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小説151(雨に泣いている)

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龍


フォレストシンガーズストーリィ151


「雨に泣いている」

1

 幸生のユキではなく、スノウの雪だらけの俺の故郷、稚内から上京してきたのは十八の春だから、あれから十四年にもなるのか。三十二歳の誕生日をともに祝ってくれる女はいないけれど、今日は休みだ。休みなのでメンバーたちも、俺の誕生日だなんて忘れているのではあるまいか。
 この秋で我らフォレストシンガーズはデビューしてから丸十年になる。プロとして十年。もっともっと長くやっているおじさんやおばさんのミュージシャンに言わせれば、まだまだひよっこだね、へっ、であろうが、この俺が十年間もひとつの道を歩いてこられたなんて、その事実を噛み締めると、感慨無量になるのだった。
 東京の春は浅いけれど、故郷と較べればぽかぽかしている。俺はマンションの自室の窓辺でギターを抱え、過ぎ去りし季節をひとつずつ思い起こしていた。
 十八の春、稚内にはまだ雪が馬鹿ほど積もっていた。見送る両親と弟の龍に手を上げて、俺は野望を抱いて東京へと旅立った。東京の大学に入学するってのは一種の口実で、俺には見果てぬ夢があった。
 ロックバンドがやりたくて、なのに最初につまづいて、合唱部に入部した。後悔したりもしたけれども、合唱部に入らなかったとしたら、俺は美江子さんにも本橋さんにも乾さんにもヒデさんにも、シゲさんにも幸生にも出会わなかっただろう。
 その第一歩からはじまって、いくつもの季節を通り過ぎてきた。
 十九歳、野望をかなえる第一歩の、ロックバンドの一員として歩き出した。大学はやめてしまい、両親を激怒させ、親父に勘当を言い渡され、仕送りすらしてもらえなくなって、生活費はバイトで稼がなくてはいけなかったけれど、熱い想いに支配されていた。
 二十歳、「ジギー」のヴォーカリスト、アキラであった俺は、挫折しかけていた。
 二十一歳、「ジギー」は解散し、かつての仲間だったスーとつきあうようになっていたものの、俺の人生は暗かった。スーにだってじきにふられた。
 二十二歳、大学時代の友達の幸生にフォレストシンガーズに引っ張り込まれて、俺はプロのシンガーとして手探りで歩いていた。
 二十三歳、あの年の夏にはさくらちゃんにふられた。シゲさんにも夏には恋があったのだと、後年になってから俺は知った。沖縄でのひと夏の恋をシゲさんは経験したのだが、俺の二十三歳は悲惨すぎて思い出したくもない。
 夏のイベントではさくらちゃんに悲惨なまでにふられ、夏の終わりの沖縄では台風の最中に、外で震えていた。こんな俺は生きていてもしようがないのだから、荒れ狂う海に身を投げようかとまで考えていた。
 自殺する勇気なんて俺にはない。なくてよかった。思い出したくもないのに思い出してしまうと、よりいっそう思う。俺は先輩たちと幸生のおかげで……そうさ、認めるしかないじゃないか。彼らと出会わなかったとしたら、俺は今頃はホームレスだったかもしれないのだから。
 冬にはファーストアルバムが発売されると決まり、レコーディングの真っ最中にみんなの気持ちに冷水をぶっかけるような発言をして、スタジオを飛び出した。
 そうして変な男に殴られて熱を出し、みんなに看病してもらった。あのころの俺は現在以上に身体が弱かった。ロックにこだわり、売れない焦りに苛立っていた俺。あのころの俺に言ってやりたい。会えるものならば会いにいきたい。
「もうちょっと我慢しろ。楽になるよ。楽しくなるよ。俺を信じろ。俺はおまえなんだから」
 二十四歳、はじめてのワンマンライヴ。それ以前にもバラエティ番組には出演していたし、その後にもバラエティならば出たのだが、テレビではじめて歌ったのはこのころだった。
 二十五歳、俺はいまだ時には、乾隆也なんて大嫌いだ、あのかっこつけ野郎、と、乾さんには言えず、他の人間に言って憂さを晴らしていた。
 二十六歳、あの年にはラジオドラマの声優などという、初体験の仕事もした。あれはあれで面白かった。俺が二十六歳といえば、シゲさんが結婚した年だ。二十七歳のシゲさんと二十四歳の恭子さんの結婚式で、シゲさん抜きで「満開の薔薇」を歌った。
 このころからフォレストシンガーズの全員に個別の仕事が来るようになり、俺もいくつかの単独仕事をやった。舞台音楽や他人への曲の提供などなど。木村章の書く曲はいいと、そんな声が他人の間から起こるようになった。売れはじめたのもあのころからだろう。
 春にも夏にも秋にも冬にも恋をしては、ふられてばっかりいた季節。いろんなひとと知り合って、いろんな女に恋をして、いろんなひとと別れた。いろんな出来事もあった。
 二十七歳、それでも俺はまだ苛立っていた。ロック、ロック、ロック。ロックに付随して思い出してしまうスーの面影に、心を縛られていた。
 二十八歳の春にはなにがあった? いちいち思い出せないよ。
 二十九歳の春には、フォレストシンガーズ初の全国ライヴツアーが決定したのだったか。あのころから俺の気持ちもすこしずつ楽になり、フォレストシンガーズもすこしずつは売れてきた。日々が楽しくなってきた。
 三十歳の春には、美江子さんと本橋さんの結婚が決まっていたっけな。俺にはもやもやしたものがあったのだが、たいしたことではなかったのだと、今になれば言える。
 三十一歳の春には、ヒデさんと再会していた。
 故意にすっ飛ばしたのだが、すっ飛ばすのも変だから言うと、三十歳の春には弟の龍とも再会していたのだ。
 あの馬鹿弟は俺のように正当に故郷を旅立ったのではなく、出奔してきたに近い。東京の大学に進学したいという気持ちは俺には痛切なまでに理解できたのだが、大学受験は全敗して、そのくせ、親父の金庫だか引き出しだかから俺のマンションのキーを盗み出し、俺の部屋で待ち伏せしていやがった。
「馬鹿な兄貴の弟なんだから、馬鹿なのはあったりめえじゃん」
 てめえに言われたくねえんだよ、であるのだが、幸生の言は当たっていなくもないのだろう。
「そんでね、雄心は俺のいとこなんだから、いい子なんだよ」
「……おまえのいとこだからじゃねえよ」
 言い返しはしたものの、龍と較べれば雄心はできた若者だと思う。
 俺が大学に入学した年に小学校に入学した、十二歳年下の龍の少年時代は、俺はろくろく知らない。父には勘当されていたが、母には縁は切られていなかったので、母は俺に食いものを送ってきたり、手紙を出してきたりもした。
 だから聞いてはいた。母は龍についての嘆きもよくやっていたから、あいつがロック好きだとか、外をほっつき歩いてばかりで家に寄りつかないとか、あの子も不良になるんじゃないのかね、との母の愚痴は目にしていたのだ。
 しかし、俺は龍のことまで考えてる暇はない、とばかりにうっちゃっていた。暇があるころには金がなく、金があるようになったら暇が減って、龍にはプレゼントひとつ贈ってやった記憶はない。
「俺はひとりっ子のようなもんだったんだよ」
 生意気にも背が伸びて、乾さんほどだから俺よりは十数センチ高くなった弟は、俺を見下ろして言うのだった。
「兄ちゃんが残していったロックは聴いたけど、俺は兄ちゃんの影響なんか受けてねえよ。なーんも頼りにならない兄貴なんだから」
「そんなら一生、俺には頼るな」
「ああ。頼らないよ」
 龍は声も低い。母が心配していたような、兄ちゃんみたいな変な声には成長しなかった。顔立ちは母似、すなわち俺にも似ているのだが、ちびの俺とちがって背は高いから、けっこうもてたはずだ。性格にはいびつなところもあるようだが、兄ちゃんには言われたくねえってよ、と幸生は言うのである。
 頼らないと口では言うが、龍が東京へと出奔してきたのは、俺を頼りにしてのことだった。そのくせ、今では兄ではなくフォレストシンガーズの他の誰かに頼っている。特に乾さんと幸生になのは、彼らの性格のなせるわざだろう。俺だってこのふたりには頼っていたのだが、こんなところまでが遺伝なのか。
 遺伝ではなく乾さんと幸生の性格だ。お節介男だからだ。龍があっちになついてくれれば、俺はあいつをほっぽらかしにしていいのだから、気楽ではある。
 そんな龍は東京にやってきて、俺が金を出してやってアパートを借り、親父をもうまく言いくるめたのか、仕送りもしてもらえるようになった。親父は頭が古いので、長男の俺には厳格だが、次男坊には甘いのだ。
 そして、一浪の末に龍は大学に合格した。いくつもの大学のいくつもの学部を受験したようで、たったひとつひっかかったのが、俺が中退した大学だった。
 なんだってそんな学部なのか、龍が言わないので知らないのだが、医学部寄生虫学科に龍は合格した。医学部? 俺に似てるのはまぎれもなくて、学力は相当に低いはずの龍が? 兄貴はかなり驚愕したのだが、おそらく、そんな変な学部は定員割れだったからなのだろう。
 医学部とはいえ、寄生虫なのだから特殊だ。龍は加藤大河先生という准教授にお世話になっているのだそうで、俺も加藤先生には会っているはずなのだが、記憶にない。
 学部はたいへんに不可解なのだが、龍は合唱部にも入部した。ロック同好会はやめろと俺が言ったせいか。素直ではない弟だが、単純ではあるので、ロック同好会は怖いところだとでも思ったのかもしれない。臆病な部分も俺に似ている。
 たった一年だけ俺もいて、うちのメンバーたちは四年間いた合唱部は、龍の話によると、俺たちのころとはまったく様変わりしているらしい。一例を挙げれば男子部と女子部が合併してひとつの部となった。
 合唱部に入部した龍は、学年は同じだが、彼は現役合格しているので、年齢はひとつ下になる三沢雄心と知り合って仲良くなった。そいつが幸生のいとこだったのだ。龍は言っていた。
「キャプテンのふぅちゃんは、木村さんと三沢さんの身内がうちに入ってきたのね、って感激してたけど、嬉しいのかな、そんなのって。変なの」
 俺が合唱部に入部した年のキャプテンは、男子部は渡辺さん。女子部はまるっきり覚えていない。幸生に聞けば知っているだろうが、女子部キャプテンなんて存在は、男子部の一年生にはなんの関わりもないひとだった。
 渡辺さんは知性派の温厚な男で、俺も目をかけてもらっていた。彼は下級生を叱ったり怒鳴ったりなんてしなかったひとだったが、その下の本橋さんは、いまだに酒巻あたりをびびらせているのだからして、怖かったのだろう。
 考えてみれば、俺は本橋さんや乾さんの学生時代はほとんど知らないに等しい。幸生が彼らに関心を持っていたのでよく聞かされたが、直接的には俺はなんにも知らなかった。
 男子部の上級生でさえそうなのだから、女子部の先輩なんて本当にまったく知らないに等しい。男子一年生が女子四年生を「ふぅちゃん」と呼び、丁寧語も使わずに話していると龍に聞くと、説教してやりたくなってくる。
「サークルの先輩ってのはだな、もちろん今も世話になってるんだろうけど、今後の人生でだって関わってくるかもしれないんだぞ。そうやって不遜な態度を取ってると後々……」
 言ってみても龍は聞いていない。横では幸生が笑っていた。
「おー、兄貴って大変だね。てめえを棚に上げて弟に説教しちゃってるよ。章、顔をよく見せて。どの顔で、どの口で言ってんの?」
「じゃかましい。幸生は黙ってろ」
「はい。拝聴致しますので、兄上さま、お続け下さい」
 そうやって幸生に茶化されるのもあるが、龍はあくびをしていて、兄貴の説教なんぞ聞こうともしないのだ。
 そしてそして、春まだ浅い今日、俺は三十二歳になった。
 稚内にいた高校生までの俺ならば、三十二? 完璧おっさんじゃん、と言うだろう。龍をはじめとする年下の奴らも、陰では「フォレストシンガーズのおじさんたち」と呼んでいる。俺がおじさんの仲間? やだよ、冗談じゃねえよ、と怒りたい。
 そおっと鏡を覗いてみた。
 けれど、世間一般的には三十代の男はおじさんの部類なのだろう。たとえ中身はガキのまんまだとしても、鏡に映った俺は老けつつある。「老けつつ」であって、おっさん顔にまではなっていないはずだが、若さに輝いていた季節は過ぎ去りつつある。
 休みの日となると追憶に浸って、ため息ばかりついているのがそのひとつの証明。若者から見れば、木村章はおじさん……ああ、やだやだ。
 せめて「ださいおっさん」とだけは呼ばれないようにしよう。おしゃれにも精を出そう。肌にも気を使わなくては。鏡に向かって自らの肌を検分していると、空耳が聞こえてきた。誰の声だろう。母だろうか。
「やつしてばかりいる暇があったら、中身を磨いたら?」
 親も弟もできる限りは忘れていたかったのに、龍があらわれて以来、母までがこうしてひょっこり俺を脅かしに出てくる。思わず鏡をぶん殴ったら、ひびでも入っていたのか、俺のこぶしの当たったところが割れて、最悪にも俺の手が傷ついた。
「いてっ!! うー、うーうーうー、血が……なんでこうなるんだよっ!!」
 右手の指の第二間接、親指以外の全部の指から血が流れていた。重傷ではないようだが、やたらに痛い。頭に来たので傷口に噛みついたら、よけいに痛くて泣きたくなってきた。
「なんでこう……なんでこう俺はついてないんだよぉ……」
 フロアに血がぽたぽたしたたる。こりゃあ医者に行くべきかな、と思うと貧血症状までが起きそうになってくる。亀裂が入って一部分、ガラスがなくなってしまった鏡の中で、木村章の顔は歪んでいた。本当に涙が出てきた。
 右手なので自分で包帯を巻くのも難儀に思えて、仕方なく医者に行った。重傷ではないと思っていたのだが、傷口を何針か縫われ、分厚く包帯を巻かれた。
 休みだってのになんだってこうついてないんだろう。昔もこんなことはあった。樹を蹴飛ばして捻挫したり、雪道を走り回って風邪を引いたりと、変わったことをすると俺は災難に遭う。誕生日だってのに、今日の休みも悲惨に終わってしまいそうだ。
 

 医者から帰ってふて寝していると、ドアチャイムが鳴った。来客ってものも時おり俺に災厄を運んでくるので、用心しいしい玄関に出て誰何すると、龍の声がした。
「兄ちゃん、開けて。いるんだろ。休みなんだろ」
「……俺は大怪我したんだよ」
 言いつつ鍵をはずすと、龍がむこうからドアを開けた。まさか俺の誕生日だからって祝いでも? そんな期待はもろくも裏切られて、龍は軽蔑のまなこで俺の手を見た。
「大怪我? それ? なんだよ、大げさに包帯巻いて」
「大げさじゃねえんだよ。縫ったんだぞ。痛いんだぞ。鎮痛剤は飲んだんだけど、まだ効いてこないんだ。ずっきんずっきんするんだ。俺は右手が不自由になってるんだから、今日はおまえが雑用しろよ。龍、おまえ、今日はなんの日か知ってるか?」
「さあ?」
 薄情な弟は本当に、今日がなんの日だか知らないらしい。無遠慮に俺の部屋に上がりこんできて、それでも一応は尋ねた。
「なんでそんな大怪我したの?」
「……う?」
 言えない。真相を打ち明けると、弟に馬鹿にされるのは必至だ。
「なんでというか……なんでだかはいいだろ。こうなってるのは事実なんだ。龍、コーヒー淹れろ。俺は右手が不自由なんだから」
「来るんじゃなかった……」
 ぼやきつつも俺の命令に従ったのは、俺が怪我人であるからだろう。俺としても龍ならばひとかけらの遠慮もなくこき使えるので、持つべきものは弟かもな、と見直した気分になっていると、コーヒーを運んできた龍が、改まってすわった。
「兄ちゃんには言ってなかったんだけど、こうなっちまったら言わなくちゃしようがねえんだよな」
「な、な、なんなんだ。厄介ごとを持ち込んできたんだったら帰れ」
「この薄情兄貴」
「てめえだろうが、薄情弟は。今日は兄貴のバースディだぞ。忘れちまいやがってよ」
「兄ちゃん、俺に誕生日のプレゼントなんて、一回もくれなかったよな。プレゼントをくれない兄貴に、弟がプレゼントする義理はねえんだよ」
「う、うう」
「俺の誕生日はいつだったか覚えてるか?」
「さて?」
 どっちもどっちってやつだろう。遠い昔の不遇な時代に、ふと弟を思い出し、金があったら龍に誕生日の贈り物をしてやりたい、だとか、新学期に学用品でも送ってやりたい、だとかと考えた記憶はある。が、しなかったのだから同じだ。
「俺の誕生日も兄ちゃんの誕生日もどうでもいいんだ。聞けよ」
「聞いて下さいと言え」
「け、誰が」
 小憎たらしい顔でうそぶいてから、龍は言った。
「去年……三沢さんに金を借りにいったんだ。聞いてないだろ」
「幸生に金を借りた? 聞いてない」
「だろ。兄ちゃんがいない日を見計らって、フォレストシンガーズのスタジオに行ったんだよ。兄ちゃんには知られたくなかったから、頼れるのって兄ちゃんの先輩たちしかいないからさ」
「幸生は先輩じゃないけど……」
「どっちだっていいんだけど、乾さんと本橋さんが金をくれたよ。その前に乾さんに殴られたんだけど、金がいるんだったらスタジオでバイトしろって言われて、バイトしたらギャラをくれたんだ」
「殴られた? なにをしたんだ?」
「言いたくねえんだよ」
 言いたくないと言ったものの、言わないと話が続かないとでも思ったか、龍は言い直した。
「兄ちゃんに言いにきたんだった。くそくそ。あのさ、そんときは俺……」
 観念したように話しはじめた。
 去年のある日、龍はひとりで街をぶらついていた。故郷からの仕送りが届いたばかりで金に余裕があり、気が大きくなっていたのだろう。カモを探していたポン引きの兄ちゃんに誘われて、ふらふらととある店に足を踏み入れたのが運の尽きだったのだ。
 テーブルで女に取り囲まれ、女たちが勝手に酒だつまみだと注文するのを、龍は自分が払わないといけないとは夢にも思っていなかった。店の女なのだから、店が払うのだろうと思った。まったくもう、世間知らずにもほどがある。俺はまたまた泣きたくなってきた。
「このあと、どこかに行く? 誰と行きたい?」
 酒を飲んで女たちと盛り上がり、それでも龍としてはほどほどで切り上げたつもりだった。が、女のひとりに訊かれて、馬鹿弟もそうと察した。
「いや、俺、学生だしさ、そんなには金も持ってないよ。そういうのはやめとく。勘定して下さい」
 勘定書きを見た龍は気が遠くなりそうになり、からくもこらえて言った。
「……こ、こんな……こんな……俺、こんなに飲んでねえよっ」
「飲んだじゃないの。学生さんも飲んだけど、女の子たちもごちそうになったのよ」
「……げ、あれも?」
 ことここに至り、店の支払いのシステムを理解した龍だったのだが、金はない。仕送りの分ではとうてい足りない。学生証を人質にされ、請求書を送るから払いにくれば返してやると言われて、とぼとぼ店を出た。店を出た龍に女の子がついてきた。
「かわいそうにね。純情な学生さんをひっかけるなんて、うちの店ってあくどいわ。お姉さんがなぐさめてあげようか」
「いらねえよ」
「……あたし、あなたが気に入ったのよ。綺麗な顔をしてるし、純情そうな男の子ってタイプなの。可愛がってあげるから。商売っけはないのよ」
 世間知らずの上にも世間知らずな馬鹿弟は、海千山千の女の甘言に乗せられ、彼女とホテルに行った。間もなく龍のアパートに届いた請求書には、その分も上乗せされていたのは言うまでもない。
「ってわけでね……乾さんに……殴られたんだよ。酒はまだいいけど、その先が悪い、女性とベッドに入るってのはそんなもんじゃないだろ、ってさ、俺にじゃなくて三沢さんに言ってた」
「ふーむ。らしすぎて涙が出るよ」
「俺が?」
「乾さんがだよっ。去年ったら、おまえはまだ未成年だろ。ああっ、もうっ、未成年とかなんとかって問題じゃねえよな。で?」
 べそをかきそうな顔をしていた龍は、俺をまっすぐ見ようとはせずに言った。
「だけど、バイトのギャラだって言ってくれた金は、請求書の額にぴったりだったよ。そいつで綺麗に清算はできたんだ。殴られたってそれは解決したんだから、ま、よかったかな、って感じ」
「うん。それはまあすんだことだからいいとして、今日はなんなんだよ」
「その女が……」
 先日、龍はその女、リラと名乗った女と再会したのだと言う。リラは龍がひっかかった店のアルバイトだそうで、本職はOLなのだそうだ。OLであるというのが嘘かまことかは不明だが、リラと街でばったり会い、逃げようとした龍に彼女はつきまとってきた。
「甘ったるい声でなんだかんだと言ってたよ。毒食らわば皿までって言うじゃない、一度やったんだから二度でも三度でも同じじゃない。あたし、よかったでしょ? あんたもよかったよ。もういっぺん寝ようよ……」
「おまえさ、リラってはじめての女?」
 こっくりする龍を見て、俺は天井を仰いだ。
 こんなところにも遺伝はあるのか。はじめての女ってのは、幸生にとっては素敵な想い出だと言っていた。あとの三人は言ってくれないが、遠い遠い過去の淡く切ない恋の追憶の中に「はじめての女」がいるはずだ。
 なのに俺ときたら、はじめての女は思い出したくもない。思い出すと叫びたくなる。あのアマ、死ねーっ!! と絶叫したくなる。
 兄がこれで、弟もこれか。何年も何年もたって振り向いて、「はじめての女」を思い出すたびに、龍も絶叫したくなるのではなかろうか。なんだってそんなところが似るんだ。この馬鹿弟は、根本的に馬鹿だからなのか。俺の弟だからなのか。
「そんで、寝たのか?」
「しつこいんだもん」
「で?」
「また請求書が来た」
「はぁ……死ね」
 死ねとしか言いようがない。龍は俺の弟なのだから、自殺する勇気の持ち合わせなどあろうはずがないと知っていて言ったのだが、本当に絞め殺してやりたくなってきた。
 いや、俺だって近い経験は幾度かしている。はじめてのときからしてああだったのだし、ゆきずりの女と寝て英語教材を買わされたりもした。ひとつひとつ思い出すと俺のほうが死にたくなる恐れがあるので、悪しき記憶は追い払って言った。
「その分の金かよ」
「この間よりは安かったけど、またまた幸生さんや乾さんに頼るってのもさ……兄ちゃん、金貸してくれる?」
「誓うんだったらな」
「二度としないって? 誓うよ。だからお願いっ!!」
 この馬鹿は俺の弟なのだから、ほっぽり出すわけにもいかないのだ。
 龍に金を貸してやり、乾さんには言わないで、と懇願するのにうなずいてやり、宅配寿司を届けてもらって食わせてやり、別に小遣いもやって帰らせた。龍が帰ると、手の痛みがぶり返してきて、俺はベッドにころがって呻いていた。
 最悪の誕生日はそうして終わった。


「章ちゃん、どうしたのぉ?」
 最悪の日の翌日は、最悪の声に迎えられた。スタジオに出勤した俺に、俺の大嫌いな呼びかけをしたのは幸生だった。
「手、怪我? 誰かに噛まれた?」
「俺が自分で噛んだってーか、飼い犬に噛まれたってーか」
「飼い犬? いつから犬と同居してるんだ?」
「飼い弟かもな」
 まずい台詞だっただろうか。幸生は「弟」に反応した。
「その腐り切ったみたいな面は、龍がなんかやったんだな。そんでおまえは手に怪我をしたのか」
「龍と怪我は無関係だよ。けどさ、あいつのせいで手の傷がなおさら痛んだんだ。おまえは知ってるんだろうが。兄貴の俺に内緒にしやがってよ。おまえに頼りにいきやがってよ。そのくせ、結局は俺に頼りにきやがってよ。幸生、龍と雄心を交換してくれ」
「ああ、あの続き?」
 弟の恥ではあるのだが、幸生は以前のほうを知っているのだから、話してもかまわないのかもしれない。かまわないのであるが、やはり詳しく話す気にはなれなくて、俺は言った。
「うん、まあ、そんなとこ」
「兄ちゃんも知ってしまったか。ま、男にはありがちだよな」
「おまえにもあるのか」
「なくもないけどさ。今度はなんだよ?」
「いいんだよ。俺が犠牲になればいいんだから」
「兄ちゃんはつらいね」
 その日はそれだけしか話さなかったのだが、世間に本物の春が来て、龍と雄心も大学二年になったころに、幸生が言った。
「前におまえ、言ったろ? 龍と雄心を交換してほしいって? 雄心もあれでさ……おっとっとぉ、言ったら駄目よ、ユキちゃんってば」
「雄心もなにかしでかしたのか?」
「男って罪深いんだよね。乾さんの論は当たってるんだよ。嗚呼、嗚呼、俺も懺悔しなくちゃ。章、仕事がすんだらふたりで教会にでも行こうか」
「俺はキリスト教徒じゃねえんだよ」
「そしたらお寺?」
「寺にも教会にも、懺悔しにいかなくちゃならないようなことは、俺はやってないんだよ」
「過去は? あるでしょ? ユキちゃんが神父さんになってあげるから、懺悔しなさい、章ちゃん」
「シンプったって花嫁ではない、とな」
「先に言うな」
 どさくさまぎれに俺の過去の悪行を掘り出すつもりか。誰が話してやるもんか。
 女だって若くて愚かだったころには、悪行ってやつもやっているはず。美江子さんにだってあったのかもしれない。男も女もないはずだ。乾さんはじきに「男は罪深い」と言うけれども、あれは乾さん一流のかっこつけだ。
「雄心はなにをしたんだ? 俺が話したら話すか?」
「交換条件はなし。章は話したいんだろ? 話すと気が楽になるんだよ。懺悔ごっこする?」
「おまえだけ話せ。話したいのか」
「俺にはなんにもないもん」
 嘘に決まっているが、嘘をつけ、と言うのも虚しいのでやめた。
「龍の馬鹿は、乾さんに殴られたんだって?」
「そうなんだよ。めでたいよな」
「めでたい?」
 うんうんとうなずいて、なにがどうめでたいのかは言わない。意味不明であったのだが、雄心についても幸生は話す気はなさそうだし、俺も龍についての詳しい話しをする気にもならないので、釘をさしておいた。
「龍がまたぞろ馬鹿をやったのはたしかだけど、他言するなよ」
「了解」
 口も軽ければ身も軽い、全身が「軽い」でできている男だが、意外に幸生は他言無用は守る。シゲさんほど口は堅くないが、言ってはならないことはわきまえているようなのだ。俺よりは性格に重みがあるのか……ない、重みなんかない。幸生に重みがあるのだとしたら、俺にもあるはずだ。だが、ふたりともに重みはないのである。


2

 母によると、父の俺への頑固な怒りは薄れつつあるのだと言う。章も成功しているようで、ま、よかったじゃないか、とは言っているらしい。しかし、ひとたび勘当したものを許す気はない、なのでもあるらしい。
「章、龍は元気?」
 であるから、電話で大学を中退したと事後報告し、勘当を申し渡されて以来、父とは口もきいていない。母を通じて噂を聞くのみだ。今日も電話してきたのは母だった。
 夕刻が近い昼下がりだ。本日の仕事は午前中で終了した。その分、朝が早かったので帰って寝るつもりで帰ってきたのが悪かった。母の声で眠気が吹っ飛んでしまった。
「自宅に電話したって俺は留守が多いんだから、ケータイにかけろって言っただろ」
「ケータイなんて慣れないんだもの」
「かけるのは同じだろうが」
「そうなんだけどね……それより、龍はどうしてるの? 龍にもアパートに電話をつけろって言ってるのに、ケータイがあるからいいって言うんだよ」
 今どきの若者はそんなものだろう。とにもかくにも長男は一人前になったからなのか、ただいまの母の心配は主に次男に向けられている。俺は龍がどうしているのかを知っているのだが、龍の話をすると口がすべりそうで、例の話をしてしまうと母の嘆きがとめどもなくなりそうなので、言った。
「龍は元気にやってんじゃねえのかな。あいつももうガキでもないんだから、そんなに心配しなくていいよ。元気に楽しく学校に通って、勉強もしてるよ」
「章からも家に電話しろって言っておいて。夏休みには帰っておいでって」
「うん、言うには言うけど、聞かなかったって知らねえよ」
「あんたも帰ってきたら?」
「俺は学生じゃないから、自由に休みなんか取れないんだよ」
 夏には休暇が取れるとの話も出ているのだが、稚内には帰りたくない。短い夏の故郷の景色はなつかしいのだが、母の愚痴も父の仏頂面もまっぴらだ。その上、俺が帰ると、龍は龍は、の質問攻めに遭う。そうすると俺は、あの馬鹿が……と口をすべらせる恐れもおおいにある。
 だから、俺は休めない、と言い張り、そうすると母は、忙しいってのはあんたみたいな仕事にはありがたいんだね、と納得して、小さく息を吐いた。
「龍には帰ってくるように言っておいて。去年は休みにも帰ってこなかったんだよ」
「いないほうがいいだろ。あんな場所ふさぎのでかい奴」
「……そうかもしれないけどね」
 そんなことはないのだろうとは知っている。場所ふさぎのでかい弟と、弟よりは小さいけれど、無愛想で可愛げのない兄。兄弟のために、母はいそいそと料理をするのか。息子ふたりに囲まれて、ビールでも飲む父を見て、母は相好を崩すのだろうか。
 そういったシーンが頭に浮かびはしたものの、やっぱり薄気味が悪い。俺が龍を連れて帰省したとしても、父は怒るだけだと強いて考えて、想像を追い払った。
 と、一度は切れた電話がまたもや鳴った。留守電に切り替わるまで待っていると、メッセージを残して下さい、との機械的な女の声に続いて、母の声がした。
「……章、仕事? 出かけたの? あんまり忙しいのも……うん、でもね……」
 そこで言葉が途切れ、母の吐息が聞こえた。
「用もないんだったら何度もかけてくんなよ」
 毒づいておいて、俺は部屋から出ていった。俺自身には話すべきこともなく、龍の話はしたくもないのだから、母とは喋りたくない。
 わけもなくくさくさする。龍のせいか。おまえが東京に出てきてからというものの、俺には厄介ごとのタネが増えて、頭が痛いんだよ。いつか母ちゃんも言っていた通りに、札幌の大学あたりに行けばよかったのに。東京になんか出てくるな、馬鹿弟。
 言っても意味もない恨みごとを呟いて、俺はざっと身支度をしてマンションを出た。またまた母が電話をしてきて、またまた居留守を決め込むと胸が痛むので、外出するに限る。母がケータイをいやがるのは、俺にとっては好都合だ。
「ばあさんってほどの年でもあるまいに、あんたにだって友達はいるんだろ。あんたの年だったら、友達はケータイを持ってるんじゃないのか? メールとかもしないのか。パソコン、買ってやろうか、母ちゃん」
 車で行くと飲めないのでタクシーを捜して歩きつつ、俺はひとりごちた。
「やめたほうがいいかな。パソコン操作がわかんないよってのを口実に、ますます母ちゃんの電話が増えたりして。さてと、どこに行こうかな。あ、そうだ」
 ふたりで昼メシを食っていたときに、幸生が言っていた。俺たちの大学の合唱部が変化したので、見に行きたいと。俺には見たい場所でもないし、幸生が行ったのかどうかは知らないのだが、今夜は仕事はない。飲むにはまだ早い時刻でもあるので、俺もちょこっと見たくなってきた。
 タクシーを止め、場所を告げて目を閉じる。タクシーの運転手は俺を知っているのかいないのか、どこかで見た奴だな、と思っているようにも感じられた。面倒なので目を閉じて黙っているうちに、タクシーが大学の門の前に到着した。
 中に入っていく必要はないので、大学のキャンパスが見える喫茶店に入ってコーヒーを注文した。周囲にも学生らしき客たちがいる。彼ら、彼女らは俺の後輩か。十年以上前の俺も一年間だけは、こんな学生だった。
 初夏の緑に包まれたキャンパスにも、学生たちがそぞろ歩いているのだろう。龍も雄心もいるかもしれないが、まさかここへは入ってこないだろう。入ってきたら逃げようと決めて用心しつつ、コーヒーを飲んでいると、思いがけない声が聞こえた。
「章?」
「あれぇ、ヒデさん。東京に来てたんですか」
「うん。珍しく連休でさ。店をちょっと改装するってんで、三日ばかり休みなんだよ。行くところもないし、東京にしようかなって」
「そんならスタジオに訪ねてくればいいのに。場所は知ってるくせに」
「うん。いや……」
 もごもご言っているヒデさんに、すわってよ、と言うと、彼は俺の前に腰を下ろした。
「店、儲かってるんですね」
「儲かってないがかや。古くなってぶっ倒れそうだからさ」
 神戸にある、ヒデさんが勤めるヒノデ電気店を、俺は見たことはない。いつからヒデさんが神戸で暮らしていて、いつからその店で働いてるのかも知らない。
 あれは何年前だったか。シゲさんもまだ結婚していなかったころで、フォレストシンガーズもまるっきり売れていなかったころだ。幸生が俺のいなかった時代のフォレストシンガーズの仕事の話をして、俺はそこへと行きたくなった。
 神奈川の辺鄙な町にある丘の上に、幸生が言っていた落書きがあった。「てるてる坊主さんにお願い、明日天気になあれ」だったか。太い樹の幹にしたためられた、幸生の文字があった。
 アマチュアだったフォレストシンガーズが、俺がみんなに忘れられていた時期に、この土地で仕事をしたと幸生は言っていた。そのころはヒデさんがいたと、ヒデさんの名を口に上せるたびに漂わせる、独特の雰囲気で言っていた。
 あのころの俺には、ヒデさんに対するわだかまりがあった。みんなは実は俺みたいな手のかかる奴はいらなくて、ヒデさんに戻ってきてほしいのではないかと。
 そんなヒデさんにあの場所で会ったのだ。ヒデさんが「ルシアンヒル」と名づけたあの丘で、短時間ではあったが、ヒデさんと話した。本橋さんが、乾さんが、シゲさんが、幸生が、と俺の言う仲間たちの名前、仲間たちの性格を、ヒデさんほどによく知っているひとは、当時は他には美江子さんくらいしかいなかったのではあるまいか。
 事務所の社長だって、そこまでは俺たちを知らなかっただろう。ヒデさんにしたところで、何年か前の本橋さんたちを知っているにすぎなかったのだろうけれど、俺の話しにひとつずつうなずいてくれた。ヒデさんの思い出話もしてくれた。
 どんな話をしたのかは詳しく覚えてはいないが、ヒデさんはおのれを、裏切り者だと、どの面さげてみんなに会いにいけるんだ、と、たしかそう言っていた。
「……ヒデさん」
「んん? なんだ?」
「大学を見にきたんでしょ。俺にはあんまり思い出したくない学校だけど、ヒデさんはなつかしいんだもんね」
「たまたま通りかかっただけだよ。喉が渇いたしさ」
「アイスコーヒーもいいけど、酒にしましょうか。俺もこのあとはオフなんですよ。どこかに行く? それとも、ここがいい?」
「どっちでもいいよ」
 酒はヒデさんがアイスコーヒーを飲み干してからだろう。龍と再会したのと近い時期にヒデさんと再会した際には、ヒデさんは太っていたが、近頃引き締まってきたようだ。こうして改めて見ると、体格も顔立ちも悪くはない。
 背もけっこう高いし、陰影のある目鼻立ちをしている。テーブルの下を覗いてみると脚も長い。背丈は乾さんよりやや低いのだが、脚は乾さんよりも長いのではなかろうか。
「幸生に聞きました?」
「なにを?」
「あの大学にとんでもない奴らが入学したんです」
「とんでもない奴って?」
「聞いてないのか。幸生のいとこと俺の弟。幸生のいとこは若いわりにはまあまあの奴なんですけど、俺の弟ってのがね……馬鹿でね」
「ふーん。おまえ、弟がいるんやな。俺にもいるよ」
「そうなんですか」
 しかし、ここで龍や雄心の話をすると、周囲の学生たちに彼らの知人がいてはまずいかもしれない。そこに思い当たったので、ヒデさんがアイスコーヒーを空にするのを待って誘った。
「おごりますから、飲みにいきましょうよ」
「おまえも俺の後輩やろが。おごってもらうんやったら行かん」
「土佐の頑固者。土佐の酒豪。じゃ、おごってくれます? 俺はヒデさんほど酒は強くないけど、そのかわり、飲んで酔って寝たら起きませんよ」
「たいして飲まんのやったらおごったる」
 先輩ってのはどうしてこう、妙なプライドを振りかざすのだろうか。うちの先輩たちだって、後輩と食ったり飲んだりしたら断じて金を払わせない。ぴいぴいからっけつのときにだって、意地のように払ってくれた。
 俺には後輩ってやつがほとんどいないのだが、酒巻とだったらたまぁに食事はした。あいつは俺以上に小食だが、龍や幸生とちがって遠慮深い性格をしていて、木村さん、割り勘でいいですか、などと言うのである。
「馬鹿野郎、こんなのは先輩が払うに決まってるだろ」
「……すみません、ごちそうさまです」
 そんなときを思い出してみれば、俺にも先輩のプライドってのがあるのだ。仕事で知り合った若い奴らと飲んだときにも、俺が出している。学生時代の後輩はいなくても、同業者の後輩は続々と出現しているのだった。
「おまえが酔って寝たらシゲがかついで帰るとかって、聞いた覚えはあるんだよ。おまえくらいだったら俺にもかつげるだろうけど、俺はおまえのマンションを知らないぞ」
「ホテルでもいいよん、ヒデさん」
「それは幸生に……やめろ」
「幸生には似てませんからご心配なく。俺は女が大好きだもんね。男なんか嫌いだよーだ」
「幸生だってそうだろ」
「あいつはどうだか……いやいや、嘘。あそこまでの女好きには俺も負けますよ」
 学生街の喫茶店を出て、タクシーに乗って俺の行きつけの店に行った。ここにいると今度はうちのメンバーたちが入ってくる可能性もあるのだが、そうなったとしてもちっともまずくはない。
「瀬戸内海の海の幸フェアってやってますよ。カツオの叩きもあるよ。ヒデさん、食う?」
 メニューを見て言うと、ヒデさんは応じた。
「土佐は太平洋やきに」
「そうだっけ?」
「知らんのか。けど、瀬戸内海も近いわな。神戸は瀬戸内海や。たこにタイに……うん、カツオの叩きか。東京のカツオなんて久しぶりだな」
「東京のカツオじゃないでしょうに」
「東京で食うのは久しぶりのカツオじゃ」
 ルシアンヒルではなんの話をしたのだったか。ヒデさんも忘れてはいないようだが、あのころは思い出したくもないのだろうか。さぞかしつらい日々だったのだろうと、あの日のヒデさんを思い出せば実感できる。
 俺だって一時期は暗くてつらかったんだよ。そんな時期が長く続いたんだ。それでも、ヒデさんよりはよかったのかな。
 最近はだいぶつらくなくなってきたけど、そうなってくるとあの馬鹿弟だ。ヒデさんと飲んで、他愛もない話をしていて、ころあいを見計らって俺は言った。
「ヒデさんの弟ってなにしてるの? いくつ?」
「俺より六つ年下で、二十七かな。大阪の大学を卒業して、故郷に帰ってサラリーマンやっとう」
「やっとう?」
「神戸弁だよ。俺の言葉、まぜこぜになってるだろ」
 弟の話はしたくないのか、シゲにもそう言われるんだ、と笑ってから、ヒデさんは方言の話をはじめた。
「やっとうって、剣道みたいだな。神戸ではそう言うんだ。しとう、やっとう。俺は人の言葉の影響を受けやすいんだな。土佐弁も長く抜けなくて、シゲにはよく怒られた。標準語で話して都会の男になろうって、シゲと誓い合ったんだから、注意してくれたのはありがたいんだけど、それでも口からこぼれるんだ。合唱部の大阪弁男の言葉がうつったりもしてた」
「実松さんですね。俺には大阪弁は異次元言葉だったな」
「そうなんかもしれんな。今は回りが神戸弁ばっかりやから、うつってしもて……むしろ対抗して土佐弁を遣ったりもして、変な方言になっちまったよ」
「インターナショナル、ってのとはちがうか」
「ちがうちがう」
 そんで、弟は? ともう一度言うと、シゲさんは苦笑した。
「電話でくらいやったら話すけど、弟から見たら俺が馬鹿兄貴なんだよ」
「ふーん。会わないの?」
「会わんよ。兄弟は他人のはじまり」
「そうなのかな。俺もあいつと他人になりたい」
「そういうもんか」
 二十六にもなった弟ならば、放置してもかまわないだろう。やっと二十歳の俺の弟は、今後何年、面倒を見てやらなくてはいけないのか。
 さっさと大学を卒業してどこかに行っちまえ、と俺は龍に言いたい。浪人なんぞしやがったものだから、俺はあいつに一年多く関わらざるを得なくなったのだ。この上留年なんぞしようものなら、俺はあいつを見捨てる。留年するくらいだったら退学しろ。
「龍の話なんかしてると暗くなってくるよ。雄心のほうがましかも」
「龍がおまえの弟で、雄心が幸生のいとこ?」
「そうそう。ルックスは龍のほうがいいんですよ。背も高いし顔も悪くない。龍は乾さんくらいの身長で痩せてて、顔は俺に似てるんだけど、感じは乾さんのタイプかな」
「すると、ええ男やな」
「どこがっ」
 まともに敬語も使えない馬鹿の、どこがいい男だ。
「雄心はシゲさんのタイプかな。幸生とは顔も似てませんね。シゲさんほどがっちりしてないけど、中肉中背の平凡なルックスですよ。そんでね、ふたりとも合唱部」
「ふーん。そしたら、そいつらもフォレストシンガーズみたいのを?」
「無理です。歌は下手だもん」
「そうなんか」
「ヒデさんは歌もうまいよね。歌って」
「いやじゃ」
「歌ってよ」
「いやじゃいやじゃ。おまえ、酔ったのか」
「酔ってないよーだ」
 とは言ったものの、俺は酒には強くない。ヒデさんはまるで素面だが、俺の世界はちょこっと揺れていた。
「これ以上飲むと寝るかも……」
「寝るな。そんなら帰ろう」
「そのほうがいいかな」
「送っていってやろうか」
「……俺んちに泊まります?」
「いらんよ。ホテルは取ってあるんだ」
 ヒデさんが支払いをしてくれ、安い店なので俺も安心しておまかせして、ふたりして外に出た。
「あーあ、つまんねえの。男と酒を飲んで、俺んちに泊まる? だってよ。虚しくて脱力しそうだ。ヒデさんが女だったらさ、ヒデコ、おまえのホテルに俺も連れてってって……どこに泊まってるの?ひとりで帰ると東京は危険だよ、送ってってやるよ」
「章、おまえな、やっぱり幸生に似てきとうぞ」
「似てないよーだ。あいつに似るくらいだったら首をくくるよ」
「根本的にちがってるけどな」
「当然でしょうが」
 足取りもしっかりしているヒデさんも、けっこう呑んでいたはずだ。酒の強さも根本的にちがう。ヒデさんは多少よろめいている俺を支えて、タクシーを止めようとしていた。
「……う。龍のせいだ。おふくろのせいでもある。気持ちが悪くなってきた。車に乗ると吐く」
「おい、こら、そんなら……先にあそこに……」
 どこへ連れてくのぉ、ホテル? と幸生の真似で言ってみたら、ヒデさんにごちっとやられた。俺はどうもかなり酔っている。そいつも龍とおふくろのせいだと思うのだが、幸生の真似が楽しくなってきたとは重症であろうか。
 へらへらと自然に笑いが出て、閉口している様子のヒデさんに連れていかれたのは、公園だった。ベンチにすわらされて、ヒデさんは立ったまま俺を見下ろした。
「章、いやなことでもあったのか。いっつもおまえは飲むとそうなのか」
「いっつもこうだよ。いやなことばっか。女はいないし、恋をしてもふられるし、弟は馬鹿だし、おふくろは愚痴っぽいし」
「どうってこともない、いやなことだな」
「ヒデさんにはさらにいやなことがある?」
「ないよ」
 さらりと言ったヒデさんが、おい、電話、と言った。俺のポケットでケータイが音を立てている。着メロからするとメールだ。ケータイを開いたのだが、酔眼で読めない。ヒデさんにお願いした。
「読んで」
「字も読めないほど酔ったのか。俺が読んでいいのか。恋の告白メールだったらどうする?」
「誰から? 幸生から? きゃーはは」
「……おまえ、ほんとに今夜は幸生みたいだな」
「まあね、つきあいが長いから似てくるんだよ」
「シゲは幸生には似とらんぞ。根本的にちがうからか」
「そうなんでしょうね。幸生と乾さんは似てきてますよ、性格っつうか、お節介ぶりが」
「そうかもな」
 いいんだな、と念を押してから、ヒデさんがメールを読んだ。
「このメールは友達に打ってもらってるんだけど……友達はケータイ電話を持ってるんだよ。息子さんにメールしてびっくりさせてやれば、って言われてね」
 母か。そうとしか考えられない。ヒデさんは無感情な声で続きを読み上げた。
「あんたのメールアドレスってのも聞いたからね。びっくりした? はいはい、息子はびっくりっていうか……」
「ヒデさん、あんたの感想は抜きにして下さい」
「びっくりっていうか、しかめっ面で聞いてますよ、お母さん。で、続きな」
「もういいんだけど」
「読めと言ったのはおまえだろ。聞け」
 なんでヒデさんにまでおふくろだとわかるのかは知らないが、いや、息子と書いているのだからわかるのか。耳をふさぎたいのを我慢して、俺は聞いていた。
「あんたのおかげで龍が東京にいるのを、私もちょっとは安心していられるの。あんたがいなかったら、私は夜も寝られやしないの。章、龍をお願いね。兄のあんただけが頼りなんだよ。お願いだから、章、お願いだから……はい、了解」
 そこからはヒデさんの独言であるのだろう。口調を変えて言った。
「人が人に厄介かけるってのは、回りものとも言いますよ、章のお母さん。章はなんでも、若いころにはフォレストシンガーズの先輩たちやら幸生やらに、散々迷惑をかけたんだそうでね」
「その通りですけど、幸生から聞いたんですか」
「おまえが自分で言ってたよ」
「そうでしたっけ。ヒデさん、もういいからさ」
 が、ヒデさんはかまわず続けた。
「だからね、章はてめえが先輩たちに世話になった分、龍に恩返しをしますよ。そうやって人は助け合って生きていく。弟か。俺もあいつに会いたくなってきたな」
「……ヒデさん……」
「ん?」
「ヒデさんも乾さんに似てる。説教じみてる」
「そっかぁ? 似るほどつきあってないきに」
 言っておいてがはがは笑っている。ヒデさんはさして酔ってはいないはずだが、口調に涙が忍び込んでいて、ごまかそうとして笑っているようにも思える。だったら本気で泣かせてやろうかと、俺は言った。
「俺もヒデさんとルシアンヒルで会ったときのこと、忘れませんでしたよ。こうやってヒデさんに会えるようになって、フォレストシンガーズが六人になったみたいだな」 
「説教する口が増えて、おまえも反抗する相手が増えて、嬉しいだろ」
「負けてねえんだな。この野郎、あんた、たしかに乾さんに似てるよ」
「乾さんに似てるとは光栄だけど、てめえ、先輩に向かってなんだ、その口のききようは」
「お、東京ふうの啖呵だ。かっこいい」
「馬鹿にしとうな、おまえ」
「しとうしとう」
 歩み寄ってきたヒデさんに胸倉をつかまえられて身体が宙に浮き、悲鳴を上げた。ヒデさんにまで殴られるって、本橋さんにも似てるのか、彼は、と身を縮めたら、豪快な笑い声とともに突き飛ばされていた。
「……ひで。これもフォレストシンガーズが六人になった証明か。ヒデさんも先輩だもんな。酔いが醒めたよ」
「醒めたらもういっぺん読め」
「読みたくねえの」
 携帯電話を突きつけられて、閉じようとしたら睨まれたので、やむなく読んだ。
 ヒデさんが補足を加えたようだが、大意はおおむねさっきの通りだ。へ、け、と笑いたかったのだが、いかん、まだ酔ってる。涙が出てきた。見ると、ヒデさんも洟をすすっていた。そうしていると涙が雨になったのか、頭にぽつんと水滴が当たった。
「ヒデさん、雨だよ」
「おう、走ろうか。章は知ってるのかな。こうやってさ……」
 ふたりして走り出しながら、ヒデさんは言った。
「おまえがいなかったころに、シゲにもつらいことがあって、雨の中を五人で走ったんだ」
「どこを目指して?」
「銭湯」
「風呂屋かよ。なんで?」
「さあな」
 つらいことがあって風呂屋に走るとは、泥んこにでもなったのか。シゲさんが誰かと喧嘩して、水溜りに投げられた? うーむ、よくわからない。わからないので、俺は歌った。雨の中、母のぎこちないメールを思い出して泣くなんて、シゲさんが喧嘩して泥んこになる以上に考えられないというか、考えたくもなくて歌ったのだ。

「WEEPING IN THE RAIN WEEPING IN THE RAIN
 WEEPING IN THE RAIN WEEPING IN THE RAIN

頬ぬらすそぼ降る雨の優しさに
 溺れることもできないで

 WEEPING IN THE RAIN WEEPING IN THE RAIN
 WEEPING IN THE RAIN WEEPING IN THE RAIN

 哀しさに振り向けないで
 雨の中ひとりたたずむこの俺さ」

 走りのリズムにマッチしないブルースだ。ヒデさんの足が速いので追っかけていると息が切れてきたのだが、体力ないな、と言われたくないので必死でついていった。
「章、おまえ、思ったより体力あるじゃん」
「幸生の言葉の真似をすんな」
「似合わんか」
「ヒデさんはしとうやっとう、なんやらやきに、のほうが似合うよ」
「アクセントがちがうな。って、これじゃ実松やきに」
 哀しくて泣いてるんじゃないよ。母のメールに感傷的になってでもない。龍、おまえの馬鹿さ加減が情けなくて泣いてるんだよ、兄ちゃんは。
 雨が激しさを増していく。情けなさの涙を洗い流してくれる。どれほど馬鹿でも情けなくても、おまえは俺の弟。勘当を申し渡された父が一生父であるのならば、たとえどうしようとも、弟は弟だ。一生他人にはなれないのだろう。
 達観するしかなくて、そうしたらむしろ爽快な気分になってきた。シゲさんも悲しい経験をして、雨に洗い流してもらったのか。いつか俺にもその話をしてくれるだろうか。
 あれやこれやと考えつつも、ヒデさんとふたりで走った。昔から俺たちは走ってばかりいたけれど、ヒデさんとふたりで走るのははじめてか。こうしてフォレストシンガーズが六人になったような気分も、いいものなのだと俺ははじめて知った。
 俺なんかいらないんじゃないよね? ヒデさんもいて、章にもいてほしい。いつか幸生が言った言葉が蘇ってくる。今夜はじめて、俺は心からその言葉を信じたのかもしれない。
 そうと教えてくれたのは、今夜のいきさつのまがりくねった先にいるおまえなんだから、母ちゃんにも頼まれたんだから、いやだけど面倒見てやるよ、龍。雨の中に見える弟に話しかけたら、奴は幼稚園児のガキのころの顔に戻って、べーっと舌を出しやがった。

END

 

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