番外編

番外編56(だいじょうぶマイフレンド)

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番外編56

「だいじょうぶマイフレンド」

1

潮の香りがして波の音が聞こえるから、近くに海があるのだろう。真っ暗な中に目が慣れてきて、感覚が戻ってきて、俺は海の近くを歩いていのだと気がついた。
 夜の海を俺はひとりで歩いている。突然ここに来てしまったようだが、その前はなにをしてたっけ?
高校三年生の俺は、部屋で受験勉強をしていたのではなかったか。記憶がはっきりしないのだが、横浜の俺の家は海から近くはないのだから、急に海辺にいるはずはないのに。
「女の子がこんなところにひとりでいてはいけないだろ」
 男の声がして、俺は足を止めた。声の方角を窺ってみると、薄暗い灯りの中に背の高い男のシルエットが見えた。あっちが浜辺だ。男は浜辺にすわっている女の子に話しかけていた。
「帰ってもひとりだから」
「それでも、ひとりで夜中に海辺にいてはいけないよ。送っていこうか」
「帰りたくないの。金子さんが一緒にいてくれたら、夜中だって怖くなんかないよ」
「俺は怖くないのか」
「怖くないもん」
 知り合いであるらしい。男の名は金子。だんだんとしっかり見えてきたところによると、えらくかっこいい奴だ。金子が女の子を立たせてふたりで歩き出す。女の子は小さくて若くて、男は長身で細マッチョというのか、距離はあっても女の子に好まれそうな、かっこいい体格をしていると見えた。
「あん、足が……」
「ノノは抱っこが好きだろ。こうしてデートしようか」
「やだ。人が見てたら恥ずかしいもん」
 女の子はノノというのか。金子がノノを抱き上げて、嬉しそうな恥ずかしそうな声を上げて、ノノが彼の首にしがみつく。なんだかむしゃくしゃはするものの、俺は彼らのあとを尾行していった。
「足をくじいた?」
「うん。歩けなくなっちゃった」
「足をくじいたんじゃなくて、すこーし酔ってるんじゃないのか」
「お酒の匂いがする?」
「かすかにするよ。こら、ノノ、ビールでも飲んだな。未成年のくせして」
「もう十六だよ」
「十六歳は未成年だろ。酒なんか飲んだらいけないって、言いつけたはずだよ」
「金子さんの言いつけなんか聞かないもん」
 十六歳だったら俺のほうが年が近い。女の子の顔も全身も見えないけれど、あの可愛い声といい、男の身体の両側に見えるふわっとした髪といい、すんなりした脚といい、俺の好み。なのに、けっこういい年の男に甘えてる。だから俺はむしゃくしゃするのだろう。
「金子さんは飲んだんでしょ」
「晩メシのときにウィスキーの水割りを飲んだよ」
「お酒の匂い、金子さんからもするね」
「俺はいくつでしたかな、お嬢ちゃん?」
「ノノよりも十五歳も年上」
 すると、三十一。おっさんじゃないか。
「三十一の男が夕食で酒を飲むのは普通だけど、おまえはいいんだったかな」
「いいんだもん」
「飲んでしまったものは仕方がないけど、おまえは本当に足をくじいたばっかりだろ。酒は怪我にはよくないと言っただろ」
「この前のは直ったの。新しくくじいたの」
「怪我ってほどでもないんだろうけど、酒はやめなさい」
「知らないよーだ」
「口答えばかりして……足をくじいたなんてのも嘘だな」
 笑い声で言って、金子はノノを降ろして先に立って歩いていく。ノノが足をくじいたと言ったのはたしかに嘘だったようで、小走りで追っていって男の背中に抱きついた。
「足、痛いよ」
「痛い足で走ったようにはなかったよ。嘘つきで俺の言いつけを聞かない子は……」
「いやいや。怖い顔をしたらいや」
「子供はねんねの時間でしょ。素直に帰るんだね」
「……嫌いだもん」
「ノノ」
 いったいこのふたりはどんな関係だろ。立ち止まって見ている俺のほうへと、ノノが走ってくる。彼女はまったく俺には気づいてもいないようだが、岩陰に隠れてノノの顔をはっきり見た。想像以上の美少女だった。
 ずきーん、どきーん、となったのは、これだけの美少女を見たのだから当然だ。小さくて華奢で、淡い緑いろのワンピースを着た姿は、海の泡から生まれたアフロディーテの少女時代のようだ。わがままみたいだけど、これだけ綺麗だったら許せるかも。
 たぶんノノには金子って奴しか見えていないのだろう。俺がここにいるとは気づきもせずに、走っていく。金子がノノを追ってくる。長い脚の男の速度にちっちゃな女の子がかなうわけもなくて、じきにノノはつかまってしまった。
「いい子にできないんだったら、できるようにしてやろうか」
「金子さんってすぐにそう言うけど、どうするつもり?」
「十六のわがまま娘を、大人の兄貴が扱うようにだよ」
「ノノには兄さんなんかいないから……」
「そしたら知らないよな。おばあさまには甘やかされて育てられたんだろ。怖くてきびしいお兄ちゃんになってやろうな。来なさい」
「いやだってば」
 金子はノノを抱き上げて、抵抗なんかものともせずにのしのし歩いていく。なにをするつもりだろ。俺も心配になってきた。
 暴力的にするつもりだったら、阻止してやりたい。けれど、背が高くもなくて力も強くない俺では、大人の男には勝てない。どうしたらいいんだろ。金子に気づかれたら俺が殴られたりして? そう思うと竦んでしまって、咄嗟には動けなかった。
 いいや、こうしていてはいけない。思い直して金子が歩いていったほうへと行ってみたら、砂浜から声が聞こえてきた。
「……ああ……うん……ああ、そうだ」
 ノノの声は聞こえなくて、金子がうんだのああだのと言っているのだけが聞こえる。ノノは泣いているのか。あいつに泣かされたのか。
「おまえは俺たちとは縁もゆかりもない子ではないだろ。俺はおまえのおばあさまも知ってるよ。だからだろ。お節介なのかもしれないけど、おまえのそばにいられる間は……」
「……お節介……じゃないよ」
「そう思ってくれてるんだったらいいよ。泣き止んだら帰るんだ。いいね」
「……金子さんも一緒に?」
「送っていくよ」
「それだけ?」
「当たり前だろ」
 なんだかとーってもむしゃくしゃするけど、ノノは暴力をふるわれたのでもなさそうだから、ここでしゃしゃり出ては俺がいらぬお節介焼きになってしまう。悔しいってのも変なのに、悔しい気分で俺は歩き出した。
 あんなおっさん、どこがいいんだよ。俺のほうがいいだろ。俺はきみと年も近くて、俺は……俺は……俺は……頭をぐるぐるさせながら歩いていたはずだった。
「はれ?」
 寝てたのか? 俺は横浜の家の自分の部屋で受験勉強をしていて、居眠りしていて夢を見たのか。そうとしか考えられない。
 たった今、どこかの海辺で大人の男と美少女の、ラヴシーンとは呼べないまでも甘いシーンを覗き見していた。なのに、次の瞬間には机の前にすわっている。とすると、夢だったのだろう。金子とノノなんて名前も覚えているし、ふたりの姿も覚えているけれど、時間が経てば忘れるのか。
 夢だったのならそんなものだろう。俺もノノと話をしたかったのにな、夢だったのに、そんなふうにも考えていた。


 が、しかし、夢が続くなんてあるのだろうか。またしても俺はここにいる。どこなのかは知らないけれど、海辺だ。黄昏の海を見ている女の子の背中はノノ。近づいていきたい。話しかけたい。仲良くなりたい。
 そうは思っても足が動かない。ただぼーっとノノを見ていると、金子ではない男がノノに歩み寄っていくのが見えた。
「ライヴには来てくれたのか」
「ああ、本橋さん? ちょっとだけ見にいったよ」
「今夜は俺たちの民宿で、晩メシを一緒に食おうか」
「金子さんもいる?」
「いるよ。俺たちは六人で同室なんだし、メシだって一緒だよ」
「昨日……金子さん、なにか言ってた?」
「ノノの話は特にはしてなかったな」
 昨日ってあれか。あの続きか。ノノは立てた膝に自分の頬を乗せて言っていた。
「なんにも言ってなかったんだったらいいの。本橋さんは金子さんが好き?」
「好きってのかなんてのか、尊敬する先輩ではあるな」
「金子さんは本橋さんの大学の先輩で、合唱部で二年間、一緒に活動してたんだって言ってたよね。大学生の金子さんってどんなひとだったの?」
「ひとことでは言えない、わかりづらい男だったよ」
「わかりづらいの?」
 本橋という男も背が高い。彼はノノのかたわらにすわって、海を眺めながら言った。
「合唱部は体育会みたいなものだったし、先輩は後輩を押さえつける傾向もあって、それでいて、心を尽くして面倒を見てくれた。俺もそうなんだろうけど、熱血漢の先輩も多かったから、よく怒られたな。殴られたりもしたし、走ってこいって言われたりもしたよ」
「怖いんだね」
「怖くはないさ。男同士はそれでいいんだ」
「……ノノも……」
「んん?」
 小さい声でノノが言った。
「本橋さんと同じくらいの年に生まれたかった」
「男にか」
「女の子のほうがいいな。それでね、ノノも合唱部に入るの。女の子も殴られるの?」
「うちの合唱部は男子部と女子部に分かれてたんだよ。キャプテンも別々だったし、別々の方針で活動してたから、俺は女子部はあんまり知らないんだけど、殴るの走ってこいのは男子部のみだろ。女子部は和やかにやってたよ」
「じゃあ、女の子のほうがいいんだよね」
「女子は女子で……ったって、ノノが男になったって……うん、きみは女の子がいいよ」
「ノノもそのほうがいい」
 これは夢だからか、俺にはノノの心の中が見えた。
 大学三年生になった金子のいる合唱部に、ノノが入部する。ノノは女子部に入部するのだが、別々といっても合唱部なのだから、金子と触れ合うチャンスはある。十六歳と三十一歳ではどうにもならなくても、ふたつ年下の女の子ならば、先輩と仲良くなるチャンスだってある。
「金子さん、食事に行きません?」
「ああ、いいよ。村瀬さんは……」
「ノノって呼んで下さいね」
 ノノが食事に誘い、お喋りをして親しくなって、そうしているうちには、つきあって下さい、なんて言ってもらえるかな。心の中でノノはそう考えていた。
 十六歳のノノは金子さんには子供だとしか見てもらっていないけど、そうしたら女性として意識してもらって、恋がはじまる? いつかはいつかは……本橋と話していても、ノノの心には金子しかいないと、俺にはわかった。
 そんなのは自分勝手な空想だろ。金子なんて奴はきみよりも十五も年上で、手の届かない相手じゃないか。そんな奴は忘れて俺と……でも、ノノには俺はひとつも見えてもいないのか。ノノは俺の夢の中の美少女?
 きみの恋心も切ないんだろうけど、俺はもっと切ないよ。どうしたらいいんだ。夢の中の女の子に恋するなんて、俺は……どうしたらいいのかなんて、わかるはずもなかった。


 昼間の海辺にノノがいる。今日も別の男がいる。ノノはそいつに言っていた。
「昨日、民宿に行ったの。乾さんは知ってた?」
「いや、知らなかったよ」
「……そうかな」
「なにをしに来たの?」
「……言えない」
 ノノの心が俺には見える。ノノが昨夜、なにをしたくて民宿に行ったのかも見えてきた。
 金子に会いたくて、高まる一方の恋心を受け入れてもらいたくて、忍んでいったのだ。金子は出てきてくれたけれど、言わせてくれなかった。
「こんな時間に女の子がひとり歩きをするんじゃないよ。送っていくから帰りなさい」
「金子さん……」
「いいから帰りなさい」
 そうとしか言ってもらえなくて、金子に送られて家に帰り、ノノはひとりで泣いていた。
「思い通りにはならないのが世の常だよ。ノノにとっても勉強だろ」
 どこまで察しているのか、乾が言った。
「金子さんってひとはノノにもきびしいところはあるけど、結局、それが彼の優しさってのか、真心だと知ってる?」
「勉強なんかしたくないし、優しさも真心も、ノノには……」
「それが一番。金子さんだってそうしかしようがないんだ。ノノだって小さい子供ではないんだから、わかろうとしなくちゃ」
 黙ってしまったノノに、乾は言った。
「抱かれて捨てられて、そうしたほうがきみの心は安らかになるの? それで幸せになれるの? このまんまのほうがいいだろ」
「知ってる……んだね」
「俺は知らないけど、こんな歌もあるよ」

「夜明けの海が悲しいことを
 あなたから教えられた海岸通り
 あなたの言う通り
 妹のままでいたほうがよかったかもしれない
 あなたがいつかこの町はなれてしまうことを
 優しい腕の中で聞きたくはなかった」

 乾が歌う。プロの歌手みたいに歌がうまい。ノノは小さくかぶりを振る。ノノの目には涙。乾はそこで黙り、俺は誰にも俺がここにいるとも気づかれぬままに、ノノだけを見ていた。


 出会ってはいない。俺は夢を見ている側で、ノノや他の男たちは夢の登場人物。こんなのは現実ではない。なのに、俺はノノに恋してる。
 もしもこれが現実だとしたら、いっそう切ないのかもしれない。俺が好きになった女の子は、どこかの誰かに恋をして、そいつに抱かれたくて、そいつはノノの想いに応えてはくれない。大人の分別ってやつなのだろうけど、俺は金子を責めたいのか。
「ノノはあんたを好きなんだから、抱いてやったらいいだろ。あんたについていくって言ってるんじゃなくて、一度でいいから抱かれたいんだ。そんなの、簡単にできるだろうが」
 けれど、金子がノノを抱いたりしたら、それはそれで怒りたくなるだろう。かなわないなんて承知していても、俺は金子に殴りかかるかもしれない。
 どっちも俺にはつらすぎる。なんといっても、俺はノノにとっては幻以下で、目にも入っていない。そんな女の子に恋をしている俺が間抜け以下なのだ。恋? これは恋? かなわぬ恋に苦しんでいるのは、ノノも俺も同じなのか。
 受験勉強の現実逃避なのか、夢なのか。現実逃避だったら俺はノノと恋人同士になって、楽しい恋をしたい。そうはできないのだから、こんな夢は見たくないよ。
 見たくないけど、ノノには会いたい。苦しいやつらいはノノを見ているときだけだから、目覚めれば勉強に専念できるのだから、こっちの世界に入り込むのはいやではなかった。でも、ノノは俺が一方的に会うたびに、誰かに向かって言っていた。
「ノノちゃん……うーん……俺にだってさ……」
「どうかしたの、シゲさん?」
 朝の浜辺で、俺と似た中肉中背、やや筋肉質の男と、ノノが話していた。
「いや、俺にはうまく言えないからさ」
「優しいよね、みんな。乾さんも本橋さんもシゲさんも……」
 そのあとのノノの言葉が聞き取れなくて、俺は耳を澄ました。シゲさんも……それから、別の名前を口にしたようなのだが、俺には聞こえなかった。
「シゲさんって鈍感だって聞いたけど、そんなシゲさんにまで悟られちゃったんだ。ノノって粗忽なのかな」
「粗忽っていうんでもなくてだね……」
「ノノは日本語もちゃんと使えない子供。金子さんにも言われたよ」
「そういう意味でもなくて……」
「みんながノノに言い聞かせてくれたから、いくら子供だってわかったよ。人生勉強がしたいんじゃなくて、ノノは……」
 金子さんと素敵な恋がしたい、言葉にしなかったノノの言いたいことが、なぜか俺には読み取れた。
「だけど、無理だもんね。無理なものはどうしたって無理だって、乾さんも言ってた。乾さんってノノとおんなじ、おばあちゃんっ子だったんだってね」
「そうみたいだね」
「ノノはおばあちゃんに甘やかされて育って、わがまま娘になったんだけど、乾さんはそうじゃないよね」
「乾さんのおばあさんはきびしかったらしいよ」
「ノノのおばあちゃんは優しかったの。優しいおばあちゃんが大好きだったけど、きびしいことも言ってくれる、お兄さんたちも好きだよ。シゲさんも好き」
「う、うん、ありがとう」
 シリーズものみたいな夢を見ていて、ノノの境遇も知った。ノノはおばあさんに育てられ、そのおばあさんを亡くしてひとりぼっちになって、この海辺で金子たちに出会ったのだ。おばあさんと金子たちが知り合いだったようで、男たちはノノをかまってくれる。
 傷心のノノは彼らに力づけられて、立ち直りつつある。無邪気な子供として彼らになついていればよかったものを、恋なんかするから馬鹿なんだ。
「だけど、ノノはもう……」
「ノノちゃん?」
「ううん、平気」
 ここから走り出して、ノノに言ってやりたい。なんと言ってやりたいのかも浮かばなくて、動くこともできなくて、俺は最後まで、ノノを見ていただけだった。


2

 大学に入学してから約一年、合唱部の一年生たちが卒業していく先輩たちの門出を祝して、セレモニーに出席することになった。間もなく卒業式を迎える日に、俺もステージに立つ。
 合唱部にいた四年生もいる。合唱部ではない先輩たちも聴いてくれている。歌はうまくもないのに合唱部に入ったのだから、俺は合唱にも自信はないのだが、今日は力の限りに歌おう。下手だけど歌は好きなのだから。
「うーうー、酒で度胸をつけるってのは……」
 木村龍が言い、俺も言った。
「おまえは未成年だろ」
「俺は一浪だからねーだ。二十歳になったよーだ」
 同じ一年生ではあるのだが、龍は成年になったのだ。どこが大人だ、ってなものだが、年齢だけは成人男子、酒も飲んでもいいのかもしれないが、歌う前に飲むな。
「俺は成人式もすませたんだぜ」
「振袖を着て稚内で成人式か」
「おまえは三沢さんのいとこだけあって、下らねえジョークが得意だよな」
 龍とは奇しき縁とでもいうものがあった。
 学部がちがうので、初に会ったのは合唱部の部室での新入生歓迎パーティの席でだ。昔は男女別だったという合唱部は、近年になって合併されてひとつの部となっている。キャプテンの日向房子さんが乾杯の音頭を取り、ジュースやコーラで乾杯して部員たちと話していた際に、どちらかがどちらかに話しかけた。
 そこに日向さんが首を突っ込んできて尋ねた。木村龍くんと三沢雄心くん? あなたたちって、フォレストシンガーズの木村さんと三沢さんとは関わりがあるの?
「俺は木村章の弟だよ」
「俺は三沢幸生のいとこです」
 日向さんは胸を押さえて喘ぎに近い声を出して驚き、他のみんなも驚いていた。俺もびっくりした。
 弟とはいっても、龍の兄の章さんは大学入学と同時に故郷を離れたのだから、当時は龍は小学校の一年生だったのだ。章と龍の兄弟には十二歳もの年の差があって、それから兄貴とはほとんど会っていないと言っていた。
 俺はといえば、幼稚園のころに幸生さんと会った記憶はあるものの、兄弟でもないのだから、交流はほとんどなかった。幸生さんと俺の年齢差は十三歳。そんなに年が離れていれば、いとこの兄ちゃんと遊んでもらうなんてこともめったになかったのだから。
 親が噂していたので、俺は幸生さんがフォレストシンガーズのメンバーとなっているのは知っていた。幸生さんの妹で、俺からみればいとこの姉ちゃんである雅美さんからも、フォレストシンガーズについては聞いていた。
 龍にしても兄貴とは離れ離れで育ったのだから、フォレストシンガーズについてはそうは詳しくもないようだが、むろん俺たちは、兄貴といとこのいるプロのヴォーカルグループを知っていた。
 知っているとはいうものの、さほどに売れてもいないのだし、彼らはうちの合唱部出身ではあっても、たいして有名ではないと、龍も俺も思っていた。だが、案外、合唱部ではフォレストシンガーズは有名だったのだ。
 そんな縁があったのもあって、俺は合唱部では龍とはもっとも親しくしている。ふたりともにさぼりが多いので、熱心に活動はしていないが、合唱部以外でも龍とつるんで遊びにいったりはしていた。
 その龍もステージに立つ。あの三沢さんと木村さんの身内にしたら、歌は下手、はまぎれもない事実だが、練習も真面目にやってないのだから、しようがないってことで許してもらおう。幸生さんだって言っている。
「歌はハートだ、ソウルだ、スピリットだ」
 その精神を見習って、俺もソウルで歌おう。
「ノノちゃんが来てるよ」
 ステージの袖から、龍が客席を指差した。
「輝いてるな、観客のひとりになってても」
「ノノちゃんって、合唱部の村瀬野々花さん?」
「そうだよ。あれだけの美女って、他にはいなくないか」
 ノノ……村瀬野々花。なんだろ、なんだろ、記憶を刺激する。なんの記憶だろ。
 三年年上の彼女はとびきりの美人だからもあって、俺だって存在を知っていた。特に親しく話したこともないのだが、昔……彼女とどこかで……そんなことはないはずなのに、そんなことがあった気がした。

「目を閉じてごらん愛が見えてくる
 遠く近くにあなたをとりまく
 優しいハーモニー感じたら目を開けて見て!

 だいじょうぶマイ・フレンド
 だいじょうぶマイ・フレンド
 あなたを愛している人がいる

 だいじょうぶマイ・フレンド
 だいじょうぶマイ・フレンド
 決してひとりじゃない この世界
 だいじょうぶマイ・フレンド

 手を出してごらん 愛が触れてくる
 友だちの また友達の輪が
 広がるシンフォニー素敵でしょ 勇気を出して!」

 けれど、思い出せない。一年生男女の合唱に参加していても、俺は記憶を探って、思い出せないままでいた。なのなのに、俺は彼女に恋をしていたような気が、しきりに沸き起こる。
 そんなはずないでしょ。ほとんど話しもしたことのない先輩に、恋をするわけがない。友達にもなれなかったから、マイ・フレンドでもないけど、なぜか俺はあなたにこの歌を捧げたい。大勢の合唱の一員としてだけど、俺の歌を聴いてくれてるよね。

「だいじょうぶマイ・フレンド
 だいじょうぶマイ・フレンド
 あなたを信じている人がいる

 だいじょうぶマイ・フレンド
 だいじょうぶマイ・フレンド
 決して淋しくない この世界
 だいじょうぶマイ・フレンド

 ・・・and I love you all
 ・・・and I love this world

 この地球のかたすみで
 だいじょうぶマイ・フレンド
 だいじょうぶマイ・フレンド
 あなたを愛している人がいる」

 誰かに恋をしていたノノに、恋をしていた俺。そんなはずはないのに、そう思ってしまう。記憶がつかまえられなくてもどかしい。
 どう頭をひねっても思い出せないけど、あなたのために歌うよ、ノノ。卒業していくあなたは、恋は拭い去った? 誰だか俺は知らない男に恋をしていたことって、遠い昔だろ。忘れたよね。それほど美人のあなたには、彼氏もいるんだろうな。
 観客の中にまぶしい笑顔が鮮やかに見える。ノノ、なんでだか俺は切ない気持ちになっちまう。別にあなたに恋をしているわけじゃないのに、どうしてだろ。友達でもないけど、幸生さんはいつも言ってるよ。
「人類は皆友達だ。同じ大学、同じ合唱部なんだから、狭い範囲はさらに親密な友達だよ」
 だそうだから、あなたも友達だよね。だからこの歌はちょうどいい。マイ・フレンドとしてのノノちゃんに捧げよう、この歌を。

END

 





 
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