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小説155(ミ・アミーゴ)

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フォレストシンガーズストーリィ155

「ミ・アミーゴ」


1・龍

 一時は焦ったのだが、あんな奴でも兄貴は兄貴なので、俺を助けてくれた。助けてもらって請求書を清算して、いやな経験を忘れるためにも、島田弓子さんに告白しようかと考えた。
 二年生になって専門課程になり、加藤先生の講義も本格的にスタートし、先生の助手である弓子さんとも会う機会が増えた。勉強はむずかしすぎて俺の頭ではついていきにくいので、講義の間は弓子さんが教室を出入りするたびに、彼女に見とれていた。
 頭のいいお姉さんとつきあったって、俺では弓子さんについていけないかな、とも思う。しかも、彼女は年上だ。加藤先生とは友達で、弓子さんとも顔見知りらしい喜多先生も、加藤先生も弓子さんもよく知らないはずの三沢さんも、変なことを言っていたのが気がかりでもある。
 気がかりの正体がつかめなくてもどかしくて、告白ってもなぁ、どうしようかなぁ、と悩みつつ、今宵、俺は雄心とともに学校から出て歩いているのだった。
「雄心、彼女はできたか? できないんだろうな。いたら俺と遊んでないもんな」
「いないよ。いないけど……」
 なにか言いかけて口ごもる。聞き出したくなったので誘ってみた。
「なあ、雄心、ここらへんだとフォレストシンガーズのスタジオには歩いていける距離だよな。今夜はスタジオで仕事だって、兄貴が言ってたよ。フォレストシンガーズのおじさんたちがいたら、晩メシくらいはおごってくれるよ。俺、金がなくてこのごろはろくなもん食ってないんだよな。おごってもらったら栄養補給できるじゃん。行こうぜ」
「フォレストシンガーズのスタジオか……行きたくないんだけどな……」
 行きたくないと言うのは、理由があるからだろう。ますます聞き出したくなったので、聞こえなかったふりで先に立って歩き出すと、雄心もついてきた。
「ウォーキングって健康にいいんだぜ。スタジオまでだったらほどよい距離だろ。シゲさんがさ、若い男はウォーキングなんかじゃなくてジョギングしろって言うんだけど、走るなんてうぜえじゃん。歩くんだったらお喋りもできるからいいもんな」
「うん」
 どうもこのごろ、雄心は元気がない。合唱部もさぼりがちだ。俺も合唱部には真面目に行っていないので、雄心とはすれちがいが多かった。
 兄貴にすがって助けてもらった、俺のやった馬鹿は、雄心は知っている。俺が三沢さんに聞けと言ったので、雄心は素直に言った通りにした。三沢さんは細かい部分は言わなかったらしいので、俺がなにをやったのかまでは雄心は知らないようだが、だいたいは知っている。
 こっちは知られているのに、俺は雄心のやった馬鹿を知らないとは不公平だ。なにをやったのかはまったく知らないのだが、なんにもやっていないはずがない。でなけりゃこんなに元気がなくなっているはずはないのだから。
「あのさ、雄心」
 黙ってついてくる雄心に、かなり歩いてから俺は言った。
「俺さ、彼女ができたんだ」
「ほんとか。誰?」
「誰だかはいいんだけど、公園があるんだな。休憩しようか」
 公園の入り口に自動販売機があったので、缶コーヒーを買って雄心とベンチにすわった。
「俺、その彼女に告白したんだ」
「龍は勇気があるんだな」
「あるさ」
 嘘である。そんな勇気があったら苦労はしないっての。悩みもしないっての。
「詳細は省くけど、告白したら彼女はぼーっと赤くなって、嬉しそうに見えたんだ。でも、口ではいやだって言うんだよね。そんなの本心じゃないんだろうと思ったから、抱きしめてキスして、ホテルに連れていった」
「え? おまえ、エッチやったことあんの?」
「あるに決まってっだろうがよ。おまえはないのか……」
「いや……あの……ある」
 たぶんこれも嘘だろうが、俺も嘘をついているのだから、信じている顔をしておいた。
「当たり前じゃん。十九や二十歳の男が未経験だなんて恥ずかしいよ。雄心、おまえの経験はどんなの? 恥ずかしがってるのか。話せよ」
「んんと……んんと……」
 あの三沢さんのいとこなのならば、この雄心は作り話が上手なのだろうか。俺はちょっとわくわくして聞いていた。
「おまえのと近いかな。俺も彼女に告白して、彼女は嬉しそうに見えたのに、口ではいやそうに言うんだよ。わたしは年上だし……って」
「年上なのか。そこも同じだな」
「おまえの彼女も年上?」
「あ? ああ。ま、それはいいじゃん。で?」
 こいつは俺の真似をしているのか、それとも、本当なのか。俺には雄心の本心を読むなんて芸当はできないので、突っ込みはあとにしようと決めて先を促した。
「んでさ、歩いてたときに告白したんだよね。夜だったから暗かったんだ。彼女はいやそうなんだか嬉しいんだかわからないような態度だから、木陰に引っ張っていってキスした。彼女はとろーんってなっちゃって、雄心くん、ホテルに行こうか、って……」
「ふーん」
「信じてないな。本当なんだから。龍、おまえはそれからどうしたんだ」
「俺も彼女とホテルに行ったよ」
「……はじめてって、彼女に馬鹿にされなかったか?」
「されないよ。おまえはされた?」
「されてねえよっ!!」
 きっとまた嘘をついている。両方で嘘のつきあいっこって、だからおまえらは馬鹿なんだ、と兄貴に言われそうな気がした。
「てめえが馬鹿なんだろうがよ」
「どうせ俺は馬鹿だよっ」
「あれ?」
 なんでだか雄心が怒っている。てめえが馬鹿だと俺は口に出して兄貴に言い返したから、雄心が言われたと思ったのだろうか。いきなり殴りかかってきた。
「ちがうよ。おまえに言ってないって」
「俺は馬鹿なんだよっ!! だからってだからってぇ……」
「こら、雄心、落ち着けよ」
「うるせえんだよっ!!」
 押さえつけようとしたのだが、雄心は馬鹿力を出して遮二無二組み付いてくる。はずみでこぶしや脚が俺の身体に当たったので、俺もむかついてきた。
「なにしやがんだよっ。ああ、おまえは馬鹿だ。やんのかよ、雄心」
「うるせえっ!!」
 そこから先はなんにも考えずに雄心と取っ組み合っていたのだが、男の声がちらちらと聞こえてきた。
「いいさ、やらしとけ」
 この声は本橋さん? でも、しかし、と言っているのはシゲさんだった。
「幸生と章だったらともかく、と言うか、幸生も章も大人のはずなんですけど……いや、幸生と章はここにはいないんだからいいんですけど、さっきのこいつらの話だって……」
 聞かれていたのか? やべえ? とは思ったのだが、雄心の意識は本橋さんとシゲさんの会話には向いていないようで、無茶苦茶に蹴られて、俺もやり返して、頭が雄心との取っ組み合いで満杯になってしまったので、とりあえずおっさんたちの会話は締め出した。
 殴られ蹴られ、こっちも殴り返し蹴り返し、していたら体力がなくなってきた。雄心は泣いているかのような顔で俺に無茶苦茶をする。死にそうになってきたので、言った。
「雄心、ちょっと待てよぉ。タンマタンマ」
「うるせえんだよっ!!」
「待てってばっ!!」
 知るかっ、と吼えて、雄心は何度でも何度でも飛びかかってくる。こりゃあたまんねえから逃げようと思うのだが、逃がしてくれない。死ぬぞーっ!! と俺も叫んだら、不意に雄心の身体が俺から離れた。
「もういいだろ。大怪我をしちまうぞ」
 本橋さんだった。
「雄心、そのあたりにしておけ」
 シゲさんも言い、俺の顔を覗き込んだ。
「おまえは喧嘩なんかするんだな」
「したくないけど、雄心が飛びかかってきたんだよ。いてぇ……いでいで。顔も腹も脚もいてぇよぉ。あ、怪我してる……うう……」
 半袖のTシャツの腕から血が出ている。雄心が噛みついたのかひっかいたのか、どういった攻撃を受けたのか、無我夢中だったので気がついてもいなかったのだが、身体を調べたらあちこち負傷だらけで泣きたくなってきた。
「……俺は……なんで喧嘩なんかしたんだっけ? なんでだったかは忘れたけど、雄心が悪いんだ。全部こいつが悪いのに、俺のほうがいっぱい怪我してるじゃん。雄心、おまえが悪いんだろ。俺はなんにも悪くねえよっ。いでっ!! 本橋さんまで……」
 げんこつが頭にごちん。本橋さんには何度か殴られているけれど、怪我人を殴るとはなんたる大人なのだろうか。
「喧嘩をしておいて、おまえが悪いんだ? それで、泣いてるのか? 泣くんだったら殴り合いなんかするな」
「雄心がやったんだよ。うわっ、やめてって」
 再びこぶしを振り上げた本橋さんを、シゲさんが止めてくれた。雄心はと見ると、地面にすわり込んで舌を出して喘いでいる。犬みたいな奴だ。
「本橋さん、そのへんでそのへんで。喧嘩ってのはどっちも悪いんだろ? 人のせいにするな」
「俺は悪くないもん。雄心が悪いんだ」
「そういうところは章に似て……いや、なんでもない」
 言いかけたシゲさんは口を閉じ、本橋さんが言った。
「誰に似たとかなんとかじゃなくて、龍、おまえは性根がまがってんだろ。喧嘩をしてその原因をすべて相手のせいにするなんて男は、俺は大嫌いだ。シゲと俺はおまえたちがここに入ってきたときから知ってたんだぞ」
「げ? そうなの?」
 言われてみれば、喧嘩の最中にも本橋さんとシゲさんの声は聞こえていたのだった。
「俺だって喧嘩はしたけど……そりゃあな、やってるときは、この野郎、許さん、だとかって正義の味方面して、悪いのはこいつだ、って思ってるんだよ。あとから考えたら……なあ、シゲ?」
「はい」
「ヒデがさ……おまえはヒデから聞いてるか」
 どうしてだか話がそれて、本橋さんは別の話をはじめた。
「こんなことがあったんだよ。誰にも話さなかったかな」
 おまえらもすわれ、と本橋さんは言い、ベンチにすわった。雄心は地べたではっはっ、はっはっと喘いでいるので放っておいて、シゲさんと俺は本橋さんの両隣にすわった。

「学生のときだよ。俺が四年でヒデが三年だったかな。今日の雄心と龍みたいな馬鹿らしい原因で、俺は学校の近くの公園で、知らない男たちと喧嘩してたんだ。そこへヒデが駆け込んできた。学校の近くだったから、通りがかった女の子の誰かが、その場面を目撃してたみたいなんだ。
 どうしよう、どうしよう、ってうろたえて、女の子は学校へと走っていった。そしたら、ヒデに会った。
 本橋くんが十人くらいの男と喧嘩してるよっ、ってさ、その子はオーバーに言った。実際は三人くらいだったはずだけど、十人? そりゃあ大変やきに、ってのか? ヒデはそうなって、慌てて俺の助太刀に来てくれたらしいんだ。
 シゲだったらこうだろ? 大変だ、本橋さんを止めなくちゃ? だよな。ヒデはああいう気性だから、止めるんじゃなくて、参加しようってつもりだったんじゃないかな。シゲは聞いてないか? そうだろうな。
 いや、原因なんかなんだっていいんだよ。そんな話がしたいんじゃないんだから。別にたいした話でもないけど、ただ、思い出したってわけさ。
 で、俺がそいつらと睨み合ってて、そいつらのうちのひとりが俺にキックを食らわせようとしたときだったか、ヒデがだーっと走り込んできて、俺と背中合わせになった。
「本橋さん、俺が来たからには百人力。やりますか」
 なんて言いやがった。振り向いて顔を見たら、ヒデは笑ってたよ。
 あのときのヒデの不敵な笑みってのか。乾がそれ以前から言ってた、土佐の闘犬。ああ、ほんとにそんな面だな……すげえな、って思ったよ。
 あいつは俺に似てて短気だとか、怒りっぽいだとか感情的だとかってのも、そのころには知ってたよ。その前にもそう思わせるような事件はひとつ、ふたつと……シゲはそれは知ってるよな。でも、ヒデとふたりしてよその奴らと暴力沙汰なんてのははじめてだったんだ。
 ま、とにかくだ。そうやってこっちはヒデとふたり。むこうは三人だか四人だかで喧嘩して、そいつらが全員地面に伸びたあたりで、ヒデと目配せして走り出した。俺は自分がやるので精一杯で、ヒデがどうしてたのかを見る余裕はあんまりなかったけど、鮮やかだったな、あいつの身のこなしは。シゲはヒデが誰かと殴り合いの喧嘩してるのを見たことあるか? 
 ない? ほんとかよ。
 ま、いいけどさ……それで、俺たちは走って逃げて、というか、逃げたんじゃないんだよな。俺が言ったらヒデが怒ったんだ。
「逃げられたな。警察が来たりしたら逮捕されるかもしれないから、逃げおおせてよかったよ」
「本橋さん、逃げるとはなんですか。本橋さんが悪くて喧嘩したんじゃないでしょ?」
「ああ、まあ、あいつらが悪いんだと思ってはいたけど……うーん、よーく考えたら、先に怒ったのは俺だったかな。なんにしたって喧嘩ってのはどっちかが一方的に悪いんじゃないだろ」
「それにしても、逃げるなんて言わないで下さい。俺たちは喧嘩に勝ったんだ。あいつらは伸びちまって、俺たちは無傷とまでは言えないけど、ぴんぴんして走ったんだから、俺たちの勝ちですよ」
「うん、まあ、そうとも言える。逃げたんじゃなくて走ったのか」
「そうです。逃げたなんて情けないことを言うと、俺のバトルスピリットはまだ燃えてますから、本橋さんにだって……ふたりで続き、やります?」
「もういい。降参」
「降参なんて台詞も俺は大嫌いやきに」
 とまあ、こんな会話をしたんだよ。十年以上も前の出来事なんだから、台詞は正確ではないかもしれないけど。
 負けず嫌いの一等賞になりたがりのって、乾は俺をそんなふうにばかり言うけど、ヒデのほうがよほどじゃないのか……なあ、龍、雄心、おまえたちの喧嘩と俺の話ってつながってるか? 見知らぬ奴らとの喧嘩と友達同士の喧嘩ってのは、全然ちがったものなんだけどな……
 こうやってヒデの話をしたのは……シゲ、言えよ」

 長い本橋さんの話がそこで一度は終わり、シゲさんが言った。
「この間、ヒデが来てたんだ。幸生は会わなかったんだけど、あとのみんなはヒデと会った。おまえたちはヒデって知ってるか?」
 聞こえてはいたようで、雄心が応じた。
「幸生さんから聞きましたよ。章さんにも聞いたかな。フォレストシンガーズには章さんの前に、小笠原英彦っていうひとがいたって。幸生さんは小笠原さんのブログの話もしてたから、俺はそれを見ました。フォレストシンガーズの話が書いてありました」
「俺も知ってる。三沢さんも兄貴も言ってたよ」
「おまえたちの見解によるヒデ像ってのは?」
 本橋さんに訊かれて、まずは俺が答えた。
「……ええと、ヒデさんって……そうだ、徳永さんも言ってたんだ。徳永さんの話は俺はあんまりしてなかったけど、加藤先生と徳永さんって仲がいいでしょ。だから、俺は徳永さんとも話したんだよ。徳永さんは、本橋さんや乾さんはライバルだって……俺にはそこんところがよくわかってないっつうか……乾さんには話したんだったかな。ヒデさんの話だったね」
 小笠原英彦、通称ヒデ、については俺はいろんな人から聞いている。
 フォレストシンガーズの全員、ただし、うちの兄貴はすでに大学を中退していたので省くとして、ヒデさんも含めての他の五人が大学生だったころ、本橋さんと乾さんがヴォーカルグループを結成すると決めた。
 年齢順に、本橋、乾、本庄、小笠原、三沢、この五名でフォレストシンガーズは結成された。
 結成当時はもちろん彼らはアマチュアだったが、いつかは必ずプロになると誓い合って、歌の練習を一生懸命した。時々はアマチュアとしての仕事もあり、コンテストに出場もした。だが、フォレストシンガーズは簡単にはプロにはなれなかった。
 そうして小笠原さんと本庄さんも大学を卒業したころ、小笠原さんが突然、結婚するからフォレストシンガーズを脱退すると言い出した。引き止めても彼の決意は固く、そのまんま行方不明になってしまった。
 かわりにフォレストシンガーズに加わったのが俺の兄、木村章だったのだから、ラッキーだったじゃん、と俺は思わなくもないのだが、兄貴はこう言っていた。
「ラッキーなんかじゃねえんだよ。俺は……おまえに言ったって意味ないから言わないけど、ヒデさんは俺の頭をひっかき回してくれて……思い出すと頭が……うぎゃぎゃ」
 意味わかんね、だったが、徳永さんはこう言っていた。
「俺はあいつが……なんだろうな。そうだな。俺は人の好き嫌いが多い。偏食家の偏屈男なんだよ。そんな俺が小笠原って奴は……なんでだろ。あいつは……」
 嫌いじゃないわけ? と聞き返したら、徳永さんは妙な表情で小さくうなずいた。
「僕は小笠原さんとは面識がないんですけど、本庄さんや渉から聞いてますから、お会いしてみたいですね。この渉がね……」
 渉とは徳永さんの名前で、俺が知っている限りでは、徳永さんを「渉」と呼ぶのは加藤先生だけだ。そのときにそばにいた加藤先生はそう言い、徳永さんを横目で見て笑っていた。徳永さんはそっぽを向いて、けっ、とか言っていた。
「ヒデくん? 覚えてるよ。彼は楽しい子だったな。どうしていなくなったりしちゃったんだろうね。でも、戻ってきたんだよね。私はなんにも知らないけど、戻ってきてくれてよかったな、フォレストシンガーズのみんなのためには」
 そう言ったのは喜多晴海先生だ。私はなんにも知らない、と言うわりには、そうでもなさそうな顔をしているように見えた。
「おじさんだと言われる年齢まで生きてると、人生にはいいことも悪いこともいくつも起きるんだ。ヒデが戻ってきたのは、いいこと中のいいことだよ」
 乾さんはそう言い、三沢さんは言った。
「俺、ヒデさんの背中にひっつき虫みたいにくっついて、もう絶対離れないんだ。乾さんも大好きだけど、ヒデさんもだーい好き。好きすぎて胸が狂おしいわん」
 三沢さんの台詞はたいていが普通ではないのだから、普通に聞くとこっちの頭が狂おしくなるので、ヒデさんが戻ってきてそれほどにも嬉しい、程度に聞いておくべきだろう。
 そうやっていろんないろんなヒデさん像というものを聞きはしたものの、俺は実際に会ってはいないヒデさんというひとは、俺にはわからない。だから、正直に言った。
「わかんね」
「そうか、雄心は?」
 シゲさんが尋ね、雄心は地べたにすわったままで頭をひねった。
「ヒデさんのブログを読んだんですよ。フォレストシンガーズがアマチュアのころに、みんなでいっつも練習してた公園で、って話題でした。寒い冬の日に美江子さんが差し入れてくれた、熱々のブタ汁がうまかったな、だった。そこにいっぱいついてたコメントの中にこんなのがあったんです」
 本橋さんもシゲさんも読んでいるのだろうか。俺は読んでいないのだが、雄心が言い、本橋さんとシゲさんはうなずいている。雄心は続けて言った。
「スノゥイってハンドルネームだったな。女の子なんでしょうね。コメントの文体がぶりっ子っぽかったから、もしかしたら男なのかもな、って思ったから覚えてるんですよ」
 ぷっ、とシゲさんが吹き、本橋さんは不思議そうにシゲさんを見返し、いえいえ、いえ、とシゲさんは手を振っている。俺は読んでいないのでなんにもわからなくて、雄心に言った。
「スノウィがなにを書いてたんだ?」
「えーと……ヒデさんの心にブタ汁以上にあったかいハートをプレゼントしたいから、デートしません? って、そんな感じだった。ヒデさんって他のコメントにも返事は書いてないから、それもそれだけだったよ。シゲさん、どうしてそんなに笑ってるんですか?」
「いやぁ……言っていいのかな。口止めされたわけでもないんだけど、いや、あのさ、俺だってヒデに聞かなかったら知らなかっただろうけど、雄心、わからないか? スノゥイって男だよ。スノゥって日本語にしたら?」
「雪……ええ?」
「そう、その通り」
 ああ、幸生か、と俺も思い当たったのだが、本橋さんは言った。
「雪か。雪国、豪雪、除雪車、雪国生まれの男か。スノウィって奴のコメントは俺も見た覚えがあるけど、男だったのか。変態かよ」
「ある面、変態だといおうか、みんなには変態だと言われてますね」
「シゲ、おまえはそいつを知ってるんだよな」
「知ってますよ。本橋さんも知ってる奴です」
「雪国生まれだったら乾か章か、酒巻か」
「ユキです」
「だから、雪だろ」
「……本橋さん、俺、この間は落ち込んだんですけど、今日はすこし元気を取り戻しました。俺のほうがましかもしれない」
「なんなんだ、シゲ、おまえらしくもなく回りくどい」
 へええ、本橋さん、気づいてないんだ、となって雄心とこっそり笑い合っていると、本橋さんが急に大声を出した。
「おっ、ユキ、幸生か」
「はい、本橋さん、正解です」
「そんならもっと早く言えよ。幸生か。あいつだったら書きそうな文章だよな。たしかに変態チックなところもあるよな。まともには読んでなかったから、帰ったらスノゥイのコメントを読み返そう。山田にも教えてやるよ」
「美江子さんは気がついてるかもしれませんね」
「つかねえだろ」
「いえ、美江子さんは本橋さんや俺とはちがって……」
 もごもごっと語尾を途切れさせたシゲさんに、雄心が言った。
「俺にもヒデさん像ってのはわからないけど、ブログを読むと、ヒデさんが行方不明だった時代には、深い悲しみがあったのかなって。俺が言うと生意気ですよね」
「うん、そうかもしれないよ」
 シゲさんが言い、本橋さんはなんとも言いようのない微笑を見せ、俺は考えていた。
 どうして雄心と殴り合いなんかしたんだろう。嘘のつきあいっこをしていて、兄貴を思い出し、てめえが馬鹿だと兄貴に言い、雄心がそれを自分が言われたと思い込んだからか。そうだったはずだが、なんでそれしきで怒り狂って殴りかかってくる?
「やっぱ、おまえ、馬鹿じゃん」
 まだ地面にすわっている雄心に俺が言うと、雄心は立ち上がりにくそうに立ち上がり、言った。
「おまえが馬鹿なんだよっ!!」
「どっちも馬鹿だ。見た目は龍のほうが満身創痍っぽいけど、見えないところに怪我してるだろ。雄心? 龍は章よりは……いやいや、なんでもない」
「本橋さん、シゲさんも言いかけたけど、うちの兄貴ってのは?」
「おまえは章の二十代を知らないんだよな。いいや、いいんだよ。龍はなかなか察しがいいんだな」
「ってーか、本橋さんが鈍すぎるんじゃない?」
「うるせえんだよ」
 このおじさんたちがあらわれる前に、雄心と話していたのは嘘話。あんなのはどうでもいいけれど、雄心にあったなにごとかを聞きたい。本橋さんやシゲさんは知らないのか。三沢さんは知っているのだろうか。このおっさんたち、邪魔だな、と俺がふたりを苦々しく見ていると、雄心が口を開いた。


2・雄心

「本橋さんとシゲさんは、龍と俺が喋ってたのを聞いてたんですよね。龍はどうなのか知らないけど、俺が言ったほうは、あれははじめての女との話じゃなくて、最近、ほんとにあったんですよ。年上の好きな女がいて、俺は彼女を口説いたんだ。
 ふたりで夜道を歩いてた。彼女はきっと俺を好きなんだろうと思ってたんだけど、年上だからって好きだと言えないのかな。そしたら俺が言ってやろうかな、ってさ。
 あの年になって男もいないなんて、不憫って言うの? あの年ってほどの年でもないけど、俺より年上なんだからいい年じゃん。いくつなのかは……ええと、知らないんだけど、俺より年上なのはまちがいないんだから。
 二十歳そこそこ? いや……いいでしょ、年は。俺も知らないんだよ。俺より年上だってしか知らないんです。
 そんでね、彼女とふたりで歩いてて、このひと、俺を好きなんだな、って感じ取れたから、口説いてあげるよ、って感じになってさ、口説いてあげたの。親切もあったかな。
 そしたら、彼女は嬉しそうに恥ずかしそうにするくせに、口では言うんだよ。
「わたしは雄心くんより年上だしね。似合わないよ」
「似合うも似合わないもないだろ。俺が好きなんだろ」
「……嫌いじゃないけどね、年上の女なんて雄心くんがかわいそう」
「いいんだよ。好きなんだったらさ……寝よう」
「ええ、そんな……」
「寝ようって」
「……早すぎない?」
「いいんだ」
 でも、彼女は恥ずかしがって、この次にしようって言う。しようがないから次に会う約束をして、約束の場所に出かけた。そこも暗い道で、俺が近づいていったら、彼女が知らない男になにかされそうになってたんだ。
 酔っ払いだったのかな。彼女はそいつに襲われそうになってたみたい。彼女ってか弱そうな可憐なひとでね、力もないみたいだから、酔っ払いにくっつかれたら振り払いもできないで困ってんの。
 そりゃあもちろん、俺は彼女を助けましたよ。
 俺は喧嘩なんて中学生くらいのころからいっつもやってるんだし、いっぺんも負けたことがないんだから、酔っ払いなんかやっつけるのは簡単さ。そんときだって楽々勝ちました。そいつを投げ飛ばして倒れさせて、胸倉つかまえて顔を上げさせて殴りつけてやったら、彼女が言うんだ。
「雄心くん、そこまでしたらかわいそうだよ。キスはされそうになったけど、まだされてなかったんだから、そのくらいで許してあげて。そのひと、顔が腫れ上がってる。雄心くんって強いんだね。強いひとが弱い相手をひどく痛めつけるのはよくないよ」
 彼女は優しいんだ。じゃあ、このくらいで勘弁してやるか、って、そいつをほっぽり出して彼女と歩き出した。
「今夜はいい?」
「うん。雄心くん、わたし、本当に雄心くんが好きになっちゃった。年上でもいいの?」
「いいんだよ」
「嬉しい、優しいね。雄心くん、抱いて」
 ってさ……そんなふうだった。
 龍に話したのはちょこっとちがってたけど、本当はこうだったんだ。それから? 行きましたよ、彼女とホテルに。そのあと? えとえとえーと……」

 これで話の辻褄は合ってるだろうか、そうも思ったのだが、だいたいは合っているだろうからいい。しかし、ホテルに行ったあとは……その後の日となると、どう続ければいいのだろうか。
 飽きたから捨てた? 年上はやっぱちょっと……変かも。俺がかっこよくて強い男……それって徳永さんじゃん、と思うと身震いしそうに恥ずかしい気分にもなる。嘘を続けているのが耐えがたくなってきたのだが、それでも続けようと努力していたら、乾さんの声が聞こえた。
「それで、雄心?」
 聞かれていた? ここはフォレストシンガーズのスタジオに近いのだから、本橋さんとシゲさんがいても不思議はない。仕事の合間に晩メシにしようとして、出てきていたのだろう。乾さんもか。それも不思議ではない。
 だが、本橋さんもシゲさんも俺のあれを知らないのだからまだいいにしても、乾さんは知っている。逃亡したくてできなくて、俺はうつむいた。
「続けろよ、雄心」
「……いやです」
 おい、乾? んん? と言っているのは本橋さんの声で、シゲさんと龍は黙っている。俺は顔を上げられないので、乾さんがどんな表情でいるのかは見られないのだが、声は平静だった。
 あの夜、かっこよかったのは徳永さんで、俺はただひたすらに惨めだったあの夜。優しかったのは喜多先生で、俺はやっぱりあなたが好きだと思って、けれど、あのまんまだったら俺は喜多先生になにをしていたのか、と考えると恐ろしくもなったあの夜。
 あんな話は絶対に誰にもしないと決めたのに、幸生さんに脅迫されて言わされてしまったあの夜。そこには乾さんもいた。
 あのときの乾さんはおっかなかった。声は静かだったが、迫力があって、幸生さんまで泣きそうになったのだそうだから、本当の本当におっかなかったのだ。乾さんってこんなひとなんだな、これはこれでかっこいいんだな、と俺は思ったものだ。
 かっこいいのは大人ばかりで、俺はあれからずっとずっと惨めなまんまだ。幸生さんがあの夜には歌を歌ってくれて、コーヒーを淹れてくれて、つまらない話をして笑わせてはくれたけど、その程度ではまぎらわせなかった。
 ごくたまには会う喜多先生は、俺が彼女を襲おうとした事実には一切触れない。けれど、近寄ってきたり話しかけたりもほとんどしてくれなくなって、嫌われているのだろうとは思った。嫌われるのも当たり前すぎる。
「この間、三沢くんに会ったよ。なんにも言わなかったけどね」
 ちらっとだけ触れた喜多先生の言葉で、俺はパニックになったのだ。逆恨みというのかもしれないが、俺は喜多先生を恨みたくなった。
 でも、喜多先生がそう言ってくれたから、俺は誰にも絶対に言わないと決めていたあの夜の事件を幸生さんに打ち明け、ほんのちょっとは心を軽くしてもらったのだろう。話すと楽になるんだ、と言って、幸生さんには甘ったれるなと言われたけれど、だって……
 ほんのちょっとは軽くなった心だが、重すぎたので、ほんのちょっと軽くなってもまだ重い。重荷に押しつぶされそうになっている俺は、嘘話にして龍や本橋さんやシゲさんに話して、もうすこしだけ心を軽くしたかったのか。
 あとの三人はそれでもいいのだが、乾さんに聞かれるとは、ずっしーんと全身に岩を乗っけられた気分になって、ただうつむいていると、乾さんは言った。
「……龍も雄心も怪我をしてるじゃないか。ふたりして誰かと喧嘩したのか? シゲと本橋に助けてもらったのか。男の子ってのは、時には勇ましいことをやるのもいいのかもしれないな」
「俺、男の子じゃなくて男だよ。喧嘩は俺と雄心がやったんだよ」
「龍と雄心の喧嘩か。よくやってるのか」
「頭をぼかっとかだったらやったかもしれない。俺が雄心に、ってのだったらあるかな。雄心は俺が年上だからちっとは遠慮でもしてるのか。殴ったりはしないよ。殴るってほどのことは、雄心にはされてない。今日の雄心はおかしいんだ。でもさ、雄心は喧嘩はいつもやってて強いんだよな。知らなかったよ」
「雄心の身のこなしは、喧嘩慣れしてる奴ってふうには見えなかったぞ。自棄っぱち戦法に見えた」
 彼は本当に喧嘩に強いのであるらしき本橋さんが言い、シゲさんも言った。
「俺にもそう見えたけど……メチャクチャ戦法もありなんでしょ」
「そうかぁ。喧嘩ってのはだな……」
「本橋、おまえの喧嘩論はまたの機会に聞くよ」
 乾さんが言い、本橋さんも言った。
「ああ、そんな話をしてるんじゃなかったな。メシを忘れてた。乾も来たんだから五人で食いにいくか」
「今夜は気持ちのいい気候じゃないか。初夏の風薫る公園で、五人でメシにしないか。弁当でも買ってこようか」
「あ、俺が行ってきます」
「シゲが? 龍が行け」
「年下だから? 雄心のほうが年下……ま、いっか。なにを食うの?」
 龍が大人たちの注文を聞き、俺には聞かずに駆け出していき、俺はぐぐぐとなっていた。
 どこかの店で晩メシとなると、言えないような話をするつもりで、乾さんはここで食おうと言っているのか。龍も察してケチはつけなかったのか。龍が戻ってきてからになるのか。本橋さんと乾さんとシゲさんはベンチにすわり、乾さんは煙草に火をつけて言った。
「ポピーだね。可愛い花だ」
「ポピーって言うんですか。乾さんだけしか知らない花の名前でしょ」
「シゲ、ポピーなんて知ってて常識だよ」
「そうなんですか。俺は知りません。本橋さんは知ってます?」
「知るわきゃねえだろ」
 三人で花の話をしているが、俺はそれすらも恐ろしい。三人の会話がどう進むのか。特に乾さんは、龍が戻ってきたらどうするつもりだろうか。
 幸生さんの部屋で、あのとき、乾さんは言った。おまえのやった悪さは殴る値打ちもない、だった。殴られるのは嬉しくないのだが、殴られるほうがましなのか。殴る値打ちもない悪さ……それってこれか。俺の耳には乾さんのあのときの言葉が焼きついて離れない。
「皆実さんが言ってたよな。シゲは聞いたか」
 花の話から話題が変わり、乾さんが俺の知らない名前を口にした。
「先輩に説教されるよりも、殴られるほうがいいってさ」
「皆実さんが? んんん、俺は……どうだったかな。聞いたかな。でも、皆実さんらしい台詞ですよね」
「金子さんもどっちかってーとそういう主義だぜ。俺は後輩を一度たりとも殴ったりはしない、なんて金子さんは言う。殴ったじゃないですか、って俺が言っても、殴ってない、の一点張りなんだよ。本橋、おまえも金子さんに殴られたんだろ」
「まあな。たまらんぜ、俺は」
「本橋さんも金子さんに? 学生のころにですか」
「いつだっていいだろ。乾、よけいな話ばかりするな。おまえは実のところ、なにが言いたいんだ? まぎらわしい言い回しじゃなくて、単刀直入に言え」
「そうだねぇ」
 煙草の煙がゆらゆらしている。俺にも一本下さい、と言ったら、未成年が……と怒られるのだろうか。下らないことで乾さんに……そんなのだったら俺は……俺は……
 たぶん乾さんたちの合唱部の先輩であろう、皆実さんという男が言ったという台詞が、半分程度わかるような気がする。俺は説教も殴られるのも大嫌いだけど、どちらかなんだったら、殴られるほうがいいのだろうか。
「ヒデもさ……あいつも金子さんや皆実さんの種類の男だろ。本橋の種類でもあるよな」
「そうですよ、乾さん。乾さんが来る前に、本橋さんが話してくれたんです。ヒデと本橋さんがふたりで、大学のときに喧嘩したんですって。よその男たちと本橋さんが喧嘩してたらヒデが来たって話、乾さんは聞いてました?」
「知らないよ」
「そんな長い話はしなくていいんだ、シゲ」
「はい、また今度ね」
 龍はどこまで行ったのか。弁当屋かコンビニか。俺はどうでもいいことを考えつつ、大人たちの会話を聞いていた。本橋さんが言った。
「章は……雄心、龍に言うなよ」
「はい」
「幸生はそうでもないってのか、あいつは謎が深いんだけど、幸生も暴力は嫌いだよな。あの体格だもんな。俺が喧嘩のやりようを教えてやるって言っても、きゃあきゃあ黄色い声を出して、やだやだ、いやいやーん、ってさ……」
「本橋、おまえの声できゃあきゃあとかいやいやーんとかって、言わないでくれないかな」
「乾、茶々を入れるな。ってか、雄心にも言うなってか?」
「いや、いいけどね」
「乾さんのきゃあ……いえ、俺の声は本橋さん以上に乾さんの耳を汚しそうですし、言いたくないから言いませんが、本橋さん、どうぞ。俺も本橋さんの話の続きを聞きたいです」
「続きったってたいした……」
 そうは言ったものの、本橋さんは続けた。
「だからさ、幸生がそんな奴だってのは雄心も知ってるだろ。章があんな奴だってのも雄心も龍も知ってるんだろうけど、章だったらああやっておまえみたいな若い男に殴りかかってこられたら逃げるんじゃないかな、とな。その点、龍は応戦してたんだから見所はなくもないかな、とさ。シゲもそう言いたかったんだろ?」
「しっぽを巻いて逃げるよりは、龍も男だな、ってのか……うーん、美江子さんに怒られそうな台詞ですね」
「美江子はいないんだからいいけど、乾、おまえも怒るのか?」
「暴力沙汰が起きたときには、男と女は本能的に取る態度が異なるんだと言うよ」
 携帯用灰皿に吸殻を入れて、乾さんは言った。
「女は逃げる。当然だろ。逃げるべきだ。男だって逃げられたら逃げたほうがいい場合もある。だけど、場合によっては逃げてはいけない。女性が逃げられなかったとしたら……想像すると胸が痛いからしたくないんだけど、女の話はしてねえ、だよな、本橋?」
「そうだ。男はどうなんだよ」
「男に襲いかかられたとしたら、女は暴力を回避しようとするんだよ。当たり前なんだ。そうでもない女性もいるけど、女性は荒事になんか巻き込まれないほうがいいんだ。女性ってのはエレガントでいてほしい。俺の幻想か」
「だから、男の話をしろって言ってんだろ」
 やめましょうね、の声と同時に、シゲさんが本橋さんの腕をつかんだ。本橋さんは乾さんを殴ろうとしたのか。なんもやってねえだろ、と言って本橋さんはシゲさんの手をふりほどき、乾さんは言った。
「男は、男はそうではいけないんだ。時と場合にもよるけど、そんな奴は男ではない」
「あれぇ? 時と場合はいいんだけどさ、今夜の乾は妙に男、男って言うよな。シゲ、こいつ、らしくなくないか」
「らしくないんですか。俺は乾さんだって、本橋さんほどじゃないけど、とても男らしい男だと思ってますよ。あ、美江子さん、すみません」
「いない奴にあやまるな」
 ところどころ意味不明であるが、彼らにしか理解できない話なのだろう。乾さんは新しい煙草に火をつけ、言った。
「雄心、脱線ばかりしててごめんな。俺たちはいつもこうだからさ。で、なんの話だった? 暴力沙汰か。男ったって心は……シンプルにしようね、本橋」
「言うまでもねえだろ」
「だよな。うん、シンプルに言えばだ、身も心も男である男は、男は男なんだから男であるべきなんだよ」
「……シンプルか、これ、な、シゲ?」
「さあ……かなり複雑なような……」
「複雑じゃねえんだよ。なにかがどうかしてどうかなって、男の心が衝動に駆られる。この女を……なんて気持ちがふっと生まれる。そんな男はその場から走り去って、池に身を投げろ。海に身を投げたら死ぬ恐れがあるんだから、足の立つ池に身を投げるなり、滝に打たれるなりして身を清めろ。馬鹿野郎」
 なんなんだ、と呟いて、本橋さんはシゲさんと顔を見合わせた。
 けれど、俺にはわかる気もする。抽象的に言ってはいるが、俺がやったことを含ませているのだろう。池? 見回してみると、池があった。俺はふらっと立ち上がり、ふらふらっと歩いていって池に飛び込もうとした。
「池ってのは比喩だよ。まったくおまえは馬鹿だな。やめろ」
 うしろから肩をつかんで引き戻したのは乾さんの腕で、本橋さんにはげんこつをもらった。
「おまえが池に飛び込む必要はねえだろ。乾が言った台詞のどこかが、おまえのどこかに触れたのか。おまえ、そのようなことをしたのか」
「俺だよ、俺」
「乾が?」
「とある女性と車に乗ってて、とある女性が俺を怒らせた。キスしてやろうか、ホテルに連れ込んでやろうか、ってさ。ふっと最悪の衝動に駆られたんだ。やらなかったけど、あれは彼女が止めてくれたからであって……つまり、俺は俺に言ってたんだよ」
 絶対に嘘だ。俺に言ったに決まっている。シゲさんも立ってきていて、言った。
「乾さんがそんなふうに言うと、俺も疑いたくなりますよ。乾さんが女のひとにそんなふうになんて、あり得ません」
「なんでだよ、シゲ? 俺は男らしいんだろ? 男ってのは誰だって、そういう衝動が起こり得るんだ。おまえにはないのか」
「ありませんよ。乾さん、どうしたんですか」
「おまえは特別だ。俺は並みの男なんだ」
「特別っていうか、俺が変なんだとでも?」
「ああ、シゲは変だよ。おまえこそ男らしくないってか……」
「乾さん、それは言いすぎでしょ」
「おー、かかってくるか」
「乾さんっ!!」
 なんでこうなるの? わけわかんね、となって、俺は乾さんとシゲさんを見比べた。シゲさんは怒っているようで、乾さんはにやにやしている。と、本橋さんがふたりの肩をいっぺんにつかんで引き寄せ、投げ飛ばした。
 ぎゃっ、うわっ、の声を発して、乾さんとシゲさんの身体が飛んでいった。俺は身動き取れなくなって立ちすくみ、本橋さんが両手をはたいて言った。
「俺、あいつらを投げ飛ばしたのははじめてかもな。幸生や章にだったらやったけど、シゲと乾だとあいつらよりずっと重いのに、ふたりでもできるじゃないか。うん、パワーは衰えてない。いい気分だ。こら、乾、シゲ」
 はい、とふたり分の声が聞こえ、本橋さんはふたりを見下ろして言った。
「シゲは悪くないんだよ。おまえだろ、乾。いい加減にしろ」
「はい、ごめんなさい。真次郎さん、叱らないで。タカちゃん、泣いちゃうから」
「てめえ、この野郎、幸生みたいに……」
「うわっと、本橋さん、やめて下さいっ!」
 脚を上げて乾さんを蹴ろうとした本橋さんから、乾さんをかばったシゲさんが、乾さんを抱きしめる格好で折り重なった。くくくっ、くくくっ、という声は、シゲさんの下になった乾さんが発していた。笑っているらしい。
「シゲ、重いよ。だけど、かばってくれてありがとう。キスしていい?」
「乾さん……うわわっ、うわうわっ!!」
 ごろごろころがって乾さんから逃れたシゲさんに、本橋さんが言った。
「幸生には内緒にしような。まさかあいつは来ないよな。来たとしたら……うげ、怖い。雄心、おまえも幸生には言うな。言ったらぶん殴るぞ」
「今のシーンをですか。言いません」
 なぜ幸生さんには言ってはいけないのか、言えばどうなるのか。俺も幸生さんの気性はいまやよくよく知っているのだから、意味は十分にわかった。
「シゲさん、ほこりまみれですよ。乾さんもだ。仕事はいいんですか」
「今夜は打ち合わせやってたんだらいいさ。シゲ、乾、立て。乾、俺にかかってくるか」
「おまえがやったくせに……いいえ、かかっていきません。シゲ、ごめんな」
「いえ、俺のほうこそまた……」
「またって、あれか」
 あれと言われても俺はどれだか知らないのだが、三人とも知っているようで、本橋さんもくすくす笑っていた。
 かなりの時間がたったはずなのだが、龍は戻ってこなくて、遅いな、あいつ、見てこようか、とシゲさんと本橋さんが歩いていった。ふたりきりで公園に残されると、乾さんが言った。
「おまえも反省してるんだろ。さっきの話は反省してないように聞こえたけど、単なる見栄だよな。その気持ちは俺にもわかるよ。男だもんな」
「……乾さん……」
「どっちがいい?」
「……殴る値打ち、ありますか」
「おまえはけっこう勘がいいんだよな。反省してるんだったら殴ってやってもいいよ」
「……殴られたくはないんですけど……」
「そんならやめとくよ。龍に殴られたんだったよな」
「はい。俺もやったけど」
「うんうん。よかったな」
 よかった……よかったのだろうか……俺が悩んでいると、龍ではなく、別の声が聞こえてきた。
「だからさ、言ってんじゃん。五人が同じ歌を歌うんだよ」
 幸生さんだった。ひとりで喋っているのではなく、相手は章さんだ。
「同じ歌を別々に五人がソロで歌う。ライヴにしたってCDにしたって、飽きられないか」
「呆れられるかも」
「シャレはいいんだっ!!」
「叫ぶなっ!!」
 危機一髪、と乾さんが呟き、俺がうなずいたとき、小柄な兄ちゃんたちの姿も見えた。
「雄心……先輩たちが出ていっちまって、いつまでたっても帰ってこない。乾さんのケータイに電話しても出ない。こんなところでさぼってて、雄心となにやってたんですか、乾さん」
 章さんが言い、幸生さんも言った。
「乾さん、彼女がいないからって寂しくて、俺の雄心に手を出そうとしたんじゃないんでしょうね。リーダーとシゲさんはいないの? あっちはふたりでどこかでラヴシーン?」
「幸生、おまえの発想がそこへしか行かないのは知ってるけど、本橋とシゲのラヴシーンだけは想像させないでくれ」
「ですよね、乾さん。俺もそれだけは想像したくない。雄心、どうしたの?」
 あの件? と幸生さんは訊きたいのであろうか。俺がなんとなくかぶりを振り、幸生さんが真面目な顔になり、章さんが幸生さんを見、乾さんが口笛を吹いていると、龍の声も聞こえてきた。
「だってさ、このへんの道ってわかんねえんだもん。コンビニよか弁当屋の弁当のほうがうまそうだから、弁当屋探してて道に迷ったんだ」
「おまえは方向音痴か」
 本橋さんの声、シゲさんの声もした。
「味覚音痴よりはいいような……歌の音痴でもないんだし……あ、恭子、ごめん」
 シゲさんはどうして奥さんにあやまっているのだろうか、と俺が考えていると、章さんが言った。
「あの馬鹿は俺の先輩たちにもあんな口のききようで、乾さん、すみません」
「慣れたからいいんだけど、一度、龍にがつんと言ってやるか」
「おまえの言葉遣いはなっちゃいねぇ、ってですか」
「そうですよ、兄上さま。おまえは龍の頭をごつんだったらやるんだろうけど、シリアスに叱ってやるか? 往復ビンタは?」
「章が負けます」
 重々しく幸生さんが言い、なんだと、てめえ、この野郎、と章さんが言い返す。どこかしらこの大人たちも、龍と俺に似ているようだ。
「勝ち負けじゃなくて、兄として章が龍を叱るんだよ。龍はご両親には甘やかされて育ったんだろ」
「でしょうね。親父は俺だったら殴ったけど、次男には甘いから」
「殴らなくてもいいんだけど……いや、あいつは殴ったほうがいいぞ。本橋が横で睨んでたら、あいつも兄貴にとことん反抗はできないだろ。リーダーの威厳を借りてやるか」
「それだと俺は兄として惨めですよ」
「うん、章、意外にも意外にもえらいじゃん」
「幸生は黙ってろ」
 ああっ、兄ちゃん、と、姿を見せた龍が叫び、幸生さんが言った。
「先輩たちったら戻ってこないし、章も俺も腹減ったし、探しにいきがてら俺たちもメシにしようかって、ふたりで出てきたんだよ。龍、なに持ってんの? 弁当? 章と俺の分はないよね」
「俺、買ってきます」
 俺が言うと、龍も言った。
「当然だろ。次は雄心が行け。先に食ってるから、道に迷わないようにしろよ」
「俺はおまえみたいな方向音痴じゃねえんだよ」
「このへんの道はわかりにくいんだよ」
「弁当屋はここに来るときに見ただろ。大丈夫だ」
「そうだっけ?」
 残るふたりの注文を聞き、俺は歩き出した。うしろで幸生さんが言っていた。
「下っ端がいるといいね。章、俺たち、パシリしなくてもよくなったじゃん」
「あいつとこいつがいていいのは、そこだけだな」
 腹が減ったのなんて忘れていたけれど、弁当とはいえ、晩メシをおごってもらうつもりで来たのだから、目的は達せられる。そして、俺の心は一段と軽くはなった。完全に重荷は取り除かれてはいないが、俺がやったことで重いのだから、簡単になくならせてしまいたいなんて、甘ったれてはいけないのだろう。
「おのれの悪事をおのれで背負って、一生歩いていけ」
「……乾さん」
「煙草を買いにいくから、つきあうよ」
「煙草も買ってきますよ」
「煙草はおつかいの未成年には売ってくれないよ。龍に頼めばよかったんだけど、雄心は年齢証明を出せと言われたら、未成年の証明しかないだろ」
「そうですね。あのさ、乾さん、俺も煙草、吸っていいですか」
 ごちんっ、と頭を殴られたのだが、乾さんは笑っていた。
 ものすごく鋭敏で、幸生さんの上手だという乾さんは、俺の気持ちを察しているのだろうか。シリアスに殴られるのはいやだけど、こんなふうにだったら殴られたかったと。

「si 俺たちはいつでもふたりでひとつだった
 地元じゃ負け知らず そうだろ
 si 俺たちは昔からこの街に憧れて信じて生きてきた
 なぜだろう
 思い出した景色は 旅立つ日の綺麗な空
 抱きしめて」

 距離があるのに、聞こえてきた歌声は幸生さんだ。俺のとなりを歩いていた乾さんが言った。
「ミ・アミーゴ。おまえも知ってるだろうけど、スペイン語で「俺の友達」だよな」
「この歌は知ってますけど、こんな友達、俺にはいませんよ」
「まあ、この歌は危機的状況ってのか、一方が死にかけてるって絶対的危機に陥ってるんだけど、近い部分はあるだろ」
「龍と俺に? 俺は旅立ってはいないし……」
「精神的には旅立ちつつある。それにさ、おまえ、地元じゃ負け知らずじゃなかったのか?」
「……あれも見栄です。聞いてたんですよね」
「聞こえてましたが、ま、男の見栄ってのはさ……俺にも理解できるよ。男は男、阿呆も馬鹿も惨めも男さ。男はつらいんだぞ」
「そうなんですか」
 かすかに「ミ・アミーゴ」が聞こえ続けているのは、幸生さんの声だからこそだろう。
 男の友情? そんなもん、こっぱずかしくて口にもしたくないが、俺の心をまたすこし軽くしてくれたのは、龍との殴り合いだったのか。あればっかりは男としかできないのだから、男の友達もいないと、人生は楽しくないのかもしれない。
 龍以外にも男友達ってのはいるのだが、俺たちがお互いに知らないところで、俺たちには遠い昔から縁があった。龍も俺も小学生になるかならずのころに、兄といとこが知り合って親友になったのだから、俺たちは不思議な縁で結ばれているのだろう。
 あいつと結ばれているっていうのも気持ちが悪いが、あいつのおかげで乾さんとも知り合えて、叱ってもらえるってのはありがたいのかもしれない。幸生さんも言っていた。
「おまえたちの年頃だと、先輩に叱ってもらうのがためになるって言われたってピンと来ないんだろうけど、そういうものなんだよ。乾さんがいなかったとしたら俺は……無口でおとなしくて純情で……そんなのユキちゃんじゃないじゃん」
 誰がいようといまいと、三沢幸生は三沢幸生であろうが、幸生さんの言葉はすこしは理解できた。そこで俺は、黙って歩いている乾さんに尋ねた。
「乾さんにとってはミ・アミーゴなんですか」
「特別なるミ・アミーゴだよ。五人」
「五人? 四人じゃなくて? ……ヒデさんも?」
「もちろん。まだヒデには会ってなかったんだな。そのうちには九人でメシでも食おう」
「九人というと、美江子さんも?」
「恭子さんもだな。十人だ」
「はい、ぜひ」
 男友達が五人、女のひとはふたり。乾さん本人と、そこに俺たちも混ぜてもらって十人か。やはり龍とも縁があるんだな、と思うと、やっぱり嬉しい気がする。幸生さんの声は聞こえなくなっていたのだが、俺も「ミ・アミーゴ」を歌うと、乾さんが高く綺麗な声でハモってくれた。
 すべてに於いて負け。歌と……その他諸々、すべて俺は乾さんに負ける。女性の喜多先生に負けるのは、だからこそ彼女とはつきあえないと思ってしまうのだが、相手が男だったら目標にできる。
 さきほど、乾さんは言った。悪事……そうなのだろう。未遂だって悪事は悪事だ。それでも、俺がそんなことをして感じていた重荷を、みんなしてすこしずつすこしずつ軽くはしてくれた。忘れてはいけないのかもしれないが、すこしずつ遠ざけたい。
 黙ってしまった俺に話しかけず、乾さんが歌の続きを歌っている。夜空の星よりも美しい、初夏の風よりも涼しい声。コメントのしようもない歌の実力。歌がうますぎて、悔しいとも思えない。歌の実力は目標にもできない。
 ヒデさんって乾さんをどう思ってるの? 幸生さんは?
 話にしか聞いていないヒデさんに、俺は心で話しかけていた。俺はちゃんと誰なのか名乗って、hideブログにコメントしてみようか。アドレスも書いておけば、ヒデさんはメールでもくれないだろうか。俺もなんだかとても、ヒデさんに会いたくなってきていた。

END

 
 
 
 
 
 
 
 

 

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