novel

小説166(The blue cafe)

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赤い看板

フォレストシンガーズストーリィ166

「The blue cafe」

1

 旅先でコーヒーが飲みたくなって、煙草も吸いたくなって、カフェに足を踏み入れた。
 はじめての土地だ。周囲は異国の人々ばかり。言葉すら通じないこの場所で、俺はエトランゼ。そんな俺の耳に、なじみのあるメロディが届いてきた。

「My world is miles of endless roads
 That leaves a trail of broken dreams
 Where have you been
 I hear you say?
 I will meet you at the Blue Cafe
 Because, this is where the one who knows
 Meets the one who does not care
 The cards of fate
 The older shows
 To the younger one, who dares to take
 The chance of no return」

 この店の名は「blue cafe」で、曲のタイトルもブルーカフェだ。苦いコーヒーを前に煙草をくゆらせ、俺は歌詞に耳を澄ませた。英語の意味はわかりづらいけれど、エンドレスロード、のフレーズが耳を打つ。
 英語の店名であり、流している曲も英語の歌なのだから、店主はイギリス人なのだろうか。俺は英語ならばほんの少々は話せるが、フランス語となるとさっぱりだ。パリの人間は頑なで、英語も英語国民も嫌うと聞いていたのは昔の話だったようなのだが、現代でもその傾向はあるらしい。
 どっち道、英語だってたいして話せないのだし、イギリスには本橋夫婦が行くと言っていたし、俺はパリにしよう、と決めて、休暇にパリにやってきた。
 特別に憧れていたわけでもないが、一生に一度くらいは、花の都パリを見ておこうとの、おのぼりさん気分だった。が、パリは俺を拒んでいる気がする。実際にはパスの車内放送でも日本語案内があり、日本人観光客の姿も目につくってのに、俺はひがんでいるのだろうか。
 飛行機が延着したので、パリについたのは昨夜遅く。今朝になってホテルを抜け出して、生まれてはじめてひとりでパリを歩いているのだが、早くもいやになってきた。
 居心地が悪くなったり、苛立ちを覚えたりすると煙草が吸いたくなる。海外行きの飛行機はライターを持っているとはねられるのは知っているので、煙草だけを持ってきた。みみっちいようだが、ヨーロッパは煙草の価格が高いのだ。
 フランス人には比較的喫煙者が多く、どこの店も禁煙が多く、必然的に歩き煙草が増える。美しい花の都、パリの街角には煙草の吸殻があちこちに落ちていて、くわえ煙草の人々も目につく。俺は歩き煙草なんぞしたくないので、喫煙可の店を探し歩いていて、「blue cafe」を発見したのだった。
 コーヒーが苦いと感じるのも、煙草がうまくないのも、暗鬱な天候のパリのせい。初日ではパリの印象なんてあろうはずもないのに、俺には向かない国なのかもしれないと思うと、憂鬱気分になってきた。
「さあて、これからどこに行こうかな。メトロでセーヌ河畔でも見にいこうか」
 小声で日本語のひとりごとを呟くと、ドアを開けて入ってきた女の子と目が合った。
「お……兄ちゃん」
「俺はひとりっ子だから、俺を兄と呼ぶひとはいないんだけどね。多香子ちゃん、こんなところで会うとは、神さまもとんでもない冗談をやってくれるもんだ」
「お兄ちゃんじゃないんですよね。でも、私はあれからも……」
「心の中で兄と呼んでくれるんだったらいいんだよ。多香子ちゃん、すわったら?」
「ここ、いいですか」
「どうぞ」
 前の席にすわった多香子ちゃんは、俺を凝視して言った。
「乾さんったら、禁煙してないんですか」
「禁煙する気はないね。煙草は俺のマインドとスピリットの栄養素なんだ」
 困ったひと、とでも言いたげに俺を見る多香子ちゃんは、二年前よりも格段に大人びていた。
 高校生になったばかりだという上杉多香子が、幸生に伴われて俺のソロ曲のためのレコーディグスタジオにやってきたのは、俺が三十二歳の春の日だった。
 幸生が通っているヘアサロンの担当美容師、鬼塚さんの遠縁の娘だという縁で、鬼塚さんが幸生に頼んだ。幸生も快く引き受けて、スタジオへと彼女を連れてきた。多香子ちゃんはフォレストシンガーズのファンであり、とりわけ乾隆也のファンだと言うのだから、俺はファンの女性への敬意を持って彼女に接していた。
 だが、どうもそぶりがおかしい。俺と同じ金沢の子で、高校生なのだから当然、金沢の親元で暮らしていた彼女は、俺を驚愕の果てに連れていきそうな言葉を口にしたのだ。
「乾さんのお父さんは、私のお父さんなんです」
 それすなわち、うちの親父の浮気相手の子供か。最初は多香子ちゃんの言葉を信じ込み、あの野郎、あのクソ親父、となって俺は怒り出しそうになった。
 ひとまず怒りを鎮め、鬼塚さんは多香子ちゃんのお母さまに、俺は俺の親父に電話をかけ、直接攻撃をしかけて、真相を知った。鬼塚さんが言うには、多香子ちゃんの実の父親は別にいる。だが、俺の父が多香子ちゃんの母とは知り合いで、世話になったのは事実だと。
 上杉かおりさんという多香子ちゃんの母とは、俺は会っていない。俺の父も電話のむこうで断言していた。
「私は浮気なんかしていない。神さまにでもご先祖さまにでも、きみのおばあさまにでも誓うよ」
「信じますけどね、お父さま、お母さまにはこの話をしてもいいんですか」
「できれば、しないでくれないかな」
「承知しました」
 鬼塚さんは詳しくは話してくれなかったのだが、彼の口ぶりからしても、かおりさんはうちの親父にほのかな思慕を? とは思わなくもなかった。
 長身で様子がいいと言われている我が父、乾隆之助は、初老の年頃となってもなかなかに格好のいい紳士ではある。物腰は穏やかで、和菓子匠の商売柄、人当たりも愛想もいい。同業者の会合などでは、切れ味鋭い弁舌もふるう。その昔の祖母の前だとか、現在の母の前だとかとは、別の顔も持っているのであるようだ。
 未婚の母となったかおりさんは、金沢で隆之助と知り合い、恋をしたのか。隆之助も浮気とまでは呼べないにしろ、心はよろめいたのか。
 そんな心の動きを、息子に咎められるものではない。婿養子に近い立場で、祖母の毒舌には負けていたし、母にも遠慮がちだった父は、精神的苦痛は多々受けていただろう。その後に実際に父に会ったときにも尋ねはしなかったのだが、ふと思い出した事実はあった。
 俺が小学生のときに、父と母の口喧嘩をふすまごしに聞いた。あのとき、母は冷ややかに怒っていて、父は母に手を上げた。子供だった俺には夫婦喧嘩の理由はこれっぽっちも推測できなかったのだが、かおりさんが関わっていたのでは?
「お父さま、今さらではありますが、あなたは大変だったんですね。お母さまとだってもっと華々しく喧嘩をすればよかったのに。そのほうが夫婦の親しみってやつも深まるんじゃありませんか」
 三十四歳にもなって独身である息子には言えなかったのだが、心で父に言っていたものだ。
「多香子ちゃんはどうしてパリに? 留学でもしてるの?」
 その記憶の中心人物、多香子ちゃんは俺の前にすわり、カフェオレのカップを手にしていた。
「私はまだ高校三年生ですから、留学はさせてもらえません。大学生になったらしたいな、って思っていて、夏休みにひとり旅をしてるんです」
「ひとり旅か。お母さんは許して下さったんだよね」
「友達と行くって嘘をつきました」
「あのときにも友達と東京に行くって、嘘をついて金沢から出てきて、鬼塚さんまでをだましたんだろ。しようのない子だね」
「……乾さんだってひとり旅なんでしょ?」
「そうだけどさ、三十すぎた男と、高校生の女の子では同じにならないでしょ」
「そうやってお説教されてると、乾さんって本当のお兄ちゃんみたい。うるさいお兄ちゃん、お兄ちゃんって呼んでいい?」
「いいよ。兄貴気分ってのもいいもんだ。俺は実にこうるさい兄貴だから、説教は凄まじいんだよ。覚悟はいいか」
「中年になった証拠ですよ。口うるさいのが増したのは」
「生意気言ってんじゃねえんだよ、ガキが」
 荒い口すぎるかと思ったのだが、多香子ちゃんは楽しそうに笑っていた。
「じゃあ、私もこうやって喋ろうっと。お兄ちゃんは休暇?」
「そうなんだ。俺たちも夏休みだよ。パリって治安がよくないらしいから、エスコートしようか。多香子ちゃんはフランス語は?」
「すこしだったら話せます」
「そうすると、エスコートしてもらうのは俺だね。多香子さん、頼りにしてますよ」
「こちらこそ」
 精神的な弟も、精神的な妹も周囲にはいる。仕事仲間の二十代の男女はいるのだが、ここまで若い子はいない。多香子ちゃんと歩いていると俺は何者に見えるのだろうか。兄だったらいいけれど、甘言を弄して美少女を誘惑しようとしている好色オヤジには……いいや、見えない。
 若く見えると皆に言われる俺は、二十代に見られる場合もある。十ばかり年下の妹とパリを歩く、優しくて口うるさい兄貴を演じよう。
 背丈は俺よりも頭ひとつ小さい、多香子ちゃんと連れ立ってカフェを出ると、空が晴れてきた。俺の心も晴れ模様になってくる。隆也と多香子、名前も兄妹然としているのは、かおりさんの心にはなにが?
 そうも思うのだが、多香子ちゃんだって詳しい事情は知らないだろう。言わないほうがいいはすだ。今日はただ、兄と妹のようにパリを楽しもう。
 ライトグレイのシャツに白のパンツの兄。白いTシャツにジーンズの妹。服装も合っている。日本語の会話もできる。俺は無口は苦手なので、話し相手ができたのがなによりも嬉しい。ふたりして通りの店を見たり、話をしたりして歩いていると、むこうからくわえ煙草の屈強そうな白人男のふたり組がやってきた。
 観光客であろうか。ひとりの男がくわえた煙草を手に持ち直し、多香子ちゃんとすれちがおうとした。大きな男は身振り手振りをまじえて連れの男と話している。すれちがいざま、彼の手の煙草が多香子ちゃんの頭をかすめそうになったので、俺はその手をはたいた。
「ふぎゃぎゃっ!!」
 言葉がまったくの不明なので、俺にはそうとしか聞こえなかったのだが、男は俺にいちゃもんをつけたのだろう。どこの国の人間なのかも不明な男に向かって、俺は英語で言ってみた。
「Walk carefully」
 が、通じていない。多香子ちゃんはフランス語で言った。
「Marchez avec soin」
 フランス語も通じていないようだったので、俺は日本語で言った。
「俺だって喫煙者なんだから、煙草を吸うなとは言わないよ。だけど、往来を煙草を手にして歩くな。人通りが皆無だったらいいけど、小柄な人間だって子供だって歩いてるんだ。火のついた煙草を持って歩いて、振り回すなよ」
 ますますきょとんとして、男が俺を見下ろす。俺よりも頭半分は背が高く、プロレスラー並みの体躯の男だった。
「その煙草を捨てろ。それだ、それ!!」
 煙草を指差すと、男はますますもますます、首をかしげる。俺は彼の煙草を取り上げて、念のために持ち歩いている携帯灰皿に放り込んだ。
「ぎゃおっ」
 依然として彼の言葉は不明だが、怒ったのだろう。白い顔を真っ赤にして俺を威嚇しているらしい。通行人が立ち止まって俺たちを見物している。言葉が通じないようでは俺の武器は通用しないのだから、どうしようかと思っていたら、お巡りさんらしき男が近寄ってきた。
 多香子ちゃんがフランス語で、彼に今しがたのできごとを報告していたのだろう。お巡りさんはうなずいて男に向き直り、多香子ちゃんは俺に言った。
「警察官ですよ、彼。おまかせして行きましょう」
「ああ。フランス語のできるひとがついててくれて、ありがたいよ。多香子ちゃん、ありがとう」
「お兄ちゃんっていい格好しいだって、三沢さんが言ってたけど、本当なんだね」
「本当ですよ」
「怒らないの?」
「なんで俺が怒るの?」
「だって……お兄ちゃんって、多香子のためにああ言ってくれたんでしょ」
「言葉が通じないでは、俺の多弁は武器にならないよ」
「私には通じてたもん。本当に乾さんがお兄ちゃんだったらいいのにな」
 振り向くと、危険物携行男はポリスマンに叱られているようだった。細身の美青年とはいえ、警官にはでかい男も勝てないのだろう。ポリスマンは俺には聞き取れない言葉で、男に向かってまくし立てている。あれはどこの国の言葉なのだろうか、と思っていると、多香子ちゃんが言った。
「たぶん、オランダ語かな」
「オランダ人ってでかいんだよな。平均身長は世界一だろ」
「そうなんですか」
「そう聞くよ。多香子ちゃんが留学したいのはパリ?」
「パリじゃなくてフランスの田舎がいいな」
「ええと……そうだ、思い出した」
 留学といえば誰かも……となって思い出したのは、ミエちゃんの妹だ。ミエちゃんの妹の佳代子ちゃんは、俺たちよりも五つ年下なので、二十九歳になる。佳代子ちゃんとは俺も幾度かは会った。
 栃木生まれで東京の服飾専門学校に入るために上京してきた佳代子ちゃんは、学校を卒業して就職し、金を貯めてパリに渡った。ミエちゃんからは話も聞いているので、ただいまはパリ在住だとも知っている。
 パリのブティック勤めだったか。佳代子ちゃんが働く店の名は……フランス語では思い出せないが、日本語に置き換えたら思い出した。
「薔薇ってロゼだったかな。ロゼワインのロゼだよね。「薔薇色の風」だよ」
「Vent rose。それがなにか?」
「ただいまは本橋の奥さん。フォレストシンガーズのマネージャーの美江子さんの妹の佳代子ちゃんが、パリに住んでるんだ。突然行ってもいないかもしれないけど、店がわかったら会いにいきたいな。店を調べる方法はある?」
「インターネットカフェでだったら」
 見つけたネットカフェで、多香子ちゃんが検索してくれた。フランス語はすこし、と言ったのは謙遜だろう。かなり話せるし読めるらしい。多香子ちゃんは勉強家なんだね、と感心して、俺はカフェのギャルソンとの交渉も、ネット検索も多香子ちゃんにおまかせした。
「ここですか。ブティックだったらここみたい。電話してみましょうか」
「なにからなにまでお世話をかけます。姉さんみたいだな」
「多香子は姉さんなんていや。乾さんのお姉さんだったら、おばさんじゃないですか」
「そうでもないよ。俺だっておじさんじゃないんだから。多香子ちゃん、電話して下さい」
 電話も多香子ちゃんにおまかせすると、当たりみたい、と言って、電話を替わってくれた。
「乾さん?! きゃあっ、びーっくり。私は仕事中だから、夜になったら会いましょうよ」
 夜に佳代子ちゃんと会う約束をして、電話を切った。多香子ちゃんはつまらなそうな顔になって言った。
「私は連れていってもらえないの?」
「夜は大人の時間だよ。多香子ちゃんはホテルに送っていくから、早く帰って寝なさい」
「お兄ちゃんなんか、フランス語はできないくせに」
「すこしは英語だって通じるだろ。俺はなんとかするよ」
「つきそってあげるのに。マネージャーさんの妹さんじゃなくて、実は乾さんの彼女?」
「生意気言ってんじゃねえんだよ、ガキが」
 もう一度言ってみせると、多香子ちゃんは口をとがらせて、俺の足をスニーカーで踏んづけた。


2

 気が強いとは、女性の場合は褒め言葉にはならないのかもしれないが、気性がしっかりしていると言い換えれば、褒め言葉になるはずだ。
 佳代子ちゃんは単身、パリで暮らしている。中学生のころからファッションが好きで、勉強し、働き、自力で金を貯めて念願のパリ留学を実現させた。姉にそっくりな気性の強さは、俺から見ると眩しいほどだ。
「カヨちゃんは昔以上に姉さんに似てきたね」
 彼女が案内してくれたのは、フレンチパブとでも名づければいいのか。ピアノ曲が静かに流れる大人の店だった。
「あなたとはそれほどには話をしたこともないけど、こうして向き合ってると、ミエちゃんと話しているみたいな錯覚を覚えるよ」
「私のほうが姉よりもセンスがいいでしょ?」
「ミエちゃんだってセンスはいいけど、パリで服飾の仕事をしているカヨちゃんのほうが、より以上にファッショナブル、センシティヴだね」
「顔も姉より美人じゃない?」
「おふたりともに優劣つけがたき美人です」
 声も似ている。顔も似ている。体型も似ている。カヨちゃんのほうがいくぶん若いのは妹なのだから当たり前だが、こんなにもミエちゃんに似た女性といると、俺の胸の切なさが蘇ってくるかのようだ。
 ひとことも本人には告げてはいないが、好きだったひと、美江子。彼女は俺の親友の妻となり、俺は彼女と彼の結婚式を見ていた。気づくのが遅すぎて、告白すらできなくて、俺はおのれを欺き続けていたのだと、ふたりが結婚するとの報告を聞いてから思ったのだ。
 センチ癖もある俺は、おのれを哀れんでもいた。そんな想いとはとうに訣別したはずなのに、胸のうちに燃え残っている。俺はなんてなんて、情けなくも未練がましい奴なのだろうか。
 そう考えるのすらが、自己憐憫だ。ミエちゃんが知らないのだから、カヨちゃんが俺の想いを知っているはずもない。カヨちゃんにとっては、俺は姉の大学時代からの友人で、仕事仲間で、姉の夫の友人でもある。ただそれだけの男なのだから。
「本橋さんったら、どんな顔してうちの両親に挨拶したのかな。乾さんは聞いてる?」
「カヨちゃんは姉さんの結婚式にも参列しなかったんだよね」
「忙しいんだもん。兄の結婚式にも弟の結婚式にも出てないよ。薄情な妹であり、姉でもあるの。私は自分の生活のほうが大切なのよ」
「パリは遠いもんな」
「日本に帰るにはお金もかかるしね」
 カヨちゃんと俺の接点は、ミエちゃんだ。カヨちゃんが屈託もなくミエちゃんの話ばかりするのも当然だった。
「本橋からは聞いたよ。俺だっていずれは誰かと結婚する。そのときには彼女のご両親に挨拶しにいかなくちゃならないんだから、後学のために聞かせろ、ってさ、つっついたんだよ」
 幸生に言わせれば、暴力目人科に属するとなる本橋真次郎は、ミエちゃんのご両親になんと言ったのか。俺がそこをつつくと、本橋は仏頂面で答えた。
「うちのおふくろはさ、学生のときから山田を俺の彼女だって疑ってただろ。だもんだから、山田と結婚するんだって言ったら、ほらぁ、やっぱりじゃないのっ、お母さんの勘は正しかったのよ、ってさ、大いばりにいばられて参ったよ」
「ミエちゃんのご両親には? 娘さんを僕に下さい、幸せにします、って言ったのか」
「いや……」
 本橋の答えは、実に実にミエちゃんらしいと思わせるものだった。
「山田は言ったよ。私はあんたにもらわれるんじゃないし、あんたに幸せにしてもらうんでもないの、ふたりで幸せになるんだよ、だそうだ」
「……そうか」
「だから俺は、山田の両親にはこう言った。美江子さんとふたりして幸せになります、結婚させて下さい」
「ストレートでシンプルで、おまえらしいいい台詞だよ」
「そっか。普通すぎるだろ」
「そこがいいんだよ」
 ぎりぎりぎりっと胸が痛んだあの日、俺は完全にはあの日の想いとは訣別していないのか。完全に吹っ切れているのならば、思い出しても胸は痛くないはずなのに。
 いつになっても史上最悪の馬鹿だな、おまえは。隆也、いい加減にしろよ。そんなだったら……そんなだったら……てめえでてめえを叱りつけ、カヨちゃんにはそのときの本橋の表情やら声音やら言葉やらを、冗談まじりにして話した。
「へええ、姉はそう言ったの? 私も結婚相手ができたらそう言おうかな」
「カヨちゃんには彼は? いるんだろ」
「いたんだけど、別れたの」
「そうか。出会いと別れが人生さ、ってね……俺ってかっこつけだろ? カヨちゃんもそう思う? 乾隆也がこの世に生を受けて三十四年、幾人の人にそう言われたか」
「乾さんって子供のころからかっこつけだったの?」
「その傾向はあったかな」
 思い出してみれば、方言はなるだけ使わず、金沢にいても標準語で話す。そこからしてかっこつけだったのではあるまいか。ごくごく小さなころには、祖母がひょっこり口から出す金沢弁を真似たりもしていたが、家族そろって方言は使わないほうだったので、知らず知らず俺もそうなったのもあった。
 方言は使わないとは言っても、金沢なまりはあったのだから、よその地方の人間から見れば滑稽だったかもしれない。俺にもなまっている自覚はあったものの、高校時代までにしても標準語もどきで話していた。
 幼児のころの記憶は遠すぎて、あの時代から格好をつけていたのかどうか、覚えていない。ひとつ思い出したのは、ランドセルだ。小学校に入学する年の一月だか二月だかに、祖母が俺をデパートに連れていき、言ったのだった。
「隆也は男の子だから、ランドセルは黒でいいよね」
「男の子ってランドセルはみんな黒でしょ? みんなと同じはいやだ」
「だったら、赤にする?」
「赤でもいいの? 女の子みたいって言わない?」
「隆也が赤いランドセルをほしいんだったら、それでもいいよ。ただし、ばあちゃんはいいけど、よそさまに笑われるからね」
「笑われるのか」
 赤は恥ずかしいが、黒はいやだ。男の子だからって男らしい色にしなくてもいいだろうけど、僕には赤やピンクは似合わない。
 売れ筋は現代でも赤と黒だそうだが、当時から売り場にはカラフルな色のランドセルが並んでいた。俺はランドセルを前に悩み続け、結局はグレイに決めた。祖母は俺の選んだ色のランドセルを買ってくれたのだが、田舎だからだったのか。同級生の母親あたりに奇異な視線を向けられた。
 それでも俺は自ら選んだグレイのランドセルに満足し、母親が言っているのを聞きかじって、おまえのランドセルって変な色、などとからかう同級生には言い返した。
「なんでもかんでもみんな同じなんてつまらないんだよ。僕は人とはちがうほうが好きなんだ」
 あのころから口は達者だったのだが、幼稚な理屈で同級生を言い負かして悦に入っていた俺は、今となっては恥ずかしい。
 中学生になると詰襟の黒の学生服になり、制服なのだから全校男子生徒がそれを着なくてはいけない。制服なんてものも気に入らなかったのだが、規則を破るわけにもいかなくて、俺は学生服の下に着る服に工夫をこらした。
「隆也は子供のくせにおしゃれだね」
 祖母にはそう言われたが、おしゃれではなく、人とちがったことがしたかったのだ。
 高校も学生服だったが、下に着る服に凝るなんてのは、高校生男子だったらみんなやっている。そうなるとつまらなくなって、学生服の裏地にスパンコールを縫いつけて、これって変だな、などと試行錯誤していた。
 そのころには俺は本当にかっこつけになっていたのだろう。中学高校では孤高の少年を気取りたがり、群れるのが嫌いで、ひとりが好きだった。女の子が気になってたまらないくせに、俺は彼女なんかいらないんだ、と宣言していた。
 子供のころの話をしていると、カヨちゃんは熱心に聞いてくれて、言った。
「乾さんって高校までは彼女はいなかったの?」
「そんなかっこつけに告白してくれた子がいて、ひとりだけいたんだよ」
「いるよね、そりゃあ。ね、乾さん、金沢弁を使ってみて」
「ミエちゃんもカヨちゃんも多香子ちゃんも、はしかい子やわ。爪の先ほどあやかりたいわ」
 そういえば、多香子ちゃんも金沢弁は使わない。あの子は性格も俺に似ているのだろうか。血のつながりはないはずなのに、どこかは俺に似ている気がする。カヨちゃんには多香子ちゃんの話はしていないので、多香子ちゃんって誰? と問い返されるかと思ったのだが、金沢弁のほうを突っ込まれた。
「はしかいって? 爪の先ほどあやかりたい、だったらわかるけどね」
「俺ははしかい女性が好きだよ」
「褒め言葉?」
「もちろん。カヨちゃんも栃木弁を使ってみて」
「やだ。栃木弁なんて忘れちゃった。女が使うには荒っぽいんだもん」
「栃木もカカア天下とからっ風が名物なのかな」
「あるかもね。栃木の女は強いよ」
「強い女性も好きだよ」
 故郷の話やら方言の話やらをしていると気持ちがそれる。カヨちゃんと会ったのはまちがいだったか、一瞬後悔したのも忘れられる。俺はさらに言った。
「それでね、グレイのランドセルにして、そのころはまだそこまでは考えてなかったんだけど、大学を卒業するころからかな。モノトーンと寒色を好むようになったんだ」
「グレイのランドセルが発端で、モノトーンの乾さんになったのか。今夜もグレイと白だし、私が覚えてる乾さんって、いつもグレイとかブルーとかを着てるイメージがあるな。本橋さんはセンスがよくないって印象が強かったんだけど、乾さんはセンスいいよ。今夜も素敵」
「ありがとう」
「私は本橋さんとは姉が結婚してから一度も会ってないんだけど、お兄さんって呼ばないといけないんだね。義理の兄なんだもの」
「そうだね」
 やはりこの話に行くのか。俺だって表面上は平静に話せるようになってはいるけれど、心にはかすかな波立ちが残っている。カヨちゃんとミエちゃんや本橋の話をしていれば、平静をよそおうのではなく、自然に平静になれるかもしれない。
 本橋やミエちゃんや、他のフォレストシンガーズの面々の話、ファッションの話。カヨちゃんの仕事や私生活の話。パリにはおいしいものはあるけど、物価が高いとの話。種々雑多な話題が展開していき、その間には酒を飲み、食事もし、カヨちゃんの目がとろんとなってきつつあった。
「カヨちゃん、酔った? 帰ろうか」
「乾さんって強いね」
「俺は酒には強くないよ。あまり飲んでないからだよ」
「そっかな。男のお酒に強いのは、女とはレベルがちがわない?」
「身体の大きさや内臓の差ってのはあるんだろうけど、アルコールに強いか弱いかは個人差が大きいだろ。なににつけても、男と女の性差以上に、個人差のほうが大きいんだよ」
「乾さんって理屈っぽい」
「はい、それもよく言われます」
 ふたりして声を立てて笑い、そこでふたりっきりのパーティはお開きとなった。
「カヨちゃん、今夜はありがとう。送っていきましょうか」
「いいの。私のほうがパリには慣れてるんだもの。私が送っていこうか」
「女性に送っていただかなくてはならないほどには、わたくしは弱い男ではないつもりですよ」
「そういう意味じゃないんだけど、プライドが傷つく? だけど、もうちょっと歩こうよ」
「そうだね。どうぞ」
 腕を差し出すと、カヨちゃんも腕をからめてくれた。
「夜のパリはけっこう物騒だから、乾さん、気をつけてホテルに帰ってね」
「ありがとうございます」
「……私なんか、駄目かな」
「駄目って?」
「ううん、いいの。軽蔑されちゃいそうだもんね。私は恋人と別れて、パリでひとりで暮らしてる寂しい日本の女。だからって姉夫婦の親友の乾さんに、抱いてだなんて……」
 今度はそこへ行くのか。やけにカヨちゃんが色っぽく見えるのは、そんなことを考えているせいか。俺はカヨちゃんを愛してはいない。俺にとっても彼女は、親友夫婦の妹だ。
 しかし、こうして異国の夜、寂しい男と寂しい女が、ひとときをなぐさめ合うのも、大人同士としてはしてはいけないわけではない。カヨちゃんは黙り込んでしまい、俺も黙って歩いていると、妄想が起こってきた。
「佳代子、俺はきみを愛してはいないけど、それでもいいんだったら俺のホテルについておいで。抱いてやるよ」
「……乾さん、うん、抱いて」
 いけないいけない。ゆきずりのひとだとしてもいけないのに、ミエちゃんの妹を遊びで抱くなんてとんでもない。俺はまたしてもおのれを叱りつけて、カヨちゃんの腕を腕から引き抜いた。
「そうだね。ねえ、乾さん」
「んん?」
「はしかいの意味は?」
「頭がいい、かしこい、利口。だらの反対だな」
「だらって馬鹿? うん、私は馬鹿な女のつもりはないからね。乾さんに馬鹿だって言われる前に、さよならしよう」
「またいつか会えるかな」
「会えるといいね」
 こんなときには格好をつけてもいいんだよ。きみを抱いたりしたら、ミエちゃんにカヨちゃんと会ったとの報告もできやしない。俺は手を上げて去っていくカヨちゃんの後姿を見送って、そっと呟いた。
「さよなら、ミエちゃんもカヨちゃんも……」


 二年前のあの日、聡い幸生はまちがいなく気づいていたであろうに、俺にはなにも言わなかった。だが、今、ここに幸生がいたら言うのではあるまいか。
「乾さんったらやっぱもてますね。ユキちゃん、妬けちゃうわ。いやいや、隆也さんはユキちゃんのものよっ」
「はいはい。俺はおまえのものだから、ちょっと引っ込んでろ」
「そんな本気じゃない口調、いやいや」
 ひとりでいても誰かといても出てくる幸生の幻を、ぎゅぎゅっと胸の奥底に押し込んで、俺は多香子ちゃんと向き合った。
「明日、帰るんだね。俺はもうすこしパリを見てから、フランスの別の地方にも行くよ」
「もう二度と会えないの?」
「きみも知っての通り、きみはうちの母の心をざわめかせるかもしれないひとなんだ。あからさまに言って悪いけど、日本ではきみには会いたくないな」
「……そう」
「多香子ちゃんははしかい子だろ」
「はしかくないもん。だらですよーだ」
 同郷人には説明しなくても通じる言葉を口にし、俺は多香子ちゃんの頭に手を乗せた。
「ありがとう。昨日の半日は楽しかったよ」
 カヨちゃんと別れ、ホテルに帰って狭いバスを使い、眠って起きたら電話が鳴った。かけてきたのは多香子ちゃんで、彼女は言ったのだ。
「私は明日、日本に帰るの。お兄ちゃん、もう一度会って」
 断るわけにもいかなくて、朝食をともにしようと約束し、昨日のカフェで待ち合わせた。多香子ちゃんはなにか言いたげに俺を見る。そのまなざしが雄弁に語るものは……俺の自惚れだと強いて笑い飛ばして、俺は言った。
「元気でね。がんばれよ。きみはきみの夢をかなえるために、努力して歩き続けろ。俺もがんばるから」
「乾さんがなにをがんばるの?」
「俺だってまだまだこれからさ。俺はおじさんじゃないんだから」
「そうかな。私から見たらおじさんだよ」
「生意気言うんじゃねえよ、ガキが」
「そればっかり」
 つんっとおでこをつついたら、多香子ちゃんはうつむいた。泣いているのだろうか。けれど、顔を上げたときには多香子ちゃんの瞳は澄んでいて、涙の翳りは見当たらなかった。
「この店の名と同名タイトルの歌があるんだよ。メシを食って店から出たら歌おうか」
「私ひとりのために、お兄ちゃんが歌ってくれるのね」
「最後の大サービス」
「サービスなんてつまんない」
「俺はこれでもプロのシンガーだぞ。歌うのはサービスにならないのかな」
「いいえ。なります」
 カフェオレとクロワッサンのパリの朝食をすませて、多香子ちゃんと外に出て、並んで歩き出しながら歌った。
 
「Where have you been?
 Where are you going to?
 I want to know what is new
 I want to go with you
 What have you seen?

 What do you know that is new?
 Where are you going to?
 Because I want to go with you

 So meet me down at the Blue Cafe」

 兄でもなく、多香子ちゃんの瞳が語っているような対象の男でもなく、パリで一緒に歩いただけの、ただの旅の道連れの男。多香子ちゃんの中での俺がそうなるといい。できれば忘れてくれたほうがいい。
 歌を止めると、多香子ちゃんは俺のそばから離れて歩き出した。振り向きもせずに歩いていく小さな背中は、大人への旅路を歩いていく。俺はやっぱり格好つけの乾隆也だ。昨夜も今朝もかっこつけばっかりだ。俺にはそれが似合いなんだから、いまや習性のようなものなのだから、俺もこれからも格好つけて歩いていこう。
 カヨちゃんにも多香子ちゃんにも負けないように、空の上から死んだばあちゃんに、隆也はだらだね、と笑われないように。

END
 

 



 

 


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