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小説176(いつかのメリークリスマス)

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フォレストシンガーズストーリィ176

「いつかのメリークリスマス」

1

 人気が上昇一途である燦劇は多忙なはずなのだが、なぜかエミーはうちのスタジオにしばしばあらわれる。しかもひとりでやってきて、屈託ありげな顔をしている。今日はクリスマスライヴのための練習を早めに切り上げて、本橋さんが言った。
「本格的にトレーニングをやろう。このところやってないからなまってきてるぞ。ライヴの体力づくりだ。ジムに行こう」
 いいね、と乾さんも言い、俺の腕をつかんだ。
「章、逃げるなよ。エミーもついてこい」
「俺も行くの? ウェアとか持ってないよ」
「おまえだったら俺と体格が似てるから貸してやるよ」
 スタジオのロッカーに用意してあるトレーニングウェアの予備を乾さんに手渡されて、エミーも否とは言えなくなってついてきた。俺はいまだにトレーニングは嫌いだ。デビュー前後のころと比較すれば体力はアップしてきているのだが、鍛錬となるとあっぷあっぷになる。
 似た体格といえは幸生と俺もなのだが、ちびのくせして幸生には体力はある。本橋さんとシゲさんは鬼並に体力も腕力も優れていて、俺は弱いんだなんて言っていた乾さんの昔の台詞は虚構だったのだと、今になれば俺もよくよく知っている。どこが弱いんだ、あんたはなんでも強いじゃないかよ、と現在でも俺は乾さんにはかすかな反発心を抱いていたりするのだった。
「こんなのやったことないよ」
 ぼやいていたエミーも、若いのだから体力はある。こうなるとやはり俺がもっとも体力不足だ。長時間のステージをつとめ上げるには基礎体力が重要だとも知ってはいるが、じきに俺は弱音を吐きたくなってきた。
 いつになっても俺は誰にもなにもかなわない。勝てると自信を持って言い切れるのは、この高い高い声だけだ。シゲさんや本橋さんは俺の体重と同じくらいの重さのベンチブレスを持ち上げる。乾さんとエミーはジムのフロアを宙返りしている。幸生はあちらこちらと首を突っ込んで茶々を入れて本橋さんに怒られていたのだが、そのうちにはサイクルマシンに取り組みはじめた。俺は早くも音を上げて五人を見物していた。
「ああ、みなさん、ここにいらしたんですね。エミーもいるんだ」
 女の子の声が聞こえて振り向くと、オフィス・ヤマザキ事務員の露口玲奈ちゃんが立っていた。玲奈ちゃんは俺に近寄ってきて言った。
「社長からのお届けものです。本橋さんに渡すつもりが忘れてたそうで、私が届けにきました。どこに置けばいいですか」
「預かっておくよ」
 リーダーへの届けものなのだから、俺は見る必要もないのだろう。玲奈ちゃんから大きな封筒を受け取って、窓際に置いた。
「玲奈ちゃんもトレーニングやる?」
「私は会員じゃないですよ」
「俺たちのゲストってことにしたら、できるよ。ウェアだって貸してもらえるし、やろうぜ。玲奈ちゃんだって体力は不要ってわけでもないだろ。若いから細くてプロポーションもいいけど、これからは玲奈ちゃんも中年への坂を上っていって、そこもここもたるんで垂れ下がってくるんだぞ」
「失礼ねっ。玲奈はまだ二十代になったぱかりですっ」
 怒らせてしまったようなのだが、俺の言葉でその気になったか。玲奈ちゃんは本橋さんに近寄っていった。
「ああ、いいよ。玲奈ちゃんもやれよ。教えてやるから」
 本橋さんが言い、玲奈ちゃんはジムで貸し出している女性用トレーニングウェアに着替えてきた。淡いブルーのジャージの上下だ。常々可愛い服装が似合っている玲奈ちゃんは、こういう格好をしていても可愛い。
 小柄でほっそりしていて、出るべきところはそれなりに出ている玲奈ちゃんは、幸生から見ても俺から見ても好みのタイプである。エミーから見てもそうなのだろうか。
 運動は苦手であるらしく、なにをやらせてもさまにならない玲奈ちゃんは、それゆえに可愛い。トレーニングマシンから落っこちそうになってすがりついて、シゲさんに支えてもらっている。あの役だったら俺がやりたい。
 力がなくて運動が苦手なのは、俺も玲奈ちゃんに近いだろうが、ちょっとは鍛えているのだから、玲奈ちゃんよりはましだろう。身長も体重も力も俺のほうが上のはず。俺は言おうとした。玲奈ちゃんの面倒は俺が見るから、みなさんはトレーニングに励んで下さい。
 なのに、エミーの奴が先回りしやがった。エミーだって弱々しいほうのくせに、格好つけて玲奈ちゃんに言っていた。
「玲奈ちゃんって体力はあるんだろうけど、運動能力がないんだよな。俺が教えてやるよ。腕力を鍛えなくちゃ。腕立て伏せ、やってみな」
「腕立て伏せなんかできないよ」
「できるだろ。一回でも二回でもやれよ」
「できるかなぁ」
 言いつつ、玲奈ちゃんがフロアに伏せる。エミーの野郎、どこを見てるんだ、と俺は睨んでいたのだが、エミーは身体を低くして玲奈ちゃんに囁きかけた。
「なんなのよっ、えっち。さわらないで」
「フォローしてやってんだろ」
「していらないもん。乾さん、エミーが玲奈をさわるんですよーっ」
「さわってねえだろうがっ」
 焦っているエミーと玲奈ちゃんが、口喧嘩になりかけている。罵り合いになりそうで、俺が止めてやろうかと思っていたら、乾さんがやってきた。
「エミーの視線が指に変化して、玲奈ちゃんに触れてるんだな。女の子は敏感なんだよ。エミー、目を閉じてフォローしてやれ」
「目を閉じたらできねえよ。乾さんにはできるのか」
「玲奈ちゃん、俺が手伝おうか」
 玲奈ちゃんは乾さんには素直にうなずき、腕立て伏せ指導を受けはじめた。指導をしているのだから、乾さんの手は玲奈ちゃんの身体に触れる。腰や腕をさわられても玲奈ちゃんはえっちとは言わず、エミーが腐った声を発した。
「乾さんのドスケベっ!!」
「スケベでやってんじゃねえんだよ。玲奈ちゃんはいやじゃないんだよね」
「いやじゃない。乾さん、もっと教えて下さい。乾さんに教えてもらったら、玲奈にもできそう」
「うんうん。こうやってね……」
 女の子には優しい乾さんの、性格全発揮ってわけか。俺も腐りながらも見ていたら、エミーが乾さんを蹴ろうとした。エミーのキックが決まるよりも一瞬早くシゲさんが駆け寄ってきて、エミーの細っこい身体を持ち上げて投げ飛ばす。幸生も玲奈ちゃんも拍手し、本橋さんが言った。
「エミー、文句があるんだったら俺にかかってこい」
「……いえ、かかっていきません。木村さーん」
 四つんばいになったエミーが、俺のほうへと寄ってこようとしている。玲奈ちゃんが脚を上げて、エミーの腰を蹴飛ばした。
「玲奈ちゃん、女の子はしてもいいって問題じゃないよ」
 乾さんが言い、幸生も言った。
「玲奈ちゃんも誰かみたいに……いえいえ、誰かは忘れようね。章だって忘れたんだもんな。玲奈ちゃんって意外とおてんばなんだね。そこがまた可愛いってーか」
 章だって忘れた? 誰かとは誰だ、と俺が本気で腐っていると、本橋さんも言った。
「玲奈ちゃんのはいたずらですむよ。きみは意外におてんばってか、いたずらっ子なんだな」
「おてんばでいたずらっ子の玲奈は可愛い?」
 みんなして苦笑まじりにうなずく。蹴られたエミーまでがうなずいていて、俺もうなずいた。実際、玲奈ちゃんは可愛いのだから、うなずくしかなかったのだ。


 トレーニングを終了し、玲奈ちゃんがメシはまだだと言った上に、俺たちも喉が渇いたので居酒屋に行った。玲奈ちゃんもエミーも含めて七人で食って飲んで喋っていると、俺は重大なる忘れものを思い出した。
「わっと!! しまった!! 社長からの届けものを忘れてましたよ。俺、取りにいってきます」
「ジムに忘れたのか。ジムはクローズしただろ」
 乾さんが言い、本橋さんも言った。
「この粗忽者。電話しておくよ。封筒なんだろ。誰も盗んでいったりしないだろうから、保管しておいてもらおう」
 本橋さんがケータイを取り出すと、玲奈ちゃんが言った。
「あのね、あの、社長からの届けものじゃなくて……」
「社長からリーダーにじゃなかったの?」
 俺が尋ねると、玲奈ちゃんはもじもじの果てに言った。
「みなさんがトレーニングジムに行くって、社長から聞いたんです。玲奈も行ってみたいな、トレーニングしてる乾さんたちってかっこいいだろうな、そう思ったら行きたくなって、適当に書類を封筒に入れて、口実にして来てみたんですよ。だからね、封筒の中身はクリスマスライヴのパンフレットです」
「そんなものをわざわざ届けにきたのか、って、それを見た本橋さんが不審がるだろうに」
 幸生も言い、シゲさんも言った。
「それもいたずらの一種かな。玲奈ちゃん、人騒がせはよくないよ」
「にしてもだ、忘れたのはおまえだろ、章」
 本橋さんに言われて、俺はむかっとした。
「忘れたのは俺だけど、どうでもいいものでしょ。リーダーだって乾さんだって幸生だってシゲさんだって、忘れてたくせにさ。俺ひとりに責任を負わせようってんですか」
「あのね」
 今度はエミーが言った。
「俺、持ってきたよ。玲奈ちゃんが木村さんと話してたのは見てたからさ。持ってきたけど俺も忘れてたけど、ここにある」
 エミーがバッグから取り出したものは、まぎれもなくあの封筒だった。乾さんは中身を確認してから言った。
「どうしてすぐに言わないんだ?」
「忘れてた」
「忘れてたにしたって、章が叫んだら思い出すだろうが」
「思い出したんだけど、言いそびれたっつうか……なんなんだよ、こんなどうでもいいもので、怖い顔しなくてもいいだろ。な、木村さん」
「うん、そうだそうだ」
 木村章&鈴木一夫、もとい、エメラルド対その他四名のフォレストシンガーズの対決構図か。エミーひとりが俺の味方をしてくれても、頼りないことおびただしいのだが、ひとりっきりよりはいいだろう。こっちはふたりで四人と見つめ合っていたら、玲奈ちゃんが言った。
「いけないのは玲奈です。玲奈がよけいなことをしたからでしょ? 本橋さん、乾さん、木村さんを叱らないであげて」
 涙の溜まった目で見上げられては、本橋さんも乾さんもひとたまりもないのだろう。本橋さんは玲奈ちゃんの頭を撫でた。
「大切な用件ではないにしたって、章が忘れたってのもよくないんだよ。玲奈ちゃんがよけいなことをしたのは、それ以前の問題だな。だけど、俺は別に怒ってないよ。泣くな、玲奈ちゃん」
「はい……」
 ぐしゅっと鼻を鳴らした玲奈ちゃんに、シゲさんがハンカチを渡す。幸生は幸生で言った。
「玲奈ちゃんったら、泣いてても可愛いね。罪なお方だわ。僕ちゃんと抱き合って泣こうか」
「おまえが泣かなくてもいいだろ」
 シゲさんは言い、幸生はにっこりして、どさくさまぎれに玲奈ちゃんの頬を撫でる。エミーは言った。
「けっ、玲奈ちゃんなんてどうせ泣き真似だろ。玲奈、おまえさ、木村さんは叱らないでやってって言ったけど、俺はいいのか」
「エミーは叱られたらいいじゃない。あんただってわざと言い出さなくて、人騒がせなのは同じじゃん。ファイといいエミーといい、ロッカーってほんと、どうしようもないんだよね」
「ロッカーを悪く言う気かよ」
「ロッカーって嫌い。馬鹿ばっかだし」
 おいおーい、と幸生が止めようとしていたのだが、エミーと玲奈ちゃんは実際に口喧嘩をはじめてしまった。
「おまえだって馬鹿じゃねえかよ」
「私もかしこくはないけど、あんたたちほどじゃないよっだ」
「短大を出てるんだったよな。けど、おまえの出た短大なんて、馬鹿娘ばっかの学校だろ」
「偏差値は高くはないけど、馬鹿ばっかじゃないよ。エミーなんて高校しか出てないんでしょ。頭が悪かったからでしょ」
 幼稚なレベルの口論に、大学中退の俺もむかむかしていると、乾さんが立ち上がった。
「エミー、外に出ろ。玲奈ちゃんもついてきなさい」
「え? 寒ぅい」
「寒いね。玲奈ちゃんにはこれを……」
 乾さんは玲奈ちゃんにコートを着せかけ、乾さんのマフラーを貸してやり、エミーには言った。
「個室とはいえ、こんなところで喧嘩をするんじゃない。外に出て頭を冷やせ。ついてこい」
「やだよ」
「かつぎ上げるぞ。玲奈ちゃんも来なさい」
「いや」
「じゃあ、玲奈ちゃんは俺が抱いていこう。シゲ、エミーを頼む」
 シゲさんがためらいがちに立ち上がろうとしたからだったのか、エミーと玲奈ちゃんは同時に言った。
「行くよ、行けばいいんだろ」
「行きますよ。エミーが悪いんだからね」
「おまえが悪いんだろうが」
「うるさい、ついてこい」
 時として見せる迫力満点の目と声で乾さんに命じられ、若いふたりはついていった。本橋さんは苦笑い、シゲさんは困惑顔、幸生は好奇心満開顔。俺はトイレに行くふりであとから立っていった。幸生には見抜かれているかもしれないが、気になって我慢できなかったのだ。
「エミーってほんとにほんとに馬鹿じゃん。乾さん、こんな馬鹿はひっぱたいたっていいんじゃありません?」
 クリスマスが近いので、店の裏手にもクリスマスツリーが飾ってある。その陰に立っていると、玲奈ちゃんの声に続いて、乾さんの声も聞こえた。
「すると、きみもかな、玲奈ちゃん?」
「私もひっぱたかれるの?」
「きみたちの口論は、どちらかをひっぱたくっていうんじゃなくて、やるんだったら両方だよ。エミーは玲奈ちゃんを……玲奈ちゃんはどうなのかな。エミーに玲奈ちゃんを送っていけと言うわけにもいかないんだから、俺がタクシー乗り場まで送ろう。エミーはうちの仲間たちと帰れ」
「うん、わかった。乾さんは玲奈ちゃんを送っていくって言っておくよ」
「おまえが言わなくても、別の奴が言うさ」
 見抜かれているといえば乾さんにもだろう。鋭敏すぎる。俺は一安心して店内に戻っていった。エミーは玲奈ちゃんを? 好きだから喧嘩する? それではガキだが、あいつらはガキと呼んでもさしつかえないだろう。
 俺はもうガキではないのに、二十七にもなってもこれだけど、昔はまさしくガキで、喧嘩ばっかりしてたよな。おまえはどうしてる? どうしても忘れられないひとの名前を、口には出さずに呼んでみた。


2

 いい加減くたびれたので、俺はパソコンをインターネットに接続した。FSのオフィシャルサイトを覗くところからはじめてネットサーフィンとやらをしていると、きらびやかな薔薇のイラストで飾られたサイトにたどりついた。
「墜ちていく? 俺たちの曲と同じタイトルだ」
 FSファンの若い女の子がつくっているサイトのようだ。頼まなくてもファンがこんなのをこしらえてくれるとは、ありがたいというべきだろう。俺が「墜ちていく」のタイトルをなんの気なしにクリックすると、長い文章があらわれてきた。
「いきなり、章は野犬の群れに囲まれた。ものすごいパニックになってしまう。怖い、泣きわめきたくなる。
 誰か助けてよーーーっ、と叫びたいのに声も出ない」
 もしもし、章って俺ですか?
「獰猛な唸り声、牙をむく野犬たち。
 超大型のドーベルマンやシェパードやボクサーの群れ。怖くて怖くてたまらない」
 そんな犬種が野犬の群れになってるって、いったいそこはどこだ? いちいち突っ込みを入れながらも、つい読みふけってしまった。
「今にも飛びかかってきそうだ。逃げたい、逃げられない。
 怖いよー、怖いよー、怖いよー」
 怖いよー、が何度も続く。こら、そこの章、俺なんだったらさっさと逃げんかい、と俺も叫びたくなった。
「とそのとき、章の前に立ちふさがった男がいた。
「真次郎さん!」
「俺が来たからにはもう大丈夫だ。章、下がってろ」
「怖いよ」
「泣くな、男だろ」
「うん」
 真次郎は野犬の群れを蹴飛ばした。野犬がきゃんきゃん鳴きながら逃げ出していく」
 まさか真次郎さんって、苗字は本橋じゃないよね?
「残った犬には真次郎が石を投げつけた。見事なコントロールで石が野犬の頭に命中し、最後の犬が倒れ、章は真次郎に抱きついた。怖かったよー、と泣いてしまう」
 ドーベルマンやシェパードが、人間の蹴りや投げた石でこんなになるもんかっ。こんなの読むのはやめようと思うのに、怖いもの見たさとでもいうのだろうか、目が文字をたどってしまう。映像が浮かびかけ……わーっ、浮かぶなっ、とはねのけて、それでも続きを読んだ。
「もう大丈夫だ、よしよし、と真次郎が章を抱きしめて、髪を撫でた。
「泣くなよ、よしよし、章、いい子だ」
「うん、ね、キスして」
「ああ」
 優しいくちびるが近づいてくる。真次郎の手が章の服を脱がせている。もうどうなったっていい。真次郎さん、僕を好きにしていいよ」
 好きになんかしてほしくないぞっ!! 声に出して叫んでしまったとき、うしろから肩を叩かれて、俺は文字通り飛び上がった。
「おまえ、なにやってんの?」
「うわっ、見ないで……」
「見るなといわれるとよけい見たくなるもんだよ。なになに?」
 すっかり忘れていたのだが、乾さんが俺のマンションを訪ねてきていたのだった。作詞のアドバイスをしてやると言って、今夜は乾さんが俺の部屋に来ている。やめてやめてやめて、と本当にパニックになっている俺の手を押さえて、乾さんはマウスを動かした。
「いつしかふたりとも裸になって、ひしと抱き合った。
 あったかい、真次郎さんのあったかさに癒される」
 ってこれ、ははーん、と乾さんは笑い出した。
「声に出すな。読むな」
「ほほぉ、おまえ、俺に命令すんのか」
「今だけはするっ」
「そう興奮すんなよ。じゃ、声に出さずに読むから」
「やめろってぇ」
「そんなにいやか?」
「いやですよっ!!」
「おまえが読んでたんだろうが」
「そうだけど……あまりのことに読んでしまった。だって、俺が……いや、章って奴が出てくるんですもん。なんなんですか、これは」
「噂には聞いてたけど、実物がこれなんだな。他にもあるらしいぞ。他も見てみるか」
「乾さん……悪趣味」
「俺が書いたんじゃない」
 噂には聞いてたけど、さすがに探してみようとはしなかったのか。乾さんはこんなものがこの世に存在するとも教えてくれなかったのだが、興味はあったらしい。それを俺が探し当ててしまったらしい。やめてと言っても聞いてくれず、小説もどきを読んでいた乾さんが言った。
「大丈夫だよ。こりゃ本橋じゃないよ」
「どういう意味ですか」
「こんな本橋はこの世にいない。こいつはヴァーチャル世界にのみいる本橋だ。そしたらこの章もそっちの章だ。安心しろ」
「まだ読んでる……」
「うーむ、ここまで行くと荒唐無稽がいっそすがすがしい」
「すがすがしくないっ」
「いやならおまえはあっちに行ってろ」
「それは俺のパソコンだっ」
 言ってみても歯牙にもかけてくれず、乾さんは俺を押しやって自分が椅子にかけてしまった。俺は自棄になって床にどかっとあぐらをかいた。乾さんは時おり声を立てて笑ったり、ふむふむ、ほおお、などと感心したりして、短時間で小説もどきを読み終えた。
「ダウンロードしようか」
「するなっ。したらいくら乾さんでもぶっ飛ばす」
「やってみな」
「……いえ、あの……」
 ずるいんだよな、先輩たちは。俺には先輩に殴りかかるなんて不可能だと知ってて言う。もっとも、できたとしても負けるだろうが。
「嘘だよ。切っていいか」
「とっとと切って……下さい」
 パソコンの電源をオフにした乾さんは、俺に向き直った。
「あれって都会のど真ん中みたいだったぜ。なぜそんなところに野犬の群れが出てきたのかの説明もなし。あげくの果てはえげつない濡れ場。なんつう趣味なんだろうな」
「話してくれなくていい」
「な、章、本橋には言わないでおこうな」
「当然です」
 力の抜け切ってしまった俺に、ややあって乾さんが言った。
「夢に見そうだ」
「見るなっ!」
「夢にまで責任持てないけどなぁ」
「見たとしても絶対言うな」
「見たとしたら言いたくなるだろうけど、おまえにだけ言うよ」
「乾さーん、もうやめましょうよ。今のはなかったことにしましょう」
「だな」
 けど、俺が出てこなくてほんっとによかったよ、と乾さんは笑った。
「忘れてた。章、飲め。買ったのはおまえだけど、俺も飲む」
「いつでもおごってもらってるんだから、ビールくらい遠慮なくどうぞ」
「はい、章さん、ごちそうになりますよ」
 眠気ざましにビールでも飲もうか、と乾さんがキッチンに引っ込んでいたのも完全に失念していた。なにもかもあの怪体な小説のせいだ、俺はただただ頭を抱えていたのだが、乾さんが差し出した缶ビールを一気飲みして気を落ち着けた。
「乾さんは、例のあれは完全に吹っ切ったんですよね」
「例のあれ?」
 話題を変えたくて言うと、乾さんは缶ビールをひと口飲んでから言った。
「おまえはどうなんだよ」
「俺? 俺はね……もうもう、なんで乾さんはそう聡いんですか。そういうのって……リーダーとちょっとつきまぜたらいいってのか。よくもそれだけ敏感な男と、鈍感な男がそろったもんだよ」
「ごまかしたいんだったらそれでもいいよ。俺が敏感だの聡いだのって、それほどでもないんだけど、本橋やシゲよりは聡いだろうな。あいつらが鈍感すぎるとも言える。そうだな、本橋があんなだから、俺の感覚が研ぎ澄まされていく傾向もあるってのかな。年長者三人がそろいもそろって鈍感のきわめつけだったらどうなるんだ」
「そうかも」
「幸生とおまえは鈍くはないけど、幸生の感覚は奇妙な方向に向かうし、おまえも変わってるし」
 変わってると言われると昔は、俺はロッカーだもん、変わってて当然だもん、とうそぶいたものだが、今は首をひねりたくなる。俺はあんたらほど変わってないぞ、とも言いたくなるのだった。
「ガキっぽいって意味もあるんですか」
「ある」
「それはねぇ……幸生も俺もどっかで先輩たちに甘えてるんですよ。五人兄弟の末っ子ふたりってところでしょ、幸生と俺は。だからなんですよ。乾さんにだったら俺の言いたいこと、わかるでしょ」
「わかるよ。俺が考えてるのとほぼ同じだ」
「やっぱりね。だからね、先輩たちに関わりない部分では、それなりにやってますから」
「だな。野犬に襲われたとしても……」
「乾さんっ、その話はなしだと言ったでしょっ!!」
「おー、すげえ声」
 耳を指でふさいで、乾さんは言った。
「本橋やシゲが大声を出すと、シゲはまず出さないけど、本橋だと怒鳴ってる感じになるだろ。幸生やおまえだと怒鳴ってるんじゃなくて叫んでるんだよな。俺は……」
「怒鳴らなくていいですよ。怖いから」
「怖い、俺が?」
 自覚していないらしい。本橋さんの怒りと乾さんの怒りには別種の怖さがあると、後輩たちは知っているのに、本人たちは知らない。いや、本当に気づいていないのか? 本橋さんの怖さはわかりやすいが、乾さんのは……実にわかりにくいのだ。
「俺は吹っ切ったよ。新しい恋がいつか訪れるのかどうかは、俺にはわからない。そんなことは神の領域だろ。あるときふっと、なにかのきっかけで天から降ってくる。それが恋、それが創作、だな」
「……俺にも天から降ってこないかなぁ、曲が」
「恋は?」
「恋なんかいらねえよぉ」
 嘘だけどそう言ってみたら、いらなくても降ってくるときには降ってくるんだよ、と乾さんは言った。
 その翌日、幸生が乾さんをスタジオの裏口へと引っ張っていった。俺も数分遅れてついていってみると、幸生が乾さんに言っているのが聞こえてきた。
「昨夜ね、すげえものを見てしまいました。シゲさんに言ったら風邪を引くかもしれないし……」
「シゲが風邪を引くようなすげえもの?」
「だって、シゲさんってばすぐ、悪寒がするって言うでしょ。こんな話をしたら、悪寒から風邪になるかもしれない」
「おまえの言うことはシュールだね。ほめてないぞ」
「先に言わなくてもいいでしょうに。シゲさんに風邪を引かせたらいけないし、リーダーと章は当事者だし、乾さんにしか話せない。話したくてむずむずしてたんですよ」
 そのふたりが当事者? まさか……俺の危惧を乾さんが口にした。
「インターネットか」
「むむっ、これだけでわかる? おぬし、できるな、なんちゃって。できるよね、乾さんは。そうだよね、わかるよね。なーんだ、つまんね」
「墜ちていく、か?」
「知ってるんですか、乾さん?」
 驚かせたかったのにー、なのか、幸生は悄然としてみせ、乾さんが驚かないと知って興味をそがれた調子で言った。
「知ってるんだったら話す必要もないですよね。つまんねったらつまんねー」
「おまえも見たのか。オフィシャルサイトからたどりつけるサイトだもんな。直接リンクはしてないけど、こりゃ問題だな。本橋もシゲもネットはやるだろ。シゲは風邪は引かないだろうけど、本橋は怒るか。シゲも怒るか。管理者に頼んで容易にはたどりつけないようにしてもらおう。削除するほどのものでもないだろうけど、本橋には見せたくない」
「乾さんも読んだ?」
「おまえも読んだんだろ」
「可愛い章ちゃんがドーベルマンやシェパードに襲撃されて、そこにやってきた我らがリーダーに救出されて……」
「そこまではいいけど、その先を口に出すな」
「出したくないもんね、俺も」
 そんなものはフィクションだろ、ヴァーチャル世界でなにが起きていようとほっとけ、と本橋さんは言いそうな気もするが、気の毒なのは俺だ。俺が気の毒なのだ。乾さんはしばし考え込んでから言った。
「章をからかってしまったけど、反省してるよ」
 そうだ、反省しろ、と俺がうなずいていると、乾さんは真面目な顔で続けた。
「しかし、あれって大真面目に書いてるんだよな。文章も内容もひどいものだったけど、ゲイを笑いものにしてるわけでもなかった。偏見はあるのかもしれないけど、排除しようってんでもないな。どういう意図であんなものを書くんだ?」
「楽しんでるんでしょ」
「なるほどね。幸生、おまえまで読んだと章には言うなよ。俺たちは他人ごとだけど、章には相当なショックだったらしいんだから」
「ああ、章といっしょに読んだんですね」
 言いませんよぉ、と請け合ってから、幸生は言った
「乾さんと章はしょっちゅうつるんでるんだもんな。いっしょにパソコンのお勉強ですか」
「前にも言っただろ。章と俺はひとり者同士だからだ」
「本物のひとり者? 彼女もいないひとり者?」
「今さらなに言ってんだよ。俺には彼女はいない」
「ふーん、そうなのか」
 なにが言いたいんだ? と乾さんに睨まれて、幸生はいやいや、と手を振ってから言った。
「変な趣味の女の子たちが勝手に楽しんでる分にはいいんだけど、俺を絶句させないでほしいんだよね」
「絶句したのか」
「なんやかやとね、俺は昨夜は思うように喋れなかった。一部は喋ってたけど、一部は無口になってました。その一因は「墜ちていく」。他方の一因は……」
「他方の一因は?」
「まあ、それはね、まあね」
「おまえが無口になるとは、よほどのなにかが?」
 あれ以上のものがあるのか。WEBサイトにか? 他にか? たとえあるのだとしても、俺は断じて知りたくなーい。幸生ともそんな話は絶対にしないでおこう。
 

 見たくないので帰ってからもパソコンは起動せず、窓辺にもたれてギターを抱えて歌った。今年のクリスマスにはライヴがあるから、シンガーズとしては幸せだろう。けれど、恋がない。恋がほしい。女がほしい。俺の手は勝手にギターを弾いていた。

「ゆっくりと十二月のあかりがともりはじめ
 慌しく踊る街を
 誰もが好きになる」

 ちょうどこんな季節。二十七歳の俺にとっては六年前か。あのころのクリスマスにはスーがいた。幸生がジムで言っていた、「章も忘れた誰か」とはスーだろう。俺は忘れてなんかいないのに、スーは俺を忘れたのだろうか。

「いつまでも手をつないでいられるような気がしていた
 なにもかもがきらめいて
 がむしゃらに夢を追いかけた
 喜びも悲しみも全部
 分かち合う日が来ること
 想って微笑みあっている
 色褪せたいつかのメリークリスマス」

 いつまでも手をつないで、だなんて、無邪気にそう信じていたわけではないけれど、信じたかったのに。

「立ち止まってる僕のそばを
 誰かが足早に通り過ぎる
 荷物を抱え幸せそうな顔で」

 遠く遠くにきらめくイルミネーション。スーの笑顔とあの日のツリーの幻が浮かぶ。いつかのメリークリスマス、スーとたった一度すごしたクリスマス。
 ふたりで買ったちっぽけなツリーに、ロックグッズを飾りつけた。ロックバンドのロゴ入りバッチ、ミニチュア楽器、ピック、スーのブレスレットや俺のピアスも飾って、おかしなクリスマスツリーになった。
 ツリーを前に安物のシャンパンを開け、フライドチキンを食って、俺の嫌いなケーキをスーに食わされ、抱き合って歌った。あの夜はなんの歌を歌ったのだったか。
 抱き合ってベッドに行って、心地よい酔いの中でスーを抱いた。酒の酔い以上に心地よいスーの身体に、俺は深く深く沈み込み、抱き合って眠った。あんな日々は二度と戻ってこないと知っているけれど、スーではない女とだったら、あんなこともできるかもしれないではないか。
 スーのために買ったクリスマスプレゼントは、ベースギター用の楽譜だった。スーは俺にロックっぽいTシャツを贈ってくれた。俺はあのTシャツをいまだに持っているけれど、スーは楽譜を捨てただうか。
 ロックも捨てたのか、スー? 俺だってロックは半分は捨てたけど、おまえは忘れられないよ。俺ってどうしてこんなにも未練たらしいんだろ。
 ほんのちょっと前に、ほんのちょっとだけおまえに会った。話しもしなかったスー。あの日以来よりいっそう、俺はスーに未練を抱くようになったのだ。玲奈ちゃんだって可愛いけど、他にもいいなと思える程度の女だったらいるけど、スーほどの女なんていやしない。
 おそらくは美化しているのだろうけど、なんだっていい。スーを再びこの腕に抱く日が……来ないと知っているからこそ落ち込んで、俺は落ち込み気分満タンになるような歌を歌っている。自虐的な木村章の一夜だった。


END
 

 





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