を向けろ。俺の前にあらわれてからだって、國友はまだしも、おまえはまともな挨拶もしなかっただろ。男ばっかりの寮ってのは体育会気質にもなるし、ヒデや本橋あたりは相当に荒っぽいんだ。そんな寮でおまえみたいな奴はやっていけないだろうな。帰りたいんだったら帰れ」
 繁之はすこしばかり不安げな顔をしていて、英彦は笑いたいような顔をしていると、國友には見えた。将一の口調も荒々しくて、僕はどうするべきだろうかと國友が思案していると、準が小さな小さな声で言った。
「帰りたいけど……初日から帰ったりしたら……パパやママが……」
「パパやママが怒るのか? 心配するのか。息子の前途を悲観するか。そうだろうな。そんなら帰らずにやってみろ。どうするんだ、準? 返事は?」
「やってみるしかないよね」
「俺は四年生だ。年長者には多少の敬語を遣え」
 びしっと言ってから、将一は繁之にも言った。
「シゲ、準をランニングに連れていって走らせて鍛えてやれよ。おまえはランニングは大好物だろ。今日は涼しいから熱中症にもならないだろうけど、夕方にでもなってから、頼んだよ」
「わかりました。準、行こうな」
「いやだよっ」
 取り合いもせずに背を向けた将一の背中に、準がべーっと舌を出した。途端に英彦のげんこつが準の頭に飛び、将一は振り向かずに言った。
「悔しかったら殴りかかってくればいいだろ。人の背中に舌を出すだなんて、いやはやなんとも……ヒデ、シゲ、こいつは鍛えがいがありそうだな」
「俺はいやですけど、息抜きにだったらなるかな。あれれ、また泣いてますよ」
「準、泣くな」
 困り顔をしている繁之とふたりして、國友も困っているしかなかったのだが、準はまたしても盛大に泣き出した。振り向いた将一が準を叱りつけて顔を上げさせ、その頬に軽めの平手打ちが一発。準はよろめいて倒れ、地面に顔を伏せて号泣する。これはほんとにいくらなんでも……と國友でさえも思ったのだから、他の三人はいっそうだったのだろう。繁之が呟いた。
「ここまでの奴っているのか」
「まったくな」
 英彦も同意し、将一は準を一瞥しただけで歩み去っていってしまった。
 第一印象としても、金子さんは怖そうだ、だったのだが、実際に怖いのであるらしい。小笠原さんも怖そうだ。國友としても準の今後を悲観したくなる。初日から先輩たちに叱られて、叩かれまでして泣いている準には同情の念も起き、かすかな軽蔑の念も起きた。
 叩かれたとはいっても、英彦のげんこつも将一の平手打ちも強いものではなかった。このくらいで泣かなくても、こんなに号泣しなくても、と國友は思ったのだが、準は泣き続けている。しばらくはキャッチボールで遊んでいた英彦と繁之が庭からいなくなっても、準は泣いていた。
「ねえねえ、そんなに泣かないで」
 言ってみても返事もせずにわんわん泣いているので、國友も諦めて寮の中に戻っていった。
「男の先輩って荒々しいんだね。僕が叩かれたんでもないのに、なんだか痛いよ」
 部屋に入ると、國友はひとりごちた。
「金子さんは寮長なんだもの。僕らが入学するころには卒業していなくなってるんだろうけど、その前に僕らみたいなひ弱な子供を鍛えてくれるつもりでいるんだな。感謝しなくちゃいけないのかな。僕のここでの生活にも悲観的になっちゃうけど……僕は……大丈夫かな」
 そのうちには僕も先輩に叱られて叩かれる? なくもないかも、と思ってしまって、國友までが泣きそうになっていると、部屋にノックの音がした。
「はーい、ユキちゃんですよ」
「ユキちゃんって、三沢幸生さんですか」
「そうだよ。入っていい?」
「はい、どうぞ」
 高い声だ。どこか少女のような声の持ち主は、ドアを開けてにっこり微笑んだ。
「おまえがクニ? 準は?」
「庭で泣いてます」
「ヒデさんから聞いたんだけどね、金子さんに……ね。ま、うちの先輩たちは、特に金子さんと乾さんはきびしいんだよ。本橋さんとヒデさんもきびしいけど、種類がちがうな。うちの寮はけっこう体育会でね」
「金子さんもそのようなことをおっしゃってましたよ」
「俺は全然タイプがちがうから、安心していいよ。ほい」
 テーブルにアイスクリームをふたつ乗せて、幸生は言った。
「食えよ。お近づきのしるしにおごってやるから」
「いただきます」
「アイスクリームごときでおごってやるってのもなんだけど、でね、話の続き。うちの寮って昔ながらに、先輩が後輩の面倒を見るってのがあるんだよね。章にしても俺にしても、軟弱者だしさ、章なんかは反抗的でもあるから、入寮以来びっしびっしきびしく躾けられたよ」
「三沢さんも叩かれたんですか」
「もちろん。バットで殴られた」
「ええっ?!」
 うわっ、そんなの、僕も逃げたい……青ざめそうになった國友に、幸生はにやりとしてみせた。
「先輩の後輩への面倒見ってのは、きわめて厳格な躾がメインなわけさ。先輩の命令には服従しないといけない。命令違反には厳罰を持って臨む。軍隊みたいなところもあるんだよね。一年生のうちは門限破りだとか、先輩の言いつけを聞かないだとか、そういったことでびしばしひっぱたかれるの。ユキちゃんだって何度泣いたか」
「……僕……」
「あれれ? おまえも泣くの? うちの躾にはあるんだよ。男が泣くな、びしーっ、ってのがね。準だってそのせいで金子さんにぶたれたんでしょ? なにかしら悪いことをして叱られて、ぶたれて泣いたらもっとぶたれるの。先輩たちってば怖いんだから、怖くてかっこいいんだから……」
「かっこいいんですか?」
「かっこいい先輩ふたりがね、体罰担当と説教担当ってか……」
「金子さんとあとひとりは?」
「じきにわかるよ、おまえにも」
 怖いよぉ、僕も泣きたいよぉ、であったのだが、國友は必死で耐えていた。
「金子さんだって俺から見ても三つ年上なだけじゃん? 兄貴って年頃だよね。その程度年上の男にいばられて、躾だ体罰だってやられるとむかつくよね。俺も最初はそう思ったけど、そのうちにはあのきびしさがかっこよくって素敵に見えてきて、ああん、僕ちゃん、もっと叱られたいわ、なーんてなってくるんだよ」
「僕はなってきません。三沢さんはマゾですか」
「おー? 先輩に向かってその態度はなんだ? ぶたれたいのね」
「いやですっ!!」
 わはははっ、と声を立てて、幸生は畳にうしろ手をついて笑いころげている。なんなんだ、このひとは、と國友が不審がっていると、またまたノックの音がした。
「あーら、乾さん、いらっしゃいませ」
「あのな、幸生、ちょっとばかり聞こえたけど、國友、本気にするなよ」
 幸生の背丈は準ほどか。部屋に入ってきた乾隆也は英彦ほどか。國友と較べれば男はたいてい背が高いのだが、幸生と隆也は怖そうには見えない。けれど、先ほどの幸生の言葉を思い出し、かっこいい先輩ふたりのうちのひとりとは、乾さん? ほんとは怖いの? となっていると、部屋に入ってきた隆也が言った。
「躾だ体罰だって、うちは少年鑑別所じゃないんだから、そこまではやらないよ。悪さをしたら先輩に殴られる程度はあるけど、幸生、おまえは大げさすぎるんだ。言葉を慎め」
「はーい、乾さん、ぶったらいやよ」
「そうやってふざけてると殴るぞ」
「きゃああ、いやいやいやっ!!」
 なんだ、大げさだったのか、でも、まだちょっぴり怖い。怯えが去らないでいる國友に、隆也が言った。
「幸生の話は全部は信じないように。一部は正しいけど、こいつの台詞には大げさが大幅に混ざり込むんだよ。で、準はまだ泣いてるって?」
「戻ってこないところを見ると、泣いてるんでしょうね」
「昼メシの時間だよ。準を食堂に連れてきてやれ。幸生、おまえも来い」
「隆也さーん、抱っこしていって」
「おまえな、ほんとに殴られたいのか」
「やんやんっ。優しくしてよぉ」
 隆也と幸生が部屋から出ていき、國友は準の様子を見にいった。あれから一時間は経過しているだろうに、準は先ほどのままの姿勢で地面にうずくまっていた。
「そんなに泣いていられるのは体力あるからじゃない? お昼だって。おなかすいただろ? ごはんを食べようよ」
「……泣きすぎて、食べられないよ」
 上げた顔は涙でぐちゃぐちゃだ。幸生の言葉を全部は信じないとしても、先輩たちがきびしいのは事実であるようだし、少なくとも寮長は本当にきびしいのだし、その上に、國友には準と同室の責任もかかってくるのか。僕、やっていけるんだろうか。準よりも先に逃げたくなるのではないだろうか、であったのだった。


2

 顔を洗っても泣き顔をしている準が食堂のテーブルにつくと、うしろを通り抜けざま、頭をごちんとやっていった人物がいた。
「痛いっ!!」
「こんなもんのどこが痛いんだよ。なんつう面をしてるんだ。馬鹿野郎」
 誰? 今のひとは誰? 頭を押さえている準の目から、一旦は止まっていた涙があふれてくる。食堂には寮生全員がそろっていて、将一が順に紹介してくれた。それによると、準の頭を小突いていったのは本橋真次郎だった。
「メシを食いながらまで泣くな」
 そう言ったのは英彦だ。幸生はなぜだか楽しそうに笑っている。章は苦々しい表情で準を睨んでいる。隆也と繁之は黙って食事をしている。将一と真次郎はなにやら相談していた。
「男子寮なんて嫌いだよ。こんな野蛮な寮って、今どきよそにはなくない?」
 食事は給食センターから届けられるのだそうで、焼き魚や味噌汁や漬物や米飯の定食ふうだ。他の学生たちは旺盛な食欲で食べているが、準は食欲も出なくて、食べずに呟いた。
「僕はこんなところには入りたくないな」
 言うと、國友までがつめたい返事をよこした。
「だったら帰ってもいいよ」
「クニちゃんまで……」
「泣くなよ。叱られるよ」
「だって……」
 身長順でいけば、将一、真次郎、隆也、英彦、繁之、幸生、章、準、國友となるだろう。将一と真次郎と繁之ががっしり型で、他の六人は細い。小さくてか細い準と國友は近い体型をしていて、國友は優しそうだと思っていたのに、早くも見捨てられたのか。
 将一から英彦までが長身、繁之が平均的背丈で、以下の四人は小柄であろう。長身で筋肉質の男ばかりに囲まれるよりはましにも思えるが、幸生は意地が悪そうで、章には敵意を持たれているようで、小柄なほうの一年年上の男たちですらも、準には怯えの対象になっていた。
 優しそうなひとなんかいないんだ。本庄さんだって、あとからランニングに行こうなんて言っていた。みんなみんな野蛮人なんだから、僕はみんなみんな大嫌い。そう思うと涙がこみ上げてきて、準はテーブルに泣き伏した。
「泣いてる奴は出ていけ」
 将一が言い、真次郎も言った。
「そこでめそめそされるとメシがまずいんだよ。男の泣き声なんか聞きながらメシが食えるか」
「って言いつつも、もりもり食ってる本橋さーん、女の子の泣き声だったらいいの?」
 問いかけた幸生に、英彦が応じた。
「可愛い女の子が泣いてる声を聞いて、メシを食うのか? 泣くなよ、食えよ、食わせてやろうか、そんなに泣くと目が溶けちゃうよ、泣くな泣くな、よしよし、ってさ。それだったら悪くはないかもな。乾さんだったら経験あります?」
「泣いてる理由にもよるけど、金子さんだったらどうします?」
「そりゃあ理由によるだろ」
「たとえばですね、そうだな。可愛い女の子がわがままを言って、駄々をこねて金子さんに叱られたんですよ。いい加減にしなさい、聞き分けのなさすぎる子はぱちんだよ、とかって、金子さんだったら言うでしょ?」
「駄々っ子にだったら言うだろうな」
 きゃあ、素敵、と幸生の声、素敵か? と章の声。全員が特徴的な声をしているので、わずかの間に準にも聞き分けられるようになっていた。
「そうやって金子さんに叱られて、女の子はしくしくやってて、メシの時間になっても食わずに泣いてるんですね。金子さんがメシを作ってやったのかな。そしたらどうします?」
 隆也が言い、将一も言った。
「抱き上げて膝に乗せて、食えって言うよ。これ以上叱ったら、よけいに食えなくなるだろ。ごはんを食べたあとでもう一度、うんと叱ってあげるから、その前に食え、だな」
「それだと逆効果でしょ。よしよし、もういいからね、もう叱らないからお食べ、って言わなくちゃいけませんよ」
「乾、経験ありそうな口ぶりだな」
「俺にはありません。金子さんだったらそうするだろうと想像してるんです」
「そんなシチュエーションになったらそうするよ。乾、アドバイスありがとう」
「俺もそうしよう。こら、なんだ、幸生?」
「僕ちゃんにもそうしてぇ」
 ちらっと見ると、幸生が隆也の膝にすわろうとしたのか、はねのけられていた。
「シンちゃんだとどうする?」
「女かぁ……女が泣いてるんだったら、ま、俺だってそれなりには……」
「それなりにってどうするんだよ」
「俺はおまえほどの想像力はないんだ。乾、黙って食え」
 こっちでは真次郎と隆也が言い合っていて、あっちでは英彦と繁之が言い合っていた。
「シゲは?」
「俺にはそんな女の子は……ヒデ、おまえも黙って食え」
「黙ってると泣き虫男の泣き声が聞こえるだろうが。ああっ、うっとうしい。準、泣くな」
 幸生と章も言い合っていた。
「俺は女の子の立場になりたいな。男だと泣いてたら、本橋さんやヒデさんや金子さんみたいな怖い先輩に怒鳴られたり殴られたりするじゃん。女の子だったら膝に乗っけてもらって、泣かずにお食べって……そっちがいいよ。章は?」
「このド変態幸生」
「だって、先輩たちってばかっこいいんだもん。俺は女の子になりたいよぉ。金子さんか乾さんの彼女になりたい。生まれ変わったらそうなりたーい」
「ドドドドド変態」
「章ってヴォキャブラリー貧困だよね」
「おまえはド変態だろうが」
 同年同士は仲がいいのであるなぁ、と考えつつ、準もごはんをひと口食べた。すると、國友が微笑んで言った。
「食べられた? もっと食べろよ。準くんだったら泣いてる女の子がここにいたらどうする?」
「そんな想像ってできないな。クニちゃんはどうするの?」
「一生懸命なだめるよ。ごはんはちゃんと食べないと身体によくないんだから、食べようねってさ。きみもだよ、準くん?」
「うん。でも、おいしくないよ」
「まあまあおいしいよ」
「おいしくないもん。ごはんまでこんなだったら、僕はやっぱり帰りたいよ」
「口に合わないのかな。困ったね」
 ごはんはやけに硬い。味噌汁は味が濃すぎる。焼き魚も準の記憶にはない味で、どれもこれもまずくて箸を投げ出すと、将一に呼ばれた。
「準、ここに来い」
「いやだ」
 反射的にいやだと言ってしまい、なのに、視線が将一に漂っていく。魅入られたようになって目が将一の顔から離れない。怖い顔が……たまらなく魅力的だった。
「わがまま坊やはお仕置きだ。おいで」
「お仕置きなんて……いやだ」
「さっきは幸生が國友にあることないこと言ってたようだが、おまえみたいな坊やにはきびしい躾も必要だろうな。食事が口に合わないからって駄々をこねてるんだろ。女の子扱いしてうんと叱って、お仕置きしてやろうか。乾、とはいってもこいつは男だな。どうしたらいい?」
「廊下に立ってろ」
「ああ、それもいいか。準、廊下に立ってろ」
「乾さんの真似なんて……寮長のくせに……」
 立ち上がれなくて逃げ出しもできないで、準はかたくなに椅子にすわっていた。他の学生たちの姿が意識から遠ざかっていき、将一と隆也の会話のみが聞こえていた。
「躾は最初が肝腎とも言いますけど、初日からきびしすぎると萎縮しますよね。けれど、きびしい躾でなくては躾の意味もない。ここは寮長の腕の見せ所でしょ」
「こんな奴ってのは俺の知識にはないから、やりにくいんだよ」
「男だから女だからってのは差別的ではあるけれど、準は男ですものね」
 ねぇ、準くん? 國友が不安げに言う。その目とその言葉で、準の中でなにかが切れた。気がつくとテーブルの上の、ほとんど手をつけてもいない料理を払いのけていて、國友が悲鳴を上げた。なおもあばれたくなっている準を取り押さえたのは繁之で、繁之は準をぎゅっと押さえて言った。
「静まれ、おとなしくしろよ。なんだってそう荒れるんだ」
「なんでだかなんて……」
 歩み寄ってくるのは将一だった。将一は繁之の腕の中でもがいている準に言った。
「これが手っ取り早いか」
 言葉と同時に頬に平手打ち。食事の前にも叩かれたのよりもきつめで、準は今日、何度目かに大声を上げて泣き出して、繁之の手を振り払って将一の胸に突進していった。
「……おっと」
 慌てず騒がず、将一が準を抱きとめる。準はなにを言えばいいのかもわからなくなって、将一の胸にしがみついた。
「女だったらいいんだけど、俺にはそんな趣味はないぜ」
 そうは言ったものの、将一は準をひょいと抱き上げた。
「悪いけど、誰か、ここを片付けておいてくれ」
「僕がします」
「うん、國友、頼んだよ」
 ざわめきが聞こえる。僕はいったいなにを? なにをしたの? なにをされてるの? 見上げると将一の顔が間近にある。準は目を閉じた。
「俺は別に暴力派じゃないんだけど、おまえがそういう態度だと殴るしかなくなるんだよな。悔しいか」
「ううん」
「悔しくないのか。金子さんなんか大嫌い、なんだろ?」
「……わかんないよ」
 抱かれて食堂から運び出されていく。頭も顔も幾度か殴られて痛んでいるのだが、より以上に胸が苦しくて痛かった。
 親だって教師だって周囲の大人たちだって、穏やかな人々ばかりだったから、準は他人に殴られたこともない。出会ったばかりの先輩にぼかぼかばしばし殴られたら、悔しいのが当然なのかもしれないのに、そうは思えなくて、むしろ……
 むしろなんなのかがわからない。僕のこの気持ちはなに? どうして胸が騒ぐの? どうしてきゅんきゅん言ってるの? 食卓を荒らすなんて、そんなことも一度もしたことはないのに、どうして僕はこんなに凶暴になったんだろ。
 凶暴になって止められて叱られて、頬を叩かれて泣いて、そうして僕は……僕はそんなふうにした金子さんを? 嘘だよ、嫌いだよ。
 なのに、嫌いだなんて言えない。身を堅くして運ばれていくままになっていた準は、國友とのふたり部屋に連れていかれて畳に放り投げられた。
「なにをしたのかよーく考えて反省しろ。そのあと、どうすればいいのかも自分で考えろ」
 きびしい声が耳を打ち、準は畳にうつぶせて泣くしかできずにいた。


 試験勉強もしなくてはならないのだが、幸生には高校生ふたりが気になる。準が荒らしていった食卓を國友とともに片付けて、掃除もすませると、國友にくっついて彼らの部屋に行った。
「またまたまーた泣いてるぜ、こいつ」
「でしょうね。泣いてるだろうとは思ったけど、よくもこれだけ泣けますよね。準くんの涙は枯れないんでしょうか」
「人間の体内には涙の泉があるんだよね。人によって容量がちがうんだろうけど、一般的には女の子の泉のほうが大きいんだよ。準は女の子並みなんだろ」
「三沢さんってロマンティックな形容をするんですね」
「そうなのよん。僕ちゃん、詩を書くんだ。本橋さんが作曲するから、ふたりで歌づくりやってんの。ああ見えて本橋さんの曲もロマンティックなんだよ」
「へええ。あの……」
「怪獣みたいにでかい男がさ、だろ?」
 怪獣ほどに大きくはないが、真次郎は見た目が獰猛そうではある。彼が作曲をすると聞いたときには、幸生も意外だったものだ。もっとも、おまえが詩を書く? 嘘つけ、と真次郎に言われたのだから、彼にしても意外だったのだろう。
 人には意外な一面がある。それしきは中学生くらいのころから幸生だって知っているつもりだったが、寮生となって先輩たちと接触して、思い知らされたのだった。
 寮は軍隊みたいだと國友に話したのはまさしく、大げさではあったのだが、封建的なところはおおいにある。今春に章とふたり、新入生として入寮してからは、幸生も章も先輩には始終叱られていた。章や俺がはじめてきつく叱られたのはどんなふうにだったか……泣いている準と困っている國友を見やりつつ、幸生は思い出していた。
 入寮してから間もない春の日に、章と幸生のために歓迎パーティを催すと、隆也に言われた。大学近くの繁華街に寮生行きつけの居酒屋があるとのことで、地図と電話番号を記したメモを隆也に渡されたのだった。
「章にも言っておけよ。おまえたちは酒は駄目だろうけど、寮のメシよりもうまいものは食えるし、一夜を楽しくやろうぜ」
「先輩たちがおごってくれるんでしょ?」
「当然だよ。歓迎会ではなくったって、先輩と飲んだり食ったりしたらおごってもらえるさ。俺だって金子さんにはいつもおごってもらってるよ」
「いつでもどこでも?」
「もちろん」
 先輩っていばってるみたいだけど、おごってもらえるのは嬉しいな、だった。
 幸生は章にもメモを渡し、歓迎会を楽しみにしていた。ところが、その夜は居酒屋に行かなかったのだ。夜中に寮の塀を乗り越えて部屋に入ると、章は寝ていた。先輩たちも帰っているようで、幸生はそーっとベッドにもぐり込んで寝た。
 翌日は先輩たちと顔を合わせるのが気まずいので、遅くまでベッドでぐずぐずしていた。章も同じだったようで、ふたりともに寝ている間に、寮生たちは学校に行ってしまった様子だった。午後に近い時刻になってから起き出して、幸生も学校に行ったものの、章はその時間でもまだ寝ていた。
 そして学校から帰ってみると、将一に呼び出されたのだった。いくぶんびびりながらも、他の寮生室とは別棟にある寮長の部屋に行った。
「昨日はどうした。急用でもあったのか」
「えー、あのー、行くつもりだったんですけどね」
「行くつもりだったのに来られなかったわけは?」
 嘘もつけたのだろうが、幸生は正直に言った。
「講義が終わってキャンパスを歩いてたら、可愛い女の子がいたんですよ。その子とお話ししていたらもっと話したくなって、歓迎会はどうでもよくなっちゃったんです」
「店の電話番号は知ってただろ。連絡もできなかったのか」
「だって、彼女とホテルに……」
 そこまで言ったところで、頬に平手打ちを食らわされた。
「いてっ!!」
「信義にもとる奴だな。そんなでは共同生活はできないぞ」
「えーと……はい……すみません。反省してます」
「本当に反省してるんだったら、庭を駆け足してこい。十周だ」
「ひぇぇぇ!! はい、わっかりましたっ!!」
 罪の意識があったからこそ、先輩たちと顔を合わせるのが気まずかったのだろう。幸生は寮長命令に従って、寮庭を走った。走っていると隆也がうしろから走ってきて幸生の横に並んだ。
「金子さんに叱られたか。だから罰としてランニングさせられてるんだろ。門限破りの罰も入ってるな」
「そうなんですぅ。罰としては、ほっぺもぶたれちゃいました」
「ぶたれたってほどでもなさそうだけど、で、おまえはどうして昨夜は来なかった?」
 ナンパした女の子と、との話を繰り返すと、隆也は言った。
「その子とはつきあうのか」
「それほどの仲にはなりませんよ。ベッドで楽しくすごして、一夜だけでバイバイ。乾さんだってそんなのってよくあるでしょ」
「俺は本当に好きになった女の子としか寝ないよ」
「嘘ぉ」
「嘘じゃないさ。おまえもよく考えてみろ。そんなのって虚しいだろ」
「虚しくはないってか、虚しいったら虚しいってか……だけどさ、俺たち、若いんじゃん。女の子との恋のゲームは楽しいですよ」
「いつか大怪我でもしたら気づくだろうけど、それからでは遅いんだぞ」
 そうやって説教されつつも、幸生は隆也とふたりで走った。乾さんは罰として走らされている俺につきあってくれたんだ、と思うと、ほんのりあたたかい気分にもなっていた。
「乾さんって説教好きでしょ? これからも乾さんには説教されて、金子さんにはぶたれるのかな。俺、いい加減な奴だから……」
「泣くなよ。泣くと俺も殴るぞ」
「きゃああ、怖いよぉ。あ、いい加減な奴といえば……」
「章か。あいつもさ……うん、立ち聞きなんかすると俺も寮長に殴られるかもしれないけど、見にいってみようか」
 ふたりしてこっそり、寮長室の裏手に回る途中で、幸生は尋ねた。
「乾さんも寮長に叩かれたりってあります?」
「あるよ。卒業した他の先輩にだってあるよ。大学一年の男なんてものは、いい加減が普通なのかもしれない。うちの寮は体育会気質だから、いたずら坊主や性根の据わってない奴はぶん殴って鍛えろってのがあるみたいだな。そうやって男は大人になっていくんだよ。うちで先輩に殴られたことがない奴って、シゲだけなんじゃないのか」
「シゲさんはいい子だから?」
「かもな。ほら、耳を澄ましてみろ」
 耳を澄ますと、将一の静かな声が聞こえてきた。
「やっと起きたのか。いつまで寝てるんだ」
「一回は起きたんですけど、眠くて……」
「昨夜も寝てばかりいたのか」
「昨夜ね……昨日も一度学校から帰って、まだ早いかと思って寝たら寝過ごして、面倒だから行かなかったんですよ」
 反抗的な章の声も聞こえる。幸生と隆也は息を殺して聞き耳を立てていた。
「新入生歓迎会だなんて、だっせえしさ」
「いやだったら最初から断れ。せめて行けなくなったと連絡しろよ」
「俺、寮って合わないみたい……げっ!!」
 鋭い平手打ちの音が聞こえ、幸生には章の悔しそうな表情までが見える気がした。
「うげっ、げっ、金子さん……ちょっと、やめて下さいよっ」
「乾、いるんだろ」
 うへっと隆也が首をすくめ、寮長室の窓が開いた。将一は章を抱えていて、窓から彼の身体を隆也の腕の中に放り込んだのだった。
「三年生にもなって立ち聞きとは、それでは下級生にしめしがつかないだろ」
「はい、すみません。俺も殴られにいきましょうか」
「それはいいから、乾も幸生ももう一度駆け足だ。章を連れて走ってこい」
 寮長に命じられて、今度は三人で走った。章はぶうぶう文句を言っていたのだが、隆也が叱咤すると一応はたらたらと走っていた。
 それからだって先輩に叱られたり、殴られたりは何度もある。英彦や真次郎などは気安くも気安くぼかぼかやってくれるので、幸生としてはすっかり慣れてしまった。章は反抗的な態度を保ってはいるものの、元来気が強くはないので、先輩に頭ごなしにやられると逃げ腰になる。
 それにしても、殴られようと怒鳴られようと、幸生は泣かない。むしろ隆也にあたたかく接してもらうと泣きたくなって、それで言われるのだった。泣くな、泣くと殴るぞ、である。
「おまえは女癖がよくないんだな。遊びの恋なんかしてないで、彼女を見つけろよ」
「見つからないんだもん。乾さん、俺をあなたの彼女にして」
「馬鹿言ってんじゃねえんだよ」
「馬鹿じゃないよぉ。俺は乾さんが好き好き」
「ジョークはそこまでにしろ。昨夜も帰ってきてなかっただろ。女の子とホテルに行ったのか。彼女がおまえの恋人だっていうんだったら、俺はとやかくは言わないさ。お節介がすぎるのは承知の上だけど、恋人なのか? 遊びか?」
「俺は遊びの恋しかしたことないよ。ほんとに乾さんってお節介なんだから」
「そっか、勝手にしろ」
 背中を向けた隆也に、幸生は言った。
「勝手にするもんね。そんでね、俺はそのうちにはどこかの女に殺されるんだ」
「馬鹿」
 ぬくもりのいっぱいこもった声に叱られて、ぬくもりの満ち溢れた手に頬をぴしゃりと軽く打たれて、泣きそうになって言われた。
「泣くな」
「……はい。ごめんなさいって変だよね。でもさ……乾さん……」
「俺に詫びる筋ではないけど、そうやって男は大人になっていくとも言えば言えるんだな。しかし、自棄は起こすなよ」
「はい、ごめんなさい。乾さん、俺、やっぱ乾さんが好き。もっとぶって、もっと叱って」
「手のかかる坊やだね。こら、泣くな。本気で殴るぞ」
「本気はやだ。優しく叱って」
 隆也とのそんなやりとりは、ほぼジョークだ。幸生は先輩たちの中では隆也がもっとも好きではあるけれど、決して恋ではない。
 章は幸生とは別の意味で、遅刻をしたり弁解がすぎたりといった方面で叱りつけられている。時には章はべそをかいて、それでまたもや叱られたりもしているのだが、準ほどおおっぴらに泣かない。隠れてひとりで泣いていたらしい痕跡ならあるものの、号泣はしないだろう。
 國友にしても気丈な少年には思えないので、寮生活は彼らには多難なものだろうと幸生には思える。そこに加えて、準は女の子のように金子さんに? とも思う。そうなるといっそう、準には寮生活には対処できないのではないか。
 気が弱くて泣き虫で、自覚しているのか否かは知らないけれど、先輩に恋をしてしまう性癖では、準にはこれからは……寮生活のみならず、今後の人生が困難なのではないかと、幸生は危ぶんでいたのだった。
 
 
3

 オープンキャンパスは八月になってからだそうだが、夕里が大学に連れてきてもらえたのは、金子将一の両親が経営している家具店でアルバイトをしていたからだった。
「夕里は俺の大学が志望か。じゃあ、見学に連れていってやるよ」
 金子ファニチャーが大忙しだった春のセールの際にバイトして、夕里が働いていたのはその時期だけだったのだが、息子の将一とは親しくなれた。将一もセールには手伝いにきていて、オーナー夫婦の息子であるにも関わらず、他のアルバイターたちにまじって分け隔てもなく働いていたのだ。
「俺は寮に入ってるって言っただろ。試験的に寮に高校生が入ってきてるんだよ。あいつらは夕里と同い年だな」
「女の子?」
「俺の寮は男子寮だよ。女の子が来るわけないだろ」
 当然ではあろうが、夕里は安心した。
「将一さん、彼女はいるの? いるんだろうな。こんなに背が高くてかっこよくて、顔だってよくて金持ちの息子で、頭もよくて統率力ってのもあるんだよね。寮長さんなんでしょ? 男の子たちにも慕われてるんだよね。将一さんって親分の器って感じがするんだもん。女の子にだってもてもてでしょ? こらあ、なんとか言えよ」
「おまえがひとりで喋りまくるから、俺が口を出す余地がないんだろうが。黙って歩け。ほら、あれが学食だよ」
 来年には夕里もこの大学に進学したい。けれど、そのころには四つ年上の将一は卒業してしまうのだ。そう思うと寂しくなってきた。
「学食っておやつも食べられる?」
「軽食はあるよ」
「夕里、おなかがすいたな。おやつにしようよ」
「来たばかりじゃないか。あとでな」
「やだ」
「いいからおいで。夕里は薬学志望だろ。薬学部の建物に案内してやるよ」
「おやつを食べてからにしようよぉ」
「おやつおやつって、ガキみたいに言ってるんじゃないんだよ。おいで」
 強引に夕里の手を引いて、将一が教室棟のほうへ連れていこうとする。手を取られるとどきんとして、顔が赤くなってきそうだった。
「将一さんは卒業したら、金子ファニチャーで働くの?」
「親父とおふくろの店でか。親はそうしてほしいみたいだし、いずれはそうするのだとしても、俺は俺の専攻の物理の方面で働きたい。あてはあるんだよ」
「就職は決まってるの?」
「そんな話はどうでもいいだろ」
 おまえに言ったって理解できないだろ、なのだろうか。夕里は将一の手を邪険にほどいた。
「将一さんって、夕里をなんだと思ってるの?」
「こんなところでなにを言ってるんだか。おまえはここになにをしに来たんだよ」
「将一さんとデート」
「デートじゃないだろ。俺は大学の先輩としての案内係だよ」
 勘違いするな、自惚れるな、でもあろうか。どう切り返せばいいのかわからなくなってうつむいた夕里に、将一は言った。
「おまえは俺から見たら妹のようなものだよ。小さくて可愛くて生意気でわがままでさ」
「夕里、可愛い?」
「可愛いよ」
「夕里の裸もとっても可愛いんだよ。見せてあげようか」
「こら、学校内でなにを言ってるか。おいでと言ってるだろ。来なさい」
「やーだもん」
 このまま一緒にいたら、手をつながれていたりしたら、なにを言い出すかなにをしでかすか、自分が怖い。それもあって夕里は走り出した。将一が追いかけてくる。数歩で追いつかれて腕をつかまれた。
「やだぁ。痴漢だぁ」
「こらこら、大きな声で……まったくおまえは……こっちにおいで。おやつを食べたいんだろ」
「食べたくないの」
「食べたいって言ったじゃないか」
「おやつだったら「フローラ」のフルーツパフェがいいな。二人前あるってあれ」
「フローラだったら学校見学がすんでからにしようか」
「今じゃなきゃいや」
「夕里、おまえはここになにをしにきたんだ。デートじゃないんだぞ」
「そんな怖い顔したら、嫌いっ!!」
 はーっとため息をついて、将一が髪をかきあげる。夏の陽射しに長めの髪がさらっと揺れる。ここが大学のキャンパスではなかったとしたら、夕里は将一に抱きついて、衝動的に告白していただろう。しかし、ここではできない。大学見学なんてどうでもよくなってきた。
「じゃあね、ほんとのデートにしよ」
「案内がすんだらフローラに連れていってやるよ。フルーツパフェでもケーキでも食えばいいから、当初の目的をすませよう」
「フルーツパフェとケーキと両方食べていいの?」
「いいよ」
「いらないよ。太っちゃうもん」
「夕里は少々太ってもいいよ」
「痩せすぎてる? 夕里って胸も小さいもんね」
「そんな話はしてないんだ。とにかく、行くよ、来い」
「怖い顔したらやだってばっ」
 まったくもう、と呟いて、将一は空を仰いだ。
「ねえねえ、怒った? だって、大学の見学なんて面白くないんだもん」
「おまえが連れていけと言ったんじゃないか」
「言ってないよ。将一さんが無理に連れてきたの」
「ああ、そうか。そしたら帰ろう」
「デートもせずに?」
「当然だろ。このわがまま娘が。おまえとなんかつきあってらんないんだよ。帰るぞ」
「やだやだぁっ」
 抱きつきたいのはどうにか自制して、夕里は小声で言った。
「ちゃんと見学したらご褒美にデートしてくれるんだよね」
「褒美ってのは変だけど、デートはするよ」
「じゃあ、我慢してつきあってあげる」
「おまえな、我慢とはなんなんだ。俺はおまえのために……まったくほんとに、おまえが本物の妹だったとしたら……」
「どうするの?」
「こうだよ」
 一瞬黙ってから、将一は夕里の顔を睨みつけた。
「いい加減にしろ。いつまでも駄々をこねてるとひっぱたくぞ。俺は寮の後輩たちだって時には張り倒してるんだから、多少の暴力には慣れっこなんだ。女だって言ったって、妹にだったらやってもいいだろ。ついてこい。誰もいないところでぴしゃっとやってやるよ」
「やだやだやだっ!! 将一さんが夕里を苛めるーっ!!」
「苛めてねえだろ。叱られてるんだよ。わかってない奴には……おおお?」
 首をすくめたいほどに怖かった将一の態度が一変したのは、むこうから男子学生が三人、歩いてきたからだったようだ。将一よりはやや背の低い学生と、ぐっと小柄な高校生にも見える少年がふたりだった。
「金子さんってやっぱ女の子にもそんな態度なんだな。俺の予想は当たってましたよ。昼間に言ったでしょ。ああ、失礼、乾です。彼らは大学見学の高校三年生で、準と國友。俺は三年生だから、俺が案内してきたんだ。きみは?」
 背の高い学生が挨拶してくれたので、夕里も言った。
「昼間ってなに?」
「寮での昼メシどきに、そんな話題が出てたんだよ。わがまま娘には金子さんだったらどんな態度なのかな、ってさ。そうだろ」
「夕里はわがまま娘じゃないよ」
「いやぁ、見るからにさ。金子さん、彼女なんですか?」
「彼女ってのは恋人って意味だろ。ちがうよ。夕里、乾は挨拶してるんだから、おまえも先に自己紹介しろよ」
「夕里だって言ったもん」
 つんっとしてみせると、乾が笑って言った。
「彼女じゃないんですか。お似合いですけどね」
 お似合い……その言葉に夕里が嬉しくなっていると、将一は言った。
「親の店でバイトしてた高校生の夕里だよ。うちの大学が志望だって言うから案内してきたんだ。なのにわけのわからない駄々をこねるから、叱ってたのは事実だな。こいつときたら将一さんが苛めるだとかってわめいて……まあ、女の子なんてこんなものか」
「でしょうね。準やクニはびっくりしてるのか」
 そのときはじめて、夕里は準と國友をしっかり見た。
 ふたりともに夕里よりは大きいとはいえ、高校三年生の男子としては小さいほうだ。國友は驚いたように夕里と将一を見比べていて、準は目を伏せている。準はどうも泣いたあとの顔をしていると見えるのだが、高校三年生の男の子が泣くって、どんな理由で? 夕里には見当がつきにくかった。
「あ、もしかして」
 思い当たったので言ってみた。
「さっき、将一さんが言ってたよ。寮の後輩たちを張り倒すんだって。準くんって将一さんに張り倒されたの? ほっぺが赤いよ。やだぁ、横暴寮長」
「そんなんじゃないもん」
 ようやく準が口を開いた。國友は、準くん、準くん、と彼のシャツの袖を引っ張っている。準が今にも泣き出しそうで、夕里は面白がって言った。
「それで準くんって泣いたんだ。やだやだ。男の子がそんなんで泣くんだね。なにしたの? いけないことをして横暴寮長に叱られて、叩かれたんだよね。かわいそうだね。将一さんって夕里にもあんなふうに言うし、乱暴なひとだったんだ。だけどさ、男の子がそんなんで泣くなんてバッカみたい。やあい、泣き虫」
「夕里」
 将一が言い、乾と名乗った青年も言った。
「事情も知らないでよけいなことを言うんじゃないよ。金子さん、俺は彼らを連れていきますから、金子さんも彼女を……」
「そうだな。こいつは一度、たっぷり叱るべきだ。よし、夕里、来い」
「夕里は悪くないよ。準くんって弱虫そう。声も高くてちっとも男の子らしくないの。今も泣きそうな顔してる……あんっ、将一さんったら、やだってばっ!!」
 ぐいっと腕を引き寄せられて、将一に引きずられる格好になった。抵抗しつつも夕里がついていくと、その場から離れてから将一は言った。
「準とは初対面だろ。おまえは誰にでもあんな失礼なことを言うのか」
「誰にでもは言わないけど、準って子、気に入らないの。変な目で将一さんを見てたよ。あ、もしかしたら、彼って将一さんに恋してない?」
「そういった妙な漫画や小説があるようだけど、現実世界には男に恋する男はそんなにはいないんだよ」
「そんなにはいなくてもゼロじゃないよね。将一さんってそんな漫画を読んだりするの?」
「読まないよ。夕里、俺はそんな話がしたいんじゃないんだ」
「夕里も大学見学はどっちでもいいから、将一さんとデートがしたーい。ホテルだってオッケーよ」
「……この……このこの……」
 色気むんむんのつもりの目で見上げると、将一はややあってから言った。
「見学は後日にしようか。おまえって奴は……お仕置きしてやるからついてこい」
「お仕置きってどうするの? ホテルで裸にしちゃうの? 夕里の裸はとーっても魅力的なんだから、たっぶり見てね。うふん、お仕置きしてして」
「たまらん……乾、助けてくれよ」
「後輩なんでしょ、乾さんって? 後輩に助けを求めるなんて、だらしない寮長さんだね」
「そうだな。くそ、おまえには負けるよ」
「負けて」
 その乾はと見やると、遠くのほうで腕組みをしていた。そのかたわらには小柄な少年がふたり。準は泣いているようで、國友が準の背中をさすって、乾さん、助けて下さい、と言いたげに先輩を見上げていた。


もともとは「水晶の月」はシナリオだったのですが、こうして小説化したのは、著者の私、みずき霧笛ではありません。漫画家の蜜魅さんの友人の小説家が、蜜魅さんの漫画の原作として小説に仕立てたのでした。
 蜜魅さんはロック漫画を描く方で、フォレストシンガーズの三沢さんとは知り合いだそうです。蜜魅さん原作のアニメに三沢さんや乾さんが登場するとのことで、私が著した「A girl meets a boy」も読んだとのことで、私に連絡をしてくれたのです。
「水晶の月のラジオドラマも聞きました。あれって続編なんかはないんですか」
「遊びみたいな形で書いた小説だったらありますよ」
 以前に書いた栗原準さんや酒巻國友さんも登場する未完の原稿を見せますと、蜜魅さんは言いました。
「これって使えますよ。ボーイズラヴですよね。みずきさんってこういったタッチのものもお書きになるんですね」
「いえ、書きかけてはみたものの……でして」
「私にいただけません? 漫画にしたいんです。もちろんみずきさんのお名前も出しますし、こういう方面の専門家にお願いして、漫画原作として書いてもらいます」
 というわけで、こうなったのでした。
「けっこう暴力的ですね」
「そうかしら。男同士ってこんなものでしょ」
「そうなんですかねぇ」
「みずきさんの小説にだって、準くんが金子さんに叩かれて泣いてるシーンがありましたよ。そこからふくらませてアレンジしたんですから」
「いえ、僕はイマジネーションが貧困ですから、男同士だとこうかなぁ、とね」
「これはこれでいいんじゃありません?」
「よろしいんですけどね」
 このあたりは導入部。こうして知り合った準が将一に……と進んでいくらしいのですが、過激になるんだったらいやだなぁ、と私は言いたい。言いたいけれど言わずにいると、蜜魅さんは笑顔で言いました。
「私の漫画も見て下さいましたよね」
「はい、拝見しました」
「私の絵は綺麗だって言ってもらえるんですよ。私のペンで美青年たちを生み出してみせます」
「鷺の森大学男子寮の全員が美青年ですか」
「そこはまあ、適当に。金子さんは美青年ですよね。準くんも美少年にしたいな」
「実物は考慮せずに?」
「実物と言われますと、実名漫画にすると問題あり描写も……名前は変えましょうか」
「ああ、そのほうがいいですよ」
 原型の「水晶の月」は登場人物の名前がちがっていました。そこから三度び、名前が変わるのです。大学名も寮の名も変えれば、なんら問題はない。しかし、それでも私にとってはこの作品は「水晶の月」なのですから、複雑気分ではありました。
 私もちょっと遊んでみたボーイズラヴ世界に「水晶の月」が行ってしまう。息子たちが異世界に行ってしまうといった感覚でしょうか。
「よろしいですよね」
「はい、おまかせします」
 ありがとうございます、と魅力的な笑みを見せて、蜜魅さんは帰っていきました。
 「水晶の月」が美青年たちが跋扈する世界で……ああなって……僕は複雑だなぁ、ではあるのですが、楽しみでもあります。漫画脱稿を恐怖心も加えて見守るとしましょうか。

END


 



 

 
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