番外編

番外編59(夜の魔術)

 ←小説181(サヨナラホームラン) →小説182(思えば遠くへ来たもんだ)
imagesCAYMYIW9.jpg

番外編59

「夜の魔術」


1・隆也

 耳を打つのは嵐に近い様相の雨の音。眠っていても雨のリズムが頭に耳に鳴り響いて、うるさくて目が覚めそうでいながら覚めない。目が覚めてもいないのに、俺は起き上がって玄関のドアを開けた。誰かが俺を呼んでいたからだった。
 ドアを開けると飛び込んできた小さな身体を抱きとめる。覚醒していない意識と視界のせいで、抱きとめたのが誰なのかは理解できていなかった。
「びしょ濡れじゃないか。風邪を引くぞ。風呂の湯を入れてやるよ」
 小さくて軽い身体を抱き上げて、部屋に運んでソファに下ろした。自分で自分を抱きしめて、くちびるまで真っ青になって震えているこいつは……誰だろう? 誰だっていい。とにもかくにも風呂に入らせてやろう。俺はバスタブに湯を満たした。
「じきに入れるから風呂場で服を脱いでろ」
 誰だかわからない小柄な人間が、くちびるを引き結んでかぶりを振る。面倒になってきたので再び抱き上げて、風呂場に連れていった。
「風呂に入らないと病気になっちまうんだよ。よーくあったまれ。ほら、もう入れるよ」
「いや」
「どうしていやなんだ? 駄々をこねてると裸にしてバスタブに放り込むぞ。入れ」
「いやだもん」
「おまえは誰だ……今のところは誰だっていいよな。誰でもいいからまずは風呂に入れ」
「お風呂は嫌い」
「嫌いとか好きとかって問題じゃないだろ。入れ。入らないと……」
 手近にあったヘアブラシを取り上げて、ひっぱたくぞ、と脅すと、そいつは口をとがらせてうなずいた。
 トタン屋根でもないのに、調律が狂ってホンキートンクと化したピアノの音色のごとくに、無茶苦茶なリズムの雨音が鳴り響く。ミュージシャンの耳にはこのリズムは毒だ。頭が痛くなってくる。煙草に火をつけて吸い込んでみると、いっそう頭痛がした。
 ひどい味しかしない煙草を灰皿に押しつけて消していると、足音もなく、誰かが部屋に入ってきた。さきほどのあいつだろう。たった今気づいたところによると、バスタオルに包まれたそいつの身体つきは女だ。超小型ではあるが、首も肩も腕も脚も女のものだった。
「子供でもないんだな……おまえは人間じゃないのか? 幸生じゃないよな?」
 幸生の化身、ユキ……まさか。もしもそうだとしたら俺は夢を見ているのだ。完全には覚醒していない俺に、彼女であるらしきものは言った。
「雨が降ってくる前には、公園で男とセックスしてたの」
「……」
「それでね、雨が降ってきて、男はうちに帰っていったんだ。あたしには家はないから、雨宿りしようとしてたんだけど、雨がひどくなってきたからここまで逃げてきた。この部屋のひとは知ってるひとだなって思って、開けて開けてって呼んだら、開けてくれたんだよね。あんたの名前はなんていうの?」
「俺の名前も知らないで、知ってるひと? おまえの名前は? ああ、女性をおまえと呼んではいけないか」
「おまえでいいよ。あたしには名前なんかないの。あんたの名前は?」
「隆也」
 バスタオル一枚では寒いかと、毛布を出してきてやった。名乗ってくれない小さな彼女は、毛布にくるまって俺を見つめた。
「なんだかまだ、俺の意識は朦朧としてるんだよ。夢ではないのか、これは」
「ねえ、隆也さん、毛布なんかよりも抱いて」
「おまえは小さすぎるから、抱くっていっても……俺はそんなにはたくましくないけど、抱いたりしたらこわしてしまいそうだ」
「ベッドで一緒に寝ようよ」
「眠るだけ?」
「うん、隆也さんに抱かれて眠りたい」
 なぜか彼女はたいそう表情が乏しいのだが、大きな瞳にだけ、感情の色が浮かぶ。光の加減か黄金いろにも見える瞳、漆黒の髪、すこしずつ意識がクリアになってくると、小さいながらも美しい女だと思えてきた。
「おまえでいいんだったらおまえと呼ぶけど、家がないってどういう意味? 家出でもしてきたのか。それで男の住まいを渡り歩いてるのか。そんな生活をしていたら、心も身体もすさみ切ってしまうよ。身体を売って食ってるの? 俺の考えすぎで、ただ、遊び歩いてるだけ?」
 笑みにも見えれば他の感情にも見えるなにかが、瞳を横切る。彼女は返事をしてくれない。
 金で女を買っておいて、そんな暮らしをしていてはいけないと説教したがる男がいると聞く。俺は男なのだから、男であるというそれだけで、彼女に説教する資格はないのかもしれない。だから彼女は薄ら笑いを浮かべているのだろうか。
「今夜はここで眠るといいけど、帰る家があるんだったら帰れよ……名前がないはずがないだろ。偽名でもいいから教えて」
「んんとね、じゃあ、ラヴ」
「ラヴ? ラヴ、おいで」
 毛布から抜け出したラヴが俺に全身を預けてくる。小さいなりに均整の取れたプロポーションをしているのだが、彼女が人間ではないと思ってしまうのは、軽すぎるからだ。赤ん坊だってラヴよりは重いだろう。
 綺麗な女なのに、全裸の女を抱えているというのに、俺は反応しない。まだ眠っているからか。夢の中なのか。あるいは、本能が知っているからか。こいつは人間ではないと。
 それでもいいさ。現状はおそらくは夢だ。夢なのだから、可愛い少女の姿をした人ならぬものを抱いて眠るのもいい。抱き上げてベッドに横たえたラヴの隣に寝そべると、腕の中に入ってくる。小さな身体のぬくもりに包まれて、抱いてもらっていたのは俺だったのかもしれなかった。
「腹は減ってないの?」
「さっき、虫を食べたから」
「おまえはゲテモノを食うのか」
 眠りに落ちる寸前にそんな話をしていた気もするのだが、それから俺は眠ったのか。目を覚ますと、俺は黒い猫を抱いてベッドにいた。
「……おまえか?」
 夜の魔法だったのだろうか。夜中に俺の部屋を訪ねてきた女は、夢ではなかったのか。
「猫なんだったら夜中に公園で男と寝たってのも、家がないってのも不思議でもないんだよな。虫を食うのも普通か。風呂嫌いも当然か。化け猫ってのか、半分は夢だったのか。おまえ、どこから入った? 俺が入れてやったのか?」
 ぱっちりと開いた猫の瞳は、黄金の色をしていた。
「化け猫じゃなくて夜の魔法ってことにしておこう。幸生のマンションに行けばよかったのに。けど、あいつの部屋は遠いもんな。ああ、そういえば」
 彼女が俺を知っていると言ったのは、公園で見かけた黒い猫に話しかけたことがあったからだろう。俺はあいつに話しかけるときには、ラヴと呼んでいた。幸生ではないので俺はラヴがオスなのかメスなのかは知らなかったのだが、幸生の感化もあって、猫でも女の子がいいと考えるようになっていたのだった。
「朝メシにしようか。かつおぶしがあったよ」
 パック入りの米飯にかつおぶしを混ぜて、いわゆる猫まんまを作ってやったのだが、ベッドから飛び降りたラヴは匂いだけ嗅いで、前肢で床をひっかいた。
「食いたくないのか。贅沢な奴だな」
 つんっとして窓枠に飛び上がったラヴに、俺は言った。
「虫のほうがいいのか。けどさ、男と寝てばっかりだと子供ができるんだろ。母ひとりで子供たちを育てるってのもさ……人間ごときに心配してもらわなくてもいいって? 人間の男の分際で、猫のレディに説教してる俺は、さぞかしお笑い沙汰だったんだろうな。失礼しました。野良猫のレディは強いんだよな。でも、困ったことがあったら訪ねてこいよ。おまえと同居はできないけど、メシくらいは食わせてやるから。大きなお世話か?」
 もう一度口をきいてほしかったのだが、当然、ラヴは無言だった。窓を開けてやると出ていってしまった。
「魔性の女、魔性の猫、ああいうシーンには猫の美女は……うん、幸生、そうだよな」
 夜が見せた魔法の物語の主人公の美女は、猫でなくてはいけない。それ以外の生き物は似合わない。窓から外を見ると、雨上がりの晴れ渡った空が広がっていた。


2・幸生

 作り話が上手な乾さんのフィクションには臨場感がある。小説を書くと下手なのだが、口で喋るとうまい。乾さんは俺とは同属の口先男なのだから当然なのだ。
「真夜中に美女が訪ねてきたんだよ。黒髪の小柄な美女だった。雨に濡れてたから風呂に入れと言ったら、風呂は嫌いだと言うんだよな。ああまで濡れてたらひどい病気になりそうだから脅迫して入らせたんだけど、脱がせて抱いて一緒に入ればよかったな」
「どうやって脅迫したの?」
「駄々をこねてると裸にしてバスタブへ放り込むぞ。いやだと言い張るとひっぱたくぞってさ」
「乾さんらしくなくワイルドですね。でもさ、俺、ううん、ユキちゃん、ワイルドな乾さんも好き。ユキを無理やり裸にしてお風呂に入れて。隆也さんの部屋に忍んでいったらそうしてくれる?」
 聞こえていないふりをして、乾さんは続けた。
「でな、その美女が風呂から出てきて、抱いてって言うんだ。子供みたいに小さな女だったから、抱くったって最後までは……って躊躇したんだよ。そしたら、隆也さんに抱かれて眠りたいと言った。そういうふうにだったら抱いたよ」
「それって夢の話しですか」
「夢じゃないよ。目覚めたら彼女は俺の腕の中にいた。ほら、あいつ」
「あいつ?」
 ここは乾さんのマンション近くの公園だ。乾さんが指で示した樹の上に、黒い猫がいた。
「夢でしょうが」
「そうだったのかもしれないな」
 実は信じかけていた。
 乾さんはもてるのだから、最近は若いころよりも大人の翳りや渋さも加わって、いっそういい男になって、ダンディさにも磨きがかかっているのだから、若造だった時分以上にもてているはず。これだけもてる男ならば、夜中に美女が訪ねてくるってこともあってもおかしくない。
 現在の乾さんの彼女を俺は知らないが、昔からの累積彼女は何人いるのやら。その女性のうちのひとりが夜中に雨の中をやってきたら、乾さんは風呂に入らせて抱いて眠るだろう。子供みたいに小さな女、と乾さんが言わなかったら、俺は本気で信じていたところだった。
「ラヴっていうんだ」
「野良?」
「彼女が自分で名乗ったんだけど、野良なんだろうな。家はないと言ってたよ」
「名乗ったってね……いいんだけど……ラヴ、ラヴちゃん、猫好きったら俺のほうが乾さんよりもはるかに上だよ。どうして俺んちに来ないの?」
「おまえのマンションは遠いからだろ」
「夢なんだったら距離は関係ないじゃん」
 夢でもいいから猫型美女が抱きたい。小さくて最後まではできないのだったら、愛撫とキスで我慢して抱いて眠るだけでもいい。
 樹の上にいるラヴちゃんを呼んでも、彼女は降りてきてくれなかった。ラヴちゃんは乾さんにも冷ややかな態度だったので、夢でもなくて純粋な作り話だったのかもしれない。けれど、その影響で俺も猫の夢が見たかった。ただの猫ではなく、人間の美女に変身する猫の夢が見たい。
「あれぇ?」
 ふっと気がついたとしか言いようのないシチュエーションで、俺は夜の戸外にいた。あれぇ? と口に出したつもりだったのだが、その声は、にやごっ、だった。
「うにゃご? 俺が猫になってるの?」
 おのれの姿を確認してみると、小型の豹のような精悍な体躯の、しっぽの長い若いオス猫だ。推定年齢四歳ってところか。人間の俺の年齢から逆算すると、猫としたらそんなものだ。計算は苦手だが、猫の年齢だったら即座に暗算できる。
 茶色と黒の縞のオス猫。身体は大きくはないようだが、敏捷そうな筋肉に覆われている。ためしに塀の上に飛び上がったら、一瞬でジャンプできた。
「おー、これは楽しいじゃん」
 猫の美女を抱くのもいいけれど、俺が猫になるってのもわくわくする。塀の上を歩いていくと、行く手に俺を睨んでいる巨大な猫がいた。猫の俺よりもふた回りは大きくて、でっぷりした野良ボスオスか。言葉は通じるのかと話しかけてみた。
「こんばんは、いいお天気ですね」
「おまえはどこから来た? ここはワシの縄張りじゃ」
 人間にはうにゃらごにゃーごとしか聞こえないのだろうが、俺にはボスの言葉は理解できる。ボスにも通じている様子だった。
「いえね、俺は新参者なんですよ。よそから迷い込んできたんです。ボスの子分にしてもらえませんか」
「気に入らんな。よそ者は出ていけ」
「行くところがないんだから、ちょっとだけいさせて下さいよ」
「駄目だ。出ていけ」
 大きな身体の毛を逆立てて、ボスが俺を威嚇している。喧嘩を売られているようだが、こんな奴と闘っても勝ち目はないに決まっているので、俺は逃げ出した。
「どこかに行きますから、怒らないで」
 ふーはー言って興奮しているボスの前から逃げ出して歩いていくと、色っぽい年増美女がいた。むろん猫ではあるのだが、俺も猫なのだから、猫の美女は人間のときにも増して大好きだ。
「俺、ユキっていうんだ。どう?」
 猫はこれだけで口説けて楽でいいよな、と思いつつも、お姉さん、俺と遊ぼうよ、と迫った。彼女もその気であったようだが、耳をぴくつかせて言った。
「あたしを狙ってる奴が来るよ。あいつと喧嘩して勝ったら遊んであげる」
「どんな奴? うげ、でか」
「あんたが小さくて細すぎるんじゃないの? ちゃんと食べてないの?」
「食べてないのかもね」
 ボスの前から逃げて逆方向へと走っていった先に、美女猫がいたのだ。そのむこうからのしのしと歩いてくるのは、ボスよりは小さいものの、大型で太り気味の獰猛そうなオス猫だった。
「負けそうだから逃げるよ」
「そのほうがよさそうだね。じゃあね」
 塀から飛び降りて逃げていって、見つけた柿の木に上っていった。人間社会を高みの見物としゃれこもうとしていたのに、またしても猫があらわれた。またしてもオスだ。
「おまえ、どこから来たんだ?」
「よそ者ですけど、なんにもしてないでしょ。ここにいるだけだったらいいじゃん」
「ここは俺の縄張りだ。出ていけ」
「仲良くここにいましょうよ」
「やるのか、てめぇ?」
「やりません……はい、ごめんなさい」
 猫のオスはちっとも楽ではない。知ってはいたが痛感して、柿の木からその家の庭に飛び降りようとしていたら、人間が顔を出した。
「そこの猫ども、やかましいっ!!」
 どこかのじいさんに怒鳴られて、水をかけられた。はずみで柿の木から落ちそうになって、必死になって走って逃げた。
 ここは俺のマンションの近くの住宅街か。俺はマンションの部屋で眠っていて夢を見ているのか。猫になる前の記憶が抜け落ちているのだが、たぶんそうだったはずだ。猫には持久力がないので、喧嘩を売られたり美女を口説こうとしたり、逃げたり木登りしたりして疲れてきた。
 そろそろ目が覚めないだろうか。DVDで映画を見ているように、続きはまた今度、ってできたらいいのにな。そう考えながらも別の塀に飛び上がって歩いていると、またまたまたまた猫に出くわした。人間でいればこんなに猫には会わない。この街にこうも猫がいるとも知らなかった。
 夢だからなのか、猫同士だからキャッチするのか。今度の猫もオスで、牙を剥いて俺を睨みつけている。こいつは小型だ。猫のオスになったのだから、俺も喧嘩でもしてみようかとその気になったのが悪かった。
 ただでさえ持久力が不足してきているところへもってきて、急造オス猫は喧嘩の経験がまったくない。飛びかかったら押さえ込まれて、首筋を噛まれて塀の上から落っこちた。
「うぎゃおーっ!!」
「うわーっと。なんだなんだっ!! 猫?」
「ほぎゃにゃご?」
 この声は……章? 俺は章の腕の中へと墜落したのだが、章は厭わしいものでも振り払うように、俺を道に放り投げた。
「まあね、でもね、おまえのおかげで助かったよ」
「……んん? 幸生? 猫じゃなかったのか? 猫だったはず……錯覚か。猫が空から降ってきて、幸生に変身した? ちがうよな。猫と幸生は別だよ。なにやってんだよ、こんなところでおまえはよぉ」
「……んん?」
「なにをすっとぼけてんだよ」
 二度目にふっと気がついた。俺は人間の幸生に戻っていたのだった。
「章……こんなところでナンパでもしてるのか」
「猫だったらナンパには最適かもしれないけど、俺は人間だから夜中の住宅街でナンパなんかしねえんだよ。おまえんちに遊びにいこうとして、そこのコンビニでビールを買って、近いから歩いていくつもりだったんだ」
 夢ではなかったのか。すると、乾さんの経験も実体験? 夜が見せた魔法だと乾さんは言っていたけれど、俺のも同じだったのだろうか。
 なんにしたって、章のおかげであの猫に重傷を負わされるのは免れた。このあたりは猫ナンパには最適な場所だとも知れたから、猫美女を探しがてらに近いうちに散歩にこよう。人間でいても猫美女に会えるだろうし、猫のオスは人間のオスには喧嘩は売ってこないだろうし。
「幸生、首筋に噛み跡みたいのが……」
 章が言って、俺の襟足を覗き込んだ。さっき、猫に噛まれた跡? やはりあれは夢ではなかった?そう思うと、首筋が痛いというよりもそくそくっとしたのだが、猫がらみの魔術は俺は大好きなのだから、こんなこともあってもいいさ、の気分だった。


3・章

 かつて俺は、生まれ変わるのならば女がいいと考えたことがある。女の人生のほうがお気楽でふわふわっとしていられそうだ。ただし、美人でなきゃあ楽しくないだろう、だった。
 あれから俺も大人になって、考えを変えた。男でも女でも人生は過酷なのだ。女のほうが楽だと思っていたのは、男の傲慢ってやつだったのかもしれない。男女差別的発言をすると怒る、美江子さんが身近にいるのもあって、後世も男に生まれたい。
 前世だの後世だのを想像して深刻になる趣味はないけれど、あったとしたら、生まれ変われるのだとしたら、とは考えてみる。木村章として三十年余りを生きてきた俺は、次の世ではロッカーになりたいとしか思えないけれど、まっさらの別人だったら、俺はどんな夢を描くのだろうか。
「章さん、酔ったの? 寝ちゃったらやだ」
「いや、ちょっとは酔ったけど寝てないよ。俺は酒には強いんだから、飲んだって簡単には寝ないぜ。おまえだって知ってるだろ」
「知ってる。お酒にも強くて力も強い章さんが好きなんだもの。ね、抱っこ」
「言わなくてもベッドに抱いていってやるよ」
 しなだれかかってくる小柄な女を抱き上げると、酒の匂いがした。
「おまえだと酒の匂いもいい香りに感じるけど、風呂に入ろうか」
「一緒に?」
「いやか」
「恥ずかしいからやだ」
「恥ずかしがってるのも可愛いな。入ろうぜ」
 うん、と可憐に頬を染めてうなずく女を抱いて、風呂場に運んでいった。
「あたしのほうこそ酔っちゃったよ。もうひとりではなーんにもできないの。章さんがしてくれるよね」
「こうか?」
「うふっ、くすぐったーい」
 身をよじってくすぐったがっている女をこちょこちょいじくったりしながらも、服を脱がせた。先に女を裸にしてから俺も脱いでいると、背中から抱きついてきて乳首を引っ張ったりしていたずらする。女の手が下のほうにまで伸びてきたので、俺は低い声で言った。
「こら、はしたない。やめろ」
「やーん。怒ったらいやぁ」
「怒ってはいないけど、どうせだったら俺がさ……」
「あんあん、やんやん」
 抱きすくめようとしたら逃げ出した女が、鏡の前に立った。
「章さんも来て。あたしの後ろに立って」
「こうすんのか」
 鏡に映る女は小さくてほっそりしている。俺のでかい手でだったらぽきっと折ってしまえそうな華奢な首、小さな肩や細い細いウェスト、小柄なわりには長い脚もほっそりすんなりしていて、それでいて乳房はたわわに実っていた。
「すっげえプロポーションいいんだよな。ここも……」
「やだってば」
 ウェストを持ち上げてうしろを向かせると、細い背中から続いていく盛り上がった尻がまた、とびきりの色気に満ち溢れていた。
「小さいくせに胸もケツもでか目でさ、そういうのがまた……我慢できない。さっさとシャワーを浴びてベッドに行こう」
「お風呂場で抱いてくれたっていいんだよ」
「風呂場でってのも刺激的だな。うんうん、それもいいかも」
 ちょっとばかり卑猥なやりとりなどしながらシャワーを浴びて、女を優しく押し倒す。風呂場でもベッドでやることをやって、抱っこ抱っことねだる女をベッドに運んでいって、もう一度激しく抱いた。
「章さんってそっちも強いよね。こんなに背が高くて、手だって大きいし、胸も広いの。肩もたくまいの。ここだって……きゃああ」
「はしたない女は嫌いだよ。慎ましくしろ」
「あん、ごめんなさい」
 油断していると変なところに伸ばそうとする女の手を持ち上げて、指を一本ずつ口に含む。それだけで淫蕩な表情になってとろけていく女を、三度目に抱いた。
「うーん、満足すぎて、あたし、起き上がれない」
「このまんまで寝よう」
「腕枕してくれる?」
「いいよ。俺の胸でおやすみ」
「うん、章さん、愛してる」
 子守歌がわりに「僕の胸でおやすみ」という歌を歌ってやった。

「きみの笑顔のむこうにある悲しみは
 僕の届かないところにあるものなのか
 ふたりで歩いてきた道なのになんて寂しい
 古いコートは捨てて
 僕の胸でおやすみ」

 優しくて激しくて、強くて凛々しい章さんが好き、好き好き好き、寝言みたいに女が言っている。俺は女のやわらかな髪を撫でた。
「俺もおまえを愛してるよ。今度こそ、俺は本当に愛せる女を見つけたんだよな」
 ぱちっと目を開いた女が言った。
「今度こそって? 前にもいたの?」
「いたさ。俺はこの顔でこのボディのロッカーなんだから、もてるに決まってるだろ。もてもてにもてて困ってたんだよ。おまえにだって前にも男はいたんだろうが」
「いないよ。あたしにとっては章さんがはじめてのひとなのに、悔しい」
「はじめて? 嘘だろ」
 嘘でもそう言ってくれるのは嬉しくて、俺は女の耳元で囁いた。
「俺には何人もいたけど、みんな捨てたよ。おまえが最後の女だ」
「最初で最後の女がいいの」
「最初ってのは遠い昔だし、他の女もみんな昔話だよ。おまえ、やきもち妬きなんだな。そんなところも可愛いけど、怒るな。今はおまえだけだよ」
「やだ、怒るもん。噛みつきたい。ひっかきたい」
「やめろって」
 じゃれているときだったら強気な態度も取れたのだが、こうなってくると俺は防御体勢になってしまう。やめろやめろやめろーっ、と叫ぶしかない俺に、女が攻撃をしかけてくる。猫みたいなとがった爪や牙に怪我をさせられそうで、俺は力いっぱい女の身体をはねのけた。
「う……あ……力、入れすぎた?」
 でかくて力の強い俺が全力を出したものだから、女がベッドからころがり落ちた。小さな女は俺を見上げ、うわーんっと声を上げて泣き出す。まずったな、とは思っていたのだが、俺は言った。
「おまえが噛んだりひっかいたりするからだろ。おまえが悪いんだ。俺は正当防衛しただけだよ。おまえが悪いんだからそこで泣いて反省してろ」
「章さんなんか嫌い」
「嫌いでけっこうだよ」
 ベッドに腹ばいになって煙草に火をつける。女はしばししくしくやっていたので、どうやって仲直りしようかなぁ、と考えていたのだ。なのに突然、背中がかーっと熱くなった。
「な、なにしやがるんだよっ!!」
 背中に炎が見える。女がライターの火で俺の背中を炙っている。俺は大慌てでベッドから飛び降りた。
「ライターなんか使って、火事になったらどうするんだっ。この馬鹿っ!!」
「章さんが悪いんだよっ!!」
「背中……火傷したぞ。いてぇ……」
 どうしてやろうか、この馬鹿女を、と睨みつけていると、窓辺で物音がした。鍵をかけていなかったのか、覆面の男が窓から入ってくる。女が俺の背中に回ってくる。俺は背中にしがみついている女をかばうよりも、恐ろしさが先に立って叫んだ。
「金だったらやるから持っていけよ。この女がほしい? 連れていってもいいぜ」
「へええ。女も裸か。こっちに来いよ」
「やっ、やだっ。章さん……ひどい。あたしを……あたしを……守ってくれないの?」
「俺の背中に火傷させるような女は、最後の女だなんて言ったのは取り消すよ。そいつとどこかに行っちまえ」
「そこまで……そんなに怒って……」
「ああ、俺は怒ったんだ。おまえなんか大嫌いだ」
 いやらしい笑いを浮かべて、俺の背中から女を引っ張り出す男。女の悲鳴。これでいいのか、章?これ以外になにができる? 殺されるのはいやだ。女を犠牲にしてもいいから、俺は泥棒に殺されたくなかった。
「章、寝たのか?」
「寝てなんか……俺は酒には強いんだし……」
「強くないじゃん。寝るんだったらソファででも寝ろよ。酔っ払いのおまえは自宅に帰るよりも、うちに泊めてやったほうがいいもんな。時間になったら起こしてやるよ」
「え? 幸生?」
「そうだけど、他に誰かいた?」
 眠っていたのか。夢を見ていたのか。にしてはあまりにも細部が鮮やかだった。
 幸生と飲んでいて、後世はどんな男に生まれたい、といった話もしていた。幸生も俺も外見的には、長身で力の強い男がいい、顔もよければさらにいい、との意見の一致を見ていた。
 美貌だからって男はそれほどよくもないよ、と言いたかったのだが、言うと幸生がひがむ。おまえは今でも顔はいいんだもんな、と言われたくないので言わなかった。顔だけはいい、と言われても嬉しくないし、三十すぎたら顔立ちも老けてきて、とも言いたくなかった。
 そんな会話や想像のせいで、変な夢を見たのか。さきほどは俺の腕の中に落ちてきた猫と幸生が同一に見えて、頭がおかしくなりそうだったせいもあるのか。
 実際には俺は幸生の部屋にいて、ここには幸生しかいないのだから、夢だったのだと解釈しておくしかない。一部は俺の願望が形になっていた。小柄で色っぽくて可愛い女が、俺のかたわらにいてくれた。
 女が暴力的だったのは、俺には過去にはそんな女しかいなかったから、他のタイプは想像しにくいからだったのだろう。喧嘩も楽しくなくはなかった。
 そして俺は、章さんって大きい、章さんって強い、と女に言ってもらえる男で、そこは俺の理想だ。小柄な女だったら俺にだって抱き上げられるはずだが、失敗したらみっともないので、俺は女を抱いてベッドに運んだことはない。一度はやってみたかったのだ。 
 けれど、性格は俺のまんまではなかったか。それではなんの意味もないではないか。性格も強くなりたい。女を強盗の犠牲にするなんて、怒っていたとしても、現実の俺だってやらない。そうまでして生き延びたくはない。
 まあ、夢は夢なのだから、深く悩んでも仕方がない。だが、なによりも、女の名前がユキではなくてよかった。あいつが幸生の女性形のユキでなくてよかった。たとえ夢であってもそれだけは、俺は強く激しく安堵していたのだった。


4・繁之

 夜中にマンションに訪ねてきた美女。これが乾さん。
 オス猫になって夜中の住宅街で冒険の旅をしてきた。これが幸生。
 背の高い強い男になって、色気のある美人と一夜をすごした。これが章。
 フォレストシンガーズの中では乾さんが妄想上手ナンバーワンで、幸生は嘘話上手ナンバーワンだ。章も乾さんと幸生にそうは負けていない。
 夢なのか妄想なのか、乾さんに言わせると「夜が見せた魔法」だとなるこんな経験は、想像力豊かな人間にしか不可能なのか。もしくは、独身でないと経験できないのか。本橋さんと俺はいずれもがあてはまらないので、そんな楽しい夢も見られないのか。
 結婚していたって、夢でだったら俺もそんな経験をしてみたい。照れ屋のシゲではなく、美女を前にしても動じない男になって、夢で浮気だったらしてみたかった。
「おまえらさぁ、それって全部を話したのか? 男の妄想ってのはもっとこう、生々しいってのか……きれいごとだけ話したんじゃねえのか」
 スタジオで雑談していたらまず章が言い出し、俺も俺もと幸生も話し、俺のはこんなだったよ、と乾さんも言ったのだった。本橋さんの言ももっともだとは思えるが、俺は生々しい話よりは、綺麗な空想話のほうが好きだ。
「全部は話してないにしても、おまえらってやっぱり小さい女が好きなんだな。幸生と章はそうなんだろうけど、乾はどうしてだよ?」
「章と俺はそうだって、リーダー、その意味は?」
 幸生が言い、本橋さんは知らん顔をし、乾さんは言った。
「小柄な女が好きだってのは、男の力をたやすく誇示できるからって説もあるよな。俺は誇示するほどの力は持ってないけど、軽々と抱き上げられる小柄な女性、俺のこの微々たる腕力でふわりと優しく抱き上げて、愛してるよ、って囁いて、ベッドに運んでいける女。そういうのは好きだよ。小さくて力のない女が弱々しく抵抗してるのをとどめて、裸にして風呂にさらっていきたいって願望もあるよ」
「それはレイプ願望とは……」
「本橋、そこまで極論に走るな。絶対にいやだと言う女に無理強いなんかしない。絶対にいやなのか、いやではないけど恥ずかしいのか、焦らしてみせているだけなのか、そういう区別はできるようになってるだろ。おまえだって大人になったんだからさ」
「うーん、できてるんだろうか」
 まーたこうやって俺にはむずかしすぎる話題に進んでいっている。俺はそろそろっと逃げようとしていたのだが、幸生が言った。
「リーダーは結婚してるんだから、奥さんのそんな気持ちはわかるんですよね。奥さんだって絶対にいやだって構えを見せてるときに、無理に抱くのはレイプだそうですよ」
「えっ、そうなのか?」
「知らないんですか。そうなんですよ」
 えええ、そうなのか、と俺は思ったのだが、乾さんと幸生はうなずいている。本橋さんと章は目を宙にさまよわせている。いや、しかし、俺は恭子がいやだと言ったらしない……俺の思考は恭子にしか行かないので、言うのはやめておいた。
「結婚しちまった男には縁のなくなった話なんだろうけどさ」
 いささか意地の悪い微笑を見せて、乾さんが言った。
「愛してるよ、いいだろ、きみを抱きたいんだ、ベッドに行こう、いいだろ、いやじゃないよね、こうしていい? ってさ、言葉と態度で彼女の恥じらいやためらいをほぐしていく。甘く優しく囁いたり、指先やてのひらや男の力やらで、女をその気にさせていくんだよ。キスと言葉とこの腕と手で、女を崩れさせる。いいわ、って言わせてみせる。それもまた楽しいベッドの前のひとときだろ。な、独身のおふたりさん?」
「いやーん、ユキちゃんにもそうして、隆也さーん」
「うーん、まあ、そうなのかな」
 この発言はどちらがどちらだか言うまでもないだろうが、本橋さんはぶすっとして、なにやら考えているのか。俺としては苦手な話題なので黙って聞いていると、乾さんが続きを言った。
「俺の妄想の中の美女は小さすぎたんだ。プロポーションは大人の女性だったけど、そもそもが猫なんだからさ。章の美女はどんなだった?」
「小さすぎはしませんでしたよ。俺の好みの小柄な美女で、胸とケツはこうでこうで……脚も綺麗だったな。俺は細身の女が好きだけど、まっすぐに細いんじゃなくて、あるべきところには肉づきがいいってのが最高じゃん。うん、俺の理想にぴったりだった。あんな女が現実に俺の彼女に……ううう、鼻血が出そうだ」
「章、興奮するなよ。俺の妄想に出てきた美女だって、最高に素敵だったもんね」
 幸生も言った。
「あれは熟女なんですね。男なんてものをすべて知り尽くした魔性の美女ですよ。白っぽいファーをまとってるの。フェイクファーじゃないよ。天然のふわふわの毛皮。瞳は緑だったかな。ほっそりはしてなかったけど、猫の美女は豊満なほうがいいんですよ」
「……猫の話しなんかしてねえだろ」
 章が言い、幸生は章の脚を蹴った。
「俺はしてるんだもーん。だけどさ、俺も猫美女よりも人間美女がいいよ。今度章のその子に会ったら、俺にも紹介してね。その子、なんて名前?」
「名前は聞いてないんだよ。おまえとしか呼んでなかったんだ。でも、そのほうがいいんだ。名前を聞いてもしも……だったら……そこでいっぺんに萎えるだろ」
「萎えるねぇ。なんで?」
「なんででもだ。どうしてでもだ」
 なんでなんで、どうしてどうして? と幸生は章にしつこく尋ね、蹴飛ばし合いがはじまった。乾さんはけっこう色っぽい話をしていたというのに澄まし顔をしていて、本橋さんは辟易したように言った。
「仕事中にこんな話は不謹慎だろ。こら、幸生も章も取っ組み合いすんなよ。乾、おまえも真面目にやれ」
「仕事は真面目にやるけどさ、既婚者は不自由だね。妄想話でさえも、奥方の耳に入ったらどうしよう、ってか? 俺も当分は結婚なんかしないでおこう」
「したくても相手がいないんだろうが。それを負け惜しみと言うんだよ」
 先輩たちまでが舌戦をはじめ、俺ははじき出された。
 会話の内容はともかく、こうやって五人で雑談をしていると、俺は楽しい。個別の仕事もいいけれど、五人でそろってやる仕事が一番。その仕事の合間には、昔ながらの話題が出てくる。若いころとは多少は変わってきたとはいえ、変わっていないところもある。五人の性格なんかはほとんど変わっていないのだから。
「こいつらの妄想ってのか、夢なんだろうけどさ、シゲもそんな夢は見るのか?」
 本橋さんに訊かれ、俺は正直に答えた。
「夢は見ますけど、色っぽい夢ってのは見ないかな。見たとしても忘れますよ」
「現実でセクシーなシーンもやれるんだから、やっぱいいな、既婚者は……ってーかさ、ただひとりの女よりは……うわうわ、これ以上は言わないでおこうっと」
 言いかけた幸生は、乾さんに耳を引っ張られて途中でやめた。ただひとりの女ではなく、何人もの女とそんなふうにしていたいのか、妄想でも夢でもなく、現実でもか。
 乾さんにも章にも幸生にも、現実でもできなくはないのだろう。本橋さんだって独身だったとしたら、そうできる。俺は独身だったとしてもできないのだし、したくもないのだし……ってのは負け惜しみにしても、夢でだったらやってみたいな、とは思っていた。
 仕事が終わって家に帰ると、俺には俺なりの楽しい家庭生活が待っている。広大を風呂に入れるのは俺の楽しみだ。美女と風呂でいちゃつくなんてのも、夢でだったらやってみたいけれど、息子を入浴させるのは現実的に楽しいのだ。
「なあ、広大」
 湯船に赤ん坊の息子と漬かりながら、恭子には聞こえないように言ってみた。
「俺は女のひとと一緒に風呂に入ったことなんかないぞ。おまえのママとだったらなくもないけど、恥ずかしくってさ……いや、おまえも大きくなったらわかるだろうけど、男ってのはな……うん、だからさ、俺は恥ずかしかったんだよ。恥ずかしいから恭子と一緒に入浴するのも避けたいんだよ。これって変なのかな。なんで他のみんなは、女のひとを風呂場にさらっていきたいなんて言うんだろ。本橋さんもしたいのかな」
 本橋さんだと……と想像しそうになって、慌てて止めた。
「駄目だ。失礼な想像なんかしたら駄目だよ。そうだよな、広大。それでさ、おまえも大きくなったら……おまえは俺の息子なんだから、性格も俺に似るのかな。けど、可愛い彼女ができて、そのひとと旅行して、一緒に風呂に入ったりなんて……ママには内緒にしておいたほうがいいのかもしれないけど、俺には言えよ。彼女ができたら紹介してくれよ」
 気の早すぎる話をしても、広大には通じていないのだろうか。赤ん坊だと猫以上に日本語は通じないのか。広大はちっちゃなちっちゃな手で俺の顔をいじっている。愛しさがこみあげるとはこんな感情なのか。俺は息子をぎゅっと抱きしめた。
 力が入りすぎたようで、広大が大声で泣き出す。泣いている息子をあやしつつ、俺は思う。俺にはこっちのほうが合っている。妄想美女よりも現実の息子がいい。
「恭子、助けてくれよ。泣き止まないよ」
 泣いている息子を持て余して妻を呼ぶと、バスタオルを手にした恭子が風呂場のドアを開けた。
「はーい、広大、ママのところにいらっしゃい。寝かしつけてくるから、あとでね」
「うん、頼むよ」
 広大を抱いた恭子が出ていき、俺はひとりでゆっくり入浴をすませた。
 風呂から上がると息子はすでに眠っていて、ビールを持って恭子とベランダに出た。今夜は月が美しくて、俺にとってだけは最高の美女である妻も美しく見えた。
「月あかりの下の恭子は……」
「どうしたの? 美人だって?」
「……いや……あのさ……」
「言わなくてもいいよ。ビールを飲んだらベッドに行く?」
「あ、ああ、うん。恭子、抱いていってもいいか」
「ベッドに?」
 きゃははっと笑ってから、恭子はにっこりうなずいた。可愛くて可愛くて、息子に対する感情とは別種の愛しさがこみあげてくる。恭子がかぐや姫よりも美しく見えるのも、こんなふうに言いたくなったのも、夜の魔術だったのだろうか。
「恭子は俺のかぐや姫だよ。かぐや姫は月に帰っていくんだけど、きみはずっと俺のそばにいてくれるんだよな」
 そっと優しく抱き上げると、恭子は俺の肩に頬を預けた。
「シゲちゃん、死ぬまで一緒にいようね」
「うん、恭子……」
 愛してるよ、と心の中で言って、恭子にキスした。現実にも夜の魔術はある。今夜は常にも増して美しく見える俺の妻。俺にとっては現実のこの魔術のほうが、妄想や夢よりもはるかにはるかに素敵に思えた。

END
 
 



 
 

 
スポンサーサイト


  • 【小説181(サヨナラホームラン)】へ
  • 【小説182(思えば遠くへ来たもんだ)】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

追加(ろうそくにコメントしたので)

かぐや姫のうたですよね~
正やんが歌ってた~
この歌、めちゃくちゃ好きでした(^^)v

歌?

「夜の魔術」って歌があるのかと思ったけど、「僕の胸でおやすみ」ですね。
夏川りみと佐藤竹善のカバーバージョンなんかもありますよ。
私もこの歌、好き。

あっちにもこっちにも、
コメントありがとうv-22
管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【小説181(サヨナラホームラン)】へ
  • 【小説182(思えば遠くへ来たもんだ)】へ