番外編

番外編35(あなたから遠く)

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番外編35

「あなたから遠く」

 

 部室の窓から見える桜の花はとうに散り、葉桜になっていた。そんな時期に、私は合唱部に入部した。
「若槻苑子さんね。素敵なお名前よね」
「はい、ありがとうございます」
 優しく微笑んで言ってくれたのは、女子部キャプテンの武田さん。緊張していた私は、武田さんの微笑みに、強張っていた身体がとけていくのを感じていた。
「若槻さんも歌が好きなんでしょう? だから合唱部を選んでくれたのよね。どんな歌が好き?」
「ジャズが好きなんです。女性ジャズヴォーカルが大好きです」
「合唱部はジャズは歌わないけど、聴くのはなんだっていいよね。男子部は昔はきびしかったらしいんだけど、今年はキャプテンが実松くんだからっていうのもあるのかな。徐々にきびしくはなくなってきてるの。女子部は昔からきびしくなんかないのよ。楽しく歌いましょうね」
「はい、よろしくお願いします」
「そんなに堅くならなくてもいいのよ。あのね、あのね」
 とても嬉しそうに、武田さんが話してくれた。
「もうじききっと、私たちと近い年頃の、合唱部出身のヴォーカルグループがデビューするんだよ。合唱部では彼らは有名なんだけど、入部したばかりの若槻さんは……あ、ソノちゃんって呼んでいい? 女子部は昔から、部員たちが名前で呼び合ってるのよ。私はみずえだから、みーちゃんだとか呼ばれてるの。ソノちゃんでいいよね」
「はい、そう呼んでいただくと嬉しいです」
「ソノちゃんってお行儀いいんだ。もちろんそれはいいことよ。それで、話の続きをしようね。今言ったヴォーカルグループ、ソノちゃんは知らないでしょ。フォレストシンガーズっていうの。卒業した男子部の先輩で、去年のキャプテンだった本橋さんがリーダーになって、乾さんという本橋さんと同年の方と、私と同い年の小笠原くんと本庄くん、あと、一年下の三沢くがメンバーなのよ。合唱部は全員、フォレストシンガーズがプロになるのを楽しみに待ってるの」
 そんなひとたちがいるからこそ、男子部はきびしいのだろう。徐々にきびしくはなくなってきているといっても、女子部よりはきびしいのだろう。すると、男子部の先輩たちは怖いのだろうか。ちょっぴり心配だったのだが、武田さんは言ってくれた。
「男子の中には荒っぽいひともいなくはないけど、みんな女の子には優しいから大丈夫。ソノちゃん、誰かを好きになったら手助けしてあげるから、私に打ち明けてね」
「……好きになんて……」
「なるかもしれないじゃない? 男は姿かたちじゃないんだから、性格で選ばないと。なーんて言うのは、それほどかっこいいひとは男子部にはいないからだったりして……」
 言っておいてくすくす笑っている武田さんに、私は作曲もするんですけど、と言いたい気もしたのだが、自慢っぽく言うほどでもないか、と考え直して、部室から出ていった。
 高校生のころから歌が好きで、歌うだけでは飽き足りなくなってきて、曲を作ってみたりしていた。聴くのはジャズが好きなのだが、作曲はジャズではない。フォークソングもどきといおうか、小学生の歌のようなものだろう。
 曲作りも下手だし、歌も下手ではあるのだが、合唱部生活は楽しかった。武田さんが話してくれた、フォレストシンガーズの名前も心に刻まれ、ただいまも在校している小笠原さんや本庄さん、三沢さんの歌が聴きたくて、それでいて、お願いすることもできなかったのは、彼らは男子部だからだ。
 フォレストシンガーズはプロではないのだから、CDを出してはいない。どうしたら彼らの歌を聴けるのだろう。
「昨日の飲み会では、小笠原さんと本庄さんと三沢さんが、三人で歌ってくれたのよ。ソノちゃんも来ればよかったのに」
 合唱部で友達になった倉石慶子が話してくれて、そんなときに限って私は欠席してるんだからぁ、と悔しがったこともある。なぜか私はチャンスに恵まれず、三人の歌を一度も聴かせてもらえないままに、二年生になった。
 今年も葉桜の季節。私が合唱部に入ってから一年がすぎた。好きなひとは特にいないけど、友達もできたし、楽しい一年だった。だけど、歌も作詞作曲もちっとも上達しないな。
 そんなふうに考えながら、それでも合唱部の裏手で自作の歌をこっそり歌っていたら、今年の男子部キャプテン、三沢幸生さんの声が聞こえた。
「その歌、聞いたことないな。きみのオリジナル?」
 去年のキャプテンの実松さん以上にというか、また別の愉快な男性だと知るようにはなっていたが、ほとんど口もきいたことはない。私は上がってしまって、まとも返事ができずにいた。
「えと、えと……あの……」
「突然ごめんね。若槻苑子さんだったよね」
「私の名前、ごぞんじなんですか」
「俺は女の子の顔と名前を覚えるのは大得意だよ。当然じゃん。えーと、俺は……」
「ぞんじあげてます、三沢キャプテン」
「ぞんじあげてくれちゃってますか。さっきの歌、もう一度歌ってみてくれる? オリジナルなんだよね」
「はい、えーと、あの、友達が作詞作曲したんです」
「うん、歌って」
 私が書いた歌です、とは恥ずかしくて言えなくて、嘘をついたのだった。 
 気さくな三沢さんと話して、上がっていたのはすこしずつほぐれていたのだが、私の下手な歌を男子部キャプテンの前で歌うなんて……けれど、いやとも言えなくてワンフレーズ歌ったら、三沢さんは言った。
「きみはメゾソプラノだね。あまり高い声は無理して出さないほうがいい。キーを下げたほうがいいよ」
「はい」
「歌詞だけど……」
 一度、いや、二度聴いただけで、三沢さんは自分のキーでその歌をうたってみせた。
「ここね、ここ」
 遠い遠いはるかな夢を追いかけて、のフレーズだった。
「こうしたほうがよくない?」
 はるかに遠い夢ひとつ追いかけて、に変わっていた。それからここ、と三沢さんのアドバイスは的確に思えた。
「このほうがしっくり来るんだな。よけいなお世話でごめんね」
「いいえ。そうですよね。ありがとうございます」
「若槻さん、デュエットしよっか」
「そんな恐れ多い」
「俺はなにさまだよ。たかがアマチュアヴォーカリストじゃん。あのさ、聞いてくれる?」
「私でよろしいんでしたら」
「今度、コンテストに出るんだ。あちこちで喋り散らすのもなんだから、ここで会ったのもなにかの縁だし、きみにだけ言うんだよ。オフレコだぜ」
「はい」
 話したくてたまんなかったんだよな、とお茶目に言って、三沢さんは続けた。
「本橋さんと乾さんと本庄さん、知ってる?」
「本橋さんと乾さんのお噂はかねがね」
「だよな。うちじゃ有名人だよな。どんなひとだか……って、言わないほうがいいか。イメージこわれるもんな、特に本橋さんはさ……って、言ってんじゃん、俺」 
 あははと笑って言った。
「小笠原のヒデさんは知ってるでしょ。本庄シゲさんも知ってるよね。俺も末席に加えてもらって、その五人でフォレストシンガーズってヴォーカルグループを結成したんだよ」
「はい、去年のキャプテンの武田さんから聞きました」
「そっかぁ。俺たち、合唱部でだけは有名なんだよね。ヒデさんは脱退したんだけどね」
 そこで三沢さんの表情に翳が差したように見えたのだが、微笑みに変えて続けた。
「ヒデさんのかわりには、中退はしたけど、もとはうちのサークルにいた木村章って奴が、現時点でのフォレストシンガーズのメンバーだよ。前にもコンテストに出た経験はあるんだよ。でも、駄目だったんだな。今度こそ絶対、絶対の絶対にどうにかなるみたいな、予感がするんだ」
「がんばって下さい」
「先輩たちに言ったら、おまえの予感なんかないほうがましだ、ってなもんだからね。章には言ったけど、一笑に付されたし。きみと話せてよかったよ。聞いてくれてありがとう」
「いいえ。あの、どういたしまして」
「じゃ、歌おうよ」
「ええと、はい」
 デュエットとはいったけれど、三沢さんは私の歌に美しいハーモニーでコーラスをつけてくれた。大感激だった。
 触れ合いはそれだけだったけれど、よりいっそう私の心にしっかりと刻まれたフォレストシンガーズの名前。やがて彼らはプロデビューした。とんとん拍子に売れるとまではいかなかったのだが、私は彼らのアルバムをすべてそろえている。三沢さんとはあれっきり会っていない。なのに、乾さんとは……

 
 大学を卒業し、就職はしたものの、OL暮らしは性に合わなくて、ほどなく退職した。二十八歳になった私は、現在はドールハウスを作って依頼された店に卸し、そうして生計を立てている。
 歌からは遠ざかり、作曲なんてものもしなくなったが、フォレストシンガーズの歌は大好きでいつも聴いている。そんな私の個展が開かれたときに、見にきてくれた女性の中に、山田美江子さんがいた。
「ドールハウス作家の若槻苑子さんって、私と同じ大学の卒業生なんだって知ってはいたんですよ。私は不器用だから手芸だのなんだのって苦手なんだけど、素敵だな。憧れちゃう」
「ありがとうございます。山田さんはお仕事は?」
「音楽事務所で働いていまして、シンガーのマネージャーです。若槻さんは私よりも四年下になるのね」
 すると、山田さんは三十二歳か。年齢よりも若く見える、いきいき溌剌とした女性だ。お茶でも飲みませんか、となって個展会場の近くのカフェで話していたら、思いもかけない事実が判明した。
「ええ? 若槻さんって合唱部にいたの? 私もなのよ」
「えっ、そうなんですか」
「四年下だといっしょにはやってないものね。若槻さんが一年生のときのキャプテンは?」
「女子部は武田さん、男子部は実松さんでした」
「武田のみーちゃんと実松弾くんは知ってるよ。次の年の男子部キャプテンが三沢のユキちゃんね」
「はい。その次が留年キャプテンの鈴木さんです」
「そこまでは私も知ってるんだけど、その下となるともう知らないのよね。そっかー、シゲくんとヒデくんが四年生のときの入部なんだね。じゃあ、章くんも知ってるの?」
「木村章さんですよね。フォレストシンガーズの。木村さんはあまり記憶にないのですけど……」
「章くんは一年で中退しちゃってるから」
 ずいぶんとフォレストシンガーズ事情に詳しいのであるらしい。山田さんはシンガーのマネージャーをしていると言った。では、フォレストシンガーズのファンではなく、もしかして?
「そうよ。ソノちゃんって呼んでいい?」
「はい、そう呼んでいただくと嬉しいです」
「ソノちゃんの推測が大当たり。私はフォレストシンガーズのマネージャーなのよ」
「ああ、そうだったんですか。私はフォレストシンガーズの大ファンなんです」
「それはそれは、ありがとうございます」
 するとすると、フォレストシンガーズのリーダー、本橋さんはマネージャーさんと結婚したと聞いているのだから、そのお相手とは、私がここで向き合ってお喋りしている山田美江子さんではないか。驚いている私に、山田さんは言ってくれた。
「一度、うちに遊びにこない?」
「いいんですかっ。嬉しい」
 そういうことになり、山田さんの休日に、私は本橋さんと山田さんのマンションを訪ねた。本橋さんは仕事で留守だったのだが、そのほうが緊張しなくてすんでいいかもしれない。山田美江子は仕事上の名前で、戸籍上は本橋美江子である先輩と、いろいろな話をした。そうしているとふっと山田さんが言ったのだ。
「ソノちゃんはフリーなんだね。乾くんは知ってるよね」
「お会いしたことはありませんけど、もちろんよく知っています」
「フォレストシンガーズのファンの方でもあるんだものね。ね、乾くんは好みのタイプ?」
「さあ……」
 たいして知りもしないのに、好みかどうか言えるほど傲慢じゃないつもりだ。
「彼もフリーなの。恋がしたいなぁ、なんて言ってたのを聞いたことがあるんだ。どうだろ、あなたたち?」
「はあ?」
「ちょっとたくらんでみるね。ソノちゃんはいやじゃないよね?」
「いやではありませんけど……」
「乾くんはおかしな真似はしないよ。紳士だから」
「そういう意味ではないんですけど……」
 紳士を求めるほど純情でもないつもりだけれど、どうしたらいいのだろう。戸惑っている私に、山田さんはいたずらっぽく微笑んだ。
「ちょっとあつかましいかもしれないけど、いいこと思いついた。これならソノちゃんと乾くんは必然的にふたりきりになる」
「なんですか」
 電話をかけて乾さんを誘っている先輩の台詞を聞いて、私は愕然とした。止めるに止められずに困惑していると、先輩が私のところに戻ってきてにっこりした。
「成功」
「車で来て送ってって……それっていくらなんでも……」
「気の毒なのは乾くん、お酒が飲めないことだよね。でも、彼はそんなにお酒好きでもないから大丈夫」
 そういう問題でもない。けれど、山田さんが乾さんについてのレクチャーをさまざま授けてくれるうちに、わくわくしてきたのはまちがいない。なのに、乾さんは私などは気も留めていないとしか見えなかった。
 仕事はなにをやってるの? だとか、今は歌ってないの? だとか、乾さんは私にはなんにも尋ねてくれなかった。疲れているらしかったのだが、山田先輩が教えてくれたように饒舌なひとでは決してなくて、そうしているのが気詰まりでならなかった。
「明日は早いし、皿洗いを手伝ったら帰るよ」
 デザートもすむと、乾さんが言い出した。
「早いとこ片づけちまおう」
「お皿は食器洗浄機が洗うからいい」
「せめてそこまで運ぼうか」
 そんなことはどうでもいいのに、とぶちぶち言いながらも山田先輩も片付けに精を出し、私ももちろん手伝ってあと片づけをすませた。先輩はこっそり私に言った。
「今夜の乾くんは変よ。いつもはこんなじゃないんだから、気にしない気にしない」
「私、ひとりで帰ります。まだそんなに遅い時間でもないし」
「そんなことしたらすべては水泡に帰すでしょ」 
 内緒話しをしている私たちに、乾さんが言った。
「若槻さんはもっとミエちゃんと話してたいんだろうけど、俺はそろそろ帰りたい。ごめんね、送ってくから」
「いいです。送ってなんて」
「なんのために車で来たと思ってんの? あなたを送るためでなきゃ、車でなんか来ないよ」
「乾くん、ごめんね。車だとお酒が飲めなくなるなんて忘れてた」
 嘘ばっかり、先輩ったらお芝居が上手なんだから。
「酒はどうでもいいけどね。帰ろう、ね、若槻さん?」
 はい、と言うしかなくて、ごちそうさまでした、と山田先輩に頭を下げて、乾さんのあとからエレベータに乗った。そうして私は乾さんとふたりきりで車の中。乾さんはやっぱり口数が少なくて、車内の空気が重くなっていく。
 と、乾さんが歌い出した。FSのレパートリーにこんな曲あった? ……あ、さっきのだ。箱根八里の半次郎。半次郎が真次郎に変わっていた。
「フルに歌ってみました。ごめんね、ほんとに俺、くたびれ切っててさ、せめて最後にサービス。ここでいいのかな」
 駅についていた。
「ありがとうございました。ご迷惑をおかけして、私こそすみません」
「迷惑なんかじゃないよ。女の子たちのお喋りを聞いてるだけでも楽しかった。じゃあね」
「はい、では」
 車が走り去っていく。
 楽しかった、なんてふうにはとうてい見えやしなかった。心ここにあらず、そんなふうにしか見えない乾さんだった。
 R&Bだとかソウルミュージックだとかに分類される歌をうたうコーラスグループの一員たる乾さんが、演歌を歌ってくれるのは意外性があって、聴いてる間だけは楽しかったけど、ただのファンサービスなんでしょ? そんなの当然なのに、哀しくなってきた私は、山田先輩に電話をかけた。
「さきほどはありがとうございました。駅まで送ってもらいました」
「駅までなの? ケチだね」
「そんなことないですよ」
「うちまで送るよ、って言ってくれなかったの?」
「言ってくれませんでした。私といてもつまらなかったのかな。嫌われちゃったのかな」
「ソノちゃん、声が潤んでる」
 もと合唱部なんだし、常々一級品の男声コーラスを聴き慣れている先輩だから、耳はすこぶるいい。涙声になっているのを悟られてしまった。
「変ですよねー。別に恋したわけじゃないんですよ。男のひとにつめたくされるのなんか、別にどうってこともないはずなのにね。やだ、私、なに言ってるんだろ。先輩、ごちそうさまでした」
「ソノちゃん、ソノちゃんってば……あのね……」
「おやすみなさーい」
 なにか言いかけている電話を切った。雨がふりはじめている。レイニーブルーってこんな感じかなぁ。私は雨を避けて小走りで、地下鉄の階段を下りていった。


 しきりに頭に、口元にのぼってくるフレーズは「箱根八里の真次郎」だ。私は頭をぶるぶる振って払いのける。が、じきに再びのぼってくる。私はいわば自由業だから、休日も仕事もけじめがつかなくて、だらだらと仕事をしている。
 ひとつずつひとつずつ、粘土をこねてちっちゃなお皿、ちっちゃなアップルパイ、飾りのホイップクリーム、添えるバニラアイスクリームをつくり、お皿に盛りつける。木製テーブルに完成したアップルパイのお皿をそっと乗せる。先に完成させていたフレーバーティと並べると、香りが漂ってきそうな錯覚に陥る。
「って、うまくできたってことだよね。ちょっと休憩」
 ひとりごとを言って、本物の紅茶をいれる。紅茶の支度をしているときにも、自然に口ずさんでいるのは「箱根八里の真次郎」だったりするんだから、私ったらどうしちゃったんだろ。
「まったくもう、やだねったらやだね、だ。ちがう曲をかけよう」
 FM放送をかけてみると、なんとFSの曲をやっている。慌てて切ってCDコレクションを眺めてみると、目につくのはFSのアルバムばっかり。腹立たしくなってきたので、クラシックのCDをセットした。
「これってよくポピュラーになってるよねー」
 フォレストの「惑星」、中でも「木星」は時としてポピュラーソングになる。フォレスト……フォレストシンガーズを思い出す。ううん、そうじゃなくてフォレストだよ。映画音楽にもあったっけ。ひとり暮らしゆえにひとりごとばっかりの日々だ。
「駄目だ。今日はそんな気分じゃない」
 本当は気になっていたから、FM放送に戻してみた。DJの女性が美しい声で喋っていた。
「フォレストシンガーズの新曲発表を記念して、本日はFS特集です」
 なんなのよぉ、呪われてる。嘆きたくもなったのだが、本当は嬉しいのだった。
「サプライズゲストがいらしてます。みなさん、知らなかったでしょ? フォレストシンガーズの本庄繁之さんと……」
 もったいつけないで。と、誰?
「乾隆也さんでーす。ようこそいらっしゃいました」
 やだやだ。なんでなんで? ああん、嬉しいよぉ。私はラジオに向かって、ひとりで騒いでいた。
「こんにちは、本庄繁之です」
「こんにちはっ、乾隆也です」
 胸がときめきっぱなしだった。乾さんのテナーがかろやかに明るく響き、あの日の乾さんはなんだったの? と落ち込みそうになる気分を励まして、私はラジオに聞き入った。
「先輩が先に挨拶するべきでしょうが」
「つまんないこと言ってんじゃないよ、シゲ。こいつときたら、さっきからそればっかり言ってるんですよ」
「乾さんが先輩でいらっしゃるんですね。フォレストシンガーズのみなさんは、同じ大学出身なのですよね」
「そうです」
 低く落ち着いた本庄さんのバスバリトン。本庄さんの声もいいけれど、私は乾さんの声を追い求めていた。
「あなたから遠く……です。聴いて下さい」
「今回は本庄のシゲがリードヴォーカルです」
「シングルでははじめてですよね、本庄さんのソロは」
「アルバムにだったら入れてますけど、彼の本職はミスターベースマンですから」
「それではお聴き下さい。フォレストシンガーズの新曲「あなたから遠く」です」
 イントロがはじまる。綺麗なメロディ、それでいて凝ったアレンジ。本庄さんの声が聞こえてきた。

「あなたには会えない
 会いたくて会えない
 あなたも僕に会いたいと感じてくれているのなら……」

 ちょっぴり残念。乾さんのソロが聴きたかったな。なーんてね、なに言ってんのよ、ソノちゃんは。本庄さんのソロもとっても素敵じゃないの。遠くから聞こえてくるようなコーラスを聞き取ろうとしてみる。あ、これ、乾さんの声だ。
 四年早く生まれていたら、私が山田先輩のようになれたかもしれない。私だったら本橋さんじゃなくて、乾さんを選ぶ。どうしてなの? あんな出会いをして、あんな接し方しかしてもらえなかったのに、どうしてこんな想いを抱くの? 恋は意のままにならぬもの? どうしてもそんなことばかり考えてしまう。
 恋、なのかなぁ。私ってつめたい男が好きなの? 変態じゃないの。自分で自分を罵ってみても、悶々とする心をどうしても止められなかった。


 東京生まれの東京育ちではあるのだが、両親は私の父方の祖父母に当たる、両親にとっては親であるふたりの面倒を見るために、父の郷里の山梨で暮らしている。なので、私は一時は姉とふたり暮らしだったのだが、姉が結婚してからひとり暮らしになった。
 なんとなく山田さんには告げなかったのだが、姉が結婚した男性もまた、私の大学の合唱部の先輩。姉は別の短大を卒業しているのだが、縁あって結婚した男性は、私の同窓生で合唱部出身、高倉誠。彼が一年生だった本橋さんと乾さんを見出した、当時の男子部キャプテンだとは、私ももちろん知っている。
 姉はそもそもフォレストシンガーズにも関心がないので、どうだっていい様子だが、義兄となった彼にそれを聞かされたときには、私はあまりの奇遇に驚いて声も出せなかった。
 高倉誠が私の義兄となり、山田美江子さんとも親しくなって、フォレストシンガーズが近くなったような……そして……乾さんと出会い……なのに、あんなふうに……
「苑子、なんだか元気ないね。どうしたの?」
 家は近いので、姉夫婦の住まいに招かれて、夕食をごちそうになっていると、姉が言った。義兄も言った。
「ソノちゃん、きちんとメシは食ってるのか」
「食べてますよ。私は姉さんみたいに料理が上手じゃないけど、自炊できないわけでもないから、食事はちゃんとしてるの。だけど、山田さんも料理がうまいんだよね。ああでないと……あ」
「山田さんって?」
 義兄に問い返され、山田なんて名前は珍しくもないのだから、とぼけるのは可能だったはずなのに、ついつい正直に言ってしまった。
「そうだったのか。山田さんがソノちゃんの個展をね」
「そうなの。義兄さんはもちろん、山田さんがフォレストシンガーズのマネージャーさんだって知ってるんでしょ?」
「知ってるよ。フォレストシンガーズの面々とは頻繁に会ってるってほどでもないけど、時には仕事で関わったりもするからね。山田さんとはあまり話しもしていないんだけど、本橋と結婚したんだよな。俺も式に招待してもらったんだけど、仕事が押してる時期だったから欠席するしかなかったんだ。すると、ソノちゃんは本橋家に招待されたんだね」
「本橋さんは留守だったけど、乾さんがいらして……」
 そこで言葉を途切らせてしまったものだから、姉の神経になにかが触れたらしい。
「……苑子、あんたが元気ないのってそのせい? 乾さんってひとと……なにかあったの?」
「なんにもないの。なんにもないから元気が出ないのよ」
「……ママ、それってどういう意味だ?」
「パパは黙っててね。どういう意味かは私が苑子に聞きたいんだから」
 幼稚園児の甥っこは本日は、幼稚園の友達の家でのお泊り会なのだそうだ。うるさいのがいないので私を招いてくれたのだろう。ひどく心配そうにどうしたの? どうしたの? と尋ねる姉に、私は言った。
「義兄さんがいたら言えない」
「パパ、あっちの部屋に行ってて」
「わかったよ。なんなんだか俺にはさっぱり……」
「男はわからなくていいのよ」
 義兄が隣室に引っ込むと、私は山田先輩の住まいでの出来事を詳しく語った。
「……これって恋?」
「そうに決まってるじゃないの。乾さんが苑子に冷淡だったっていうのは、疲れてたからなんでしょ? 嫌われたからじゃないと思うよ。好きです、って言えばいいのに」
「まだあのときは……そんなんじゃなかったんだから」
「そんなんになったんでしょ? フォレストシンガーズだよね。パパの大学の後輩だよね。こういうときにはパパに先輩の威光を示してもらうってのは……」
「やめてよっ!! そんなのいやっ!!」
「うーん」
 眉根を寄せて考え込む姉を見やって、私も考えていた。やっぱりこれは恋心? だからって私はどうしたらいいんだろう。
 

 瞬間、呼吸ができなくなった。頬が熱くなり、心臓がとどろきはじめ、指先が、膝が震える。声も出ない。乾です、って受話器から聞こえたのは空耳? 夢を見てるの?
「若槻さん? 聞こえてますか?」
「は、はい」
「……ごめんなさい」
 そのひとことで奈落の底に突き落とされた。義兄からでも聞いた? 私の心を? あのあとで姉が義兄に話し、義兄が乾さんに話してくれたのだろうか。この電話が、苑子さん、デートしようよ、だったらどんなにか…… 
 だが、そうではなかった。ごめんなさいの意味するところは理解できるんだから、私はまだ正気だ。正気なんだからちゃんと話せる。
「わかりました。お電話いただいてありがとうございました」
「…………いや……」
 沈黙。なにか言わなくちゃ。
「ありがとうございました」
「……さよなら」
 事務的に徹して電話を切ったつもりだけど、声の震えは悟られていただろう。さよなら? さよならを言われるような仲じゃない。それでも永遠にさよなら。
 天井を仰いだらぼやけていた。急に目が悪くなったのだろうか。気分転換に音楽でも聴こう。なにを聴こうか。こんなときは失恋の歌? 失恋しちゃったんだね、私。認めなきゃ仕方ないじゃない。片思いの果ての失恋だなんて、ばっかみたい。ばかばか、心臓のばか、いつまでときめいてるの? 止まれ。
 選んだCDはバカのきわめつけで、フォレストシンガーズだった。早送りして選曲したのは、さらにお馬鹿にも乾さんのソロ曲、「言えない」。乾さんの声が、今日は寂しく胸をついた。

「愛していたよ
 本気だったよ
 きみだけだった。僕にはただきみだけ」

 きみってだあれ?

「愛していたよ
 心すべてで
 きみだけだった。生涯かけてきみを」

 きっと乾さんには今も、そんな女性がいるんでしょうね。

「なのに馬鹿な僕は
 なのにきみを止められず
 きみが去るのにまかせただけで」

 馬鹿は私です。なんでこんなに涙が出るの? 歌に感情移入してるだけ? そうよね。

「さよならなんて言えないよ
 きっと永久に言えはしない
 きみのさよならが胸に何度も何度も何度も鮮烈に
 よみがえっては僕を苦しめる
 僕からは言えないから」

 言ったじゃないの、さよならって。

「I LOVE YOU LADY
 今までも……これからも……」

 哀切なメロディ、シンプルな歌詞、乾さんの声。駄目。自分を欺けない。オーディオを止めて顔を覆った。
 あんたから告白すればいいじゃない? 女からつきあって下さい言ったっていいんだから、姉は言ったけれど、告白なんかできるわけがない。気が弱い? それもあるんだろうけど、相手が悪すぎる。あんなひとに私から告白なんて……しなくてよかった。
 そして、こんなふうになった。  
 誰も見てないんだから、我慢してる必要なんかないじゃない。泣けばいい、泣いたらいいんだ。泣いて泣いて泣いて、涙が止まったら忘れよう。そう決めて、私は手放しで泣き出した。

END


 
 

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