novel

小説144(時の流れに身をまかせ)

 ←短いあらすじ3       →短いあらすじ・番外1
98879f9cb3d8ae6a.jpg

フォレストシンガーズストーリィ144

「時の流れに身をまかせ」


 煙草に火をつけて譜面を睨みつけ、唸っていたら、昔日の追憶が不意に蘇ってきた。
 あれは十数年前、乾さんも俺もまだ学生だったころだ。俺は高校生時代から作詞も作曲もしていて、上達してきているつもりだった。それにはむろん、先輩たちの教えが関与していたのではあるが、俺には歌の実力も作詞作曲の能力も、生まれついて備わっているのだと思い込んでいたのだ。
「三沢、これ……」
 そんなある日、前日に乾さんに見てもらおうと渡しておいた歌詞ノートを、合唱部室で返された。褒め言葉を期待して目を輝かせていたであろう俺に、乾さんがくれたのは拳骨だった。
 すでに本橋さんには気軽に殴られて慣れっこになりつつあったのだから、俺が大学二年生の年だったか。が、乾さんは常に言葉でコミュニケーションを図ろうとする。本橋さんのようにいきなり殴ったりはしない。
「おまえはうるせえんだよ。おまえは黙ってろ」
 この台詞に本橋さんの場合、ほぼもれなく拳骨がついてくるのだが、乾さんに痛いほどに殴られたのははじめてだった。
「……なんで殴るんですかっ。乾さんまで本橋さんみたいにぃぃ」
 頭を押さえて食ってかかった俺に、乾さんは言った。
「これだ、これ。読み返して反省しろ」
「俺の書いた詞? どこか変でした?」
「音読してみろ」
 言われて俺のポエムを読み上げた。

「あなたを愛してる
 こんなにも愛してる
 なのにあなたは振り向いてくれないの?

 僕のこの想いは
 どうすればあなたに伝わるんだろう

 愛しているんだよ
 ただひたすらに
 命からがら愛してる」

 これのどこがどう、殴られるほど悪いというんだ? 俺にはさっぱりわからなくて乾さんを見返すと、横で吹き出したひとがいた。小笠原のヒデさんだった。
「ヒデ、おまえにはわかるよな?」
「わかりますけど、言わないほうがいいんですか」
「三沢に自ら悟らせなくちゃ、でないといつまでもこんな詞を書くだろ」
「かもしれませんね。三沢、よーく考えてみろ」
「自分の胸に聞いてみろ」
 あのころは俺は先輩たちには、幸生ではなく三沢と呼ばれていた。乾さんとヒデさんは失笑、苦笑に憫笑までまじえて笑っているように見える。俺にはその意味が理解できなくて、ノートを睨んで考え続けていた。
 そこへやってきたのが本橋さんとシゲさん。本橋さんは俺が睨んでいるノートを横から覗いてげたげた笑い出し、シゲさんが言った。
「三沢、命からがらってのはさ……危機に陥った際に命からがら逃げ出した、ってときに使うんじゃないのか?」
「じゃあ、これだとどう書くの? 命ぎりぎり? 演歌みたいになっちゃうじゃん」
「……この詞がいいのか悪いのか、俺には判断できないんだけど、命からがらは最悪だろ。まあ、他も普通すぎるってのか……いやいや、俺には詞についての意見を述べる資格はないけど、命がけでって意味だったら……うーん、むずかしい」
 シゲさんも俺と一緒に悩んでくれて、ヒデさんと本橋さんはげらげら笑っていて、乾さんは俺を、困った奴だ、どうしようもないな、といった目で見ていた。
 つまり、当時の俺の言語能力はそんなだったのだ。あれから十年以上の歳月が流れ、今では他人に提供した詞がヒットするというまでになっている俺にも、そんな幼い日はあったんだってことさ。
「自信を持つのは大切だけど、過信はよくないんだよ。俺の自戒も込めて、おまえにこの言葉を贈ろう」
 そう言ってくれた乾さんの薫陶は多大だ。乾さんと知り合っていなかったとしたら、俺は今ごろなにをしていただろう。
「俺は今のシゲ以外のシゲなんて想像もできないし、したくない」
 シゲさんはそう言うけれど、俺には想像だったら可能だ。
 あの大学の合唱部で木村章とまず友達になり、小笠原のヒデさんと本庄のシゲさんとも知り合ってなつくようになった。それから遅れて山田美江子さんとも、本橋真次郎さんとも、乾隆也さんともお近づきになれた。
 フォレストシンガーズを結成する以前の俺は、憧れの先輩たちと親しくしてもらえるだけで嬉しかったものだ。乾さんだけではなく、他の先輩たちや章とも知り合っていなかったとしたら、俺は今はどんな境遇に?
 大学受験をすると決まったときには、教師に言われた。おまえにはあの大学はちょっとな……レベルがちょっと高いかな、と。
 勉強は大嫌いだった俺は、教師の台詞に従って、志望校を変更するとも考えられた。なのになぜだかあの大学に固執したのは、俺の運命がそう回転すべきだったからだと今では思えるのだが、別の大学に進んでいたとしたら?
 そうしたら本橋さんたちには出会わなかった。別の大学でも俺は合唱部に入っただろうか。そうして別の先輩たちと知り合って、別のヴォーカルグループを結成していた? それとも、ソロシンガー三沢幸生としてデビューしていた?
 歌手ではない三沢幸生を想像するのは、俺にも困難である。俺は想像力はあるつもりだが、歌手ではない俺の人生はいらないのだから。
 譜面を睨んで歌詞の検討をする予定だったのに、気が散ってうまくできない。外に出て気分転換をしてこようと、俺はホテルの部屋から出ていった。
 数日前からフォレストシンガーズの東北ライヴツアーが開始されていて、明日は山形ライヴだ。山形といえば酒巻の出身地。あの、可愛いところもある後輩とも、俺があの大学に入学しなければ会わなかったのだ。
 山形には今日到着し、リハーサルをすませてホテルのそれぞれの部屋に引き取った。まだ夜中ではないので、店じまいの早い地方都市でも居酒屋あたりなら開店しているだろうか。ひとり酒でも飲もうかな、ってんで、俺は繁華街のほうへと足を向けた。
 目についた田舎テイストの居酒屋に入り、日本酒とおつまみを注文する。手酌で酒を飲みつつ、あの歌詞はどこをどうしたら……と考えていると、うしろから肩を叩かれた。
「こんなところに知り合いが……本橋さんか乾さんか……」  
 シゲさんか章? と言いつつ振り返ると、なんだってここにおまえが、って奴がいて、俺のとなりに腰を下ろした。
「おまえ、里帰りするなんて言ってなかったじゃん。東北ライヴツアーなんていいですね、僕も行きたいけど無理だな、って言ってたじゃん。急遽来たのか?」
「三沢くん、言葉遣いに気をつけたほうがいいよ」
「三沢くん? 俺はおまえにくん付けで呼ばれる……」
「いや、たしかに三沢くんは僕よりも年上だよ。ひとつ年上の大学の先輩だね。しかし、忘れているようだから言ってあげようか」
 皮肉な目つきに皮肉な口調。サラリーマンみたいな背広にネクタイの酒巻國友は、お絞りで顔をぬぐってから言った。
「僕は山形出身だから、こっちにだったら縁故入社の口もあったんだ。きみは大学を卒業しても就職が決まらずに、僕に泣きついてきたんじゃなかったかね?」
「そ、そうでしたね」
「酒巻さん、俺もあなたの会社に就職させて下さい、って泣きそうな声で電話してきたじゃないか。僕は覚えてるよ。きみは忘れた?」
「いえ、どうぞ、お続け下さい」
 あまりにも普段の酒巻とは様子がちがう。であるからして、冗談だの芝居だのではないと思える。これはなんなんだろ、と思いながらも、俺は彼を促した。
「それで僕が口をきいてあげて、うちの会社に就職させてあげたんだよね。学生時代にはきみは僕に先輩ぶっていたけど、あれから態度が変わったじゃないか。それから数年、現在でもきみは平で、僕の部下だろ。いつもは係長って呼んでるよね」
「はい、思い出してきました。さっきは少々込み入ったことを考えてましたので、頭がおかしくなってたみたいです。ま、どうぞ」
「うん」
 酒を注いでやると、酒巻はいばった仕草で杯を干した。
「俺、サラリーマンなんだ」
「そうだよ」
「で、あなたの部下なんですね。酒巻さん、感謝してますよ。あなたのおかげで俺も人並みに食っていけてるんですから」
「うん、まあ、いいんだけどね」
 これしきの芝居は俺にはお手のものなのだが、なんだってこんなシチュエーションになるのだろうか。見知らぬ街で、フォレストシンガーズの三沢幸生ではない三沢幸生の人生について考えていたから、妙な次元へと迷い込んだのだろうか。
 現実に戻れなかったとしたら困るが、ひとときならばこれも面白い。戻れなかったとしたら、などと考えるのはひとまずやめて、俺は酒巻、ではなく、酒巻係長に探りを入れた。
「係長はご結婚なさってるんですよね」
「当然だろ。きみは奥さんとはうまく行ってるのか」
「あらら……」
 この俺までもが結婚しているのか。妻ってどんな女だろう。
「あららとは?」
「いえ、すみません。三十一だもんな。既婚子持ちでもおかしくないんだ」
「きみの奥さんも僕が紹介してあげたんだよ。忘れたんじゃないだろうな」
「いえいえ、そのせつもあのせつもお世話になりっばなしで、酒巻係長あっての三沢幸生でございます。今夜は俺におごらせて下さいね」
「そうか、うん、ごちそうになるよ」
 彼も俺もサラリーマンか。みたいではなく、そのものだ。どんな仕事? なんて訊くと変だろうし、そんなことはどうでもいいのだが、俺はTシャツにコットンパンツの軽装だ。家に帰って着替えてから飲みに出たって設定なのか。
 設定ってさ、誰の、なんの設定? セルフ突っ込みを入れてみても、答えがあるはずもない。そうすると……気がかりを質問してみた。
「フォレストシンガーズってごぞんじですか、係長?」
「もちろん知ってるよ。うちの大学の合唱部出身の男たちだろ。きみも僕も合唱部ではなかったけど、同窓生が売れてきたのは喜ばしいね」
「えーと、フォレストシンガーズって誰と誰がいるんでしたっけ」
「きみは忘れっぽいね。僕は全員の名前が言えるよ」
 本橋真次郎、乾隆也、小笠原英彦、本庄繁之、木村章、と酒巻係長は、フォレストシンガーズ五名の名を並べた。
「木村って中退……」
「大学を? 中退はしていないはずだよ」
「小笠原って脱退……」
「脱退もしてないはずだよ。フォレストシンガーズはデビューしてから十年近く、メンバーチェンジもしていないんだ」
「お詳しいんですね」
 すると、この世界では俺は合唱部に入部せず、章は大学を中退せず、ヒデさんはフォレストシンガーズを脱退しなかったのか。そんなふうに枝分かれした別次元世界なのか。
 パラレルワールド? いつかそんな経験をしたような記憶があるのだが、しているはずはない。これはたぶん……ひとりで酒を飲んでいるうちに酔ってしまって、うたた寝をしている俺が見ている夢なのだ。
「やっぱやだな。酒巻にいばられるなんて耐えられないし、相手がいい女だったら結婚してるのも悪くはないんだろうけど、サラリーマンなんて性に合わないよ。やだやだ、現実に戻れよぉ」
 小声で言ったひとりごとに、係長が反応した。全部は聞こえなかったらしいのだが、いやらしい笑みを浮かべて、結婚、に反応したのだ。
「きみの奥さんね……きみは遊び好きだろ。軽い気持ちでつきあって子供ができて、にっちもさっちも行かなくなって、できちゃった結婚ってわけだったんだな。ああ、僕は写真を持ってるよ。先日の分だ」
 できちゃったは流行だもんな、となおもいやらしい笑みをたたえたまま、酒巻が写真を見せてくれた。
 なんでも、酒巻一家と俺の一家がともにゴールデンウィークにハイキングに行ったときの写真なのだそうだ。撮影したのは俺だそうで、俺は写っていない。酒巻とその妻であるらしき小柄な可愛い女性。そのひとに見覚えはなかったが、まあまあいい女である。
 それから子供がふたり、酒巻の娘と俺の息子なのだそうだ。三つ、四つに見える幼児が母親にくっついていて、残る女が俺の妻?
「……うげ」
「うげ、とはなんだよ。まあね、ま、わかるけど」
 縦も横もえらくでかい女だった。俺のストライクゾーンからはもっともかけ離れた女だ。この女を係長に紹介され、軽い気持ちで遊んでできちゃって結婚? そんな人生、ますますいらない。逃げ出したい。
「この店、カラオケはあるんですかね」
 歌いたくなってきて言うと、係長が冷笑を浮かべた。
「あるのかもしれないけど、やめたほうがいいよ。きみが歌うと周囲のお客さんに迷惑だし、僕のおなかの中で食べたものが発酵しちまうよ」
「……その意味は?」
「そんなことまで忘れたのか」
 ものすごく悪い胸騒ぎ。係長の腹の中の食い物が発酵するって? それはもしかしたら……歌が下手な三沢幸生には、生きている価値がないではないか。
「三沢くん、きみは本当に変だね。具合がよくないんじゃないのか。顔色が真っ青だよ」
「……はい、気分が悪くなってきました」
「送っていこうか」
 酒巻らしくもなく意地悪な係長ではあるのだが、根はあの酒巻國友なのだろう。心底心配そうな顔になって、俺の背中をさすってくれた。
「俺、音痴なんですよね」
「うん、はっきり言ったらそうだよ」
「やっぱり……ああ、気絶しそうだ」
「送っていくから帰ろう」
「帰るって? この女が待ってる家に? やだっ!! 帰らないっ!!」
「三沢くん、どうしちゃったんだね?」
「どうしちゃったもこうしちゃったも……」
 もしやこの世界にはこの世界の三沢幸生がいて、そいつは現実でも酒巻係長の部下のサラリーマンなのかもしれない。だとしたらその三沢幸生が気の毒なので言わなかったのだが、言いたかった。
「俺は歌はうまいんだよ。だからフォレストシンガーズのメンバーとして、歌手として生きてるんだ。女には不自由してるけど、こんな女と結婚してるよりはよっぽどいいんだ。おまえなんかにいばられるなんて、俺の足元ががらがら崩れていく……俺がえらそうにできる相手はおまえしかいないのに、そんなおまえがこんなだなんてっ。やだっ!!」
 ガキが駄々をこねているかのような台詞を胸の奥で叫んでから、テーブルに紙幣を置き、俺は店を飛び出した。
「三沢くんっ!!」
 酒巻が追っかけてくる。やはりおまえはいい奴なんだよな、それだけは安心したよ、と酒巻に言い、走り出した。
「三沢くん……待って……どこに行くんだよっ!!」
 背後で叫んでいる酒巻のバスが遠ざかり、俺はあてもなく走り続けた。
 サラリーマンも趣味じゃない妻も、後輩の部下であることも我慢するとしても、俺が歌が下手だなんて、絶対にいやだ。音痴の三沢幸生なんて耐えがたい。本当にそうなのか? 確認するために走りながら歌った。

「時の流れに身をまかせ
 あなたの色に染められ
 一度の人生それさえ
 捨てることもかまわない」

 うぎゃぎゃあ、聴くに耐えない。許しがたい音痴だ。これが三沢幸生の歌か? 俺の人生、真っ暗けっけだよぉっ!!
 時の流れに身をまかせて生きるのは、人間誰しも同じだ。俺が誰かの色に染められたのだとしたら、乾さんカラーがかなりの部分を占めるはず。乾さんの色に染まった俺はいやではないれど、一度の人生は捨てたくない。
 今、駆けている俺は乾さんの色には染まってないの? フォレストシンガーズカラーもないの? そんなのいやだ。俺の認識の中にある三沢幸生以外の人生はほしくないのだと、俺は切実に感じていた。
 走り疲れて道端にすわり込む。酒巻は追ってはきていないようだが、ここはどこなのだろう? 山形なんて土地勘がないのだから、自分がどこにいるのかわからなくなった。途方に暮れていると、ふとひらめいた。
「……酒巻、出ろ」
 俺の世界、ここではない世界の酒巻は、東京で仕事をしているはずだ。この時刻だとラジオ局で打ち合わせ中か。電話に出てくれ、と念じつつ、俺は携帯を耳に押し当てていた。
「三沢さん? 僕の故郷にいらっしゃるんですか」
 のんびりした低い声。口調は俺のよく知っている酒巻で、全身から力が抜けそうになった。
「山形はいかがですか。おいしいものを食べました? ホテルですか。三沢さん、寝てません? 返事がないって変だな。どうかしました?」
「どうもしません。あのさ、俺、街に出て迷子になったみたいなんだ。ここはえーと……」
 目についたファッションビルと宿泊しているホテルの名を告げると、酒巻は即座に道を教えてくれた。
「さすが山形県人。じゃあ、ホテルはあっちだね」
「あっち、北の方角ですよ」
「うんうん、わかった。ありがとう。あのさ、歌っていい?」
「電話でですか。新曲ですか」
「ってーか、演歌」
「なんで演歌?」
 訝しげな酒巻の声が聞こえる携帯を、耳に当てたままで歩き出し、俺は歌った。

「もしもあなたに会えずにいたら
 私はなにをしてたでしょうか
 平凡だけど誰かを愛し
 普通の暮らししてたでしょうか」

 歌ってみて快哉を叫びたくなった。だが、すこし不安だったので酒巻に尋ねた。
「俺、歌はうまい?」
「当たり前なんじゃありません?」
「そうだよね。当然じゃん。ストリートライヴやろうかな。フォレストシンガーズの三沢幸生、「時の流れに身をまかせ」を歌いまーす、って言って、みんなに無視されたら悲しいからやめたほうがいい?」
「無視はされないでしょうけど、やめたほうがいいです。三沢さん、本当にどうかしたんですか」
「どうもしない。おとなしくホテルに帰るよ」
「三沢さん」
 こいつには三沢くんではなく、三沢さんと呼ばれるのが尋常な状態なのだ。電話を切って鼻歌まじりに歩いていても、しかし、いささかの不安は残っていた。
 電話は異次元へとつながっていて、この世界は俺がサラリーマンの世界なのではないか。そんな不安に駆られて走って、ホテルへとたどりついた。乾さんに電話をする手もあったのだが、現実の乾さんと会わないことには、気持ちがおさまらなかった。
 ホテルに駆け込んで俺たちの部屋のあるフロアへと階段を駆け上がる。エレベータなんてもどかしい。乾さんの部屋のドアをノックすると、いらえがあった。
「乾さん、お待たせ。来ましたわよ」
「……女の声を出したって、おまえだってわかるんだよ。俺は女性を待ってはいない。幸生、なんの用だ」
「薄情者なんだから。でも、ユキちゃんはね……」
 そんなあなたが、好きよ、と女声で囁いてから声を戻した。
「あのね、山形ってのは酒巻の本拠地でしょ。だからきっと、酒巻の怨念が街のそこかしこに漂ってるんですよ。キーワードってのかパスワードってのか、そいつが酒巻だったんだな。酒巻に電話してよかった。変な経験したんですけど、一過性の変な経験だったんだよね。乾さん、俺はだあれ?」
 ドアが開き、乾さんが呆れ顔を見せた。
「なんなんだ、その台詞は」
「言って。俺は誰?」
「……フォレストシンガーズの三沢幸生」
「はい、大正解」
 リーダーだと、おまえは寝言をほざいてんのか、立って寝るな、ぼかっ、であろうが、乾さんは正解を答えてくれた。
「よかった、嬉しいわ。ユキちゃん、添い寝してあげましょうか? 寂しいでしょ?」
「幸生、どうかしたか?」
「どうもしません。ねえねえ、添い寝は?」
 こっちからも拳骨が飛んできそうな予感がしたので、乾さんの鼻先でドアを閉めた。いてっ、という小さな悲鳴が聞こえたのだが、痛いのがなんだと言うのだ。
「ああ、よかったよかった。酒巻がパスワードになって、俺は現実に戻ったんだよね。おかしな世界に迷い込んだ発端も酒巻だったんだから、あれで正しかったんだ。正しいところに到着するとは、さすがユキちゃん」
 他の三人にも確認したほうがいいかとも思ったのだが、乾さんひとりでも十分だろう。
 俺は歌の上手なフォレストシンガーズの三沢幸生。酒巻は俺の後輩。俺をすこしは尊敬してくれているらしき、希少価値の男なのだ。そうでなかったら、そんな人生、俺はほしくない。
 時の流れに身をまかせ、乾さんの色にもっともっと染まっていいから、俺を見捨てないでね、と乾さんの部屋のドアに囁きかけて、俺は自室に入った。今夜はおとなしく歌詞の検討をして、明日に備えて寝よう。さきほどの続きの、変な夢を見そうな恐れがなくもないのだが。

END


  
 
スポンサーサイト


  • 【短いあらすじ3      】へ
  • 【短いあらすじ・番外1  】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

NoTitle

入社?就職?あれ?っと思ったら、
違う世界に行ってましたか。びっくりした。
しかも結婚相手が縦も横もデカイ(笑
肝っ玉母さんを想像しちゃいました。

ゆきちゃんならこういった経験を何度かしてそうな感じがします。
酔いすぎちゃって現実と夢が混ざってしまって「あれ?」って。

ゆきちゃんのようにメンバーみんなが、大学で出会えたことに感謝しているんだろうなぁって思います。
あの人に会ってなかったらどうなっていただろう?って思える人に出会えることって幸せですよね。

「もしもメンバーの一人にだけ会えるとしたら?」と聞かれたら、迷わず
「乾くん!」
と、私は答えると思います。
乾くんに会って歌を聞いたら、きっと人生変わります!

ハルさんへ

いつもありがとうございます。
そうなんです。
この東北ライヴツアーシリーズは、東北の地でフォレストシンガーズのメンバーが遭遇した不思議な出来事。理屈も論理もなんなにもない夢みたいなお話といったコンセプトなのでした。

あのひとに会っていなかったらどうなっていただろう。
ほんとに、そう思える人と出会えた人間は幸せですね。
私にもそういう相手は……たぶんいるのだと思えます。

インターネットの世界でも、ふと知り合って小説や文章を読ませてもらって、先方さまも読んで下さって交流が深まる。
かと思えば、急に消えてしまわれる方もいる。
そう考えるとしみじみしちゃいますね。

乾くんの歌を聴いたら人生変わる。
そこまで言っていただける乾隆也は幸せ者です。
では、こんなのはいかがでしょうか?

http://quianred.blog99.fc2.com/blog-entry-1046.html
管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【短いあらすじ3      】へ
  • 【短いあらすじ・番外1  】へ