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小説168(ONE MORE TIME)

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フォレストシンガーズストーリィ168


「one more time」

1

すでに七年も前になるのか。
 ラジオの仕事、イベントの仕事、司会業、ナレーション、そのような仕事が入るようになって、僕もぼつぼつではあるが多忙になっていた。喋れば喋るほどに口が鍛えられるのは、三沢さんで証明ずみだ。
 大学の先輩たちの中では、僕ともっとも関わりが深くなっているのは今では金子さんだ。その金子さんが僕を飲みに誘ってくれて言った。
「徳永もついにデビューが決まったんだよ。祝宴を催してやりたい。そうなると合唱部のOBやOGを招くってことになるだろうから、おまえが発案者になってくれないか」
「僕がですか」
「徳永の気性を考えてみろ。俺が言い出したらあのひねくれ者がどう出るか」
「徳永さんってひねくれてますか。うーん、ちがいないかも」
「だろ。おまえだったら角が立たないんだよ」
「角が立たない」
 芸能関係の仕事をしている先輩たちとは関わりがあるのだから、徳永さんとも会うことはある。学生時代のつきあいはさしてなかった彼の気性とやらは、金子さんの話を聞いていても多少は理解できていた。
「徳永は小笠原には信が置けると考えていた節があるんだが、小笠原は消息不明だ。徳永は本橋と乾と三沢は大嫌いだそうで、それにしたって本音だかどうだかは知らないけど、徳永がそう言ってる奴を発案者にはできない。本庄でもいいんだけど、おまえのほうがよりよい。最年少だからさ」
「最年少がいいんですか。僕と同い年の連中には……」
「徳永の記憶にある合唱部の最年少者はおまえなんだそうだよ」
 そう言われては断れなくなって、会場の手配をした。三沢さんにも電話をかけて、フォレストシンガーズのみなさんに伝えてもらうようにお願いした。徳永さん当人には金子さんが根回しをしてくれて、徳永渉のデビューを祝う会が催された。
もしも山田さんが来たとしても、ごく普通に挨拶できる心境に達していたのだが、山田さんはあらわれなかった。
「意外や意外、おまえって会うたびに大人っぽくなるよな」
 フォレストシンガーズではただひとり、出席してくれた三沢さんが言った。
「おまえがそんなだから、俺ばっか先輩たちにいじられるんだ」
「僕は大人ですから」
「俺より年下だろ」
「二十歳をすぎたら大人です。三沢さんがガキっぽ……」
「なんだと。聞き捨てならねえな」
「三沢さんがその声で凄んでもさまになりませんよ」
「おまえだったらどうやるの?」
「僕は凄んだことなんか一度もないんですから、できません」
 会場は合唱部同窓会の趣を呈してきている。徳永さんは僕より三つ年上なので、彼の記憶にある最年少者が僕なのは当然なのだろう。僕以下の年齢の者を徳永さんは知らない。そうなると会場にいる最年少者も僕で、僕と同年の者は誰もやってこなくて、僕は合唱部の一年生のごとき下っ端気分を味わっていた。
「なに言ってんだよ。俺なんか仕事中も最下っ端だぞ」
「木村さんがいるじゃありませんか」
「あいつは下っ端以下」
 先輩たちに苛められては、年下の僕にいばりにくる三沢さんと話をしたり、酒巻、酒が足りないぞ、と言う先輩にこき使われたり、さりげなくあちこちに目配りをしたりしていると、ひとり消え、ふたり消えして、会場の人数が減っていく。とうとう僕がひとりっきりになったので、帰ろうとしていたら、誰かがやってきた。
「遅かったか」
「乾さん……」
 ま、いいんだけどね、俺は徳永に嫌われてるんだから、と苦笑している乾さんに、僕は言った。
「僕は乾さんがいらして下さって嬉しいです。飲みましょうよ」
「幸生も帰っちまったんだな。徳永もだし、金子さんもか」
「みなさん、いつの間にか消えてしまいました」
「おまえとふたりで飲むのもいいよな。飲めるのか」
「飲めますよ」
 合唱部での初の記憶の中には乾さんがいる。いつになっても、僕のはじまりは乾さんだった気がする。男性では乾さん、女性では山田さんだ。ただなつかしくて、思い出すと胸がほんのりあたたかくなる、僕の少年時代の終わりごろの思い出。
「徳永の様子はどうだった?」
「ぶっきらぼうでしたけど、喜んで下さってはいたようです」
「金子さんってほんとに後輩思いだな。頭が下がるよ」
「乾さんだって……」
「俺はたいしてなんにもしてないよ」
 ともに合唱部にいたのは一年きりなのだから、乾さんとのつきあいは短いものだった。なのに鮮烈な印象なのは、乾さんがそういうひとだからなのだろう。優しさもきびしさも僕の心に強く残っていた。卒業してからだって、乾さんにはどれほどお世話になったか。
「僕がいちばんお世話になったのは、学生時代は三沢さんでした。フォレストシンガーズのみなさんの中では、三沢さんとは三年間いっしょに活動していたんですから、当たり前なんですけどね」
「そうだな」
「だけど、小笠原さんも……」
「ヒデとなにかあったのか」
 あれっきり誰にも告げていない出来事を、僕は話した。
「僕が山田さんに恋をしてたのは、乾さんもごぞんじですよね」
「もちろん」
「ふられたのも知ってらしたんでしょう。なにも言わずに僕を……」
「なにかしたか、あのとき、俺? 俺はなんにもしてないよ。ヒデはおまえになにかしたのか?」
「ぼっかーんってやられました。僕、泣いてたんですよ。山田さんにさよならしようって言われて、ひとりになって泣いてました。そしたら小笠原さんに会って、男が人前で泣くな、って怒鳴られて……」
「ヒデならやりそうだな」
「僕、あんなにきつく殴られたのって最初で最後です」
「きつくじゃなかったらあるんだろ」
「なくもないけど、乾さんにも……」
 俺がなにをしたんだよ、ととぼけている乾さんの顔を見返して、僕は言った。
「なのにね、小笠原さんは、あんなの本気で殴ってないって……」
「なにがあったのかにもよるけど、まともな男は後輩を本気では殴らないよ」
 ましてこんなちびだからね、と乾さんは言いたかったのかもしれない。たとえば三沢さんが大柄な後輩を本気で殴ったとしたら、それだったら許されるのだろうか。三沢さんが人を殴る図は想像もできないのだが、乾さんは……
 あのときだって、乾さんは僕を左手で叩いた。本気ではなく、怒りにまかせたのでもなく、自分自身をも叱るためだったのか。あとから僕はそう考えたのだが、乾さんはそんなことはなかったみたいなそぶりでいるので、僕も口にせずに別の質問をした。
「小笠原さんは、今はどこに?」
「知らないんだよ。シゲでさえ知らないんだ」
 どうしてなんだろう。三沢さんも乾さんも金子さんも、時として小笠原さんの名前を口にすると寂しげな風情になるのに、徳永さんだって、小笠原さんをなつかしんでいるらしいのに、どうして小笠原さんは、誰も知らないところにいるんだろう。僕にはわからない。
「小笠原さんは僕を忘れてるだろうけど……」
「忘れてないよ。そんなことがあったってのに、忘れられるはずがないだろ。ローランサンの詩にこんなフレーズがあるな」
 いちばん哀れなのは、忘れられた女、と乾さんが口ずさむ。男も同じなんだろうな、と言って微笑んだ。
「だけど、忘れたほうがいいって場合も……」
「たしかに。忘れないと前には進めないんだから」
 けれど、俺は忘れないよ、と乾さんは言いたいのだろうか。ヒデを忘れないよ、と? 僕も忘れなくてもいいんだろうか。昔、好きだったひと、として、山田さんやさっちゃんを覚えていてもいいのだろうか。口には出さずに考えていると、乾さんは僕の想いを読み取ったようにうなずいた。
「で、今はおまえは恋はしてるのか」
「乾さんは? あっと、えっと、先輩のプライバシーを詮索してはいけないんですよね。前に三沢さんに怒られました」
「そのくせ幸生は、おまえは彼女がいるのか、って訊くんだろ。なにが先輩のプライバシーだよ。俺のプライバシーはかまわないのか」
「後輩のはいいんだそうですけど、乾さんの詮索するんですか、三沢さんは?」
「しょっちゅうやってる。あいつは好奇心が強くてさ、猫みたいな奴なんだ。幸生は猫好きで、ガキのころから猫と暮らしてたそうだから、気質が猫に似てきたんだよ」
 僕が知っている話も、知らない話も、三沢さんににまつわるエピソードを話してくれてから、乾さんは再び微笑んだ。
「おまえはあいつと大学で三年もつきあってたんだな。シゲやヒデもそうだったんだし、本橋も俺も章も散々つきあってきたけど、いまだに幸生には意表をつかれるんだよ。疲れる奴だろ」
「疲れなくもないんですけど、楽しいですよ。僕、おまえも好きだよ、だなんて男に言われたのは、三沢さんにだけです」
「女の子には? 女の子はおまえとは言わないか」
「ええ、まあ、女の子にもそれなりには」
「言うようになったじゃないか、酒巻。いい傾向だよ」
 もしも僕が合唱部に入らなかったら、たったひとつの僕のとりえ、いい声だね、と言ってもらえるこの声をコンプレックスにして、暗くてろくに口もきかない男になっていたかもしれない。
 ラジオで僕の声を聴いてくれて、ファンになってくれた女性もいる。そういうひとにイベントで姿を見られて、ええっ?! あれが酒巻さんっ?! と驚かれたりもしたけれど、そうなんですよー、びっくりしたでしょ? と笑えるようになった。
 そりゃあね、金子さんや徳永さんみたくかっこいいルックスをしていたら、そうしてこの声だったらもてもてだったかもしれない。ファンになってくれたひとだって、本物の僕を見て、ギャグみたい、って笑ったりはしなかったかもしれない。次々に恋人もできたかもしれない。
 もうじき二十五歳になろうとしているのに、二度しか恋をしてないなんて、僕は今どき珍しい奴なのかもしれない。けれど、たったひとつのとりえを武器に生活していけるようになったのだから、恋なんてなくてもいい。
 たったひとつでも僕にとりえがあって、それを気づかせてくれた合唱部に感謝したいのだった。
「やっぱりうまくは言えませんけど、でも、僕、あれもこれもひっくるめて感謝してます。乾さんにも感謝してます」
「俺はなんにもしてないって」
「してくれました。覚えてますか」
「なに?」
 はじめていっしょに歌った歌、と言うと、乾さんが歌いはじめた。
  
「No New Year's day to celebrate
 No chocolate covered candy hearts to give away
 No first of spring
 No song to sing
 In fact here's just another ordinary day 」

 あの日となんにも変わっていない、乾さんの高くて綺麗な声。今は僕には愛してると告げる女性はいないけど、僕の心にはあのころがあって、あのころから続く現在がある。愛してる、って言いたい相手は女のひととは限らない。僕は過去も現在も未来も、そこにいる人たちも愛してる。
 徳永さんのことも愛してる? と訊かれると首をかしげたくなるけど、徳永さんのおかげで乾さんにも会えたんだから、愛しているうちに入れてあげよう。入れていりませんか? と徳永さんに想像で質問してみたら、ニヒルな微笑が見えた。
 徳永さんはあのニヒルさがかっこいいのかも、と思って真似をしようとしたら、乾さんがぶっと噴き出した。
「乾さん、実は僕とはじめて会ったときにも、笑いたかったんでしょ? 正直に言って下さい」
「そんな過去は忘れたよ」
「覚えてるくせに。あのころよりは僕は大人になりましたよね」
「もちろんだよ」
「やっぱり覚えてる」
「いやいや、おまえの第一印象は声だったからさ」
「声と外見のギャップでしょ」
「おまえは酒癖が悪いのか。だとしたらそれも外見と似合わないよ。からむな」
「からんでるように見えました? すみません。いいえ、からんでませんよ、乾さん。愛してます」
 一瞬ぼけっとしてから、乾さんはがははと笑った。
「そういう意味でだったら、俺も愛してるよ」
「そういう意味です」
 ああ、よかった、と言いながら笑っている乾さんとふたりして、思い切り笑った。乾さんの高い声と僕の低い声も、あの日とおんなじようにハモっていた。


2

 躍り上がりたいほどに嬉しかったり、それでいて寂しかったりも切なかったりもした。ヒデさんに会えた。本橋さんと美江子さんは結婚した。
 いくつもいくつものそんな出来事を経て、僕は今、ニューヨークにいる。
 いくぶんかは英会話能力は上がったのだが、当地でDJをするほどではないので、日本人の経営する日本料理店でアルバイトをしながら、歌の勉強をしている。歌うのではなく、音楽の本場で音楽というものについて学んでいるのだ。
 こちらにも知り合いはできたものの、生まれて育った国の人々とは遠く離れて、思い出すのは先輩方。金子さんに沢田さんに徳永さん、フォレストシンガーズのみなさん。美江子さんにヒデさん。フランさん。合唱部時代の先輩も、DJ時代の先輩もだ。
 アルバイトを終えて、ひとり暮らしの小さなアパートに帰って、僕はパソコンを起動した。時間のあるときには、かねてからの僕の念願であった、フォレストシンガーズ年代記を綴っている。
 お許しはいただいていないのだが、脱稿したらぜひとも出版したい。できたらいいな、程度ではあるのだが。
 パソコンには先輩方からのメールを無数に保存してある。日本にいたころの分も、ニューヨークに渡ってからいただいた分も。先日、暑中見舞いを出したら届いたみなさんからのメールを、執筆の前に読み返してみた。
「酒巻、元気か? 俺たちも元気だよ。シゲさんちの広大、こんなに大きくなったぞ。ますますシゲさんにそっくりだろ」
 写真つきのメールは、三沢さんがくれたものだ。シゲさんそっくりとしか言いようのない、四角い顔で目が細くて、小さいわりには頑丈そうな身体つきの広大くんが、大泣きしている写真だった。
「三沢さんが泣かせたんですか」
「ちがうよ。おなかがすいたよぉ、って泣いてるんだ。食欲魔なところもシゲさんそっくりだよ。恭子さんにもそこは似てるだろ」
 まるで三沢さんと会話しているような錯覚に陥る。僕の返信と、返信への三沢さんの返信だ。
「かすがいなんてなかったとしても、シゲと恭子さんの愛は深く深く、なおも深く進行してるんだね。その上に絆を強めてくれる息子ができた。やはり俺にはうらやましいよ。酒巻、おまえには恋人はできたか?」
 これは乾さんからのメール。乾さんには恋人はできましたか? と返信したのだが、返事は届いていない。乾さんにできないんだったら、僕にできるわけがないではないか。
「ふられた」
 ただひとことのメールはヒデさんからだ。誰にふられたんだろう? ヒデさんには恋人がいるのか? いたのか? もしや泉水さん? とは思うのだが、返信しづらくてほっぽってある。
「お葉書ありがとう。こっちはお変わりないよ。本橋くんったら、おまえがメールしとけって言うんだけど、みんな元気だからね。酒巻くんも元気でやってるんだね。たまには帰ってこられないの?」
 これは美江子さんからのメールだ。
「ご丁寧にありがとうございます。シゲちゃんったらね、面倒くさいなんて言うのよ。フォレストシンガーズもすっごく忙しくなったけど、メールしてる暇がないほどじゃないのにね。かわりに私が返信します。広大もシゲちゃんも私もお待ちしていますから、日本に帰ってきてね。ニューヨークに永住するだなんて言ったら、恭子は泣いちゃうよ」
 奥さんのいる先輩は、自らではなく代筆メール。これはシゲさんの奥さんの恭子さんからのメールである。
「そのまま続けて、しっかりやれよ」
 金子さん。
「元気そうだね。よかった。酒巻くん、会いたいな」
 沢田さん。
「酒巻くーん、忘れかけてたんだけど思い出させてくれてありがとう。早く帰ってこないと完全に忘れるぞ」
 フランさん。忘れるなんて言わないで下さい、と返信したら、ハートマークつきで、嘘、嘘、嘘だよ、と再び返信が届いた。
 木村さんと徳永さんは返事をくれないが、お元気でいるのだろう。その他の先輩方にも、日本でお世話になった方々にも、葉書をしたためて送り、このところ僕のメールボックスには続々と日本からのメールが入ってきていた。
 オフィス・ヤマザキ事務員の玲奈さんからのメールもあった。
「このたび、玲奈は結婚が決まりました。お祝いを下さるんだったら、アメリカの新進デザイナーの作品の、センスのいい食器がいいな。ペアの朝食プレートとか? ありがとう、酒巻さん」
 お祝いすると言う前のメールだ。玲奈さんもちゃっかりしている。
 昔のメールもある。しっかりしろ、と金子さん、元気出してね、と沢田さん、泣くなよ、と三沢さん。古いメールを読み返していると泣きたくなってきて、僕は心で金子さんに話しかけていた。
「ひとりでニューヨークで暮らしてるんだから、僕だって大人になったはずなんですよね。なのに泣いたりしたら、金子さんに叱られる。僕はいまだに、気が弱くなると自分に言い聞かせているんですよ。國ちゃん、泣いたら駄目だよ。泣いたりしたら金子さんに叱られるよ、叩かれるよって……しゃきっとするためには、金子さんにひっぱたいてもらいたくなったりもして……僕っていつまでたってもこれですよね。三十一ですよ、僕。情けないったらないよ」
 気を取り直してメールボックスを閉じ、執筆画面に切り替えた。

「酒巻國友と申します。僕はフォレストシンガーズのみなさんと、同じ大学の同じ合唱部に所属していました。ただいまの職業はフリーのディスクジョッキーです。
 同じ大学ではあるのですが、本橋真次郎さん、乾隆也さんとは三年の年の差があります。僕が合唱部に入部した年に、本橋さんがキャプテン、乾さんは副キャプテンをつとめておられました。
 本庄繁之さんと、近頃ではフォレストシンガーズのアルバムに曲を提供しておられます、hideさんは、僕よりも二年の年長です。hideさんのお名前は出してはいけないのかな? いけないんだったら削除しますので。
 三沢幸生さん、木村章さんは僕の一年年上です。六人の先輩方には、合唱部時代から現在まで、多大なる恩義をこうむっております。
 他にも僕の先輩のプロシンガーの方はおられるのですが、今回はフォレストシンガーズのみに絞って書いていくことにします。みなさま、よろしくおつきあい下さい」

 試作段階の原稿は、こんなふうにはじめた。
 音楽雑誌にDJ所感といった文章を載せてもらった経験はあるが、著書などは僕にはないので、正式にこのような文章を綴る経験は乏しい。が、書きたくて書いているのだから、出版はできなくてもかまわないのである。

「最初に部室で乾さんと会ったときのことは、鮮やかに記憶に残っています。
 優しいお兄さんのようでいながら、きびしくもあった乾さん。僕には魂の兄や父や姉がいてくれると、勝手に決めているのですが、乾さんもそのおひとりです。
 あたたかなまなざし。穏やかな声音。涼しく爽やかな微笑。はじめにお会いしたのが乾さんでよかったのでしょう。本橋さんだったとしたら、僕は怯えてしまって、合唱部には入部しなかったかもしれません。いえ、本橋さん、怒らないで。怖い……
 けれど、優しい乾さんにだって、時にはびしばし叱られました。ひっぱたかれたことだってあるんですよ。ファンのみなさまは、乾さんが後輩を叩くの? って驚かれるかもしれませんが、そうなんです。きびしいときには峻烈にきびしいのが乾さんです。
 こんなことも書くといけないんだったらあとから削除しますが、僕は書きたいな。
 あれは僕が一年生の、はじめての合唱部主催コンサート。僕たち一年生は前日の夜にホールに集まって、先輩方の指示のもとに、コンサートの準備に携わっていたのです。
 体力のない僕は仕事にくたびれて、ちょっと休憩するつもりで、機材置き場の陰にへたり込みました。
 ごぞんじない方もいらっしゃるでしょうけど、僕は身体が小さいのです。子供みたいに小さな僕は、子供みたいにそこで居眠りをしてしまっていて、小さいがゆえに誰にも発見されなかった。
 目覚めたときには朝だったのです。僕は大慌てでそこから飛び出し、大慌てで走り出しました。走っていくと、乾さんに会いました。
「酒巻、どこにいたんだ」
「……寝てました」
「馬鹿野郎! みんながどれだけ心配したか。おまえのアパートに電話しても出ないし、警察に頼もうかって言ってたんだぞ。眠くなったんだったら誰かに言ってから寝ろ」
「ごめんなさい。いつの間にか寝ちゃってて……だって、僕なんかいなくても、誰も気にしてないかと……心配してもらうほどの……」
「気をつけ。歯を食いしばれ」
「は?」
 気をつけ、ってのは、僕が初に乾さんに会った日にも言われたのです。
「は、はい、こうですか」
「顔を洗ってこい、この馬鹿野郎が。みんなおまえを心配してたんだよ。誰が……ぶん殴ってやりたいところだけど、失神されて人手が減ると困るからやめておくよ。さっさと顔を洗ってメシを食って、働け、酒巻」
「は、はいっ!!」
 そのときには殴られなかったのですが、後年になって……これは書きたくないので、書かずにおきますが。
 本橋さんにも本庄シゲさんにも、hideさんにもお世話になりました。木村さんとは学生時代には僕はまったく触れ合いはなかったのですが、後になってお世話になりました。
 話を学生時代に戻します。乾さんとのエピソードばかり書いていると、三沢さんがひねくれそうですね。正直に申しますと、乾さんの次に、いえ、同等に、いえ、ちがった形でお世話になったのは三沢さんです。
 この本を読んで下さっている方は、フォレストシンガーズのファンの方々でしょうか。そうしますと、三沢さんについてはよくよくごぞんじですよね。
 そう、三沢さんのあの口です。超弩級ハイテンション、超メガトンマシンガン、超高速回転、超絶技巧話術、超早業早口言葉、超……超超超っ!! 三沢幸生を形容するには、超という文字がもっともふさわしいのです」

 どうもこのあたりは、僕のテンションも変になっている。三沢さんを書こうとするとこうなってしまうのだが、ひどすぎるのであれば書き直そう。
 とりあえずは勢いにまかせて、僕の追憶があふれるままに書き続けていこう。たとえ陽の目は見られなくても、僕にとっては素晴らしい財産として残る、エッセイというか回顧談というか、そういう作品にはなるはずだ。


 興が乗って執筆に時間を忘れ、睡眠時間が短かった。寝不足の頭を抱えて、僕は「アメリカンミュージックの歴史」と名前のついた講座に出席した。
 講師は年配のアメリカ人で、評論家でおられるらしい。僕は勉強不足で彼女を知らなかったのだが、金子さんは知っていた。サーシャ・ホワイトという名の大柄な女性だ。英語の授業は僕には難解ではあるが、ところどころ理解できないまでも、熱心に聞いていた。
「んんと……ここ、なんておっしゃったのかな。聞き取れなかったよ」
 講座が終了してミセス・ホワイトも退席し、受講生たちが三々五々出ていこうとしている中で、僕は席に残ってノートを読み返していた。日本語でひとりごとを言っていると、日本語の反応があった。
「日本人?」
「は、はい。あなたも?」
 顔を上げると、小柄な女性が立っていた。
「日本人がいたのね。知らなかった」
「僕も知りませんでした。えと、酒巻國友と申します」
「私は鷲尾みな子。留学生? 大学生かな」
 みな子、僕の姉の娘は美菜だから、縁のある名前に思えた。
「いえ、僕は三十一歳です」
「えええ? あら、失礼。ずっと年下かと……ごめんなさいね。私は留学生ではあるんですけど、酒巻さんと同じような年齢で、日本の会社を退職してニューヨークに留学したんです。よくある話ですよね」
「そうなんですか。僕は日本ではDJをやってました」
「そうなのね」
 どうやら僕を知らない様子だが、みな子さんは誘ってくれた。
「音楽が好きで音楽の講座も受けてるんだけど、大学で英語の勉強もしてるのよ。だからなるたけ、日本人と日本語の会話はしないほうがいいんだけど、久しぶりで日本語のお喋りがしたくなっちゃった。酒巻さん、お時間がおありでしたら、食事でもいかが?」
「はい、喜んで」
 バイト先の日本料理店のオーナーは、従業員は日本人に限るとの方針なのだから、仕事仲間は日本人ばかりだ。
 よって僕は日本語の会話に飢えてはいないのだが、みな子さんと話せるのはたいへんに嬉しい。音楽好きで僕と同年輩の、可愛らしい女性はバイト先にはいない。バイト仲間はなぜか男ばかりで、のっけから僕は、ちっこいなぁ、そのくせその声? だなんて、笑われていたのだ。
 夕食どきだったので、チャイニーズレストランに席を移し、お互いに聞き取れなかったさきほどの講座の疑問点を教え合った。みな子さんは日本では外資系の企業に勤めていたのだと、そんな話もしてくれた。
「短大では英文科だったから、英語は得意分野のはずだったの。仕事でも英語を使えて、いい職業に就けたと思ってた。でもね、飽き足りなくなってきたっていうのかな。三十くらいになって仕事をやめて、留学する女はどこにでもいるでしょ。ありがちだけど、私もそうしたくなってきたの。親には反対されたよ。留学なんて年じゃないだろ、結婚しろってね」
「はい」
「結婚より勉強がしたかったのよ。彼もいないし、仕事は頭打ち。アメリカに行ってどうなるんだろ、とも思ったけど、今しかできないじゃない」
「そうですよね」
「酒巻さんはDJさん? ラジオの?」
 僕のほうの話もして、メールアドレスの交換もした。
 とすると、みな子さんには恋人はいない。日本にもニューヨークにもいるようにない。僕は三沢さんや木村さんではないのだから、出会った女性に簡単に恋はしないつもりだが、身長といいルックスといい、この性格といい、強く凛々しいところも、いいな、素敵だな、とは感じていた。
 寝不足なんてなんのその、睡眠よりもみな子さんとの会話のほうがはるかにいい。こんなふうに思える女性に会えたのは、実に久方ぶりであった。


3

 おずおずと誘ってみたら、みな子さんはしばし迷ってからうなずいてくれた。
「金子将一さんだったら知ってるよ。ニューヨークライヴなのね。行きたいな。いいの?」
「言ってませんでしたけど、金子さんは僕の大学時代の先輩なんです。おまえはニューヨークにいるんだから、万障繰り合わせて来いって、チケットを同封した手紙をもらったんです」
 来なかったら承知しないぞ、とも、添えられた手紙に書いてあったのだが、金子さんは僕にチケットを二枚送ってくれた。
 音楽好きのみな子さんは、当然、プロシンガーになっている僕の先輩たちを知っているだろう。彼女と話していて何度も言いそうになったのだが、自慢に聞こえるかと思って口を閉じた。金子さんの名前を出したのだから、フォレストシンガーズも徳永さんも、と言うと、みな子さんは感心したように言った。
「そうだったんだ。酒巻さんってすごいのね」
「僕はすごくありません。行って下さるんですね」
「喜んで。嬉しいわ」
 夏の終わりに知り合ったみな子さんと、秋が深まってくるころに、こうして連れ立ってライヴに行ける。金子さんには感謝してもし切れない。食事は幾度かしていたが、これはデートと呼んでもいいだろうか。嬉しいのは僕だ。
 言ってしまったのだから、あとは同じだろうと、僕は執筆中のフォレストシンガーズ年代記の話もした。そんな話をしながら、みな子さんとふたり、金子将一ライヴ会場に向かって歩く。ヒールのある靴を履いていても、みな子さんは僕よりもちょっぴり背が低くて、女性をエスコートしている気分にさせてくれた。
 薄手のコートを着て、すらりとした脚の足元はピンクのハイヒール。みな子さんは三十歳で、僕よりもひとつ年下だ。
 彼女は岩手県宮古市出身。僕の故郷の山形に近い。東京で働いていたそうだから、なまりはさして感じないが、時々ちらっと宮古の言葉を出しては笑う。就業ビザはないので、貯金をはたいて生活している。貧乏暮らしも楽しい。
 そんな話もいっぱいしてもらった。僕も日本にいたころの話しやら、ニューヨークに来てからの話しやらをいっぱいした。はじめて会った日に感じた通りに、みな子さんとの会話はいつだってたいそう楽しかった。
 食事は別としたら、今夜は初デート。嫌いな男とはライヴになんて行きたくないだろうから、みな子さんも僕を嫌いではない? 金子さんのファンであって、連れの男などは誰だっていい?
 そうは訊けないが、もしもそうだとしても、僕はみな子さんとデートができて嬉しい。小さなライヴホールに到着し、僕たちの座席を確認し、かなりのお客さまが入っているとも確認して、僕は言った。
「金子さんに挨拶に行きたいんですけど、みな子さんも行かれます?」
「私は遠慮する。酒巻さん、行ってきて」
「んんと、じゃあ、ライヴがすんでからにしますよ」
 やがて、金子将一ニューヨークライヴの幕が開いた。
 金子さん、本当に本当に大きくなったんですね。沢田さんにはプロポーズしても断られてばかりだと、金子さん本人ではなくて三沢さんから聞きましたけど、仕事の面では素晴らしい。
 ソールドアウトとまでは行かないけれど、ニューヨークでだって金子さんはこれだけのお客さまを集められる。日本人の姿もあるものの、外国人だって大勢来ている。ちょっぴり上達した僕の英語力で聴いても、金子さんの英語の発音は最高ですよ。
 オリジナル曲も英語曲のカバーも、いつに変わらず金子さんの歌は絶品だった。ステージに立つ金子将一の姿はまばゆいほどで、後輩の僕は誇らしい。みな子さんも陶然と金子さんの歌に聞き惚れていて、惜しみない拍手を送ってくれた。
 
「Oh baby, baby
 How was I supposed to know
 That something wasn't right here
 Oh baby, baby
 I shouldn't have let you go
 And now you're out of sight, yeah
 Show me how want it to be
 Tell me baby 'cause I need to know now, oh because

 My loneliness is killing me(and I)
 I must confess I still believe(still believe)
 When I'm not with you I lose my mind
 Give me a sign
 Hit me baby one more time

 Oh baby, baby
 The reason I breathe is you
 Boy you got me blinded
 Oh pretty baby
 There's nothing that I wouldn't do
 It's not the way I planned it
 Show me how you want it to be
 Tell me baby 'cause I need to know now, oh because」

「Baby one more time」。アメリカの女性シンガーの歌だ。金子さんの美声がホールに響き、みな子さんが僕の肩にそっと頬を預けてきた。
「素敵……生で聴くのははじめて。どうしよう。とろんとろんしてきちゃう」
「はあ……ええ……そりゃまあね」
 とろんとろんは僕に対してではない。当たり前だろうが、少々やきもちを妬きたくなった。
 ライヴの間は、みな子さんは時折、そうして僕の肩に頭をもたせかけたり、手を握ってくれたりしていたのだが、金子さんの歌に陶酔したあまりだったのだろう。國ちゃん、都合のいいほうに考えるんじゃないよ、と僕は自分を戒めていた。
「みな子さん、そろそろ行きます?」
「ちょっと待って。素敵すぎて……余韻でいっぱい。歩けなくなっちゃいそう」
「そうなんですか。困ったな」
 アンコールも終了して客電がともっても、みな子さんは立ち上がらない。僕はどうしたらいいのかと思っていると、ややあって立ち上がってくれた。
「私までが金子さんにご挨拶に行っていいの? いいんだったら連れていって」
「行きましょうか」
 どうも悪い予感がする。みな子さんは僕なんてどうでもよくなって、金子さんに恋をしてしまったのだろうか。ふたりして控え室を訪ねると、そこに金子将一そのひとがいた。
「すこしお久しぶりです。金子さん、このたびはニューヨークライヴのご成功、おめでとうございます。チケットを送っていただいて、ありがとうございました」
「こちらこそ、来てくれて感謝するよ。酒巻、恋人か?」
「とんでもありません」
 陶酔覚めやらぬ表情で、みな子さんは僕が言う前に言った。
「酒巻さんの留学仲間です。鷲尾みな子です。酒巻さんに誘ってもらって、連れてきてもらったんですけど、恋人なんかじゃありません」
「そうですか。どうも失礼」
 立ってきた金子さんが、よろしいですか? とことわってから、みな子さんの手の甲に口づけた。これは敬愛のキスだと言って、乾さんが女性にしていたのを見た覚えがある。三沢さんもやっていたのを見た。
 しかし、見ていて美しいのは金子さんか乾さんであって、三沢さんだとコントみたいだった。僕にはできない。普通の日本の男にはできっこない。
「あ……そんな……」
「失礼しました。みな子さんも打ち上げの席にいらっしゃいますか? 酒巻がお世話になっているようで、私からもお礼を申し上げたいんですよ」
「よろしいんでしたら……」
 優雅に上品に紳士らしく、金子さんがみな子さんの手を取って、ふたりが控え室から出ていく。僕もペットか弟よろしく、ふたりのあとからついていった。
 打ち上げの店では、僕の知らない外国人ミュージシャンや、日本人スタッフたちとみんなで乾杯した。ライヴの成功は僕だって最高に嬉しいのだが、乾杯が終わってそれぞれに雑談をしていると、みな子さんが金子さんのそばにいるのが気になって気になって、僕は口をきけなくなっていた。
「留学しておられるんですね。あなたの将来が洋々と開けるよう、僕も陰ながら応援させていただきますよ」
「ありがとう。金子さんって……こうして近くで見ると……」
「ここ、ひげが伸びかけてますでしょう?」
「金子さんだったら、不精ひげでもセクシーです。そんなに……あの、えと……」
「……みな子さん、俺はニューヨークではフリーの身ですよ。あなたにも決まったひとがいないんだったら、このあと、いかがかな?」
「え……あの……あの……」
 猛然と腹立たしくなってきて、僕はふたりに割り込んだ。
「金子さん、沢田さんに言いつけますからね」
「どうぞ」
「そんなだったら、絶対に沢田さんはプロポーズを受けてくれませんからね」
「んん? なんでおまえが知ってる? 三沢か乾か。三沢だろうな」
「僕に教えてくれたのが誰だとしても、関係ないでしょう」
「関係ないな。おまえも俺がみな子さんを口説いたって、なんにも関係ないんじゃないのか?」
 口説く? と呟いて、みな子さんはうつむいた。金子さんは平然と言った。
「邪魔するな。おまえはむこうに行ってろ」
「邪魔します。いけませんっ!!」
「うるさいんだよ。おまえは帰れ」
「いやですっ!!」
 片手で突かれて倒れかけた僕を、みな子さんが狼狽した顔で見た。
「そんな……僕は……みな子さんが好きだけど……そうじゃなくても……金子さんなんか……金子さんなんかと……そうだ、ここでメールしよう。沢田さんに言いつけよう。いいんですね、金子さん?しますよ」
「愛理に告げ口しないと解決できないのか」
「できません」
「泣いてるのか?」
「泣いてませんっ!! 好きな女性の前で……僕だって僕だって……もう大人なのに……泣きませんよっ!! 金子さんの馬鹿野郎っ!!」
 深く考えもせず、僕は金子さんに頭突きで突進していった。軽々と身をかわされて倒れると、みな子さんの怒り声が聞こえてきた。
「なにをなさるんですかっ。酒巻さん、大丈夫?」
「は、はい。慣れて……いえ、いいんですけど、大丈夫です」
「ひどい方ね。先輩だからっていったって、乱暴なひとは大嫌い。金子さんの歌は好きですけど、人間性は好きになれません。酒巻さん、帰りましょ」
「……はい、帰りましょう」
 さよならとも、いずれまた、とも言う気になれなくて、みな子さんと打ち上げ会場を出た。ドアを閉ざす前に振り向くと、金子さんはにやりとして片手を挙げた。
「……やられたかも」
「酒巻さん、なにが?」
「いえ、いいんです。すみませんでした」
「酒巻さんはちっとも悪くないでしょ。金子さんっていつもあんななの?」
「僕にはあんなですけどね」
 だけど、金子さんの策略も含まれていたのだろう。
 みな子さんは僕を恋人ではないと言った。事実、僕たちは恋人同士ではない。よくて友達同士だ。しかし、僕はみな子さんを好きだと口走った。馬鹿鋭敏だと徳永さんの言う金子さんは、それですべてを察した。
 だからこそひと芝居打ったのか。本気もあって、あわよくば……もあったのかもしれないが、沢田愛理さんという熱愛のお相手のいる金子さんが、異国の地だからといって浮気しようだなんて、いくらなんでもそこまでは、であるはずだ。
 なのだから、あれは芝居。芝居がいいほうにころがって、みな子さんは僕を抱き起こしてくれ、僕とこうして出てきてくれた。その上、こうも尋ねてくれた。
「酒巻さんは私を……?」
「え? あ、あの、もう一度言っていいですか」
「言って」
「好きですっ!!」
 女性に向かって、恋の告白をするのは何度目だろう。過去の恋を思い出していじけた夜はいくつも数えたけれど、これですべてを捨てられるのではないか。
「ありがとう。私も酒巻さんは好きよ。恋をしてる立場じゃないんだけど、酒巻さんとだったら、お互いにいい刺激にもなるよね。酒巻さんさえよかったら、私と交際して下さい。食事ももっともっとして、もっともっとお話ししたいな」
「みな子さん……」
 立ち止まって抱き寄せて、思わずキスをした。
 外で、人通りもあるってのに、キスなんかしたのははじめて? そう思うと赤面しそうになるのだが、ここは異国の地だ。恋人同士が街角でキスしてるのなんて、なんら珍しい光景でもない。男同士、女同士の恋人たちだって、街角でキスをしている。
 優しくて激しいキスをかわしてから、みな子さんと手をつないで歩き出した。
「金子さんのファンはやめないで下さいね」
「歌は別だからいいんだけど、ちょっと幻滅」
「金子さんはね……うん、これからこれから、みな子さんに金子さんの話をいっぱいしますよ。聞いてくれるよね?」
「聞きたい。いっぱい話してね」
 勉強のために訪れたニューヨークで、僕に恋人ができた? 人間、ワンモアタイムってのはどこで見つけられるものか、予想もつかないんだ。恋をしにきたのではないこの国で恋をして、僕のためらいを突き飛ばして、みな子さんへと近づけてくれたのは、結果的には金子さんだった。
 金子さんの歌う「BABY ONE MORE TIME」が耳元に聴こえる、ニューヨークの街を、みな子さんと歩いていく。沢田さんには言いつけないでおいてあげますからね、金子さん、と胸の中で呟いてから、もう一度立ち止まって、みな子さんとキスをした。
「僕ね、フォレストシンガーズ年代記を書いてるって、言ったよね。みな子さんも読んでくれる?」
「読みたいな。楽しみにしてるよ」
「みな子さんの批評は怖いけど、読んでもらえるのは僕も楽しみだよ」
 幸せに浸っている僕の胸に、幻が生まれて出てきた。
「どうせ近いうちにふられるんじゃないの?」
 そんな声が聞こえたのは、三沢さんか? しっしっしっ、あっち行けっ!! と三沢さんの幻を追っ払って、僕はみな子さんときつく抱き合っていた。

END









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NoTitle

確かに手にキスしてカッコイイって思うのは限られてきますよね。
もちろん乾くんだったらもう、文句なしにオッケーです!
外国の人がするととっても素敵なのに、日本人がやると、
違和感だらけなのはなぜなのでしょう?
酒巻くん、なんかいい感じです。
木村くん同様に頑張って欲しい人物です!

最近はすっかりコンサートに行かなくなったのですが、
ホールの響く生の声は聴いていて本当に幸せな気持ちになれます。
金子さんの歌声でみな子さんがめろめろになってしまうのは仕方のないことです!
ここはぜひ乾くんに・・・・・。

ブログの写真みました!
カワイイ!!!
ノラのうさぎ?ですか?珍しいですよね?
あぁ、かわいいです。
うさぎのもぐもぐしている口にくりくりの目にふわふわの毛・・・・あぁ!抱っこしたいです!!

ハルさんへ

いつもありがとうございます。
手の甲にキス……なんてね、日本人はそんなこと、普通はしませんよね。
金子将一は根が日本人ではないと申しますか、普通の人間じゃないと申しますか、羞恥心のない奴なのですよ。

酒巻くん、気に入っていただけて嬉しいです。
だいたいからして男らしい男は好きではありませんので、酒巻くんみたいなキャラはいつしか著者のお気に入りになってしまうのです。

私もコンサートって、せめて一年に一度は行きたいと願いつつ、経済的なこともあってなかなかですね。
今年は夏に甲斐バンドのライヴがあるらしいので、それだけは行きたいと願っています。

野良うさぎ、見ていただけました?
あれは絶対に都会にはいませんね。
海辺で空地もいーっぱいあって、空き地に草がはえてますし、房総は温暖ですから、猫でもうさぎでも野良ちゃんも暮らしやすそうでした。

駐車場にあの白黒がいたのを遠くから見て、あ、猫だ、と思ったのですね。
だけど、なんか変だな、え? 猫じゃない!! ウサギ!! そもそも外を出歩くうさぎってのが発想外でしたので、びっくりしてしまいました。
ウサギってなんだか不可解な動きをしますよね。
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