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小説102(ペニーレインでバーボン)後編

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フォレストシンガーズストーリィ102

「ペニーレインでバーボン」後編



5・敦詞

 ものごころついたころから引っ込み思案で、母は僕を歯がゆがっていた。父はむしろ、おまえは軽率には行動を起こさないのだから、いい性格なのだと言ってくれたが、僕が原因で夫婦喧嘩がはじまって、僕はびくびくと両親を眺めていたりもしたものだった。
「だって、敦詞の通信簿には、いつもいつもいつも書いてあるのよ。成績はいいしよく勉強もしますが、もうすこし積極的に行動しましょう。ほら、今年もこうよ。懇談では先生にも言われるんだから。渡辺くんは勉強は好きみたいだけど、友達と遊ぶのは苦手みたいですね、って」
「敦詞は勉強家なんだよな。友達と遊んだりするよりも、ものごとを学ぶのが好きなんだ。僕の息子なんだから、当然だよ」
「お父さんに似てこうなったのよね。静香は私に似て元気だけど、敦詞はお父さん似で消極的なのよ。息子と娘が入れ替わったらよかったのに」
「お母さん、そういう言い方は敦詞にも静香にもよくないよ」
「お父さんがそういう態度だから、敦詞はちっとも男らしくないのよ」
 そんなとき、決まって両親を止めるのは、妹の静香だった。
 たしかに僕よりも、妹のほうが活動的で男の子みたいだ。僕は女の子みたいではないはずだが、男らしいとは言えない。男だからって男らしくなんかなくていいし、女だからって女らしくなんかなくてもいいんだよ、と父は言ったが、僕にはまだ父の言葉は理解できなかった。
「敦詞は大学ではなにを学びたい?」
 父が尋ねたのは、僕が高校二年生の年だった。
「僕は法律家になりたい。この大学の法学部を受験したい」
「ほおお。おまえが自らの意思をはっきりと告げたのは、お父さんははじめて聞く気がするな。法学部となると並大抵の受験勉強では……って、おまえだったら大丈夫だろ。お父さんが心配する必要はないよ。どこの大学?」
 教師にも相談して、太鼓判を押してもらった大学の詳細説明書類を見せると、父は満足げにうなずいた。
「ここの大学にはお父さんの会社の後輩がいるよ。彼は合唱部の出身なんだそうだ。おまえは歌は好きだろ。歌うっていうのは身体にも精神にもいい。度胸もつくだろう。合唱部は有名だそうで、作曲家の真鍋草太氏もここの出身だそうだよ。おまえも合格したら合唱ってのをやってみたらどうかな」
「歌うと積極的になれる?」
「おまえの心がけ次第ってのもあるけど、もうすこし元気になりたいんだったら、それもいいと思う。まずは合格が先決だな。敦詞、がんばれよ」
 高校二年生から準備万端整え、受験勉強に励み、一年半後には志望校の法学部を受験した。合格発表を見にいき、僕の受験番号を発見し、嬉しくて泣きそうになった日のことは、一生忘れられないだろう。
「敦詞くん、合格したんだね。おめでとう」
 担任教師に報告するために高校へ足を向けると、同じクラスの陽菜ちゃんも来ていた。僕には女の子の友達どころか、男友達でさえもほとんどいないのだが、唯一親しい女生徒が陽菜ちゃんだ。陽菜ちゃん、なんて呼べるのは、彼女が僕と同じ渡辺姓だからであって、ややこしいから名前で呼んでね、私も敦詞くんって呼ぶね、と彼女のほうから言ってくれたからだ。
「法学部でしょ? さすが」
「陽菜ちゃんも合格した?」
「私の大学の合格発表はまだなんだけど、自信はなくもないかな。八十パーセントは合格したと思う。それでね、敦詞くん、私も合格していたら、大学生になってもつきあってくれる?」
「もちろん。別々の大学に進んでも友達だよ」
「友達じゃなくて……」
「え?」
「まだ気が早いよね。合格してから言う」
 陽菜ちゃんは手を上げて走っていき、僕はぽわわわわんとなっていた。今のって告白? 女の子のほうから、大学生になったら友達ではなく……と言ってくれたのか。
 僕はもう受験勉強はしなくてもよくなったのだが、暇を持て余していると陽菜ちゃんのことばっかり考えてしまう。それから数日間は、大学生だって勉強はしなくちゃいけないんだ、と考え直して机に向かっていた。
 机に向かっていても、雑念が陽菜ちゃんの幻を連れてくる。大学生になれて、恋人もできる? 僕にも本当の春が来るんだ。そんなふうにバラ色でいたのだが、陽菜ちゃんから届いた手紙で、気持ちが一気に色あせた。そこにはこう書かれてあった。
「電話しようと思ったんだけど、そんな元気もなくなってしまいました。サクラチル。自信はあるなんて、敦詞くんに言ったのが恥ずかしくてたまらない。私は浪人しますから、これからも友達でいて下さいね。敦詞くんとお喋りもできなくなるだろうから寂しいけど、がんばります。敦詞くんも大学生活、がんばって下さい」
 がががーん、だったのだが、そう言われてしまえば、僕のほうから電話をかけるわけにもいかない。来年まで待とうと決めて、陽菜ちゃんの手紙を大切にしまい込んだ。
 そうして大学に入学し、父の勧めに従って合唱部に入部した。時おり、陽菜ちゃんはがんばっているかな、と考えていたものの、邪魔になるだろうから電話もせず、手紙も書かずに我慢していた。
 法学部は一年生から勉強もハードだ。入部した以上は、僕なんかは歌は下手だとはいえ、合唱部にも力を入れなくてはならない。先輩たちは厳しくて、しごかれてへとへとになる。一年生の一年はあっという間に飛び去って、二年生になった春の日、ハードすぎる毎日に疲れて風邪を引いて寝ていると、妹が部屋に入ってきた。
「渡辺陽菜さんって、お兄ちゃんの同級生だったよね。けっこう仲がよかったんじゃない?」
「陽菜ちゃんと会ったの?」
「大学に合格したみたいよ。陽菜さんは獣医学部なんだよね」
「将来の志望は獣医だって言ってたよ」
 しかし、どうして僕には知らせてくれないのだろう。僕が連絡しなかったから悪いのか。陽菜ちゃんは僕を忘れてしまったのか、と考えて暗くなっていると、妹が言った。
「おんなじ大学の男の子なんだろうな。かっこいいひとと連れ立ってた。デートなの、って言ってたよ」
「嘘だろ」
「ほんとだよ。お兄ちゃんったら泣きそうな顔しちゃって。陽菜さんを好きだったんだよね? だけど、あの男のひととだったら勝負する前から優劣は決定的。諦めなさい」
「……そっか。別に好きでもなくて……友達なんだからいいんだけどね」
「強がり言っちゃって。でも、現実は現実よ。お兄ちゃんも同じ大学で彼女を見つけたらいいんだよ。がんばってね」
「ありがとう」
 妹は部屋から出ていき、僕は布団にもぐってすこしだけ泣いた。
 そのせいもあったのかもしれないが、風邪をこじらせて肺炎になって入院し、ようやく登校できたのは、六月になってからだった。
「おまえは知らないだろ」
 講義をきちんと受けてから合唱部室に行くと、同じ二年生の溝部が言った。
「長く休んでたもんな。肺炎だったんだって?」
「うん。もう大丈夫だよ。心配かけてごめんね」
「誰がおまえの心配なんかしてるんだよ。そんなのどうでもいいんだ。今年の一年にな……」
 ちょっと来い、と僕を部室から連れ出し、溝部が話してくれた。
「困った奴らが入部してきたんだよ」
「困った奴らって? 不良とか?」
「そういう困ったじゃなくて、俺のライバルになりそうな奴らだ」
「溝部のライバル? どういった方面で?」
「決まってるだろ。歌だよ」
 溝部は背が高くてなかなかのハンサムなのだが、歌の実力は僕と大同小異だ。この溝部と歌のライバル? 意味がよくわからない。
「キャプテンが言ってたんだけどさ、本橋と乾って一年生に、今年の夏のコンサートでデュオを組ませるらしいんだ。そんなの許されるのか」
「キャプテンが決めたんだったら、許されるんだろ」
「キャプテンが決めたって、俺は許せないよ」
「だったら、キャプテンに意見を述べたらいいじゃないか。僕はその一年生たちを知らないし、高倉さんがそう見込んだというのなら、たいした奴らなんだろうからだと思うよ。溝部が許せないって言うのは、二年生のきみを差し置いて一年生がって意味?」
「俺だけじゃないけど……他の上級生だって……皆実さんなんかはどうなるんだ。徳永はどうなるんだ」
「徳永ってのも一年生?」
「そうだよ。本橋と乾と徳永は、いずれも遜色ない歌の実力があるって、先輩たちも言ってたよ。俺も一年生の歌は聴いたけど、そりゃあ、俺よりは下手だけど、まあ、うまいんだろ。しかし、一年坊主がデュオでデビューだなんて、俺は絶対に許さない」
 息巻いている溝部は、自分の歌を上手だと決め込んでいるらしい。冗談でもなさそうなので、本気で言っているのだろう。
「だからさ、そしたらキャプテンに直訴しろよ」
「おまえも一緒に言ってくれるか」
「僕は一年生がデュオをやるったって、許せなくなんかないよ。それほどうまいんだったら、早く彼らの歌を聴きたいな」
「そんな甘いことを言ってると、下級生に合唱部を乗っ取られるぞ」
「僕らも下級生じゃないか」
「だからだろ。俺はやっと先輩の立場になれたのに、あんな奴ら……あんな奴ら。特に本橋と乾だよ。最初っからでかい面しやがって……おまえなんかに言っても無駄だよな。勝手にしろ」
 高校時代に僕は六法全書研究会というクラブに入り、そこから法律に関心を持ったのだが、こんな変わったクラブには部員はきわめて少なかった。一年生のときにはメガネをかけた女子の先輩がいたのだが、彼女は僕には挨拶くらいしかしてくれなかった。
 彼女は卒業し、僕が二年生になると、一年生がひとり入部してきた。が、彼は一月とたたず退部してしまい、それからは僕はずっとただひとりの部員だったのだ。二、三人、興味本位で入部してくる生徒がいたものの、彼らもじきにやめてしまったのだから、続いたのは僕だけだ。
 したがって僕は、クラブの人間関係なんてものには、大学合唱部で初に触れた。今年のキャプテン高倉さんは温厚な人柄だが、同じ四年生の星さんあたりは迫力もある。背が高くてかなりの美貌の持ち主で、近寄りがたい。
 ひとりで怒って溝部が行ってしまったので、僕は部室に戻っていった。渡辺敦詞という二年生を認知していない先輩もいそうな気もするが、認知してくれている先輩が話しかけてきた。
「渡辺、肺炎は全快したのか」
「はい、金子さん。お見舞いの品をいただきまして、お礼が遅くなりました。ありがとうございました」
「出てこられるようになってよかったよ。無理はするなよ」
 先輩たちにはなるたけ近寄りたくないが、金子さんならば歓迎だ。顔立ちも身長も歌唱力も素晴らしい金子さんだが、思いやりがあって優しくて、僕は彼とだけはお近づきになりたくなくもない。金子さんはさきほど、溝部も言ったようなことを、別の見解で話してくれた。
「おまえが休んでいた間に、新入部員がおおむね出揃ったよ。今年は三人も逸材がいるって、高倉さんをはじめとする四年生方は大喜びだ。本橋真次郎、乾隆也、徳永渉っていうんだけど、高倉さんは特に本橋と乾を抜擢した。本橋と乾はこれから高倉さんが鍛え上げて、夏休みの合宿でも血を吐くほどに特訓漬けにするんだそうだよ。あいつらだったらついてこられるだろ」
「金子さんも本橋と乾を買っておられるんですね」
「俺はまだ彼らの実力のほどをよくは知らないけど、高倉さんが見込んだ奴らだ。高倉さんの目にも耳にも狂いはない。俺はそう信じてる」
「そうですね。僕は先輩方ですらもよくわかってないんですけど、キャプテンの耳は鋭いっていうんでしょうか。あれはあれで一種の稀有な才能ですよね」
「高倉さんは歌唱力も相当なレベルだぜ」
「そうでした。すみません」
 先輩というものはいばっているのが普通なのだろうと、僕は合唱部に入って知った。なのだから、おっかない先輩には怖気づいてしまうのだが、金子さんにはそうでもない。病気見舞いの品物を送ってくれるなんて、他の部員たちは思いもよらないだろうに、金子さんは気配りも素晴らしいのだ。
「来たよ。渡辺、紹介しよう」
 金子さんに言われてドアのほうを見ると、背の高い男がふたり、金子さんに深く頭を下げた。
「肺炎に罹ってしばらく休んでたんだ。二年生の渡辺だよ。本橋、乾、自己紹介しろ」
「はい。乾隆也です。肺炎だったんですか。お大事にして下さいね」
「本橋真次郎です。よろしくお願いします」
「渡辺敦詞です。こちらこそよろしく」
 短い挨拶をしただけでは、彼らの性格なんぞはわかりはしない。ただ、高倉さんが見込んだ彼らの歌唱力をこの耳で聴きたかった。
 その機会はほどなく訪れ、僕は舌を巻いた。一年生にこれほどの歌を歌える男がいる。徳永も本橋も乾も、十八歳の少年のレベルは卓越している。まだまだ荒削りだと高倉さんも言っていたが、磨き上げれば輝きを増すだろう。
 溝部は彼らに嫉妬しているのだろうけれど、僕と彼らでは実力に差がありすぎて、嫉妬するなんて考えもできない。これから三年間、彼らの歌を聴ける。そのことに胸が弾んでいた。
 

 それにしたって、溝部って奴はなんだってああなんだろう。僕には関係ないもんね、とは言えなくなったのは、溝部も僕も四年生となり、青天の霹靂とまで言いたくなるほどに意外な事態に陥ったからだ。
 二年生までは先輩たちの一部には認知さえされていなかったはずのこの僕が、なにをどうまちがえたのか、キャプテンに選出されてしまった。溝部が副キャプテン。そこには諸般の事情もあったのだが、事実は事実なのである。
 昨年も一昨年も、溝部は合唱部を攪拌してくれた。昨年までは僕は、困った奴はおまえじゃないか、と溝部に言っているだけですんでいたのだが、今年はそうは行かない。なんだって僕なんかがキャプテンなんだ、と愚痴ってもはじまらない。やるしかないのだ。
「キャプテン、お疲れですか。肩をおもみしましょうか」
 夜になっても部室に残り、我知らずため息をついていると、今年の一年生が入ってきた。
「三沢? まだいたのか。きみは一年生なんだから、遅くなると親御さんが心配なさるだろ。早く帰らないと。僕も帰るから一緒に出よう」
「俺はひとり暮らしですから、親は心配しません。俺の名前を覚えて下さったんですね。うーれしいな」
「嬉しいか? そうか。ひとり暮らしなんだね。とにかく、出ようか」
 三沢幸生。僕よりも背が低く、あどけない少年の雰囲気を残している。凄まじくよく回る口と頭で早くも合唱部を攪拌しかけているのだが、溝部の攪拌とは意味がちがう。
 彼と知り合ってから日も浅いので、僕にはまだ彼をこういった男だと断言はできない。だが、本橋、乾、徳永以来の逸材の登場だとは感じていた。
 もうひとり、木村章という一年生もいる。三沢も木村も声が高く、本橋たちが入部してきたとき以上に荒削りだと思えるのだが、磨けば彼らと同等には輝く。高倉さんが本橋と乾を研磨し、金子さんが徳永を研磨したように、僕も三沢と木村を磨き上げてみたかった。
 その方法はどうする? 三沢と木村にもデュオを組ませるのか。それでもいいのだが、三沢と木村は声質がやや似ている。デュオ向きではないかもしれない。
 本橋はバリトン、乾はテナーなので、彼らのデュオはハーモニーも美しく、聴く者の心に熱くしみ渡る。徳永はハスキー気味のテナーであるから、彼にはデュオはやらせなかったのだろうと、高倉さんの意図にも気がつくようになっていた。
 この小柄な少年をどう磨こう? 彼が入部して以来、僕の胸を占めている思いを再確認しながら、僕は三沢と連れ立って歩き出した。
「きみは横須賀だったね。学校は近いんじゃないのか」
「遠くはないんですけど、俺んちには妹がふたりいるんですよ。猫も二匹いるし、母ちゃんもやかましいし、家にいたら勉強できないから独立したんです」
「僕にも妹はいるけど、うちの妹はそんなにやかましくはないよ。お兄ちゃんはだらしないね、しっかりしなさい、って発破をかけられるけどね」
「うるさくない妹っているんですか。うちの妹たちはもうもうもう、口から先に生まれたってのはあいつらでして、俺だって口は達者なつもりですけど、ふたりがかりで攻撃されたら負けちゃうんですよ。僕ちゃん、泣いちゃうんです」
「この三沢幸生を口で負かして、泣かせるとはたいした妹さんたちだな」
 三沢がよく喋るのは知っていたが、一対一で話すのはほぼはじめてだ。興が乗ってきたので誘ってみた。
「ひとり暮らしだったら食事には不自由してるんだろ。食べて帰ろうか」
「おっ、ごちそうさまでーす。嬉しいな」
「きみは……いや、いいよ」
「どうかしました? 俺、失礼なことを言いましたか。ごめんなさい」
「失礼ではないよ。じゃあ、行こう」
 きみは可愛いな、と言いかけたのだが、男同士でそう言うと、気持ち悪がられるかもしれないのでやめておいて、三沢をカフェへと伴っていった。
「ペニーレイン? ビートルズですか」
「うん。去年のキャプテンだった金子さんに、二度ほど連れてきてもらったんだ。この店のママさんはビートルズがお好きなようだよ。うちの学生にはここの常連になってる人もいるんだけど、いつ来てもビートルズがかかってるって聞いた」
「ほんとだ。ラヴミードゥですね」
 ドアを開けるとビートルズの曲が耳に入ってくる。豊満な体型のママさんが僕たちを迎えてくれ、三沢とふたり、窓際の席に向かい合って腰かけた。
「ここは喫茶店が基本なんだろうけど、時刻によっては酒も出すし、食べ物のメニューも豊富だよ。なにを食べたい?」
「えっと、カツカレーってあります? 頼んでいいですか」
「なんでも食べていいよ」
「はい、カツカレーですね」
 注文を受けてくれるママさんに、僕も同じものを、と頼んで、三沢に向き直った。
「きみはどんな歌が好き?」
「俺は変な趣味だって言われるんですよ。若いくせにって言われるんですけど、昔のグループサウンズや歌謡曲が大好きなんです。ビートルズも好きです」
「僕もビートルズは好きだな。きみは誰かに勧誘されて入部を決めた?」
「いえ。俺はボーイソプラノだった時代には、少年合唱団に入ってましたから、大学のサークルも合唱部を選んだんです。キャプテン、おまえは今でもボーイソプラノだろ、って言わないで下さいね。言われすぎてますから」
「言わないよ。子供のころの三沢のボーイソプラノか……聴いてみたかったな。そうすると、歌が上手なのは当然だね」
「俺も下手ではないつもりだったんですけど、本橋さんと乾さんって方が……較べるな、馬鹿、でしょうか」
「先回りして言うなよ。彼らとは較べるにはまだ早いけど、きみのその甘くて高い声は、本橋や乾とは別種の……そうだな。ああ、いいかもしれない」
「なんですか」
 もっとよーく考えてから言うよ、との意味を込めて、僕は首を横に振った。
 僕に合唱部入部を勧めた父も言っていた、真鍋草太氏という作曲家がいる。彼は僕らの大学の合唱部の大先輩で、僕の両親に近い年頃だ。合唱部に入部してから、真鍋氏が残した合唱部のテーマソングがあると知った。
 「森の静寂と喧騒」と名づけられた組曲は、男声合唱のために作られている。とりわけ、テナーが重要な曲だ。あれがいい。三沢と木村のテナーを中心にして、一年生たちに男声合唱をやらせたい。短慮に口にしてはいけないが、僕の気持ちではそう決めた。
「きみの妹さんたちの話をして」
「雅美と輝美ですか。あんな奴らの話なんて面白くないですよ」
「きみが喋ってるのを聞いてると面白いよ」
「どういう意味だろ。ま、いいか。俺、喋るの大好きですし。聞いてて疲れたら言って下さいね。では、三沢幸生、参ります」
 耳では三沢の賑やかなお喋りを聞き、耳の片隅にはビートルズの歌も聞こえる。頭では合唱に思いをめぐらせる。父さん、僕は合唱部に入ってよかったと思うよ、と心で独言も呟いた。
 こんなふうに積極的に、ものごとをやってみようとするようになったのは、きっと合唱部のおかげだ。僕なんかをキャプテンに選んだみんなを恨みたくなったりもしたけれど、合唱部で鍛えられた恩返しをしよう。
 そうか。僕がキャプテンとなったのは、きっとそういう意味での神さまのはからいだったんだな。ひとりでうなずいている僕の前で、身振り手振りもまじえた三沢幸生のお喋り独り舞台が繰り広げられていた。


6・尚吾

 以前はうちの大学の学生たちが足しげく通っていたという、「ペニーレイン」。近頃はどうなんだろ、流行ってなくなりつつあるのかな、との噂もあるのだが、俺もその店をこの目で見てみたくて、ランチがてらに寄ってみた。
 酒も飲めればメシも食える、カフェというか喫茶店というか。「ペニーレイン」はそのような店だった。
 店に入ると曲が流れている。俺は演歌が好きなのだが、ビートルズだって嫌いではない。ビートルズの歌の知識は乏しいが、聴いたことはある曲だし、「ペニーレイン」はビートルズのレパートリーだとは知っているから、この曲もビートルズなのだろう。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
 テーブルに寄ってきたのは、年頃は俺と同じくらいに見える人物だった。
「焼肉ピラフとアイスコーヒー」
「はい。あのぉ、お客さんは……」
 俺たちの大学の名前を口にし、そこの学生さん? とそのひとは尋ねた。
「そうですよ。俺はそこの学生で、三年生の尾崎尚吾といいます」
「尾崎さんね。僕よりも年下なんだ」
「そうですか。それがなにか?」
 えらく女っぽいが、男ではあるだろう。僕と言っているのだし、こいつが女だった薄気味悪い。いや、男にしてもすこし薄気味悪い奴なのだが。
「尾崎さん、星さんって知ってる? 合唱部にいらした方だよ」
「俺も合唱部なんだけど、知らないな」
「あら、そうなの。合唱部?」
 太ったおばさんだけど美人、と噂されているママさんの姿は見えない。店は暇であるようで、カウンターにカップルがいるだけだ。俺は昼前から講義をさぼっているので、真面目に勉強している学生たちはまだ来ない。
 なので、このひとも暇なのだろう。料理人は別にいるので彼にオーダーを通してから、俺の席に戻ってきた。
「皐月っていいます。よろしくね」
「はあ」
「星さんはもう卒業しちゃったんだな。そりゃそうだよね。噂も聞かない?」
「金子さんの噂だったら聞いたけど、星さんってキャプテンじゃなかったんじゃないんですか。いつごろ合唱部にいたんですか」
「ええとね……あれは……荻野さんが……んんとね……尾崎さんが……星さんは僕よりもひとつ年上で、すると、彼が大学一年だったのって……つまり、今は星さんは二十六歳くらいかな」
 すると、俺よりも六つ年上か。そんなに年上の先輩なんて、彼がキャプテンをつとめていなかったとしたら、名前すらも知らない。荻野さんって名前も知らない。
「星さんってひとがどうかしたんですか」
「うん。僕ね、星さんと同じ大学に入りたくて、一生懸命勉強したんだよ。だけど、三回も受験したのに落ちちゃって、それ以上は親も受験させてくれなくて、働けって言われたの。フリーターやってたんだけど、仕事もクビになっちゃうんだよね。この店にはたまに星さんも来てたし、僕も時々来てたから、頼んでみたらママさんが雇ってくれたんだ」
「今はここで働いてるんですね」
「そう。僕、頭よくないんだな」
「俺も頭なんかよくないけど、うちの大学はそんなに程度は高くないけどな」
「それでも僕は合格しなかったんだよっ」
 声までが女っぽい気もする。今年のキャプテンの三沢さんに似ていなくもない声だ。声はいいとしても、なんだかとっても薄気味の悪い男である。星さん、星さんって、俺はそんな先輩は知らないってのに。
「星さんに会いたいな。大学にいらっしゃらないの?」
「来ないんじゃないかな。俺は知りませんよ。皐月さん、厨房からシェフが呼んでる」
「ああ、ごめんなさいね」
 ピラフとコーヒーを運んできて、またまた皐月さんは俺に言った。
「もしも星さんがいらしたら、僕に教えてね」
「はい、わかりました」
 そこでやっと別の客が入ってきたので、皐月さんはそっちへと行ってしまった。星さんがなんだってんだ? 考えてもわからないので、ピラフに気持ちを切り替えて、うん、うまい、となって満足はした。
 皐月なんて男のことはしばらくは忘れていたのだが、彼女とデートしていて思い出した。現在の俺の彼女は、合唱部出身の榛名沙織、俺よりはふたつ年上なので、去年卒業して書店勤務になっている。沙織ならば星さんを知っているのだろうかと、質問してみた。
「星さんね……名前は聞いたことがあるみたいだけど、私よりも四つ年上の計算になるんだよね。そうなると知らないはずだな。だけど、こう……聞き覚えが……」
「あるのか? それにしたって、女の子だったら星さんを好きで、だから会いたいんだろうって思うけど、男だぜ、あいつ」
「男だとしても、星さんを好きだったんじゃない? 尚吾の話を聞いてたら、そうじゃなかったのかなぁって……星さん、星さん……うう、思い出せない」
「男が男を好きになるのかよ」
「尚吾だって、乾さんとかは好きだったんでしょ?」
「好きったって種類が……」
 男が女を好きになるように? 女が男を好きになるように? ぎゃぎゃっ、想像もしたくない。だが、そういった趣味の奴もいるのだろう。沙織の言う通りなのかもしれないので、もしも星さんと会ったとしても、皐月について話すのはやめておこう。
 しかし、星さんにもそんな趣味があったのか? そしたら、星さんも皐月に会いたいのか? そんなこともあるんだろうか。
 まったく知らない先輩の星さんの趣味を、俺が知っているはずもない。星さんと皐月ってどんな関係だったんだ? 想像したくもないのに想像してしまっていると、俺と同じに考えていた沙織が言った。
「ちょっと思い出してきた。女子部の先輩に聞いたんだよ。星丈人さんっていう、すっごくかっこいい先輩がいたって。星さんは誰かと恋人同士だったんじゃないかな」
「男子と?」
「ちがうよ。女子部の誰か」
「そうすると、星さんは変な趣味じゃないんだよな」
「男同士だって変でもないんじゃない?」
「変だよ。どっちなんだよっ」
「女子だよ」
 断言してくれたので、俺が安心する必要もないのに安心した。
「かっこいい男子の先輩って、私が知ってる時代にもいたよね。今はいる?」
「俺がいるじゃんかよ」
 ぎゃははと笑われて気を悪くしたものの、かっこいい男の先輩を、俺も思い出した。
 男が男をかっこいいと思うのは、喧嘩が強いだとか、メカに強いだとか、車やバイクの運転がうまいだとか、そういった方面が主だろう。俺もガキのころには、F1ドライバーあたりに憧れた。格闘技選手にも憧れていた。
 が、大学合唱部に入部して、歌がうまい男もかっこいいんだと認識するようになった。俺が一年生だったときのキャプテンと副キャプテンは、うまいだなんてひとことで言えるほどではないほどに歌が上手だったのだ。
 キャプテン本橋さんは、背が高くてかっこ悪くはないが、顔立ちは怖そうで、事実、けっこう怖かった。俺と同い年の酒巻なんかは、卒業してしまった本橋さんがいまだに怖いらしい。俺も彼と会ったらびびらなくもない。
 おまけに本橋さんは喧嘩も強い。喧嘩が強くて歌がうまくて、これで顔がもっとよかったら、フォレストシンガーズもさっさとデビューできるはずなのに。
 フォレストシンガーズってのは、その本橋さんと乾さん、去年卒業した本庄さんと小笠原さん、現キャプテンの三沢さん、男子合唱部出身者ばかりで結成されたヴォーカルグループだ。まだアマチュアなのだが、デビューできないのは顔がよくないせいか?
 なんのせいだか俺は知らないけれど、本橋さんだった。
 一昨年、俺が一年生だった年に、同じ愛知県の高校出身の友達のうちで、東京に来ている奴らと同窓会をやった。
「尾崎は合唱部にいるんだって? おまえんとこの学校の合唱部って有名なんだろ。見学させてくれよ」
 そう言い出した奴がいて、ならば、と俺は友達数人を部室へと連れていったのだ。
 先に立って歩いていく俺のあとからついてきていた奴らが、なにが原因なんだかは知らないがもめはじめ、そのうち喧嘩がおっぱじまりそうになった。面白がった他の奴らも加わって、俺も巻き込まれて、ガキの喧嘩のようになっていったのだった。
「尾崎、こんなところでなにをやってるんだ」
「あ、本橋さん……キャプテン」
 その場所は部室に近くて、たまたま部室にいた本橋さんに外の口論が聞こえたのだろう。外に出てきた本橋さんが、俺に声をかけたのだ。これこれこうで、と説明すると、本橋さんは大声を張り上げた。
「やめろ。馬鹿野郎!!」
 殴り合いをはじめそうになっていた奴らは、その声の迫力に怯んで手を止めた。それでもやりそうになっていた奴らがいて、本橋さんはそいつらに近づいていき、ひとりを投げ飛ばし、続いてもうひとりも投げ飛ばした。
 あまりの手際のよさに俺はあっけに取られ、他の奴らもほげっと本橋さんを見ていた。と、ひとりが本橋さんの隙を見て蹴ろうとした。本橋さんは振り向きざま、そいつの脚を押し戻した。ものすっげえかっこよかった。
「尾崎の友達だって? おまえらは東京に喧嘩しにきたのか。やりたいんだったらまとめてかかってくるか? 男ってのは時にはそうやってストレス発散したいんだよな。いいぜ、かかってきても」
 あの本橋さんの笑みもかっこよかったのだが、気迫に負けた俺の友達連中はうなだれ、その後、本橋さんがおごってくれてみんなでラーメンを食った。
 一年生の夏合宿では、乾さんに叱られた。俺がガキじみたいたずらをやったせいだったのだが、喧嘩が強そうにも見えないにしても、歌はうまいのだし、口も立つし、乾さんもかっこいいんだな、と思ったものだった。
 であるから、俺は本橋さんも乾さんも尊敬している。だからって好きではないけど……好きなのか? わかんねえ。
 小笠原さんには、沙織にキスしようとした三沢さんを殴ろうとした俺が止められ、三沢さんと頭と頭をごっつんこさせられた。本庄さんとの思い出ってのは特にはないが、あのバスの声は印象に残っている。
 お喋りでフットワークが軽すぎる三沢さんは、尊敬してるか? と訊かれると困るのだが、彼はこれからももうすこしは見ていられるので、そのうちには評価も決まるだろう。
 そんなわけで、俺はフォレストシンガーズの先輩たちは、皆々多少は尊敬している。なにしろみんな歌はうまいのだから。にしたって、女の子を好きになるようには好きにならない。俺には断じてそんな趣味はなーい。
「金子さんも皆実さんもかっこよかったよ。本橋さんも乾さんもかっこよかったよね。徳永さんもかっこよかった。今はいないの?」
 沙織が言い、俺が、ともう一度言おうとしたらせせら笑われた。
「本庄さんと小笠原さんは?」
「シゲヒデか。彼らはかっこいいとは……ヒデくんは顔は悪くはないんだけど、なんでだろうね。かっこいいとも思えない。同い年だからかもね」
「三沢さんは?」
「彼は可愛いよね」
「可愛くねえぞ、あんな奴は」
「まだ妬いてるの?」
 年上の余裕で微笑む沙織を見て、俺は考えていた。
 星さんと皐月なんてのは俺には関係ないから放っておこう。フォレストシンガーズは早くデビューできたらいいな。それから俺は? 俺も演歌歌手になれたらいいな。沙織にそう言ってみたとしたら、がんばってね、きっとなれるよ、と言ってくれるだろうか。
 いいや、なれると決まってから言おう。よかったね、おめでとう、と俺を抱きしめてキスする沙織の可愛い仕草を想像していると、夢に向かってがんばろうという気持ちになれた。


7・稔

 好きな子はいるのだが、彼女はそ知らぬ顔をしている。口説こうとしてもまともに聞いてくれないのだから、どうしようもないではないか。
 大学に入って合唱部に入部し、夏合宿で同室となったのが縁といえばいえる格好で、俺にはサークル内に親友が三人もできた。椎名雄二、長嶺彰浩、知念秀介、そして俺、岸本稔。男子部のお馬鹿な四人組だと女子部で言われているのは知っているが、馬鹿でもいい。馬鹿でもいいから彼女がほしい。けれど、できないのだ。
「岸本くん、フォレストシンガーズがデビューしたんだよ。雄二に聞いた?」
 二年生になった秋の日に、合唱部の四年生、酒巻さんが教えてくれた。
「あなたがここにいるだけで、って曲でデビューしたんだ。素敵な歌だよ。本橋さんがリードヴォーカルで、あの顔に似合わず……あ、僕、なんにも言ってないからね。それはともかく、素敵な素敵な声で歌ってるんだ。乾さんと本庄さんと三沢さんと木村さんのハーモニーも最高」
 フォレストシンガーズは知っている。去年のクリスマスコンサートにゲストで来てくれていたので、一応は姿も見た。合唱部の先輩たちだとも知っている。酒巻さんは五人のメンバー全員と知り合いなのだが、俺は三沢さん以外は知らない。
 三沢さんは去年のキャプテンだったのだが、本庄さんは三沢さんの一年上だ。当初は本庄さんと同い年の小笠原さんってひとがいて、彼は脱退したとも聞いていたが、俺の見知らぬ先輩の話は、あまり実感も湧かなかった。
 乾さんは本庄さんよりさらに一年上で、本橋さんは乾さんと同い年。木村さんってのは大学を中退したものの、小笠原さんのかわりに入ったのだそうだ。
 本橋さんと三沢さんは、四年生当時にはキャプテンだった。乾さんは本橋さんの年の副キャプテンで、酒巻さんは当時一年生だったから、お世話になったのだそうだ。お世話にもなり、怒られもし、鍛えられもし、といった話しも聞いていた。
 聞きはしてもピンと来ていなくて、あのお喋り男の三沢さんは、歌ってても喋り出すんじゃないか、と危惧したりもしていた。しかし、デビューしたと知って、俺も嬉しくなくもない。俺たちの先輩たちがプロのシンガーズ。関係ないのかもしれないけれど、晴れがましい気持ちにもなれた。
「今日は雄二も長嶺くんも知念くんも来てないの? 岸本くんだけか。ひとりだけだったらお金も足りそうだね。お昼をおごってあげるから行こうよ」
「学食ですか」
「僕は貧しいんだよ。ごめんね」
 おごってくれるってのにあやまるとは、酒巻さんらしい。
 なぜだか酒巻さんは、後輩でも呼び捨てにはしない。言葉遣いも異様なまでに丁寧だ。雄二だけは呼び捨てなのもなぜだか知らないが、あいつが人なつっこいせいなのかもしれない。
 去年、三沢キャプテンの提言により、クリスマスコンサートで下級生たちもステージに立てることになった。雄二たちと相談し、酒巻さんにも相談に乗ってもらって、長嶺と知念も加わった俺たちのグループ「ファイブボーイズ」がデビューした。
 緊張しすぎて震えそうになっていたものの、ステージで歌うってなんて気持ちいいんだろう、とも思った。そのときから酒巻さんとは親しみが強くなって、雄二と同じくらいには俺もお世話になっている。
 男子部には乱暴な男もいなくもないのだが、酒巻さんは全然乱暴ではない。優しすぎて繊細すぎて、男がそんなだと将来が危ぶまれるぞ、と言いたくなる。後輩が差し出口をきくのもなんだろうから言わないけれど。
「酒巻さんは歌手になりたくないんですか」
 学食でランチをおごってもらって食いながら、俺は言った。
「酒巻さんのそのバスの声って、かっこいいですよね。フォレストシンガーズでは本庄さんがバスなんでしょ? 酒巻さんも本庄さんみたいに、男のヴォーカルグループのベースマンってどうですか」
「僕は本庄さんほどの歌唱力はないよ。きみたちとのファイブボーイズは楽しいけど、歌を仕事にできるほどの才能はないんだ。自覚はしてる。僕も高校生のころには歌手になりたかったんだけど、最近は志望を変えたんだ。アナウンサーになりたい」
 その声でアナウンサー? 低い声のアナウンサーもいるだろうけれど、酒巻さんの声は低すぎるのではなかろうか。
「去年くらいから養成所にも通ってるんだよ。それで合唱部を怠けて、三沢さんに叱られたりもしたな。僕は中学、高校のころは無口だったんだ。無口っていうか、話すのが嫌いだったんだよ」
「今は無口でもありませんよね」
「三沢さんのおかげだよ。乾さんのおかげもあるかな。僕も大学四年になって、幼い大学一年生だったころよりは、ものの道理ってのもわかるようにはなってきた。合唱部の先輩たちのおかげで、僕のコンプレックスも半減はしたんだもんね」
 コンプレックスとは? 身長の低さか。声は低くてもむしろかっこいいだろうからいいはずだが、他には酒巻さんのコンプレックスは思い当たらない。顔立ちだって悪くはないはずだ。
「叩かれたりすると痛いけど、その痛みは……」
「酒巻さん、誰に叩かれたんですか?」
「うん、それはいいんだ。岸本くんって喧嘩なんかしたことある? 男同士の殴り合いってのは?」
「小学校くらいのときだったらやったかな」
「今どきって男だってそうだよね」
 喧嘩が弱そうなのがコンプレックスか? それならばわからなくもない。俺は失礼な台詞は口にしないようにして、考えるだけにとどめていた。
「女の子のほうがつかみ合いしたりするんじゃないの? 僕は女の子にも負けそうだな」
「そんなことはないでしょう。酒巻さん、彼女ができたんですか。その彼女に叩かれた?」
「女性に叩かれた経験はないけどね。姉にもないよ」
「俺は姉ちゃんにはよく殴られましたよ」
「そうなんだ。年齢が近いからでしょ? 僕の姉はうんと年上だから、いつもいつも優しかったよ。父も母も優しくて、小学校からずーっと、先生たちも穏やかな方ばかりだったんだ。僕は大人に叱られた経験が少なかったんだよ」
「いいじゃないですか。俺なんかは小学校のときはいたずらしたりして、先生にもしょっちゅう怒られてましたよ」
「そういう育ち方をしたひとのほうが、強いんだろうな」
 妙にしみじみと言う酒巻さんは、強くはないのだろうか。そうだろうな、とは思ったが、失礼な台詞は言わないようにしなくてはならない。
「強いばっかりがえらいんでもないでしょう?」
「岸本くん、きみは本当にそう思ってる?」
「えーと、そりゃまあね、男は強いほうがかっこいいかなぁ、と……」
「でしょ? そんなら言わなくていいんだよ」
「はい」
 優しい口調ではあるが、毅然とした調子でもあった。弱いのが酒巻さんのコンプレックスか。俺は弱くなんかないつもりだから、そんな男の気持ちはわからない。酒巻さんにはなにかあったのか。だけど、俺にはどうしようもないし、と思っていたら、酒巻さんが顔を上げてにこっとした。
「稲木さん、ひとり? よかったら三人でごはんを食べようよ」
「あ、こんにちは、酒巻さん。岸本くんもいるんだね」
 えりかちゃんだ。俺が小学生のときの初恋のひとだった。小学生のころにはただ、可愛いな、あんな子と友達になりたいな、と思っていて、友達にはなれたのだが、小学生がそれ以上に進むわけにはいかなかった。
 中学校、高校は別々だったのだが、大学に入って合唱部にも入ったら、女子部にえりかちゃんがいた。今度こそ友達ではなく、それ以上の仲になりたくて口説いてはみたのだが、えりかちゃんはまったく真面目には取り合ってくれない。
 こうなると酒巻さんは邪魔になり、なんとかしてふたりきりになれないものかと頭をめぐらせつつも、三人でメシを食っていると、えりかちゃんが言い出した。
「夏休みに海の家でアルバイトしてたんです。仕事は仕事なんだけど、休みの日にはいっぱい遊べて、楽しいアルバイトだった。それでね、酒巻さん、聞いてくれます?」
「いいことがあったの?」
「そうなんです。いっしょにアルバイトしてた、別の大学の同い年の男の子がね、この間電話してきて、つきあってくれない? って」
「へえ。OKしたの?」
「かっこいい男の子だし、優しいし、つきあってみようと思ってるんですよ」
「そうか。よかったね」
「はい」
 嬉しそうに酒巻さんに報告しているのは、俺にも聞かせるためだろう。酒巻さんは俺がえりかちゃんを好きだと知っているのかどうか、俺は話した覚えはないが、雄二あたりが言ったかもしれない。酒巻さんが俺をちろっと見た目には、特に感情は読み取れなかった。
 バイト先で知り合った男なんて、海辺ではかっこよく見えたとしても、本当にかっこいいかどうかなんて……俺はえりかちゃんを止めたかった。けれど、止めたとしてどうなる? あんたに関係ないでしょっ、と言われるだろうか。
 何度も口説いたのだから、えりかちゃんは俺が彼女を好きなのは知っている。なのに俺の前で酒巻さんに話すってことは、岸本くんは私にふられたんだよ、と教えるためか。
 意地の悪い女だ、と怒るべきか。なんにも知らずにさらに口説くよりましだと考えておくべきか。どうしたらいいのかもわからなくなって、俺は席を立った。
「午後から大事な講義があるんです。酒巻さん、失礼します。えりかちゃん、よかったね」
「うん、またね」
「ばいばーい」
 気づいているのかいないのか、酒巻さんは小さく手を振り、気づいているに決まっているえりかちゃんもあっさりと手を振った。
 つきあってももらえなかったのだから、失恋とも呼べないのかもしれない。だけど、俺の気持ちは失恋だ。一年以上もえりかちゃんが好きで、口説いて口説いて口説きたおしたら、いつかはうなずいてくれるかもしれないと思っていたのに。
 普通だったら気持ちいいはずの秋の風が身にしみて寒い。大事な講義なんてないので、学食から出て学校も出て、うら寂しい気分で歩いていった。あてもなくぐるぐると歩き回っているうちに、時間がたって脚がくたびれてきた。
「ああ、ここ……先輩の誰かが言ってたよな」
 「ペニーレイン」という名のカフェだった。いつもはこっちのほうには来ないので、店名くらいしか聞いたことはなかったのだが、誰かが酒も飲める店だと言っていたのを思い出した。入ってみると、太目のおばさんが出迎えてくれた。ママさんなのであろう。
「えーっと、あんまり強くないアルコールは……」
「ビールでよろしいですか」
「ビールじゃなくて、男の酒を」
 あらら、と言いたそうな顔をしたママさんは、未成年じゃないの? とも言いたそうに俺を見た。実はまだ二十歳にはなっていないのだが、もうじきなのだからかまわない。
「俺は大学二年、二十歳です」
「そうですか。じゃあ、バーボンはいかが?」
「バーボンって飲んだことないな。おいしいんですか」
「おいしいですよ。水割りにしましょうね」
「はい、お願いします」
 店は混んでいて、たったひとつあった隅っこの空席にかけていた俺のそばに、ひょろっとした人間が立った。
「あなたは大学生?」
「はい」
「ママさんと話してたのが聞こえてきちゃったんだ。合席させてもらってよろしい?」
 他人は邪魔だったのだが、他には空席がなさそうだったので、やむなくうなずいた。
「あなたの大学はあそこの……?」
 皐月と名乗った人物は、女に見えなくもなく、男にも見えなくもないひとだった。俺の大学の名前を出す皐月さんに、そうです、そこです、と答えてから、俺は尋ねた。
「失礼ですけど、女性ですか」
「男です。失礼ね」
「あっと、すみません」
「いいんだ。時々はそう聞かれるから。僕は去年にはこの店でアルバイトしてたんだよ。えーと……あなたのお名前は?」
「岸本です」
「岸本さんは大学二年なんだね。そしたら僕よりずーっと年下。ずーっとってほどでもないけど、僕にとってはずいぶん年下に思えるな。僕は大学生にもなれず、アルバイトも長続きせず、この店で働いてるとつらくなってくるから、ここも最近になってやめちゃったんだ。あのひとのこと、以前にはあなたの大学の学生さんに質問してみたりしたけど、もう誰もあのひとを知らないんだよね」
「あのひととは?」
「岸本さんだって知らないでしょ。もういいの」
 寂しそうな切なそうな瞳。俺もこんな目をしているのだろうか。
 想像するに、皐月さんは俺の大学の、俺よりはずっと年上の女性が好きだったのだろう。つきあって別れたのか、俺と同じにつきあいもしないで別れたのか。そこまでは知らないけれど、彼もきっと好きな女の子に失恋したのだろう。
 ママさんがバーボンウィスキーの水割りを運んできてくれ、皐月さんはそれを見て、僕もバーボン、と注文した。ママさんがちらっと変な顔をした意味は、俺にはまったくわからなかったのだが、気にもせずに言った。
「俺も失恋したんです。俺は強いつもりだったけど……ついさっき、学食で先輩と話してて、そのひとはちっこくて弱そうだから、こんな男の気持ちなんかわかんねえや、って思ってたんですよ。だけど、俺も今は……結局、俺だって弱いんだよな」
「俺もって……わかる? 僕もだよ」
「そうなんでしょうね。なんとなくわかりましたよ」
「ペニーレインでバーボンを飲んでるんだよね。ママさん、ぴったりの歌があるじゃない? リクエストしていいですか」
 カウンターのむこうのママさんが目顔でうなずき、曲が流れてきた。
「この店は名前からしても、ビートルズ好きのママさんだってわかるでしょ? 岸本さんはこの曲は知ってる?」
「ビートルズじゃありませんよね。日本語だもんな」
「今のあなたと僕には、ぴったりの歌」
 字余りみたいなおかしなメロディラインである気がするが、俺は歌詞に耳を澄ましてみた。

「どうせ力などないのなら 
 酒の力を借りてみるのもいいさ 
 こうして今夜も原宿ペニーレインで 
 原宿ペニーレインで飲んだくれてる ペニーレインでバーボンを 
 ペニーレインでバーボンを 今夜もしたたか 酔っている

 あまりに外は上天気すぎて
 雨のひとつもほしくなり
 こんな上天気は僕には似合わないんだと
 肩をすぼめて歩くとき
 陽気に生きていくことが
 なんだかみっともなくなるよね」

 原宿ではないけれど、ぴったりじゃない? と皐月さんが俺を見つめる。
 外は上天気というには暗いが、夕方になっているのだから暗くても当たり前だ。真昼間から酒を飲むのはまずいだろうから、夕方になっていてよかった。けれど、窓の外をすかし見てみれば、一番星も見える。上天気だ。
「ここで同席したのもなにかの縁だね。したたか酔う?」
 皐月さんの前にも運ばれてきた水割りのグラスを、俺のグラスと軽く合わせた。
「そこまで飲むと帰れなくなりますから、適当にね……うーん、うまいのかな、バーボンって」
 ひと口飲んだバーボンの水割りは、俺にはうまいとも感じられなかったが、大人の男の失恋の味って気はした。
 この歌のタイトルは知らないが、「ペニーレインでバーボンを」とでもいうのだろうか。たしかにあまりにもぴったりすぎて、涙が出そうだ。だけど、だけど、ペニーレインで見知らぬ男とふたりして、互いに失恋の味を味わっている。これぞ大人の男のひとときかな、ではあったのだった。

END
 
  

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