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小説158(この星に生まれて)

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フォレストシンガーズストーリィ157

「この星に生まれて」


1・泉水

役職は主任なので出世したというほどでもないが、就職してから十年以上もたつと、私も責任ある立場になっていて、出張もある。今日は職場の同僚と連れ立って、神戸の取引先の会議に出席した。
 神戸は私の職場のある大阪からだと近いので、宿泊する必要はないのだが、会議の時刻が遅かったので、仕事をすませて外に出ると夕刻になっていた。明日は早く出社しなくてもいいからもあって、同僚の竹中さんに飲みに誘われた。
「最終の電車でもいいでしょ」
「阪急電車の最終に乗ったら、大阪についてからの地下鉄の最終に間に合わなくなるよ」
「それもそうか。僕、関西がまだわかってなくてね」
「東京と大阪の交通事情は似たようなもんでしょ」
 彼、竹中さんは最近、東京から転勤してきて私の部署に配属された。私は普段はほとんど大阪弁なのだが、東京の人間と話していると標準語になる。東京で暮らしていた日々はかなり昔なのだが、シゲと約束した、標準語で喋ろうね、は消え失せてはいない。
「ちょっとくらいだったらいいんじゃない?」
「いいかな。ちょっとだけ飲んで帰ろうか」
「瀬戸内さん、話せるね」
 たぶん年齢は私に近いだろう。独身であるとも聞いている。竹中さんはルックスも悪くない。あまり話はしていないので性格はよくは知らないが、飲んでいて不愉快な相手ではないと思われたので、彼と酒場に入った。
「瀬戸内さん、いくつ? 女性の年を聞くって失礼?」
「いいよ。三十三」
「そっか。若く見えるね」
「竹中さんはいくつ?」
「瀬戸内さんよりふたつ年下」
「年下なんだね」
 年齢からはじまって、互いのプライベートもすこしずつ喋り、仕事の話もしていると、二時間が経過した。近頃の居酒屋は時間制限をするので、二時間たつと店から出ていかないといけない。飲み足りない顔をしている竹中さんが言った。
「大阪に帰ってからの地下鉄の時間を計算しても、まだ大丈夫だよ。もう一軒行かない?」
「そうだね。竹中さんと話してるのは楽しくなくもないし、行こうか。ここって港に近いんだよね。私がちょこっと知ってるバーがあるんだ。行く?」
「うん、案内して」
 あれは二年ほど前になるのか。シゲがメールをしてきて、ヒデと三人で会ったバーだ。「Drunken sea gull」。あれから現在までの間には、シゲともヒデとも昔のまんまに話せるようになった。ヒデはフォレストシンガーズの面々とも再会して、昔のまんまに戻りつつあると、シゲが言っていた。
 バーには髭のマスターがいる。無愛想な神戸弁のおっちゃんだが、女には多少は愛想がいいのであるらしい。シゲやヒデと会ったのちに偶然会った、大学の後輩、酒巻くんが言っていた。
「マスターって瀬戸内さんとだと楽しそうですね。意外に女性好きなのかな」
「あれで楽しそうなの?」
「僕ひとりだと、マスターは僕に返事をしてくれる程度で、ほとんどなんにも喋りませんよ」
 酒巻くんはDJをやっていて、フォレストシンガーズとも関わりが深いらしい。なんでも、シゲがヒデと再会するに当たっては、酒巻くんが大きく貢献したのだそうだ。
 そんなことは竹中さんにはなんの関わりもないので、仕事の話をしながら歩いていた。私はいくらか酔っていたので、夜風が気持ちいい。ここからだとバーは近いので、歩いていくつもりだった。バーでタクシーを呼んでもらって三宮まで行き、そこから阪急、梅田から地下鉄、時間は大丈夫だろう。まだ夜は更けていない。
「瀬戸内さんも独身だよね」
 足を止めて、竹中さんが言った。
「つきあってあげてもいいよ」
「つきあってあげる? どこに?」
「そのつきあうじゃなくて、つまり、瀬戸内さんが僕の彼女に……って。きみさ、僕を好きになったんじゃない?」
「どこからそんな発想が出てくるんだ」
「きみの態度だとか声だとか、それにさ、言ったじゃないか。僕と話していると楽しいって」
 楽しくなくなってきた、と言うと、明日からの仕事に差し障りがあるだろうか。あまりに言いたいことを言っては、同僚との間が気まずくなるかと思って言わずにいたら、竹中さんが言った。
「三十三にもなってるんだったら、結婚したいでしょ? それを言い出されると僕も困るんだ。僕には東京に彼女がいるんだけど、離れ離れになって寂しいんだよね。大阪での彼女ってことだったら、つきあってあげるよ」
「私は結婚なんてのは飽きたからしたくないの。私はバツイチだからね」
「そうなの? そしたら……そうすると……結婚したくなくなるもの? だったらちょうどいいや。そういう女性は世慣れていて、若い女の子みたいにすがってきたりしないもんな。ちょうどいいよ。瀬戸内さん、大阪に帰ろう。飲むよりもホテルに行こうよ」
「……ひとりで帰ったら? 私はひとりでバーに行くから」
「なんでなんで? 大阪の女性って……嘘だぁ。東京の女と同じだろ、そこらへんも」
「私は大阪の女ではない。三重の女だ」
「田舎のひとだから堅いの?」
 アホらしくて返事もしたくなくなってきた。このままでいると蹴飛ばしたくなりそうで、同僚と往来で大喧嘩をしてはまずいだろうから、ほったらかして歩き出した。
「瀬戸内さん、恥ずかしがってるの? 案外可愛いんだね。僕はきみに恋をしたんでもないけど、きみって美人だしさ、プロポーションもいいよね。背が高くて気が強くて、鼻っ柱の強そうな女、趣味なんだ。僕のベッドテクニックを……」
「あんたの東京の彼女も気が強いんだろ。言いつけてあげようか」
「あっちはあっちで、僕がいなかったら適当に遊んでるよ。東京の女はそうなんだよ」
「東京の女ったって、そんなのばかりじゃないよ」
 返事もしたくなかったのに、頭に来たので言い返しつつ、脚を早めていたら、「Drunken sea gull」の看板が見えてきた。
「ねえねえ、瀬戸内さん、いや、泉水、恥ずかしがらないで」
 振り向きざま、私は言った。
「耳の穴から手ぇ突っ込んで、奥歯がたがた言わしたろか」
「は?」
「港のドブみたいな水ん中に叩っ込むぞ。されたないんやったら逃げんかい。ボケ!! 仕事仲間やと思て遠慮してたらええ気になりやがって、ドタマかち割られたいんかい」
「は? え? 泉水……なに言ってるの?」
「ワレに呼び捨てにされとうないんじゃ。やるんかい、ワレ」
「ワレ?」
「あーら、やだわ、下品。大阪で長年暮らしてると、こんな言葉遣いも耳で覚えちゃうのよ。うちの課長、河内出身だそうで、前に教えてくれたのよね。もっと教えてあげようか」
「教えてくれてたのか。僕にはさっぱりだけど……いいよ、教えてくれなくても。それより、行こう。ね、泉水?」
 意味が通じなかったのであるらしく、竹中さんは私の肩を抱こうとした。力まかせに突き飛ばしたら、あっけに取られたような男の声が聞こえた。
「すげ……お姉さん、河内のひと? 河内弁ってすっげえ荒いって、酒巻さんに聞いたんだよ。ワレ、なんかしてけっかんねん、って……どういう意味?」
「あなたは酒巻くんの知り合い?」
「まあね。お姉さんも酒巻さん、知ってるの? わわわ、あいつ、起きてきたよ。助けて」
「あんた、男だろ。女の背中に隠れるのか」
「お姉さん、メッチャ強そうだもん。頼みますよ」
 えらく綺麗な顔をしていて、えらく背の高い若者は、私の背中で言った。
「怒ってるぞ。怒ってる男にも勝てる?」
「私はあいつと喧嘩しようってんじゃないよ」
 が、尻餅をついていた竹中さんは立ち上がって、怒りの形相で私に言った。
「そいつ、きみの男? そいつとここで待ち合わせしてて、そんなところに僕を連れてきたのか。そんな奴だと遊ばれるよ」
「あんたと遊ぶよりはいいもんね。帰っていいよ、お疲れさま、竹中さん」
「……てめえ、まっとうな社会人じゃないだろ」
「俺? うん。失業者」
「失業者なんかがまともな社会人の女性と遊ぶとは……おまえは遊んでる暇があったら就職活動しろ。彼女を返せ」
「返せって言ったって、ねえ? お姉さん?」
 芝居すんの? と若者の声が小さく聞こえたので、私はうなずいた。
「俺みたいのと? お姉さんってまともな社会人なんでしょ? いいの?」
「いいからさ」
「そぉお? だけどさ、俺、やだよ。お姉さんと恋人同士の真似だったらいいけど、喧嘩なんかしたくない。お姉さんがやってくれるんだったらいいけどね」
「あんたは女に喧嘩させて、自分は女の背中に隠れてるのか」
「だって、殴られたら痛いじゃん」
「私はいいのか」
「いいんじゃない? お姉さんだったら殴られるっていうか、殴るほうだろ」
 一方的に殴られるつもりはないが、殴り合ったら私も殴られる。竹中さんは私よりも身体が大きいので、彼が本気を出したら負けるだろう。竹中さんは私の背中にいる若者が気が弱そうだと見て取って、強気に出ているようなのだが、彼が私に加勢でもしてくれたらともかく、一対一で竹中さんと喧嘩をしたら、私が負ける。
 どうしようか、この若者を前に押し出して、私が逃げようか。そうすると私が卑怯者になるのか、と悩んでいると、バーのドアが開いた。
「店の前で喧嘩せんといてんか。ありゃ、瀬戸内さんか?」
 マスターだった。
「その背の高い奴、ファイとか言うたな。声は聞こえてたで。なんやねん、女のひとに喧嘩させよっちゅうんか。瀬戸内さんはたしかに強いけど、おまえかて強そうやないか」
「俺は弱いの。見掛け倒しって言うの」
「おのれで言うな。そっちのあんたは?」
「……う、えと……」
 うがうが言っていた竹中さんは、頭を下げて背中を向けた。ファイという名らしき若者と私とだったら喧嘩もできそうだが、マスターに敵対されるとやばいと見たか。結果的にはマスターに助けられた形になって、三人で店に入っていった。
「お姉さん、あいつ、お姉さんの会社の奴? 大丈夫?」
「あいつが悪いんだから、会社で言い触らしたりしないよ。明日のことは明日考える。ファイ……ファイ……燦劇の?」
「そうだよん。知っててくれてありがとう」
 燦劇とは、フォレストシンガーズの事務所の後輩ロックバンドだ。シゲや酒巻くんの口からも聞いた。燦劇はビジュアル系バンドなのだが、一時活動休止中だとも聞いている。
 休止中だから失業中で、メイクもしていないのだろう。素顔でいてもファイはとびきり綺麗な顔をしているし、ファッションも突飛なので、竹中さんにも彼が普通の若者ではないと見えたか。そうと知れたので、私も自己紹介した。
「瀬戸内泉水っていうんだ。フォレストシンガーズのシゲとは友達。酒巻くんとも会ったことはあるよ。フォレストシンガーズの他のみなさんとも知り合いではある。だけど、ファイでいい? ファイは東京に住んでるんじゃないの? 神戸でなにをしてるの?」
「俺、今は暇だし、この店が気に入ったから時々来るんだ。神戸には友達もできたし、神戸にだってライヴハウスはあるんだから、敵情視察ってのかな。俺もそのうちには……俺の話はいっか」
「私の話も別にないよ」
「じゃあ、飲もうよ」
「そうだね、マスター、ありがとうございます」
「わしはなんにもしとらんで」
「はいはい。おいしいお酒をありがとう」
「おいしいおつまみもありがとう」
 ファイも言い、ふたりでウィスキーソーダのグラスを合わせた。

 
活動休止中の燦劇のメンバーたちが、どこでどうしているのかをファイが話す。ファイ自身の話ではなく、メンバーたちの話ばかりだった。
「ギターのエミーはロスにいるんだよ。ギター修行だってさ。金髪の女の子とデートしたとかってメールが来るけど、てめえ、英語は喋れるのかよ」
「アメリカで生活してたら、喋れるようになるんじゃない?」
「そうかな。エミーは俺とおんなじくらいに頭が悪いんだぜ。で、キーボードのパールは充電期間だとか言って、一からシンセサイザーのレッスンしてるって言ってたな。ドラムのルビーは他人のバンドに助っ人に行ったりもしてる。グラブダブドリブのベース、知ってる?」
「沢崎司?」
「そうそう。ベースのトビーは、そいつに憧れてて、弟子にしてもらいたくてグラブダブドリブの事務所に押しかけて、なんとか沢崎さんには会わせてもらったんだけど、追い出されたって言ってた」
「普通はそうかな」
「トビーの話、ほんとだと思う?」
「私が知るわけないだろ。私は一般OLだよ」
「そうだったね。そうやってもとのメンバーとメールしたり、電話で話したり、たまには会って飲んだりもするんだけど、俺にはやりたいことが見つからない。俺は燦劇のファイでしか……」
「一時休止なんだったら戻れるんじゃないの?」
「戻れるのかな」
 ミュージシャンの世界なんて、私はシゲあたりからちらほらと話を聞いているにすぎない。シゲはずーっとフォレストシンガーズにいられるといいね、ファイは寂しいみたいだよ、とシゲに話しかけていると、時間がすぎているのに気がついた。
「帰らなくちゃ。私の家は大阪なの。明日は仕事なの。帰るね」
「俺も帰るよ」
 失業者のくせにおごってくれようとするファイを退けて、割り勘で支払ってバーを出た。今夜もマスターは、ああ、おう、うん、くらいしか言わなかったのだが、私には笑顔も見せてくれた。
「大阪についてっちゃいけない?」
「ついてきてどうすんの?」
「俺さ、三十三か……年上すぎるけど、んんとんんと、シゲさんに怒られるのかな。んんとんんと、けどさ、このごろ……んと……」
「……?」
 横目で睨むと、ファイが飛びのいた。
「泉水さん、怖いんだよな。そんなに強い女っているの?」
「強くないよ。普通だよ」
「力も強いんだろ」
「強くないって。気は強いんだろうけど、力なんか強くないの。昔ねぇ……」
 呼んでもらわなくても拾えるだろうと、目でタクシーを探しながら話した。
 学生時代にシゲと大学近くの公園で話していると、ホームレスのおっちゃんがシゲにからんできた。シゲの目つきが気に食わないと言ってねちねちからんでくるおっちゃんに、シゲは困り果てていた。私のほうが怒って、おっちゃんを撃退しようとしたら、シゲは言ったのだった。
「気の毒な人なんだから、泉水、そういう言い方は……」
「俺は気の毒なんかじゃねえよっ!!」
 殴りかかってこようとしたおっちゃんのこぶしをよけて、シゲは倒れた。おっちゃんはシゲに怪我をさせたと思ったのか、走り去っていったのだが、シゲは地面で唸っている。調べてみたらシゲは足をくじいている様子だったので、私は言ったのだった。
「おんぶしてあげようか」
「おまえなんかにできるかよ。俺は重いんだぞ」
「だろうね。じゃあさ……んんと、どうしようか」
「俺、同情っぽい目をしてたのかな……俺が悪いんだよな」
「シゲは悪くないよ。実松くんでも呼ぶ? ヒデか、どっちかいないかな」
 あのころはケータイは持っていなかったので、公衆電話を使ってヒデのアパートに電話をしたら、実松くんも遊びにきていた。
「ヒデと実松くんが来てくれるって」
「あいつらに背負われるなんていやだ」
「それもそうだろうけど、歩けないんだから我慢しなよ」
「いやだいやだ。歩く」
「意地っ張り。歩いたらひどくなるよ」
 いやだと言い張って歩き出したシゲを止めようとしたら、振り払われて私までがころんだ。悪いこととは重なるもので、私も足をくじいてしまって、シゲは泣きそうな顔で言った。
「ごめん……泉水、おぶってやるよ」
「怪我人に私をおんぶできるはずないだろ。私もけっこう重いよ」
「おまえは軽いよ。な、おぶされって」
「いらない。アホ」
「アホはおまえ……いや、俺か」
 そうやってシゲと下らない口喧嘩をしていたら、ヒデと実松くんが駆けつけてきてくれた。シゲはあくまでいやがっていたが、実松くんがかまわずシゲを背負い、私はヒデが背負ってくれた。
「こっちのほうが楽やきに。それに、女の子をおんぶしてるほうが気持ちええわぁ」
「ヒデのドスケベ。泉水ちゃん、頭に噛みついたり」
「ヒデの頭を噛んだら私の歯が折れるよ」
 私は合唱部ではなかったので、実松くんとはそんなには関わりはなかったのだが、そんな想い出はある。ごめんな、ありがとう、と実松くんの背中で言っていたシゲの顔が、涙ぐんでいるようにも見えた。
「ってね、やっぱ男だなぁ、ってのか。ヒデも実松くんも楽々と歩いてたもんね。あのときのシゲは、全部がシゲらしかったよ。私にはシゲなんか背負えないよ」
 その日の想い出話をすると、ファイが言った。
「俺にだって泉水さんだったらおんぶできるよ。やってみる」
「私は歩けるんだからしなくていいよ」
「したいよ」
「するな、アホ」
「おんぶが駄目だったらこっちは?」
 キスしようと言っているらしい。顔を近寄せてくるファイの足を踏んづけてやったら、彼はうわーっ!! とオーバーな悲鳴を上げ、どこかで笑い声が聞こえた。
「ヒデの声?」
「かすかに聞こえたよ。泉水ちゃんだったらファイなんかには勝つよな、って。ヒデさん?」
「いないよ。空耳?」
「姿も見えないよね。いないよね」
 ふたりしてきょろきょろしてみたのだが、ヒデはどこにもいなかった。
「なんだか怖い。ヒデさん、死んで幽霊になって……」
「アホかっ!! ヒデのアパートだったら知ってるよ。電話してみる」
「泉水さんも心配なんだ。俺、もうなんにもしません。電話して」
「当たり前だ」
 ところが、ヒデの自宅の電話は留守電だった。ヒデはケータイは営業用しか持っていないと言っていた。番号は知らない。シゲにかけようかと思ったのだが、いらぬ心配をさせるのも悪い。そこで私は言った。
「いるかもよ。ファイ、行こう」
「どこへ?」
 走って「Drunken sea gull」に引き返していくと、ヒデがいた。
「……ヒデ、さっき、近くにいた?」
「いたよ」
「なーんだ」
 ファイとふたりしてへたへた崩れそうになっていると、ヒデは言った。
「ファイと泉水ちゃんの声が聞こえたんで覗いてみたら、ファイ、おまえ、なんかやっとったやろ」
「やってないけど……」
「けどさ、泉水ちゃんだったら……って思って、やっぱ平気だったろ」
「平気だけどさ、ファイ、ほんまにあんたはアホアホアホっ。ああっ、時間が……マスター、タクシー呼んで下さい。ファイはここでヒデに怒られるといいよ。ファイは私にキスしようとしたんだから、しっかり怒ってやって」
「ほお、そうか。ファイ、ここに来いや。撫でたろか」
「やだっ!! 泉水さん、俺も帰るっ!!」
「あかん。時間がなーい」
「じきに来るで」
 マスターが言ってくれて、ほどなくタクシードライバーがバーのドアを開け、お客さんはどちらさんでっか? と尋ねてくれた。ヒデがファイをつかまえている間に、私はタクシーに飛び乗ったので、その後のヒデとファイがどうしていたのかは知らないが、ともかく安心していた。
 せっかく神戸に来て、「Drunken sea gull」にも足を向け、ヒデにも会えたのに話もできなかったのだが、私にも仕事があるのだから仕方がない。ヒデが生きていてよかった、幽霊じゃなくてよかった。ね、シゲ、よかったよね、とタクシーの中で、私はシゲに話しかけていた。
 
 
2・恭子

 四角い顔に細い目、低い鼻に大きめの口。誰かに言われるまでもなく、広大が父親似なのは明らかなる事実だ。
 まだしも母親に似たほうが、もうちょっとはイケメンに育つ可能性もあるよねぇ? だけどさ、あんたのママはあんたのパパに恋をして、そうしてあんたが生まれたんだから、男は顔ではないって、あんたのパパのリーダーも言ってるんだから、パパみたいな中身の素敵な男に育ってね。
 中身は素敵か……? 素敵じゃないのよ。時には腹の立つこともあるけれど、全体的にはあんたのパパは素敵な男だよ。だから、広大、あんたもきっと……
 眠ってしまった息子の広大の顔を飽きずに眺めながら、私は声には出さずに彼に話しかけていた。広大も二歳に近くなって、赤ん坊のころとは別の意味で手がかかるようになってきている。きわめて健康体なのは両親に似ているのだろうが、活動的で好奇心旺盛なところは、二歳児としては当たり前だろう。二歳の男の子なんてこんなもんだよ、と私の両親も言っていた。
 新婚時代から数年は、シゲちゃんが留守だと寂しかった。私も妊娠するまでは仕事をしていたのだから、家を留守にすることもあって、帰宅するとシゲちゃんに言ったものだ。
「恭子がいなくて寂しかった?」
「うん」
 照れた顔をしてうなずくシゲちゃんを見ていると、愛しくて可愛くて、飛びかかるようにして抱きついて、どすんと尻もちをついたシゲちゃんと抱き合ってキスをした。
「だけど、広大がいると寂しくないよ。シゲちゃんのほうこそ寂しいでしょ? 妻にも息子にも会えず、ひとりでホテルの部屋で眠ってるんだよね。恭子、広大、寂しいよぉ、って泣いてない? ねえ、広大? パパはひとりでかわいそうだね。ママには広大がいるもんね」
 息子の寝顔に話しかけていると、だけどやっぱり、シゲちゃんもここにいたらな、と考えてしまう。シゲちゃんと私は見た目は普通の夫婦だけれど、お互いの恋心はどこかのかっこいいカップルよりもはるかに強いんだよね、と考えると、私もひとりで照れてしまった。
「あ、電話。パパかな?」
 小さめにセットしてある呼び出し音が聞こえて、私は受話器を取り上げた。聞こえてきたのは泉水さんの声だった。
「こんばんは。シゲは留守?」
「今夜は仕事で留守です。泉水さん、どうかしたの?」
「私は今日は神戸に行っててね、ちょっとした変な事件があったから、妙に気になっちゃったんだよ。シゲは元気なんだよね」
「元気よ。変な事件って?」
「ヒデに会ったんだけどさ……ま、いいや。生きてりゃいいんだ」
「生きて?」
「いいのいいの。恭子さんも元気だよね」
「はい。私はいつも元気です」
「広大も?」
「もちろん元気よ」
 変な事件と言われると気にはなるのだが、泉水さんが話してくれるつもりがないのならしようがない。私は言った。
「ヒデさんっていえば、この間、東京に来てたのよ。シゲちゃんは会ったんだって」
「そうなの?」
「シゲちゃんは詳しくは話してくれないんだけど、ヒデさんと会って恥ずかしかっただとか、龍くんと雄心くんがどうとかとか、洋介くんがどうとかとか、そんなのばっかり」
「どうとかどうとか、ってのは、私にはなーんにもわからないよ」
「私にもなーんにもわからないの」
 木村さんの弟の龍くん、三沢さんのいとこの雄心くん、もとアイドルの洋介くん、他にもシゲちゃんの周囲には若者たちが増えてきていて、シゲちゃんの頭を悩ましくさせるのだそうだ。
 昔からシゲちゃんは、言ってはいけないと自ら決めた事柄は、妻の私にも話してくれなかった。口が堅いのはよいことなのであろうが、言いかけてはやめるのだから、話して話して、とせがんで、それで喧嘩になったりもした。
「俺にもなんなんだかわからないことが頻発してるんだよ。ややこしい一件やら二件やらは先輩たちと、龍の保護者の章、雄心の保護者の幸生にまかせておくのがベストだ。俺が口を突っ込むとよけいにややこしくなるだろ」
 シゲちゃんはそう言っていたのだが、ややこしいことと言うのが私にもわからないのだから、助言もしてあげられなかった。
「恭子は広大を育てるのが大変なんだから、気持ちを穏やかに保っておかないといけないだろ。恭子が妊娠中には、奥さんの気持ちを乱すな、ってさ、乾さんによく叱られたんだよ」
「だから私には言わないの?」
「いや、俺にはなんと言ったらいいのかも……ひとことで言えば、うん、とにかく、ヒデと会ってると恥ずかしくもなるんだけど、やっぱりあいつはいい友達だな、ってのか。こうして会えるようになってよかったな、ってのか。そういうことだよ」
「って言って、照れてるよね」
「恥ずかしいんだよ、男同士の友達ってのは」
「全然わからない」
「実松も同感だったらしいぞ。実松も奥さんにそんなふうに言って、全然わからないって言われたらしいよ」
「女にはわからないって?」
「そうなんだろうな」
 そんなら私にはわからないのが当然で、泉水さんにもわからないのであろうから、そのようなシゲちゃんとの会話を口にするのはやめておいた。
「泉水さんのほうの話しは?」
「うん、別になんでもないの」
 が、泉水さんまでがあやふや口調で言う。なんとなく悔しくなってきた。
「私はしばらく専業主婦で、子育てばっかりしてるから世の中から取り残されていくのよね。社会に出て働いてるひとたちは、主婦なんかには言ってもしようがないって思って、だから話してくれないんだ。こうやって私はおばさんになっていくんだわ」
「恭子さん、なにをひがんでんの? 子育ては立派な仕事でしょ」
「そうだろうけど……なんなのよ、話してよ」
「うーん……」
 電話のむこうで無言でいた泉水さんは、ややあってから話してくれた。
「神戸のバーで出会った男が、私に妙な台詞を口走ったの。そいつと口論みたいになってたら、ヒデの声が聞こえたんだよね。声はすれども姿は見えずってやつで、もしかしたらヒデの幽霊? ってなって、慌てて店に戻ってみた。そしたらヒデがそこにいた。それだけの話しなんだよ。ヒデは私とその男が話してたのを立ち聞きしてて、声だけ聞かせたってわけよ」
「泉水さん、男に口説かれてたの?」
「そんなんでもないんだけど、まあ、ちょこっと危機だったのかもしれない。ヒデは私が危険だったら出てきてくれるつもりだったんだろうけど、泉水だったらあんな奴は簡単に追い払うだろうと思って、出てこなかったんだよね」
「追い払ったの?」
「追い払ったというよりも、そいつもヒデを知ってるみたいだったから、ヒデが幽霊めいたふるまいをしたから怯えちゃって、結果的にはヒデに助けてもらった形になったのよ」
 およそは事情がわかったのだが、泉水さんは全部は話していない気もした。
「ヒデさんを知ってる男って誰?」
「恭子さんもあいつは知ってるんだよね。偶然に神戸で会った奴。燦劇のファイ」
「……泉水さん、ファイに口説かれたの?」
 あの若い美青年に? 泉水さん、すごーい、と言いそうになった。聞くところによると、ファイは相当な遊び人らしいのだから、ぐんと年上の泉水さんだって口説くだろう。泉水さんは美人なのだから、すごくもないのかもしれない。
 だけどけっこうすごいよね。私なんかだとファイはその気にならないだろうに、と考えていると、泉水さんは言った。
「口説かれたってほどじゃないよ。その前にもなんだかんだとあったんだけど、それが最重要な件でね、ヒデは幽霊になってたんじゃなかったんだ、って思ったら、シゲの身までが心配になってきたの。変?」
「変じゃないわよ。ありがとう、泉水さん」
 全部じゃないにしても、最重要な部分は話してくれたのだ。とにかくよかったよかった、と言い残して、泉水さんは電話を切った。
 小学生のころからのシゲちゃんの友達で、大学生のころからはヒデさんとも友達だった泉水さん。私はシゲちゃんと泉水さんが幼馴染で親友だと聞き、ほんのちょっぴりは妬けたのだが、今では知っている。
 たとえば私にはいとこのタクちゃんがいる。彼は親戚ではあるけれど、幼馴染で親友のようなものだ。泉水さんとシゲちゃんもそのような関係なのだ。
 なのだから、シゲちゃんと泉水さんの仲を妬いたりはしない。シゲちゃんは口に出してはほとんど言わないけれど、俺が愛しているのは恭子だけだよ、の気持ちを私は心底から信じている。もてないもてないと言ってはいても、シンガーなのだから口で言うほどもてなくはないというか、かつてはもてた経験があるのだろうと思ってはいるが、過去は過去だと割り切ろう。
 現在のシゲちゃんは昔よりもかっこよくなったと言われていて、恭子さんの服装のセンスのおかげだとも言われている。とすると、昔よりももてるようになったのかもしれないのだが、もてているだけだったら許してあげよう。
 もててももてても振り切って、私のもとに帰ってくるのだったらいい。夫がまったくもてないよりは、女のひとに好かれるほうがいいような……悪いような……いずれにしても、妻と子の待つ家に帰ってきて、恭子と広大に会えなくて寂しかったよ、と言ってくれて、心のこもったキスをしてくれるのだから。
 あのキスやあの口下手なシゲちゃんの言葉に、偽りはないとも信じている。私だって結婚して五年もたったのだから、妻の勘が働いて、シゲちゃんが浮気をしたら気づくはずだ。絶対にしていないと確信を持って言いきれる。
 タクちゃんもたまに電話をかけてきて、広大や私の身を気遣ってくれる。泉水さんもタクちゃんと同じような気持ちで、シゲちゃんやヒデさんを案じているのだろう。
 妻としては夫を心配してくれるひとがいるのはありがたい。シゲちゃんと泉水さんはそういった関係に決まっているが、では、ヒデさんと泉水さんは? ヒデさんとも泉水さんとも私は会う機会は少ないが、泉水さんとならメールのやりとりや電話はしている。
 先刻は泉水さんはヒデさんが幽霊で……などと言っていたが、どう考えても、泉水さんの側からはヒデさんに恋をしているとは感じ取れない。ヒデさんはどうだか知らないが、私がとやかく考える問題でもないだろう。
「ヒデさんだって泉水さんだって大人なんだものね。だけど、ヒデさんと泉水さんが結婚したら……うん、それもいいかな」
 広大に話しかけたのがいけなかったのか、ぱっちり目を開けた次の瞬間、声を上げて泣き出した。
「わっ、ごめん。ママ、うるさかったよね。ごめんね。ねんねしようね」
 あやそうとしても泣き声が大きくなるばかりなので、ベビーベッドから抱き上げた。おむつを替えてもあやしても、お水を飲ませても泣き止まない。パジャマを着替えさせてもなにをどうしても泣いてばかりで困り果てて、私は広大を抱いて揺さぶりながらひとりごとを言っていた。
「子守唄ってのは……ママの音痴の子守唄を聴くと、広大は耳が変になってよけいに目が冴えない?困ったな。パパがいたら歌ってくれるのに」
 そのとき、またしても電話が鳴り、広大を片腕で抱き直して受話器を取った。
「……起きてたか、恭子。あれ? 広大が泣いてる?」
「そうなのよ。シゲちゃんの歌を聴かせてやって」
「あ、ああ、そうだな。んんとな……」
 受話器を広大の耳に近づけ、私もパパの歌を聴いた。

「どんな言葉で 飾るよりも
 生きる力を 持ちつづけて
 はるかな空には 虹も輝くから
 つよく つよく 歩きつづけて
 河はゆるやかに 時を旅する
 広い宇宙の 風に乗りながら
 Dreams come true together
 夢をすてないで
 Dreams come true together
 かならず叶うから

 谷間の小さな 白百合でも
 冬を耐えぬき 花を咲かす
 何かを探して この星に生まれた
 つよく つよく 愛抱きしめて
 雲はおだやかに 海へ旅する
 広い宇宙の 風に乗りながら
 Dreams come true together
 愛をすてないで
 Dreams come true together
 かならず叶うから」

 子守唄ではなかったけれど、広大は私の服の布地を小さな手でつかみ、両手で揉むようにして眠りに落ちかけている。そおっとそおっとベッドに戻すと、広大は安らかに眠りに入っていった。
「ありがとう。広大は寝たよ。小声で話すからね」
「そっか、よかった。夜泣きなんかされると恭子は大変だろうけど、明日には帰るからがんばってな。明日は俺が広大につきあうから、今夜は寝不足になったとしても耐えてくれよ」
「大丈夫。パパの歌を聴いたんだもの。ぐっすり眠れるはずよ。なんていう歌だったの?」
「この星に生まれて」
「いい歌だね。そっか……みんなみんな、人間はこの星で生まれて、この星で大人になって、この星で恋をして結婚するんだね。ちょうどシゲちゃんと私みたいに……」
「恭子、どうかしたか?」
 私らしくない台詞に私が照れて、シゲちゃんも照れているらしい。けれど、本当にその通りだと思える。広大もきっとすくすく大きくなって、三沢さんがナンパを教えようとしてもそんなものは退けて、普通に素敵な恋をして結婚する。
 将来はこの星がどうなるか、なんて考えずにおこう。広大が大人になるころにも、綺麗な青い地球が綺麗なままでありますように。歌のおかげで地球についてまで考えてしまってから、私は小さな声で言った。
「泉水さんから電話があったの。帰ってきたら話してあげるね」
「泉水? なにかあったのか?」
「心配するほどの話しでもないけど、なにかあったみたいね。帰ってから話してあげるってぱ。じゃあね、おやすみ」
「う、うん、おやすみ」
 ほらね、こうやって途中でやめられると気になるでしょ? シゲちゃんはいつだって私にこんな仕打ちをしてるんだよ。
 こっちから切った電話に向かって言ってから、私はベビーベッドに近寄っていった。広大はどんな夢を見ているのだろう。二歳にもならない赤ちゃんの夢はどんなもの? 楽しい楽しい素敵な素敵な夢だといいね。
 あなたの生まれたこの星は、あなたを乗せて回っている。ちっぽけな人間がひしめく青い星が、いつまでもいつまでも青く輝いていますように。パパの歌を聴いて眠った広大は、青く輝く地球の夢を見ているのだろうか。

END






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