番外編

番外編44(Happy imagination)

 ←小説131(悲しきあこがれ) →小説132(ヒ・ラ・ヒ・ラ淫ら)
imagesCA1EEDOM.jpg

番外編44

「Happy imagination」

1

 故郷を離れて東京に来てから、そんなに長い日々がすぎたわけでもない。両親や姉や祖父母を思い出して、なつかしむほどでもない。夏休みにはみんなに会えるんだから、僕は泣いたりしない、堅く決心している僕のかたわらで、乾さんが言った。
「酒巻は帰郷するのか」
「はい。夏休みには山形に帰ります。
「一年生は帰郷する余裕はあるだろうな」
「乾さんは帰らないんですか」
「四年生は合唱部の行事やら、アルバイトやら卒論やらもあって、帰郷する時間はないんだよ」
「寂しくありません?」
「一年生の正月前後には帰郷したけど、それっきり金沢には足を向けてないんだ。寂しくなんかないよ」
 男子合唱部副キャプテン、細身で背が高くてさりげなくセンスのいい乾隆也。僕はこの先輩に畏敬の念を抱いている。時にはとてもとてもきびしくて、叩かれるんじゃないかと怯えたこともあるけれど、本当は優しいひとなのだから。
 キャプテンの本橋真次郎さんははまさしくおっかなくて、彼の姿を見かけただけでも逃げたくなる。キャプテンにだったら何度か頭をこづかれているので、よけいに怖い。本橋さんだって怖いばかりではないのだが、いつだって怖さが先に立ってしまうのだ。
 合唱部に入部してから二ヶ月余り。僕は同級生には溶け込んでいきにくくて、それでいて先輩たちには可愛がってもらっているから、やっかまれているのもあるのだろうか。同級生たちといると疎外感が募るので、こうして先輩になついている。
 今日も合唱部の部室近くのキャンパスのベンチで、僕は乾さんにお昼ごはんをごちそうしてもらっている。梅雨の合間の晴れた日差しを、ポプラの葉陰が遮ってくれていた。
「乾さんにはおばあちゃんが……あ、おばあちゃんはお亡くなりになったんでしたね。悲しいことを思い出させてしまってすみません」
「あれは四年近くも前だよ。今さらじゃないか」
「今さらだってなんだって……僕だったらおじいちゃんやおばあちゃんが死んだりしたら……」
 きっと泣いて泣いて泣いて泣いて、何年たっても泣いている気がする。
 幾度かは乾さんのアパートにお邪魔して、話を聞いてもらったり、乾さんの話を聞かせてもらったりした。乾さんは金沢生まれで、小さなころにはおばあちゃんに育てられたとも聞いている。そのおばあちゃんは、乾さんが高校三年生の年にご逝去されたのだとも知っていた。
 一時的には祖父母の家に預けられていた僕も、祖父母には大変に大変に慈しまれた。乾さんのおばあちゃんは怖かったらしいのだけど、僕の祖父母は怖くなんてちっともなかった。
 子供のころから僕はおとなしいほうで、駄々をこねた記憶もないが、たまには祖父母を困らせた。あれは小学一年生のときか。祖父母の家で暮らしていた僕は、近所には友達もいなくて、祖父に買ってもらった飛行機のプラモデルを持って、ひとり遊びをしていたのだった。
「國ちゃん、いいお天気なんだから外で遊んだら? 子供が家でばかり遊んでいたらよくないよ」
 山形弁で言った祖母に、僕はプラモデルを投げつけた。
「あらま、こわれちゃったじゃないの」
「……おばあちゃんなんか嫌いだ」
「どうしたんだね」
 こわれたプラモデル、僕には友達なんかいない、おばあちゃんの家に預けられたから、両親の家の近所の友達とは遊べない、僕にはたやすく友達なんかできない。
 そんなこと、おばあちゃんはなんにも知らないんだ。僕だって小学一年生くらいだったのだから、上手に言いあらわしもできないで焦れていた。おじいちゃんがやってきて、わしと遊ぼう、キャッチボールでもしようか、と言って外に連れ出してくれた。
 買ってもらったプラモデルをおばあちゃんに投げつけ、こわしてしまったのに、祖父も祖母も叱りもしなかった。
 優しすぎる祖父母。父も母も姉も優しすぎるほどで、僕は子供のころには叱られたことすらほとんどない。先生たちだって優しかったし、友達は少なくて、友達と口喧嘩した記憶もない。数少ない友達には、類は友を呼ぶのたとえ通りで、荒々しい少年はひとりもいなかった。
「國ちゃんだって優しいんだから、喧嘩なんかしないほうがいいよ」
 姉はそう言ってくれたが、今となっては僕は、癇癪を起こしてプラモデルをおばあちゃんに投げつけた子供の僕を思い出して、切ない気分になる。もしもそばに大学生の乾さんがいたとしたら? 僕は乾さんに叱りつけられただろうか。
 性質は穏やかだが、時には荒っぽい言葉を使ったり、荒っぽいふるまいも見せなくはない乾さん。乾さんのような兄がいたら? 三つちがいの乾さんではなく、小学生の僕に大学生のお兄さんの、隆也さんがいたとしたら?
「國友、おばあちゃんに向かって……ものを投げるとはなにごとだ」
 そんな場面を目撃されたら、僕はきっとお兄さんに叱られる。おばあちゃんはうろたえていて、僕のかわりにあやまってくれるだろうか。
「隆也、そんなにきつく叱らなくても……ごめんね。私が不用意に……」
「子供に外で遊べって言うのは当然でしょ。國友がいけないんです。國友、蔵に入ってろ」
 これはたぷん、乾さんが子供のころにおばあちゃんに叱られると、蔵に閉じ込められたと聞いたからこその発想だろう。僕の祖父母の家には蔵なんかなかったから、こう変えよう。
「ここに入ってろ」
 おっかないお兄さんに抱き上げられて、運ばれていって、僕は押入れに放り込まれる。おばあちゃんはおろおろしていて、國ちゃんを許してやって、と言ってくれるだろうけれど、隆也お兄さんは許してくれなくて、僕は押入れの中で泣きじゃくるのだろうか。
「ごめんなさい。お兄ちゃん、出して」
「そのくらいで泣くな。そんなだと強くなれないぞ。泣き止むまで出てこなくていい」
 一生懸命涙を止めようとして、僕は……どうするのだろう。そんな空想は甘美でもあった。
 荒々しさの一切ない家庭で育ち、大学生になった僕は、男子合唱部で初に男の集団に投げ込まれたようなものだ。合唱部には先輩にも同級生にも、ワイルドだったらやんちゃだったりする男がいる。乾さんは優しいほうだけど、甘ったるくはない。
 どこかで僕は先輩たちを、お兄さん視しているのだろう。僕はお兄ちゃんがほしかったのか? お姉ちゃんは大好きだけど、お兄ちゃんがいたとしたら、僕の人生は変わっていたかもしれない。
「泣き止んだか、出てこい。おばあちゃんにあやまれ」
 空想が続く。僕は押入れから出してもらい、おばあちゃんとお兄ちゃんにあやまる。お兄ちゃんは怒ると怖いけれど、僕の話も聞いてくれて、言ってくれるのだ。
「友達がいないんだな。おまえが積極的にアピールすればいいんだよ。國友、ついてこい。俺が見ててやるから、公園で遊んでる子供たちに話しかければいい。おまえの学校の子だっているだろ。知ってる子もいるだろ」
「いるだろうけど、できないよ」
「泣いてたらなんにもできないんだ。できないと言ってたらなおさらできないんだよ。泣くな」
「隆也……國ちゃんは気が優しいんだから……」
 横から言ってくれるおばあちゃんには、お兄ちゃんは温和に言い返す。
「國友だって男なんですから、俺が鍛えますよ。そんなに手荒にはしないから、心配はご無用です。俺にまかせて下さい。國友、泣くな。行くぞ」
「はい」
 本当にそうだったらいいのにな。隆也お兄ちゃんがいたとしたら、僕はこんな泣き虫には育たなかったに決まってる。こんなにも気弱にも育たなかったはずだ。
 公園に行って勇気を出して、僕は顔だけは知っている同じ学校の男の子たちに話しかける。いつしか遊びの仲間入りをさせてもらって、遊んでいて気がつくと、お兄ちゃんの姿は消えていた。日が暮れるまで遊んでうちに帰ると、おじいちゃんとお兄ちゃんはビールを飲んでいた。
「お帰り、遅かったんだね」
 心配そうにおばあちゃんは言ったが、おじいちゃんは笑って言った。
「隆也や國ちゃんの父さんにしても、気の優しい男だよ。しかし、わしはやっぱり、男はちょっとは強くないといかんと思ってた。隆也、夏休みの間だけでも、國をしっかりしごいてやってくれ」
「親父だって弱くはないんですよ。でも、はい、承知しました」
「國ちゃん、大丈夫?」
 おばあちゃんが訊いてくれて、僕はこっくりした。
「大丈夫。僕だって強くなりたいもん。隆也お兄ちゃんみたいに強くなりたい。強くて優しいお兄さんになりたいんだ」
「そうだな。強いばかりじゃ原始人みたいなものなんだから、優しさや繊細さだって現代の男には大切だよ。クニは俺を買いかぶってるようだけど、クニを鍛えつつ、我が身も鍛えます。クニ、明日はプールに行こうか」
「うんっ。連れていって」
 夏休みで帰省中の大学生。隆也お兄ちゃん。その夜は一緒にごはんを食べて、一緒にお風呂に入って、寝る前には本を読んでもらう。
 朝になったらラジオ体操をして、朝顔の観察日記をつけて、夏休みの宿題も見てもらう。ごはんを食べてプールに連れていってもらう。嬉しすぎてはしゃぎすぎて、僕はお兄ちゃんにおねだりしていた。
「お兄ちゃん、ずっとずっと一緒にいて。東京なんかに行ったらいやだ」
「俺は東京でシンガーになるんだよ」
「シンガーってなに?」
「歌手だ。歌のプロになるんだ」
「山形には帰ってこないの?」
「山形では歌手はやれないよ」
「そしたら、僕も東京に連れていって」
「おまえも大学生になったら、東京に出てこいよ。そのころには俺はひとかどの歌手になってるはずだから、おまえの面倒は見てやるよ」
「今すぐじゃなきゃやだ」
「泣くな」
 泣くとびしっと叱られる。僕はお兄ちゃんにしがみついた。
「泣かないから、僕も東京に連れていって」
「おまえがおじいちゃんとおばあちゃんに預けられているのは、おじいちゃんたちが寂しいからって言うのもあるんだよ。可愛い孫のおまえがいたら、おじいちゃんたちの生活にも潤いや張り合いが出る。おまえにはむずかしいかもしれないけど、おじいちゃんたちのためにも、山形で大きくなれ」
「東京がいい。お兄ちゃんのそばにいたい」
「この話はおしまいだ。いつまでも聞き分けのないことを言ってるんじゃない」
「ずるいよ」
「うちに帰ったら押入れに入れるぞ」
「いいもん。押入れなんか怖くないもん」
「ちょっとだけ強くなったかな。クニ、もっと泳ごう」
「東京に連れていってくれるって約束してくれないんだったら、泳がない」
 それでもなだめすかされて、疲れるまで泳いで、お昼ごはんを食べた。あんまり言うと怖いだろうから、そこで一応は諦めた。うちに帰るとお風呂、晩ごはん。おばあちゃんも隆也お兄ちゃんがいると嬉しいのか、ご馳走を作ってくれる。おじいちゃんも大人のお兄ちゃんと晩酌をするのが楽しそうだ。
 そんなふうに毎日毎日、僕はお兄ちゃんのそばにいられた。勉強も教えてくれる。いっぱい遊んでもくれる。友達に仲間はずれにされたら、仲直りの方法も教えてくれる。僕には友達もどんどん増えていった。
 ある日なんかは公園で友達と取っ組み合いになって、泥んこになってうちに帰ると、おばあちゃんがびっくり仰天顔になった。
「國ちゃん、どうしたんだね」
「友達と喧嘩したんだ。喧嘩はしたけど仲直りしたよ。殴られても泣かなかったし、僕も友達をぼかっとやってやった」
「國ちゃん……隆也、どうしたらいいの?」
「仲直りしたんだったらいいでしょうに。おばあちゃんが泣きそうな顔をしなくてもいいでしょ。ねえ、おじいちゃん?」
「そうだよ。國ちゃん、よくやった」
「うんうん。兄ちゃんも褒めてやるよ」
 九月になったらお兄ちゃんは東京に行ってしまう。友達と遊んでいれば忘れていられる事実が、現実になる日がやってきた。
「クニ、夏休みの間にたくましくなったじゃないか。陽に灼けて精悍にもなったよ。冬休みにも帰ってくるから、もっとたくましくなれよ」
「お兄ちゃん、行ったらいやだ。行くんだったら僕も連れていって」
「駄目だ」
「お兄ちゃん、いやだいやだいやだっ!!」
 飛びかかるようにして抱きついた僕を、お兄ちゃんはひょいと抱き上げた。
「押入れは怖くないんだよな。一度、ひっぱたこうか」
「いいもん」
「殴られるのも友達にやられて慣れたってか。ガキの力とじゃ……クニ、俺がおまえを一方的に殴ったりするんじゃなくて、大人の男同士として、おまえと殴り合いがしたいよ。おまえが大学生になるころには、俺は三十すぎてるのか。俺だってもっと強くなるから、おまえも強くなれ。おまえと殴り合いができる日を楽しみにしてるよ。お兄ちゃん、行かないで、って泣いてるガキじゃなくて、おう、兄貴、また帰ってきたのか、帰ってこなくてもいいのに、って太い声で言うおまえと会える日を、楽しみに待ってる」
「……お兄ちゃん……」
「じゃあな、クニ」
「うん……行ってらっしゃい」
 抱き上げた僕を高く差し上げて、陽だまりみたいにあったかな笑顔で僕を見つめ、お兄ちゃんは東京へと行ってしまった。
「酒巻? 寝てるのか」
 あ? あれ? 長い想像をしていたみたい。僕は本物の乾さんの声に顔を上げた。
「寝てません。想像してたんです」
「女の子との空想か? おまえは彼女はいるんだっけ」
「いません」
 実は四年生の山田美江子さんに告白して、つきあってもらえるようになっているのだが、乾さんには言えない。想像の話も恥ずかしくて言えないので、祖父母の話にした。
「乾さんのおばあちゃんの話をして下さい」
「あんなばばあの話かよ」
「ばばあって……おばあさんをばばあなんて言ったらいけません」
「ああ、ごめんよ。おまえもばあちゃんっ子だよな」
「ばあちゃんっ子でじいちゃんっ子です」
 おばあちゃんっ子は値打ちが低いみたいな説もあるけれど、乾さんみたいなばあちゃんっ子もいるのではないか。僕はじいちゃんばあちゃんっ子だから気弱なのではなくて、生まれつきなのだろう。気弱な僕が今はなにを言った? 
 この乾さんに向かって叱るような口調でたしなめてしまった。後悔して消え入りたくなっている僕に、乾さんは話してくれた。
「高校のときに俺には彼女がいたって言っただろ。彼女の話は家族にはしなかったんだけど、ばばあ……おっと、ばあちゃんには悟られてたみたいで、ネチネチ言われたんだよ。彼女なんかいなくても、よそさまのお嬢さんを傷ものにしたら、云々かんぬんって説教したがるおばあさまだったんだから、いると知られたらますますだ。それとなく探りを入れるんだな」
「えと……」
「キスくらいはしたの? って感じだよ。だから言ってやった」
「なんてですか?」
「恋人同士なんだから、キスだけじゃすまねえだろ。寝たよ、抱いたよ、悪いか、ってさ」
「え……」
 高校生で……うわ、乾さんって進んでる。それが普通? 僕の心からは兄の隆也さんは消滅し、学生服を着た乾さんがあらわれ出てきた。
「そしたらおばあさまは絶句して、うつむいて考え込んでいた。口数の多いばばあが長く長く黙ってるから、嘘だよ、って言ったんだ」
「嘘なんですか」
「嘘ってより願望だな。彼女を裸にしたかった、抱きたかった」
「……はい」
 その願望はわからなくもないが、嘘だと知って僕も安心していた。
「俺が嘘だと言ったら、ばあちゃんは真剣な顔をして、本当だったらあんたを殺して私も死ぬよ、なんて言いやがった。ばばあと心中なんてまっぴらだよっ、って俺は言い返して、しまいにはふたりで笑ったよ。それからさ、ばあちゃんは言った」
「なんてですか?」
「女の子とベッドインするときの心構えってのかな。そんなのを教えてくれようとするんだ。妊娠だけはさせないように、からはじまって、教えが古臭いのもあって、俺は辟易して逃げ出したよ」
「へええ……僕はおばあちゃんやおじいちゃんとそんな話なんて、一度もしたことはありません」
「けっこうあけすけだったんだな、うちのばあちゃんは」
 ばばあだの言いやがっただのと言っていても、乾さんの表情はあたたかい。乾さんだっておばあちゃんを心底愛していたのだろう。故郷がなつかしくもないような口ぶりも、本気ではなかったのだろうか。
「僕の祖父母は山形で元気にしています」
「うん。夏休みには帰って親孝行と祖父母孝行をしてこいよ」
「乾さんの話もしてきます」
「どんな話だか……」
 こんなにいい先輩がいるんだよ、と姉への手紙には書いたけど、他の家族にも乾さんの話をしよう。こんなにいい先輩がいてくれるんだから、両親も祖父母も安心してくれるだろう。
「じゃあ、俺は行くよ」
「はい、ごちそうさまでした」
 乾さんがベンチから立ち上がったとき、けたたましい声が聞こえてきた。
「わーん、昼メシ、すんじゃったの? 乾さん、俺、まだなんにも食ってないんですよ。飢え死にしますよぉ」
 男子合唱部有数のお喋り先輩、二年生の三沢幸生さんだった。乾さんは問い返した。
「金はないのか」
「ありません」
「じゃ、これでメシを食えよ」
「おーっ、おーおーおーっ、乾さまっ、ありがとうございますっ!! 乾さまが鬼子母神に見えますよーっ!!」
「三沢、鬼子母神ってのはなんだか知ってるか?」
「鬼の子を持つ母の神。乾さんってどっか鬼の気質があるんだもんね」
「鬼子母神ってのはそんな単純な神じゃないけど、勝手にほざいてろ」
「あーっ、お金は置いていって」
 お金は置いていってくれたらしく、三沢さんは乾さんの背中に手を合わせている。乾さんが行ってしまうと、三沢さんは売店に走っていき、走って戻ってきて僕の隣にすわった。
「ふー、飢え死にを免れた。今日の握り飯はひとしおうまいっ!!」
「ごはんが喉に詰まらないように、ゆっくり食べて下さいね」
 おにぎりを食べている三沢さんを見ながら、僕は別の想像をしようとした。
 お兄ちゃんの隆也さんの想像はああだったけど、幸生兄さんだったらどうだろう? 乾さんはひとりっ子で、三沢さんには妹さんがふたりいるとは聞いている。三沢さんは現実にお兄さんなわけだが、僕が三沢國友で、三沢さんの弟だとしたら?
 たしか三沢さんの上の妹さんの雅美さんは、僕と同い年。すると、雅美さんと僕は双生児か。女の子との双生児のかたわれなんて、楽しいかもしれない。
高い高い声の兄と妹たちに、低い低い声のもうひとりの弟、クニ。三沢さんは僕と体型が近い上に、妹さんたちも小柄だそうだから、違和感は少ないだろう。しかし、三沢さんだと乾さんみたいな兄さん像にはならない。今のまんまの年齢でしか想像できなかった。
「乾さんとはなんの話をしてた?」
 食べていても別方面に口の動く三沢さんが、僕に質問した。
「鬼子母神ってどんな神さま?」
「僕はどっちの質問に答えたらいいんでしょうか」
「両方」
「鬼子母神はよくは知りません。帰ったら辞書で調べます」
「恐れ入りやの鬼子母神って言うよね。入谷って地名?」
「僕は三沢さんに恐れ入ります」
「恐れ横須賀ユキちゃんちゃん」
「はい」
 この切り返しの早さには、僕は死んでもついていけない。けれど、三沢さんは荒っぽくはなくて、優しいとも言えば言える。てめえ、ぶん殴るぞ、くらいだったら三沢さんも言うが、三沢さんとだったら殴り合っても……いや、僕は三沢さんにも負けるだろう。
 負けるだろうとは思うが、三沢さんは暴力は大嫌いだそうだから安心していられる。本橋さんにだったら簡単にぼかっとやられるし、乾さんにだって、と僕は思うのだ。
 乾さんは簡単にはぼかっなんてやらないけど、僕がとんでもない真似でもしでかしたり、言ったりしたら、ものすっごく恐ろしいだろうと思う。僕が小学生に戻った想像でも、なかなか怖いお兄ちゃんだった。僕は大学生なのだから、きびしく叱られたらさらにさらに恐ろしいだろう。
 なのだから、乾さんといると心からは安心できない。その点は三沢さんとだと安らげて、これでもうすこし静かにしてくれていたらな、とも思うのだった。
「はいってなんだよ。応酬しろよ」
「できません。最初の質問に答えますね」
「なんだっけ?」
「乾さんとのお話です。乾さんには恥ずかしくて言えなかったから、内緒ですよ」
「恥ずかしくて言えない話?」
「恥ずかしくて言えない想像です」
 ふたつ目のおにぎりを手に、三沢さんは僕をじっと見つめた。
「なんだよなんだよ。どんな想像?」
「乾さんが僕の兄さんだったらな、って」
「そんなのなんにも恥ずかしくないじゃん。おまえが妹で兄の隆也さんに禁断の恋、それだったら恥ずかしいかな。きゃっ、いかがわしいかも」
「いかがわしい想像はしていません。僕は乾さんの弟の、小学一年生なんですよ。乾さんは大学生の大人のお兄さんです」
「ロリポル……ちがうか」
 なんだ、それは。ロリコンポルノ? 三沢さんは頭を振ってから言った。
「小学校一年生の男の子と大学生の男の恋なんて、想像したくないよぉ」
「しないで下さい。そんなんじゃありません」
「俺だったらさ……高校生の美少女の妹と、隆也お兄ちゃまってのだったら……」
 僕に質問したくせに、三沢さんは自分の話にしてしまった。
「ユキちゃんは十六歳の美少女で、優しい隆也お兄ちゃまに甘えるの」
「ユキって三沢さんですか」
「そうだよ」
「……変態っぽい」
「なんだとぉ。そしたら話してやらないぞ」
「いりません」
 いらないと言っているのに、話さないと言っているのに、三沢さんは話した。
「ショッピングに連れていってもらうんだ。お兄ちゃまぁ、隆也お兄ちゃまぁ、ドレス買って。ユキ、おなかがすいたの。ケーキはいらないの。お寿司おごって」
「食べる話だったらいいんですけど、隆也お兄さんは僕の兄さんです」
「大学生の兄と高校生のユキと、小学生のクニってのもよくない?」
 それもいいかもしれない。三沢さんは黙って想像をはじめたようなので、僕も真似をしようとしたのだが、姉は現実に僕にもいる。姉というと本物の姉しか浮かばない。お姉ちゃん……会いたいな、と思ってしまう。だからこの想像はできない。泣きたくなる。
 女の子になった僕なんて、発想外だけど、そっちで三沢さんの真似をしてみようか。大学生の隆也お兄ちゃま。高校生のユキお姉ちゃんと、中学生のクニコちゃんとか?
 背の高いお兄ちゃまに両側からくっついて、手にぶらさがって、小柄な妹たちはショッピングに連れていってもらう。お兄ちゃまはアルバイトのお給料が出たのか、気前良く妹たちに洋服を買ってくれる。お寿司もごちそうしてくれる。
 けれど、こんな空想って非生産的すぎるではないか。小学校一年生の僕が隆也お兄さんに鍛えてもらって、夏休みにすこし強くなる。それだったら元気の出る想像だけど、こっちはなんの意味もなくてつまらなくなってきた。
「三沢さん、クニコちゃんも入れてやって下さい」
「クニコっておまえ? おまえも女の子になりたいの?」
「なりたくありませんけど、三沢さんの想像だったら聞きたいです」
「もったいないから話してやらないよーだ」
「話したくないんだったら、いりませんよーだ」
 やっぱ三沢さんって微量に変態チック? とは思ったのだが、言わずにおいた。
「うーん……うまく想像できないな。俺、乾さんのことをそんなにはよくは知らないんだよね。よくよく知るようになったら、女の子ユキと隆也さんの想像もできそう。数年後には詳しく話してやるよ。楽しみに待ってろよ」
「僕だってそうですよね。乾さんも三沢さんもそんなによくは知らないんです」
「深く知り合おうね、酒巻」
「はい、よろしくお願いします」
「今日はおまえ、よく喋るじゃん」
「そうですか」
 山田さんに告白できて、ちょっぴり強気になれたのだろうか。三沢さんや乾さんのおかげもあるのだろうか。
 乾さんは将来は歌手になりたいのか。三沢さんの将来の夢はなんだろう。僕は? 大学一年生や二年生では、将来の望みは確定していなくてもいいのかもしれないが、乾さんは四年生なのだから、歌手になりたいと確固として望んでいるのだろう。
 何年の後? そのころの三沢さんや僕がどのような職業についていたとしても、乾さんは有名なシンガーになっている。卒業してからの僕が、三沢さんとも乾さんとも交流が続いていたとしたら、僕はどんなにか幸せだ。
 過去の空想なんかよりも、将来の想像をしよう。そのころの僕は山田さんと結婚……そんなの不可能かな、とも思うのだが、想像は自由なのだったら、してもいい。
 航空会社勤務のビジネスマンになった僕、僕の奥さんの美江子さん。三沢さんはお笑い芸人さん、乾さんはシンガー。本橋さんもシンガーか。乾さんと本橋さんのデュオって素敵だろうな。美江子さんは本橋さんや乾さんの友達なのだから、そうなればいっそう、僕も乾さんたちと親しくしてもらえる。
 美江子さんよりも背の高くなった僕は、妻と腕を組んで、本橋乾デュオのなんとか賞受賞パーティに出席する。三沢さんももちろん来ていて、ゲストの笑いを取っている。
 その前に美江子さんと僕の結婚式だ。本橋乾デュオが歌ってくれる。僕は美江子さんのウェディングベールをそっと上げて、そっとキスする。キスなんてしたこともないけれど、想像だったらできる。美江子さんのやわらかな甘く馨しいくちびる。
「美江子、永久に愛してるよ」
「私もよ、國友」
 アルトの声が耳元で囁くのまでを想像すると、赤面しそうになる。三沢さんはそんな僕の隣でお昼ごはんを食べ終え、別の想像をしているらしくて、目を閉じていた。


2

 遠い昔の想像なんてものは、記憶の彼方に薄れていたはずだ。なのに不意に思い出したのは、三沢さんが小説原稿を読ませてくれたからだった。
「みずき霧笛さんですね。「水晶の月」の原作者でいらっしゃいますよね」
「そうだよ。みずきさんが書いた小説なんだ。本にはなってないんだけど、フォレストシンガーズのみんなは読んだ。ヒデさんも美江子さんも読んだんだ。おまえも読みたい?」
「はい。読ませていただきたいです」
 シナリオライターのみずきさんは、小説にも手を広げる心積もりでいるのだそうだ。みずきさんに三沢さんがお願いして書いてもらった小説、「A girl meets a boy」。フォレストシンガーズのみなさんがメインキャラになっていると言うのだから、僕だって読みたいに決まっている。
 だが……最初の一文を読んで、僕は愕然呆然、放心状態になった。三沢ユキ? 女の子版の三沢さん?
 三沢さんが女の子芝居をして、乾さんとやりあっているのは知っている。隆也さん、好き好き好き、などと言っているのも知っている。僕が乾さんを愛していると言うと、隆也さんはユキちゃんのものよっ!! と怒ってみせる。
 あれって冗談じゃなかったの? ちょっとは本気だったの? 三沢さんったら、小説の中で本物の女の子になって、乾さんと恋をしたかったの? この願望……僕にはやっぱり、三沢さんにはついていけませーん。
 まあ、三沢さん自身が書いたのではないのだが、それにしたってそれにしたって、自分を女の子に見立てて小説に書いてほしいと、プロのライターさんにお願いするだなんて……僕にはそもそもそんな願望はないけれど、あ、あ、頭が……頭が……であった。
 それでも気を取り直して読んでいるうちに、今から十年ばかり前の、母校キャンパスでの、乾さんや三沢さんとの会話、そのときに僕が想像していた、乾さんが僕のお兄さんだったら、だとか、三沢さんと僕が乾さんの妹だったら、だとかを漠然と思い出したのだった。
 やっぱりやっぱり、三沢さんってば、ほんのちょっぴりは変態チックだよね。普通はこんなふうには絶対に考えないよ。
 それをまた小説にする、みずきさんもみずきさんだよ、なのか? う、う、う、僕には絶対についていけませーん、などと赤面しながらも、小説自体は興味深かったので、じっくり読ませていただいた。けれども、乾隆也さんと三沢ユキちゃんのベッドシーンが出てくる寸前で、僕はついにギブアップした。
 ギブアップして原稿を伏せて、十年前を思い出す。大学一年生だった僕は、隆也お兄ちゃんが本当にいてくれたらな、僕はこんなに気弱な少年には育たなかったよな、なんて考えていた。そして、美江子さんと結婚できたらな、なんてことも考えていた。
 別の意味での赤面の至りだ。美江子さんは本橋さんと結婚し、僕はおふたりの結婚式の司会をつとめさせていただき、現在では本橋美江子さんになった僕の初恋のひとは、幸せいっぱいなのだろう。だけど、僕は今でも美江子さんとも本橋さんとも乾さんとも、三沢さんとも交流が続いている。僕だって最高に幸せだ。
 僕の職業はDJであり、文筆業ではないのだが、フォレストシンガーズ年代記を書きたいとの野望があって、ぼちぼち書き溜めている。なかなかまとまった形にならなくて、書いては消し、消しては書きの繰り返しではあるのだが、いずれは本にしたいとの野望もある。
 じゃあ、僕も書いてみようか。「A girl meets a boy」は三沢ユキちゃんが一年生のみぎりのストーリィであるので、ユキちゃんよりもひとつ年下の僕は登場しないようだ。そんなのは寂しいな、ってのもあって、僕はパソコンに向かって、文章を綴ってみた。


「東京には僕の兄、隆也がいる。昨日の夜に兄が東京駅まで迎えにきてくれて、昨夜は兄のアパートに泊めてもらった。朝になって僕が作った朝食を食べながら、兄は言った。
「今日はオープンキャンパスの日だろ。俺もついていってやるよ」
「兄さんについていってもらうなんて、恥ずかしくないのかな」
「恥ずかしくはないだろ。それにさ、おまえに紹介したいひとがいるんだ。彼女も大学に来るって言ってたよ」
「彼女なの?」
「ま、会ってからな」
 彼女って恋人? 兄さんの恋人? どんなひとなんだろう。兄に連れられて大学に行き、キャンパスに入るころには、なぜだか僕が照れそうになってしまっていた。
「俺の彼女、ユキだよ。一年生だ」
「あ、はじめまして。國友です。兄がいつもお世話になってます」
 真っ赤になってるんじゃないかな、なんだって僕が恥ずかしがらなくちゃいけないんだろ、と思いつつも、僕はユキさんに挨拶した。
「こんにちは。ユキです」
「クニの話はしただろ。来年にはうちの大学を受験するんだよ」
 小さくて可愛いひとだ。僕は背の高い隆也兄さんの弟だなんて、自分でも信じられないほどに背が低いのだが、ユキさんは僕よりも低い。小さくて華奢で、つついたらこわれてしまいそうにはかなげなタイプに見える。
 大きな女性は苦手な僕は、ユキさんが小柄なので安心していた。いずれは僕の義姉になるかもしれないひと。僕はそんな目でユキさんを見ていた。
「クニちゃんって可愛いね。仲良くしてね」
「はい。よろしくお願いします。兄がいつもお世話に……」
「二度も言わなくていいだろ、クニ。俺はユキのお世話にはなってないよ。俺が世話してるんだ」
「兄さんったら、そんなふうに言ったら駄目だよ。ユキさんがふくれてるよ」
「こいつはじきにふくれるんだ。気にしなくていい。ユキはどうする? 俺はクニに大学の案内をしてやる約束なんだけど、おまえは帰ってもいいよ」
 兄が言うと、ユキさんはいっそうふくれて兄を見上げた。
「ユキもついていく。いいでしょ、隆也さん?」
「いいけどね。おまえはおとなしくしてろよ、ユキ」
「ユキはいっつもおとなしいもん」
 ふーん、兄さんって彼女にはけっこう態度が大きいんだな。ユキさんが年下だからだろうか。ユキさんは十八歳にしては子供っぽくて、僕にさえも年下に見えてしまうのだから、大人っぽい兄さんにはなおさらだろうな。
 三人で歩いているうちに、ユキさんの性格はなんとなくわかってきた。
 甘えん坊で幼いほうであるらしきユキさんは、ふたつ年上の恋人に頼り切っているみたい。微笑ましいけど、兄さん、苦労させられてるんじゃない? ユキさんが幼いせいで、僕はそんな感想を持ってしまう。口にすると兄に生意気だと言われそうだし、ユキさんを怒らせそうだから言わなかったけれど。
「ユキ、疲れちゃった。隆也さん、アイスクリーム食べたい」
「疲れるのが早すぎるだろ。クニにはもっとほうぼう案内してやらなくちゃ。いやになったんだったらおまえは帰っていいよ」
「隆也さんってば冷たいんだから。クニちゃん、そんならアイスクリーム食べにいこうよ」
「僕はオープンキャンパス見学に来たんですから……」
「そうだよ。ユキはおまけなんだから、邪魔をするんだったら帰れ」
「そんなのってぇ……」
 あらら、泣くの? 僕もちっちゃいころは泣き虫だったけど、こんなに簡単には泣かなかったよ。女の子だからってそんなに簡単に泣いていいのか。僕は呆れてユキさんを見つめ、兄も呆れ声で言った。
「また泣く。泣いてる子は連れていってやらない。帰れ」
「隆也さんったら冷たいよぉ。ユキはクニちゃんなんかどうでもいいんだから。クニちゃんだって高校三年生にもなってるんでしょ。ひとりでオープンキャンパス見学くらいできるじゃない。隆也さんはユキとデートしようよ」
「そうやってわがままを言う子は帰りなさい。俺は今日はクニのつきそいなんだよ」
「隆也さんったら、ユキには冷たくて弟には優しいんだ。そんな隆也さんは嫌いだよっだ」
「ああ、嫌いでけっこう」
「意地悪っ!! 大嫌いっ!!」
 言い捨てて、ユキさんは走っていってしまい、僕は兄に言った。
「いいの?」
「いいんだよ。あいつはわがままなんだから、言う通りにしてやってるとつけあがるんだ」
「兄さんって案外、女の子に冷ややかなんだね」
「あとでさ……おまえにはわからない、恋人同士の機微ってやつもあるんだ。おまえにも彼女ができたらわかるよ。クニ、おまえも大学生になったら彼女を作れよ。今はいるのか?」
「いないよ」
「クニはどういう女の子が好み?」
「今の僕は受験勉強をして、兄さんと同じ大学に入学するのが目標なんだもの。彼女なんて考えられないよ」
「うん、真面目でよろしい。それでこそ俺の弟だ」
「だけど……ユキさんは可愛いよね」
「可愛いよ。可愛くなかったらあんな奴、とっとと捨ててるさ」
「兄さんったら……ほんと、冷たいかも」
「冷たくなんかないんだよ」
 可愛いけど冷たくもして、機微ってやつもあって、僕には恋人同士なんて全然わからない。ユキさんは怒ってないのかな。すねてないのかな。どうやって仲直りするんだろ。大丈夫なんだろうか」


 みずきさんの小説を踏まえて書いたものだから、こんなふうになってしまった。
 それでいて、みずきさんの小説とは設定が異なっている。設定でも現実でも、隆也さんはひとりっ子で金沢出身。弟なんていやしない。
 第一、みずきさんの小説には國友って奴は出てこないのだし、現実を考えると、隆也さんと僕が兄弟だとはあり得ない。けれど、僕はこうしてみたかった。僕には女の子になってみたい願望はないのだが、隆也さんの弟になりたい、という願望はいまだに持っているのか。
 あまりそうは考えなくて、乾さんは僕のソウルブラザーなんだ、とは思っていた。けれども、本当の兄さんだったらいいのにな、とは思わなくもないのだから。
 三沢さんだったらこれを読んだら怒るだろうか。笑うだろうか。僕はキーボードを叩く手を止めて、三沢さんの台詞を想像してみた。
「昔も言ってたよな。酒巻ってやっぱ、乾さんを愛して愛して愛しちゃってるんだよね」
「歌のフレーズにもありますね」
「愛しちゃったのよ、ってやつ? 愛して愛して愛しちゃったのよ、ってタイトルの歌があるよ。こんなの」
「歌わなくてもいいですよ」
 頭の中で三沢さんが歌い出す。女性の声を出して、気持ちよさそうに歌っていた。
「ね、三沢さん、これって本になって出版されるんですか」
「うーむ、それだけは……熟考中なんだよ」
「そうですよね。いくら三沢さんでも……」
「おまえもそう思う? それよかさ、おまえ、全部読んだのか?」
「いえ。みずきさんの小説を読んでて恥ずかしくなってきましたので、途中でやめてこっちを書いてました」
「こっちは短すぎる。ワンシーンだけじゃん。書くんだったら超長編小説を書けよ」
「僕にはそんなのは書けません」
「書けないだろうな。無理だとは俺も知ってるけど、聞き捨てならないな。なんだってみずきさんの小説が恥ずかしいんだよ」
「三沢さんだって恥ずかしいからこそ、出版してもらうかどうかを熟考中なんでしょうに」
「う……参りました。酒巻くん、追求しないで」
 おーっ、勝ったかも。想像の中とはいえ、三沢さんに勝てたと実感できるのは、生まれてはじめてだ。とすると、みずきさんの小説は全部は読まなくていいかな。だって、僕のほうこそ恥ずかしいんだもん。隆也さんとユキちゃんのベッドシーンなんて、正視できないんだもん。
 ごめんなさい、みずきさん、と詫びておいて、僕はパソコンの画面を見つめた。なんにしたって、これは僕がひとりで書いて、ひとりで読んで楽しむだけでいい。
 なんにしたって、僕は今でも幸せだ。学生時代の想像とはまったく別の職業に就き、美江子さんではない女性とだって結婚もしていなければ、恋人のひとりもいないけれど、想像の中の夢がかなった部分もある。
 いつかは僕にも妻ができるかもしれない。いつかはフォレストシンガーズ年代記を書いて出版できるかもしれない。アメリカへ音楽の勉強をしにいくという夢は、近く実現しそうだ。僕ってなんて幸せなんだろう。
 みずきさん以上にフォレストシンガーズのみなさんとは親しいはずの僕は、いつかは小説も書いてみようか。こんなのではなくて、シリアスタッチの超長編? 無理かもしれないけど、こうして夢がもうひとつ増えた。
「十年以上の長きに渡りまして、酒巻國友を後輩と呼んで下さった皆々様、まことにまことにありがとうございます。今後ともなにとぞよろしくお願いします」
 フォレストシンガーズ年代記とフォレストシンガーズ小説。いずれが先に完成し、出版されるのか。完成はしても出版はされない可能性も高いが、がんばって書こう。本になったら添える謝辞は決めた。
 special thanks to……数え切れないほどの方々に感謝を捧げたい。僕の本が出版されたら……僕はそんな気の早すぎる想像までをして、夢見る瞳になっていた。
 
END


 
 

 
スポンサーサイト


  • 【小説131(悲しきあこがれ)】へ
  • 【小説132(ヒ・ラ・ヒ・ラ淫ら)】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【小説131(悲しきあこがれ)】へ
  • 【小説132(ヒ・ラ・ヒ・ラ淫ら)】へ