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小説145(変な女)

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ひめ
フォレストシンガーズストーリィ145

「変な女」


 あの城は鶴ヶ城というのだそうだ。シゲさんだったら好きだろうけど、俺は城になんか興味はない。会津若松の城を横目で見ただけで、俺はタクシーを止めた。
 タクシードライバーは俺を知らない様子だが、俺たちも近頃はけっこう世間の認知度が高まっている。幸生や俺はたびたび若い女のファンに声をかけられる。幸生が言っているのはあいつの見栄だか大げさだかだとも考えられるけれど、俺は本当に女の子に騒がれるのだ。
 乾さんはあまり言わないが、そんな経験はあるだろう。本橋さんにもあるだろう。五人そろって街をうろつくと目立つのはまちがいなくて、売れてきてからは五人つるんでナンパだなんて……いやいや、前からそんなことはしてないけどね。
 それはともかく、五人そろっては散策なんかできやしない。ライヴツアーで訪れたなじみのない街を歩くとしても、ひとりずつかせいぜいふたりでだ。今日は俺はひとりだ。
 他の三人と俺が街を歩くときのことばかりで、シゲさんはってのは……だってさ、シゲさんだけは昔と変わらず、ファンに発見されて騒がれるなんてこともほぼない、自由な散策ができるらしい。
 別にうらやましくはないのだ。こんな仕事をしている以上、ファンの女の子に、あ、フォレストシンガーズの木村章っ!! と叫ばれて駆け寄ってこられて、サインだの握手だのせがまれるのは、嬉しいといえば嬉しいのだから。
 半分迷惑なんだけど、などと言おうものなら、おまえはまだそんな態度か、と乾さんにどやされる。あいつもまだ、時として俺に対してはあんな態度なのだから。
「お客さん、学生さん?」
 愛想のなかった中年ドライバーが、急に俺に質問した。
「学生にしたらひねてるかな。ちっこいから若く見えるけどさ」
 そう言うおっさんは巨漢だ。俺をちっこいと言って腐らせておいてげたげた笑う。ちっこいと言われるのは慣れてはいるが、てめえに言われたくねえんだよ、と言い返せない体格の相手なのでむかついた。
「俺は東京からこっちに来たんだよ。最初は親戚の会社で働いてたんだけど、倒産しちまってさ、やむなくタクシーの仕事をするようになったんだ。あんたなんか若いからいいよね」
「……若いったって三十はすぎてるんだけどね」
「三十だったら若いじゃないか。五十すぎると仕事なんかありゃしない。俺は新米ドライバーだから、あんたの言ったホテルの場所がいまいちわかんないんだけど……」
「それは困るでしょ」
「どうにかなるさ」
「どうにかしてもらわないと困るんだよ」
「まあまあ、怒りなさんな。のんびり行くさ」
 質問はするくせに、俺の話はろくろく聞こうともせず、おっさんはてめえの身の上話などをはじめた。そんな話は聞きたくねえってのに、とも言えず、俺の苛立ちがふくらんでいく。おまけにおっさんはたしかに地元の道をよく知らない様子で、えーと、こっちだったかな、ちがったかな、と悩んでいるではないか。
「ちょっと、大丈夫なの?」
「なんとかなるさ。で、あんたはなんの仕事してるの? ニートとかいうやつ?」
「俺の話なんか聞きたくねえんだろ。あんたはあんたの話がしたいんだろ。俺もあんたの話は聞きたくないんだから、黙って運転しろよ」
 ついにそう言うと、おっさんはルームミラーで俺の顔をぎろっと睨んだ。
「あのね、若いからって仕事を選んでるのはよくないんだよ。なんだっていいから働きなさい。労働は人間の義務なんだから」
「あんたに説教されるいわれはなーい。それにだな、俺はニートなんかじゃねえんだよ」
「なんの仕事?」
「……歌手。シンガーだよ。フォレストシンガーズって知らない?」
「知らない。嘘だろ」
「本当だ」
 信じてないな、この野郎、と思うと、頭の中がかっかとしてきた。
「あんたには娘か息子がいるんだろ。奥さんだっているんだろ。帰ったら聞いてみろよ。フォレストシンガーズの木村章、それが俺だよ」
「まあ、売れてないんだったら知らないだろうけど、本当に本当?」
「本当だって言ってんだろ。しつこいんだ。それにそれに、ちっとは売れてるよ」
「ふーん」
 疑惑のまなこありありで、おっさんが俺を見やる。かっかしてきていたので窓の外を意識していなかったのだが、気がつくと住宅街のようなあたりに入り込んでいた。
「俺が行ってくれって頼んだホテルは、繁華街にあるんだぜ。こんなところに来たら方向ちがいもいいところだろうが」
「俺はプロなんだから、まかせなさい」
「道を知らないプロになんかまかせられっかよっ!!」
「……なんつうすごい声だろうね。あんた、男?」
「じゃっかましいっ!! ここで降りる!」
「あ、そう、どうぞ」
 なんだって変なところへ連れて来られてこんな大金を払うんだ、とは思ったのだが、しっかり料金はふんだくられて車から降りた。降りた途端に後悔したのだが、タクシーは行ってしまった。
 実はあのおっさんもホテルの場所を探し当てる自信がなくて、俺が降りると言ったのをもっけの幸い、逃げたのではないか。だとしてももはやどうしようもない。俺も気が短いよな、リーダーに似たのか、もともとこんななのか。
 後悔しつつ歩いていると、住宅街に一軒のバーらしき店の灯火が見えた。紫のネオンサインというのだろうか。「ヴァイオレット」の名の田舎っぽいバーであるらしい。
 ここからならタクシーを呼んでもらえるだろう。怒ったせいか喉が渇いた。一杯飲んでいこうかと、俺は紫のドアをくぐった。中にはママさんらしきおばあさんがいて、客はたったひとり。隅のボックス席に若い女の子がすわっていた。
「えと、あの、いいですか」
 うさんくさそうにふたりして俺を見つめ、おばあさんがいやそうにうなずいた。女の子のほうは言った。
「あの、もしかしたら、フォレストシンガーズの木村章?」
「な、ほら、ほんとじゃんよ」
「え?」
「いやいや、こっちの話。タクシードライバーに、俺はフォレストシンガーズの木村章だって言ったら疑われたもんでさ。あなたは知ってくれてるんだね。ありがとう」
 よく見るとなかなか綺麗な子だ。二十歳くらいか。おそらく身長は俺と同じくらいだろうから、女としては小さくはない。Tシャツの胸がかなり豊かなのも見て取れた。
「木村さん、ここにすわる?」
「いいの? いいんだったら喜んで」
 会津若松はド田舎ではない。俺の故郷の稚内よりは都会というか、いかにも観光地の風情がある。それにしたって大都会ではないのだが、こんなに可愛い子がいるのだ。にわかに気分がよくなって、俺は彼女の向かい側にすわった。
「あなたの名前は?」
「ノンって呼んで」
「ノンちゃんか。なに飲んでるの?」
「ヴァイオレットフィズ。木村さんはなににする?」
「店の名前もヴァイオレットだよね。俺もそれにしようかな」
 酒をすごすと寝てしまい、ひとたび寝たら容易には起きない。この体質が幾度俺に災厄をもたらしたか。
 今夜ははじめて会った女の子と酒を飲む。彼女は俺に好意的な目を向けてくれている。最初はうさんくさそうに見えたのは、近視だからであるらしい。しかめっ面をしていたのではなく、俺が誰なのかを見極めていたのだろう。
 なのだから、強い酒は俺には危険だ。ヴァイオレットフィズはアルコール度数が弱いはずだからちょうどいい。おばあさんが作ってくれたカクテルを、彼女のカクテルと合わせて乾杯した。
「きみとの出会いを祝して……」
「嬉しいな。東京の芸能人に会うなんてはじめて」
「俺のほうこそ嬉しいよ。聞いていい? きみは学生?」
「これでもグラビアアイドルなんだよ」
 嘘だろ、と言いたくなったのだが、ここで彼女を嘘つき呼ばわりしては、さっきのドライバーと同類になってしまう。俺は苦笑いして言った。
「グラビアアイドルなんて仕事をしてるんだったら、東京で芸能人とだって会うだろ」
「地元オンリーのグラビアアイドルなの。こっちではノンってけっこう有名なんだ。会津のタウン誌だとかPR誌だとかのグラビアを飾ってるわけ」
「ふむふむ」
 グラビアアイドルにもローカルタレントがいるのか。知らなかった。
 もしもそれが嘘だとしても、俺には弊害はない。見栄を張りたいんだったら張っていればいい。彼女は可愛いんだから許す、俺はそんな気持ちになっていた。
「仕事? なにしに会津に来たの?」
 なにをしにきたのか話すと、ノンは目を輝かせた。
「へええ、東北ライヴツアー? チケットはまだある?」
「前売りは完売したよ。キャンセルだったらあるかもな」
「あたしはフォレストシンガーズって知ったのは最近だけど、もう長くやってるんだよね」
 本橋さんならば彼女のなまりを聞き取れるのかもしれないが、俺にはわからない。会津出身ではないのか、仕事柄、標準語を使うのか。どっちでもいい。
 ファンの女の子を時にうざいと感じ、邪険にしては乾さんに怒られる。だって、うざいものはうざいんだもん、と言いたくなるのだが、ノンはちっともうざくない。可愛い女の子ってのは得だ。グラビアアイドルにだってなれそうな身体つきと顔立ちをしている。
 互いの仕事の話をしているうちに、彼女が嘘を言っているのではないと思えてきた。それだってどっちでもいいのだが、いつしかついついグラスを重ねてしまう。あんまり飲むな、章、と俺は俺に言っていたのだが、たかがヴァイオレットフィズだし、とも思っていた。
 ふたりともにほわっと酔って、ノンがより以上に綺麗に見えてくる。彼女も俺には好意を抱いたのはまちがいないだろう。フォレストシンガーズが泊まっている今夜のホテルではなく、別のホテルに誘いたくなってきたのだが、してはならない行為なのだろうか。
 おそらく、幸生なんぞは最近もナンパをして、釣り上げた女の子とホテルに行っているはずだ。俺は最近はやらなくなったのだが、二十代のころまではやっていた。
 あんたみたいなちび、お断り、と言われたこともあるが、小柄な男は女の子の警戒心をゆるくさせる傾向もあるようで、俺だって幸生には負けるであろうが、ナンパ成功率は低くはないのだ。今夜も誘えば、ノンはうなずいてくれそうな気がした。
 けど、やったらいけないのかな。俺は常識ある社会人。ちゃらんぽらんロッカーではないのだから、真面目なシンガーズの一員だと、世間に認められてきている男なのだから。
 ノンと話をしながらも、頭の片隅ではそんなことを考えていた。売れるってのはそりゃあ嬉しいけど、不自由になったもんだよな。昔のまんまはできないのは当然だろうけど、昔のほうがいいってところもあったよな。
「贅沢だな。あたしだって東京に進出したいよ。売れたいよ」
「あれれ? 俺、声に出してた?」
「売れると不自由だって、章さんの心を読んだの」
「ほおお。それはそれは」
「信じてないな」
「信じてますよ。じゃあさ、俺の心の奥のほうにはなにがある?」
「ノンと寝たい」
「……きみとこうやって飲んでたら、たいていの男はそういう欲望を抱くよな。心を読むまでもないんじゃねえの?」
「こいつ、人の気持ちを読み取るのに長けてるな。乾さんみたいだ」
「ええ?」
 ここまでの台詞は、テレパシー能力なんかなくても推測するのは簡単だろう。だが、乾さん云々ってのは? ぎくっとして、俺は気を取り直して笑ってみせた。
「そういうのって、俺たちのインタビューとかラジオとかで言ってるもんな。きみは勘が鋭いんだよね。たしかに乾さんに似てるよ」
「信じてくれなくてもいいけどね」
「そんなのどうだっていいじゃん」
 客はまったく入ってこなくて、おばあさんはカウンターのむこうで居眠りをしている。俺たちの会話にはまったく関心もなさげだった。
「これも信じてくれないんだろうな。あたしには前世の記憶があるんだよ」
「……やめようよ、そういう話は」
「どうして? あたしはしたいもん」
「したかったらしてもいいけど、俺はそういう話は信じない」
「信じてくれなくてもいいの」
「そんならすれば?」
 紫のカクテルをひと口飲み、ノンは言った。
「あたしは幕末のころには会津の姫さまだったの。最後の最後まで鶴ヶ城を守って、お城が焼け落ちたときにお城の中で死んだの。白虎隊の少年たちが……」
「あのさ、そういうのってシゲさんや乾さんは詳しいけど、俺は歴史にも興味ないからね。言われても意味がわかんねえよ」
 前世女で歴史好き女か。徐々に口説きたい気持ちが失せていっていた。
 うーんざり気分になった俺は、まともに聞いてはいなかったのだが、ノンはひたすらに幕末がどうの姫さまがどうの、殿さまがどうのと喋り続けていた。下らないのでこっちはひたすらに飲んでいると、意識がぼーっとなってくる。
「やべっ。きみの家は近いの? 送らなくても大丈夫?」
「送ってなんて頼んでないじゃない。もう帰るの?」
「俺、明日はライヴなんだよ。ホテルに帰って寝なくちゃ。ノンも俺の部屋に来る? 幕末だの前世だのって言わないんだったら、ついてきてもいいよ」
「ふんっだ。見くびらないで」
「どうも失礼」
 断ってくれてよかった。変な台詞を連発しないのならば、ノンは好みのタイプだが、仕事でやってきた東北の街でファンの女の子をホテルに連れ込むとは、リーダーや乾さんにばれたら大目玉だ。ばれなかったとしても、俺はもはやそんなことをしていい立場ではない。
「寂しいなって思った?」
「きみとこのまま別れるのは寂しいから、送っていくよ」
「歩いて帰れる距離だから、送って」
「近いんだったらもう一度ここに戻ってくるよ。ママさん、あとでタクシー呼んでくれます?」
「はい」
 客にはかまわない主義なのか、単に面倒なのか、余分な口は一切きかなかったおばあさんがうなずいてくれたので、俺は彼女に金を支払ってバーの外に出た。ノンもついてきた。
「ごちそうさま。章さんはお金持ちなんだよね。おごってもらって得しちゃった。お礼に……」
 とキスしてくれた。
 キスやハグなんてのはファンとのコミュニケーションだ。ノンみたいな可愛い子だったら大歓迎なのだが、時々は不細工な女やらおばさんやらとも……これはスターになりつつある歌手の宿命というか、有名税ってやつなのだから受け入れるしかないだろう。
「金持ちでもないけど、近頃は収入は増えてるよ。昔はさ……どっち?」
「あっち」
 ノンが指差した方向へと歩き出した。ノンが腕をからめてくると、いい香りがした。
「有名になると寂しいの?」
「俺の気持ちを読んだつもり? うん、まあ、寂しさはあるかもな。有名ってほどでもなければ金持ちってほどでもないけど、恵まれてきた分、不自由さも増すんだよ。両方は手に入れられないんだな。バイト感覚でローカルアイドルやってるほうが楽だぜ」
「バカにしてる」
「そもそも会津の姫さまが、水着姿とかを他人の目にさらしていいのか? ご先祖さまだか誰だかに怒られるんじゃねえの?」
 返事をせずにつんっとした仕草が可愛くて、別れてしまうのが惜しくなってきた。こんなときには昔に帰りたくなる。言い寄ってくる女の子と手当たり次第に寝ていた、二十歳のロッカーに戻りたくなるのだった。
「章さんって恵まれても不満があるんだね」
「あるよ。不満のない奴なんていねえだろ」
「稚内かぁ。行ってみたいな」
 またまたぎくっとした。俺は稚内出身だなんてひとことも言っていない。が、落ち着いて考えてみれば、WEBサイトにも載っている。雑誌のインタビューだのラジオだのでは話しているのだから、ノンが知っていたとしても不思議ではないのだ。
「きみの話は唐突によそに飛ぶんだな」
「幸生みたいに、って、今、思ったでしょ」
「思ってねえよ」
 いや、思ったのだ。ノンは特別製の勘の鋭い女なのか。女としてはそういった性格も不思議ではないだろう。
「ね、章さん、目を閉じて?」
「なんで? こう?」
 ディープキスでもしてくれるの? と考えながら言われた通りにすると、そんなのしてあげない、とノンの声が聞こえる。男が可愛い女の子といてする発想なんて、誰しも同じだろう。どれもこれも驚くには値しない。
 目を閉じるとノンの手が俺の手を取った。頭の中に情景が映し出される。時代劇に出てくるお姫さまと、姫さまに恋している町人の男? 姫さまの衣装の女はノンで、男は俺だった。
「……な、なんだ、これ? ノン……きみが?」
 気持ちが悪くなってきたので目を開けようとしても、俺の意思に反して目は閉じたままだ。ノンのつめたい手の感触だけが現実のもので、感覚はなんだ? さっきのヴァイオレットフィズに変な薬効成分が?
 秋田で本橋さんは、蛇苺を食って妙な事態になった。俺もあんなふうになるのか。本橋さんはどんな経験をしたのかはっきり話してくれなかったけれど、俺みたいに? 東北は苺にも酒にも妖しい成分が含まれているのか。
 考えたのはそこまでで、俺の視界に男と女がいっぱいに広がった。声も耳に流れ込んでくる。ついさきほどまで話していたノンと、俺自身の声だった。
「姫さま、俺と逃げよう。こんなところにいたら焼け死んでしまうよ」
「私は会津の姫。逃げるわけには参りませぬ」
「そんな……」
 なんなんだよっ、これはーっ!! と絶叫したいのだが、言葉が出てこない。俺は酔ってるんだ……だからこんなおかしな感覚に支配されてるんだ。
 だけど、この俺はこのノン姫さまに恋してるのだろうか。一生懸命逃げようと説得し、姫はかたくなに拒絶し、美麗な衣装の裾をひるがえして駆け出していく。俺には歴史の知識はほとんどないのだからして、時代劇のワンシーンみたいだとしか思えなかった。
 ここは会津若松の鶴ヶ城なのか? どうしてこんな幻が見える? 炎が迫っている。やけに臨場感も現実感もあって、火の熱さまでを感じて、俺は悲鳴を上げ、そこでようやく目が開いた。
「……ふへっ……なんなんだよ、今のは? きみが見せた? きみは魔法が使えるのか? そうじゃなくて、手品かよ。ノン、ノン、あれれ? どこに行った?」
 手と手を重ねていた感触も消えていて、ノンの姿はどこにもなかった。ぞぞーっと総毛立った俺は、必死になって走ってもと来た道を引き返し、バーのほうへと急いだ。
 が、たしかにここに建っていたはずのバーがない。方角をまちがえるはずもないのだが、ないものはない。周囲は静まり返った住宅地なのだから、人通りも皆無で、誰かに尋ねてみるわけにもいかないのだった。
「……勘違いだよな。ノンは俺があいつの趣味とは合わないから、逃げたんだろ。バーも別の場所にあるんだよ。ノンの家はあの近くで、家に飛び込んだのかもしれない。うん、そうだそうだ。しかし、俺はどうすりゃいいんだ? どうやって帰ろうか」
 話しかける相手がいなくなったのでひとりで喋り、俺、もしかして住宅街のど真ん中で遭難した? などと考えて青くなりそうになってから、大変に現実的な事実を思い出した。携帯電話があるではないか。
「……乾さん、俺、どこにいるのかわからなくなって……」
 こんなときに頼るのは、どうしたって乾さんだ。電話に出てくれた乾さんは、呆れ声を出した。
「知らない土地をひとりで出歩いたって、迷子になる年でもないだろ。タクシーはいないのか」
「いませんよ。どうしましょ? 乾さんはどこ?」
「ホテルの部屋だよ。迷子になるようななにがあったんだ?」
「変な女がいて……変な経験っつうか、俺、酔ってるんですよね」
「女?」
 つっと乾さんの眉が上がるのが見えた気がして、俺は焦って言った。
「女とは酒を飲んで別れました。彼女を家まで送っていったら、帰り道がわからなくなっちゃったんですよ。彼女はもう寝ただろうから、起こして道を聞くってのも迷惑でしょ」
「ああ、そういうことか。変ってのは?」
「前世だとか歴史だとか……」
「ああ、それね。そういう女性ってたまにいるんだよな。さて、どうするか」
 納得してくれたので安心して、俺は乾さんに現在の状況を説明した。それから、乾さんがどうするかを考えついてくれるのを待っていた。
「……住宅街なんだったら住所表示のプレートかなんかがかかってるだろ。会津若松市なんとか町、なん丁目ってやつ。詳しくわかったらその場所を告げれば、タクシーが行ってくれるんじゃないかな。目印になるなにかがあればさらにいい」
「その手があるんだ。助かった」
 暗いので探しづらかったが、必死になって見回すと、乾さんが言ったプレートが見えた。会津若松市○○町三丁目XX。閉店はしていたが、「木村理髪店」という看板も見えた。
「俺と同じ名前の床屋があります。住所は……」
「うん、それで行けるんじゃないかな。俺がタクシー会社を調べて電話するよ。どうなったかは報告するから待ってろ」
「はい、お願いします」
 冷静さを失って、こんな簡単なことすら思いつかなかった。ノンのせいで俺は頭がおかしくなっていたのだろう。
 あいつが俺に見せたように思えた幻は、酔いが産んだ錯覚。ノンの台詞なんぞはおたく女のたわごとだ。帰れるとなったら現実が戻ってきたのだから、俺は尋常に判断できるようになっていた。しかし、酔いが見せた幻覚にしては……いやいや、ノンが超能力者だなんて、そんなはずない。あるはずないっ。
 今夜の経験を乾さんに話したら、ロマンティックにだかファンタジックにだか妄想をふくらませて、あれこれと語ってくれるだろう。乾さんの妄想譚を聞きたい気もするが、俺がうまく話せそうにないからやめておこう。
「章、もうすこし待ってろ。タクシーがおまえを迎えにいってくれるよ」
 ほどなく乾さんから電話があり、礼を言って俺は待っていた。タクシーを待っている間は暇なので、雑念が起こる。
 けれど、乾さんは聞きたがるだろう。どうごまかして普通の話にするか。変な経験だと言っただけで、すでに乾さんは勘ぐっているだろうから、どうごまかそうか。俺では乾さんの妄想力には勝てないしなぁ。
 そんなふうに悩んで待ち続けていると、やがてヘッドライトが近づいてきて止まった。今度のドライバーは女だった。
「あらぁ、フォレストシンガーズの木村章さん?」
 東北っぽいなまりで尋ね、彼女は満面の笑みを浮かべた。おばさんではあるが、先ほどのおっさんよりはずっといい。ノンみたいな変な女よりも今のところはずっといいと、考えておこうか。
「乾さんってひとから電話がかかってきて、おかしな頼みをされたもんだから、女のあんたで大丈夫か、って事務のひとが心配してたんだよ。でも、他の車は出払ってたの。乾さんってのもフォレストシンガーズの? きゃあ、あたし、大ファンなの。お茶を引いててラッキーだったわ」
「お茶を引くっていうの? 水商売じゃないのに?」
「似たようなもんだわよ」
 賑やかなおばさんはうるさくなくもないが、思い切り現実的な話をしてくれる。サインしてくれる? あとで握手もしてくれる? とせがまれて、俺は精一杯愛想よく返事をしていた。
「ねえ、木村さん、おねだりしていい? ライヴになんか行けないんだもの。木村さんの生の歌が聴きたい」
「うん。助かったんだからいいですよ。俺が書きかけてる曲。完成はしてないんだけど、あなたに聴いてもらって、忌憚なき感想ってのを言ってもらうのもためになるよね」
「え……本邦初公開?」
「地球上初公開」
 感激の面持ちのおばさんドライバーのために、俺は歌った。俺が書いているのは曲なのだから、歌詞はないのだが、即興でノンを歌詞に登場させた。

「あんたの前世はお姫さまだって?
 素敵な前世でよかったね
 生きている現実に満足できないからって
 もひとつ前に生きてた時代を
 そんなふうに素敵な妄想で彩るんだな

 ま、いいさ
 それであんたが幸せなんだったら
 俺もつきあってやるよ
 
 姫さま、こんなところにいたら焼け死ぬよ
 俺と一緒に逃げよう
 どう? 
 この反応でいいかい?」

 ふーむ、パンクか、とおばさんが言う。たしかにパンクロックじみた歌詞になった。俺はパンクは嫌いだが、意外とこの詞は悪くないかもしれない。しかししかし、この歌を乾さんが聴くと、おまえの経験談か、なんて言いそうな気もする。どうしようか。
「いい声だね。木村さん、あたし、あんたの声が大好き。フォレストシンガーズの中では木村さんが一番好きなの」
「ありがとう。歌はどう? タイトルは……そうだな、仮題「変な女」って感じ」
「よくはわからないけど、木村さんが歌ったら最高」
 さっきのおっさんはルームミラーで俺をぎろぎろ睨んでいたが、このおばさんは潤んだ瞳で俺を見つめている。俺に口説かれたいの? と軽口を叩きそうになって、からくも口を閉ざした。そうなの、どこかに連れてって、ではなく、この車、いいところにつけてあげるわよ、うふっ、とでも言われたらなんとする。
「もうちょっとあたしが若かったらね。ダンナも子供もいる自分が恨めしいわ」
「いいじゃん。前世女よかよっぽどいいよ」
「前世ね。あたしはそんなことを考えてる暇なんかありゃしないよ。日々の生活で手一杯」
「そのほうがいいでしょ」
 はー、よかった。このおばさんは健全な主婦なのだ。ホテルに帰ったら乾さんをごまかすために骨を折る必要がありそうだが、とにもかくにも今は、現実が満ちあふれている車内の空気がひどく心地よかった。

END


 





 
 
 
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