番外編

番外編34(タイガー&ドラゴン)

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ドラゴン
番外編34

  「タイガー&ドラゴン」


1

 受験壊滅状態だったのだから、東京に出てもなんにも意味がない。わかってはいたけど東京に行きたくて、雪だらけの田舎を脱出してから半年近くになる。灰色の浪人生活にもなじんできて、そんなもんになじんでてどうすんだよぉ、と自分で突っ込みを入れながら、大学のオープンキャンパスとやらにやってきた。
 ものすごく大きな大学なので、学部もやたらにある。インターネットで調べた段階で俺の目を引きつけたのは医学部寄生虫学科、寄生虫って面白そうだとは思ったのだが、医学部なのであるらしい。そうすっと俺の学力では無理に決まっている。いちばん簡単に入れる学部はどこなんだろう。俺にはなによりも難易度の低さが大切だったのだが、やっぱり寄生虫学科には興味があって、研究室を覗きにいってみた。
 夏休みだというのに学生も教授らしき人もいる。ひねた学生なのか若く見える教授なのか、俺には見分けのつかない、三十前後の男が声をかけてきた。
「寄生虫学科を見学に来て下さったのですか。我が校を受験する高校生でいらっしゃいますか」
「高校生じゃなくて浪人生でぇ、受験はできるだろうけど受かるかどうかわからないっつうかぁ……」
「医学部に所属してはおりますが、医学科ほどには難関ではありませんよ。寄生虫に関心がおありなのでしょう。ぜひ受験なさって下さい」
「うん、考えとく」
 あのね、キミ、と、こちらは学生であるらしき、背の高いお姉さんも声をかけてきた。
「この方はうちの准教授の加藤先生。あなたは浪人生ってことは十九か二十歳?」
「まだ十八」
「近頃の若い子は敬語が使えないっていうけど、それではあべこべでしょう? もうすこし丁寧に話しなさい」
「あべこべっすか。うーん、そうなんだよな、本橋さんや乾さんにも怒られるんだけど、丁寧に喋るってむずかしいじゃん」
「……無作法な子ね」
 まあまあ、よろしいですよ、と先生はお姉さんに言い、俺に向き直った。
「あなたのお名前は?」
「木村龍」
「木村くんですか。木村、本橋、乾、私の知っている名前が三つもそろうとは、果たして偶然でありましょうか。木村さんは日本では多い姓だが、本橋さんはそうそうはないでしょう。乾さんはさらに少ないですよね」
「先生、本橋さんと乾さんを知ってんの? そんなに売れてないのに」
「売れて……すると……」
 どこからともなく、女の子がきゃあきゃあしている声が聞こえてきた。お姉さんは窓辺に走り寄り、彼女までがきゃあっと言って頬を両手で押さえ、先生に向かって言った。
「徳永さんがいらっしゃったようですよ。外で女の子に取り囲まれてますね」
「ふむ。渉は女性に人気があるのですね」
「そりゃあそうですよ。あの声、あの歌、私もミーハーになっちゃう」
「姿もでしょう? 島田さんは渉のファンなのですよね。渉、ここですよ」
 姓は徳永、名は渉、徳永渉であろう。名前はよくよく知っているが、生の徳永渉は見たことがないので俺も窓辺に寄ると、それらしき男が女の子たちになにか言ってから走ってきて、窓から飛び込んできた。
「オープンキャンパスの日とかち合ったのか。事前に言えよな、タイガー」
「忘れてましたよ。そうそう、渉、彼は木村龍くんとおっしゃるんだそうですけど、本橋さん、乾さんが云々と口に出しているんです。本橋さんや乾さんって、合唱部時代の渉のライバルだった彼らですよね?」
「木村? おまえ、木村章と関わりがあるのか」
「おまえとはなんだよ。このお姉さんは俺を無作法だって言ったけど、初対面の俺におまえと呼びかけるあんたは無作法じゃないのか」
「どうでもいいから質問に答えろ」
「木村章は俺の兄貴だよ」
 ほおほお、そうだったのですか、と先生はうなずき、徳永渉はきつい目つきで俺を見た。
「木村章なんて名前はありふれてるけど、おまえの言ってる本橋は真次郎か。乾は隆也か。フォレストシンガーズの?」
「そうだけど」
「木村はたしか……」
「三十。俺とは十二歳の年の差があるんだよ」
 ここは兄貴の章が一年間だけ通って中退した大学で、フォレストシンガーズの他の四人が卒業した大学だと、俺はもちろん知っていた。兄貴と同じ大学に入るなんて面倒かな、とも思った。
 しかし、兄貴と同い年の三沢幸生が卒業したのも十年近く前だ。兄貴は中退しているので、彼を覚えている者は学校にはいないかとたかをくくっていた。
 覚えられているとしても、木村という苗字はありふれすぎている。フォレストシンガーズはそもそもたいして売れていないが、卒業生たちがプロのシンガーズになったのだから、学校では名が通っているかもしれない。いずれにしても俺が木村だからといって、そこには結びつかないだろうと考えていた。
 今年の春に先のあてもなく田舎を飛び出してきたのは、東京に兄貴がいるからだ。兄貴のマンションの鍵を親父の金庫から盗み出し、兄貴の部屋で待ち伏せていたら、兄貴が誰かといっしょに帰ってきた。その誰かとは兄貴の現在の仲間で学生時代からの先輩の乾隆也だった。兄貴が上京したのは十年以上も昔で、俺とはその後ほとんど会ってもいなかったので、すったもんだがあった。そのあげく、兄貴は言った。
「おまえの面倒なんか見たくなーい」
 あれ以来、兄貴は俺を露骨に迷惑がっている。かえって乾さんや本橋さんのほうが、俺をちょこちょこかまってくれるのだが、彼らの口から徳永渉の名を聞いたことはない。徳永渉はフォレストシンガーズよりも人気のあるソロシンガーなので、俺も名前は知っていたが、彼もここの卒業生だったのか。
「十二歳ちがいの兄弟だったら悪いのか。あんたが兄貴と知り合いだなんて、兄貴はなんにも言ってなかったけど、そうだとしても俺には関係ねえからいいんだよ。どうせ俺は頭悪いし、医学部になんか入れるわけないから、そっちもいいんだよ。俺とはいい勝負の頭の悪い兄貴が合格した、工学部だったら入れるかな」
「木村は同業者だから知ってはいるよ。本橋や乾は同い年だから、昔はいろいろとあった。タイガー、よけいなことを言うなよ」
「申しませんよ」
「本庄も三沢も知ってるよ。在校期間があいつらとはかぶってるから、多少はつきあいもあった。今では会う機会はあまりないけど、情報は入ってきてる。そうか、木村にはこんなに若い弟がいたのか。龍? 高校三年か」
「浪人だよ。悪かったな」
「悪くはないさ」
 きつい目がふっと細まって、徳永渉は俺の頭に手を乗せた。
「木村は小柄だけど、おまえは背が高いな。顔も似てるといえば似てる。木村はフォレストシンガーズ随一の美形だよな」
「兄貴より乾さんや本橋さんのほうがかっこいいよ。兄貴と三沢さんはちっこいし、本庄さんはオヤジっぽいもんな。乾さんはじきに説教したがるし、本橋さんは拳骨を出すけど、見た目はあのふたり、背も高くてかっこいいよ」
「変わってないんだな」
「友達だったの?」
「友達じゃない。あいつらは全員嫌いだった」
「そのわりにはなつかしそうにしてない? 今もおんなじシンガーなんでしょ? あ、徳永……徳永渉……徳永さんのほうが売れてるか。あんな売れてない奴らは、って馬鹿にしてるんだ。やだね。だから兄貴たちも徳永さんの名前を出さないんだ。あっちは妬んでるんだ。やだね、そういう世界って」
「好きなように解釈してろ」
 怒るかと身構えたのだが、徳永渉はにやりとした。


 明けて十九歳の春、俺はフォレストシンガーズ全員の出身大学にすべり込んだ。
「龍が医学部とはな」
 みんなからの入学祝いだと大金をくれた本橋さんが言い、乾さんも言った。
「寄生虫学科か。ああ、えーと、たしか……」
「誰かいたな、知り合いが。すぐには思い出せないけど、今もいるんだろうか。ま、いいや。章、おまえはあんなふうに言ってたけど、龍は優秀なんじゃないか」
 あんなふうとは、龍は頭が悪い、だろう。あんただってかしこくないじゃんかよ、と俺が思っていると、本橋さんに向かって兄貴が言った。
「寄生虫学科は定員割れでしょ。だからこいつが合格したんですよ」
「章、弟をそう……」
「真実です。シゲさんだって見てたらわかるでしょうに」
「サークル活動はどうすんの?」
 三沢さんが尋ねた。
「医学部だと学業も大変だろうけど、サークル活動やってこそ大学だよ。龍もロック好きだっけ?」
「龍、ロック同好会はやめろよ」
「章、おまえが言ってるロック同好会っていつの時代?」
「いつの時代であろうとも、ロック同好会には悪しき伝統が息づいてるんだ」
「どんな伝統だか知らないけど、おまえもこだわるね。悪しきってなにがあったんだよ。時効だろうが。言えよ。龍の前では言えないんだったら内緒話して」
「うるせえ、てめえは黙ってろ」
 三十すぎていても、三沢さんと兄貴はひっきりなしにガキみたいに言い争いをしている。あいかわらずなんだよ、と他の三人は口をそろえるので、昔からこうだったのだろう。
 彼らの昔を俺は知らない。俺がものごころついたころには、兄貴はギターを抱えて歌っていた。高校生になると兄貴はロックバンドを結成し、稚内のロック少年となって精一杯意気がっていた。
 あのころの俺はほんの幼児だったから兄貴がかっこよく見えたし、歌も上手だと尊敬していたのだが、ド田舎のロック少年なんて、東京のロック少年から見たらお笑い種ではなかったのだろうか。真新しいランドセルを買ってもらって嬉しかったあの日、俺はランドセルをしょって表を歩いていた。
「龍、母ちゃんが心配してるぞ。こんなに雪が積もってるのに、帰ろう」
「ランドセルって重いね」
「俗に、ランドセルに背負われてる新小学一年生という。おまえはまさしくその通りだよ」
「ぞくにってなに?」
「いいから帰ろう」
 迎えにきてくれた兄貴と手をつないで、家路をたどりはじめた。
「兄ちゃん、東京に行くんだよ」
「東京でなにすんの?」
「俺も新一年生になるんだ。ただし、大学の」
「いなくなっちゃうの?」
「時々は帰ってくるよ」
 人生初のまとまった俺の記憶の中には、兄貴との会話と、兄ちゃんがいなくなっちゃうと知って泣き出した俺がいる。泣きながら走り出したら雪に足をとられてころび、ランドセルの中身が雪の上に散乱した。
「なに入れてるんだよ。学用品も買ってもらったのか」
「兄ちゃん……」
 ロックにうつつを抜かしてばかりで、ちっちゃな弟に優しい兄貴ではなかったが、あの日の兄貴は学用品を拾い上げ、ランドセルにおさめて俺に背負わせ、ランドセルごと俺を背負ってくれた。
「泣くなよ、ころんだぐらいで。おまえも男なんだから。泣き虫だと小学校で苛められるぞ」
「女の子だったらいいの?」
「女の子はたまに泣くと可愛いかな。泣き虫すぎるのも困るけど……父ちゃんと母ちゃんを……こっぱずかしくて言えねえ」
「なに?」
「いいよ。今度帰ってきたら、おまえもでかくなってるかな。俺よりでかくなるなよ」
「なるもん」
 稚内は春にはほど遠かったけど、東京では桜のつぼみがほころびかけているという日に、兄貴は東京に行ってしまった。あの日も俺は泣いていた。
 時々帰ってくると言ったくせに、金がねえんだよ、を口実にして、兄貴はちっとも家に帰ってこなかった。一年もすぎたころには、ロックバンドをやるから大学を中退すると電話で一方的に通告してきて、母を嘆かせ、父を激怒させた。
 あんな奴は勘当だーっ、と頑固親父は息巻き、そうなると兄貴はますますうちには寄りつかなくなり、兄貴なんてうちにいたっけ? 状態で俺は成長していった。
 けれども、大学入学当初に借りたアパートにそのまま住んでいたので、母は兄貴にこっそり食いものや金を送ったりしていたらしい。父も見て見ぬふりをしていた。
「ロックなんてろくなもんじゃないんだから、龍はそんなものはやらないんだよ」
「章があれなんだから、せめておまえはなぁ……」
 両親は口をすっぱくして俺に言い聞かせたが、血だ。遺伝だ。俺も中学生のころから筋金入りロック少年だった。バンドを結成するまでにはならなかったのだが、CDを聴き漁り、ひとりで歌っていた。東京の大学に行きたいと切望するようになったのは、ド田舎の若者としてはありふれている。ここは遺伝ではないはずだ。
「龍まで東京に行くの? 兄ちゃんの轍を踏むんじゃないだろうね。お父さん、どうしよう?」
「中退はしないと約束するか」
「ちゃんと卒業するよ」
 入学もしてないのに卒業の約束を親父にさせられて、東京の大学を受験した。晴れて大学に合格したら兄貴に会いにいって驚かせてやろうとの目論みは大失敗に終わり、受けた大学のことごとくに蹴られて、それでも東京に行きたくて兄貴を頼って上京した。兄貴のアパートで待ち伏せていた俺を見上げて、兄貴は言った。
「誰だ、おまえは」
 そばにいた乾さんのほうが、いち早く察した。
「でかいけど章に似てる。龍くんじゃないのか」
「龍? ほんとだ。いつの間にこんなに背が伸びたんだよっ。くそーっ」
 あとから紹介してもらった三沢さんは言った。
「章よりはるかに背が高いんだな。乾さんくらいあるじゃん。弟だとこういう可能性があるわけね。俺は妹でよかったよ」
「三沢さんって妹がいるの? いくつ?」
「既婚子持ちの二十九歳と、既婚子供なしの二十七歳だよ。それでもよかったら紹介するよ。あいつらの結婚式では、ヤクザな稼業の兄貴は引っ込んでろって、プロシンガーの俺に歌わせなかったんだぜ」
「おまえの妹たちの話はいいから。知ってるだろうけど彼は三沢幸生、続いて本庄繁之、本橋真次郎。以後、よろしく」
 乾さんがあとのふたりを紹介してくれて、本庄さんが言った。
「俺の姉は独身だよ。紹介してやろうか」
「いらない。乾さんは?」
「俺はひとりっ子だ」
「本橋さんには妹はいないの?」
「俺は兄貴がふたりだ。章と龍ほどの年齢差はないけど、七つ年上の双生児兄貴たちだよ。おまえは女を紹介してもらうなんて言ってる立場じゃないだろ。勉強しろ」
 のっけからがつんとやられたのだが、本橋さんはアパートの手配もしてくれた。乾さんも本橋さんも本庄さんも三沢さんも、俺の面倒を見てくれた。
 兄貴はアパートの敷金を払ってくれて、俺もひとり暮らしになった。兄貴は今でも俺を迷惑がっているが、メシをおごってくれたりはする。そして、一浪の末にようやく桜が咲いた。
 今回もほうぼうの大学を受けたのだが、なぜだか兄貴たちの母校の医学部寄生虫学科にひっかかった。まさか加藤先生が手を回してくれたのではないだろう。それでは裏口入学ではないか。オープンキャンパスの日の加藤先生や徳永渉についての話は、兄貴たちにはしていない。徳永さんがおかしなそぶりを見せていたからだ。
 ひとまず大学にもぐり込むのが先決で、サークル活動までは気持ちが向いていなかったのだが、三沢さんの言う通りだろう。サークル活動をしなければ、学生生活の楽しさが減る。これからは東京の大学生としてエンジョイするんだから、楽しいことなら大歓迎だ。
 ロック同好会はやめろと兄貴は言っていた。なぜだかは知らないが、兄貴が嫌っているサークルは俺も避けたい。小学校に入るころにいなくなった兄貴だっていうのに、俺ってあいつの影響モロ受けだよな、と考えつつ、キャンパスを歩いていたら、別棟にある建物に目が留まった。ここがフォレストシンガーズ全員、加えて徳永渉も所属していた合唱部か。
「ちわっす。誰か……」
「入部希望? お名前は?」
 美人のお姉さんが迎えてくれた。
「入部希望でもないっつうか……木村龍」
「木村くんね。私は合唱部新キャプテンのひゅうがふさこです。彼は副キャプテンのつくもまさよし。つくもくん、入部書類を持ってきて」
「木村くん、仲良くやろうね」
 ひゅうがふさこ、頭のよさそうな名前だ。つくもまさよし、変わった名前だ。ひゅうが、つくもってどんな字を書くんだろう、と思っていると、お姉さんが言った。
「名刺を作ったの。ふたりともわりあいむずかしい名前だから。どうぞ」
 渡された二枚の名刺には、大学名と、合唱部主将、日向房子、合唱部副主将、九十九正義、と刷られていた。なかなかいかめしい。
 えーだのあーだの言っているうちに書類を書かされてしまって、合唱部に入部した。歌は好きだし、フォレストシンガーズの出身母体だっていうんだから、ま、いっか、だった。兄貴たちに会う機会もないままに日がすぎて、部室で新入生歓迎パーティが開催された。
「未成年も多いし、お酒なんて流行らないから今日はソフトドリンクで乾杯しましょうね。みなさーん、今後ともどうぞよろしくね。乾杯」
 綺麗な声で言った日向さんがグラスを掲げ、かなりの数がいる部員たちも乾杯した。合唱部は昔から大人数だったのだそうだ。
 あんまり売れていないとはいえ、フォレストシンガーズもここの出身だし、徳永渉、金子将一というプロの歌手もここから出ている。その前の先輩たちにも音楽の方面でプロになった人がいたのだそうだし、去年のキャプテンだったマルセラ・ユーフェミナという女性もいる。
「マルセラって国籍不明の名前だけど、東欧と中東の混血で、エキゾチックな美人だよな」
「マルセラってここの出身なんだ。知らなかった」
「あたしは知ってたよ。マルセラに憧れて合唱部に入ったんやもん」
「きみさぁ、顔を考えたら?」
「なんやて? もういっぺん言うてみ」
「まあまあ、入部早々もめるのはやめよし」
 男女入り乱れ、方言も入り乱れ、どこのものとも判断つかないなまりやら、高い声やら低い声やらが入り乱れている。誰が先輩で誰が同年なのかもわからないでいると、話しかけてきた男がいた。
「昔は合唱部って男女が別々だったんだって。そんなのなんの意味があるんだろって思ってたんだよな。いつの間にか合併されたっていうの? 女の子もいっしょのほうが楽しいじゃん。な?」
「そりゃそうだ。一年?」
「うん、一年の三沢雄心」
 ゆうしんか。かっこいい名前だ。三沢は木村同様ありふれているので、気にせずに俺も自己紹介した。
「木村龍。俺も一年だよ」
「りゅう? かっこいい名前だね」
「普通だろ。雄心のほうがかっこいいよ。どこの出身?」
「家は神奈川県横浜市。きみは?」
「北海道は稚内」
 神奈川まで三沢さんと同じだ。まさかなぁ、と考えていると、日向さんも話しかけてきた。
「十二年か十三年前かな。私たちが小学生だったころに、同じような光景があったのかしら。私ももちろん見てはいないんだけど、デ・ジャ・ヴュめいた感覚が起きる。三沢くんって三沢幸生さんとなにか関係あるの?」
「幸生は僕のいとこです」
「ほんと? 木村くんは木村章さんと……ないよねぇ。ないって言って」
「章は俺の兄貴」
 いつかは知れるだろうから正直に言うと、日向さんは額を押さえた。
「嘘。夢見てるみたい。冗談だったら承知しないからね。三沢くん、本当?」
「本当ですよ。三沢幸生の父は僕の父の兄です」
「木村章はまちがいなく俺の実の兄貴だよ」
「日向さん、どうしたんですか?」
 雄心が問いかけ、日向さんはぽわんとした表情になった。
「あの伝説のフォレストシンガーズの……五人、一説によると最初は六人、七人とも噂されてる。メンバーチェンジもあったんだそうだけど、いずれにしてもそのすべてが我が合唱部の出身なのよ。先輩方にはプロのミュージシャンは何人かいらっしゃるけど、五人も六人も七人もってフォレストシンガーズしかいないじゃないの。一挙にプロになったなんて」
 たいして売れてないけど、と雄心と俺は同時に呟き、日向さんは聞こえてもいない様子で続けた。
「私も合唱部に入って三年、いくつもの伝説を聞いた。一年生には知らないひともいるでしょ? 聞きたい?」
 聞きたーい、と周囲の一年生たちが言い、俺も興味があったので、雄心とともにその声に仲間入りした。
 

2

 感慨深げとでもいえばいいのか、合唱部に入ったという俺の報告を聞いて、本橋さんがしみじみと言った。
「男子部女子部が合併されて、女の子がキャプテンか。時は流れたんだな。なぁ、乾?」
「酒は流行らないってのも今どきか。昔は未成年でも隠れて飲んでたけど、最近は未成年の飲酒喫煙にはきびしいもんな。シゲ、感想は?」
「時代の変遷ですね。幸生、おまえはなにも言わなくていいぞ」
 言わなくていいといわれても、三沢さんは言った。
「やーね、三人ともおじいさんみたいに。いいなぁ、女の子もいっしょか。俺ももう一度若返って合唱部に入りたいよ。昔ほど体育会体質じゃなくなってるんじゃないの? 封建的でもなくなってるよな。女子部は昔から和気藹々してたもん。章、おまえはなんにも言わないのか」
「おまえにいとこがいて、そいつがあの大学に入学して、合唱部に入ったって知らなかったけど?」
「俺もはじめて知ったよ。雄心っていとこは知ってるけど、龍と同い年だぞ。ちがう。龍は浪人してるから龍より年下だ。十三歳も年下のいとことなんか交友関係はないっての。いとこったって男じゃん。遊んでやった記憶くらいはあるかな。んんとんんと……そうそう、高校のときにミコさんがさ……あれ、雄心の家だよ」
「ミコさんって誰だっけ」
「シゲさんの結婚式にも来てたミコさんだよ。それはおまえにはなーんも関係ねえの。俺の美しい想い出を章に汚されたくないから言わない。雄心なんて男なんだからさ、そんなのと遊んだってつまんねえじゃん」
「ガキでも女の子がいいんだもんな。幸生のロリコン」
「ロリコンじゃないっての。男としては女が好きなのは……」
「若者の前だ。章も幸生も口を慎め」
 乾さんに言われて、兄貴も三沢さんも黙ったので俺は言った。
「キャプテンの日向さんから聞いたんだ。本橋・乾伝説っていうのが合唱部にはあるんだって」
 曰く、合唱部OGの女性が赤ん坊を抱いて遊びにきた。赤ん坊が突然泣き出し、なにをどうしても止まらない。そこへあらわれた本橋と乾が子守唄を歌うと、赤ん坊はおとなしくなってぐっすり眠った。
 曰く、巨大な猛犬がキャンパスに出現した。狂犬ではなかろうかと恐れた学生たちは、遠巻きにして眺めているしかなかった。そこへあらわれた本橋と乾が、犬にラヴバラードを歌って聴かせた。犬は牙を剥いて唸っていたのをやめ、ころんと仰向けになって腹を見せた。
乾が悠然と犬に近づいていき、犬の頭を撫でながら言った。誰かこいつを引き取ってくれない? 腹をすかしてるみたいだけど狂犬なんかじゃないよ、と。すると女子学生たちが我勝ちに、あたしがあたしが、と申し出た。
 曰く、キャンパスで男子学生ふたりが大喧嘩をしていた。そこにあらわれた本橋がふたりに割って入り、やめろ、落ち着け、と諌めて乾とデュエットした。男子学生たちもすっかりおとなしくなり、喧嘩はやめてふたりの歌に聴き入っていた。
 エトセトラエトセトラ、他にもいろいろあるらしいよ、と日向さんは笑った。三沢さんにも伝説があるけど、本庄さんのは聞かなかった、とも言った。
「伝説だから真偽のほどは定かじゃないんだけどね。その本橋さんと乾さんと、合唱部の後輩の本庄さんと三沢さんと木村さんが、フォレストシンガーズのメンバーだよね。木村さんは大学は中退したらしいけど、あとから仲間になったんだね。デビューしたのは十年近く前で、長らく売れなかったみたいだけど、最近になって売れてきてるの。たいして売れてないだなんて、そんなことはありません。私はフォレストシンガーズに憧れて合唱部に入ったのよ」
 他の一年生にも聞かせるつもりらしく、日向さんは続けて言った。
「三沢さんの伝説はこんなのだよ。真夜中に部室で誰かが歌の練習をしていたら、時ならぬ小鳥の大合唱が聞こえてきた。こんな時間に? って訝しんでいたら、三沢さんがひとりで声を変化させて、小鳥の合唱をやってたんだって。三沢さんの声ってまさに小鳥の囀りじゃない? 「森の喧騒と静寂」っていう、うちの部のテーマソングみたいのがあるの。作曲は大先輩がなさったんだけど、三沢さんが一年生のときに主役をつとめて、その合唱の大曲を大成功させた。キミたちも歌えるように努力してね」
 男声では困難な歌を、三沢さんならば立派にこなせた。あれからは「森の喧騒と静寂」はやっていない、なぜなら小鳥の歌声や花々の囁きや、女性のセレナーデを歌える男子はいなかったからだ、男声ではむずかしい歌であるにも関わらず、この曲は男声合唱のために作られている。
 熱っぽく日向さんは語り、今のところはうちの男子にはこの歌がこなせる者はいない。一年生にはいるかな? とみんなを見回した。雄心も俺も声は高くもないので、無理な気がする。
「本橋さんと乾さんと三沢さんの、大学での伝説ってのを聞いたんだ。本当?」
 三つばかり聞いた本橋、乾のエピソードを話すと、本橋さんと乾さんは苦笑し、乾さんが言った。
「真偽のほどは定かじゃないどころか、眉つばものどころか、そんなの嘘っぱちだよ。俺たちはそんな経験をした覚えはない。本橋が男の喧嘩を止めるんだったら歌ってなんかじゃなくて……」
「腕力で割って入って、止まらなかったらリーダーも喧嘩に参加する。でしょ、リーダー?」
「幸生……てめえはなあ……俺はそんなことはしないと、何度言ったらわかるんだ」
「ほら、もう怒ってるじゃん。ま、それは過去の話ね。現在ではリーダーは分別のある社会人です。でもさ、俺さ……」
 くっくとひとりで笑って、三沢さんは続けた。
「まっとうな社会人やってるリーダーを見ると、若かりし日の本橋真次郎さんを思い出して、吹き出しそうになったりもするんだよ。真面目な顔してファンのみなさまにご挨拶してるリーダーに、若き日のリーダーがオーバーラップして見える。あの本橋さんがこうなったのかぁ、ってさ」
「おまえに言われたくねえんだよ」
「そうでしたね。でもさ、でも……」
 少年っぼい三沢さんの声では、本橋さんのもの真似は無理があるのだが、語調はそっくりに彼は言った。
「腹が減ってるんだよ、俺にも食わせろ、ちぇっちぇっ、いいよいいよ、そんならすねるから……と言ってすねてたリーダーの十年のちの台詞」
 いつ俺がすねたんだ、と言っている本橋さんを無視して、三沢さんは語調を変えた。
「みなさまこんばんは、フォレストシンガーズの本橋真次郎です。今宵はみなさまとともに、ひとときを楽しんで参りましょう。えー、僕たちのニューアルバムが世に出ました……きゃあ、僕なんて言ってるのはだあれ?」
「その程度は昔からやってたってんだよ」
「そうなんだけど、乾さんだったら僕は……なんて言って、澄ましてても似合ってるから違和感ないんですけど、リーダーは違和感ありまくりなんだよね。俺たちはリーダーの本性を知り尽くしてるから」
「俺の本性ってのはなんだ。ひとことで言ってみろ」
「ひとことで言えるほど単純なお方じゃありませんから」
「なにをほざいてやがる。単純鈍感……幸生、いい加減にしろ。龍が聞いてるんだぞ」
「聞かせてあげましょうよ」
「やめろ」
 そおお? と言ってから、三沢さんは俺を見た。
「シゲさんには伝説がないって? 俺にはあるって? どんな?」
「こうだよ」
 一年で中退した兄貴には伝説はなくて当然だろう。本庄のシゲさんは地味だから、学生時代から地味だったのだろう。兄貴が口をはさんだ。
「あのころは男子部、女子部が分かれてたってのに、三沢幸生は女子部にどっかり居座って、当たるを幸い女の子をナンパして、ぜーんぶ撃沈して、そのうち女子部には入部希望者がいなくなった。危険な生き物がいるからだって噂になって、こりゃやばいってんで、女子部と男子部が合併したんだ。そうだろ、龍?」
「俺って危険な生き物? デンジャラスビースト? おー、いいかも」
「懲りない奴だと言うのも飽きたよ。ま、幸生のせいで合併したんだったら、男どもは感謝してるだろ。龍、そういう感じの伝説じゃなかったのか」
「それだったら男子部は廃部になるんじゃないのか?」
「シゲさん、浅い」
「幸生、おまえなぁ。それがおまえの台詞か。浅薄軽佻浮薄が」
 まあまあ、シゲも抑えて、と乾さんが止め、俺は言った。 
「そうじゃなくてね」
 小鳥の歌声、「森の喧騒と静寂」の話をすると、乾さんが言った。
「あのときは主役のかたわれは章だったんだよ。章も伝説の一環なんじゃないか」
「俺はみそっかすですよ」
「みそっかすは俺だよ。いいんだけどさ」
 本庄シゲさんがぼやき、兄貴は黙り、俺は尋ねた。
「フォレストシンガーズって最初は六人か七人いたの?」
 返事は三沢さんがしてくれた。
「ヒデさんだよ。神戸の電気技術者」
「ヒデさんって、俺は知らないよ」
「そのうち紹介してやるよ。うちのアルバムをよーく見てごらん。作曲hideってのがある。あれが小笠原英彦。本名は出してほしくないんだってさ」
「ふーん」
「候補の中にはもうひとりいた」
 本橋さんも言った。
「そいつはソロシンガーになった。俺の……なんつうのかな、嫌いっていうのとはちがうんだけど、乾、なんていうんだ?」
「相手にとって不足のない、力量、技能、歌唱力、表現力。歌を歌う上でのありとあらゆる能力で張り合える相手。彼がいるからこそ我も磨かれる。龍、それをなんという?」
「むずかしく言わなくても、ライバルだろ」
 徳永さんか、と気づいたのだが、言うのはもっと先にしようと決めていたら、乾さんは言った。
「章は敬語も使えるけど、おまえの言葉遣いはなっちゃいないな。昔の合唱部だったら先輩たちがびしびしやってくれたんだろうけど、今どきの若者はそういうことは言わないか。先輩にも丁寧語は使わないのか」
「どうだろ。まだよくわかんないよ」
「おまえは?」
「遣ってないよ」
「先輩は叱らないのか」
「先輩もよく知らないんだけど、副キャプテンの九十九さんは優しいよ。いつもにこにこしてる。敬語だの丁寧語だのってうるさい先輩がいたら、そんなところにいられやしないよ。丁寧語と敬語ってどうちがうの?」
「章、弟に教えろ」
「乾さんにお願いしますよ」
 兄貴の義務だろ、知りません、と乾さんと兄貴はもめている。そういえばフォレストシンガーズも、後輩と先輩のけじめは歴然としている。特に本庄シゲさんは、本橋さんや乾さんには敬意を払い、三沢さんや兄貴には口調が荒くなる。俺は後輩の弟としてさらに一段下とみなされている。
 本橋さんと乾さんは最年長なので、みんなに対してえらそうにしている。俺にも説教するし、時にはぼかっとやる。兄貴は三沢さん以外にはへりくだっていると見えなくもなく、その分、俺にはえらそうきわまりない。三沢さんは本橋さんやシゲさんにはずけずけものを言うが、なぜだか乾さんには腰が引けている。俺はやはり友達の弟扱いされている。
 いつもいっしょにいるのでもないし、東京に出てきてからのつきあいなので、俺は彼らをよく知っているわけではない。一年間の観察で見えたのはその程度だ。
 彼らは十歳以上も年の差のある三十代なのだから、十九の俺とは世代がちがうのだと思っていた。とにかく、丁寧に喋るってのは面倒くさい。文章になら書けても、口に出すとこんがらがってくるのだから。
「ところで、龍」
 改まってるなんなのかと思ったら、三沢さんが言った。
「日向さんって美人?」
「すっげえ美人」
「マルセラよりも?」
「マルセラ・ユーフェミナは知ってるの? 紹介して」
「マルセラじゃなくて日向さんだよ」
「マルセラってハーフだろ。日向さんは日本人だし、名前も古風で見た目も古風な和風美人かな」
「乾さんのお母さんみたいな女性か。紹介しろよ」
「……三沢さんのナンパ伝説もあるのかな、って日向さんに訊いていい?」
 やめろ、と三沢さんは言い、おまえらって精神年齢同じ、と兄貴は言い、おまえもだろ、とシゲさんに言われていた。


 ガキのころから交友関係はなかったと三沢さんが言ったのは本当だったようで、雄心も言った。
「年が離れすぎてるもんな。俺はひとりっ子で、家はわりと近かったんだけど、幸生兄ちゃんに遊んでもらった記憶はないよ。俺が幼稚園のときには湘南に住んでて、そのころは遊びにきてたみたいだけど、俺はよく覚えてないんだ。俺が小学生のときにむこうは大学生だもん。両親が幸生兄ちゃんの話はしてたから、デビューしたんだって、売れないんだって、なんて話は聞いてたけど、そのくらいだよ」
「俺もおんなじだ。両親が兄貴の話をしてたから知ってるけど、会うこともない兄貴だったんだよ。十年ぶり以上で会ったのが去年だろ。こいつはこんなにちびだったのかとびっくりした」
「幸生兄ちゃんもちびだよな」
 そんな話をしながら歩いている雄心はちびではない。シゲさんくらいの身長だろう。中肉中背だ。俺は決してちびではない。もっと高くてもいいし、細すぎるけど、乾さんくらいは身長がある。おまえのほうが脚が長いな、と乾さんは言っていた。
「だけど、龍はフォレストシンガーズと会ったりするんだろ」
「会うよ。連れてってやろうか」
「いやがられない?」
「女の子だったら嬉しいのに、って三沢さんが言いそうだけど」
「幸生兄ちゃんってそんな奴?」
「そんな奴だよ」
 三沢、木村では兄貴たちと混同しそうだからか、自然に、龍、雄心と呼び合うようになっていた。ケータイで兄貴に電話をすると、夜だったら来てもいいぞ、幸生も呼んでおくよ、といやそうに返事をしていた。
「夏合宿はあるのか」
 兄貴のマンションを訪ねると三沢さんも来ていて、挨拶もそこそこに、年下のくせにでかい奴ら、とがっくりしてみせてから言った。
「なにかと様変わりしてるみたいだけど、変わってない点もあるんだろ。合宿がないなんて言わないよな」
「あるみたいだよ」
 俺が答えると、雄心も言った。
「合宿では歌の特訓なんですってね。キャプテンは「森の喧騒と静寂」の主役を張れる一年生を探してました。今年のコンサートではその曲をやりたいんだそうです。そしたら……」
「コンサートもやるんだな。いたのか」
「錦戸ミツルっていうんです。カタカナのミツルだって。幸生さん……でいいですか」
「いいよ。そのミツルがハイテナー?」
「雄心くんには期待してたんだけど、キミはバリトンだね、ってキャプテンは言ってました。僕は幸生さんと較べられても……ねえ。ただのいとこなんだから。でも、ミツルがいたんですよ。これは久々の人材だって、先輩たちは嬉しそうでした」
「見出されたか。章、覚えてるか」
 まあな、と兄貴は言い、三沢さんは言った。
「おまえたちは悔しくないのか、ってさ、徳永さんにも言ってた。俺たち以外の一年生にも言ってたよ。そういう変な先輩もいたよな。これは伝説じゃなくて実話なんだけど、龍には話したか、章?」
「本橋さんと乾さんの? 話してないよ。日向キャプテンには聞いた?」
 どんな話? と俺が問い返すと、三沢さんが話してくれた。
「本橋さんと乾さんは彼らが一年生当時のキャプテンに見出されて、生来の才能を花開かせたんだ。それから二年後、章と俺も当時のキャプテンに見出された。その後はそういう逸話は聞いてないけど、合唱部には数年置きに逸材が入部してくるんだよ。シゲさんやヒデさんは狭間世代で、実際それほどでもなかったらしいんだけど、本橋さんや乾さんの年には徳永さんもいた。本橋さんたちの二年上の先輩で、キャプテンだった時期もある金子さんも秀逸なる人材だった。それが証拠にプロにもなった。俺たちより金子さんはずっと売れてる。隔年なのかな。本橋さんたちの年には三人もいたから、シゲさんたちの年は落ち着いたのかもしれない。それより以前は俺も知らないし、俺が卒業してからも知らないけど、久々の人材だって言うんだからそうなんだろうさ。龍、雄心、悔しいか?」
 別に、とそろって答えると、兄貴が言った。
「今どきの若い奴は醒めてるんだよ」
「俺たちは今どきじゃないのか」
「三十すぎたら若くねえっての」
「独身だから若いんだよ」
「独身だったらいくつでも若いのか。六十でもか」
「心は青春だろ」
 ださっ、と兄貴は言い、青春なんて死語だろ、と俺も思っていると、三沢さんは言った。
「きみたちとは別種の若さを持ってるんだよ、俺たちは」
「言い換えればガキっぽい」
「章、その通り。おまえはうるせえの。黙って聞け」
「おまえに言われたくねえんだよ」
 漫才みたいだなぁ、と雄心が笑い、三沢さんは言った。
「土佐弁やら大阪弁やらの先輩がいたから、異種方言漫才コンビを組みたかったんだよ、俺。ヒデユキとかさ。また脱線するから話を戻そう。章、なんの話しだった?」
「なんの話しか忘れたよ。おまえが毎度毎度の軌道ずれをするからだ」
「ミツルってどんな奴?」
 あまり話はしていないのだが、金髪にしていて合唱部では異彩を放っている。ひょろっと背の高い身体をしていて、細長い首から高い声を発する。話していても女みたいな声をしているのだ。
「三沢さんとも兄ちゃんともちがったハイトーンだよ。キャプテンは張り切ってるんだけど、本人は白けてないか、雄心?」
「そうも見えるよな」
「そうなのか。そこらへんも若者は変わってきてるんだな」
 酒も飲まないんだろ、と兄貴は言い、飲ましたら駄目だよ、保護者が、と三沢さんは言った。
「ちょっと飲みたいけどな、俺。雄心は?」
「俺も飲みたい。保護者がいるんだからいいでしょ?」
「保護者がいるからこそ駄目なんだよ。俺たちも共犯で逮捕されるじゃん。けど、ま、いっか、章、酒持ってこい」
「命令すんな」
 これでこそ若者たちの宴だね、と三沢さんは満足そうに笑い、ちびちび酒を飲みながら昔の合唱部や現在の合唱部の話をした。昔の若者は歌に燃えていたんだとの話を聞かされて、数日後に合唱部に行くと、ミツルがぼけっとすわっていた。
「俺、合唱部やめようかな」
「なんで? 抜擢っつうんだろ。キャプテンに合唱の主役やれって言われたんだろ」
「だからだよ。うぜえよ。俺は自分の声が嫌いなのに」
 うぜえと言われれば気持ちもわかる。俺は主役なんかやらされなくてよかった、とも思う。楽しむために入ったサークルで、がむしゃらにならなくてはいけない状況に追い込まれたら、俺もやめたくなりそうだ。ミツルに言う言葉が見つからなくて外に出ると、徳永さんと加藤先生がベンチにいるのが見えた。
 なんでも加藤先生と徳永さんは、学部も別々、サークルも別々なのに親友だったのだそうだ。教養課程なので加藤先生の講義はまだ受けていないのだが、時おり会話をしてそんな話も聞いていた。去年の夏休みにも徳永さんが加藤先生に会いにきていて、俺はそこに居合わせた。今日もそうであるらしい。加藤先生に手招きされて近づいていくと、徳永さんが言った。
「合唱部に入ったんだって? カエルの弟はカエルなんだな。悪い意味じゃないんだぜ」
「悪い意味もいい意味も、意味不明だよ。カエルの弟は中退すんのか」
「したかったらしたらいいだろ。大学はつまらないのか」
「まだなんにもわからないよ。合唱部もわかんねえ。兄貴の先輩たちって面倒見がいいってのかな、それだけに口やかましいけど、時々は会うんだ。徳永さんの名前も出てくるよ。徳永さんに会ったって言ってないんだけど、あんたらってどういう関係?」
 乾さんも言ったように、徳永さんも言った。
「ライバル以外のなにものでもない」
「徳永さんのほうが売れてるじゃん。ライバルってのも俺にはよくわかんないよ」
 伝説といえば金子さんや徳永さんのは? と質問したら、九十九さんが教えてくれた。
「金子さんには総勢数百名っていう女性のみのファンクラブがあったと聞いたよ。金子さんが卒業したときには、ファンクラブの解散式で女性たちが泣いて泣いて、窓ガラスが曇っていたと。ふーちゃんはフォレストシンガーズの本庄さんファンだから、金子さんよりも本庄さんのほうがかっこいいって言うんだけど、変わった趣味だね」
「まったくだ」
「龍は本庄さんを実際に知ってるんだけど、ふーちゃんには言うなよ。怒るぞ」
 ふーちゃんとは日向房子さん、キャプテンである。合唱部では男子も女子も、名前や愛称で呼ばれる場合が多い。美人が怒るとなおさら綺麗かな、怖いかな、と思っていると、九十九さんが言った。
「徳永さんはバイセクシャルだって……どうなんだろ。失礼な伝説だよな。男子でも女子でも両方にもてもてで、恋人がいっぱいいたと。徳永さんってハスキーヴォイスだろ。男までがあの声とルックスにころっといかれる。たしかにいい声だけど、僕は男のいい声にはいかれないよ」
「俺も。ふーちゃん、じゃねえや。日向さんの綺麗な声にならくらくらっとするけど」
「僕もだよ」
「九十九さんって日向さんにラヴラヴ?」
「どうでもいいだろ」
 自分で自分の声を嫌いだと言っていたミツルを思い出して、ミツルの話をしてみた。徳永さんってバイセクシャル? と面と向かって尋ねるほどには、俺も無作法ではない。
「うぜえってか? 自分の声が嫌いか。だったらなんだって合唱をやろうって気になったんだ。なにごとであれ、その場所でナンバーワンになるってのは最高じゃないのか。おまえたちはそうは思わないのか」
「思う奴もいるだろうけど、ナンバーワンよりオンリーワン?」
「タイガー、こいつ、殴っていいか」
「どうして僕に尋ねるんですか。殴ってはいけません。オンリーワンもよい言葉ですよ」
「けっけっけっのけっけっけっだよ。もひとつおまけにけけけのけーっだ」
「……徳永さん、どうしたの?」
 むつっと徳永さんは黙り込み、加藤先生が言った。
「渉の主義には反する言葉でしょうね。我々の世代も若い者は熱意が足りないといわれていました。それでも、龍くんの年頃の若者よりはホットだったのでしょうね。本橋さんと渉はその双璧ですよ。乾さんもそうだったかな」
「本庄も小笠原も木村も三沢も、金子さんだって燃えてた。でなけりゃ不遇な時代を、石にかじりついて乗り越えてこられたわけねえだろ。口の中に石ころを詰め込まれて喘いでたんだぞ。息苦しくて……いいよ、そんな話は。ジェネレーションギャップだって言い捨てたらそれまでだけど、ミツルって奴に言っとけ。さっさとやめちまえってな」
「なんで徳永さんが怒るの? ミツルを連れてこようか」
「連れてくるな。暴力に訴えたくなるよ。本橋もそうだろうな。乾もあり得る。本庄でもかな」
「小笠原ヒデって知ってるの?」
 さきほど、徳永さんの口からも、小笠原という名前が出た。
「小笠原英彦。あいつもな……俺が言うことじゃないから言わないよ。兄貴に聞け」
「なんか時々わけわかんねえ」
「わからなくていいんだけど、てめえの頭でよくよく考えろ。龍、オンリーワンだなんて二度と言うなよ。ある程度達観して言うってのか、人によっては言ってもいいのかもしれないが、少なくとも俺はその言葉は大嫌いだ。虫唾が走る」
「そっかなぁ。いい言葉……嫌いだったら言わないけど、徳永さんってメッチャ好き嫌い激しくない?」
 はい、正解、と加藤先生は微笑み、徳永さんはまたまた黙りこくって、足元の小石を蹴飛ばしていた。
 
 
3

 わかんねえことだらけだよ、とため息をつきたくなる。胸のうちにしまっておくには重たい気もして、乾さんのマンションを訪ねた。乾さんはフォレストシンガーズの中では年長だ。東京に来て兄貴と同時に会ったのが乾さんだったのもあり、本橋さんとシゲさんは結婚しているので行きづらいのもあり、乾さんに話すのがいいかと考えたのだった。
「そうか、徳永に会ったんだ。寄生虫学科の加藤先生ってのも俺たちと同年? ああ、タイガーだ。思い出したよ」
「知ってるの?」
「知ってるってほどでもないけど、まあ、その話はまたの機会にしよう」
「加藤先生は本橋さんも乾さんも知ってたよ。フォレストシンガーズってそんなに有名?」
「有名でもないけど、知ってるひとは知ってるだろ。徳永もそんなに有名でもない。金子さんにしてもさほどでもない。あまりテレビに出ないから関心のないひとには知られてないんだ。合唱部では知られてるようだけど、後輩たちは俺たちに関心を持ってくれてるからだろ」
「そうなんだね。なにから話せばいいのかな。話してどうなるものでもないのかもしれないけど、徳永さんってわけわかんねえんだよね。オンリーワンって言ったらいきなり怒り出すし」
「オンリーワンね」
 いいか? とことわってから、乾さんは煙草に火をつけた。
「オンリーワンじゃなくてナンバーワンになってこそ、だろ?」
「乾さんもそう思う?」
「オンリーワンなんて当然じゃないか。たとえばこの煙草」
「煙草?」
「この煙草にしてみたところで、この煙草というものはたったの一本しかない。ここにも煙草はあるけど、この煙草とこの煙草は別のものだ。ゆえにこの煙草も一本一本がオンリーワンだ」
「……乾さん、よけいにわけわかんないよ」
「人間も同じ。オンリーワンで満足するな。たとえかなわぬ望みでも、人はナンバーワンを、はるかなる高みを目指して飛翔し続けてこそだ。でないと人類には進歩も発展もないんだ。個々人がそうやって努力しないと、人類は退化していくんだよ」
「……頭が痛くなってきたよぉ」
「とまあ、徳永もそういうことを言いたかったんだろ」
 全然わからないので、俺は髪をかきむしった。
「禿げるぞ。髪は大切にしろよ」
「それだったら意味わかるけど、俺、なにを言いたかったんだろ……そうだ、徳永さんと乾さんたちはどういう関係?」
「簡潔に言えば、大学合唱部時代からのライバルだ」
「それは知ってる。徳永さんもそう言ってたよ。ライバルってなに?」
「競い合う相手だよ。俺は学生時代はそうは考えてなかったな。ライバルというよりもともに合唱部を運営していく、仲間だと思っていた。徳永の心の底の底は読めないし、あいつは言葉を操るのが得意だった。それも不確かなのかもしれないけど、あいつが俺たちに喧嘩腰でものを言っているときに、時としてちらりと愉快、痛快って色が目をよぎるんだ。俺の言葉の裏が読めないのか、おまえも底が浅いな、と言われている感じがした」
 話がずれてる。俺は根本的に「ライバル」が理解できないのに。
「乾さん……やめて。わかんねえ、わかんねえよ」
「金子さんも徳永に似たところがあったよ。彼は二年先輩だから、見た目が派手な男だから、幻惑されるんだな。金子さんはものごとを軽くうっちゃっているように見えて、その実、冷徹なる観察力と深遠なる洞察力を用いては、相手の出方次第で変幻自在に身をひるがえす。分身の術を使うんだ」
 やめてくれぇ、と唸っているってのに、乾さんはかまわず言った。
「金子さんにも徳永にも会う機会はなくもないんだよ。金子さんは真摯に俺に対峙してくれる。真摯でもないのかもしれないが、突き詰めるとわからなくなる。対して、徳永は昔と変わらず喧嘩腰だ。俺が今の台詞のようなことを考えたのは学生時代で、現在では会う機会は頻繁ではない。俺の若さゆえの浅知恵だったのかもしれないんだ。金子さんも快刀乱麻とはいかないだろうけど、いくらかは……うん、徳永にははねつけられるに決まってるけど、金子さんだったら……」
 あいかわらずさっぱりわからなかったのだが、乾さんはどこかに電話をかけてから言った。
「金子さんはひとりで飲んでたんだそうだよ。俺が行くって言ったんだけど、来てくれるってさ」
「金子さんが来たらなにが……?」
「いくつかの疑問は氷解するよ。おまえのも俺のも」
 さして有名ではないにしても、金子将一もプロの歌手なのだから、名前も顔も知っている。出会う前から徳永さんも知っていた。だが、俺の好きな歌手ってのは若い女の子で、三十代の男の歌手には興味が薄い。
 歌手としてではない金子将一って……冷徹なるなんとかの深遠なるなんとかの金子さんって……恐れをなして逃げたくなったのだが、俺のほうから来ておいて逃げるのもまずいかと考え直して待っていた。やがて金子さんがやってきて、乾さんと挨拶をかわし合ってから言った。
「木村の弟か。うちの大学の合唱部? 龍くんだね。金子将一です。よろしく」
「はあ、こんばんは」
「龍、きちんと挨拶しろ」
「いいさ。訊きたいことってなんだ?」
「夜分にお呼び立てしまして申しわけありません。その上こいつは礼儀知らずで。あとからきつく言い聞かせておきますので、ご容赦下さい」
 きつくって……こわっ、と首をすくめているうちに、乾さんの質問に金子さんが答えていた。
「加藤大河ってのは徳永の友達だよ。寄生虫学科の准教授になったって話も聞いてる。乾も知ってるんだよな。徳永がいまだに親しくしてる学生時代の友人は加藤ひとりだろ。俺も紹介されたことがある。ロンドン生まれの気のいい男だ」
 横から俺も言った。
「ああ、それで加藤先生って、日本語が変なんだ」
「変か?」
「あれは敬語? 加藤先生は徳永さんにも学生にも敬語で喋るよ」
「龍、おまえも金子さんには敬語を遣え」
「乾さんはうるせえよ。敬語なんか遣ったら喋れない」
 いいよ、と再び言って、金子さんは続けた。
「本橋が加藤の外国育ちと、当時はまじっていた親の郷里のなまりまで言い当てたって、徳永が悔しそうに言ってたのも思い出したよ」
「本橋はたびたび友人の出身地あてをやってましたから、さもありなんですね。徳永には合唱部でもなければ、学部もちがう友人のほうがよかったんでしょう」
「そのようだな。それが訊きたかったのか」
「それもありますけど、率直な話、徳永は本橋や俺をどう見ていたんですか」
「んん?」
 徳永さんの身長は本橋さんと同じくらいだ。乾さんよりは若干高い。ってことは俺よりも若干高い。金子さんはそれ以上に長身で、顔立ちもいちばんか。ファンクラブがあったというのもおおいに納得できる。金子さんはしばらく考えてから言った。
「あいつが俺に正直に話すと思ってんのか。乾も甘いな」
「そうですか。やっぱりでもないんですけど、あの徳永ですからね。金子さんにも手のうちのカードは見せないと」
「見せるはずがないよ。俺もあいつには翻弄されっぱなしだったんだぜ。ここかと思えばまたまたあちら、ふわりふわりと飛び回る蝶々めいたところのある奴だよ。徳永ってのはそんな奴だと知ってるから、今では悩まずにつきあうようになってる。あいつの本質なんかつかもうとするな」
「幸生と同類ですか」
「三沢か。あいつもなぁ……おまえもだし、俺の後輩には難物がそろってるよ」
「俺ごときは難物じゃありませんよ。金子さんのほうがよほど……」
「俺は単細胞だろ」
「本橋に単細胞だと言うと怒りますよ。たまに開き直りますが、その際にも目は怒ってます。人は本当のことを言われると怒ると言いますね。本橋にしても単なる単細胞ではないのですけど、根っこは真面目で単純な男です。俺はあいつのそういうところに惚れてますけど、金子さんが単細胞だとは、そうではないから自ら口にするんですね」
「単なる単細胞ってのはどんなのだ?」
 またまたまたまた、意味がまったくわからなくなってきた。かいとうらんまってなんだろう。怪盗ランマじゃつじつまが合わない。紳士の退治ってのも意味不明。乾さんがさっき言った台詞の一部と、今のこのふたりの会話が頭の中を、蝶々みたいに飛び交っていた。
「かいとうらんまってなに? 頭の中で糸がもつれてきたよ」
「それだ」
「え? それってなに、乾さん?」
「もつれた糸を、正しくは麻だな」
「朝?」
「切れ味鋭い刀が、もつれて乱れた麻糸を断ち切る」
「快い刀、乱れた麻」
 金子さんも言ったが、頭の中の糸がいっそうもつれそうになってきた。
「おまえが横からごちゃごちゃ言うと、俺の頭の中の麻糸ももつれてくるんだ。黙って聞いてろ」
「だって、頭痛いもん」
 頭痛がするから黙っていよう。このひとたちの会話に参加すると、俺は気が遠くなってくる。そう決めたので黙って聞いていると、眠くなってきた。歌うと高い乾さんの声は、静かに話していると低く落ち着いていて耳に心地よい。金子さんの声は歌っていても話していても低い。兄貴と三沢さんの会話よりはずっと気持ちがよくて、まぶたが重くなってきた。
「乾、徳永に言われるぞ。知ってる言葉を全部並べてるって」
「そうかもしれませんね」
 それっきり意識が途切れていった。
「さすがに章の弟だな。寝たら起きないんだ」
 その声に気がついたら、俺は乾さんのベッドで寝ていた。
「蹴飛ばしても起きないから、諦めて寝させておいたんだよ」
「金子さんは?」
「とうに帰ったよ。メシを食っておまえも学校に行け。俺も仕事だ」
 冷徹なるだか深遠なるだかの大人たちの会話をあそこまでしか聞かなくてすんで、乾さんにきつく言い聞かされるのも免れて、兄貴譲りのねぼすけ体質はラッキーだったのかもしれない。乾さんは俺にトーストとコーヒーを出してくれてから、頭をごつんとやった。
「なんで殴るの?」
「言い聞かせるののかわりだよ。行儀の悪い。俺の先輩に対してあの態度はなんだ」
「言ってるじゃん……あ、遅刻しそう。ごちそうさまぁ」
 逃げ足が速いのも兄貴に似てるな、との乾さんの声が追いかけてくる中を、俺はコーヒーを飲み干し、トーストをくわえて部屋から逃げ出したのだった。

 
 ほんの一部分は糸がほどけたようでもある。徳永さんと乾さんたちの関係だとか、金子さんがそこにどう関わってくるのかだとか、どうでもいいといえばどうでもいいので忘れよう。
 胸にしまうには重いと感じたのはなんだった? ミツルか? ミツルとは友達でもないのだから、合唱部をやめたってかまわない。合唱の大曲が歌えなくなったとしても、俺は主役ではないのだからどうってこともない。
 ただ、いろいろな糸がからまってもつれて、ずっしり水を含んで重たくなっていたのだ。快い刀は糸を断ち切ってくれなかったのだけど、大人の世界の深遠さは覗き見た、のかな?
 乾さんと金子さんの受け売りの言い回しを口の中でこねくりつつ、学校に行ったらあのお姉さんがいた。オープンキャンパスの日に寄生虫学科の部屋で、無作法な子ね、と俺を睨んだひとだ。
「木村くんだったね。がんばってる?」
 覚えてくれていたようで、彼女のほうから声をかけてくれた。
「まあまあ」
「まあまあなの? 私は名乗ったかな。島田です。大学院生で、加藤先生のお手伝いもさせてもらってるのよ」
「院生? すげえ」
「すごくないよ。木村くんは十九になったんだよね。私は二十三だから四つ年上。すこしは丁寧に喋ったら? 丁寧に喋らないといけないんだったら、あんたとなんか口をきかなくてもいいよ、って顔してるね?」
「してない、してません。島田先輩は徳永渉のファンなんでしょ?」
「徳永さんはたまに加藤先生を訪ねていらっしゃるから、お話もしたりしているうちにファンになったの。木村くん、授業は? 話だったらお昼にしない?」
 ランチをいっしょにしようと約束して、島田さんと俺はそれぞれの教室に行った。島田……下の名前は知らない。日向房子さんよりは落ちるというか、タイプのちがう美人だろう。日向さんはやや小柄でほっそりした古風な美人、島田さんは長身できびきびした現代的美人だ。外見はちがっても中身は両方ともに、気の強い現代のお姉さんなのだろうとも推測できる。
 四年生の日向さんは二十一か二か。院生の島田さんは二十三だと言っていた。いずれも年上だ。年上の女となんかつきあったことないしなぁ……と気の早い想像が羽ばたいて、講義は聞いてもいなかった。高校だったら先生に怒られるところだが、大学の先生は学生がなにをしていようと気にしていないと見える。
 学食ではなく外の喫茶店で待ち合わせた島田さんは、名前は弓子さんだと教えてくれた。房子も弓子もわりあいレトロな名前で、その手の名前は利口そうに思える。日向さんもかしこそうだし、弓子さんは入学したのは医学部医学科で、外科医志望だったのだと話してくれた。
「ふと寄生虫に興味を覚えて、加藤先生のお話を伺ったのが運のつきだったのかな。外科医よりも寄生虫の権威になるほうがいいかも、なんて思ったの。外科医はどこにでもいるけど、寄生虫学者ってそんなにいないじゃない? 加藤先生のお人柄に惹かれたのもあって、寄生虫学科に変わったのよ。卒業してからも先生のお世話になってる。木村くんも将来は私のあとに続く?」
「大学に入ったばっかりで、将来なんて考えられないよ」
「そうかもしれないね。今は楽しくやるのも大切だよ。ところで、徳永さんがどうかしたの?」
「徳永さんって怖くない?」
 怖いとは正確ではないかとも思う。乾さんに言わせると……と思い出してみても、理解不能な言葉の数々が頭の中を飛び交って整理ができないので、金子さんに言わせると……に切り替えても整理できない。弓子さんは言った。
「怖くなんかないじゃない。気さくな方よ。加藤先生とは学生時代そのまんまの口調で話してらっしゃるし」
「加藤先生の話し方も学生時代そのまんま?」
「徳永さんがおっしゃるには、もっとぎくしゃくしてたんだって。今では日本語がこなれてきてるそうよ。木村くんは加藤先生の出身を知ってるの?」
「ロンドンでしょ」
「知ってるんだね。高校三年のときに日本にいらしたそうなんだけど、ご両親が綺麗な日本語を教えようと心をつくしてらっしゃったのね。徳永さんからは悪い言葉も教わったけど、取捨選択して現在に至ってるんだっておっしゃってた。徳永さんは私には気さくに話して下さるよ。芸能人だなんて思えない」
「別の意味で、俺にも徳永さんが芸能人だとは思えないよ」
 たしか、彼は言葉を操るのが得意だと乾さんは言っていた。弓子さんは女だから態度がちがうのか。
「意味のわかんねえことは言わない?」
「徳永さんが? わかるよ、彼の言葉は」
「俺の頭が悪いせいかな」
「木村くんは頭が悪いんじゃないでしょ。知識不足なだけだよ」
「知識ね」
「教養と知恵と知識、頭の栄養」
「それもむずかしい。乾さんも金子さんもそういうのが頭に詰まってるのかな」
 オープンキャンパスの日に、弓子さんは俺が木村章の弟だと言ったのを聞いていたはずだ。金子さん? と聞き返した。
「金子将一、知ってるでしょ?」
「金子さんとも知り合いなの? そっか、木村くんってフォレストシンガーズの弟分みたいなものなんだね」
「そうともいえるかな。フォレストシンガーズの中では下っ端のうちの兄貴の弟だから、下っ端以下の扱いされてるよ。昨日、乾さんちに遊びにいったんだ。そしたら金子さんも来て、乾さんと金子さんが抽象的な会話をやってた。俺は寝てしまったから途中までしか聞いてないんだけど、むずかしかったよ」
「寝ちゃったの? 私だったら聞いていたかったなぁ」
「聞いてたら頭ががんがんするんだからね」
「乾さんって文学部古典文学学科だったよね。徳永さんは語学部中国語科、金子さんは現代文化学部言語文化学科、お三方ともに言語のエキスパートじゃないの?」
「よく知ってるんだね」
「徳永さんから聞いたの」
「聞いても俺では覚えてられないよ」
 入学してからも学部が多すぎて、どんな学科があるのか全部は知らない。本橋さんや乾さんたちも最初は、寄生虫学科なんてあるのか? と言っていたから、卒業生でも同じなのだろう。我が校には学部数がありすぎる。
「言語文化ってなにやるの? いい、教えてくれてもちんぷんかんぷんだろうから」
「私も専門外だから、よくは知らないよ。金子さんも徳永さんも乾さんも、フォレストシンガーズの他の方々も合唱部だよね。私は合唱部ではないんだけど、友達がいたから聞いたの。こんな伝説があるんだって」
 プロになった卒業生には伝説が流布する。合唱部自体が学校では注目の的なので、部外者の耳にも届くのであるらしい。弓子さんは話してくれた。
「金子さんと乾さんと徳永さんが、あるとき、部室で三人で話していた。それを聞いたのが誰なのかは伝わっていないけど、伝説ってそんなものでしょ? 彼だか彼女だかが耳を澄ましていたら、会話の内容は金子さんの専門の言語学についてだった。徳永さんか乾さんが金子さんに質問したのね」
 言語学の語源は? と尋ねられた金子さんは答えた。
「英語では linguistics、語源は フランス語のlinguistique、さらにさかのぼるとラテン語でlingua、「舌、言葉」の意であり、linguisticsという語は1850年代から使われ始めたという」
 な、なんでそんなにすらすらと言えるの? と俺が目を見張ってるのにもかまわず、弓子さんはすらすらーっと述べ立てた。
「現代言語学の目的は、ヒトの言語、言葉を客観的に記述することだとされている。記述的とは、現に存在する言語の持つ法則や性質を言語データの観察を通して記述するということである。物理学者がリンゴがなぜそのように落下するのかを考えるように、言語学者は言語がなぜそのように話されるのかを考える。また、現代言語学は言語の優劣には言及しない。むしろ、言語学においては、あらゆる言語に優劣が存在しないことが前提となっている。ゆえに、世界の言語はすべて同等に扱われる。かつては言語の史的変化を言語の進化と捉え、社会・文明の成熟度と言語体系の複雑さを相関させるような視点が一部存在したが、その後、いかなる言語も一定程度の複雑さを有していることが明らかとなり、このような見解は現在は否定されている。すなわち、幼稚な言語、高度な言語は存在せず、すべての言語はそれぞれの言語社会に密接に関連しながらそれぞれのコミュニティに適応して用いられているというのが現在の言語学の見解である」
 そうなんだって、と舌を出した。
「丸暗記したから正しくないかもしれないよ」
「すっげえ記憶力」
「記憶力には自信があるの。そのおかげで医学部に合格したんだから。でもね……まあ、それはあとで話すとして、でね、そこから話題が中国語に移行し、続いて声楽に移行し、古典文学にも及び、お三人のアカデミックな話題は夜を徹して繰り広げられていた、って伝説よ」
「……あり得そうな気もする」
「私もそう思ってたんだけど、徳永さんはおっしゃってた」
 金子さんはともかく、乾とそんなに長々話すわけないよ、だったのだそうだ。
「乾さんとは仲がよくなかったんですか? って訊いたら、いいや、たいへんに仲良しだった、って答えて下さったから信じてたよ。そうなんでしょ?」
「またもやわからなくなってきた」
「声楽の話ってのはね……代表的なところでは女性のソプラノね。コロラトゥーラ・ソプラノ、ソプラノ・レッジェーロ、ソプラノ・リリコ・レッジェーロ、ソプラノ・リリコ 、リリコ・スピント、ソプラノ・ドラマティコ。これだったら木村くんも知ってるでしょ」
「合唱部で教えてもらったけど覚えてない。もういいから」
「テノールだと、テノーレ・レッジェーロ、 テノーレ・リリコ・レッジェーロ 、テノーレ・リリコ、テノーレ・リリコ・スピント、 テノーレ・ドラマティコ。イタリア語だよね。クラシックの歌唱パートかな?」
「知りません」
「木村くんはバリトン? バリトンは……」
「もういいよぉ。ギブアップ」
 言語も声楽も専門外のくせして、記憶力抜群だと本人も認めている弓子さんは、どこかしら乾さんや金子さんの同類であるようだ。話し出したら止まらない。似てるね、と呟くと、弓子さんは言った。
「なに言ってんのよ。丸暗記で消化もしてないことをずらずら並べられたって、理解して消化して口にするあの方々とは較べるのも失礼ってものよ。中国語も古典文学も文献を読んだから覚えてる。私って文章を一読すると記憶中枢にしっかり残る体質みたいでね、受験勉強には役立ったけど、困るんだな」
「困らなくてもいいじゃん」
「忘れないのは困るのよ」
 忘れすぎるのも困るんだよ、と口の中で言い返していると、弓子さんは言った。
「暗記なんかパソコンにまかせておけばいいのよ。人間はパソコンじゃないんだから……」
 よくはわからないが、天才には天才なりの悩みがあるのだろう。弓子さんはまちがいなく記憶の天才だ。ためしに、猫の寄生虫の名前を教えてと頼んでみたら、弓子さんは並べ立てた。
「猫回虫、猫鉤虫、瓜実条虫、マンソン裂頭条虫、トリコモナス、コクジシウム。人間のも言う?」
「参りました」
「猫の寄生虫なんか基礎の基礎でしょ。木村くんもさっさとこのくらいは覚えなさい」
 猫回虫とは……と講義がはじまりそうになったので、今日も俺は逃げ出した。参った参った、ではあったのだが、徳永さんが彼女の前では別の顔を見せると知れたのは収穫だった。弓子さんだったら、俺のかわりに乾さんの部屋にいたとしても、金子さんと乾さんの会話を理解して消化して、頭の中に永遠にとどめておくのだろう。
 東京に来てから関わりのできた年上のミュージシャンたちは、稚内のころの俺の世界からはかけ離れた人々だ。合唱部にも興味深い人たちはいる。なんたって日向さんがいる。
 頭の中はごたついてるけど、東京に来てよかった。弓子さんは男じゃなくて女で年上で、稚内のころには周囲にはいなかった人種で、だからなんなのか知らないけど、新鮮だともいえる。専門課程になったら弓子さんとはさらに関わりが深くなると思ったら、来年が楽しみになってきたのだった。


 兄貴ではなく三沢さんのアパートを訪ね、そんな話をしていたら、三沢さんが変な目つきで俺を見た。
「思い出した、タイガーさんだ」
「タイガーって加藤先生?」
「うんうん、思い出した。先輩たちも覚えてるはずだよ。章は忘れたかもしれないけど、俺は思い出した。タイガーと龍か。おー、これ、ぴったりじゃん」
 ぴったりって? と見返すと、三沢さんが歌い出した。

「トンネル抜ければ
 海が見えるから
 そのままどんつきの三笠公園で
 あのころみたいに
 ださいスカジャン着て、おまえ待ってるから
 急いで来いよ」

 この歌ならば俺も知っている。横須賀の歌だ。三沢さんは横須賀出身なのだから、横須賀の歌には詳しくても不思議はないが、どうぴったりなのかさっぱりわからない。
「この歌のタイトルは?」
「タイガー&ドラゴン」
「だろ? ぴったりじゃん」
 加藤大河、愛称はタイガー。俺は木村龍。ドラゴンだ。そういう意味でぴったりなのだろうか。だが、ぴったりだからといってそれがどうした?

「背中で睨み合う
 虎と龍じゃないが
 俺の中で俺と俺とが闘う」

 わっけのわかんねえことばっかりで、深く考えると頭が変になりそうだってのに、三沢さんが俺の中にさらなる混乱を引き起こそうとしているのか。
 なんだってタイガーとドラゴンが、俺の中で俺と俺とが闘わなくてはいけないんだ。俺は加藤先生と闘う気も、俺と闘う気もないよ。俺はただ、楽しく大学生活をすごしたいだけだ。俺はあんたらみたいな古い人間じゃないんだからな。
 小声で吼えてみたら、おー、その意気、その意気と、三沢さんはまったくの意味不明の反応をした。まったくまったく、まったくもってさっぱりわからない。わかろうとしないほうがいいのかもしれない。ひとまず諦めた俺の耳に、三沢さんの高い高い歌声が響いていた。

END

 
 




 
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