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小説103(Never ending story)後編

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フォレストシンガーズストーリィ103

「Never ending story」後編


3・幸生

 一年間で友達はたくさんできたし、先輩たちともちょっとは親しくなれた。悲しいできごともあったけれど、それが人生さ、ふっ、なんてね。そんなふうに言ったら先輩に怒られるだろうか。
「二十歳にもなってないガキんちょが、大人みたいに言うな」
 などと、本橋さんにも乾さんにも徳永さんにも小笠原さんにも本庄さんにも言われそうだ。
 大学生になって合唱部に入部して、男子部にも女子部にも友達はできた。親元から離れてしまったので高校時代までの横須賀の友達とはほとんど会わなくなったけど、学部にだってバイト先にだって友達はいる。
 恋人らしい恋人はできなかった上に、本気で恋をしたつもりだったあの子はいなくなってしまったけど、女の子の友達だったら大勢いる。ユキちゃんは彼女には不自由しても、友達には不自由しないのだ。
 合唱部活動と友達活動に精力の大部分を傾けていたものだから、余力はバイトに使っていたものだから、勉強はちーっともしていない。それでも無事に二年生になれて一安心。俺はキャンパスにも咲いている花を見上げながら、ひとりで散歩していた。
 小学校のお遊戯のときに、ピンクと白のティッシュペーパーでこしらえて、手に持って踊った花みたいだな、この花ってなんて名前だろ、と気になったので、俺は立ち止まってその花を見ている女性に話しかけた。
 ナンパがしたかったのではない。そのひとは背の高いおとなしげな雰囲気の女性で、俺の趣味からすると長身すぎるというのもあったのだが、単に花の名前が知りたかっただけだ。なにかを知らないひとに質問するのだって、男より女がいいに決まっている。
「いいお天気ですね」
 話しかけると、そのひとは俺をちろっと睨んだ。
「いえ、怪しい者ではありません。あなたは先輩でいらっしゃいますか。僕は新二年生の三沢幸生と申します。名刺ってものは持ってないんですけど、本橋さんや乾さんは作ったのかな。合唱部のキャプテンや副キャプテンともなると、校外活動の代表者を務めたりもするんですから、名刺も必要になるんですよね。僕は二年生ですからまだそこまでは……でも、あなたとは同じ学校の後輩に当たるんですよ。そうでしょ」
「ええ。私は四年生で、豊島っていいます」
「大きな学校ですから、学部もサークル活動も別々だと、お話するチャンスもないんですよね。あなたのようなお美しい方とお喋りもできずにいたなんて、俺、一年間を損した気分ですよ」
「ほんとにいいお天気ね。歩きましょうか」
「はいっ」
 あまり趣味ではないとはいえ、女性と散歩できるのは嬉しい。豊島さんは俺よりも背が高いのだが、身長で女性を差別するのは、身長で男を差別するのと同等によくないのだ。
「八重桜って綺麗よね。ゴージャスだよね」
「あの花ですか? あれが桜? 桜ってとうに散ったんじゃ?」
「八重桜はソメイヨシノあたりが散ったあとで咲くんだよ。私は普通の桜よりも八重桜が好き。花びらが十重二十重に重なり合って、重たげに揺れる。いい感じでしょ」
「そうですね。勉強になりました」
 お遊戯の花みたいじゃん、と言えなくなった俺に、豊島さんは言った。
「三沢くんって合唱部のひとなの?」
「そうです」
「……そうなのね。本橋くんはキャプテンになったんだ」
「本橋さんをご存知なんですか」
「私も一年生のときには合唱部にいたの」
「一年間だけ?」
「一年もいなかったかな」
 男子部は練習がきびしい。先輩もきびしい。身体を鍛えろとも言われる。合宿ではランニングや遠泳をさせられて、不平を言っていた奴もいた。練習やトレーニングをわけもなくさぼって、先輩に叱られていた奴もいた。俺は別のことでたまに先輩にぼかっとやられるのだが、殴られた奴もいたのかもしれない。
 当初は俺は体育会気質合唱部は嫌いだと思っていたのだが、じきに溶け込んでしまったのもあって、やめたいとは考えなくなった。先輩にジョークまじりで殴られるのも、別にいやではなくなった。
 ランニングも水泳も楽しい。高校時代からトレーニングだったらやっていたのだから、歌うためには体力も必須だとは知っている。先輩のきびしさは身が引き締まる。俺みたいな適当な性格の奴は、叱ってくれるひとが身近にいないとたるむ一方だとも自覚するようになった。
 横須賀にいたころは口やかましいおふくろに叱られっぱなしで、あれはあれで俺のためにはなったんだな、と考えるようになったのも、先輩たちのおかげかもしれない。
 だが、そのせいで男子部には途中脱落者は数人いた。女子部はきびしくはないはずだが、女子部にだってさまざまな理由で退部したひとはいる。豊島さんにも事情があったのか。そういったことは尋ねてはいけないのかと躊躇していると、豊島さんは微笑んで言った。
「そうすると、三沢くんから見たら本橋くんは先輩だよね」
「はい。尊敬するキャプテンです」
「尊敬してるの?」
「尊敬はしてますが、おっかないんですよね。俺は本橋さんに怒鳴られてもさしてどうってことはありませんが、懲りない奴だからだそうです。本橋さんは俺なんかだと気安くも気安く頭をぼかっとやって、うるさい、おまえは黙ってろ、って言ってくれますけど、後輩に理不尽な暴力をふるったりはしないんですよ。俺は本橋さんをそうはよく知らないけど、一部見えたところでは、正義の味方タイプの男だな」
「ウルトラマンが好きなんだよね、彼は」
「俺もそう聞きました。ウルトラマン気質なのかな。本橋さんはそういう性格だから、まがったことは嫌いなんですよね。彼の大嫌いなものは、弱いもの苛めでしょ」
 うんうんと豊島さんはうなずく。彼女は本橋さんについては詳しいのだろうか。
「だからね、俺たちと同い年の本橋さんの後輩の中で、本橋さんに叱り飛ばされた奴は何人もいるんですよ。きっと弱いもの苛めでもしたんだろうと思うんですけど、あんな乱暴な先輩のいるサークルはいやだって、中のひとりふたりはやめていきました。根性なしはやめたっていいんですけどね」
「本橋くんって男の子にはそうなんだね」
「女のひとにはどうなんですか」
「私は知らないけど、怒ると黙り込むタチかな」
「女のひとに対して怒ったら、彼は黙るんですか」
 女子部の誰かと本橋さんが対している姿? そうだっただろうか。本橋さんだって無口ではないが、副キャプテンがあれだから、無口に見える節はある。果たして豊島さんと本橋さんの過去の関係とは? と考えていると、質問された。
「本橋くんって彼女はいるの?」
「俺は知りません。ってーか、本橋さんに彼女がいたとしたら、豊島さんはどう反応するんですか」
「三沢くんって二十歳くらいの男の子に見えないね」
「どういう意味ですか」
「どういう意味でもないんだけどさ。あ、彼がいる」
「彼って?」
「私の彼よ」
 おーい、と豊島さんに呼ばれた男が、俺たちのほうに近づいてきた。むくむく太ったアライグマに似た男だ。彼は俺よりは背が高いが、豊島さんよりは低い。豊島さんは俺に彼を紹介してくれた。
「同じロシア語学科の北村くん。私と同い年」
「はじめまして。経済学部の、というよりも、合唱部の二年生、三沢幸生です」
「ああ、合唱部? 北村です」
 声は俺よりは低いが、かなり甲高い。かっこいいとは言えない男だが、中身がいいのだろうか。北村さんは豊島さんに言った。
「あそこのベンチにすわって待ってて。売店で弁当買ってくるから、三人で食べよう。きみにもおごってあげるよ、三沢くん」
「いいんですか。では、ごちそうになります」
 合唱部でもなければ同じ学部でもない先輩でも、先輩は先輩だ。おごってやると言われたのを辞退すると、むしろ男は怒るのだ。俺もこれからは後輩におごってやらなくてはならないのだろうが、それが先輩となった証明なのならば、喜ばないといけないのだろう。
 三人で弁当を食っていても、飯の上に花びらが降ってくる。北村さんと豊島さんは仲睦まじく食事をしていて、うん、やはり男も女も外見ではなく、気持ちがぴったり寄り添うのが一番なのだと、俺は痛感していた。
「ロシア語学科なんですよね。俺にはロシア語なんて英語以上に……」
 日本人は英語なんか苦手なのが普通ちや、と去年、小笠原さんが言っていた。あのときにもらった「Never ending story」の歌詞のコピーは机の引き出しにしまってあるが、小笠原さんに出された宿題はやっていない。
 おそらく小笠原さんは忘れているのだろうから、こっちからも言い出さないに限る。それはそれとしても、ロシア語ができる日本人を、小笠原さんはなんと評するのだろうか。大和魂がロシア魂に変化した奴らだとでも?
「ロシア語学科の学生さんの卒論って、どんなテーマで書くんですか」
 尋ねると、北村さんはいやな顔をした。
「卒論なんてまだ考えたくないよ。僕は就職も決まってないんだよ。ゆかりもだろ?」
「うん、まだ。私は通訳になりたいんだけど、成績も優秀でもないしね。就職が決まらなかったら大学に残って、ロシア語を学び直そうかな。ってさ、だけど、それも現実問題としてはできそうにないんだよね」
「そうだな。僕の就職が決まったら、ゆかりのバックアップをしてあげたいよ。主婦しながら学生ってのもできなくないだろ」
「北村くん、こんなところでプロポーズしてるの? ロマンティックなさすぎっ」
「あ、ごめん」
 上っ面しか見ていないとはいえ、北村さんはいい人だと思える。急遽プロポーズしたくなったのだったらお邪魔であろうから、俺はベンチから立ち上がった。
「では、ごゆっくり。ごちそうさまでした」
「本橋くんによろしくね」
 ゆかりさんだと名前も知れた豊島さんが言い、北村さんも言った。
「本橋って誰?」
「合唱部時代の友達だよ。そんなことより、続きは?」
「続き、言ってもいいの?」
「言って言って」
 嬉しそうなゆかりさんの声と、照れているらしき北村さんの声を背中に聞いて、俺は歩き出した。
 もしかしたらゆかりさんは以前に、本橋さんとなにかあったのかもしれない。つきあっていたのかもしれない。だとしても、ゆかりさんには北村さんがいる。かっこよくはなくてもいい男だと思えるのだから、いい恋人でもあるのだろう。
 現在の本橋さんには彼女はいるようだが、ゆかりさんには言わないほうがよかったのだろう。本橋さんにもゆかりさんに会ったとは話さないほうがいい。
 またひとつ、人生について学べた。口で勝負のユキちゃんにだって、言ってはいけないことがあると知れたのは人生勉強だ。花の名前も知れたから覚えておこう。八重桜か。俺は普通の桜のほうが好きだけど、それも言わなくてよかったのだろう。


4・真次郎

 家を出てひとり暮らしになり、新学期がはじまって秋風が吹いてくる。さきほどは部室で乾が言っていた。
「俺たちの青春の終わりを告げる秋の風かな」
「馬鹿野郎、侘しそうな顔をするな」
 頭をぼかっとやってやろうとしたらかわされたので、俺は乾を部室に残して外に出た。ひとり暮らしとなると食事に困る。うちのおふくろは料理はたいしてうまくはないようで、そのせいで俺は味覚音痴気味なのかとも思えるのだが、他の音痴はないのだからいいとしよう。
 運動音痴も音楽の音痴も方向音痴もない。味覚音痴なんてのはあっても支障のない音痴なのだからかまわない。このおかげでまずいメシも平気なのだから、ありがたいのかもしれない。しかし、おふくろのあんな料理でも、目の前に出てきて食っていればいい息子はありがたかったのだなぁ、と切実に思うのだった。
「家出して、初に知ったる、親心」
 これは乾が口走った下手な川柳だが、実にその通りだ。
 その通りではあるが、空腹だ。メシを食わないと歌えない。青春の終わりだなんて言っている場合ではない。まだ学園祭も控えているのだから、しっかり食って栄養をつけないと、合唱部キャプテンの義務すらも果たせないではないか。
 メシメシメシ、と呪文めいて唱えつつ歩いていたら、ラーメン屋の店先で足が止まった。食欲をそそる香りがして、俺は店の中に吸い込まれていった。
 人気店であるらしく、店は満員だ。時間が早いので行列はできていなかったのだが、席がない。短気な俺は並ぶのも待つのも大嫌いなので、別の店にしようと出ていこうとしていたら、カウンターにいた客が俺の名を呼んだ。
「本橋?」
「はい?」
 すこし太目の若い男だった。髪の毛が薄くなっているので老けて見えるのだが、俺と年頃は変わらないのだろう。見覚えのある顔を見つめていたら思い出した。
「川添さん?」
「そうだよ。なつかしいな。おまえのすわる席はなさそうだし、俺はもう食ったし、よそに行こう。ここではやりにくい話だしさ」
「はあ、いいですけど」
 合唱部の二年先輩、金子さんや皆実さんと同い年の川添さんだ。彼は三年前に大学を中退してしまっているのだが、故郷は近いはずだから、東京に遊びにきていたのか。俺とはさしたる関わりはなかったのだが、多少は話しもしていた。
「やりにくい話ってのはさ」
 ラーメン屋を出て喫茶店に席を移し、おごってやるからなんでも食え、と言われて特別大盛り定食とやらを注文すると、川添さんは言った。
「俺は今、厚木で親父のラーメン屋を手伝ってるんだよ。それで、東京の人気ラーメン店をスパイしにいって、思いついたその店の特徴なんかをメモって帰って、盗み取ろうってわけさ。うちの店は流行らないんで、できたら写真も撮りたいんだけど、そこまでやるとつまみ出されるかもしれないだろ。さっきの店のメモをするから待ってろ」
「なるほど。そうだったんですね」
 俺と同じ理学部でバイオテクノロジーを専攻していた川添さんには、試験のためのアドバイスをしてもらったり、昼メシをおごってもらったりもした。東京生まれの俺に、デートコースを教えろ、と耳打ちしたこともあるから、彼女はいたのだろう。
 彼が中退した理由は知らなかったのだが、親父さんの店を継ぐためか。その彼女とも別れたのだろうか。案外、彼女もともにラーメン屋で働いているのかもしれないが、俺が質問するようなことでもないはずだ。
「おまえは合唱部は続けてるのか」
 メモを終えた川添さんが尋ね、俺はうなずいた。
「金子や皆実も卒業して、次の代のキャプテンってのは誰だったんだ?」
「金子さんと皆実さんの次は、キャプテンが渡辺さん、副キャプテンが溝部さんです」
「渡辺? いたっけか、そんな奴……溝部? なんでまたあいつとあいつが?」
「さあね」
 渡辺さんはたいそう地味な人であったので、川添さんの記憶の中で明確ではない。溝部さんは悪目立ちしていたので、よくない意味で記憶に鮮やかなのだろう。なんでそんな奴らがキャプテンと副キャプテンなんだ、と尋ねたいのはもっともなのだろうが、俺は言った。
「昔の話はいいじゃありませんか」
「昔ったって去年だけど、終わったことだよな。じゃあ、今年は?」
「申し訳ありませんが、乾が副キャプテンで俺がキャプテンです」
「申し訳なくはないよ。そうか、適任だな」
「そうですか」
 褒めてくれているのであろうから、非常に面映い。運ばれてきた定食で照れ隠ししていると、川添さんは言った。
「乾って奴は大人びていたよな。俺は乾ともおまえとも親しいってほどでもなかったけど、おまえたちは俺を知らなくても、俺は知ってたよ。徳永と乾と本橋の三羽烏……というよりは、徳永は異端児であったんだよな」
「そうですね。乾も徳永もあのまんまです」
「そうなのか。おまえもあのまんま?」
「そうなんでしょうね」
 川添さんの認識する本橋真次郎とは、どういった男なのだろうか。
 乾の言う、直情径行瞬間湯沸し単純単細胞鈍感……それからなんだったか? たぶんそんなものだろう。川添さんは理系の秀才ではあるけれど、人間の内面を読み取る洞察力はあるのだろうか。俺にはないのだから、人間観察は文系タイプのほうが優れていると思える。
 ゆったりと微笑して、川添さんはコーヒーを飲んでいる。髪が薄くなっていくぶん太った分、大人の男らしくなっていると見えた。
「本橋は四年生だろ。就職は決まったのか」
「ええ、まあ」
「どういった会社?」
「なんだっていいじゃありませんか」
 その反応は、決まってないんだな、と言いたそうではあったが、川添さんは追及しようとはしなかった。
 就職ってのは職に就くってことだ。俺は企業に就職するのではなく、歌を職業にする。どこかの会社に職が決まったとしても、会社が倒産するってこともある。リストラってやつもあるのだと聞く。ならば、不安定な職業の代表格のごとき、歌手を目指すのも似たようなものではないか。
 両親や兄には通用しない理屈だとはわかっている。プロのシンガーになれると決まっているのならばともかく、それすらも決まっていない状態なのだから、そんな夢は捨ててまっとうに就職しろと言った、家族の言葉は正当なのだと、俺も頭では理解できていた。
 だが、それでも俺は歌手になるんだから。なりたい、ではなく、なるのだから。乾と語らって決めて、親にも兄たちにも反対されて、そのせいで家を出て独立した。
 ヴォーカルグループを結成しようと、乾と相談はしているもののメンバーさえも確定はしておらず、確定したとしてもいつになったらプロになれるのかは不明。そんな段階では、誰にも告げられない。川添さんに言ってもわかってもらえるとも思えないから、俺は言葉を濁した。
 けれど、他人に言えないやましい希望ではないはずだ。馬鹿にされようと、甘いと言われようとかまわない。俺はメシを食う手を止めて、川添さんを見つめた。
「歌手になるんです」
「歌手?」
「合唱部の連中とヴォーカルグループを結成して、プロになるんだって、乾とは決めています。勝手に決めてるだけですけど、俺は歌という職業に就職するんですよ」
「ふーん、そうなのか」
「親には決意表明はしましたけど、他にはあまり他人には話してないんですよ。メンバーが固まってもいない状態なんですけど、卒業するまでには決めます」
「そっか。ちょっと……いや、しっかりやれよ」
 ちょっと甘いぜ、とでも言いたかったのかもしれないが、川添さんはそうは言わず、遠くを見ているような目で別の話をした。
「俺もさ……学生だったころには、夢を持ってたよ。俺は合唱部にいたからって歌手になりたいとは思ってなかったけど、専門分野のほうで夢を描いてた。だけど、親父に頼られて中退してラーメン屋の仕事をするようになって、将来はうまくしたってラーメン屋のオヤジだ。おまえがうらやましいよ。なんだか侘しくなってくるよ」
「そう言われましても……」
「むかついてきた。本橋、さっさと食っちまえ」
「はい」
 怒ったのか? 我が身と照らし合わせて、ノーテンキな夢を持っている後輩にむかついたってのか? 気持ちはわからなくもないが、ここで怒られても俺としては困ってしまう。戸惑いつつもメシを食い終えると、川添さんは顎をしゃくって先に立って喫茶店から出ていった。
 俺もやむなくついていくと、川添さんが支払いはしてくれた。外に出てごちそうさまと言った俺を無視して、川添さんは肩を怒らせてどんどん歩いていく。ここは大学から近い繁華街の一画だ。どこへ行くつもりだろう。ほっぽらかして帰るわけにもいかないか。
 戸惑い続行のままでついていくと、川添さんが足を向けたのは公園だった。ここでもいろんなことがあったよな、と追憶に浸りそうになっていると、立ち止まった川添さんが突然俺に殴りかかってきた。
 喧嘩には慣れているので本能的に身体が動き、本能的に防御して攻撃態勢に移り、本能的に先輩を殴り飛ばしていた。やってしまってから後悔して、俺は先輩を殴ったのか? あれれ? なんでこうなったんだ? と思っていると、地面に倒れた川添さんが笑い出した。
「昔、あったんだよな」
「なんでしょうか。喧嘩したんですか、川添さんが?」
「あのときとは逆だよ。こうなるとはほぼ予測がついてたんだけど、おまえってたいしたもんだね。喧嘩が滅法強い本橋の噂は本当だったんだ」
「なにを言っておられるのかよくわかりませんが? いや、すみません。俺にはこういう本能があるみたいで……あんたでしょうが、殴りかかってきたのは」
 なんで俺があやまるんだ、となったのもあって言い返すと、川添さんはいっそう笑った。
「なんなんですか。逆ってのは?」
「あのときは皆実だったな。あいつときたら俺を挑発してきやがって、殴らせてくれたんだ」
「皆実さん?」
「そうだよ。カズハは元気かな」
「カズハ?」
「服部一葉」
 服部一葉とは、皆実さんや川添さんと同い年の女子合唱部の先輩だ。皆実さんの名もカズハの名も知ってはいるが、川添さんの話しの脈略が読めない。とりあえず地面に倒れたまんまの川添さんを起こしてやろうと手を差し出すと、その手にキックを食らわされた。
「……なんなんですかっ。川添さん、変ですよ」
「あのときはさ……お互いに誤解してカズハと喧嘩してて、カズハと俺を仲直りさせてくれようとして、皆実がよけいな真似をしたんだよ。あいつだっておまえには負けるだろうけど、喧嘩は強いんだろ」
「俺は皆実さんの実力は知りませんが、強いでしょうね」
「おまえが言うくらいなんだから強いんだろうな。なのにさ、俺に殴られてくれて……あいつとおまえは似てるよな」
「そうですかね」
 つまり、服部さんと川添さんは恋人同士だったのか? だからなんなんだ? それと今の川添さんの行動がどうつながる? 俺はいまだ悩んでいたのだが、川添さんは立ち上がって言った。
「ま、ちょっとはすっきりしたよ。いいね、おまえは呑気でさ。ま、がんばれよ。俺はおまえなんて奴は忘れるから、おまえも俺を忘れろ」
「はあ? この意味は……」
「意味なんかねえんだよ。馬鹿野郎」
 川添さんはふらふらっと歩み去っていき、俺は首をひねり続けていた。
 この一幕を詳しく話したら、乾だったら解説してくれるのだろうか。俺には川添さんの行動の意味がほとんど理解できないのだが、ただの憂さ晴らしだったのだろうか。
 服部さんが元気かどうかなんて、俺が知るわけがない。川添さんも答えを求めていたのではないようだからいいのだろうけど、それとは別に、呑気な夢を見ている俺に腹を立てて、俺を殴りたかったと解釈しておけばいいのか。
 喫茶店での会話なども重ね合わせると、現実に夢を飲み込まれた川添さんが、甘い夢を見ている馬鹿な後輩を殴り倒して、すっきりしたかった。しかし、俺のほうが強いのだからして、その望みはかなわなかったと?
 だとしたら殴られてやったらよかったのか? いやだ。俺のプライドが許さない。あれでも川添さんはちょっとはすっきりしたと言っていたのだから、あれでよかったのだろうと考えておこう。
 学生時代から人間ができていた皆実さんのようには、俺にはできない。俺は殴られかかったらあんなふうに身体が動くのだから、川添さんも相手を見て殴りかかればよかったのだ。が、俺の夢を聞いて殴りたくなったのだったら、俺が相手か。筋は通っているのか。
 先輩を殴ったのは生まれてはじめてのはずだ。俺はすっきりはしないのだが、やっちまったものは戻せないんだから、どうしようもない。この話は一生誰にもしないとだけは決意して、俺は鉄棒にぶら下がった。
 ぶらさがったものの、手に力が入らなくて鉄棒から落ちた。手が痛い。川添さんに蹴られたせいだと思い出し、このせいで彼はすっきりしたのかとそれだけは理解して、ま、そんならいっか、と考えておくことにした。

 
5・隆也

卒業してからも就職はせず、アルバイトをしながら、本橋、シゲ、ヒデ、幸生と俺の五人で結成した「フォレストシンガーズ」の活動をしているので、一年下のシゲやヒデ、二年下の幸生からは後輩たちの噂話を聞いている。
 本橋の後任キャプテンは実松、副キャプテンには安斉が就任したという。シゲは自らも縁の下の力持ちが似合うというのだが、ヒデはキャプテンの器でなくもない。本橋ほどのリーダーシップは発揮できないかもしれないが、キャプテンにはふさわしい男だと思えるのだが。
 おそらくは、ヒデもシゲもフォレストシンガーズとしての活動が大変だから、合唱部キャプテンは避けたい、となったのではなかろうか。真相を明らかにしてはくれないのだが、そのために実松をキャプテンにしたのではないかと思える。が、それでもヒデもシゲも合唱部の最上級生として、実松や安斉とともに、俺たちがいなくなった部を円滑に運営していってくれているのだ。
 我らがフォレストシンガーズの日常は、メンバー中の二名が学生ではなくなっても代わり映えはしない。アマチュアでしかないフォレストシンガーズには、練習場所は公園しかない。今夜も本橋のアパート近くの公園で練習していた。
「さあてと、沖縄は梅雨も明けたって聞くし、ひとり旅に出たくなったよ」
 東京はまだ梅雨真っ只中なのだが、真夏の海が恋しくなって言うと、幸生が言った。
「沖縄に行くんですか。俺も行きたいな。乾さん、俺をお供に連れていって。お世話はしますから」
「おまえのお世話はいらないよ。俺はひとり旅に出るって言ってるだろ。おまえを連れていったらひとり旅にはならないし、第一、おまえは試験勉強だってあるだろ。単位は足りてるのか」
「この間、教授に言われました。きみの単位からすると進級は危ういかも……って、あの教授のにやにや笑いを思い出すと、背筋がぞぞぞのぞっ」
「だろ。おまえが留年なんかしたら、おふくろさんに叱られるぞ。プロのシンガーになるなんて言って学校の勉強をしないから、留年なんかするのよっ!! ってさ」
「乾さんのおふくろ口調も怖いよぉ。説教は乾さん口調だけにして下さい」
「うん。だからさ、俺はひとりで行くから、おまえは勉強していなさい。わかったか、幸生?」
「はあい。ユキちゃんったら、乾さんに叱られるとぞくぞくってしちゃうのよね。おふくろ口調や教授口調はぞぞぞっで、そっちはぞくぞくっ。素敵。隆也さーん、もっとぉ」
 ユキとは呼んでいないのに、女の子になりやがった。くねくねっと身をよじって流し目で俺を見る幸生を、ヒデが引き戻してくれた。
「もっとって? どうされたいんだ? これか?」
「やんやんってばっ。ヒデさんに叱られたいんじゃなくて、隆也さんに優しく叱られたいのよぉんっ。ヒデさんだったらぶつんだもん。ユキちゃんはぶたれるのはいやなの」
「いやなんだったらよけいに……」
「やだってばっ!!」
「シゲ、そっち持て」
「こうか」
 ヒデとシゲに頭と足を持ち上げられて左右に揺さぶられて、幸生はきゃっきゃと喜んでいる。三人を横目で見た本橋も言った。
「うん、フォレストシンガーズの早めの夏休みにするか。三日ってとこだろ。俺も海に行こうかな。乾、怪我なんかするなよ」
「リーダーも喧嘩はしないようにね」
「しないよ」
「女の子に襲われそうになったら、さっさと逃げるんだよ、真次郎」
「女に襲われる俺だとでも思ってるのか」
「あっちの意味でだったら襲われるかもしれないもんな」
「……おまえまで幸生みたいに変なことを言うな」
「はいっ、リーダー、じゃあ、夏休みは三日間だな。みんな、お先に!」
 蹴られそうになったので逃げ出して、公園から出ていった。俺が言い出したから夏休みが決まったのだった。
 貧乏学生からは卒業しても、俺は貧乏フリーターだ。飛行機なんて贅沢なのだが、休みは短いのだから致し方ない。東京からひとっ飛びでやってきた沖縄は、真夏の日差しがぎんぎらしていた。
 海に近い安い民宿に泊まって、泳いで泳いで、よけいなことは一切考えないようにしようと決めた。民宿に荷物を置き、スイミングパンツに着替えて外に出る。
 浜辺に出ていって南国の景色を見ていると、しかし、さまざまな想いが浮かぶ。フォレストシンガーズがプロになるという望みはかなうのか、このまんまでひとりも欠けずに、ずっと続けていけるのか。来年には卒業するシゲやヒデは、親の許しを得られるのか。
 ヒデには彼女がいるはずだが、彼女もヒデが就職せずに、プロのシンガーズになると言っているのを知っているのか。知っていたとして、彼女はそれを許しているのか。
 シゲには彼女はできたのか。女の子の話しばっかりするくせに、あっちにふらふらこっちによろよろしている危なっかしい幸生は、決まった彼女とまっとうな恋ができるのか。本橋にも彼女はいるはずだが、詳しく話してくれないのはどうしてなのか。
 就職したミエちゃんは俺たちの練習場所に差し入れを持ってきてくれたりするけれど、仕事は大変なのだろう。恋もしているのだろうか。時おりおもてを憂いがかすめるミエちゃんの心は、どんなふうに揺れ動いているのか。俺たちの心配もしてくれているのだろうけど、自身の身にもいろいろとあるのだろう。
 雑念は消すはずが、仲間たちの顔が頭をよぎってしまう。那覇市街から近い海岸には、子供たちが泳いでいるので、彼らと遊んでもらおうかと近づいていった。
「学校はまだ夏休みじゃないんだよね。放課後に遊んでるの?」
 砂浜にいるスクール水着の女の子に話しかけると、彼女は陽に灼けた笑顔で答えてくれた。
「夏休みはまだだけど、今日は授業は終わったから、みんなで泳ぎにきたんです。お兄さんはどこから来たの?」
「東京」
「東京か。いいな。私も中学校を卒業したら東京に行きたいの。沖縄アクターズスクールってあるでしょ。あそこに入ってダンスのレッスンがしたいんだけど、親が許してくれないんですよ」
「きみは小学生?」
「六年生なんだけど、中学生になったら親を説得してアクターズスクールに入って、歌とダンスのレッスンをして、高校は東京に行きたい。でも、親が許してくれそうにないんですよね」
「大人ってそうだろうな」
 六年生にしては伸びやかな肢体の、沖縄人らしい目鼻立ちをした綺麗な子だ。
「俺は乾隆也っていうんだけど、名前を聞いていい?」
「さなこ、こう書くの」
 佐奈湖、だった。
「佐奈湖ちゃんか。綺麗な名前だね。俺の祖母はひらがななんだけど、さな子っていうんだよ。音は同じだね」
「おばあちゃんと同じ?」
「きみの名前の文字は現代的じゃないか。ばあちゃんと同じっていやかな」
「いやでもないけど、乾さんったら、サナをナンパしようとしてない?」
「十年後に東京で再会したら、ナンパさせてもらうかもしれないよ」
「そのころには乾さんは、おじさんじゃないですか」
「三十二歳だね。おじさんかな」
 十歳年下の現代美人と話していると、彼女のグループの少年少女もやってきた。十人ばかりの子供たちの仲間入りをさせてもらい、遊んでもらっていると、雑念は忘れていられる。テツヤと名乗った男の子が、俺の背中に飛びついてきた。
「乾さんって泳ぎは上手だよね。オレをおぶって泳げる?」
「やってみましょうか。きみはけっこうたくましい身体つきだから重いんだけど、やってやれないことはない。しっかりつかまってろよ」
「私もやってほしい」
 サナちゃんも言い、テツヤは言い返した。
「女の子は駄目だよ。そんなのっていやらしいもん」
「いやらしくないよ」
 俺も言った。
「きみたちをおぶって泳ぐのはいいトレーニングになりそうだな。男の子だって女の子だっていいよ。いやらしいからいやだと思う子は省いて、順番にやってあげようね。まずはテツヤ、行くぞ」
 背中で嬉しそうな歓声を上げるテツヤをおぶって泳ぎ、次々に申し出てくる子供たちにも同じようにして、心地よく疲れて浜辺にみんなですわった。最初の子供たちのグループから人数が増えているように思えるが、よそのグループの子供たちも加わってきたのだろう。
 半人前の男がひとり、他は本物の子供たちばかり。暮れてきた海岸で佐奈湖ちゃんがダンスを披露してくれ、テツヤも言った。
「乾さんも歌を歌うんでしょ? 歌ってよ」
「歌おうか。誰かには話したけど、俺は何年か後にはプロの歌手になれるようにと励んでるんだよ。俺と同じような夢を持ってる子もいるんだよね。なせばなる、なさねばならぬなにごとも、その言葉を胸に刻んで、みんな、がんばれ。俺もがんばるからさ」
「そんなのどうだっていいから、歌ってよ」
 知らない女の子が言い、俺はなにを歌おうかと考えてから言った。
「沖縄の歌っていっぱいあるけど、これはどう?」
 島唄だ。恋唄は小学生には早いかとも思ったのだが、これならばそらで歌えるのだから、歌ってみせた。

「でいごの花が咲き 風を呼び嵐がきた
 でいごが咲き乱れ 風を呼び嵐がきた
 繰り返す悲しみは 島渡る波の様
 ウージの森で あなたと出逢い   
 ウージの下で 千代にさよなら
 島唄よ風に乗り 鳥とともに海を渡れ
 島唄よ風に乗り 届けておくれ
 私の涙」

 夕方になって大人たちも海岸に出てきている。俺が歌っていると、近くにおじいさんがすわって三線で伴奏してくれていた。
「そちらの方、ありがとうございます。ところで、ウージってなに?」
「そんなのも知らないで歌ってんのかよ。さとうきびだよ」
 テツヤが言い、それはそれはどうもどうも、無知ですみません、と頭をかきつつ、続きを歌った。おじいさんは無言で伴奏してくれていたのだが、そのうちには彼も渋い喉を聞かせてくれた。

「海よ宇宙よ 神よ命よ
 このまま永久に 夕凪を
 
 島唄よ風に乗り 鳥とともに海を渡れ
 島唄よ風に乗り 届けておくれ
 私の涙
 島唄よ風に乗り 鳥とともに海を渡れ
 島唄よ風に乗り 届けておくれ
 私の愛を」

 素晴らしい。俺も子供たちとともにおじいさんに拍手を送り、最後のらら、らららら、は浜辺全員での大合唱となっていった。
「みんなは夕食の時間なんじゃないのか? 家は近いんだろ」
 おじいさんが立ち去り、静寂が戻ってきたあたりで俺が言うと、みんなして立ち上がる。が、テツヤがすわったままなので、俺は彼に問いかけた。
「どうかしたか?」
「なんだかね……腹が痛いんだ」
「海で冷えたのかな。昼に傷んだものでも食ったりしてないか」
「変なものは食ってないけど、家を出てくる前にアイスクリームをたくさん食べた」
「それかもな。歩けないか。医者に行くべきかな。誰か、近くの医者を知らないか」
「知念医院だったらここから近いよ。優しいおばさんの先生がいるの」
 サナちゃんが言ってくれ、俺はテツヤを背負って、他の子供たちに言った。
「俺はテツヤを知念医院に連れていくよ。誰か、テツヤの家に電話しておいてくれる? うちに帰ってからでいいから、頼むよ」
 ひとりの少年が請合ってくれたので彼にまかせ、俺はサナちゃんに先導されて医院へと急いだ。洋風の建物が知念医院。小児科もやっているようなのだが、診療時間ではなさそうだ。困っていると、サナちゃんが呼び鈴を押した。
「サナでーす。先生、いないの?」
 彼女の声に応じて出てきてくれたのは、高校生くらいの少年だった。
「サナちゃん、腹痛か」
「あたしじゃないの。学校の友達のテツヤだよ。海で遊んでたらおなかが痛いって言い出したから、このお兄さんがおんぶして連れてきてくれたんだ」
「東京からの観光客で、乾と申します。先生はお留守なんですか」
「知念秀介です。俺はこの医院の息子なんですけど、今日は休診日なんで母は出かけてるんです。困ったな。俺では診断もできないんだけど、とにかくテツヤを中に運んで下さい」
 すらりと背の高い秀麗な顔立ちの秀介くんに言われ、俺はテツヤを診察室に運んで横たえた。サナちゃんは不安げにテツヤに声をかけた。
「テツヤ、しっかりしろよ。そんなに痛い?」
「うん……でも、だいじょぶ……大丈夫だよ。母ちゃん……でも、痛いよぉ」
「急性盲腸炎……かもしれない。ここか、テツヤ?」
 テツヤの腹のあちこちを触ってみては、秀介くんが言う。テツヤが痛いと言った箇所で判断したのだろう。秀介くんは言った。
「俺ではどうにもなりません。別の医者に連絡して来てもらいますから、待ってて下さいね。乾さん、ご迷惑をおかけしました」
「いえ」
「サナちゃん、テツヤの家の人を呼んで」
「うんっ」
 サナちゃんがテツヤの家に電話し、秀介くんは別の医者に連絡し、俺はなんにもできずにふたりを見ていた。そうしているうちには連絡がついて、テツヤの両親も別の医者も駆けつけてくる。その医者の診断によると、急性盲腸炎であったようで、テツヤは両親に付き添われて救急病院に運ばれていった。
「乾さん、ありがとう。サナも帰るね」
「俺はなんにもしてないけどね」
「してくれたよね、秀介さん?」
「うん、乾さん、感謝します」
「いいえ。そんな……」
 俺としても困っているしかなかったのだが、サナちゃんも帰っていき、秀介くんが麦茶を持ってきてくれた。
「乾さんは成人ですか。泡盛がいい?」
「成人に達してはいるけど、泡盛ってきついんでしょ。俺は酒は強くはないから、お茶がいいです。ありがとう」
「お急ぎではなかったら、話しがしたいな」
「俺と? いいですよ」
「じゃあ、メシ食っていきません?」
「そんな、あつかましい」
「いいえ。地元の子供を助けてくれたお礼です。俺の料理なんかお礼にもならないかもしれませんけど、沖縄料理は東京のひとには珍しいでしょ。あのまんま放っておいたら腹膜炎って恐れもあったんだから、手遅れにならなかったのは乾さんのおかげですよ。食っていって下さい」
「では、ご相伴にあずかります。すみません」
 民宿は朝食のみつきなので、夕食は外で食わなくてはいけなかったのだ。しばし待つ間に夕食が完成し、泡盛も出てきて、秀介くんが話してくれた。
「俺も将来は医者になりたいんです。父はいないんですけど、母が医者ですから、俺をひとりで育ててくれました。俺は母の跡を継ぎたい。だけど、東京の大学に行きたいな、とも思ってるんですよ。乾さんは東京生まれですか」
「いや、金沢の和菓子屋の倅だよ。俺は大学は去年卒業したんだけど、金沢には帰らずに東京で歌手になるための修行をしてるんだ。親不孝息子だから、きみの話を聞いてると眩しいよ」
「親孝行はまだですよ。東京に行きたいって言うだけでも、親不孝なんじゃないかな」
「そうかもしれないけど、生まれた土地から離れてよその土地を見るのも、見聞を広めるって意味では大切じゃないのかな。お母さんには反対されてるの?」
「俺は高三だから、受験は来年なんですよね。沖縄の医科大と東京の大学の医学部を受ける予定でいるんですけど、通ったら東京のほうに行きたいんです」
「俺がきみに意見するのは筋ではないけど、やりたいことはやらなくちゃ。若いんだしさ」
「男ですしね」
「そんなに若くても男だからって言うのか」
「言ったら駄目ですか」
「いいけどね」
 高校三年生の俺は、東京に行きたいとの決意を固めていた。さな子ばあちゃんが亡くなり、両親と三人で暮らすのは気詰まりでいやだとも思っていた。浅慮な息子の東京行きを許してくれ、歌手になるから就職はしない、金沢にも帰らないと告げた息子をも、母は許してくれた。
 執行猶予期間つきなのだから、五年の間にプロになれなかったとしたら、金沢に帰らないといけない。母とのその約束は果たすつもりではいるが、絶対にそうはなりたくない。
「立派な男になれなかったら、帰ってこなくてもいいですよ」
 上京する日に母が言った言葉が耳元に蘇る。祖母も母も、男は……と言いたがったのだから、古風なひとだとはいえ、女性だって言うのだから、男が口にするのは当然か。秀介くんの凛々しく濃い眉は、意志の強い証だろう。彼は意志の強い医師になるのだろう。
「飲んで下さいよ」
「泡盛か? きみは未成年なんだから、お母さんの大切な酒じゃないのか」
「俺もちょっとは……あ、内緒ですよ」
「内緒でちびっと飲んでるのか。不良高校生だな」
「沖縄の人間は男も女もガキも飲むんです」
「ヒデも言ってたよ。ヒデって俺の仲間、後輩だよ」
 沖縄県人も酒には強いのだろうが、高知県人も強いのであるらしい。土佐生まれのヒデも小学生のころから飲んでいたのだそうで、二十一歳になった現在は、俺たち五人の中では酒には最強だ。
「俺には四人の仲間がいるんだ。フォレストシンガーズって名前のヴォーカルグループをやってて、アマチュアではあるけれど、将来的には必ずプロになる。リーダーは本橋って言って、俺と同じ年。ヒデとシゲってのがひとつ年下で、ヒデが土佐の鯨で闘犬なんだよ。そのひとつ下の幸生っておちゃらけ男もいて、五人で歌の練習をやってる日々なんだ」
 仲間たちの話し、歌の話し、本橋やヒデの喧嘩の話しやら幸生のおふざけの話しやらもした。俺の故郷の話しや母の話しもした。年の近い男ふたりなのだから、話はとめどもなくはずんで、とてもとても楽しかった。
 秀介くんの学校の話なども聞かせてもらい、沖縄料理を食い、沖縄の酒や食いものの講釈も聞いた。泡盛もふたりして飲み、歌も歌った。夜が更けてきたころにはいとまごいをした。
「ありがとう。楽しかったよ。テツヤについてはむこうのお医者におまかせでいいんだね。サナちゃんには言っておいて。きみも夢に向かって進めよ、って。秀介くん、きみもだよ。ごちそうさま。うまかった。お母さまによろしく」
 まーた説教、と小学生にまで言われたようなものだったが、秀介くんはそうは言わず、真剣にうなずいた。


 それから一年半ほど後。
 シゲもヒデも卒業し、フォレストシンガーズは依然アマチュアで、ヒデは結婚するからと脱退してしまった。俺の望みのひとつ、ひとりも欠けずにこのままずっと、はもろくも砕けたのだが、幸生が木村章を連れてきて、フォレストシンガーズは五人で歩き続けている。
 幸生は四年生になり、男子部キャプテンとなって、前例のない行事を提案した。すなわち、合唱部主催のクリスマスコンサートだ。幸生がキャプテンの強権発動でもしたのか、フォレストシンガーズがコンサートのゲストとして招かれた。
 中退している章はいやがっていたようだが、仕事なのだからと渋々、幸生が交渉して使わせてもらえることになったホールに出向いた。俺は後輩たちに会えるのをも楽しみに、みんなとホールに行った。コンサートでは現役学生たちも歌う。幸生が本日のプログラムを発表した。
「ファイブボーイズって男子のグループが、トップで歌うんですよ。酒巻がバスで、あとは一年生。酒巻だってベースヴォーカルの実力はシゲさんほどじゃないんだし、他はあれですから、片耳で聴いてやって下さいね」
 キャプテンが言っていたファイブボーイズは、準備中だった俺たちはじっくりとは聴けなかったのだが、多少は聴いた。まあ、幸生が言った通りであった。
 一年生のグループだからあんなものなのだろうが、ファイブボーイズには本橋と俺とは同年で合唱部仲間だった、椎名伊佐雄の弟の雄二がいた。雄二が酒巻に連れられて俺たちに挨拶にきたものの、他の面々とは会わなかった。
 クリスマスコンサートが終了し、俺はホールの裏庭で煙草を吸っていた。裏庭には屋根があるので、クリスマスの時期でも吹きっさらしはよけられるのだ。そこにやってきたのは、ファイブボーイズのメンバーだった。ステージはよく見ていなかったので気づかずにいたのだが、彼らのうちのひとりは俺の知り合いだったのだ。
「乾さん、お久しぶりです」
「秀介くん?」
 思いがけなくも知念秀介と再会したのだ。彼は俺が卒業した大学の、俺が所属していた合唱部のメンバーになっていた。
「雄二の兄貴が乾さんや本橋さんとは友達だったって聞いてましたけど、俺は言わなかったから、雄二は知らないんでしょうね」
「俺と知り合いだったって? どうして言わなかった?」
「どうしてでしょうね。言うと事情を詮索されるからか、フォレストシンガーズの乾さんと知り合い? 歌を教えてもらおうぜって、雄二や岸本や長嶺が言い出しそうだったからかな。酒巻さんはフォレストシンガーズのみなさんと仲がいいんだから、俺じゃなくて酒巻さんに言いそうなものだけど、酒巻さんは先輩ですからね。俺は他の奴らと同い年だから、あいつらは俺には無茶苦茶を言うんですよ」
「歌ってのは教わって上達するものでもないよ。才能がないと上限は低いんだ」
「そうなんですよね。俺は歌手になりたいんでもないからいいんですけど、雄二なんかは歌手になりたいみたいです」
「雄二って椎名の弟の、バリトンパートだな。彼は……うん、まあ……」
「やっぱりね」
 一年半分大人になってはいるが、変わらず秀麗な顔立ちの秀介くんは苦笑して、煙草のパッケージを取り出した。
「吸っていいですか」
「一年生だろ。煙草は厳禁だよ」
「乾さんも吸ってたって聞きましたけどね」
「酒巻が言ったのか。人間は大人になると勝手な台詞をほざくようになるんだよ。サナちゃんやテツヤはどうしてる?」
「覚えてるんですね」
 忘れていたけれど思い出した。秀介は……後輩になったのだから呼び捨てでいいだろう。秀介はパッケージをしまってから言った。
「テツヤは処置が早かったんで手術しないで薬で散らしました。テツヤはうちの患者でもなかったからあれから会ってませんけど、乾さんには親がお礼の電話をしたんでしょ」
「あの翌日に民宿にいらしてお礼を言ってもらって、俺が恐縮しちまったよ」
「サナちゃんは時々うちに来てましたけど、どうしてるのかな。元気でやってるでしょ」
「そうだろうな。中学生になったんだね」
「そうですね。俺はね……」
 迷ったあげくだったのか、秀介は俺を見ないで言った。
「あのとき、乾さんには話したかな。俺は沖縄と東京の大学を受験して、両方に合格したんですよ。母は沖縄の大学に行ってほしかったみたいだけど、俺は東京に行きたいって押し切った。乾さんの言葉が残ってたんだな」
「俺はなんて言ったっけ?」
「忘れたんだったらいいんですよ。それで、医学部に入学しました。医学部は大変だから、合唱部なんてやってる場合じゃないんだけど、歌は好きですから。乾さんが歌ってくれた歌も心に残っていたんですよ。乾さんがお母さんに言われた台詞も聞きましたよね。俺は覚えてますよ」
「立派な男になれなかったら、帰ってこなくていい、ってやつか。そんな話、したか」
「しましたよ。俺も立派な男になって故郷に帰って、立派な医者になろうって、あのときに誓ったのかもしれない。それまでは誓ったりはしてなかったけど、あの日の乾さんのいろんな態度でね……うん、憧れたのかな」
 言っておいて照れている。俺も照れくさくなって、煙草を新しくした。
「それでね、雄二たちには乾さんの話をしなかったのは、もったいなかったからかも。変だな。理屈になってねえや」
「人間の考えることのすべてに、理屈がつけられるものではないよ」
「そうですね。でも、フォレストシンガーズってまだプロじゃないんでしょ。だらしない。俺は歯がゆいですよ。がんばりが足りないんでしょ」
「がんばってるつもりだけど、がんばるのの上限が低いかな」
「そうかもしれませんね。もっともっとがんばって下さいよ」
「はい」
 思わずといったふうに俺の手を握り、慌てて離してから、秀介は一礼して駆けていった。
 このあとは打ち上げがあるだろうから、俺はここでみんなが出てくるのを待っていよう。三本目の煙草に火をつけたとき、ふっと思い出した。こうして連綿と続いていく合唱部……連綿と、永遠に……そんなタイトルの歌があった。
「なんだったかな。英語だったよな」
 声に出して考えていると、幸生がやってきた。幸生も煙草が吸いたくなったのか、寒いといえば寒いが、そのためにここに来たのだろう。隣にすわって煙草を取り出す幸生に、俺は言った。
「前におまえが言ってただろ。ヒデの宿題。あれってなんだった?」
「なんだっけ? ヒデさんの宿題? ありましたよね。俺が一年のときかな。えーとえーと……そうだっ」
 ぽんっと膝を叩いて言った。
「Never ending story。おー、僕ちゃんの英語の発音、最高」
「うん、最高だな。それだよ」
「それがどうか? クリスマスソングじゃないけど、歌いたくなった? 乾さんも好きですよね。あれだけ歌っても歌い足りないんだ。歌いましょうか」
「おまえに言われたくねえんだよ」
 言い返してから、幸生とふたりでデュエットした。

「Turn around
 Look at what you see
 In her face
 The mirror of your dreams
 Make believe I'm everywhere
 Hidden in the lines
 Written on the pages
 Is the answer to our never ending story
 ah ah ah」

 対訳が、対訳が、と幸生は呟いている。ヒデの宿題とはなんなのかを俺は知らないのだが、なんだっていい。終わりなき物語、俺たちの合唱部も、俺たちの道も、終わりなく続いていく。
 秀介もサナちゃんも雄二も酒巻も、その他のみんなも、みんなみんながんばれよ、俺もがんばるからさ、絶対にプロになってみせるから。な、そうだよな? と幸生を見ると、うんうんうんっ、と幸生は力強くうなずいた。

END



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