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小説136(十年ロマンス)後編

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フォレストシンガーズストーリィ136

「十年ロマンス」後編


6・渉

 少年時代にはフェンシングをやっていたのだが、弱かった。大学でもフェンシングクラブを見学に行ったものの、弱い以前でろくに部員もいないようだからやめておいたのは、もとから俺が弱かったからだ。
 フェンシングクラブを見学にいったおかげで、加藤大河と知り合えたのだから、あれはあれでいい。スポーツなんてものはさして好きではない。ギャンブルも嫌いなのは、負けると腹立たしいからであって、なんであっても負けるのは嫌いだ。
 だが、勝つと気分がいい。今日は気分がいい。本庄は少年野球をやっていたと聞いているが、野球好きでもない俺のチームに負けるとは、俺だったら歯軋りしたくなるほど悔しいだろう。常にのほっとしている本庄が今日は俺を険しい表情で睨んでいたのは、彼の胸中でも悔しさの炎が燃えていたからか。
 勝つんだったら本橋や乾に、のほうがいいな。あいつらがチームにいたら負けるかな。今度はあいつらとも野球の試合がしたいな。シンガーが野球の試合で勝っても意味はないにしても、勝つってのはいい気分なんだから。
 などと考えながら、着替えてグラウンドから出ていった。今日は休みなので野球で遊んでいたのだから、帰ってシャワーを浴びようか。もしくは、どこかでシャワーを浴びてから飲みにでもいこうか。車のほうに行こうとしていると、若い男がいた。
「おまえ……ポン?」
「ポンじゃねえよ。麻田洋介」
「もとポンだよな」
 最近解散したアイドルグループがいる。ラヴラヴボーイズという名の少年五人のアイドルグループには、俺は当然も当然、なんの興味もなかった。興味はないにしても勝手に目や耳に入ってくるのは、彼らが大変に売れていたからだ。
 解散の事情を俺が知る由もないが、メディアはあれこれ取り沙汰していたようだ。そのラヴラヴボーイズのポン。本名は麻田洋介であるらしき彼が、フォレストシンガーズとは関わっているらしいとも、なんとなくは知っていた。
「おまえは本庄の野球チームに入ってるのか」
「入れよってシゲさんに言われたんだけど、考慮中だったんだよね。そんでさ、今日は練習するって聞いてたから、来てみたんだ。練習はすんじゃったのかな」
「すんだんだろ。いなくなってるもんな」
「徳永さん、一緒に練習してたの?」
 挨拶も自己紹介もしなかったのだが、彼も俺を知っていると見える。試合をして勝った、と自慢話をしても意味もないので、俺は言った。
「俺もちょっと運動していただけだ。汗をかいたからシャワーを浴びたくて、家に帰るかどうするか、って考えて歩いてたんだよ。おまえは暇なのか」
「暇だよ。ねえ、徳永さんも暇なんだったら、飲みにでも連れてって」
「そうだな。車に乗れよ」
 駐車場に行って洋介を車に乗せ、俺のマンションに向かって走り出した。
「徳永さんちで飲むの?」
「シャワーを浴びて着替えるから、おまえは待ってろ。車で行くと飲めないから、車を置いてタクシーにしよう」
「俺はどっちでもいいんだけど、失業中だから俺は金がないよ」
「おごれってか。それはいいけど、なんだっておまえは俺と飲みにいきたいんだ?」
「ソングライティングの話が聞きたいんだ。俺は今は本橋さんの弟子にしてもらってるんだよ」
 あの本橋の弟子とは、どういった師弟関係なのだろうか。
「そんでね、本橋さんや乾さんが言うんだ。作曲の話しってのはFSの人たちからも聞けるけど、才能のあるソングライターからも話を聞くとためになるぞって」
「俺は歌う才能だったらあるつもりだけど、詞も曲も書かないぜ」
「へ? そうなの?」
 本橋か乾が、徳永からも話しを聞け、と言ったのではないようだ。彼らは俺が歌作りはしないのは知っているのだから。
「なんだ。そんなら飲みにいっても意味ねえよな。なーんだなんだ。俺は別に酒なんか好きじゃないし、徳永さんも好きでもないんだから、飲みにいくのはやめようかな」
「やめるんだったら降りろ」
「うん、降りるよ」
 適当な場所で洋介を降ろしてやり、車を出してから振り返ると、道端に立っている洋介に別の車が寄っていった。ドライバーが洋介に声をかけたようで、洋介が乗り込むと、その車は違反であろうと思えるスピードで俺の車を追い抜いていった。
 ちらりと見えたドライバーは女。洋介の知り合いなのか。あるいは、見知らぬ女に拾われたのか。見知らぬ女だったとしたら襲われるなよ、とは思ったのだが、襲われたって嬉しいのかもしれない。よほどの女でもなければ、洋介が腕力では上だろうから、心配してやる必要はないはずだ。
 あいつはいかにも女にもてそうだから、俺と同じようなことばかりしているのだろうか。その心配も、俺がしてやる必要はないのだった。
 

 出直すのも面倒になって、自宅でシャワーを浴びてからごろごろしていたのだが、やはり気が変わって外に出た。野球でトレーニングしたついでにジムに行き、身体を動かしてからバーに行くと、深夜になっていた。
 一日のしめくくりは女がいい。いい女はいないだろうかとバーの中を見回すと、ひとりで飲んでいる女がいる。二十歳はすぎているだろうが、小柄な若い女だ。ダークなピンクの長いワンピースを着ていて、寂しそうにも見える。
 ナンパされたくてひとりでこんな店にいるのか。商売女ではなさそうな風情なので、俺はバーテンダーに声をかけた。
「彼女のドレスに似合う、ピンクっぽいカクテルをプレゼントしてあげて」
「かしこまりました」
 ピンクのカクテルを作ったバーテンダーが、彼女のもとに運んでいく。彼女のテーブルにカクテルが届いたのを見てから、俺はそちらに近づいていった。
「こんばんは」
「……ピンクのカクテルって私に似合う?」
「あなたのドレスの暗いピンクには似合うかと思ってね。お気に召さないかな?」
「こんな子供っぽい色……」
「気に入らないんだったら飲まなくていいよ」
「あんたが飲んで」
「俺は甘い酒なんて嫌いだ」
「他のお酒、おごってくれる?」
「どうぞ。好きなのを注文すれば?」
 バーテンダーを呼ぶと、彼女は言った。
「このひとと同じものを。ソーダは少なめにしてね」
「承知しました」
 濃いウィスキーソーダが運ばれてくるまではふたりともに無言でいて、運ばれてくると、彼女はグラスを上げた。
「乾杯? なにに?」
「お近づきのしるしに、ってのはいけない?」
「いいけどね……名前は?」
 軽くグラスを合わせてから、彼女は言った。
「あなたの名前は? 先に名乗るものでしょ」
「徳永渉。姓でも名でも好きなほうで呼んで」
「私はねぇ……風花でふうか」
「偽名か。いいよ」
 本名なんてどうでもいい。いささか突っ張っているようなのも可愛い。さて、どうしようかと考えていると、風花のほうから言った。
「口説きたいんでしょ? 口説いてみてよ」
「今夜は口が少々疲れてるんで、口説き文句を発するのが面倒なんだよ。行きたいんだったらついてこいよ」
「……なんなの、それ。行かない」
「行きたくないんだったらいいよ」
 いやがっているものを無理強いする趣味はないので、そこからはまたまたともに黙っていた。やがて俺はウィスキーソーダを飲み干して立ち上がった。
「酒でも料理でもなんでも頼んでいいよ。俺は帰るから」
「帰っちゃうの? つまんないな」
「ついてきたいんだったらついてこい」
「ついていきません」
 レジで支払いをして、立ち止まって煙草に火をつける。風花が追ってくるのではないかと期待もして立っていると、案の定、ついてきた。
「風花? どこへ行こうか」
「どこへも行かないの。ごちそうさまって言いにきただけ」
「案外礼儀正しいんだな。どう致しまして。では、おやすみ」
「……んんとね、口説いてよ」
「おまえは口説かれたがり症候群なのか。そこらへんに突っ立ってたら、通りすがりの男が口説きにくるだろ」
「通りすがりの男なんてやだ。あんたがいいの」
「惚れたのか? 俺はおまえに惚れてなんかいないけど、抱いてほしいんだったら抱いてやるよ。だからさ、言ってんだろ。ついてきたいんだったらついてこいよ」
「……うん、ついていく」
 通りかかったタクシーに手を上げて、先に乗り込んでホテルの名を告げる。風花もタクシーに乗ってきた。
「行きつけのホテル?」
「何度かは泊まったよ」
「女と?」
「当然だろ」
 タクシーの中ではお互いに黙りこくっていて、ホテルの前に車がつくと、俺が先に降りた。
「待ってよ」
 ラヴホテルではなく、小さなシティホテルだ。おまえは帰りたいんだったら帰ればいいよ、と心で言っていたのだが、風花もホテルに入ってきた。
 チェックインして先に立って歩き出す。俺のペースでことを進めているのが不満なのか、風花は言葉数が少ない。そのくせついてくる。エレベータにも俺が先に乗ると、風花も乗り込んできて、俺を見上げて言った。
「惚れてはいないからね」
「嬉しいよ」
「あんたってむかつく」
 エレベーターの中でかわした会話もそれだけで、部屋へと続く廊下でも無言。部屋に入ると、風花が殴りかかってきた。予測はついていたので腕をつかみ、俺は言った。
「……おまえみたいな小さな女に、俺が殴れるとでも思ったのか。俺はおまえに殴られる筋合いはないぞ。おとなしくしろ」
「……帰る」
「ここまで来たら帰さない。おまえを抱いてるときだとか、そのあとでぼーっとしてるときだとかだったら、殴れるかもしれない。やってみるか」
「そうしよっかな」
「ガキでもないんだろうけど……生意気な小娘だな」
「小娘じゃないよ」
「俺から見たら小娘だ。小さくて力もないんだろ。おまえの望みはなんだ?」
「好きにして」
「好きにしていいのか」
 腕をつかんで片手で服を脱がせる。風花は不平を言っているようだったが、されるままになっていて、裸にしてから俺は言った。
「成熟してないじゃないか。遊び慣れてるようでもないな。俺は風呂に入ってくるよ」
「先に行けって言わないの?」
「俺が先だ」
 少女じみてはいるが、遊び慣れてもいるような身体つきをしている。俺はおぼこい女なんて趣味ではないので、こういうタイプがいい。ここまでやれば帰る気もなくしているだろうし、服を着て帰るのだったらそれでもいい。
 そのつもりでシャワーを浴びていると、風花が忍び寄ってきて脛を蹴ろうとした。こういう女も好きだが、蹴られる筋合いもないので、脚をよけてから笑ってみせた。
「ばーか」
 口をとがらせた顔が可愛かった。
「やりそうな気がしたんだよ。落ち着いて風呂に入れないだろ。出ていけ」
 怒っているのか甘えたいのかじゃれたいのか、風花が手と足を無茶苦茶に動かしている。俺は彼女をつかまえて抱え込んだ。
「おとなしくしろと言ってるだろ。もしかしたらひっぱたかれたいのか? おまえ、男にひっぱかたれたいって趣味でもあるのか」
「そんなんじゃないったら。私だって裸だしさ……あんたが脱がしたんだけど……ふたりとも裸でここにいるのに、一緒に……」
「邪魔だ。出ていけ」
「ふんっだ。出ていくよっだ」
 遊び慣れてはいるのだろうに、態度がガキっぽい。そんな女も嫌いではないので、浴室から出て言った。
「おまえも入っていいぞ。ただし、早くしろよ」
「うー、むかつく」
 手早くシャワーを浴びて出てきた風花をベッドに引っ張り込んで抱いた。乱れる仕草はこの行為に慣れた女のものだった。

「繰り返す手招き
 そこに見出した陰 ディテール
 汗ばんだ沈黙
 サディズムの片笑い」

「この歌、知ってる?」
 「眩暈」だったか。怪しい音程で、ふらつく声で、風花が歌った歌。おまえは俺の腕の中で眩暈を感じたのか? それでいいじゃないか、と考えながら、俺は応じた。
「聴いたことはあるけど、ビジュアルロックだろ。興味ないよ。俺はここで寝て朝になったら帰るけど、おまえはどうする? 帰るんだったらタクシーを呼んでもらうか」
「今夜だけだよね」
 再び、風花が歌のワンフレーズを口ずさんでいる。俺はその間にフロントに電話をかけてタクシーを頼んだ。

「せめて激しく抱いて
 今日で終わりと思って
  
 せめて激しく抱いて
 今日で終わりじゃないと」

 煙草をくわえた俺を、風花がじっと見つめてから言った。
「うん、帰る」
 ベッドから出て服を着て、風花は俺に向き直り、てのひらをいっぱいに広げて俺の胸に叩きつけた。けっこう痛かった。
「うっ……」
 やってしまってから怯えた表情になっている風花に、俺は言った。
「やれと言ったのは俺だもんな。じゃあな」
「うん、じゃあね」
 それだけで、風花が部屋を出ていく。タクシーはじきに来るだろう。部屋を出ていってから、ドアに向かって風花がなにやら言っていたようだが、俺の耳には明確には届かなかった。


7・隆也

 スタジオにやってきたシゲの機嫌がよくないのは、こういう理由でだった。
「昨日は徳永さんのチームと練習試合をすることになりまして、やったはいいけど、徳永さんがピッチャーだったんですよね。その徳永さんに完封されてしまったんです。乾さん、本橋さん、次回があったとしたら、プロジェクトSSに助っ人に来て下さい。次は完封リレーでもいいから、徳永さんたちに勝つんです!!」
「いいけどさ、俺たちはシゲのチームと試合がしたいんだよな」
 本橋が言い、幸生が言った。
「じゃあ、俺が助っ人に行ってあげるよ。それまでに魔球を生み出しておこう。それともそれとも、超ミニスカートを穿いていって、徳永さんを悩殺しちゃうとか?」
「おまえのミニスカートで悩殺される奴は、この世にはひとりもいないんだよ」
 章が言い、俺も言った。
「ピッチャー徳永渉の雄姿ってやつは、俺も見てみたいな。シゲ監督、この次には微力ながら、乾隆也がお手伝いさせていただきますよ」
「よろしくお願いします。でも、乾さんがいると俺は……」
「んん?」
「いいえ、よろしくお願いしますっ!!」
 野球となると人一倍燃えるのがシゲだ。乾さんがいると俺は……の先はどう続けたかったのかは知らないが、足手まといになって苦労する、でもないだろうから、この次があれば、の約束をしておいた。
 息子の広大が生まれたと、恭子さんの実家の長崎からシゲが報告してくれた日に、プロジェクトSSとフォレストシンガーズチームで野球の試合をしようとの口約束はした。が、我々は徐々に多忙になってきていて、約束を果たしていない。
 我々のうちの誰かがオフでも、誰かが仕事だったりする。グループのメンバーたちが個別仕事をこなすのも、個人的にも集団的にも役に立つのだから、決して無駄ではないのだが、五人がそろって遊ぶのはなかなかむずかしくなってきた。
 ただいまの俺は、大手CDショップのキャンペーン用ソング作りを依頼されている。幅広い年齢層にアピールする曲を頼むと言われていて、歌うのも俺だ。顔は出ないのだが、曲と声が電波に乗る。乾隆也の名前も出る。
 フォレストシンガーズではなく乾隆也個人が前面に出る仕事は、はじめてではないが、たったひとりで……となると、などと甘えていてはいけない。引き受けた以上はベストを尽くさねば。
 タイトルも決まっていないその曲の冒頭は、学生をテーマにしようか。となると、高校生以上だろう。高校生と大学生。先に大学生から考えよう。母校を訪ねたいと思っても、高校は金沢だから簡単には行けない。まずは大学だ。
 もっとも身近な大学は我が母校。母校には章の弟の龍と、幸生のいとこの雄心がいる。合唱部の面々だっている。俺の大学の後輩たちが、俺たちのころとは変わってもいるようで、変わってもいない姿で生活している。そこを見にいってこよう。
 広いキャンパスをそぞろ歩く学生たち。俺はベンチにすわって、現在の俺には少年少女に見える学生たちを眺めていた。ランチどきなので、俺も昔ながらに売店で弁当を買って広げていた。
「あのぉ……」
 三つ編みの可愛い女の子が、おずおずと俺に声をかけてきた。
「歌手の方ではありませんか」
「はい」
「フォレストシンガーズの乾隆也さん?」
「そうですよ」
「うちの大学の先輩なんですよね。すわってもいいですか」
「どうぞ」
 わーっと学生たちが寄ってきて取り囲まれても困るのだが、可愛い女の子ひとりだったら嬉しい。手前勝手なことも考えつつ、彼女と話した。
「私は一年生の菊本です。合唱部ではありませんけど、フォレストシンガーズのファンなんです」
「ありがとう。菊本さんは誰のファン?」
「木村さん」
「そうですか。章に報告しておきますよ」
 ファンだと言ってくれてはいても、フォレストシンガーズの過去は知らない様子で、彼女は俺にさまざまな質問をした。
「あのね、みなさんは喧嘩ってするんですか」
 喧嘩をするのかとの質問も、雑誌などのインタビューでもされる。俺は正直に答えた。
「若いころにもしたし、今でもしなくはないな」
「あのね、あのね、ファンってね、アーティストのひとの本当にプライベートな姿は見られないんですよね」
「そうだね。ファンの方には純粋プライベートは見せないのが普通だよ」
「乾さんってとっても優しい声で、優しい話し方をするけど、怒るとどうなるんですか? 怒った声を出してみて」
 恋人が俺を怒らせようとして、無理を言ったり我が儘を言ったり、の経験ならばある。ファンの方にこんなふうに言われたことはないはずだ。
「怒ってないんだから、怒り声を出せと言われても困るな」
 じゃあ、わたしが怒らせてあげる、と言われるとさらに困るのだが、彼女はそうは言わなかった。
「そうですよね。ごめんなさい」
「あやまらなくてもいいんですよ」
「乾さんって怒るんですか?」
「人間なんだから怒りますよ」
「どんなふうに?」
「怒った芝居しろって? ファンの方を失望させてはいけませんから、できません」
「やってやって。だって、ファンは乾さんの怒った声なんて聞けないんだもん」
「そりゃあそうだけど……」
 ファンに向かって怒るだなんて、少なくとも俺はやったことはない。章ならばファンの女性にもたまさか腹を立てていたが、シゲにも本橋にも幸生にもないはずだ。
 フォレストシンガーズのファンにではなく、モモクリのファンだと名乗った少年に説教した覚えは、俺にもある。あのときは怒っていたのではないが、本橋も怒るのではなく、ファンに意見していたことはあった。
 ラヴラヴボーイズのポン、改め麻田洋介が一般人となり、本橋夫婦のマンションに弟子として出入りするようになったころだ。洋介はアイドル時代には熱狂的ファンが大勢大勢いたのだから、グループを解散したからといって彼女たちが即座に彼を忘れ果てるわけもない。
 本人は、俺なんかもう世間から忘れられてるよ、とふてくされていたが、そんなはずはなくて、洋介が一般青年となってからだって、追っかけの女の子はいたのだ。
 そんなポンファンの女の子たちが、どこで聞きつけたか、本橋のマンションを調べて押しかけてきた。ここにポンくんがいるんでしょ、ポンくんを出して、などなどと女の子たちに迫られている本橋を、たまたまいた俺も見ていた。
「ポンなんて奴はこの世からいなくなったんだよ」
「いるじゃないのよ」
「ポンはいなくて、本名に戻った奴だったらいるよ。でも、俺は彼についてきみたちに話せる立場ではない。帰りなさい。あいつは勉強してるんだから、好きなんだったらそっとしておいてやれよ」
 その調子で本橋は女の子たちに言い聞かせ、女の子たちも納得して帰っていった。
 あとから俺はミエちゃんと、本橋も大人になったね、と言い合ったものだ。ミエちゃんは言っていた。
「乾くんに頼るんじゃないかと思ってたけど、本橋くんもリーダーとしての貫禄が他の面にも示せるようになってきたんだよね。私は彼が怒り出すんじゃないかって、冷や冷やしちゃったよ」
「実は俺もだよ。あいつが怒り出したら止めようと思って待機してたんだ」
「私も」
 そのエピソードにしても、本橋は怒っていたのではない。近頃の本橋はある面は相当に辛抱強くなった。俺としても辛抱強くはないのだが、昔から本橋ほどには怒りっぽくはないのだし、まったく怒ってもいないのに怒った芝居とは、できっこない。
 きみみたいな可愛い女の子に向かって、怒ったりできないよ、と菊本さんに言うと、セクハラになるのだろうか。困っているしかない俺に、菊本さんはさらに言った。
「私がどうやったら怒るの?」
「きみが多少なにを言ってもしても、怒らないよ」
「怒らせてみたいな」
 親しい女性だったとしても困るのに、大学の後輩で、フォレストシンガーズのファンだと言ってくれている大学一年生の女の子。それだけの彼女にはもっと困る。困っているしかない俺の顔を覗き込んで、怒ってよぉ、と可愛い声を出す。
 こういう場合は可憐な容姿の女の子は得なのか損なのか。ここにいるのが男の後輩だったとしたら、しつこいんだよ、うるせえんだよ、くらいは言ってやるのだが。
「あのね、俺はメシを食ってる途中なんだけどね」
「メシを食うだって。きゃ、素敵」
「メシを食うって普通の言葉でしょ?」
「男のひとには普通ですよね。乾さんがメシを食ってる姿っていうのもいつもは見られないんだから、そっちを見てます。食べて」
「はい」
 じろじろ観察されていると食いづらいが、こっちだったら見られても困りはしない。失礼して弁当を食った。
「男食いってあるんですってね」
「そうなの?」
「そうですよ。ものを食べるときにも男と女はちがってるの」
「そうかもしれないね」
 若いくせして妙に男だ女だとこだわる子だ。これが男だったとしたら、男だ女だ言うな、と一喝してやるのだが、女の子が言う分にはいいのだろうか。ミエちゃんだったら怒らないだろうか。
「乾さんも男食いするんだ」
「そうなのかな。こう食うの?」
 行儀悪く食べてみせると、手を叩いて喜ぶ。がつがつかっこむのが男食いなのだろうか。猛烈に腹をすかしたシゲや本橋の食い方か。その真似をして食っていると、菊本さんはきゃっきゃっと笑っていた。彼女は無邪気なのだと考えておこう。
「乾さん、かっこいい」
「ああ、そう? ありがとう」
 意識もしたことはないが、男食いをかっこいいと言われるとは、はじめてだ。男の行儀の悪い食事作法をかっこいいと思う女性もいるのだと、不思議な気分になった。
 こんな食い方をしたら、子供のころだったらばあちゃんにひっぱたかれただろうな、と考えながらも、菊本さんのご要望にお応えして行儀悪く食べ続け、弁当箱が空になった。うちの学食や売店のメシは昔ながらにまずい、と再認識して、安いんだからいいか、と昔ながらに思っていた。
「はい、どうぞ」
 菊本さんがお茶を手渡してくれ、礼を言って飲んでいると、近くに男子学生が三人やってきた。各自がグローブを持っていて、ボールも持っている。ここでバットを振り回すのははた迷惑であろうから、キャッチボールをするつもりか。俺は菊本さんに言った。
「腹ごなしの運動をしたくなったよ」
「それって私を口説いてる?」
「運動ってそんな意味が? ちがいます。俺もあっちに入れてもらってくるよ」
「ああ、私の友達がいますよ」
 見えていなかったようで、俺が三人の男子を示すと、菊本さんが言ってくれた。
「コンちゃーん、乾さんが野球したいって」
「乾さんって誰だ? そいつ?」
 コンちゃんと呼ばれた男が俺をうさんくさげに眺め、他のふたりも、なんだ、そいつ、誰だ、と言っている。菊本さんは俺の耳元で囁いた。
「先輩に向かってなんだ、その口のききようは、って怒って」
「きみはそんなに俺を怒らせたいの?」
「はい。私に怒ったら怖いけど、彼らに怒ってるのだったらとーっても見たい」
「そうですか。では」
 もう一度ご要望にお応えしよう。俺は三人に向かって言った。
「俺はただの通りすがりだけど、おまえたちの先輩なんだよ。口のききように気をつけろ」
 この程度では怒るほどではないのだが、怒った演技だったらできる。怒りがにじんでいるであろう声音で言うと、コンちゃんも怒った。
「先輩ったって、俺はおまえを知らないぞ」
「俺だっておまえは知らないけど、俺はこの大学の卒業生なんだよ。俺はおまえたちよりも十ほどは年長だ。年長者には丁寧に喋れって、小学校で教わらなかったのか。親には教えてもらわなかったのか」
「教えてもらってねえよ」
「教えてもらわなくても自然に学ぶだろ。おまえら、野球部か」
 三人そろってかぶりを振る。スポーツクラブにいれば現代だって年長者への礼儀は教わるだろうから、彼らはそのような者ではないのだろう。俺は徐々に、合唱部の後輩に説教する先輩モードになってきていた。
 本橋みたいに血の気の多い奴がいたら? いや、本橋は明らかに自分が悪くて先輩に叱られたら、潔く詫びた。本橋ではなく、性格は若いころの章で、腕力自慢の喧嘩バカがいたとしたら?
 そうも思ったのだが、近頃の若者はおとなしいのが多いようで、彼らは腕力でさからったりはしない。不満そうではあったが、はいはい、わかりましたよ、と言って、三人そろって言葉遣いも改めた。乾さんったらまたーー、とのうちの後輩たちの笑い声の空耳を追い払って、俺は言った。
「じゃあ、キャッチボールに入れてくれるかな。野球の助っ人をやってくれって友人に頼まれたんで、ちょっと練習したいんだよ」
「はい、どうぞ」
 彼らは俺を知らないらしいが、先輩だとは認めてくれたらしく、仲間に加えてくれた。
「そうやってる乾さんも男らしくてかっこいいーっ!!」
 菊本さんが叫び、コンちゃんも言った。
「俺もかっこいい?」
「全然」
 コンちゃんは菊本さんを好きなのだろうか。好きってほどでもなくても、女の子にかっこいいと言われたいのが男だとは、そこは俺にも心から理解できる。見物している菊本さんが俺にばかり声援を送ってくれる中で、後輩たちとキャッチボールをやって心地よく汗をかいた。
「俺たち、講義がありますんで……」
 しばらくするとコンちゃんが言い、俺はうなずいた。
「しっかり勉強しろよ。菊本さんも講義だろ」
「はーい。乾さん、今日はありがとうございました」
 礼を言われるようなことはしていないのだが、四人の学生たちは、ありがとうございました、の言葉を残して散っていった。
「乾さん?」
 ひとりになって本来の目的を達成しようとしていると、声をかけてきた男がいた。
「……えーと、タイガー?」
「覚えていて下さったんですね」
「覚えてるというか、龍がお世話になってるんですよね」
 加藤大河。愛称はタイガー。実は忘れかけていたのだが、龍から聞くようになって思い出したのだ。彼は卒業後も大学院に残り、現在は寄生虫学科の准教授になっている。章の弟の龍の恩師といっていい人物である。
 本来の目的というものも、学生たちと触れ合えば達成できる。俺は白衣を着た加藤先生とベンチにすわり直して話した。
「乾さんは僕とは同い年でしょう? 砕けて話して下さいね。加藤先生なんて呼ばないで下さい。タイガーでよろしいのですよ」
「はい」
 彼は敬語で話して、俺は砕けて話す。同い年の相手には非常にやりづらいのだが、彼はこういう人間なのだった。
 思い出してみれば、タイガーはロンドン生まれだ。あの人づきあいの悪い、人の好き嫌いの激しい、無愛想で辛辣で皮肉で偏屈で人の悪い、性格の悪い……というのは、俺も似ているのかもしれないが、徳永渉という奴はそういった男だ。
 その徳永渉とタイガーが親友。学部もサークルも別々でありながら親友で、大学を卒業してからもずっと親友。それは俺には不可解でもない。
 顔立ちが俺よりもはるかにいい分、徳永は俺よりもはるかに性格は悪い。他人はどう言うのか知らないが、俺はそう認識している。したがって、俺には友達は大勢いるが、徳永には少ない。数少ない親友とは意外に交友関係が長く続くのではあるまいか。
 加えて、タイガーの人柄なのだろう。こうして話していても、彼は穏やかな春風のごとき性格をしていると思える。龍の青い人間観察力からすると、変な奴、となるらしいが、俺には変な奴だとは思えない。
 いや、変なところもあるのだろう。寄生虫に人生を賭けているとは、その一点のみでも、平凡な人間から見ると変だともいえる。
 徳永も変人だから、異種変人同士が長く親友でいるのだ。徳永はタイガーといれば癒されるのかもしれない。俺も彼と話していると癒される。日本暮らしが長くなっていてさえも、彼の口調は変わらない。この口調もあたたかみのある声も、じっくりした風貌も、俺には好ましく映る。
 大学の准教授としてのタイガーによる、今どき学生気質を聞かせてもらうのも、俺には大変にためになった。 
 
 
8・大河

 同類嫌悪というものがあるのだそうで、その感情は私にも理解はできる。私の同類とは? 俄かには思い出せないので、私には同類は少ないのかもしれないが、乾さんには同類がいるのだそうだ。
「徳永ですよ」
「渉と乾さんは似てますか?」
「似てるそうだね」
「そうでしょうか。とすると、乾さんは渉を嫌悪しておられるのですか」
「それはないんだよな。俺は徳永は嫌いじゃないんだよ。あいつが本橋や俺を嫌ってるんだ。そうなんでしょ」
「そのようではありますが……」
似ていると乾さんは思っていて、渉はおそらくはそうは思っていない。渉に言わせれば、俺は乾になんか似てねえよ、であろうが、晴海さんも言っていたような気はする。
「タイガーは乾くんは知ってるよね? どことなくだけど、徳永と似てるよ」
 でありながら、乾さんは渉を嫌悪はしていない。渉は嫌悪しているようなことは言うが、心の底ではどうなのだろうか。ライバル、好敵手、であるのは私も知っているつもりだが、私にはとりたてて好敵手はいないので、そのたぐいの人間対人間の感情は把握し切れないのだ。
「徳永がタイガーだとか晴海ちゃんだとかと親友だというのは、俺なりの持論を述べていいかな」
「はい、どうぞ」
「徳永が友人と呼ぶのは、てめえとは絶対にライバルにはなり得ない人間ではないのかな。女性、先輩、まったくかぶさらない境遇。であるからして、彼や彼女にはライバル心が燃えない相手だよ」
「渉はそのような炎が燃えやすい性質ですよね」
「タイガーだって知ってるんだよな」
「はい、知っております」
 女性とは喜多晴海さん、先輩とは金子将一さん、かぶさらない境遇は私か。わかる気はする。
 仕事の参考にするために母校を訪れ、後輩女子と話したり、後輩男子とキャッチボールをしていたと言う乾さんは、続いて渉の容貌を口にした。
「俺は見ての通り、特になんてこともないルックスをしてるでしょ。対して徳永はあれだ。背が高くていい身体をしていて、顔もいい。金子さんは徳永以上にルックスがいいかもしれない。ああいう男はいびつに育つってのか、いびつなほうがいいというのか。俺の知り合いには他にもいるよ。顔がよくて性格もいい男ってのは、面白みがないって言うのかな。タイガーは面白いよ」
「僕は顔も面白いですか」
「正直に言わせてもらえれば、美しい顔立ちではないけど、いい顔だね」
「いい顔……解釈のしようが……僕の顔はどうでもいいのですけど、乾さんもいいお顔をなさってますよ」
「美男子だと呼ばれるよりも、いい顔だと言ってもらえるほうがいいな。ありがとう」
「僕こそ、ありがとうございます」
 たしかに乾さんは美男子というほどではない。しかし、背丈もあれば細身の体格もすっきりしていて、渉とは別の意味でのいい男なのではないだろうか。いい男、いい顔、いい女、日本語で言うところのその言葉は、いつになっても私には芯からは理解できていない。
 人種の坩堝たるロンドンからやってきた私の、祖国日本に対する感情や印象は種々雑多であったのだが、それらはひとまず心の片隅に追いやって、受験勉強に専念した。
 日本の感覚でいえば高校三年生だが、一年早く高校は卒業していたので、不自由な日本語と、私が志望する大学の受験科目を学ぶために、塾や予備校に通って一年足らずが経過し、医学部に合格した。医学部とはいえ、私が学びたい寄生虫学科は医学科とは別で、難易度もそうは高くないのが幸いだった。
 寄生虫学科は理学部生物学科の一部として運営されている大学もあるのだが、私の大学では理学部の学科が多すぎるせいか、医学部に含まれている。医者になるのではないので学部に在籍する期間は四年間なのだが、大学院に進んで長くじっくり学びたいと、当初から私は考えていた。
 大学生の本分はむろん学問であるが、私には趣味がひとつだけある。両親の勧めではじめたフェンシングだ。サークル活動にはフェンシングを選び、私の希望はかなえられた。
 だが、フェンシング部は非常に部員が少ない。四年生はおらず、三年生の女性キャプテンと二年生の男子がふたり。一年生は私ひとり。合計四人の弱小サークルに、ある日、一年生男子が見学に訪れた。
「徳永渉くんという新入生がおみえになったのですが」
 彼が立ち去ったあとで、私は高浜キャプテンに報告した。
「僕の話し方が変だと言ったあげくに、逃げていってしまいました」
「どうしてつかまえておかないのよ。希少なる入部希望者だったのに。私がいたら帰さなかったのに」
 キャプテンは歯噛みして悔しがっていたが、後日、ようやく一年生が入部してくれた。
「菅田富子です。よろしくお願いします」
 祖国にやってきて感じたことのひとつに、日本の女性とはなんと小さいのだろう、というものがあった。私も決して大きくはないのだが、日本人女性は大部分が私よりも小さい。だが、菅田さんは長身で姿勢もよく、剣士のような風情をたたえていた。
 富子さんとはほんの短い間交際していた。彼女はいい女だったとは言えるのだが、渉なんぞは、あの女はなぁ……と言っていた。そこで私は昔を思い出すのをやめて、乾さんに質問した。
「いい男、いい女、僕にはよくわからない言葉なのですが?」
「俺にだってよくはわからないよ。ひとつ言えば、いい女、いい男、ってのは、その彼女や彼のパートナーたる人物がそう思えば、それで万々歳と言っていいんじゃないかな」
「万歳とはこれではなく?」
 両手を上に上げてみせると、乾さんはなんともいえないいい顔をして笑った。
「万歳って両方の意味があるんだよな。文字通りのお手上げ。または、よかったな、最高。ああ、もうひとつあるか。やったーっ!! っての。他にもあるんだよね」
 近頃の大学生と話していると、彼や彼女は本当に日本人なのだろうか、と思ったりもするのだが、乾さんと話していると日本語の勉強にもなる。そう言ってみると、乾さんは真顔で否定した。
「やめて下さいね。俺なんかは半チクなんですから」
「半ちくわ?」
「半分の竹輪か。言い得て妙だな」
「はあ」
 が、時には私には理解できない表現もしてくれる。やはりやはり日本語はむずかしい。
「タイガーって彼女はいるの?」
「いません」
「女性に興味はない?」
「ありますよ」
「好みのタイプってあるでしょう?」
「僕はどちらかというと、背の高い女性が好きなんです。僕と同じくらいがいいんですけど、身長だけで女性を選ぶのではありません。僕を選んでくれる女性がいないとも言えますね」
「タイガーはフェミニストだろ」
「日本ではレディファーストを実行する男をフェミニストと呼ぶのでしょうか」
「それは古いよ」
 元来の意味でのフェミニスト? 女権拡張論者か。その言葉にしても時代とともに変化し、日本に入ってきてまた別の変化をした。私にはむずかしいことだらけで、なんと答えるべきかと考えていると、乾さんの視線が誰かをとらえて微笑んだ。
「あの女性とか? 加藤先生って呼んでるよ」
「ああ。私の助手の島田弓子さんです」
 長身を白衣に包んだ女性が、私たちのそばにやってきた。
「フォレストシンガーズの乾隆也さんでいらっしゃいます? 徳永さんから時にはお噂を伺っているんですよ。島田です」
「乾です。はじめまして」
 彼と彼女はお似合いであるなぁ、と私が思っていると、島田さんは言った。
「乾さんは龍くんとはお知り合いでいらっしゃいますよね」
「龍は仲間の弟ですから。島田さんにもお世話になりまして、ありがとうございます」
「私はお世話はしておりません。加藤先生にお世話になっていますのは私ですもの」
「院生なんですよね。学業成績は優秀なのでしょうし、こう言っていいものかどうかはわかりませんが、島田さんはお美しくもいらっしゃる。天から二物どころか、いくつもの美点を授けられた女性なのでしょうね」
「乾さんったら、たったのこれだけの立ち話では、そんなことは見えないでしょう? 私には美点なんてないんですよ」
「ありますよ。でも、失礼しました」
 互いに頭を下げ合ってから、島田さんは私を見つめて言った。
「先生、エキノコックスの虫卵が……あ、えーと、乾さん、エキノコックスと申しますのは、キタキツネに寄生している場合の多い、扁形動物門条虫綱多節条虫亜綱円葉目テニア上科テニア科エキノコックス属に属する動物の総称です」
「……はい」
「ですから、北海道に旅行してキタキツネと遭遇したとしても、触れてはいけないと申しますのですね。人間も感染して単包性エキノコックス症、多包性エキノコックス症などに……」
「はい。すみません。勉強して出直してきます」
「勉強はなさらなくてもいいんですけど、先生、ですから……」
「はい、わかりました。参りましょう」
 では、失礼します、と三人ともに言ってから、乾さんはごく小声で囁いた。タイガー、しっかりやれよ、と聞こえたのだが、なにをどうしっかりするのだろうか。寄生虫研究をしっかりするのか。それしかないだろう。
 タイガーと話すのはためになるよ、と乾さんは言ってくれたが、私にとっても乾さんと話していた時間が有意義だった。
 フォレストシンガーズのみなさんと個人的に話したのは、三沢さんが一番最初だったはずだ。数年前の学園祭で出会い、渉と愛し合っていたのか否か、であった下川乃里子さんについて話した。学園祭の打ち上げの席では、他の人々とも話した。
 あの夜は全員で歓談していたにすぎないのだから、乾さんと一対一で話すのははじめてのようなもの。乃里子さんのことを乾さんは知っているのだろうか、と頭をかすめはしたものの、質問はしなかった。
 渉はなにひとつ言わないが、私も彼女を忘れ果てたのではない。だが、渉にしても私にしても、乃里子さんに恋をしていたのかどうかは……私は恋には疎い男なのだし、渉は乃里子さんを抱いたのだと言っていたのだし、私から乃里子さんを好きにならなくてよかったのだろうか。
 よかったのか悪かったのかもわからない。恋をしていたのかどうかもわからない。こんな男に恋をしてくれる女性はいないかもしれないが、いなかったとしてもかまわない。
 乃里子さんはきっと故郷に帰り、結婚して幸せになっているのだろう。乾さんが彼女の近況を知っていたとしても、尋ねないほうがよかったのだと思う。こんなときには過去の知人は、乃里子さんに遠くから「お幸せに」と言っていればいいのだ。
 恋よりも友達のほうがいいな、とも思う。乾さんとも友達になれたらいいな、とも思う。私が渉の最大のライバルと友達になったりしたら、渉は気分を損ねるのだろうか。勝手にしろよ、と言うであろうが、心の底がどうなのかは、むろん私にはわかるはずもないのだった。


9・美江子


 卒業してからも幾度かは足を踏み入れたキャンパスを、久しぶりにゆっくり歩いてみたくなった。乾くんが仕事のための勉強をしにいくと言っていたのもあり、章くんの弟や幸生くんのいとこが入学したからもあったのだろう。
 木村龍くんと三沢雄心くんには私は紹介してもらった程度だが、章くんと幸生くんの身内なのだから親近感は強い。そんなに身近な位置にいる後輩が、合唱部にまで入ったとなったからこそ、キャンパスを歩きたくなったのだ。
 仕事と仕事の合間の空き時間に、大学構内に入っていった。大きくて広い構内なのだから、乾くんにも龍くんにも雄心くんにも会わないだろうが、それでもいい。私はただゆっくりと、なつかしい場所を歩いていた。
 ねぇ、星さん、ってね、今さらだけど、やっぱり真っ先に話しかけたくなるのはあなただよ。あなたも知ってるだろうけど、私は結婚したの。
 いつか言わなかった? 美江子は将来には本橋と結婚するんじゃないか? って。まっさかぁ、絶対にないよ、あんな野蛮人と、と私は切り捨てたけど、しちゃったんだよね。星さんにしたってあてずっぽうのまぐれ当たりだったんだろうけど、第三者にはなにかしら見えていたの?
 疑ってもいたもんね。おまえは本橋とつきあってるんだろ。つきあってはいたんだろ? なんて。やきもちを妬かれるのはわずらわしくもあり、嬉しくもあり、だったよ。
「美江子には俺だけだよな」
「そうだよ」
「うん」
 信じるよ、と言って、あそこの樹の陰でキスしたよね。学校の中でキスするなんて、十八の女の子にはスリルがいっぱいだった。
 そう言ったくせに、そのあとだって時々は言った。あれは恋の香辛料みたいなものだったのかな。私も星さんの過去の彼女を想像しては、やきもきしてたんだもんね。私もちょっとは言ったかな。言わなかったかな。
 星さんと別れてから何年かは、あなたを思い出すと寂しかった。胸が痛かったりもした。それから何度も恋をしたのに、それでも私の中にはあなたがいた。十八歳だったからこそかもしれないけど、あなたは私にとっては最高に素敵な男だったから。
 結婚した彼は星さんに似てるんだろうか。似てないんだろうか。人間って誰しも、どこかはちょっぴり似ているのかもしれない。本橋くんと私も似ているよ。星さんと私も似ていた?
 夫婦って長く長く共棲みしていると似てくるんだってね。私の両親も本橋くんの両親も、似ているといえば言える。本橋くんの両親はともに豪快で、私の両親はともに勤勉生真面目。私は大学に入ってからは親元にはいなかったけど、独身が続いたから、母は心配してたのよ。
「いくら東京でそんな仕事をしてるからって言っても、美江子は結婚しないのかって、お父さんも言ってたよ。言うとあんたが怒るから言わなかったけど、敏弘も和正も結婚したのに、娘たちが結婚しないってのは……ってね、だからお父さんは髪が薄くなったのよ。私は心配を食欲にまぎらわせたから太ったのよ」
「太ったのまで私のせいにしないでね。食べすぎでしょ」
「そうなんだけどね。でも、よかった。本橋さんとね……幸せになってね」
 結婚するとの報告に宇都宮の実家に行ったときには、母とはそんな会話をかわした。
 両親には大学の友達の話しもしたし、卒業してからだって、フォレストシンガーズのマネージャーとして、本橋くんや乾くんやシゲくんや幸生くんや章くんと一緒に働いているのは知っていた。男五人と一緒に仕事? って、母はそれも心配していたらしいのよね。
 大学一年の夏休みに、弟ふたりと妹ひとりが東京に遊びにきた。弟たちは本橋くんのおうちに泊めてもらったから、母はあのころから、美江子と本橋くんは特別な仲? って疑ってたみたい。本橋くんのお母さまもそう思ってたんだよね。
 星さんに話しかけていたのが変わっていって、本橋くんになった。
 本橋くんとは大学のころから喧嘩ばっかりしてたよね。学生時代には本橋くんとの甘い記憶なんて皆無だけど、喧嘩の思い出だったらいっぱいある。あそこで口喧嘩したでしょ? 本橋くんは覚えてるかな。
「星さんと会えないからおまえは荒れてるのか。俺に当たるなよ」
 原因は忘れたけど、私が思い切り言葉で攻撃したのを黙って聞いていた本橋くんが、ぼそっとそう言ったんだった。あれは一年生の冬だった。
「そんなんじゃない。八つ当たりじゃないよっ!!」
 泣きそうになって走り出した私は、そうだったのかな、ごめんね、本橋くん、って、気持ちではあやまっていたんだよ。
「馬鹿野郎。おまえはそれでも女かよ」
「女じゃないから野郎って言うんでしょ。なにかっていえば女、女って、そういうことを言う男は、自分が男だってことで縛られ続けて身動き取れなくなって、死んでしまえばいいんだ」
 そんな喧嘩もして、死んでしまえは言いすぎだった? と後悔した。あれは二年生のとき。
「あいつとはうまくやってるか。あいつの前でくらい女らしくしろよ」
「ほっといて」
 三年生のときには、本橋くんが紹介してくれた他校の男の子とつきあっていた。女らしく、の台詞にはカチンとする私は、そう言われると言い返して、またまた大喧嘩したよね。
「男のくせしてだらしないの。あ……」
「俺は男のくせしてだらしないよ。ほっとけ」
「ううん。私は女らしくないって言われたら怒るのに、男に男のくせにって言うのはまちがってるよね。ごめん」
「いいよ。俺は男だもんな」
 あれは喧嘩ってほどでもなかったけど、四年生のときには本橋くんとそんな話もした。
 男だ男だってこだわる彼は、女らしくはないのは事実だけど、そんなおまえが好きなんだよ、と言ってくれて、私にプロポーズした。プロポーズと呼ぶには甘くもなかったけど、この美江子とあの本橋くんなんだから、そのほうがいいんだよね。
 キャンパスには本橋くんとの思い出ばかりではなく、フォレストシンガーズのみんなの思い出やら、もう会わなくなってしまった友達や先輩や後輩たちとの思い出もたくさん落っこちている。合唱部の友人たちも、学部の友人たちも、彼らや彼女らも元気でいるのかな。
 いくつもの思い出を拾い集めながら歩いていた私は、あまり来たことのない一画に入り込んでいた。白衣姿の背の高い女性が、鳩にパン屑を与えているのを見て、なんとなく会釈すると、彼女もにっこりしてくれた。
「学生さんですか」
「院生です」
「私は卒業生なんですよ」
「では、先輩なんですね」
 お昼の食べ残しだというパンをもらって、私も地面に撒く。鳩がどんどん増えていくのを見やりつつ彼女となんとなくお喋りしていた。
「先輩は結婚なさってるんですよね」
 左手の薬指のリングが目に留まったのだろう。彼女が尋ね、私は言った。
「はい。同じ大学の卒業生の、同じ年の男と結婚しました」
「大学のころから恋人同士だったんですか」
「学生時代は喧嘩友達。あなたにも学校に彼がいるの?」
 十くらいは年下か。彼女の整った横顔に哀愁が漂っているとも見えた。
「私は准教授の助手をやってるんですけど、その准教授がね……」
「准教授とつきあってる?」
「つきあってません」
「彼には奥さんがいるとか?」
 お節介ではあろうが、やめたほうがいいよ、と言ってあげたくなった。私には本橋くんと乾くんがお節介を焼いてくれて、それもあって不倫の彼とは別れたのだ。大事な青春だなんて、若いひとには実感はないだろうけれど、この年になると、青春時代は本当に本当に大切だったのだとよくよくわかる。

「青春時代が夢なんて
 あとからほのぼの思うもの
 青春時代の真ん中は
 胸にトゲ刺すことばかり」

 古い歌を口ずさんでみると、彼女はふふっと笑った。
「もはや青春でもないけど、不倫ではありません。先生は独身です」
「そうなんだ。よかったぁ」
「そうですか。先輩にもそんな経験が?」
 ただのゆきずりの女性だからこそか、私はすこしだけ話した。
「今の夫にその経験を打ち明けて、すっごく叱られたの。叱るだなんてえらそうに、あんたは何さまよっ、ってそのときは思って、彼をひっぱたいちゃったんだけど、彼の言い分は正当だったのよね。彼って案外、まちがったことは言わないのよ。正論ゆえによけいに腹が立つってのはあるでしょ? 私も若かったけど、私のしてることは正しくはないとは知ってて、知ってるからこそよけいに怒ったのね。人間は正しくないことだってして、そうして大人になっていくんだよ」
 まるで私、乾くんみたい、と苦笑していると、彼女は言った。
「そうしてその彼と結婚したんですか」
「それから何年かしてからよ。私の話しはいいじゃない。あなたは?」
「彼って変人なんですよね。私もそうなんだろうけど、あまりにもあまりにも鈍くて、っていうか、彼の意識には恋ってものが抜け落ちてるんじゃないかとも思うんです。抜け落ちてるのか、生まれつきないのか」
「ゲイでもないんでしょ?」
「そうじゃないと思いますよ。だからね、私、視線に想いを込めて見つめるんです。他人のほうこそそれに気づいて、あんたは彼が好きなんでしょ? って言われるんだけど、彼はまったく気づきません。恋なんてしたくない人種もいるんだから、私が告白してもはねつけられるか、彼がひたすら困るかだと思うと、言えないんです」
「そっかぁ」
「彼は優しくていいひとです。私が告白したりしたら、きっと彼はただ困る。准教授と助手の関係までを危うくさせたくない。だから言いたくない。彼が気づいてくれたら、なんらかのリアクションを取ってくれるでしょうから、気長に待ちます」
「それでいいの?」
「いいんです」
 彼女がいいのであれば、私にはこれ以上お節介を焼くいわれはない。彼女はほーっと息を吐いてから言った。
「さっきも男性の先輩が来てらっしゃいまして、先生とそのひとと三人でちょっとだけ話したんですよね。私は先生にいつもの視線を送ってました。そうしたら、先輩は気づいたようで、しっかりやれよ、って先生に囁いたのが聞こえました。先生はきょっとーん、でしたよ」
「そういう男、いるんだよね。私の夫も鈍感だよ」
「先生は鈍感のレベルがちがいます」
「そうなのね。うん、まあね」
 しっかりやれよ、と私が言うのも変であろうから、どうしようかと思っているうちにも、鳩がどんどんどんどん増えていく。いつの間にやら私たちの周囲を鳩が無数に取り囲んでいて、ホラー映画みたいになってきた。
 小動物が無数に蠢いているのは、きわめて気持ちが悪い。ミミズやゴキブリやネズミとなると最悪だが、鳥でもいやだ。
 ディズニー映画だったかに、鯨や白い鳥の群れがやたらに出てくるシーンがあった。私はあれも気持ちが悪かった。鳩となるとヒッチコック映画を思い出してしまう。彼女は平気な様子だったが、私は我慢できなくなってきた。
「あのね、鳩、多すぎない?」
「あ、ほんとだ。うわ、やだ。先輩、逃げて下さい」
「一緒に逃げようよ」
「そうですよね。追っかけてはこないだろうし、鳩の目当ては食べ物で、人間じゃありませんよね。クリプトコッカス、ニューカッスル、ヒストプラズマ……」
「なに、それ?」
「私の専門分野です。先輩、逃げましょう」
「そうしよう」
 逃げ出して彼女とは別々の方向へ走った。手を振って、まったねーっ、とは言い合ったものの、二度と会うこともないかもしれない。
 鈍感男に手を焼くのも女の運命かな。身勝手な女に手を焼くのは男の運命だよっ、と本橋くんは言うだろうから、おあいこだろうか。名前も聞かなかった美人さん、とりあえずはしっかりやってね、としか言えなかった。


10・幸生


「幸生くんや乾くんみたいなのも難儀っちゃあ難儀な男だけど、どっちがいいんだろうね」
 新曲のダンスを振付師の先生から講義していただいて、今夜はここまで、レッスンは後日、となって外に出ていくと、美江子さんがいた。美江子さんがいるのはいいのだが、誰と較べてどっちが、なのだろうか。
「リーダーですか、鈍感男?」
「幸生くんって敏感すぎる自覚はあるんだよね」
「俺はたいして敏感でもないけど、乾さんの名前も出てましたからね。美江子さん、ここで会ったのは大ラッキー。ごはんを食べましょ」
「他のみんなはどうしたの?」
 シゲさんはダンスが大の苦手だ。振り付けの講義だけでぐったりしたらしく、早く帰って恭子さんに甘え、広大に甘えられたくなったのだろう。一番に出ていってしまった。腹がぺこぺこであるだろうに、帰る前に車の中で気絶しないだろうか。
 本橋さんもダンスは嫌いなので、かなりくたびれていた。今日は誰にもこのあとは仕事はないのだから、疲れを取るために男友達と飲みにでもいったか。お先、だけを言い残して帰っていった。男だったらいいけれど、女とだったら……いいや。万が一でもその可能性があるのならば、美江子さんには言ってはならない。
 乾さんと章はふたりで帰っていった。あのふたり、実は僕ちゃんを差し置いて恋仲に……ないはずだ。作詞か作曲の話しなのだろう。
 そうやって四人ともが先に帰ってしまったので、俺は振付師の先生とお話ししていた。俺はダンスは好きだし、先生も饒舌なひとだったので、お喋りに熱が入った。先生は中年もすぎた女性で既婚者なのだが、たとえいくつであろうとも、女性とのお喋りは最高に楽しかった。
 お喋りのせいで俺が最後になり、出ていくと美江子さんがいたのだ。中年すぎていても女性は好きだが、もうすこし若い女性の美江子さんは、人妻であってもやっぱり好き。お喋りのあとは大好きな美江子さんと食事、これ以上のラッキーはない。
 他の四人がどこに行ったのか、俺の予想をまじえ、言ってはならないことは省いて喋ると、美江子さんは言った。
「敏感っていうか、考えすぎっていうか、なんにしたって幸生くんとは正反対性格なのかもね」
「だから、誰が?」
「誰だか知らないひと。幸生くん、車? 乗せていってくれる?」
「ごはんは?」
「おつきあいしますわよ」
 わーい、わーい、とはしゃぎながら、駐車場に行って美江子さんと車に乗った。
 あのかっこつけの乾さんの車はぼろで、本橋さんの車はかっこいいのに洗車をさぼっていて汚い。シゲさんはファミリータイプの車だから、かっこよくはない。章の車は内部が散らかりすぎ。そうすると俺の車がもっともかっこいい。
 独身は自分のためにだけ金を使っていたらいいのだから、俺はまあまあ高価な車を買った。身体が小さいのにでかい車は合わないであろうから、コンパクトカーではあるがかっこいい。
 格好よくない他の四人の車はなくなっているので、四人ともに帰ってしまったのだろう。俺がドアを開けてさしあげると、美江子さんも乗ってきた。美江子さんにしても大柄ではないし、女性なのだから俺よりは背が低くて、助手席にすわっていると立っているよりも小さく見えた。
 すわっていると小さく見えるのは脚が長いからか。だとしても、助手席に俺よりも小さな女性を乗せて車の運転をするのは気持ちがいい。彼女を守っている気分になれる。
 つきあいはかなりの年月になっていても、俺は美江子さんには恋心を抱いたことはない。美江子さんに口説かれたら喜んでおつきあいさせてもらっただろうが、美江子さんは俺を後輩だとしか見ていない。俺も美江子さんを先輩であり、マネージャーであるとしか見ていなかった。
 現在では美江子さんは先輩の奥さんでもある。そんな美江子さんが俺を口説いたとしたら? そんなの、ねーじゃん、あったとしたら俺は困るけど、ねーっての。あったとしたら俺が本橋さんに殴り倒されるよ。
 下らないことを考えてみても、胸はどきつかない。美江子さんは俺にとっても姉さんなんだと納得した。俺がそんなことを考えていると知られたら、美江子さんにも殴り倒されそうだから、別の考えに移った。
 最高で美江子さんまでの身長の女がほしいなぁ。俺のただひとりの恋人がほしい。彼女は俺だけのもの。それでいて、俺は彼女だけのものではないって、そんなの無理か。そんなふうに考えるから、俺には彼女ができないのだ。
 いいさいいさ。恋は人生のすべてではなーい。その考えも虚しくなってくるので、美江子さんに話しかけた。
「誰だか知らない鈍感男って誰ですか」
「誰だか知らないんだから知らないよ」
「どこで会った男?」
「会ってはいないの」
「?」
 美江子さんが言うには、今日は昼間は我々の母校に遊びにいっていたのだそうだ。乾さんも行ったと言っていたが、ふたりは会わなかったらしい。乾さんは別になんの話もしてくれなかったから、乾さんにはなんにもなかったのか。
 母校のキャンパスで美江子さんが会ったのはその男ではなく、彼を好きだと言う女性だった。その女性の名も知らないのだそうだから、俺にも推理のしようはないのだが、白衣を着た長身美人。准教授の助手の大学院生。
 もしかしたら、龍が好きだと言っていた女性か? 龍にしてもはっきり言ったのではないが、寄生虫学科の女性助手に恋をしているようなことを匂わせていた。
 そのひとの名前は俺も知らないが、加藤大河先生の助手なのだそうだ。美江子さんの話と一部は合致し、龍の話とも合致する。龍のまとまりのない話から推理したにすぎないが、加藤先生はその助手さんを好きなのかな、と思っていた。
 加藤先生が好きなのではなく、彼女が加藤先生を好きなのか? だとしたら、ドラゴンとタイガーの関係はどうなる? ややこしい。事実確認もしていない事柄を俺が推理しても意味はないので、そこでストップした。
 「タイガー&ドラゴン」の歌など歌うと、美江子さんには悟られてしまうかもしれない。美江子さんだって加藤先生の噂くらいは聞いているはずだから、龍と虎を結びつけられて、追求されたとしたら俺は漏らしてしまう。
 そのひととタイガー&ドラゴンが結びつくのかどうかも確証はないのだから、言わないほうがいい。そこで振り付けの話をしていると、美江子さんが言った。
「幸生くんは車の運転をするんだから、お酒は飲めない店のほうがよくない? あそこにしようよ」
「釜飯の店? あそこも酒は飲めるでしょうけど、俺は飲みませんよ。俺は模範国民だから法律は守ります」
「模範って言わないのよ。当然なの」
「はい。そうですね」
 駐車場もあったのでその店に決めて、美江子さんとふたりで暖簾をくぐった。
 ここはいずれが支払いをするのか。美江子さんとふたりっきりだと、前はどうだったか。今は俺のほうが稼ぎが多いのか。そんなほうにも頭は回していたのだが、とりあえず注文だ。美江子さんは海鮮釜飯セット、俺は鳥釜飯セットにすると、美江子さんがいやな顔をした。
「鳥……いいんだけどね」
「美江子さんって鳥は嫌いですか」
「今夜は嫌いなの。三日くらいしたら嫌いじゃなくなるよ」
「鳥にいやな目に遭った? ばっちいものをひっかけられたとか?」
「食事前に尾籠な話をしないでよ」
「はい、ごめんなさい。美江子お姉ちゃまぁ、怒ったらやあよ」
「怒ってないのよ。幸生くん。それよりもさ」
 お茶を飲み飲み美江子さんが言ったのは、章のエッセイについてだった。
「十周年記念アルバムはだいぶ先だけど、エッセイとなるとすぐさまは書けないよね。今から案を練って書くんでしょ。どんなものになるのかな」
「俺は乾さんが書いたほうがいいと思うんですけど、乾さんの小説ってあれだしね……意外に文才はないのかな。章よりは俺のほうがいいとも思うんですが……」
「乾くんって小説を書くの?」
「俺は読ませてもらったけど、三文小説でした」
「そうなの? 乾くんは作家じゃないんだからいいよね。小説じゃなくてエッセイよ」
「うーむ。章のエッセイ……」
「八周年記念アルバムにも書いたじゃない?」
 あれはブックレットの巻末エッセイだったから、短文だった。今回はわりに長文を書く必要があるので、章は美江子さんにも俺にも頼っていた。
 いつか写真集が出せたらいいな、なんて話しも昔はしていた。侍の格好をしたいだの、気障のきわみみたいなファッションで決めたいだの、浴衣や渋い和服もいいなだの、実現の実感が湧きにくくて、好き勝手に言っていたのだ。
 八周年といえば、初の全国ツアーをやった年だ。俺たちも売れてきたのだと、しっかりした手ごたえがつかめた年だった。
 あれから一年、あと一年したら十周年。一年前以上に売れてきていると思える。ヒット曲と呼んでもいい曲もできた。ラジオにはレギュラー番組もある。テレビにはあまり出ないのは、お呼びがかからないからではなく方針で、などと言えるようにもなった。
 社長も昔のようには、名と顔を売るためにテレビに出ろ、とは言わなくなった。ニューシングルの売り上げが芳しくなかったりするとやいのやいのと言ってはいるが、社長もフォレストシンガーズを認めてくれているとは思える。
「三沢、きみだけは……いや、まあ、それもきみのキャラだからな」
 僕ちゃんだけは……? 社長の台詞によると、三沢だけは危なっかしい、なのだろうか。危なっかしいのは章もだけど、手のかかる坊やがふたりいて、社長としたら嬉しいでしょ? ねぇ、パパ、だったりして。
 一応は俺たちはここまでは来たのだが、写真集を出したら売れるのだろうか。熱烈ファンの方だって、写真だけを売り出しても買ってはくれないのではあるまいか。
「全都道府県じゃなくて、都道府県の全部の市を制覇するツアーってのは不可能ですかね」
「ライヴの話し? 私はエッセイの話をしてたんだけど?」
「そこにつながっていくんですよ。日本の市っていくつあるの?」
「八百に近いはずよ」
「郡は?」
「四百近く」
「町は? 村は?」
「日本全国すべての市町村制覇?」
 町や村の数までとなると美江子さんも知らないらしい。市町村合併なんてものもあるのだから、俺たちがこうしている瞬間にも、どこかの町の町長さんとどこかの村の村長さんが、合併の合意書類に捺印しているのかもしれない。
 町村までは無理にしても、まずは日本全国全市制覇ライヴツアーって、してみたい。八百近くある市をすべて回るとなると、五年以上かかるのだろうけれど、俺はやってみたい。市を制覇したら次は郡。断じてやれないってことはないはずだ。
「それほどの大規模ライヴツアーをやって、ツアーの本を出すんですよ。有名なミュージシャンのライヴ報告本みたいのってあるでしょ」
「あるよね」
「俺たちもそんなのを出すんだ。そしたら、写真集みたいにもなるでしょ。プライベートの写真も入れる。シゲさんがメシを食ってたり、章が居眠りしてたり、リーダーが怒鳴ってたり、乾さんが煙草を吸ってたり……そんな姿を隠し撮りするんですよ」
「隠し撮りが幸生くん担当だね」
「そうそう。俺がみんなのサプライズな姿を撮ろうと苦労している姿を、美江子さんが隠し撮りするんです」
「いいね、それ」
 アイドルだったら男だったとしても、水着姿や格好のいいポーズの写真集が売れるだろう。ヌードポスターだって売れるだろう。でも、俺たちだとルックスが売りの芸能人のようにはできない。そうなるとこんな写真集だ。俺の夢を美江子さんも読み取ってくれたようで、言った。
「そこに各自がエッセイも書くんだよね。いいな。そのために私は今から、あなたたちのプライベート写真を隠し撮りしておいてあげる。昔のもいっぱいあるよ。浴衣を着てるのもあるし、幸生くんと章くんが乾くんにお説教されてる姿とか、幸生くんと章くんが本橋くんにぼかっとやられた瞬間とかもあるんだよ」
「他には?」
「幸生くんと章くんが取っ組み合いしているシーンもあるし、幸生くんと章くんが……」
「章と俺ばっかりじゃん。他のは?」
「帰ってから写真を整理してみるね」
「俺だって隠し撮り写真を持ってますよ」
「誰の?」
 あなたの、と見つめると、美江子さんは目をくるくるさせた。
「いつだったかなぁ。大学の合宿で行ってた海辺に、仕事で行ったでしょ。あのとき、俺は目撃してたんですよ」
 暮れなずむ浜辺を寄り添うでもなく寄り添わないでもなく歩く、ほんのりピンクに染まったカップルのシルエット。本当は写真は撮っていないのだが、そのシーンを口にすると、美江子さんに脚を蹴られた。
「あのときって、リーダーとなにかあったんでしょ?」
「忘れちゃった」
「あのときを境にして、彼とあなたのなにかが変わった?」
「幸生くん、大人をからかうんじゃないのよ。そんな写真は破棄しなさい」
「やだやだ。写真集に入れるんだもん」
「そんなものを出してきたら絶交するからね」
 大人をからかうんじゃないの、って先輩ぶってみたり、絶交するからね、って小学生みたいに言ってみたり、美江子さんも可愛い。可愛いと言うと怒られるだろうから、俺は言った。
「はい、破棄します」
「破棄ってもったいない気も……でも、見たら……うーん……」
 もとからないんですよ、と言っても怒られそうだから、帰ってただちに破り捨てましたーっ、ってことにしておこう。


 下書きだそうだが、俺のアドバイスがほしいのか。章がエッセイを読ませてくれた。

「人間の声というものは、歌うと平素よりも高くなるのが一般的である。僕は平素から声が高いにも関わらず、より以上に高くなる。
 乾にしても三沢にしても、平素から高い声がいっそう高くなる。本庄も歌うと高い声も出る。リーダー本橋にしても高い声が出る。シンガーは高い声が出せないと、シンガー稼業を張っていられないとも言える。
 声域の広さはシンガーの武器だ。狭い声域でいながら、いい歌を歌うシンガーもいなくはないが、四オクターブだの五オクターブだのの声域を誇る者もいて、彼らは大変にもてはやされている。
 俺に言わせりゃ、それほどの声域? 見栄を張ってんじゃねえのか? ではあるのだが、事実、グラブダブドリブのジェイミー・パーソンなんて奴もいるわけだし。
 で、なにが言いたいのかと言えば、男のシンガーの場合、力強く太い声というものも重要だと言いたいのである。女だって同じか? 同じなのかもしれないが、我々フォレストシンガーズは男のヴォーカルグループなのだからして、男の声のみに絞って書こう。
 我々の強みは、歌う際にも声の太さ、力強さを維持して声が出せること。僕はそうではないかと思う。我々個々の声、ひとりひとりのヴォーカル、五人の声でのハーモニー、それだけを武器にして、僕たちは歩き続けてきた。
 歌うと声が上ずったり細く頼りなくなったり、ふらついたりかすれたり、それも普通なのではあろうが、プロのシンガーはそれではいけないのだ。
 とりわけうちのリーダーの本橋真次郎、彼の歌はファンのみなさまだったらよくよく知ってるでしょう? 話しているときのあの低く太い声をそのまんまで歌える。あれも彼の強みなのですよ。その声に歌うと甘さが加わるのもあって、案外リーダーの声も特徴的なんだと思うようになってきたのである。
 声というか、歌がですね。本橋のみならず、俺たちの歌は特徴的でしょ? 歌いはじめればファンのみなさまならば顔を見なくても、あ、フォレストシンガーズだ、ってわかりますよね。
 特に特徴的な声と、性格も特徴的とも言えるリーダーのリードのもと、僕たちは歩いてきました。そして早十年。早すぎる。俺がオヤジに近づいてきてるなんて、は、は、は、と笑ってるんじゃねえんだよ。は、は、は、早すぎるんだよ。
 は、は、はぁ、はぁ、ぜ、ぜ、ぜぃ、ぜぃ、興奮するな、章。
 十周年記念エッセイなんて、俺には難行なんですよ。何行かは書いたけど、ってさ、幸生じゃないんだから、シャレはやめろっての、章。
 なんで興奮してるのかって? 俺がオヤジになるなんて早すぎるからである。あの紅顔の美少年ロッカーが三十すぎてオヤジに近くなって、歩いてきた道のりを振り返る。誰がやってんだよ? 僕ちゃんか。ってさ、俺は幸生じゃねえっての。
 そうです。僕は幸生でも乾でも本橋でも本庄でもない。木村章です。自己紹介もしていませんでしたね。はい、僕はフォレストシンガーズのハイテナーヴォーカリスト、天空高く舞い上がる声と、地面の近くに生息する低い身長の持ち主の男です。
 高い声と低い身長は、メンバー中随一。幸生の身長は僕とは差がないけど、声は俺のほうが高いんだもんね。
 北海道は稚内出身。最果ての地でロックに目覚め、大きくなったらロッカーになるんだもん、との野望を抱き、東京に出るためには大学に入るしかない、と決意して、親をたぶらかして上京してきました。
 身体も大きくはならず、大学も中退し、ロッカーにもなれず、夢破れて人生のすべてに敗れた気分でいたころに、三沢幸生と再会したのです。
 神奈川県横須賀市出身、ナンパな土地で生まれて育ったナンパ野郎の三沢幸生。彼もちびです。ファンの方だったらごぞんじでしょうけど、仲間たちの紹介もしなくちゃね。そのちびのナンパ軽薄野郎の幸生と、僕は一番に再会したのでした。
 幸生にフォレストシンガーズに引っ張り込まれ、戸惑いの中、アマチュアヴォーカルグループの一員としての、僕の新しい生活がスタートした。
 どうしてできあがっていたグループに僕が加えてもらったのかといえば、メンバーがひとり、脱退したからだ。彼にはかつてはあまり触れなかったのだけど、もういいでしょ、ヒデさん? ヒデさんはいやがるかもしれないけど、ちょっとだけ書くね。
 高知県高知市出身。またの名を土佐の闘犬。小笠原英彦。方言フルパワーで喋ると、坂本龍馬みたいです。歴史に疎い俺は龍馬ってよくは知らないけど、似てるのかもしれないな。
 僕は大学中退、ヒデさんはフォレストシンガーズ中退。彼と僕とも似てる? 似てるって言われたくない? ヒデさんと僕とは性格は似ていません。ヒデさんのほうがはるかに「男」だ。男を強調すると女性ファンの方は気に入らない? 男っぽい男が好きな女性も数多いるでしょ? かまわないんだよね。
 大学では一年間だけは一緒にいて、幸生がなついていたからこそ、僕もヒデさんとは親しくしてもらっていた。でも、それだけ。
 ヒデさんが脱退したから代理で僕がフォレストシンガーズに入れてもらった。なのだから、ヒデさんと僕はすれちがい。僕は昔はヒデさんの存在にひねくれ虫を騒がせていたものです。過去なんだかに書いてもいいよね。
 そんなヒデさんが我々のもとに戻ってきてくれた。俺も嬉しいよ。そのあたりのエピソードについては、ヒデさんがブログにちょこちょこ書いているみたいだから、僕は詳しくは書きません。ヒデさんの心情は彼のブログで読んで下さい。
 下からの年齢順で書くと、次なるは本庄繁之。三重県北牟婁郡出身。我らがベースヴォーカリストのシゲさんです。
 頭も口も回らないくせに、時としてぼそっときっついひとことを言い、俺のハートを傷つける。なんてね、僕は昔はシゲさんはそんな男だと思っていた。今でも思ってるけど、それがシゲさんの持ち味なんだからいいんだよ。
 それから、我らがサブリーダー、乾隆也。石川県金沢市出身のかっこつけ野郎。かっこつけは永遠の彼の持ち味なんだから、本当のことなんだから書いてもいいじゃん。気に食わないんだったらかかってこいよ、このかっこつけ野郎。
 いっぺん面と向かって言ってみたいものではありますが、言えない。言えないから書く。乾さーん、きゃああ、ごめんなさい。ぶたないでっ!! って、また幸生みたいになってるよ。
 乾さんは俺をぶったりはしないんだけど、そのかわりにね、言葉でびったんばっちんと叱りつけるんだよ。今までに何度叱られたか。乾さんに叱られたエピソードなんか書いてると、一冊の本になっちまう。だから省略。
 シゲさんのきついひとことなんて可愛いもんだ、ってくらいに、乾さんの説教はきついの。でもね、そのおかげで俺は……オヤジに近くなってきた章はそうも思うんですよ。乾さん、お世話になりました、って書いてフォローしておこうっと。
 最後はもちろん、我らがリーダー、本橋真次郎。東京で生まれて東京で育った、典型都会っ子です。あの短気さも江戸っ子の特徴か。本橋さんも「男」だよ。幸生と俺以外は、うちのメンバーもヒデさんも「男」なんだ。
 俺も幸生も男ではあるのだけど、ちょこっとね。それも書くと一冊の本になるから省略しよう。どこを書いてどこを省略すべきなのか、俺には判断しづらいよ。
 背の高いリーダーと乾さん、背の低い幸生と俺。このふたりずつが年齢が同じ。ふたつちがいです。その狭間に立つシゲさんは、身長も年齢も真ん中で自称「サンドイッチシゲ」。サンドイッチの具なんだって。イノシシハムなのかな。きゃーっはっは、俺は幸生じゃねえっての。
 別々の意味できびしくて頼りになる年長者ふたりと、その次の年長者のきっついお兄ちゃんとに庇護されて、寄りかかって甘えて、幸生と俺は歩いてこられたんだね。特に俺だよ。幸生には世話にはなってないけど、おまえが……んんと、書くのはやめだ。幸生については書かない。
 そうやって十年だよ。嘘だろ? 俺が三十すぎた? フォレストシンガーズが十周年? 嘘だよ。誰か嘘だと言って。
 だけど、もしも俺が十年前の俺に戻って、ロッカーとしての道を選ぶか、フォレストシンガーズとして生きるか、って運命を支配する誰かに問われたら? さて、どうするだろ。先輩たちは言ってくれますか。
「章、俺たちと行こう。ついてこい」
 そう言ってくれる?
「章がいないとフォレストシンガーズじゃないよ。来いよ、章」
 おまえもそう言ってくれる?
「ロッカーがいいよ」
 俺がそう言ったとしたら、乾さんが言うだろうか。
「シゲ、章をかつぎ上げろ。連れていこう」
「そうだよ。シゲ、章を逃がすな」
 リーダーもそう言って、ちっこい俺はシゲさんにかつがれて、ぎゃあぎゃあ騒ぎながらも、ああ、よかった、こうしてもらってよかった、なんて……変な妄想だね。
 なあ、幸生、エッセイってこんなんでいいのか? 支離滅裂じゃないか? 読み返すのも恥ずかしいから、おまえにまかせるよ。こんなんでいいって言え、こら、幸生。言え。言ってくれよぉ。俺、へとへとだよぉ。貧血起こして倒れるぞ」

 なんだ、こりゃ。ほんとに支離滅裂じゃん。
 だけどさ、加筆訂正ってのはしなくちゃいけないんだろうけど、おまえの気持ちは伝わってきたよ。俺はそう思う。でも、そう言って章を安心させてはいけない。びったんばっちんと指摘して説教して叱りつけて、章をさらに苦労させてやろう。むふふ、であった。


「Once upon a time
 はるかな夢
 もう誰もここにいない
 引き潮の海のように

 中年ロマンスと
 いわれた愛は
 今もきらめいているだろうか」

 そこまで歌うと、乾さんからストップがかかった。
「幸生、今、なんて歌った?」
「どのフレーズですか」
「中年って言っただろ」
「中年じゃなかった?」
「知っててわざと歌ったんだろうが。歌い直せ」
 こうやって乾さんのマンションで飲んでるときに歌うのは座興だってのに、そんなときにもきびしい先輩に言われて、俺は正しい歌詞で歌った。

「十年ロマンスと
 いわれた愛は
 今もきらめいているだろうか

 月の光あびながら
 肌を見せた
 あの誓いの夜の
 ヴィーナスに似たひとは今

 てのひらを傷つけ合い
 Lの字を書いたひとよ
 枯れるなよ花のように」

 もうじき十年になるんだね。ロマンスではないにしたって、俺たちは十年間もプロのシンガーズとしてともに歩いて歌ってきた。中年になっても歌っていられる?
 子供のころから見ていた夢、大学生になってから抱いた悲願、何度かの恋。俺たちにはそんなものがいくつもあって、かなわなかった夢もある。シゲさんやリーダーは恋を成就させて、かなった悲願だってある。
 フォレストシンガーズが売れますように、といつも五人して願ってきた。俺たちだけではなくヒデさんや美江子さんや恭子さんだって、初詣ではお祈りしてくれたんだよね? 俺たちが昔、愛したひとも、そうやって祈ってくれていたのかもしれない。
 ちょっとずつちょっとずつ売れてきた俺たちは、未来は現在以上によくなると信じていられる。十周年がすぎても、その先にもある未来を見据えて、これからだって歩いていく。
 本橋さん、乾さん、シゲさん、俺の愛する尊敬する先輩たち、これからもよろしくね。ヒデさんも美江子さんも恭子さんも社長も、それからそれから、並べ立てると一冊の本になってしまいそうな、俺たちがお世話になってきた人たちにも、これからもよろしく。
 章は……っと、おまえはエッセイでは濁して書いてたけど、こう言いたいんだろ? 幸生、今まではありがとう、これからもよろしく、って。
 ああ、よしよし、俺にまかせておきたまえ。章にはよろしくお願いされてあげるからさ、ずっと俺のそばにいろよ。俺たちの仲だって一種のロマンスじゃん。ロマンスは十年では終わらない。俺だけではなく、きっとみんな、そう信じているんだよね。

END
 

 

 
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