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小説102(ペニーレインでバーボン)前編

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フォレストシンガーズストーリィ102

「ペニーレインでバーボン」前編

1・丈人

「時がたってしまうことを 忘れてしまいたい時があるよね
 すべてのものがなにもかも 移り変わってはいるものの
 何となく自分だけ意地をはり通して 
 さからってみたくなる時があるよね
 そんな時 僕はバーボンを抱いている 
 
 どうせ力などないのなら 
 酒の力を借りてみるのもいいさ 
 こうして今夜も原宿ペニーレインで 
 原宿ペニーレインで飲んだくれてる ペニーレインでバーボンを 
 ペニーレインでバーボンを 今夜もしたたか 酔っている」

 この店は原宿ではなく、俺たちの大学からほど近い場所にある。店の名は「ペニーレイン」。俺はまだ大学一年生なのだから、バーボンなんて飲めはしないのだが、店に流れている曲は「ペニーレインでバーボン」だ。
「いらっしゃい。なににします?」
 ふくよかな体格のママさんが、水を運んできて俺に尋ねた。
「バーボンを……って言いたくなるけど、俺は未成年ですから、コーヒーをお願いします。ところで、ママさんはビートルズ好きでしょ? たいていはこの店ではビートルズの歌がかかってますけど、今日は趣向がちがうんですね」
「たまにはフォークソングもいいかと思って」
「ペニーレインって店名が入ってるからですか。俺はフォークは好きですよ」
「それはもちろん。私はけっこう、この歌が好きなのよ。今日は不思議と他のお客さまが来ないわね。厄日なのかしら」
「暇なんですか。そしたら、俺とすこし話しをしましょうよ」
「よろしいんでしたら」
 コーヒーを淹れてくれてから、ママさんは俺のむかい側にすわった。
「お名前はなんとおっしゃるの?」
「星丈人です。ペニーレインによく来ている学生たちと同じ大学の一年生です」
「そしたら十八か十九? 背が高くて大人っぽいのね」
「ママさんはおいくつなんですか」
「女に年を訊いたらいけないのよ」
「そんなフレーズは聞いたことはありますけど、なぜですか?」
「なぜって?」
 うーんと考え込んでから、ママさんは口を開いた。
「女は年齢を気にするものだからかしら。特に中年女はね。若い子だったらいいんだろうけど、ある程度の年の女は年をごまかしたがったり、若く見られたら嬉しかったりするからかな。星さんには私はいくつに見えます?」
「さて、三十代ってところかな」
 見えた年よりも若めに言うと、ママさんはくすくす笑った。
「お世辞をありがとう。正直言ったらいくつに見えるの?」
「四十歳くらいですか」
「聞くたんびに年が上になっていきそう。もういいわ」
 こっちもくすっと笑うと、ママさんは声を低めて言った。
「星さんには好きな女の子はいるの? 答えたくないんだったらいいんだけどね」
「……好きな子か。いなくもないんですよ。俺は大学では合唱部に入ってましてね……」
 新潟生まれの俺は、高校時代から決めていた。一生大好きな音楽に関わっていたい。音楽が好きでメカが好きなのだから、将来は音響工学の仕事がしたい。できるものならば東京に行きたい。そんな学部は東京の大学にあるのだろうか? 受験雑誌を丹念に調べ、今の大学に行き当たったのだ。
 俺たちの大学には音響工学科があり、その上に、合唱部が有名だという。ならば俺の望み通りに、大学時代は歌ってすごし、将来は音響の仕事ができる。
 大学合格の望みは果たし、合唱部入部の望みも果たした。好きな女の子もいなくもない。
 高校生のころには五人ばかりの女とつきあった。同じ高校の子なんてのは面倒なので、ライヴハウスでアルバイトしていた女の子だったり、ランニングをしていたときに声をかけてきた子だったり。
「星くんって何人も彼女がいるんでしょ?」
「他にもつきあってる子はいるよ」
「……できちゃったって言っても、あたしをひとりだけにしてくれないの?」
「できないだろ。俺は避妊だけはちゃんとしたぞ。できたのか?」
「……言ってみたかっただけだよ。あんたなんかどうせそんな男なんだから」
 そう言われてふられたりもした。彼女もいる前で、俺は彼女を好きなんだからおまえは手を引け、などと凄んできた男もいた。
「いいよ。だったら譲るよ」
「……星くん、マキは俺のものだ、って言ってくれないの?」
「おまえは俺のものじゃないじゃないか。うん? もしかしてなにかの企みか? アホらし」
 そんな経験もあった。
 まあ、高校時代なんてもはやどうでもいい。今は俺の気持ちは合唱部に向いている。やたらに荒々しい先輩の多い男子合唱部には、てめえ、馬鹿野郎、ぼかぼかっ、ってのが横行していて、当初は面食らったのだが、それも我が合唱部の伝統なのだそうだ。
 特に荒っぽいのは、ただいま四年生の小桧山、荻野、両名であろう。小桧山さんは相撲取りのような体格だが、いわゆるアンコ型ではなくソップ型だろう。相撲取りになるには体重は不足しているかもしれないが、相当に大きい。
 もうひとりの荻野さんは、アメリカンフットボール選手のようだ。こんなふたりがなぜ合唱部にいるのか、俺は不可解である。スポーツサークルに入部すればもてはやされるであろうに。
 俺が合唱部に入部したばかりのころに、見知らぬ奴が部室の近くをうろちょろしていた。一見したところ男か女かもわからなかったのだが、ぶかっとしたシャツが風にはためいて身体に張り付き、ラインをあらわにしたので、男だとわかった。
「一年生? 入部希望? 俺も一年なんだよ」
 声をかけると、小柄な彼が振り向いた。
「いえ、僕は高校生なんですけど、来年はここに入学したくて……できたら合唱部にも入りたくて……見せてもらおうと思ったんです」
「見学か。いいよ。高三なんだね。いいとは思うけど、俺も一年だから先輩に無断でってのも……いっか。勝手な真似をすんなって怒られたとしても、生命までは取られない。殴られるだけだ」
「え? 殴られる?」
「俺も合唱部なんだけど、入部して以来、何度殴られたかな。おまえは生意気だって言われるんだよ。俺は星っていうんだ。見学していく?」
「いえ、いいです。外からだけでもいいです」
「そっか」
 そこに荻野さんがやってきて、なぜだか高校生は顔を赤らめて逃げていった。
「誰だ、今の?」
 彼から聞いた話しをすると、荻野さんに殴られた。
「来年にはうちの後輩になるかもしれない奴なんだろ。粗雑な扱いをするな」
「粗雑にはしていません。無理に引っ張り込むほうが乱暴でしょう」
「歓待してやればいいだろ」
「そこまでしなくても、うちは入部希望者は馬鹿ほどいるんだって、先輩方は自慢してるじゃありませんか」
「だからおまえは生意気だって言うんだよ」
「なんでそれが生意気になるんですか」
「その口のききようがだ」
 いわれもない言いがかりに腹が立ってきたので身構えると、荻野さんは嬉しそうな顔になった。
「ほおお、やるか。かかってこいや、星」
「いいんですか」
「いいよ。おいでおいで」
 馬鹿野郎、とおなじみの台詞が聞こえて、そこに今度はキャプテン斎藤さんがやってきた。
「荻野、一年生相手になにをしようってんだ」
「……邪魔すんなよ。やりたかったのに」
「やりたいんだったら俺がやってやるよ」
「そっちでもいいかな。ちょこっと運動しようぜ、斎藤」
「ああ、運動な。星、あっちへ行け」
 まったくもう、アホな先輩ばっかりだ、と嘆息して、俺はその場を離れたのだが、この体質は俺にも合っていなくもないような気もする。合唱部だからってお上品だったりすると、俺がぶっこわしたくなるやもしれないのだから。
「星さん、なにを考えてるの? 好きな女の子のこと?」
 ママさんの声で我に返った。
「もっと荒っぽいことや下らないことを考えてたんですけど、好きな子はいるんですよ。ただね……」
 どうやら彼女には、別の男も恋をしているらしい。
 五月ごろだったか、やや遅れて合唱部に入部してきた女の子がいた。小桧山さんと荻野さんがガキみたいないたずらをして、彼女を困らせていたところから連れ出したのが俺だった。水無月優衣、美しい名前の美しい女の子だ。
 優衣を好きな男というのが、俺と同学年でありながら、三浪しているので年上で、それでも親しくしている高倉誠だ。高倉さんははっきりとは言わないが、優衣を見る目に恋心が感じられる。
 高倉さんや俺と同学年の渡嘉敷という男と優衣と四人、最近ではグループを結成して歌っているのだが、いつかは高倉さんも優衣に恋心を告げるのだろうか。だとしたら、俺までが優衣を好きだと言っては、もめごとが起きるだろう。
「いいんですよ、俺の片想いです」
「……そうなの? 星さんってもてそうなのに」
「もてるのと恋ってのは別ものじゃありませんか?」
「十八や十九でその台詞、末恐ろしいわね。将来は気をつけなさい。生意気すぎるとあなたの将来が危ないんじゃないのかしら」
「……どうも」
 ママさんにまで生意気だと言われて、他の客が店に入ってきたのを機に席を立った。
 オーディオショップにでも寄って帰ろうか。ただいまの俺の趣味は歌と、オーディオの手作りだ。こつこつと自分の好みに合ったオーディオを作っていると、時間のたつのも忘れる。歌っていられて好きなことをしていられる学生時代は、いつまでも続くものではないのだから。
 幸い本日はアルバイトは休みなので、そうしようと思ってショップのほうへと足を向けていた俺に、だっと駆け寄ってきた者がいた。反射的に身をよけると、そいつは倒れてしまった。
「んん? あのときの高校生か?」
 部室の見学がしたいと言っていたくせに、荻野さんを見て逃げていった奴だ。俺が手を貸して起こしてやると、そいつは泣きそうな顔で言った。
「いて、いてて。ひどいよ。星さんですよね」
「そうだけど、いきなり飛びつこうとするからだろ。なにか用事か」
「はい、僕は皐月っていうんです」
 さつきとは姓だろうか。名だとしたら女の子みたいだが、どっちでもいいのでうなずくと、彼は言った。
「むずかしいほうの皐月です。星さん、話しを聞いてもらえます?」
「いいよ。話せよ」
 連れ立って歩き出しながら、彼がぽつぽつ話した。
「去年、僕は星さんの大学の合唱部のコンサートを聴きにいったんです。彼女が歌が好きだって言うから、彼女に連れられていったんですよ」
「彼女ってのは恋人?」
「まあ、近いかな。それでね、男声合唱をやってたメンバーの中に、すっごく背が高くてすっごくたくましいひとがいたんですよ。あのとき、星さんと話していたときにあらわれた男のひとです」
「荻野さんだな」
「荻野さんっていうんですか。僕……あのひとを好きに……」
「はあ? おまえ、彼女がいるんだろ」
「それはそれなんだけど、僕ってバイセクシャルなのかな。時々、男のひとにもぽーっとなっちゃうんです」
「そういうのもあるのか。うん、まあ……」
 男をそういった意味で好きになったことは俺にはないが、次から次へと女の子を好きになったりはするのだから、皐月に意見できる筋ではない。
「だから、いっぺん荻野さんに会いたくて……合唱部の部室に行ったら会えるんじゃないかと思って……別に抱いてほしいとかそういうんじゃなくて……ただ会いたくて……」
「あの荻野さんにな……それだけだったらいいんじゃないのか」
「ちらっとは会えたんですけど、あれから僕、荻野さんよりも星さんが……」
「待て」
「はい?」
 バイセクシャル人種などには初にお目にかかる。高校生くらいでおのれをそうと決め込むのはまだ早く、皐月の感情は単なるファン心理かもしれないのだが、それ以上聞きたくなかった。
「俺は男には興味ない」
「そうなんですか? ためしてみないとわからなくない?」
「ためす? どうやって……」
「こうやって……」
 顔が近づいてくる。キスしようとでも言うのか? 突き飛ばしてやろうとしたのに手が動いて、皐月の身体をとらえていた。
「あ……その気?」
「馬鹿野郎」
 おりよく近くに草むらが見えたので、皐月を持ち上げてそこに放り投げ、ほうほうのていで逃げ出した。
 もともと俺も上品ではないけれど、合唱部の体質に染まってきているらしい。が、あれでいいのだ。男なんかとキスしたりしたら、俺の口が腐る。偏見だとでもなんとでも言え。この次に皐月を見たらいち早く逃げようと決めて、俺は足を速めた。


2・誠

 高校生のころにだって恋はした。広島の高校で広島弁で喋っていたころに、俺にも好きな女の子はいた。
 となりのクラスの可愛い子に決死の思いで告白したら、高倉くんと? やだぁ、あたしはもっとかっこいい男の子でなきゃいやだよ、と広島弁で言われたのだ。広島弁だとその台詞はこうなるのである。
「いやじゃ、高倉くんがあたしを好きなん? あたしゃぁもっとかっこいい男の子でなけりゃぁいや。高倉くんっておっさんみとぉなんだもん」
 あのときのショックも、あのときの広島弁特有のイントネーションも、俺の胸と耳にありありと残っている。
 傷心が残っていたからこそ、受験勉強に本腰を入れられなかったのだろうか。三年も四年もひきずっていたつもりはないので、なぜおまえは三浪もしたんだ? と訊かれたら、事故だの病気だのと言い訳していたのだが、すこしはそれもあったのだろう。
 ともあれ、三浪のあげくとはいえ志望校に合格して、かねてからの念願だった合唱部にも入部した。そうして一年生のときにも恋をして、しかし、彼女はいなくなってしまった。告白もできなかったけれど、彼女は実は星丈人が好きだったのではないかと思わなくもない。
 今年入部してきた一年生の金子将一に、星が話していたのを小耳にはさんだ。去年の一時期、星と渡嘉敷と彼女とで、俺たちはグループを結成して歌っていたのだ。その話しだった。
「水無月さんはそのうち、誰かと恋仲になったんだよ。声も顔も綺麗な子だったから、恋人のいる水無月さんに横恋慕した奴がいてすったもんだして、女子部の内部では内部で、一年生のくせに生意気、だなんて言われたりもしていたらしい。グループはやめるって言って飛び出していって、合唱部もやめてしまった。ありがちだよな」
 星の話はすべてが正確ではないのだが、おおむねはこんなところだ。星は水無月さんとつきあってはいなかった。あるいは、俺が彼女を好きだと打ち明けたから、身を引いてくれたのかもしれない。
 そりゃあな、星は見た目もかっこいいんだから、さぞかしもてるだろうさ。今夜は大学近くの酒も出すカフェで、俺はひとり、愚痴っている。俺は高校生のころからおっさんみたいだと言われて、大学生になったらさらにおっさんっぽくなって、もてるはずがないんじゃけぇ。
 広島を離れて五年。好きなカープを語るときくらいしか口にしなくなった広島弁で、俺はひとりごとを呟くのだ。
 あれから好きになった女の子はいない。星や渡嘉敷とはずっと歌っているけれど、高倉さんっていい声だね、と言ってくれる女の子もいるにはいるけれど、恋人になるほどではない。
「お客さんも……」
 とりとめもなくぼけーっと考えている俺の前に、コーヒーを運んできてくれた女の子が言った。俺たちの大学の名を出して、そこの学生さん? と尋ねた。
「はい、そうです」
「私はアルバイト。美容専門学校の学生で、最近になってアルバイトをはじめたんです」
「そうだったんですか。僕は高倉誠と言います。大学二年です。老けてるでしょ」
 言われる前に言った。
「三浪したあげくに大学生になったんで、二十一歳の大学二年です」
「私と同い年だね。私は美佐子っていうの。私も浪人してたのよ。一浪して大学に入ったんだけど、将来性もなさそうだし、専門学校のほうが職業訓練ができそうだから、中退して美容のほうに進んだの」
「末は美容師さんですか」
「そのつもり。あ、お喋りしてたらママさんに叱られちゃう」
 客は少なかったのだが、美佐子さんはいたずらっぽく笑ってから声を低めた。
「高倉さんとは話しも合いそう。また会えます?」
「は、はい」
「電話してね」
 電話番号をしたためたメモを残し、美佐子さんは別の客のほうへと歩み去っていった。
 ためらった末に、数日後に美佐子さんに電話をかけた。美佐子さんは現在は東京で親と暮らしているのだそうだが、子供のころに広島にいたこともあると言う。安芸の宮島のしゃもじの話しやら、彼女もファンだというカープの話しやらをして、美佐子さんのほうから誘ってくれた。
「今度、外で会いません? 高倉さんと話してると楽しい」
「ああ、もちろんです。会いましょう」
 デート? 俺、デートなんて生まれてはじめてだよ、と口がすべりそうになったのだが、二十一にもなってデートもしたことがないとはみっともないだろうから、言わずにおいた。
 だが、気持ちが浮き立つのを止めようもなくて、翌日、部室で会った星には話した。星や渡嘉敷あたりには、俺は彼女いない歴二十一年だよ、と言ってあるので、あけっぴろげになんだって言えるのだ。
「ペニーレインのバイトの子? ミサちゃんだろ。俺も彼女とはふたこと、みことだったら喋ったよ。美人ってほどでもないけど、気持ちのいい女の子だな。高倉さん、惚れたのか?」
「惚れたってほどじゃないけど、デートできるのは嬉しいよ」
「うん、がんばれよ」
「がんばれって、なにをがんばるんだ? 星、おまえは今は彼女はいるのか」
「いるよ」
「何人も?」
 ふふっと笑うばかりで、星は返事をしない。近頃女子部では、一年生から四年生までが言っているとの噂は、俺の耳にも届いてきていた。
「今までの男子部って、全然かっこいい男がいなかったのよね。乱暴な奴は何人もいたけど、ルックスのいい男なんてひとりもいなかったじゃない。そこにあらわれた去年の新入生、星くんって最高。新潟から彼がこの大学を選んでくれたなんて、私、神さまにお礼を言いたいわ」
 女子部の噂を総合してみると、こうなる。
「今年の一年生にはいるよ。金子くんと皆実くん。あのふたりは星くんと較べたら子供っぽいけど、かっこよさでは負けてないよね。これからは男子部にもかっこいい男が増えていくんだろうか。楽しみだな」
 そのような噂もある。
 星は大人びてはいるが、俺のようにおっさん臭くはない。筋肉もついた長身で、顔立ちも相当によい。声は俺と似ていなくもないが、もっと響きのいい美声の持ち主だ。頭も悪くはないので欠点が見当たらないというか、彼自身が言っているのを信じるとしたら、欠点はなくもないのだが。
 それはともかく、星は新潟、俺は広島と、田舎出身なのも変わりはないのに、星は俺なんかよりもずっとずっと洗練されている。顔立ちの差か、雰囲気の差か。こんな奴と友達でいると、俺がいっそう冴えなく見えるのではないかと思うのだが、彼と友達でいられるのは嬉しくなくもないのだった。
 一方、今年の一年生の金子将一、皆実聖司ってふたりは、俺よりは四年も年下なのだから当然、子供ではあるが、ルックスはかっこいい。そろって東京生まれの都会の男であり、背も高くて顔もよい。神さまなんてのは不公平なのだから、どうしようもないのだ。
「星さんの彼女の話しですか。俺も加えていただいていいですか」
 他の部員はいなかった部室に、いつの間にやら皆実がいた。
「星さんってもてるんでしょうね。彼女が何人も……って聞こえたんですけど、すみません。盗み聞きしたみたいですね」
「おまえだって合唱部の一員なんだから、入ってきていいんだよ。高倉さんと俺は勝手な話しをしてたんだから、気にしなくていい」
「はい。高倉さん、すみません」
「いいよ。星、話しを続けろよ」
「俺の話か」
 ポケットに手を入れて、星がなにかをもてあそんでいる。煙草であるようだが、部室では吸わないので、手は出さずに言った。
「この間さ、街を歩いてたら逆ナンってやつをされちまったんだ」
「逆ナンですか」
「皆実もされたことあるだろ」
「ありませんよ」
 あんたはないよな、と星が訊きたそうな顔をしたので、あるわけない、と顔で答えておいた。そうだろうな、と言いたげにうなずいて、星は続けた。
「皆実はナンパはしたことあるのか?」
「ありません」
「ないのか。だらしねえな」
「だらしねえんですか。ナンパなんてしなくてもいいでしょう」
「しなくてもいい奴はしなくてもいいよ。俺はナンパもしなくもないけど、逆ナンもあるんだよ。なかなかいい女だったから、誘われてホテルについていった」
「……星さん、彼女はいるんでしょう?」
「それとこれとは別だろ。別じゃないのか」
「それは彼女に対する裏切りでしょうに。何人もいる彼女だっていうんだったら……あれ? わからなくなってきました。よくわからないけど、そんなのって許せません。二度としないで下さい」
「ほっとけ」
「ほっとけません」
 黙って聞いていた俺は、星の言葉が真実だとは考えにくかったのだが、一年生は完全に真に受けたのだろう。皆実は憤りの表情で言った。
「彼女ってのはひとりが当たり前でしょう」
「そっか。俺には高校んときにも何人もいたよ。結婚する相手だったらまだしも、彼女なんて何人いたっていいじゃないか」
「よくありません。やめて下さい。不愉快です」
「……ほお、言ってくれちゃうな。おまえ、何年だ?」
「一年生です」
「俺は?」
「二年生です。うちの部が先輩後輩関係にきびしいのは知ってますよ。それとこれこそが別でしょうに。星さん、そんなことをしていたらそのうち大怪我をしますよ」
「ほおお」
 にやりとした星の手がどう動くか、見当がついたので止めようとするよりも早く、星の脚が動いていた。皆実の向うずねを蹴ろうとしたらしいのだが、皆実は素早く立ち上がってその攻撃から逃れたのだった。
「外に出るか。やるか、皆実?」
「星、やめろ。おまえ、先輩たちの悪影響を受けてるぞ」
「みたいだな。ってーか、もともと素質があったんだよ」
「澄ました面しやがって……皆実もやめろ。俺たちなんかはおまえよりは先輩だって言ったって、たかが二年生だ。三年生や四年生に知られたら、星もおまえも退部させられるかもしれないんだぞ。いいのか、星?」
「そんなんで退部させられるんだったら、今年の三年、四年は半数も残っちゃいねえよ」
 言えているのだが、止め続けなくてはならない。
「あのな、皆実、星が言ってた台詞ってのは、全部が全部嘘っぱちではないのかもしれないよ。俺だってすべてを知ってるわけでもないけど、時々こうやって、星は年下の男をからかうんだ。先輩にさえも言うんだ。前にも今みたいなことを言って、そのときは先輩たちは感心しちまって、あやかりたい、女を分けてくれ、なんて言ってたけど、おまえだったらどう出るか、ためしてみたくなったんだろ。俺の予想通りだったよ。星、もういいだろ?」
「一年生ってガキだな。俺もそう言えるほど……」
 言いかけた星は立ち上がり、皆実を見据えた。
「やりたいんだったら出てこいよ。じゃあな」
 星は部室から出ていき、皆実は仏頂面になり、俺は言った。
「まあいいさ。冗談みたいなもんだよ」
「そうなんですか。ああ、すみません。俺も先輩に向かって不遜な言動を取りました。高倉さん、ぶん殴って下さい」
「おまえも早くも先輩の悪影響を受けてるのか。俺は人は殴らないんだ」
「絶対に?」
「絶対にとは言わないけど、暴力ではなにごとも解決しない」
「高倉さんがキャプテンになられたら、うちの体質も変わるかもしれませんね」
「俺がキャプテン?」
「きっと……いえ、失礼しました。今日は誰も来ないんですね。金子もさぼりかな。では、俺も失礼します」
 皆実も出ていき、窓から覗いてみると、星が立っていた。皆実は星に近づいていき、言った。
「すみません。高倉さんはやってくれなかったから、星さんがやって下さい」
「なにを? こうか?」
 次の瞬間、星が皆実の顎のあたりにパンチを叩き込んだ。俺は目を覆いたくなったのだが、皆実は爽やかに笑った。
「ありがとうございました。ほんとに体育クラブみたいだな。我ながら言ってて……いいか。星さん、では、失礼します」
「おう」
 なんだなんだ、あれは、ひと昔前の青春ドラマか。皆実は星のタイプの男か。いや、星よりは普通の感覚で、女性問題の意識は俺に近いと思えるが、もてるって点は俺よりも皆実のほうが上だろう。にしても、感覚は尋常だと思える。
 金子はどうだろう? あいつももてるんだろうな、と考えて、俺は気持ちを切り替えた。俺にもデートがあるではないか。美佐子さんと会うときにはなにを着ていこうか。しゃれた店を予約すべきか。金子か星にデートのアドバイスをしてもらおうかと考えていると、うきうき気分になってきた。


 が、うきうき気分はじきに消滅した。美佐子さんと食事をし、フォークソングが流れている喫茶店に席を移して話していたら、彼女が言い出したのだ。
「高倉さんって星さんと友達なんですよね」
「そうです」
「紹介してもらえない?」
「星からも美佐子さんの話は聞きましたよ。知り合いなんでしょう?」
「すこしお話しはしたけど……」
 恥じらいの表情か、そうか、彼女は星に紹介してもらいたくて俺と……デートしたかったのではなかったのだ。
「星には彼女はいるみたいですよ」
「そうなの? そうでしょうね。なんだ、がっかり、失恋か」
「ごめんなさい」
「高倉さんがあやまってくれなくてもいいのよ。じゃあ、高倉さんとつきあうってどう?」
「俺にも彼女はいますよ」
「ええ? そう? 彼女がいるのに私と……そんなの、彼女に悪いじゃないの」
「たまには別の女の子とデートってのもいいんじゃないかな」
「そんなのいや。帰ります」
「……はい。どうぞ」
 先輩にでも同い年にでも後輩にでも、星はあのたぐいの話しをする。どこかの女にもてただの、逆ナンされてホテルに行っただの。
 守備範囲は十八歳以上だから、年上でもいいよ、とも言う。ペニーレインのママさんもいい女だな、とまで言う。そのどこまでが本当なのだか知らないが、多少はそういったことをやっているのかもしれない。もてる男はやっていても不思議はない。
 そんな星を諌める気にはならなくて、苦笑まじりに聞いているしかない俺は、今回は紹介役だったのか。
 星が駄目なら俺に? 身代わりにされるほど俺は落ちぶれてはいないつもりだ。彼女がいると美佐子さんに言ったのは大嘘だが、見栄を張ってみたかった。
 美佐子さんは怒って帰ってしまったが、これでよかったのだろう。俺だって彼女に惚れているというほどでもなくて、これから恋人になれたらいいな、と考えていた程度だったのだから。その矢先にああやって……俺にはふさわしい顛末だった。

「恋人の顔なんて 思い出したくない事があるよね
 まして逢いたくなる程の気持ちもわかない一日なら
 自分一人で歩いていたい 表参道ならなおいいさ
 そんな時 僕はバーボンを抱いている 
 
 どうせ力などないのなら 
 酒の力を借りてみるのもいいさ 
 こうして今夜も原宿ペニーレインで 
 原宿ペニーレインで飲んだくれてる ペニーレインでバーボンを 
 ペニーレインでバーボンを 今夜もしたたか 酔っている」 

 店に流れる音楽が聞こえてきた。
 ペニーレイン、ビートルズの歌に出てくる通りの名。美佐子さんがアルバイトをしている店の名。俺は二十歳をすぎているのだから、バーボンだって飲める。ペニーレインにはもう行きたくないけれど、今夜はどこかでバーボンでも飲んで、したたか酔って眠ろうか。


3・聖司

 合唱部での練習を終え、ひとりで学校の外に出たら星さんに会った。星さんってのは理解しがたい人物ではあるのだが、俺の親友、金子将一にしたって理解はしがたいのだから、こういった男には慣れている。
「皆実、おまえは彼女はできたのか?」
「答える必要はあるんですか」
 がははと笑って、星さんは俺の背中を叩いた。
「俺は一年のときから先輩たちに、おまえは生意気だ生意気だって言われ続けてたんだよ。三年生になっても四年生には言われるけど、おまえも言われるだろ?」
「言われたことはありませんよ、俺は。金子は言われてるんでしょうね」
「あいつは生意気ってーのか……うん、ま、いない奴はどうでもいいさ。飲んで帰ろうか」
「俺も二十歳になりましたから、ごちそうしていただきます」
「ああ、ついてこい」
「星さん、退部させられずに三年生になれて、よかったですね」
「はん? なんの話しだ?」
 俺が一年生だった年だから、去年の話しだ。喧嘩なんかすると先輩に退部させられるぞ、というようなことを、当時二年生で、星さんとは同学年、年齢は星さんの三つ上である高倉さんに言われた。星さんというひとは正義漢なのか、単に喧嘩っ早いだけなのか、俺は幾度か、星さんが腕力を使っているのを目撃したのだ。
 去年は星さんは俺に喧嘩を売り、俺も買おうとして、高倉さんに止められた。俺が星さんに殴られただけで決着がついたので、あれはあれでよかったのだろう。が、俺の顎が赤くなっていたのを金子に見咎められた。
「街で女の子が不良にでもからまれてて、助けてやったとか?」
「そんなんじゃねえんだよ。金子、おまえだったら不良にからまれてる女の子を助けてやるのか?」
「俺だったら……彼女の手を引いて、全速力で逃げるよ」
「参考になった。俺もそうなったらそうしよう」
 というような会話があったのだが、金子は深く追求しようとはしなかった。先輩に殴られたのかな、とは思っただろうが、そんなのは合唱部ではよくあるのだから。
 昨年の夏の合宿では、こんな事件もあった。あれは男子部恒例行事の遠泳の際だった。俺は先輩に朝っぱらから雑用を命じられて、時間に遅れそうになっていた。必死で用事をすませて集合場所に行こうと急いでいたら、女の子の声に呼び止められたのだ。
「皆実くん、皆実くん……」
「ん?」
 大きな岩陰から俺を呼んでいたのは、二年生の中島さんだった。
「私、遠泳を見学にいこうとしてたんだけど、気持ちが悪くなってきちゃったの」
「貧血ですか」
「女の子の病気よ。私、きついんだよね。合宿もやめておいたほうがよかったんだけど、来たかったの。来るんじゃなかったかもね」
「ああ、そうですか」
 姉がいるので、女の子の病気と言われれば、あれであろうとはわかった。しかし、わかったとしても俺にはどうすることもできない。せめて合宿所に連れて帰ってあげるしかなかった。
「歩けますか?」
「歩けないかも。おんぶして」
「はい、どうぞ」
 女子部の二年生とはいえ、先輩は先輩だ。先輩命令にはさからってはいけない。俺が背中を向けると、中島さんは全身を預けてきた。
「皆実くんの背中って広いね」
「……いや、まだガキですから広いってほどでも……走りますよ。俺は急いでますんで」
「急いでるのにごめんね。でも、きゃ……やだ、怖い」
 背中にしがみついている中島さんを背負って走り、合宿所の女子の部屋に急行し、そこにいた女性の先輩に中島さんを託した。
「そんな女の子をおんぶしてくれるのはいいけど、走ったら駄目じゃないの」
 女子部キャプテンの村山さんに叱られたのだが、言い訳している時間が惜しい。はい、はい、と聞いておいて、それからダッシュで集合場所へと駆けていったのだが、時すでに遅く、全員が島へと泳ぎ出したあとだった。
「おーい、皆実、遅刻か。乗れよ」
「今から泳いでいっても……」
「遅いよ。ぐずぐずしてるからだろ。あとで殴られるぞぉ」
「……でしょうね。はい、わかりました」
 やむなく救護班のボートに乗せてもらい、島に到着した。救護班のメンバーは待機場所へと行ってしまい、俺はふと耳についた声の方向へと回っていった。
「……こんなガキをいびってるんですか」
 星さんの声だ。近くにも岩があり、陰から覗くと、俺たちと同じ一年生男子の横内がへたり込んで青ざめていて、星さんは四名の四年生男子と対峙していた。四年生の中心になっているのは、暴れ者だとの悪名のある広田さんだった。
「横内は体調がよくなくて遠泳には不参加だったんでしょう。いびる理由はないでしょうに」
「だらしねえ。男のくせしやがってよ」
「男にだって体調不良はありますよ。男が病気になったらだらしねえんですか」
「おまえはいつだって生意気だけど、二年生はすっこんでろ」
「そうですか。なら、横内、行こう」
「そいつは置いていけ」
「置いていけません」
 横内はただ震えていて、広田さんが星さんを殴ろうとした。星さんは飛びのき、横内をかばって広田さんを睨み据えた。そんな星さんの背後に回った別の四年生が、星さんの背中をキックした。星さんはかなりの勢いのキックを受けたものの、倒れはせずにうしろを見た。
「やってもいいんですけど、他のみんなが来ますよ」
「あ……声が聞こえてきたな。来るな。やばいよな」
「やばいかもしれませんね。みんなの前でやりますか」
「おまえはなんだってそう余裕でいられるんだよ。そんなに強いのか。俺たちは四人もいるんだぞ。簀巻きにされて海に放り込まれたとしたら……」
「やってみて下さい」
「くそっ」
 広田さんが呟いたとき、ざわめきが近づいてきた。星さんを止めたのは高倉さんで、広田さんを止めたのは、当時のキャプテン、奈良林さんだった。
 男子部のキャプテンに解散させられて、ぞろぞろとやってきていた野次馬たちも散っていったのだが、野次馬の中には金子もいた。あれはなんだったんだ? と金子が訊くので、さあ、知らないよ、ととぼけておいた。
 奈良林さんも高倉さんも、それについては詳しくは話さなかったのだが、その後、再びちょっとした事件があった。
「皆実、ちょっと顔貸せよ」
 その夜、俺は四年生の先輩に呼び出されて、夜の浜へと出ていった。そこには広田さんと中島さんがいた。
「皆実、おまえ、俺の女になんかしたんだってな?」
「おんぶはしましたが……いけなかったんですか」
「触ったんだろうが」
「そりゃあまあ、触れましたよ」
 このふたりは恋人同士なのか。中島さんが広田さんに今朝方の一件を報告し、昼間の事件でむしゃくしゃしていた広田さんが、俺で憂さを晴らそうとしている? 俺にはそうとしか解釈できなかった。しかし、俺が広田さんに殴られる筋合いはない。正当な理由で殴られるのだったら受けるが、こんなものは正当ではない。
「触れた程度じゃないのよね。いやらしーく手が動いてたよ」
 中島さんまでが言い、自分のほうこそよほどいやらしい笑みを浮かべた。
「気持ち悪かったけど、気分が悪いほうが勝ってたから、我慢するしかなかったんだ。皆実くんっていやらしいのよね」
「中島さん、言うにことかいてそれは……」
「おんぶするってだけでもいやらしいよ。おんぶしなくても他にやり方はあるじゃない」
「急いでましたから」
 おんぶしてと言ったのは中島さんのはずだ。感謝してくれていたのではなかったのか。これだから女ってやつはまったく……だが、これ以上言うと自己弁護になるだろう。俺が口を閉ざすと、広田さんが言った。
「それでおまえは遠泳に参加しなかったのか。罰を与える」
「……どうぞ」
 遠泳をさぼった罰なのならば、受けるしかあるまい。背中を向けろと言われて従うと、強烈な一撃がきた。思わず振り向くと、どこから持ってきたのか、板きれで背中をぶっ叩かれていた。
「ねえ、広田さん、やりすぎじゃない?」
「おまえがやれって言ったんだろ」
「そこまでは言ってないよ」
 カップルはもめていたが、逃げるわけにはいかず、歯を食いしばって耐えていると、誰かの気配を感じた。広田さんと中島さんが口論をはじめ、一撃が止まったので息をついていると、それからほどなく、星さんの声が聞こえてきた。
「女の子が立ち聞きしてましてね、その彼女からおよその事情は聞きましたよ。彼女は中島さんが皆実に背負われてきたときの様子も見ていたらしい。中島さん、彼氏にそこまでやらせるってのは、なんの意図があるのかな」
「あんたは関係ないでしょ」
「関係なくはないな。あなたがやれと焚きつけたんですか」
 同い年なのに丁寧な口調の星さんの声には、冷ややかな響きがあった。
「っていうか……広田さんに話したら怒って、あたしを叩こうとするから、叩くんだったら皆実くんをって……」
「体調不良で気分が悪くなった中島さんを、皆実が背負って合宿所に運んだ。真相はそれだけですね」
「まあね」
「じゃあ、皆実が殴られる理由はない。しかも、こんなもので殴った?」
 砂浜に落ちている板切れを一瞥して、星さんは広田さんを睨んだ。ものすごく迫力のあるまなざしだったのだが、その目がふと和んだのは、女性の声が聞こえてきたからだったのだろう。
「中島さん、あなたもとんでもないね」
「……香取さん」
 登場したのは、女子合唱部ナンバーワン美女とその名も高い、三年生の香取澄恵さんだった。香取さんはつかつかと中島さんに近づき、その頬をびしっとやった。
「てめえ、中島になにを……」
「広田さんは黙ってて。あなたも中島さんを叩こうとしたんじゃないの? 男は女に手を上げたらいけないのよ。女同士だったらいいよね、星くん?」
「いいんじゃないかな」
「よくねえよっ!」
 こぶしを振り上げた広田さんは、香取さんまでを殴ろうとしたようなのだが、星さんが阻止した。香取さんの前に立ちふさがった星さんに突かれて、大柄な広田さんは見事にすっ飛んだ。広田さんは呻いていて、中島さんは頬を押さえて香取さんを悔しそうに見つめ、星さんは言った。
「香取さん、皆実も、行きましょう」
 香取さんは三年生、中島さんは二年生、女子部の先輩も後輩を殴るのか。新鮮な驚きではあったが、中島さんも殴られても仕方ないのかもしれない。俺は香取さんと星さんから数歩遅れて歩き、ふたりの会話を聞いていた。
「星くん、すこしだけど仕返ししてあげたよ」
「なんの仕返し?」
「優衣ちゃんを苛めたのはあの子が張本人」
「……古い話しだね」
「一年も前だものね。だけど、あなたは優衣ちゃんを好きだったんでしょ?」
「そりゃあね。しかし、古い話しだよ。今はあなたが……」
「私?」
「かっこよかったよ。惚れ直した」
「暴力女なのに?」
「そういう女は好きさ」
「優衣ちゃんの仕返しばっかりでもなくて、皆実くんがあんなことをされた仕返しもあったかな。私は復讐女だよ。それでも好き?」
「好きだよ」
 優衣とは誰だか知らないが、いたたまれないムードになってきたので、こほんと咳払いすると、星さんが振り向いた。
「痛むか、背中は」
「いえ。あれは遠泳をさぼった罰ですから」
「さぼったんじゃないでしょう? 私は知ってる。あんなの因縁つけてるんだよ。広田さんって昼間にもなにかやってたんだよね。星くんは見てたんだよね」
「……さあ」
「とぼけちゃって。皆実くん、薬を持ってきてあげるから待ってて」
 合宿所の近くまで来ると、香取さんは身を翻して部屋に入っていき、星さんは煙草を取り出しかけてやめた。
「澄恵は煙草が嫌いなんだそうだ。しばらく禁煙だな」
「星さんはそもそも未成年じゃないんですか」
「俺は四月生まれだから二十歳だ」
「そうでしたか」
「澄恵とはもうすこしの間は同い年だよ」
 春のころには、逆ナンだの複数の彼女だのと言っていた星さんの、真実の姿はこちらなのだろうか。なんとも理解しがたいひとだ、との思いは、彼女のために禁煙すると言っている星さんを見ていると、よけいに高まってきていた。
 あれから一年。星さんは香取さんとまだつきあっているのだろうか。俺はその夜の出来事を金子にすら告げなかった。星さんがキャプテンに告げたのかどうかは知らない。中島さんは合唱部にいるが、俺の顔を見るとつんとして目をそらす。広田さんは卒業して大学からもいなくなった。
 そうして思い出していると、星さんは単に喧嘩っ早いのと、正義漢であるのと両方だと思える。無闇に喧嘩をするわけでもないのだろうから、先輩たちも星さんが荒っぽいのは知っていて、黙認しているのかもしれない。
 いずれにせよ、星さんが退部にならなくてよかった。感心しない部分もあるけれど、俺は星さんが好きだ。異論のある人間もいるだろうが、俺はいい男だと思う。
 黙って思い出していたので、無言で歩いている俺に、星さんもとりたてて話しかけず、彼が口を開いたのは、カフェ「ペニーレイン」の看板が見えたあたりでだった。
「あそこだよ。来たことはあるか」
「ありません」
「酒も飲めるんだ……あ、お、しかし……悪い。皆実、またにしよう」
「なぜですか。どうしたんですか……星さん、星さん」
 理由も話してくれず、星さんは走り去っていってしまった。なにが星さんを焦らせたのかと首をひねっていると、ものかげから性別不明に見える人物があらわれた。
「僕を見たからって逃げなくてもいいのに……」
「きみは?」
「皐月っていうんだけど、あなたは?」
「俺は皆実。星さんの大学の合唱部の後輩だよ」
「そっか。星さんに可愛がってもらってるんだ」
「可愛がってもらってるといえばそうかな。きみは高校生? 女の子?」
「うん、女の子」
 女の子にしたら声が低いが、男にしたら華奢すぎる。けれど、女の子が僕と自称するのも稀にはあるだろうし、本人が女の子だと言っているのだから、疑っては失礼だろう。
「去年、星さんと知り合って、それからずーっと好きなの。だからね、星さんと同じ大学に入学したかったんだけど、受験に落ちちゃったんだ。だから浪人してるの」
「そうか。来年再チャレンジだな。がんばれよ」
「うん。皆実さんって優しいね。僕、皆実さんを好きになってしまいそう」
「星さんを好きなんだろ」
「だって、星さんは僕を見たら逃げるんだもん」
「なにかしたのか?」
「キスしようとしただけだよ。なのにさ……ううん、いい。僕、帰るから」
 ぶかぶかのシャツを着ているので、身体の線もよくわからない。男に見えなくもないのだが、男が星さんを好きになるってのは解せないから、やはり女の子なのだろう。
 かわいそうだけど、好きになったからって、振り向いてもらえるとは限らないのが恋ってやつなのだろう。俺は皐月のうしろ姿に、ま、気を落とさないで、と呟いて、ひとりっきりで「ペニーレイン」のドアをくぐった。
 流れているのはビートルズの曲。「ヘイジュード」だ。ふっくらした母のようなママさんが、いらっしゃい、と優しい声で出迎えてくれた。


4・安武

 そもそもは同じ法学部に、亀井萌子がいたせいだ。小柄で頭のよさそうな萌子は、俺よりは頭の程度は落ちるようだが、事実、頭がいいのだろう。頭のいい女はご面相がまずいのかと思っていたが、萌子はまあまあ美人でもある。
 どうやら萌子は俺が好きらしいと気づき、意識するようになったのはいつからだったか。いつからなのかは覚えていないが、大学三年生になった今では萌子とつきあっている。
 厚木出身の萌子の高校時代からの友達が、服部一葉である。萌子は背が低く、カズハは背が高い。背の低いのと高いのと、彼女として両方そろえたら、状況に応じて使い分けできるよな、とふっと考えては、そんなことを言おうものなら、両方からぶっ飛ばされるであろうから、口は慎んでいる。
 そのカズハは合唱部のメンバーだ。カズハとの縁ゆえに、合唱部の面々とも知り合った。俺はロック同好会に所属していて、音楽はパンクが一番。合唱なんてものには一片の興味もない。だから合唱部の男はどうでもいいのだが、女の子には美人が何人かいるので、そっちには興味があるのだ。
「ロック同好会の柴垣さん?」
 ある日、キャンパスで俺に話しかけてきたのは、長身の抜群の美人だった。
「そうだけど、おまえは?」
「おまえとはなんですか。ほぼ初対面でしょ」
「おまえ、年下だろうが」
「そうですけどね。おまえなんて呼ばれるとむかむかしちゃう。私は合唱部の八幡早苗です。一年生です」
「一年生なんだったらおまえでもいいだろ。俺は三年だ」
「好きな男の子にだったらおまえって呼ばれてもいいけど、柴垣さんになんか……でも、いいわ。許すから聞いて」
「なんで俺なんだよ。合唱部の奴に聞いてもらえばいいだろ」
 とは言ったものの、美人なんだからいっか、と考え直して、早苗を学校近くのカフェに連れていった。カフェの名は「ペニーレイン」。俺はビートルズには興味はないが、この店は比較的空いている時間が多くて、ママさんも気前のいいひとで、時にはつけもきくので重宝しているのだった。
 今日も客はまばらにしかいなくて、こんなんだと儲けが少ないんじゃないだろうか、とも思った。だが、俺がカフェの心配をしてやる必要もない。この店もたまには満員になるのだから、満員とまばらとでとんとんになっているのだろう。
「柴垣さん、なにを考えてるの?」
「いやぁ、ママさんは美人だなってさ。熟女も悪くないもんな」
「すっごい年でしょ、あのママさん。それに、すっごく太ってる」
「すっごくじゃねえよ。あの胸に顔を埋めたら気持ちいいかもな」
「柴垣さんってマザコン? 太った女が好きなの? 変態」
「てめえ、人を変態呼ばわりしやがったな。そんなら帰るぞ」
「帰らないで。聞いて」
 なんで俺に相談したいんだ? 先刻の疑問に、早苗が答えた。
「合唱部のひとには言えないからよ。私が好きな男の子は合唱部の一年生なの、そんな話、同じ合唱部のひとにはできないでしょ」
「恋愛相談か」
「そう。服部さんがロック同好会に出入りしてて、柴垣さんって見た目は下品だけど、頭はすごくいいんだよ、って教えてくれたから」
「カズハか。ああ、俺は頭はいいよ」
「法学部だもんね」
 頭がいいのと勉強ができるのは別だとの説もある。俺は勉強もできて頭もいいとの自負はあるが、恋愛相談となると……しかし、こう言った以上はあとに引けないではないか。諦めて相談に乗ってやるつもりで、カウンターのむこうで遠慮がちに待っているママさんを呼んだ。
「俺はフルーツサンドとコーヒー。ここのフルーツサンドは生クリームが絶品なんだ。早苗も食うか。ただし、割り勘だぞ」
「なんで? 男がおごるのが普通じゃないの」
「おまえにおごる義理はねえんだよ。俺がおごってもらいてえんだよ。ま、それはいいから、俺は腹が減ってるんだ。おまえもおんなじものでいいか」
「生クリームなんか太るからいや」
「クリーム以外はフルーツだ。そんなには太らないよ」
「フルーツも缶詰でしょ? 糖分と脂肪分って肥満の友だよ。このひとみたいなぶくぶくになりたくないから、私はココアでいい」
「てめえ……」
 なんと無作法な女だ。太目のママさんの眼前で言うか? ひっぱたいてやりたくなったのをこらえていると、ママさんは鷹揚に微笑んだ。
「ココアも糖分と脂肪分でできてるんですけど、精神が落ち着いていいんですよ。では、フルーツサンドとコーヒーとココアですね。かしこまりました」
 皮肉がまじっていると感じ取れたのだが、口調は穏やかに言ってママさんが引っ込み、早苗は言った。
「やだ。太った女って見てるだけで気分がよくないのよ」
「よその女が太ろうとどうしようと、てめえにゃ無関係だろ。ほっとけ。ママさんは独身だか結婚してるんだか知らないけど、ママさんの男はああいうタイプが好みなんだよ」
「信じられない。あんな太ったおばさんに恋人なんかいないよ。昔に結婚したダンナだったらいるかもしれないけど、失望してるんじゃないの? 私は絶対に太りたくないの」
「おまえは勝手にすりゃいいだろ。俺はフルーツサンド食ったら帰るから、さっさと相談ってのを話せ」
 こんな女と同席していたら、俺の手が自然に動き出し、張り倒してしまう恐れはおおいにある。早く逃げ出したくて言うと、早苗は不満顔で言った。
「合唱部の一年生なんて、柴垣さんは知らないよね。ものすっごく歌のうまい男の子がいるの。三人いるんだけど、そのうちのひとり」
「俺は知らないけど、そのうちのひとりがおまえの好きな男か。告白すりゃいいだろうが」
「彼には彼女がいるんだもん」
「だったら諦めろ」
「簡単に言わないで。その彼女っていうのは、ブスなんだよ。細くて背が高いんだけど、寸胴っていうのかな。ぬぼっとしてて、頭もよくなさそうで、ほげげーっとしてるの。なんで本橋くんはあんな女がいいのよっ!!」
「本橋ってのか」
 その名には聞き覚えがあった。合唱部というものは我が校では注目の的なので、興味はなくても聞こえてくるのだから。
「あ、言っちゃった。そうよ。早苗は本橋くんが好き。ゆかりなんかに取られて悔しくて……私が先にアタックすればよかった……」
「遅すぎたんだったら諦めろ」
 これは相談ではなく、愚痴りたかっただけなのだろう。そのあたりで運ばれてきたフルーツサンドにかぶりつこうとしたら、早苗が横合いから一切れ奪い取った。
「自棄食いか。太るぞ」
「私はすこしくらい太ってもいいの。すこし太ったってあんなにはならないもの。年は取りたくないよね。太りたくないよね。あんなおばさんになる前に、若い美人のまんまで死にたいわ」
 またしてもママさんの悪口である。横目で窺うとママさんは知らんぷりをしていたが、聞こえているにちがいない。俺は声をぐっと低めた。
「パンクスの俺が言うのもなんだろうけど、言葉を慎め」
「本当のことだからでしょ? あの年だったらなんて言われたってへっちゃらだよ。あんなおばさん、女を捨ててるんだろうからさ」
「捨ててねえだろ」
「捨ててるよ。おばさんなんかどうだっていいでしょ。柴垣さん、こんなのはどう?」
 早苗も声を低めた。
「本橋くんのアパートになんとかして入り込んで、裸になってベッドにもぐり込んで……あ、駄目だ。本橋くんって私とおんなじ東京都内の出身で、自宅通学なんだった。彼の自宅にはもぐり込めないよね。合宿のときにやればよかった」
「……ほんで、裸で表に放り出されたらどうする?」
「そんなことをするわけがないじゃない。早苗、おまえはこうまでして俺の……そう言って、抱きしめてくれるわ。私を抱いたら、ゆかりなんかどうでもよくなっちゃうに決まってる。柴垣さん、協力してくれない? 柴垣さんはひとり暮らし?」
「そうだよ。俺は岡山出身だ。東京に親戚があるんだけど、そんなところで下宿はしたくないから、マンションを借りてる」
「田舎者なのね。なまってないけど、なんだ、田舎者か」
「悪かったな。俺の両親は東京出身だから、俺はなまってねえんだよ」
「お父さんの仕事は?」
「弁護士」
「あら」
 急に早苗の目が輝き、しばし黙って俺を凝視してから言った。
「なら、柴垣さんでもいいかな。マンションについてってあげようか」
「ついてきていいぜ。裸にひん剥いて外におっぽり出してやるよ」
「……まっ、なんて……パンクスってなんだかよく知らないけど、そういう奴なのね。あんたなんか大嫌い」
「俺もてめえなんぞ大嫌いなんだよ」
 いつしか店には客が皆無になり、ママさんが心配そうにこちらを見ているのは知っていたが、俺もむかっ腹が立ってきていた。
「あんたなんかに相談したのがまちがってたのよ。下品で最低。あんたなんか大嫌い」
「ああ、俺もだ」
「帰るわ」
「帰れよ。こら、金を払っていけ」
「弁護士の息子が女にお金を払わせるなんて、それも最低っ!!」
 もはや金切り声になった調子で叫び、テーブルに紙幣を叩きつけて、早苗は足音も荒く出ていってしまった。ママさんの口が、大丈夫? と動いたので、俺はこくっとうなずき、早苗の姿が窓の外に見えなくなってから立ち上がった。
「すんません。お騒がせしました」
「いいえ、どういたしまして」
「あんな女はいくら美人だってね……いや、よく見たらママさんのほうが美人ですよ。一度、どうですか」
 返事はしてくれず、毎度ありがとうございます、とママさんは言った。出ていけ、の意味であろうから、お言葉に従って出ていった。
 聞こえてはいただろうが、商売柄、客の話などはママさんはしないだろう。合唱部の本橋のと早苗は大声で言っていたが、妙な噂が広まる心配はしないでいいはずだ。が、本橋ってのはどんな奴なんだろう? との関心は湧いた。
 あの早苗が惚れた男という意味での興味を持って、学校に戻って合唱部の部室を見にいくことにした。俺は今日は髪はポニーテールにして、わりあい普通のファッションでいる。通りがかりの見学者を装えるだろうと思って、合唱部室に近づいていくと、カズハと出会った。
「どしたの、柴垣くんが合唱部になんの用?」
「俺にだって合唱部の噂ってのは聞こえてくるんでさ、今年の一年生にえらい実力のある男がいるんだろ。そいつはどんな奴かと面を見にきたんだ」
「本橋くんと乾くん? 徳永くんも?」
「いるのか」
「ふたりはいるよ。あそこで本橋くんと乾くんが歌ってる」
 カズハが指差したのは、部室の裏手の芝生だった。そこに男がふたりいる。目を凝らすと、痩せ型で背は高めの男と、その男よりもひと回り大きな体格の男だった。
「背の高いほうが本橋くん」
「ふーん、たいした面じゃねえな。俺のほうが男前だろ」
「顔だけだったらそうかな。歌は本橋くんのほうがうまいよ。柴垣くん、歌も俺が上だって言う?」
「俺はベーシストだ。歌で勝負はしねえんだよ」
 耳を澄ますと、歌声も届いてきた。またもやビートルズ。「イエスタデイ」だ。よくよく聴いていると、たしかに相当な歌の実力の持ち主だと思えた。
「感想はどう?」
「あいつら、プロになるのかな。俺もプロになるんだ」
「……パンクバンドで?」
「当たり前だろ」
 ビートルズなんてまったく興味もないけれど、本橋と乾の歌う「イエスタデイ」は悪くない。早苗があいつに惚れたのはこの歌のせいか。それならばうなずけなくはないが、俺は内心で呟いた。天変地異が起きたとしても、あの女だけはやめておけ。本橋、忠告しておいてやるよ。


後編に続く
 
 

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