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小説152(悲しくてやりきれない)

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フォレストシンガーズストーリィ152

「悲しくてやりきれない」


1・ヒデ

 別れ際、章が言った。
「ヒデさんってニヒルっぽくなった?」
 言っておいて俺の顔を見てきゃはははと笑う。まったく今夜の章は幸生みたいだ。雨に濡れて髪からも服からも水滴をしたたらせている章は、若いころには身体が弱かったと聞いているが、寒い季節でもあるまいし、これしきで風邪は引かないだろう。
「帰って寝ろ」
 風邪は引かないだろうが、俺が言うと、章はまたしてもきゃはきゃは笑う。
 大丈夫かいな、とも思ったのだが、章のマンションまでついていって世話を焼いてやるのも変に思えて、タクシーをつかまえて章を押し込み、運転手にくれぐれもよろしく頼んで車を見送った。マンションの住所は言えていたから、大丈夫だろう。
 ひとりになって伸びをして歩き出す。雨もやんでいる。俺も濡れてしまったのだから、さっさとホテルに帰って寝よう。
 前々から俺が働く神戸の電気屋では、店舗の一部改築の話が出ていた。決まったら俺も工務店の仕事を手伝うつもりだったのだが、そんなことはせんでええ、おまえは休め、と店のオヤジさんに言われたのだ。
 休めるとは思っていなかったので面食らった。たった三日間とはいえ、ぽかっと暇ができるとすることがない。金にゆとりがあろうはずもないが、東京に行こうかとふと考えたのだった。
 放浪していた時代には東京へはほとんど行かずにいた。神戸に落ち着いてからは、フォレストシンガーズのメンバーたちに会いにいったりもして、たまには来るようになっているが、近頃の東京を俺はあまりよく知らない。
 なんのために東京に? シゲに会いにか? 用もないのに行ったってしようがないやろ、とも思ったのだが、他には行くところもないのだし、行こうかな、となってやってきた。章に告げた、東京へ来た理由は嘘ではない。
 地下鉄は動いている時間帯なので、俺は電車でホテルへと帰った。フォレストシンガーズは今や地下鉄になど乗れないと言うが、俺は乗れる。当然である。ラッシュが終わっていない時刻の地下鉄の混雑に身を置き、吊革につかまって轟音を聞きながら、俺は思い出していた。
 酒巻のおかげでシゲと再会し、フォレストシンガーズのみんなとも再会した。美江子さんにも、学生時代の先輩や後輩や、合唱部時代の友達とも会った。
「アホ、アホアホ、なにしとったんじゃ、おまえは」
 そう言って俺をぶん殴ったのは実松だったか。章とは放浪していた時期にも偶然にも会っているのだが、それから続いて泉水ちゃん、酒巻、シゲ、の順に会い、シゲや泉水ちゃんとは二度、三度と会った。シゲに無理やり連れていかれた形にされて、あの夜は何人もの人に会った。
 あれから一年以上がすぎて、今ならばもう、東京へ来たならばシゲにも会いにいけるはずだ。実松にだって酒巻にだって、本橋さんにだって乾さんにだって、誰にだって会いにいってもいいはず。だが、なぜか面映い。
 誰かに会いにきたのではなく、東京を見にきただけだよ、と自分に言い訳して、誰にも積極的には会いにいかず、東京の街をぶらついていたら、自然に母校へと足が向き、章に会ってしまった。
 俺がフォレストシンガーズのメンバーだったのは、大学三年生の終わりから、大学を卒業した年の梅雨ごろまで。ほんの一年半程度だ。その時期には章が身近にいなかったのだから、フォレストシンガーズの面々の中では、俺は章ともっとも縁が薄い。
 であるのに、一度は神奈川の丘で会っている。今回もまた東京で会った。意外にも縁が薄くはないのか。いや、ただの偶然であろう。
 ホテルにチェックインして風呂に入り、冷蔵庫からウィスキーのポケット瓶を取り出して、ピーナッツなどをつまみに飲んでいると、なんとなくそわそわしてきた。ホテルの部屋の電話機に目が行く。誰かの声が聞きたい?
「……ほんま、おまえはアホじゃのう。なんやねん。少女趣味か。少女趣味とは言わんのか。章は今夜は仕事はないと言ってたな。ってことは、他のみんなも今夜はオフか。本橋さんは美江子さんと……邪魔したら悪いよな。乾さんにも彼女はおるんかな。幸生は……独身にはデートがあるやろ。シゲは……あいつの声なんかいつでも聞ける。俺はフォレストシンガーズの誰かに会いにきたのではない。実松やな」
 実松とて結婚しているのだが、あいつだと邪魔をするとは考えないのが、同い年の気安さであろう。実松はサラリーマンだから、今頃は夫婦仲良くの時間か。ええい、とばかりに受話器を取り上げ、実松の自宅にかけたら、女性が出た。
「はい、実松でございます」
「……ええと、あの……」
「どなた? いたずら電話? ちょっと、弾、替わってよ」
 気の強そうな声は、実松の妻のひとみさんだろう。ひとみさんでなかったら大変だ。いたずら電話? と実松の大阪弁アクセントも聞こえ、彼の声に替わった。
「誰か知らんけど、いたずら電話やなんてええ年した男がやってんのとちゃうで。そんな暇があったら生産的なことをやれ。どこのどいつや、おまえは」
「いたずら電話ではありません。俺や、俺」
「んん? 誰?」
「弾くん……弾ちゃん、俺やって」
「オレオレ詐欺かいな」
「ちがうて。俺」
「んんん? ヒデか」
「わかったか」
「わかるわい。なんやねんな。なんかあったんか?」
「なんにもないよ。おまえの声が聞きたくなってさ……」
「気持ちわるぅ」
 たしかに気持ちが悪いので、俺が吹き出すと、実松もがっはははと笑った。章のきゃはははは気持ち悪かったが、実松の笑い声は気持ちが悪くはなかった。
「寝酒のかわりにおまえの声を聞こうかとな。迷惑か?」
「神戸からかけてんのか? 通話料が高うつくんとちゃうか?」
「そんな心配しなくていいよ。電話料金くらいは稼いでる。さっきから飲んでるんだけど、酔わないんだよな。勝手にひとりで酔っ払って、勝手にひとりできゃははは笑ってる奴がいたから、俺は酔えなかったんだ」
「誰と飲んでた?」
「店の奴や」
 遠くから赤ん坊の泣き声が聞こえる。忘れていたのだが、実松夫婦にも女の子が誕生していたのだ。かよ乃という名の女の子にはまだ会っていない。祝いも贈っていない。遅まきながら祝いの言葉を口にすると、実松は言った。
「シゲのとこの広大はシゲにそっくりで、将来が気の毒やっちゅう話やけど、かよ乃ちゃんはあんなんとちゃう。メチャクチャ美人に育つ顔をしてるんや。暇があったらおまえも会いにこいや」
「うん、まあ、そのうちには……広大には会うたんか?」
「だいぶ前にひとみちゃんと祝いに行ってきた。可愛いというかなんというか、まあ、赤ん坊はどんなんでも可愛いわな」
「えげつない言い方やのう。可愛いやんけ、広大も」
「まあな。しかーし、うちの子はあんなんと比べものにはならんほど可愛いんや。可愛く生まれて可愛く育つ。今から娘を嫁に出すことを考えたら泣けて泣けて……」
「気の早い奴ちゃ」
 実家の長崎で出産したシゲの妻、恭子さんが長崎から東京に戻ってきてしばらくしてから、フォレストシンガーズが全員で広大の顔を見にいくことになった。幸生がわざわざ神戸まで来て俺を誘ってくれて、俺もついていった。
 あの日、俺は恭子さんにはじめて会ったのだ。ヒデさんに会えたら殴ってやりたかった、と言いながらも、目元を潤ませて俺を見ていた恭子さんは、とてもとても美しいひとだった。
 写真を見た限りでは、それほどの美人だとも思えなかったのだが、幸せに輝いていたのか。俺のかつての妻も……俺の娘も……いや、会えるわけもない、恵が会わせてくれるはずもない瑞穂のことなど考えまい。
 遠い遠い日、恵と暮らしていたマンションにも、赤ん坊の泣き声がしていた。広大を見ても、かよ乃ちゃんの泣き声を聞いても、俺は俺の娘を思い出してしまう。が、妻も娘も過去の遺物だ。そうとでも考えないと、前を向いて歩いてはいけないのだから。
「やっばり迷惑やな。一家団欒の時間やもんな。切るわ」
「ええんやけど、ヒデ、おまえ、ほんまはどこにおるんや? まさか……」
「まさかて?」
「またどっか行ってしまうつもりとちゃうやろな。あかんぞ」
「行かないよ。行くところなんかないきに」
 俺なんかはみんなに忘れ去られていると、忘れられてはいないとしたら、裏切り者の顔も見たくない奴だと、ひとりで決め込んでいたころ、本当はみんなは俺を気にかけていてくれたのだと、酒巻と再会して知った。
 たった今も実松が不安げな声を出している。俺が消えていた間、こうしてみんなは俺を案じてくれていたのだろう。そう考えると鼻の奥が熱くなってきたので、泣いたりしたら大変だと、俺は荒っぽく言った。
「金もないのにどこへも行けるかい。切るぞ」
「あーっと、ヒデ、あとでもう一回かけてくれへんか?」
「なんで?」
「かよ乃のおむつを換えるから手伝えて、ひとみちゃんが言うてる。それがすんだらおまえと話したいことがあるねん。もういっぺんかけて、十分後に」
「ええけどな」
 おむつ換えの手伝いをするのならば、仕方あるまい。約束して電話を切った。
 章はかなり酔っていたようだが、俺は今夜はほとんど酔わなかった。雨に濡れたせいで醒めたのもあるが、章が案内してくれた店の日本酒はアルコールが弱かったのではないか。ウィスキーのポケット瓶ごときではかえって目が冴えて寝られそうにもないので、実松に再び電話をかけるまでの待ち時間に、冷蔵庫からワインのハーフボトルを取り出した。
「……げ、甘い。甘い酒なんか飲めるか」
 近くにコンビニがあったはず。焼酎でも買いにいこうか。しかし、飲みすぎるとせっかく減量したのが元の木阿弥になりそうだし……飲むと食うしなぁ、などと、その昔の大学生の女子みたいなことを考えているうちに、時間がたった。
 これで我慢しておこうと、ワインをラッパ飲みしながら、実松の自宅に電話をかけると、今度は本人が出た。
「ヒデはケータイは持ってないんやったよな」
「仕事用のは持ってるけど、個人用は持ってないよ」
「おまえ、ほんまはどこにおんねん?」
「神戸の自宅、ぼろっちいアパートやけど?」
「嘘をつけ、嘘を」
 ひとみさんの耳を憚っているのか、実松の声がぐっと低まった。
「今、おまえの自宅に電話した。おまえがうちにおるんやったら、実松やな、と思い当たってすぐに出るやろ。留守電になっとったやんけ」
「あ、留守電にして忘れてたよ。ちょっとコンビニに行ってたんだ」
「そうか。ほんならもういっぺんかけるから、出えよ」
「いや、あのその……電話が故障してて、今は公衆電話からかけてるんで……こら、実松、おまえこそ、おむつ換えの手伝いて嘘か」
「それもしてからおまえの家に電話したんや」
「……俺がどこにいたっていいだろ」
「なんで嘘をつくねん。正直に言え」
 意外にも妙な策略を講じる奴だったのだ。知らなかった。俺は観念して言った。
「東京にいるんだよ」
「東京? ほんなら会えるやんけ。電話してくるんやったら、会おうや。ほんまは誰と飲んでた?」
「章」
 こうなったらすべて正直に言うしかない。考えてみれば嘘をつく必要もないのに、なんだって俺は面映かったのだろうか。
「木村章か。明日も東京におるんか」
「今日から三日間、休み」
「そんならうちに来いや」
「おまえ、明日は仕事だろ」
「ああ、そうやった。ほんなら仕事が終わってから……あ、あかん。明日は取引先と飲みにいく予定やった。明後日も残業や。なんでこんなときに東京へ来るねん、アホ」
「知るかい。アホはおまえじゃ」
 大学生どころか、小学生みたいな口争いをしてから、俺は言った。
「別に会わなくてもいいだろ。いつだってまた会えるんだから」
「うん、そうやな。俺が大阪の家に帰ったときにでも会おう。かよ乃の美少女ぶりも見てやってな」
「美少女いうほどの年になってないやろ」
「いやいや、その片鱗は窺える」
 下らない親ばか自慢をしている実松に適当につきあっていると、訊かれた。
「ホテルに泊まってるんか。どこのホテル?」
「どこでもええやろ。寝込みを襲いにくるつもりか」
「それもええかもな。教えてえや、ヒデくん。いや、真面目な話。うちの嫁の実家のお父さんは、ホテルマンやってんで。もう定年退職したけど、ええホテルで、退職者にも割引制度があるねん。お父さんが勤めてたホテルやったら、割引してもらえるんや。ええ話やろ」
「ふーん、俺が泊まってるのは……」
 ホテルの名を告げると、実松はがっかりしたように言った。
「ちゃうわ。そことちゃう。残念でした」
「ああ、残念でした」
 そこからもしばし実松の親ばか話が続き、疲れてきたころにようやく、通話を終えた。実松はあいかわらずよく喋る。かよ乃ちゃんもきっと、お喋り美少女に成長すると思える。まあ、しかし、俺も疲れたから寝られるだろう。


 一瞬、俺はどこにいるんだ? ときょろきょろしてしまったのだが、東京のホテルのシングルルームだ。どうして目が覚めた? となおもきょろきょろしていると、ノックの音でだと気づいた。
「朝か。実松のせいで思ってたよりもよく寝られた……どなたですか」
 朝っぱらから掃除係りでも来たのか。もっと寝させてくれ、と言ってやろうかと施錠をはずして薄くドアを開けると、シゲの顔があった。
「ええ? なんでおまえが? 実松か……」
「その通り。入れろ」
 昨夜、電話で俺が泊まっているホテルの名を言わせたのは、実松にはこんな魂胆があってのことか。あれからシゲに電話かメールで教え、シゲがやってきたってわけか。実松という奴は次から次へと変な策略を使う奴なのだ。知らなかった。
「まだ眠いんだよ。それにさ、俺、ノーメイクだし」
「アホか。開けろ」
「うるせえな。なんだってこんなに早くから訪ねてくるんだ」
「早くないよ。俺は午後から仕事だから、その前に来たんだ。電話なんかすると逃げるだろ」
「今さら逃げも隠れもしませんよ。はいはい、シゲさん、どうぞ」
 しようがないのでドアを開けてやると、なかなかかっこいいスーツ姿のシゲが部屋に入ってきた。
「仕事着か。さすがにスターともなると、シゲもいっぱしの……いっぱしの、なんやろ?」
「いっぱしのベースマン。うん、それだったらいいだろ」
「なにをしに来た?」
「なんでもないよ。会いにきただけだ」
「ヒデ、会いたかったわぁ、ってか。おまえは俺を愛してるとか?」
「アホ」
 アホアホアホを連発するところは、西の生まれの人間の特色なのかもしれない。実松も口癖のようにアホと言う。俺も言う。シゲも言う。シゲは突っ立ったままで言った。
「ヒデ、おまえ、昔に戻ってきたよな」
「俺の昔? 俺の昔いうたら……」
「体格も締まってきたし、明るくなってきた」
「おまえと久しぶりに会ったころは?」
 暗かったのだろう。言われなくてもわかる。今でも昔のまんまに戻ってはいないかもしれないが、実松やシゲと話していれば、すこしは戻れるのだ。
「昨夜は章と飲んでたんだって? 俺は昨日、仕事が終わって章と別れてからまだ会ってないから聞いてないけど、実松に聞いたよ」
「うん、章と偶然に会った。朝メシでも食いにいこうか」
「俺は食ってきたんだけど……」
「もっともっとなんぼでも食えるやろ」
「食えるけどな」
 普通は三十をすぎると、若いころほどには食えなくなるものだ。が、シゲの食欲はいくつになってもいっこうに衰えない。俺は太りやすくなったので野放図に食うのは控えているのだが、シゲは太らないタチなのだろうか。うらやましい気もする。
 ホテルの朝メシは高いだろうから、外に出て喫茶店でモーニングサービスを頼んだ。シゲの食欲を見ているといっそ爽やかでさえある。朝食はすませてきたと言いながら、俺以上に食うのだからたいしたものだ。
「おまえって好き嫌いはないんだよな、シゲ。なんであっても鯨飲馬食。学生のころにおまえの故郷から、ミカンを箱いっぱい送ってきただろ。あれ、一晩で全部食ったんじゃないのか」
「一晩じゃないよ。おまえも食ったじゃないか」
「二晩か」
「一週間くらいかな。ミカンは日持ちしないんだ。腐る前に早く食わなくちゃ」
 スーパーファミコンだったか。シゲの部屋にはゲーム機があった。試験勉強を口実にシゲのアパートに遊びにいき、勉強はほどほどで切り上げてバトルゲームで対戦した。俺はゲーム機を持っていなかったのだったか、こわれていたのか、大学一年生だか二年生だったかのころには、シゲの部屋でしょっちゅうゲームをやっていた。
 ミカンもあったが、シゲのお母さんがインスタントラーメンをどさっと送ってくれたこともある。段ボール箱のラーメンを見せて、シゲは言っていた。
「これからは晩メシは毎晩ラーメンにしよう。三十個はあるから、一ヶ月はラーメンで暮らせるよ」
「おまえやったらそんなもん、一週間でなくなるやろが」
「そんなに食わないって」
 ラーメンを思い出し、三十をすぎた今のシゲに尋ねた。
「ラーメン? ああ、俺がよく食うのはおふくろだって当然知ってるんだから、食いものばっか送ってきたんだよ。ラーメンもあったな」
「一ヶ月はこれで暮らせるって言ってたよな」
「そうだったかな」
「一ヶ月、もったか?」
「もたなかったはず……」
「だろうな。ラーメンは日持ちするはずだけど?」
「そうかもしれないけど……じきに食っちまったよ」
「あのころとなーんも変わらん食欲シゲ」
「あのころほど食わなくなったって」
「いやいや、ますます食欲増進してるだろ。すげえよな。その食いっぷりは。ダイエットの必要のある俺から見たら、うらやましいぜよ」
「ダイエットしてるのか? そうなのか」
 気づかないとはシゲらしい。ダイエットというよりは運動療法が近いのだが、ダイエットか、と感心しているシゲには、どっちでも同じにしか思えないだろう。
「このごろはそんなにはしてないけど、気はつけてるよ。おまえもあんまり食いすぎると腹が出てくるぞ」
「うん、それはちょっと気になるよ。恭子は料理が上手だし、恭子も相当食うし、食わないと子育てもできないし……」
「恭子さんも広大も元気か?」
 よその息子なのに、フォレストシンガーズのメンバーたちも広大は呼び捨てにしている。俺も呼び捨てにしても、シゲは当然といった顔で、ケチもつけずにうなずいた。
「うん、元気だ。実松んちのかよ乃ちゃんには会ってないんだろ。俺は会わせてもらった。女の子ってのも可愛いよな」
「うん、しかし、実松は……」
 広大を無茶苦茶に言ってたぞ、とは言わずに笑っていると、シゲは首をかしげた。
「おまえは……いや、いいよ」
「おまえらしくもなく気を遣ってんのか。忘れたんだからいいんだよ」
「そう……なのか」
 知っているくせに、俺には俺のかつての妻や娘の話を一切しない。シゲは鈍感で有名だが、人の気持ちを慮る芸当は身についている。こんなふうにシゲが俺の気持ちに斟酌するなんて、俺たちはもはや、遠慮会釈もなくつきあっていた学生ではないのだと、俺はいささか切ない心持になっていた。


2・シゲ


 話は遡るのだが、二年前の春の日だった。その日は特別に仕事はなく、歌の練習のために我々はスタジオに集合していた。忙しくなってくると練習の時間が足りなくなって、喉のためにはよくない。今日は一日練習ができる。みっちり練習ができる。
 わりあいに久しぶりの潤沢な練習時間というと、昔を思い出す。昔は暇がいっぱいあって、こうして練習ばっかりしていたな、などと考えつつも、五人で練習に励んでいた。
 午後になり、昼食のための休憩時間に外出していた章が、若い男を連れて戻ってきた。高校生か大学生か。痩せて背の高い青年だった。章はまず乾さんを呼び、乾さんも加えて三人でなにやら話していた。幸生は背伸びをしてガラスごしに隣室の三人の様子を見、俺に耳打ちした。
「似てるよね、あいつ、章に」
「あいつってあいつか。章よりだいぶ背も高いし、似てるかなぁ」
「顔は似てたよ。そうなると鈍感シゲさんにだってわかるでしょ?」
 鈍感だと言われるのには慣れっこになってしまっているので、怒る気にもなれない。章に似た若い男となると、いくら鈍感でもわかる。俺は言った。
「俺は顔はよくは見なかったんだけど、おまえが似てるって言うんだったらそうなんだろうな。つまり、章の弟か?」
「うんうん、シゲさん、案外敏感じゃん」
「敏感って言うよりも、普通というか……」
 そこに、章とは別の店に昼食に行っていたらしき、本橋さんも帰ってきた。幸生は本橋さんに言った。
「リーダー、むこうの部屋、覗いてみて。ここからだと顔も見えますよ。あいつ、誰だと思います?シゲさんは章の恋人じゃないかって言うんだけど……」
「なんで男が章の恋人なんだよ」
「いやいや、章ってあまりにも女にはふられるから、男にだったらふられないかと虚しい抵抗をしてだね、そんでもってああいう若い男とつきあってみようかなって。今度はふられずにすみますかね」
「シゲが言ったのか? あいつが章の恋人だって?」
「言ってません」
「だろうな。幸生が言ってるんだろ。うーん……よく見えない」
 本橋さんも気になるらしく、むこうを眺めていた。
 毎度の幸生の馬鹿妄想はあったのだが、そんなわけはなくて、彼は章の弟だった。乾さんは先に章の弟に会っていたのであるようで、俺たちを彼に紹介してくれた。
 よくよく顔を見ればたしかに章に似ている。彼の名は木村龍。俺たちもその名は時折聞いていた。章よりも十二歳年下で、章が大学に入学するために故郷を出て以来、ほとんど会ってもいない、どうしているのかも知らないと、章は言っていた。
 そういった弟が上京してきたとは、章は嬉しいのだろうか。俺には姉はいるけれど、姉と弟ではきょうだいの感覚というものにも差があるだろうし、章の気持ちはわかりづらくて、あとから質問してみた。
「龍くんってのは大学受験には全部落ちて、来年にそなえて受験勉強しようと、東京の予備校に入るために上京してきたんだよな。感心な弟じゃないか。力になってやるんだろ」
「いやだ」
「いや?」
「あんな奴は……あいつが予備校に入ろうって気になったのは、乾さんの説教のたまものですよ。乾さんがあいつに説教してるのを横で聞いてたら、俺も昔は乾さんにこんなふうに、って思えてきて、いやないやぁな気分になっちまった。龍って俺に似てるでしょ?」
「顔は似てるな」
「中身も似てるのかな。うわうわ、ぞっとする」
 そんなものか、とは思ったが、俺にはもうひとつわかりにくい感覚だった。
 それはともあれ、龍はそれからはたまさか俺たちのスタジオに遊びにきたり、章のマンションに遊びにきたりもしていたので、徐々に親しくはなっていった。いやだとは口ばかりで、章は龍の面倒を見てやっていたようだ。
 本橋さんは年下の男にならば誰にでも、態度は同じようなものだ。龍にも気安くげんこつを飛ばしたり、馬鹿野郎と怒鳴りつけたりもしていた。乾さんは龍のもうひとりの兄のように接していた。幸生は気さくな男なので、龍から見れば実の兄貴以上に親しめたのだろう。いつしか幸生にもっともなついていると俺には見えていた。
 一方、俺はあまり龍にはなつかれない。遠慮なんて言葉はあいつの辞書にはなーい、と章は言うのだが、俺には龍は多少は遠慮がちに対していた。
 俺は龍を見ていると、ついつい思う。広大は将来、こんなふうに成長するのかな。龍は今どきの若者で、広大は龍よりも何世代下になるのか。今どきの子供ともまだ呼べず、今どきの赤ん坊だが、広大が青年になるころには、この日本そのものが様変わりするのではあるまいか。そのころの若者……想像もできない。
 章は龍の悪口ばかり言っていたが、そんな龍は受験勉強に精を出し、一年後には大学に合格した。俺たちが卒業した大学だったのは俺も驚いたのだが、章に言わせると、医学部寄生虫学科なんて変な学部は、定員割れだからこそ龍が合格したのだ、となる。
 定員割れだかどうだかは知らないが、医学部とは優秀なのではないか。龍がお世話になっているという加藤大河先生の名前も聞き、俺はなつかしさでいっぱいになった。
 加藤大河准教授、あのタイガーさんだ。
 ヒデが行方不明のまんまで会えなくて、ヒデを思うたびに鬱々していた。俺たちもまったく売れていなかったあの冬。フォレストシンガーズがデビューした翌年の正月に、俺は母校でタイガーさんに会った。
 こまかくは覚えていないのだが、タイガーさんとはヒデの話もした。それから何年かが経って母校の学園祭に招かれた際にも、金子さんに誘われたタイガーさんが打ち上げの席に来てくれた。タイガーさんは天然ボケというのではないのだろうが、どこかすっとぼけていて面白い男だった。
 すっとぼけているのではなく、ロンドン生まれで日本語がやや不自由なせいらしいのだが、天性のおとぼけ気質もあるのではないか。そんな失敬な台詞はむろん口にはしなかったが、俺はなんとなくそう感じていた。
 そういえば、いつか本橋さんにタイガーさんの話を聞いた。そんな記憶もある。タイガーさんが俺を覚えているのかどうかは謎だが、俺にとってはなつかしい先輩だ。
 そうして龍は俺たちの母校の後輩となり、合唱部の後輩にもなった。兄貴の真似をして合唱部に入部したのだとしたら、可愛いところもある弟ではないか。そしてそして、もうひとつ驚いたことがあった。
 龍が合唱部に入部すると、そこには三沢雄心という名の同級生がいた。龍は一浪、雄心は現役合格しているので、龍のほうが一年年上ではあるのだが、学年は同じ。その雄心は、三沢幸生のいとこだったのだ。
 章は弟の話もしていたが、幸生は妹たちの話こそすれ、いとこの話なんぞはしなかった。普通はきょうだいの話はしても、親戚の話はあまりしないだろう。俺にだっていとこはいるが、誰が父方で誰が母方だか、咄嗟には思い出せないのだから。
 いとこといえば恭子のいとこのタクちゃん……ただいまもっとも親しくしているのは彼なので、うちのメンバーたちも川上卓夫を知ってはいるが、他のいとこなんか知らない。俺も仲間たちのいとこなんてひとりも知らない。
 なのであるから、仲間とはいえ親戚までは知らない。当たり前なのかもしれない。俺の結婚式にも本橋さんの結婚式にも、親族は出席していたが、全員を紹介はしなかった。
 そんなわけで、三沢雄心という名の若者がこの世に存在するとも知らなかったのだが、幸生にしてみても記憶にはほとんど残っていないと言う。ただ、こうも言っていた。
「龍と雄心が友達になったって聞いて、記憶の深いところを探ってみたんだ。そしたらころがってるんだよね。雄心との思い出が」
「たとえばどんな?」
「雄心は現在は横浜で両親と暮らしてるんだけど、ガキのころには湘南の海の近くに住んでた。俺もそのころには中学生だとか高校生だとかだから、ひとりでだったり妹を連れていったりして、おじちゃんの家に遊びにいったんだよ。ちなみに、雄心の親父は俺の親父の弟」
 中学、高校のころの幸生とは、どんな少年だったのだろうか。このまんま顔だけ若返らせたらいいのかもしれない。
「犬がいたんだよ、湘南の家には。ケンって名前のでっかい奴だった。俺が高一の夏だったかな。ミコさん、覚えてるでしょ?」
「宮村ミコちゃん? 俺の結婚式に来てくれてたじゃないか」
「そうそう、そのミコちゃんだよ。うふっ、これ以上言ってあげない」
「おまえの薄気味の悪い笑みは見たくないから、言っていらないよ」
 言っていらないと言うとむしろ言いたがるのが幸生なのだが、そのときには本当にそれ以上は言わなかった。宮村さんと雄心がどうつながるのか、したがって謎のままである。
「幼稚園児だった雄心と、高校生だった俺がケンの散歩に行った……そんな想い出もあるよ。俺は高校生だったから思い出せば思い出せるけど、雄心のほうこそ覚えてないだろうな。ちっこいガキだったもん。それがさ、あいつ、俺よりでかくなりやがって。龍は雄心よりもっとでかいから、まだよかったかもね」
 かつて幸生は、初詣で神さまに祈っていたのだそうだ。
「どうか、雅美と輝美が俺よりも背が高くなりませんように」
 その願いは聞き入れられたようで、幸生の妹の雅美ちゃんも輝美ちゃんも小さいのだが、年下の男のいとこならば、幸生よりも大きいほうが尋常なのではなかろうか。
 龍は乾さんほどの背丈、雄心は俺ほどの背丈で、背の低い章と幸生には癪の種であるらしい。広大が俺よりも大きくなったら……と俺はふっと想像する。嬉しいではないか。男は背が高いほうがかっこいい。俺の周囲にいる長身の男たちは皆かっこいいのだから、広大が長身に育ったら俺はたいそう嬉しいはずだ。
 恭子も俺も中背だから、広大もそう背が高くはならないかな。栄養価の高い食いもので育てたら、発育がよくなるだろうか。縦に伸びずに横に伸びたら恨まれるかな、などとも考えて笑っていると、幸生は言った。
「章は兄貴だから、責任も感じるんだろうな。俺にとっての雄心はいとこだから、無責任に可愛がってやればいいんだよ。いとこのほうが気楽でいいよね」
「そうだろうな」
 とまあ、そんなふうに他の三人も、多少なりとも龍や雄心と関わるようになった。中では俺が一番関わりが少ないのは、俺は子持ちだからであろうか。わが子のいるシゲさんには、厄介かけてはいけないとでも、雄心も龍も考えているのだろうか。
 今どきの若者の考えは、俺にはわかりにくい。これぞジェネレーションギャップか。そうすると、さらに世代差のある広大は……いやいや、先のことを考えるのは気が早い。今はただただ可愛い赤ん坊の広大と、父と母は蜜月状態だ。今を楽しもう。


 龍が俺たちの前にあらわれたのは二年前、雄心があらわれたのは一年前。ただいまはふたりとも大学二年生になっている。この一年間にはさまざまなことがあった。
 どうやら俺の知らない事件もあったようだが、昔から俺は知らないフォレストシンガーズのなにごとか、というものはたびたびあったので、知らなくてもかまわない。無事に龍も雄心も進級したのだから、めでたいのだ。
「なあ、乾」
 が、本日、本橋さんが乾さんにスタジオで問いかけていた。
「龍はあれだろ。あれは俺も知ってるんだけど、雄心もなにかしでかしたのか? 幸生が意味ありげなことを言ってたんだけど、はっきりとは言わねえんだよ。おまえも知ってるんだろ」
「はて。なんだろ」
「男ってのは罪深いんだから、懺悔しなくちゃ、なんてのも章に言ってたぞ」
「その通りじゃないか」
「俺は罪深くなんか……う、ま、いいや」
「シンちゃん、本橋さん、あなたはどんな罪深い行為をしたのですか。懺悔しますか」
「うるせえ」
「シゲは罪深い行為なんて、生まれてから一度もしてないよな」 
 突然乾さんに振られて、俺は考え込んだ。
 罪深い行為とはどんなものだろう? 女性に関する事柄か。俺の想像力ではたいへんに貧しいイメージしか浮かばないのだが、必死で考えてみると?
 たとえば、愛している女性がいるとする。彼女とは結婚の約束をした。だが、男には別に、こっちと結婚したほうが好都合であろうと思える女性が出現する。男がサラリーマンだとしたら、彼女の父親が職場の有力者だとか。
 男は古いほうの彼女に、別れようと告げる。彼女は怒る、あるいは泣く。そして、私を捨てるんだったら、新しい彼女に言ってやる。彼女の父親にも、あなたの会社にも告げ口してやる。怪文書をばらまいてやる、とまで言う。
 思い余って男は彼女を殺してしまい、真夜中に彼女の遺体を山中奥深く埋めるのであった。
 どこかで聞いた話だな、と思いつつも、必死で練り上げたストーリィを話すと、乾さんはぷふっと笑って言った。
「サスペンスドラマみたいだな。シゲ自身の話じゃないじゃないか」
「俺にはそんな経験はありません」
「うん、シゲは人格者だよ」
「乾さん、その台詞は実は……落ち込みますよ」
「なぜだよ。褒めてるんだぜ」
「嘘でしょ」
「嘘は言わないよ。罪深い行為をしたことのない男なんて、稀有な上にも稀有な人格者なんだよ。シゲ、おまえはいつまでもそんな男でいろよ」
「乾さんはしたことがあるんですか」
「あるさ。本橋にだってあるんだろ」
 黙って聞いていた本橋さんは、どうしたわけかぎくりとしたそぶりを見せた。
「乾さん、そんな……乾さんも本橋さんも、え? 女のひとを殺したりなんか……え? えええ? あれれ? 今のは俺の……あ、わけがわからなくなってきた。乾さんっ」
「はい」
「乾さんが俺に不得手な想像をさせるからですよ」
「そうだね、ごめんな。本橋、なにをそんなに深刻な顔をしてるんだ? 吐くと楽になるって言うよな。言う?」
「俺にもなんにもねえよ」
 怒った声で言って、本橋さんは立ち去り、乾さんは言った。
「あるんだろうな。本橋のあの表情からすると、けっこう深刻な罪を犯してるんだ」
「乾さん、脅かさないで下さい。本橋さんが人殺しなんて……」
「そこまでではないから安心しろ。本橋がもしももしも、人殺しなんかしていたら、あいつが平常心でいられると思うか。あいつは内面がおもてにあらわれる性質なんだから、俺だったらあいつが法律上の罪を犯したとしたら、気づく自信はあるよ」
「そうでしょうね」
「だからさ……おっと、シゲに乗せられちまったよ。そこまでではなくても、まあまあ深刻な罪ってわけさ。ま、これで一丁上がり」
「なにが一丁上がったんですか」
「うんうん、一丁上がりだよ。メシ食ってくる」
「乾さん……」
 なんなんだ、あれは、とスタジオから出ていく乾さんの背中を見送っていたら、本橋さんが戻ってきて言った。
「一丁上がりってのは、これで本橋もシゲもごまかせたって意味だろ。あの野郎、毎度毎度のあの作戦だ。なのに俺はいつもいつでも……シゲもだよな。雄心もなんかやったのはまちがいないと思うんだけど、知りたくないか?」
「乾さんは知ってるんですよね。でも、話したくないんでしょう。だったら無理には聞きたくありません」
「おまえもおまえだな」
「はい、俺は俺です」
 龍の「あれ」も、雄心の「なんか」とやらも、俺はまったく知らない。が、それよりも、だ。俺は俺なのだから仕方ないのだが、今しがたの顛末からすると、やはり俺は本橋さんよりも鈍感なのだ。その事実はすこし俺を落ち込ませた。


その翌朝だ。実松から電話がかかってきて、ヒデが東京に来ていると教えてくれた。
「なんでなんか知らんけど、はじめは神戸から電話してるて言うねん。なんか変やなと思たから、たしかめてみたんや。たしかめてからもういっぺんヒデと話して、問い詰めたら東京のホテルにいてるて言うやないか。なんやねん、あいつは」
「さあ? ヒデにもあれだとかなんかだとか……」
「あれ? なんか?」
「こっちの話だよ。で、ヒデはどこのホテルに泊まってるんだ? おまえは知ってるのか」
「聞き出した。俺にぬかりはない」
「いばってないで教えろ」
 実松が教えてくれたホテルに急行した。幸い今日の仕事は午後からなので、ヒデに会いにいく時間は取れた。実松に電話をかけたのはヒデのほうからだと聞いたが、なんだって神戸にいると言ったのだろう。
 最初は実松にも嘘ばっかり言っていたヒデは、昨夜は章と飲んでいたのであるらしい。そういった事柄を内緒にするとは、ヒデにもなにかしらあったのか。
 訊いてはいけないのか。ヒデにはどんな事情が? しかし、俺は本橋さん以上に鈍感なのだから、推測も想像もできない。ヒデとふたりして彼の泊まっているホテル近くの喫茶店で朝食を摂り、昔話などしていても、気になってどうしようもなかった。
「章の弟と、幸生のいとこがっつう話は、章から聞いたよ」
「ああ、そうか。そうなんだよ。龍も雄心も俺たちの大学の後輩になったんだ。合唱部の後輩にもなった」
「そうやてな」
 土佐弁に神戸弁に標準語もまざっているヒデは、コーヒーを一口飲んで言った。
「シゲの姉さんも元気か。結婚はしはったんか」
「してないんだ。独身だよ」
「キャリアウーマンなんだろ」
「そうとも言えるのかな。仕事はバリバリやってるらしい。おまえの弟や妹は?」
「うん、なんとかやっとうやろ」
「そうか、よかったな」
 ヒデの弟妹には一度だけ会ったが、俺の姉にはヒデを紹介した記憶はない。章は大学を中退して親父さんに絶縁を申し渡されたきりだと聞いているが、ヒデはどうなのだろうか。離婚が実家の家族との縁切りにはならないはずだが、親兄弟の話をしたがらないので、俺も突っ込んでは尋ねられないのだった。
 
「胸にしみる 空のかがやき
 今日も遠くながめ 涙をながす
 悲しくて 悲しくて
 とてもやりきれない
 このやるせない モヤモヤを
 だれかに 告げようか」

 喫茶店から出てヒデと歩いていると、こんな歌が出てきた。ヒデは、ん? といった顔になり、続きを口ずさんだ。

「白い雲は 流れ流れて
 今日も夢はもつれ わびしくゆれる
 悲しくて 悲しくて
 とてもやりきれない
 この限りない むなしさの
 救いは ないだろうか」

 そうだよ、と俺が呟くと、ヒデは言った。
「なんで悲しい?」
「おまえが正直に言ってくれないからだ」
「……いろいろ嘘をついたからか」
「章が弟の話をしたんだろ? そういう話って、おまえは聞いてて悲しいのか」
「……」
 一瞬黙ってから、ヒデは明るく笑った。
「考えすぎやきに。実松にほんまのことを言わんかったんはやな……」
 再び一瞬黙り、ヒデはうつむいて言った。
「恥ずかしいからじゃ」
「恥ずかしい?」
「そうだ」
 どうして恥ずかしい? 意味がわからん、ではあったのだが、ヒデが歌い出したので俺も歌った。
 
「深い森の みどりにだかれ
 今日も風の唄に しみじみ嘆く
 悲しくて 悲しくて
 とてもやりきれない
 このもえたぎる苦しさは
 明日も 続くのか」

 恥ずかしいから東京に来ていると言えなかった? つらつら考えてみれば、気持ちはわかるような気がする。ならば、俺は悲しがらなくてもいいのか。だが、ヒデには悲しいこともいくつもあったのだろう。悲しかった時期を乗り越えて、こうしてまた会えるようになったのだから、悲しまなくてもいいのに。
 「あった」なのもあり「ある」なのもあるだろう。人には誰だって悲しいことはある。
 あれ? 俺は今は他には悲しいことは特にはないかな、と思うと申し訳ない気持ちになって、ヒデとともに朝の公園に入っていった。悲しくなんかないさ、ヒデ、おまえには俺がいるだろ? 恥ずかしすぎてとてもじゃないが言えない台詞を胸のうちで呟いた。
昔はいつもこうして、ふたりで歌っていた。またこうして歌えるようになったんだから、悲しくなんかないよ。恥ずかしいといえば恥ずかしいけど。
 とにもかくにも、悲しいのではなく、俺たちはお互いに恥ずかしいのか。三十すぎた男同士ってそういうものなのかもしれない。ふたりで歌うのも恥ずかしいとは、若いころにはそうでもなかったはずだが。
 そうか、章と龍も男同士の兄弟なのだから、互いに恥ずかしいのだ。そうなのか?
 いずれにせよ、こうして学生時代には知らなかった感情を知るようになったのだから、年を食っていくのもいいものなのかもしれないな……と考えると、悲しくてやりきれない、ではなく、恥ずかしくてやりきれない、なのであった。

 END


 
 


 
  
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