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小説110(海を見ていた午後)

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海カフェ

フォレストシンガーズストーリィ110

「海を見ていた午後」


1

 四人の仲間と俺、五人のメンバーからなるフォレストシンガーズはこの秋、悲願のメジャーデビューを果たした。肌寒さが加わってきた空気が漂う公園のベンチに腰かけて、俺は大学生のころから現在までの時の流れを追想していた。
 二十四歳の本橋真次郎と俺、乾隆也、二十三歳の本庄繁之、二十二歳の三沢幸生と木村章。本橋と俺とは同年のマネージャーの山田美江子も含めて、俺がいっとう最初に出会ったのは、本橋とミエちゃんだった。大学の合唱部の飲み会で、たまたま近くにすわっていたふたりと話して、偶然なのか必然だったのか、俺たちは仲良くなった。一年下のシゲとは彼が入部してきた年の夏に、章の前にメンバーだった小笠原英彦とも、シゲと同時期に親しくなった。
 それから幸生。はじめて話したのは幸生が大学一年生のころだったか。俺は三年生だった。章とは大学時代はほとんど触れ合う機会もなかったのだが、人なつっこい幸生とはほどなく親しくなった。
 幸生とはじめに親しくなったのはシゲで、同時にミエちゃんともヒデとも章とも親しくなったのであるらしい。幸生にはシゲのほうから声をかけたのだそうだが、その話をすると悲しい記憶がよみがえるようで、幸生は詳しく話したがらない。悲しい記憶といえばあれだ。女の子を好きになって告白して、友達でいましょうね、とふられた。それだけならばほろずっぱい失恋の思い出ですむのだろうけれど、幸生の場合は深く悲しい結末にたどりついた。
 合唱部の部室にぽつんといた幸生は、アイちゃんが死んじゃった、と言って泣いた。あの日の俺は幸生を力づけてやれたのだろうか。元気を出せというつもりが空回りしたようにも思えるのだが、ともあれ、その日を境に幸生は本橋や俺とも親しくなった。ヒデのかわりにと幸生が連れてきた章も、今では俺たちのメンバーだ。
 同じ大学、同じ合唱部の仲間たち。章は大学を一年で中退したのでブランクがあるのだが、本橋と知り合ってからだと足掛け七年になる。プロを目ざして歌の道を歩こうと誓い合ってから、この公園では大きな事件にも小さな事件にも遭遇してきた。公園でのみならず、俺たちの身の上をいくつもの事件が通りすぎていったのだ。
 俺たちは今、最初の第一歩を踏み出したにすぎない。不退転の決意を固めてのぞまなければ、いつなんどき足元が崩れるかもわからない。不安定な仕事だ。売れるか売れないかは時の運、だったりもするのだから。
 過去も現在も、ミエちゃんは俺たちを支えてくれている。ボス気質の本橋は、アマチュア時代から我々を引っ張ってきてくれている。頼りになるリーダーではあるのだが、直情径行型なので危なっかしくもある。俺は当初から、俺が彼をしっかり補佐しなくちゃ、と考えていた。
 あとの三人は後輩だ。本橋や俺だって若いのだけど、彼らはさらに若い。シゲはいささか自己を過小評価する傾向があるし、章は万年反抗期少年のようだし、幸生はつかみどころがない。そしたら俺がリーダー補佐役を任ずるのは当然ではないか。でなくてどうして先輩面ができるんだ。
 そうと決めたら冷静にものごとを対処しなければならないのだが、俺はまだまだ未熟者だと痛感してしまうできごとはいくつもあった。二十代半ばなんて未熟者で当然だろ、と開き直ってみたり、しかし、俺は本橋のフォローをしなくてはいけないんだから、率先して怒ってちゃどうしようもないだろ、と反省したりの繰り返しだった。
後輩たちは俺を年のわりには大人だと見ているらしい。どこが大人なんだ。そうふるまっているだけだ。ろくろく苦労もしていない、坊ちゃん育ちの青二才。ろくろく苦労もしていない分は、今後この身に嵐となって振りかかってくるのかもしれない。全身で受け止めて立ち向かう覚悟はできているつもりだけど……
 ささやかではあるが、嵐の予兆はある。社長が紹介してくれたジャパンダックスだ。我々の所属事務所の同僚で、我々と前後してデビューしたロックバンド、章に言わせればあんなのはロックバンドではないらしいが、ロックバンドと名乗っている男女四人組だ。さきほど俺は、彼らと話をした。
「歌を歌ってるだけって楽でいいよなぁ、我々は楽器も演奏しなくちゃいけないんだから大変なんだぜ」
 男女四人の身長がほぼ同じ。女性ふたりはやや長身で、男性ふたりがやや小柄なのだろう。シゲよりもすこし低めの身長の四人のうちでは、いくぶん論理的思考ができると見える、ギタリストのゴンが言った。
「歌なんて誰にでも歌えるもんね。上手下手の差はあるだろうけど、人間なら歌は歌える。楽器はそうはいかないよ」
 なにをいばってんだよ、と思ったのだが口にはしないでいると、ベーシストのルッチも言った。
「フォレストシンガーズなんてだっさい名前だし、あんたらって格好もなにもかもださい」
 ドラマーのターコも言った。
「ルックスもよくないとこの世界は売れないよね。あんたら大丈夫?」
「まあ、そうだろうね。ご心配をおかけして恐縮です」
「なーにへらへらしてんだよ」
 肥満体のキーボード奏者、シブも発言した。ちなみに、シブ、ゴンは姓をもじった愛称なのだそうだ。渋谷、権藤とでもいう姓なのか。女の子たちの愛称の由来は、どうでもいいから尋ねなかったのだが。
「シブもゴンも顔はいいしさ、あたしらも美人だからいいけど、あんたらってぜーんぜんかっこよくないよ。そんなんじゃ売れないよ」
「ルッチさん、きみたちってかっこいいの?」
「かっこいいだろうが」
 自信満々である。彼らのかっこよさの基準はいかに? 彼らの基準にもとづいて彼らがかっこいいのなら、あんたらはかっこ悪いと言われたほうがむしろありがたい。
「自信は大切だね。いいことだよ。俺たちの心配をしてくれてありがとう」
 胸のうちに言いたいことは山積していた。ルッチさんっていわゆるデブ専ってやつ? 女性の趣味もさまざまなんだね、きみから見るとこの男どもはかっこいいのか。シブもゴンも顔はいい? 脂肪に埋もれて顔立ちが見づらいのだけど。顔は章が格段に上だと俺は思うけど、単なる見解の相違か。
 女性が美人かどうかはあまり言いたくないけど、まあ、見ようによってはあなたたちは美人とも呼べる。やせすぎてるけど、モデルタイプと言えなくもないね。今どきの美女は顔よりプロポーションかもしれない。
「あたしが断言してやる。あんたらは売れないよ」
「そうすぐには売れないだろうね。覚悟はしてるよ、ターコさん」
「すぐにもあとにも、いつまでたっても売れないよ。あんたらはださすぎる」
 ださいださいを連発してくれちゃってるけど、彼らにださいと言われてもどうってこともない気がして、俺は言った。
「とにもかくにも、俺たちの心配してくれてありがとう。きみたちも……まあいいよ。じゃあ、そういうことで。今後ともがんばりましょう」 
 のらくらしちゃって、変な奴、変な奴、と聞こえよがしに言っているルッチとターコに微笑みかけてから、俺は事務所の外に出た。外には社長とともにうちのメンバーが待っていて、お待たせ、行こうか、と言った俺に本橋が尋ねた。
「あいつらとなにを話してたんだ?」
「別に……いや、しかし、笑えるな」
「なんの話をしてたんだ」
 こいつらと話すのはおまえにまかせる、と言って出ていってしまったくせに、気がかりだったらしい。俺は胸から笑いが沸いてくるのにまかせて応じた。彼らの言を繰り返していると、ますます笑いがこみ上げてきた。こうこうでね、と話すと、本橋の表情は険悪になり、シゲの眉間には皺が寄り、幸生は呆れ顔をし、章はこぶしを握り締めた。
「よそのグループのルックスの心配してる暇があったら……大人げないけど言いたい」
 一拍置いて言った。
「女の子たちはともかく、そこの男ふたり、てめえらにだけは俺たちの顔や姿について言及されたくねえんだよ」
 うんうん、と全員そろってうなずき、社長は困惑顔をしていた。社長、大丈夫ですよ、俺はどうにかしてちっぽけな嵐をやりすごしてみせますから、と俺は、言葉にはせずに社長に告げたつもりだった。
 昼間にはそんな一件があり、事務所からスタジオに移動して歌の練習をした。練習だって仕事の一環だ。俺たちにもっとも重要なのは「歌」なのだから。俺たちの武器は歌あるのみ。ルックスなんか関係ない。ルックスはミュージシャンにとっての売りにもなるのだろうけど、そんなもので勝負できるほどの外見のよさは持ち合わせていないのだから、気にしないに限る。
 今どきは長身の若者がふえているので、うちではいちばん背の高い本橋にしても、長身の部類に入るといったところだろう。本橋はがっしりした筋肉質のボディをしているが、顔立ちは地味だ。
 彼の身体に章の顔がプラスしたら怖いものなしなのだろうが、世の中そううまくはいかない。本橋は歌の才能は並外れているのだし、天は二物を与えずというではないか。とはいえ、本橋は決して醜貌ではない。荒削りの精悍な顔立ちに魅力を感じる女性はいるはずだから、まあまあいいほうだとしておこう。
 その本橋よりも、俺は数センチ背が低い。男の標準身長よりやや高い程度だ。痩せ型で筋肉不足で、顔立ちもどうってことはないのだから、本橋よりも魅力はないと思える。
 シゲは背丈は並。本橋以上にがっしりしてはいるのだが、老けて見えるタイプかもしれない。謹厳実直質実剛健、今どきの若者としては珍しいタイプであろう。顔立ちは可もなく不可もなく。まったく目立たない。
 ほっそりした少年体型で、身長も標準以下の幸生と章は、体格は似ている。顔立ちは章が我々の中ではピカイチであるのだが、いかんせん骨ばった子供じみた体型をしているので、魅力的とは言いがたいかもしれない。幸生の顔立ちには甘さがあるものの、章と幸生のルックスがファンを呼ぶ……なんてのはあり得ないのではなかろうか。
 スーパーマーケットのバーゲン品なのか? と訊きたくなるような、どこにでもありそうな水色のシャツにジーンズの本橋、これまた本橋と大同小異の薄茶いろのシャツにジーンズのシゲ。このふたりは服装に無頓着すぎる。女じゃねえんだから、服なんかどうだっていいだろ、と本橋は言い、シゲも賛同しているのだが、せめてもうすこしかまえよ、と言いたくなる。そんなことだからださいと言われるのだ。
 一方、年少組はおのれのポリシーに従った服装をしている。幸生は白地に花のプリントのTシャツに黄色いシャツを羽織り、ごく淡いグリーンのコットンパンツだ。少年の面影の残る風貌に似合っている。章のピンクのTシャツの胸ではグラマラスな美女が妖艶なポーズを取っていて、あちこち破れたブリーチジーンズ。ロッカーファッションなのであろうか。章のセンスは独特で、時として奇抜でもあるのだが、似合ってはいる。
 髪型にしても本橋とシゲはおしゃれとは無縁の短髪、幸生はなかなかに凝ったカットのやや長めの髪をしていて、章の髪も幸生に近い。章の場合、耳にはロッカー時代の名残りのピアスが光り、幸生と章はださいとは俺には思えない。女性から見るとださいのかもしれないが、ださいってどういうことだ? と考えると悩むので、深く考えるのはやめておいた。
「俺はださいか?」
 ださいと言われまくったのがしこりになっていたのか、仲間たちをつらつら観察していた俺は、章に尋ねた。
「乾さんがださい? んなわけないでしょ」
 一言のもとに章は言い、俺は安堵した。今日の俺はグレイのシャツに黒のパンツ。カジュアルファッションの仲間たちとはいっぷうちがった服装をしている。髪は肩まで届く長さで、うなじでゆるく束ねていた。
「わかってて訊くんだから。かっこいいと言ってほしいんですか」
 幸生も割り込んできた。
「かっこいいほどじゃないよな、章」
「……そっか? うん、そうだな。まあまあ合格」
「やっぱりな、その程度なんだよな」
 なにやら幸生が章に目配せしていたのだが、まあまあ合格だったらいいとしよう。本橋とシゲには訊いても無駄だ。本橋はおそらく言うだろう。
「服なんかどうでもいいだろ」
 たぶんシゲはこう言う。
「俺は服なんかわかりません。俺に訊かないで下さい」
 そんなこっちゃ「ださい」から抜け出させないぞ、と俺は思うのだが、ファッションに興味がないのか、はなっから投げ出しているのか、服装にはかまわないのが男だと勘違いでもしているのか、本橋とシゲにはとやかく言っても仕方ない。
 ジャパンダックスの言い草なんぞ気にしないでおこう。それにしても、わかってて訊く、と幸生が言ったのはどういう意味だったのだろう。俺はなにをわかっていたのだろうか。俺も本橋やシゲのことは言えない、という意味か。ださいださい、ださいださい、ジャパンダックスの奴らとしては最悪の評価なのだろうか。気にするまいとつとめてもどうしても気になって、俺は悪態をついてみた。
「畜生。ださいなんてのはどうでもいいけど、あんたらは売れない、断言してやるとまで言いやがったな。今に見てろ」
 ひとりごとは虚しく、誰もいない公園の空気にまぎれて消えた。


 ひと雨ごとに秋が深まっていく。そんな季節を楽しむ余裕はなく、たいした仕事もないのに日々忙殺されている。今日もスタジオに出勤だ。歌の練習などなどのために借りているスタジオの控え室のドアノブに手を触れた俺は、奇怪な声に動きを止めた。奇怪も奇怪、この中ではいったいどんな光景が繰り広げられているのか。
 うっ、あっ、そこっ、いい気持ち、そこそこ、ここも、たまんねぇ、気持ちいいよぉ、幸生の声だ。ドアを開けられなくなっていると、俺の肩をためらいがちに叩いたのは章だった。なに? と視線で尋ねている。俺は声をひそめて言った。
「聞いてみろ」
「……幸生?」
 ああ、ああ、そこ、もっと、そこだよ、こっちもお願い、ルリちゃん、上手だね、幸生は言っているのだが、ルリちゃんとやらの声はしない。章が言った。
「あんの野郎、仕事場に女を連れ込んでるのか」
「そうか? にしちゃ異様な雰囲気だぞ」
「……女の声はしませんね。奉仕の真っ最中で声が出せない?」
「なんの奉仕だ? ……おい」
「おいこら、幸生っ!」
 待て、本当に女がいたらどうする? 奉仕していたらどうする? 俺は章を止めようとしたのだが、章が脚でドアを開け、中にいた幸生がやあやあ、と手を上げた。
「乾さん、章、おそろいで」
「……奉仕?」
 奉仕は奉仕でも、幸生に奉仕していたのは……章が唖然呆然のていで声を発した。
「おまえはマッサージ機とまで会話するのか」
「ルリちゃんってそれか」
「そ、メカの中では俺の最愛のルリちゃんでーす。ルリちゃん、乾さんと章だよ。ご挨拶しないの?」
「この馬鹿幸生っ!! やめろ」
 章が叫び、俺も言った。
「幸生、おまえはついに本物のおたくになり果てたか。メカおたくか」
 昔の近未来SF小説にあった。まだパソコンが普及していなかった時代のSFには、コンピュータに名前をつけて擬人化して溺愛するマッドサイエンティスト、なんてのが登場したではないか。幸生はルリちゃんマッサージ機にキスしてから、冗談ですよ、と笑った。
「おたくはリーダーじゃん。俺はおたくじゃないもんね。名前をつけると愛着ひとしお、になるでしょ。だからつけてみたんだけど、メカじゃつまんねえな。おーおー、リーダーもシゲさんもおそろいで。これ、使ってみません? 俺のルリちゃん、マッサージが抜群にうまいんですよ」
「ルリちゃん? マッサージのために作られた機械なんだから、マッサージがうまいのは当たり前じゃないか」
 先刻の異様な会話、幸生の一方的なものではあるのだが、その会話を聞いていなかった本橋は、しごく真面目に反応してルリちゃん、もとい、マッサージ機を受け取った。
「ふむふむ、気持ちいいな」
「歌の練習ばっかりって肩がこりますよね」
「じじいみたいに言うな。歌でなんで肩がこるんだよ」
 シゲもそう言ったものの、マッサージ機を借りて肩に当てている。そこにミエちゃんもやってきた。幸生のためには、あんな会話を女性に聞かれなくてよかった、と言っておいてやろう。ミエちゃんはスケッチブックを携えていて、テーブルに広げた。
「私がデザインしてみたの。いかが?」
「素人の絵だな」
「私は素人だもん」
「にしたら、悪くはないな」
「ステージ衣装?」
 けなしたりほめたりしている本橋の横から覗いてみると、カラーイラストが描かれていた。顔に目鼻はないのだが、体型で誰なのかは一目瞭然の五人の男が、スーツ姿で並んでいる。ご丁寧にマイクまで持っていた。
「もともとの五人は章くんが描いたの。そこに私が服を着せてみました。一度では完成させられないから、章くんの絵を何枚もコピーして、色鉛筆を買ってきて描いたのよ。苦労したんだから」
「ミエちゃん、センスあるね」
「ないと思ってた?」
「ミエちゃん自身の服装はセンスあるけど、こういうセンスまでは知らなかった。本橋、いいじゃないか」
「まあまあだな」
「素直に褒めろ」
 濃いグレイのスーツがシゲで、本橋、乾、幸生、章とグレイにグラデーションがつき、章に至るとシルバーがかったグレイになっている。筋肉のつき具合が減るにつれて、色が薄くなっていくらしい。シャツはモノトーンで、シゲがチェック、本橋はストライプ、俺は白無地、幸生が幾何学模様、章は小花柄。
「乾くんのシャツの素材は光った感じね。絵ではそこまで描けなかったけど、私のイメージではそうなるんだよ」
 ネクタイはシゲが淡いピンク、本橋は淡いオレンジ、俺のはシャツが無地なので柄ものになっていて、白黒のちいさな水玉、幸生が濃いめのブルー、章は濃いめのグリーン、こったデザイン画だった。本橋がスケッチブックを持ち上げて言った。
「ほんとに全部、おまえが描いたのか?」
「そうよ。私の才能を、本橋くんでさえ知らなかったんだね」
「才能ってほどでもないが、悪くはないな」
「いい、と言いなさい」
「いいほどでもない」
 靴の色までが微妙にちがっていて、ポーズもそれぞれにちがう。ポーズは章がつけたのか。シゲは直立不動、本橋がマイクを口元に当てていて、章と幸生はスゥイングしているように見える。俺の右手は顎の横にあり、指で拍子を取っていた。
「章も絵がうまいんだな。こんな勉強したのか」
「してませんよ。美江子さんが上手に仕上げてくれたからでしょ」
「そうかもしれない。本橋、素直に認めろ。ミエちゃんのデザインのセンスは?」
「上々」
「これをもとに服をつくろう」
 賛成、とシゲと幸生も言い、ミエちゃんは満悦の表情でうなずいた。
「そこまで言ってもらえるとは思ってなかったな。本橋くんほどけなすとも思ってなかったけど、いいの?」
「いいですよぉ、美江子さん、俺、負けた」
 幸生が言い、シゲも言った。
「おまえは最初から負けてる」
「シゲさんったら、ひどいわ」
 ふくれっ面をして幸生は言い、俺は改めてデザイン画を見つめた。フォレストシンガーズ初のライヴステージの衣装にぴったりだ。近く我々の所属プロダクション、オフィス・ヤマザキ主催のコンサートが行われる予定になっていて、歌の練習のかたわら、ステージ衣装はどうしようかとみんなで話し合っていたのだ。専門家にまかせるほうが得策なのかもしれないが、章とミエちゃんの共作による衣装もなかなかのものだった。
 オフィス・ヤマザキ所属のミュージシャンたちが全員集合するライヴだ。新米の我々は前座扱いだし、我々の歌が目当てではなく、たとえば我がオフィスナンバーワンスターの杉内ニーナ氏、彼女の歌を聴くついでだったりするのかもしれなくても、そんな方々が我々の歌も聴き、ファンになってくれるかもしれないではないか。
 ジャパンダックスとフォレストシンガーズのコラボ曲だなどという提案を社長がしたものだから、ひと悶着あったのだが、とりあえずその件は解決していた。あとはライヴのための細々した準備をするだけだ。
 そのための準備のひとつ、衣装がやがて完成した。アマチュア時代からステージに立った経験はある。デビューしてからも仕事でそろいの衣装をまとったりはしたものの、今回の衣装にはリキが入っていた。できあがってきたそれぞれの衣装に着替えると、幸生が言った。
「う……身長と体格の差がありあり。章、俺、悲しいよぉ」
「言うな。言わなくてもわかってんだよ。いつもこうじゃないか」
 小柄で少年っぽいところは似ている。中身も似ているのかと最初は思っていたけれど、中身はかなりちがうのだ。コンプレックスを例に挙げてみても、幸生のほうがさらりと口に出す分、根は深くないのだろう。章のほうが屈折しているのか。章のほうがネクラってやつか。性格的には幸生と章は別種……彼らは別人格なのだから当然だろうけど。
「やっぱ乾さんが……」
「うんうん、乾さんは……」
 語尾が聞き取れないのだが、幸生と章がこそこそ言い合っている。俺は本橋とシゲに言った。
「きみたちは男っぽい体型をしてるから、やはりスーツが似合うね。その肩幅、その胸の厚み、俺には望むべくもないよ。うらやましいよ」
「おまえももっと鍛えればいいんだろ」
「そうですよ、乾さん、筋肉は鍛えれば身につきます」
「俺は筋肉のつきにくい体質なんだよ。あのな、おまえら、おまえらはそういう格好をしたらかっこいいんだ。普段からもうちょっと、もうちょっとでいいから服装に頓着しろ」
 そしたらださいと言ったあいつらを、その面だけでも見返してやれるんだ。俺は言外にそう匂わせて言ったのだが、本橋が反論した。
「そりゃあな、ステージ衣装だったらかっこいいのも大切かもしれないけど、普段着までかまってられねえんだよ。俺はかっこよくなんかなくていい」
「……頑固者」
「俺はこんなの着てもかっこよくないでしょ。いいんですけどね……乾さんはかっこいいな。いちばん似合ってるのは乾さんですよ。なぁ、幸生、章?」
「乾さんは中身はかっこいいんだから、外見まで褒めないほうがいいよ、シゲさん」
 幸生が応え、シゲは怪訝そうに俺を見た。
「褒めたらいけないのか。かっこいいものはかっこいいじゃないか」
「幸生、おまえはどうも、俺の服装だのなんだののことになるとややこしい言動を取るんだな。意味がよくわからないよ。はっきり言え」
「……乾さんも自分自身のこととなると、常の勘が冴え渡らないってね。うんうん、喜ばしい傾向ですよ」
 えへへ、と幸生は笑み崩れ、章までが嬉しそうな顔をする。意味深な台詞だとは思うのだが、その台詞に深い部分があるのだとしたら、俺には謎めいて感じられた。


2

 ここ横浜は、少年時代の幸生のナンパの本拠地か。ナンパ……俺も一度やってみようかな、と考えそうになると、幸生の声が空耳になって聞こえてきた。
「やる、乾さん? 乾さんにだってほんとはナンパ経験あるんでしょ? ないなんて絶対に嘘だよ。俺がレクチャーするまでもなく、乾さんだったら上手にナンパはできるよね。お手並み拝見。やってやって。あの子、可愛いじゃん。声をかけてみてよ」
「やらねえよ。やったことねえよ」
 すれちがった小柄で可愛らしい女性が、へっ? とばかりに俺の顔を見上げた。薄気味悪そうにしているのは、俺が声に出して幸生を追い払ったからだろう。俺はバツが悪くなってきたので、咳払いをして目についたカフェに入った。
 カフェには歌が流れている。コーヒーをオーダーして、俺はひとりで歌を聴いていた。

「あなたを思い出す この店に来るたび
 坂を上ってきょうも ひとり来てしまった
 山手のドルフィンは 静かなレストラン
 晴れた午後には 遠く三浦岬もみえる
 ソーダ水の中を 貨物船がとおる
 小さなアワも 恋のように消えていった

 あのとき目の前で 思い切り泣けたら
 今頃二人ここで 海を見ていたはず
 窓にほほをよせて カモメを追いかける
 そんなあなたが 今も見える テーブルごしに
 紙ナプキンには インクがにじむから
 忘れないでって やっと書いた 遠いあの日」

 タイムリーな曲である。俺にも恋人と横浜に遊びにきた想い出がある。この店にも入ったような気がする。あのとき、とは別れを切り出されたときか。男は彼女の前で思い切り泣くなんて真似はできないけれど、俺はどうしていたら、今頃彼女とふたりで、海を見ていられたのだろうか。
 きらっと陽光を反射して海のおもてが輝く。あなたも輝いていますか、と誰にともなく話しかけた。俺の過去の恋人、何人かのひと。
 どこの店だっていい。横浜でなくてもいい。彼女の目の前にはソーダ水があっただろうか。ひとりの休日は俺をセンチメンタルな追憶の世界へと連れていく。俺のコーヒーのおもてには、金沢の喫茶店で、俺のはじめての恋人がソーダ水を前に笑っている姿が浮かんできた。
「乾くん、私が好き?」
「好きだよ、まゆり」
「うん、私も。好きだよ、っていうのは……だけど……」
「愛してるよ、まゆり」
「やだ、きゃ」
 甘美な追憶は、時の風に洗われて、コーヒーの香りとあいまって、芳醇に俺を酔わせる。高校生の少年と少女だった俺たちは、遠い日にこんな会話をしただろうか。
「乾くんなんて嫌い」
「俺はきみが好きだよ、香奈」
 窓に頬を寄せて、海べりの喫茶店でカモメを目で追いかけていたひともいた。あのときは彼女はすねていたのだったか。デートしていて彼女の機嫌が悪くなったのは、俺の不用意なひとことが原因だったのだろう。
「香奈、機嫌を直して。ケーキ、食べる?」
「いらない」
「香奈、そんな顔をすると美人じゃなくなっちゃうよ」
「私は生まれつき美人じゃないもん」
 いっそう怒らせた。俺がうつむくと、香奈は言い募った。
「乾くんなんてね……乾くんなんて、大嫌い」
「そんなことを言わないで。ほら、人が見てるよ。泣かないの。子供じゃないんだろ」
「泣いてないよ……大嫌い」
 口達者で頭のいいひとだったのだが、彼女は怒ると喉が詰まるのか、頭のどこかが詰まるのか、乾くんなんて嫌い、大嫌い、ばかり言って、俺を困らせた。
「優しさなんて優柔不断の代名詞だよ」
「だったらどうすりゃいいんだ」
「ちょっと怒ると声が低くなって、乾くんがセクシーに見える」
「馬鹿にしてるだろ」
「してないよ」
 打って変わって、怒ると口の回転が増して、俺のほうこそ怒りたくなったひと。三人目の恋人は年上のひと、純子。
「怒って。もっと怒って」
「俺だって怒ると……駄目だよ。きみに心底怒るなんてできない。愛してるよ、純子ちゃん」
「そんな態度だと、この次の恋人にもなめられるよ」
「この次の恋人なんて考えられないよ。今は俺の心にはきみだけだ。香奈……」
「香奈って誰?」
「かなかなかな、カナカナ蝉」
「ふーん。この次の恋人じゃなくて……そりゃそうだね」
「いていていてっ。ごめんなさいっ」
 あろうことか、以前の彼女の名を呼んでしまってちくちくちくっとつねられて、俺は降参した。それからも純子は言った。
「寝言言ってたね。香奈、愛してるよーっ、だって」
「言ってないでしょ。そもそも、寝言の責任は起きている俺には取れないんだ。純子ちゃん、ごめんって。暴力はやめましょう」
「仕返ししてごらん」
「やれるわけないだろ」
 ベッドにすわって当惑している俺の膝に乗っかってきて、つねったり叩いたり、甘噛みしたりする純子を抱きしめて、キスしてそして……なんて朝もあった。
 どうも純子はサディスト傾向があったようで、言葉とちょっとした暴力といたずらで、俺を苛めるのを楽しんでいたふしがある。俺だって楽しかった。かつての恋人とのひととき、ひとときは、別れの日が訪れるまではすべてが楽しかった。
 楽しくなんてなかったひともいた。三人目の恋人までは双方が幼かったからか、喧嘩をしても仲直りすれば他愛なく楽しくなったのだが、その後は……思い出すまい。高校時代と大学時代の、ただ楽しかった恋だけを思い出そう。
 フォレストシンガーズとしてデビューしてから、数ヶ月、春になれば俺は二十五歳になる。残り少ない二十四歳の一日の休日に、こうしてひとりで横浜を散策している。フォレストシンガーズの乾隆也という男を知っているひとは、この世界にはほとんどいないのだ。
 いつかは街を歩いていて、乾さん、サインして下さい、などと言われるようになるのだろうか。ファンの方は今でもいなくはないのだろうが、街でそういった方に声をかけられることはない。ステージにしたって単独ではやっていないし、CDも売れない。そうさ、俺たち、無名の悲しいシンガーズ。
 仕事を思うと気分がダークになる。まだまだこれからだ、とメンバーたちは信じているけれど、これからっていつまで続くんだろう。
 休日なんだから、仕事のことは考えずにおこう。歌を職業にしていたって、頭の中は音符だらけってわけではない。幸生じゃあるまいし、女だらけってわけでもないのだが、男は過去も現在も女、女、女、なのだから、恋人だって女なのだから、女が脳裏に浮かぶのは当然なのだ。
 自己弁護してるみたいだな、と苦笑いしながらも、思い出すのは女。過去の恋。現在は恋人と呼べるひとがいないので、過去しかない。
 現在の恋はないのだが、未来にだったらあるだろう。過去ばかり振り返るよりも、未来を想像してみようか。目を閉じれば、隣の席に可愛いひとがいてくれると錯覚できる。あなたは誰? 名前もつけてみようかな。このカフェの店名は女性の名前にはならないだろうから、冬の花は? 梅?
 梅子ちゃん、おばあさんみたいだ。小梅ちゃんはどうだろう。古風でゆかしい小柄なひと。俺は女性の外見にはこだわらないつもりでいるが、趣味からすれば小柄なひとがいい。小梅と命名した架空の恋人と、俺は脳裏で会話をかわした。
「梅ってまだ咲いてないでしょう?」
「いいじゃないか。きみには似合う名前だよ。小梅ちゃん」
「私はあなたをなんと呼べばいいの?」
「隆也さん」
「はい、隆也さん。お砂糖、いくつ入れる?」
「俺は甘いのは嫌いだって言っただろ。コーヒーもブラックだよ。覚えておきなさいね」
「はーい。じゃあ、ケーキは食べたらいけないの?」
「きみが食べるのを見てるのは好きだよ。だけどね、ウェイトレスは邪魔だから呼ばない」
「ケーキ、食べたい」
「ここを出て横浜の街を歩いて、海の見えるレストランで夕食にしよう。そのときにデザートが出てくるだろ。一日に二度もケーキを食うなんて、健康によくないよ」
「太るから? 隆也さんったら、私は太ってるって思ってる?」
「太ってないよ。ちょっぴりぽっちゃりしてるのが可愛いんだから」
「ぽっちゃりなんて言ったらいや」
「すねないの。女の子がすねると男は困るんだ。楽しい時間をすねて無駄にしないで。いいね、小梅? 返事をしなさい」
「……隆也さん、はい、ごめんなさい」
「うん、いい子だ。もっとこっちにおいで」
 年齢設定はいくつだろう? 未来の俺はいくつだ? 細かいところはいい。空想の中でくらい、多少いばっていてもいいではないか。
「隆也さんに叱られるとね、小梅、涙が出ちゃうの」
「叱ってないよ。いい子だ、小梅はいい子」
「うん、隆也さん……呼び捨てにされるととろんってなっちゃう」
「そう? 小梅はサドじゃないよね? マゾっけあるの?」
「いやん。変なことを言わないで」
「ごめんね。俺もマゾのほうだろうから、マゾ同士じゃ……やめよう」
「隆也さんってマゾなの? これ、気持ちいい?」
「こら、やめろ。やめろ。痛いだろ。ひっかくんじゃない。やめろと言ってるのにやめないと、ホテルに行ったら……どうしてやろうかな」
「いやーん。いやいや。いや。ごめんなさい」
「嘘だよ。泣かないの」
 女の子が誰かに似て……くそっ、おまえは出てくるなっ、と怒鳴りつけそうになって、空想の中の小梅がびくっとした。
「隆也さん、怖い」
「きみは臆病な小鳥ちゃんみたいだね。小鳥っていうとさ……俺は怒ってないんだよ。女の子の芝居をしたがる奴がいて、ちょっかい出しに出てくるから追っ払ったんだ」
「幸生さん?」
「きみはもちろん知ってるよね。そうだ、きみには報告してなかったかな。フォレストシンガーズの全米ライヴツアーが決定したんだ」
「ほんと? おめでとう」
「ありがとう。きみも一緒に行く?」
「いいの?」
「外国人のミュージシャンがライヴのために来日したら、恋人を連れてくるじゃないか。日本人はあまりしないみたいだけど、フォレストシンガーズが前例を作るよ。みんなも連れてくるといいんだ」
「本橋さんもシゲさんも、幸生さんも章さんも?」
「ミエちゃんも彼氏を連れてくるといいんだよ」
「マネージャーさんはそうは行かなくない?」
「そうなのかな。ま、仕事の話はいいか。ここまでにしよう。甘い甘い会話をしようね」
「して。私の全身をとろけさせて」
「小梅の全身とまでは……人の耳が気になるよ」
「人なんか気にしなくていいでしょ。してしてして。してくれないとひっかくから」
「猫みたいなひとだね。俺は幸生ほどは猫好きでもないんだけど……ってさ、幸生は話題にしたくないんだよ」
「隆也さんがしてるんでしょ。ふーんだ、嫌い」
「嫌わないで。俺も泣くよ」
「泣く男なんて大嫌い」
「ごめん……」
「あやまってばかりいる男も嫌い。すねるな、って叱ってくれたらいいのよ」
「叱ってほしいの? 俺は説教は得意なんだけどね。じゃあ、すねてごらん」
「すねてるもん」
「そうなんだな。では、行くぞ。小梅、いい加減にしろよ。俺をなめてかかると……よし、おいで。ホテルに連れていってみっちりしっかりと……」
「きゃああ、ごめんなさい。すねないからぁ」
「おや、もうそうなるの? よしよし、可愛いね、おまえは可愛いよ」
「おまえ……素敵。隆也さん、ホテルに連れていって。抱いて」
「俺だって我慢できなくなってきたよ。行こう。おいで」
「はい、あなたとだったらどこにだって……」
「小梅、結婚しよう」
「はい、隆也さん」
「泣くのはあとでね。ホテルでふたりっきりになってからだったら、いくら泣いてもいいよ。ホテルで改めてプロポーズするから。そうだ、ちょっと待ってて……プロポーズのブーケを買ってくる」
「そんなのいらない。隆也さんの言葉と心がほしいの」
「……小梅、愛してるよ」
「私も。隆也さん、どこまでもついていくわ」
「ああ、ついておいで」
 とんとんとんと小さな音が聞こえて、俺は目を開けた。その音は、カフェのウェイターくんがテーブルを叩いている指が発していた。
「お客さん、寝てるんですか。気分でも悪いんですか」
「寝てません。考え事をしていました」
「そうですか。寝言を言ってるように聞こえましたよ」
「俺、なにか言ってました?」
「むにゃむにゃと……薄気味が悪くて……」
「すみません。おとなしくしますから。出たほうがいいですか」
「いいんですけどね。混んでるんでもないし」
 客は俺以外には数人だ。寝言もはっきりとは言っていなかったようだからいいだろう。ウェイターくんにコーヒーのおかわりを頼み、俺はすわり心地のよい椅子の背にもたれた。
 おまえの妄想はとめどもない、と本橋にはたびたび言われるのだが、会話妄想なんてやつは俺のもっとも得意とするところなのだから、際限もなく続いていく。ウェイターくんに止められてよかったのだろう。
 ついていくわ、ついておいで。妄想会話のラスト部分。今どきの女性は、ついていくわ、とは言ってくれないだろうが、ついていくだのついておいでだのではなく、手を取り合って歩いていこうと、いつかは俺にも言える相手ができるだろうか。
「言い直すよ、小梅だか誰だか、俺の未来のひと。愛しているよ、結婚しよう。ともに歩いていこうね」
 声には出さないように言って、俺は妄想をそこでおしまいにした。


 カフェを出て港の見える公園に来ると、猫がいた。幸生、おまえはまた出てきたな、と考えそうになったのだが、本物の猫であって幸生ではない。人懐っこいところも幸生に似た猫は、俺の足元にすり寄ってきた。
「腹が減ってるのか? 野良くん? 女の子か? 幸生には猫の性別がわかるそうだけど、俺にはわからないな。大人なのかどうかもわからないけど、若そうだね。俺の彼女代理してくれる? 女の子だと決めよう。男の猫はいらない。そうだよな、幸生、おまえの台詞が腑に落ちた。猫でも女の子がいいよ。よしよし、おいで」
 野良はこうも人懐っこくないはずだが、人慣れした猫なのだろうか。首輪もリボンもつけていない、白黒ブチのホルスタインみたいな毛皮をまとった猫を抱き上げ、出店でホットドッグを買った。抱いてみたら、オスではないと確認できた。
「猫にドッグ……犬の肉じゃないよな。腹が減ってるんだったら食うだろ」
 与えてみたら、猫はソーセージに食いついた。
「女の子は上品に食べなさいね。猫に言っても無駄か。猫のくせに、おまえ、猫舌じゃないのか? 熱いだろ? ゆっくり食えよ。喉が詰まるぞ」
 ひとりごとを口にすると、薄気味悪いと言われるが、猫に話しかけている分には気味悪がられないだろう。周囲にいる人々は微笑ましげに見てくれていた。
「彼女代理に……っと、ここは口にしたらいけないな。なんたっておまえは猫なんだから、この口調でいいだろ。おまえの名前は? 名前がないと呼びかけづらいんだ。ホルスタインのホル、ブチ、女の子らしくない。小梅にしよう」
 白地に黒い梅の花の毛皮、四肢の裏の肉球も梅にたとえられる。架空の未来の彼女ではなく、俺は猫の小梅に話しかけた。
「食ったか? うまかったか? 俺はパンを食うよ。ソーセージのないホットドッグも乙だね。幸生に怒られるかな。猫にソーセージを食わせると、塩分過剰摂取になるってさ……ま、いいか。内緒にしておこう。あったかいな、小梅。こうして抱いてるおまえが、人間の女の子だったらいいのにな……おっと、黙れ、隆也」
 口にしていいことと悪いことのわきまえが必要だ。ひとりでうなずいてから、俺は言った。
「小梅、海が見えるよ。あの海にはおまえの大好物の魚が泳いでるんだ。金沢の魚もうまいんだぞ。おまえに食わせてやりたいよ。返事しろよ、小梅」
「にゃご」
「おー、返事してくれたか。ありがとう」
「にゃごっ」
「なんだか人っぽい猫語だな。おまえの口から出ているのではないような……幸生がいるんじゃないだろうな」
 振り向くと、さきほどのカフェにいたウェイターくんだった。
「あの、俺、忘れものでもしました?」
「そうじゃなくて、俺はバイトが終わったんで、こっちに来たらお客さんがいるのが見えたから」
 言われてみれば服装が変わっている。彼は俺がかけているベンチの隣にすわり、言った。
「話してもいい?」
「いいよ」
「今はお客さんじゃないから、敬語じゃなくていいでしょ? 敬語って苦手なんだ」
「もちろん、いいよ。俺もこう喋る。俺は乾、二十四歳。きみは?」
「カズヤ、二十歳。あのカフェでバイトしてる大学生。乾さんは?」
「歌手なんだけどね」
「へええ」
 むろん彼は俺を知らず、興味もないのだろう。売れない歌手、無名の歌手はこの世に大勢いるのだから、横浜の若者には珍しくもないのか。突っ込んだ質問はせず、カズヤくんは言った。
「俺さ、猫って嫌いなんだ。そいつは乾さんの猫じゃないだろ。どっかにやってくれない?」
「抱いてみないか」
「えーっ!! やだよっ!!」
「俺の友達に狂がつくほどの猫好きがいて、そいつは周囲の人々を全員、猫好きにしたいって野望を持ってるらしいんだ。そいつのちょっとした策略にはまって、猫好きになった女性がいるよ。彼女も猫は見るのもいやだってほどだったんだけど、今では好きになったそうだ。きみも小梅を可愛がってやってくれよ」
「いやだ」
「そうなのか。近づけたら駄目?」
「近づけないで。やだって言ってんだろっ!!」
 ほんのすこし近づけると、カズヤくんは大げさに悲鳴を上げて小梅を振り払った。猫はびゅんっと空を飛び、一回転して地面に着地して逃げていった。
「……ごめん。あいつも腹はくちくなっただろうし、猫なんだから怪我もしないよな」
「俺さ、ガキも嫌いでね、高校のときの友達にヤンパパになってる奴がいて、そいつが俺に赤ん坊を抱かせようとするから、軽く振り払ったんだよ。そしたらガキがぎゃあぎゃあ泣いて、友達に絶交されちまった」
「当然だろ。人間の赤ん坊に乱暴するな」
「なんであんたが怒るの? やってるよ」
「なにを?」
「あいつら、中学生かな。赤ん坊だろ、あれ」
 見ると、ベビーカーがある。親や祖父母といった人物の姿はなく、中学生らしき少女たちがベビーカーを取り囲んでいた。あやしているといった雰囲気ではなく、ベビーカーの中にいるはずの赤ん坊を苛めているように見えた。
「俺がそれを思い出したのは、猫のせいとあいつらのせいなんだけど……乾さん、どうするの?」
「注意してくるよ」
「女だっていったって、中学生のガキは怖いぜ。逆切れされたらどうすんの?」
「人通りも多いのに、なんにもされないよ」
「乾さん、弱っちそうだし、あっちは三人いるし、喧嘩を売られたら負けるよ」
「中学生の女の子たちと喧嘩はしない。きみは助太刀してくれる気はないのか」
「やだ。女は怖いもん」
 ならばひとりで行くまでだ。俺はベビーカーに歩み寄り、女子中学生たちがなにをしているのか確認した。ブスガキ、きったない、よだれー、ばっちぃ、という声が聞こえ、赤ん坊の泣き声も聞こえてきた。
 さらに歩み寄ると、ひとりの女の子が棒っきれで赤ん坊をつついている。俺は彼女に近づいて、棒を取り上げた。
「赤ん坊になんて真似をするんだ。きみらのうちの誰かの妹なのか」
「知らないガキだよ。大人が誰もいないの」
「こんなところにベビーカーをほったらかしていく親って信じられない。誘拐してやろうかって言ってたんだ」
「親にしろ保護者にしろ、こんなところにベビーカーを置き去りにするのはたしかによくないね。だけど、そうやって泣いてる赤ちゃんを苛めるきみらもよくないだろ。やめなさい」
「なんなんだよ、あんた」
「あんた、誰? どっかの先生?」
「このガキ、泣いてなかったよ。あたしらがつついたから泣いたの」
「もっと泣かせてやろうかなって。面白いじゃん」
「……きみたちもいずれは母となるかもしれないんだろ。嘆かわしいね。泣いてる赤ちゃんをあやすんじゃなくて、きみたちが泣かせた?」
 言うと、一斉に大爆笑した。笑いながらのひとりの女の子が俺にカバンをぶつけようとする。俺はその攻撃を避けて言った。
「やめなさいと言ってるだろ。言うことを聞かないと……」
「どうすんのさ?」
「やってみな」
「かかっておいでよ」
 冬だというのに短いスカートを穿いて、その裾をちらちらさせて俺を悩殺しようとでもしているのか。男の子たちなのならばことと場合によっては殴りつけてもいいのだが、女の子だとそうも行かない。どうしようかと考えていると、別の女性が走ってきた。
「あんたら、うちの子になにすんだよっ!! 中学生? 女の子たちはともかく、あんた。あんた、何者? この子たちを使ってる少女売春の元締め?」
「あのね、あの、そこまで飛躍しないでくれませんか。あなたはこの赤ちゃんのお母さんですか」
「そうだよ。こら、そこのガキども、とっとと行け」
 俺はまったく怖がられてもいなかったようだが、この母は怖いのだろう。いーっだ、べーっだ、とやってから少女たちは散っていき、ヤンママとはこれか、といった風情の若い母は言った。
「ケータイがこわれちゃてさ、電話できなくなったんで、公衆電話を探してたの。ベビーカーを押してると身軽に動けないから、ちょっとここに置いてむこうの公衆電話に行ってたんだ」
「事情はわかりました。しかし、危険ですよ」
「だから、すぐに戻ってきたじゃん。あんた、うちの子を連れていこうとしてたんじゃないんだろうね」
「誓ってそのようなことはしません。赤ちゃんが泣いてますよ」
「そだね。うるさいんだよね。ああ、よちよち」
 うるさいとは言ったが、彼女は赤ちゃんを抱き上げて、優しい母の表情になった。今さら告げ口をする必要もないだろうと判断して、俺は彼女のそばから立ち去った。ベンチのところに戻ると、カズヤくんが尋ねた。
「なにやってたの?」
「カズヤくん、まだいたのか」
「いたよ。俺、暇なんだもん」
「俺も今日は暇だよ」
 特にはなにもしていないので言わないでいると、カズヤくんも追求はせず、別の話をした。
「俺さ……ふられたんだよ」
「彼女にか……そうか」
「だから暇なんだよ。だから、だから、あんたなんかと……ひとりぼっちだよぉ」
「おい、こら、泣くな」
「泣くよぉーっ!!」
 カフェで過去と未来の恋を思っていた時間は、それなりに楽しかった。架空の小梅とも猫の小梅とも、触れ合いは楽しかった。だが、そのあとはなぜこうなるのだろう。
 嘆かわしい中学生女子たち。いささかは嘆かわしい、赤ん坊入りのベビーカーを置き去りにしていく若い母。彼女は俺を少女売春の元締め、あるいは誘拐犯のように言った。少女たちや若い母と話していたときには、道行く人々の注視も浴びた。にも関わらず、誰ひとりとして口を添えてはくれなかった。
 少女や女性との一件はすんだのだからいいとしても、午後が終わりかけている夕刻の時間には、かたわらで泣いている二十歳の男。こいつもかなり嘆かわしい。
 失恋したんだったら泣くのは無理もないけれど、自宅に帰ってから泣け、と言いたい。どうしても泣きたいときには、男はひとりで泣くものだ。人生男は三回泣く、という、祖母が教えてくれた歌があるのを思い出した。
「生まれたとき、親が死んだとき……なんだったかな、あとは? 主君か。現代では真の友が死んだときとも言うんだよな。俺だってそんなときには泣くよ。本橋やあいつらが死んだら泣くよ。赤ん坊のときは例外として、大人の男は……一生に三回しか泣くなとは言わないけど、人前で泣くな。カズヤ、泣き止んで帰れ」
 返事は泣き声。どうしようもない。
「泣き顔してバスか電車に乗ると、人に見られるぞ。恥ずかしいだろ。号泣するな。ひとりでさめざめと涙を流せ。男の美学だ、それが。うう……俺は帰るぞっ」
 勝手に、勝手に帰れ、とカズヤくんが嗚咽の合間に言っている。放っておいてほしいのか。かまってほしくないのかもしれないので、俺は立ち上がった。
 遠くのほうで外国人観光客に、なにやら食いものをもらっている小梅が見える。あいつは俺の彼女代理ではなく、食欲を満たしてくれる人間だったら誰でもいいのだろう。猫なんてそんなものさ。な、幸生?
 が、カズヤくんから離れて海を見ていたら、足元に小梅が身をすり寄せてきた。俺は細身で小柄な猫を抱き上げつつ振り向いた。カズヤくんはまだ泣いていて、人々が彼を一瞥しては、足早に通りすぎていく。
 小梅を抱いて、俺は海を見ていた。「海を見ていた午後」の歌を小さく口ずさんでから、カズヤ、元気出せよ、と呟いた俺を、猫の小梅は深遠なる哲学をたたえていそうな、深い海の青の色の瞳で見ていた。
 
END
 
 




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