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小説108(青い鳥)

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フォレストシンガーズストーリィ108

「青い鳥」



 時としてシゲさんが言う。今日も言っている。なにが原因で言っているのかは知らないが、誰かに向かって言っていた。
「俺は頭が悪いから……」
 耳を澄ましてみても相手の声は聞こえないので、電話であるらしい。スタジオの電話で話しているのだろう。なおも耳を澄ましていると、シゲさんは言っていた。
「頭が悪いんですよ。ですから、あなたのおっしゃることは理解できません」
 なんなんだろ? と思ったのだが、立ち聞きはよくないのでその場から立ち去り、俺は考えた。
 シゲさんは頭は悪くない。頭が悪かったら、ぼそっと言うきっつい台詞は出てこないはずだ。俺がフォレストシンガーズに参加してから三年ほどの間に、シゲさんに言われた酷な、無情な、俺をノックアウトしてしまいそうな台詞を思い出した。
「おまえは明らかに自分よりも弱い相手にしか、強く出られないんだろ」
「おまえは都合が悪くなったら熱を出すんだな」
「顔のいい男はもてるよな」
「届かないのか? ここに? 背伸びしても? へええ……いや、悪い、そうだったな。取ろうか」
 最後の台詞は無邪気なものではあるが、俺の胸には突き刺さった。
 本庄繁之という男は、たまには幸生や俺を投げ飛ばしたり、布団でぐるぐる巻きにしたりはするものの、基本、暴力はまず振るわない。そこらへんは本橋さんとはちがう。
 常にきびしい台詞を口にするわけでもない。そこらへんは乾さんとはちがう。
 ふざけたり、冗談を言ったりもあまりしなくて、たいていは真面目だ。性格的に堅い。そこらへんは幸生とはまるっきり、全然ちがう。
 気は弱くはない。言わなくてはならないことはきちんと言う。そこらへんは俺ともまるでちがう。力もたいそう強くて、俺とはほんとにほんとにちがう。声も低くて俺とは……って、声までは関係ないのだった。
 そのかわり、シゲさんは時おり、ものすっごくきつい台詞で俺のハートに大怪我をさせるのだ。頭の悪い奴はきつい台詞なんてのを思いつかないはずだから、シゲさんは頭は悪くない。いや、もしかしたら、あれってシゲさんの発作なのだろうか。頭が考え出す台詞ではなく、シゲさんの胸の中に棲む悪意という名の悪魔が言わせるのか。
 だとしたら、頭の問題ではないのか?
 深く突き詰めると頭がパニックになるので、そのへんでシゲさんについて考えるのはやめて、俺はスタジオから出ていった。
 ただいま、昼休みである。先刻まではスタジオで歌の練習をしていたのだが、休憩しようとなって、他のメンバーたちは昼食に出かけた。俺も誘われたのだが、腹をこわしてるから絶食してるんだと言って、スタジオに残っていた。
 腹具合がよくないのは本当なのだが、絶食するほどではない。ただなんとなく、みんなと昼メシになんか行きたくなかっただけだ。
 電話で誰かと密談がしたくて、シゲさんも残っていたのか。本橋さんと乾さんと幸生は昼メシを食いながらいつもの馬鹿話か。幸生が中心になって下らない話をし、乾さんがその話をまぜこぜにし、本橋さんが呆れている。そんな光景が目に浮かぶ。
 くっだらねぇ、と呟くと食欲がなくなってきたので俺はスタジオ近くの公園に来て、池の見えるベンチにすわった。
 フォレストシンガーズがデビューしてから二年ばかりがすぎ、先ごろファーストワンマンライヴもやったのだが、売れているとはとうてい言えない。俺の心にはロックと……忘れられない女の面影が居座っている。
 大学を一年で中退し、ロックバンドを結成し、ロックバンドを解散し、夢に敗れてずたぼろになっていた俺の前にあらわれた女。俺は彼女を愛していた。
 彼女とつきあっていたころに、幸生と再会してフォレストシンガーズに加わり、メジャーデビューは果たした。が、フォレストシンガーズがデビューする前に、俺は彼女に捨てられた。俺たち、デビューしたんだよ、と大喜びで教えてやって、抱き合える相手がいなくなった。
「章、よかったね。おめでとう」
「うん。スー、俺、これからはおまえを幸せにしてやるよ」
 そんなふうに言いたかった。
 そりゃあ俺だって、メジャーデビューが決まったときには飛び上がるほど嬉しかった。なのに、だんだん嬉しさが減っていったのは、スーを思い出したからなのだろうか。
 売れてもいない現状を考えれば、スーがいなくなったってかまわないじゃないか。売れもせず、仕事もたいしてなく、テレビに出るとなるとバラエティ番組で、そのくせ、ドサ回りみたいな地方巡業で家を留守にする。そんな暮らしでは、スーを幸せになんてしてやれない。
 いつの話だよ、スーがいなくなったのは。いつの話だよ、俺たちがデビューしたのは。そんなの、遠い遠い遠い昔じゃないか。
 強いてそう考えて、スーなんか忘れて新しい恋をしよう、と決意する。ロックは忘れられないけど、ロックは趣味として、俺はフォレストシンガーズの甘ったるい歌を歌う。仕事なんだから、とも決意する。
 なのに、こうしてひとりでいると、昔の思い出やら後悔やらに苛まれて、俺はひたすらに暗くなるのだ。
 幸生たちと昼メシに行けばよかったな。そしたら、俺も下らない話の仲間入りをして、ひとときだったら笑っていられるのに。なんだって今日はこんなに俺の気分は暗いんだろ。鬱期なのだろうか。俺って躁鬱病か。病気ではなく、躁鬱気質か。
 くよくよしていると果てしなく気分がダウンするので、仲間たちについて考えることにした。シゲさんのあのきっつい台詞は、についてはすんだので、続いてリーダーだ。
 本橋真次郎。情熱過剰男。古い言いようをすれば瞬間湯沸かし器。幸生や俺の頭をぼかすか殴るのには慣れたし、乾さんみたいにねちねち説教するよりは潔いとも思うのだが、俺の頭はこわれたテレビじゃないんだから、気安く殴るな、殴られたって俺の馬鹿は治らねえんだよ、と言いたい。
「章、その歌詞……それでいいのか?」
「あ、まちがえた。すみません」
「ライヴでは気をつけろ」
 一度目はそれですみ、二度目はぼかっ。ライヴなんてそうそうありゃしないのにさ、とも言えず、俺はふてくされる。おまえはガキか、女か、すねてるんだったら出ていけ、と怒鳴られて……あいかわらず俺はリーダーに怒られてばっかりだ。リーダーだけではなく、あいつにも。
 順番からすると、次は乾さんか。しかし、乾さんはいらない。あいつは除外。腹が立つので考えたくない。だって、昨日だってさ……
「章、ちょっと」
 指で招く乾さんに呼ばれて、スタジオの裏手に行くと、背の高い乾さんに見下ろされて、頭ごなしにがみがみやられた。
「おまえが昼メシに行っていなかった間に、女の子が訪ねてきたんだ。おまえのジギー時代のファンだって言ってたよ。おまえに貸した金を返してもらっていないって。本人が帰ってくるまで待ってほしいと言ったんだけど、借用書があるって出されたら、俺だってはねつけられはしないだろ。これだ。身に覚えはあるのか」
「……あります。あいつか」
 ノートを破って書いたものだが、借用書にはちがいない。この金はその女が妊娠したかもしれないと言って、医者に行くから金をよこせと言って、俺は金がないから無理だと言って……借金にされてしまったものだった。俺は忘れていたのだが、当人は忘れてはいなかったのだろう。
「妊娠はしてなかったからよかったけど……」
「妊娠?」
「だからね、そいつの早とちりだったんですよ」
「そうか。よかったな。なんとなくしか事情はわからないけど、堕胎の費用じゃないんだな」
「ちがいますよ。医者代です」
「にしたって、おまえがちゃんと避妊してたら、彼女にそういうことは言われないだろ」
「彼女でもないし……」
「ああ、そうか。昔の話なんだからとやかくは言わないけど……うん、俺が立て替えておいたから、金ができたら返せよ」
「返しますよ。今すぐ返します」
 とやかく言わないと乾さんは言ったが、表情は思い切りとやかく言っていた。俺は乾さんに金を返し、そのせいでふところが寂しくなった。先輩と昼メシに行くとおごってもらえるのだが、今日は乾さんにおごってもらいたくなどない。
 どうせてめえだって、若いころにはいろいろやってたんだろうが。あんたはもてるんだから、好きでもない女とだって寝て、できちゃったかも、なんて言われた経験はあるんだろ?
 ちゃんと避妊しろって言ったって、こっちはしたつもりでも、ちゃんとできてない場合だってあるだろ。だって、失敗したんだもん、できちゃったんだもん、と女に言われたら、そっかー、としか男には応じられないじゃないか。
 言い返したい台詞は頭の中で浮き沈みしていたのだが、どうも乾さんにはそのたぐいの経験はないらしい。本橋さんだってシゲさんだって、乾さんは絶対にそんなことはしないと言う。俺はいまだ疑っているのだが、この男だったらそうなのかもな、とは思うのだった。
 くそくそ、乾さんのことは考えたくないと思っていたのに、考えてしまう。
 なんにしたって、毎日嫌いなのではないにしたって、今日の俺は乾さんが大嫌いだ。そのせいで、今日はみんなと昼メシに行きたくなかったのだろう。
 メシや酒はおごってくれるけれど、昨日のようないきさつで立て替えてくれた金は、返せとうるさく言う。あの野郎はいまだに、俺を教育しているつもりでいやがるのか。俺はガキじゃねえっての。いい加減にしろっての。
 面と向かっては言い返せないので、よけいに腹立たしい。
 なあ、幸生、おまえとデュエットでデビューしたんだったら、俺の日々はもっとお気楽だったのにな、と幸生に話しかけた。
 幸生は軽薄ちゃらちゃら男だが、俺とは種類がちがうのか。女好きでお喋りで、なんにも考えずに言いたいことは言い、やりたいことはやり、意味なしフレーズを好き放題に喋り散らしたあげく、どこかへすっ飛んでいく。
 そんな奴ではあるのだが、あいつは実は相当な気遣い男なのかもしれないと、最近になって気がつくようになってきた。幸生とのデュオも悪くないはずだが、幸生について考えていると、思い出したくもない学生時代の思い出が蘇ってきた。
「ハイトーンの声ふたつのデュエットもいいんだよ。そういうプロのデュオもいるよね。軽やかで綺麗な高い男の声のデュオ。きみたちだったらそうなれるかな。でも、きみたちは合唱部の一員として、合唱にその声を活かしてくれないかな」
 一年間だけいた大学の合唱部で、幸生と俺を前に言ったのは、当時のキャプテン、渡辺さんだった。一年生の学園祭で、デュオではなくコーラスで、幸生と俺がメインとなって歌った記憶も消えてはいない。
 スーがベースを弾き、他女の子三名、俺がヴォーカルだったバンドの「ジギー」を解散してから、俺がうらぶれたフリーターだったころに、幸生と再会してフォレストシンガーズに加わらなかったとしたら? そう考えたことは幾度かあるのだが、こう考えてみるのも可能だ。
 俺が大学を中退せず、合唱部もやめなかったとしたら?
 親父に勘当されることもなく、四年間の学生生活を送れたのか。幸生は四年生の年には男子部キャプテンだったのだそうだから、俺が副キャプテン? そんなの無理。やりたくない。
 副キャプテンなんかやりたくはないが、幸生と俺が二年生の終わりに、本橋さんと乾さんにフォレストシンガーズに誘われたのは、小笠原さんではなく俺だった? 本橋さんと乾さんはヴォーカルグループを結成すると決めた張本人なのだから、彼らがいなかったらそもそも成り立たない。が、他の三人は流動的に考えられる。
 バスのシゲさんは必要だろう。すると、あとふたりのテナーは? 小笠原さんの声よりも俺の声のほうが高いのだから、俺が選ばれただろうか。声のみでメンバーを選んだのではないとしても、そうだったとも考えられる。
 最初から俺がフォレストシンガーズにいたら、ブランクなんかなかったとしたら、今みたいな疎外感はなかったのか。俺にも四年間の学生時代の思い出があり、メンバーたちと思い出を共有していて、ほら、あのころはさ、といった話に共感できて、心から笑えたのだろうか。
 考えても意味もない考えに支配されていると、よりいっそう暗くなってくる。これだから俺はじめじめしてるんだよな。メシを食おうかな。金がないにしたって、コンビニのおにぎりくらいだったら買える。そうしようか。
 公園から出ていこうとしていると、巨大な男がこちらに向かってやってきた。大きな男は嫌いだ。もしやガンでも飛ばされて、兄ちゃん、なんか文句あるのか? とでも言われたら? 想像しただけでびびりそうになるので、俺はそいつと目を合わせないようにして歩いていった。
「章? 木村章だろ?」
 見知らぬ男に呼び捨てにされるいわれはなーい、と内心でだけ反発して見上げると、見知らぬ男ではなかった。
「……本橋さんの兄さんですよね? どっちの兄さんでしたっけ?」
「敬一郎だ。真次郎は?」
「メシに行ってます」
「おまえは行かないのか」
「金がないんで……いえ、コンビニで握り飯でも買おうかと……」
「まだまだ金では苦労してるようだな。俺にまかしとけ」
「そうは行きませんよ」
 本橋真次郎には兄がふたりいる。双生児で空手の猛者。敬一郎と栄太郎。俺も彼らに紹介してもらったのだが、どっちがどっちだか、弟のリーダーにさえも区別がつかないのだそうだから、他人の俺に見分けられるはずもない。
 だが、今日はひとりだから、敬一郎さんと呼べばいいのだろう。兄さんと呼ぶのも変だろうから、それでいいだろうと決めて、俺は言った。
「リーダーにはおごってもらってますけど、敬一郎さんにおごってもらうなんて……」
「じゃあ、これ、食うか? お土産だよ」
「なんですか?」
「うちの女房が作ったんだ」
 手に持っていた大きな包みを、敬一郎さんが俺に渡した。
「……重っ!!」
「重くねえだろ、こんなもん」
「はい、重くないです」
 声は兄のほうがより太くより低いのだが、口調が弟そっくりだ。公園のベンチに戻って包みを開くと、重箱にぎっしり詰まった太巻き寿司だった。
「豪華版。うまそう。だけど、真次郎さんに持ってきたんでしょ? 俺が先にいただくってのは」
「気にしなくていいよ。食え」
「いいんですか。腹が減ってきちまったな。では、いただきます」
 寿司メシに海苔、具の干瓢だの高野豆腐だの胡瓜だの沢庵だの、うなぎだの卵焼きだのが渾然一体となってかもし出す美味が、口いっぱいに広がった。ひと切れずつに切った海苔巻きをほお張っていると、おふくろが作ってくれたのも思い出す。
 大学合格祝いだと、母ちゃんがジンギスカンと海苔巻きでパーティしてくれた。俺は友達と遊んでいて家族パーティにはいなかったのだけれど、帰ると冷めた焼肉と海苔巻きがテーブルに残してあった。あのときは親父に怒られたっけ。
「せっかく母さんが心づくししてくれたのに、メシに間に合う時間には帰ってこい」
「頼んでねえよ」
 口答えして親父に殴られて、母は言ってくれた。
「章ももう子供じゃないんだから、殴らなくてもいいじゃないの。章……おなかはいっぱい? 明日の朝にでも食べる?」
「冷めてひからびた肉と、寿司なんか食いたくねえの」
「章、おまえはぁ……」
 ますます親父が怒り、俺は親父の前から逃げ出して、弟の部屋に入った。弟の龍は布団の中で起きていて、父ちゃんに怒られた? と尋ねた。
「平気だよ。今夜はごちそうだったんだな。うまかったか」
「うん、いっぱい食べたから、こんなおなかになったよ」
「寒いのに、見せてくれなくていいよ。おまえの腹なんか見たくねえっ」
 布団から出てパジャマをはだけて、妊娠何ヶ月だ、っていうようなぽんぽんの腹を見せた龍も思い出す。妊娠ったって、弟の妊婦もどきの腹は微笑ましかったのだが、いやな思い出まで蘇りそうになったので、慌てて意識を海苔巻きに戻した。
「うまいです。敬一郎さんの奥さんって料理が上手ですね」
「海苔巻きは自慢料理みたいだよ」
「海苔巻きって、作るのに手間がかかるんでしょ」
「みたいだな。俺も今日は休みだから、手伝ったんだ」
「へええ、料理の手伝いなんかするんですね」
「するさ。しないとうるさいだろ」
 子供もいるのだそうだが、本橋さんの兄さんたちの奥さんや子供には会ったことがない。どんな奥さんなんだろな、どんな子供なんだろな、でかいのかな、と考えつつ、俺は海苔巻きを食い、ぽつぽつ話もした。
「俺はこんな奴だから……だから……怒られてばっかりで……」
「真次郎はおまえを殴るのか」
「シリアスじゃないけど、殴られますよ」
「だろうな。乾は?」
「乾さんには殴られるってーか、こづかれたり、かかってこいって言われたり、軽くぴしゃってのだったらあるけど、説教のほうがずーっと多いかな」
「軽くぴしゃって、こうか」
「おっとっとーっ、ためしてみないで下さいっ。ほっぺたの骨が折れますよ」
「おおげさな」
 ここは幸生戦術で逃げるに限る。このでかい手に軽く頬を張られたら、俺はそれだけで吹っ飛ぶに決まっているのだから。
「敬一郎さんだと相撲取りの張り手ってか……やめて下さいね。俺はか弱いんですから」
「か弱いのか? 真次郎からも聞いた覚えはあるけど、まあ、男ったってな……」
「男ったって男ったって、って、あのリーダーの兄さんなんだから、そればっか言うのも当然でしょうね。親父も言いましたよ」
「おまえが大学を中退して、親父さんに勘当されたってのは、前に会ったときに聞いたよな。勘当されたまんまか」
「まんまです」
「うちの親父も、真次郎が就職せずに歌手になるって言い出したときには、怒ってたよ。栄太郎も俺も怒った。おふくろも怒った。うちの女房やら栄太郎のかみさんやらが、あのころはまだ新婚で……ああ、そうだったな」
「なにを思い出してるんですか?」
「いいんだよ。うるせえんだよ」
 でかい手が飛んできそうになったのでよけて、俺は言った。
「兄さんたちは弟を殴ったんですか」
「殴るって問題じゃないから、あとで栄太郎やかみさんたちと相談して、あいつの決心は固いようだから、見守ってやろうかって結論を出したんだ。簡単に投げ出したりしたら、そのときこそぶん殴ってやるって言ったら、かみさんたちが怒ったな。殴る前に事情を聞いてからでしょ、ってさ」
「親父さんやおふくろさんは?」
「しばらくは怒ってたけど、真次郎だって努力はしてるんだって知って、応援してやろうってほうに変わったんだよ」
「けっこう理解あるんだ。うちの親父は理解もなんにもありゃしない。今どきの中年にしたら古すぎるんですよ。じじいみたいなんだから」
「おまえの親父さんだって……俺は知らないんだから、勝手なことは言えないけど」
 大人はみんなこう言う。おまえのお父さんだって、心の奥では……と、うちの事務所の社長も言っていた。知らないんだったら言うな、と敬一郎さんにも反抗したいのだが、怒られると怖そうなのでやめておいた。
「リーダーはメシ食ったあとでも、海苔巻きくらいだったら食えるだろうけど、乾さんや幸生は腹いっぱいになってたら食えないかな。あ、これ全部平らげそうなひとが来ましたよ」
「……シゲか」
 豪放磊落な男は、弟の後輩なんぞは呼び捨てにするのが当たり前だと思っているのだろう。俺たちは兄さんたちにも、初対面の瞬間から呼び捨てにされていた。シゲさんが近づいてきて俺たちを認め、丁寧至極の挨拶をするのを、俺はぼーっと聞いていた。
「おまえは昼メシはまだなのか。全部は食ってもらったら困るけど、半分だったらいいよ」
「こんなにたくさん。半分も無理ですよ」
「食えるくせに」
「敬一郎さんは俺を……いや、食えますけど食いません。減ってるのは章がごちそうになったんですか」
「俺がいいって言ったんだよ。おまえも食え。俺がいいと言ってるんだから、真次郎なんぞがなんと言ってもどうってことはないんだ」
「そうでしょうけどね……では、いただきます」
 両手を合わせていただきますの挨拶もして、シゲさんは箸を取った。昼メシ前のシゲさんの胃袋は空洞だろうから、食いものが無限に吸い込まれていきそうな気がして、俺はシゲさんの食いっぷりに見とれていた。
「おまえはうまそうに食うよな。見てて気持ちいいよ」
「うまいですから。奥さんがお作りになったんですね。いいな、料理上手な奥さん、うらやましいですよ」
「シゲ、彼女はできたか」
「できません。俺には一生できないかも……」
「弱気な発言をしてるんじゃねえ。俺だって結婚できたんだぞ」
「俺は……できません」
「できるさ」
 その声と同時に、敬一郎さんはシゲさんの背中をどやし、シゲさんがむせた。
「お、ごめんごめん」
「いえ、大丈夫です」
「忘れてた。吸い物もあるんだよ」
 肩にかけていた魔法瓶から、敬一郎さんが紙コップに吸い物を注いでくれた。俺もごちそうになっていると、シゲさんが言った。
「高校のときの友達が、浄水器を買えって言ってきましてね。俺はそんなもんはいらないって言ってるのに、実家で電話番号を聞いたって、俺の東京の住まいにまで電話してきたんです。そのときには断ったんですけど、俺の言い方がきつかったかと思って電話したら、彼女の上司が出てきてわけのわからないことを言って、面倒だから買ったほうがいいですかね」
 さっきの電話はそれだったのか。彼女と言っているのだから女だろう。シゲさんの高校時代の恋人なのだろうか。そりゃ、シゲさんにだって過去には彼女もいたのだろう。どんな女なんだろ、と俺がひそかに笑っていると、敬一郎さんが言った。
「マルチじゃないのか? 買うのはいいけど、細心の注意を払って契約しろよ」
「マルチ商法? そういえばそのようなことを言っていたような……敬一郎さん、ありがとうございます。俺なんかは世間知らずですから」
「そういう仕事をしていたら、多少は世故に疎くもなるだろうな。気をつけろよ」
「はい。再確認してみます」
 マルチってなんなのか、俺には明確にはわからないのだが、それよりも気になっているほうを尋ねた。
「シゲさん、それって高校のころの彼女ですか」
「彼女じゃないよ。クラスメイトだ」
「つきあってなかったの?」
「俺はいまだかつて……言わせるな」
「嘘っ。いまだかつて女とつきあったことがないっ?!」
 いくらなんでもそれは嘘だろ、と驚いた俺が叫ぶと、敬一郎さんも言った。
「シゲ、おまえ、いくつだ? 二十五? それはないだろ。嘘だろ」
「そうとは言ってませんが……言ってません。言いません」
「敬一郎さん、追及しないでおきましょう」
「うん、そうだな」
 しかし、このシゲさんの様子からすると……本当なのだろうか。
 二十四の俺は、覚えていないほどの数の女とつきあった。二十六の本橋さんも乾さんも、俺よりは少ないにしても、何人もの女とつきあっただろう。乾さんは俺よりも多いかもしれない。同い年の幸生も、俺と同じくらいは女とつきあってきたはずだ。
 たいていの男は女とのつきあいなんて、この年になればざっと十人は、というのが普通だろうと思っていた。俺は十人どころの騒ぎではないが、ロッカー時代は無茶をしていたのだから、真心を捧げたのはスーだけなのだから、スー以前の過去は忘れよう。スー以降も、一応は忘れよう。
 それにしたって、シゲさんにはない? 女と寝たこともない? まさかな。恋人はいなくても寝た相手だったら……それもなかったら悲惨すぎる。
 もしかしてまったくなんにもない真っ白だったら不憫すぎるので、俺は敬一郎さんを止め、俺も黙った。黙っているとシゲさんが鬱状態になりかねない話題だったので、俺は言ってみた。
「歌いましょうか。幸生が好きなGS、敬一郎さんだったら知ってます?」
「おふくろが好きだったみたいだけど、俺は三十三だぞ。そんなのリアルタイムで知るわけねえだろ。なんだっていいから、章、歌え」
「はい、歌います。シゲさんに捧げますよ」
 シゲさんだけではなく、俺にも捧げよう。

「青い鳥を見つけたよ
 美しい島で
 幸せ運ぶ 小さな鳥を

 だけどきみはあの空へ飛んでいくんだね
 僕がこんなに愛していても

 小さな幸せを僕の手に乗せたのに
 青い鳥 
 青い鳥 行かないで」

 行かないで、の部分には、シゲさんが低くハーモニーをつけてくれた。俺が幸生に教わったのと同様、シゲさんも幸生に教えてもらったのだろう。
 が、歌詞は暗い。俺は「青い鳥」のタイトルを鑑みて歌ったのだが、逆効果だろうか。シゲさんが暗くなっているようにも見える。まずったかなと後悔していると、がははと笑った敬一郎さんが言ってくれた。
「飛び立っていった青い鳥は、いずれまた、おまえたちの手に戻ってくるんだ。別の鳥だったとしても、青い鳥は見つけようと思ったら、見つかるものだよ」
「彼女も?」
「そうだ、章。シゲもだ。しっかりしろ」
 敬一郎さんに背中をどやされ、シゲさんが情けなさそうに笑っている。俺も笑うしかない。弟よりはロマンティックな表現ができるというか、普通というか。
 いや、本橋さんは詞を書くのだから、ロマンティックゼロの男ではない。口にするのは恥ずかしいらしいが、胸の中にはロマンはあるはずだ。ひょっとしたら、女に向かってだったら、甘い言葉も囁く? 想像すると気持ち悪いので、想像はしないでおこう。
 本橋兄の発想が普通なのだとしても、真理ではあろう。あの空へ飛んでいったスー、俺はおまえよりも可愛くて、おまえみたいな暴力女じゃない女を見つけるから、おまえも俺なんかよりずっとかっこいい男を見つけろよな。
 とまあ、俺は空に向かって、いなくなってしまったスーに向かって、声には出さずに叫んだのだが、シゲさんは誰かに向かって心で言っていたのだろうか。いまだかつて女とつきあったことがないのだったら、言う相手もいないのか。
 シゲさんを暗くさせてしまったのかもしれないが、俺は敬一郎さんが出現してくれて、ちょっとは気持ちが明るくなった。ただで昼メシも食えた。
「にしても……シゲさん……いいえ、なんでもありません」
 まさかな、いるよな、ひとりくらいはいるよな、と見つめた目に同情でも漂っていたか、シゲさんに睨まれて視線をそらした。ここできっついひとことを吐かれたら、俺は死ぬ。殺されないように視線をはずして、耳もふさいだのだった。

END

 

 
 
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~ Comment ~

章くんをちょっと好きになりました。
頭の中で文句を言ったりしてるところがイイです。
私も言えない相手だと頭の中で、ものすごい文句を言ってますw
でも借用書の件はやっぱり章くんなんだね、と思ってしまいました。
ユキちゃんでもやっぱりって思ってしまうかも……。
乾さんはそんなことない!!ないですよね?!

お兄ちゃん!また登場!いいですね、好きです双子のお兄ちゃん。
極太の寿司を持つ姿を想像して笑ってしまいました。
パンじゃなくてごはんですよね。

まさかシゲさん、ホ……いやいや、そんなわけないない……。

ハルさんへ

いつもありがとうございます。

私もバイト先の先輩にイヤミを言われて、頭の中で思い切り言い返していたこと、ありましたよ。
これを全部口に出したらどうなるだろ? 言ってみたい、うーっ、言いたい!! 仕事をやめてもいいつもりになったら言おう、なんて思って、こうも言おう、ああも言おうと組み立ててストレス解消してました。
結局、辞めることになっても言えませんでしたけどね。

そういえば、彼女が妊娠した? ぎょっ!! という経験は章だけしかしてませんね。章は二度か三度、そういうのがあります。
ほんとにね、いつか呪われて刺されるかもしれませんよね。

シゲがホ? ホってなんですかー。全然、想像もつきませーん。
あはは(笑)

七月から八月にかけてアップしていました、ショートストーリィの「夏物語」、よろしかったらそれを読んでいただければ、シゲの恋愛話なんかも出てきます。
シンちゃんのお兄ちゃんたちもおじさんになって、ちらっと出てきます。
管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

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