novel

小説149(夜空ノムコウ)

 ←共作3(まやち&あかね)(温度はお好みで2) →イラストストーリィ(音琴&あかね)「age.24」(フォレストシンガーズ)
thumbnailCAAX44LT.jpg

フォレストシンガーズストーリィ149

「夜空ノムコウ」

1

「へええ、デビューしたのね」
 母が言い、父がうなずき、僕は口をはさんだ。
「誰がデビューしたの?」
「前の家にはあいつも遊びにきたことがあるだろ。おまえは覚えてないかな」
「前の家って湘南の?」
 湘南の海辺にあった、僕の生まれた家。今は横浜に引越しているのだが、そこには夏休みになると、父や母の親戚の子供が遊びにきていた。僕は小さかったのでよく覚えていないのだが、父に言われて思い出した。
 あれは僕が幼稚園に通っていたころ、父方のいとこの幸生兄ちゃんは高校生で、夏休みに湘南の家に泊まりにきていた。それ以上前となるとまったく記憶にも残っていない。
 幸生兄ちゃんは僕よりも十三歳年上だ。彼は大学生になるとうちには来なくなったのだから、僕が小学生になるころには会わなくなったのだ。デビューしたのはその幸生兄ちゃんだそうで、父が話してくれた。
「幸生が大学三年の年だったな。同じ大学の同じ合唱部の先輩たちと、フォレストシンガーズってコーラスグループを結成して、就職はしないで歌手になるんだって言ってるって、兄さんや義姉さんが嘆いてたんだ。俺も心配はしてたんだけど、親の言うことも聞かない奴が、叔父の言うことなんか聞くはずないだろ。おまえも将来はってーか、今も親の言うことを聞かないけど……」
「僕はいいじゃん。幸生兄ちゃんは?」
「ああ、そんでな、幸生も大学を卒業して半年ほどたって、ようやくフォレストシンガーズがデビューするんだってよ。よかったな」
「へええ、親戚に歌手が……」
 十三歳年上の幸生兄ちゃんは、二十二歳か。僕は母にねだって、我が家のアルバムにもある高校生の彼の写真を見せてもらった。
 それまでは興味もなかった幸生兄ちゃんを、写真とはいえしっかり見たのははじめてだった。細い、小さい。小学校四年生の僕とおんなじくらい子供っぽい。こんなんで歌手なんかやれるのか? 顔も別に綺麗でもないし、ふざけたポーズで写真に写っている彼が歌手? 嘘だろ、と言いたくなった。
 しかし、嘘ではないみたいだから、彼が売れてる歌手になったら友達に自慢しようとは思っていた。フォレストシンガーズの三沢幸生って、僕のいとこなんだぞ、すごいだろ、と言いたかった。
 だがだが、僕が小学生の間は、フォレストシンガーズはいっこうに売れなかった。父や母によると、すこしずつは売れてきてるんだよ、であるらしかったのだが、小学生はそういったグループには興味は示さない。
「フォレストシンガーズって知ってる?」
 友達に尋ねても、そんなの知らないよ、それよか舞ちゃんがさあ、美穂ちゃんがさあ、とアイドルの話ばかりする。僕もそのうちにはフォレストシンガーズを忘れてしまい、アイドルの女の子に熱を上げるようになっていった。
 僕が中学二年生になった年に、幸生兄ちゃんの妹の雅美ちゃんが結婚した。両親は結婚式に招待されていたのだが、僕は行かなかった。結婚式なんて行きたくもないのでいいのだが、式が終わって数日後に、雅美ちゃんが新婚旅行のお土産を届けにきてくれたのだった。
「雄心? 久しぶりだね。大きくなったね。私よりも大きくなったんじゃない?」
 両親に挨拶をすませた雅美ちゃんと話して、僕は幸生兄ちゃんをも思い出した。
「フォレストシンガーズだったよね。売れたの?」
「雄心も知ってるんだね。売れてるってほどでもないみたいね。テレビにも出ないし、なーにやってんだか知らないけど、お兄ちゃんとはたまに電話で話したりはするよ。ラジオとかライヴとかが中心の活動をしてるんだって。雅美、CD売り上げに貢献しろよ、ってお兄ちゃんが言うから、CDは買ってあげてるの。雄心も買ってやってね」
「どんな歌?」
「そこまでは知らないのか。うーん、中学生の男の子向きじゃないかもね。叔父さんや叔母さんもCDは買ってくれてないの?」
「うち、CDをかけるプレイヤーとかそういうの、ないんだよ。僕は持ってるけど、母さんも父さんも音楽って好きじゃないみたい」
「そうか。じゃあ、雄心、キミだけでもお兄ちゃんたちのCDを買ってやって。ほら、お小遣いあげるから」
「うん、買うよ」
 親からもらう貴重な小遣いを使う気はなかったのだが、雅美ちゃんがくれると言うのなら買ってやってもいい。雅美ちゃんも帰るというので連れ立って外に出た。
「大きなCDショップにしか売ってないかな。チョコレートパフェかなんかおごってあげるから、関内あたりまで行こうか」
「雅美ちゃん、気前がいいんだね」
「こうやって細々と、兄貴のCD売り上げの協力してあげてるんだよ。人の気も知らずにあいつは……雄心に言ったって仕方ないんだけどね」
 雅美ちゃんも、その下の妹の輝美ちゃんも、時には湘南の家には遊びにきていた。横浜の家だとつまらないのか、ほとんど来なくなっている。雅美ちゃんにしても僕よりは十二歳も年上。輝美ちゃんも十も上なので、記憶はあんまりない。
 だけど、ひとりっ子の僕にお小遣いをくれたり、パフェをおごってくれたりするのだから、お姉ちゃんができたみたいで嬉しいな、と思いながら、人妻とデートした。
 人妻か……なんだかすごい。人妻とデートしたんだぞ、と友達に自慢したら? おばさんとデートしたって自慢にもならないか。二十六歳をおばさんと呼ぶと怒られそうなので、言わないようにして、CDを買ってから喫茶店でお喋りした。
「フォレストシンガーズの歌は大人の男路線なんだそうだよ。うちの兄ちゃんが大人の男って、だーれが、ってなもんだけど、歌はたいしたものなの。お兄ちゃんといっしょに暮らしてたのって私も高校生だったころまでで、大学はそんなに遠くもないのに家から出ていっちゃって、そのあとはフォレストシンガーズじゃない? 会う機会も少なくなったけど、輝美と私は応援してるの」
「フォレストシンガーズの他のひとにも会った?」
「会ったよ。木村さんとは彼が大学生のときに会った」
 大学一年生だった幸生さんのアパートを、高校三年生だった雅美ちゃんが訪ねていったときの話だそうだ。
「私がお兄ちゃんの部屋にいたら、木村さんが遊びにきたの。私をお兄ちゃんの彼女だって誤解して、変なこと言ってた。木村さんって顔はいいけどちっちゃいのよね。私は背の高いひとが好きだから、あんなの駄目」
「雅美ちゃんもちっちゃいじゃん」
「私のダンナさまは背は高いのよ」
「よかったね」
「うん、よかった。雄心はフォレストシンガーズの他のひとたちの顔は知らないの?」
「幸生兄ちゃんだってよくは知らないよ。他のひとなんか知らない。CDの写真って小さいから、これだとわからないよね」
「そうだね、テレビに出ないもんね」
 太っちゃうな、と言いながらもチョコレートパフェを食べ、雅美ちゃんは話した。
「私は何度かは会ってるよ。フォレストシンガーズが初ライヴっていうか、事務所主催のジョイントライヴに出たときに最初に会ったのね。本橋さんは顔は怖そうなんだけど、背が高くて男らしい体格をしてて、かっこいいのよ」
「ふーん」
「乾さんは本橋さんよりはほっそりしてて、背もちょっと低いかな。優しくてセンスがよくて、面白いひとだった。シゲさんは……って本庄さんね。シゲさんは背は本橋さんや乾さんよりは低いけど、たくましくて素朴そうで、若いころからおじさんみたいだったな」
「ふーん」
「木村さんはお兄ちゃんと似たような体格だけど、顔がいい分、お兄ちゃんより上」
「ふーん」
「雄心、あんたが聞きたいって言ったんでしょ。その気のない返事はなに?」
「聞きたいって言ったっけ。だって……ま、いっか。それより、おかわりしていい?」
「いいねぇ。太る心配のない中学生男子は」
 太ったって全然かまわないので、ホットケーキも追加でオーダーして、CDアルバムを取り出して眺めた。
 アイドルの女の子になら好みもあるけれど、男のコーラスグループなんてものは、顔はどうだっていいはずだ。けれど、数年ぶりに見る幸生さんは、あいかわらず細くて小さい。雅美ちゃんも小さいが、僕にとっては伯父に当たる彼らのお父さんは、そんなには背は低くないはず。
 あ、そか、伯母さんが小さいからそっちの遺伝なんだ、と納得して、コーラスグループには大切なはずの幸生さんの声を思い出そうとした。
「雄心、ケンを散歩に連れてくから、おまえも行くか?」
 遠い遠い記憶のむこうから聞こえてくるのは、幸生さんの声か? 湘南の家にいた犬のケンは覚えているけれど、引っ越す前に死んでしまった。
 幼稚園児だった僕よりも大きかった、ケンに引っ張られるようにして歩いている高校生の幸生さんももやもやっと思い出す。高い声だったような……しかし、記憶がはっきりとはしない。はっきりとはしないのだが、なんとなくは思い出した。
 近所にいじめっ子がいて、僕はそいつの家の近くにも寄りたくなかったのだ。だから、言ったような気がする。
「あっちに行くのはやめようよ」
「なんで?」
「いやな子のうちなんだよ」
「……悪い奴なのか? よーし、そんな奴は俺がやっつけてやる」
「あいつ、きっと幸生兄ちゃんより強いよ」
「あのな、俺は高校生だぜ。そいつは幼稚園児だろ」
「小学生」
「小学生がこんなちびを苛めるのか。ますますもって許せないな。俺ががつっと言ってやるよ。ったって、高校生が小学生にがつんとやったって、正義の味方にもなりゃしないね」
 これは正確な記憶なのだろうか。そんなこともあったような気はするが、幼稚園児の記憶なんてあてになりはしない。僕の願望だったのかもしれない。
「お兄ちゃんはすっごくよく喋るから、フォレストシンガーズではMCも中心になってやってるみたいね」
 そりゃあね、雅美ちゃんの兄ちゃんだもんね、と口には出さずに考えて、幸生さんの妹らしくよくよく喋る雅美ちゃんの話を聞いて、別れてうちに帰ってフォレストシンガーズのCDを聴いた。
「……う、趣味じゃないよ」
 大人の男路線か。たしかに僕にはまだ早すぎる。そう決めてCDをしまい込み、それからまたまたフォレストシンガーズを忘れていた。


 なのに、俺も歌が好きになった。両親は音楽にはまるっきり関心もなく、俺には兄弟もいないので、影響を受けたとしたらフォレストシンガーズだったのだろう。
 高校生ともなると、フォレストシンガーズの大人の男路線の歌もしみるようになってきた。三沢幸生作詞、乾隆也作曲のこんな歌を聴くと、俺は思う。いつかは俺も大人になって、いつかはこんな恋をするのだろうか。

「あなたの肩に触れられず
 言葉にもできず
 ただ、俺は思う

 その肩を強く引き寄せて
 こちらを向かせたい
 心ごと俺のものにしたい
 
 なのに俺は言えない
 あなたを愛してる
 愛してる
 いつまでも愛してるのに

 幼すぎて愚かすぎて
 あなたの心が遠ざかっていくのを
 俺は止められない

 ひとときは俺の腕の中で
 愛をかわしたあなたなのに」

 すこしこっぱずかしいのだが、大人ってこんな恋をするのかぁ、だ。
 中学生のころはアイドルの女の子に擬似恋愛みたいなものをしていた俺にも、高校生になって好きな子ができた。高校で合唱部に入ったのも、大学合唱部の仲間たちで結成されたフォレストシンガーズの影響だったのだろう。
 同じ合唱部の冴子ちゃん。彼女は俺の腕の中で愛をかわしたりはしていないので、そこは大人と高校生の差なのかもしれないが、言いたいのに言えないのは大人も高校生も変わりはない。
 愛してるとまでは言えなくても、好きだよ、つきあって、くらいは言えたらいいのにな、と思って、それでいてなんの行動も起こせずにいる俺に、友達の阪井が言った。
「俺さ、好きな子がいるんだ」
「誰? 俺にもいるんだよ」
「……冴子ちゃん。おまえは誰?」
「ん、俺はいい。おまえの知らない子だよ」
 ますます言えなくなった。恋と友情の板ばさみってこれかぁ、と愕然として、俺は友情を選んだのだ。
「三沢、俺、冴子ちゃんに告白したいんだ。あそこで待ってるからって、冴子ちゃんを呼んできてくれないか」
「よし、協力してやろうじゃん」
 顔で笑って心で泣いて、俺は冴子ちゃんを呼び出した。校庭の隅っこで、阪井は冴子ちゃんに告白し、冴子ちゃんは告白を受け入れたのだろう。それからふたりはカップルになった。
 言いたくても言えずに迷っていた俺よりも、阪井は決断力のある男だったんだ。冴子ちゃん、あいつのほうが俺よりもずっとよかったね、仲良くしろよ、そんなふうに無言でふたりに語りかけ、俺の高校時代の恋は終わった。


2

 勉強なんて好きではないけれど、大学に進学するのは当然だと親も教師も俺自身も考えていて、ならば、と決めたのは、幸生さん、すなわちフォレストシンガーズ全員の母校だった。
 社会学部はそんなには偏差値も高くない。無事に合格して、サークル活動も当然のごとく、合唱部に決めた。高校時代から歌っているのだから。幸生さんほどに歌は上手ではないにしろ、歌は大好きなのだから。
 合唱部室で新入生歓迎会が行われ、俺はそこでびっくり仰天の経験をした。合唱部の先輩たちも驚いたその事実とは、フォレストシンガーズの木村章さんの弟がいたってことだった。
 入部したときには俺はキャプテンや先輩たちにも、俺は三沢幸生のいとこです、とは言わなかったのだが、木村龍と話していた俺に、キャプテンが問いかけてきたのだ。三沢、木村、キミたちはあの三沢さんや木村さんと関係があるの? と訊かれて、龍と俺はお互いの境遇を知った。
 そのせいばかりではなかったのだが、俺は龍と親しくなった。龍は章さんの実の弟なのだからして、フォレストシンガーズの面々とも知り合いだ。そのおかげで俺も、大人になった幸生さんに会わせてもらった。
 子供のころの記憶なんて奴は曖昧なので、龍にはよく覚えていないと言った。幸生さんも俺をよくは覚えていない様子だったが、さすがにあの雅美ちゃんの兄だといおうか、ものすっごくよく喋る男だった。
 今では幸生さんの声もよくよく知っている。俺はフォレストシンガーズのアルバムを全部そろえて、すっかりファンになっているのだが、恥ずかしいので龍や幸生さんや章さんには話さなかった。
 けれども、章さんの実の弟も、幸生さんのいとこも、彼らの歌の実力の血は引いていない。体格も章さんと龍はあまり似ていなくて、龍は背が高いのだが、ロック好きや顔立ちは似ている。俺はといえば、体格は幸生さんに似なくてよかったのだが、歌のうまさは似たかった。
 実際に会った幸生さんも章さんも、三十歳をすぎていても子供じみていて、ふたりともに少年体型だ。俺は中背くらいまでは育ったので、つくづくよかったと思う。
 龍は合唱部出身のフォレストシンガーズ以外の男の歌手の、金子将一や徳永渉にも会ったのだそうだ。俺は彼らには会っていないが、夏合宿に来てくれた、合唱部の女性の先輩とは話した。
 ただいまは中国語学科の臨時講師、喜多晴海さんだ。喜多先生は徳永さんと親友なのだそうで、そんな話をしてくれたり、雄心くんも恋をしなくちゃね、と言ったりした。
 恋か。そりゃあ俺だってしたい。合唱部には伝統的に美人が多いのであるらしく、たしかに見回してみると、綺麗な女の子は何人もいる。キャプテンの日向房子さんもかなりの美人だが、美人だからだけで恋をするってわけではないだろう。
 美人だといったら喜多先生も……だけど、彼女は年上すぎる。だけど、男っぽさと女っぽさが絶妙にブレンドされた、素敵なひとではあった。だけど、あんなのは恋ではない。
「龍は好きな女の子はいるのか?」
 ある日、キャンパスを歩いていて質問すると、龍は言った。
「いるんだけどさ、三沢さん……幸生さんのほうね。あっちも変なことを言うし、合宿のときには喜多先生も変なことを言ってたし、なんなんだろ、あれは。三十すぎた人間は言うことが回りくどいんだよ。はっきり言えっての」
「変って?」
「わかんね」
「じゃあ、誰が好きかは言えないの?」
「俺の気持ちも固まってないしさ、言えない。雄心にはいないのか?」
「特別にはいないな」
「特別じゃなかったら?」
「……好きってか、うーん、あのひと、いいな、って女だったらいるけどさ」
「いいな、くらいだったら俺にはいっぱいいるよ。兄貴なんかは言うんだよ」
 学生は恋なんかしなくていい、勉学とサークル活動に励め、なのだそうだ。龍は章さん口調を真似して言い、けけけっと笑った。
「よくもまあ言ってくれちゃうよな。てめえはなにをやってたんだっ。大学を中退してロックロックで、親父には勘当され、どうせ女とだっていろいろやってたに決まってるんだよ。兄貴のせいで俺までが、おまえは絶対に中退するなって言われて、ロックはやめとけって言われて」
「合唱部だったらいいのか?」
「大学生の間は合唱部にいなさい、そしたら章みたいにならなくてすむよ、って母ちゃんは言ってたよ」
 一浪の龍は俺よりは一年年上なのだが、学年は同じだから友達になれた。昔の合唱部は先輩後輩のけじめにきびしかったそうなのだが、現在の上級生は堅いことは言わない。俺はそれでも多少は先輩には丁寧に話しているのだが、龍は教授にでも敬語は遣わない。
 兄の章さんの悪口はいつも言っているが、龍だって章さんの影響を受けているのはまちがいない。龍もロック好きだし、女好きでもあるようだ。稚内の中学、高校時代にはけっこうもてたと言っていた。
 見栄なのかもしれないが、龍は背も高くて顔もいいのだから、もてたのだとしても不思議はない。それに、龍はひとり暮らしをしていて、俺はそこもうらやましかった。
「幸生兄ちゃんも家は横須賀なのに、大学のときはひとり暮らしだったんだろ。俺もひとり暮らししたいよ」
 言ってみたのだが、横浜は横須賀よりも学校に近いと母に言われて、俺は諦めた。
 稚内から通学できるはずがないのだから、龍がひとり暮らしなのは当然だろう。龍は浪人時代に家出同然に稚内の家を飛び出してきて、章さんのマンションにころがり込んだのであるらしい。十年以上も会っていなかった弟がいきなり出現したので、章さんはびっくりしたのであるらしい。
「勉強なんかしたくないし、兄ちゃん、俺を養って」
 そう言って、章さんに殴られ、乾さんに説教されたのだそうだが、フォレストシンガーズのみんなに面倒を見てもらっている龍も、俺にとってはうらやましくなくもないのだった。
「あのさ、この間さ……」
 言いにくそうに声をひそめて、龍は俺を木陰に引っ張り込んだ。
「兄貴はいなかったんだ。そうと知ってて、俺はフォレストシンガーズのスタジオに行ったんだよ」
「章さんに聞かれたくない相談?」
「そんなとこだな」
「なんだろ?」
「うーん、自分では言いにくいんだ。みっともねえから」
「みっともねえ話し? 聞きたいな」
「聞きたいかぁ。そうかぁ。おまえには話したほうがいいのかな。三沢さんが喋っちまうかもしんないんだから、先手を打とう。三沢さんちに行ってこいよ」
「幸生さんに聞けって?」
「そうだよ。俺が話してくれって言ってたって言ったら、三沢さんだったら話してくれる。だけど、兄貴には内緒だからな」
「うん」
 龍は行ってしまい、俺は首をかしげていた。しかし、いい機会なのかもしれない。龍はけっこう、フォレストシンガーズのひとたちと仲良くしているのに、俺はそんなでもないのだから、たまには幸生さんのマンションにだったら、遊びにいってもいいのかもしれない。
 兄のマンションには龍は気軽に遊びにいける。幸生さんのマンションにだって乾さんのマンションにだって、龍は遠慮もなく訪ねていっている。本庄さんと本橋さんは結婚しているので、そうそう訪ねてはいけない様子だが、龍のこの無遠慮性格も俺にはちょっとだけうらやましい。
 交流もなかったいとこなんていうものは、他人と変わりない。俺も章さんや幸生さんとは会って話したが、幸生さんに対してだって、龍のほうが俺よりもずっと親しげにふるまっていた。
 うらやましいんだったら、おまえも遠慮なく仲良くしてもらったらいいじゃん、龍はきっとそう言うだろう。他人と変わらないとはいえ、他人ではないのだから、俺は幸生さんのケータイナンバーも知っている。マンションだって知っている。
 龍と別れて学校から出て、俺はケータイを取り出した。今日の幸生さんのスケジュールは知らないが、暇があったら会ってくれるだろう。
「おー、雄心? 今はリハーサルやってるんだけど、もうじき終わるよ。あとはオフになるから俺んち来る? 相談でもあるのか? 恋の悩み?」
「学生は恋ではなく、勉強とサークルに励むんです」
「いい心がけなんだけど、そんなことを言ってるとカビちゃうからね。おまえが自分で考えた思想かよ?」
「章さんがそう言ってたと、龍が言ってました」
「……けけけのけ。いやいや、章にも兄貴の威厳ってのが一ミクロン程度は必要なのかな。うんうん、言わせておこう。じゃあさ、二時間くらいしたら来いよ」
 ゲーセンで時間つぶしをして、幸生さんのマンションに行った。
 考えてみれば、幸生さんとふたりきりになるのは十五年ぶりくらいではなかろうか。幼稚園のころにはふたりでケンの散歩に行ったはずで、その記憶が正しいのだとしても、それっきりふたりきりになったことはなかった。
「幸生さん、ケンって覚えてます?」
「おまえんちのでかい犬だろ? あいつ、おじちゃんやおばちゃんには従順なんだけど、俺なんかはなめてやがって、散歩に連れてってやったら先に立ってとっとこ走るんだぜ。おかげでランニングのトレーニングができたけどね」
「覚えてるんですね」
「うん。おまえがうちの大学に入ったって、章に聞いてからいくつか思い出したよ。だけど、俺はでかいものは人間でも動物でも嫌いだ。だから猫が好きなんだよ」
「猫か。俺は猫は嫌いですよ」
「そう? そんならそのうち……美江子さんにもやった手段で……うふふ」
 美江子さんとは、フォレストシンガーズのマネージャーでもあり、本橋さんの奥さんでもある女性だ。俺は美江子さんはほとんど知らない。
「飲むか。ビールくらいだったらいいだろ」
「はい。飲みたいです」
 ふたりでビールを飲み、とりとめもなく話していると思う。俺はひとりっ子だから、幸生さんを兄ちゃんのかわりみたいに思っているんだろうか。龍にしたって、章さんが家を出ていったのは龍が小学校に入る年だったのだから、ひとりっ子みたいなもんだよ、と言うのだが。
 そうすると、龍の記憶も俺の記憶も、小学校入学以前のガキの思い出でしかない。龍は兄貴といっしょの家で育ち、俺は幸生さんとはめったに会いもしなかったけれど、龍をうらやむのはやめておこう。
「龍とは時々は会うんですか」
「会うよ。龍は人なつっこい奴なんだよな。むしろあいつが俺に中身は似てて、おまえが章と中身が似てるんじゃないの? おまえももっと俺にも、うちのメンバーたちにも頼ってきていいんだよ。おまえがそうしたくないんだったら無理にとは言わないけど、雄心ちゃん、心を開いて俺の胸に飛び込んでおいで。おっと、実行はナシ。比喩だからね。おまえに飛びつかれたら複雑骨折するよ」
「俺はそんなにでかくありませんよ」
 鋭いんだな、俺の気持ちを読んでるんだな、とこっそり笑ってから、俺は尋ねた。
「龍が言ってたんですよ。みっともねえことをやっちまって、雄心にも話したいんだけど、みっともねえから自分では言えない、幸生さんに聞けって。なにがあったんですか?」
「あれか」
 フォレストシンガーズの練習用スタジオ。そこは俺も知っているが、訪ねたことはない。龍はたまさかあらわれるのだそうで、その日もふらふらっとやってきて、幸生さんに言った。
「金、貸して」
「親父さんやおふくろさんには認めてもらったんだろ。仕送りだってしてもらってるんだろ。金を使いすぎたのか」
「……女の子なんだ」
 あいつの名誉のために、これ以上は言わない、と幸生さんは言葉を切り、俺は想像した。女の子とデートしておごらされたのか? それとも、悪い遊び? 親元を離れている奴は、好き勝手なふるまいをする場合もあるから、龍も悪の道に染まりつつある?
 が、幸生さんが言ってくれないので、俺は想像しているしかない。幸生さんは龍に金を貸してやろうとしたのだが、乾さんが出てきて、ものも言わずに龍のほっぺたを張り飛ばした。
「……昔もあったな。俺たちの後輩がさ……俺もさ……乾さんはそういうの、大嫌いなんだよ。好き嫌いでしかものを言わない章とはちがって、乾さんはものごとを深く考える。考えすぎる傾向もあるんだけど、あのときの乾さんは怖かったよ。それでいてかっこいいの。ああん、ユキちゃん、やっぱ隆也さんのお嫁になりたい」
「あのね、幸生さん?」
「はれ? 真面目な話しだったね。そいでさ、乾さんは龍にはなんにも言わなかったんだけど、俺がびっしびし叱られたんだよ。あれは龍にも聞かせるためだね。こんなことをしでかして金がなくなったって言ってる奴に貸してやるな、甘やかすな、ってさ。ああん、素敵だったわ」
「それはもういいですから」
「そうだったね。そこにリーダーも出てきて、聞こえてたぞ、この馬鹿たれーっ、ってさ、龍を怒鳴りつけたわけ。そうなると乾さんは龍のフォローに回ってたよ。龍は反抗したかったようだけど、ぐっとこらえたんだろうね。すみません、って頭を下げた。そしたらね」
 こそこそっと相談した乾さんと本橋さんは、幸生さんに耳打ちして立ち去った。
「おーし、じゃあ、龍、おまえは今日はこれから、俺たちの付き人ね。今夜は徹夜仕事だから、朝まで働け」
 幸生さんが言うと、龍は言った。
「学校はさぼっていいの?」
「この馬鹿たれ。ああ、俺だとリーダーの迫力も、乾さんの貫禄もないんだよな。それはいいから、学校はさぼったらめっ」
「徹夜で働いて学校にも行けって、俺、そんなの倒れるよ」
「甘えるな。乾さんとリーダーの真意がおまえにはわかってないのか?」
「……ちぇ、わかったよ。いでで……顔が……」
「乾さんにひっぱたかれたんだったね。おめでとう」
「なんでめでたいの?」
「後になったらわかるよ。俺にもわかったし、あいつにもわかった。わからない奴は本物の馬鹿だからね」
「俺は馬鹿だもん」
「うるせえ。働け」
 そうやって半日余りこき使われ、ギャラだ、と言われて龍が本橋さんにもらった金は、本橋さんと乾さんが出したのであるらしい。木村さんと本庄さんは別の仕事でいなかったのだそうだ。クサイ気もするのだが、昔の体育会気質合唱部出身者としては、龍を甘やかさないための行動だったのだとも思う。
 なにをしたんだか知らないけど、悪い遊びだったのだろう。だからこそ乾さんに殴られたのだろう。俺だってひとり暮らしになるとやらないとは言い切れないので、龍のひとり暮らしをうらやむのもやめよう。大学を出て自力で稼げるようになってから考えよう。
「うちの先輩たちってさ、やることは荒っぽかったりもするんだけど、根は優しいんだよ。章だって昔は……」
「龍には内緒にしますから、章さんの昔ってのも聞きたいな」
「昔ったら俺もだけどね。俺はいつだって、ぼっかぼっか殴られてばっかで、頭のここんとこ、へこんでるだろ」
 へこんではいないのだが、痛そうに頭をさすって、幸生さんは続けた。
「俺は身も心も軽いから、殴られるのも冗談っぽいんだよね。ま、頭を撫でてもらってるののきついやつって感じ」
「章さんの話は?」
「龍の話しはおまえにも教訓になるだろうけど、章の話しは章に直接聞け」
「……はい、わかりました」
 軽そうなのはたしかだけど、中身は軽いばっかりでもないのかな、と俺の感じた想いが、正しいのか誤っているのか、今はまだ俺にはわからなかった。
 翌々日には龍にも会い、幸生さんに聞いたよ、と言ったら、龍はため息をついた。
「めでたかったんだってな」
「乾さんに殴られたってのも聞いたのか? うん、まあ、あんまりきつく殴られたんじゃないから、そういう意味でめでたかったのかな」
「そういう意味なのかな」
「さあ? 三沢さんってわけわかんねえんだよ」
「乾さんはわけわかる?」
「わかんねえよ。誰もわかんねえんだ。中年なんてわけわかんねえんだよ」
 怒った顔で言っていたのは、照れ隠しだったのかもしれない。俺もそれ以上の質問はやめておいた。


3

 冬になるころには、俺の気持ちが妙な具合に動いていた。龍には好きな女がいるような、いないような、らしいのだが、俺もなんとなく……好きなんだろうか? だけど、あのひとって年上すぎるし、と思える女ができてきた。
 中国語学科の講師でもあり、おまけに大学の先輩、合唱部でも先輩。彼女は本橋さんや乾さんと同じ年なのだから、俺よりは十五歳も年上だ。三十四? うげっ、おばさんじゃん、と思うのが普通のはずなのに、やけに気にかかるのだった。
 合唱部の夏合宿ではじめて話しをして、あのときにはたいしてなんとも思わなかった。ただ、海に沈む夕陽に照らされた横顔が綺麗だな、と思っただけだ。
 俺は社会学部なので、中国語にはなんの関わりもない。そんなもんは宇宙人の言葉みたいなもので、地球言語だとも思えない。彼女が中国語専攻であり、中国で仕事をしていたと聞いて、尊敬したのは事実で、そこから気がかりになっていったのだろうか。
 学部は俺とは関係なくても、彼女は合唱部には時々来てくれる。四年生女子には数人親しい子がいて、彼女たちと話している喜多先生を見ると、俺はちょっぴりまぶしさを感じるのだ。
 喜多先生……誰にも言ってはいない。龍にだってごまかしておいた。幸生さんに相談してみたい気もしたけれど、相談したってどうしようもない。なんたって喜多先生は十五も年上。いくらなんでもいくらなんでも、の年の差であろう。
「雄心くん、帰るの? いっしょに帰ろうよ」
 今日も部室に喜多先生が遊びにきていて、龍は来ていなくて、適当に帰ろうとしていたら声をかけられた。
「今日は約束があるんだけど、あいつは来るかどうかわかんないし、来るとしても遅くなるかもしれないから、ごはん食べて帰る?」
「おごってくれるんですか」
「もちろんよ。年上の義務」
 年上、年上、そうなんだけどさ……そう言われると悲しくなるのは、やはり俺は彼女に恋を? もちろん彼女にはひとこともなんにも言っていないのだが、誘ってもらえて嬉しくてついていった。
「雄心くん、恋はしてる?」
「してます」
 あなたに、とは言えないが、彼女とふたりで歩いていると、俺は恋をしてるんだ、の気分が高まってきていた。
「そうなんだね。どんな女の子? 男の子じゃないよね。龍くんに恋をしてるとか?」
「だとしたらどうします?」
「いいんじゃない? 男と男の恋も恋は恋だよ。それで雄心くんは悩みありげな顔をしてるの? 冗談のつもりで言ったんだけど、冗談じゃないの?」
「男同士の恋なんて、喜多先生は気持ち悪くないんですか」
「気持ち悪くなんかないよ。龍くんはそういうケはなさそうだから、雄心くんは気の毒だけどね。ね、本気?」
「本気なんかじゃありませんよ」
「なに? やっぱり冗談?」
 べーっと舌を出すと、馬鹿っ、と怒られた。
「思わず本気にしちゃったよ。だったら女の子なんだよね。つらい恋でもしてるの?」
「つらいったらつらいかな」
「不倫じゃないだろうね。そういうのはやめたほうがいいよ」
「人妻と恋か。俺ね、中学生のときに人妻とデートしたんですよ」
「近所のおばさんとか? 親戚のおばさんとか?」
「親戚のお姉さんです」
「そんなところだろうと思った」
 つまらない話しをしながらでも、夜道を彼女と歩いていると心が浮き立つ。今夜の彼女はひときわ美人に見えて、俺は焦りはじめていた。
「……喜多先生には彼氏はいないんですか」
「いないな。恋はしたいんだけど、そんなに簡単に恋に落ちる体質でもないんだよね。私の話なんかどうでもいいから、雄心くんの恋の話しをしてよ。私は雄心くんよりずっと年上なんだから、ちょこっとアドバイスくらいだったらしてあげられるよ」
「年上のひと」
「年上のひとに恋をしてるの? 合唱部の先輩? そんなのだって昔からよくあるんだから。二つ、三つの年の差なんて全然どうってことないない」
 二つ、三つだったらどうってことはないだろうけど、十五歳だったらどう? 訊いてみたいけど、訊けるわけがないではないか。
「背は高くも低くもないかな。細くも太くもなくて、綺麗なひとです。頭がよくて口も達者で、俺なんかは圧倒されてしまう。俺はきっと、彼女にすべてで負ける」
「そんなのだってどうってことないよ。男が女より上じゃなくちゃいけないなんてことは、まったくないんだから」
「俺はよくても彼女がね……」
「そうかぁ。彼女ってのが誰だか知らないから、そこは私にはなんとも言えないな」
 学校からわりあいに近い繁華街への方向へと歩いていくと、周囲が暗くなってきた。
「街灯が切れてるね。このへんって物騒っぽい。急いで行こうよ」
「俺がいっしょでも頼りにはなりませんか」
「雄心くんったら、私のボディガードをしてくれるつもり? 近頃の若い男の子でも、喧嘩に強いとかっこいいとでも思ってるの? 雄心くんはそんなに強くもないでしょ?」
「俺を馬鹿にしてるんですか」
「なに? 怒ったの?」
「怒ってません」
 が、我ながら声が怒っている。俺は立ち止まり、嘘話をした。
「俺はこう見えても強いんですよ。高校のときには喧嘩なんか何度も何度もやって、負けたことなんか一度もないんだ」
「本橋くんにも勝てる?」
「……やったことないから知りません」
「本橋くんには負けるだろうね。彼はすっごいらしいから。私も一度、この目で見てみたいな。雄心くんがそんなに強いんだったら、本橋くんとだったらいい勝負するんじゃない? 美江子ちゃんから聞いたよ。本橋くんって売られた喧嘩は必ず買う主義なんだって。今でもそうなのかどうかは知らないけど、雄心くんから売ったら買ってくれるかもね」
「……すっげえ馬鹿にした口調ですね」
「そう? 馬鹿にしてる気はないんだけど、気に触ったらごめんね」
 なんだってこんなに腹が立つんだろう。喜多先生が俺を子供扱いするからか。俺は怒っているのか、それとも、別の衝動か。
「雄心くん、行こうよ。おなかがすいたでしょ。それでキミはそうやって苛々してるんじゃない? 若い男の子なんてものは食欲が一番。喧嘩よりも恋よりもまずは食べなくちゃ……んん? なにを……こら……やめなさい」
「喜多先生……」
「や、やめなさいって。大声出すよ」
「出せないように……」
 いったい俺はなにをやってるんだ、と自分で思ってはいたのだが、止められなかった。大声を出されては大変だ、との思いも頭をよぎり、俺は喜多先生を抱きすくめてくちびるを探った。キスなんてしたこともないのだが、こんなものは本能的にやれるはずだ。
 思い切り力を込めて彼女を抱きしめ、キスしようとしたのだが、顔をそらされるのでうまく行かない。いっそう腹が立ってきて、俺は彼女を地面に押し倒した。
「雄心くん……やめな。後悔するよ」
「しません」
「なんなのよ。恋をしてる相手が振り向いてくれないからって、私で代償行為? そんなのって最低。やめなさい」
「いやです」
 ぎゅうぎゅうと地面に押しつけているので、喜多先生は身動き取れないらしい。顔を近づけていったら、がぶっと噛まれた。噛まれて怯んだものの、力を弱めずに抱きすくめ、さて、これからどうしようかと悩んでいたら、ふわっと身体が浮いた。
 え? あれっ? となったのもつかの間、浮いた身体が投げ飛ばされて、俺は背中から地面に激突した。
「……徳永、あんた……来てたの?」
「タクシーでそこの道路を通りかかったんだ。そしたらこのあたりで、人影が妙な動きをしてる。タクシーを降りて来てみたらこれだ。晴海、大丈夫か?」
「未遂だったからね」
「誰だ、あいつ?」
「……んんとね、言いにくいな」
 地面に仰向けになったまま、俺は考えていた。徳永? 徳永渉か。喜多先生は約束があると言っていたが、その相手が徳永さんだったのだろうか。俺にとっては幸か不幸か、徳永さんがここを通りかかり、喜多先生を救ったのだ。
「徳永、ちょっと待って」
「待てるか」
 すーっと徳永さんが近づいてくる気配があり、胸倉をつかまれて引き起こされ、顔を二往復張り飛ばされた。手を離されるとどっと倒れ、俺はうつむいた。
「あーあ、かわいそうに」
「かわいそうだと? こいつはおまえを襲おうとしてたんだろ。ちがうのか」
「ちがわないけどさ、そんなにひどく殴らなくてもいいでしょうに。どうしようかな」
「どうしようかなって? 警察を呼ぶのか?」
「警察なんか呼ばないんだよ。たまたま今はこのあたりには通行人はいないけど、タクシーから見えたんだろ。いつまでもこんなところでがたがたしてたら、人が通りかかったりしたら大変だよ。そうだな。私の部屋に行こう。タクシーは?」
「待っててくれてるみたいだな」
 すこし離れた道路に、タクシーが止まっていた。徳永さんも事情があると察したのか、俺に顎で、ついてこいと命令した。俺はのろのろ立ち上がり、他にはどうしたらいいのか判断もできなくて、タクシーに乗った。
 喜多先生の実家は八王子だそうだが、大学の講師になってからは学校近くにマンションを借りているらしい。喜多先生は徳永さんとそんな話しをしただけで、あとは三人ともに無言でいるうちに、タクシーが小さなマンションの前についた。
 部屋に入ると、喜多先生がつめたいタオルを持ってきてくれて、俺の顔を包んでくれた。ずきずき痛む頬が悲しいのか、俺はただうつむいて、泣きたいのをこらえていた。
「そうやって冷やしてやるってことは、見知らぬ奴じゃないんだな」
「私たちの合唱部の後輩だよ」
「合唱部の顧問でもやってるのか」
「そんなんじゃないんだけど、キャプテンと仲良くなったから、たまに遊びにいってるの。あんたは口外なんかしないよね、公害男だけどさ」
「三沢みたいに言うな」
「シャレってわかった? そうなんだ、その三沢くん」
「三沢がどうした?」
 彼は三沢幸生くんのいとこでね、などなどと、喜多先生が説明している。徳永さんは黙って聞いていて、俺も黙りこくっていた。
「好きな女の子がいるらしいんだ。だけど、彼女は振り向いてくれないみたい。詳しく話してくれたんでもないんだけど、そんな感じなんじゃないかな。私がからかったみたいになって、雄心くんが怒ったんだよ。そんでね、ついついかっとして……だったんだよね、雄心くん? ちょっと、徳永、やめなって」
 立ち上がった徳永さんが近づいてくる。またしてもぐいっと胸倉をつかまれて、顔を上げさせられる。徳永さんの顔も近づいてきた。
「三沢のいとこか。似てないな」
「……はい」
「ついかっとして、女を押し倒すのか。てめえ、晴海になにをしようとしたんだ?」
「なにがしたかったのか……覚えてません」
「晴海を抱きたかったんだったら、あんなところでやるな。馬鹿」
 こら、なに言ってるんだっ、と喜多先生は怒っていたが、かまわずに徳永さんは言った。
「晴海も捨てたもんでもないんだな。しかし……晴海はその気じゃないんだろ。こんなガキにはその気にならないよな、晴海?」
「そりゃそうだけど……私はどうしたらいいんだよ」
「さあな。おまえはどうしたいんだ?」
「……離してもらえますか。抵抗はしません。逃げたりもしません。俺が悪いんですから……ごめんなさい。もうしませんっ!」
 まるっきりガキみたいな謝罪を口にして、俺はフロアにすわって頭を下げた。
「喜多先生のおっしゃる通りでした。俺、好きな子がいて……だけど……だから……俺、どうやってお詫びしたらいいのか……」
「晴海、許してやるのか?」
「二度としないんだったらね」
「しませんっ!!」
 悲鳴みたいな声を出して、俺はフロアに額をくっつけた。もういいよ、と喜多先生の声に続いて、徳永さんは言った。
「晴海がああ言ってるんだったら、俺はいいよ。顔を上げろ」
「はい。いてっ!!」
「徳永、雄心くんの顔は腫れ上がってるんだよ。もう叩いたら駄目」
「腫れてるからこそ撫でてやったんじゃないか。晴海、灰皿は?」
「そんなもんはない。これを使ったら?」
 テーブルにビールの空き缶が乗せられて、徳永さんが煙草に火をつける。今のだって撫でたなんて殴り方ではなかったのだが、俺が悪いのだから、何発殴られても我慢するしかない。
「徳永さん、質問していいですか」
「なんだ?」
「……徳永さんってやっぱり喜多先生を?」
「やっぱり? さっきのか? 俺はタクシーから人影が妙な動きをしているのを見ただけだ。男が女になにやらしてるようだとは思ったけど、女が晴海だとは知らなかった。恋人同士がいちゃいちゃしてるんでもなさそうだし、ってんで近寄ったら、怒ってる女の顔が晴海だったんだよ。晴海じゃなくてもああするさ」
「だけど、徳永さんって有名人なのに……」
 喜多先生も言った。
「有名人たってさ、男に襲われかけてる女をあの徳永渉が助けたってのは、武勇伝でこそあっても、スキャンダルにはならないよ。ファンが増えるかもね」
「下らねえ」
「徳永ってこう見えて、喧嘩はかなり強いんだよね」
「本橋には負けたけどな」
「本橋くんと喧嘩したの? いつ?」
「忘れた」
 さっきの嘘話を思い出すと、羞恥心が湧き上がってきた。俺は喧嘩は強い、負けたことなんかない、と言ったのに、徳永さんにはああもあっけなくやられたではないか。俺は本当は喧嘩なんてのはガキのころにしかやったことはないのだが、徳永さんが強いというのだけは実感できた。
 改めて見てみると、徳永渉って男は実にかっこいい。喜多先生とはお似合いに見えるのだが、それでも恋人ではないのか。
 大人ってわかんねえ、と常々言っている龍に同感だ。このひとたちは実に変なふたりだ。俺は幸生さんから聞いた話をはじめた。喜多先生がさきほど、龍のことも説明していた。徳永さんは龍にも会っていると聞いていたので、前置きはなくてもいいだろう。
「前にね、龍が悪さをして……俺と似たようなことをやったのかな。風俗なのかな。俺はよくは知らないんですけど、それで、金がなくなってフォレストシンガーズのスタジオへ借りにいったんですって。そのときに、乾さんに殴られたらしいんですよ。幸生さんが言うには、乾さんに殴られておめでとう、なんだそうですけど、俺もめでたかったのかな」
「乾の野郎はあいかわらず、かっこつけてやがるんだな」
「あんたって意外と、乾くんに似たところもあるんじゃないの?」
「晴海、それだけはやめろ」
「なんで?」
 めでたくもないだろう。龍は軽くぴしゃっと一発だったようだが、俺は何発殴られたか。明日は顔に青黒い痣ができるかもしれない。しばらくは鏡を見ないでおこう。
 つまり、俺のやった悪さは、龍のやった悪さよりもひどいって意味なのだろう。そういえば、口元も痛い。喜多先生に噛まれたのも思い出した。だけど、どうせこんな目に遭うんだったら、せめてキスしたかったな、と考えかけて慌てて否定した。
 言わなくてよかった。好きです、なんて言わないで、ふたりともに誤解しているようなのだから、そういうことにしておこう。高校時代の恋も告白もせずに終わったのだから、大学時代初の恋も、こうして終わったのだ。
「私は忘れるから、雄心くんも忘れなさい」
 部屋から出ていく俺にかけてくれた喜多先生の言葉は、やっぱり俺、あなたが好きだよ、と思わせてくれたのだが、片想いだっていいではないか。十五も年上の女なんて、つきあえるはずもないのだから。彼女は俺に恋はしていないのだから。


 初体験とは女とのベッドインをさすのだろうが、俺は別の惨めな初体験をした。龍はああやって俺にもみっともない体験を教えてくれたが、俺は龍にこんな話はしたくない。誰にもしたくない。
 喜多先生の住まいを辞し、とぼとぼ歩いていると空腹を覚え、通りすがりの大衆食堂に入った。俺が変な真似をしなかったら、喜多先生にごちそうしてもらえたかもしれないのに。そこに徳永さんも来たら、普通に話せたかもしれないのに。
 後悔先に立たずってのはこれで、俺はくよくよ悩んでいたのだが、サバの味噌煮定食がテーブルに運ばれてくると、食欲が湧いてきた。
「お、案外うまいじゃん。これはこれでよかったかもな」
 今夜の出来事を最初から最後まで思い出すと、泣きたくなってくる。敢えて思い出さないように食うほうに専念していると、店のおばあちゃんに尋ねられた。
「お客さん、顔が……どうかしたの? 喧嘩?」
「兄弟喧嘩です。兄貴に殴られた。俺も殴ったからおあいこ」
「それにしちゃひどいね。痛そう……」
「痛いけど、ちょっとめでたいからいいんです」
「めでたい?」
「そうらしいですよ。俺にもわかんないけどね」
 兄弟喧嘩だと言っておくのが、もっとも穏便だろう。警察を呼ばれたら困るので、そうやっておばあちゃんをごまかしておいて、窓から外を見た。

「あれから僕たちはなにかを信じてこれたかな
 夜空のむこうには
 明日がもう待っている」

「歩き出すことさえもいちいちためらうくせに
 つまらない常識などつぶせると思ってた」

「あのころの未来に僕らは立っているのかな
 すべてが思うほど
 うまくは行かないみたいだ」

 このままどこまでも、日々は続いていくのかな。途切れ途切れに思い出すフレーズは、「夜空ノムコウ」。俺にもあてはまるフレーズや、あてはまらないフレーズもある。つまらない常識だって、つぶせやしないんだよな、とも思う。
 けれど、未来の先には未来があるんだし、俺にだって明日はある。大衆食堂の窓から見える夜空のむこうには、明日が待っている。俺が小声で歌っていると、おばあちゃんが褒めてくれた。
「お客さん、歌、上手だね。これ、サービスしちゃうよ」
「ありがとう。じゃあ、本格的に歌いましょうか」
「歌ってちょうだいな」
 テーブルに漬物の大皿が置かれ、俺はもうすこし大きな声で、「夜空ノムコウ」を歌いはじめた。

END

 
 

 




 
スポンサーサイト


  • 【共作3(まやち&あかね)(温度はお好みで2)】へ
  • 【イラストストーリィ(音琴&あかね)「age.24」(フォレストシンガーズ)】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【共作3(まやち&あかね)(温度はお好みで2)】へ
  • 【イラストストーリィ(音琴&あかね)「age.24」(フォレストシンガーズ)】へ