番外編

番外編37(Remember The Time)

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ぷりんす
番外編37

「Remember The Time」

1

 仕事をやめたら俺の毎日は暇だらけになった。作曲だけに熱中して、本橋さんが来てもいいと言った日にはせっせと通う。FSは超売れっ子というほどでもないので、本橋さんも家で歌づくりをしたり、美江子さんと仕事の打ち合わせをしたりしている日もあって、俺は勉強ができて嬉しい。
 嬉しいのは嬉しいんだけど、むかつくこともある。本橋さん、えらそうにしすぎだ。
 アイドル養成スクールではメインは歌と踊りと演技のレッスンだったけど、一般的社会常識とやらいうものも習った。教官のオヤジは俺にはこう言った。
「洋介、おまえはおまえのカラーってものを持ってる。今どきの言葉でいえばキャラか? おまえはそのルックスとそのキャラで売ればいい。無理はしなくてもそのままでもいい。ただし、不良っぽい、程度だぞ。本物の不良は駄目だぞ」
 田舎ではけっこう遊んでた、そのセンをちょっとだけ出せばいいわけね、と俺は解釈し、たしかにそのセンでアイドルを張っていたのだ。けど、本橋さんはとてつもなく口うるさい。
「返事ははいだ」
 からはじまって、こう続く。
「敬語ってのは俺にもむずかしいんだから、厳密には敬語でなくてもいい。しかし、丁寧に喋るぐらいはできるだろ。はい、ありがとうございます、そうです、わかりません、すみません、申しわけありません、その程度は徹底しろ」
「わかりましたでごぜえやす」
「時代劇じゃないんだから、そんな喋り方はするな」
「うるせんだよ」
「なんだと?」
「うるせえんです」
「そんな言葉は友達の前でだけ出せ」
 やかましくってやってられない。いちいち言葉にチェックを入れられたら喋れやしない。教育なんてされたくねえんだよ、と怒鳴るわけにもいかずにへらへらしていると、美江子さんまでが言うのだった。
「洋介くんって高校中退なんだって? 高校ぐらいは卒業しておいたほうがいいんじゃない? 本橋くんは教師じゃないんだから、教育するといっても限度があるよね」
「今さら高校生になるのもいやだろ。大検って手もあるぞ」
はじめて俺が口をきいたのは、乾さんとだった。高校を中退して青森の片田舎から上京してアイドル養成スクールに入り、スクールから選ばれた仲間たちと、ラヴラヴボーイズだなんて恥ずかしい名前をつけられてデビューした。
 名前は世にも馬鹿馬鹿しかったのだが、え、えええ? え、え、え、え? ときょろきょろしているうちに、俺たちは売れっ子になった。そんな時期にどこかの雑誌の企画で、お互いに五人というだけの理由で、フォレストシンガーズとラヴラヴボーイズが対談をすることになったのだ。
 年齢順に組み合わされた相手は、フォレストシンガーズでは格が二番目の乾さんと、ラヴラヴボーイズでは年が二番目の俺だった。俺は舞い上がっていた、思い上がっていた、と今なら言える。
 あんたらは年だけは食ってるけど、俺たちのほうがずっと売れてるしぃ、と思っていた。乾さんは乾さんで、け、なんだこのガキは、であったらしく、対談は白けムードのままで終わった。
 たったの二年足らずでラヴラヴボーイズは解散し、俺は普通の兄ちゃんに戻った。アイドルとしてデビューしたものの、俺はじきにそんな世界がいやになって、シンガーソングライターになりたい、と考えるようになっていたので、解散は別に後悔していない。今はいつの間にか世話になるようになった本橋さんのもとで、作曲修行に励んでいるのだが。
「大検、やってみるか。勉強はうちの奥さんに教わってもいいしな」
 昔を思い出しているうちに美江子さんの姿はなくなっていて、本橋さんが俺の言われたくないことを蒸し返した。
「俺たちの世界は学歴なんて無関係だけど、高校も出てないんじゃ潰しがきかないだろ。専門学校って手もあるな」
「俺は潰れるの?」
「そうは言ってない」
「あんたらはいい大学出てるんだよね」
「いい大学でもないが」
「俺なんかまともに高校も出てねえよ。ド田舎の半分ヤンキーだったよ。親もそんなのだよ。勉強なんか大嫌いだ。俺はそんなことを教わりにきてるんじゃない。作曲だったら勉強するけど、学校の勉強なんかいやだ、いやだ」
「洋介、ですます、を忘れてる」
「うるせんだよっ!」
 アイドル時代は暴力厳禁で、かっちゃんの頭をこづいたり、ロロやさあやを軽く蹴飛ばしたり、ヨシとボクシングごっこをしたり、ぐらいしかしなかった。セクハラをしかけてきた……パワハラっつうんだっけ? そういうおっさんを暴力もどきで撃退した以外は、暴力からは遠ざかっていた。
「はい……わかりましたけど、ええと……学校はやだよ」
「無理にとは言わないよ。おまえ、前にこういったシチュエーションで……」
「思い出さないで、下さい」
 まだ俺がラヴラヴボーイズのポンだったころ、本橋さんと美江子さんが結婚していなかったころに、こんな出来事があったのだ。二度とやってはいけないことを、俺はしてしまった。


あのときも俺は本橋さんに説教されていた。美江子さんも本橋さんの部屋にいた。本橋さんの台詞はまちがってはいなかったのだが、俺の感情が激したというのだろうか。思わず手が出て本橋さんの横っ面にげんこつを叩き込んでいた。
「あ……」
 やっておいてびっくりして、てめえでてめえの拳を見つめていると、なにかが飛んできて俺の頭に命中した。
「なにすんのよっ、あんたはっ?!」
 おっそろしく怒った声は美江子さんで、台所から飛んできてフライパンを振りかざしている。俺の頭に当たったのは、美江子さんが投げたプラスチックの計量カップだった。
「腹が立ったからって殴るなんて最低。ちょっと、本橋くん……」
 パンチをまともに食らって倒れこんだ本橋さんが、床にすわったままで美江子さんの腕を引っ張った。美江子さんは本橋さんの膝にすわった格好になって、本橋さんに押さえつけられてじたばたしていた。
「本橋くんだって芸能人なんだからね。顔に怪我させてどうしてくれんのよっ。本橋くん、離してっ」
「おまえ、なに持ってるかわかってんのか? 俺の仕返しするつもりか? フライパンで洋介を殴るのか」
「だって、素手で闘ったら負ける」
「そりゃそうだろうけど、そんなもので殴って、当たりどころが悪くて昏倒でもされたらどうするんだよ。落ち着け」
 顔に怪我……言われて見てみると、本橋さんのほっぺたは腫れ上がりつつあり、口の端から血がひとすじ流れていた。倒れたときに壁で打ったらしく、片手で頭をさすり、片手で美江子さんを抱え込んでいた。
「離してったら」
「落ち着いたら離してやる」
 うわ、すっげえすっげえやばい。俺はとにかく逃げることにした。
 必死で走ってマンションから飛び出し、反省はしたのだがあとのまつり、だろうな。これで出入り差し止めかな。警察を呼ばれるかもしんないな。どうすりゃいい? 俺、傷害罪で逮捕されんの? 自首しようかなぁ、どうしようかなぁ、とぼとぼ歩いていると、むこうから近づいてきた車が止まって、運転席の窓が開いた。顔を出した男は乾さんだった。
「どうした? 今、シンちゃんとこに行こうとしてたんだけど……」
「本橋さんからなにか言ってきた?」
「言ってきたわけじゃない。俺が勝手に来たんだ。どうしたんだよ、しょんぼりして。本橋に殴られたのか」
「さかさま」
「さかさま?」
 考えてみたら、乾さんに本橋さんか美江子さんが連絡して、乾さんがやってくるほどの時間はたっていない。さかさま? と考えていた乾さんは言った。
「おまえが本橋を殴ったのか」
「そんなとこ」
「なんでだよ。それで?」
「逃げてきた」
「……なんたるこった。乗れ」
「警察に連れてく?」
 事情を聞いてからだ、と乾さんもおそろしく怖い顔で言い、俺は観念して車に乗った。
「怪我をさせたのか? 警察だなんて言い出すってことは、ひどくやったのか」
「本橋さん、きっと顔が腫れる。頭も打ってた」
「取っ組み合いとか殴り合いとかじゃなくて?」
「俺が殴っただけ。美江子さんにカップを頭に投げられたけど、プラスチックだからなんともなかった」
「ミエちゃんも来てたんだな。詳しく話せ」
 車が走り出し、どこへ向かっているのかはどうでもいいままに、俺はさっきの話をした。
「本橋さん、俺が殴るほどのことは言ってないよね。俺も今になったらわかるんだけど、かーっとなっちゃってさ。本橋さんにいろいろ教えてもらえるのは嬉しかったんだけど、むかむかもしてたんだよ。そんなのがどっかーんしちゃった」
「おまえの自己分析ではそうなるわけだ。鬱屈がたまってたのが暴発したか。本橋にがんがんやられたら、おまえだったらそうなる可能性もあるんだよな。おまえらどっちも硬骨漢ってやつだから」
「恍惚? 恍惚のひとってドラマがあったね」
「幸生みたいに言うな。ってか、幸生は意味がわかって言ってるんだけど、おまえのはな。馬鹿だな、自覚あるか?」
「ある」
「反省してるのか」
「してるよ」
「ちょっと待ってろ」
 なにをするのかと思ったら、乾さんは車を道の端に寄せて止め、携帯電話を取り出した。
「ああ、ミエちゃん? 馬鹿な奴を拾ったよ」
 かすかに美江子さんの声も聞こえた。
「洋介くん?」
「話は聞いた。本橋はどう?」
「軽く、ごく軽く脳震盪を起こしたみたいよ。今はもう大丈夫。私のほうが怒り狂っちゃったから、彼はかえって冷静になったみたい。それでも、悠介くんが逃げ出してくれてよかったのかもね。あのまんまだったら乱闘騒ぎだったかもしれない。俺はそんなことはしない、って言うんだけど、わからないよね」
「本橋も洋介を相手にしてたら、大人にならざるを得ないってね。大丈夫なんだね。それで、こいつ、どうしよう?」
 相手の声が聞こえなくなった。
「……ああ、なんともないか? 連れてこいって、今は連れていかないほうがいい。俺んちに? そうすっか。ええ? それもいいか。いやいや、いや、おまえを殴り飛ばせる奴なんて……いや、怒るな。おまえが洋介に殴られて脳震盪って、いやいや……言わないよ。言いたくなるかもなぁ。いや、嘘だって」
 電話は美江子さんから本橋さんに代わったらしい。本橋さんの声は低いから聞こえなくなったのか。乾さんはなぜだか笑って話し、電話を切っても笑っていた。
「傑作だね」
「なにが?」
「たいしたことなかったから言えるんだけど、本橋を殴り飛ばして倒れさせられる奴は、うちにはいないんだよ」
「シゲさんにならできない?」
「物理的には可能だろうけど、気分的に不可能だ」
 そっか。わかる気はする。
「乾さんは?」
「俺は力で本橋に負ける。ミエちゃんも力で負ける。幸生と章はふたりがかりでなんとか、ってところだけど、シゲと同じくできない」
「ふーん」
「だからさ、おまえはたいした奴だね、ってさ。褒めてないぞ。力なんてものは、この現代ではなにほどの役にも立たない。その力を発揮するのは、クミたんを守らないといけなくなったときに限ってにしろ」
「うん、わかった」
「殊勝だね」
 首相? 主将?
「しおらしいね、って言ってるんだ。俺んち行くか」
「本橋さんに用があったんじゃないの?」
「またにするよ」
 車が向かう先は乾さんのマンションか。警察でなくてよかった。
 乾さんのマンションに来るのははじめてではない。俺は一時は乾さんになついていて、アイドルをやめたら乾さんの弟子にしてもらうつもりだったのだ。
 だけど、俺は作詞は苦手だ。乾さんも作曲はするけれど、作詞が本業だと自分では言う。そうすると作曲が本業の本橋さんかな、と考えていたら、そうしろそうしろ、と乾さんが言って、本橋さんの弟子にされてしまった。
「弟子なんかじゃない、教えてるだけだ」
 そう本橋さんは言うけど、そういうのを弟子と言うんだよ、と乾さんに言い負かされていた。本橋さんに勝てるのは美江子さんと乾さんだけだと俺は思う。そんな本橋さんにあんなことして……自己嫌悪だーっ、と頭を抱えていたら、目の前にどんっとケーキの箱が置かれた。なぜか半分減っていたが、それでも大量にある。
「おまえだったら食うか」
「ケーキ? 大好物。いいの?」
「いいよ。ただし、全部食え」
「食えるかなぁ。うん、腹減ってるから食えると思う」
 いただきまーす、とフォークを手に取ったら、いくらでもいくらでも入っていった。
「このケーキ、どうしたの?」
「モモちゃんがくれた」
 ああ、モモクリのモモちゃんね。あそこの夫婦は俺と同様FSのみんなに迷惑ばかりかけているから、そのお詫びにでも持ってきたのだろう。半分はモモちゃんが食べちゃったのかもしれない。
「乾さんは食わないの?」
「ケーキなんか見たくもないよ」
「ふーん、酒飲みの台詞だね」
 乾さんは甘いのは嫌いらしいが、俺は大好きだ。
「乾さんはほんとに彼女、いないの?」
「いないよ」
「ケーキをもらって、自分は嫌いだったら彼女にあげようとしたりするよね。そういう相手もいないのか」
「悪かったな」
「三沢さんや木村さんにもいないの?」
「いないみたいだな」
 いい年して独身で、彼女もいないってだらしねえの、であったが、言わないでおこう。
「うずかない?」
 は? と乾さんはぽかんとしたが、無言で俺の頭をこづいた。
「風俗とか?」
「馬鹿たれ」
「なんでなんで? それって馬鹿?」
「おまえはなにかにつけて馬鹿だ」
 だってさぁ、乾さんも男じゃん。うずかないはずがないんだ、俺はひとりでうなずいてから言った。
「俺はクミたんがいなかったら、うずいてうずいてどうしようもないだろうな」
「おまえはそういう方面でだけ、クミたんが大切なのか? そのはけ口だけなのか」
「そんなことはないけど……でも……だって……それだけじゃないんだけど……好きなんだけど」
「だけど?」
「喧嘩ばっかりしちゃうんだよな。俺はクミたんがいなくなって、ああいうことができなくなったら頭が変になる。なのにあんまりやさしくもしてやれない。乾さんはそんなんじゃなかった? そうだったの? やっぱりそうなのか。ふーん、んでさ、三十すぎると減ってくるの? そうなのか、ふーん」
 そうなのか、そんなら俺は二十代になったら結婚しよう。クミたんと結婚できたらいいのにな。すこしばかり安心したし、腹もいっぱいになりつつあったので、俺は乾さんに訴えた。
「俺、どうしたらいいの? 本橋さんにどうやって……」
「どの面下げて会いにいく、ってか」
「この面しかないけど」
 ひとりであやまりにいってこい、と言われるのかと思ったけど、乾さんは言ってくれた。
「明日だったら時間が取れるから、いっしょに行ってやるよ。真心こめて詫びるんだぞ」
「はい、わかりました」
 よかった、乾さんは本橋さんみたいに、ですますで喋れとも言わないし、初対面のときよりは言葉遣いがましになったな、って褒めてくれるし。けど、本橋さんは本橋さんで頼りになるし、ぐんと年上の兄貴がふたりもできたようで嬉しい。
「わー、腹いっぱい。ごちそうさま。俺、腹減って凶暴になってたのかも。がるるるって」
「おまえは野犬か」
「頭ん中は犬並みだよ。どうせ」
 犬並みの頭の中身を振り絞って、本橋さんに詫びる言葉を考えた。翌日になると乾さんが車で迎えにきてくれて、俺は本橋さんの前で正座をして言った。
「俺たち、かっちゃんに年上面はしてたよ。えらそうにもしてた。生意気言うなとか、ガキガキガキとか言った。ロロにもさあやにもそうだった。あいつらよりは年上だからって、ヨシとふたりでいばってた。だけど、俺たちはかっちゃんたちになんにも教えてやってない。そんな義理ねえもん、なんて言ったけど、今になって考えてみたら、ヨシや俺には年下の奴に教えられることなんかなんにもなかったんだ。俺は、俺は、本橋さんや乾さんに……これからも教えて下さい、お願いします!!」
 一気呵成に言うと、どどっと疲れた。
「ふう、こんな長台詞、言っててくたびれた。本橋さん、ですますじゃなかったけど許して下さい」
「長広舌をふるうには、まだまだですますは無理だってよ。本橋、もういいだろ? 反省もしてるんだから」
 やや疑わしそうに俺を見たものの、本橋さんは重々しくうなずき、俺ははいつくばって頭を下げた。
「すみませんでしたっ!」
「わかった、もういい。洋介、頭を上げろ」
「男がそう簡単に土下座なんかするもんじゃねぇ、だろ、シンちゃん?」
「俺の台詞を先に言うな」
 おなかすいてるんじゃないの? 洋介くん、おいでおいで、と美江子さんが台所から手招きする。気まずかったけれど、俺は美江子さんのところに行った。今日も美江子さんが本橋さんの家にいるのは、恋人同士だからか? 俺が本橋さんにあやまるのを見届けにきたのか。
「美江子さん、怒ってません?」
「洋介くんの一世一代の謝罪の言葉、ちゃんと聞こえてたよ。頭、なんともない? 私もごめんね」
「プラスチックのカップなんか平気ですよ。すみませんでした」
「もういいよ。オムライスを作ったの。食べる?」
「おー、大盛り。いっただきまーす」
 なんだか俺はいつでも腹が減ってる気がする。この食欲と性欲のかたまり、って乾さんに言われたけど、若いんだからしようがないじゃん。料理の上手な美江子さんのオムライスを口いっぱいにほおばっていると、乾さんと本橋さんの会話が聞こえてきた。
「シンちゃん、病院には行ったのか」
「マネージャーがうるさくてしようがないから行った。異常なしだ」
「そうか。ちっとどうにかなってもよかったような気もするが」
「なんだ、そりゃ」
「いえいえ」
「だがな、乾」
 改まってなんだろ? 美江子さんと俺は耳を澄ませ、本橋さんは言った。
「俺は考えも態度も変えないぞ。洋介に教えるのは今まで通りにやる。こら、なにがおかしい?」
「おかしくないよ。おまえはおまえの主義でやればいい」
 くっくっと笑う乾さんがどうして笑っているのか、俺には理解しにくかったけど、美江子さんにはわかっているのだろう。いっしょになってくすくす笑っていた。
 この話は後日談ってやつだが、俺がラヴラヴボーイズのポンではなくなったあとで、本橋さんは乾さんにこんなふうに言っていた。
「あいつは俺の若いころに似てるんだ。俺はあそこまであとさき考えない奴じゃなかったはずだが、そうだったか?」
「あそこまでじゃなかったな」
「だろ?」
「俺はすべてを聞かされたわけじゃないけど、洋介はいつか、仕事がほしかったら俺のものになれ、とかなんとか言う男に口説かれたんだろ」
「らしいな」
 変態親父に迫られて、手を握られて、きみは私のタイプなんだよ、と口説かれた経験はたしかにある。けど、俺にはそんなことはなんでもなかった。
 さあやは俺よりずっとずっと深刻なその経験をして、あげくは俺たちは解散に追い込まれたのだけど、俺は後悔なんかしていない。本橋さんと乾さんの会話のトーンが下がったので、俺はますます耳を澄ませた。乾さんが小声で本橋さんに問いかけていた。
「先日も言いかけたけど、途中になっただろ。おまえだったらどうする?」
「俺? あり得ない」
「仮定の話だよ」
「仮定でもあり得ない」
 うまかったー、ごちそうさま、とわざと大きな声を出してから、俺は本橋さんと乾さんに近づいていった。あり得なくもないんじゃないかな、と言いながら。
「変な趣味の奴っているんだよ。本橋さんだって乾さんだって、絶対にないとは言えない。本橋さん、あんときも言ったでしょ? 本橋さんだったら殴り飛ばして撃退するよね。俺、今になってそれも思うんだ。思うんです。俺もそうやってあのオヤジをやっつけた。だけど、あいつがそんな俺を、骨のある美少年は好きだよ、なんて言ったからいいようなものの、どどっと怒られてたとしたら、俺たちはどうなってたんだろ」
「……そうだなぁ。仮定の話でも考えたくもないけど。俺だってあとさきも考えず、ここで俺がこいつを殴ったら、俺の仲間たちはどうなっちまう? なんて考えもせず、手が出るよ」
「俺もだな」
「乾もか」
「たぶんね。殴り飛ばして逃げる。たいていの男はそうだ」
 聞こえているはずだが、美江子さんは姿を見せず、俺は本橋さんに尋ねた。
「そんなときだったら、俺、殴っていい、ですか?」
「いい」
 うう、考えたくない、絶対にないと祈ろう、と本橋さんは力なく笑った。乾さんもなにを想像していたのか、頭を横に振ってから言った。
「この話はやめようか。つまり、本橋と洋介は似た者同士だな。それゆえに反発し合う恐れは今後もおおいにあるだろうけど、ミエちゃんっていう緩衝材になってくれるひともいるわけだし、なんとかかんとか折り合いつけてってくれ」
「かんしょうざいってなに?」
「クッション」
「ああ、なるほど」
 外来語で言ったほうがおまえにはわかるんだな、と乾さんは軽く言って笑った。
「これからもよろしくお願いしますっ」
「シンちゃん、洋介をよろしくお願いしますよ」
「……くそ、わかったよ」
 くそって……いやなの? つい情けない顔になって見回すと、乾さんは小刻みに頭を左右に揺らし、本橋さんは苦笑いしていた。つまりそれって、いやじゃないよ、って意味なんだよね。目顔で乾さんに確認すると、そうだそうだ、と乾さんはうなずいてくれ、俺の心はぱっと晴れやかになった。


2

 奇声を上げるってのが癖であるらしい三沢さんは、きょえっ!! と叫んで絶句した。本庄のシゲさんはなんにも言わず、木村さんは俺に尋ねた。
「おまえが殴られたんじゃなくて? おまえが本橋さんを殴ったの?」
「……うん、ごめん」
 その顔を見られたら一門……じゃなくて、一目なんとかだと乾さんは言い、本橋さんに、どうする? と尋ねたのだった。そうそう、一目瞭然だった。おまえは俺との初対面のときには擬音語ばっかりだったよなぁ、と乾さんは言ったけど、大人とつきあってるんだから、このごろはだいぶ語彙ってやつもふえてきたはずだ。なにせ乾さんときたら、なにかといえばむずかしい言葉を使いたがるんだから。
「むずかしくないだろ。おまえが言葉を知らなすぎるんだ」
 なのだそうだけど。
 閑話休題って書いて「それはともかく」と読ませたりもするとも乾さんが教えてくれたのだけど、とにかく閑話休題。乾さんは俺が殴って腫れ上がった本橋さんの顔を見て、なんだか楽しそうに言った。
「どうやって後輩たちをだまくらかすんだ? ミエちゃんに殴られたことにでもするか」
「山田が殴ったってこうはならないだろ」
「そうよ、私は暴力女だなんて思われたくないからね」
「けっこう暴力女だけど……嘘だ嘘だ。乾、なにか考えろ」
「モロに顔だもんな。ころんでぶつけたとも言えないし、不良少年と喧嘩したとも言えないし、それはどう見たって誰かに殴られた結果だ。俺が殴ったことにしようか」
「理由は?」
「おまえがミエちゃんに暴力をふるいそうになったから、俺が阻止した」
「おまえばかりかっこよすぎる」
 なんだのかんだの、本橋さんと乾さんはもめていたのだが、俺は横から言った。
「俺が正直に言うよ」
「そっか、そうしろ」
 あっさりと乾さんは言い、本橋さんは気に入らない様子だったけれど、そうしかしようがねえな、とうなずいた。そんなわけで俺は、フォレストシンガーズの面々が顔をそろえたところで言った。俺が本橋さんを殴ったからこんなになりました、すみません、と。
「すげえな、洋介、尊敬するよ」
 絶句していたのはほんの一瞬で、三沢さんは嬉しそうに言った。
「どうやって殴ったんだよ。なにが原因?」
「えーと、まあ、早い話が、本橋さんが説教ばかりするから頭に来て……」
「んで、パーンチ?」
「そう」
「本橋さんはおまえに殴られてどうなった?」
「こうなったんだ」
 ぶすっと本橋さんは顔を示し、シゲさんはいてぇ、というような表情をし、三沢さんは言った。
「そうなる前ですよ。やり返さなかったんですか」
「俺は茫然自失だったよ」
「ほぉぉ。うちのリーダーをそんなにさせるなんて、おまえはすごい、洋介」
「幸生、黙れ」
「黙らないと、洋介の分の仕返しを俺がされそう? 俺は洋介とはちがって非力ですよ。まあね、おまえは若いし背丈もあるし、大食らいだしで力が有り余ってるんだよな。リーダーはおまえに殴られてぶっ倒れたとか?」
「そんなとこ」
「ほおお、たいしたもんだ。わっと、リーダー、タンマ」
 いい加減にしろーっ、と本橋さんが怒鳴り、逃げ出した三沢さんを追いかけていった。あんなふうにしていると本橋さんも俺と変わらないガキに見えなくもないのだが、仲間うちでいると人が変わるのかもしれない。
「なあなあ、洋介」
 木村さんも言った。
「たしかにおまえはたいしたもんだ。本橋さんを殴り倒すだなんて、幸生や俺はやりたくてもできないし……」
「シゲさんは精神的にできないし、乾さんと美江子さんは本橋さんには力で負けるんでしょ。乾さんが言ってたよ」
「その通り。なんだ、乾さんが先に言ったのか。ちょっと見てみたかったなぁ。シゲさん、見たくなかった?」
「見たくなんかない。洋介、俺がいなくてよかったな。乾さんもいなかったんだろ?」
 こわっ。シゲさんか乾さんがいたとしたら、俺が本橋さんを殴る前に、ノックアウトされてたってこともあり得るわけか。そのほうがよかったのかもしれないけど。
「美江子さんにフライパンで殴られそうになったんだけど、本橋さんが美江子さんを止めてくれたんだよ」
「美江子さんも来てたんだね。さすが美江子さん」
 ふたりで声をそろえて、シゲさんと木村さんはがっははと笑った。木村さんの高い笑い声と、シゲさんの低い笑い声が奇妙なハーモニーになっていて、乾さんは言った。
「洋介、ミエちゃんのことまで言わなくていい」
「そうでした」
 暴力女みたいに言わないで、って、あとから美江子さんに怒られそうだ。本橋さんも怖いけど、乾さんも怒ると怖いし、美江子さんも相当に怖い。シゲさんもきっと怖いだろう。よく覚えておかなくちゃ。
 必死で逃げていた三沢さんは、本橋さんにつかまってヘッドロックをかけられている。その三沢さんが、モモちゃーん、助けてよぉぉ、と情けない声を出した。なぜにモモちゃん? と見ると、スタジオのドアが開いて、モモクリが入ってくるところだった。FSの事務所の後輩デュオ、「フルーツパフェ」である。
 フルーツパフェ、別名モモクリ、俺よりは年上なのだが、モモちゃんは可愛らしい女の子で、その夫というのが信じられないほどに頼りないひょろひょろ男がクリだ。クリはモモちゃんよりひとつ年上だというのだが、三沢さんや木村さんよりも背も低いし、中学生ぐらいに見えなくもない。モモちゃんはなんであんなのと結婚したんだ、と木村さんや三沢さんはいつも悩んでいた。
 FSつながりで知り合ったこのふたりとは、俺も変な関わりができて親しくなっているのだが、クリを見ていると苛々してくるので、モモちゃんにだけ言った。
「モモちゃん、三沢さん、助けてあげるの?」
「やーねぇ、男って」
「モモちゃんの口調、ミエちゃんみたいだよ」
「そうですか、乾さん? だって、そうじゃない。そういえば美江子さんが言ってたんだ。男っていつまでたっても子供で、自分たちが子供っぽいってことをまた、誇らしく思ってたりするからどうしようもないのよね、って。本橋さんまでああなんだもの。モモちゃん、幻滅」
「返す言葉もないな。おーい、そこのふたり、モモちゃんに幻滅されてるぞ。そろそろやめとけよ」
 苦笑いの乾さんが言うと、三沢さんも言った。
「ほらほら、リーダー、モモちゃんに軽蔑されてますよ。そんなんでいいんですか。やめましょうね。首の骨が折れるよぉ」
「まったくおまえは大げさな。モモちゃん、クリ、なんか用事か」
 三沢さんを解放した本橋さんが、そう言いながらこちらにやってきた。モモちゃんはなにか言いかけて、ぽかんと口を開けて本橋さんを見上げた。
「本橋さん……その顔、三沢さんが? それであんなことしてたんですか? 三沢さんが本橋さんを? うっそぉ」
「早とちりすんなよ。幸生が俺の顔をこんなにするわけないだろ」
「そうだよ、モモちゃん、俺がリーダー殴ったとでもいいたいの? そんなことをしたら天罰が下って、俺の拳は二度と使いものにならなくなる。するわけないんじゃなくて、できるわけないんだよ。わかる?」
「ふーん、じゃあ、誰が? 乾さん?」
「俺もやりません」
「シゲさんじゃないよねぇ。木村さんでもないよね。だったらまさか、あんた?」
 うん、と言うしかないので俺がそう言うと、モモちゃんがききっとなった。
「洋介、あんたが本橋さんを殴ったの?」
「まあね。なんやかやと……」
「なにがなんやかやとなのよっ。なんてことすんのよっ。生意気、最低、最悪っ!! あんたってば本橋さんにお世話になってるんでしょ? 本橋さんは恩人なんでしょ? そんなひとを殴るなんて……は……ハム……ちがうな。は、なんとか、えっと、乾さん、なんでした?」
「破門」
「そう、それだよ。あんたは本橋さんの弟子なんでしょ? そんなことをする弟子は破門だっ。出ていけっ」
「あんたに言われる筋合いねえの」
「モモちゃん、その話は決着がついてるんだからもういいんだ。俺の顔なんか気にすんな」
 本橋さんは言ったのだが、モモちゃんは聞かなかった。
「本橋さんは許すんですか? そんなのおかしい。だいたいあんたなんかね、歌は下手くそだし、ドラマにも出てたらしいけど、あたしはそんなの見たことないけど、どうせ下手っぴだったんでしょ? そんなんでよくも生意気に、トップアイドルだなんて言ってたもんだよ。アイドルなんかだったら歌もお芝居も下手でも、顔だけでやっていけるのかもしれないけど、シンガーソングライターになりたいんでしょ? シンガーソングライターは顔だけじゃやっていけないよ。さっさとやめて田舎に帰ったら?」
「ドラマを見たこともなくて、俺の芝居が下手だって言えるのかよ」
「どうせ下手だったくせに」
「うまくはなかったかもしれないけど、俺は役者なんか目指してないんだ。シンガーソングライターになりたいんだよ。あんただって知ってるんだろうが」
「知ってるから言ってるの。だから忠告してあげてんの。まともに歌もつくれないし、まともに歌も歌えないシンガーソングライターなんかあり得ない」
「……くそむかつく女だな」
「なに? やるの?」
 切れ切れにクリの声が聞こえてきた。モモちゃん……やめて……誰か……止めて……モモちゃん……洋介くん……なんとか……誰か……だったが、モモちゃんはかまわず言った。
「最低の歌しか歌えないんだから、さっさとやめてどこかの田舎に帰ればいい。そのほうがあんたのためだよ」
「あんたに言われる筋合いはねえって言ってんだろ。ほっとけ」
「そんな顔したって怖くないよぉだ」
「へっ。どうせここにいる人たちはみーんな、あんたの味方だと思ってるからだろ。俺には絶対にあんたに手は出せないと思ってるからだろ。本橋さーん、とでも泣きべそかいてみたら、本橋さんは俺に怒ると思ってるからだろ。あんただってたいして歌なんかうまくないじゃないかよ。自分で歌をつくってんのか? 俺にえらそうに言えるほどのもんか、てめえが」
「あんたよりはうまいもん」
「俺みたいに最低に歌の下手な奴よりはうまいなんて、自慢になるかよ。あんたらは歌だけで売ってんだろ。あんたは可愛いつもりかもしれないけど、歌も顔もたいしたことないから売れないんだ。俺は売れてるよ。それだけでもあんたらよりはましだろ」
「顔なんかで売れたって意味ないよっだ。アイドルなんて、解散しちゃったらすぐに忘れられるだけだよっだ」
「あんたの顔はもとからたいしたことないけど、そんな顔するとドブスもドブスも……」
「ドブス? あんただって……」
 はい、そこまでにしようね、と穏やかに言ったのは、想像通りに乾さんだった。木村さんと三沢さんは、ふたりしてクリの顔を覗き込んでいる。シゲさんと本橋さんは顔を見合わせていて、クリはうなだれて泣きそうな顔をしていた。
「黙って聞いてりゃ、どこまで不毛な争いをしたら気がすむんだ。洋介、女の子に向かってそんなことを言うもんじゃない」
「ドブスって?」
「二度とそんな口をきくな。今度言ったら本橋に殴ってもらうぞ」
「なんで俺だ。おまえがやれ」
 本橋さんは言い、乾さんの台詞を引き取って続けた。
「洋介もだけど、モモちゃんもよくそれだけ言いたい放題言うよな。洋介は多少は自覚してるんだから、ナイフみたいにこいつの胸に突き刺さる台詞だぜ。それにクリ、おまえはそういう奴だとわかってはいたけど、てめえが泣いててどうすんだ」
「……泣いてません」
「泣きかけてるじゃないか。モモちゃんはおまえのなんだ?」
「奥さんです」
「モモちゃんばかり悪いわけでもないけど、あまりにもあまりにも残酷な台詞だったぞ。洋介がむかつくのもわからなくもない。おまえがモモちゃんを止めなくてどうするんだ」
「だって……だってだってだってぇ……」
 ううっ、と唸り声を上げたのはシゲさんだった。
「クリはモモちゃんと夫婦喧嘩しては、本橋さんにも乾さんにも、幸生にも章にも頼ってたんだそうだな。俺は話を聞いただけだけど、本橋さんや乾さんがおまえの態度を見て腹を立てたってのがよくわかったよ。だってだってはやめろ。聞くに耐えない。うじうじすんな、しゃきっとしろ」
 声が普段よりなお低くなっていて、俺が怒られてるのでもないのに怖かった。クリは思い切り首をすくめ、三沢さんが言った。
「俺はクリには直接頼られたんじゃないんだけど、こりゃあほんと、シゲさんの言う通りだね。俺でさえイラついてきた。なーんて言ってるけど、シゲさんも本橋さんも、恭子さんや美江子さんがモモちゃんみたいなことを誰かに言ったとして、毅然として止められるかどうかは謎なんだけどさぁ……」
「幸生、まぜっ返すな」
「はーい、リーダー。いやね、章と俺とでクリには、なんとかしろよ、って言ってたんだけど、なーんもできないんだもんな。とにかくみなさん、冷静に。話を整理してみませんか。章、発端はなんだったか覚えてるか」
「洋介がリーダーを殴って、リーダーの顔がこんなになったって聞いて、モモちゃんが烈火のごとく怒った」
「そうそう。やっぱモモちゃんも女なんだなぁ。別に他意のある台詞じゃないんだよ、モモちゃん。俺たちはおんなじことを聞いて、まるきりちがう反応を示したからさ」
 そういえば男はみんなだいぶ面白がっていたが、モモちゃんは最初から本気で怒っていた。
「モモちゃんは本橋さんのために怒ってくれたんだよね」
「そうなんだけど……途中からなんだか……」
「そうだよ。私怨みたいになってた」
「しえん?」
「紫煙でもなくて支援でもなくて、私の怨み」
 しえんでもなくてしえんでもなくて、しえん? 私の怨みをしえんというのか。勉強になったけど、はじめの「しえん」ふたつはなんだろう?
「わたくしのうらみ? 個人的恨み?」
「そんなつもりはなかったのかもしれないけど、そう聞こえたよ」
「……あたしたちはなかなか売れなかったのに、洋介くんたちは歌でもなんでも下手なのに、顔だけで売れたから悔しいって、そういう意味ですか、三沢さん?」
「そんなふうに聞こえたってだけだけどね」
「……そうなのかなぁ」
 ふーん、三沢さんってこういうことも言うんだ、乾さんみたいだな、と俺は考えていた。
「人間ってのは腹が立つと、潜在意識の思惟ってのか、形而上的……形而下的……形而学的……ありゃ? 意味わかんなくなってきた。乾さん、タッチ」
「形而上的はちがうだろ。幸生、あやふやな知識で言葉を使うな」
「はい、帰って辞書を引いてみます」
 辞書を引け、も乾さんの口癖だったなぁ、と俺が考えていると、乾さんは言った。
「幸生の言った、紫煙と支援ってのも、わからないひとは帰ってから辞書を引くように。それはそうとして、たしかにそうだな。人間は腹を立てると、言ってはいけないと平素は抑圧している言葉が口からこぼれたりするものなんだ。章も気をつけろ」
「俺は関係ないでしょ。乾さんも脱線してないで」
「はいはい。だからね、モモちゃんと洋介の応酬はまさに、売り言葉に買い言葉ってやつだよ。どっちもどっち。お互いさま。洋介、モモちゃんにごめんなさいは?」
「モモちゃんも言う?」
「モモちゃん、どう?」
「あたしは悪くないもん」
 そう言うだろうと思ってた。だったら俺も言わないもん、と言おうかと思ったのだが、乾さんがモモちゃんにきびしく言った。
「クリとの喧嘩だったらそれでも通るのかもしれないけど、洋介は赤の他人だよ。そんなのは通らない。あやまりなさい」
「……あのぉ、僕がかわりにあやまるってのは駄目ですか?」
「肝心のときにはなにも言えないくせに、おまえは黙ってろ」
 乾さんに言われたクリは、またまたうなだれた。
「モモちゃん、どうすんの?」
「わかりました。洋介、ごめん」
「うん、モモちゃん、ごめん」
 やれやれ、と乾さんはため息をついた。
「俺は小学校の先生かよ。いい加減にしろ、おまえらは。モモちゃん、喧嘩はおしまいだよ。遺恨はなしだよ。遺恨もわからないんだったら辞書を引きなさい。モモちゃんも洋介もいいな?」
 はい、と乾さんには答えたくせに、モモちゃんは俺にはいーっだ、とやった。



 そんなこともあったのだが、やがてラヴラヴボーイズは解散し、俺はシンガーソングライター志望の普通の兄ちゃんになった。
山田さんと本橋さんは結婚して、新婚カップルとなって同居している。本橋さんはこんな奴は弟子ではないと言うが、俺は弟子のつもりでいる。なのだから、本橋家には時々行って、美江子さんの手料理をごちそうになったり、以前以上に作曲について教えてもらったりもしていた。
 弟子兼フォレストシンガーズのバンドボーイというか、ローディでもいい。俺はしょっちゅう、FS専属スタジオに入り浸っている。だって、暇なんだもん。
 今日もフォレストシンガーズのスタジオで、俺は彼らの歌の練習を聞いている。このひとたちってほんとに歌がうまい、イヤミなほどにうまい、俺もいつかはこうなれるんだろうか、などと考えていると、モモクリがあらわれた。
「本橋さん、こんにちはーっ!! 洋介もいるの?」
「……いたら悪いのかよ」
「モモちゃん、洋介にかまうな。洋介もモモちゃんにかまうな。モモちゃんはなにか用事があって来たんじゃなかったのか」
 本橋さんが尋ね、モモちゃんが言った。
「そうなんです。あのね、フルーツパフェのライヴのチケットができあがったんで、みなさんにも来てもらえたらなぁって。それがねぇ、単独ライヴのはずだったのに、ロックバンドといっしょなんですよ。これってあたしたちが前座? レイラなんて知らないんだけど」
「レイラ?」
 なぜか木村さんが、モモちゃんの手からチケットを奪い取った。
「レイラかぁ。へええ、レイラと共演なんだ。行くよ、俺。リーダーは?」
「レイラか。この日はどうだろうな。微妙だな。乾はどうだ?」
「俺も仕事が入るかもしれないけど、行けたら行くよ。レイラが出るんだな。シゲは?」
「この日はまずいかもしれません。幸生は?」
「ええ? この日は……ちょっと無理かなぁ。まだわかりません。モモクリとレイラだったら見たいけどな」
 チケットが木村さんから本橋さん、乾さん、シゲさん、三沢さんと渡り、木村さん以外は微妙な発言をしているのを聞いて、俺は言った。
「レイラってなに? エリック・クラプトンのレイラ? 愛しのレイラ?」
 返事をしてくれたのは木村さんだった。
「俺の昔なじみがやってるロックバンドなんだ。エリック・クラプトンは関係ない。洋介、行くか?」
「俺は暇だから、どこへでも行きます。良質の音楽を聴くのはいい勉強になるって、本橋さんも乾さんも言ってるしさ。だから俺、FSのCDはしょっちゅう聴いてるんだ。レイラって知らないけど、モモクリの歌が良質の音楽だとは……」
「なに、洋介? なにが言いたいの?」
「なんにも言ってないよ。モモちゃん、俺とまた喧嘩したいの? クリが泣くからやめようよ」
「喧嘩を売ってるのはそっちじゃないのよ」
「売ってないよ」
 いい加減にしろと言っただろ、と乾さんが怖い顔をした。怖い顔といっても三分の一ぐらい笑っているようにも見えたのだが、クリが躍起になってモモちゃんの手を引っ張った。
「モモちゃん、頼むからもうやめて」
「わかった。だけどね、あんたが悪いんだよ、洋介。覚えとけよ」
「……モモちゃんってヤクザかよ。わかったからぁ、乾さんも本橋さんも睨まないで。シゲさんも怖いよぉ。三沢さーん、三沢さんが先輩たちに苛められてるとか、虐げられてるとか言うの、このごろ俺、すっげえよくわかるようになってきたよ」
「だろ。まあ、それも修行だ。そうやって耐えて修行すると俺みたいになれるぞ。嬉しいだろ」
「ちょっとだけ嬉しい」
「ちょっとだけってのはなんだよ」
 下手な歌やら下手な作曲やらが、先輩に苛められたり虐げられたりして上手になるんだったら耐えてみせるけど、本当になるのかなぁ。三沢さんとは生まれつきの才能に差がありすぎるんじゃないのかな、と思わなくもないけど、なせばなる、と信じてやるしかないんだろう。


3

 こんなちっこいライヴハウスでライヴなんて、ラヴラヴボーイズはやったことないよ、と木村さんに囁きかけたら、木村さんは言った。
「だからおまえは生意気だっての。俺がジギーやってたころだったら、この規模のライヴハウスだったら上等だったよ。モモクリの前で言うなよ。またモモちゃんが怒るぞ。俺ではモモちゃんは止め切れないんだからな。本橋さんも乾さんもいないんだから、喧嘩なんかすんな。モモちゃんに喧嘩を吹っかけかねないんだったら帰れ」
「やらないよ。約束するよ」
 十年も前の木村さんは、「ジギー」という名のハードロックバンドのヴォーカリストだったのだそうだ。ちょうど俺の年頃だったころの木村さんがロッカーだったとは、俺には想像がつかないのだが、「レイラ」には当時の木村さんの知り合いがいるらしい。
レイラは男ばっかりのバンドで、モモクリは男女デュオだからだろう。控え室は別々で、木村さんに連れられてライヴハウスにやってきた俺は、先にモモクリの控え室を訪ねた。クリはそわそわおろおろしていたが、モモちゃんはでんと構えていて、クリに言った。
「ロックバンドとコーラスデュオの共演ってやりにくそうだけど、そうと決まったんだから慌てたってしようがないじゃん。ここで失敗なんかしたら単独ライヴができなくなるよ。クリちゃん、しっかりしてよね」
「うん」
「ねえ、木村さん? あれぇ?」
「木村さん? あらら、寝てるぞ」
「寝てるね」
 狭い控え室の鏡の前の椅子にすわった木村さんは、いつの間にか居眠りをはじめていた。俺はそこらへんにあったサインペンを、木村さんの鼻先に近づけた。
「木村さーん、起きて……起きないね」
「木村さんってクリちゃんといっしょで、一度寝たらなかなか起きないんだって。美江子さんからもFSの他のひとたちから聞いたよ。ほんとに起きないね」
「クリもそうなのか」
 年下のくせに呼び捨てにすんな、と言ったこともあるのだが、クリは早くも諦めたらしく、俺が呼び捨てにしても怒りもしない。それどころではないのかもしれない。
「章、こら、起きろ」
「本橋さんのもの真似? けっこう似てる」
「そう? 乾さんに言われたんだ。俺の声って本橋さんに似てるんだって」
「話す声はそうかもね。歌う声はちがいすぎるけど。そりゃあね、歌唱力ってのがさ」
 言い返すとまた、売り言葉に買い言葉ってやつになりそうなので、俺はぐっと我慢した。我慢していると苛立ってくるので、木村さんの鼻にちっちゃなほくろを描いてみたのだが、まったく起きない。本橋さんみたいな声を出して、こら、章、遅刻するぞ、起きろ、起きろ、起きんか、とやってみたら、木村さんが反応した。
「うーん、リーダー、もう朝ですか。体操すんの? もうちょっと……」
「体操? 木村さん、本橋さんだと思ってんのかな」
「寝ぼけてたらそう思うかもね。体操ってなんだろ。クリちゃん、知ってる?」
「若いころのFSって、地方に仕事に行ったら朝の体操とかやってたらしいよ。三沢さんに聞いた」
「朝の体操かぁ。体育会系らしいもんね、FSって」
「ああ、それでなんだな。先輩がいばってるんだ」
 いばってるってだけでもないと、じっと見ているとわかる気もするのだけど、俺にはそれがなんなのかうまく言えない。木村さんはまたもやすやすや寝息を立てはじめ、今度はモモちゃんが言った。
「章ちゃあん、起きてよぉ」
「それは三沢さんのもの真似? うまい」
「あんたの歌よりうまいでしょ」
 意地の悪い女だ。どうしてもまた喧嘩したいのか。ちょっとばかりむかついたのだが、聞こえないふり聞こえないふり。
「章ちゃん、起きないとキスしちゃうわよん。いいの?」
「モモちゃん、駄目」
「冗談に決まってるでしょ。クリちゃんはうるさいの」
「……ねえ、モモちゃん、木村さんは疲れてるんだろ。起こさなくてもいいじゃないか」
「ここにほっとくの? はーい、どうぞ」
 ドアにノックの音がして、モモちゃんが返事をすると、背の高い男が入ってきた。
「こんばんは、フルーツパフェのモモちゃんとクリちゃんですよね? 僕はレイラのレイです。よろしく」
 きゃっ、とモモちゃんが叫んだのは、レイという男のあまりの美形ぶりにだったのだろう。クリはむっとした顔をしたが、黙って頭を下げ、モモちゃんはにっこりした。
「レイさん? はじめまして。世の中にはこんなに綺麗な男性がいるのね。ダイモスの中畑裕也さんもかっこいいけど、レイさんよりワイルドで男っぽくてごっつくて、タイプが全然ちがう。どっちにしてもロッカーってやっぱりかっこいいね。あたしもロックやろうかな。レイラに入れてくれる?」
「女の子のヴォーカルってのもいいよね。そのほうが売れるかもしれない。そっちのきみは……ええと、きみも……ラヴラヴボーイズのポンくんじゃないの?」
 去る者日々に疎し、とかいうのも乾さんから教わった格言、ことわざ? なんだか知らないけど、そう言うらしいけど、たしかにそうであるらしい。俺は近頃すっかり世間から忘れられていたのだが、覚えてくれているひともいるのだ。なのにモモちゃんは言った。
「ポンくんはいなくなったんだよ。彼は麻田洋介くん。自分では美少年だと思ってるらしいけど、ロッカーと較べたらアイドルなんか、もとアイドルなんかカスみたいなもんだよね」
「モモちゃん、俺の堪忍袋ってやつの緒はものすごく切れやすいんだけどね」
「堪忍袋? それも乾さんに教えてもらったの? 洋介って乾さんの受け売りばーっか」
「なんだとぉ」
「おいおい、ちょっとちょっと」
 レイが両手を広げて言った。
「穏やかじゃないね。どうしたの? アキラは寝てるの? モモちゃんも洋介くんもかなり声が高くなってきてるのに、アキラは暢気だね。モモちゃん、洋介くん、落ち着いてね。アキラ、起きろよ」
「うーん? ふにゃ? おー、レイ」
 やっと起きたのだが、木村さんの声はまだ寝ぼけ気味だった。
「さっきっからなんかうるさくて、寝てられなかったんだよな。あ、そか、俺、モモクリとレイラのライヴを聴きにきてたんだった。洋介、起こせよな」
「ずっと起こしてたよ」
「そうかぁ。レイ、なに笑ってんだよ」
「だって、アキラ、鏡見てみな」
「鏡?」
 言われて鏡を見た木村さんは、鼻をこすった。
「こんなところに……なにかついて……ああっ、洋介、おまえだな。なにすんだよっ」
「だって、起こしても起きないんだもん。モモちゃんはイヤミだし、クリはそわそわばっかりしてるし。クリ、いいのか、モモちゃんがレイラに引き抜かれるかもしれないんだぞ」
「だって……モモちゃん、冗談だよね」
「さあ、どうしよっかな」
「モモちゃんったらぁ」
 ウェットティッシュで鼻のほくろを取ろうと、木村さんは大奮闘している。クリはモモちゃんにすがりつき、モモちゃんはつんつんしていて、レイはそんな三人をくすくす笑って見ていた。
「洋介がいたずらしてくれたおかげで眼が覚めたよ。まったくおまえはガキだな。レイ、その後はどうだ? 売れてるか」
「まあまあかな」
「ちっとは売れない苦労も味わったほうがいいんだよ。洋介みたいにはじめっから売れるってのも考えものだぜ。苦労を知らないと……なんだなんだ、洋介、なにを怒ってるんだ」
 両手をうしろに回して、俺は息を整えた。駄目、絶対に駄目だ。モモちゃんのせいで切れかけている堪忍袋の緒に、木村さんがまたまた切れ目を入れようとしているのだが、ここで爆発したら今度こそ、本橋さんにも乾さんにも見捨てられる。そしたら俺は路頭に迷う。頼れるひとが誰もいなくなるーっ。
「怒って……ない。けど、木村さん、俺、モモちゃんは嫌いだからね」
「そうなのか」
「あたしだって洋介なんか大嫌いだよっだ。クリちゃん、行こう」
「う、うん、そろそろ出番だよね。じゃあ、レイさん、お先に」
「はーい、がんばってね」
 事態をよくわかっていないらしい木村さんは、じゃあ、俺たちも客席に行こうか、と俺を促した。
「なんだよぉ、おまえの目は、そのげんこつは。こぶしが震えてる。モモちゃんがなにか言ったのか」
「言った。木村さんもなにか言いかけたじゃないか」
「言わなかっただろ。落ち着け。俺はリーダーとはちがうんだぞ。本橋さんだったらおまえに殴られてもどうってことないかもしれないけど、それでもあんな顔になってたじゃないか。俺はおまえに殴られたら、あんなもんじゃすまない。頬骨陥落の複雑骨折の……」
「木村さんもだらしないね。そういうことを言われると苛々してくるんだけど……」
「短気は損気っていうんだぞ。いいから落ち着け」
「あんたこそ落ち着いたら? なんもしねえよ。あんたみたいな弱っちい男に……」
 客席には行かず、俺をライヴハウスの外に連れ出して、木村さんは俺を睨み上げた。
「なんだよ。本橋さんか乾さんに言いつけるとでも言いたいの? あんたもモモちゃんと変わらないんだね。女みたいだ」
「俺も気は長くないんだぞ」
「ふーん、そんならかかってきたらいいじゃん。負けそうだからかかってこられないの?」
「むかつくなぁ。俺はおまえほどガキじゃないんだよ」
「けっだ」
「おまえなんかとつきあってらんないよ。帰れ」
「帰るよ」
 なんでこうなるんだろ。木村さんは怒ってひとりでライヴハウスに戻っていってしまい、俺はひとりで外に残されて立ちつくしていた。
 ガキじゃない? あんただってガキじゃないか。モモちゃんとまるっきりおんなじじゃないか。なにかに八つ当たりしたくて、なにに八つ当たりしたらいいのかわからなくて、道端の立て看板を蹴飛ばしたら、看板が吹っ飛んだ。
「洋介くん? なにやってんだ?」
 吹っ飛んだ看板の先には、レイがいた。
「アキラと喧嘩したの?」
「……あんたは仕事だろ」
「僕らはフルーツパフェのあとだよ。フルーツパフェって言いにくいな」
「モモクリとも言う」
「モモクリか。そっちのほうが言いやすいね。僕らの控え室には他のメンバーがいるし、どうしようか。僕でよかったら話は聞くよ。あ、本橋さん、お久し振りです」
「本橋さんとも知り合い?」
「もっちろん。ってか、覚えてくれてるかな、本橋さんは」
 仕事があると言っていた本橋さんだけど、早く終わったのだろうか。駆け寄るレイに本橋さんは言った。
「でかくなったんだな。写真は見てたけど、こんなにでかくなったとは意外だったよ。久し振りだな」
「覚えててくれたんですか」
「当たり前だ。洋介、おまえはこんなところでなにをやってる?」
 なにをやっているのかうまく言えなくて黙っていると、レイが言った。
「僕にもあんまりよくわからないけど、アキラはあいかわらずってのか……」
「章か」
「ちがうよ。俺が……ってか、モモちゃんが……ってか」
「モモちゃんか。モモちゃんも人騒がせなんだよな。もうちょっとクリが……ってのも言っても無駄か。洋介、おまえだって音楽は好きだろ。ライヴを聴いたらちっとは気が静まらないか」
「モモクリなんか聴きたくないよ」
「そうか。レイ、おまえはいいよ。あとは俺が引き受けるから、演奏の準備しなくちゃ」
「そうですね。じゃあ、本橋さん、またあとで」
「おう、しっかりやれよ」
 本橋さんに頭を下げて、レイはライヴハウスに戻っていった。
「あいつはあんまりロッカーロッカーしてないんだな。風体はロッカーだけど、昔に較べたらむしろ普通になってる。洋介、どうするんだ。なにがしたい?」
「レイって木村さんのなんなの?」
「章とレイは、おまえと俺みたいなもんだ。そのまんまじゃないけど、近い関係かな」
「師匠と弟子?」
「師匠じゃないと言ってるだろ。しかしまあ、そのようなもんだ。俺たちがデビューしたばかりのころにな……歩こうか」
「ファンに騒がれない?」
「おまえのか」
「本橋さんのだよ。俺にはファンなんかもういないもん」
 丁寧に喋れ、といつも言うくせに、今日は俺の言葉遣いをとがめず、本橋さんは歩き出した。
「八年ほど前だったか。俺が章のアパートを訪ねていったら、レイがいた。レイは章に、ロッカーに戻れ、俺たちといっしょにロックバンドをやろうと口説いてた。章は揺らめいてるように俺には見えた。実のところはレイは下手くそなアマチュアギタリストだったから、章もたいして揺らめいてもいなかったらしいんだけど、章はロックに未練たらたらだと知ってたから、俺にはそう見えたんだよ」
「うん、いや、はい」
「章が怪我をしてたもんで、薬を買ってきてやるってのを口実に、俺は外に出た。その間にどうするのか考えを決めさせるつもりだった。薬を買って章の部屋に帰ったら、レイが章に馬乗りになってぼかすかやってやがってな」
「へえ」
「俺も頭に来たんだけど、あれはまあ、章に断られた憂さ晴らしだったんだろ。そんなわけで、章はロッカーには戻らなかった。で、その後、俺がレイラのデビューCDを見つけて、乾と章の三人で聴いた。乾が章に訊いた。ロッカーに戻らなくて後悔してないか、ってな。章はきっぱりと、後悔はしてないと答えた。乾は言った。よかったなぁ、シンちゃん、ってさ。そのあとで、章はレイラのライヴに幸生とふたりで行った。シゲはあんまり知らないだろうけど、だからみんな、レイラについては知ってるんだよ」
「……」
「それだけの話だ」
「……それがどうか……なんとなくわかる気もするけど……」
「なんとなくでいいさ」
 そんな話を聞きながら歩いて、ひと回りしてライヴハウスに戻ってきた。
「俺はモモクリのライヴも聴きたいぞ」
「はい、俺も行きます。けど、俺……木村さんに帰れって言われたのに」
「俺といっしょにいるおまえに、章が帰れと言えるか?」
「ああ、そっか」
「レイのギター、よく聴いてみろ。おまえも章のギターを聴いたことはあるよな。おまえも一応、ギターは弾けるんだよな。そんならわかるかもしれない」
「……?」
 モモクリのライヴは終盤にさしかかっているようで、客席も盛り上っていた。木村さんは俺をちらっと見たものの、なんにも言わずにとなりを空けてくれた。
「モモクリの生歌ってはじめてだな。モモちゃん、意外にうまいじゃん。わかってるよ。俺よりうまいって言いたいんでしょ。俺はどうせ下手だよ」
「うるさーい。黙って聴け」
「こういうのは黙って聴くもんじゃないよ、木村さん」
「よけいな話はせずに聴け」
「へーい」
 あのへにゃへにゃと頼りないクリまでが、ステージでは輝いて見える。俺も本当にシンガーソングライターになって、もう一度ステージに上がりたいと、俺は心から思った。アイドルだったころには一度も本気でそう考えたことはなかったと、今になってはじめて気がついていた。
 モモクリが引っ込んで、レイラがステージにあらわれたあたりで、三沢さん、シゲさん、乾さんの順に客席にやってきた。五人がそろうと目立つからなのか、三人とも俺たちとは離れたところにいた。
「レイのギターがどうたらこうたらって、俺にはわかんないけど、木村さん、俺にもギター、教えてよ」
「いやだ。乾さんに教えてもらえ」
「ケチ」
「アーキラー、上がってこない?」
 突然、ステージからレイが木村さんを呼んだ。木村さんはいやだいやだーっ、と応じ、周囲の聴衆が木村さんに注目した。フォレストシンガーズの木村さん? 本橋さんもいるよ、というような声がちらほら聞こえ、あ、ポンくんだー、なんて声も聞こえた。完璧に忘れ去られる前に、なんとか俺もステージに上がれる身分に戻れないものだろうか。
 俺は下手くそかもしれないけど、歌が大好きなんだよ。レイだって下手だったんだろ? 今は下手だとは俺には思えないんだし、そしたら俺にも希望はあるじゃん。俺がそんなふうに考えていると、本橋さんが俺のとなりで頭を抱えた。
「はーい、ユキちゃんですよー」
 そんな声が聞こえてきた。
「だけどね、僕は今日は一聴衆ですから、あとでね。今はレイラのライヴだから、集中しましょうね。レイ、邪魔してごめんなー。いいから続けて続けて。はいはい、みなさん、お静かに」
 なんともよく響く高い声に、本橋さんは苦笑した。
「あいつは他人のライヴまで仕切ってやがる。章、呼ばれてるのに行かないのか」
「いいです」
「そうか」
 さっきの話、本橋さんはなにが言いたかったんだろう。わかるようなわからないような話だったけど、帰ってひとりになったらじっくり考えることにして、今はライヴに浸っていよう。俺もむこうに行きたくてもどかしくてたまらないけど、俺は呼んではもらえないだろうし。
そんな俺の耳に、ステージの歌が届いてくる。レイラのレイが歌う曲のタイトルは……しばらく聴いていたら、タイトルが浮かんだ。

「Do You Remember
 When We Fell In Love
 We Were Young
 And Innocent Then
 Do You Remember
 How It All Began
 It Just Seemed Like Heaven
 So Why Did It End?

 Do You Remember
 Back In The Fall
 We'd Be Together
 All Day Long」
 Do You Remember
 Us Holding Hands
 In Each Other's Eyes
 We'd Stare」

「Remember The Time 」だ。この時間を覚えていよう、という意味になるだろうか。俺も覚えていよう。いつか俺がシンガーソングライターとして、本橋さんに近づけるほどの存在になれた日に、この歌をステージで歌おう。
 そのときにはきっと、自作の歌をかっこよく歌いこなしてみせる。修行を積めばソングライティングだって、歌うってことだって、絶対に上達できるんだから。俺は絶対に、本橋さんに負けないシンガーソングライターになるんだ。

E N D






 

 

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