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小説153(Sun goes down)

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フォレストシンガーズストーリィ153

「Sun goes down」


1・美江子

 一日目の夜は章くんと飲み、続きで実松くんと電話し、実松くんからシゲくんに連絡が行き、シゲくんも知った。ヒデくんが東京に出てきていると。
「ヒデさんはなんとなくニヒルっぽかった」
 章くんは言い、シゲくんも言った。
「ニヒルってんじゃないだろ。照れてたぞ」
「なんで照れるの?」
「知らないんだけど、俺にもその気持ちはわからなくもないと言うか……男同士は恥ずかしいんだ。章、おまえと龍ってのも男同士の兄弟なんだから、恥ずかしいとかって感覚はあるのか?」
「龍の存在自体が恥ずかしいよ」
「龍ってそんなに……」
「そりゃあね」
 昨日と今日にヒデくんと会っている章くんとシゲくんが、私にも理解しにくい会話をしていると、幸生くんが割り込んだ。
「シゲさんや章だったら、男同士で愛の囁きって恥ずかしいよね。俺は別に恥ずかしくはないから、お手本を見せてあげようか。乾さん、やります?」
「そんな話はしてなーい」
 シゲくんと章くんは同時に言い、そこにやってきた乾くんは、は? と目をぱちくりさせた。
「そんな話ってなんの話だ? 幸生と俺がお手本を見せる? なんのお手本? 幸生、俺は今日はそんな気分じゃない。仕事だ、仕事。そのためにスタジオに集合してるんだろ。無駄話はやめよう」
「そんな気分ってどんな気分? なんのお手本か知ってるんだ。ねえねえ、乾さん、大久々にやりましょうよ」
「大久々じゃねえだろ。昨日もやってたじゃないか」
「そうだっけ?」
 とぼけておいてから、幸生くんが乾くんに話した。
「ヒデさんが来てるんですって」
 そんでね、と、幸生くんは、章くんと会ったときのヒデくんの様子を語った。幸生くんはそこにいなかったのに、講釈師、見てきたような嘘をつき、であった。
「章は手の怪我は癒えたってのに、心の傷は癒えてないんだね。巷に雨の降るごとく、章の心にも雨が降り、そぼ降る涙雨に濡れて、ヒデさんと公園で抱き合ってたんだ」
「抱き合ってねえけど、そういやぁ、昨夜は雨が降ってたよ。そこから思いついた妄想だろ」
「俺は窓から雨を見て、章の涙かなって思ってたんだ。公園には行ったのか」
「酒のあとで行ったよ。俺は酔ってたから、酔い覚ましだ。そんときのヒデさんがどことなく、ニヒルっぽく見えたんだよ」
 ふむふむと聞いていた乾くんが尋ねた。
「幸生、シゲとヒデの様子は? 再現してみろよ」
「ヒデさんが恥ずかしがってたんでしょ。そうするとつまり、シゲさんに愛の告白をされて、ヒデさんとしては戸惑って、シゲ、おまえには妻子がいるじゃないか。罪な恋はやめようと……」
「おまえはそっち方面しか考えられないのか」
「はい、乾さん、そうです」
 はーはーはー、と章くんとシゲくんはため息をつき、シゲくんは言った。
「一部、ほんの一部、近い」
「どっちが告白したの? ヒデさん、シゲさん?」
「告白じゃないよ」
「当たり前だろ。俺のもほんの一部は近いけど、ヒデさんと抱き合ってないからな」
「章、ニヒルなヒデになにをされたんだ? キスでもしてもらったのか」
「乾さんまでっ、冗談はほどほどにして下さいっ!!」
「そうそう。乾さん、冗談は顔だけにね。古っ。それよか乾さん、横から俺の話しに口出ししないで。ヒデさん主役のストーリィはまだまだ続くんだから。聞いて聞いて」
「勝手に喋れ」
 ぼそっと章くんが言い、私も言った。
「嘘だとわかってる上で聞く分には面白いから、続けて、幸生くん」
「はいはーい。美江子さんがお望みなんだからますます張り切って、パワー全開無限大。ユキちゃんの創作能力のすべてを開陳しまーす」
「やっぱ創作だな。そりゃそうか」
「乾さん、黙って聞いてて下さい」
「はいはい、どうぞ」
 本日はこのあと、ラジオ局でスタジオライヴの収録がある。やがて本橋くんもやってきた。私の夫は昨夜は知り合いのミュージシャンのレコーディングにコーラスパートで参加していて、その仕事が押して徹夜だったのだ。昨夜はうちに帰ってこず、寝不足の目をしてあらわれた本橋くんは言った。
「おはよう。元気そうだな、おまえら。俺はくたくた……いいや、弱音を吐いててどうする。やるぞ。幸生、おまえはまた朝からお喋り全開か。おまえのびいちく声が外まで聞こえてたよ。ヒデがどうとかって聞こえたけど?」
 幸生くんはさきほどの講釈話を本橋くんにも聞かせていたが、章くんは聞き飽きたらしく、乾くんに言っていた。
「スタジオライヴか。ねえ、乾さん、ずいぶん昔にブラックフレームスのスタジオライヴを、幸生とふたりで聴いたって言ってませんでした?」
「そんなこともあったな。あのときは、トミーに誘われてスタジオに入ろうとしたら、ガードマンに追い払われそうになったんだよ。俺たちも早くライヴをやるほうの立場になりたい、って感じたんだったかな。トミーは元気か?」
「近頃も売れてるみたいだけど、長く会ってませんね。乾さん、トミーとなんかあったんじゃ?」
「忘れたよ。おまえこそ、龍がなんかやったのか? いいよ、言いたくないんだろ」
「言いたくないと知ってるんだったら聞かないで」
「了解」
 ブラックフレームスは知っているが、個人的にトミーは知らない。乾くんは忘れたと言っているが、売れっ子ロックバンド、ブラックフレームスのギタリストであるトミーと、昔になにかあったのだろうか。
 まさかトミーと乾くんも恋仲だった? 幸生くんにつられて発想がそっちに向いたのだが、幸生くんがなんと言おうとも、うちの男性たちは全員へテロセクシャルであるはずだ。ひとりくらいゲイのケのあるひとがいても面白かったかも。
 おっとっと、すっかり幸生くんの悪影響を受けている。それに、ゲイを面白いと言っては失礼ではないか。美江子、つつしみなさい、と自らを叱っているうちに、幸生くんの話もすみ、本橋くんが言った。
「行くぞ。スタジオライヴに出発」
「リーダー、寝不足で声がちゃんと出ないなんて、ナシよ」
「見損なうな、幸生。俺はプロだ」
「おー、その調子、がんばってね、シンちゃん」
「シンちゃんと呼ぶな。がんばれなんて言われるまでもないんだよ」
 がんばってね、シンちゃん、と乾くんも言い、章くんまでが言った。
「真次郎さーん、しっかりね」
「てめえ……章まで……」
「シンちゃん、真次郎、真次郎さん、真次郎さま、私はどの呼び名がいい?」
「……山田、てめえまでが……本橋くんでいいよ」
「そう?」
 美江子さんは真次郎さまぁ、って言えばいいじゃん、と言ってきゃははは笑っている幸生くんと、よく似た声で章くんも笑っている。うるせえんだよ、おまえらは、と私の夫は彼らふたりの耳を片手ずつでつかんで引っ張り、シゲくんと乾くんと私も彼についてった。


 案外仕事が早く終わり、昨日は徹夜だったのだからと、帰って昼寝をすると本橋くんは言う。私も急ぎの仕事はないので、夫につきあって帰宅した。
「男同士の友達って恥ずかしいの?」
 家に帰ってから夫に尋ねると、彼は苦笑を浮かべて言った。
「そういうところはあるかな。ましてヒデとシゲだろ。シゲはあれだし、ヒデもあれのほうかもしれない」
「あれあれって、男同士の友達ってややこしいね」
「女同士ほどややこしくねえよ」
 男の中に女がまじる。もしくはその逆状態になると、その時点で同性のみではなくなる。私は長らく男ばかりと仕事をしてきたが、私がフォレストシンガーズの中にいる時点で、その場は男ばっかりではなくなるのだ。
 であるから、私にしても男ばかりの場での彼らの会話などは知らない場合が間々ある。盗み聞きをした経験はあるが、目も耳も鋭い乾くんあたりに素早く察知されたので、深い話は聞いたことがないのだろう。
 おそらくは彼らは彼らだけしかいない場では、相当にえっちな会話もしているにちがいない。女の私には口にもできない台詞を、いやらしい笑みとともに口にする? 想像すると赤面するなんて、ミエちゃんったら、純情少女の名残はあるんだわ。
 女同士でも下ネタが展開する場合もなくはない。私はそういった経験には乏しいが、現在は女友達が少なくなっているからだろうか。
 学生時代の女の子たちの会話は、思い出せば可愛いものだった。仕事の関係の女性とはそんな話はしない。沢田愛理さんや本庄恭子さんとは、突っ込んだ話も多少はしたが、さほどにきわどい話題ではなかったような。
 男同士の友達なんてものは私には理解しづらいのが当然であろうが、男同士の兄弟は? シゲくんがそのようなことを言っていたが、私の身近に男同士の兄弟はいる。
 本橋真次郎は三人兄弟の末っ子だ。空手家である双生児のお兄さんたちには、私もむろん幾度か会った。お兄さんたちの妻や子供たちも、本橋家の両親も含めて総勢十二人で、真次郎の実家で会食もした。
 さらに、私には弟がふたりいる。敏弘と和正は男同士の兄弟だ。私のきょうだいは美江子、敏弘、佳代子、和正、の順となる。
 シゲくんは章くんと龍くんの兄弟について言っていたのだが、本橋家三兄弟や、私の弟たちのほうが身近な分、わかりやすいかもしれない。シゲくんにはお姉さんが、幸生くんにはふたりの妹がいて、男兄弟の感覚は理解しがたいのだろうか。私のほうがすこしは知っているのではないだろうか。
 佳代子は数年前にパリに留学し、かの地でブティックの店員である美青年と知り合った。彼と恋をして結婚寸前までいっていたようなのだが、破局を迎えたのであるらしい。佳代子はパリに永住するつもりであるようで、新しくフランス青年の恋人ができているのだと思う。ただいまはデザイナーとまでは呼べないにせよ、服飾関係の仕事に就いている。
 敏弘と和正は平凡なサラリーマンになっているのだが、弟たちの幼少時を思い出してみれば……
 ふたつ年下の敏弘は三十二歳、既婚。七つ年下の和正は二十七歳、既婚。私よりも先に結婚した弟たちは、姉ちゃんはまだ結婚しないのか、といらぬ心配をしていたが、今では独身は佳代子のみとなった。その佳代子にしても恋愛遍歴は華やかであるようで、心配しなくてもいいような、むしろ心配なような。
 まあ、佳代子はいい。姉の手から遠く離れた異国にいるのだから。
 現在の敏弘と和正もどうでもいいのだが、幼少時の話だった。あのふたりは、あまりによく喋る佳代子の反動か、どちらかといえば無口だった。
「誰か忘れてないか?」
 どこかから聞こえてくる声は無視するとして、思い出してみれば、子供のころ、弟たちの部屋からどたんぱたんと物音がするので覗いてみると、声も出さずに取っ組み合いをしていた。
 幸生くん対章くんや、佳代子対美江子の喧嘩となると、いつだって口も全開になっているのだが、うちの弟たちはたいていは無言で喧嘩をしていた。五歳年下の弟の和正に対して、兄の敏弘が大人げなかったとも言える。
 敏弘も和正も、佳代子や私が話しかけるといやそうに返事はするのだが、敏弘と和正が会話をしていた記憶はとんとない。佳代子や私のいないところで内緒話をしていたのだろうか。
「あんたたちがうるさいから、敏弘と和正は喋らなくなるのよ」
 母が言っていたのを覚えている。父も無口なほうだったので、我が家では女たちばかりが喋りまくっていた。
「あなたの家ではどうだったの? お父さんもお母さんも無口じゃないよね。お兄さんたちも無口ではないよね」
 尋ねると、本橋真次郎は言った。
「おふくろがひとりで喋ってて、返事をしないとうるせえから、男は生返事してたってところかな」
「食事どきは賑やかだった?」
「兄貴たちがうちにいたころは、喋るというよりもおかずの取り合いとか……」
「そっちね」
「エイちゃん、あ、あそこ、見ろ、って敬一郎が言う。栄太郎がよそ見をしている隙に、敬一郎が栄太郎のコロッケかなんかを奪い取る。てめえ、俺があとで食おうと思ってたコロッケを、許せん、となって栄太郎が敬一郎に飛びかかる。親父は我関せずの態度で食ってる。俺は兄貴たちが取っ組み合ってる隙に、どっちかが残してるおかずを食っちまう。おふくろが怒る。日常的光景だったよ」
「うちの弟たちはおかずの取り合いなんかしなかったよ」
「うちは兄貴たちが大食らいすぎるからだろ」
「言えてる」
 本橋くんもよく食べるが、シゲくんはその上手、本橋兄たちはさらに上手であろう。私もよく食べるほうなのだが、空手家の食欲にはかなわない。本橋一家勢ぞろいの十二人の会食の際には、テーブルが料理であふれかえらんばかりになっていた。
「話がそれていってる。本橋くんも兄さんたちとの感情の中には、羞恥ってのはあるの?」
「恥ずかしいってのにもいろいろあるんだろうけど、うーむ、龍がやったことは恥ずかしいな」
「ん?」
 ちっとは遠慮しやがれ、あの馬鹿弟、と章くんは言うが、龍くんはシゲくんと私にはいくぶん控えめだ。私は常にフォレストシンガーズと行動を共にしているのではないので、龍くんと触れ合う機会は少ない。龍くんがなにかした? そのような話題は昼間のスタジオでも出ていた。
「雄心もな……若気の至り。俺たちもあんなだったんだよ」
「あんなってどんな?」
「俺はたいして知らない」
「知ってるんでしょ? 私には言えないようなことをしたの? 龍くんがなにをしたんだとしても、責任は保護者たる章くんにあるんだろうけど、あんたがかつてしでかした悪行ってのは気になるな。なんなのよ、白状しなさい」
「おまえだってやったんだろうが」
「だから、なんのことよ? あんたがやったことの詳細が不明だったら、おまえもやったんだろって言われてもわからないでしょうが」
 ふたりっきりのときには「あなた」とでも呼ぼうかと、照れそうになるのをこらえて口にしていたのに、馬鹿夫は気づいてもいなかったのかもしれない。私も腹が立ってきたので、「あなた」が「あんた」に変わっていった。
「俺はなんにもしてねえんだよ。人格者なんだから」
「人格者? それこそあんたの妄想だよね」
「おまえは人格者だって、乾が俺に言ったんだ」
「乾くん、誰かと勘違いしてたんだね」
「……まったく、おまえは口の減らない女だな」
「知らなかったの?」
「知ってたよ」
 そこから喧嘩がはじまった。
 友達時代も、短期間の恋人だった時代も、結婚してからも、本橋くんと私はひたすらに喧嘩を繰り返してきた。口喧嘩もあり、ちょっとは荒っぽい喧嘩もあって、私が本橋くんをひっぱたいたり、本橋くんが私を抱え上げてソファに放り投げたりもした。
 今日は口論全開になり、私が本橋くんの三倍ほどは喋り、本橋くんはしまいには押し黙って部屋から出ていってしまった。
「不機嫌顔したって怖くないよぉだ。あんたってば、このまま続けてると愛しい美江子に手を上げそうだからって逃げたんでしょ。この乱暴者。馬鹿夫!!」
 罵ってみても、返事は聞こえない。夫は寝室にこもってしまったようだ。
「ふんっだ。勝手にしろってのよ」
 幾度やっても喧嘩は後味が悪い。仲直りできるのかな、と思うと気持ちが沈んできて、どっちが悪かったんだろう、と考えたり、あやまりに出てこいよ、と考えたり、馬鹿馬鹿馬鹿夫、とぶつぶつ言ったりしていたのだが、本橋くんは寝たのだろうか。
 くよくよしていても仕方がないので、私はケータイ電話を取り上げた。夫には聞かれないように、トイレで電話をかけた。
「……実松くん?」
「あれぇ? 聞き覚えのある声……もしかしたら美江子さんでっか?」
「そうだよ。仕事中? いい?」
「ええですよ。ティタイムでっさかい」
「でっか、でっさかい、ってねえ、実松くんは普段からそんな古い大阪弁を使うの?」
「営業マンでっさかいに。なんか御用ですか。俺の声が聞きとうなって……うひゃあ、実松弾、感激すぎて声が……声が……上ずってしまうわ」
「上ずってないよ。酒巻くんも実松くんも、幸生くんに似てるよね。幸生くんが似たの? 幸生くんは乾くんの感化のもと、生来の変な性格に磨きがかかったのよね。酒巻くんは幸生くんの悪影響のもと、変になりつつある。実松くんは誰の影響? 実松くんがみんなに影響を与えたの?」
「さあ、どうでっしゃろ」
 彼も合唱部出身なのだから、耳がいいようだ。即座に私だとわかったとは褒めてあげよう。いや、ケータイには名前を登録してあって、最初から知っていたのかもしれないのだが。
 シゲくんやヒデくんと同年の実松くんを、私は学生時代から知ってはいる。さして親しくなかったのだが、実松くんは合唱部の大阪弁男として勇名を馳せていたので、けっこうな有名人だったのだ。そんな実松くんのケータイナンバーを知ったのは、ヒデくんと再会した夜に教えてもらったからなのだった。
「今日は仕事だったから、シゲくんにヒデくんのホテルの名前を教えてもらうチャンスを逃したの。実松くんから聞いたってシゲくんは言ってた。知ってるんでしょ」
「ああ、それでですか。なんや、がっかり」
「がっかりしてくれてありがとう」
「ヒデは木村とシゲとは会うたんですよね。他の方のところへは訪ねていかへんのですか」
「来ない。だから私が押しかけていこうかなって。押しかけていくのはまずいとしても、電話くらいしてもいいんじゃない? あ、でも、押しかけていこう」
「は?」
 そこまでは夫に聞こえないように小声で話していたのだが、ここで大声を出した。ぴんとひらめいたものがあったからだ。
「行くからね、ホテルを教えて」
「はい。美江子さん、どうかしました?」
「いいのよ。行くわ」
「はあ……」
 怪訝そうにしながらも、実松くんはヒデくんが宿泊しているホテルの名を教えてくれた。夫に聞こえていたとしたら誤解するだろう。それを目論んでいるのだから、誤解してくれたらラッキーってなものなのだ。
 荒療治も時に有効。そうと信じて、プチ家出ってやつを敢行するつもりだった。
 
 
2・隆也

 世にも暗鬱な声を出して、本橋が電話をしてきた。
「……誰だろ」
「誰って? 本橋真次郎だろ。俺は乾隆也だよ」
「それじゃなくて……そうじゃなくて……くそ、人に頼るなんて……くそくそ、おまえに相談してもどうしようもねえんだよ。俺の問題なんだから俺が解決する」
「おい、どうしたんだよ」
「なんでもねえんだよ」
「なんでもなくはないだろ」
 自分からかけてきたくせに、うるせえ、と捨て台詞を発して、本橋は一方的に電話を切った。と、切れたケータイが再び鳴った。発信者は実松弾。本橋の電話とは無関係であろうと思って電話に出ると、無関係ではなかったのだ。
「なんかね、美江子さんの様子がおかしいんで……美江子さんかて大人やねんから、俺がお節介を焼く筋合いでもないんでしょうけど、なんか気になりましてね。相談するんやったら乾さんかなぁ、うーん、シゲはこんなんでは頼りにならんやろうと……あのね、乾さん、さっき、美江子さんから電話がかかってきましてね」
 実松が言うには、ミエちゃんはヒデの今夜の宿を教えてほしいと言った。俺もシゲからは聞かなかった。章は知らなかったようで、ミエちゃんも聞かなかったのだろう。すると、ミエちゃんがヒデと話したくなって実松に尋ねたのは不可解でもない。が、実松にはミエちゃんとの通話が終わる前の台詞が気にかかったのだそうだ。
「ホテルを教えて、いいの、行くわ?」
「そこだけ急に大きな声で、美江子さんはそう言いました。俺の考えすぎでしょうか」
「うーむ。意味深なんだろうか。本橋は……うーむ。ああ……さっきの電話。そうか、わかったような気もする」
「乾さんには思い当たるふしが?」
「あるような気もするよ。悪い、実松、俺にもヒデのホテルを教えて」
 ホテルの名前を教えてくれた実松に礼を言って、一旦電話を切った。そこならば俺も知っている。ミエちゃんがなにをしようとしているのかも、本橋のさきほどの声と話の内容からすれば、推し量れる気はした。
 誰だろ? と本橋が言ったのは、ミエちゃんがホテルに行くわ、と言っていたのが聞こえて、ミエちゃんの計略にはまって心配至極になったからだ。
 それでいて、俺に相談したかったのを思いとどまって、俺の問題なんだから俺が解決する、とは実に本橋らしい。本橋はらしいが、ミエちゃんはらしくない。にしても、問題がこじれてはいけない。俺も出動すべきだろう。
 お節介なのかもしれないが、ミエちゃんも本橋も俺にとっては大切なひとだ。あの夫婦の仲をこじらせたくない。巻き込まれてはヒデが気の毒なのもある。
 俺の推量が当たっているのか否かは知らないが、近い状況なのであろう。俺は身支度をして車を出した。本橋は家で黙考中かもしれないが、実松が言っていた時刻からすると、ミエちゃんはヒデのホテルに到着している。はたして、ヒデはホテルにいるのだろうか。
薄暮の時間帯である。初夏の近い東京のこの時刻は、都会にも爽やかな空気が満ちている。本橋は帰って昼寝をすると言っていたが、その前にミエちゃんと喧嘩でもしたのか。今日の仕事もスタジオライヴで終了したので、早く帰って俺は作詞でもしようとしていたところだった。
 他の四名は昨日の夜は暇だったのだが、本橋は昨日は徹夜だったのだ。結婚していると昼寝も好きにはできないのであるらしい。
 昨日の夜には章と飲み、今朝方はシゲと朝食をともにしたというヒデは、今日はどうするつもりでいるのか。今日も泊まると言ってましたよ、とシゲは言っていたから、ホテルを引き払ってはいないだろう。
 車でそのホテル近辺まで来ると、前方の舗道を歩いているミエちゃんが見えた。よかった、会えた。ここで会えてよかった。スピードをゆるめて近づいていくと、ミエちゃんが振り向いて怖い顔をした。
「そんなに舗道に近づいてこないで下さい。接触事故でも起こしたらどうするんですか」
「いやぁ、魅力的な女性がひとり歩きをなさっているもんで、ナンパしたりしていいかなぁ、ってね。乗りませんか」
「うるさいわねっ!!」
 いきなり怒鳴られて、俺はびくっとしてブレーキを踏んだ。ミエちゃんはこの車を知っているはずなのだが、怒りで目が眩んでいるのか、本橋がよほどのふるまいでもしたのか。俺だと気づいていない様子だった。
「変な真似をすると……」
 昼間に仕事で会ったときと同じ、シックなシャツとパンツルックのミエちゃんは、俺の車を蹴ろうとした。
「さっさとどっかに行ってっ!! ここに傷がついてもいいの? 私はむしゃくしゃしてるんですからね。私を車に引っ張り込もうとしたから、抵抗して車に傷をつけたって言ったら、正当防衛が成り立つでしょ。行かないと蹴るんじゃなくて、そうだ、こうしよう」
「あのあの、あの……」
 この声で俺だとわからないのだろうか。そんなにも怒っているのか。ミエちゃんは大き目の石ころを拾い上げて、車にぶつけようとしていた。
「お美しいレディ、怒らないで。俺はただ、あなたのような魅力的な女性がひとり歩きをしていては危険ですから、お乗りになりませんかと……」
「危険って時間じゃないでしょっ」
「そうですが、あなたがしようとしていることはいささか危険ではありません?」
「車が危険だって知ったこっちゃないのよ。車なんてのは……さっさとどこかに行って」
「そうおっしゃらずに、乗って下さいよ」
「しつこいのねっ!!」
「あなたが美しすぎるからですよ」
「歯の浮くような台詞……誰かみたい」
 そのときようやく、ミエちゃんは俺の顔を真正面から見据えた。
「誰か……その誰かだ」
「やっとわかってくれた? 声ではわかりませんでしたか」
「どうして乾くんがこんなところにいるの?」
「たまたまここを車で流していたら、あなたが歩いていらしたんです。マダム、レディ、マドモアゼル? お乗りになって」
「気持ち悪い。誰がレディだのマドモアゼルだの……乾くんったら、私だと知ってて言ったの?」
「当然でしょ。あなたが気づかなかったのが異常なんだよ」
「どうだか……そっか。乾くんは幸生くんに意見したりしてるけど、実はやってるのね」
「やってません」
「嘘、嘘嘘。あのね、日本の女は歯の浮くような台詞を並べ立てられたら、むしろ引くんだよ」
「あなたのお説は車の中で拝聴しますから、乗って下さい」
 通りすぎる車の中から、ドライバーたちが俺たちを見ているのを感じる。妙な誤解をされて警察に通報されでもしたら大変なので、お願いすると、ミエちゃんは怖い顔のままで車に乗ってくれた。
「ヒデくんのホテルに行くの?」
「ああ、ここはヒデが泊まってるホテルに近いの? 知らなかったよ」
「そう?」
 疑惑のまなざしで俺を睨みつける。実松も意外に鋭いというか、昔から鈍感ではなかったのかもしれないが、彼も結婚しているからこそ、女心に堪能になったのかもしれない。もしや、彼も奥さんと喧嘩してこのような経験を? 
 実松夫婦の喧嘩はこの際意識から締め出すとしても、ミエちゃんが鋭いのは言うまでもない。俺の目を見て俺の気持ちを読もうとしている。
「……あーあ、やめようかな」
「なにをやめるの?」
「知ってるんじゃないの? ヒデくんに会いにきたんじゃなくて、私を止めにきたんじゃない?」
「ミエちゃん、ヒデと浮気しようとしてたの? いでっ」
 相当に怒っているのか、ミエちゃんは俺の首を絞めた。
「うぐぐっ……こらっ、事故るぞっ!!」
 思わず、ではなく怒鳴ると、ミエちゃんは目をまん丸にして手を離した。
「きゃあ、乾くんの怒鳴り声ってはじめて聞いたかも」
「そうでもないでしょ。あなたの怒鳴り声は幾度か聞いたけど、俺も幾度かは怒鳴ってるよ」
「私に向かって怒鳴ったことはあった?」
「あったんじゃないかな」
「ないと思うけどな……」
 ミエちゃんとは俺も何度となく口喧嘩をしている。そんなときにも怒鳴りつけたりはしなかっただろうか。覚えていないということは、なかったのかもしれない。
「あなたの悲鳴もめったと聞かないね。きゃあ、って可愛いな。もっと悲鳴を上げさせたい」
「乾くんってS?」
「いいえ。きわめつけMです」
「そうなの? 女にベッドで首を絞められたら嬉しい? 男にされるのがいいの?」
 どこに向かうでもなくゆっくり車を走らせつつ、会話が変な方向へ進んでいった。
 車でナンパしてきた馬鹿者を怒鳴りつけ、車に石をぶつけようとするのはミエちゃんらしい。こういった会話はミエちゃんらしいのか、らしくないのか。ミエちゃんとセクシャルな話題を展開させた経験は……覚えていないので、なかったはずだ。
「首を絞められて喜ぶ趣味はないよ」
「蝋燭の蝋たらたらとか?」
「火傷するだろ」
「それが快感なんじゃないの? Mだと痛いのが好きで、苛められて快感で、悲鳴を上げて快感の旋律。乾くんの悲鳴ってどんなの? 上げさせてあげようか」
「きゃああっ!!」
「きゃああっ!!」
 密室でよかった。車内でなければ、いい大人の男女が悲鳴を上げ合っていれば、それこそ周囲の人々に通報される恐れがあるではないか。
「乾くんだったら、精神的に苛められるのが好き?」
「好きじゃないんだよ。好きだったらMじゃないんじゃないかな。苦痛が快感に変わるってか……精神的にはあなたに散々苛められて、その苦痛が快感に……ちがうって。俺は幸生じゃないんだから」
「幸生くんってほんとに変態傾向があるの?」
「知らないよ。幸生のベッドでの……なんで話がそっちに行くんだよ」
「なんでかな? 乾くんが悪いんだ」
「俺が悪い?」
「もっと悲鳴を上げさせたい、って言ったの、乾くんだよ」
「そうでした。ごめんなさい」
 うふっと笑って、ミエちゃんは俺を優しい目で見た。機嫌は直りつつあるようだ。
「そんでね、車でナンパはやったことあるんだよね」
「ないよ」
「本当?」
「ありません。断じてありません」
「乾くんも本橋くんも、ナンパしたことないってほんと? シゲくんは本当なんでしょ」
「やったことはないと本人は言うが、俺はシゲと本橋の私生活すべてを知っているのではないから、真相は存じません」
「シゲくんはやらないよ」
 次なるはこの話題か。亭主に聞けばいいのに……いや、亭主ともそんな話をしていて喧嘩になって、別の男の見解を聞きたくなったのか。
「シゲくんはやらないの。彼は永遠の純情青年なんだから」
「純情可憐な三つ編みの女子高校生、シゲにはいまだそんなところがあるね」
「三つ編みの女子高生?」
「ミエちゃんが言ったんだよ、昔」
「そうだっけ?」
 ぎゃははと笑っているミエちゃんに、こっちから質問した。
「ナンパなんかする男は、女性の軽蔑の対象になるのかな」
「ナンパが生き甲斐って、バッカみたい。まあね、幸生くんみたいのも……いないひとの話題はよくないんだよね。だけど、私たちはやっぱり、うちの仲間たちの話をするのがメインテーマだから、ちょっとだったらいい?」
「くしゃみしてるぞ、幸生もシゲも」
「古っ!!」
 幸生みたいに言ってから、ミエちゃんは続けた。
「乾くんは知ってるんだから言うけど、実松くんからヒデくんのホテルを聞いたの」
「知らないよ、俺は。たまたまだって言ったろ」
 まったく信じていないそぶりで、ミエちゃんはなおも言った。
「そのときは、あの馬鹿夫と喧嘩したあとだった」
「馬鹿真次郎と」
「そうよ。あいつはくしゃみじゃなくて、風邪を引いて寝込んだら……っと、駄目だね。仕事ができなくなっちゃう。なんであんなに腹が立ったのかな。あいつったら……それで、実松くんに電話したのは、あいつと同じ家にいたくなかったから、外出しようとしたのね。ヒデくんに会いにいこうかなって思ったの」
「なるほど」
「考えてみたら、家出しようとしたって私には行く場所がないのよ。実家は遠いから、実家に帰らせていただきます、って言えないの」
「馬鹿夫を追い出せばいいだろ」
「その手もあるんだけど、彼、徹夜明けで疲れてるんだよ」
 ああ、いいな、と俺はどうしても思う。馬鹿真次郎がうらやましくて、口を開くと馬鹿げた台詞を言ってしまいそうで、うなずくだけにした。
「で、実松くんとホテルの話をしてて、ふっと思いついたの。ホテル? あいつが誤解するよね、いい方法じゃーん、ってのかな」
「ふむふむ」
「これじゃあさ、モモちゃんと変わりないじゃない。私がバッカみたい」
「うん、そうだね」
「乾くんは誰から聞いたの? 実松くん? うちの馬鹿?」
 うちの馬鹿……うちの、うちの、ミエちゃんにとっての本橋は「うちの」なのだ。当たり前だが、胸がちょっぴり痛かった。フォレストシンガーズの、という意味でもミエちゃんは「うちの」と言うが、本橋はその中でも特別。本来の意味での「うちの宿六」であろう。
「ヒデくんに迷惑かけるつもりはなかったんだよ」
 誰に聞いたかは言わないでいるうちに、ミエちゃんは続けていた。
「夫婦喧嘩のとばっちりなんて、ヒデくんはそんなことをされるために東京に遊びにきたんじゃないよね。歩いているうちに、ヒデくんに迷惑かかるかな、あの馬鹿が誤解して、ヒデくんと喧嘩になったらどうしようって……」
「あるかもな」
「でしょ? ヒデくんも気性は激しいから、うちの馬鹿が怒って、てめえ、この野郎、ってなったら、黙っちゃいないよね」
「本橋が説明もなしで殴りかかったとしたら、ヒデはまちがいなく殴り返すよ。壮絶なる死闘になる。土佐の闘犬バーサス江戸の猛禽」
「そんな感じ……本橋くんは私がヒデくんのホテルに行くとは知らないだろうけど、もしかしたら実松くんが……とも考えられるもんね」
「実松……」
 あいつは本橋にも知らせたのだろうか。そこで思い当たり、ミエちゃんには知られているのだからいいだろうと、言うことにした。
「あそこにパーキングが見えるね。駐車して実松に電話するよ」
「私がしようか」
 ケータイでミエちゃんが電話をしているのを聞いていると、実松は仕事に戻ったようだった。サラリーマンは自由に仕事を抜けられないはず。ミエちゃんは留守電にメッセージを吹き込んでいた。
「本橋美江子です。ごめんね。実松くんも心配しててくれたのね。もういいのよ。帰るから」
「……本橋美江子か」
 当然の事実ばかりが胸を噛む。ミエちゃんは仕事上では旧姓を名乗っているが、本橋美江子なのだ。本橋の妻……本橋は言っていた。
「あいつ、夫婦別姓がどうたら言うんじゃないかと思ってたんだけど、本橋美江子になれって言ったら、嬉しそうにさ……うんってさ」
 愛する男の姓に変わるのが嬉しいとは、ミエちゃんにも古風な部分があるのか。本橋からそうと聞かされたときにも、俺はただ切なかった。
「乾くん、どうかした?」
「どうもしないよ。帰る?」
「ヒデくんを巻き込むのはやめておくけど、帰りたくない」
「まだ怒ってるの? 馬鹿真次郎に対してだろうけど、今日は仕事も終わってるからいいんだろうけど、そんなにひどい喧嘩をしたの?」
「どんな喧嘩だったのか、乾くんには関係ないでしょ」
「そうですね」
 関係ない、悲しいけれど事実だ。
「話をしてたのよ。龍くんや雄心くんの話もした」
「龍や雄心の話が喧嘩になったわけ?」
「そうだったのよね。なんでだろ。あいつは私があなたって呼んでても気にも留めてないし……そんなのどうでもいいんだけど、龍くんのしたことは恥ずかしいとか、雄心くんも若気の至りだとか……そうそう、男兄弟って恥ずかしいの? って私が訊いたのが発端だったかな。喧嘩になってうやむやになっちゃった」
 男兄弟が恥ずかしいものだとは、俺にはさっぱりわからない。俺にはきょうだいがいないのだから、きょうだいという存在が実感できないのだ。
 シゲにも男の兄弟はいないのだが、男友達も恥ずかしいと言っていた。男同士の友達が恥ずかしいとは、幸生が言ったような関係でないのならば、俺にはそちらもさっぱりわからない。どうして恥ずかしい?
 そのシゲの言葉が発端か。関係ないとは言ったが、ミエちゃんは話してくれた。そこからどうなって喧嘩になったのかは、妻も恋人もいない俺には、やはりわからないのだが。
 二年ばかり前に章の弟の龍が、一年ばかり前には幸生のいとこの雄心が、俺たちの前にあらわれた。龍が章のマンションに来ていたときに、俺も彼と会った。雄心については、龍の口から聞いて知った。
 干支でいえば一回り以上も年下の若者たちがしでかした恥ずかしい行為、それは俺も双方を知っている。本橋は自身のかつての行為を考え合わせて、恥ずかしいと言ったのだろうか。それならばわからなくもない。
 龍のはいわばよくない遊びだが、そうとひとことで言い捨てていいものだろうか。雄心はとんでもない大馬鹿野郎なのだが、彼の気持ちはちょっとばかり察せられて、だからこそ俺は彼を……思い出すと自己嫌悪が起きなくもない。
 なんにしたって、双方に俺は俺のできる範囲のことはしたのだから、これ以上お節介は焼くまい。龍には章が、雄心には幸生がついている。年長の血縁者にまかせておくしかない。
 遊びで女性を抱いた経験は俺には皆無だ。好きになったひとにレイプまがいの行為をしかけたことも、断じてない。だからって、俺は龍や雄心に頭ごなしに説教して、あれでよかったのか? 考えると袋小路にはまるので、やっちまったものは取り消せないし、とでも軽く考えておくしかないのだった。
「乾くんにはわからないよね」
 章の弟と幸生のいとこについて、とりとめもなく考えていると、ミエちゃんが言った。
「兄弟はいないんだものね」
「兄弟はいないけど男の友達は大勢いるよ。俺にはシゲが言ったような、男同士は恥ずかしいって感覚はないな」
「そりゃ、乾くんだから」
「どういう意味?」
「羞恥心のありようが、乾くんは一般男性とは特殊っていうか」
「そう? そうなのかな。とにもかくにも、帰りましょうか」
「いや」
 まだご機嫌は完全には直っていないのか。ミエちゃんはぷっとふくれた。
「もっと話をしようよ」
「いいけど、なんの話?」
「ヒデくんじゃなくて、んんと、真次郎を心配させてやりたくて……嫉妬させてやりたいって気分もあって……協力して、なんて言ったら……」
「ミエちゃん?」
「乾くんとだったら……乾くんがいやだよね」
「馬鹿」
「え?」
 さきほど怒鳴ったのは、ミエちゃんを驚かせて首を絞めるのをやめさせるためだった。ああされていると運転を誤る危険性もおおいにあったのだから。
 だが、今度は思わず言っていた。手がぶるぶる震えそうになるのをごまかしたいのもあったのだが、俺は怒っている。怒っている。どうしてこんなに怒りに駆られるのか、理由は知っているが、考えたくないので言った。
「きみがそんな馬鹿だとは知らなかったよ。冗談でもそんなことを言うな。次に言ったら……」
「どうするのよ」
「張り倒す」
「あ、そ。ジョークにそんなに怒るとは、乾くんも器が小さいね」
「言っていいジョークと悪いジョークがあるだろ。俺がきみをひっぱたいたらどうする? 馬鹿に告げ口するのか。馬鹿と馬鹿の夫婦だな。本橋美江子さん、ダッシュボードに煙草が入ってますので、取っていただけませんか」
「密室で煙草なんてやめて」
「ここは俺の車の中だ。あなたの指図は最小限にしていただきましょうか」
「うー……こわっ」
 ほんのちょっと怯んだのか、ミエちゃんは煙草を取って火をつけてくれた。
「ありがとうございます。いつだったか……いつだったかはいいんだけど、きみも男をあんまりなめんなよ。俺はきみより力が強いんだ」
「当たり前でしょ。いばってるんじゃないよ、馬鹿」
「馬鹿に馬鹿と言われたくねえんだよ。馬鹿女」
「ふんっだ。馬鹿男」
「うるせえんだよ。くそ」
「乾くん、乱暴運転はやめようね」
「黙れ」
「いつかってあれ?」
 俺の思い出す「いつか」はミエちゃんの記憶にはないはずだ。ミエちゃんは別の「いつか」を思い出したらしく、言った。俺は煙草を消して聞いていた。
「あのときかな。乾くんにはじめて黙れって言われたの。二度目は新鮮じゃないな」
「こんなもんが新鮮なんだったら何度でも言ってやるよ。おまえは黙れ」
「おまえ? そっちのほうが新鮮」
 駄目だ、負けた。
「俺だったらいいけどね、他の男をなめるなよ」
「乾くんだったらいいの? なめてあげようか」
「文字通りなめにきたら、車をホテルに回すぞ」
「ここでもいいよ」
「……ぎゃあっ、きみには負けるよっ!」
「うふっ、勝ったのね」
 彼女に勝てる道理がないとは、昔々から知っている。学生時代にもしなかったような幼稚な口喧嘩をして、むしろさっぱりした。俺は口でこうやっていれば、心の穢れを浄化できるのだ。
「ごめん……」
 しばしの沈黙のあとで、同時に言ってから吹き出した。数秒間ふたりして笑ってから、ミエちゃんはぬくもりのある口調で言った。
「仲直りしようね、乾くん」
「馬鹿夫とも仲直りする?」
「いやだ」
「きみも意地っ張りだね。そんなふうだと……本橋に言ってやらせようかな」
 なにを、なにを? と怖い顔をして迫るので笑ってごまかして、ミエちゃんのご機嫌はもとに戻っていく。それでよかった。
「なにをするんだか知らないけど、変なことをしたら本気で家出する」
「本気の家出とジョークの家出ってのもあるんだ。今日はどっち?」
「プチ」
「ああ、そっか」
 むろん俺には関係ないのだから、本橋夫婦の喧嘩の経緯は探らなくてもいい。ミエちゃんの気持ちから怒りが冷めつつあるのだけを感じて、俺は言った。
「歌おうか」
「うん、歌って」
 とっぷり暮れかかっている空には、半分は似合うだろう。俺は歌った。

「sun goes down sun goes down
 もう日が暮れるから
 sun goes down sun goes down
 うちへお帰りよ
 
 sun goes down sun goes down
 もう日が暮れるから
 sun goes down sun goes down
 俺の胸においで

 俺もいつかおまえのそばで永久の眠りにつくから
 つらい旅路もやがて終わる
 その日を夢見て

 ぬくもりもやれずに去っていく俺に
 残せる想い出 それは愛だけさ」

 こう? といたずら娘の顔をして、ミエちゃんが俺の胸に顔を寄せようとする。俺はもう一度怒鳴った。
「馬鹿、事故を起こすぞっ!!」
「もう全然新鮮じゃないな」
「さようですか。十年くらいたってからまた怒鳴るよ」
「うん、楽しみに待ってる」
 敏感なのはまぎれもないのに、なんだってこのひとは、俺の気持ちに……いやいや、気づかないほうがいい。そういった面はいくらか鈍感なのだったら、そのほうがいい。
 帰ろうね、きみはきみの愛するひとの待つ家に帰ろう。俺の胸においで、なんて言わないから、きみはきみの馬鹿夫の胸に行けばいい。もう日が暮れたのだから、早くおうちにお帰り。なーんて、感傷的になっていてふと思った。
 馬鹿夫の真次郎はどうしているのだろう。家から飛び出してミエちゃんを探しているのでは? ま、いっか。あいつが悪くて喧嘩したのだろうから、しばらく心配させておいてやろう。

END

 
 
 
  

 
 
 
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