novel

小説179(群青)

 ←小説178(壊れかけのRADIO) →小説180(そばにおいで)
imagesCAWNTT1B.jpg

フォレストシンガーズストーリィ179

「群青」


1・真次郎

 へなちょこ軟弱青びょうたん、そうではないのは知っているが、乾の見た目はまさしくその通り。蹴飛ばしたら折れそうな細い脚をしているので、隙を見ては脚でつついてころばせてやりたくなって、実行に移すとかわされる。
 顔立ちは美しくはないが、しょうゆ顔とでもいうのか。薄い顔をしている。頭か顔を殴ってやりたくなるのも常で、蹴飛ばし合ったり殴り合ったりしながら友達と道を歩いていた小学生当時を思い出すのだが、ガキ心ばかりではない。乾の口のせいだ。
 怒りの沸点というものがあると、感覚的には昔から知っていた。乾と知り合って以来、彼と俺の怒りは、種類から動機から沸点から、なにからなにまでかなりの差があると切実に実感するようになった。今日も合唱部室のドアに手をかけると、乾が静かに、かつ、底知れぬ力を込めた声で言っているのが聞こえてきた。
「俺におっしゃっているのではないのは知っています。俺が口出しするのも筋が通っていないとも知ってはいます。でも、言わせていただきたいんです」
 この口調からすると相手は先輩だろう。俺は部室には入っていかず、中が見える窓の外に立った。はたして、男子部室には三年生と四年生の先輩ばかりが数名いて、乾が向き合っているのは四年生の森下さんだった。
 キャプテン金子さんはいないようだが、副キャプテンの皆実さんがいる。三年生の渡辺さんもいる。その他の数人は、乾と森下さんと渡辺さんを遠巻きにして眺めている。当事者は森下、渡辺両名か。そこに乾がいらぬ口出しをしているのか。
「軽いからかいの言葉として、おまえは女みたいだな、ってのはいいのかもしれませんよ。俺も本橋にはよく言われます。女みたいに勘が鋭いってのは褒めてるのかどうか、微妙ですけど、同い年の本橋に言われるんですし、あいつは悪い意味でだって男でしかないんだから、俺は平気ですよ」
 なんだってそこに俺を引き合いに出すんだ、とは思ったが、おまえは女みたいだな、は事実、乾に言っているのだから、仕方がないのだった。
「けれど、森下さんが渡辺さんにおっしゃったのは、軽い揶揄には聞こえませんでした。男だろ、しっかりしろ、は男子部では頻々と飛び交っている言葉ですし、男同士の激励の意味なんですから、悪いことではないと思いますよ。そればっかり言ってるのはちょっと……と俺は感じてるんですけど、別問題ですからね」
 早く結論を言え。俺にはそれではさっぱりわかんねえぞ、と、立ち聞きしている俺はじれったかった。
「下品な言い回しもありましたけど、まあ、男同士なんですし、女性はいなかったんだからいいんですよね。それにしたって、先ほどの森下さんの暴言は渡辺さんに対して……」
「いいんだよ、乾」
 森下さんが渡辺さんに向かって、暴言を吐いた。それによって乾が先輩に意見している。乾を止めようとしているのは渡辺さんだ。俺はそれだけは納得したのだが、なにがどうなってこうなったのかはわからない。
 いいんだよ、僕は平気だ、と渡辺さんは言っていて、森下さんは無言で立っている。森下さんの目は凶暴な光を帯びて乾をねめつけている。
 昔ほどには男子部は野蛮ではなくなったと言われているが、馬鹿野郎だのぼかっだのは変わらず横行している。俺たちが入部したのは一年前だから、昔なんてのは知らないが、今年卒業した星さんなどから昔話も聞かせてもらった。
「馬鹿野郎、本橋、こらっ!!」
 そんなふうに先輩に怒られて、頭をぼかっとやられたり、走ってこーい、と命令されたりは、俺の場合はしょっちゅうだった。俺はうだうだと言われるよりも殴られるほうがいい。兄貴たちの荒々しい教育でこう育ってしまった。
 ばあちゃんっ子の乾にしても、殴られてもどうってことはないらしいのは、ばあちゃんもけっこう孫を殴ったからか。ガキなんてものはそうやって育てられたほうがいいのだと、今では俺もそう思っている。
 それはいいのだが、森下さんはガラのよくないほうだ。おまえもだろ、と乾に言われそうな気もするが、俺はどうしたらいいのだろうか。わけもわからず中に入っていったとしても、俺では上手に言えない。むしろ森下さんを怒らせてしまいそうだ。
 どうしようかと考えていると、ドアが開いて皆実さんが外に出てきた。副キャプテンなのだから場をおさめないといけないであろうに、出てくるとはなぜだ? 俺が見つめていると、皆実さんは視線で俺を呼んだ。
「なにが……なにかあったんですよね」
「うん。歩こうか」
「放置していいんですか」
「放置したら乾の身が危険なのか」
 逆に問い返されて言葉に詰まり、俺は皆実さんのあとから歩き出した。
「渡辺は冷静な奴だし、他にも人間はいただろ。あの状況で森下だって、乾を殴りつけたりはしないよ。理不尽な怒りを向けられたとしたら、乾だって立ち向かうだろ。おまえは乾をへなちょこだって言うけど、見誤ってるぞ」
「……ですから、なにがあったんですか」
 皆実さんが話してくれた。
「なにが発端なのかは知らないんだけど、森下が渡辺に言ってたんだよ。おまえは女かよ、そしたら女子部に行けよ、ついてんのかよ、ちょん切ってやろうか、などなどと」
「……はあ」
「などなどと言って、森下は渡辺の股間に手を伸ばした。渡辺は下級生だし、おとなしい奴だから反抗しにくかったようで、いえ、あの、その、とか言ってたんだ」
「そこに乾が口出ししたんですね」
「乾が言わなかったら俺が言ってたんだろうけど、言い方はちがっただろうな」
 乾はこう言ったのだそうだ。
「女性は男よりも劣るんですか。森下さんの言い方だとそう聞こえましたよ。おまえみたいな奴は女以下だよな、ともおっしゃいましたよね。取り消して下さい」
 そのように言ったのだと話してくれてから、皆実さんは言った。
「俺だったらああは言わないよ。おまえもだろ」
「言わないでしょうね」
「俺も一年や二年の年に、先輩に反抗して殴られたことはあるよ。俺もあのときは……自分のことじゃないことで怒ったんだよな。俺はむかっとして先輩に言い返したんだけど、乾は激してなかっただろ。二年生が四年生にあの態度で挑んでるんだ。俺にはできなかったかな」
「俺も先に怒りそうですよ」
 怒らなかったとしても、俺には乾のような理路整然とした反抗はできない。渡辺さんがなにを言ったりしたりしたのかは知らないが、ことによっては、本当にあんたは女みたいだな、と思ってしまいそうだった。
「乾はいずれはおまえとふたりして、合唱部を背負って立つんだろ。そのころには乾の口の熟練度も上がってるだろうから、そっちはまかせておけばいい。たった今の部室の状態も、乾がおさめるよ。徳永って奴もいるけど、あいつにだって乾は口で勝てるだろ。ところで、本橋」
「はい」
「この間、聞こえてたぞ」
「……なにをでしょうか」
「山田さんと喧嘩してただろ。彼女が怒って行ってしまってから、あの野郎、この次はぶっ飛ばす、って言ってただろ。おまえも乾の爪の垢を煎じて飲め」
「古くありません?」
「古くったってなんだっていいんだよ。馬鹿野郎」
 なにを叱られているのかは、詳しく言ってもらわなくてもわかる。皆実さんは俺の頭をごちんとやってから、じゃあな、と爽やかに言って歩いていった。
 山田美江子と喧嘩なんてのは、友達になってから数え切れないほどやっている。あいつも口は乾に張り合うほどに達者なので、俺は山田と話しているとすぐに怒りたくなる。山田も怒りっぽいのでふたつの怒りが増幅するとでもいうのか。
 互いに怒って罵り合って、言葉数や語彙では俺が負けるので、手が出そうになる。実際には殴らないが、殴ってやろうかと思ったことは何度もある。皆実さんに見られていた喧嘩……考えたら思い出した。
 あのときは俺は部室の外のベンチで、ゲーム機でアクションゲームをやっていたのだ。熱中していたら山田がやってきて、私もやりたいよぉ、と言う。待て、いいところなんだから……うわっ、ゲームオーバー!! おまえのせいだぞっ、となったのだ。
「ゲームぐらいでそんなに怒るなんて、本橋くんは気持ちがちっちゃいんだよね」
「初の全ステージクリアだったのに、おまえのせいで……」
「あやまったらいいんでしょ。ごめんねっ」
 その詫びの言葉がイヤミたっぷりの調子で、走っていってしまった山田の後姿に、あの野郎、この次に会ったらぶっ飛ばす、と呟いていた。そこを皆実さんに目撃されていたのか。痛恨の至りだ。しかし、あれは山田が悪い。
 それにしても、なんたるガキの喧嘩だろうか。乾とは次元がちがいすぎる。思い出してがっくりきそうになって、部室にいる乾をも思い出したので、引き返していった。
「女ってのは男以下の生き物だろ」
 森下さんが言っている。乾の声も聞こえた。
「森下さんはそういった種類の女性としか出会ってないんですか。不幸ですね」
「……いや……そうでもないけど……」
「そんな思想では、いつか女性にがつんとしっぺ返しを食らわされますよ。そうしてもらったほうが、森下さんには幸いかもしれませんね」
「乾、おまえって奴は……わかったよ。渡辺、ごめんな」
「いえ……」
 渡辺さんの声も聞こえ、足音が聞こえる。森下さんが出てくるつもりなのだろうから、俺は行かないほうがいい。ドアが開いて出てきた森下さんの顔を見たら、怒っているというよりも、参ったな、と言いたげな苦笑を浮かべていて、俺もひとまず安心したのだった。


2・大河

 寄生虫を研究しているのだから、就職すると言っても職種はきわめて限られる。僕は就職はしないで、大学に残って寄生虫研究に生涯を賭けるつもりだった。
「タイガーのライフワークなのね。がんばって」
「富子さんは就職するんですよね」
「決まったよ。たぶんタイガーとは……しようがないよね」
 それが僕の学生時代の恋人だった、富子さんとの別れだった。
「そっかー。別れたか」
 大学四年生が三人、徳永渉をはさんでの友達と言っていいのか。渉と喜多晴海さんと僕の三人で、大学の外の紅茶専門店で話していた。十七歳の年に祖国に帰ってきたけれど、僕はどこかしらイングリッシュマン、コーヒーよりも紅茶が好きだ。
 別れたか、と言ったのは晴海さんで、切なそうに僕を見る。晴海さんはどこかしらボーイッシュな女性なのだが、男っぽくふるまうのはポーズなのか。中身は女性らしい、とは、このたぐいの女性に言うと気を悪くするのか。
「おまえは富子さんとは寝たのか」
「……渉、女性の前でその話題は……」
「晴海なんてのは女じゃねえんだから、気にしなくていいんだよ。そうだろ、晴海? タイガーが誰と寝ようとなにをしようと、そんな話題はへっちゃらだよな」
「私はへっちゃらだけど、タイガーが気にしてるんじゃない?」
「僕はそんな話はしたくありません」
「格好つけんなって」
 渉は言ったが、僕は口を閉ざした。
 make loveは結婚している男女のすること。僕とてそこまで昔気質の考えは持っていない。富子さんとは二年以上も恋人同士だったのだから、ベッドにも入った。僕のたったひとりの、そこまで到達した仲の女性だった。
 けれど、そんな話は男同士でだってしたくない。渉はこういったところは無頓着だが、口を閉ざせばしつこく尋ねたりはしない。気を遣ってくれているようで、晴海さんが別の話題を持ち出した。
「私は就職は決まったよ。タイガーは知らなかったかな。徳永も会ったことはないんだけど、友達の小倉花蓮って子のお父さんの会社、ここまで言ったらタイガーもどこの会社だかわかる?」
「小倉さんでしたら小倉物産ですか」
「そうそう。小倉物産の海外部門だね」
 晴海さんも渉も中国語専攻だ。晴海さんは自身の専門分野を活かせる職業に就く。僕は晴海さんを祝福し、晴海さんは言った。
「花蓮のコネで入れてもらったんだけど、入社したらコネなんて関係なくなるよね。コネがなかったらこんな奴、うちには入れなかっただろ、なんて言われないようにしなくちゃ。徳永もがんばれよ」
「言われなくてもがんばるってか、がんばったからってどうなるものでもないってか……けど、ま、がんばるさ」
 渉は歌手志望だとは知っている。一般企業への就職も望み通りにはならないのかもしれないが、より以上にきびしい難関なのだろうとは、世故に疎い僕だって知っていた。
「私は将来は中国へ留学するんだ。仕事はもちろんがんばるけど、その夢に向かって進むの。徳永もタイガーも大きな果てしない夢を抱いてるだろ。三人ともに夢があるんだよね。徳永、冷笑的な台詞を言おうとしてない?」
「いいや。俺の夢がもっとも実現に遠いような気もするけど、弱気は禁物だ。三人ともにがんばろうぜ。じゃあ、飲みにいくか。それとも……」
 露悪的な性格をしている渉は、今日もよくない言葉を口にした。
「タイガーは彼女に捨てられて、溜まってるんじゃないのか。酒のあとはそういう店に行くか。女は溜まらないのか」
「溜まったりしないんだよ。私は平気だけど、タイガーが困ってるじゃないか。そんなことを言う奴は連れていってやらない。タイガー、私とふたりで飲みにいこうよ」
「それもいいですね」
「こら、待て。嘘だよ。俺も連れていけ」
 ついてこなくていいよっ、と言いながら、晴海さんは僕の手を引いて歩いていく。渉は僕たちよりも遅れて歩きつつ、歌を口ずさんでいた。
 
「語れるほどの夢とか
 小さくなった誇りさえ
 失くしてしまうとこだった
 君はなぜだろう 暖かい

 優しかった時の
 心取り戻せ
 嘘つきと呼ばれていいから
 鳥を追いかけて
 裸足でかけだす
 青く染まっていくよ」
 
 渉にもつらい恋があったのだというようなことを、なんとなくは僕も知っている。けれど、夢や誇りを失くす男ではない。僕の手を取ってくれている晴海さんの手があたたかくて、三人分の夢に包まれているようで、僕の全身が暖かだった。


3・隆也

 大学を卒業してから六年が経つ。我々フォレストシンガーズがデビューしてからだと四年目の秋、二十七歳になった俺たちの合唱部の同級生、徳永渉がメジャーデビューした。
 今年はシゲが結婚し、徳永がデビューした。シゲの結婚は文句なくめでたいのだが、徳永はどうやらいまだ、本橋と俺をライバル視……ライバルを通り越して仇敵視しているようなので、祝福の言葉をかけてやれない。
 二年年上で二年前にプロになっている、合唱部の先輩シンガー、金子将一氏の提案で、徳永渉のデビューを祝う会が催された。表向きは後輩の酒巻國友が提案者とされていて、酒巻とはたいそう親しい幸生は会に出席したのだが、本橋と俺は遠慮しておいたのだった。
「俺が行くと徳永がへそを曲げるだろ」
 本橋は言い、俺も言った。
「徳永もしつこいんだよな。いつまで俺たちを……ってさ、俺は徳永にはなんにもしてないぜ」
「俺もしてないつもりだけど、シゲはどうする? 行かないよな。章も行く気はねえだろ。幸生、フォレストシンガーズの代表として行ってこい」
 リーダー命令もあって、幸生が出席した会に、俺は大幅遅刻して出向いていった。遅刻は故意にしたのだから、出席者はほぼ全員帰ってしまっていて、表向きの主催者の酒巻がただひとり、残っていた。
「幸生にも言うなよ、俺が来たって」
「そうですか。わかりました。言いません」
 酒巻は約束を守ってくれているようで、俺は行かなかったことになっている。
 学生時代には喧嘩腰の会話やら、ちょっとした議論やらもした。本橋や俺が一年生の年のキャプテンだった高倉さんや、首脳部のひとりだった星さんからはじまって、合唱部の先輩や同級生や後輩は皆皆、仲間だったのに。
 好きではない男も女もいるにはいたが、今となってはみんななつかしい。なのにおまえは、おい、徳永、と言いたいのだが、俺には落ち度はないのか、とつらつら考えると、徳永サイドから見ればあったのかもしれないわけで。
 人は無意識で人を傷つけたり、精神的な打撃を与えたりしているものだ。徳永はたやすく傷つくタマだとは思えないし、俺はなんにもしていないつもりではあるが。
「徳永はライバルがいればいるほど燃え盛るんだよ。本橋やおまえは徳永の闘志の原動力になってるんだから、嫌われてるってわけでもないのかもしれないぜ」
 金子さんが言った通りなのだろうと、得心しておくしかなさそうだ。
 主役が帰ってしまったあとの祝賀会に出席して、酒巻とも別れて自宅に帰った。酒巻と飲んで話した続きで、学生時代を思い出す。俺は妙な体質を持っているのか、ぼんやりもの想いに耽っていると、現実と虚構が入り混じった世界に入り込んでいく癖がある。今夜も俺は、大学三年生の夏にひとり旅をした、竜飛崎に飛んでいっていた。
 ひとり旅だったのに、金子さんと徳永がいる。ふたつ年上の金子さんは大学は卒業していて、アマチュアシンガー。同い年の徳永は大学三年生。金子さんが運転してくれるレンタカーに乗って岬にたどりつき、三人で強風の中に身を置いていた。
「吹き飛ばされるなよ」
 風に負けない力強い声で金子さんが言い、徳永が言い返した。
「飛ぶとしたら乾でしょ。本橋の言う通りで、へなちょこした身体つきなんだから」
 なじみのシニカルな笑みを浮かべた徳永は、煙草を取り出した。しかし、この強風では火がつけられない。へなちょこなライターの炎はここでは役に立たなかった。
「徳永、早く火をつけろよ。おまえの煙草に火がついたら、煙草と煙草でキスして火をもらうから」
「煙草だって、おまえがくわえてるのとなんか触れ合わせたくないね」
「そしたらなんで、俺の旅についてくるんだ」
「おまえがついてきたんだろ」
「金子さんとおまえのふたり旅についていって、俺が邪魔したってのか。おまえと金子さんはそんな関係だったのか。だとしたら悪かったな」
「下らん」
 実に下らなそうに、金子さんは俺たちの口論を聞いている。風に男たちの髪がはためいて、荒れ狂う。踊り狂う。
 徳永も金子さんも俺もプロシンガー志望だ。俺たちの行く手にも嵐が吹き荒れて望みを阻むのか。徳永と下らない口喧嘩をしている今は、これでも嵐の前の静けさなのか。ひとときの平穏だからこそ、この程度の風なのか。
 あのとき……実際にはひとり旅だった竜飛崎の雄大な景色の中で、俺はなにを考えていたのだろう。大学三年生だった俺は、歌手になろうという希望を確固として抱いてはいなかった。
 大学に入学して合唱部に入部して、キャプテン命令によって本橋とデュオを組んでコンサートでデビューした。あれからずっと、これからもずっと、本橋とふたりして歌っていきたいと願ってはいたけれど。
 煙草に火をつけようとしている徳永、海を見ている金子さん。このふたりの心にも、俺と同じ望みがある。あの時点では金子さんの希望は知っていたけれど、徳永のほうは確たる理解はしていなかった。
 けれども、追憶と現在と虚構の混濁したこの世界では、俺は知っている。俺の将来も知っているはずなのに……これからどうなる、ここにいる三人の男の行く末は?
「今はまだわからないほうがいいでしょう」
 美しい女性の声が聞こえた。
「あなたたちのその夢が……どうかなうのか」
 天女のような羽衣をまとった、透き通った女性の姿も見えた。彼女は空中に浮かんでいた。
「……竜飛崎には伝説があるだろ。源義経が龍に化身してここから飛び立ったんだ。するとさしずめ、この女性は静御前の化身かな」
 金子さんが言い、俺も言った。
「チャンスの女神って存在なんじゃありませんか。前髪しかないってわけでもないけど、つかませてもらいたいな」
「チャンスの女神の前髪をしっかとつかんで、離さずにいる。将来のために?」
「そうですよ。金子さん。三人して女神さまにすがりつきましょうか」
 じっと天女を見ていた徳永は、現実的な台詞を口にした。
「俺たち三人でこの女神のような女の前髪をつかんだりしたら、墜落しちまうんじゃないのか」
「天女なんだから、人間の力なんて及ばないよ」
 言った俺の眼前で、女神があえかに微笑む。たおやかな腕が誘うように動く。髪も揺れている。金子さんは言った。
「実は俺たちを誘惑して、突き落とそうとしているのかもしれないよ。俺は女神になんかすがらない。乾、手を引っ込めろ」
「そうだよ。おまえに死なれちまったら、俺の闘志が減るだろ。それでも死にたいんだったら止めないけどさ」
 徳永も言い、俺は天女に伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「……あなたは?」
 それでいいのよ、と言いたいのか、それでいいの? と尋ねたいのか、天女はひらひらと舞って遠ざかっていく。幻が薄れていくにつれて、俺の中にも現実が戻ってきた。
「あんなことはなかったけど、三人ともに望みはかなったんだよな。青い海……透明な天女。まるで本当にあったみたいだ」
 竜飛崎でひとりで、俺は将来について考えていた。あの旅では変わった出来事はなにひとつなかったけれど、幻想のまじった追憶に浸って、俺は今夜もひとりで言った。
「これからは金子さんも徳永も、同じ土俵で妍を競う本物のライバルだろ。金子さんがトップ人気みたいだけど、徳永だって人気が出るんだろうし、俺たちも売れるように、なおいっそうの努力をするよ。金子さんにも徳永にも負けない。やるぞ」
 徳永のデビューを知って、俺の闘志にも改めて火がともった。握り締めた拳を開いて見ると、あの天女の髪が一本、俺の手からすり抜けようとしている幻が見えた。俺はその髪をつかまえて、ぎゅっと握った。幻の女神の前髪だとしても、絶対に離さない。


4・渉


 夏の終わりの海辺でのライヴに、加藤大河がやってきてくれた。仕事を終えてタイガーとふたりして、夜の浜辺を歩く。いつかどこかで、タイガーにこんな歌を歌って聞かせた。あのときには晴海もいたっけ。
 いつだったかな、と思い出そうとしても思い出せぬままに、俺は歌った。群青色よりも黒くなった夜の海の色は、なんと名づけるのだろうか。

「どれほど遠いのか知らんけど
 今すぐ海を見たいのだ
 明日とか未来のことを
 好きになりたいな 少しでも

 こだまするように
 その名前を叫ぶ
 ころんで起き上がる愚かな
 僕はここにいる 
 すでにもう奇跡
 花が咲いているよ

 波は押し寄せる
 終ることもなく
 でも逃げたりしないと笑える
 僕はここにいる
 それだけで奇跡
 しぶきを感じてる」

 覚えているのかいないのか、タイガーは黙って歩いている。俺にしても明確には思い出せないのだが、なんだっていい。波が押し寄せてしぶきを感じる。海は俺たちの目の前に広がっていた。
「今日は本橋さんと乾さんがデュエットで歌ったんですよね。フォレストシンガーズの歌ではなく、おふたりが野外ライヴに出演されていたでしょう」
「本橋がソロで歌ったりもするし、フォレストシンガーズを離れての個別活動もよくやってるみたいだよ」
「渉も聴いていたんですか」
「俺の出番は奴らよりもあとだったから、スタンバイ中で聴いてなかったよ」
 とはいえ、積極的に聴こうとしなくても聴こえてはきていた。
 十数年も前に、俺は大学の合唱部コンサートで、本橋と乾のデュオを正式にははじめて聴いた。一年生だったのだから雑用もあったのだが、適当にさぼって聴いていた。つややかに伸びる本橋のバリトンと、クリアで美しい乾のテナーが耳元に蘇ってくる。
 あのときの俺は、負けたと感じた。が、負けっぱなしではいないとも感じていた。
 大学に入学するまでは、別々の高校で別々に生きていた。乾が金沢、本橋が東京、タイガーはロンドン、俺は埼玉。ちらっとでも会ったこともなかった同い年の四人は、同じ大学を志望して合格し、タイガー以外の三人は合唱部に入部した。
 学生時代にも本橋や乾とはライバル以外のなにものでもなかったのだが、卒業してから境遇が隔たり、二十七歳になって再びライバルになった。俺は彼らよりも四年ばかり遅れてデビューしたものの、現在ではほぼ同じ立場のライバルだ。
 ソロシンガーとヴォーカルグループの差もあれば、歌のジャンルもいくぶんかはちがうので、世間的には徳永渉はフォレストシンガーズのライバルではないのかもしれない。両方が好きだと言うファンもいれば、両方嫌いもいて、一方のみが好きな方もいるだろう。
 本日の野外ライヴは若者向きではなく、年齢層の高いファン向けであったようで、ブルース、ジャズ、R&B、ソウル系シンガーが中心だった。
 デュオとしての本橋&乾、「本橋真次郎、乾隆也」の名で彼らが出演するのはむろん知っていたが、ならば俺は出ない、とは言わない。仕事を選べるほどの大物でもないし、本橋と乾が出演するのならばむしろ燃えた。
 ステージはどちらが上だかなどとは言えないが、聴くたびに彼らの歌は完成度を増していっている。俺も負けない、との想いも高まった。
「あれから十五年か……」
 呟くと、タイガーもうなずく。タイガーが振り向きたそうにしているのは、本橋と乾が近づいてきているからだ。俺も知ってはいたが、無視していた。
 意識しないとは断じて言えない。意識しまくって生きてきた。今後も俺は彼らを意識し続けるだろう。たとえ彼らが、徳永なんて、へっ、と言おうとも。
 十五年の歳月は俺たちを変えたのだろうか。俺はなんら変わってはいないつもりだが、フォレストシンガーズの個々人は変化した。本庄は結婚して親父になり、あの本橋までが結婚した。しかも相手は山田美江子だ。
 本庄の奥方はどうでもいいのだが、美江子さんには言ってやりたい気分もある。あんな男と……あんたの趣味は……いや、言わないが、まあ、本人同士がいいのならばいいのだ。俺も一度は美江子さんに告白したとはいえ、あんなものは遠い過去なのだから。
「気持ちの上では変わりなく……」
 乾の声が聞こえ、本橋の声も聞こえた。
「徳永って粘着気質だよな」
「そうかもしれない。ものごとに執着心が強いんだ」
「ああいう奴がストーカーになったり、女につきまとったりするんじゃないのか」
「徳永は女性には不自由してないから、女にはつきまとわないだろ」
「男に……ったって、俺たちにつきまとうわけじゃないよな」
「おまえらこそ、つきまとうなって言われるぞ」
 勝手なことをほざき合っている奴らに、タイガーが割り込んだ。
「こんばんは。僕を覚えていて下さってますか」
「もちろんですよ。先だってもお会いしましたよね。龍がお世話になってます」
 タイガーは木村章の弟、龍の先生でもある。その意味での挨拶なのだろう。乾が言い、本橋も言った。
「俺ももちろんタイガーは覚えてるよ。徳永は俺たちとは話もしたくないようだから、タイガーと話そうか。食うか?」
 本橋がタイガーに差し出したのは、スナック菓子だろうか。油っぽい香りがしてきた。
「いただきます。渉……」
「ほっとけよ。あんな奴は」
「本橋や俺の手が触れたお菓子なんて、食いたくもないって言うだろ、徳永は」
「そうですかねぇ。言いそうですね。渉という人物は僕にもわかりづらいんです」
「金子さんもそう言ってたよ。タイガーや金子さんにも永遠にわかりづらい男が、本橋や俺につかめる道理もない、諦めよう、本橋」
「俺ははなっから投げてるよ、あんな奴」
 あんな奴、あんな奴、と本橋は言い、菓子を食っている。俺は煙草に火をつけて、海を向いて歌った。
 
「優しかった時の
 心取り戻せ
 嘘つきと呼ばれていいから
 鳥を追いかけて
 裸足でかけだす
 青く染まっていくよ」

 不思議でもないのかもしれないが、不思議な気もする。大嫌いだった奴らと、今でも大嫌いな奴らと、海辺で同じ場所にいて、俺は奴らに歌を聴かせている。タイガーだったらいいけれど、なんだって本橋と乾に……と思わなくもないのだが。
「徳永の声で歌うと、この歌がいっぷう変わった趣に聴こえるよな。いいね」
 乾が言い、本橋も言った。
「歌だけはな」
「歌がよくなかったら、徳永渉なんて奴は……」
「乾さん、渉に喧嘩を売りたいんですか」
「滅相もございませんですよ」
 振り向かずに俺は言った。
「売りたいんだったら買ってやるぜ。本橋、いつかの続きをやろうか」
 返事は本橋が鼻を鳴らす音と、タイガーと乾の笑い声だった。

END




 

 
スポンサーサイト


  • 【小説178(壊れかけのRADIO)】へ
  • 【小説180(そばにおいで)】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【小説178(壊れかけのRADIO)】へ
  • 【小説180(そばにおいで)】へ