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小説183(レイニーブルー)

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ふりしきる

フォレストシンガーズストーリィ183

「レイニーブルー」


1

 女性雑誌の定番「抱かれたい男」アンケート。美江子さんがここに置いていったのか、スタジオのテーブルにその雑誌が乗っかっていて、俺は中を開いて見た。
 連続五年栄冠達成の第一位は、アイドル出身、現在ではスター俳優の大城ジュンだ。ジュンはジュンでも栗原準とは較べると双方が気の毒すぎる、長身細マッチョ超美青年。年齢は俺と同じ三十一なのだが、俺とだって較べたくねえっての。
 売れない悲しさも苦労も味わったことはないんだろうから、俺のほうがてめえよりは人間的には熟成してるんだよ、と悔しまぎれに呟いて、ジュンの顔を憎悪を込めて睨んでから、ランキングを下位まで見ていった。
 ベスト100まで並んでいるランキングのぐーっと下位に、88位金子将一と92位音羽吾郎の名前があった。下位とはいえ、先輩方、健闘してますなぁ。
 そのまた下、98位に徳永渉。先輩たちは有名になったんだね。ベスト50以下だと得票数は少ないから、有名ってほどでもないのか。フォレストシンガーズは一般的知名度ははなはだ乏しいから、名前が挙がってるわけもないよなぁ。
 思った通りに、100位以内には我々の名前はなかった。三沢幸生の名前があるなんてあつかましい想像をしていたのではないが、がっかり気分で次点も見て、俺は悲鳴を上げた。
「きゃわわっ!! ミスプリントじゃないよね? 乾さん……乾さぁんっ!!」
「うるせえな。ひとりでなにを叫んでるんだよ」
 あらわれたのは章。俺は雑誌のページを閉じた。
「乾さんは今日は別の仕事だから、スタジオには来ないだろ」
「そうだったね。やあやあ、章ちゃん、おはよう」
「なんで隠すんだ? 乾さんに見られたらまずい記事でも載ってるのか? おまえがどっかのアイドルタレントに悪さしたって、スキャンダルでも載ってる? 見せろ」
「おまえが見たらひがみそうだから……」
「なんなんだよ、見せろ」
 奪い取られたので、俺は章の反応を見ていた。章も「抱かれたい男」のページを開き、大城ジュン? けーっ、とか言って雑誌を投げ出そうとしたので、俺は言った。
「ランキングの下位も見て」
「俺の名前があったりして? おまえじゃないだろ……んんん? んん? 金子、音羽、徳永……102位、乾隆也? よその乾隆也だろ」
「そうとも考えられるんだった。乾隆也って別人の有名人がいたっけ?」
「俺は知らないけどさ、フォレストシンガーズとは書いてないじゃん。よその乾隆也だよ」
「きみの心の平穏のためには、そういうことにしておきましょう」
「けけけのけっだ」
 次点となるとフォレストシンガーズと記すスペースが惜しいのか。それとも、別人の乾隆也か? フォレストシンガーズなんだったらちゃんと書いてよ。雑誌の編集部に問い合わせの電話をしようか。それって変か。
 俺は悩ましくなっていたのだが、章は雑誌を放り出して行ってしまった。章にしても、うちの乾さんだったら悔しい、であろうか。乾さんがランクインするんだったら、俺だって入ってるだろ、なのだろうか。
 102位には何人の女性が投票したのだろうか。二、三人だったりするのかもしれない。我が母校の女性の卒業生たちの何人かが、親切心で投票してくれたのかもしれない。そのうちのひとりは美江子さんだったりして? 
 美江子さんだったら夫に投票するのか。しないのか。妻の気持ちは俺には推理もできないのだが、うちの大学の卒業生、もしくは在校生だったら考えられる。
 沢田さんが投票するんだったら金子さんか。恭子さんだったらシゲさんか。うちの妹たちだったら兄には入れず、乾さんってのも考えられる。希恵さんもシゲさんか? 俺の知り合いの女性たちが、恋人や夫や兄や弟に投票するとは決まったものではないわけで。
 若い女性のみが読者ではないのだとしたら、弥生さんだけでも俺に投票してくれました? こんな雑誌は弥生さんは読んでませんか?
 考えはじめると頭に鳴門の渦ができそうだ。もうじき四国にライヴツアーで行くので、俺の頭は鳴門の渦に向いているのだが、考えすぎると渦に飲み込まれそう。こんなものは見なかったらよかったのに。
 あのアンケートは以前にも見たことはあるが、フォレストシンガーズ関連の名前がなかったとしたら、ファンが大勢いていいね、程度しか考えなかった。乾隆也の名前が出ているのが悪い。「抱かれたい」と頭についてはいても、要は人気投票だ。
 好きな芸能人、嫌いな芸能人の人気投票というものは、時々雑誌や新聞やネットで行われている。「抱かれたい男」にランクインする男は、通常「絶対に抱かれたくない男」のほうにもランクインしていて、それだけ注目度が高いという証明にもなる。
 今回のアンケートにも「抱かれたくない男」があるのか。次回にでもやるのか。そっちも見たいのだが、俺はいいほうには入っていなくて、悪いほうにだけ入っていたら……そこまで有名ではないのだから、両方から無視されるのが妥当ではあろうが、最悪の事態は見たくない。
 「抱かれたくない男」のほうにだけランクインしていたとしても、それはそれで、俺たちもちょっとは有名になって、世間に名前を知っていただけるようになったんだね、と楽観的に考えておくのは可能だが、やっぱり悪いほうだけなんていやだよぉ。
 ごくごく少数のファンの方々が対象ではあったが、かつて、フォレストシンガーズ内部での人気投票に近いものはやったことがある。あのときはナンバーワン人気は章だった。今では誰なんだろ。ものすごく気になるので、俺はその日の夕刻に、ラジオ番組で提案してみた。
「某雑誌で「抱かれたい男」ランキングってのをやってましてね、ごらんになった方もいらっしゃるでしょ? その影響で、俺もファンのみなみなさまにお伺いしたくなったんですよ。全国一般に公募したりしたら、俺たちの名前なんか出てこないでしょうけど、フォレストシンガーズの中で、だったらどう? ファンのみなさまぁ、お願い。ごろにゃん、三沢幸生に清きご一票をお願いしますっ!! ラジオをお聴きになっているみなさま、フォレストシンガーズのファンのお友達にも呼びかけて下さい。女性に限ります。男性はこの際、投票しないで下さいね」
 そんなの差別だよ、と男性ファンの方に怒られそうな気もするが、男の評判はいらない。女性の評判が聞きたい。
 本日の「FSのトワイライトビートボックス」の出演者は俺ひとり。先輩たちに口出しされる恐れはない。公共の電波を私物化するな、とスタッフに叱られそうな気もしていたのだが、笑って許して下さった。
 フォレストシンガーズ公式サイトでも大々的に募ろう。ファンクラブの会報にも書いてもらおう。フォレストシンガーズ内「抱かれたい男」ナンバーワンの栄光は果たして誰の手に? 俺ではない確率は百パーセントに近いのだが、知りたくて知りたくて、俺の胸は轟いていた。
 

 くっだらねぇ、と章は言ったが、先輩たちは反対はしなかった。
「おまえがやりたいんだったらやったらいいんじゃないのか。ファンの方も楽しんで下さるだろうから、いいよ」
 乾さんは言い、本橋さんも言った。
「乾……てめえがトップだと……うん、まあ、いいだろ。シゲの意見は?」
「はい。俺は最下位の覚悟を決めてますから」
「シゲさん、そう卑屈にならないでさ」
 俺が言ったら、ふんっ、とあしらわれた。
 誰も件の雑誌の「抱かれたい男」については口にしない。見ていないのか。見ていたとしても問題にするほどではないと? あの雑誌を置いていったのは美江子さんなのか? そこも判明はしていないので、俺も話題にするのはやめておいた。
 うちに帰ってフォレストシンガーズ公式サイトのための、ブログを綴る。そこにも人気投票のお願いをしたためた。
 今夜は帰宅時間が早かったので、ブログを書いてサイトを管理してくれている事務所のスタッフに送信すると、暇になってしまった。飲みにいこうかな。ナンパじゃなくて純粋に飲みにいくだけね、だなんて、誰に言ってるのかわからない弁解をして、俺はマンション近くのバーに出向いた。
 二十代半ばごろまでは、ひとりで酒を飲みにいくと、未成年じゃないんだろうね、と店の人に咎められた。外で煙草を吸うと、補導されるぞ、とリーダーに言われたりもした。三十をすぎると誰にもそうは言われなくなって、当然というか、俺も年を食ったねと言うべきか。
 バーのカウンターで水割りを飲み、煙草を燻らせ、ポテトチップスをつまむ。今夜はメシを食っていなかったので、夕食がわりにサンドイッチも頼んだ。
 ぽつぽつといる他の客も、バーテンダーも俺には注目していない。気は楽ではあるのだが、俺は天性の目立ちたがりだから、ファンの女性があらわれて、三沢さん、サインしてっ、と言ってほしいなぁ、と夢想してしまう。
 近頃だって機会があればナンパはしたいのだが、やるチャンスはめっきり減ってしまった。ファンの方にナンパはできないし、万が一、見知らぬ女性とホテルに入った場面を盗み撮りされて週刊誌にアップされたり、誰かのブログにアップされたりしたら。
「幸生、言わなかったか。俺たちはお気楽な学生でもなく、売れないミュージシャンでもなくなったんだぞ。おまえが軽率なふるまいをすると、おまえ自身の身に火の粉がふりかかってきて、こうしてネタにされるんだよ」
「他のメンバーにも迷惑がかかるんですよね。あーあ、つまんねえな」
 想像の中で乾さんに説教されて、反抗している俺が浮かんできた。
 若かったころにも乾さんにはこうやって、軽率なふるまいを叱られた。女性に関しての行為ばかりではなく、その他にも何度も何度も叱られて、殴られたことだってある。強烈なパンチも、軽いお叱りの平手打ちもげんこつももらった。
 本橋さんにだってシゲさんにだって、何度も何度も叱られた。金子さんにも高倉さんにも、学生ではなくなってからのほうが叱られていた。
 他の先輩たちの説教も、叱責の軽い暴力も、俺のためにはなったと思う。誰にも叱ってもらえずに学生時代からの十数年を好き勝手に生きてきたとしたら、俺なんかは女性との不祥事を起こして、今ごろはどこかの男に殺されていたかもしれない。女に殺されたかもしれない。
 殺されはしなくても、懲役中だったりして? そこまで悪辣な真似はしたつもりはないが、事態が悪いほうへところがっていたとしたら、絶対にないとは言い切れない。
 三沢幸生の叱られ人生の中で、俺にもっとも影響を与えてくれたのは乾さんだ。はじめて乾さんと知り合ったころから、俺はこのひとに一生ついていくんだと思い定めていた。今までのところはついてこられたんだから、それだけでも俺の人生、いいものだったよね。
 ジョークでならば、俺は隆也さんと恋をしたい、なんて言うけれど、本音は先輩と後輩がいい。いい年をしていても、俺は乾さんに甘えているのだから、若いころにはもっとずっと甘えが激しくて、そんな後輩を乾さんはあたたかくきびしく包み込んでくれた。
「ああ、こんなこともあったな」
 水割りのグラスに浮かぶ光景は、十年近く前の出来事だ。
 デビュー間もない冬だったか。東北地方で仕事があって、北海道生まれのくせして寒さに弱い章が、微熱を出した。温泉のある宿だったので、本橋さんが言ったのだった。
「微熱だったら風呂であったまって汗を搾り出したら、明日の朝には平熱に戻って仕事ができるんじゃないのか。喉はどうだ、章?」
「声は出ますよ」
「ネギを巻くといいんだろ」
 乾さんが言い、章は言った。
「ネギって……ネギの匂いで鼻まで変になりそうですよ。大丈夫です」
「シゲ、宿の人に章の喉に巻くネギを用意しておいてもらってくれよ。幸生はのど飴。本橋、俺は章を風呂に入らせる。章、歩けるか?」
「歩けますってば。そんなに心配しないで下さい」
「おまえの身よりも明日の仕事が心配なんだよ。俺たちはプロなんだぞ。仕事に来た以上、メンバーのひとりの喉が駄目だから歌えませんって言えるか。治せ。明日の朝までに完璧に治せ。そのためにできることはなんだってやる。微熱だったら風呂で汗をかくってのも有効だろうな。素人療法だろうけど、やってみよう。章、来い」
「はい」
 章は乾さんに連れられて、風呂場へと行った。本橋さんもシゲさんも、章の身を案じておろおろしていた。俺は宿の人にのど飴を分けてもらってから、風呂場を覗きにいった。
「温泉の効能書きによると、この湯は喉の疾病に効くんだそうだ。ちょうどよかったな、章」
「この湯、熱いですね」
「熱いほうがいいんだよ。喉まで漬かれ。なんだったら飲むか?」
「乾さんの毒素が溶けてそうだから、飲みたくねえよ」
「元気が出てきたみたいだな」
 ちょっとだけがらがらしている章の声と、乾さんの笑い声が聞こえてきた。
 あいつも乾さんに甘えてるんだな。きびしい台詞は言ってたけど、乾さんって優しいな。俺は身体が丈夫だから、章みたいに病気にならないけど、病に倒れて先輩たちに心配してもらいたいな。
 二十二歳にもなっていたくせに、俺は章に妬いていたのだろう。なんだかむしゃくしゃしてきて、服を脱いで温泉に入っていった。章は顔だけ湯から出して目を閉じていて、乾さんが俺を見て微笑んだ。
「幸生も来たのか。いいお湯だよ」
「のど飴はないんですって。入っていいですか」
「もちろんいいよ」
 今から思うとたいへんに恥ずかしいのだが、俺は章に毒舌を浴びせた。
「なんなんだよ、おまえってほんとにほんとにだらしねえんだよな。男のくせして貧血は起こすし、なにかっちゃあ微熱だのふらついただの、弱音は吐くし、ふてくされるしいじけるし、そんなんでプロのシンガーズを続けていけると思ってんのかよ。そんなんだとおまえは俺たちの邪魔者になるんだ。喉がおかしくて声の出ない奴なんていらねえんだから、今夜のうちに荷物をまとめて東京に帰れ。そのまんま二度と戻ってこなくていいよ」
「幸生」
「乾さんは黙ってて下さい。章なんかやめたらいいんだよっ」
「幸生」
「乾さんは黙っててって言ったでしょ。章なんか……今までにだって何度もあったでしょ。遅刻はするし、コンテストでは大ポカやらかすし、女にふられたからっていじけて歌はやめるって言い出すし、やめたいんだったらやめたらいいんだよ」
「もう一度だけ言う、幸生、おまえがやめろ」
「俺がフォレストシンガーズをやめろって意味? 章がやめないんだったら俺が……」
 章は黙りこくっていて、居眠りでもしていたのかもしれない。俺は言い募った。
「俺がやめたらいいんですか」
「なんなんだ、今夜のおまえは? 前にもそんなふうに言ったことがあって、あのときにはおまえの意図は読めたけど、今夜はちがうんだろ。おまえはいくつの男だ? 考えてみろ」
「……年は関係……」
「関係ないのか。そうかもしれないな。じゃあ、ガキ扱いしてやろうか。幸生、出てこい」
「出たらどうするの?」
「かついでいって表に放り出してやろうか。冷気に当たって正気に戻るか。幸生だるまを作ってやるから、朝まで雪だるまの中で考えるか」
「……ほんとにやりそうだな、乾さんだったら」
 その二年ほど後にやっと知った、本橋さんと乾さんの約束。やめちまえ、とだけは言わない。そのころの俺はまだそれを知らなくて、だからといっても、シリアスに言ってはいけないことだと知っていた。それでも言いたくて、俺は言った。
「章なんかやめちまえ」
 どうやら章は実際に居眠りをしていたらしくて、ほにゃ、ふにゃ、と呟いていた。
「こんなところで寝たら駄目だろ、章。幸生、大きなタオルを用意してこい」
「知らないよ」
「まったくスネガキみたいに。おまえはあとだ。いつまでもそんな態度だと……うん、おまえはあとだ。章、寝るな」
 乾さんは章を湯から引きずり出して抱え上げ、脱衣場へと運んでいった。俺が手伝わなかったので、ひとりで苦闘していたのだろう。五分か十分くらいたってから風呂場のドアを開けて、低い声で怒鳴った。
「幸生、出てこい」
「いやです」
「今夜の章は尋常な健康状態じゃないだろ。なのに、昔のことまで持ち出してねちねちと。おまえらしくもなさすぎるじゃないか」
「俺の本性はこうなんですよ。乾さんって意外と洞察力がないんですね」
「いいから出てこい」
「章は?」
「部屋に連れていって寝かせてきたよ。あとは本橋とシゲが面倒を見てくれるだろ。出てこないんだったらそこで湯の中で溺れてしまえ」
 しばらくしてから出ていって、服を着て庭に出ると、乾さんは雪だるまを作っていた。
「俺をその中に入れるんですか」
「これは別だよ」
「章は俺の暴言を聞いてなかったんですよね。聞こえてなくてよかったな。ほんとはのど飴ももらったんですよ。はい、これ」
「おまえの本性はそっちだろ。馬鹿」
 ぴしゃっと頬を叩かれて、泣きたくなって、泣いたらガキじゃん、と思い直して、乾さんと一緒に雪だるまを作った。乾さんには強烈なパンチもあれば、あったかな平手打ちもあるのだと教えてもらったのだった。
「雪遊びなんかすると冷えたな。もう一度風呂に入ろうか」
「はぁい、隆也さん、抱っこしていって」
「女の子になりたい気分なのか。ガキになりたいのはすんだのか」
「女の子のガキになりたい。きゃああっ、うわわっ、冗談ですよっ」
 腕が伸びてきたので逃げ出して、ふたりして風呂に入って、あったまって出るころには、俺の気分は平常に戻っていた。
 あのころの俺は、章をとやかくは言えないガキだった。先輩たちは章の心配ばっかりして、俺はどうでもいいんだろ、丈夫なのって損だよね、とまで思っていたのか。仕事の心配だと乾さんは言ったけれど、章の心配ばかりしていたのだ。
 翌日には章の体調も戻り、五人で快調に歌えた。章は風呂場での俺の暴言を聞いていたのかいないのか、なんにも言わなかった。
 あれからも俺は章にたびたび、おまえなんかやめちまえ、と言ったのだが、ジョークだったのだからいいのだ。もしもシリアスに言ったとしたら、乾さんにきびしく叱られただろう。二十四歳くらいのときに乾さんには言い聞かされていたのだから、こう言われていただろうか。
「あのときに、俺はなんと言った? 今度言ったらどうするって言った?」
「こうだろ」
 ぼっかーんっ、と本橋さんに殴り飛ばされて、僕ちゃん、即死、だったかもしれない。
 売れなかったころになんか戻りたくないけれど、三十をすぎると先輩たちに野放図に甘えかかったりはできない。だから俺は、心だけ十六歳の美少女になって、大好きな隆也さんに甘えたいのか。
「はあ、ガキ」
 女は大人になったって、愛して愛されている男には甘えられる。俺だって愛して愛された女に……いや、俺は女にも甘えたい。乾さんだったらこう言うに決まってる、以前にも言っていた。
「ガキのころには俺だって、ばあちゃんに甘えてたよ。大学生になっても、精神的には先輩にも甘えてた。だけど、男は大人になると、女に甘えたいんじゃなくて、女に甘えてもらいたいんだよ。愛するひとに甘えられて、隆也さん、って胸に頬を埋められたら、この上もない幸福だろ。おまえにじゃないんだ。くっつくな。蹴飛ばすぞ」
「いやーん、隆也さーん、ユキちゃん、隆也さんに甘えたいぃっ!!」
 そんなやりとりもしたけれど、俺は乾さんみたいな大人にはなれない。
 だから、俺には真実の恋もできなければ、このひととだったら結婚したい、と思える女も出てこないのか。せめてハートは美少女のユキちゃんで、ジョークと芝居で隆也さんに甘えていよう。俺ってやっぱ、心は章以上のガキかぁ。切ないわ、ユキちゃん。
 

2

 世の中に嫌いな奴はそう多くはないのだが、大城ジュンって奴は嫌いだ。中身は知らないが、外見は俺の理想像に近くて、俺はこうはなれないだけに大嫌いだ。背丈は百八十センチくらいか。シークレットシューズでも履いてるんじゃないのか? 脚が長すぎる。顔は言及したくもないし、声も低い。憎たらしすぎる。
 数年前に章が舞台音楽の作曲をし、俺がおばあさん女優の代役の形で舞台初デビューを果たした、「劇団ぽぽろ」。当時は有名ではなかったぽぽろの役者のイッコウくんが、メジャーな芝居の脇役で舞台出演をする。
 シンガポール出身の日米ハーフ、イッコウくん。彼はぽぽろでは主役を張る人気役者で、認められて映画や舞台にも出演するようになったのだ。そうなってからつけた芸名は、kcイッコウ、ミュージシャンみたいな名前であるが、本名をもじってあるのだそうだ。
 彼も長身美形ではあるが、親しくなったせいもあって嫌いではない。イッコウくんが出演する「闇に蠢く影」というホラーテイストの舞台の脇役俳優控え室の大部屋を訪ねたら、ジュンもいたのだった。
「あいつも脇役で出るんだね」
「ジュンさん? そうだよ。彼の思惑以下の小さい役だから不満みたいだね」
「端役?」
「俺のほうがちょっと大役。ちょっとだけどね」
 むろん役者にもライバル意識はあるのだろう。イッコウくんはふふんといった感じで言う。年頃は近いのだが、ジュンとイッコウは互いに無視し合っていた。
 大部屋には大勢の人々が出たり入ったりする。男性役者の楽屋なので、女優さんがいないのは残念ではあるが、役者の付き人やマネージャーといった人種や、遊びに来る人や、差し入れを届けてくる人もいる。
 知っている顔もあるので、イッコウくんと談笑しつつ目をやっていると、ジュンのそばに男が近づいていった。
「ええっ?! なんでだよっ!!」
「いや、あのね、手違いでさ……」
「手違いってなぁ、あれがないと俺は困るんだ。買ってこい」
「そんなに簡単に買えないよ。ジュン、我慢して。これでいいだろ」
「てめえは俺の付き人だろうが。呼び捨てにすんな」
「いつも呼び捨て……前から……」
「前は前だ。今は俺はスターで、おまえは付き人だろ。分をわきまえろ。買ってこい。東京中探して買ってこい。買ってこなかったらおまえはクビだぞっ!!」
 大勢の人がいる場所で怒鳴られた付き人くんは、気弱に笑って走り出ていった。
「彼、前にはジュンのいたアイドルグループのメンバーだったんだよ」
 イッコウくんが小声で話してくれた。
「なんとかいうアイドルグループは、グループとしては売れなくて、個別活動をしてたんだね」
「よくあるよね」
「よくあるそんな中で、ジュンだけがものすごく売れた。ジュンは役者になって、グループは解散した。それもよくある話で、彼の名前は知らないけど、ジュンの付き人になったんだな。俺はリハーサルのときなんかにも彼とは会って、名前は? って訊いたんだ」
 そうすると横からジュンが言ったのだそうだ。
「こいつには名前なんかないんだ。名前なんかいらねえんだよ。大城ジュンの付き人だよ」
 だったのだそうだ。イッコウくんは声を低めて続けた。
「それでわかるでしょ。売れない者と売れてる者の差が大きな世界だよね」
「うん。俺たちだってさ……」
「幸生さんは売れてるじゃん」
「昔はさ……昔の話はいっか」
「俺だって昔はさ……ぽぽろも楽しかったからいいんだけど、あのころには戻りたくないね」
「心から同感」
 なにがなくてジュンが困って、付き人を買い物に走らせたのかは知らないが、売れないアイドルの末路……とまで言ってはいけない。付き人くんだっていつ、道が開けるかもしれないではないか。役者の業界も歌の業界も、先はひとつも見えないのだから。
 いつになく俺が諸行無常を噛みしめていると、ジュンの視線を感じた。噂されていると気づいたか、立ち上がってずかずか歩み寄ってくる。立ち上がったイッコウくんと較べると、素の背丈がわかる。シークレットブーツは無用であるようだ。
「俺がどうかした?」
「どうもしないよ。紹介しようか」
「誰、こいつ?」
 ジュンは俺を見下ろして傲岸に聞き返す。ここで本橋さんだったら、なんだ、てめえのその態度は、だろうか。乾さんだったとしたら、にっこりきつい台詞で言い返す。俺もそうしたいのだが、立ち上がると背丈で完敗するので、すわったままで見ていた。
「フォレストシンガーズの三沢幸生さん。俺に花束を持ってきてくれたんだ」
「フォレストシンガーズってなんだ? お笑いか」
「シンガーズだよ。シンガーズの日本語訳もできないの?」
「シンガーズってお笑いにはない名前か? ありそうじゃん」
「ないと思うけどね。お笑いじゃないよ。ヴォーカルグループ。知らないなんて遅れてるね」
「そんな奴ら、知らなくて普通なんだよっ」
 ライバル意識が飛び交っている。長身の男ふたりの火花ばちばちは怖い。俺は言った。
「俺は帰るから、イッコウくん、がんばってね」
「三沢さん、ありがとう。時間があったら舞台も見てね」
「見させてもらうよ。楽しみにしてるから」
「おい」
 ジュンが俺に言った。
「俺には挨拶もなし?」
「そっちがしないのに、俺が挨拶する義理はないね。しかしさ、抱かれたい男ナンバーワンは脇役か。スターにしては役者としてはたいしたこともないんだ。フォレストシンガーズと似たようなポジションじゃないの? じゃーね、イッコウくん、ばいばい」
 瞬時の切り返しができないとは、ジュンの頭はたいしたことはない。俺の台詞もたいしたことはなかったが、ひとことは言えたのだからよしとしよう。背を低めて足を速めて、ふたりの男の前から立ち去った。
 素の身長をさらしたくないので身を低めていたのだから、俺は身体だけではなく心もちっちゃい。だって、ちび、と吐き捨てられたら悔しいじゃん。言い返す言葉がなくなってしまうのだから。


 現実逃避の最良の手段は、ジョーク、妄想だ。先輩たちは見慣れているとはいえ、背の高い男たちと触れ合うと鬱に近い気分になる。ひとり妄想もいいけれど、隆也さんにジョークで甘えよう。夕刻にスタジオに行くと、知ってはいたが乾さんだけが来ていたので、最初から女声を出した。
「隆也さん、会いたかったわ」
「俺はユキには会いたくないよ」
「ユキは会いたかったんだもん。なにをしてるの?」
「見たらわかるだろ」
「わかんなーい」
「おまえもやれ、幸生」
 ユキとは呼んでくれないので、そんな気になれないのだろうと諦めて、先輩につきあうことにした。乾さんがしていたのは、プロモの検討だ。未完成のプロモDVDをテレビで見て、メモを取っている。俺も乾さんとともにプロモに集中した。
 新曲はノスタルジックなア・カペラバージョン。チャールストンの香りのするジャズっぽいナンバーだ。三沢幸生作詞、本橋真次郎作曲「水面に揺れて」。
 ほとんどフェイクなのだが、プロモでは五人で金管楽器に挑戦している。ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、ユーフォニアム。でかいほうのユーフォニアムを本橋さんが、チューバはシゲさんが、細長いトロンボーンは乾さん、ホルンが俺、トランペットが章。
 およそは体型に合わせて楽器を選んだわけで、章はペットがかっこいいからとトランペットにした。ほとんどフェイクというのは、俺たちはプロモでちょっと吹いてるだけで、レコーディングでは金管楽器グループ「Brass instrument brothers」が担当してくれている。
 ちょこっととはいっても、肺活量の乏しい章や俺は金管楽器には手を焼いた。本橋さんと乾さんは巧みにこなしていたが、楽器のセンスがないと公言しているシゲさんも苦労していた。
 プロモではフォレストシンガーズが臨時金管楽器ブラザーズになって、黒い襟のスーツに黒い蝶ネクタイ姿で、金管楽器の演奏をしている。本橋さんとシゲさんはさまになっていて、章と俺はラッパで遊ぶ子供に見える。乾さんもまあまあ、格好はついていた。
 音も一応は出ている。時折ぶかぶか雑音が混じるものの、俺たちは楽器のプロではないのだから、ご愛嬌ってことで勘弁してもらおう。
「音に不満があります?」
「音ってのはいいんじゃないかな。俺たちのラッパ演奏を聴いて、専門的な意見を述べるひともいないだろ。プロモは見た目が重要だよな。このシーンはいいんだよ」
「幸生くん、かっこいい」
「うん、かっこいいね」
「ユキちゃん、ホルンを吹いてる幸生くんに恋しちゃいそうよ」
「シュールな恋だな」
「隆也さんにも恋していい?」
「黙れ、じゃなくて、そういった話じゃなくて、真面目にやれ」
 真面目に仕事の話しをしてるんだから、ふざけるな、なのね。隆也さんに叱られたぁ、と泣き真似をすると、シリアスに叱られる。シリアスに叱られると甘えたいモード全開になって仕事ができなくなりそうなので、俺も真面目に言った。
「これでいいんじゃないでしょうか」
「うん、まあ、ここんところは余興みたいなものだからな。で、ここは……」
 とっても真面目に乾さんとプロモのお話をして、とっても有意義なひとときではあったのだが、真面目すぎて疲れた。
 考えてみれば俺は、いつでもどこでもどんなときでも、五十パーセント程度はふざけている。平均すれば五十パーセントなのであって、十パーセントのときも、八十パーセントのときもあるのだが、おふざけゼロパーセントは仕事のときでさえもない。
 今日も最初のうちはふざけていたし、ステージでだって、レコーディングだって、取材だって写真撮影だって、テレビやラジオの出演だって、おふざけが加わっている。
 三沢幸生はふざけてなんぼ、の面があるので、俺はそうしようと努力しているのだ、ってのは建前であって、ふざけるのは楽しいからやっているのであって、ふざけられないと疲れる。無口でいると口が疲れる。俺ってやっぱ特異体質だ。
 本質的に不真面目な男、三沢幸生。いばってる場合じゃないっての。そうやって時折、内心でセルフおふざけもやりながら、乾さんに協力して仕事をすませた。
 リーダーはただいま、プロモーションのために韓国に出張中、章は出身地である北海道でのジョイントライヴに単独出演のために出張中、シゲさんは彼が初にデュエットで単独仕事をやった女性シンガーさんのお願いで、彼女のライヴにゲスト出演中。
 そういうわけで、今夜はスタジオには乾さんとふたりきりだ。仕事の話をすませると、俺は女性雑誌の話題を持ち出した。
「乾さんは見たんでしょ?」
「ああ、あれか。実はあれはさ」
「実はってのがあるんですか」
「俺のファンの方が投票して下さったんだそうだよ。102位だろ。ほんの二、三人の女性が投票してくれたら、あの順位にだったら入るんだよ」
「そうなの? じゃあ、俺も来年にはファンの方にお願いしようっと」
 ファンの方ではなく、妹たちを買収して友達も総動員してもらって投票してもらう手もある。十人も集まれば100位圏内に入れる? 乾さんの台詞は眉唾ものにも思えるのだが、とりあえず納得しておいた。
「乾さん、今夜はブラブラのライヴがあるんですよ。聴きにいきません?」
「ブラブラってなんだ?」
「やーね、鈍いわね」
「ブラブラ……? ブラスインストゥルメントブラザーズ? 変な省略するなよ」
「長いんだもん。ブラブラでいいでしょ。ねえ、行きません?」
「そうだな。行こうか」
 ふたりで行ったのは、不定期的にジャズのライヴをやる酒場だ。ブラブラの演奏はむろん聴かせてもらっていて、ジャズにも開眼した、というほどでもないのだが、もっと生の演奏が聴きたくて尋ねたら、この店でライヴをやると本人たちに教えてもらった。
 仕事で知り合ったひととも、たいていは俺が一番に親しくなる。ブラブラのライヴを知らなかった様子の乾さんを誘いたいのもあってスタジオに行って、ついでに仕事もしてきた。仕事をついでと言ってはなんだが、俺の主目的はこっちだった。
 小さな暗い店では、ライヴはまだはじまっていない。ブラブラは実力はあってもさほどにメジャーではないので、客席も半分がたくらいしか埋まっていなかった。
「ジャズを聴くときの酒は?」
「アメリカの酒かな。バーボンかバドワイザーか。俺はバーボンにするよ」
「俺も乾さんと同じもの」
 酒も音楽を聴く雰囲気を高める小道具だ。乾さんとバーボンで乾杯していると、店に新たな客が入ってきた。男のふたり連れ、大城ジュンとその付き人だった。
「ふーん、あいつも付き人に酒をおごってやって、労をねぎらってやるんですね。いいとこあるじゃん。ほら、乾さん、乾さんが102位だったランキングの輝けるトップワンの奴ですよ」
「ああ、あいつね」
「あいつってね……」
 先輩に苛めっ子の告げ口をしている感もありつつ、昼間の話しをしていると、ジュンが俺たちに視線を向けた。耳ざとい奴は、今夜もずかずか近寄ってきた。
「また会ったね、えーと、あんた、誰だっけ?」
「あなたは?」
 問い返した乾さんに、ジュンは言った。
「俺を知らないのかよ」
「俺も自己紹介しますから、先にあなたからどうぞ」
「俺を知らない奴となんか、話してもつまんねえよ」
「そちらのあなたは?」
 付き人くんが口を開こうとしたら、ジュンが遮った。
「こいつは俺の付き人だよ。名前なんかねえんだ」
「名前はあるでしょう? 俺は彼に尋ねてるんだ。あなたは名乗りたくないならそれでいいけど、口出しはしないでいただきたいな」
 にこやかに、きつくはないがきっぱりと乾さんが言い、付き人くんが名乗った。
「玉田豊です。俺は乾さんと三沢さんは知ってますよ。フォレストシンガーズの方ですよね」
「はい。でも、まあ、礼儀として。乾隆也です」
「三沢幸生でーす。よろしくね」
 丁寧に頭を下げる玉田くんを苦々しく見やって、ジュンは離れていってしまった。
「玉田さんはブラブラのファン?」
 俺が尋ねると、は? といった顔をしてから、玉田くんは笑った。
「ブラブラですか。そんなふうに略すのははじめて聞いたけど、短くて言いやすいですね。俺もこれからはそう呼ぼう」
「ブラインブラもよくない? ブラの中にブラって……んんとんんと……女の子の胸にブラが二枚、それも上げ底っていうの、乾さん?」
「ブラブラでいいよ。玉田さん、こいつの台詞はいちいち気にしないで下さいね」
「そうなんですか。いえ、あのね」
 くすくす笑いながら、玉田くんは話してくれた。
「ブラブラってジュンと同じ事務所に所属してるんですよ。俺もジュンの付き人として所属してるんですけど、うちの事務所はお笑いからジャズミュージシャンから俳優から、雑多な芸能人を抱えてるんです。それで、社長に言われたんですよ。ブラブラは人気がないからライヴチケットが余ってる、ジュンと豊、ライヴに行ってこいって。だから、ジュンはいやいやだったんだろうけど、俺は楽しみにして一緒に来ました」
「ジュンも社長の言いつけだったら聞くんだ」
「そりゃあね。ジュンが売れてるのは社長のおかげですから」
 玉田くんはジュンほどには背は高くないが、もとアイドルだけあって甘いマスクをしている。年齢はジュンや俺よりもやや下か。玉田くんは黒ビールをオーダーしてから言った。
「豊って呼んで下さいね。ジュンは俺のこと、おまえだとかてめえだとか、ひどいときにはこうなんですよ。おい、付き人」
「そんな扱いされて、腹は立たない?」
「仕事がないと俺は食っていけませんから」
 その言葉にはいくつもの含みがあると感じ取れたのだが、乾さんは黙ってうなずき、俺もうなずいておくしかなかった。
「俺はアイドルっていうより、歌で勝負したかったんだけど、フォレストシンガーズの歌を聴いてると、俺なんかじゃとてもとても、って思えましたよ。ああ、出てきましたね」
 ブラブラがステージに登場し、ホーンセクション五つの演奏がはじまる。そりゃあもう、俺たちの余興とは比較のしようもない、巧みなほうだった本橋さんや乾さんとだって、比較するなんてとんでもありませーん、としか言いようのない、耳福のひとときとなった。
 耳福とは説明するまでもないだろうが、「眼福」の耳バージョンで、「じぷく」と読む。俺の造語だ。造語なんてどうでもいいけれど、ジャズもいいなぁ。俺もジャズの名曲ダイジェストとかいうありふれたCDは持っているけれど、深くお勉強をしたくなってきた。


3

 昔からテレビや映画には出ていたので、大城ジュンの名前は知っていた。役者の仕事がもっぱらのジュンとは、実際に会って話す機会はなくて、会って話してみたらあれだったのだから、印象は最悪となった。
 だが、「闇に蠢く影」を見にいってジュンの演技を目にした俺は、ほええ、うまいじゃん、と感じたのだった。歌にだったら一家言ばかりはあるつもりだが、役者の演技力については俺には専門的意見は述べられない。素人の目ではあっても、下手くそだったらわかる。ジュンは下手ではないとだけはわかった。
 「闇に蠢く影」は古い屋敷を舞台とした劇で、主役はその屋敷で暮らす夫婦。イッコウくんは妻の不倫相手、ジュンは夫の友達、実はちょこっと妖しい関係? といった役どころだ。夫はどうやらゲイのケがあるらしく、屋敷に蠢く影も男なのである。
 愛憎劇でもあり怪談でもある芝居は面白かったし、ジュンの演技力にも敬服した。客観的に見てイッコウくんよりもうまい。あれだからイッコウくんがジュンに敵意を抱いているのだとしたら、イッコウくんの話を鵜呑みにしてはいけないのかもしれない。
 だとしても、ジュンってああいう奴だしさ、俺はあんな奴は嫌いさ、と考えつつ、芝居がはねて飲みにいった。
 近頃は飲んでばかりいるのだが、俺は量は飲まないし、悪酔いもしないし、章みたいに潰れて誰かに背負ってもらえないと歩けないってほどにもならないのだから、酒は百薬の長と考えておこう。今夜はひとりで飲んでいると、店にジュンが入ってきた。
 会わないとなるとまったく会わないのに、会うとなるとやたらに会う。俺が隅っこの席にすわっているのに、ジュンは気づいていないらしく、仕切りのむこうの席にすわった。あいつもひとりなのか、声はかけないでおこうと決めていると、ジュンのそばに女性が近づいていった。
「ああ、トキコ? どうした?」
「ここ、すわっていい?」
「いいよ。ひとりで飲みにきたのか?」
「そうなんだけどさ……あんたの付き人は?」
「豊か。トキコさぁ……」
「いいの。いいからさ」
 これではなんの話しなのか読み取れないので、俺は耳を澄ましていた。
「あんたの付き人は、あっちこっちであんたの悪口を言い触らしてるみたいだね」
「言いたいんだったら言えばいいんだよ」
「あんたも悪いんだろ?」
「俺だけいい子になるってのもさ……あいつを見てると苛々するのもあるし……」
「おい、付き人って?」
「付き人だろ。デビューしたときには同じ位置に立ってたのに、俺はこうなって、あいつはああなって、なんてさ、そう言われたら豊は気に食わないんだよな」
「そりゃそうでしょ」
 盗み聞きはうしろめたくもあるが、俺はただ耳を澄ます。ジュンとトキコとやらの会話は続いていた。
「そんでね、豊が言うの。俺なんかはこのままずっと、ジュンの付き人、このまんまずっと、付き人で終わってしまうしかないんだから、こんな俺とつきあってたらおまえが不幸になるよ、ってさ」
「そうかもしれないな」
「付き人がいやなんだったら、やめたらいいんじゃないのよね」
「豊の気持ちなんて、俺にはわかんねえよ」
「ジュンだったらどうするの?」
「逆の立場だったらか……」
「ジュン、あんたってもしかして……」
 トキコさんは声を小さくしたのだが、俺にも聞こえた。
「こんな仕事はやめちまえ、って言いたくて、わざと豊につらく当たってる?」
「おまえの考えすぎだろ」
「そうかな。ジュンはわりと、お高いスターで売ってるんだよね。外見がそれだから、俺ほどかっこいい奴はいない、ってカラーで売って、よそのひとにも生意気な態度を取るの。でしょ?」
「俺ってかっこいいじゃん?」
「かっこいいけどさ、私はジュンの性格ってのも……変わったの?」
「変わってねえよ。俺は前からこんなだ」
「そうだったかな。ねえ……ジュン……」
 むこうの席はしばし沈黙。俺はジントニックを飲んだ。
 トキコ、トキコ、ちらりと見えただけだが、長身の美人だった。彼女も芸能関係か。ジュンとの話しからすると、豊とつきあっているらしい。売れないアイドル同士で知り合ってつきあうようになったというのも、よくある話だ。
 売れている女優やシンガーならば俺も知っているだろうから、トキコさんも売れていないのか。他にも考え方はあるが、そうと仮定したらわかりやすい。ジュンとトキコが再び話しはじめたので、俺も耳澄ましを再開させた。
「だけど、好きなんだな、私は。豊が好きなんだよ。私だってこんなんじゃどうしようもないから、豊も私も仕事なんかやめちゃって、別の仕事をしようよって言ったの。そしたらね、そんなのいやだ、別れようって」
「そっか」
「別れるしかないのかな」
「そりゃあ、おまえが決めることだろ」
「そうだね」
 こうして他人の話を聞いていると、無口でいても疲れない。なんとなく、俺の推理は当たっているとも思えてきた。
「いやだよ、別れたくないよ」
「俺にはどうにもしてやれないよ」
「ジュンが豊に話してくれない?」
「おまえと豊の問題を、俺がはたからなんだかんだ言ったってはじまらないって、おまえにだってわかってんだろ」
「……うん」
 なおも耳を澄ますと、トキコさんが泣いているらしき気配が伝わってきた。仕切りのむこうを覗くと、バッドタイミングでジュンと目が合った。
「おや、奇遇ですな」
「あんたさ、俺をスパイしてんのか」
「僕ちゃんはスパイじゃないよ。お邪魔はしませんので」
 テーブルに突っ伏しているトキコさんの背中に乗せていた手をどけて、ジュンが俺を睨む。トキコさんも顔を上げた。
「えーと、どなたでしたっけ?」
「いえ。通行人Aです。ごめんなさい」
「フォレストシンガーズって知ってるか、トキコ?」
「フォレストシンガーズ? 聞いたことはあるような……フォレストシンガーズのひと?」
 こうなればとぼけても無駄であろうから、俺は立ち上がって言った。
「フォレストシンガーズの三沢です。すみません、幾分かは聞こえてたんですけど、ほんとにすみません。俺は退散しますから」
「三沢さん? はじめまして。私なんか知らないよね」
「トキコさん?」
「私もアイドルグループにいたんだ。女の子ばっかりのアイドルグループで、ああ、フォレストシンガーズって言ったら……」
 なにかを思い出したらしく、トキコさんは勢い込んで言った。
「三沢さん、こっちに来ない?」
「いいんですか」
 ジュンは知らん顔をしていて、トキコさんが呼んでくれたので、俺は席を移した。
「思い出したよ。何年前だったかな。フォレストシンガーズの本庄さんが、うちの事務所に誘われたでしょ?」
「あ、あれ? あのときの売れない女の子アイドルグループって、トキコさんの?」
「そうなの。奇遇も奇遇だよね」
 六、七年前だったか。女の子のアイドルグループが売れないからといって、男を入れて男女グループにしようと、そっちサイドで相談がまとまった。そこに加える男に、いったいなにがどうなってそうなったのか、シゲさんが候補に上がったのだった。
 事務所同士で話し合い、シゲさんにも依頼が来て、それについては俺たちも話し合い、シゲさんは断固として固辞した。あとの話は社長が交渉してくれて立ち消えになったので、アイドルグループについても俺はよくは知らない。
 そのグループにトキコさんがいた。もしもシゲさんがその気になっていたとしたら、彼と彼女が恋人になっていたとも? 先走りすぎか。
「本庄さんが断ったって、他にも手はあったんだよね。だけど、なにをどうしても私たちは売れなかったの。売れないとなると女には他の仕事ってのがあって、私は深夜番組のバニーガールみたいのもやらされたよ。そのころに、その番組に出てた豊と知り合ってつきあうようになったんだ。五年ほど前かな」
 やはり俺の推理は、一部分は当たっていた。
「私も売れないけど、水着だの深夜番組にすわってるだけだの、クイズ番組の頭ぱータレント役だのって、仕事はなくもなくて、なんとかやってたんだよね。ジュンはこうなったけど、豊はああでしょ? クビになるくらいだったら付き人でもいいって言ってるけど、やめちゃえよ。私だってやめてもいいんだから」
「はい」
 俺としてはそうしか言えなくて、ジュンは黙ってビールを飲んでいた。
「もう一年くらい、豊と会うとそんな話しばっかりだよ。とっくに終わってるのかもしれないね。完全に別れて、別の男を捜そうかな。三沢さんは独身?」
 どきっとして身を引くと、トキコさんはけたけた笑った。
「冗談に決まってんじゃん。帰ろうっと」
「トキコ、送っていこうか」
 ジュンが言い、トキコさんはかぶりを振り、ふらふらっと行ってしまった。
「酔ってんじゃねえかよ。先にどこかで飲んできたんだろ」
 舌打ちをしたジュンがトキコさんを追っていく。伝票をつかんで小走りで行ってしまった。
 あいつも悪い奴ではないのかな。露悪的ってやつなのかな。あれだけでは本性なんて読めなかったけれど、第一印象だけで人を判断してはいけないのだと、俺は今夜も猛省していた。


 件の女性雑誌は読者総数が日本でも有数といったところであろうが、我々フォレストシンガーズのファン総数はひと桁ちがいか、ふた桁か、三桁ちがうのか。いずれにせよ、桁外れに少ない数だ。
 それでもそれでも、ネットとファンクラブ会報とラジオ放送と、その他諸々も動員して呼びかけた結果、相当な数の投票が集まった。事務所のスタッフたちが投票結果を集計してくれていて、俺は胸ときめかせて発表を待っていた。
「あのな、あんなものは遊びだろ。幸生、そんなもんばっかり気にしてないで、練習に熱意を込めろ。真面目にやれ」
「リーダーったら、遊びだって言うのは理由があるんでしょ? 最下位だったらどうしようって、リーダーこそ気もそぞろなんじゃないんですか」
「最下位は……」
「誰?」
「そんなもんはわかんねえんだよ」
 シゲだろ、と言いかけたのかもしれないが、本橋さんは言葉を止めて、かわりみたいに俺の頭を拳骨で殴った。
「もうもう……俺は三十すぎた成人男子ですよ。大人の男をぼかぼか殴るってのは、リーダーは俺を大人だと認めてないんですか」
「認めてねえよ」
 あっさりと言われてうぐっとなっていると、章が言った。
「俺も認めてもらってないんですか、リーダー?」
「そうやっていちいち確認しようってのは、おまえたちにも自覚がないからだろ。大人だって自覚のある男は、あんなことはしないんだよ」
「あんなことって?」
 郷土の出身だということで北海道でのジョイントライヴに出演していた、章がやったことだろう。本人はとぼけたいようなので、俺が言ってあげた。
「ステージに飛び入りで上がってきた子供と、キャッチボールをしたんだったよね。その少年は地元のリトルリーグの名ピッチャーで、章はムキになって剛速球のつもりの球を投げた。その子にへなへな球だって笑われて、てめえ、このガキ、って、章は少年の胸倉をつかみそうになり、そばにいた司会者に止められた、とね」
「蒸し返すな。しかし、あれはだな……」
 言い訳しようとする章を無視して、俺は言った。
「シゲさんだったらその子に穏やかに対してあげる? 野球関係だとムキになる?」
「俺は野球は下手だって自覚もあるし、大人の自覚もあるんだから、子供相手ならそれなりの対処はするよ」
「そっかな。意外とわかんないぞ」
「乾さん、それはないでしょ」
 そうして喋っていて、歌の練習はさぼっていたのは、みんな投票結果が気になっていたからだろう。やがて、オフィス・ヤマザキ事務員の玲奈ちゃんが発表しにきてくれた。玲奈ちゃんももったいぶっていて、口では言ってくれない。スタジオのホワイトボードに大きな用紙を貼り付けた。
 たったの五人なのだから、結果はひと目で見える。嘘でしょ嘘でしょ嘘でしょぉ……であって、俺は危うく気絶するところだった。
「一位、乾隆也、二位、木村章、三位、本橋真次郎、四位、本庄繁之、五位、小笠原英彦」
 玲奈ちゃんが張り紙を読み上げている。俺は……いない。
「小笠原さんが入るなんて意外でしたけど、そうなんですね。ブログ人気のせいなんでしょうか。これって最初から五位までって作ってあったんで、六位は書いてないんですよ。三沢さん、泣かないで下さいね」
「泣くよ、泣くよ泣くよっ。圏外にだって書けるじゃん。社長の意地悪ぅ」
「そうなんですよね。三沢さんは小笠原さんと僅差で六位です。とはいってもね、三位までが大部分の票で、四位以下はちょっぴりで……」
「それでもいいよ。俺は嬉しいよ」
 本気で嬉しそうにシゲさんは言い、俺はひたすらうなだれた。
 一位は想定内だ。全国一般の「抱かれたい男」投票にだって、102位とはいえランクインする乾さんなのだから。二位でも気に食わないのかもしれない章は、単なる贅沢。本橋さんはまあ、こんなところだろう。既婚者なのだから人気ダウンしているというか、もともとこんなものか。
 せめて俺は四位、それだったら泣きたくなるほどではないが、五位でもない。ヒデさんに負けた。世をはかなみたくなる。心底ファンのみなさまを恨みたくなった。俺は自分を励まして言った。
「これはなにかのまちがいだ。今度はヒデさんは抜きにしましょう。今回はおためしバージョンってことで、次回から本番ね。玲奈ちゃん、この紙、事務所に持って帰って」
「公式サイトに載せようかって、社長は言ってましたよ」
「……好きにして」
 見たくないので張り紙に背を向けると、章が言った。
「次回はおまえは五位になれるよな、よかったな」
「次回はおまえが五位だよーっだ」
 章とべろべろべーっと舌を出し合っていると、リーダーのごちんごちん、が、章と俺の頭に飛んできた。でっかい架空たんこぶをさすりつつ、そこでようやく歌の練習になった。
 乾さんと本橋さんは特にコメントもしなかったが、乾さんは満足しているのだろう。俺がうなだれている隙に、本橋さんが乾さんにイヤミのひとつも言っていたのかもしれない。シゲさんは四位で嬉しいのだから、もてない男のほうが簡単に幸せになれるってわけだ。
 とりあえずそこで人気投票は払拭したのだが、練習を終えると思い出しそうになって、ひとりで先に帰った。なぐさめられたくもないし馬鹿にされたくもないし、同情もされたくないって、たかが人気投票で大げさだとは思うが、俺はそれほど落胆していたのだ。
 今夜も飲みにいこうか、自棄酒だな、なんて考えながら歩いていって、タクシーを止めようとしていたら、カフェの窓辺にトキコさんの姿が見えた。
 トキコさんとはこれまでにもどこかで会っていたのかもしれない。俺たちのスタジオ近くで仕事をしていたのかもしれない。今までは意識していなかったから目に入らなかったのだろう。背の高い女性は俺の守備範囲ではないからか。
 中に入っていって声をかけて、よろしければナンパ……とできなくはないのだが、トキコさんは豊と別れると言っていた。すでに別れたのと同然だとも言っていた。そんな女性をナンパするだなんて、そこまではしたくない。
 意識しはじめると目に入るようになったトキコさんとは、今後も会うのかもしれない。そんなチャンスがあったとしたら、ほとぼりが醒めるころに口説いてみようかな、なんてね。きっとそんなふうにはしないだろうけど。
 タクシーに乗るのも気が乗らなくなって歩き出すと、雨が降ってきた。この心情はトキコさんにこそふさわしいのであろうが、俺の落胆気分にも似合っていた。

「レイニーブルー
 もう終わったはずなのに
 レイニーブルー
 いつまで追いかけるの
 あなたの幻 消すように
 私も今日はそっと雨

 あのころの優しさに包まれてた想い出が
 流れてくこの街に

 it's a rainy blue
it's a rainy blue
ゆれる心ぬらす涙
 it's a rainy blue
 lonelieness」

 青い雨の中、トキコさんも俺もひとりぼっち。あなたの寂しさを想えば、俺の心に降る雨は他愛もないけれど、俺だって悲しいんだよ。歌を口ずさみながら歩く俺の心にも、ひとりぼっちの青い雨が降っているのだから。

END




 
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~ Comment ~

NoTitle

うわー!私も高校のころトロンボーンをしていたのです!乾くん!!
おぉぉ、嬉しすぎる!これはすごく嬉しいです!!
乾くんとの接点がここに……これを読み終わったら寝ようと思っていたのに、興奮して目が冴えてきました。

乾くんのカッコよさが好きです。
抱かれたい男1位の大城ジュンよりも乾くんがいい!
ゆきちゃんが乾くんにあこがれる気持ちがわかります。
もし乾くんに会ったら男の人としてカッコイイと思うのと同時に、性別をぬきにして「こんな人になれたら」と感じると思います。

私はずっと猫アレルギーと思っていたのですが、調べると一切反応はありませんでした。
医者が言うには「猫ではなく、猫についている虫やホコリがだめなんだろう」とのことでした。
ですので近所にできた猫カフェに行ったときは、
それはもう1時間興奮しっ放しでした!
医者の言うとおりで、猫カフェの猫たちを抱っこしても、
鼻水・くしゃみは全然でませんでした。
おばあちゃん家の猫は自由気ままに山を駆け巡っていましたので、そのせいかと思います。

ハルさんへ

いつもありがとうございます。
乾くんがトロンボーン? え?
なんて思ってしまったほどに、自分で書いても忘れています。

金管プラザーズでしたね。
そう、キンカン。
うふっ、って、この続編みたいなのがあるので思い出しました。

ハルさんもトロンボーン、吹かれるんですね。
楽器はまるっきり駄目な私に、今度詳しく教えて下さいませ。

猫カフェ、行かれたのですか。いいないいな。
どなたかと一緒に? おひとりでですか?

すると、外に遊びにいかない猫だったら大丈夫なんですよね。
今どき、都会の猫は外には出さないのが普通みたいですから、ハルさんもそんなふうにして猫と暮らされたらいかがでしょうか?
いつか、そうできるといいですね。
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