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小説105(遠すぎる日々)

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あれこれ


フォレストシンガーズストーリィ105

「遠すぎる日々」


1・莢子

 ナンパがきっかけだったなんて、人には言えやしない。けれど、自衛手段さえしっかりしていたら、声をかけてくる男についていったってよくない? と思っている私は、気に入った男とだったらお茶くらいは飲む。そうして知り合ったのが現在の恋人だ。
「大野莢子さんっていうの? さやこ、いい名前だね。美人の名前だよ」
 街でナンパしてきた彼とお茶を飲み、軽そうだけどかっこいいよね、となった彼と二度目にデートした。二度目にはホテルにも行き、三度、四度と朝帰りして母に睨まれた。
「莢子にはお父さんがいないんだから、母の私がきちんと……」
「私、もう二十歳だよ。お母さんだって昔は遊んでたんでしょ? それで未婚の母になっちゃったんでしょ? 大丈夫だからね。私はお母さんみたいな苦労はしたくないから、妊娠なんてへまはやらないから」
「妊娠? そんなふうに……そうなんだろうね。莢子、本当よ。妊娠だけはしないでね」
「はーい。そんでね、今日じゃなくて昨日か、昨日デートしてホテルに行った男ってのは、サラリーマンなの。普通の会社の普通のサラリーマンで、なにもかもが普通なんだけど、ルックスはいいんだよね。背が高くて横顔が素敵なの」
「背だの顔だので……」
「いいじゃない。結婚するわけじゃないし」
「そりゃそうだけど……」
 未婚の母を持ち出すと、母は弱いのであるらしい。私は私生児だってなんとも思ってはいないのだが、母としては弱みなのだろう。寂しそうに悲しそうにうつむく母に笑いかけて、私は自室にこもってベッドに横たわった。
 母は小柄で、私も小柄。父はどんな男だったのだろうか。私は父に似ている? 鏡を取り出し、母の顔を思い浮かべて比べてみる。母にも似ているけれど、父にも似ているのだろうか。父も小柄な男だったのだろうか。背は低くても、きっと美男子だったのだろう。だから私も美人なんだ。
 小学生くらいのころには、大金持ちの実の父が迎えにきてくれて……といった、シンデレラストーリィのような夢想にふけった。しかし、大学三年生になった今では、父なんかいなくてもいい。母は薬剤師で、自分の店を持ちたくて貯金もしながら、私を育ててくれた。大学にもやってくれた。
 自然、私も薬学部に入学し、末は母とふたりして薬局を経営したいと、現実的な夢を見るようになった。
 薬局はすぐには実現しないだろうから、まずは就職しなくちゃ、と就職活動もしている。製薬会社の面接を受けて、内定も決まりそうになっている。遊んでばかりいるわけではなくて、薬剤師試験にだって合格した。
 あと一年余りの学生生活を満喫しなくちゃ。恋も何度かしたけれど、今度はどうなるだろう。いずれは別れるにせよ、今は楽しまなくては。大学で入っているサークルの、合唱部も楽しまなくては。
 鏡を見れば見るほど、私は綺麗だと思うのだが、他人には言わない。今年の合唱部の一年生の八幡早苗のように言うと、みんなに疎まれる。美人は謙虚であるべきだよ、と早苗にも言ってやるべきだろうか。
 昨夜は寝ていなかったのでそれから寝て、昼前に起き出した。母が作っておいてくれた昼食を食べ、大学に行く。単位は大丈夫なので講義は自主休講でいいのだが、合唱部には行こう。
 部室に行くと、女子部のメンバーたちが話しかけてくる。大勢の女子部員の中では親しくしている同学年の服部一葉と話していると、男子が入ってきた。
「溝部くん……カズハちゃん、あいつはあなたにまかせるよ」
「やだ。私もまかされたくない」
 二年生の溝部だ。彼は見た目は悪くないのだが、性格がたいへんに悪い。女子部では悪評紛々であるのを知ってか知らずか、たびたびこっちの部室にあらわれては物議をかもす。今日も近くにいた沢田愛理にいやがらせを言いはじめていた。
「沢田さん、また太ったんじゃない?」
「そうかもしれないけど……」
「だから俺が言ってるじゃないか。ほら、きみらはまたお菓子を食ってる。だから太るんだよ」
「私はお菓子なんか食べないもん」
 横から口出ししたのは、一年生の八幡早苗。沢田愛理は二年生である。
「私はいつだってダイエットをこころがけてるから、沢田さんみたいには太らないの。大野さんやら服部さんだったらお菓子を食べてもいいんだろうけど、ユッコや美江子もやめたほうがよくない? 美江子ちゃんはユッコや沢田さんほどは太ってないけど、お菓子ばっか食べてると似てくるよ。ねぇ、溝部さん?」
「八幡さんの言う通りだ。没収したほうがいいかな」
 一年生や二年生が固まっているあたりで言っている溝部は、早苗が尻馬に乗ったので図に乗っているのだろう。四年生女子はいないので、ここは三年生が言うしかない。カズハはぶすっとしているので、私が言った。
「女子部の下級生会議を行います。部外者は退席願います」
「女の子たちがなんの会議ですか、大野さん。女なんてのは下らない会議をやって、会議なんだか食ってるんだかってな感じなんでしょう? アドバイスさせてもらいますから、俺もいていいでしょ」
「男子は退席して下さい」
「女の会議なんて議題がまとまりゃしないでしょうに」
 頭に来た。ぶん殴ってやろうかと思ったのだが、私は優雅な大野莢子で通っているのだから、暴力はまずい。なんとか口で撃退したかったのだが、溝部は変に口が達者で、言い負かされてくれないのだ。
「溝部さん」
 そのとき、男の声がもうひとつ聞こえた。戸口に目をやると、一年生の乾隆也だった。
「山田さんが外に出てきて、ポプラの枝を折ってるんですよ」
「乾くん、私、そんなことしてないけど……」
「いいからミエちゃんはちょっと黙っててね。でね、なにやってんの? って尋ねたら、女性蔑視の男が女子部室に入り込んでるから、これをみんなに配って武器にするんだって言うんです。不穏な空気を感じたので見にきました。溝部さん、退避しましょう」
「おまえに命令される筋合いはないんだよ。一年生の分際で」
「命令はしておりません。お願いしてるんです。俺のお願いは聞き入れていただけないんですね。では、こうなれば最後の手段。ミエちゃん、男子部には金子さんも皆実さんもいらしたよ。呼んできましょうか」
「やだな、頼りたく……」
 山田美江子が言いかけると、溝部は焦ったそぶりになり、カズハが言った。
「そうだね。私が呼んでこようっと。頼りたくないって美江子ちゃんの言い分には同感だけど、目には目を。溝部くん? 誰がいい? 金子くんの口か、皆実くんのげんこつか、あなたのお望みに合わせてあげるよ」
「くそ。結局は頼るんじゃねえかよ。ああ、ああ、わかりました。女なんてのはこれだからさ。乾、おまえもついてこい」
「はい、承知しました」
 別になんにもしてないのに、とぶつぶつぼやきながら、溝部は出ていった。乾くんは美江子に微笑みかけてあとに続き、窓の外を窺っている美江子に私は訊いた。
「ほんとは美江子ちゃんはなにをしてたの?」
「あの溝部さんの言い草に猛烈に腹が立ったんで、外に出て気持ちを鎮めようとしていたんです。溝部さんは先輩だけど、あのまんまだったらなにを言い出すか、自分が怖いって思って。そうしたら乾くんが通りがかって、どうしたの? って訊きました。溝部さんだよっ、としか言ってないのに、乾くんは察したみたいで、入っていったんですよ」
 うんうん、気持ちはわかるよ、とカズハがうなずき、早苗も言った。
「頼りたくないってなぜ? 金子さんでも皆実さんでも、頼ればいいじゃないの。私はお菓子については溝部さんに同感だったけど、あとの台詞はやっぱりちょっと腹が立ったかな。にしたって、溝部さんなんて誰か男性に、ぼかんってやられないとこたえないんだからさ」
「あんたも?」
 いたずらっぽくカズハが問いかけ、早苗はきょとんとした。
「私がなんですか、服部さん?」
「あんたもだよね。男子部は鉄拳制裁ってのが普通みたいだけど、ねえ、莢子ちゃん、来年から女子部もそれ、やろうか」
「口のすぎる女の子は叩いて黙らせるの? そんな子もいなくもないから、有効な手段かもしれないね。来年のキャプテンにおまかせしましょ」
「そうだね。早苗ちゃん、わかった?」
「……なんなんですか、それは。私は本当のことしか言ってませんっ!!」
 きーっとなって叫び、早苗は部屋から走り出ていった。来年のキャプテンって誰になるんだろうか。ああいうのがいると大変だろうな、と私は、来年のキャプテンに同情していた。
 男子部は金子くんだろう。副キャプテンが皆実くんであるのが妥当だ。で、果たして女子部は? カズハかな、と私は思っていたのだが、それから数ヶ月後の女子部キャプテン選出会議で選ばれたのは、私だった。


2・香奈


 別れると言ったのは私だった。
「乾くんはものわかりがよすぎるの。疲れちゃった」
 他にも言いたいことはあったけれど、それだけを口にすると、乾くんは無言でうなずいた。そこで大学一年生の恋に終止符が打たれたのだった。
 最初から乾くんは、子供みたいにつっかかってばかりいた私に我慢強く接してくれた。男子部キャプテンの高倉さんに、本橋くんとふたりして大抜擢されて、夏のコンサートでデュオとして初舞台を踏んだ乾隆也。
 合唱部では次第に有名人になっていく彼が、私には誇らしかった。彼は私の特別なひと。お互いにお互いを特別だと決めたひと。なのに、私は彼にだんだんと苛立ちを覚えていったのだ。
 優しすぎて我慢強すぎる乾くんに苛立って、喧嘩も何度も何度もした。今から思えば、荒れていたのは私だけだった。ミエちゃんは友達だよ、純粋に友達だ、と言った乾くんの言葉を信じてはいたけれど、本当なの? 本当になんでもないの? と詰問しては、そこからエスカレートして私が暴力をふるったこともある。
 どこかに冷静な部分もあったのか、ほっそりはしていても背が高くて、腕力もあると知っている乾くんに、正攻法で立ち向かってもかないはしない。だから私はよくものを投げた。
 いつだったかは、テーブルにのっていたサイダーの空き瓶を、乾くんに向かって投げた。喧嘩の原因を覚えていないのは、頻繁すぎたからだろうか。ともかく私は苛々していて、投げた瓶が乾くんの背後の壁に当たって割れ、砕けた破片が乾くんの顔を傷つけたのだ。
「あ……乾くん……血」
 怪我をさせてしまった。彼の額から流れる血を見ていると、涙が出てきそうで、くちびるを噛んで目を閉じた。乾くんだって怒っているだろう。同い年の男の子なんて、かっとしたら私に手を上げるかもしれない。私が悪いんだから、叩かれたっていい。
 そのつもりで目を閉じたら、くちびるに触れたのは乾くんのくちびるで、ひょいと抱き上げられてベッドに運ばれていった。
「怒ってないの?」
「すこしは腹も立つけどさ、俺が悪いんでしょ。香奈、ごめんね」
「なんだって乾くんはそうなの?」
「うん、俺はこうなんだよ。ごめん」
「どうしてあやまるの? 私が悪いんだよ」
「喧嘩ってのはどっちが悪いんでもないんだよ。待ってて、掃除してくるから」
 ベッドに私を降ろし、乾くんは畳に散らばった瓶の破片の掃除をはじめた。私はちりとりを持ってきた。ふたりで黙々と掃除をして、どちらからともなく顔を見合わせて笑った。
「乾くんは小さいころに、おばあちゃんにものを投げなかった?」
「あるな。小学生だったか。あのころってばあちゃんは俺よりも身体が大きかったから、力もガキよりはあったんだよ」
 おばあちゃんっ子だった乾くんは、だからこんなに優しいひとに育った? 掃除をすませてベッドに腰かけて、乾くんは話してくれた。
「なんだったかな。灰皿だったか。うちのばあちゃんはたまに煙草を吸ってたんだ。吸殻の入った灰皿だったよ。俺がそいつを投げたものだから、吸殻と灰が散乱して無残なありさまになった。灰皿は割れなかったんだけど、ばあちゃんに張り飛ばされて、蔵に入ってなさい、その前にここを片付けていきなさい、ってさ」
「お母さまやお父さまは?」
「父が騒ぎを聞きつけて見にきて、掃除を手伝ってくれようとしたら、ばあちゃんに一喝されてたよ。隆也にやらせて下さい、隆之介さんはこちらにいらして、って言われて、父が俺の耳元で言った。きみが悪いんだから、蔵で反省しておいで、あとでちゃんとあやまるんだよ、だったな」
「きみ、なのね」
「うん、俺は親におまえって呼ばれたことはないんだ。ばあちゃんもおまえとは言わなかった。隆也、あんた、こらっ、だらっ!!」
「だらってなに?」
「金沢弁の馬鹿」
 今日はものを投げたのは私、おばあちゃんの立場で隆也くんは……と言いたくて、言えずにいた。言ったとしたら、香奈に仕返しするなんてとんでもない、と彼は言っただろう。
「女の子には優しくしないといけないんだよ、っていつもばあちゃんは言ったよ。俺はそんなには優しくないかな」
「ううん、優しいよ」
 優しすぎる、とはまだ言えなかった。
 あのころから、乾くん、と呼んでいたのが隆也くんになった。ぎこちなくベッドで抱き合って、香奈、好きだよ、好きだ、うん、私も隆也くんが好き、と囁き合ったのも覚えている。
 たったの十八で、私よりも数ヶ月は年下だったくせに、私以外の女の子にも優しい隆也くんを、好きになった女の子は合唱部にもいた。喜多晴海も隆也くんが好きだったようだが、彼女は気性がさばさばしているので、私にやっかみめいた言葉はかけなかった。
「私だってね、未練なんかないんだよ。私のわがままだったんだよね。別れようって言った私が、隆也くんに未練なんて……あるはずないじゃない」
 別れたあとで晴海に話すと、彼女は言ったものだった。
「そしたら乾くんを私のものにしていい?」
「どうぞ」
「うーん、しかし、私はほんとに乾くんに恋をしてるんだろうか」
「恋じゃないの?」
「わかんないよ。どうなんだろうね」
「晴海ちゃんには徳永くんがいるから?」
「あんなの、いてもいなくても意味ないの。徳永のそばにいる私は女じゃないのよ」
「晴海ちゃんのそばにいる徳永くんは男じゃないの?」
「あいつはどこにいても男。悪漢でもないのか。あんな女がいたら、全女性の……なんなんだろうね。香奈ちゃんはなんだと思う?」
「形容しにくい男だよね、徳永くんは」
「その通り」
 まあ、たしかに、徳永くんよりは隆也くんのほうがつきあいやすそうな気がする。本橋くんだって単純そうだから、隆也くんよりはつきあいやすいだろう。徳永くんには彼女はいないようだし、本橋くんにはいたのだが、彼らも別れてしまったらしい。
 開いては散る恋の花。いわゆる乙女の蕾も隆也くんが散らせた。はじめてのひとが隆也くんでよかった、とだけは私も思っている。そうして蕾も恋の花も散った。素敵な想い出をありがとう、ときっといつかは言えるだろう。


3・花蓮

「サークル活動なんてものは、不純異性交遊が蔓延してるに決まってるのよ。花蓮、あなたはそんなところに入ってはいけません。あなたには将来結婚する相手がいるんだから、つまらない男とつきあったりしたら駄目よ」
「不純異性交遊ってどういうの?」
「そんなものはあなたは知らなくていいんです」
 女子大に行ったほうがいいんだけど、共学の経験もしておいたほうがいいかもしれない、と言ったのも母だった。
「花蓮は絵を描くのが好きなのよね。この大学の芸術学部がいいわ」
 母に決められて、受験したら受かった大学だ。大学を決めたのも、婚約者を勝手に決めたのも母。サークル活動を禁じたのも母。不純異性交遊という響きがおぞましいものに思えて、私は母の言葉にうなずいた。
 高校生のころに母が決めた婚約者の名前は、橘浩介という。私だって恋をして結婚したい、と言いたかったのだが、母は言った。
「小倉物産社長のひとり娘の花蓮なんだから、橘商事の跡取り息子と結婚するのはまたとなくふさわしいのよ。浩介さんはハンサムでしょう? 背も高くて優しいひとよ。なんの不満があるって言うの? さあさ、婚約お披露目パーティの支度をしなくちゃ」
 パーティ好きの母はいそいそと婚約パーティの準備をはじめ、ゴージャスなドレスを誂えてくれた。母もそのために高価な和服を作って喜んでいた。
 婚約パーティ、私の大学合格パーティ、両親の結婚記念日、私の誕生日、両親の誕生日、おひな祭りだのなんだの、パーティが目白押し。少々うんざりはしていたのだが、私もパーティは嫌いではない。浩介さんも決して嫌いではないし、結婚は私が大学を卒業してからと決まっているのだから、まだ先の話だと思っていた。
 特別な日が来るたびにパーティが行われ、私の衣装が増えていく。振袖もドレスも数え切れないほどにある。母は自分の衣装を新調するのも、私の服を作るのも大好きなのだ。けれど、私はドレスよりも、普通の女の子のファッションがしたかった。
「ジーンズが穿きたい? 女の子がズボンなんか穿いてはいけません」
 これだからなぁ、好きな服も着られやしない。だけど、私にはジーンズなんか似合わないかしらね、となって諦めた。
 大学に入学してからも、着るものに母のチェックが入る。私は芸術学部に入学したのだから、いっぷう変わった服装の学生も多くて、あんな服を着てみたいと思ってはいたのだが、母が許してくれるはずがない。
「小倉さんって……ああ、そうなんだ。それはそれで大変だね」
 そんなふうに言って、変な笑いを浮かべる女の子はいたものの、誰も私と仲良くしてくれない。寂しくて、だけど、あなたは特別なんだから、と母に言われると、だったらしようがないかな、と考えておくしかなかった。
 母が言うままに花嫁修業のような習い事をしたり、車で大学と家を往復していたりしただけなのだから、一年生の間はまったく友達もできず、私はただ寂しかった。そうして二年生になる前の春休みに、私の進級祝いパーティが開催されたのだ。
 むろん決めたのは母で、母はいつものようにいそいそと張り切っていた。私はいい加減いやになっていたのだが、パーティの当日、浩介さんが私にアレンジメントフラワーをいくつもいくつも贈ってくれた。
 その花の数々を届けてくれたフラワーショップの店員さん。アルバイトだと言っていたが、彼女は私と同じ大学の語学部に所属していた。彼女の名は喜多晴海。せっかく知り合えたのだからとお願いしたら、晴海ちゃんは私と友達になってくれた。
 それからやっと、私の毎日に変化が起きるようになった。ちょっぴり男の子みたいな晴海ちゃんは、合唱部に入っていた。私を合唱部に連れていってくれたり、学食のランチを教えてくれたり、ジーンズを貸してくれたり、行ったこともない場所へ誘ってくれたりした。
 友達ができたのよ、女の子よ、と母にはそれだけを報告したら、女の子だったらいいわね、と許可はしてくれたのだった。
「ねえねえ、晴海ちゃん、たこ焼きって食べてみたい」
「あんたさ、ほんとにたこ焼き、食べたことないの?」
「ない。どんなものかも知らないの」
 合唱部の部室で一年生の男の子たちと会ったときに彼らが言っていた。大阪が本場のたこ焼きってものを、私は一度も食べたことはない。
 男の子たちも晴海ちゃんも、私がたこ焼きを知らないと言ったら驚いていた。晴海ちゃんが言うには、晴海ちゃんの友達の徳永さんとやらは、そんなことを言う女はぶりっ子だと言ったらしい。しかし、本当にたこ焼きなんて私は全然知らないのだから。
「お祭りの縁日だとかで売ってるでしょ? 街を歩いてたらたこ焼き屋だってあるよ。実松くんは大阪出身で、小笠原くんは高知の出身だから、彼らは東京のたこ焼きはまずいって言うんだけど、私は東京の子だから、東京のたこ焼きだっておいしいと思うんだけどな」
「私も東京だけど……縁日ね」
 子供のころには母に、お祭りに連れていってとねだってみたこともあるが、そんな下品な……とか言われてはねつけられた。
「花火大会だったら見たことはあるよ」
「小倉物産の社長さんご一家のための特別席?」
「そうだったのかな。特等席だとは言ってた」
「あんたってまったく、かわいそうにね」
「かわいそうなのかな」
「かわいそうだよ。高校までも友達はいなかったの?」
「いなくもなかったんだけどね」
「おんなじような上流階級のお嬢さまか。私はそんな家に生まれなくてよかったよ」
「晴海ちゃんも社長令嬢なんでしょ?」
「私は社長令嬢とは言わないの。町工場の娘」
「どうちがうの?」
「あのね、花蓮」
 どう説明したらいいんだっ、と怒った口調で言ってから、晴海ちゃんは両手を打ち合わせた。
「連れていってあげようか。そしたらわかるよ」
「晴海ちゃんのおうち? うんうん、行きたい」
「行って驚くな。うるさいよぉ」
「うるさいの?」
「見たらわかる。聞いたらわかる」
 友達の家には高校生までなら遊びにいったこともある。服は、お土産は、ご挨拶の言葉は、と考えていると、晴海ちゃんは私の手を引いた。
「庶民の家庭の晩ごはんをごちそうしてあげるからね。母さんは忙しいから、私が作ってあげる」
「晴海ちゃんの手料理? 嬉しいな。だけど、社長夫人って忙しいの? パーティがあるの?」
「そんなもんは忙しすぎてやってる暇もないの」
「そうなの?」
 うちの母は自ら催すパーティも大好きだが、よそのパーティも大好きで飛び歩いている。パーティではごちそうを食べるからと言って、普段はダイエットに励んでいる。母は私にも太らないように厳命するので、我が家では食べたいものもろくに食べられないのである。
「そうなのか。花蓮は苦労してるんだね。庶民の苦労とは別種の苦労なんだね。で、今夜はなにが食べたい?」
「たこ焼き」
「東京の家庭にはたこ焼き器はないんだよ。売ってるやつを買って帰ろうか。いや、冷めたらまずくなるからたこ焼きを食べてから買い物しよう」
 買い食いも晴海ちゃんに教えられて知った。そのときはじめて食べたたこ焼きは、おいしいのかまずいのかよくわからなかったのだが、新鮮な味だった。たこ焼きとは小麦粉にたこを混ぜて丸く焼くお菓子のような軽食のようなものだとも、初に知った。くるくると形を整える店員さんの手つきに、私はじーっと目を凝らしていた。
 我が家では家政婦さんが買い物も料理もしてくれるので、スーパーマーケットで買い物をするのも珍しくて、きょろきょろしていたら晴海ちゃんに叱られた。
「おのぼりさんじゃないんだからね。はー、あんたってまったく……」
「ごめんなさい」
「いいからね、いいからあんたはおとなしくしてな」
「はい」
 八王子の晴海ちゃんのお宅に招かれて、たしかに機械の立てる音がうるさくて、私はちょっと驚いた。ご挨拶しようにも、ご家族は誰もいない。ご両親は隣の工場で働いている最中なのだそうだ。けれど、喧騒の中で晴海ちゃんと怒鳴り合っているようなお喋りをし、晴海ちゃんといっしょに作った晩ごはんを食べるのは、とてもとてもとても楽しかった。
「先に食べていいのかしら」
「いいんだよ。母さんも父さんもメシ食ってる時間もあんまりないの。貧乏暇なしって言うんだよね。弟がいるとは話したよね。でも、あいつもなかなか帰ってこないし」
「弟さんって可愛い?」
「死ぬほど可愛くない」
「可愛くないの?」
「可愛いわけないだろ」
 ごはんを食べながら、晴海ちゃんはこうも言った。
「サークルって不純異性交遊の巣窟だって? お母さんが言ったんだったよね。なくもないかな」
「不純な異性との交遊……」
「やってみたい?」
「んんと……どうなんだろ。晴海ちゃんはやってるの?」
「やってみたいかも」
「晴海ちゃんには婚約者はいないよね。恋人は?」
「いない」
「いいなぁ」
 お箸を止めて、晴海ちゃんは私をじろっと見た。
「婚約者なんていなくてもいいけど、恋人はいたほうがいいじゃん」
「そうなのかな。一から恋をするっていうんだったらいいけど、恋ってどんな感情なのかも私は知らないのよ。高校までは女子校だったし」
「女子校だって、っていうか、女子校のほうが盛んだって聞くよ。あ、そか、花蓮の通ってたお嬢さま女子校は……うーん、そうでもないんじゃないの?」
「晴海ちゃんの言ってることがよくわからないんだけど?」
「やっぱ花蓮は特別だよ」
 よくわからないことばかり言われていても、晴海ちゃんとのおつきあいはただ楽しかった。
 そうして私の毎日に灯りをともしてくれた晴海ちゃんは、大学を卒業し、私の父の会社に就職した。晴海ちゃんはいろんないろんな経験をして大人になっていったのだろうが、私も大学を卒業してからは、いっそうなんにもなくなった。
 流されるままに浩介さんと結婚して、不満ではないのだが、つまらないな、とふと思う。晴海ちゃんはたまには私のマンションに遊びにきてくれるのだが、社会人となると暇な主婦とつきあってはいられないようで、会う機会も少なくなってしまった。
 そんなころ、晴海ちゃんがいた合唱部のメンバーだった男性たちが結成したヴォーカルグループ、フォレストシンガーズの五人とはじめて会った。夫の浩介の父の会社、橘商事のパーティのゲストにフォレストシンガーズが呼ばれたのだった。
「フォレストシンガーズって晴海ちゃんには聞いてたのよ。私もメンバーの方に会ったことだったらあるの。晴海ちゃんが合唱部の部室に連れていってくれたから、乾さんにも本橋さんにも本庄さんにも三沢さんにも会った。木村さんは覚えてないんだけど、彼は一年で中退したからって、だから覚えていないのね。浩介さん、私もフォレストシンガーズのみなさんにご挨拶したい」
「うん、いいよ。紹介しようね」
 夫が控え室に連れていってくれて、私を五人に紹介してくれた。
「ああ、花蓮さんって……聞いた覚えのある名前だと思っていたんですよ。喜多晴海ちゃんと男子部室に遊びにいらしてましたよね。あの小倉花蓮さんですか。乾隆也です。ご記憶にはありますか」
「はい、もちろんです。乾さんも私を覚えてて下さったなんて、嬉しい」
「本橋真次郎です。俺ともお会いしたことはあるんですよね。なんとなくは覚えてますよ」
「本庄繁之です。ええと……たこ焼き」
「はい。たこ焼きですね。あれから晴海ちゃんに食べさせてもらいましたから、どんなものだかはわかりました」
「東京のたこ焼きですか。うまかったですか」
「まあまあかな」
 合唱部の一年生男子たちとたこ焼きの話をしたとき、あのときには本庄さんはいなかったはずだが、小笠原さんから聞いていたのだろうか。
「本庄さんもいらしたかしら?」
「花蓮さんがたこ焼きを食べたことないっておっしゃてたのは、聞きましたよ。覚えています」
「シゲさん、印象薄いんだ」
 三沢さんが言い、私は本庄さんにごめんなさいをした。
 その小笠原さんも一時はフォレストシンガーズにいたのだそうだが、今はいない。なぜなのだかを質問してはいけないのかと迷っていると、三沢さんが言った。
「俺もお会いしたことはあるんですよね。三沢幸生でございます。なんてお美しい。橘さん、俺、あなたが憎らしいですよ。このこのこの」
 そう言って三沢さんは浩介をつねろうとし、こらっ、と本橋さんに叱られていた。
「あーっと、俺は……すみません。俺は花蓮さんを覚えてません。俺とは会ってませんよね。木村章です」
「ごめんなさい。私も覚えていません」
 そこでみんなで笑った。浩介も楽しそうに笑っていた。
 幼いころからパーティがありすぎて、いやになったり飽きたりもしたのだが、こうしてなつかしい人たちと会えるチャンスにもなる。夫とふたりで会場の隅で聴いたフォレストシンガーズの歌は最高に素晴らしくて、私もそれから本物のファンになった。
「あのね、花蓮」
 二十五歳の年に、晴海ちゃんが打ち明けてくれた。
「花蓮にはお世話になって、今の仕事ができるのも花蓮のおかげだよ。だけど、私にはどうしてもやりたいことがあるの」
「中国留学? 行くの?」
「うん。退職するつもり」
「……そう」
 つきあっていた彼とも別れて、仕事もやめて、晴海ちゃんは中国に渡ると言う。その場では祝福してあげたのだが、悲しくなって、うちに帰って私は泣いた。
「どうした? 晴海さんが? そう。寂しくなるね。でも、花蓮、きみには僕がいるでしょ」
「……うん、そうね」
 抱き寄せてくれた夫の腕の中で、私はしばらく泣いていた。


 それから何年かがたち、本庄さんが結婚した。私は女の子を出産し、それでも暇な主婦だと中国にいる晴海ちゃんあたりには言われていたころに、プライベートで乾さんに会った。その日も夫の会社のパーティで、夫とふたりで出席していたら、会場に乾さんを見かけたのだった。
「フォレストシンガーズの乾隆也さんよね」
「そうだね。彼、なかなかかっこいいじゃないか。あのスーツはそう高価ではなさそうだけど、着こなしが上手なんだね。高そうに見えるよ」
「お話ししていいかな」
「いいんじゃないのかな。乾さん、乾さん、橘です」
 夫が声をかけると、乾さんが笑顔で近づいてきた。
「これはこれは。お久しぶりです。花蓮さんはいつに変わらずお美しい。橘さんも美男ですし、美男美女の好一対ですね。今日は俺は事務所の社長に命じられまして、社長代理で出席させてもらったんですよ。橘商事さんのパーティなんだから、橘さんと花蓮さんにもお会いできるかと、楽しみにしておりました。ただ、知り合いがいないんで寂しかったんですよ」
 グレイのスーツの乾さんと、ベージュのスーツの浩介と、ブルーのドレスの私の三人で、パーティ会場の一画で歓談した。カクテルをちびちび舐めながら話していると、乾さんが言った。
「フォレストシンガーズの打ち合わせ合宿ってのを企画していましてね。俺たち五人とマネージャーと、できれば本庄の奥さんの恭子さんも、って予定してるですけど、急なもので七人も一度に泊まれる宿が見つかるんだろうかと……心当たりがおありでしたら教えていただけませんか」
「ああ、それだったら」
 夫が言った。
「うちの別荘を使って下さい。花蓮、きみからも言えば?」
「はい。ぜひぜひどうぞ。今だったら空いてますわよ」
「え……そんな……どあつかましいお願いをするために言い出したんじゃないんですけど、いや、困ったな」
「困らなくてもいいじゃないですか。使って下さいな」
「ええ、どうぞ」
 ふたりして熱心に勧めると、乾さんはやがてうなずいた。
「悪いな。いいんですか」
「いいんです。空いてるんだから使って下さい。でね、私もあつかましいお願いをしていいですか。そうしていただいたら、お礼を言っていただくよりもずーっと嬉しいの」
「なんでしょうね。もしかして?」
「そう。乾さんのソロが聴きたい」
「うわ、こりゃ責任重大だ。橘さん、歌っていいですか」
「僕も聴きたいですよ」
 それはそれとして、別荘の使用料金は……などと言っている乾さんに、夫が言った。
「あなた方は花蓮の友達だと思ってもかまいませんか」
「そう言っていただくと光栄です」
「ならば、友達にお貸しして料金だなんて……」
「そうなんですか。むしろ失礼な台詞ですかね。すみません、では、お言葉に甘えさせていただきます。俺の歌がお礼になるのでしたら、乾隆也、全身全霊で歌わせていただきます」
 優雅なお辞儀をする乾さんに見とれていたら、夫が言った。
「花蓮、乾さんに歌っていただきたい歌はあるの?」
「んんとね……なんでもいいですか」
「俺の歌える歌でしたら。リクエストをお願いします、花蓮さん」
 ふっと脳裏に浮かんだ歌を、私は口にした。
「暗い歌詞なのかしら。でもね、タイトルは私の今の気持ちに似合ってるんですよ。「遠すぎる日々」。乾さん、ごぞんじ?」
「これですね」
 ワンフレーズ口ずさんでから、乾さんはうなずいた。夫がパーティのスタッフと打ち合わせ、ちょっとしたステージが作られ、乾さんはそこへ歩み寄ってマイクを手にした。

「もう泣かないで
 忘れてしまえばいい
 いろんなことがあったね わかってるよ

 あのころはただ繰り返す毎日に
 埋もれていくようで俺は怖かった
 きみがいなけりゃなにもできないのに
 誓う言葉は俺には言えなかった」

 うっとりと聴いていると、浩介が身を寄せてきて囁いた。
「昔の恋の唄だよね。花蓮にもこんな想い出があるの?」
「あったとしたらあなたはどうする?」
「妬ける」
「あなたにはあるの?」
「ないよ。言わなかったかな」
 いたずらっぽい目をして、浩介は言った。
「きみがまだ高校生で、僕が大学生のころに、父に言われてきみというひとを知ったんだ。言ってなかった?」
「私を知ってどうしたの?」
「小倉物産のお嬢さんと縁談が起きているってね、そう言われて、どんなお嬢さんなのか見たくなった。きみのお母さんが催したパーティにまぎれ込んで、そ知らぬ顔をして花蓮ちゃんを見ていたんだ。可愛い子だって思ったよ。それで僕はきみにひと目惚れしたようなものさ。だから僕は父に言ったんだ。花蓮さんが大学を卒業するまで待てと言われるんだったら待つから、彼女と結婚したい。それまでは彼女を大切にして、つきあっていきたいって」
「聞いてません」
「そう? 照れくさいから言わなかったのかな。でも、本当だよ」
 単に親が決めた婚約者で、単に社会的地位が釣り合うから婚約して、それだけの理由で結婚したのだと決め込んでいた。私は決して浩介が嫌いではなかったけれど、愛しているとも思えなかった。母が決めた婚約者と結婚するのは、小倉物産社長のひとり娘として生まれた私の運命なのだから、受け入れるしかないのだと。
 だけど、浩介は私に恋をしてくれた? 結婚してからようやく言ってくれるだなんて、プロポーズの言葉もなかったのは当然だったのかもしれないけれど、もっと早く言ってよ、と詰りたくなった。
 でも、そう言われて改めて見つめてみると、もしかしたらこれから、私は彼に本気で恋ができるかもしれないと思う。子供もできて父と母となってから、恋をするのもいいものなのかもしれない。乾さんの歌が、浩介にこんな言葉を言わせたのだろうか。そんなにも素敵な歌だから?
「だからね、きみとはじめて会ったときから、僕はずっとずっときみに恋をしてたんだよ。そんななんだから、他の女の子なんて見えてもいなかったよ」
「私も……」
「ほんと?」
「本当よ。この歌はタイトルに惹かれただけ。遠すぎる日々……私の学生時代」
「それほど遠くもないよ。花蓮は若い」
「あなたもね」
 不平不満ばかり言ってはいたけれど、過ぎてしまった日々を振り返ると、楽しかった。晴海ちゃんがいてくれたからこそもあるのだが、浩介だっていつもそばにいてくれた。晴海ちゃんが中国に行くと知って悲しかったときにも、僕がいるでしょ、と言ってくれた。娘だっている。私はたいそう幸せなのだと、知っていたはずのことを再認識した気分になった。

「どこへ行くの、ときみは尋ねたけど
 なんと答えればいいのか きみのために
 きみの指には俺の知らない指輪が
 きみの明日には俺の知らない未来が
 
 忘れないよいつまでもきっと
 きみとすごした眩しい季節を
 本当にきみをこの腕に抱いたのか
 確かめるには遠すぎる日々」

 私の指にも指輪が、私の明日にも未来があるのね。私のかたわらには、あなたがいる、と浩介を見つめた。
「乾さんの歌もいいけど、フォレストシンガーズも素敵よね。今度、ライヴにいっしょに行こうよ」
「そうだね。乾さんって歌がうまいよね」
「当然でしょ」
 えっへんと胸を張っていばってみせてから、私は言った。
「私の大学の、同い年のひとなのよ。金子将一さんは二年年上だけど、本橋さんも乾さんも徳永さんも私と同い年なの。自慢していいでしょ?」
「きみたちの大学の誇りなんだよね」
「そうそう。だから、フォレストシンガーズももっと売れたらいいのにな。バックアップしてさしあげる?」
「そんな必要はないだろ。別荘をお貸しする程度で十分だよ」
「そうね」
 金子将一さん、徳永渉さん、そしてフォレストシンガーズ。私は晴海ちゃんに連れていってもらって垣間見たにすぎない合唱部出身の、プロの歌手がこんなに大勢いる。なんでもパンクバンドをやっている、ロック同好会出身の男性もいるらしいのだが、パンクなんて聞いただけでも怖そうなので、柴垣さんという名のその男性には、近寄りたいとは思えない。
 柴垣さんはどうでもいいのだが、金子さんと徳永さんとフォレストシンガーズのみなさんとは、学生時代からの知り合い、その事実は私には嬉しい。実は徳永さんは、あんなぶりっ子には会いたくない、と言っていたらしい。晴海ちゃんがはっきり言ったのではないが、たぶんそうだったのだろう。
 その徳永さんは私たちの結婚記念日パーティで歌ってくれた。性格はゆがんでいるらしいが、歌は最高だった。金子さんはルックスも歌も最高で、内緒で言えば、私は彼にちょっと憧れていた。フォレストシンガーズだって最高に最高。
 徳永さんも金子さんもフォレストシンガーズも、実力伯仲の素晴らしい歌唱力の持ち主で、現状ではスターとは呼べないまでも、これからきっとどんどん売れるはずだと信じていられた。
 歌い終えて一礼した乾さんが、私を見つめて微笑んでくれる。力いっぱい拍手しながら、私は浩介の肩に頬を預けた。
「晴海ちゃん……ありがとう」
「晴海さんのおかげで彼らと知り合えたんだよね」
「そうよ」
 数日後にはフォレストシンガーズのマネージャーであり、彼女もまた同じ大学の合唱部出身であり、私とは同い年の山田美江子さんからお礼状が届いた。
「花蓮さん、このたびはまことにありがとうございます。乾から聞きました。本橋、本庄、三沢、木村ともども、私も心から感謝しております。ささやかなお礼と申しますにもささやかすぎるのですが、フォレストシンガーズのライヴチケットを同封させていただきます。お時間があればご主人といらして下さいね」
 きゃああ、嬉しい、となって、忙しい夫にせがんでライヴに出かけた。
 ステージでは五人各々のソロコーナーがあって、本橋さんは私の知らない英語のソウルナンバーを、木村さんはソフトロックナンバーを、三沢さんはグループサウンズナンバーを、本庄さんはバラードナンバーを歌った。
 それぞれのソロも素晴らしくて、私はひたすらに聞き惚れていた。そして、乾さんは「遠すぎる日々」を歌ってくれた。
「私のために、なんて思ってもいいかな」
 小声で尋ねると、夫は無言で微笑んだ。
 そんなこんなのライヴを堪能して、夫とふたり、ホールの喫茶室に行く。小さなホールなので喫茶室も小さいのだが、まばらにいるお客さまの中から、花蓮さん? との声が聞こえた。
「えーと……えーと……」
「覚えてらっしゃらないかな。私も合唱部にいたんですよ。吉崎香奈です」
「私も合唱部出身なんです。花蓮さんや香奈ちゃんよりふたつ年上の、大野莢子と申します」
 声をかけてくれたのはふたりの女性で、言われてみれば見覚えはある。ふたりともに綺麗なひとだった。
「私なんて部外者ですのに、覚えて下さっていたんですね。感激です」
「花蓮さんは印象が強かったから」
「変な子だと思ってたんでしょ」
「ちょっとだけ、そうだったかな」
 香奈さんはそう言って、こらっ、と莢子さんに叱られている。本橋さんと三沢さんもこんなふうだったけれど、女子部の先輩と後輩も似ているのであるらしい。学生時代の話をしている私たちに遠慮したのか、浩介は言った。
「僕はお先に失礼するから、あなた方はごゆっくり」
「よろしいんですか」
 莢子さんが尋ね、僕はまだ少々仕事が……と言って夫が出ていくと、香奈さんが言った。
「優しそうな旦那さまだね。優しそうじゃなくて、優しいんでしょ?」
「それはもうとてもとても」
 ごちそうさま、とふたりで声をそろえてから、莢子さんが言った。
「五人のソロがあったでしょ。どれも素敵だったけど、香奈ちゃんは乾くんの歌が特に?」
「莢子さんったら、そんなの大昔の話ですよ」
「大昔? 香奈さんは乾さんとなにか?」
 私が口をはさむと、莢子さんがうなずき、香奈さんは言った。
「……私のために歌ってくれたってわけでもないだろうし、乾くんは私が来てるなんて知りもしないんだろうけど、あの歌……ついそう考えたくなっちゃいました」
 そうだったのか。私のためでは絶対にないに決まっているが、香奈さんのためだったら考えられる。香奈さんが来ていると乾さんは知らないにせよ、昔の恋人だったのであるらしき香奈さんを想って歌っていたのかもしれない。
「私のためじゃないでしょうね。乾くんだったらあのあとも……当たり前か」
「私のためだって考えておいたら、気持ちいいじゃない」
「そうですね。莢子さんも誰かとなにか?」
「彼らは私を年上のおっかないおばさんだと思ってたんじゃないの?」
「おばさんはないでしょうに」
「あるかもよ」
 乾さんが歌った歌の、こんなフレーズが耳元をかすめた。
 
「覚えてるよきみの笑顔を
 俺の両手が包んだことも
 口にできずに今きみを見つめてる
 なつかしい写真を見るように」

 もしかして、乾さんはステージから香奈さんを見ていたのかもしれない。ちょうどこの歌の歌詞のように。
 いいな、うらやましいな、素敵な想い出があって。だなんて、すこし前の私だったら香奈さんに羨望を抱いただろう。莢子さんにもおそらくは、昔の思い出ってものはいくつもあるはず。恋の記憶もあるはず。
 目をやってみるとふたりともに結婚指輪はしていないが、現在でも恋はしているのだろう。自由に生きられる女性はうらやましいとも、ほんのちょっぴりは思う。
 でも、私は私で幸せなんだもの。ああして浩介が言ってくれた言葉を抱きしめていれば、これからだって晴海ちゃんに負けないくらい強く生きられる。私は私の立場で強く生きなければ。遠すぎる日々を振り返るのは時々にして、妻として母としてたくましく生きよう。

END

 

 

 
 

  
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