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小説177(手紙)

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フォレストシンガーズストーリィ177

「手紙」


1

 デスクに積み上げた郵便物を仕分けしたり開封したりしていた玲奈ちゃんが、社長を呼んだ。社長は玲奈ちゃんに渡された手紙を一読してから、俺にもそれを見せた。
「なんですか」
 そこにはこう綴られてあった。
「フォレストシンガーズなんか大嫌い。今度ライヴをやるとなったら覚悟してろ」
 不安そうな表情の玲奈ちゃんと、腕組みで思案顔の社長に、俺は言った。
「ワープロの文字ですよね。これって脅迫状ですか? これだけの文面ではどうするつもりなのかわからないけど、ライヴホールを爆破するとでも?」
「そこまでしたいのかどうか、たったのこれだけでは私にもわかるはずがないよ。しかし、本橋、なにか心当たりはないのか?」
「心当たり、ですか」
 宛先はオフィス・ヤマザキ。差出人の名前はない。消印は東京都内。白い封筒に入った手紙は、ワープロ用紙に打ち出した二行の文章のみだ。ミステリ小説よろしく推理しようとしてみても、これだけでは推理のしようもない。
 フォレストシンガーズ全員に恨みがあるのか? 俺たちのうちの誰かか? まだしも本橋真次郎と名指しでもしてくれてあれば、心当たりを考えられもするのだが、これでは漠然としすぎている。
 ファンなのか。昔、もしくは最近に関わった相手なのか。男なのか女なのかもわからないが、女なのではないかと仮定すると、乾がふった女、幸生がナンパして遊んだ女、章がつまみ食いして捨てた女、シゲが……シゲはないとして、俺が?
 ふったのナンパしたのつまみ食いしたのと、こうやって並べるとまるで俺たちが悪党の遊び人の群れみたいであるが、そうではないのだ。そうではないにしても、三十年近くも生きていると男にはいろいろと……となると、俺だとしても見当がつきづらい。
「俺はふられてばっかりだよ」
 乾はいつだってそう言うけれど、ふられたばかりではなく女をふったこともあるはずだ。そのすべてを俺は知らないが、あいつは好きでもない女にはつめたくできる奴だから、告白されてもすげなくあしらった女はいるに決まっている。
 その乾ほどではないのは、俺はあいつほどはもてないせいで、それにしても、女に告白されて断った経験はある。結果的には遊びで寝た女もいる。そんな経験をあれかこれかと思い出してみても、どれがこの手紙の主なのかは、まったくもまったく特定できない。俺宛だとしても漠然としているのは同じなのだった。
「わかりませんね。どうします、社長?」
「これだけのことだったら、ただ嫌いだと言ってきているだけなんだったら、深刻に考えなくてもいいんだろうか。本橋、きみはどこかの女に悪いことをしたんじゃないだろうな」
「してませんよ」
「木村じゃないだろうな。三沢は? 乾は?」
 全員を見張っているわけではないのだから、プライベートタイムにあいつらがなにをしているのかまでは俺は知らない。幸生も章も乾も女とつきあっては別れてきているのだから、なんにもしていないとも断言はできない。
 それを言えば俺も、悪いことなんかなーんにもしてないとは言い切れないのだが、シゲの名を出さないのは、社長も俺たちの性格やその他諸々について知り尽くしつつあるからか。シゲは結婚したのだから、とも言い切れないのに。
「俺は他の四人の私生活の全部は知りませんけどね、社長ってことはないんですか」
「私か? どうして私が?」
「社長は俺たちの雇い主なんですから、社長がどこかの女に悪さをして、そこからつながってフォレストシンガーズなんか大嫌い、になる場合だってあるでしょう? なんにもしてませんか」
「しとらんよ。してない」
「本当に?」
「きみらこそ……」
 じろじろっとガンを飛ばし合っていると、玲奈ちゃんが言った。
「醜い争いをしている場合ではありません。本橋さん、調べて下さいね。社長、それで、この手紙はどうするんですか」
「う、あ、そうだな」
 たぶんこの手紙は女が書いたのであろうから、玲奈ちゃんとは無関係だと言いたいのか。彼女は冷静な声で言って、社長と俺を睨み回す。きみじゃないのか、まで言っては話の収拾がつかなくなりそうなので、俺は手紙を取り上げた。
「これでは推理のしようもないんですけど、うちのみんなにも見せますよ」
「山田ってことも考えられるよな」
「考えられなくはないんでしょうけど、女性の文章のようですから男に絞りましょう」
「ああ。頼む」
 範囲が広すぎて困るのだが、ひとまず頼まれておいた。
 事務所から出てスタジオへの道を歩きつつ考える。近く横浜でライヴがあるので、そのホールをターゲットにして、爆弾でもしかけられたら? 俺としては大事件も懸念してしまうのだが、そこまでするつもりはないと楽観しておこう。
 ホールを爆破するとまで言っては凶悪犯罪になる。警察に訴えるって手段もある。この手紙にはそうは書いていないのだから、これしきで警察に連絡しても問題視してもらえないだろう。
 真っ先に俺について考えよう。俺に恨みを持つ女……みずえはまさか……他にもいなくもないかもしれない。それにしても漠然としすぎていて、こんなものは単なるいたずらだと笑い飛ばしたくなる。ライヴと書いていなかったとしたら、見過ごしにしてもよかったのだが。
 スタジオに到着すると裏に回っていって、改めて手紙を見た。なにか手がかりはないかと封筒も便箋も隅から隅まで見てみると、たったひとつ発見した。
「香りが……なんだろ、この香り。香水かな? 玲奈ちゃんがつけてるのかと思ってたけど、便箋ってのか、用紙から香ってきてるんだ。女だよな」
 香りなんてものが手がかりになるとも思えないが、紙に鼻を近づけてみると、濃い香水の匂いがした。事務所でも感じていた香りと同じだった。
 男にだって香水をつける奴はいるのだろうが、この甘ったるい香りは女ものだろう。やはり女だな、とだけは確信して、俺はスタジオに入っていった。スタジオには全員が顔をそろえている。今回のライヴは全曲ア・カペラでやると決定しているので、今日はその最終打ち合わせのために集まったのだ。
「だからさ、あんなの書くからでしょ」
 中に入っていくと、幸生が言っていた。
「これはちょっとまずいかなとは思ってたんだよ。おまえは正直すぎるんだ」
「いいじゃないかよ。サイトの日記ってなにを書いてもいいんだろ」
 応じているのは章で、乾はシゲに言っていた。
「俺たち個々人の日記は各自の自由裁量で書けばいいとは言われてるけど、幸生と章は日記でも羽目をはずしすぎるんだよな。シゲも危ぶんでただろ。幸生が言ってるのはあれだよ」
「あれですね。たしかにあれはちょっと……」
「社長はケチはつけませんでしたよ」
 章が言い、幸生も言った。
「なにを書いてもいいったってね、ファンの女性が読んで下さるんだから、女心を逆撫でするのはよくないよ」
「こんな女の心なんか逆撫でしたっていいんだよ」
「ファンが減るよ」
「こんなファンはいらねえんだよ」
 失言だと思ったか、乾にぎろっとやられたせいか、章は口を閉じ、俺も言った。
「この前のサイトの日記か。章が書いた分だろ」
 フォレストシンガーズ公式サイトには、シゲが結婚したころから各自が不定期に日記を書くようになっている。先日、章が書いたのはこうだった。
「俺は彼女募集中です。
 美人に限ります。小柄で細くて可愛くて、それでいてプロポーションのいい女の子がいいな。俺よりも年下の美人。私は小柄な美人なのよって自信のある女性、立候補して下さい。背の高い女はいやだよ。だって、俺はちびだもん」
 あれは事実、章のファンの長身女性の神経を逆撫でしたかもしれない。女はたいていは、口では私なんかと言ってみても、深層心理では私は美人だと思っているようだから、そこはいいとしても、明らかに背の高い女性は気分がよくないだろう。
 それでもまあ、サイトの日記なんてものは好き勝手に書いているのだから、俺も章にはなにも言わなかった。俺もろくでもないことを書いているのだから、突っ込まれるとやばいってのもあったのだった。
「俺はちびだって卑下してるんだから、いいじゃないかよ」
「ちびはほんとだとしてもさ……」
 なおもぶつくさ言い合っている幸生と章に、俺は言った。
「で、それについて問題があったのか?」
「あったみたいですよ」
 幸生が話した。
「章のところに手紙が来たんですって。どうやって調べたんだか知らないけど、章のアパートに送ってきたみたい。昔からの知り合いなんじゃないの?」
「ファンだろうけどさ……どうやって調べたんだろうな」
「章、その手紙ってのは持ってるか」
 章が取り出した手紙からは、俺が持っている手紙と同じ香りが漂ってきた。そっちの文面はこうだった。
「私は背が高いのよ。木村さんよりは二十センチも高いのよ。だけど、木村さんのファンなんだからね。百八十センチもある大女には、木村さんのファンになる資格もないって言うの? 私だってあんたみたいなちびの彼女に立候補するつもりはないけど、傷ついたんだからね。木村章なんか大嫌い。フォレストシンガーズなんか大嫌い」
 ライヴ云々とは書いていないが、フォレストシンガーズなんか大嫌い、も同じ。用紙もワープロの文字も同じだ。
「……こっちも同一人物かな」
 俺も手紙を取り出すと、乾が検めてから言った。
「章、相当に彼女は傷ついたようだよ。日記にお詫びと訂正の文章を書いたらどうだ?」
「百八十もある女のファンなんていらねえよ」
「おまえはそうやって、身長でファンの方を差別するのか。個人的に交際する相手だったとしたら、おまえの言い分はわからなくもないけど、ファンの方に身長だのなんだのを言及しなくてもいいだろ。フォレストシンガーズのファンだと言って下さる方は、すべてのひとがありがたい存在なんだよ。わかってるんだろ、章?」
 乾に説教されてふてくされている章を見やりつつ、俺はとりあえず安心した。
 章があんな日記を書いたせいで傷ついて怒ったファンの女性が、憂さ晴らしだか怒りの発散だかで送ってきた二通の手紙。章のアパートの住所を知られたのは謎だが、もしかしたら幸生の言う通りに、昔からの知り合いなのかもしれない。
「章、タネを撒いたのはおまえなんだから、刈り取りもおまえがしろよ」
 言うと、章は渋々のていでうなずいた。とりあえず、今のところはこれでいいだろう。章が謝罪文を書いたら、俺もリーダーとしてフォローしておこうか。どう書けばいいのかは、乾に文案を練ってもらうとしよう。


 見慣れた光景である。
 ライヴが終了した打ち上げの席で、幸生と章が歌っている。シゲと乾は別々の相手と話している。遅れて店に入っていった俺は、スタッフらしき男と話している乾のそばにすわった。
「アルバイトでライヴスタッフをなさってるんですね。俺たちと同じくらいの年齢かな?」
「三十をちょいすぎました。俺は本当は漫画家になりたいんですよ」
「新人賞に応募したりってのは?」
「してますよ。何百と送られてくる作品の中の、最終選考までは三度到達したんだ」
「最終選考ってのは見込みがあるんだな」
「あるに決まってるでしょ。俺が描いてるんだから。俺はプロの漫画家の誰よりも高度な漫画を描くんだから」
「ふーむ」
 水割りのグラスを手に、乾が男をちらりと見る。俺も口出しせずに聞いていた。
「俺はいいものを描くんだ。なのに認められてないんだ。漫画の方面では俺は天才なんだよ。天才ってのは世の中から迫害を受けるものなんだよな」
「ジョークで言ってるんじゃないんですよね?」
「ジョークではない。あんたらは俺とはジャンルがまるっきりちがうけど、プロだよね。プロとアマの線引きってのは、それで生活できるかどうかでしょ。その方面で金が取れたらプロだよね。そのためにはどこかに出ていかないといけないんだ。あんたたちは社長に認められたんでしょ」
「そうですよ」
「俺には赫々たる自信はあるんだよ。俺を認めない世間がまちがってるんだよ。俺の描く漫画は高度すぎて、世の中に受け入れられないんだろうな」
「ほぉぉ」
 皮肉とも読める笑みを浮かべて、乾が言った。
「三十すぎても世間に出ていけないってのは、天才の宿命ですか」
「そうかもしれない」
「天才となるとむしろむずかしいのかもしれないけど、あなたのそのあなたなりの根拠は、あなたの現状からすると根拠には思えないな」
「回りくどい言い方だな。だから、俺を認めない世の中が低レベルなんだよ」
「そう思っていれば幸せだ」
 憤慨した表情で乾を見返す男のそばに、背の高い女が近寄ってきた。
「あたし、フォレストシンガーズのライヴスタッフなんてやめようかな」
「やめるのか?」
 男が尋ね、女は言った。
「さっきから聞いてたんだけど、乾さんはこうだし、木村さんだってああだしね」
「木村さんがどうかしたのか?」
「言いたくないんだけど、フォレストシンガーズなんか大嫌い」
 ん? この台詞は? と俺が首をかしげていると、乾が鼻をひくつかせた。
「この香水は……タブー? あなたですか」
「あたしがどうかした?」
「ライヴスタッフだったら、うちのメンバーの自宅の住所を調べるのも可能ですよね。あなたは背が高い。そうかそうか、あなたなんだ」
「木村さんが見せたの?」
「読ませていただきましたよ。章の暴言に端を発してるんですから、あれはまあいいとしても、事務所に送っていらしたほうは脅迫状に近いでしょ。よくないな」
「だから、あたしはフォレストシンガーズなんて大嫌い」
 タブーとは濃厚なきつい……この女から漂っているのはその香りか。二通の手紙にしみこんでいた香水と同じだ。つまりこの女か。俺が無言で男女を見ていると、男が女に言った。
「プロって奴らは傲慢だよな。公式サイトのブログなんてものだって、頼まなくても読んでくれる馬鹿が大勢いるんだろ。あんな低俗なカスみたいな文章が、まともな文章よりもずっと多くの人間に読まれてるんだ」
「だからさ、人の気持ちを傷つけるなんて考えもしないで、無神経な文章を書き散らすんだよね」
「誰かを傷つけるかもしれないなんて考えていたら、文章は書けないよ。だけど、それは俺ぐらい書ける者こそが言ってもいい台詞であって、たかがシンガーなんだから、ファン向けの発信だったら気遣いしなくちゃな」
「あんたはじきにややこしいことを言うけど、そんな話じゃないんだよ。あたしはフォレストシンガーズは嫌いなの」
「俺も乾隆也って嫌いだよ。あんたはなに様なんだ、だよな」
「ほんとほんと」
 そろって乾を睨みつけ、そろってぷいっと席を立っていく。乾は黙っていた俺に言った。
「天才だからって理屈になるようだけど、幾度も新人賞に応募して、最終選考までは残るけどそれで打ち止め。あの年になっても下積みだってのは、そうたいしたものでもないからだと、素人は思ってしまうよ。俺が言っていい台詞ではないんだろうけどさ」
「素朴に言えばそうだろうけど、言ってはいけないんだったら言うな」
「はい、リーダー」
 それから乾は、にこっだかにやっだかの笑みを見せた。
「あの手紙の主の正体は判明したな。それだけはよかった?」
 ああ、まあな、としか返答のしようはなかった。


2

 一年ばかり前の休日だった。俺は朝からアパートを出て、宇宙科学館へと足を向けた。
 喫茶店でモーニングサービスの朝食をすませ、宇宙科学館へ入っていった。わりあいに最近できたこの施設には、時おり来ている。大学では宇宙科学を学んでいたものの、宇宙とはなんの関わりもない職業に就いて、それでも俺は宇宙は好きなのだから。
「あの、あのぉ……」
 順路に沿って星の写真を見て歩き、廊下のベンチにすわって自動販売機の缶コーヒーを飲んでいると、女性が声をかけてきた。
「本橋さんですよね」
「そうですが?」
「あの、前にもここでお見かけしたんですけど……」
「ああ、時々来るんですよ」
 ファンのひとなのだろうか。サインしてくれとでも言われるのか。それならば嬉しいかなと思っていると、彼女は言った。
「私を覚えてはいらっしゃいませんよね」
「覚えて……大学のときの? 合唱部の? ああ、みーちゃん!!」
 こくっこくっとうなずいた彼女は、頬を紅潮させて言った。
「はい、武田です」
「女子部のキャプテンだった武田さんだろ。男子部は実松だった年の、俺よりもひとつ年下の、武田みずえさんだ」
「覚えてて下さったんですね」
「きみはたしか理学部で……」
「はい。本橋さんには勉強も教えてもらいましたよね」
 そんな覚えはまったくないが、武田みずえは記憶にあった。
「私は天文学を専攻していました」
「そうだそうだ、思い出したよ。俺も天文学もやりたかったんだって話もしたよな。きみはここで働いてるの?」
「そうです、宇宙科学館の職員になりました」
 ひとつ年下なのだから、三十歳になるかならずかだ。浪人はしていなかったはずだから、俺よりもひとつ年下なのもまちがっていないだろう。
 中肉中背、髪をひっつめて地味なスーツを着ているが、よく見ればなかなか美人でもある。理知的で優しそうで、女子合唱部のキャプテンだっただけあって声も美しい。天文学を学んで宇宙科学館に就職したとは、合唱部とは関係ないわけで、俺とは反対の意味で畑違いなのだろう。
「フォレストシンガーズは知ってますよ。本橋さんがリーダーでいらっしゃるんですよね。ご活躍のご様子で、後輩としては誇りです」
「活躍はしてないけど、合唱部はなつかしいな。昼休みってのはあるんだろ」
「今日は十一時からです」
 交代で昼休みを取るのだろう。ならばもうすぐだ。
「俺はゆっくり見学してるから、時間になったら昼メシ、一緒にどう?」
「ほんとですか。嬉しいな」
 嬉しそうな顔でうなずくみずえにうなずき返して、俺は彼女に言った通りに、ゆっくりと施設を見学して彼女を待っていた。十一時かっきりに、みずえがいそいそやってきた。ひっつめていた髪を肩に流して、さきほど以上に美人に見えた。
「外に落ち着けるランチレストランがありますよ。この時間だったら込み合ってないでしょうし、そこでよろしいですか」
「ああ、まかせるよ」
 歩いているときにも、昼メシを食っているときにも、みずえとは話がはずんだ。俺は愛想がよくもないし、話題だって豊富ではないのだが、同じ大学の同じ合唱部出身で、同じ宇宙好きだからだったのだろう。
「仕事なんだから引き止められないけど、よかったら夜にも会わないか」
「本橋さんとデート? 嘘みたい」
 デートとなると恋人みたいだが、俺はみずえに恋をしたわけではない。話が合って面白かったからと、夜には予定もなくて暇だったからだ。それでもまあ、男と女が夜に食事をするとしたらデートだろうから、否定はせずに笑っておいた。
 夜になるまで宇宙科学館にいても飽きない。俺はやっぱり宇宙が好きだ。普段はこうもゆっくり見て歩かないので、この機会に隅々まで見学して満足して、みずえの退勤時刻になると門の外で待ち合わせた。
 仕事中には茶色のスーツ姿だったみずえは、グレイのやわらかな素材のワンピースに着替えている。化粧も華やかになっている。俺は鈍感ではあるが、この変化には目を見張った。
「……見違えたよ。みーちゃん、美人だな」
「やだ、お世辞」
「お世辞じゃねえよ。俺はこんな格好だから気が引けるんだけど、いいのか?」
「本橋さんはそういうラフなスタイルがお似合いですよ」
 春先だから厚手の紺系チェックのシャツにジーンズ、俺の私服のワードローブはこんなのばかりで、歩きながら服装の話をした。
「ラフってさ、俺はシャツとTシャツとジーンズに、ショートパンツやコットンパンツやコートにジャンパーにって、そんな服しか持ってないよ。きみは職場に着替えを置いてるのか」
「実はね……お昼はお弁当だったんですけど、同僚に食べてもらったんです。この服はこっそり抜け出して、大急ぎで買ってきたの。本橋さんがデートに誘ってくれるなんて、ランチだけでも感激だったのに、夜もだなんて……嘘みたいで、夢みたいで……」
「大げさだろ」
「いいえ。私は昔から……」
 昔からなんだったのか知らないが、照れくさくなってきたので俺は言った。
「俺はプロのシンガーになったとはいえ、学生時代と変わってもいないラフな男だよ。デートコースなんて知らないんだけど、みーちゃんはどこに行きたい?」
「本橋さんが連れていってくれるんだったら、どこだっていいの」
「しおらしいんだな。みーちゃんは昔からそんな性格だっけ?」
「好きなひとにだとこんな性格ですよ」
 はっきり言われてしまった。俺はみーちゃんとはデートしたかっただけで、好きだとか言うほどでも……とは思っていたのだが、女に言わせて俺は言わないわけにいかず、適当に言った。
「美人のみーちゃんとデートできるのは、俺も嬉しいよ。俺のためにおしゃれしてくれたのか。感激だな」
 頭を抱き寄せて、頬にちゅっとやった。それから慌てて身体を離し、タクシーを止めたのだった。
 インド料理店でカレーを食って酒を飲んで、カレーと酒は合わないな、なんて話やら、合唱部時代の思い出話やら、共通の知り合いの話題やらで時間がすぎ、もう一軒行こうとなって、静かなバーに行った。
 合唱部では男子部と女子部の合同飲み会などもあったから、みずえともともに飲んだことはあるはずだが、彼女が酒に強かったのかどうかは覚えていない。俺は強いのでなんとも思わずに勧めたら、みずえはどんどん飲んで酔ってしまったのだ。
「本当は強いのに、酔ったふりして彼を誘うっての、女の子にはあるんだよ」
 そう言ったのは山田だったか。あるいは策略なのかとも思ったのだが、酔ったみずえをひとりで帰らせるわけにもいかなくて、バーから出て支えて歩き出した。
「きみは親元で暮らしてるんだよな。子供でもないんだから、酔って帰っても怒られたりはしないだろ。タクシーで帰るか」
「タクシーなんかに乗ったら、気持ちが悪くなって戻してしまいそう。すこし歩きたいな」
「酔い覚ましに歩くか」
 歩いているとホテルがあり、ホテルがあればその気になって、ふたりしてそこへと入っていった。俺にとってはただそれだけのことだった。


 その夜のうちにみずえは言った。
「私は大学のときから本橋さんが好きで、仲良くなりたいなって思っていたの。だけど、本橋さんは合唱部では有名人だったものね。彼女だっていたみたいだし、先輩としての本橋さんにちょっとだけ親しくしてもらえたら満足だったのよ。その上、今夜はこんなふうに……夢みたいだった。嬉しかった」
「う、うん、ああ、みーちゃん、だけど……俺は……」
「わかってるよ。本橋さんの気持ちはわかるつもり。それでもよかったんだもの。ありがとう。さよなら」
 遊びで女とつきあった経験は、俺にだって幾度かはあった。こんなときにこんなことを言う女が本心ではなにを考えているかは、幾度目の経験だとしてもわかりっこない。もしかしたら強がっているのだろうかと思いはしても、俺はおまえを愛してる、これからもつきあってくれ、と嘘を言う気にはなれなかった。
 気に入っていた宇宙科学館には一切足を向けなくなり、みずえとは二度と会わないままに、俺には別の彼女ができた。ヒカリにしてもなりゆきからそうなった女なのだが、続いているのは好きだからなのだろう。
 そのような、みずえという女との関わりもあったから、変な手紙に変な反応を示しそうになったのだが、みずえはあんな手紙は送ってこない。みずえはそんな女ではないと、俺は俺に都合がいいように考えていたかったのだ。
 ツアーバスで横浜から東京に帰ったのは深夜で、アパートの郵便受けから郵便物を取り出す。通常はフォレストシンガーズの本橋真次郎宛の郵便物は事務所に届くので、アパートには私信だけだ。私信とはいってもダイレクトメールばっかりだった。
「あん?」
 その中に一通、淡い紫の和紙で作った封筒があった。封書の裏のサインは「みー」。みずえか。切手は貼っていない。宛先は本橋真次郎さまであり、住所は記していない。みずえがここに来て直接アパートのポストに入れていったのだろう。
 今さらいったいなにを? あの変な手紙のせいもあったし、ツアーバスの中で彼女を思い出していたのもあって、心臓が音を立てた。
「……なんなんだよ。ややこしいことを言ってこないでくれよ」
 封を切ろうかどうしようか、迷いつつ考えていると、乾だったら言いそうな台詞が頭に浮かんだ。
「おまえはもはや、好き勝手に喧嘩をしたり女の子と寝たりしていてもよかった、お気楽な大学生じゃないんだぞ。学生のころだったら自分の始末を自分でつければよかったんだろうけど、今のおまえには、おまえが勝手な真似をすれば影響を受ける人間がたくさんいるんだ。まったくの無名の学生でもなくなって、どこで誰が見ているのかもわからないんだよ。インターネットってものもあるんだぜ。そんな本橋真次郎がなにをした? みーちゃんってあの武田さんか? 合唱部の後輩に? おまえって奴は……」
「なんでおまえが知ってるんだよっ」
 うっかり叫んでしまったのだが、会話している相手は想像の中の乾隆也なのだった。
 この場にはいない乾に話しかけたり、相談したくなったり、無意識で俺はよくやっている。あげくは乾に説教される。それほどに頼っているわけで、幸生に冷やかされても怒れない。今夜も想像の乾に睨まれて、うるせえんだよと言い返してから手紙の封を切った。

「あの日にああ言ったのは
 本橋さんの気持ちを知っていたから
 私はそうじゃなかったけど
 ああ言わないと本橋さんがね……
 だけど、嬉しかったの
 本橋さんのアパートを知ったのは偶然だけど
 うろうろしていたらストーカーみたいだね
 だから二度と来ないわ
 でもね、これだけ
 好きだったのよずっとずっと
 迷惑だよね
 私にだって彼はいるんだから気にしないで
 それでも好きだったけど」

 詩のような散文のような手紙、曲を書いて歌ってみたくなる。女心を俺が歌っても似合わないだろうから、男の立場からお返しの詩を書きたくもなってくる。けれど、今の気分では詩は書けないので、既成の歌を口にした。

「過ぎ去りしあなたへ
 想い出のあなたへ
 かけがえのないものに気づきゆく……このごろです

 ささいなことに情熱をぶつけ
 傷つけ合って
 それさえも微笑みに変わります……今ならば

 遠い夏を越えて 秋を過ぎて
 あなたのことを想うよ
 今でも会いたくて寂しすぎて
 愚かな自分を恨みもするけど

 過ぎ去りしあなたへ
 想い出のあなたへ
 今じゃ誰かの胸に眠る……はずだよね
 花ゆれる……春なのに」

 過ぎ去りしというほどの過去ではない。想い出というほどのものではない。かけがえのないものがなんなのか、俺は気づいてもいない。会いたくて寂しいのはみずえのほうか?
「女性は優しい嘘をつくからね」
 またしても乾の声が聞こえる。みずえに彼氏がいるのならば、俺は信じていたい。彼女にとっても遊びだったのだと信じておいたほうが、俺の気持ちも平穏でいられるからだ。きみが誰かの胸に眠る……はずだと、信じていたかった。
「手紙って人の気持ちを騒がせるよなぁ」
 想像の中の乾に言うと、おまえが悪いんだろ、そうじゃないのか? とまたまた睨まれる。こうして罪を作って愚かな自分と向き合って、そんな夜はこれからもずっと続いていくのだろうか。

END
 


 






 
 
 
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