novel

小説167(パリの散歩道)

 ←小説166(The blue cafe) →「ミステリアスに雪がふる」
091212_15030001.jpg

フォレストシンガーズストーリィ167

「パリの散歩道」

1

 高校の入学式を待つ春休みだったのだから、十五歳の私はほんの子供だった。あれから二年と数ヶ月。兄ではないと知ったものの、私にとっては気持ちの上ではお兄さんだった乾さんから見れば、まだ私は子供だろう。
 二年前にはじめて会ったときには、私は乾さんとなにを話したのだろうか。あなたは私のお兄さんなんです、と言ってしまって、乾さんは怒っていた。あの怒りは、あのころには私のお父さんでもあると思っていた、乾さんのお父さんに向けられていた。
 三沢さんや鬼塚の岩雄さんになぐさめてもらったりもしたけれど、私の心には乾さんばかりがいる。お父さんに電話をかけて尋ねたと言って、乾さんは私にも話してくれた。
「多香子ちゃんのお母さんは、俺の親父に恩義を感じていたんだろうね。かおりさんのお世話を多少はしたらしいんだよ。だから、かおりさんはうちの親父に恩を感じて、好きだな、程度には思ったのかもしれない。だからこそ、きみの実の父は俺の親父だと話したんだろ。大人ってのは複雑だから、きみは事実だけを記憶にとどめておけばいいよ。きみは俺の妹ではない。血のつながりはない」
「……母にたしかめるとか、乾さんのお父さんにたしかめるとか……」
「したかったらしてもいいよ。鬼塚さんや俺の言葉以外には、なんにも出てこないだろうけどね」
「わかりました。じゃあ、せめて、乾さんが私の東京案内をして」
「俺は仕事の途中なんだ。ごめんね」
「あとからは?」
「あとからだと夜になるでしょ。子供は早く帰りなさい」
「子供じゃありません」
「十五歳はまぎれもない子供だよ」
 子供だからこそ、私は無理を言ったのだろう。夜でもいい、夜のデートをして、だなんて言って、乾さんにはこう言われた。
「ガキが夜のデートだなんて、生意気言ってるんじゃないんだよ」
「……」
「多香子はガキだろ。ガキは早く帰ってねんねしなさい」
 むーっとなってふくれっ面でいた私の頬を軽くつついて、乾さんは立ち上がった。
「じゃあね、元気でね」
「はい、乾さんも」
「よし、いい子だ」
 あの微笑に、私は完全に恋をしたのだろうか。諦めて私も席を立った。私が乾さんと話している間には、三沢さんと話していた岩雄さんのいる席に戻っていった。三沢さんも先に帰ったようで、私は岩雄さんに送っていってもらって、ホテルに帰ったのだった。
 しても意味もないのだろうから、母にも乾さんのお父さんにも確認はせず、私は普通に高校に通い、乾さんは忘れようと努めていた。
 忘れられはしなくて、私はフォレストシンガーズのファンになった。高校の友達には嘘をついたこともある。乾隆也って私の兄なんだよ、と言ってみても、嘘つき呼ばわりされるだけで、嘘だよぉだ、と言い返したりした。
 あれから二年がすぎて、私は高校三年生になり、大学生になったらフランスに留学したいと夢見るようになった。東京の大学の仏文科に進学して、アルバイトもして、フランスの田舎に行きたい。その前に、夏休みにはパリに旅行したい。
 うちの母の間抜けっぽさは抜け切れていなくて、娘の嘘を見抜けない。友達と卒業旅行としてパリに行きたいと頼んだら、疑いもせずにお金をくれた。
 実はひとり旅のパリで、私は乾さんに再会したのだ。思いもかけない再会すぎて、夢を見ているのかと思ったけれど、乾さんは私とパリデートをしてくれた。あいかわらず子供扱いはしたけれど、昼間だったから一緒に歩いてくれたのだろうか。
 女の子には見下ろしてものを言う。頭はよくて弁も立つのかもしれないけど、背は高くても細くて弱そう。女の子にしかいばれない男じゃないの? 私は乾さんをそんな目で見ていたのだが、そうではないと乾さんが教えてくれた。
 パリの舗道をくわえ煙草で歩いていた、白人の大男ふたりに、乾さんは怯みもしないで注意してくれた。私の身体をかすめそうになったひとりの男の煙草を取り上げて、携帯用灰皿に放り込んだ。乾さんだって煙草を吸うくせに、とも思っていたのだが、私はあれでいっそう、乾さんに恋をしたのかもしれない。
 なのに、乾さんは私を子供だとしか見ていない。十八歳になっていても、十六歳も年上の乾さんには私は子供だろうけど、子供扱いされると悲しい。せめて妹として接してもらえるのを嬉しいと、考えておくしかなかった。
 その日は夜になると、乾さんはマネージャーさんの妹さんに会うと言って、私をホテルに送ってくれてから行ってしまった。尾行していきたかったけれど、もしも見つかったら叱られる? 今回もガキのくせに生意気な、とは何度か言われたから、私はガキなんだもんね、と強いて考えて我慢しておいた。
 フォレストシンガーズのマネージャー、山田美江子さんは、結婚して本橋美江子となった。美江子さんの夫はフォレストシンガーズのリーダー、本橋さんだ。乾さんにとっては美江子さんも本橋さんも、学生時代からの親友だと聞いていた。
 美江子さんの妹の佳代子さんの勤めるブティックは、私がネットカフェで調べたのだから、住所も電話番号も覚えている。「Vent rose」を探しにいこうと思い立ったのは、翌日に乾さんと朝食をして別れたあとだった。
 今日は日本に帰ると、乾さんに言ったのも嘘。嘘つき多香子だと乾さんは知ってるけど、困った顔をして私を見つめる瞳にきゅんっとした。
 「Vent rose」はしゃれたブティックだった。私には買えそうにない高級女性服が並んでいる。万引きでもしたら乾さんが私を引き取りにきてくれて、そしたらうーんと叱られるのかな。やだやだ、そんなのやだ、とかぶりを振って、私はブティックに入っていった。昨日、電話で話した日本女性が店にいて、私に会釈してくれた。
「日本の方ですよね。昨日、電話してきてくれたひと?」
「はい、上杉多香子です」
「多香子さん……乾さんが昨日、言ってたかな」
「私の話をしてたんですか。私、乾さんの妹なんですよ。腹違いの妹」
「あらら、そうなの。そんな話しは聞いてないけど、そうなのね。私は山田佳代子です。よろしく」
「よろしくお願いします」
 乾さんよりも五つ年下だと聞いているから、二十九歳か。本物の大人の女性だ。昨夜は佳代子さんと乾さんはお酒を飲んで、大人の会話をしたのだろうか。乾さんは佳代子さんだったら子供扱いなんかしないだろう。
「お買い物?」
「まさか。こんな高いの、私には買えません。高校生なんですから」
「高校生なのね。乾さんに連れられてパリに来たの?」
「そうです。兄はひとりでどこかに行っちゃったけど、ナンパでもしにいったのかもしれません」
「それはないでしょうけど、そしたら、お兄さんに買ってもらったら?」
 嘘を信じているのかどうかは知らないが、佳代子さんはブルーのノースリーブのワンピースを示した。
「これだったらそんなには高くないよ。多香子さんには似合いそう。請求書はお兄さんに送るから、買ってもらったらいいんじゃない? 乾さんは収入があるんだから、こんなの平気でしょ。妹をほっぽってナンパなんかに行った罰だよ」
「そうは行かないと……」
「電話して聞いてみたら? 国際ケータイは持ってるんじゃないのかな」
「乾さんが……兄がですか。知りません」
「そうなの? まあ、無理強いはできないけどね。じゃあ、一緒にランチはいかが?」
 わずかな反感を覚えながらも、私はうなずいた。
「多香子さんはフランス語は?」
「日常会話だったら話せます」
「日本に住んでるんでしょ? 勉強したの? えらいね」
 このひとも私を子供扱いしている。わずかな反感が強くなった。
「では、私のお昼休みまで待っててもらえるかな。一時間くらいだよ。店の中をゆっくり見て回るなり、外を散歩してくるなりしてて。フランス語が話せるんだったら大丈夫でしょ」
「佳代子さんはフランス語は流暢なんですよね」
「何年も住んでるんだから、不自由はしてないよ」
「そうですか。やっぱりお兄ちゃんに買ってもらおうかな。どれにするか決めますから、佳代子さんはお仕事をして下さい」
「はーい。毎度ありぃ」
 なんだかとっても悔しい。乾さんに子供扱いされるのも憎らしいのだが、佳代子さんだとなおさらだ。だからといって乾さんに洋服を買わせるとはうしろめたい。アクセサリーにしておこうかと見て回っても、小物までが高い。
 母へのお土産にしようか。私のものではないのだったら、うしろめたさは少なくてすむかもしれない。乾さんのお父さんに請求書を回してもらおうか。母は乾隆之助さんにプレゼントを贈られたことがあるのだろうか。
 乾さんの父、私とはなんの関わりもない乾隆之助さんの店である「翠月堂」は見にいった。乾さんに似た外見の隆之助さんは、物陰からちらりとは見た。あのひとに母は恋をしたのだろうか。
 確認もしていないのだから知らないのだが、隆之助さんと母は無関係ではないはずだ。上杉多香子の買い物の請求書が隆之助さんのもとに届いたら、彼は驚くだろうか。母がそうと知ったら怒るだろうか。
 母に嘘をついてひとりでパリに行ったとまで、ばれるかもしれない。母はおっとりした抜けたひとだが、嘘ばかりついている娘には怒るかもしれない。怒るというよりは心痛のあまり倒れるか。パリ留学なんて許しません、となる恐れもある。
 そしたらお兄ちゃんかな。お兄ちゃんなんかじゃないのに、おまえに服を買ってやる義理はない、と言われるだろうか。お兄ちゃんなんかじゃないのに、お兄ちゃんじゃないからこそ、私は乾さんに恋をしている?
 好きなひとを怒らせたり困らせたりしたくなるのは、子供の証拠? 乾さんは私を子供だと思ってるんでしょ? そしたら本物の子供になってやる。乾さんを困らせてやろう。
 おかしな理屈をつけて、それでもあまり高くない小型のバッグに決めた。母のお土産としても、私が使ってもいいだろうと思える渋いピンクのバッグだ。バッグを手にして佳代子さんを呼ぼうとしたら、奥から本人が出てきた。
「長く迷ってたのね。これにします? 請求書はお兄ちゃんに?」
「そうして下さい」
「お買い上げありがとう存じます。包装したら私も行くから、すぐ近くにあるレストランに行ってて。「Une promenade de Paris」っていうの。曲名にもあるよね」
「ゲイリー・ムーアですね」
「そうそう。多香子ちゃん、若いのによく知ってるね」
 若いのに、ではなくて、子供のくせに、って言いたいんでしょ。こんなひととランチをしたくない、とも思ったのだが、昨夜の佳代子さんと乾さんの会話も知りたくて、うなずいてレストランで待っていた。
 ミネラルウォーターを飲みながらけっこう長く待たされていると、店の外に佳代子さんの姿が見えた。佳代子さんの隣を歩いている男性は?
「え? 乾さん……なんで?」
 どうしよう、逃げようか、と思っていたら、ふたりそろって店に入ってきた。佳代子さんは黙っていて、乾さんが言った。
「なんのいたずら? カヨちゃんは事情なんか知らないんだけど、どことなし変だと思ったようで、俺に連絡してくれたんだよ。俺はホテルをチェックアウトしてなかったからね。きみは嘘つき傾向があるみたいだけど、人騒がせな嘘はやめなさい」
「本当だもの。母は言ってました。乾さんのお父さんや岩雄さんが言ったのが嘘で、お母さんは嘘なんかついてません。私も嘘は言ってません」
「うちの親父も嘘はついてませんよ。俺はきみの倍近くも人間をやってるんだから、洞察力はきみよりはあると自負してる。まったく困った嘘つき娘だな。カヨちゃん」
「はい」
「俺がやると問題あるだろうから、きみがやってくれないか」
「なにをするの?」
「うーむ……きみに頼むのは卑怯だね」
「なんなの?」
「いや、いいよ」
 なんなんだかさっぱりわからないけれど、乾さんは怒っているのだろうか。私としては上目遣いで彼を見ているしかなかった。
「なんだか知らないけど、乾さんがやれば? 妹なんでしょ」
「カヨちゃんも意地悪だね。妹じゃないよ」
「妹じゃなかったら……ふむふむ、そうなのね。乾さんの洞察力からしても、気づいてないはずはないよね。だけど、私にもああだった乾さんが、こんな少女に手を出すわけはない。私は信じてますわよ」
「きみの皮肉は姉さんに似てるよ」
「乾さんの皮肉には姉も負けるって聞いてますわよ」
「……俺はあなたにも負けますよ」
 やっぱり悔しい。私は大人たちの話しについていけなくて、なにを言っているのかもよくわからなくて、ふくれているしかないのだから。ぶすっとしている私に、大人たちは交互に言った。
「多香子、いい加減にしなさい。わかったね。返事は?」
「多香子ちゃん、人騒がせはいい加減にしようね」
「きみはまったく困った子だね。バッグは買ってあげるから、帰りなさい。今夜のフライトじゃなかったの?」
「それも嘘」
 言うと、乾さんはほーっと息を吐いた。
「バッグは母に買ってもらいます。請求書は私の家に送って下さい」
「そんなもので懐柔されないよ、ってか。乾さん、どうします?」
「どうしようか。女の子ってのは困るんだよな。カヨちゃん、なんとかしてくれない?」
「私には関係ないもーん。乾さんの心の妹なんでしょ?」
「妹じゃないって」
「妹のほうがいいかもよ」
 佳代子さんが言うと、乾さんは口を閉じた。
 気がついてるの? そんなはずはないじゃないの。私はなんにも言っていないのだし、洞察力がどうのこうのと言っていても、他人の気持ちが読めるはずはない。乾さんには読めるのだろうか? 私も乾さんの気持ちを読みたくて、瞳の奥を覗いてみたけれど、なにひとつ読めなかった。
「でもね、お兄ちゃんに洋服を買ってもらったら、って言ったのは私なのよ。私もいたずらっ気でそんなことを言っちゃって、悪かったよね。ごめんね、多香子さん」
「いいえ。佳代子さんは悪くありません」
「乾さん、多香子さん、すねちゃったよ」
「すねてません」
 しかし、自分の顔が相当にふくれっ面になっているのが自分でわかる。大人にはすねていると見える顔をしているのだろう。悔しくても上手に言葉が紡げなくて、私はうつむいた。
「洋服の一枚くらいはプレゼントするよ。多香子ちゃんとパリで会ったのは、素敵な偶然だったんだよね。俺もきみと歩いて楽しかったんだし、その程度の金だったら持ってるから。カヨちゃん、いくら?」
「多香子さんが選んだのはバッグだから、そんなにはお高くもないんですよ。私の売り上げ成績に貢献してもらえるわけだし、乾さんが買ってくれるのは私としては嬉しいな。お値段は……」
 持っていた計算機で、佳代子さんが金額を出してみせる。乾さんはそれを見てうなずき、私は言った。
「買ってなんかいりません。もうけっこうです。お騒がせしました。さよなら」
 困った子だね、ほんとにね、の大人たちの小声がふたつ聞こえて、私は悔しさでいっぱいになって、店から出ていった。


2

 朝に別れたそのまんまのほうが印象がよかっただろうに、馬鹿げた真似をしてしまった。バッグは佳代子さんの手元に置いてきたのだから、乾さんとの想い出の品物はない。なんて、そんなふうに考えてしまう。
 ランチは食べずに飛び出してきたから、適当なカフェに入ってバゲットサンドとカフェオレをオーダーする。外にテーブルと椅子を並べたカフェの席でぼーっとしていると、フランス語が耳をかすめて通り過ぎていく。
 フランスに行きたくてフランス語を勉強したのだから、日常会話はできるつもりでいるのだが、ぼーっとしているとフランス語は音楽にしか聞こえない。意味を成さない。むしろ観光客の日本語が耳について、私はどこにいるの? 日本? と思ってしまうのだった。
 日本人はパリが好きだけど、私はパリなんか嫌いだ。フランス留学が実現したら、パリではない田舎に住みたい。以前からそう考えてはいたけれど、いっそうパリが嫌いになり、いっそうその気持ちが強まっていた。
「日本人? ここ、いい?」
 大学生くらいの男が、私の前に立っていた。
「ひとりなの?」
「ひとりだよ。いいよ」
「参ったよ。パリって英語が通じないんだよね」
 むかいの席にすわった男は、ギャルソンが近づいてくると私にすがるような視線をよこした。
「ランチ? なにをオーダーするの?」
「きみと同じもの」
 この程度は軽いので、私と同じものをオーダーすると、男は尊敬のまなざしで私を見た。
「きみはフランス語が話せるんだね」
「パリにひとり旅に来るんだから、このくらい喋れなくてどうするの」
「そうかもしれないけど、僕は英語だったらなんとかなるからって……」
「パリの人は英語が嫌いなんだよ。喋れるのに喋らない人も多いみたい」
「そういう噂は聞いたけど、そうなんだね」
 乾さんもそのようなことを言っていた。私もパリに来てはじめて実感したのだが、外国語通ぶって言った。
「あなたは英語ができるだけましだよね。日本人は英語もちっとも話せないのが多いじゃない? 中学校や高校では習ったんだから、基本的な会話はできるはずでしょ。なのになんにも話せないの。そんな奴らはパッケージツアーで、ツアコンについて歩いてたらいいんだよ」
「きみは英語もできるの?」
「フランス語と同じくらいは話せるよ」
「語学の才能があるんだ」
「好きなだけだけどね」
 中学生のころには英語は嫌いだったけれど、高校生になって好きになった。そのわけは、乾さんが英語で歌う歌詞を理解したかったから? でも、英語なんて普通すぎるから、フランス語にも手を伸ばしただけだ。
「大学生?」
「そうなの。来年には留学する予定で下見にきたんだ」
「留学か。いいなぁ」
「あなたは観光?」
「まあね。僕は大学四年で、就職も決まったんだよ。長い休みは今年で最後だから、就職祝いだって親が小遣いをくれて、ヨーロッパをめぐる旅行をしてるんだ。このあとはロンドンに行くんだよ。ヨーロッパははじめてだから、ロンドンも楽しみだな」
 彼は本当の話をしているのかもしれないが、どうせ通りすがりのひとなのだから、私は嘘をついていたってかまわない。名前も知りたくはなかったのだが、彼は名乗った。
「トシオっていうんだ。きみは?」
「多香子」
「多香子ちゃんだね。ロンドンには行ったことはある?」
「あるよ」
 またまた嘘だけれど、彼もこれから行くのならば、私の嘘は見抜けないだろう。
「ロンドンってどこが見所?」
「音楽は好き? ちょっと足を伸ばしてリバプールなんかどうかな」
「リバプールってなにがあるの?」
「……知らないんだったらいい」
「教えてよ」
 リバプールがビートルズの故郷だと知らない奴となんか、話したくなくなってきた。乾さんと会う前から洋楽が好きだった私は、あれからいっそう欧米の音楽が好きになって、これならば本物の通のはずなのに、音楽の話は彼とはできないのだろうか。
「イギリス出身のミュージシャンを誰か知ってる?」
「知らないな」
「音楽に興味ないの?」
「あるよ」
「どういった音楽が好きなの?」
「外国のロックとかはまるっきりだけど、そうだな、塚本アイとか?」
 がくっ。これでは話が合うはずもない。シンガーソングライターと自称してはいるけれど、アイドルに近い舌足らずの歌を歌う女の子だ。
「あとはね……貝殻ちゃん。あの子たち、すっげぇ可愛いよね。貝殻ちゃんのラミちゃんって、多香子ちゃんと似てるよ」
 貝殻ちゃんというのもアイドルグループだ。ラミちゃんという女の子を私は知らないが、トシオは目を輝かせて、可愛いだけの女性シンガーの名前を並べ立てた。
「貝殻ちゃんって変な名前。複数なんだからシェルズにでもすればいいのに」
「名前なんかどうだっていいんじゃない?」
「名前はどうだってよくても、歌が下手でしょ」
「歌もどうだっていいよ。可愛かったらいいんだ」
「可愛いだけでいいんだったら、歌手じゃなくてグラビアアイドルのファンになったらいいんだよ」
「グラビアアイドルも好きだけど、ほら、あの……」
「言ってくれても知らないから、無駄だよ」
 ぴしゃりと遮ると、トシオは、あ、そ、と呟いてバゲットサンドをかじった。
「だけど、可愛い女の子が歌って踊ってる姿は見てて楽しいじゃないか」
「そうかもしれないね。見る分には楽しいんだろうけど、CDで聴くとなるとつまらなくない?」
「アイちゃんや貝殻ちゃんのCDは全部持ってるよ。アイちゃんは歌は上手じゃないか。貝殻ちゃんは歌はうまくはないけど、アイちゃんは最高だよ。アーティストなんだもんな。カーオーディオでもそういうのを聴くんだ。貝殻ちゃんだって聴いてたって楽しいよ」
「フォレストシンガーズは?」
「なに、それ?」
 男性ファンは少ないらしいし、トシオのような耳の狂った奴のファンなんていないほうがいいだろうから、それ以上質問するのはやめた。
「僕の車、BMWなんだよ。きみを乗せてあげたいな。一緒にアイちゃんを聴こうよ」
「聴きたくないし、乗りたくないし」
「BMWなんだよ。かっこいいんだぜ。日本に帰ったらデートしようよ。きみはどこに住んでるの?」
「木曽の山奥」
「木曽ってどこ? 僕の車は湘南ナンバーなんだ。湘南ナンバーのBMWだよ。乗りたくないの?」
「乗りたくない。木曽からだと非常に遠いものね」
 金沢からでも湘南は遠いだろう。遠くてよかった。
「どこだっていいから迎えにいくよ」
「うちは山奥だから、車は入れないの」
「そんな田舎ってあるの?」
「あるんだよ。都会の人は知らないんだよね。そのかわり空気は綺麗だし、山の幸はおいしいし、いいところだよ」
 木曽なんて土地は私も知らないのだが、適当に言うと、トシオは不満げに言った。
「田舎なんてつまんねえじゃん。だからパリに留学したいんだろ。パリっていいよね。僕もパリで多香子ちゃんと同棲したいな」
「パリなんてつまらない。私は田舎が好きだから、フランスの田舎に留学したいの」
「パリがつまらない? きみって変わってるよね。フランスの田舎に大学ってあるの?」
「あるんじゃないのかな」
 調べはついているのだが、トシオに言っても意味もないからごまかしておいた。
「変わった女の子っていいな。天然? 不思議ちゃんってのもあるでしょ。アイちゃんもそのタイプだよね」
「アイちゃんも貝殻ちゃんも歌が下手だとしか知らないけど、そんな子に似てるって言われたら、女の子は喜ぶの?」
「そりゃそうだよ。喜ぶよ。可愛いって言われてるんだからさ。それにだね、アイちゃんは歌は下手じゃないよ。さっきから僕が言ってるだろ。アイちゃんは自分で歌を作れるアーティストなんだからさ」
「トシオくんがなんと思っていようと、いいんだけどね」
「きみのその醒めた雰囲気もいいな。パリでデートしようよ」
「先約があるの」
 むつっとして黙ってから、トシオは言った。
「フォレストシンガーズって思い出したよ。きみはあいつらのファン? だっせえおっさんたちのグループじゃん。四人か五人の男がいるんだよね」
「五人」
「あんなののファン? あいつらと較べたら、アイちゃんのほうがずっと歌はうまいよ」
「アイちゃんとなんか較べないで。較べたら両方が気の毒すぎるよ」
「アイちゃんはあいつらと較べたら気の毒だけど、フォレストシンガーズってのはアイちゃんとは較べものにもならないだろうが。可愛い女の子とだっせえおじさんたちだぜ」
「あんたとは話が合わないよね。バイバイ」
「なんなんだよ、急に」
「そう思ってたんだけど、言い出すきっかけがつかめなかったの。私は行くから」
「待ってよ。おごってあげるからさ」
「いらない」
 トシオは私の手を握って、大声で言った。
「日本に帰ったら遠くて会えないんだったら、パリでデートしよう。きみと寝たい」
「あのね……」
「日本語は誰にも通じないんだからいいだろ」
「通じてるよ。日本人も大勢いるんだから」
「そう?」
 アジア人種らしき人々がたくさんいる。韓国人や台湾人や中国人もいるが、注意深く見て彼らの言葉に耳を澄ませば、日本人は見分けられる。近くの席の夫婦らしきカップルがぎょっとした顔をしているのは、言葉が通じている証拠だ。
 老人カップルなのだから、寝たい、なんて言っている男にぎょっとするのも当たり前だろう。トシオはそんなことにも気づいていなかったのか。ますます話していたくなくなって、手を振りほどいてカフェから出ていった。
「多香子ちゃん、きみのその高飛車なところが僕の趣味なんだよっ」
 うしろでトシオの声がする。私が高飛車? ちがうよっ、と心で言い返して足を速めると、トシオが追いかけてきた。まずいかも、と思っていると、乾さんがあらわれた。
「え?」
「俺もあの店にいたんだよ。多香子が彼と楽しくお喋りしているようだったから、邪魔をしてはいけないと思ったんだ」
「楽しくお喋りしてるように聞こえた?」
「会話までは聞こえなかったけど、多香子がフォレストシンガーズって言っていたのは聞こえたよ。追ってきてるね。いやなんだろ?」
「寝たいって言ってたのも聞こえた?」
「あれだけ大声を出したら聞こえるさ。いやなんだったら最後に芝居をしようね」
 なんの芝居かは察して、私は乾さんの背中に隠れた。乾さんはトシオに高飛車口調で言った。
「多香子は俺の妹だよ。兄貴の前から妹を連れ去るつもりだったら、俺にも考えがあるんだけど……やる気か」
「やる気って……多香子ちゃんは……」
「多香子、おまえは行きたいのか?」
 おまえ、多香子、兄妹の芝居だからだ。私は言った。
「行きたくないよ。こんな頭の足りない男、嫌い」
「僕は頭のいい女の子が好きなんだよ」
「頭のいい女の子とつきあいたいんだったら、おまえも頭を鍛えろ。耳も鍛えたほうがいいな。フランス語が話せないんだったら、パリで迷子にならないようにね、坊や」
「……」
 黙ってしまったトシオをそこに置き去りにして、乾さんは私の手を引いて歩き出した。
「かなり聞いてたんじゃないの?」
「ところどころは聞こえたけど、会話だけだったら放置しても大丈夫だろ。多香子は頭がいいんだから。さて、最後の芝居は終了だ。正直に言いなさい。いつの飛行機?」
「明日」
「そうか。別れのシーンが二度目ってのはさまになりにくいんだけど、もう一度言うよ。多香子ちゃん、元気でね。がんばれよ。きみはきみの夢をかなえるために、努力して歩き続けろ。俺もがんばるから」
 今朝も乾さんはそう言ったけれど、私は別の台詞にした。
「だからださいって言われるんだよね」
「ださいか? 言われ慣れてるから平気だけどね」
「佳代子さんとは昨夜、寝たの?」
「ガキが生意気言ってんじゃねえって、何度言ったかな。ああ、これ、最後のプレゼント」
 手渡されたのはバッグの包みなのだろう。返したくて返せなくて、これで乾さんとの想い出の品物ができたと思って、私は胸に包みを抱きしめた。
「じゃあね」
 最後の、最後の……乾さんの言葉が耳元で響く。これが最後? 二度と会えない最後? おまえは俺を忘れろって言いたいんでしょ? 忘れられないだろうけど、忘れよう。私は乾さんの背中に呟いた。
「ありがとう」
 いろんないろんな意味を込めての、ありがとうだった。

END

 
 






 

 
スポンサーサイト


  • 【小説166(The blue cafe)】へ
  • 【「ミステリアスに雪がふる」】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【小説166(The blue cafe)】へ
  • 【「ミステリアスに雪がふる」】へ