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小説101(第四部)(I NEED TO BE IN LOVE)前編

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ハンバーガー

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フォレストシンガーズストーリィ101

「I NEED TO BE IN LOVE 」前編

1

 インプリンティング、鳥が孵化したときに、最初に目についた動くものを親と思い込むこと。これって一種、兄とあたしに通じるものがあるのではないか。
 兄の書棚から手当たり次第に本を持ち出して、むずかしいのも易しいのも読んでいたあたしは、いつしか理系が好きになっていった。兄の将一は日本語ってものが好きで、やたらこむつかしいことを言うのだが、そうするとあたしは、日本語はお兄ちゃんにまかせておいて、お兄ちゃんがどちらかというと苦手な分野を勉強しよう、と考えたのかもしれない。
 赤ちゃんだったあたしの目が見えるようになったときに、最初に見た顔を親だとは思い込まなかった。パパとママはちゃんといるのだから、あれはお兄ちゃん、だと思ったのだ。
「赤ん坊のときの記憶なんて、しっかり残ってるはずないだろ」
「リリヤには残ってるんだもん」
「おまえなんてのは、まだものごころだってついてないんだよ」
「ついてるよ。失礼ね」
「おまえは今でも赤ん坊だろ」
「……リリヤは赤ん坊じゃないよっ。レディだもんっ!!」
「一年生がレディ? レディってのはなぁ……」
 三つ年上の兄は、自分だって四年生の子供のくせして、あたしの顔に指を突きつけてから、おかしな仕草をしてみせた。
「胸がこんなふうになって、ウェストはきゅっとくびれてて、ヒップがこんなふうになってて、脚はすらーっとしてて……」
「お兄ちゃんったらえっち」
「えっちで言ってるんじゃないんだよ。それよりもなによりも、中身だ。レディってのは中身が重要なんだ」
「リリヤは中身もレディだよっだ」
 けっ、言ってろ、と言い放った兄の顔は、今でもはっきり覚えている。
 あれはあたしが小学校一年生の年だった。あのころからあたしはレディのつもりだったのだが、今から思えば、レディってほどでもなかったのかもしれない。
 それはともかく、赤ちゃんのあたしが最初に見たものは、お兄ちゃんの顔だったともはっきり覚えている。そんなもんを覚えているはずはない、と兄は断言するし、兄にも赤ちゃんのときの記憶はないのだそうだ。友達たちもあたしを馬鹿にした。
「みんなは頭が悪いからじゃないの。あたしは頭がいいから覚えてるんだよ」
 そう言うと、リリヤったら言いすぎー、だからリリヤってきらーい、などと友達に攻撃される。ふんっだ、あたしもみんななんか大嫌いっ!! と言い返して、ひとりで下校した。
「金子リリヤちゃんだよね」
 ひとりで怒りながら歩いていると、あたしの前に出てきた男がいた。
「そうだけど……」
「リリヤちゃん、僕の彼女になってくれない?」
「ええ? あたし、小学五年生なんだけど……」
「知ってるよ。僕は大学一年だから、十八歳なんだよね。リリヤちゃんは十歳? 今は八つの年の差は大きいかもしれないけど、きみが二十歳で僕が二十八になったらって考えてごらん。そのくらいになったら普通でしょ」
「うん、それだったら普通かもしれないけど、駄目。あたしにはインプリンティングっていうのがあるの。日本語では刷り込みだよね。大学生なんだから知ってるでしょ」
「知ってるけど……それがなんなの?」
「知ってるんだったら話は早いよね。あたしにはお兄ちゃんがいるの」
「うん、それも知ってるよ」
 彼は近所に住んでいるのだそうで、いつもいつもきみを見て憧れていたんだよ、と言った。兄も知っているのならますます話は早い。あたしは彼を連れて歩き出しながら言った。
「あたしはあなたは知らないけど、お兄ちゃんって綺麗な顔をしてるでしょ?」
「そういえばそうだけど、男の子の顔なんかどうでもいいじゃないか」
「インプリンティングってのはね、あたしに刷り込まれたお兄ちゃんの顔」
「は?」
「お兄ちゃん以下の顔の男なんか好きにならないんだもん」
「そんな……リリヤちゃん、男は顔じゃないんだよ」
「顔だって大切だもん。お兄ちゃんは中学二年生なんだけど、背も高い成績もいいし、口やかましいから嫌いなんだけど、それでも、リリヤはお兄ちゃんみたいな男のひとでないと、彼氏にはしてあげないの」
「きみが若すぎるからじゃなくて?」
「あなたは年上すぎるけど、それよりも重大な要素はこっちだよ」
 うーん、うううううーん、と唸ってはいるものの、彼はどこまでもついてきた。そのうちには気持ち悪くなってきたので、あたしはだだっと走り出し、我が家に駆け込んで叫んだ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、変な男がついてきたーっ!!」
「痴漢か? おまえみたいなガキに痴漢って……いや、ロリコンとかいうのもあるんだよな。どこだ。外にいるのか」
「ロリコンってのはちっちゃい子を好きな変態でしょ」
「おまえにつきまとうってのは、変態のロリコンなんだよ」
「それってすごく失礼……ま、いっか。近所のひとなんだって。リリヤは名前も知らないんだけど、お兄ちゃんは知ってる? あそこにいるよ」
 逃げたかと思ったのだが、彼はまだ家の外に突っ立っていた。
「知らないな。近所とはいってもそう近くはないんだろ。よし、おまえはここにいろ。出てくるなよ。俺が追い払ってやる」
「大丈夫? あのひと、お兄ちゃんより大きいよ」
「気魄で勝負だ」
 中学二年生にしたら背は高いが、大学生にはまだ身長はかなわない。それでも兄は肩を怒らせて外に出ていき、大人っぽい声を出した。あたしは窓から彼と兄を見ていた。
「金子将一と申します。俺の妹に御用ですか」
「ああ、きみが……ふーん、こうして近くで見ると、たしかにたいした美少年だね」
「美少年? 俺はそういった軟弱な者であるつもりはありません。御用でしたらおっしゃって下さい。リリヤになにを?」
「そんなおっかない顔をしなくても……僕にリリヤちゃんをくれないかな」
「リリヤは品物ではありません。本人の同意もなく、あなたにさしあげるわけにはいきません」
「本人が同意したらいいのか」
「本人はまだ分別もつかず、ものごとの善悪の判断もできません。そんなものは大人になってもつかない者もいるのでしょうね。あなたはそういった種類の人間ですか」
「……中学生か、ほんとにおまえ?」
「はい」
 大学生はあきらかにたじろいでいて、中学生のほうが優位に立っているのは明々白々だった。
「くれって言ったのは……いや、つきあったらいけない?」
「リリヤとですか。小学生には男女交際は認められません」
「僕は大学生だよ」
「リリヤは小学生です。お引き取り下さい」
「おまえみたいな兄貴がついてたら、いくら美少女だって、リリヤちゃんは一生……」
「あなたにリリヤの将来を心配していただく必要性は感じません。お引き取り下さい」
「あのさ、あのね、将一くん」
 兄の耳に口を寄せ、彼はなにやら囁いた。
「……ってなことも、リリヤちゃんは言ったんだよ」
「だとしましても、それとこれとはまったくの別問題です。お引き取りいただけないようでしたら、腕ずくも辞さない覚悟でおりますが」
「おまえなんかに……いや、きみ、強そうだよね。喧嘩ってしたことあるの?」
「時にはリリヤとはしますが、あなたのおっしゃりたいような意味での喧嘩などは、一度も経験ありません」
「なんだ、そうか。じゃあ、鍛えてやろうか」
「どうぞ」
「だんだん腹が立ってきたぞ。ガキのくせしやがって……」
「はい、どうぞ」
 喧嘩なんて俺は一度もしたことはない、と兄は常々言っている。兄が言うのだからそうなのだろうとあたしは信じていたのだが、嘘だったのではないかと思えてきた。
 うがっとおめき声を上げ、彼が兄に飛びかかろうとした。兄はすいっと身をそらし、逆に彼の腕をつかんで背負い投げってやつをかけたのだ。柔道は学校で習っているそうだが、あれはあまりにも慣れているのではないだろうか。
 実はうちのお兄ちゃん、すっごく喧嘩が強いの? あたしは兄を口ばっかりの軟弱少年だと決め込んでいたのだが、疑いたくなってきた。
 だって、あたしが本当の子供だったころにだって、いじめっ子をやっつけてくれるとしても、口でだった。兄が小学生だとは思えない言葉を駆使していじめっ子と対決すると、相手は頭が錯乱状態になるのか、えええ? えええ? となって、その隙に兄はあたしの手を引いて逃げ出すのだから。
「く、くそ……わかったよ。じゃあ、五年ほど待つよ」
「五年では承服できませんね。八年後になさって下さい。それよりも」
「うん?」
「あなたはあなたの年頃にふさわしい女性に恋をなさったらいかがですか? これ以上は言いませんが、あの年頃の少女を好きになったりしていると……おわかりでしょ?」
「僕はそんな趣味ではなくて、ただ、リリヤちゃんが好きなんだよ」
 地面にへたったままで、彼は言っていた。
「それをして、犯罪者予備軍とも呼べるんですよね。あなたのご健康な精神と、ご多幸な将来をお祈りしています。では、失礼」
「……わかったよ。出直してくる」
「出直してこないでいただきましょうか。二度とリリヤの前をうろつくな」
 いきなり口調が変わり、兄の声に凄みが漂い、彼はぎょっとした顔になって、飛び上がって立ち上がって逃げていった。
「リリヤ」
 手をはたきながら家に入ってきた兄は、呆れた顔であたしを見た。
「あいつの言ったことは、すべてがおまえの言った通りでもないのかもしれないけど、あんな奴と口をきくな。この次にあいつを見かけたら、一目散に逃げろ」
「そのほうがいいかな」
「いいに決まってるだろ」
「うん、そうする。お兄ちゃん、おやつはないの?」
 両親は共働きなので、家にはまずいない。今日もがらんとした広い家のリヴィングルームで、兄とふたりでおやつを食べた。
「お兄ちゃんって美少年じゃないの?」
「誰が美少年だ。言うな」
「言われてるんでしょ、学校の女の子からとか? あたしは美少女だよね」
「ああ。おまえは美少女だよ。ったって、少女なんだから」
「美少女でもあり、レディでもあるんだもん」
「俺はおまえの将来が……」
「どうしたの?」
「……おまえが悪いわけではないから、言えないよ」
「変なの」
 困ったような怒ったような、それでいて、リリヤは美人だもんな、とも言いたそうな兄の顔は、本人がどれほど否定しようとも、まごうことなき美少年であった。
 それから数日後、学校から帰ると、兄はリヴィングのソファに寝ころんで読書にふけっていた。カバーがついているのでなんの本だかわからなくて、覗き込もうとしたら隠してしまう。えっちな本なんでしょ、と言うと、高踏な本だと言う。どうでもよくなってきたので、あたしは言った。
「お兄ちゃん、リリヤ、告白されちゃった」
「またあいつか」
「あの大学生? ちがうよ。クラスの男の子」
「小学校の五年生だろ。告白だ? ませたテレビやマンガの見すぎだよ。おまえはどうしたんだ?」
「どうもしてないよ。適当にあしらってきた。すぐにいいよって言ったらありがた味がないっていうの?」
「つきあいたいのか」
「別に……」
「そうだろうな」
「安心した?」
「おまえが高校生くらいだったら、つきあうってのも……いや、おまえがもっと大きくなって、お互いに交際してもいいと思える男が出現したら、俺に紹介しろ。俺が吟味してやる」
「やだよ、そんなの」
 男の子につきあってほしいと申し込まれて、嬉しくなくもなかった。だけど、めんどくさーい、の気分もあった。本当に彼を好きになったら、兄なんかには絶対に紹介しない。こわされるに決まってる。
「明日の放課後に公園で返事を聞かせて、って言うから、うん、いいよ、って言っておいたんだけど、別につきあいたくないし」
「俺が断ってやるよ」
「うん、じゃ、よろしくね」
 大学生が相手だと兄はああだったが、小学生が相手だったらどうするんだろう。好奇心もあったので、翌日、あたしは家から出ていく兄を尾行していった。
「おまえか」
 公園の植え込みのあたりで、兄は彼と向き合った。彼はクラスメートの近藤くん。顔は悪くはないけれど、兄と較べると段違い平行棒ってところだろう。
「本気でリリヤとつきあいたいって言ってるのか」
「……ええと……あのあの……」
「はっきりしない奴だな。第一、おまえたちは小学生だろ。どうしてもリリヤとつきあいたいって言うんだったら、俺を倒してからにしろ」
「……そんな……いえ、そこまでは……」
「そこまでもどこまでも、それしきできないようじゃ、女の子とつきあうなんて十年早いんだ。ぶるってるんだったらさっさとどこかへ行っちまえ」
「はい」
 なんだ、あれは、だらしない奴。お兄ちゃんってそんなに怖いのか? あたしもつまらなくなってきて、逃げていく近藤くんのうしろ姿を見送ってから、公園から出ていった。やっぱり小学生の子供なんかよりも、お兄ちゃんのほうがかっこいい。
「だから言っただろ。おまえだって小学生なんだから、まだ子供なんだよ」
 そう言いそうな兄に、近藤くんは子供でも、あたしは子供じゃないんだからね、と心の中で言い返していた。


 兄が高校生になり、あたしが中学生になった春。ある日、兄が友達を家に連れてきた。
「リリヤは覚えてないだろ。おまえは幼稚園だったんだもんな」
「誰? リリヤの知ってる子?」
「中学生が高校生の男に向かって、子とはなんだ」
「いいよ、金子。俺はリリヤちゃんは覚えてるけど、そっちは忘れちまったよな。皆実聖司です」
「……せいちゃん?」
「リリヤ、ちゃん付けにするな」
「うるさいね、お兄ちゃんは」
「本当だ。がみがみうるさい兄ちゃんだな」
「皆実、おまえまでが……」
 たしかせいちゃんは、小学校三年生まではお兄ちゃんの友達で、転校してしまったのだ。あたしもなんとなくは覚えているけれど、あのころは子供だったから、記憶ははっきりしていない。高校生になって兄と同じ学校に入学したというせいちゃんは、背が伸びて凛々しい少年に成長していた。
 そりゃあお兄ちゃんのほうが美貌は上だけど、そりゃそうだよね。リリヤのお兄ちゃんなんだもの、とあたしは思う。
 けれど、兄と比較しなかったら、せいちゃんだって綺麗な顔をしている。きかんきそうな、兄よりは野性的なタイプだろうか。せいちゃんがあたしを好きになったとしたら、兄は恋の邪魔をしないだろうか。
 どうだかわからないけど、せいちゃんって晩生っぽいし、あたしに告白したりはしないだろうな。してくれてもいいのにな、とあたしは思っていた。
 しかし、兄はそれっきり、せいちゃんを家に連れてこない。高校では読書クラブに入っているのだそうで、クラブが忙しいだの勉強が大変だのと言って、あたしを以前ほどにはかまってくれなくなった。
 かまってくれないとうるさくなくて、いいと言えばいいのだが、寂しいといえば寂しい。そのくせ、男の子関係にだけはチェックを入れたがるのだから。
「中学でも告白してくる奴がいるのか?」
「いるよ。三人くらい告白された」
「つきあってるのか?」
「小学生のときって、今から思えばあたしは子供だったんだよね。だけど、中学生になったらもうほんとに子供じゃないの。だから、お兄ちゃんのお節介はいらないからね。つきあってもいいと思える子だったらつきあうけど、今のところはみんな断った。自分で断った」
「おまえはまだ子供なんだぞ」
「ちがうよ」
 なんだって兄は、いつまでもあたしを子供扱いするんだろう。そのくせ、勝手なときにはこうも言うのだ。
「中学生にもなって、子供じゃないつもりだったら大人らしくしろ」
「リリヤはまだ子供なんでしょ? お兄ちゃーん、いいじゃないのぉ」
「勝手なときだけ……」
 勝手なときだけはあんたでしょ、あんたとはなんだ、兄に向かって、となる。まったくもう、なんだってこんなにうるさいお兄ちゃんの妹に生まれたんだろう。あたしは身の不運を嘆いているしかないのだった。
 高校生になった兄は、どんどこどんどこ背が伸びていく。顔立ちも美少年から美青年へと成長していく。声も大人らしくなってきて、なのに、彼女ってやつはいないのだろうか。あたしには次々に告白してくる男の子がいたのだが、兄にはいないのか?
「……でもさ、あたしはあんまり背が伸びないよね」
「父さんは大きいけど、母さんは大きいほうではないから、おまえは母さんに似たんだよ」
「背が高くなりたい」
「おまえはこれからだって伸びるさ。なんたって子供なんだから」
「子供じゃないもんね。でも、子供だったら伸びるけど、大人は背は伸びないのか。困ったな」
「困らなくてもいいだろ」
 鏡を睨んでいるあたしのうしろに回って、兄はあたしの髪をブラシで梳かしてくれた。
「女の子は小さくてもいいじゃないか。ほら、これ、似合うよ」
「ピンクのリボン? 買ってきてくれたの? そんな幼稚なのはいや。いらない」
 ポケットから取り出したサテンのリボンで、兄があたしの髪を結んでいる。しゃれた結び方でポニーテールにしてくれたので、機嫌がよくなってきた。
「ふーん、お兄ちゃん、上手だね。彼女にもプレゼントした?」
「彼女なんていないよ」
「もてないの?」
「もてない」
「そうなの? そうか。わかった。お兄ちゃんはクラスの女の子にも、がみがみ言うんでしょ? 口うるさい男は嫌われるんだよ」
「そうかもな」
 可愛いよ、と鏡の中のあたしに言ってから、兄は別の話をした。
「聞いたことはあったんだけど、あれって本当なんだよな。背が伸びるときのごきごきって音、俺も感じたよ。今朝起きたときに、お父さん、おはよう、って言ったら、目線が変わってたんだ。お父さんと身長が近くなった。お父さんは言ってたよ、もうじき将一に追い抜かされるな、って」
「背が伸びるとごきごき言うの? リリヤはそんな経験ってないよ」
「おまえだってまだまだ伸びるよ。伸びなかったとしても、おまえは可愛いんだからいいさ」
「もう美少女じゃなくて美女?」
「あのな、リリヤ」
 急に表情を引き締めて、兄は言った。
「中学生なんてのは少女でいいんだよ。急いで美女にならなくても、生きてりゃおまえは美女に育つんだ。外見ばっかり気にしてないで中身を磨け。勉強しろ。掃除もたまにはしろ」
「うるさーい」
「たまには夕食を作って、疲れて帰宅する両親を出迎えようって……」
「お兄ちゃんがやったらいいじゃない。長男なんでしょ」
「それは長女の仕事だろ」
「長女って誰? リリヤは妹であって、長女じゃないよ。ああ、もう、うるさいんだから。遊びにいってくるから、掃除もごはんもよろしくね」
「こら、待て」
「待たないもーん」
 うるさい兄から逃れて外に出て、高そうなピンクのリボンを友達に見せにいこうと歩いていると、知らない女の子が声をかけてきた。
「金子将一さんの妹さん? リリヤちゃんだよね」
「うん。あなたはお兄ちゃんの友達?」
「友達っていうか……友達になってもらいたいんだけど……」
「同じクラスの子?」
「そう。雪子っていうの」
 本人はもてないと言っていたけれど、雪子さんは兄が好きなのだろう。ついつい意地悪な視線で観察してみたら、あまりいけてない女の子だった。
「金子くんって彼女はいるのかな」
「いないと思う?」
「高校にはいないんじゃないかと……女の子とも親しく話してるけど、特別な関係の女の子はいないみたいに思えるんだけど……」
 家から遠ざかる方向へと彼女を導いて、あたしは言った。
「高校にはいないだろうけど、よそにはいるの。詳しく言うとお兄ちゃんに怒られるから、言わないけど、彼女がいないわけないじゃない」
「そう。やっぱりね」
「お兄ちゃんに彼女がいないとしても、あんなのはやめておいたほうがいいよ」
「どうして?」
「うるさいから。がみがみばっかり言ってるし、じきに暴力ふるうしさ」
「暴力?」
「そうなの。あたしと喧嘩して、口でかなわないと手を出すんだよ。外では優等生ぶってるのかもしれないけど、ほんとは暴れんぼなんだから」
「金子くんが暴れんぼだなんて、信じられない」
「妹が言ってるんだから本当なの。お兄ちゃんは外面がいいんだよ」
 小さいころから喧嘩をしたり、あたしがいたずらをしたりすると、こつん、と頭を叩かれた。その程度だって暴力は暴力だ。そこを針小棒大にして話すと、雪子さんの表情が沈んでいった。
「暴力をふるう男の子っていやだよね」
「でしょ? お兄ちゃんは身体が大きいくせに、中学生の妹を暴力で打ちひしごうとするんだよ。最低なんだから。だからね、女の子とだってつきあったりしたら、暴力をふるわないとは言い切れないの。やめておいたほうがいいって」
「そう。そうなのね。でも……うん、リリヤちゃん、ありがとう」
 雪子さんはぺこっと頭を下げてあたしから遠ざかっていき、んんと、言いすぎたかな、とあたしは思った。これでは兄の恋路を邪魔する意地悪妹みたいだが、雪子さんでは兄には似合わない。リリヤには最高の美青年が、将一には最高の美女でなければ似合わないのだから。
「ふーん、俺は暴力兄なんだな」
 その翌日、あたしが先に帰ってピアノの練習をしていると、兄も帰ってきて言った。
「え? 雪子さんに聞いたの?」
「やっぱりおまえか。雪子ちゃんは俺には世間話みたいな調子で言ってて、リリヤが言ったとは言わなかったけど、そんなことを言うのはおまえしかいないじゃないか。そうか、暴力兄だっていうんだったら実践してやるよ」
「きゃああっ!! お兄ちゃんがぁっ!!」
 ひょいっと抱え上げられてじたばたすると、兄はしばしなにやら考えていた。
「……やだっ。降ろしてっ!!」
「弟だったらこのまんま投げ飛ばして……他にもなんとでもやりようはあるけど、おまえは女の子だろ。どうしたらいいんだよ」
「どうもしなくていいの。降ろして」
「いつもこれだとなめられるんだ」
「なめてないよ。お兄ちゃん、尊敬してるから降ろして。リリヤはピアノの練習中なんだからね。ね、一緒に練習しようよ」
「うるさい」
「うるさいのはお兄ちゃんじゃないのよっ」
「おまえのほうがよっぽどうるさいんだよ」
 兄はあたしを抱えて歩いていき、庭の物置にあたしを放り込んで外から鍵をかけた。
「なにすんのよっ!!」
「そこで反省してろ。俺の友達にあることないこと……あ、お母さん」
 なにかの用事で家に母が帰ってきたらしい。救いの神があらわれたので、あたしは大声を出した。
「お母さん、お兄ちゃんったらね、リリヤはなーんにもしてないのに怒って、こんなところにあたしを入れたんだよ。出して。出してーっ!!」
「将一……」
 母の静かな声に続いて、兄の焦った声も聞こえた。
「これには理由があるんですよ。母さん、俺の釈明を聞いて」
「ちっちゃな妹を苛めるとは、高校生にもなってなんなの?」
 ぴしゃっ、という音。あれは兄が母に叩かれたのだろう。母はあたしは叩かないけれど、兄は昔からたびたび叩かれている。すみませんでした、と兄の声がして、物置の戸が開いた。
「リリヤ、かわいそうにね。悪いお兄ちゃんだよね。帰ってたんだったらちょうどいいわ。素敵なワンピースを見つけたの。買ってあげるから、お母さんとお買い物にいこうか」
「うん。支度してくるね」
 ふーんだ、と兄を見ると、兄はほっぺたをさすりながらそっぽを向いた。ふたりでショッピングに行くと、母が打ち明け話をしてくれた。
「あのね、三人目が生まれるって……」
「ええっ?! お母さん、いくつ?」
「まだ四十にはなってないんだけどね……油断してたんだけど……できちゃったんだからしようがないでしょっ」
「怒らなくてもいいじゃないのよ」
 妹かな、弟かな、あたしはお兄ちゃんの妹ってだけじゃなくて、その子のお姉ちゃんになるの? いやだなぁ、があたしの正直な気持ちだった。だから、それから一ヶ月ほどして、母が流産したと告げたときには、安心してしまったのだった。
「よかった」
「リリヤ、なんて言ったんだ?」
「だって、お兄ちゃん。お母さんがこの年で子供を産むだなんて、世間体が悪いっていうの? 恥ずかしいじゃない。それに、お母さんはリリヤのお母さんなんだもん。赤ちゃんに取られるなんていや」
「中学生にもなって、赤ん坊に母さんを取られるって、そんな発想をするか? よかった、なんて言うな。お母さん、俺にはそんなのってよくわからないけど、無理をしないでね。しばらく仕事を休んだら? お父さんの手伝いは俺がするから」
「将一……うん、大丈夫よ」
 いい子になっちゃてさ、お兄ちゃんったら、とあたしは不満だったのだが、母は頼もしそうに兄を見て、目元を潤ませていた。


2

 小さいころにはいつだって、お兄ちゃんのあとをついて歩いていたリリヤ。あたしの記憶にはそんなには残っていないけれど、いくつかの想い出はある。
「お兄ちゃん、なにやってるの? ああっ、そんなことしたらいけないんだよ」
「命中……でもないのかな」
「リリヤもしたい」
「女の子にはできないんだよ。こら、やめろ」
 庭の虫におしっこをかけようとした兄は、六つか七つだったのだろうか。あたしも真似してしようとしたら、兄が慌てて止めた。そこにあらわれた母に兄が叱られて、叩かれていた。
 同じころだったか、朝、起きたら布団が濡れていて、あたしはべそをかいた。両親はすでに仕事に出かけていたのか、あたしの泣き声を聞きつけて、兄が部屋に入ってきた。いいよ、僕がしたことにしてやるよ、と兄は言ってくれた。
 ベッドから布団を引っ張り出して、あたしの布団を兄のベッドに入れ、兄の布団をあたしのベッドに入れた。シーツとパジャマはふたり分、まとめて洗濯機に放り込んで、兄が洗濯してくれた。着替えも出してくれて、おまえはまだ小さいんだから、しようがないよ、と兄は慰めてくれた。
 あのときも兄は、小学生にもなっておねしょだなんて、と母に叩かれそうになり、父が止めていた。こういうことは叱ったらいけないんだよ、と父が言っていたのも覚えている。
 シーツは色違いだったけれど、布団は同じ。地図の描かれた布団が庭に干されていた景色も、記憶に残っている。父は犯人が誰だったのかを知っていたのかもしれない。
「リリヤも男の子に生まれたかったな」
「うん。俺もおまえが弟だったらよかったのにって思うよ」
「なんで?」
「いろいろ」
 なぜだかは教えてくれなかったが、高校生になった今ならばわかる気がする。
 弟とだったら取っ組み合いもできただろうし、少々乱暴に扱ったとしても、母は怒りはしなかっただろう。子供のころのあたしは、お兄ちゃんがこんなことをした、あんなことをした、と母に言いつけては、そのたびごとに兄は母に叱られて、ほっぺを叩かれていた。
 暴力兄ではなく、暴力母であったらしいのだが、そんなときには兄は言い訳は一切せず、あたしが覚えている限りでは、泣きもしなかった。
「お母さん、ごめんなさい」
「わかればいいのよ。将一、それにしたってあんたはね、どうしてそう妹を苛めるの?」
「可愛いからかな」
「……この子ったら」
 そうやって母を笑わせ、あんたも可愛いわよ、と抱きしめられていた兄を見ると、やきもちを妬いて割り込んだ。
「お母さんはお兄ちゃんとあたしのどっちが可愛いの?」
「どっちも」
「どっちがもっと可愛い?」
「リリヤだろ。いいんだよ、僕は。リリヤはうちの王女さまなんだもん」
「将一は子供のくせに、変に悟り澄ましたようなことを言うのよね」
「お母さんもお父さんも、リリヤを一番可愛いと思っていてくれたら、僕も嬉しいんだから。僕だってリリヤが……時々、可愛くないけどね」
「時々だったらしようがないわね」
 そんな会話も覚えている。母の膝で甘えていたちっちゃなリリヤ。父に勉強を教えてもらっていた、まだ子供だった兄。金子家の一家団欒風景。
「将一って泣かないでしょ。私がかなりきつく叱っても泣かないの」
 母が言い、父も言った。
「男だからな」
「男だって言ったって、子供じゃないの。子供のくせして絶対に泣かないって、可愛くないのよ」
「母さんは将一が憎らしいのか」
「そうは言わないけど、内緒だけどね、リリヤのほうがすこーし、将一よりも可愛いかな」
「そういうのもあるのかもしれないけど、将一は平気だろ」
「だとしたら、やっぱり将一は可愛くないわ」
 そんな両親の会話を盗み聞きして、兄には言わなかったのだが、喧嘩になったときに思い出した。
「お母さんはお兄ちゃんよりもリリヤのほうが可愛いんだって。リリヤは聞いたんだよ」
「そっか。いいよ」
「ひねくれた?」
「いいんだ。親は子供の俺になに不自由ない暮らしをさせてくれてるんだから、不平なんて言わない。俺は大学を卒業したら独立するんだから」
「独立? リリヤも連れてってくれる?」
「おまえは嫁に行くんだろうが。なににしたって、ずっと将来の話だよ」
 あれはいくつのときだったか。お兄ちゃんがリリヤを捨てていくーっ、と誤解して泣き出して、またあんたは妹を苛めて、と母に兄が叱られて、兄はただ、すみません、と頭を下げていた。
 小学生になったころから、あたしは自分をレディだと言っていた。今となったらお笑いごとで、小学生のどこがレディ? とあのころのあたしに言ってやりたくなる。今は高校生なのだから、本当にレディになったと思っているけれど、数年がすぎて振り返れば、あんたがレディ? へっ、と言いたくなるのだろうか。
 数年後なんて想像もできないけど、あたしが高校生となると、三つ年上の兄は大学生になった。優等生だったわりにはたいした大学ではないのだが、兄は言語学者になりたいのだそうだから、そのための学部を選んだのだろう。
「合唱部に入ったんだよ」
「合唱部? お兄ちゃんは歌もうまいから、いいけどね」
「おまえの許可はいらないけど、皆実もいっしょだ」
「せいちゃん?」
「あいつは大学生だぞ。大学生の男をつかまえて……」
「はいはい。うるさいね。じゃあ、なんて呼ぶの?」
「皆実さんと呼べ」
「皆実さんなんてせいちゃんじゃないみたい」
 兄と高校が同じだった皆実聖司さんは、大学も同じ。ただし学部は別々なのだが、サークルも同じなのだそうだ。幾度かは会った皆実さんは、兄よりはいくぶん劣るとはいえ、美青年になっている。が、あたしに告白はしてくれなかった。
 中学校でも男の子には何度も告白されて、全部断ったのは、兄が難癖をつけるせいもあるけれど、これだったらいい、と思えるほどの男の子がいなかったからだ。せいちゃんだったらいいのにな、とひそかに考えてはいたが、あたしから告白するほどではない。
 高校生になったのだから、今度こそ彼氏がほしい。だけど、たいしたのはいないよね。兄と較べるからよくないんだろうか、と現在のあたしは思っている。
 このごろはいっそうあたしをかまってくれなくなって、かまってくれるとなると口うるさいばかりだけど、お兄ちゃんほどかっこいい男はどこにもいない。これがあたしの不運なのだろう。ルックスだけはいい兄が身近にいるせいで、どの男もかっこいいとは思えないのだ。
「合唱部ってのは、なんでここが合唱部なんだ、なんでここの男どもは……って先輩が大勢いるんだよ。荒くれ男の巣窟なんだよ」
 ぼやきつつも楽しそうにしている兄は、夏前にハープを買ってきた。
「中古なんだけど、夏のコンサートで俺が演奏するって決まって、家でも練習するんだよ」
「お兄ちゃん、ハープは弾けた?」
「弾けないよ。だから練習するんだろ」
「無理だよ」
「無理じゃないさ。無理だなんて言ってたら、なんにもできやしないんだ」
 最初のうちは、そんなのやめたほうがいいよ、と言いたい腕前だったのだが、兄は学校でも家でも練習を積み、めきめき腕を上げていった。
 それと同時に、時としてふっと憂愁を帯びた表情をする。そんなに疲れてるのかな、とは思ったのだが、ハープだの合唱部だの学問だのと言ってばかりで、ちっともあたしと遊んでくれないのに腹を立てていた。
「妹をほったらかして、勝手なことばっかりやってるんだから」
「俺には俺の生活と行動があるんだ。おまえも高校生なんだから、いつまでも兄にくっついてるんじゃないんだよ」
「お母さんに言いつけてやろっと。このごろはお母さんはお兄ちゃんを叩かないから、甘く見てるんでしょ」
「おふくろに殴られたって、もはや痛くもないよ」
「ああっ、あんなこと言ってる。言いつけてくるからね」
「好きにしろ」
 とっくに兄は父の背丈も追い越し、日ごとに大人っぽくなっていく。当たり前なのだろうけど、あたしは寂しかった。
「お兄ちゃんったら、飲み会だのサークルの用事だのって、よく遅く帰ってくるじゃない? ほんとはなにをしてるんだかわかったもんじゃないよ。悪い遊びをしてるんじゃないの? お母さん、お兄ちゃんをきつーく叱ってやってよ」
「そうねぇ」
 母もまともに取り合ってくれない。料理を作っている母の手伝いをしながら、あたしは言った。
「おふくろに殴られたって、もはや痛くもないって言ってたよ」
「そうでしょうね。おふくろって? 私には面と向かっては言わないけど、他のひとには言ってるのね。私もおふくろになったか」
「お母さんに叩かれたら痛いよね。叩いたらいいのに」
「負けるわよ、もう将一には」
「精神的には勝つよ」
「そりゃあ、将一だって精神的には子供よ。十八の男の子なんて、親から見たら子供でしかないのよ。だけど、あの子はいつの間にやら……あまり手もかけてやらなかったのに、だからこそなのかしら。親の見てないところでなにをしてるのかは知らないけど、リリヤの面倒をまかせっ切りにしていたせいもあるのか、将一は……」
「お母さんったら、なにをしみじみしてるの?」
「将一よりもリリヤでしょ。なんですか、その手つきは。包丁で手を切るわよ」
「……ふんっだ。そんならお手伝いなんかしないもん」
 ふくれっ面になって包丁を流しに投げつけたら、母が目を丸くした。
「リリヤ、危ない……怪我をしたらどうするのよ」
「こっちに放り投げたって怪我なんかしないよっだ」
 足音が聞こえてきて、兄が顔を見せた。
「将一、リリヤったらね……」
 完全に昔のさかさま。母が兄に告げ口をしている。兄はいましがたのできごとを聞いてから、母に尋ねた。
「お母さんの教育方針に異を唱えるつもりもないけど、甘かったよね。高校生だったら手遅れでもないでしょ。いいかな」
「いいって?」
「お母さんがいいと言うんだったら、リリヤに一度……」
「そうね。いいわよ」
 いいってなにを? あたしはあとずさりし、兄の横を通り抜けて必死になって逃げ出した。
 キッチンが広くてよかった。狭かったら兄に阻まれてつかまえられて、それからどうされていた? 考えたくもないので頭を振って、くさくさする、よし、お酒を飲もうと決めた。友達を呼び出し、男の子も女の子も大勢で、生まれてはじめて、保護者のいないところで飲んだ。
 家でだったら父や母のワインをすこしもらったりして、飲酒経験もなくはない。何人ものグループでお酒を飲み、楽しくすごしてふと気がついたら、真夜中になっていた。
 近いので終電の時間は気にしなくてもいいのだが、これはちょっとまずいかも、となって青ざめた。友達も近くの子ばかりで、適当に連れ立って帰っていく。あたしはひとりになって、逆方向へと歩き出した。
 歩いていると公園に出る。帰ったら……いくらなんでもお父さんも怒るかな。こんな時間なんだから、お母さんも怒ってるかな。電話もできない。怖くてできない。どうしたらいいのかわからなくなって、ブランコにすわって泣き出しそうになっていた。
「あれは俺の妹です。連れて帰りますから」
 兄の声が聞こえ、顔を上げると、数人の男と向き合っている姿が見えた。
「本当ですよ。お疑いでしたら聞いてみましょうか。リリヤ、俺はおまえの兄貴だろ」
「ちがうよ。知らないひと」
 ああ言ってるじゃないか、おまえこそ、あの可愛い子にちょっかい出そうとしたんだろ、と男たちが兄を難詰している。
 中学生のときに家にやってきて、あたしにネズミのプレゼントをくれたクラスのいたずら坊主たちを、兄が投げ飛ばしたのを見ている。他にも、実はお兄ちゃんはかなり強いんだ、と思わせられるシーンを目撃していたので、兄が喧嘩なんかしたことはない、と言ったのは嘘だと知っている。
 それでも、五人もいる男に殴りかかられたりしたら、兄だって負けるんじゃないかとは思った。それでも、あたしはかたくなにブランコにすわっていた。
「そうか。じゃあ、俺はあなたたちと同じ立場なんだな。では、警察に参りましょうか。みっともないけど、俺は父に連絡して釈明してもらいますよ。父が兄妹だと証明してくれるでしょう。行きますか、そこに公衆電話がありますね」
 公衆電話に歩み寄っていく兄の背中に、ひとりの男が殴りかかろうとした。兄は立ち止まって振り向き、夜の地面を這うがごとき低く太い声で言った。
「やりたいんだったらやってもいいですよ。ただ、俺はすこし腹を立てていますんで、怪我をしても知りませんからね」
「怪我をするのはてめえだろ」
「俺も怪我をするでしょうね。当然です。怪我が怖くて殴り合いなんぞできるか。やりたいんだったらかかってこい」
 思わず悲鳴を上げたのはあたしで、サイレンみたいなあたしの声にびっくりしたのか、男たちは逃げていった。兄は悠然とあたしに近づいてきて、静かに言った。
「おまえのおかげで入院しなくてすんだかもな。リリヤ、帰るぞ」
「いやだ」
「帰らずにどうするんだ? 公園で夜明かしするのか」
「お兄ちゃんなんか嫌いだよっだ」
「俺はおまえが可愛いよ。妹だもんな。俺のこの世でたったひとりの妹なんだから、可愛くなくても可愛いんだ。つまらない意地を張ってないで、帰ろう」
「だって、お父さんもお母さんも怒ってるでしょ」
「怒ってるっていうよりも、心配してた。俺が根回しはしておいたよ」
「どうやって?」
 立ったままで、兄は言った。
「そういえばリリヤは、友達と約束があるって言ってたよ、と言っておいた。今日は遅くなるらしいとも言っておいたけど、遅くったって限度があるだろ。お母さんにもお父さんにも叱られるだろうけど、当然なんだから素直にあやまっておけ。帰ろう」
「……やだ」
「いい加減にしないとかつぎ上げて連れて帰るぞ」
「誘拐魔って叫ぶから」
「やってみろ」
 高みからあたしを見下ろして、怖い顔をしている兄を見ていると、泣けてきた。
「だって……だって……」
「いいから帰ろう。泣き顔のおまえを連れて帰ったら、母さんに叱られるのは俺だな」
「……さっき、なにをするつもりだったの?」
「さっき? 忘れてたのに思い出したじゃないか。帰ろう。おいで、リリヤ」
 仕方なく立ち上がり、兄のうしろから歩き出した。
「家に帰ったらやってやるよ。包丁なんか投げて、母さんもおまえも、下手をしたら怪我をするだろ。酒の匂いがするな。飲んでるだろ。でなくちゃこんなに遅くなるはずがない。すこしでもごまかすために、顔を洗ってうがいをしろ」
 公園の水道で兄の言った通りにしているあたしに、兄は言い続けていた。
「俺はか弱いってのに、あんな奴らに殴られたらこっちも怪我をするところだったよ。夜中に公園なんかにいて、兄貴に大嫌いな暴力沙汰をやらせるつもりだったのか」
「大嫌いじゃないくせに」
「暴力は大嫌いだよ。お母さんやお父さんに叱られても、口答えするな」
「お兄ちゃんを見習うことにする」
「俺を? そうか……」
 帰るともちろん、心配のあまり脳卒中を起こしそうになっていたわっ、と母に散々お説教されたのだが、父は特にはなにも言わなかった。素直にごめんなさい、と繰り返していたら、母のお説教もほどほどでやみ、兄が言った。
「明日も学校だろ。風呂に入って寝ろ」
「はーい」
「おや、リリヤが将一にも素直だなんて、明日は雪が降るんじゃないのか」
 父が言い、兄も母も苦笑いしている。帰ったらなにかすると兄は言っていたようだが、忘れたらしいので思い出させないでおこう。母に叱られたというのもめったにないけれど、今夜は兄にも叱られた。子供同士の兄妹喧嘩ではなくて、兄に叱られるといったほうがふさわしくなった。


 大学は兄と同じにして、合唱部にも入ろうと決めたのは、そこにはけっこうかっこいい男の子もいると知ったからか。あたしは理系は得意分野なので、兄の大学は理学部の難易度が高いといっても、すいすーいのラクチンラクチンで合格できると決めて、それでも、まあまあ勉強もしていた。
 言語学者になりたいと言っていた希望を覆し、最近の兄は歌手になると言うようになっている。合唱部に入ってその気になったのであるらしい兄に、あたしは言った。
「協力してあげるよ。あたしも歌手になりたい。あたしだって歌はうまいでしょ? お兄ちゃんほどじゃないかもしれないけど、お兄ちゃんもあたしも顔はいいんだから、アイドルデュオって感じにもなれるんじゃない? 兄妹デュオでデビューしようよ」
「うん? その方法もあるな」
 案外単純な兄は、妹の言葉にも乗り気になった。それはいいのだが、それからの兄はなおいっそう口やかましくなった。
「おまえが大学に合格したら、おまえとのデュエットを録音して、俺がデモテープを作って送るよ。調べはつけてあるんだ。だけど、そのためにはおまえが大学生になるのが先決だ。俺も大学は卒業したいから、それからの話だろ。そのとき、おまえは大学二年生。二十歳になる。デビューするにはちょうどいい年齢だよ。だからおまえは、これからは受験勉強と歌とピアノに心血を注ぐんだ。男なんかに脇見している余裕はない。飲んで帰ってきたりもするな。未成年の間は酒は絶対禁止だ。俺の言いつけを聞かないと……」
「どうするの?」
「どうなるかは、そうなったら……俺にそんなことをやらせるなよ」
「やらなかったらいいんじゃないのよ」
 もしかして、去年のあれ? 忘れたのかと思っていたら、忘れてしまったのでもないらしい。どうせ今年も高校にはろくな男の子もいないし、あたしも歌手になりたいんだから、ここはひとまず兄の言う通りにしようと、とりあえず勉強とピアノと歌のレッスンに励むことにした。
 高校生は大学には立ち入り禁止だと兄が言うので、あたしは兄の大学に行ったことはない。だが、二年生になって友達になった麻美が、そんなの嘘だよ、と教えてくれた。
「去年の大学合唱部のコンサートには、私も行ったよ。リリヤのお兄ちゃんも見たよ。去年も私は金子将一とリリヤって兄妹を知ってたの。将一さんもここの高校出身でしょ」
「うん」
「私の彼は今、うちの高校の三年生だから、将一さんを知ってるのよ。それで、彼に連れてってもらったんだ」
「麻美って彼がいるの?」
「いるよ。いるほうが普通でしょ。リリヤにはいないの?」
「いない。いつもお兄ちゃんが邪魔するから、彼ができないんだ」
「一度も男の子とつきあったことないの? ブス女だったらしようがないけど、このリリヤが? 嘘みたい」
「本当だもん」
 あの嘘つき兄貴め、とは思ったのだが、麻美の彼についてあれこれ聞いているうちに、高校生は大学には立ち入り禁止、はどうでもよくなってしまった。
 小学生のときに初に男の子に告白されて以来、中学でも高校でも、何度となく男の子には告白された。兄が邪魔するというよりも、最近はあたしが面倒になって、ろくでもない奴ばーっか、お断り、となっているのだが、兄の顔がよすぎて、他の男の子がブス男に見えるというのはまちがいなくある。
 なのだから、結果的には兄が邪魔しているのだ。あたしが嘘をついているのではない。
「内緒だけどね、こんなのって実現するかどうかはわからないんだけど、あたしとお兄ちゃんは、お兄ちゃんが大学を卒業したら、歌手になりたいって決めてるの」
「デュエットで? うわっ、美形兄妹デュオだね。こんな感じかな」
 絵の上手な麻美は、さらさらっとイラストを描いてくれた。
「兄妹っていうよりも、恋人同士みたい。気持ち悪い」
「気持ち悪いとはひどーい。でも、そうかな。私はひとりっ子だから、お兄ちゃんって憧れるんだよね。将一さんはとびきり顔も姿もいいし、リリヤだって綺麗だから、私が描くとこうなっちゃうのよ。お兄ちゃんって優しいんでしょ?」
「優しくないよ。怒ってばっかり」
「どんなふうに?」
 子供のころからつい最近までの、兄がしたこと、言ったこと、などなどを話すと、麻美はあたしの顔をまじまじ見た。
「おねしょしたのの身代わりになってくれた? リリヤがしたいたずらを僕がやったって言って、かわりにお母さんに叩かれた? お酒を飲んで遅くなったら、公園に迎えにきてくれた? それを優しいと言わないんだったら、どれを優しいって言うの?」
「優しいの、あれって? 当たり前かと思ってた」
「当たり前?」
「お兄ちゃんだもん。当たり前じゃないの」
「彼氏もそうしてくれるのが当たり前?」
「そうなんじゃない?」
「そんな彼氏、きっといないよ。リリヤはずっとお兄ちゃんに可愛がられてるほうがいいかもね」
「やだ、お兄ちゃんじゃなくて彼がいい」
 だってだって、お兄ちゃんは今でも、たまにはリリヤの頭をこつってやるんだよ。お説教なんていつもいつもだし、と言っているあたしを、麻美は呆れた顔で見ていた。
「この間だって、ちょびっとだけお酒を飲んだの。ほんのちょっぴり。うちはお母さんもお父さんも働いてるから、いつも帰ってくるのは遅いんだよね。お兄ちゃんだってたいてい遅いくせに、その日は早く帰ってきて、飲んでるだろ、前に俺がなんて言った、って怖い顔して怒るの」
「ちょびっとだったら怒らなくてもいいのにね」
「でしょ? なのに怒ってさ、逃げようとしたらつかまえられて、お風呂に入って酔いを醒ませ、お母さんやお父さんが帰ってくるまでに、酒の匂いを消せ、ってさ。抱え上げられてお風呂場に放り込まれた」
「へええ」
「だからお風呂に入ったよ。それでも酔いは残ってたのかな。出てきたらお兄ちゃんにお説教されて、あたしは途中で寝ちゃって、気がついたらベッドに入ってた」
「お兄ちゃんが運んでくれたの?」
「そうみたい」
「……そういうのを優しいお兄ちゃんって言うんだよ」
「言わないよ」
「言うの。リリヤったら、どんなのだったら優しいお兄ちゃんなの?」
 言われて考えてみた。うーん、こんなふう? しか思いつかないのだが、言ってみた。
「お説教なんかしないの。怒ったりもしないの。リリヤがなにを言ってもしても、よしよし、いいよ、って言って、言う通りにしてくれるの。なんでも買ってくれて、部屋の掃除なんかもお兄ちゃんがしてくれる。掃除や洗濯は自分でしろ、女だろ、って言わないの」
「彼氏もそんなのがいいの?」
「そりゃそうだよ」
「……リリヤ、それでは一生……」
 そこで言葉を切って、ふーっと息を吐く麻美の目は、どこかしら兄に似ていた。

 
後編に続く 
 
 
 
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