novel

小説12(この広い野原いっぱい)

 ←小説11(横須賀ストーリィ) →番外編3(星に願いを)
tyu-rippu18.gif
フォレストシンガーズストーリィ・12

「この広い野原いっぱい」

1

 この春には本橋さんと乾さんが大学を卒業して、小笠原のヒデと俺は四年生になり、三沢幸生は三年生になった。その五名で必ずプロになるんだと誓い合ったヴォーカルグループ、「フォレストシンガーズ」は現在のところはアマチュアのままであり、プロになれるという保証はまったくない。
リーダー本橋さんと乾さん、ヒデと幸生と俺の五人でフォレストシンガーズを結成したのは、ヒデと俺が大学三年生の年だった。本橋さんと乾さんが後輩たちに正式にそれを告げてくれた日の夜には、ヒデとふたりで酒を飲んで将来の展望ってやつを語り合った。飲んでは語り、飲んでは歌い、飲んでは笑って思い切りハイになって、シゲ、大丈夫か? なんてヒデを心配させて、おまえこそ、と言い返してはまたまた笑った。
 三重県の片田舎から上京してきて大学に入学し、中学高校時代にもクラブ活動でやっていた合唱部に入部した俺が、部室で出会ったのがヒデ、先輩の本橋さんや乾さんとも会った。一年のちには幸生とも出会った。本橋さんと乾さんは当時から傑出していて、ヒデは言っていたものだ。
「生まれつきの才能を持ってるってうらやましいよな。おまえや俺は歌は下手じゃないけど、本橋さんや乾さんほどの歌唱力はない。表現力とかってのもあるだろ。歌を歌うってのは、さまざまな才能が必要なんだよ。幸生もたいした奴だ。乾さんに言わせると、幸生は天才なんだそうだよ。天才と紙一重のなんとかだって説もあるけど、磨けば輝き出す、磨けば磨くほど輝く宝石の原石なんだってさ。本橋さんや乾さんははじめっから輝いてるし、幸生もいずれは輝くんだ。俺たちもそれほどだったらな……」
「そうだよな」
 だけどさ、と俺は言った。
「うまくは言えないんだけど……全人類の中で輝く才能の持ち主ってのは、数が限られてるんじゃないのか。大部分は凡人だろ」
「全人類? そりゃまた……」
「だからさ、凡人が大部分で、一部は天才、一部は凡人以下だよな。俺は凡人でいいんだ」
「凡人だったらプロのシンガーになんかなれないだろ」
「そうなんだけど……天才が三人いるんだったら……五人そろって輝くってのもなかなか無理がありそうで。おまえは天才でもないけど、歌では秀才だよ。俺は縁の下の力持ちが向いてるんだから、そっちでいいよ」
 その役割で俺は先輩たちに選んでもらったのだと思っていた。俺の声は五人の中でもっとも低いのだから、ベースヴォーカリストとしての役割がある。歌を歌う上ではその役割も重要だけど、人間関係ってものもあって、天才が五人もいると衝突が激しくなるのではないだろうか。
 世の大部分の凡人の一員である、俺はフォレストシンガーズの縁の下の力持ちをつとめよう。おまえは謙虚なんだから、とヒデは不満そうに言っていたが、謙虚というのでもない。俺にはなんだって上手には言えないけど、俺にはそれが向いているのだと思っていた。
 天才が三人、歌だけは秀才のヒデ、なんでもかんでも凡才の俺の五人で、フォレストシンガーズは結成された。アマチュア時代にもギャラはなしだったり、些少ながらもギャラがあったりする仕事をした。金をもらえなくてももらえても、歌っていられれば俺は嬉しかった。機嫌のよくないときのヒデには、おまえは甘いんだよ、と怒られたりもしたが、ヒデだって本音では同じ気持ちだったはずだ。
 一年先輩の本橋さんと乾さん、美江子さんが卒業した年の梅雨間近に、フォレストシンガーズの初仕事があった。それまでにもステージに立った経験はあったが、ギャラの出る仕事だったのだ。乾さんのバイト先のママさんが紹介してくれた、神奈川県の郡部での村おこしイベントのステージだった。
 雨にたたられてステージが中止になって、幸生が言い出した。流しのギター弾き兼歌うたいになりましょうよ、もっともっと歌いたいよ、と言った幸生に賛成して、渋っている主催者側には、ギャラはいりませんから、と乾さんが言った。結局交通費くらいしか出ない仕事になったのだが、地元のひとたちは乾さんのギターと、俺たちの歌を心から喜んでくれた。
 夏には、合唱部が合宿していた浜辺でのライヴに出演させてもらった。これはノーギャラだったのだが、就職して社会人になっていた美江子さんも、休みを取って我々と同行した。合宿以外で六人で泳ぐのはじめてで、ステージの前の日にはみんなしてはしゃいでいた。
「美江子さんもいませんよ」
 その日の夕方、おんぼろ民宿に戻ると、美江子さんの部屋を見にいった幸生が言った。本橋さんと乾さんもいない。散歩にでも行ったんだろ、先に三人で風呂に入ろうや、とヒデが言い、風呂場に行った。
「どんな風呂かと思ったけど、清潔にしてありますね。ヒデさん、シゲさん、お背中をお流ししましょうか」
「おまえはどこかの銭湯でバイトしろよ」
「銭湯でバイト? ヒデさん、そしたら女湯にも入っていっていいのかな。お嬢さま、お背中を……ってさ。きゃああ、どうしましょ。いやんいやん」
 馬鹿か、おまえは、とヒデと声をそろえて、俺が幸生を抱え上げて湯船に放り込み、ヒデが頭を押さえて湯に沈めた。ひとしきり大騒ぎしていたら、静かにして下さい、と風呂場の外から叱られた。叱られたのでおとなしくしようと言い合って、三人で湯船につかって話していた。三人とはいうものの、話していたのはもっぱらヒデと幸生だったのだが。
「お嬢さまのお背中だったら俺もお流ししたいけど、ばあちゃんに頼まれたらどうする?」
 ヒデがアホな話を蒸し返し、幸生は言った。
「ばあちゃんだっていいもんね」
「ばあちゃんには可愛い孫がいるかもしれないもんな。紹介してもらおうって?」
「そういうよこしまな考えではありません。ばあちゃんだって女性なんですよ。ヒデさんやシゲさんの背中を流すのは単なるサービスっていうか、後輩としての奉仕なんだけど、ばあちゃんだったら心を込めて……俺はばあちゃんでも赤ちゃんでも、世界中の女性という女性はみんな大好きなんです」
「うん、それはある意味、男の鑑だな」
「でしょでしょ? シゲさんも褒めて」
 返事をせずに湯船から出て身体を洗っている間も、ヒデと幸生はアホ話を展開させていた。俺は幸生の口と闘うと疲れ果てるので、知り合ったばかりのころから匙を投げていた。適当にあしらおうとしても幸生は懲りずに、シャレだの四文字熟語だの早口言葉だのを繰り出してくる。乾さんや美江子さんならば幸生の口にも拮抗できる。本橋さんはげんこつで黙らせる。それでも幸生はめげないのだが、たまには降参している。同じレベルで幸生と張り合えるのはヒデだけだった。
 ふたりの死にたくなるほどアホな話に中毒しそうになって、俺は先に風呂場から出ていった。ヒデと幸生は長々と喋っていたらしいが、やがて出てきた。ビールが飲みたいな、と言っているヒデに、幸生が言った。
「先輩たちが戻ってきてからにしましょ。長い散歩だね。喧嘩してるんじゃないだろうな」
「三つ巴の喧嘩だったら美江子さんが勝つ。本橋さんと美江子さんの喧嘩だったら、乾さんが止める。危険なのは乾さんと美江子さんの喧嘩だな。もしもそうなったら、幸生、おまえの出番だ」
「はい、ヒデさん、俺は心の準備をしておきます」
「おまえらって……ほんとにほんとにアホ」
「なんでだよ、シゲ?」
「シゲさんったら……絶対になくはないよ。本橋さんと美江子さんの喧嘩は見慣れてるけど、乾さんと美江子さんだったらやばいじゃん。ヒデさんは俺の出番だって言うけど、美江子さんと乾さんのシリアスな口論だと俺もつらいな。あ、そうだ、もうひとつ考えられるよ」
「本橋さんと乾さんの喧嘩か。それだったらシゲの出番だよ」
「そうだね。もしくは、美江子さんがふたりの頭に文字通り水をぶっかける。水だったら近くにいくらでもあるんだから」
 ヒデと幸生はなおも馬鹿話を続けていて、俺は黙って聞いていた。そうしていると庭で水音がした。窓から庭が見えるので覗いてみたら、美江子さんが水道で顔を洗っていた。そのうしろには本橋さんと乾さんが立っていた。
「風呂に入る前に顔を洗うの、女のひとって」
 こそこそっと幸生が言い、ヒデは首をかしげた。
「……さあ、そういうときもあるんじゃないのか」
「顔を洗う……顔が汚れた……泣いた? まさかね。でも、なんとなく美江子さんのまぶたが腫れぼったくありません? 本当にどっちかと喧嘩したのかな」
「本橋さん、美江子さんを泣かしたんじゃないでしょうね」
 幸生は小声で言っていたのだが、ヒデが大声で言い、本橋さんが振り向いた。本橋さんのほうはほっぺたが腫れぼったい。ヒデと幸生と俺はいささかぎくっとし、乾さんが言った。
「ミエちゃんは仕事のストレスが溜まってるんだよ。正社員の大変さはバイトの身とは比較にもならないほどなんだな。ミエちゃんは愚痴なんかはこぼしたくないひとなんだけど、俺が根掘り葉掘り聞き出したんで怒った。俺が悪かったんだよ。ごめんね、ミエちゃん」
「……乾くんはなんにも……」
「そんなら本橋さんの顔が腫れてるのは?」
「ヒデ、おまえもけっこう目ざといんだな」
「わかりますよ。シゲだって気づいてる」
「そうか。当然幸生も気づいてるな。でな、俺がミエちゃんにつまらない質問をして、ミエちゃんが怒って、本橋も怒った。おまえが悪いって俺に怒った。俺が悪いのは知ってるけど、本橋の口調にむかっとして、つい手を上げた。俺だよ」
「……乾さんが本橋さんを?」
 にしたら、ほっぺたの腫れ具合が、と幸生が疑惑のまなざしで本橋さんを見、乾さんは言った。
「軽く殴っただけだからさ。この程度だよ、俺の力は。本橋、ごめんな」
「いや……」
「乾くんったら……」
「ミエちゃんもごめん。ヒデとシゲと幸生は風呂に入ったのか。さっぱりした顔をしてるな。ミエちゃんも入っておいで。この宿だったら浴室は男女に分かれてないんだろ。他の客もいるんだろ。本橋、見張りにいこうか」
「乾くん、そんなのいいって」
「おう、行こうか」
「そのほうがいいですよ。行ってらっしゃーい」
 ひらひらと幸生が手を振り、三人は風呂場へと歩いていった。三人の姿が見えなくなると、幸生が腕組みをしてむずかしい顔つきになった。
「美江子さんの態度からすると……うーむ、深そうだ」
 なにが? と俺が訊くと、幸生は応じた。
「俺は風呂場の外で見張りをしてこよっと。男の客って他にもいたじゃん。見張ってないと変な奴が出没するかもしれないもんね。強そうな奴があらわれたら呼びますから、ヒデさん、シゲさん、よろしくー」
「おまえこそ覗くなよ」
「ヒデさんったらひどいわ。俺が覗いたりしたら、乾さんの舌鋒とともに、本橋さんを叩いたとかいうどころじゃないパンチが……きゃあ、こわこわっ」
 怖いわーっ、僕ちゃん、再起不能になっちゃうわーっ、と歌うように言いながら、幸生は外に出ていった。
「ヒデ……乾さんの台詞……」
「うーん、幸生はなにやら勘ぐってたみたいだけど、俺にはわからん。シゲにはもっとわからないだろ。乾さんがああ言うんだったらそうだったんだよ」
「……先輩たち三人の話を、詮索したらいけないんだよな」
「そうだよ。俺たちは後輩なんだから」
「うん」
 かすかに釈然としないながらも、俺は納得しておいた。
 そのあとはみんなでメシを食ってビールも飲んで、明日のステージで歌う予定の歌のリハーサルをしたりもして、美江子さんは何度も何度も、あなたたちの歌は最高だよ、もうすぐきっとプロになれるよ、と言ってくれた。翌日はライヴがあって、客は少なかったけれど、美江子さんが大声援を送ってくれたおかげで、アンコールまでできて満足できた。
 その仕事も終わり、今日の俺は親に会うために新幹線に乗った。四年生になっても就職活動をしていないのは、俺はいずれはプロのシンガーになるんだとの希望ゆえなのだが、希望は希望であって確定ではない。親に弁明をしなければならない。
 そのつもりで帰郷しようとしたのに、名古屋を通過して大阪まで来てしまった。親になんと言えばいいのか、悩めば悩むほど頭が混乱して、結論が出せなくて、気がついたら新幹線が大阪に到着していたのだった。大阪からだって三重県には簡単に行けるのだが、考えをまとめないと行けない。
 幼いころから城が好きで、城好きが高じて日本史に興味を持ち、大学でも国史を専攻しているので、大阪城が見たくて、というのは、大阪に来たいいわけとしてはうってつけかもしれない。夏は亜熱帯だとかいわれる大阪の街は暑い。今日も酷暑だ。俺は大阪城がよく見えるベンチにすわって、ひたすら頭を悩ませていた。
「本庄くん?」
 声をかけられて顔を上げたら、涼しげな淡いブルーのワンピースに、黒のパラソルをさした女性が微笑んでいた。
「あ、八幡先輩」
「覚えててくれたんだ。久し振りね」
 合唱部の先輩である八幡さんとは、さして親しくはなかったのだが、彼女も俺を覚えてくれていたらしい。俺より一年年上で本橋さんや乾さんと同年だから、彼女は今年の春に卒業して、社会人になっているはずだった。
「すわっていい? 暑いね」
「はい。どうぞ。八幡さんは大阪にお住まいなんですか」
「職場は東京なんだけど、研修で来てるの。ほんとは今は夏休みなのよ。夏休みをつぶして研修なんだから、新入社員はつらいよね。本庄くんは就職は決まった?」
 ベンチにかけた八幡さんは、小首をかしげて俺を見つめた。いえ、それが、あの……と口ごもっていると、八幡さんは言った。
「男子はわりあい就職はあるでしょ? 私はなかなか決まらなくて大変だったのよ。どうにかこうにか大阪に本社のある建設会社にもぐり込んだんだけど、しょっちゅう大阪に来ないといけないの。今日は午後からフリーになれたから、お城を見にきたのよ。本庄くんは悩ましげな顔をしてるね。就職が決まらなくて悩んでるの?」
「そうじゃないんです」
「ああ、そういえば」
 去年までは合唱部の仲間だったのだから、八幡さんはおよその事情を知っているらしい。山田さんに聞いたよ、と切り出した。
「本橋くんと乾くんは、プロの歌手になるつもりでいるって。本庄くんも誘われてたんだっけ? だから就職しないのね。甘いなぁ」
「甘い、ですか」
「甘いよ。歌手志望の若い子なんてどれだけいると思ってるの? そりゃ、本橋くんや乾くんはとってもとっても歌が上手だけど、それだけでプロになれる世界なんかじゃないのよ」
 言っておいて、なんてね、と笑った。
「お説教じみた話はやめようか。で、本庄くんはどうしてこんなところにいるの? 大阪出身だった? 里帰り?」
「いえ、俺は三重県なんですけどね、途中で立ち寄ったというのか……」
「そうなの? そんなら時間はある?」
「時間なんてのはいくらでもあります」
「だったらデートしようよ。ひとりっきりで大阪の街をぶらぶらしててもつまらないし、おいやじゃなかったらつきあって」
「いやだなんてとんでもない」
 じゃあ、行こうよ、と立ち上がった八幡さんは、サンダルの踵が高いので俺よりも背が高い。八幡さん、と姓だけしか知らない彼女は、こんなにプロポーションがよくて綺麗なひとだったんだ。俺がこの八幡さんとデート? 大阪に立ち寄ってラッキーだったと考えればいいのだろうか。
 歩きながらいろいろな話をした。八幡さんの職場での苦労話、合唱部時代の思い出、話はあちこちに拡散し、合間には俺の近況話などもして、喫茶店で向き合ったころには、お互いの現在の境遇がかなりわかり合えるようになっていた。
「せっせと努力はしてるんだね。本橋くんと乾くんと、本庄くんと小笠原くんと三沢くん。五人で歌の練習をして、アマチュアとしてステージに立ったりもしてる。本橋くんと乾くんは同い年だし、合唱部では歌の才能が図抜けてたからよく覚えてる。小笠原くんと本庄くんのことは、正直言ってそんなによくは知らなかったんだけど、三沢くんはよくよく覚えてるよ。本橋くんや乾くんとは別種の才能の持ち主だものね」
「あの口、ですね」
「そう。歌も口で歌うものだから、三沢くんは口を使う職業につくべきひとよね。そうかぁ、あなたたち五人の歌……聴いてみたいな。東京に帰ったら聴かせてくれる?」
「はい、聴いて下さい」
「ごめんね、甘いなんて言って。そうやって夢を追いかけて、夢はかなうんだって信じて、努力もしてるって素敵じゃないの。言い直す。本庄くん、私、応援するからね」
「ありがとうございます」
 アイスティのストローをくわえかけて、八幡さんは言った。
「本庄くんっていつまでそんな口をきくの? 先輩ったって、そんなの昔の話じゃないの。年上っていってもたったひとつだよ。八幡さん、じゃなくて、早苗さんって呼んで」
「八幡早苗さんとおっしゃるんですか。名前のほうまでは知りませんで……」
「そうじゃないかと思ってた。東京に帰ってもまた会える?」
「え? は、はい」
 ふっと思い出したのは、大学に入ってはじめて恋したリリヤの台詞だった。はじまりもしないでなくしてしまった恋だったので、大学生になってはじめて失恋したリリヤ、と呼んだほうがふさわしいかもしれない。
 初恋の経験はあるけれど、その子とだってつきあうまではいかなかった。リリヤはたしか、お兄ちゃんのせいで十八にもなって、一度も男の子とつきあったことがないんだよ、と言っていたが、俺なんかは二十一にもなって、女の子とまともにつきあったことはない。
 誰のせいにもできなくて、俺がもてないからだよな、としか言いようがなくて、もてないものはどうしようもないよな、と諦めていたけれど、もしかしてもしかして……淡い期待と、かすかな不安が胸のうちで交錯していた。不安のほうの材料は、なんでこんな美人が俺なんかと? だったのだが、また会える? ってどういう意味? とも訊けなくて、俺の悩みがまたひとつふえたのだった。


 そんな甘い考えで世の中渡っていけるとでも思ってるのかーっ、と親父が怒り、おふくろは嘆き、名古屋で就職している姉までが電話をかけてきて、あんたは甘いよ、と決めつけた。
 誰も彼もが甘い甘い、と言うけれど、それでも俺はプロのシンガーを目指すんだ、と言い返して、とにかく報告はしたからな、と開き直って、東京に帰ってきた。帰ってきたら早速、早苗さんから電話がかかってきた。親との交渉は決裂しましたけどねぇ、と言い出すと、早苗さんの声に笑みが含まれた。
「親なんてそんなものよ。若いうちしか夢のために邁進できないんだから、本庄くんは仲間たちといっしょにがんばるしかない。弱音を吐いてちゃ駄目だよ」
「はい」
「今度の日曜、東京でデートしない? 本庄くんはアルバイト?」
「バイトは日曜日は休みです」 
 もっと砕けて喋ってよ、と早苗さんは言うけれど、今はまだこんな喋り方しかできない。デートを重ねて親しくなれたら、友達みたいな口をきけるようになるんだろうか。友達じゃなくて恋人みたいな? 恋人なんか持ったことのない俺には、恋人同士の口のききようがどんななのかもわからない。
 フォレストシンガーズのメンバー中、もっとももてるのは乾さんのはずだ。本橋さんもけっこうもてると思うのだが、乾さんは本橋さんよりもきっともてる。ヒデはそんなでもないだろうし、幸生はガキだし、恋人同士ってどんな口をきくものなんですか、と乾さんに質問してみようか。教えてもらったとしても、俺が乾さん口調で話すのは無理がありすぎると思えるのだが。
「こうやってグラスを上げて、きみの瞳に乾杯、ってやるんだよ。彼女がにっこりとグラスに口をつけて、酒をひと口飲む。そうしたら彼女の手からグラスを取り上げてテーブルに置いて、優しく抱き寄せて、優しく囁いて、優しくくちびるを合わせる。最初は甘くソフトに……次第に激しく……曲調が高まっていくように……強く抱きしめてくちびると囁きで彼女を乱れさせて……そして……」
 ちょっと待て、とおのれの頭を叩いて妄想をストップさせた。シゲさんの発想って月並みなんだよね、と幸生によく言われる通り、乾さんの台詞を想像するのさえが月並みだ。乾さんだったらもっと洒落た言い回しで教えてくれるだろうに、俺の頭はこんなふうにしか回らない。こんなふうに回って考えたとしても、甘く囁く台詞の内容は思い浮かばないのだし。
 それにだ、まだそんなのは早すぎる。最初は甘くソフトに、なんかじゃなくて、最初は真面目に話しをして、甘いムードは先のこと。先になっても俺に甘いムードは似合わないけど、なりゆきにまかせたらなるようになるさ。いや……なる、んだろうか。
 うじうじぐだぐだしているのは嫌いなはずなのに、俺の頭はいつだってうじうじぐたぐだしている。恋愛のはじまりなんてものは、悩んでばかりではなくて……いや、恋愛なのか、これは、と、またしても悩みたくなる。慣れていないとは哀しいもので、俺ってほんっとに不器用だよな、と思うと、ため息しか出ないのだった。
 それでも、早苗さんと会えるとなるとうきうきしてきた。おしゃれなんてものにはとんと縁のない俺は、ファッションについても乾さんに教えてもらわないといけない。そもそもろくな服を持っていないので、適当に組み合わせて待ち合わせ場所に出かけた。早苗さんは今日もセンスのいい服装をしていて、今日も美人だった。
「えっと、素敵な服……ですね」
「ありがとう」
「えーと、俺、女のひとの服ってよくわからないんですけど……男の服もわかってないし……こんな格好ですみません」
「本庄くんはそこがいいのよ」
「……そう、ですか」
 肩を並べて歩き出すと、早苗さんが言った。
「いつ聴かせてくれるの、フォレストシンガーズの歌は」
「早苗さんさえよければいつでも。週に二、三度、本橋さんのアパート近くの公園で練習してるんです。夜中なんですけどね……そんな時間でいいですか。ステージに立って歌うなんてことはめったにないから、練習でよければ」
「私はいいよ。でも、本庄くん、本橋くんたちには言いにくいでしょ? 偶然会ったことにして連れてって」
「はい」
 つきあってるとは言いにくいでしょ? という意味か。俺は早苗さんとつきあってるのか? つきあうってこういうことなのか。そんな基本的な解釈すらできない俺は、間抜けの骨頂なのかもしれない。
 その日も早苗さんと街を歩き、喫茶店で話しをして、それだけでおやすみなさいと言い合って別れた。次の待ち合わせは火曜日の夜だ。偶然をよそおって早苗さんを練習場所に連れていくなんて、俺にそんな芝居ができるのだろうかと悩ましくなっていたのだが、実行は早苗さんがしてくれた。
「久し振りー、本橋くん、乾くん、小笠原くんに三沢くん。元気そうだね。ついさっきそこで、本庄くんにばったり会ったの。フォレストシンガーズの話は山田さんから聞いてたし、今から練習するって言うから、連れてきてもらっちゃった。聴かせてもらっていい?」
 ふむ、芝居がうまい。本橋さんは言った。
「練習なんか聴いても面白くもないだろうけど、八幡が聴きたいって言うんならいいよ。な、乾?」
「俺はもちろん大歓迎だよ。早苗ちゃんは昔から美人だったけど、大人っぽくなったね。就職したんだろ? あかぬけてますます美人になって、まぶしいよ」
「お世辞が上手だね、乾くんは」
「お世辞ではありません。本心だよ」
 月並みと言えなくもないが、やはり乾さんの口からはさらりとこんな台詞が出るのだ。本橋さんは相手が男でも女でも、大学時代の同輩、後輩は姓を呼び捨てにしていた。今では仲間になった後輩三人はシゲ、ヒデ、幸生、と名を呼び捨てにしている。一方の乾さんは、相手が女性であれば、ミエちゃんだの早苗ちゃんだのと呼ぶ。そのあたりも昔となんら変わっていなくて、誰にでも愛想のいい幸生も、にこやかに言った。
「八幡早苗さんでしたよね。俺のことは覚えて下さってる? 感激だなぁ。早苗さんって呼んでいいですか。では、早苗さんのために心を込めて歌います。ねぇ、ヒデさん?」
「真心こめて歌いますよ、俺も。シゲは?」
「歌うよ」
 大阪ほどではないにしても、東京も夜になっても暑い。数曲歌った俺たちを熱心に見ていた早苗さんが、拍手をしてくれてから言った。
「喉がからからになったんじゃないの? なにか買ってきてあげようか。公園の外にコンビニがあったよね。なにがいい? アイスクリームでも食べる?」
「駄目だよ、早苗ちゃん。夜遅くに女の子がひとり歩きをしてはいけません」
 言ったのは乾さんだった。
「走り使いは下っ端幸生の役目なんだから。幸生、行け」
「はーい。僕ちゃんはパシリの最年少ユキちゃんですから、行けと言われなくても参りますですよ」
「夜のひとり歩きなんて、残業帰りだったらいつもしてるんだけどね。だったら三沢くん、いっしょに行こうか。私はこれでも社会人ですから、コンビニの夜食ぐらいおごらせて。おごるってほどの金額じゃないけど、素敵な歌を聴かせてもらったお礼よ。いいでしょ、本橋くん? 女にお金を出させるのはプライドが許さない?」
「さしいれしてくれるってんだったら、ありがたいよ」
「そう? じゃ、三沢くん、行こうよ」
「はい、行きましょう」
 ふたりがコンピニのほうへと歩き出すと、乾さんが意味ありげに俺を見た。途端に足元がむずむずしてきたので、俺は腕立て伏せをはじめた。せっせと腕立て伏せをしながら考えた。本橋は鈍い、と乾さんは常々言っているから、リーダーは気にしなくてもいいだろう。問題は乾さんと幸生だ。ヒデも剣呑かもしれない。
 すでに乾さんはなにか察しているような気もする。早苗さんの芝居はうまかったけど、乾さんには看破されてしまった恐れもある。ばれちゃいけないのか? 芝居をしようと言い出したのは早苗さんだから、彼女がばらしたくないのかもしれない。しかし、ばれるってほどには、早苗さんと俺はなんにもしてないわけだし。
 コンビニへ早苗さんと幸生を行かせたのはまちがいだったか。幸生は早苗さんを質問攻めにしているかもしれない。俺が行けばよかった。が、俺が行くと言うのもまずかったのかもしれない。他の三人はとりたててなにも言わず、俺に倣ってトレーニングをしているのだが、乾さんの頭の中になにがあるのかと悩むと、俺の頭もぐるぐるしてきた。
「今夜は暑すぎる。汗だくになっちまうよ、トレーニングなんかしたら」
 乾さんが言った。
「女性がいるってのに、汗びっしょりじゃ失礼なんじゃないのか」
本橋さんも言った。
「だったらおまえ、銭湯にでも行ってこいよ。まだ開いてるだろ」
「風呂に入ってさっぱりしてから夜食にするか。けど、早苗ちゃんはいやだろ。幸生とふたりでここに残すのか。幸生とふたりきりじゃやばくないか」
「……幸生とじゃあな。風呂に行くって言ったら、幸生も来たがるよな」
 どうしようか、と本橋さんと乾さんは言い合っていて、ヒデは俺に言った。
「こんな暑い夜だってのに、おまえがトレーニングなんかはじめるからつられちまったじゃないか。乾さんの言う通りだよ。女のひとの前で汗だくは嫌われるぞ」
「じゃあ、先に乾さんと本橋さんが風呂に行って、そのあとでヒデと幸生と俺が行くってのは?」
 女性の前で汗びっしょりはよくない、とは俺の発想外だった。そんなところにまで気づくのは乾さんならではなのだが、言われてみたら俄かに俺も気になってきた。
「さ……八幡さんには言っておきますから、先に素早く行ってきて下さい」
「そうしよう、本橋」
「おう、行くか」
 駆け出していく先輩ふたりの背中に、ヒデが言った。
「帰りは走らないで下さいね、また汗をかきますよ」
 おう、とふたり分の返事が聞こえ、うしろ姿が遠ざかっていくと、ヒデが俺に向き直った。
「な、シゲ?」
 返事をせずに、俺は今度は鉄棒に飛びついた。
「風呂に入るってんだったら、思い切り汗をかこう」
「……シゲ、変だぞぉ」
 なにが? とも問い返さなかったのが、ヒデの疑惑を深めたらしい。
「おい、シゲ……」
 聞こえないよぉ、といったふりをしていたら、幸生の声が耳に届いてきた。たまには幸生も役に立つもので、そのおかげでヒデは口を閉ざした。
「こう暑いとすぐにとけちゃいそうですね。先に食ったら怒られそうだし」
「誰が怒るの?」
「リーダー。横暴なんですよー、リーダーは。やたらぼかすかやるし」
「ぼかすか?」 
 ぷふっと吹き出した早苗さんの気配に、幸生の声がかぶさって、姿も見えてきた。
「うちのリーダーったら、か弱い後輩を暴力で蹂躙するんですよ。被害者はもっぱら俺。シゲさんやヒデさんにはぼかすかなんてやらないな。俺ばっかりぶつの」
「かわいそうにね」
「でしょ? あれれ、リーダーと乾さんは? アイスクリームがとけちゃうぞぉ」
 アイスクリーム、忘れてた。ヒデもすっかり失念していたらしく、慌て声で言った。
「シゲがトレーニングなんかやりはじめるから、俺たちもやってたら汗をかいてしまって、本橋さんと乾さんは銭湯に行ったんだよ。幸生と八幡さんをふたりで残すと危険だから、シゲと俺も残った。アイスクリームとなると本橋さんたちが戻ってくるまでもたないな。シゲ、食おう」
「だな」
 そうなると汗を忘れて、アイスクリームを食べた。早苗さんは呆れ顔で言った。
「私はこんな時間にアイスクリームなんか食べたら太るからいやだって言ってるのに、幸生くんが買っちゃったのよ。六人分、三人で食べてね」
「太るって気にするんですよねぇ、女のひとは。早苗さんはプロポーションいいのにさ」
 幸生までがさらりと褒め言葉を口にし、早苗さんは言った。
「学生時代もそうだったよね。女の子はダイエットダイエットって言ってて、男の子は大食いできてこそ男だ、みたいに言ってて、男って馬鹿だよねぇ、なんて女の子たちは言ってたのよ。男の子から見たら、女の子のほうが馬鹿みたいだった?」
「その美しいプロポーションを維持するためのダイエットだったら、俺にも理解できなくはないですよ。学生時代って男は食ってもあんまり太らない年頃だから、メシを食うために生きてるみたいな奴もいたな。あ、俺はまだ学生なんですけどね。シゲさんもよく食ったでしょ?」
「俺たちもまだ学生だし、今でもシゲはよく食うよ」
「ああ、食うよ。悪いか」
「本庄くんってそんなによく食べる?」
 そうだったかしら、と言いかけたようだが、早苗さんは話題を変えた。
「本橋くんと乾くんはお風呂? あとでもいいのに」
「乾さんは女性の前で無作法なのは耐えられないんですよ。俺も風呂に入りたいなぁ。シゲさん、ヒデさん、なんで早苗さんと俺をふたりきりにすると危険なの? どっちの意味?」
「両方だな」
 澄ましてヒデが答え、俺も思い当たった。不埒者でも出てくると、非力な幸生では対処できないという意味かと考えていたのだが、別の意味もある。俺って信用ないね、と幸生は嘆き、早苗さんはくすくす笑っていた。
「歌だけじゃなくて、身体のトレーニングもやってるんだね。シンガーって体力も大切よね。えらいなぁ、みんな。汗なんか別に気にしなくていいのよ。私は平気。ひとりで帰れるから。っていっても、また乾くんが心配してくれるよね。そんならタクシーに乗るから、そこまで送って、本庄くん」
「はい。じゃあ、そうします。ヒデと幸生は銭湯に行けよ。俺もあとで行くから」
 食べ終わったアイスクリームの包みをひとまとめにしてゴミ箱に放り込んで、俺は早苗さんと歩き出した。うしろで幸生とヒデがこそこそ言っているような気もしたのだが、強いて気に留めないようにつとめていた。
 

2

 さりげなく、早苗さんが口にした。
「私もお風呂に入りたいな」
「……?」
「本庄くん、行こうよ」
「銭湯にですか」
「……銭湯でもいいけど、あそこのほうがよくない?」
 ほそい指の爪には淡いオレンジのマニキュアがほどこされている。その爪が示す場所には、小ぎれいなホテルの看板があった。俺の心臓が跳ね上がり、早苗さんは俺の腕を抱えた。
「本橋くんたちと銭湯で合流する約束だっけ? そんな約束、破ってもいいでしょ?」
 この期に及んでいやだと言えるはずもない。いやではない。だが、ど、ど、ど、どうしたらいいんだー、が正直な気持ちだった。俺はどきつく心臓とためらう気持ちを押し隠してうなずいた。
 結局仲間たちとの約束は反故にしてしまい、それでもようやく、これで早苗さんと俺は本物の恋人同士になれたのかな、と考えていた。早苗さんは優しくてあたたかくて、綺麗だった。そのときの俺には彼女が女神に見えた。冴えない俺にはじめてできた本物の恋人だと信じていた。
「先日は約束を守らなくてすみません」
 その次の練習日に、気まずくはあったのだがみんなに詫びた。風呂の約束なんかどうでもいいったらいいんだけどさ、と乾さんは言い、続いてこう言った。
「シゲ、よかったな」
「は、はぁ? なにがよかったんでしょうか」
「とぼけんなって。いいよいいよ、皮肉ではなく、男同士で銭湯でわいわいやったりするよりも人生には大事なことがあるって、おまえも心と身体で理解したんだろ。よかったよな」
「……ええと……乾さん?」
「いいからさ、さ、練習練習」
 約束を破った以上に気まずいことというのが、人生にはあるんだとも理解した。ヒデと幸生はそこはかとなくにやにやしていて、本橋さんまで変な目つきで俺を見ていたのだが、見られてもいいか、とも思った。早苗さん、ばれてしまったらしいけど、ああなった以上は仕方ないよね、と早苗さんに心で呼びかけ、俺の顔もゆるんできそうなのを引き締めて歌の練習に励んだ。
「あのね、早苗さん」
 けれど、ばれてしまったのは報告しておかないといけないだろう。俺は帰宅してから早苗さんに電話をかけた。
「乾さんって敏いんですよ。幸生もその傾向あるし、ヒデも近いかな。本橋さんはそうでもないんだけど、俺の態度やらなんやらで見抜かれちまったらしいんです。すみません」
「わかって当たり前だよね。いいのよ、気にしないで」
 内緒にしておいてくれたらいいのに、と怒るかもしれないと危惧していた早苗さんは、あっさり受け入れてくれた。それから幾度か、早苗さんと俺はデートを重ね、すこしずつすこしずつ本当の恋人に近づいていっていると……俺はそう信じていた。
 それから何ヶ月かがすぎ、俺にとってはじめての恋人のいる秋を迎えた。秋ってのはわけもなく寂しい季節のような気がしていたけど、恋人がいると寂しくないんだと知った。
 フォレストシンガーズのみんなは作詞や作曲ができる。俺には恋がないからできなかったのかもしれない。恋が訪れた今ならば、作詞はできるのではないかと思い立って、早苗さんと会えない夜には詞を書いた。陳腐な詞しか書けなくても、早苗さんを想って詞を書いている夜も幸せだった。
 これだったらちっとはましかな。乾さんに笑われるかな。幸生やヒデには爆笑されるかな。だけど、客観的な目で見て評価してもらわなくちゃ、と決意して、完成したラヴソングの詞を抱え、その夜、俺はいつもの公園に出向いた。
 練習場所と決まっているところに近づくと、本橋さんが立っているのが見えた。背の高い本橋さんと向き合って立っているのは、本橋さんよりは低いとはいえ、長身の美女だ。早苗さん? 早苗さんがどうしてここに? あの雰囲気は……なんだろう。いくらか離れた位置に立ちすくんでいると、ヒデが小声で俺を呼んだ。
「シゲ、シゲ、こっち来い」
「シゲさん、腹減ってない? まずはコンビニへなにか買いにいきません?」
 幸生とヒデが走り寄ってきて、てんでに俺の腕を引っ張った。
「腹が減っててはいい練習ができませんからね。乾さん、なにが食いたいですか?」
「いいよ、幸生。ヒデもだ。シゲの手を離せ。現実を直視させろ」
 すべり台の陰に乾さんもいて、険しい表情でヒデと幸生を止めた。現実を直視? 意味がわからない。乾さんに言われたヒデと幸生は俺の腕を取るのをやめ、乾さんのほうへ歩いていく。俺も三人に近づいていくと、乾さんが言った。
「あっちの会話、聞こえるだろ」
 耳を澄ませば聞こえる。本橋さんが言っていた。
「……だったらなにかよ、八幡、おまえがシゲとそうなったってのは……」
「本橋くんのせいかもしれないね」
「人のせいにすんな」
「だって、そうじゃないの。大阪で本庄くんと会って、私は考えたの。山田さんから聞いてたから、本庄くんも含めて、本橋くんたちがコーラスグループを結成したって知ってた。本庄くんとあんなところで会ったのは、チャンスもチャンス、大チャンスだって思った。卒業して以来会えなかった本橋くんに会える。だからよ、本庄くんに頼んで、練習を見学に連れてきてもらったのは」
 意味が……よくわからない。わかる気もするけどわからない。俺は呆然と早苗さんの声を聞いていた。
「言ったじゃない、私」
「断ったつもりだったよ、俺は」
「あんなの本気じゃないと思ってた。俺は女とつきあってる暇なんかないんだよ、だったね。どうして? プロを目指すから忙しくて? 練習やアルバイトに忙しいっていったって、女とつきあう時間ぐらいあるでしょ? 私は正式に就職して、あなたたちよりもっと忙しいけど、本庄くんとデートする時間だったら作れる。ホテルに行く時間だって作れる」
「……やめろよな、そういう言い方は」
「どうしてよ? 本橋くんが私の告白をはねつけたのは、私が好みじゃなかったから? そうなんだよね。だからだよね。この前、私がここに来たのはなぜだったのか、いくら鈍感本橋くんだってわかってるんでしょ? なのに逃げた」
「逃げたわけじゃねえよ」
「汗かいたからお風呂? そんなの口実じゃない」
 周囲がしーんとしている。近くに乾さんとヒデと幸生がいるのに、その存在さえが消え失せて、本橋さんと早苗さんの声ばかりが耳に届いていた。
「嫌われてるのか、って思ったら悲しくなって、そしたら……ってなって、半分は自棄みたいなものだったよ。本庄くんはあったかいひとだよね。本橋くんとちがって優しいよ。彼は私に好きだ、って言ってくれた。私も本庄くんを好きになれたらよかったんだけど、自分の気持ちを偽ってつきあうのは無理。本橋くんの本当の気持ちを知りたかったの。私は嫌いなんだね」
「嫌いじゃなかったよ」
「好きでもない?」
「つきあうってほどの気にはなれなかっただけだ。しかし、今は俺はおまえが嫌いだ。本心から嫌いだ。シゲの気持ちを考えろ。そんなこと、思ってても言うな。おまえは俺を女心のわからない奴だと思ってるんだろうけど、おまえはもっとひとの気持ちがわかってないじゃないか。そういうの……そりゃ、あるのかもしれない。だけど、だからって正直に言えばいいってもんじゃないだろ。自分の気持ちが偽れないって言うんだったら、他にどうにでもやりようがあるじゃないか。シゲが来ないうちに帰れ」
 そうか、本橋さんは俺がいないと思ってるんだな。ここにいますよ、と言ったほうがいいんだろうか。いけないのだろうか。俺にはそんなことすらわからなかった。
「そうだよね、こんなふうに言う私を、本橋くんが好きになってくれるはずもない。今夜の私のふるまいも自棄だったのよ。私だって本橋くんなんか嫌い。こっちから告白したってのに、そんな態度の男なんか大嫌い。あんたたちなんかプロになれっこないよ。身の程知らず。あえなく夢破れて傷つけばいいのよ。そんな傷より私の傷のほうがずっとずっと……言ってて虚しいね。言葉って空疎だわ。帰る」
「ああ、帰れ」
「……あんたなんか最低」
「おまえも最低だ」
 言葉は空疎かぁ。詞も空疎なんだな。俺は抱えていたバインダーにはさんであった詞を書いた紙を、ひそかにびりびり破っていた。
「私をふった男なんか、ぼろぼろになっちゃうといい。あんたが傷だらけになった姿を見られるといいな。見たら大笑いしてあげるのに」
「……帰れよ」
「帰ればいいんでしょ」
 こんな時間に女のひとが……とは、今夜の乾さんは言わなかった。かわりに俺が言った。
「早苗さん、傷ついてるんでしょ? 傷心の女性のひとり歩きはよくないんじゃないんですか。そういう心の隙につけこんで、襲ってくる狼だとかなんだとか……」
「シゲ、おまえは人がよすぎるんだよ」
 苛々口調でヒデが言った。
「なにが早苗さんの傷心だ。おまえはどうなんだよ」
「俺は……」
 おのれの心をどうあらわせばいいのかもわからなくて、俺は去っていく早苗さんの背中を見ていた。本橋さんはなにかためらっている様子だったが、早苗さんの姿が見えなくなるとそのあとから歩き出し、幸生が言った。
「本橋さん、こっそり護衛していくつもりですよ。はあ、うちの先輩たちってお人よしだな。俺はそういうところが好きだけど、早苗さんはちょっとばかり……シゲさん、怒っていいよ。俺は早苗さんが許せない」
 珍しくも幸生は、怒った声と顔で言った。
「あれって結果的には、純情なシゲさんをもてあそんだってことになるんじゃん。早苗さんにそんな権利があんのかよ。本橋さんにふられた? ふられるなんて日常茶飯事でしょ。俺なんか二十年しか生きてないのに、短い人生でなんべん女にふられたか。それで自棄を起こすのはわからなくもないけど、その面当てにシゲさん? あんまりだよ」
「幸生、その台詞はシゲに失礼だぞ」
「そうかな、どうして、乾さん? だってシゲさんは……」
「詐欺に遭って金をだまし取られたとかいうよりは、なんぼかいい気がするよ」
「シゲさん……?」
 なにを言い出すんだ、という顔をして、六つの瞳が俺を凝視した。
「そう考えたらさばさばする。減るもんじゃなし、とか言うじゃないか」
「減るって? 盗み取られた心がか」
「ヒデもなかなかロマンティックな表現をするんだな。俺の心は頑丈にできてるんだよ。幸生、心配しなくていい。これしきで俺は参らないぞ」
「……シゲさん……」
「幸生、おまえが泣きそうな顔すんな。ばーか」
 ああ、本橋が戻ってきた、と乾さんが呟いた。
「本心から嫌いになった、とか言っておいて、彼女がタクシーに乗るのを見届けてきたんだろ。あいつはそういう奴だよ。シゲ、おまえがこれからどうするのかは、おまえの考えひとつだ。俺はとやかくは言わない。本橋におまえがなにを言うつもりだったとしても止めない。どうする?」
「聞かなかったふりでいいですか」
「おまえがそうしたいんだったらそうしろ」
「そうします」
 ふいによみがえってきたのは、大学生初の失恋だった。
 リリヤは実のところ、乾さんが好きだったのだろうか。俺がつきあって下さいと言いかけたら、リリヤの兄の将一さんに妨害された。そして将一さんは、本庄よりは乾のほうがいい、と言った。リリヤもそのほうがいいと言い、将一さんは乾さんに尋ねた。おまえには彼女はいるのか? だった。
 あのとき、乾さんは、つきあってる子はいます、と答えた。それが真実だったのか否か、俺は知らない。けれど、乾さんは俺の気持ちを知っていたのだから、そう言ってリリヤを退けたのかもしれない。
 深く考えると頭がこんがらがってくるのだが、いずれにしてもリリヤは乾さんとも俺ともつきあうなんてことにはならず、その後別の男と恋に落ち、学生結婚をしてしまった。いわゆるできちゃった婚ってやつで、俺は完璧失恋とあいなったのだ。妊娠しているリリヤがまぶしくて、結婚してからも大学には来ていたリリヤを、俺はまともに見ることもできなかった。
 あんなのは今となっては笑い話に近いけど、ようやくできたつもりでいた恋人の本心は、ああいうものだった。今度は本橋さんか。俺はあてつけか。深く考えるまでもなく、今回はことの顛末が理解できた。さっきは頭が理解したがらなかったにすぎない。なにもかもわかったんだから、潔く諦めればいいんだ。こんなの、俺は慣れてる。
 戻ってきた本橋さんはなにもなかったような顔をして、おう、シゲ、遅かったな、練習しようぜ、とみんなに声をかけた。俺はつらくないと言ったら嘘になるけど、本橋さんだってつらいんだよな。気持ちはわかりますよ、と肩を叩いてみたい気もしたのだが、やめておいた。
「ほら、夜食を買ってきたぞ」
「お、リーダー、気がきくね」
 買いものに行ってた、って設定にしたらしい。乾さんが笑って応じ、本橋さんの芝居は上手じゃなかったけど、全員で乗っておいた。
 あとの三人も、もちろん俺も、なにごともなかったふうをよそおって歌の練習に熱意を込めた。私を傷つけた本橋くんの夢が破れて、ぼろぼろになった姿を見て大笑いしてあげたい、早苗さんはそう言った。彼女はプライドの高い女なのか。女って誰しもそういうもんか? 俺にはわからない。わからないけど、耳元で早苗さんの最後の言葉がリフレインしていた。
 そう、最後の言葉だ。二度と会いたくはない。俺にだってプライドぐらいはあるさ、とひとりで力んでみて、練習を終えると俺は言った。
「銭湯に行きません? この間は……えと……今日も汗かいたし、風呂に入りたいし」
「まだやってるよな。行こう」
 乾さんが言い、行こうよ、と幸生が賛成した。
「雨がふってきたよ……いいよねぇ、風呂に入るんだから濡れてもいいか。シゲさんもヒデさんも疲れました? これしきで疲れてるとリーダーにどやされますよ。ほらほら、元気出して」
「俺は元気やきに。な、シゲ?」
「もちろん、俺も元気だよ。疲れてなんかいない」
「よし、その意気だ。走ろう」
 駆け出した乾さんのあとから走り出し、乾さんを追い抜いて先頭に立った。雨脚が強まってはきていたけれど、やまない雨はない、俺にだっていつかはぴっかぴっかの晴天の日が訪れる、そう信じて走って、なのに数日は落ち込んでどよよーんとしていたら、乾さんに言われた。
「なにを暗くなってるのか知らないけど、しっかりてめえの気持ちを受け止めて、しっかり自己分析して、立ち直って走り出せ。シゲ、ランニングに行こう」
「乾さん、ひとりでどうぞ」
「……先輩風吹かせてえらそうに……そうか、走ってくるよ」
「俺は先輩風だなんて……乾さんはほんとに先輩なのに……」
「こんなときには本橋みたいに、馬鹿野郎、ぼかっ、ってのがいいのかな。シゲ、ぶん殴ってやろうか」
「えと……やりたいんでしたら……」
「馬鹿野郎、しっかりしろっ!」
 はいっ!! と反射的に答えて立ち上がって、乾さんとふたりで走った。二、三歩遅れて乾さんのあとについていきながら、俺は落ち込みの原因を振り払っていた。知ってるくせに言わなくて、わざと怒鳴りつけて、乾さんは俺の心をぶん殴って活を入れてくれた。
 忘れなくてはいけない。俺の心に降り続いている雨をやませなくてはいけない。やまないんだったら力づくでやませてみせる。乾さんだけではなくてみんなもきっと俺を……立ち直らなくては、でないと走ってはいけないのだから。


 目一杯叫びたかった。誰にでもいいから叫びたかった。
「決まったぞーっ!! デビューできるんだっ!!」
 大学を卒業してやっと一年半。苦節何年というほどの苦労もしていないのに、プロになると決めて歩きはじめてから、たったの二年余りしかたっていないのに、認めてもらった、おまえたちをデビューさせてやると言ってくれる人がいたと聞いて、涙が出て出てどうしようもなかった。
 本橋さんの部屋に美江子さんも含めて六人で集まって、オフィス・ヤマザキという音楽プロダクションの社長が本橋さんに電話をしてきたとの報告を聞き、幸生と章が騒ぎはじめて、俺は涙があふれそうになってきて、どうしていいやらわからなくなって部屋から飛び出した。嬉し泣きなんだから泣いてもいいだろ、とも思うのだが、やっぱり恥ずかしくてみんなの前では号泣できなくて、ひとりになったらよけいに泣けてきた。
 叫びたいけど道行くひともいるのだから、叫ぶわけにもいかない。心の中で叫んで、涙がこぼれるままにまかせた。嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて、嬉しいとしか言えなくて、その反面、寂しさもあった。
 どうしてここにはおまえがいないんだ、ヒデ? 幸生と章のように、俺もおまえと取っ組み合いをしたかった。嬉しさのあまり大騒ぎして、本橋さんと乾さんのように頭を張り飛ばし合って、やめなさいよっ、って美江子さんに怒られたかった。いなくなった奴は切り捨てるしかないとみんなで決めたのだけど、俺はやっぱり……
 叫ぶ相手は誰でもいいけど、声に出しては叫べないんだから心の中で叫ぶしかないけど、できるものならおまえと……ヒデ……なんでおまえはここにいないんだ。
 プロになれるまで、プロになってからも、おまえとはずっといっしょだよな、と口に出しては言わなかったけど、お互いにそう思っていると信じていた。なのにヒデはいない。
 今では章がいるのだから、プロになれたのだから、ヒデのことばかり思い出していてはいけない。だけど、どうしたって思い出す。ヒデはどこにいるのだろう。俺たち、プロになったんだよ、おまえのいないフォレストシンガーズは、ついにプロになれたんだよ、と言いたくて言えなくて。
 アマチュア時代だって楽しかった。いつになったらプロになれるんだろ、とため息をついたりもしたけれど、俺たちがまだ学生だったころは、楽しさのほうが勝っていた。
 Tシャツで顔を拭って、ここまでの道のりを思い出す。
 惨めな失恋が俺にはあったのだが、忘れようと決めて、忘れたつもりになって、秋にも冬にも翌年の春にも、フォレストシンガーズとしての仕事をした。仕事はなくても公園で練習をして、いつだって五人で歌っていた。美江子さんは公園にさしいれを持ってきてくれたりもして、いつもいつでも俺たちを応援してくれた。暗くなっていたら叱咤してくれた。コンテストに失敗して落ち込んだときには、走って走って走った。
 そんなふうに走ったり歌ったりしていたら、俺は時には考えた。プロになれないまんまだったとしても、こうしていられたら楽しいじゃないかと。もしも口にしたら、四人がかりで滅茶苦茶に攻撃されただろうし、こうしてプロになれたら、あんなのは俺が自分をごまかしてたんだよ、としか言えないのだけど。
 本当はやっぱりプロになりたかった。そしてなれた。なれたのにヒデはいない。人の目も耳も気にしないで叫んだら、俺たちはプロになれたぞーっ!! と声の限りに叫んだら、ヒデに届くだろうか。届くんだったら叫びたい。届いたらヒデは喜んでくれるか? よかったな、シゲ、やったな、と言ってくれると、俺は信じていたかった。
 これでもう思い残すことはない、と言っていてはいけないのであって、これからが俺たちの本番だ。ヒデがいてくれたら、とばかり考えている場合ではない。今は章がいて、俺たちは別の形の五人になった。メジャーデビューも決定した。
 オフィス・ヤマザキの社長との面接をすませたら本橋さんが病気になって寝込んでしまい、俺はうろたえたのだが、乾さんと美江子さんがしっかり対処してくれて、本橋さんも元気を取り戻した。これからが本物の勝負だ。プロになっても売れずに消えていくシンガーだっているのだから、なんてことも考えない。俺たちはスターになる。絶対にスターの座に上り詰めるんだ。
「シゲさん、ガッツポーズした?」
 デビューは決まっていても、練習場所は昔の通りに本橋さんのアパート近くの公園だ。今夜も五人で練習をして、幸生と章と三人で帰る道で、幸生が言った。
「してないよ」
「したじゃん。三人で改めてやろうか。章もやる?」
「ガッツポーズ? 下らない」
「下らなくないよ。決意を新たにえいえいおーっ!!」
「うるせえんだよ、おまえの声は」
「おまえもシャウトするとうるさいもんな。だけど、公園でだったらいいじゃん。えいえいおーっでハモろうよ」
「本庄さんとふたりでやれよ。ふたりでも充分にハモれるから」
「章ちゃんってばクールね。嬉しくないの?」
「嬉しいよ」
 それはもちろん、章だってプロになれると決まって嬉しくないはずがない。嬉しくないんだったらやめちまえと言いたい。しかし、章はどことなく他の四人とは距離を置いていると見えなくもなくて、仲間となって一年以上が経過しても、俺には章が理解しがたいのだった。
「じゃあ、俺、帰るよ。本庄さん、お先です」
「帰るったっておんなじ方向……あーあ、行っちゃった。シゲさん、そんなら俺たちは腕でも組んで帰ります? ああん、なにすんのぉ。痛ぁい」
「おかしな作り声を出すな」
「くっつこうよ、寒いんだもん。いや? いやでしょうね。ほら、雪も降ってきた。降らない? こんな季節に雪は降らないけど、ユキちゃんはシゲさんの心に優しく降り積もってさしあげますからね。シゲさん、章はね……」
「知ってるよ」
 残暑の季節に雪が降る道理はない。寒くもないのも当然だが、幸生が章の態度をとりなそうとしているのは、俺にもわかるようになっていた。
「あいつはもとロッカーだ。ロッカーってのは反抗心をバネにして、世間に向かって反逆ののろしを上げるのがポリシーってのか、そういうものなのだとは知ってる」
「ロッカーったってそんな奴ばかりじゃないけど、章はそのタイプかな」
「あいつが大学をやめたのは、ロックをやりたいからだったとも知ってる。合唱部は向かないと本人が思ってるらしいと、教えてくれたのはおまえだった」
「そうだっけ」
「それでもあのころは、もうちょっとこう……」
「十八だったんだもんね。雪深い北海道から単身上京してきた、赤いほっぺのちっちゃな可愛い章ちゃんだった?」
「赤いほっぺなんかしてたか?」
 いいんですけどね、と呟いて、幸生は続けた。
「ちっちゃいのもそのまんまだし、田舎者なのも変わってないんだけど、あいつは素直じゃないんだよね」
「それも知ってる」
「この素直で愛らしいユキちゃんを見習えばいいんだけど、章は変な鎧を着てるから」
 誰が、どこが素直だ、と問い返すと限りなく脱線しそうなので、俺は無言でうなずいた。
「シゲさんは知ってるんだろうけど、章の中にはロックへのこだわりが根強く残ってるんだよ。フォレストシンガーズがデビューできたのは、章ももちろん嬉しいんだよ。でもね、うちはロックバンドじゃないもん。そこなんですよね、章のあのひねくれっぽさは」
「そうなんだろうな」
「もとはロッカーだといったって、あいつの根っこは甘い甘いお菓子みたいなもんなんだから、俺が今後とも努力して崩していきます。まかせといて」
「ああ、まかせるよ」
「俺もロッカーの知り合いなんてそんなにいないけどさ、ロッカーだからばかりじゃないんだよね。あれは性格だよ」
「それもあるんだろうな」
「シゲさんから見たら……だよねぇ。俺もでしょ。章と俺は完璧軟派男」
「おまえはナンパの達人だろ」
 やーね、シゲさんったら、そんなに褒めないで、照れるじゃないのぉ、と女言葉で言っている幸生は放置して、俺はまたまたヒデに話しかけていた。
 章って奴はどこかおまえに似てる。似てはいるけど根本がまったくちがう。人の好き嫌いなんてのはガキじみた感情なのだから、俺は口に出してはそんなことは言わない。章とのつきあいも一年以上たって、あいつの人となりはわかりつつある上で言う。あいつは扱いにくい。好きにはなれない。それでも仲間だ。
「章じゃなくてヒデさんがいたほうが、シゲさんとしては百倍嬉しかった?」
 心を読まれたのかとどきりとして、俺は言った。
「いなくなった奴のことはもういいんだ。幸生、章の前でヒデの話はするなよ」
「してもいいじゃん」
「するな」
「そんなに気を使ってやると章はつけあがるよ」
「つけあがるのはおまえだろ。調子に乗せると舞い上がって空の彼方に飛んでいく、おまえみたいのを風船野郎っていうんじゃないのか」
「力の強いシゲさんが引き戻してくれるからいいの」
「よくないよ」
 うん、でも、そうかもね、と幸生が呟いたのは、俺のどの言葉をさしていたのだろうか。幸生にしても変な奴なのはまちがいないけれど、章よりはよほど……と俺は胸のうちで言った。幸生の言う通りだ。章なんかよりよほどよほどおまえが……ヒデ、でも、おまえはいなくなったんだから、今では章が仲間なのだから、口にはしないまでも、考えるだけでもよくない。二度とこんなふうには考えないでおこうと決心した。
「俺もどうしようもないな」
「シゲさんのどこがどうしようもないって?」
 どこもかしこもだよっ、と言うと、わかっているのかいないのか、幸生はにっこりして、そんなことないよぉ、と言った。ついでに寄り添ってこようとするので振り払ったら、いやんいやーんと身をよじって、世にも気色の悪い微笑を見せてくれた。
 

3

 こうやって乾さんとふたりで歩いていたら、近い将来にはファンのひとというものに声をかけられて、サインして下さい、なんて頼まれたりするんだろうか。想像しようとしても実感が湧かない。フォレストシンガーズがメジャーデビューできると決定して、友人知人はファンになると約束してくれるけど、見知らぬファンかぁ。どんな感じなんだろう。
 ファンのひとってプレゼントをくれたりするんだろうか。花束とか? 乏しい想像力が花に向いたのは、通りがかったのが花屋の店先だったからだろう。乾さんが立ち止まった。
「なあ、シゲ? おまえはチューリップってどれだか知ってるよな」
「あれ、ですか」
 色とりどりの花たちのどれがなんという名前だかわからないが、チューリップはわかる、と思う。チューリップの形としか俺には言えない形をして、すんなり長い茎の花を指さすと、わかるよなぁ、と乾さんは言った。
「季節はずれなんだけど、今ごろでもあるんだな」
「チューリップは夏の花でも秋の花でもありませんよね」
「春の花だよ。おまえが指さしたのは基本形のチューリップだけど、あれも、あれもチューリップだぜ」
「そうなんですか」
 チューリップがどうかしたんですか? と見つめると、乾さんは苦笑いで話してくれた。
「おまえも覚えてるだろ。幸生だよ」
「……幸生、ですか」
 花屋から連想する幸生のエピソードといえば、これだろうか。
 三人ともに大学生だったある日、俺は乾さんと幸生と三人で歩いていた。花屋の前で立ち止まり、幸生は小声で歌を口ずさみはじめた。

「僕の想いが開いて咲いて
 この花になりました
 きみに捧げたい
 ピンクのチューリップ」

 どうですか、これ? と幸生は問いかけ、乾さんは肩をすくめた。
「そりゃなんだ、幼稚園のお遊戯の歌か」
「そう聞こえます? 俺の自作なんだけどな」
「ラヴソングなんだろ? 曲も幼稚だけど、そこんところはまあいいとしても、問題は歌詞だよ。チューリップなんか出すな」
「チューリップってかっこいい花だと思うけどなぁ。女の子は好きでしょ? チューリップの花束をきみに捧げる、って変ですか? 誕生日にはチューリップを忘れない、優しいひとだったみたい、って歌があるじゃないですか」
「オリヴィアを聴きながら? それはカトレアだ」
「そっか、道理で字余りだと思った」
「チューリップってどれだかわかってんのか」
 今と同じにちょうど目の前は花屋だったのだが、幸生が指さしたのは別の花だった。
「あれは牡丹だよ」
「ちがう? そんならあれ?」
「あれは薔薇。あっちはスイートピーだ。あれはミモザ、それはかすみ草、そっちはひまわりだよ。ひまわりにはまだ早い季節なのに、温室育ちだな。おまえ、当てずっぽうに指さしてるだろ? チューリップはあれだ」
「あれかぁ」
 咲いた咲いた、チューリップの花が、ほんとだ、幼稚園だ、と幸生は気楽に笑って乾さんに質問した。
「乾さんはなんで、男のくせにそんなに花に詳しいんですか」
「詳しくない。基本だよ」
 おばあちゃんが華道の師匠だったから、であるらしいとは、俺も今では知っている。乾さんは金沢の名家の息子だとも知っている。ただし、その名家がどういった家なのかはよくは知らない。あのときは俺は乾さんと幸生の横で黙って聞いていて、幸生と花の知識は同じ程度だと思ったものなのだが、その話であろうかと口にしてみると、乾さんは微笑んでいった。
「そうだよ。あれは春だったな。花屋の店先には春の花が咲き誇っていて、春爛漫の華やかさに彩られてたよ」
「はあ」
 それから本橋は、と乾さんが続けた。本橋さんも大学生のころ、乾さんに言いにくそうに切り出したのだそうだ。
「女の子って花が好きだよな」
「彼女に花をあげるのか」
「まあな」
「花屋にはフローリストってのがいるんだ。そういうひとは花についてはエキスパートだから、彼女の誕生日にブーケをあげたいんです、って言ったら教えてくれるよ」
「そんなことを訊けるか」
「なぜ?」
「なぜって……いいからつきあえ」
 訊けないんだってさ、と乾さんは肩をすくめる。本橋さんらしくもなく、なのだろうか、らしいのだろうか。乾さんは本橋さんに花屋に連れていかれ、本橋さんは乾さんがセレクトした花束を彼女に贈ったというわけであるらしい。
「章はな」
 ふふっと笑った。
「俺たちとはちがって、章にはロッカー時代のファンがいるだろ。そういうファンがくれたんだろうな。でっかい花束を抱えて途方に暮れてたんだ」
 どうした、章? と乾さんが声をかけると、章は言った。
「こんなもんもらったって迷惑なだけですよ。俺は入院患者じゃないんだぞ。俺の部屋に花束なんか飾っても似合わない」
「いいじゃないか。殺風景な部屋が華やぐよ」
「花瓶なんか俺んちにはありません」
「買えばいいだろ」
「面倒くさい。乾さん、もらって下さいよ」
「おまえに花をもらってどうするんだよ。だいたいからして迷惑とはなんだ。ファンは大切にしろ」
「ファンったってね、ロックファンだし、今さら……」
「ファンとはいってもグルーピーってやつか?」
「……いいからもらって下さい」
「いらないよ」
 実は俺んちにも花瓶はないんだ、と乾さんは言った。花には詳しくても花を飾る趣味まではないようだ。章は渋々花束を抱えて帰ったらしいが、じきに枯らしてしまったのではないか、と乾さんは言った。
「だけど、乾さんだったら女のひとにしゃあしゃあと花を贈ったりするんでしょ」
「しゃあしゃあととはなんだ。まあ、俺のことはいいんだけど、シゲ、おまえもな……」
 花にまつわる思い出話をしていた乾さんの鼻先に、ちいさなブーケが差し出された。乾さんは目をぱちくりさせ、俺もいささかびっくりして、ブーケを持つ人物の顔を見た。
「泉水……」
「乾さん、お久し振りです」
「泉水ちゃんじゃないか。ほんとに久し振りだね。元気だった?」
 問いかける乾さんに、おかげさまで、と答えた泉水は俺に向き直った。
「いいところで会ったね、シゲ。デビューが決まったって話は聞いたんだ。なにかお祝いしたいなって思って買いものに来たんだよ。そしたらここの店先で、乾さんとシゲが立ち話してるのが見えた。花束なんて男のひとは喜ばないかとも思ったけど、お祝いのプレゼントにはちょうどいいでしょ? シゲが花を持っても似合わないから、乾さんに贈ります」
「ありがとう」
 ちょっと待っててね、とことわって、泉水は別の店に入っていった。ほどなくして出てきた泉水は、抱えていた包みを俺に押しつけた。
「こっちは重いからシゲが持って」
「重くもないけど、これはなんだよ?」
「ないかもしれないから、花束といっしょにプレゼントするよ」
「花瓶かな」
 言った乾さんに、そうでーす、と泉水は微笑んだ。
「お見通しだな。だけど、泉水ちゃんはシゲにプレゼントしたいんじゃないの? 俺がもらうのは筋違いだろ」
「いいえ。シゲにじゃなくて、フォレストシンガーズのみなさんにです。デビューのお祝いなんだもの。乾さんが代表して受け取って下さると嬉しいです。花束なんて乾さんにしか似合わない気もするし」
「俺にも似合うとは思えないけど、ありがとう。するとだな、早く帰って花を花瓶に生けないと。久々の再会を祝して飲みにいこうって誘いたいところなんだけど、ほっとくと花がかわいそうだな。よかったら俺んちに行かない?」
「いいんですか」
「もちろん。シゲも行くだろ」
 ひょんなことからそういうことになって、三人で地下鉄に乗った。


 瀬戸内泉水、泉水と書いて「いずみ」と読む。男名前とまちがえられることもあるらしいが、女である。俺とは同郷で、小学校から中学高校大学とずっといっしょだった。高校時代は合唱部でもいっしょだった。三重県の田舎出身の俺たちは、大学に入学したばかりのころにはふたりでいれば故郷の言葉で話していたのだが、いつしかすべてが東京の色に染まり、帰省した際でもなければ三重弁は使わなくなった。
「ヒデはどうしてるの?」
 酒やつまみを買って乾さんの住まいへ帰り、花瓶に生けた花を飾って落ち着くと、泉水が言い出した。
「ヒデはフォレストシンガーズがデビューするって知ってるのかな」
 知っているのか知らないのか、俺は知らない。あれからのヒデについてはなにも知らない。だから言った。
「知らないんだよ。結婚はしたんだろうけど、式にも招待されなかったし、ヒデがやめちまってからなんの音沙汰もない。乾さんも知りませんよね」
「知らないよ。便りがないのは無事の証拠ともいうけど……」
「どうしてるんでしょうねぇ」
「俺たちが有名になれたら、ヒデのほうから探し当てて会いにきてくれたりしないかな。あいつにはわだかまりがあるんだろうか。本橋ももうなんにも怒ってないのに」
 やめると言い出したヒデに、本橋さんはたいそう立腹していた。ヒデの話は二度とするな、と本橋さんは言ったけれど、今になれぱたまには自ら口にする。乾さんは思慮深いまなざしで言った。
「ひとには事情があるんだって、今になったら俺たちにもわかるよな。あのころは、ったってまだそんなにたっちゃいないけど、ヒデの事情なんか考える余裕もなくて、頭の中が自分たちのことでいっぱいだった。他のなにも考えられなかった。あんなに怒るんじゃなかったな、って、本橋も反省してたよ」
 そうなんですか、と泉水は呟いた。
「じゃあ、乾さん、シゲ、ヒデのためにも早く有名にならなくちゃね」
「そうだね。泉水ちゃんは今はどうしてるの?」
「地味にOLやってます。今は東京にいるんですけど、来年には大阪へ転勤させてもらう予定になってるんです。私、ひとりっ子だし、両親と約束したんですよ、大学を卒業したら故郷に帰るって。東京で就職しちゃったから約束を破ってしまったんだけど、大阪だったら故郷にも近いし、帰りやすくなるし」
 そう言って泉水は微笑んだ。
「乾さんやシゲが有名になったら、どこにいても私のほうからは会えるよね。大阪でライヴをやるってことになったら、絶対に聴きにいきますから」
「そうかぁ、じゃあ……」
 乾さんが泉水と俺を見比べ、寂しくなるな、シゲ、と言った。
「そうですね。だけど、東京と大阪なんか近いもんなんだし、そのうちには俺たち、全国でライヴができるようになるでしょ? いつだって会えるよ、な、泉水?」
「うん、そうだね」
「そうだな。じゃあ、飲もう」
 改めて乾杯しよう、とグラスを上げて、乾さんが言った。
「泉水ちゃんの前途を祝して……」
「乾さんとシゲの将来にも……乾杯」
 昔話なんかしながら、三人でグラスを重ねた。泉水のグラスが空になるピッチがやけに早い。泉水ちゃん、大丈夫? と乾さんに訊かれた泉水は、うん、らいりょうぶ、みたいな返事をして、えへへと笑って乾さんの肩にもたれかかった。
「あれ? 酔った?」
「はーい、泉水、酔っ払ってしまいまひたぁ。乾さん、こうしてていい?」
「俺はいいけどね」
 もしかしてこいつ、乾さんが好きなのか? 酔ったふりして肩に頭を乗せて、告白でもはじめるんじゃないかと俺は泉水を見つめていたのだが、泉水は意外な告白をはじめた。
「シゲ、知らなかったよね。私、ほんのちょっとの間だけだけど、ヒデとつきあってたんだよ」
「……」
「知らなかったのか、シゲ?」
「知りませんよ。乾さんは知ってたんですか」
「知るわけないだろ。おまえも知らないことなのに」
「そうですよね」
 頬をぽっと染めて、泉水は続けた。
「つきあってたっていってもほんとにほんのちょっと。つきあってたと思ってたのは私だけかもしれない。だって、寝てもいないんだもん」
 寝てもいない……生々しい台詞に、乾さんと俺はそろってぎょぎょっとした。
「ヒデったらね、私をなんだと思ってたのか知らないけど、好きな子ができたんだ、だの、つきあうようになったんだ、だの、結婚するつもりなんだ、だの打ち明けるの。そっちはシゲも知ってるでしょ」
「うん、まあな」
「私はヒデの親友のシゲの、そのまた友達、気安くなんでも話せる友達、そうしか見られてなかったんだね。だからヒデと映画を観にいったりしても、そのあとはなーんにもなかったの。馬鹿みたいね」
 私ったらなに言ってんだろ、そう呟いて、泉水は黙ってしまった。こんな告白をされて、俺には返す言葉が見つからない。乾さんも同様であるらしく、しばらく無言でいたのだが、ふと言った。
「寝てる」
「え?」
「泉水ちゃんだよ。寝ちまったぞ。どうしよう?」
「泉水、泉水?」
 揺さぶってみても、うーん、うるさいよぉ、と寝言みたいに言うばかりで、泉水は目を覚まさない。乾さんは複雑な表情で言った。
「どうする? シゲ、泉水ちゃんの住まいは知ってるのか」
「引っ越したって話は聞いてませんけど、前から住んでるアパートだったら知ってます」
「まさか俺んちに泊めるわけにもいかないしな。起きてくれたらいいけど、起きなかったらどうしよう?」
「どうしましょう」
 安らかな寝息が聞こえる。
「アパートを知ってるんだったら、タクシーに乗せて連れて帰るか」
「俺がですか。そうするしかないのかな」
「おまえは送り狼になんかならないよな」
「……乾さん、どういう意味ですかっ」
「怒るなよ」
 女の子に肩にもたれられて、その子が眠ってしまっている状況には乾さんも慣れていないのか、居心地がよくなさそうだ。
「シゲ、煙草取ってくれ。そこの引き出し」
引き出しからパッケージを出すと、乾さんは煙草に火をつけ、泉水にかからないようにして煙を吐き出した。
「俺ももらっていいですか」
「いいけど、おまえも吸うんだっけ?」
「普段は吸いませんけど、吸いたい気分ってのか……」
 ヒデと泉水がつきあっていた、まったく知らなかった。過去の話とはいえ衝撃だった。そのせいでいつもはしないことをしたくなったのだろうか。乾さんは煙草を吹かしている俺を横目で見て言った。
「泉水ちゃんがヒデと……ってのはショックだったんだろ。だから煙草なんか吸いたくなったんだよな。そんな気分のときに彼女を送っていってたら、ついふらふらと気の迷いが生じて、なんてことはさ、男だったらあるかもしれないんだよ。おまえだって男だろ」
「そりゃあそうですけど、俺は泉水を女だと思って見たことは、一度たりともありません」
「そういうもんかね」
「本橋さんと乾さんと美江子さんのように……いや、泉水と俺は幼馴染ですよ。そんなこと、あるわけがない」
「そうだな。そんなら送っていけよ。俺は別に泉水ちゃんもおまえもここに泊まってもかまわないけど、泉水ちゃんが起きたときにどう考えるか、そこらへんが謎だろ。おまえが変な真似をしない自信があるんだったら、それがいちばんだ」
「しません」
 煙草をビールの空き缶に放り込んだ乾さんは、俺に一旦身体を預けた泉水を、立ち上がって抱え上げた。
「そら、おんぶしろ」
「ああ、そうするしかないんですね」
「タクシーを止めてくるよ」
 泉水を背負ってアパートの階段を降り、乾さんが止めたタクシーに彼女を乗せ、俺も乗り込んで泉水の住まいを告げた。引っ越していたらどうしよう? と一瞬思ったのだが、もとの住まいに住んでいることを祈るしかない。それほど泉水と会うのは久し振りだった。
「シゲ……」
 タクシーが動き出すと、泉水が目を開けた。
「なんだ、起きてたのか?」
「ちらっと寝てたんだけど、すぐに眼は覚めた。でも、なんだか恥ずかしいから寝たふりしてたの……聞こえてたよ。シゲは私を女として見たことは、一度たりともないんだって? じゃあ、あれは?」
「あれってなんだよ?」
「ファーストキスの相手は私じゃなかった? 私のファーストキスもシゲだよ」
「あ、あれはだな」
 中学一年になったばかりの春だった。泉水がいきなり言い出したのだ。
「ねぇ、キスってしたことある?」
「そんなもん、ない」
「あたしもない。どんなもんなんかしてみいへん?」
「おまえと?」
「いや?」
「いやとちがうけど……」
 あれはおまえがしようと言ったんじゃないか、おまえも俺もガキだったんだし、ただの好奇心だったんだろ、お互いに、などと言うのは卑怯だろうか。泉水はくすくす笑って言った。
「ま、ええか、タクシー降りてから続きを言うわ」
 なぜか故郷の言葉になって、泉水が言ったあとは沈黙が降りた。続きってなんやろ? と俺の思考も三重弁になり、泉水のアパートの近くでタクシーを降りて、標準語に切り替えた。
「続きって……?」
「シゲ、私ねぇ、この年でまだヴァージンなんだよね」
「……そ、それがどうした」
「それがどうした? そういう反応するわけ?」
「そうじゃないかよ。たまたまそういう相手がまだあらわれてないだけだろ」
「……シゲはどうなの?」
「俺のことはどうでもいい」
「……ふーん、ちがうんだろうね、どう……」
 どう、ってなんだ? どうせもてないくせに、か? むろん俺の惨めな失恋の話などは泉水にはしていない。俺のはじめてのひとは彼女だったのだが、今さら彼女の名前も思い出したくない。
「俺のことはどうでもいいと言ってるだろ。そういうことは、本当にそうしたいと願った相手とするもんだ。自棄だの遊びだのでするものではない」
「シゲらしいね」
 夜空に泉水の笑い声が響いた。
「あー、おかしい。シゲはやっぱりシゲだね。でも、そうかも」
「そうだよ。おまえには愛する男ってのがいなかったわけで、それは今、たまたまいないってだけで、そのうちには出てくるはずで……だからだな」
「わかったよ。わかったから歌おう」
「歌?」
「シゲには長い台詞なんか言うのは無理。頭がこんがらがってきて、自分でなに言ってるのかわからなくなってない?」
「馬鹿にするな。わかってて言ってるんだ」
「そうかなぁ。ま、いいや。私は大学では合唱部には入らなかったけど、今度はいつ会えるかもわからないんだもんね。歌おうよ、高校を卒業するときに謝恩会で歌った歌、覚えてる?」
「この広い野原いっぱい?」
「そうそう、歌おう」
「こんな時間にか?」
「ちっちゃな声で歌おう。ね、手をつないでいい?」
「う、うん」
 今夜のおまえは絶対に変だ、と言いたかったのだが、泉水は俺の手を握って歩き出し、歌い出した。

「この広い野原いっぱい咲く花を
 ひとつ残らずあなたにあげる
 赤いリボンの花束にして」

 はい、どうぞ、と続きを促され、俺も歌った。

「この広い海いっぱい咲く船を
 ひとつ残らずあなたにあげる
 白い帆にイニシァルつけて」

 あんなのをファーストキスと呼ぶのかどうか知らないが、あれは中学一年の春の遠足のときだった。クラスメイトたちとはぐれてしまって、泉水とふたりきり。広い野原に花が咲いていた。みんなどこ行った? 俺らはどこにいてるんや? と泉水に問いかけたら、キスってしたことある? と問い返されて面くらい、ついついつられて……だった。
 あのあと、こうして手をつないで友達を探して歩き、ようやくみんなを発見して、泉水も俺も泣き出しそうになったっけ。泉水が俺と手をつなぎたがったのは、あのころに戻ってみたかったからなのかもしれない。
 
「この広い世界中のなにもかも
 ひとつ残らずあなたにあげる
 だから私に手紙を書いて
 手紙を書いて」

 最後はふたりでコーラスしてから、泉水は言った。
「シゲはいつまでもそんなシゲでいてよね。私だってあんたのことなんか男だと思ったことはないけど、そういう意味じゃなく好きだよ。今夜のシゲ、ますます好きになった」
「……わけがわからん」
「私も言うててわけがわからんわ。手紙、書いてね」
「手紙なぁ……うん、まあ、できたら」
「さっきの歌の最後のフレーズの通りに言うてるのに。書いてよ」
「わかった」
 じゃあね、とつないでいた手をほどき、泉水はアパートに入っていった。シゲ、がんばれよーっ、ビッグなシンガーズになれよーっ、と、泉水は部屋に入る寸前に故郷のアクセントで言い、子どものころのまんまの笑顔を残してドアを閉めた。俺には泉水の声に、ヒデの土佐弁がかぶさって聞こえたような気がした。

   END


 
 


 
 
 
 
 
 
 

 



  
 



 
 
 


 
スポンサーサイト


  • 【小説11(横須賀ストーリィ)】へ
  • 【番外編3(星に願いを)】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

うわ~毎回言ってるけど、これ良かったよ~

ごめんなさい、今まで、ほとんど印象なかったシゲさんの人柄に初めて触れました。
そして、問題の早苗さん、ようやく分かりました。
これぞ、‘女’って感じだけど、あかねさんの描くイヤなやつって、実はそれほどじゃないな~、やっぱり作者さま本人が絶対的な爽やかさを抱いているから、ドロドロし切れないんであろう、と思いました。
早苗さんは早苗さんで、どこか一途なものを持っているんだね。
そして、シゲさんとヒデさんの関係。
これは、ものすごい友情物語ですね。
そこにすでに素晴らしいロマンがあります。
‘友情’の絆とか愛とか、希望、未来、そういう明るいものを清らかな旋律に乗せてこの世界を彩っている。
ぎらつく太陽じゃなくて、きっと夜空にひっそり光を送る華やかな丸い月とか、朝日ののぼる瞬間のような、刹那的であるのに、永遠を信じさせるようなわくわく感を抱かせます。

そして!!!
『怖いわーっ、僕ちゃん、再起不能になっちゃうわーっ、と歌うように言いながら、幸生は外に出ていった。』
これ、超! 幸生くんらしくて和みました(^^)

幸生くんほど才能溢れるムードメーカーはいないわ~

シゲも喜んでおります

fateさん

いつもありがとうございます。
私は全然さわやかではないおばさんですが、悪い奴は書き切れないという自覚はありますね。
本当は書いてみたいですよ。吐き気をもよおすほどにいやな奴。

八幡早苗さんはこのころはまだ可愛いのです。
大人になった彼女もまた出てきますので。
そのころにもまだfateさんが読んで下さっていたら、なんとおっしゃるか楽しみです。

それにしてもfateさんは、やっぱり文章力がおありなんですよねぇ。
今回もそんなふうに言っていただいて、シゲともども、テレテレテレです。

私はfateさんにこんなふうに書いていただくと、もっと書こう!! なんてね、とてもとても励みになっています。

NoTitle

ラストのほうの泉水の、「シゲはやっぱりシゲだね」というセリフ。
この言葉が、胸の中にすとんと落ちてきました。
この一文で、シゲのことをとてもよく、物語っているような。

シゲや他の皆の言葉を通して、ヒデの姿がおぼろげに浮かびあがってきました。
ヒデ、残念だったなー、フォレストシンガーズを抜けちゃって。
でも結婚して、忙しくしているのかな?

それにヒデが抜けなかったら、章くんは加入していなかったかもしれないわけで、それは章くんファンの西幻としては複雑な心持ちです(笑)

話変わって・・・
きゃー、どうしましょう。
おねーさんは、幸生ちゃんともデートしてみたい ^^

ほんと、栗本さんの長編て完結してないのが多いですよね。
新撰組を描いたファンタジーも完結していなかったような・・・
「僕ら~」シリーズ、西幻も好きでした。
石森新くんが好きかなー。

西幻響子さんへ

こんな長ーいのもお読みくださって、いつもありがとうございます。
ほんと、このあたりのは無駄に長いですよね。
どうもすみません(^^

この時期だとヒデは新婚さんで、まだ幸せだったころですね。
このあとは……第一部にもヒデ視点のストーリィがちらほらはありますので、また読んでやって下さいね。

あ、もしかして、人気投票に「やっぱり章くん」とのコメントで投票してくださったの、西幻さんですか?
私は西幻さんのサイトの人気投票で、たしか純平くんに二回、投票したはずです。

みなさまのご感想を読ませていただいて、章は人気がないなと思っていましたので、西幻さんがファンだなんて言って下さると嬉しいです。

嫌われるのもそれだけ注目してもらっている証拠で嬉しいですけど、好いてもらうのはもっと嬉しいですよね。

「響子さん、幸生とも章ともデートしてやって下さいね。
そのあとで俺ともいかがですか?」
と、乾隆也も申しておりますです。

僕ら~シリーズのシンくん、私も好きでした。
プロでもアマチュアでも、男性視点の物語を書く女性が多いのは、やっぱり書いてて楽しいからなのでしょうか。
私もふと気づくと、主人公は男性ってものが多いですものね。
女性を描くと生々しくなるから、ってのもあるのでしょうか?

NoTitle

やっぱり、本編は良いなあ。堪能です。
5人に女の子が絡むと色々あって、それこそ色がつくというか、ややこしいというか、だから面白いんですよ。

デビューきたー。おなじみの公園の練習にも気合が入りますね。
公園で練習とはいえ、素敵な歌声がどこかから流れてくるなんて、それだけでこの公園、有名にならないかなあ。フォレストシンガーズ練習の公園。

まだ会ったことのないファンに会うのって、楽しみでしょうね^^

けいさんへ

本編のほうもお読みいただいて、本当にありがとうございます。
やっぱり彼らは男の子集団ですから、女の子がからんでくると話が広がります。安易に恋愛方面に行かないように注意してるんですけど、全員、基本女好きですから(^^;

そういえば有名人の家族がどこかの地方でお店をやっていたりすると、ファンが行ったりするそうですね。
私の知人もB`Zの稲葉さんの両親が経営している、岡山のなんかのお店……なんだったか忘れましたが、そこに行ってお母さんと写真撮ってもらったー、って喜んでました。

今度はシゲの実家を見学に来るファンとか。
シゲの両親だったら当惑するだろうなぁ。

けいさんが公園のことを書いて下さったので、そこから連想しました。いつかまた書きますね。

NoTitle

若さというのは良いものですね。
・・・というのが率直に出てきますけどね。
ただ、私の場合は物書きですけど、そこまで考えずに愚直に書いていましたからね。結局、人は人ということで、到達しましたが。

LandMさんへ

いつもありがとうこざいます。
ほんと、若さはいいですね。
失ってみてはじめて大切だったと気づくもの、若さってそのひとつですよね。

フォレストシンガーズはデビューしましたが、これからが茨の道です。
これからも見守ってやって下さいね。

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【小説11(横須賀ストーリィ)】へ
  • 【番外編3(星に願いを)】へ