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小説142(泣かないでMy love)

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フォレストシンガーズストーリィ142

「泣かないで MYLOVE」

1

 向かって右のはしっこには章くん、シルバーグレイのスーツにオレンジのネクタイ。その横は幸生くん、ライトグレイに濃いピンク。その横の乾くんは、やや濃い目のグレイにグリーン。その横の本橋くんは、ダークグレイにブルー。左端のシゲくんは黒に近いグレイにヴァイオレット。
 グレイのグラデーションのスーツと、乾くんによると、俺たちの声音を色にするとこうなるんだよ、の色合いのネクタイ姿の彼らが、ステージに並んでいる。ライヴがはじまる前に、章くんが乾くんにひどく叱られているのを見たのだが、そんなことはなかったかのごとく、五人の息は常にも増してぴったりだ。
 怒りを含むと低くなる乾くんの声は、時たま耳にするものの、聞くたびに私は驚いてしまう。ソフトムードが常態のように私は思っている乾くんだけど、それは女に対してだけなのかもしれない。相手が男性であれば、子供であろうと立場が上のひとであろうと、言うべきことは言う。きびしい態度も取る。それって女をなめてるからでしょ? と言いたくなる場合も間々あるのだが、問い質しても正直に答えるわけもないし。
「俺たちは人気商売なんだぞ。言うまでもないだろ。おまえだって重々わかってるはずだろ」
 叱責口調で言う乾くんの前で、ぶすっとしていたのは章くんだった。
「ファンの方を大切にするのは、俺たちには当たり前すぎることじゃないか。それがなんなんだ、おまえのあの態度は……」
「……疲れてたから」
「ライヴの前に疲れてたのか。夜遊びでもしてたのか」
「そんなことまで……乾さんに言われる筋合いは……」
「疲れてたからってのが、彼女たちにつっけんどんにする理由になると思うのか」
 つまりこういうことであったらしい。
 ライヴ会場にやってきた章くんは、ホールの外で若い女性数人に取り囲まれた。なにに疲れていたのかは不明だが、体調が本調子ではなかった章くんは、若い女性の嬌声に取り巻かれて頭痛を覚えた。サインして下さい、私、木村さんの大ファンなんです、と口々に言いながら、彼女たちは章くんに手帳やハンカチを差し出していた。
「あとでね。今は……ちょっとどいて」
 あとでっていつ? 今でなかったらサインなんかしてもらえなーい、と彼女たちは不満そうに言い、章くんは苛々してきたらしく、荒々しく彼女たちを押しのけて歩き出そうとした。乾くんはそれを見ていたホールの控え室の窓から飛び出し、ファンのみなさまに声をかけた。あ、乾さんだー、という声はしていたが、彼女たちは章くんのサインをこそほしかったようで、章くんから離れなかった。
「みなさま、少々お待ち下さい。章、時間はまだあるだろ。サインをさせていただいたらどうなんだ」
「……いいんですよ。ファンなんかにいちいちかまってられないんだから」
「ファンなんかだと? おまえはいったいなにさまだ」
 小声で言ってから、乾くんは章くんの腕を引っ張って引き戻し、サインをさせた。
「みなさまは俺のサインはいりませんか? 章はもてますね。うらやましい限りだな。あなた方は章のどこらへんがお好きなんですか」
 顔、と声をそろえたファンのみなさまを見やって、乾くんは苦笑した。それから章くんを連れて、ホールに入ってきたのであるらしかった。
「乾さんのサインはいらないって言われたんですか」
 訊いたのは幸生くんで、乾くんが答えた。
「一応、俺もサインはさせてもらったけど、みなさんは章のサインだけでよかったみたいだよ。章、おまえが、ファンなんか、なんか、だと言える立場だと本気で思ってるのか。誰のおかげで俺たちのCDが売れるんだ? ライヴを聴きにきて下さるのはどなたなんだ? そんなことを言う必要はないと思ってたけど、言わないとわからないのか」
「わかってますけどね、うざったいんだよ、ファンなんてのは」
 思わず悲鳴を上げたのは、幸生くんと私が同時だった。乾くんの両てのひらが、章くんの両頬をはさんでぱちーんと音を立て、章くんは目を閉じた。本橋くんとシゲくんは、え? あれ? といった感じで顔を見合わせ、それでも誰も口ははさまずに、乾くんと章くんを見ていた。
「……ファンなんて、と口にするような奴には、こんな商売をやってる資格はない」
 ここまで言ってもわからないんだったら勝手にしろ、と乾くんは言い捨て、章くんはうつむいていた。しばらく沈黙が支配し、幸生くんの軽い口調がその沈黙を破った。
「ライヴの前に章の顔をひっぱたくなんて、仕事に支障が出るでしょう、と言いたいところなんだけど、今のは跡が残らないんだよね。乾さん、そんな叩き方ってどうやって覚えたんですか」
「さあね」
「それでいてけっこう痛いんだよな。章、泣きたくなった?」
「泣かねえよ」
「そりゃそうだよね。てめえが悪いのに、ひっぱたかれて泣いたんじゃ最低も最低。俺も経験あるんだよなぁ。シゲさんは乾さんに真剣に叱られたことなんかないだろうし、本橋さんは喧嘩だったらしても、こういうことってないだろうけど、俺はあるよ。聞きたい、章?」
「言いたいんだったら言えばいいだろ」
 私は聞きたいな、と思っていたら、幸生くんは私に向かってうなずきかけた。
「最初は大学生のとき。美江子さんがらみだったな。覚えてますか、美江子さん?」
「私がらみ? どれ?」
「美江子さんが四年生のときですよ。あのときは乾さんと美江子さんと、俺だけがその場にいた。合宿のときにさ、他のひとも知ってるから言ってもいいんですよね。ほら、酒巻」
「酒巻くん?」
 大学四年のころに一時期つきあっていた、三つ年下の合唱部の後輩だ。合宿のときに、というとなんだったか。私がにわかには思い出せないでいるうちに、幸生くんが続けていた。
「美江子さんがあんな坊やとつきあってるって聞いて、俺、言ったでしょ? あいつは男として機能するんですか、って」
「あ、そういえば」
「言った途端に後悔したんだけど、時すでに遅し、ってやつね。美江子さんの目はとんがらがって、乾さんは世にもおっかない顔をして、俺をものかげに連れていってぱちーん」
 たった今、章くんが叩かれたのと同じに、ほっぺたを両手ではさんでぱちーん、だったらしい。
「目から火花が飛び散ったよ。んでさ、こっぴどく叱りつけられた。おまえは言っていいことと悪いことの区別もつかないのか、失礼きわまりない、ってね、散々叱られて、泣きそうになっちゃった」
「おまえがあれしきで泣くタマか」
「そうは言うけど、乾さん、俺はあのころは大学二年のガキだったんですよ。酒巻と変わらないガキだったんだもん。乾さんにびしびし叱り飛ばされて、泣いたらよけいに怒られそうだし、ほっぺたはひりひりするし、どうしたら許してもらえるんだろう、って……ああ、僕ちゃん、かわいそうだったね」
 自分で自分の頭を撫でている幸生くんに、本橋くんが尋ねた。
「で、幸生、どうやって許してもらったんだ?」
「ごめんなさい、すみません、二度と言いません、俺が悪うございました、って土下座して……」
「嘘つけ。たしかにおまえは口では、ごめんなさい、もう二度と言いません、とは言ってたよ。しかし、目に好奇心がきらめいてた。泣くどころか、あの目はなにか言いたそうだった。なにを言いたかったんだ?」
「乾さんの意外な一面を見ちゃった、だったかな。あれからも幾度か、俺は乾さんに叱り飛ばされてる。リーダーやシゲさんに怒られるのも怖いけど、乾さんに怒られるのは別の意味でこたえますよ」
「そうかぁ」
 嘘つけ、と言いたいのかどうか、乾くんは苦笑半分で幸生くんを見ていて、シゲくんがぽつんと言った。
「俺だってあるよ」
「なにが? シゲさんが乾さんにひっぱたかれた?」
「ひっぱたかれたんじゃないけどさ、ね、乾さん?」
「なにかあったかな。忘れたよ」
「ええと、ちょっと待ってね」
 この話題が展開している間に考えていて、ようやく記憶が戻ってきていた。
 あれは大学四年の年、一年生だった酒巻くんに言いかけた言葉は、それだったのか。しかし、幸生くんは明確には口にしなかったはずだ。言う前に乾くんに口を押さえられたのだから、言えなかったはず。幸生くんの記憶が混乱しているのではなく、ここは章くんの気持ちを軽くするための嘘? 
 そうかそうか、そうだよね。昔から幸生くんはそうやって、章くんのフォローをしてきたんだ。そうと気づいて私も口を閉じると、幸生くんが尋ねた。
「ちょっと待ってって、美江子さん、なにを待つの?」
「んんとね……あとにしようか」
 そろそろステージの開始時刻が近づいてきていたのだが、改めて見てみると、章くんの頬はうっすら赤くなっている程度で、殴られた跡というほどではない。いつでも好奇心のかたまりの幸生くんに、あとでね、と言ったら、本橋くんが言った。
「先に仕事だ。章、行くぞ」
「はい」
 三々五々、控え室から出ていく彼らを見送っていたら、四番目は乾くん、五番目が章くんで、章くんが素早く乾くんに囁いた。すみません、よくわかりました、だった。乾くんはふふっと笑って、章くんの髪をくしゃっと撫でた。
「俺は顔なんかどうでもいいのに、顔、顔、って言われてさ」
 章くんが言い、乾くんも言った。
「しようがないだろ。おまえは顔はいいんだから。顔が好きでもなんでも、ファンの方がもっとも多いのもおまえみたいだし、ありがたく思え」
「俺は顔より背丈がほしいよ。乾さん、俺の顔と乾さんの身長、とりかえっこしません?」
「章、よくもまあそれだけ失礼なことが言えるよな。乾さん、もういっぺんぱちーん、やってやって」
 横から幸生くんが口を出し、章くんは言った。
「いらねえよ。まだ痛いんだから」
 うーん、おまえの顔と俺の身長か……可能だとしてもやめておくよ、と乾くんが言って、がははと笑った。俺とは? と幸生くん、よけいにいやだよ、と乾くん、ひどっ、と幸生くん、わははっ、と章くん、つまんねえこと言ってんじゃないよ、と本橋くん、よーし、やるぞ、とシゲくん、それっきり五人の声が遠ざかっていった。
 こうして幾度も私の気を揉ませてくれるみんな。乾くんにしたってかっこいいとは言われるけど、かっこつけだとも言えるし、五人ともに欠点もたくさんあって、だけど、みんな、大好きだよ、と私はこっそり呟くのだった。


2

 スターとまではとうてい呼べないけど、フォレストシンガーズは男性ヴォーカルグループとして世間に認知されるようになり、仕事もファンもふえた。そうなると人間関係も複雑になるもので、同業者との関わりも深くなってくる。
 横のつながりもあるけれど、縦のつながり、すなわち、同業の後輩という存在が周囲に目につくようになってくる。FSでは年少者である幸生くんも章くんも三十路に到達し、三十代の中堅シンガーズとなった今では、十歳前後年下の若者たちに頼られるようになってきた。
 たとえば同じ事務所の後輩である、正式名称フルーツパフェ、通称モモクリのモモちゃんとクリちゃん。もとアイドルグループの一員で、現在では本橋くんの作曲の弟子、麻田洋介くん。この三人がFSとはもっとも関わりが深い。
 大学時代からの後輩とはいえ、仕事仲間でもある幸生くんや章くんにしても、面倒見のよい我らがリーダーはいまだに彼らを気にかけまくっているし、さらに年下のモモクリや洋介くんとなるといっそうだ。この洋介くんというのがまた、手のかかることおびただしいというのか、次から次へと騒動を引き起こしてくれるのである。
 もとアイドルであるだけに、ルックスには難癖のつけようがない。背丈は乾くん程度だが、ダンスやトレーニングで鍛えた強靭で敏捷なボディをしていて、脚が素晴らしく長い。あれは俺たちとは別人種だと、FSのお兄さまたちを嘆かせるほどに、日本人離れした体躯をしている。
 かてて加えてあの美貌……凛々しく濃い眉、涼しげでいながら甘さも含んだ瞳、すらりと通った鼻筋、しっかりと引き結んだ口元、女の子にもてにもてるのも当然だろう。アイドルグループ時代から、洋介くんはいちばん人気だった。年齢は二十歳、少年の域を脱していない分も、そのあやうさが彼の魅力に加速度をつけているといえる。
「二十歳のころの章は、俺たちからは遠ざかってた。あいつがうちに参加したのは二十一の年だったな。二十歳も二十一も、三十すぎた俺たちから見たら同じようなもんだ。俺にしたところで、二十歳のころなんてのはガキでしかなかったよ。俺はまだ大学生で、ようやく将来を真面目に考えようとしはじめたころだ。その点、洋介は十七んときからアイドルをやって世間にもまれて、俺たちよりは大人の世界も知ってるんだろうな」
 しかし、と本橋くんは言った。
「洋介が目指すのは作曲もできるシンガーだろ。シンガーソングライターってのは作詞もできるにこしたことはないが、作曲のみでもシンガーソングライターと名乗ってもいい。しかししかし、あいつの歌は……あいつの作る曲は……そこんところは二十歳だった章のほうがずっとずーっと、はるかに上だ。俺は二十歳だった章をじかに見てないけど、シンガーソングライターとしての能力は洋介とは比較にもならなかったはずだぜ」
 それが言いたくて章くんを引き合いに出したのであるらしい。
「それから十年以上がたって、章の能力はますます上がっている。歌は言うまでもないし、ソングライターとしての能力も、とりわけ作曲能力は、うちでは最高だ。悔しいけど俺は完敗するしかない」
「そお? 本橋くんの書く歌も最高だと思うけどなぁ。妻の欲目?」
「好みってものもあるから一概には言えないんだろうけど、さまざまな点を総合し、客観視してみれば、うちで歌の能力がトップなのは幸生、作曲は章、作詞のほうは乾と幸生のいい勝負ってところだな。俺はかなり劣るよ」
「歌唱力も?」
「幸生には負ける」
「そうかなぁ。幸生くんはいろんな声が出るからでしょ? バリトンのパートで深みと張りのある声を、ブレスもなしで長ーく張り上げる、あの芸当は本橋くんにしかできないよ。声量って肺活量と関係あるんだよね。肺活量は断然本橋くんが上でしょ。体格がちがうんだもの」
「肺活量なぁ。体格と無関係ではないだろうけど、小柄で細い女にも、すさまじいまでの声量を誇るシンガーがいるぞ」
「そういえばそうね」
 声量という面では本橋くんがいちばん、だと私は思う。声にはむろんひとの好みってものが入るのだから、誰がいちばんだとは言えないけど、私の好みは本橋くん。深みと甘みと響きのよさを持つバリトンが、私の好きな男の声なのはまちがいない。
「FSのみんなの歌唱力には甲乙つけがたいのよ。各々の特色もあるんだし、その五つの声のかもし出すハーモニーも、ソロになったときの個性やら五人のちがいやらも、だからこそのフォレストシンガーズ、でしょ? 私は歌の専門的な知識はあまりないけど、章くんのあのハイトーンから、シゲくんのバスまで、どれが上だなんて言えないはずよ」
「うん、まあ、うちはそれでいいんだけど、洋介はどうすりゃいいんだ。天性の才能ってものがあるんだぞ」
「そうだねぇ」
 モモクリにしても、最近関わりが出てきたdefective boysの臨時ヴォーカリストの瑠璃ちゃんにしても、歌の方面ではいっぱしの才能を持っている。が、洋介くんはそこが非常に弱いのであって、師匠を悩ませているのである。
「アイドルだったら歌は二の次でもいいんだろうけどな」
「彼にはあのルックスがあるものね」
「ルックスなんかどうでもいいだろ、とは言えない世界だからな」
 歌は顔で歌うものじゃない、はかねてからの本橋くんの持論であり、真実ではあるのだが、私たちが仕事をしている業界では、ルックスも人気を左右する重大事だ。FSもいっとう最初は、綺麗な男の子がいる、なんてことで注目された部分があったのだから。デビュー当時は「男の子」だった、二十二歳の木村章である。
 美貌と名づけるのならば洋介くんよりぐっと落ちるのは否めないが、章くんは整った顔立ちをしている。ロッカーだっただけに反逆者めいた雰囲気もあって、なんでもかんでも斜めから見る。小柄な章くんが斜にかまえてすべてを見上げるポーズに惹かれ、FSのファンになってくれた女の子も昔はよくいた。
 もうひとりの二十二歳、三沢幸生は章くんよりのほほんと見えて、雰囲気には甘さが濃く漂っていた。乾くんは二十四歳当時から大人びていて、都会的でかっこいい、とファンのみなさまにも評判だった。乾くんもものごとを斜めから見る癖があるが、そこに加えて裏からも見、内側に深く突っ込んでいく癖もある。
 一方、本橋くんは背が高くてすべてに於いて男っぽくて、シゲくんは頼りになる力持ちタイプ。俺たちはルックスは凡庸でインパクトに欠ける、なんて乾くんは言っていたけれど、彼らの外見的個性もファンの方々を惹きつける一因だったのはまちがいないと私は思う。
「それでいて洋介は、ルックスで売るのは潔しとしないって性格だろ。だからこそアイドルなんかやっていたくなかったわけだ。あいつには骨がありすぎて、顔でなんか売りたくないってのも正論なだけにうなずかざるを得ない。だったらもうすこし上達しろよ。歌も作曲も上達しないんだ、あいつは。だから俺は困るんだ」
「下手くそに味があるって路線もいやがるんだよね」
「そんなのがわかる年じゃないしな」
 師匠を困らせていると気づいてもいない、というわけではないようだが、他の面でも洋介くんは私たちをかき回してくれる。若くて馬鹿力があるし、元気が有り余っている。私には弟がふたりいるけど、彼らもこの年頃にはこうだっけ? 記憶が薄れてしまっている。
 仕事をやめて暇になった洋介くんは、頻繁に我が家に出没する。FSの仕事場にもやってくる。年齢ゆえの無邪気さも残っている洋介くんは、FSのメンバーたちにそれなりに可愛がられていて、歌の分野でもなにくれとなく教わっていた。ついでにあちこちで怒られている。
「おまえの声も基本的にバリトンだろ。年齢からしても声は固まってる。おのれの声をもっとよく知るようにしろ」
「俺の声かぁ」
 あーあー、と発声練習もどきをした洋介くんは、乾くんを見返した。
「俺って顔はいいけど、声はつまんねえよね」
「顔はいいね、たしかに」
「シンガーは顔じゃないんだよね」
「そうだね、たしかに」
「リズム感はあるよね、俺?」
「あるね。ラップやヒップホップ……ってのも簡単ではないんだろうけど、おまえにはそっちのほうが向いてる気はするよ」
「俺はメロディアスな歌が好きなんだよ」
「……メロディアス」
 どの口がメロディアスなんて言ってるの? この口? と幸生くんが、洋介くんの口の端をつまんで引っ張った。
「痛いなぁ、なにすんだよ」
「おまえはメロディアスな曲を作って歌いたいんだね。最新曲はできてる? 歌ってみなさい」
「……こんなのだったら」
 タイトルは「日没」っていうんだけどね、と洋介くんが歌いはじめた。音痴ではないが、声域の狭い洋介くんにはたいへんに苦しそうだ。だからさ、てめえの声を知れって言うんだよ、と乾くんは嘆き、幸生くんが途中から歌を引き取った。
「そんな歌詞じゃないんだけど……」
「歌詞は誰が書いた?」
 乾くんが尋ね、洋介くんが応えた。
「本橋さん」
「幸生の歌詞のほうが曲に合ってるな。曲も変わってきてるけど、どうだ、洋介、感想は?」
「途中まで聴いただけなのに、俺よりうまい。イヤミ」
「イヤミは事実かもしれないけど、謙虚に聴けよ。うまいのは当然だろ。幸生もああやって実践しておまえに指導してくれてるんだ。怒ってあばれるな」
 はじめから釘をさした乾くんに、わかったよ、とうなずいたものの、洋介くんのこぶしがぐぐっと握りしめられていく。両手をげんこつにしていた洋介くんは、思わずといった形で幸生くんのおなかにパンチを叩き込もうとしたのだが、幸生くんは素早く身をかわし、乾くんがうしろから洋介くんを羽交い絞めにした。
「おまえにもっとも欠けてるのは自制心だな。そんなことじゃ、歌や作曲の能力を鍛えて再デビューしたとしても、早々にリタイヤしちまうって恐れもある。先決問題は我慢の心だよ」
 ひえ、やばかった、と笑って言った幸生くんは、向き合って立つ乾くんと洋介くんを交互に見た。
「乾さんと俺が口で洋介をぼろかすに言って、洋介がどこまで耐えられるかためしてみます? なんだったら美江子さんも参加します? 三人がかりの口攻撃に対する、おまえの忍耐力の限界はどのあたりかな?」
「やだよ、そんなの。殴られるほうがいい」
 とまあ、こんな性格なのだから、洋介くんも生きづらいというのがあるのかもしれない。おまえは黙ってろ、と幸生くんに言った乾くんに、それからしばらく叱られていた洋介くんは、どうにか我慢していた。が、頬がぴくぴくひきつっていた。
 一方のモモクリは、天衣無縫のモモちゃんと、気弱で無口なクリちゃんの夫婦である。モモちゃんの可憐なソプラノとクリちゃんの優しげな高い声が、若々しく美しいコーラスを演じるのは聴いていて心地よいのだが、私生活となると先輩たちの手を焼かせる。この夫婦は私たちの比ではないほどに喧嘩ばかりしているのだから。
 夫婦喧嘩というものはおおむね、女が口では優勢と決まっているが、モモクリは桁外れだ。クリちゃんがぼつりぽつりと言う言葉の百倍以上をモモちゃんが喋り、あんたが悪いの、とモモちゃんに決めつけられたクリちゃんが降参する。本橋くんと私はこれほどではないはずだが、はたで見ているとくすぐったい気分にもなるのだった。
 いつでもどこでも、喧嘩っ早いモモちゃんがじきに怒り出し、クリちゃんは冷や汗状態になる。モモちゃんはなかなかに気性が激しくて、洋介くんが相手でも怯まない。モモクリの夫婦喧嘩だったらまだしも、洋介モモの喧嘩となると、私も冷や汗をかいた。モモちゃんと洋介くんは天敵同士なのかもしれなくて、モモちゃんはなにかといえば洋介くんにつっかかるのだ。モモクリもしばしばFSのスタジオにあらわれるので、このふたりが顔を合わせる機会は少なくはない。
「あんた、バッカじゃないのっ!!」
 モモちゃんの怒声が響き渡り、私が慌てて行ってみると、洋介くんが全身びしょ濡れになって唸っていた。クリちゃんはかたわらでおろおろしていて、私もうろたえた。
「モモちゃん、なにしたの?」
「こいつが……花瓶の水を俺に……くそぉっ!!」
「洋介くん、やめなさいっ!! クリちゃん、洋介くんを止めて!!」
「僕には……無理です」
 無理だろうとはわかるけど、私では洋介くんは止め切れない。モモちゃんが洋介くんに飛びかかろうとするのを懸命に止めながら、私は言った。
「そんならクリちゃん、誰か呼んできて。本橋くんかシゲくんか乾くんだよ。他のふたりじゃないよ。早くっ!!」
 はいっ!! と答えたクリちゃんが駆けていき、私はモモちゃんにはね飛ばされた。モモちゃんは身体は大きくはないが、若いだけにパワーはある。モモちゃんが洋介くんに遮二無二飛びつき、髪を引っ張ったり噛みついたりひっかいたり、無茶苦茶な攻撃をしているのを制止もできないでいると、クリちゃんとシゲくんが駆けつけてきた。
 そのあとから本橋くんと乾くんもやってくる。シゲくんはたいそう足が速いので、真っ先に来てくれたらしい。びしょびしょの洋介くんと取っ組み合ってこちらも濡れているモモちゃんを私がなんとか抱き留め、洋介くんはシゲくんが抱え上げて放り投げた。洋介くんはどさっと尻餅をつき、呆れ顔の乾くんが言った。
「モモちゃん、きみの気の荒さもなんとかならない? クリとの喧嘩だったらクリは防戦一方なんだろうけど、洋介はそうはいかないよ。下手をすると顔に怪我をさせられるじゃないか。クリ、おまえも無理だなんて言ってないで、命がけででも止めろ。おまえの奥さんだろ」
「……だって……」
「だってはいいんだよ。ミエちゃん、大変だったね」
 まだ怒っているモモちゃんとふたり、もつれ合って倒れた私に、乾くんが手を差し伸べようとしてかぶりを振った。
「おっと、僭越でしたな。本橋くん、どうぞ」
「どこか打ったのか」
「腰を打ったみたい……モモちゃん、いい加減にしてよね。私はあなたほど若くないのよ」
「だって」
 原因はほんの些細なことで、モモちゃんが洋介くんに花瓶の水をぶっかけたのであるらしい。それで怒らないほど人間のできている少年ではないのは当然至極で、洋介くんは怒り狂い、モモちゃんも怒り狂った。本橋くんは息をはずませている私を抱え上げ、シゲくんが洋介くんに言った。
「そりゃあな、それだったらおまえは悪くないのかもしれないけど、なんたって相手は女の子なんだから」
「飛びかかってきたのはモモちゃんだよ。俺は我慢したよ。なんで女はなにをしても許されて、俺ばっか怒られるの? そんなのないよっ。くそーっ、むかつくーっ!! クリ、モモちゃんのかわりにおまえを殴らせろ」
「え? 僕? 僕を殴るの? 僕……死ぬかもしれないよ。でも……だけど……」
 顔面蒼白になっているクリちゃんを見ていると思い出した。これに近い想い出があったのだ。
 新米マネージャーだったころ、仕事で大失敗をした。マネージャーの私とリーダーの本橋くんが平謝りにあやまったのだが、先方は承諾してくれない。すこしばかりガラのよくない先方さんは言った。
「どうにも腹の虫がおさまらないんだ。落とし前ってのをつけてもらいたいんだよな。マネージャーさん、ひと晩つきあうか?」
「お酒のお相手でしたらさせていただきます」
「そんなんじゃ足りねえよ。ひと晩中つきあってもらわなくちゃ」
「……ホテルにつきあえとおっしゃるんですか。お断りします」
「ふーん。そんならあんたを張り倒させてもらおうか」
「そちらのほうがまだしもいいです」
 覚悟を決めて目を閉じた私の身体を、黙って聞いていた本橋くんが押しやった。
「どうぞ、俺に」
「あんたか? あんたじゃつまらん」
「つまらんとかつまるとかって問題じゃないでしょう。殴りたいんだったら俺にどうぞ。さっさとやって下さい」
「……入院しなくちゃいけなくなるぞ」
「こちらの失策なんですから、どうぞ」
「本橋くん、失敗したのは私だよ」
「誰の失敗でもいいんだよ。おまえは引っ込んでろ」
 顔を横向けて頬を差し出した本橋くんに、ガラのよくない仕事相手は、ぼかっと一発食らわせた。それから大声で笑った。
「あんたら、できてんのか? ま、俺には関係ねえわな。男を殴っても面白くもないけど、女を殴って楽しむ趣味があるのか、なんて言われても片腹痛いし、これでいいことにしよう。ご苦労さん、行っていいぞ」
 大柄な中年男は立ち去り、本橋くんは頬を押さえて言った。
「さすがに効いた。体重の乗った重いパンチだったよ。おまえが殴られてたら骨折してるぞ」
「……私、なんて言っていいのかわからない」
「あんな奴の無理難題なんてのは、男が引き受けるしかないだろ。しかし、山田、よく言った。セクハラってのは撃退したもんな。これでいいことになって、俺も安心したよ」
「私は安心なんかできない。もうっ、男ってどいつもこいつも……」
「まったくだな。男は馬鹿だな。俺も同感だよ」
 その場合は相手が理不尽なんだから、それでよかったんだよ、と本橋くんの顔を見た乾くんは言い、章くんが話してくれた。
「デビューする前なんだけど、俺、練習の途中で抜け出して公園をうろついてて、女の子に声をかけて……そしたらその子の彼が近くにいて、殴られかけたんですよ。そこに探しにきてくれたシゲさんが、殴りたいんだったら俺を、って言ってくれた。そいつはシゲさんを蹴飛ばして行っちまったんです」
 俺もあるよ、と幸生くんも言った。
「どこかのバンドの連中にからまれて、吊るし上げられてたら、乾さんが来てかばってくれた。そいつらは俺の口に腹を立ててて、俺を殴りたかったらしくて、かわりに乾さんが殴られてくれたんですよね。後輩だってそうやってかばってくれるんだもん。美江子さんのかわりに殴られるのは当たり前かな。けど、章、その場にいたのがおまえか俺だったらびびってるよな」
「びびるけど、美江子さんが殴られるのを見過ごしにはできないよ。もしもそんなことになったら、俺もどうにか美江子さんのお役に立ちます。自信ないけど」
「俺も自信ないけどね。そんなことが起きないように祈りましょう」
「あんなの、二度といやよ」
 あとの三人と比較すれば、後輩のふたりと私が肉体的弱者であるのはまぎれもない。弱い者をかばうのは、男としてだけではなく、人間として自然なつとめ? 私もそうできるだろうか。しなくちゃいけないんだよね、と私は心で言い、改めて年長の三人に感謝した。
 若かったころには時としてそんなことがあって、本橋くんや乾くんやシゲくんは、たびたび身体のどこかに傷を負っていた。殴られたり蹴られたりなんて、どうってこともないさ、と三人は笑い飛ばす。女は暴力に免疫がないのが普通だろうけれど、モモちゃんは例外なのだろうか。クリちゃんのほうこそ暴力慣れしていないようで、ためらっていた。
「殴らなくてもどうにかできない? おごってあげるんじゃ駄目?」
 駄目、と洋介くんはきっぱり言い、クリちゃんは本橋くんに視線を移した。
「……本橋さん、そうしかしようがないんですか」
「モモちゃんはおまえの奥さんだろ。俺は知らないぞ」
「乾さん?」
「おまえも男だもんなぁ。男はつらいよな」
「……シゲさん?」
「俺がかわりに殴られてやろうか、と言うのは簡単だけど、それを出すぎた真似というんだよな」
「出すぎてませんよ。三沢さん、木村さん……」
 やだよぉ、と幸生くんは言い、章くんは言った。
「こんなときこそ腹をくくって、俺も男だって証明してみろ」
「洋介くんを止めてくれないんですか」
「今日に限っては洋介の言い分もわからなくもない。洋介はひっかき傷だらけになってるぞ。誰がやったんだ?」
 言った乾くんを見返して、クリちゃんはべそをかいた。
「泣き落としは男の用いる戦法ではない。情けないにも程がある。クリ、洋介に立ち向かえ。洋介も一方的に殴るんじゃなくて、殴り合いでもいいだろ」
「俺はどっちでもいいよ」
 くちびるをとがらせていたモモちゃんが言った。
「ねぇ、美江子さん、男って困ったものですよね」
「そうね。同感だけど、原因を作ったのは誰? モモちゃんが洋介くんにあやまったら?」
「あやまるの? ……やだ」
 仕事でもなければ謝罪の言葉を口にするのは嫌い、なのは私もモモちゃんと同類ではあるのだが、いっそ見事なまでに頑固な女の子ではある。モモちゃんは怒り顔で言った。
「クリちゃんもたまには喧嘩でもしてみたら? したことないの?」
「ないよ」
「バトルゲームだったらやってるじゃん。あんなふうにやればいいんだよ」
「ゲームのようにはいかないよ」
「でも、洋介くんも泣きべそかいてるクリちゃんを殴るなんて、男らしくないよねぇ」
 私が言うと、そうだそうだ、とモモちゃんも強くうなずき、洋介くんは言った。
「わかったよ。クリになんか喧嘩で勝っても自慢にもならないし、やめといたらいいんでしょ。クリ、よかったな。女のひとたちにかばってもらってさ」
「おかげさまで……」
 ここまで情けない男は珍しいね、と幸生くんが呟き、おまえ以上だな、と章くんが言い返し、そのおまえはおまえだろ、と幸生くんがさらに言い返す。このふたりはこうして、場を丸くおさめるのが得意技である。洋介くんは気が抜けたらしい様子で、蹴飛ばし合いをしている幸生くんと章くんに言った。
「俺もまぜて」
「駄目。おまえとは力の差がありすぎる。俺は章とこうしてるのがちょうどいいんだ」
「だよな。しかし、考えてみたらやっぱ、俺たちも情けないね」
「深く考えるとみじめになるからやめようね、章ちゃん」
「そうだな、幸生ちゃん」
 きゃあ、幸生ちゃんだってー、と幸生くんがすっとんきょうな声を出し、章くんとお互いの肩を抱いてなぐさめ合っていた。


3

 格闘技ファンの男が世には大勢いるのは、格闘技は喧嘩の代償行為であるから、だろうか。スポーツの試合にしても戦争の代償行為だという説がある。女にも格闘技ファンはいるし、近頃はガールズファイトなどというものまで隆盛になりつつあるようだが、私は格闘技などしたくもない。
「だってね、一方的に誰かを殴るんだったらまだいいけど、ボクシングなんかだったらこっちも殴られるじゃない。痛いのはいやだもん。本橋くんはなんで喧嘩なんか好きなの?」
「一方的に殴るんだったらいいのか。おまえらしいな。俺は別に喧嘩なんか好きじゃないぞ」
「好きなくせに。乾くんとバトルやりたいんでしょ?」
「乾とだったらやりたい。あいつの実力はいかばかりか知りたいんだ。なのにいつでもシゲに止められる。今度はシゲもおまえもいないところで挑んでみるよ」
「やめなさいったら」
「いつかは必ずやる」
 決意は固いようなので、いつかはやるつもりだろう。乾くんはやりたがっていないのに、本橋くんってなんでこうなわけ? 私だって正直言えば、弱い男より強い男のほうが好きだけど、意味もなく喧嘩するなんて愚の骨頂ではなかろうか。とはいえ、私のいない場所で喧嘩をされたら、止めるなんて不可能だし。そこで私はシゲくんにお願いした。
「シゲくん、頼むからね。本橋くんが乾くんに喧嘩をしかけたら、これからも絶対に止めてね」
「わかりました」
「幸生くんや章くんには無理なんでしょ?」
「ふたりがかりでだったらなんとかなるかな。もしものときはふたりがかりで取りつけって言っておきます」
「幸生くんや章くんは面白がって止めてくれないんじゃない?」
「そうなんですよ。あいつらは見たがってるから」
「シゲくんは喧嘩嫌いだよね。格闘技は?」
「ボクシングは好きですよ。あれはプロの技能ですから、喧嘩じゃないから」
 そんな話をしたのは何年前だったか。あれからも本橋くんは乾くんと殴り合いはしていないようで、やれないんだよ、どうしても、と嘆いていた。
 ここにも格闘技好きの男がいる。ダイモスの中畑裕也くんである。彼は格闘家だといっても疑われないであろう体格をしていて、シゲくんとだと十センチ以上背が高い。シゲくんも筋肉質なのだが、裕也くんはさらに筋骨隆々タイプだ。今どき珍しい野獣派、本橋くん以上の荒技好きなのではなかろうか。
 猛禽類に似たまなざしが時おりかすめる、といったところが本橋くんにはあるのだが、乾くんも眼光がきらりと光るおりがある。平素は穏やかな顔つきと口調の乾くんが、そんなときには厳然とした大人の男に見えて、へぇぇ、乾くんってかっこいいね、と感じたこともあった。私に対して怒っているのではないからこその感想なのだが、怒りを向けられている相手は怯えるだろう。乾さんって怒ると怖いよ、と章くんや幸生くんが言う所以だ。
 もともと野生的な裕也くんは、怒るとどうなるのだろう? あばれたりしたらいろんなものが崩壊するのではないかと思っていたら、乾くんが教えてくれた。
「ダイモスのスタジオにはサンドバッグがぶら下げてあるんだよ。腹が立ったらそいつに当たるんだってさ。本橋、うちのスタジオにもサンドバッグを用意しようか」
「いらねえよ」
「サンドバッグなんかより、俺とバトルやらない?」
 ああ、中畑裕也、あんたもなのね、と私は言いたかった。
「本橋さんとだといい勝負ができそうだもんな。やろうぜ」
「おまえと遊びのバトルをやってなんになるんだ。乾とのほうがいいよ」
「乾さんとか? 乾さんじゃ本橋さんの敵になんねえだろ。泣くんじゃねえの? 木村さんや三沢さんよりは手ごたえもあるだろうけど、本橋さんのパンチ一発で撃沈だろ」
「おまえにはそう見えるのか。おまえはでかい図体して、頭は空っぽなんだな」
「おー、やる気になってきたか」
「なってねえよ」
「俺はなってきたぞ。俺にそういうことを言うとだな……」
「頭が空っぽの男は、腕力しか武器がないんだもんな」
 どういうつもりなの、本橋くんは? と小声で言うと、乾くんが笑いを含んだ声で応じた。
「あれは俺の名誉のために言ってくれてるんだよ。裕也が飛びかかってきたとしても、本橋になら勝ち目もあるからだろ。自信過剰といえなくもないかな。けど、俺も本橋と裕也のバトルは見たいんだよな」
「乾くんまでそうなわけ?」
「他人がやってる分には、バトルは楽しい見ものだよ。幸生や章の心境はわからなくもない。ミエちゃんはいやかな。亭主の殴り合いは見たくない?」
「本橋くんがまちがいなく勝つんだったらいいけど、負ける恐れもあるんでしょ?」
「裕也とだったら互角だろうな。だからこそ見たくない?」
「見たくない」
 そうかぁ、と言った乾くんは、残念そうにも見えた。本日はチカさんはいないのだが、チカさんがいたらどう言うだろう。やれやれっ、とけしかけそうな、幸生くんや章くんに似た精神構造を持つ、少年っぽい女性にも思えるのだが。
「やめてやめて、ってリーダーに泣いてすがってみれば? 俺はそんなふうにする美江子さんをこそ見たい」
 幸生くんも面白そうに言い、私は言った。
「いやだよっだ。幸生くんがやれば?」
「俺がやるんですか? 俺が泣いてすがったら突き飛ばされますよ。中畑にやってみようか」
「やってみて」
 んんん、と腕組みをした幸生くんは、やっぱやめとこ、とうなだれた。
「大怪我したくないしぃ。な、章、か弱い男はつらいね」
「いちいち俺に振るなっての」
「美江子さんはいちいち俺に振るんだよ」
「幸生くんがよけいなことばかり言うからでしょ。よし、こうしよう」
 美江子さん、なにすんの? と幸生くん。ミエちゃん、早まらないで、と乾くん。美江子さん、行かないほうが……と章くん。本橋くんの前に立ちふさがろうと決めて、私が睨み合っているふたりに近づこうとする前にシゲくんが出ていったのは、数年前のあの日を連想させた。
「中畑、俺と相撲を取ろうか」 
 が、シゲくんの台詞は数年前とはちがっていて、裕也くんはほげっと問い返した。
「本庄さんと相撲?」
「俺は相撲は自信があるんだ。俺は脚が短くて重心の低い日本人体型だから、相撲は強いんだよ。おまえには負けるかもしれないけど、ためしてみたいな」
「リーダーを守ろうとしてんのか」
「そんな無礼な真似はしないよ。本橋さんを守ろうとしたりしたら、俺が殴られかねない」
「あんたも本橋さんに殴られたことがあんの?」
「……ないな。リーダー、ありませんよね?」
「こつんとやったことぐらいならあるぞ」
「あんなのは殴ったとは言わないでしょう。中畑、俺は相撲だったら本橋さんにも一度も負けてないんだ。やらないか?」
「相撲……なぁ」
 気が乗らないな、といったふうに、裕也くんはかぶりを振った。
「そんなのつまんねえよ。レスリングとかは?」
「レスリングの素養は俺にはないよ」
「本庄さんって人の気を抜けさせるのが上手だな」
 とどのつまりはこうしてうやむやになってしまって、シゲくんってたしかに、喧嘩の仲裁役としてはうってつけの人材なんだな、と私は思った。シゲはたいしたもんだよ、と乾くんはくすくす笑い、おー、シゲさん、さすが、と幸生くんと章くんは声をそろえ、本橋くんも苦笑していた。そして当の本人は、今回も合点のいかない表情でいたのだった。


 クラシックとソウルミュージックは本橋くん、ジャズ、フォークソングは乾くん、幸生くんは古今の日本の歌全般に詳しくて、章くんは海外ロックに詳しい。シゲくんはポップス、バラード好き。うちは性格も音楽的趣味もばらばらのメンバーがそろっていて、すべての面でバラエティ豊かなんだよね、と私は考えていた。
 約十年前、木村章は「ジギー」という名のロックバンドに所属していた。楽器担当は全員女性で、男性はヴォーカルの章くんのみという、ロック界には数少ないタイプの編成だった。近年は楽器を演奏する女性ロッカーも増加しているのだが、それでもまだまだ女性ロッカーは少ない。
 希少なる女性ロッカーのひとり、加西チカさんはギタリスト。かつては章くん所属の「ジギー」のライバルアマチュア女性バンド「プシィキャッツ」のメンバーだったチカさんは、現在はスタジオミュージシャンとして内外で活躍している。そのチカさんと、現役ロックバンド「ダイモス」の中畑裕也くんが、スタジオに遊びにきていた。
 スリムで長身のチカさんは、シゲくん程度の背丈がある。裕也くんはこの中の誰よりも背が高い。背が高い上にがっちりたくましくて、アメリカンロッカーのようだ。もっとも、アメリカンなんかより九州男児ロッカーの俺のほうがずっとかっこいい、あいつらなんか目じゃないね、が裕也くんの持論なのだが。
 年齢はチカさんのほうが上だそうだが、このふたりってお似合いだなぁ、と思って見ていると、チカさんが言った。ハスキーで男っぽい声の持ち主だ。
「あの章がねぇ、顔も体格も変わってないけど、服装やら髪型やらがずいぶん変わって、別人みたいだよ。章が大学では合唱部にいたって話は聞いた覚えがあるんだけど、ロックとコーラスってのは似て非なるものっていうんじゃないの? 声の出し方からしてちがうんじゃないのか。章は両方こなせるんだから、たいしたもんなんだろうな」
 話し方も男っぽいチカさんは、裕也くんも含めて六人の男たちを等分に見回した。
「シンちゃんやらシゲちゃんやらは、裕也に近い声をしてるけど、あとの三人は変わった声だね。章の声は昔から知ってて、変わった声だな、って感心してた。タカちゃんとユキちゃんの声は、章とは異質なテナーなんだよね。三人ともあたしの声より高いしさ、何度聴いてもびっくりしちゃうよ」
 遠慮とは無縁のチカさんは、のっけからメンバーたちをちゃん付けだ。
「俺は昔っからロックにしか興味はなかったんだ」
 低くて太い、幸生くんや章くんに言わせると「地獄の住人声」となる裕也くんの声が、地底から聞こえてきた。彼の地獄声と比較すれば、本橋くんにしてもシゲくんにしても普通の男性の声である。
「だから、FSなんてのにもなんの関心もなかった。男の高くて綺麗な声なんて異常なんじゃないかと思ってたよ。うちのメンバーはみんな、俺みたいな声だしな」
 ここまで太くて低い声が四人もそろうとは、私にはむしろそちらが異常に思える。ダイモスはルックス的にも裕也くんタイプがそろっていて、彼らとFSが一堂に会すると、本橋くんやシゲくんもスレンダーで小柄な青年に見えてしまうのだから。
「だけどさ、興味を持ってFSの歌を聴いてみて、俺は唸ったね。FSの歌ってヴォイス版オーケストラってのか、シンフォニーってのか? 俺はクラシックもさっぱりだけど、言葉を紡ぎ出せる男の声が交響曲でも繰り広げてるって感じに聴こえたよ。乾さん、俺の言ってることって的外れか?」
「いや、なかなかうまく表現してるよ」
 闘争本能が強いのは生来の男の特質なのだろう。本橋くんがうちの筆頭で、他の四人はそうでもないふうによそおってはいるが、私から見ればみんな負けず嫌いの自己顕示欲旺盛な男だ。私にしたって負けず嫌いは人後に落ちないのかもしれないけれど、彼らには及ばない。
 ここにいるもうひとり、裕也くんの闘争本能も並みの男を凌駕している。同質といえばいえる声を持つ本橋くんとシゲくんを、裕也くんはかなりライバル視しているのであるらしい。歌では負けない、と言い張っている。
 そんな裕也くんは、テナー三人の声にはライバル視ではなく、驚嘆の思いを抱くのだそうだ。慣れている私だって、仲間である本橋くんやシゲくんだって、乾、三沢、木村の声にはいまだに惑乱されかねないのだから、部外者ならば当然だろう。それほどにテナー三人の声は特異なのだ。
「あんたらってなんで、合唱部に入ったんだ」
 質問した裕也くんに、幸生くんが最初に答えた。
「俺は声変わりするまでは、少年合唱団にいたんだよ」
「ユキちゃんって声変わりしたのか」
「チカさーん、俺も順調に成長してるんだよ。そりゃあ俺はチカさんよりちびだし、成人男子だって言ったら嘲笑されたりもするんだけど、第二次性徴とやらも経験して大人になりました」
「そうなんだ。へぇぇ」
 ひげだって脛毛だってねぇ、とズボンをまくろうとする幸生くんに、乾くんが言った。
「脱線してないで本題を話せ」
「はいはい、乾さん。でね、声変わりしたってのか、あんまりしてないってのか、どっちにしたって中学生になって少年合唱はやめたんだ。中学、高校はクラブ活動はしてなかった。他に忙しくて」
「ナンパにな」
 口をはさんだ章くんの頭を押しのけて、幸生くんは続けた。
「大学に入学して、サークル活動をやりたいな、って思ったんだよね」
「サークル活動をやると、ナンパにも役立つからだろ」
「章、おまえはうるさいんだよ。俺は歌ってものが好きだったし、てめえの声にはすげえ特色があるって気づいてたから、この声を活かすためには……って考えに考えて合唱部に決めたんだ。いかした選択だったろ、章?」
「ちなみに、今のは幸生のアホシャレだよ」
「説明すんな」
「しないとわかんねえよ」
「わからなくてもいいんだよ。んで、おまえは?」
 なぜだか章くんは、私の顔を見た。
「……ええと、こればっかりは話したくないってのか、チカはいいけど美江子さんがいるとね……そのような事情があって、はじめはロック同好会に入ろうかと思ったんだけどやめて、だけど歌いたかったから、かわりに合唱部に入ったんだ」
 そのような事情? 美江子さん、わかる? とチカさんも私を見た。
「章くんの事情というと、わかる気もするけど言いたくないんでしょ。チカさんも追及はしないでおいてあげてね。私? 私もせっかく大学に入ったんだから、サークル活動っていうのをしないと学生生活が楽しくないんじゃないかと思った。合唱部は同好会じゃなくて、正式な部活動なんだよね。それってわりと珍しいんだってね。男女に分かれてて大所帯で、プロシンガーも輩出してる、外部にも名の轟いてる合唱部に興味があって、だから入部したの。私は歌は全然うまくもなかったんだけど、合唱部に入ってよかった」
「俺と知り合えたからでしょ? リーダーと知り合ったのは後悔してません? 合唱部に入ってなかったとしたら、もっといい男と結婚できたのになぁ、って。リーダー、タンマ、参りました」
「俺はなんにもしてねえだろ。幸生、まったくおまえは毎度毎度……俺か? 俺は歌が好きだからだよ。他にも好きなものはいくつもあったけど、歌がいっとう好きだったのかもしれない。俺には軽音楽だのロックだのより合唱がふさわしいと思った。うちの合唱部ってのは体育会系でさ、俺にはそこも合ってたな」
 次は俺? と微笑んで、乾くんも話した。
「俺も昔から音楽が好きだった。高校時代まではギターを弾いてひとりで歌ってた。少年時代は孤高を気取ってるところがあって、群れたりつるんだりするのは好きじゃなかったんだよ。かっこつけの乾くんらしい、だろ、ミエちゃん?」
「そうかもね」
「だよね。今になるとそのころの俺が微笑ましいよ。合唱部に入ったのは歌いたかったから。それだけの理由だけど、本橋と知り合って視界が広がった。俺は歌手になりたい、プロのシンガーになれるんじゃないか、こいつとなら、と思った。こんなにもあらゆる面で合う男と出会ったのは運命の導きだ。本橋と俺は宿命の仲なんだ、ってさ」
「そう言ったよなぁ、おまえは。あんときは気持ち悪かったけど、当たってたな。男同士で宿命の仲かよ」
 あんたら、ホモっケある? とチカさんが尋ね、乾くんは真面目に否定した。
「そういうんじゃないんだよ。恋愛関係ではない宿命の仲というのは存在するんだ。本橋だけじゃない。シゲも章も幸生も、俺とは宿命の間柄なんだよ」
「俺も? ごろにゃーん、隆也さーん」
「……幸生、おまえには猫声まで出るんだよな。今度は猫になり切って歌え」
「はい、やってみます。にゃにゃにゃごにゃーごのごろにゃーご、みゅうみゅうにゅうにゅう、ミルクちょうだい……あ、日本語がまじった。はい、シゲさんもどうぞ」
 呆れ顔で幸生くんを見やっていたシゲくんが、口を開いた。
「俺は中学高校でも合唱部に入ってました。幸生とは逆に、変声期をすぎてから歌いはじめたんです。子供のころから声は低かったんだけど、中学生になるとすっかりこんな声になって、バスパートを力強く歌える中学生はそんなにはいないってんで重宝がられてましたよ。大学でも当然、合唱部しか考えられなかった。俺にはボーイソプラノだった時期はないんだけど、中畑はガキのころは声は高かったのか?」
「きんきらきんのガキの声だったはずだけど、てめえのガキのころの声ってよく覚えてないな。本橋さんは?」
「俺はごく普通の男の子の声だったよ。今でも声は普通だろ」
「歌うと普通じゃなくなるのが、リーダーの特色のひとつですよね。馬鹿野郎、うるせえ、黙れ、って言うときの声と、この愛をあなたに捧げて……なんて歌うときの声は、同一人物だとは思えない」
「そういうおまえは、今でもボーイソプラノに近いよな、幸生。ガキだった章はどんな声だった?」
「可愛い声。女の子みたいだったそうです。乾さんは?」
「小学生までは俺もポーイソプラノだったな。俺はおくてだったから、変声期も遅かったよ」
 二十年前だったら、シゲくん以外はみんなボーイソプラノだったんだね。そのころのあなたたちと会ってみたかったな。いつかそんな夢を見たような……夢の中で彼らが歌った歌は? たしかこの歌だった。私は言った。
「幸生くんはいくつになっても子供っぽいと思ってたけど、本物の子供時代からは成長したんだよね。背も伸びたし大人の体型になってるし、声もやっぱり大人びてはきてるんだ。ねえねえ、チカさんにも聴いてもらおうよ。アルフィの「泣かないでMY LOVE」。私も聴きたいの。みんなで歌って」
 唐突になぜその曲? と乾くんは首をかしげたのだが、いいよ、歌おう、と他の四人を促した。

「傷つけ泣かしたこともあった
 なにも言えなくて
 心Feel so blue
でも今は
 I love you I love you
 もう離さない」

 おー、生歌は最高!! とチカさんも賞賛してくれ、コーラスとなると俺たち、完敗だな、と裕也くんも呟き、私も言った。
「やっぱり技巧ってのもちがうのよね。表現力には差がありすぎるし、キャリアがものをいうって部分もあるんだ。子供のころとは桁がちがってる」
 チカさんが尋ねた。
「美江子さん、なに言ってんの?」
「あ、失礼。こっちの話」
「変な想像してた? シンちゃんとの愛の囁きとか?」
「やーね、チカさんったら。そんな想像なんかしてないし、第一、本橋くんと愛の囁きなんかかわさないもん」
「そうなのか。あいつは甘い囁きの言えないタイプ? そんな感じだね」
「そんな感じでしょ?」
「うん、そんな感じ」
 女同士で笑っていると、本橋くんが怒り声で言った。
「おまえらは俺たちに歌わせておいて、勝手に盛り上ってるんじゃねえよ」
 聴いてないんだったら猫の歌にしましょうか、と幸生くんがまぜっ返した。猫の歌もいいなぁ、とチカさんは応じ、裕也くんは肩をすくめた。
 モモクリや洋介くんとは立場が異なるのだが、ダイモスは年齢からしてもキャリアからしてもFSの後輩ではある。仕事上のつきあいで乾くんが裕也くんと知り合い、私たちも生でダイモスの演奏を聴かせてもらって親しくなった。中でももっともダイモスに心酔しているのは章くん。本橋くんとシゲくんを裕也くんがライバル視しているせいか、性格的に相容れないせいか、本橋くんとシゲくんは裕也くんとは反発し合っている。
「ダイモスは日本には出てきにくいタイプの、重々しいハードロックバンドですよ。日本の風土ってのか日本語ってのか、日本人気質もあるのかもしれないけど、ダイモスタイプのバンドはそんなにいないんだ。中畑のヴォーカルもあるんだろうけど、バックの演奏も日本人っぽくない。俺もダイモスのメンバーになりたかったなぁ」
 数日前にしみじみと章くんが言い、幸生くんも言った。
「だったら今からでも遅くないじゃん。章、ダイモスに入れてもらえよ。おまえだったらダイモスの小間使いってとこだろうけどさ。そこのローディの坊や、とかってこき使われるのがオチだったりして……」
「そんなことはない。俺の声が入ったら、ダイモスのレパートリーが広がるよ。あいつらの唯一の欠点は、全部の曲が重いってところだ。俺みたいな声も必要なはずだよ」
「……章、本気?」
「入れてほしくっても入れてくれない。あいつらもあれで結束固いんだよ」
「安心したよ」
 乾くんは言ったが、章くんはまたもや言った。
「俺、ちらっと考えたんですけどね、先輩たち、聞いてくれます?」
「俺は聞かなくていいの?」
「幸生も聞きたかったら聞け。あのさ、FSはFSとして、ですよ。それとは別に、俺はロックバンドがやりたいな。ジギーじゃなくて新しいバンド。ヴォーカルはもちろん俺なんだけど、女の子とのツインヴォーカルってのもいいかな。ギターはチカがやってくれそうだし、ベースもドラムもやってくれそうなあてがあるんです。あくまでも副業ですよ。乾さんのソロアルバムと同じです」
「副業なんだったら、俺たちに止める権利はないけどな」
「ほんとに、リーダー? 俺もね……ずーっとFSにいて、先輩たちに甘えてくっついてるだけじゃよくないな、なんて思うようになってきたんです。一度は俺が中心人物になって、俺がリーダーってことでやってみたい。そしたら、いかにリーダーが大変な仕事なのかもわかるんじゃないかな」
「章、大人になったな」
「そうですか」
 一抹の不安を漂わせた表情で乾くんは言い、本橋くんとシゲくんは、それもいいだろうな、と言った。幸生くんは不満そうではあったけれど、異議は唱えなかった。その件の結論はまだ出ていないけど、私としては寂しくなくもない。
 本格的なロックを歌う章くんの歌を、現在の章くんの歌唱力で聴いてみたい、とも思うけど、章くんにとってはFSがすべてじゃないんだね、とも思う。それはそうとな、と本橋くんは言った。
「ダイモスの演奏がすごいってのは認めざるを得ないけど、あいつらの人間性には問題ありだろ。だろ、乾?」
「まさしく。だけど、章が取って食われる恐れはないよ。危険なのはミエちゃんなんだから、あまり近づかないようにね」
「魔獣の館だものね。章くんはダイモスといっしょにやるんじゃないんでしょ? チカさんって女性ギタリスト? かっこいいね。会ってみたいな」
「うん、連れてきますよ」
 そういうわけでやってきたチカさんは、実にかっこいい女性だった。じゃあ、あたしにもギター弾かせろよ、と言ってチカさんは立ち上がり、俺のヴォーカルも聴く? と言って裕也くんも立ち上がった。
「裕也、なに歌う?」
「FSは絶対にやらないタイプの曲がいい」
「……やっぱ張り合ってんのか。あたしもハードロックがいいな。よし、そんならこれ」
 スタジオにあったエレキギターのチューニングをしていたチカさんが、ぎゅいーん、とギターの音を響かせ、イントロを聴いた章くんが言った。
「おっ、「You realy gat me」。ヴァン・ヘイレンだな。中畑の声にはぴったりだけど、俺も歌いたいよ」
「歌おうぜ、章ちゃん」
「章ちゃんとはなんだよ」
 くちびるをとがらせて、章くんもマイクを手にした。私も章くんが座興で歌うロックだったら聴いたことはあるけれど、プロのギタリストの伴奏で、プロのロッカーとセッションしている章くんは初に見た。裕也くんとデュエットしている章くんは嬉しそうで楽しそうで、章くんには今でもロックが生き甲斐なんだね、と思えてくる。
 大学を一年で中退して合唱部からもいなくなった章くんが、アマチュアロッカーだった時代に、街で彼とすれちがったのも思い出した。とりどりの色に髪を染めたロッカーファッションの女の子たちと、肩で風を切って歩いていた章くん。気後れして私は声もかけられなかった。章くんって私たちとは人種がちがってるの? と思わなくもないけれど、そうだとしても一部だけだよね。FSの一員である章くんも章くん。両方とも章くんなんだよね、って認識はまちがってはいないと信じたかった。

 
 それから数日後、自宅に帰ってきた本橋くんが話してくれた。
「章はロックバンドをやるんだってさ。決まったらしいぜ」
「やるの?」
「チカさんも一緒にやるって言ってたろ。おまえも聞いてたあれが本決まりになったんだ。遊びみたいなものだけど、章はギターも弾いて歌も歌う。ライヴもやってCDも出すんだそうだ。どうした、美江子? おまえがつらそうな顔をするのか?」
「なんとなくだけど……章くんがフォレストシンガーズから離れていってしまいそうで……そうなったらどうしようって思ったら……やだ、泣けてきちゃった」
「泣かなくてもいいだろうに。大丈夫だよ」
 短いひとことに力を得て、私は言った。
「泣いてないけど……ううん、泣いてるの。この間も歌った歌を歌って。お風呂で歌ってくれる?」
「風呂か。うんうん、一緒に入ろうな」
「一緒に入ってあげるから、歌ってね」
「うん、まあ、いいからさ」
 仕事先の宿舎のお風呂場で、いつか本橋くんにだけは、入浴姿を見せる日が来るのかもしれない、と考えたこともあった。現実になっちゃったなぁ、と思いつつ、全裸で全裸の本橋くんと向き合う。顔立ちも身体つきも、声も性格も「男」でしかない私の夫。出会ったころには少年の雰囲気も残していた彼は、今では大人の男そのものの外見になった。
「十五年もたつんだよね。ほんとに男っぽくなったよね」
「俺は男なんだから当たり前だろ」
「そうよね。なんだかんだ言ったって、私はあなたが男だからこんなふうになったんだもの」
「おまえを女らしいと思ったことはほとんどないけど、まあ、女だよな」
「なによ、それは。私の裸は女らしいでしょ? 男っぽいところなんかある?」
「……ないな」
「あなたにも女っぽいところなんかないよね。この胸もその脚も、その声も……愛してる、なんて言えないところも、日本の男なんだから」
「だから、俺は男だって」
「そうだね」
 俺は男なんだぞ、ってつっぱってて疲れない? って尋ねてみたら、本橋くんは言ったっけ。
「肩の力を抜いて楽になれ、なんて言うよな。男だ男だって肩肘張ってないで、男だって弱音を吐いたり、泣いたりしてもいいんだ、我慢しすぎるとぽきっと折れる、だとかな。だけど、俺はそうしてたいんだよ。つっぱってこそ男だろ。俺はてめえでそうしたくてやってるんだ。他人にとやかく言われる筋合いはない」
「男でもあるし、みんなのリーダーでもあるんだし、だよね」
「そうだ。それが俺の生き甲斐ってのかな……」
「がんばってね」
「がんばるさ。笑ってるな、おまえは。おまえがなんと言おうと、俺は俺だ。変わる気もない」
「いいわよ、あなたはそれで」
「……馬鹿にされてる気もする」
「してないよぉ」
 今夜もそう言ってけらけら笑って、この野郎、笑うな、って本橋くんは怒って、私は野郎じゃありませんよ、って言い返して、きつく抱きしめられて……いつになっても些細な喧嘩ばかりしてる私たちは、お似合いのカップルなんだよね。
 そう、あなたはあなた、私は私。変わったりできないんだから。変わらなくてもいいんだよ、そのままでいて、って、ふたりともに思ってるって、幸せなことなんだな。
「私がなんの歌を歌ってほしいのか、知ってる?」
「ああ、これだろ」
 泣いている彼女を抱きしめて歌うための歌を、本橋くんが歌ってくれた。

「涙が乾くまで抱いてあげよう
 この熱い愛でずっと夜が明けるまで

 My love don`t cry
My love don`t cry
My love My love My love」

 意地っ張り美江子はめったなことでは泣かないけど、あなたの腕に包まれて、大好きなあなたの声を、大好きなあなたのソロを聴いていられる、たったひとりの女になった今は幸せ。
 ん? たったひとり? 本当にそうよね? もしも私があなたのたったひとりの女ではないのだとしたら、泣くんじゃなくて怒り狂って即刻離婚だからね。などと、甘いひとときにもふっとそんなことを思うのは、私らしいのであろう。たぶんまちがいなく。

END




 

 
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~ Comment ~

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ファンに対してなんて失礼な態度!
いけませんね、CD売れなくなってしまう!
そこに冷静な乾くん、さすがです。
そうそう、サインぐらい減るもんじゃないし、してあげてください
章くんを見ていた乾くん、を見ていた山田さん、の図を想像したら笑ってしまいました。

芸能人は売れると態度が変わってしまうと聞きますが、
なぜなのかとても不思議です。
「自分は売れてる。なにしても大丈夫」
なんて思うところが理解できません。

表と裏の顔が違うのは分かりますが、スタッフらに態度がデカいと人としてどうかと思ってしまいます。
その点、聞いた話ですがTOKIOの長瀬くんはとてもいい人だそうです。


きっと乾くんもスタッフに優しいんだろうなぁ、と想像しニヤニヤする自分が怖いです・・・・・・


それと先日初めて猫カフェに行ってきました。
なんですか、あそこは。天国??
オープンしたばかりで7割が子どもの猫(人で言うと中学生ぐらい
もう可愛くて可愛くて鼻血が出そうでした。
一匹とても大きな猫がいて、毛もモフモフな猫だったんですが、
近づいてきたかと思うと、人の太ももを枕に眠るという人懐こい猫でした。
みんな純血種らしく色んな子がいて可愛くて、幸せな1時間でした。

ハルさんへ

いつもありがとうございます。
ファンと芸能人に対するハルさんのご意見には、全面的に大賛成です。
ほんと、ファンっていうのは芸能人にはいちばんの財産なのに、なんで邪険にできるんでしょうね。信じられない。

「サインして下さいって言われたら、してあげる、じゃないんだよ、させていただくんだよ」
こう言ってらしたのは、知り合いの作家の方でした。

「ファンを大切にしなくちゃいけないのはわかってるんだけど、疲れてたりするとついそっけなくしてしまって、あとから反省するんです」
こう言ったのは、プロ野球選手でした。スポーツ選手とファンっていうのは、またちょっとちがうでしょうけどね。

そういえばSMAPの森くんは、スタッフに対してえらそうだったと聞いたことがありますよ。彼はやめたくて苛々していたのかもしれませんが、長瀬くんとはえらいちがいですね。
性格ってのもあるのかなぁ。章はスタッフにはえらそうにはしませんが、いらついていると誰にでも、言ってはいけないことを言ってしまう傾向が……。

猫カフェ、行かれたんですね。いいなぁ。
私も一度は行ってみたいと思いながら、未経験です。
和歌山の貴志駅にいる、たま駅長はごぞんじですか。

http://quianred.blog99.fc2.com/blog-entry-1054.html

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