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小説87(想い出の渚・そして……)後編

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フォレストシンガーズストーリィ87

「想い出の渚・そして……」後編

4

 あれぇ? 昨夜はなにかあったっけ? 目覚めた瞬間に考えたのだが、食事がすんで本橋くんと乾くんが後片付けをしていて、そこで記憶がなくなっている。そんなに飲んだ? 酔って寝てしまった? どう考えても思い出せない。昨夜のドレスを着たままなので、とりあえずはそうなのだろうと決めておくことにして、着替えてとなりの部屋をノックした。
「ミエちゃん、おはよう、気分はどう?」
「別になんともない。二日酔いでもなさそう。私、昨夜はどうしたの?」
「覚えてない?」
「なーんにも」
 入れば、と言われて本橋くんと乾くんの部屋に入ると、本橋くんはベッドにすわって頭をかきむしっていた。
「呑気な奴だな、おまえは」
「なにかした、私? 迷惑でもかけた?」
「迷惑はかけてないよ」
 乾くんが話してくれたところによると、昨夜の顛末はこうだったらしい。
「メシのときに飲んだワインが急速に回ったんだろうな。ミエちゃんは突然、酔った、寝る、って宣言して、二階に上がっていった。それっきり降りてこなかったんだよ。気にはなったんだけど、女性の部屋を覗くわけにもいかない。しようがないからそのままにしておいて、俺たちも寝た。今朝はなんともないようだから、ひと晩たって酔いも醒めたんだね。よかったじゃないか」
「そうかぁ。そしたら、本橋くんはなんで怒ってるの?」
「怒ってねえよ。今日は帰るんだろ。帰ろう。さっさと帰ろう」
「さっさと帰るの? 沢崎さんか中根さんに、私、失礼なことでも言った?」
 言ってないよ、とにかく帰ろう、とふたりして言う。さっさと帰らなくてもいいはずなのだけど、と首をひねっていたら、乾くんが言った。
「俺たちの休暇は明日までだし、せっかくドライブに来たんだから、いつまでもここにいるよりも、よそに回ってから帰ろう。三人でドライブなんてめったにないだろ。今日もいい天気だし、景色のいい場所をドライブしようよ」
「ああ、いい考えだな」
「……なんだか変」
「変なのはおまえだろうが」
「私のどこが変?」
「本橋、いいから」
「ああ、そうだった。おまえは変じゃない。変なのは俺だ」
 いっそう変。ふたりともに変。やはり昨夜は私の知らない間になにかあったのだろうか。はたとひらめいて言った。
「本橋くん、沢崎さんと喧嘩でもしたんじゃないの?」
「してねえよ」
「ほんと? 沢崎さんって喧嘩っ早いみたいで、本橋くんと似てるんだよね。やりかねない」
「あんな奴と俺は似てないよ。俺はあんな顔はしてない」
「顔は似てないけど、タイプが似てる」
「うるせえんだよ、おまえは。なんにもないったらなんにもないんだ。な、乾?」
「なんにもない」
 そおお? 乾くんがそう言うんだったらそうなのかな、と、釈然としないままに納得したような、納得できないような気分で、なぜかやたらに急かすふたりに追い立てられるようにして、中根さんと沢崎さんに暇乞いをした。ミズキちゃんは出てこないし、沢崎さんと中根さんもなんとなく変で、首をかしげっぱなしで乾くんの車に乗った。
「朝ごはんも食べずに帰るの? おなかすいた」
「朝メシ食ってからよそへ回ろうか。ミエちゃんはどこに行きたい?」
「なんだか……みんな変! 説明してよ」
 なにもない、なにもない、あくまでもふたりはなにもないと言う。なにもないを連発されるとなお疑惑が高まって、私は車の中でもふたりを追求し続けていた。
「なんにもないなんにもない……なんにもなくはないよ」
「ミエちゃんの記憶はどこまで?」
 今日は本橋くんが運転していて、助手席から乾くんが訊いた。
「んんとねぇ……」
 断片的に浮かんでくるシーンはある。時間の前後関係がはっきりしないのだが、泣き声、男性たちの会話、ギターの音色、ふわりと身体が浮かんだ一瞬。どれもこれもつながらない。
「誰かが泣いてた。本橋くん?」
「俺がなんだって泣くんだ」
「乾くん?」
「そうだよ。あまりにも苛められるから、さめざめと泣いたんだ」
「乾、リアリティなさすぎる」
「だな」
 そしたら中根さん? 沢崎さん? 彼らが泣くなんてリアリティないのは同じだ。私が泣いたのだったら、泣き声は耳に残らないはずだ。とすると、消去法でいくとミズキちゃんしかいないではないか。
「ミズキちゃんでしょ? ケーキが食べたいって駄々をこねてたのは覚えてる。駄々をこねすぎて叱られて泣いてたの?」
「そんなところだな」
 十八にもなって子供じみすぎてはいないのだろうか、とも思ったのだが、叱ったのが中根さんだったとしたら、なくもないかもしれない。にしても、ちっとも記憶がつながらなくてじれったい。しばし三人とも無言になって車を走らせていると、乾くんが尋ねた。
「身体はどこもなんともない?」
「すっきりさわやかだけど……」
 胸のうちはすっきりしない。苛々してきたので、うしろから乾くんの髪を軽く引っ張ってみた。
「話して」
「いてっ……ミエちゃん……頼むよ。本橋、どうする?」
「そうだなぁ。こいつはごまかせないだろ。あれは一種の犯罪なんだから、とはいっても、そう重大でもないんだし、山田がこうしてなんともないんだから、大騒ぎする必要もないし……ミズキちゃんは中根にひっぱたかれて、相当こたえたようで薬も効いたようだし……」
「歯切れが悪いね。薬? 中根さんにミズキちゃんが叩かれた? 駄々をこねたくらいで叩かなくてもいいじゃない。乾くん、止めなかったの?」
「止める必要はない。あんな真似をしたんだから叩かれたらいいんだ」
 らしくない台詞だな、と首をかしげていると、乾くんは自分の頬を両手ではさんでぱちんとやった。
「この程度だったらしいよ。それにしたって、大好きなお兄ちゃんにきびしく叱られて、叩かれまでして、ミズキちゃんは大泣きに泣いていた。痛かったからじゃなくて、ショックだったんだろうな。長いこと泣いてたけど、あとで言ったよ。こうなりゃ話そうか。いいよな、本橋」
「話すしかないな」
 甘いカクテルを口にした記憶はわずかにある。あの中にはドラッグが入っていたのだそうだ。私の様子がおかしいのに感づいた乾くんが、誰がやったんだと尋ね、ミズキちゃんしかいないとなって、中根さんがミズキちゃんを別室に連れていって問い詰めた。ミズキちゃんは白状し、中根さんに叱りつけられて叩かれた。
 そのときの泣き声が私の記憶に残っていたようだが、私自身がどうしたのかは完全に忘れている。乾くんが言うには、どうにか歩かせて二階に連れていき、ベッドに入らせたのだそうだ。そして私は熟睡してしまったのであるらしい。四人の男性が黙りこくっているところに、ミズキちゃんがあらわれた。泣き腫らした目をして、ミズキちゃんは言った、と乾くんが続けた。
「どうしてって……悠介さんは美江子さんばっかり気遣って……あたしは前から美江子さんって好きじゃなかったから、ますますむかついてきたんだもん。だからだよ。悠介さんがいけないんだもん。なのに、なのに、あんなに怒って……あたしをぶった。ぶたれたのなんて生まれてはじめて」
「どこをぶたれたの?」
 問いかけた乾くんに、ミズキちゃんも行動で示した。
「こう」
「そのくらいだったらいいよ。ほっぺたが赤くもなってない程度でしょ。女の子だからっていっても、生まれてから一度も叩かれたこともないってのはよくない。誰が悪くて叱られて、お仕置きを受けたのかはわかってるね」
「お仕置き?」
「そのつもりだろ、きみのお兄ちゃんは」
「そんなのないよ。そんなに痛くはなかったけど……あたしはそんなに悪くないもん。そんなの、あんなので……明日になったら美江子さんはけろっとしてるよ。そう言ってたもん」
「誰だ、ドラッグなんてものをおまえに渡したのは?」
 今度は本橋くんが言い、ミズキちゃんはエターナルスノウのメンバーの名を口にした。
「合法だって言ってたよ。効果はひとによるけど、女だったら色っぽくなるかもな、ミズキ、おまえ、好きな男の前で飲めば? って言って、くれたの。あたしはそんなの怖いから、美江子さんでためしてみたってのもあるかな」
 馬鹿野郎、と本橋くんは小声で吐き捨て、沢崎さんも言った。
「色っぽいってよりも、美江子さんはガキっぽくなったみたいに見えたな。おまえがそれ以上ガキっぽくなってどうすんだよ。残りもあるのか。出せ」
「ええと……」
「出せ。出さないと……俺は悠介みたいな手ぬるい殴り方はしねえぞ。面が腫れ上がるぞ。出せ、ミズキ」
 沢崎さんに脅迫されて、ミズキちゃんはポケットから薬包を取り出した。中根さんが薬を、知り合いに調べてもらう、としまい込み、ミズキちゃんは言った。
「してはいけないことだったよね。知ってるけど……そうやってみんなして美江子さん美江子さん、美江子さんの心配ばっかりしてる。あたしは……もういいよ。あたしも帰るから」
「明日、俺たちと帰る?」
「いやだ。乾さんも山田さんもやっぱり大嫌い。あたしが悪かったんだろうけど、嫌いなものは嫌いなの。本橋さんも嫌い、沢崎さんも嫌い。悠介さんはもっともっと大嫌い。あたしを叩いたりして、一生恨んでやるから」
 勝手にしろ、と中根さんは言い捨て、ミズキちゃんは自室に戻っていった。そこまで話して、乾くんは言った。
「そういうわけなんだけどね、犯罪行為にはまちがいない。合法とはいえ、無断で他人にそんなものを飲ませるのは言語道断だよ。重大問題にしたほうがいい? 薬を盛られた本人のあなたとしては?」
「そこまでは……昨夜は気持ちがよかったなぁ、ってのは思い出した。それだけだよ。私はダウンしちゃって、だから、迷惑かけたのかもしれないけど、私はミズキちゃんを告発なんかしたくない。大嫌いな私へのいたずらでしょ? 嫌われる筋合いはないんだけど、みんなして私に気を使ってくれてたのは事実だし、ミズキちゃんが怒るのもわかる気はするから」
「ミエちゃんがそれでいいならいいよ。あなたはそう言ってくれそうだから話したんだけどね」
「もっと早く話してくれたらよかったのに」
「あなたは知らないほうがいいとも思ったんだけど、シラを切り通せそうにないと悟って話したんだよ」
「なにか他にも?」
「他にはない、断じてない。な、本橋?」
「ないだろ」
 信じておくしかない。それだけだったのなら、私ももはや身体も心もなんともないのだから、思い出話のひとつとして埋もれさせておいてもいいだろう。ようやくすっきりしたらおなかがぐーっと鳴った。お、腹減ってたのを忘れてた、と本橋くんが言い、俺も腹が減ったよ、と乾くんも言い、目についた喫茶店へと車が向かっていった。


 
 もちろん、と私は思うのだが、シゲくんと結婚した恭子さんは仕事を続けている。二十五歳のプロテニスプレイヤー、本庄恭子さんは試合のために海外遠征中で、シゲくんとはすれちがいだ。恭子さんとシゲくんのなれそめになったラジオ番組、「FSの朝までミュージック」も続いていて、今日は恭子さんの代理として、幸生くんが出演していた。
 早朝四時、可能な限りは彼らの放送を聴くことにしている私は、ベッドでラジオをつけた。オープニングテーマをB.G.Mに、シゲくんの落ち着いた声が聞こえてきた。
「おはようございます。本庄繁之です。本日は恭子さんは仕事で欠席でして……」
「恭子さんだって。妻の恭子は、って言ったら? グッモーニン、ユキちゃんでーす。シゲさん、俺の英語のご挨拶の発音はいかが?」
「きみはのっけから……グッモーニン、くらいだったら小学生でも言えるでしょ」
「こんなに流暢に発音はできないよ」
「はいはい、流暢でしたね」
 がんばれ、シゲくん、幸生くんの調子に巻き込まれないでね、と笑っていると、幸生くんが言い出した。
「曲がかかってる間に、パソコンでBBSの書き込みを読ませてもらいました。俺の愛するファンのみなさまからの書き込みで、BBSがパンクしそうになってます。今日はユキちゃんなのね、嬉しいわ、嬉しくてぞくぞくしちゃうわ、もう眠れない、今日は仕事なのに、ユキちゃんの声を聴いたら興奮しちゃって、仕事ができませーん、ユキちゃんに会いたくなっちゃうわ、ユキちゃんに抱きしめてもらいたいけど、声に抱きしめてもらって我慢しておく、ユキちゃんに……」
「そのへんにしておきなさい」
「はい。んでね、パソコン見てると言いたくなることがあるんだけどね、シゲさんには風邪を引かせそうだし」
「俺が風邪を引く? そんなウィルスがあるのか」
「風邪のウィルスってのはあるけどさ。そうじゃなくて、シゲさんって気持ち悪いとすぐに、悪寒がするって言うじゃん。我が手で我が身を抱きしめて、うー、悪寒がするー、って」
「言ったことはあるな」
「でしょ? だからシゲさんには言えない。風邪を引かせたら恭子さんに恨まれる」
 巻き込まれかけている。ラジオで話している際の、シゲくんの調子がいつもとちがう。幸生くんはいつもの調子だが、シゲくんは常々、落ち着いたトーンで静かに喋るのに、丁寧語も消えつつある。
「章と本橋さんは当事者だからよけい言えない。リーダーは怒り狂うかもしれないし、章は泣くかもしれない。乾さんは知ってるんじゃないかな。そんならつまんないしね」
「おまえはなにを言ってんだよ」
「ここまで言ったら、乾さんが知ってたとしたら、ああ、あれか、って言う気がする。あの方のひらめきはあの方の歪み具合に比例してるもんな。だけど、シゲさんがひらめくはずないんだよね」
「……おまえなぁ、俺に喧嘩を売ってんのか」
「まーさかー。リーダーみたいに言わないでってば」
 完全に巻き込まれている。シゲくん、気を鎮めて、とそばにいるなら言ってあげられるのだが、
「おまえ、この間も本橋さんに言われてただろ。なにが先輩に気を使ってる、だ」
「使ってますよ、本庄先輩」
「口先だけじゃ信用なんかできないんだよ。おまえにはそもそも実がない。それでも、本橋さんや乾さんにだったら多少は気も使ってるんだろうな。俺なんか先輩だとも思ってないんだろ。そうなんだろ。正直に言え」
「……あららら、シゲさんがこわれた」
「なに言ってんだ。だいたいおまえはなぁ……」
「はい、本庄先輩」
 ややあって、ごつーん、という音がした。まちがいなく幸生くんが自ら、どこかに頭をぶつけたのだろう。知っているひとにはわかるだろうけれど、ユキちゃんを知らないひとならば、え? 本庄さんがごつんとやった? と驚くのではなかろうか。幸生くんは泣きそうな声で言った。
「いでー、脳波が狂うよぉ」
「念のために申しておきますが、僕がやったのではありません。この馬鹿が……いえ、このお調子者が……」
「ちがうもんちがうもん。シゲさんがカナヅチで叩いたんですよ」
「どこにカナヅチがあるんだっ」
 ペースを取り戻そうとしていたシゲくんの努力も知らぬ気に、幸生くんがラップのリズムで言いはじめた。
「前にもシゲさんが章と俺の頭と頭をごっつんこさせて、章と俺は言い合った。
「おまえの脳波は生まれつき狂ってるんだろうがよ、幸生」
「おまえの脳の中ではハードロックが鳴り響いてどんがらがっちゃんしてて、年中狂騒してるんだよな、章」
「おまえの頭の中は狂想曲だろ。幸生のラプソディ」
「ラプソディは狂詩曲だよ。章ちゃん、まちがーい」
 こんな感じだったんですよー」
「あれをやったのは本橋さんだろ。お……いや、すみません。ラップはいいから、さっきのはなんだったんですか、幸生くん?」
「さっきのってなーに?」
「とぼけんな」
「とぼけてないよー。さっきのったっていろいろあるでしょ?」
 すでに果てしなく脱線しているので、さっきの、さっきの、さっきの? と私まで頭の中がラップ現象を起こしそうになった。ラップ現象とは心霊現象なのだが、音楽のラップと関係あるのだろうか。幸生くんのせいで私まで脱線するじゃないのよ、とひとりごとを言っていると、幸生くんは言った。
「具体的にお話し下さいませね。さっきの、あれ、これ、それ、では話が読めないんでございますですよ。さっきのとはなんでございましょうか、本庄先輩」
「口先だけの先輩はいらない」
「そうですか。日本語とは、会話とはむずかしいものでございますね。わたくしも日夜、いかにリスナーのみなさまに、さまざまなる話題を正確に、かつ楽しくお伝えしようかと心を砕いておりますのですよ。その件につきましては、本庄先輩はいかがお考えでいらっしゃいますか」
「……いっぺん即死させてやろうか」
「いやんいやん、シゲさんったらー、リーダーみたいで素敵」
 素敵? らしい台詞、と笑っていると、幸生くんが奇声を発した。きぇーっ、きゃーっ、だった。
「俺はなんにもしてないだろっ」 
「大成功。これだけの衆人環視のもとでは……ちがうか、衆耳注聴?」
「しゅうじちゅうちょう?」
「こう書くんです」
「字を書いてもリスナーのみなさまには見えません」
「だったら説明しましょうか。「しゅう」は大衆の「衆」……」
「もういいって」
「シゲさん、うーんざり? そうですよね。寂しいですよね。シゲさんはうちに帰っても独り寝でしょ。早く帰ってこいよぉ、恭子ぉ……とかなんとか」
「てめえ、幸生、そういうことを言うとだなぁ」
「シゲさん、乱暴な言葉はやめましょうね」
 ううっ、と唸ってシゲくんは黙り、私はため息をつくしかなかった。本橋くんも聴いていたとしたら、幸生に行かせるんじゃなかった、と嘆いているのではないだろうか。それでも私としては笑ってもいたのだが、ラジオを聴きながら、幸生くんとはじめて言葉をかわした日を思い出していた。夏休み前のキャンパスで、幸生くんは大学一年生、私は三年生。二年生だったシゲくんもそばにいた。
「女の子には、いやよいやよもいいのうち、って場合があるんです。押して押して押しまくれば、なびいてくれることもある。俺はアイちゃんの髪をそよがせる風になって彼女に突撃し、たとえ何度玉砕しようとも、めげずたゆまず倦まず押し続ける。いつかはきっと、を信じて……」
「よく回る口だなぁ」
「もっともっと回りますよ」
 超高速回転する舌と、汲めども汲めども尽きぬ泉のごとくあふれ出す言葉の奔流、少年じみた高い声。話しているときには十八歳の饒舌な男の子でしかない彼が、ひとたび歌いだすと聴衆の耳目を引きつける、その名は三沢幸生、との合唱部での評判は聞こえていた。この声が三沢くんだね、と気づいた私は、耳をそば立てて三沢くんと本庄くんの会話を聞いていた。と、唐突に三沢くんの早口言葉がはじまった。
「オブラディオブラダアブラカタブララミパスラミパスルルルル
 サラガドゥラメンティカブラビビデバビデヴゥ
 青パジャマ赤パジャマ黄パジャマ茶パジャマ青パジャマ赤パジャマ黄パジャマ茶パジャマ
 生麦生米生卵生麦生米生卵生麦生米生卵
 東京特許許可局東京特許許可局東京特許許可局」
「……もういいよ」
「東京特許……もういいんですか。まだまだできるんだけどな」
「わかったからもういい」
 評判以上だね、これは、と私が苦笑いしていると、三沢くんはさらに言った。
「俺は口にだけは自信があります。喋りにしても歌にしても口でしょ? 俺は口で勝負が身上なんです」
「誰かみたい」
 我慢し切れなくなって口をはさむと、ふたりは私に注目した。
「ああ、失礼。三沢くんでしょ? 私は山田美江子。女子部の三年生だよ」
「おー、これはこれは山田先輩、三沢幸生と申します。以後よろしくお願い申し上げます」
「はじめまして、じゃありませんけど、こんにちは」
「はーい、本庄くん」
 一年後輩の本庄繁之くんとは、すでに幾度か話はしていた。三沢くんは私を凝視し、直立不動になって言った。
「山田先輩も俺を知ってる? 感激ですっ」
「そりゃ知ってるよ。なんともかんともよく喋る、その一点だけで目立ってるし、女子の間でも有名なんだからね。立ち聞きする気はなかったんだけど、三沢くんのその高い声でオブラディオブラダァ……なんてやってると、いやでも聞こえちゃう。女子部での噂の意味がよくわかったよ」
「いやいや、光栄です」
「そう出るわけね」
 にこーっとしてみせた三沢くんの笑顔は、無邪気にも芝居っけたっぷりにも見え、この子の本性はどんななんだろう? と私が考えていると、ところで、と彼は質問した。
「誰かって誰ですか?」
「男子部にいるのよ。私は一年のときから彼とは友達なんだけど、三沢くんみたいに言うひとがいるの。俺は口で勝負が身上だ、シンちゃんみたいに腕力で勝負だなんて野蛮なのは愚の骨頂だ、ってね」
「シンちゃん?」
「本庄くんは知ってるよね 三沢くんだって知ってるはずだよ」
 うーん、シンちゃんって誰だ? と三沢くんが首をひねっていると、本庄くんは言った。
「もちろん知ってますよ」
「そりゃそうだよね。知ってるよね。三沢くんとその誰かは気が合うか、もしくは思い切り牙を剥き合うかのどっちかだね。どうなるかなぁ」
「?」
「それとね、いやよいやよもいいのうち、なんてのはまちがいよ。三沢くん、若いね」
「??」
 山田さんは若くないのかな、と三沢くんが言っているのを背中に聞きながら、私はその場から離れた。
 本庄くんとは彼が新入生のころに知り合い、そうして三沢くんとも知り合って、そののちには三沢くんと仲良しだった木村章くんとも知り合った。
「山田さん、紹介します。俺の同輩の木村章です。こいつの声、俺より高いんですよ。ここまで高い男の声ってそうそうないでしょ? 乾さんにしても歌う声は高いけど、話すときにはそんなには高くないですもんね。俺は喋ってても高いけど、テンションが高いせいもあるのかもしれない。章はテンション低くても声だけ高い」
「木村くんは知ってるけど、はじめましてのようなものだよね。山田美江子です。よろしくね」
「よろしく」
 ぶっきらぼうに頭を下げる木村くんは、おや、なかなかの美少年、という顔立ちをしていた。
「今日もテンション低いのか、章?」
「そうでもない。おまえほどは高くないけど、おまえほどってのが異常なんだから、おまえほどにはなりたくない。おまえのその狂奔するテンションってのは、どこから出てくるんだ?」
「この胸の中で燃えたぎるマグマが噴出するんだよ」
「なんのマグマだよ?」
「マグカップかなぁ」
「……つまんねえ。つまんなすぎる。おまえのは女好きマグマだろ」
「女が好きなのは、男としては異常でもなんでもないのだ」
 私をそっちのけにして男の子同士で話しているふたりの会話に、そこで口をはさんだ。
「本橋くんだったらマグマ大使、とか言いそう」
「マグマ大使ってなんですか?」
「三沢くんは知らない? 普通は知らないよね。私も本橋くんに教えてもらわなかったら知らなかった。昔々のテレビ番組に出てきたヒーローなんだって。本橋くんはそういうのが好きなの。それはまあいいんだけど、ほんとに木村くんも声が高いね。乾くんは歌声は高くても話す声は落ち着いてるのは、彼のほうがキミたちよりは大人だからなんじゃないの?」
「俺ら、ガキですか」
 そう応じた木村くんの、気に入らない女だな、と言いたげな表情も思い出した。今ではどうなのかは知らないが、章くんは長年私について、「女のくせに生意気」との感想を抱いていたらしい。
 そんな後輩たちを、シゲくん、幸生くん、章くん、と呼ぶようになって、いざこざもあったにせよ、彼らも私を仲間だと認めてくれている。本橋くんと乾くんには、私も含めて三人ともが新入生だったころに知り合って、じきに親しくなっていた。偶然がいくつも重なって知り合った彼らと、私はこんなにも深く深くつきあってきたわけだ。
 早起きして寝不足のはずなのだが、幸生くんのお喋りのおかげで眠気は去り、私のテンションも高くなってスタジオに行くと、乾くんと本橋くんが話していた。どんな話しの流れなのかは知らないが、乾くんが私に問いかけた。
「章のほうが気性は幸生よりぐんと激しいだろ。ミエちゃん、いつか言ったね。章はある面強烈に男性的だって。あれはそういう意味?」
「そういう意味もあるね。いずれにしても、いい意味ではなく男っぽいのよ、章くんは」
「ふむ、本橋はよくも悪くも男っぽいけど、章は悪い意味で男っぽいのか。幸生も悪い面は……というのは言ってはいけないんだった」
「言ってはいけないってのは、女性関係?」
 いや、あのね、とむにゃむにゃごまかしている乾くんを軽く睨むと、本橋くんが吹き出した。
「なに笑ってるの、リーダー?」
「リーダー?」
「今はフォレストシンガーズのリーダーとしての、本橋真次郎氏に質問してるのよ。私はマネージャーとして、あなたたちの気質はちゃんと把握しておきたいんだな。幸生くんの悪い面ってどれ? 私の知ってる部分はいいから、知らない部分を聞きたい」
「ミエちゃんの知ってる部分というと……?」
「喋りすぎるとか軽すぎるとかふざけすぎるとか、気分が高揚しはじめると際限ないとか、そっちの方面よ。私も昔は首をかしげた。なんなの、この軽い男は、って思ってた時期もあったよ。だけど、幸生くんもなんにも考えずにああいうふるまいをしてるんじゃないんだな、って……」
「なんにも考えてねえんだよ、あいつは」
 本橋くんが断言した。
「おまえの言うそっちの方面は、幸生はやりたくてやってるんだ」
「そうそう、昔、シゲがさ……」
 私が同行していなかった仕事の際の話であるらしい。乾くんはシゲくんとふたり、露天風呂につかりながら言ったのだそうだ。
「だからさ、ある面、俺たちは幸生のおかげで……なんと言うのか、バランスを保ってるのか。ああやって幸生がなにもかもを丸く、なにもかもをふざけておさめてるって言うのか。幸生はそちらの方面でも稀有な才能を持つ天才だよ」
「かもしれませんね」
 ゆえに、幸生は危なっかしくて、と言いかけて、乾くんは頭を横に振った。
「取り越し苦労はやめておこうか」
「でも、乾さん、幸生のあれって、やりたくてやってるところもありません?」
「それもありそうだから困るんだよな。幸生って奴はまったく……あんな人間はそうそうはいないよ」
 そんな話をしたんだよ、と乾くんは遠いまなざしになった。
「そうやってシゲと喋ってたら幸生があらわれて、例によって無茶苦茶になった。やっぱりこいつはやりたくてやってるのか? と俺は悩んだよ。やりたくてやってる場合もあれば、それを手段にして八方上手に丸め込むってのか、たぶらかすっていうのか……幸生にしかできない芸当なのはまちがいないだろ」
「たしかにそうみたいだけど、危なっかしいってのは?」
「俺、そんなこと言った?」
「言った」
 ところで、今朝方の幸生のDJぶりは……と本橋くんが話題を変えようとするので、私は言った。
「その話はあとにして、ふたりして必死でごまかそうとしてる私の質問への答えは?」
 本人のいないところでは言えない、とふたりして結論づけるので、私は言った。
「そ、だったらいいよ。本人に訊くから」
「その場には俺も同席したいもんだな。幸生がなんと答えるか見ものだよ。本橋、おまえも聞きたくないか」
「聞きたくなくはないが……そういうときに相手を丸め込むのも幸生は得意だよな。俺なんかは簡単にたぶらかされる。昔は幸生はあれほどでもなかったのに、形而上的だの独断専横唯我独尊傲岸不遜だの、それからなんだったか……」
「急性肺炎急遽入院、強制送還、異常事態、我々危機、だとかいうのもあったな。あれこそまさに口から出まかせ。言ってるうちに頭がこんがらがって……というのを装ってるんだから、やはりあれも出まかせとは言い切れないのかもしれない。で、本橋、だからなんだ?」
「つまり、あれはおまえの悪影響だ。幸生は昔はあそこまでじゃなかったのに、妙な四文字熟語だのなんだの使いたがるのは、おまえが言葉を教えたせいだろ」
「俺は意味のわかってる言葉しか使わない」
「だからだな、おまえが口から出すこむつかしい言葉を中途半端に覚えては、幸生が変な具合にアレンジして使うんだ。そうやって俺をケムに巻く。元凶はおまえだろ」
「本橋くんは前向きに生きようって主義だよね。幸生くんは昔はああじゃなかった。昔、昔……それって前向きなお言葉?」
 あ、そっか、と本橋くんは呟き、乾くんは言った。
「長年こうやってつきあってると、おりにふれては昔を思い出すんじゃないか。そしたら言うだろ。ほら、昔は……ほら、あのときは……それは自然な感情なんだよ。昔話ぱかりじゃどうしようもないけど、会話に昔話がまざるのは無理もない。そういうことにしておこう」
「まあいいけどな」
 あちこちに話が脱線していたのだが、整理するためもあって私は改めて質問した。
「本人に尋ねるにしても、予備知識は必要だよね。乾くんから見て、女性方面に於ける幸生くんとは?」
「秘密のベールに包まれた、顔に似合わぬ神秘的存在」
「ふーん。本橋くんは?」
「誰が神秘的なんだよ。ちゃんちゃらおかしいってんだ。俺から見た幸生は、ガキのくせしてナンパだけは一人前以上の……言ってしまった」
 あーあ、と乾くんは嘆き、私はふむふむと首肯した。
「一端はわかったわ。そうか、そうだったんだ。本人に訊くまでもないかも。そういう意味だったんだね。そういえば時々聞こえてた。幸生のナンパ。章くんも言ってたっけ」
「本橋、おまえも幸生のことは言えないね。案外口が軽いんだ」
「いや、俺は本当はよく知らないんだぞ。そうじゃないかと推測はしてるけど、あいつが女に関しては秘密主義なのは、まっとうな恋愛じゃなくて……やめた。これ以上言うと幸生の名誉を損なう」
「とっくに損なってるよ。ひでえリーダー」
「そうよそうよ、ひどいわーっ」
 本人登場。幸生くんは頭のてっぺんから出ているとしか思えない、黄色い抗議の声を上げた。
「あのねぇ、リーダー。俺は昔はたしかにナンパはしましたよ。だって、しようがないじゃん。俺は乾さんや章ほどにはもてないんだもん。シゲさんやリーダーほどもてない男でもないけど、知らんぷりしてても女が寄ってくるほど恵まれた境遇でもないわけね。だけど、恋はしたいじゃん。女の子とつきあいたいのは男のサガってやつでしょ。そしたらナンパに精を出すしかない。ナンパからはじまった恋だって、まっとうな恋愛に発展する場合もあるんですよ。リーダーはそれをまっこうから否定するんですか。リーダーはナンパ経験ないんですか」
「……ないよ」
「乾さんは?」
「ない」
「本当? 美江子さんはある? 逆ナンってやつは?」
「逆ナンはないけど、お茶飲まない? って誘われた経験はあるよ」
「そりゃそうだよね。美江子さんにないわけないよね。リーダーと乾さんにだってないわけないよ。ほんとにナンパなんかしたことないのはシゲさんだけ。シゲさんは堅物だから例外だけど、生まれてこのかた一度もナンパもしたことのない奴は、男ではないんです」
 またまた今日はものすごくテンションが高いのか、朝のお喋りの余韻か、あるいは別の思惑でもあるのか、幸生くんは喋りまくった。
「なのにリーダーったら、俺をそんなふうに決めつける。あんまりだわ。ユキちゃんだってまっとうな恋愛経験はありますよーだ。ナンパ経験もパチンコ玉の数ほどはあるけど、真面目に恋をしたこともあるんです。成就しなかっただけです。ああ、ユキちゃん、悲しいな。成就しなかった恋の数々を思い出してしまったじゃないかぁ。リーダーのせいですよ。責任取って」
「どうやって責任取るの? ブランドもののバッグ買って、とか?」
「美江子さんったら、そんな昔の話を持ち出して……そうじゃないんです。どうやって責任取ってもらおうかな。じっくり考えてみようっと。楽しみだなーっと」
 るるるんるん、るるるん、と鼻歌まじりで、幸生くんは出ていった。なんだ、ありゃ、と本橋くんと乾くんが顔を見合わせ、直後に三人で笑い出した。つまり、幸生くんはそうやって本橋くんの、言ってしまった、まずいかな、という気分をうやむやにした、と。ついでに、ラジオでまでおまえは節度もなく、とリーダーに叱られるのを避けた、と? 
 そう解釈しておいていいんだろうか。言いようによっては、彼は神秘的存在というのも当たっているのかもしれない。ものは言いよう、ってやつで。


5

 ちょっぴりうらやましいと考えたことはある。並はずれた歌の才能を持ち、その才能を活かしてプロのシンガーとなり、作詞作曲の能力もあり、個々の声質や歌唱力や声域を知り尽くした上で、自分のため、メンバーたちのために歌をこしらえ、最高の歌にしてしまえる彼ら。
 乏しい語彙や表現力ではいいあらわせないほどに、彼らの歌は、作詞作曲能力も含めて素晴らしいと、私は信じている。そんなものはなくても仲間だけれど、それゆえに私は彼らのために働いてきた。いいえ、彼らのためだけではなく、私のためにも。
 うらやましい、の一部にはたしかにある。今どき流行らないのかもしれないけど、いいなぁ、男同士って、なんていうのがある。私も男に生まれていたら……と、無意味な想像をしたこともある。

「きみを見つけた、あの渚に
 ひとりたたずみ思い出す」

 往年のグループサウンズの永遠の名曲、「想い出の渚」を彼ら「フォレストシンガーズ」が歌っている。最初のパートはリーダーであり、マネージャーである私の夫でもある、本橋真次郎だ。

「小麦色した可愛い頬
 忘れはしないいつまでも」

 高い美声でここを歌うのは、本橋の親友でもあり、私にとっても親友だと一方的には感じている乾隆也。

「水面走る白い船
 長い黒髪、風になびかせ」

 普段はウルトラメガトンハイテンションでマシンガンみたいに喋る三沢幸生が、澄み渡る声でこのパートを歌う。

「波に向かって叫んでみても
 もう帰らないあの夏の日」

 そして、本橋、乾、三沢の美しいコーラス。

「長いまつげの大きな瞳が
 ぼくを見つめてうるんでた」

 五人の中でももっとも声が高い、木村章のパートは彼に合わせて、ロックふうのアレンジがなされていた。
 
「このままふたりで空の果てまで
 飛んでゆきたい夜だった」

 バスに近いバリトンの渋い声で、本庄繁之がラストのソロパートを歌う。最後は五人のコーラスとなり、高く低く、私にとっては、ううん、きっと聴いているすべてのひとの心を震わせる、そんなハーモニーが奏でられる。

「波に向かって叫んでみても
 もう帰らないあの夏の日」

 あの夏の日、あの夏の日……とリフレインし、余韻が消えていく。いつまでもこの歌を聴いていたかったけれど、当時の曲は短時間で終わってしまうのだ。
「綺麗すぎやしないのかな」
 かたわらで聴いていたのは、「ダイモス」の中畑裕也だった。フォレストシンガーズ、略称FSがGSカバーアルバムを出すと決まって、ダイモスとコラボレーションするという提案がなされているのだが、頑固者の私の夫と堅物のシゲくんが難色を示している。ダイモスなんて、あんな奴らは好きになれない、がその理由なのだが、乾くんがとりなして、実験的にまずは一曲やってみようということになった。
 たった今はダイモスの演奏で、ハードロックバンドの彼らにするとぐっと抑え目の演奏をしていたと私にもわかった。ヴォーカルの裕也くんは演奏はしないので、私とともに客観的に聴いていた。
「ミエちゃんはどう思う?」
「綺麗でいいんじゃない? 綺麗な歌なんだもの」
「つまんねえよ、こんなの、おーい、FSの兄さんたち、替われ替われ」
 一見どこにでもいるような三十代はじめの青年集団、FSと比して、ダイモスはどこにでもは絶対にいない、ロッカー集団である。ルックスも雰囲気もふた組のグループはまったくちがっている。本橋、乾が三十二、本庄が三十一、三沢、木村が三十。ちなみに私も、本橋乾と同年の三十二歳だ。
 対するダイモスは、全員が二十八歳と聞いている。先輩後輩のわきまえがきびしい……ってほどでもないと私には思えるけど、一応は……FSと対していても、ダイモスには遠慮会釈もない。我々はロッカーだよ、先輩後輩? それはなに? ここは実力の世界だろ、とうそぶいている。
 東京生まれの本橋、金沢の乾、三重の本庄、神奈川の三沢、北海道の木村、FSの出身地はばらばらだが、ダイモスはすべてが九州男児。九州の中心地である福岡は博多に集まってきたロックンローラーたちが知り合ってバンドを結成し、現在に至っているのだそうだ。
 替われ替われと怒鳴ってマイクを手にした裕也くんが歌い出した。はー、ハードロック版「想い出の渚」ね。章くんのパートはロックテイストの味つけがされていたとはいえ、本物のロッカーだとこうなるの? ハードロックというよりパンクロックかな。わざとのようにがなり立てている。
「おいおい、裕也、もと歌がぶっこわれてる」
 嘆き声の乾くんに、裕也くんが叫び返した。
「ぶっこわれてねえっての。このほうが面白いだろ」
「面白いって歌か」
 もともと面白い歌ではない、切ない歌だと言いたいのか、おまえたちの歌は面白くない、と言いたいのか、本橋がぶつくさ言い、シゲくんも言った。
「そんな歌にしちまうのかよ。俺にはついていけない」
「けど、これはこれでいいじゃん?」
 じゃんじゃん言葉は幸生くんで、章くんも言った。
「こんな感じで俺も歌ってみたい」
「な? 三人で歌ってみっか、章。リーダー、いいかなぁ」
「やってみな」
 仮設ステージから私のそばに来ていた五人のうち、章くんと幸生くんがステージに戻っていった。きみを見つけたあの渚で……太くて低い裕也くんの声に、ふたつの異質なテノールがからむ。ロックとフォーク? カレッジポップス? 湘南サウンド? おもむきの異なる二種類の曲がバトルをやっているみたいだった。うーん、と首をひねっていた乾くんが問いかけた。
「こうなると面白くないか、本橋?」
「うう、聞くに堪えない」
「そうかぁ。シゲはどうだ?」
「コメントのしようがありません」
「ミエちゃんは?」
 きちんと私にも話を振ってくれた乾くんに、そうだなぁ、と考えつつ答えようとしていたら、裕也くんが言った。
「あんたらはなんでもかんでも綺麗ごとにしすぎるんだ。一度すべてをぶっこわしたところからはじまるものもある。なぁ、乾さん? こういう台詞はあんたが得意なんじゃないの?」
「俺は歌には保守的かもな」
「まったく、おまえらは意気がりすぎだよ」
 両腕を広げて肩をすくめて、乾くんは保守的発言をしたのだが、本橋の発言は不穏だった。
「完成した曲をぶっこわしてどうする? これはこれで、俺たちが歌った形でいいんだ。ハードロックやパンクがやりたいんだっら、オリジナルなりそれなりの曲なりでやれ。俺はおまえたちとはできないとよくわかったよ」
「あっそ。お好きにどうぞ」
 リーダー、結論出すのが早いよぉ、と幸生くん、あちゃちゃ、そうなんの? 乾さーん、どうしよう? と章くん、シゲくんはうんうんとうなずいていて、乾くんは言った。
「逆効果だったのかな。俺には本橋の言い分も裕也の言い分もわかる気はするんだけど、こうもりみたいだな」
 毎度のごとく、幸生くんが茶々を入れた。
「乾さん、バッドマン?」
「悪党のバッドマンか。こうもり男のバットマンと言いたいんじゃないんだな」
「おー、みすていく」
 英語のミステイクではなく、ひらがなに聞こえる幸生くんの台詞は、この場を和ませようとしてのものにちがいない。だが、本橋はそっぽを向き、シゲくんはおろおろした様子で、乾くんは困惑顔で私を見た。私は本橋を懐柔するのは得意なつもりだが、専門分野に口をはさむのは僭越な気がする。
「冷却期間を置いてみたら? こうなると本橋くんはおへそをまげちゃうから」
 それでもそう言ってみると、幸生くんが反応した。
「本橋さん、そのシャツめくっておへそを見せて。どんなふうにまがってます?」
「うるせぇ」
 すっかりご機嫌ナナメとなった本橋には、幸生くんの軽口は効果なしだったようだ。幸生くんは天を仰いだ。
「リーダーが率先して交渉決裂させるんだもんな。乾さん、なんとかして下さいよ」
「章と幸生はダイモスとコラボしたいんだよな。俺もやりたいよ。シゲは?」
「もと歌をぶっこわすなんて考えだったら、俺はやりたくありません」
「大先輩たちの曲なんだもんな。敬意も払わないといけない。アレンジの域を超えた変形はよくない、と俺も思うよ。パンクにしたいんだったら著作権を持つサイドに了解を得る必要があるんじゃないのか。裕也、そこまでやるのか?」
「堅いんだよな、あんたらは。おまえらはどうだ?」
 質問を向けられたダイモスのメンバーは、なにか考えている。どうやらこのバンドは裕也くんのワンマンであるらしく、他のメンバーはめったと発言しないのだが、やがて言った。
「想い出の渚には、裕也のアレンジは合わないな」
 ギターのテツ。
「俺はFSの伴奏をしてるほうが、しっくりした気分だったぜ」
 ドラムのジョー。
「これはがなる歌じゃない。裕也、おまえ、対抗意識ありすぎだ」
 ベースのハル。
「あいつら、俺より歌は上か、なんて、前に言ってたろ。較べられるようなものじゃないんだ。まるっきり別ものの歌なんだから。裕也、おまえはそのセンで歌いたいんだったら、そういうタイプの曲を三沢さんにでも選んでもらえばいいだろ。ってことはつまり……」
 にやりとして、テツくんが続けた。
「全曲コラボね。決まり、でいいだろ、本橋さん、本庄さん? 裕也もOK?」
「本橋さんと本庄さんがいいんだったら、俺には異論はないよ」
 驚いた。めったと発言しない者のひとことは重みがあるのか、本橋、本庄もためらいがちながらも首肯し、乾くんが苦笑いで言った。
「テツはいいこと言うじゃないか。いつももっと喋ればいいのに。交渉がまとまっちまったってことでいいんだな。本橋、文句あるか?」
「……なくもないが、まともな「想い出の渚」を歌ってて、俺も気分は上々だったんだよ。今さら言う必要もないんだろうけど、おまえらの演奏はさすがだ。シゲ、どうだ?」
「はあ、そこんところは本橋さんに賛成なんですが」
 ただ、とシゲくんはダイモスの面々を見つめた。
「伴奏ってのは歌を引き立てるためにあるんだろ。おまえら、歌より目立ちすぎ」
「目立ちたがりだよね、俺みたい」
 幸生くんも言った。
「言葉でなんか目立たなくていい。俺たちの存在はこの楽器が物語る、ってね。よっ、かっこいいぜ、ダイモス!」
「……どうなることかと思ったけど」
 章くんも呟いた。
「これでやれるんだな」
「握手します、リーダー同士で?」
「気持ち悪い」
 提案した幸生くんを本橋は一蹴し、裕也くんは言った、
「俺はリーダーじゃないぜ。うちには上下関係なんてない。あんたらのことをとやかく言ってんでもないよ。人それぞれってな」
「だな、心で握手しておいてくれ。俺もおまえらと実際に握手なんかしたくないし。しかし、改めてこれからよろしく」
 乾くんが結論づけ、万事丸くおさまったのだった。
 それにしてもほんとに、男って対抗意識が強い。あいつら、俺より歌は上か? 裕也くんにもそんな気分があるわけだ。ダイモスとFSはグループとしても異質なタイプで、人それぞれと裕也くんは言っていたものの、俺たちのほうがまっとうだ、と互いに考えているのではなかろうか。
 とにもかくにも、ダイモスとFSのコラボは実現するはこびとなり、私もひと安心したのだが、「想い出の渚」がそののちも耳元で聞こえていた。
想い出の渚……想い出の渚、渚での想い出。私にも大学時代には、そんな想い出がある。今でも完全には忘れてはいない一年生の夏。合唱部の先輩の星さん、三つ年下の私が入部したときから積極的にアプローチしてきて、世間知らずの十八歳少女はぽーっとなってしまって、恋をしてしまった。
 それからそれから、フォレストシンガーズの五人プラス、いなくなってしまった小笠原のヒデくん、そして私の上にも、時は容赦もなく流れていった。
 大学を卒業してからすでに十年余りの時が流れ、思い起こすと眩暈がしそうなほどに、さまざまな事件が私たちの身の上を通り過ぎた。はじめて恋らしい恋をして以来、私は幾度恋をした? 指折り数えてなにになる。過去の恋は私の中で糧になっているのか否か、無駄にはなっていないと信じているけれど、すべては過ぎ去り、私は本橋真次郎と結婚した。
 彼の口から聞くなんて、夢にも思わなかったプロポーズの言葉。本橋くんらしく、甘くも優しくもなかったけれど、真情はしっかりと受け止めて私はうなずいた。今は彼とふたりの部屋。新婚家庭の一室に私たちはいて、若干言いにくそうにためらってから、本橋くんが言い出した。
「俺には理解しているとは言えないんだな。おまえと乾がよく言い合ってるだろ。なんとなくはわかるから相槌を打ってはいるけど、つきつめて考えればわからなくなるんだ。端的に言ってくれないか」
「なにを?」
「あれには深遠なる意味があるのか。おまえも乾も芯から理解して言い合ってるのか。言葉の意味はわかるんだ。語彙の豊富さではおまえと乾には負けるけど、俺も世間一般的には語彙が貧弱ってわけでもないんだろ」
「語彙の話なの?」
「まずはそこからだな」
 古典文学専攻でもありおばあちゃんっ子だったと自称している乾くんの頭脳には、古典的言い回しが充満している。ことわざや格言や箴言や、自己流の美学にもとづく彼独特の言葉やらが、生来の饒舌さとあいまって、次から次へと口から出てくる。私も一応は乾くんの言葉についていけているので、本橋くんの言は当たっているだろう。
 フォレストシンガーズの仲間たちのうちで、乾くんに次いで語彙が豊かなのは章くんではあるまいか。幸生くんは乾くんの影響のもと、語彙は豊富ではあるが、故意にだか知らず知らずにだか、つじつまの合わない言葉遣いも頻繁に出てくる。
 年少のふたりは読書好きではないので、言葉は歌で覚えたと言っている。記憶力がよくて頭の切れる幸生くんは、耳から入ってきた言葉をきちんと咀嚼せずに飲み込んで、消化し切れないまま口に出す傾向がある。一方の章くんは、記憶力も頭脳も幸生くんにひけを取らない上に、消化力も優れていると私には思える。
「本橋くんは理系人間だからね、文系人間の知らない言葉も知ってるし、語彙が貧弱ではないよね。シゲくんだって同じ。若い子と話してると、私たちの言葉を問い返されたりするじゃない? そこで会話が途切れるからイラついたりするんだけど、仲間うちで話してる分にはまずそんなことはない」
「俺はなんとなくしか理解してない場合が間々あるんだよ」
「そうかもしれないとは思ってた。理系ったって日常会話で文系思考は身についてるんだから、知識は本橋くんのほうが豊富なんだよね。理系の知識が加わるんだから」
 理学部出身の本橋くんと、工学部中退の章くんは理系。文学部の乾くんと史学部のシゲくんは文系であろう。私は教育学部、幸生くんは経済学部で、私は基本的には文系だが、幸生くんはどっち? 幸生くんは社会派経済系人間などではなく、典型的音楽人間ともいえるが、音楽人間なのはあとの四人も同じだ。
「幸生くんはしっちゃかめっちゃか頭脳の持ち主」
「幸生の頭の中はラプソディ、章の頭の中はハードロックだって、あいつらは互いをそう評してるぞ」
「言い得て妙かもね。で、なに? 最初はなにが訊きたかったの?」
「あれだよ、あれ。おまえや乾がよく言う。章や幸生もかなりわかってるらしいあれだ。シゲはわかってるのかどうかわからないから訊いてみたんだが……」
 思い出話と呼ぶには近い過去の話を、本橋くんは口にした。
「悪い意味で男、いい意味で男、ですね。そういやあ乾さんはよく言ってますよね。男らしいってのは単純馬鹿って意味だ、なんてことも言ってたな。乾さんも男だってのに、俺なんかは自分が男だってことを深く考えたこともないのに、乾さんの思考回路は複雑怪奇だってのはわかるけど……」
「おまえにもよくわかってないんだな」
「よくはわかってません」
 シゲはそう言っていた、と本橋くんは言った。
「シゲと俺には似たところがあるとおまえが言ってたけど、たしかにその通りなんだろうな。俺だって、俺は男なんだから……とは時として考えるけど、だからなんだ? ってなもんだ。男なのは当たり前だろ。生まれた瞬間から俺は男なんだ」
「そうだよね。生まれた瞬間に人間は性別が決定する。その性別が心を裏切ってるって場合があるらしいけど、話しがややこくしなるからそれは別件として……」
「これ以上話をややこしくしないでくれよな」
「はいはい。私も生まれた瞬間から女だよ。私は女じゃないんだろうか、なんて疑った覚えは一度もない。誰かは言ったけどね、おまえなんか女じゃねえよ、って」
「だからな、話をややこしくするな」
 しばしばそう言った張本人は、しかめっ面で横を向いた。
「わかったよ。ねぇ、本橋くん、知ってる? 私は男性誇示は嫌い。女性誇示も気持ち悪い。男らしくだの男のくせにだの、女らしくだの女のくせにだの言うのは嫌い。でもね、男っぽいのは嫌いじゃないの」
「男らしいと男っぽいのちがいも、俺にはわからない」
「ニュアンスのちがいかしらね。「らしく」と「ぽい」には差があるのよ」
「……むずかしい」
「むずかしいよね」
 こんなふうに話していると、私も芯から理解しているとは言えないのかもしれない、と思えてくる。それはそれとして、男っぽい男は嫌いじゃないんだから、矛盾してる? 矛盾しているのかいないのかもよくはわからないのだけど。
「俺は男なんだから、ってつっぱってる男。目の前にもいるんだけど、馬鹿じゃなかろか、って思うときもある。時と場合にもよるのよね。男なんだから弱い存在を守ってやりたい、ってのは悪くない。弱い存在を女だと思い込まれると気に入らないんだけど、他にも弱いものはあるでしょ? そういうのを守りたいのはいいことよね。その気持ちは女にだってあるけど、たとえば格闘技の素養でもない限りは、肉体的暴力の前では女は無力でしょ。私だってそうだもの。そういう場合には身体を張って弱者を守ろうとする男の心意気っていうのかな。そういうのは決して嫌いじゃないのよ」
「……そうなのか」
「そうだよ。時と場合によるってただし書きがつくんだけど、そこんところは臨機応変にね。いい意味で男、悪い意味で男、っていうのもそれに近いのよ」
「……またむずかしすぎる」
「そうかなぁ。思ってるでしょ、女は勝手だって」
 別に……と言いながら、思ってるよ、と彼の目が言っていた。
「私と話してる誰かさんはそういう男だけど、乾くんだってそうじゃないの。彼は理屈っぽいから、単純な行動や言葉で示すのは美学に反するってとこ? けど、喧嘩は嫌い、暴力は嫌い、口で勝負、とか言ってるくせに、その限りではないでしょ? あなたはなぜ、乾くんと殴り合いをしてみたいの?」
「なんだよ、急に……んん、そうだな。あいつの実力の程を知っておきたいからかな」
「ふむふむ、なるほど。それだけでもなさそうに思えるけど、そうなんだね」
「それだけだ」
 バトルゲーム的興味もあるんじゃないの? とは言わずにおいて、私は続けた。
「長年、私はあなたたちを観察してきた。男ばっかりの中で働いてきたのに、男ってものは私には謎が多いんだよね。男から見ての女といっしょよ。だからこそこの世の男と女は恋をする……」
「そうともいえるんだろうな」
「あなたたちの気質も充分に把握してるとは言えなくて、男ってどうしてこうなの? だから男なんてものはどうしようもないのよ、なんていまだに思うよ。あなたたちもでしょ?」
「まあな」
「私はなにを言いたかったんだっけ?」
 そうそう、乾くんだった。
「俺は男だから、って気持ちは乾くんの中にもあるのよ。はっきり言わなくてもあるのよ。シゲくんと本橋くんは、俺は男だからなどと言う必要もない、俺は男だ、だよね。章くんは言う。俺はなんだってこう男らしくないんだろ、って嘆いてるのを何度も聞いた。幸生くんもあんまり言わないけど、彼は謎だらけだからこの際無視」
「無視なんだな」
「話がいっそうこんがらがるから、幸生くんには引っ込んでてもらおうね。ここにはあらわれる心配もないしね。で、乾くん」
 みんなで話していても、こうして本橋くんと話していても、ふいと話がそれるのは毎度であるので、軌道修正するには改まらないといけない。私は改めて言った。
「だってそうでしょ。思い出してみて。乾くんには女性的な部分もあるけど、男だよ、彼は」
「褒めてるのか」
「さあ、微妙」
「うーん……」
 そうして追憶がよみがえる。乾くんも言った通り、長年つきあっていたら会話に想い出が忍び込むのは当然なのだろう。
 意識してもしなくても、仕事仲間としても友達としても、彼らは男で私は女。心と身体すべてに差異がおのずからあらわれる。本橋くんは幸生くんや章くんにはぼかぼかやるし、乾くんとは取っ組み合いをしたがるし、シゲくんには同類としてのシンパシーに満ちているけど、私には態度が異なる。他の四人だってそうだ。
 男同士でしかできない話をしているところに私が入っていくと、一斉に口を閉ざした。美江子さんがいると言えないなぁ、なんて台詞も幾度も聞いた。美江子さんがいるんだから慎もうね、とも言っていた。美江子さんがいるのにね……失礼、とことわって着替えをはじめたりもした。
 疎外感を覚えて彼らを憎らしく感じたのは、私が若かったからだろうか。今でもそんな気分はなくもないけど、私は男じゃないんだからしようがないな、と達観するようにもなった。
 のけものにされて悔しかった思い出ばかりではなく、彼らはいつだって私を守ろうと心を砕いてくれた。私に不埒な真似をしかけた男に本橋くんが飛びかかったり、シゲくんが突き飛ばしたり、幸生くんは私の手を取って避難したり……あのときは章くんは寝てたっけ、と思い出すと笑えてくる。
 反抗した私に激昂した社長が暴力もどきの行為をしたときにも、早とちりとはいえ乾くんが怒ってくれた。女を殴るような男は、社長といえども許さない、って態度だった。乾くんは昔からああだった。私ではなくても、男が女に暴力をふるうのは断じて許さない、と断固とした態度でのぞんだ。あの日の乾くんの声音、あの迫力がありすぎて怖いほどだったまなざしも覚えている。シンガー生命までもを賭けて社長と対決してくれた。
 至らないマネージャーで、おまけに女だってことで迷惑もかけっぱなしだったけど、あなたたちと歩いてこられてよかった。これからもよろしくね、何度でもそう言いたい。
「わかったようなわからないような、だな」
「いいんじゃない、それでも。私にもうまく説明できないよ。ただね……」
 じっと見つめたら、彼も私を見つめ返した。
「私はフォレストシンガーズのみんなが大好き。中でもいちばん……」
「いちばん、なんだよ?」
「わかってるくせに」
「言わないとわからない」
「そっちから言って」
 言わなくても私はわかってるよ、と想いを込めて見つめたら、彼の腕が伸びてきた。その腕の優しい力に込められた想いは、私のと同じだよね。知ってるよ、と私は、彼の腕に全身を預けた。

 
6

 眼鏡で隠れるし、化粧でつくろえるし、相手は男なんだからこまかいところまで見ないでしょ。大丈夫だよ、と本橋くんにも自分にも言い聞かせてきたのだが、男とはいっても乾くんはたやすくごまかせなかった。
「ミエちゃん? ちょっと失礼」
「きゃぁあ、えっち。さわらないで」
「眼鏡をはずすだけでしょ。えっちとは人聞き悪いな。どうしたの、その目元の傷は? 誰の仕業? おまえか、本橋!」
 たちまち乾くんの声がとがり、近くにいたシゲくんも章くんも幸生くんも寄ってきた。いや、あのその、俺の仕業にちがいないんだが……と口ごもっている本橋くんを横目で見て、私は言った。
「そうなのよぉ。ひどいでしょ。本橋くんがひっかいたの。私は口でいろいろ言ったけど、言葉に暴力で対抗するってなっちゃいないわよね。本橋くんはあいかわらずなんだから。あれだけいつも乾くんと私が口をすっぱくして言ってるのに、いつまでたっても子供じみてるのよ。乾くん、うんと叱ってやって」
「なんか変だな」
 目ざといのも常人以上であるが、察しがいいのも常人を凌駕する乾くんである。一種の超能力者なのかと思わなくもない乾くんは首をかしげ、横合いから幸生くんも言った。
「ひっかくってのはリーダーらしくないですよ。ついかっとして殴っちゃったってほうがリアリティあるよな。それにさ、美江子さんの口調がいつもとちがう。女っぽすぎる。怪しい」
「おまえは女じゃねえよ、だなんて言われるから、女らしくおしとやかにしようとつとめてるのよ。でないと旦那さまに嫌われてしまうかもしれないもの。幸生くんがやってる女芝居を参考にして、女らしく話すようにするの。変?」
「変」
 んまあ、失礼ね、と幸生くんを睨むと、章くんが言った。
「それってほら、最近テレビによく出てくるおねえ言葉の男みたいですよ」
「章くんまで失礼ねぇ。私は女なんだから、女らしく話してもおねえ言葉だなんて言われる筋合いはないんじゃなくて?」
「ぶっちゃけた話、気持ち悪いですよ」
「章くんったらひどいわぁ。幸生くんも言ってやって」
「いや、たしかに気持ち悪いっつうか……」
 みんなして引き気味になっているのがおかしくて、私はなおも言った。
「昨日の夜、喧嘩したの。夫婦喧嘩ってのは言葉では女が優勢なのは世の常だわよね。うちもそうよ。言葉でだったら優勢でいられるけど、腕力を使われるとかなわないじゃない。彼が怒って、殴る蹴るの乱暴狼藉をはたらいたの。顔だけは勘弁してちょうだいってお願いしたのに、ここんところをひっかかれたのよ」
 疑わしそうに乾くんが尋ねた。
「どこに殴る蹴るの狼藉を?」
「服に隠れてるところ」
 おいおいー、と本橋くんは頭を抱え、シゲくんが発言した。
「そこまで言ったら嘘じゃないかと俺も思うんですが、本当なんだったら……本橋さん、どうなんですか?」
「シゲ、おっかない顔すんな。俺がなにか言うといいわけになるから言わないけど、美江子、おまえもいい加減にしろよな」
「ほらあ、また脅かすのよ。シゲくん、嘘じゃないの。本当なの。ちらっと見せてあげようか」
「……目がつぶれるからけっこうです」
「なによ、それは」
 嘘だ、嘘だ、と幸生くんと章くんは異口同音に言い、乾くんも言った。
「あらゆる台詞もそぶりもミエちゃんらしくなさすぎるもんな。それでどうしたの?」
「私? 泣いたわよ。泣きすぎて目が腫れてるでしょ?」
「腫れてないよ。ただ、目元の傷はまぎれもなくある。なにかがかすった跡だね。本橋がもののはずみでひっかいたのか。真相はそのあたりかな。なんにしても、本橋、なんてことをするんだよ」
 実は私は笑いをこらえるのに必死だったのだが、乾くんに睨みつけられた本橋くんは降参のポーズをした。
「そうだよ。ひっかいたんじゃないけど俺がやったんだ。どうにでもしろ」
「……幸生、いい機会だからリーダー殴るか?」
「ええ? 俺が? 美江子さんに乱暴したリーダーに制裁を、って意味で? 魅惑的な誘惑だなぁ。やってみたいなぁ」
「やってもいいぞ」
 うーん、うーん、と幸生くんは腕組みをして悩みはじめ、乾くんは章くんに話を振った。
「おまえでもいいぞ。章、どうだ?」
「リーダーを殴ったら、反動で俺が失神しそう。シゲさんに譲りますよ」
「殴った反動で失神なんかするか。俺にやれって?」
「そうだよ、シゲ。いつか言ったじゃないか」
 俺は先輩と喧嘩するなんて夢にも思えないけど、本橋さんや乾さんが万にひとつ、反社会的行動をしそうになったら、この腕で阻止します、とシゲくんが言ったのだそうだ。話の流れは知らないけど、シゲくんだったら言いそうな台詞ではある。が、今日は行動を起こさず、私に質問した。
「美江子さん、嘘をまじえずに真相を話して下さいよ」
「そうだね」
 お、美江子さんがもとに戻った、と幸生くんは言い、私は幸生くんに舌を出してから続けた。
「喧嘩したのは事実だよ。言葉で私が優勢だったのも事実。そのあとは幸生くんの真似をしてみたの。五十パーセントの嘘。狼少女美江子」
 誰が少女だ? とどこかで聞こえたのだが黙殺して、私は話した。
 昨夜、思い切り口喧嘩をして、言いたいだけ言った私は寝室に引き取った。ベッドに大の字に伸びてストレッチをやっていると、台所から荒々しい物音が聞こえてきた。なにやってるんだろ? と覗きにいくと、本橋くんは冷蔵庫から缶ビールを取り出して一気飲みしていた。
「くそぉ!!」
 ひと声吼え、飲み干した缶を片手で握り潰すと、絶妙のコントロールで飛んできたその残骸が台所の壁に当たってはね返り、私のおでこを直撃して、一部が目元を傷つけたのが真相だった。本橋くんは大慌てで私に駆け寄ってきた。
「うわっ、美江子……いつの間にそんなところにいたんだ?! 当たったのか? なんともないか?」
「なんともなくない。失明するかも」
「美江子……すまん、許せ。ごめん、ごめんな」
「眼鏡かけてないからまだよかったよね。私の眼鏡は高いんだから。すこし前に社長のせいで買い換えたばかりなのに、またまたとなると失費が痛い」
「眼鏡なんかどうでもいいだろ。おまえの目は?」
「なんにも見えない」
「……美江子」
 うつむいて泣き真似をしてみせると、本橋くんはそばに来て悲しそうな声を出した。
「ごめんな。ごめん。ごめんごめんごめん。俺はどうすりゃいいんだ」
「どうもしなくていいよ。眼鏡かけてなかったらよく見えないのは仕方ないし。やっちゃったものは仕方ないしね。不可抗力じゃないの。平気平気」
「泣いてるんじゃないのか?」
「泣くわけないでしょ。こんなんで泣いてたら、あんたみたいな男とはつきあってられないの」
「そうだな。許してくれるのか」
「もちろんよ。仲直りしよう」
「ああ」
 そのようなわけでそのあとはそれなりに甘い時間だったのだが、そこまで他人に話す必要はない。その前までを話すと、本橋くんが言った。
「昨夜からこいつは嘘ばっかり言うんだよ。幸生の変な癖がうつってきたんじゃないのか」
「俺は関係ないもんね。だけど、やっぱりリーダーの仕業じゃん。シゲさん、行け行け、やっちゃえ」
「おまえに命令されるいわれはない」
「さようでございましたね。本庄先輩、おやり下さいませ」
「なにをだよ? どうなんですか、乾さん。こういう場合は……」
 さあ、どうするつもり? と本橋くんも私も含めた十の瞳に注目されて、乾くんは応じた。
「そういう顛末なんだったらあり得るよな。たとえ不可抗力とはいえ、ミエちゃんに怪我をさせたのはおまえだろ。だいたいからして飲み干したビールの缶を投げるのが悪いんだ。きちんとゴミ箱に捨てろ。そしたらこんなことにはならない」
「ああ、その通りだ」
「俺も頭に来てるときとかはやらなくもないけどね」
「幸生くんでも頭に来るの?」
「来ますよ、ごくごく稀には。美江子さん、横槍はなしね」
 横槍はキミの特許だったね、と言いながら見つめると、幸生くんは目をそらした。
「俺んちには他の人間はいないから、独り者はやってもいいんですよ。リーダーは駄目でしょ。シゲさんはやらないよね?」
「ものを投げたことはない、はずだ」
「はず? 章はやってるだろ」
「女の子にものを投げつけたこともあるよ。近頃はそんな相手もいないなぁ。彼女と大喧嘩して取っ組み合いまでやった日々がなつかしいよ」
「なにしみじみしてんだよ、おまえは。章だったら女の子と取っ組み合いしても互角に近いだろうけど、他のひとは圧倒的に腕力では女より上なんだから」
「なんだと、てめえ。俺が女と互角?」
「近いって言ってんだろ。おまえも横槍入れるな」
「どっちが先に……」
 女と互角だと言われると腹が立つものであるらしい。いくら章くんでもそうでもないのだろうけど、誰もそう言ってあげないので私が言った。
「章くんだって女よりは強いよね」
「美江子さん……なぐさめられると俺はよけい惨めですよ」
「そうなの? そんなら言わない。幸生くん、続きをどうぞ」
「はい。だからね、結論。リーダーが悪い」
 ああ、俺が悪い、と本橋くんは認めた。こういう場合に相手が誰でもものをはっきり言うのも、幸生くんの特質である。乾くんはもとより、本橋くんもシゲくんも言うべきことは誰にでも言うけれど、章くんだけちがうかな。章くんは先輩におまかせ、の態度であることが多いけれど、私は彼のすべてを知っているわけでもないので、コメントは控えておこう。
「だからどうすんだよ。シゲでも乾でもいいぞ。どうとでもしろ」
「ミエちゃん、どうしましょうか」
「幸生くんや章くんだといや? 先輩のプライドが許さない?」
「幸生でも章でもいいけど、なにをするつもりなんだ。俺をぶん殴ろうってのか。ここにいる奴らに殴られかかったら、俺は反射的に反撃に出るかもしれない」
 ずるーい、リーダー、脅迫、と幸生くんが言い、本橋くんは彼を手で制した。
「幸生、早まるな。ちがうんだ。やりたいんだったら幸生と章が俺の手をつかまえて、シゲなり乾なりが殴ればいいんだよ。シゲには言うまでもないだろうけど、乾、やる気だったら全力でやれよ。おまえのへなちょこパンチがどの程度か見極めてやる」
「……話が異様な方向にねじれてるな」
「うんうん、乾さんの思考回路のようだ」
 乾くんの言葉に幸生くんが合いの手を入れ、シゲくんは言った。
「なんだかねぇ、そういう問題なんだろうか、って気がしてきましたよ。乾さん、本橋さんに乗せられてません?」
「俺もそんな気がする。まさかミエちゃん、きみもぐる?」
「またまたー、乾くんったらうがちすぎだよ。本橋くんは常々、乾くんの実力の程を知りたいって言ってるよね。それに私が協力したって? そんな下らない協力はしないの。私は本橋くんを叱ってやってとは言ったけど、殴ってやってなんて言ってないでしょ? 叱るって殴るってこと? だから男ってのは……」
 まったくだね、と乾くんは苦笑した。
「ミエちゃんの顔に傷をつけたのは本橋だけど、その場でそれを防ぐためってんだったらともかく、今、なんで俺がおまえを殴る必要があるんだろうね。おまえが幸生や章をぼかっとやるのは、時によっては一種、張り詰めた空気を緩和するって意味もあるんだけど、俺がそんなことをしたら逆効果じゃないか。空気が緊張しちまうよ。だからやらない」
「なんだ、つまらん……いやいや、おまえがそれでいいんだったらいいさ」
 つまらん、ねえ、私は話がこう展開するとは考えていなかったけど、本橋くんにはそういう意図があったわけだ。だから男は……というより、だからこのひとは……本橋真次郎は永遠に本橋真次郎なのである、とでも言うしかないだろう。
「この話はここでジ・エンドね。なかなか興味深いお話でしたわよ。でね、乾くん、私、乾くんのご両親にお会いしてみたいなぁ。お母さまには一度お会いしてるけど、お父さまとはまだだし。駄目かしら?」
「金沢での仕事のついでにってやつ?」
「ついでなんて失礼だわ。それはそれこれはこれ」
「ミエちゃん……その言葉遣い……いいんだけどね」
「乾くんまで気持ち悪がるの? そう出られるとますますやりたくなっちゃうわ。根性悪いのは乾くんの影響で、嘘とお芝居は幸生くんの影響で、先輩後輩にこだわるのはみんなの影響よね。私ってあなたたちの悪影響ばかり受けてるんだわ。このままだと徐々に肉体が男性化してきたりして……」
「ミエちゃん、今日はこころなしか変だね」
 こころなしかじゃないかも、とまたもやどこかで声が聞こえたのだが、乾くんは首を振って言った。
「わかったよ、わかりました。おふくろに連絡しておくから、金沢での仕事ついでに我が家でひとときをすごしていただきましょう。結論がそんな地点に到達するとは、俺には想定外だったよ」
「私もなんだけどね」
 乾さんちに行くのかぁ、楽しみなような怖いような、と幸生くんと章くんがこそこそ言い合っている。他方では本橋くんとシゲくんがなにやら相談している。私としても楽しみなような、ちょっぴり怖いような、だった。


 この女はこれでも女なのか、と思う女は俺は見慣れてるんだよ、と本橋くんが言ったのは、彼のお母さまを示していた。たしかに本橋くんのお母さま、今では私の義母でもある巴さんは大柄で豪快で太っ腹で、女々した女性ではない。乾くんのお母さまは、義母とも私の実の母ともまったくタイプがちがっていた。
「あれが絽の着物ってやつ?」
「幸生くん、絽は夏の和服だよ。あれは……なんと言うのかは知らないけど、絹でしょ。絽も絹なのかな。加賀友禅じゃないんだよね。私にもわからないから、あとで乾くんに訊いてみようね」
 豪華絢爛たる美女ではないけれど、楚々とした和風のたおやかな美女。淡い紫のお召し物をまとった乾とわ子さんは、その形容がぴったりの加賀の女だ。とわ子さんのかたわらには長身の紳士が立っている。乾くんのお父さま、乾隆之助氏だ。乾くんは父親似なのだろう。体格も涼しげな顔立ちもよく似ていた。
「前に来たときにも言ったかな。な、美江子、俺と乾の人となりのちがいはここに原点があるんだぞ」
「そうだね、本橋くん。乾くんは私たちとは人種がちがうんだ」
「生まれつきがちがいすぎるもんな。乾は貴種ってやつなのか」
「そこまで言う? 乾くんは否定するよ」
「否定しても、氏育ちは人間を……しかし、にしたらあいつはひねくれてるよな。それもこれもか。俺にはうまく言えない」
「言えないんだったら言わなくていいよ」
 仲間うちでわいわいやっているときには、乾くんは必ずしも上品ではない。てめえだのこの野郎だのメシを食うだの腹減っただの、うるせえんだよだの知らねえよだの、本橋くんほどではないにしても荒々しい言葉遣いもする。立ち居振る舞いもお行儀がよいわけでもない。
 が、故郷に帰って生家に身を置くと品がよくて、いかにもこのご夫妻の息子だなぁ、と思える。貴種とまで言うと言いすぎであろうが、貴族的な香りがしなくもないのである。乾隆之助氏は養子ではなく、乾とは隆之助氏の姓なのだそうだが、このお屋敷は母方の代々続く旧家なのだそうだ。おふたりは結婚して、とわ子さんの母上、乾くんがいまだに呪縛されていると言うおばあさまと同居したというのであるらしい。
「失礼」
 二度目なのですこしは慣れた挨拶をして、案内された部屋にお行儀よくすわっていると、涼やかな男性の声がして、私たちがすわっている座敷に隆之助氏があらわれた。
「隆也、私は仕事に行くから、みなさんにはゆっくりしていただきなさい」
「承知しました。お父さまもあんまり働きすぎないで下さいね。ご自愛なさいませんと」
「きみもだよ。きみたちの仕事は忙しくてこそ花なんだろうけど、働きすぎは若いといってもよくない。本橋さん」
「は、はい」
 かきーんと音がしそうにしゃちほこばって応じた本橋くんに、隆之助氏は言った。
「本庄さんもだね。他の人たちにしてもそうなんだろうけど、あなたたたちは妻のある身になったんだから、くれぐれも身体を大切にして下さい。美江子さん、みなさんをよろしく頼みます」
「はい、私は私なりに精一杯つとめますので」
「木村さんも三沢さんも、仕事ばかりじゃなくて身体も大切にして下さい。では、私はこれで……」
「ありがとうございます」
 みんなそろって深々とお辞儀をし、幸生くんは手を振った。
「行ってらっしゃいませー」
 隆之助氏が静かに出ていくと、幸生くんはほおーーっと息を吐いた。
「うひゃ、肩がこっちゃったよ。お父さま、お母さま、きみ、隆也さん。乾さんのお宅では親子の会話はこうなんですよね。うちでは母ちゃん、父ちゃん、幸生、この悪ガキ、でしたけどね。はあ、世界がちがいすぎる。だけど、さまになってますねぇ。乾さん以外の誰にも無理な会話が乾さんだと自然ですよ」
「慣れてるからだろ。好きでやってるわけでもないけど、他の話し方なんかできないんだ」
「本橋くんちでも、真次郎、あんたって子はぁ……なんだよね」
「うちのおふくろは息子三人なんだぞ。ああなるのが自然だろ」
 我が家もそのようなものだった。私の母は娘ふたりと息子ふたりを育てたのだから、さぞかし私たちが子供のころには髪を振り乱して大奮闘の日々だったにちがいない。シゲくん、幸生くん、章くんのご両親に会ったことはないし、彼らはめったに親兄弟の話はしないのだが、想像はつこうというものだ。
「おまえは育ちがいいからさ」
 言った本橋くんに、乾くんが切り返した。
「育ちがいいってのはミエちゃんみたいのを言うんだ。妹ひとりと弟ふたりの面倒を見て、ご両親の手助けをして長女としてしっかり育った。だからこんなに気性の強い気骨のある女性に成長したんだよ」
「ついでに鼻っ柱も強い。気性は荒い。自己主張も強い」
「それでこそミエちゃんだろ。そういうおまえはミエちゃんのそんなところに惚れ込んで結婚してもらったくせに」
 そうかね、と本橋くんは言ったが、そんなことはないぞ、とは言わなかった。
「俺なんかは甘ちゃんだよ。なにが育ちがいいんだか。世間知らずの金沢のお坊ちゃんが東京に出ていって世の荒波にもまれるはずが、いくつもいくつもの防波堤に守られてたいした苦労も知らず、大人にもなり切れず……ま、いっか。金沢は俺には……」
「乾くん、こうしたのはよくなかったの?」
「よくなくはないよ。ただね……金沢にはなにかとあるんだ。過去も現在も未来も」
「よくわからない」
「話せるときが来たら話すから、ミエちゃん、気にしないで」
 なんとなくみんなしてしんとしてしまっていたら、とわ子さんがあらわれた。と、本橋くんが進み出た。
「このたびは全員でお邪魔しまして……改めてお礼を申し上げます。いつぞやは浴衣を六枚もいただきまして、まことにありがとうございました。あのせつはきちんとお礼も申しませんで、すみませんでした」
「美江子さんにお礼状をいただいておりますよ」
「いや、僕はリーダーとして、率先してお礼を申すべきでした。それともうひとつ、乾くんを我々の仲間にすることにご賛同いただきまして、重ね重ねありがとうございました。こんな挨拶でよろしいんでしょうか。どうも不調法きわまりなくて……」
「お心は充分に伝わって参りました。隆也さん、あなたも本橋さんのもとで働けて、よかったわね」
「お母さま、俺は本橋のもとで働いてはおりません。ともに働いてるんです」
「あらら、これはどうも失礼」
 楽しげな笑い声がはじけて、場が和んだ。それを潮に若い女性が三人、料理のお膳を運んできて、宴がはじまった。正座なんてへっちゃらだよ、のつもりだったのだけどしびれが切れてきて脚をこっそりさすっていると、とわ子さんがそばに来た。
「私こそ、美江子さんと本橋さんがご結婚なさったのに、なんの挨拶も致しませんで。おめでとうございます」
「はい、ありがとうございます」
「遅くなりましたけど、お祝いの品を受け取っていただけませんかしら」
「え、そんな……」
「お祝いだなんて申し上げるのも失礼なものなんですよ。本橋さん、美江子さん、こちらへ」
「は、はい」
 どうしてもへどもどしてしまうのだが、本橋くんと私はとわ子さんに別室へと導かれた。
「隆也のお嫁さんになって下さる女性にさしあげたくて、私の派手になってしまった着物を整理したりしてるんですけど、いつになったら隆也は……愚痴になってしまいますわね。隆也はなにも言ってくれないんですけど、美江子さんはご存知ありません?」
「乾さんの恋人ですか。すみません、知りません」
「そうなんですか。隆也は女性には人気がないのかしら」
 あります、もてます、と言っていいものか、以前にも似た会話をしたような。私が悩んでいると、とわ子さんは気を取り直したように言った。
「こんなものですけど、お納め下さいな」
「……あの……とてもとても立派な……」
「みなさんの前で開けてごらんになる? 美江子さんにも本橋さんにも、隆也はお世話になりっぱなしなんですもの。それを思えばささやかにすぎる贈りものですわ」
 ささやかなんてとんでもない。ふたつの畳紙を開いた中から出てきたのは、一方は女ものの朱鷺いろの地に小花柄の和服で、一方は濃紺の男ものの和服だった。
 声も出せなくなって私は本橋くんと目を見つめ合っているしかなかったのだが、畳紙を捧げ持って座敷に戻り、みんなにお披露目すると、乾くんが言った。
「お母さまのお見立てですか。浴衣もよかったけど、その着物もミエちゃんには似合うだろうな。加賀小紋ですよね。正式な着物ってわけでもなくて、普段着と考えていいんでしょ。本橋のも加賀染めでしょうけど、アンサンブルタイプだから気軽に着れるんですよね。着てみたら、ふたりとも?」
「え、え? こんな……いただいていいの、本橋くん?」
「ええーっと……いただいてって……辞退するのは失礼だろ。だからってこんな……」
「なにをふたりして泡を食ってんだよ。いただいとけばいいんだ。お母さま、もらってくれなかったら泣きますよね」
「はい」
 澄まし顔でとわ子さんが答え、本橋くんと私はさきほどの若い女性にそれぞれ別室へと連れていかれた。行儀見習いに来ている親戚の娘さんであるらしい若い女性が、着物を着付けてくれた。行儀見習いなんてものがこの現代にあるとは、驚きの連続だった。本橋くんも着物を着せてもらっていて、私を認めると照れた表情で言った。
「しびれが切れてんだろ。ころぶなよ」
「ころばないよっだ。他になにか言うことないの?」
 花嫁衣裳姿の私を見てさえも、おう、誰かと思ったらおまえか、としか言わなかった奴である。今日も私の期待とはまるきり別の台詞を口にした。
「滅茶苦茶高い着物なのか」
「知らないけど、これも加賀友禅の一種? 乾くんにも和服を見る目があるんだね。加賀小紋だなんていうんだからお高いんだよね。ほんとにいいのかなぁ。こんなのいただいて」
「……うーん。乾がいいと言うんだから……」
「いりません、なんて言えないよね。でも、こんなに素敵な着物ははじめて。正直に言ったら嬉しい」
「そうか。うん、俺も嬉しいよ」
「なにが?」
 つと身をかがめて、本橋くんは私の耳元で言った。
「俺の女房も着るものによったら、美人に見えるからさ」
「……私はもともと美人でしょ?」
「そうだったかなぁ。俺はおまえの添えものだろ。早く行け。みんながわくわくして待ってるぞ」
「和服の美女登場を?」
 着付けをしてくれた女性が笑っている。本橋くんは私の手をうやうやしく取り、襖を開けた。
「じゃーん。見たいか? 俺の奥さん」
「リーダー。そんなベタなのはいらないから、見たい見たい見たーい」
 幸生くんが叫び、私が本橋くんのうしろから出ていくと、章くんも叫んだ。
「うわっ、まぶしすぎて正視できない」
「美江子さん……綺麗だなぁ」
 目を丸くして言ったのはシゲくんで、恭子さんはもっと綺麗って言いたいんでしょ? と幸生くんがまぜっ返している。乾くんは典雅なまでに見える微笑をたたえて言った。
「お母さまのお見立てと、ミエちゃんの生来の美貌が見事にマッチしましたね。俺は俺の語彙の貧弱さが悲しくなるよ」
「乾くんの語彙が貧弱だったら、語彙が豊富なひとなんかいないってことにならない? 美貌って誰の顔? お母さま、失礼しました。ありがとうございます」
「素敵ですよ、本橋さんも美江子さんも」
「うんうん、リーダーもなかなか素敵ですよ」
 とってつけたように言うな、と幸生くんに言い返しながらも、本橋くんは私をまっすぐに見つめて、惚れ惚れするよ、と口の動きで言った。着物ってこんな効果があるんだねぇ。知らなかった。これからは私もせいぜい着物を着よう、着付けを習おうかな、などと私は考えていた。


 気がつくと乾くんがいなかった。純和風の夕食でお行儀よくお行儀よく、とつとめていたら食べたのか食べてないのかわからなく、そのくせおなかも胸もいっぱいになって、私も外に出てみた。乾くんの生家は金沢市の中心部から離れた閑静な地にある。近くを流れている川が犀川だ。探していると土手にすわっている乾くんの背中が見えた。
「逃亡したらいけませんわよ、隆也さん」
「ああ、ミエちゃん。きみも逃亡してきたの?」
「逃亡はしてないの。私はへっちゃらなんだけど、うちの男性方はお行儀よくってのができないひとばっかりだから、かなりくたびれただろうね。乾くんはなにしてるの? くたびれてないでしょ?」
「未来のひとに想いを馳せていたんだよ」
 未来のひととは、将来恋人となる、あるいは妻となる女性なのだろうか。川面を渡る風に長めの髪をなびかせて、乾くんは前を向いたままで言った。
「好きなひとがいる。だけど、そのひとは確固とした形になってくれないんだ」
「……片想い?」
「そうなのかもしれない。心が通い合ってるとは言いがたいよ。心が通い合った瞬間はあったのかもしれない。なかったのかもしれない。なにもかも心もとない」
「謎めいたお言葉だね。ひとりになりたいの?」
「ミエちゃんがいてくれると嬉しいよ」
 となりにすわって私も風を感じていた。なにをどう言えばいいのだろう。ううん、こんなときにはなにも言わず、となりにすわっていればいい。それとも私は邪魔かな? 
 風がつめたくなってきたね、と言って、乾くんがジャケットを脱いで私に羽織らせてくれた。
 それからあとは、もの想いに浸っている乾くんの邪魔にならないように、私も自身の想い出に浸っていた。いつになっても女心には疎い男と、可愛くもねえ女が結婚したんだよね。乾くんの未来のひとは可愛い女? そのひとと結ばれるといいね。乾くんとそのひとだったら私たちとは全然ちがう、こんなに喧嘩ばかりはしないカップルになれるんじゃないの?
 どうしてなんだろう。乾くんは若いころから女心もちょっとはわかっていた。十八歳の女心なんて雛鳥のようなものだけど、男の子の心とは明らかにちがっていたはずだ。本橋くんは母親以外は男ばっかりの家庭で育ち、屈強な空手家のお兄さまたちと、俺そっくりだと本橋くんが言うお父さまに鍛えられて、変に男らしく成長したらしい。お母さまにしても男にもまれて豪快な女性であるので、本橋くんが女心に無知なのはわからなくもない。
 おばあちゃんっ子の乾くんは、おばあちゃんから女心を教わった? それとも、女の子にもてたから? 洞察力に恵まれてるから? 乾くんの女心洞察力も的外れな場合もあるけど、本橋くんよりはずっとわかっている。
 とわ子さんが見せてくれたアルバムに、高校時代の乾くんがいた。美少年というほどではないけれど、すらりと涼しげな長身の少年だった。髪を短くして学生服を着込んで、お澄まし顔で写真におさまっていた。さぞかしもてたんだろうな、と思える高校生ぶりだった。
 頭脳明晰な優等生だったにちがいない乾隆也は、東京に出てきてからは「かっこいい」とみんなに言われる男になった。背が高くてすんなりしていて、着こなしが上手だというだけでも都会的という形容ができる。顔立ちは決して美形ではないのだが、知性のひと乾隆也は、優しさと鋭さに理知の香りをまとってすっくと立っている。私のイメージはいつだってそうだった。乾さんってどんなひと? と質問されるとそう答えてきた。
「俺たちの中でいちばんもてるの? 本物のもてる男は乾さんだな」
 声帯にも男と女が同棲しているのだそうだが、心にもいくぶん女がまじっているのではないかと思える幸生くんと、私はもっとも話が合う。そう教えてくれたのも幸生くんだ。
「章は顔だけでもてる。リーダーは美江子さんの前では言えないからこの際無視。シゲさんはもてないって言ってますよ。たしかにそうかもなぁ。けど、シゲさんには奥さんがいるんだからいいじゃん。俺は……もてると思う。もてた経験はある」
「ナンパも得意なんだよねぇ」
「それは昔の話ですよ。だけどさ、俺は乾さんみたいなタイプじゃないから、もてても駄目だな、俺、頭悪いから」
「……頭、悪いの? 幸生くんが? そうすると私は史上最悪の馬鹿……」
「なんで? 美江子さんはかしこいじゃん」
「真面目に切り返さないでよ。まあね、乾くんは頭よすぎ? その頭のよさが奇妙なほうへ向いてそして……」
 クールでいながらずっこけたところもなくもなく、ユーモア感覚も優れている。理屈っぽい、皮肉っぽい、根性悪い、ゆがんでる、執念深い、ねじれてる、奇々怪々思考力、饒舌すぎ、考えすぎ、などなどと欠点もあげつらえば多々あるのだが、逆にそれが魅力になる場合もあるだろう。本橋くんとは性格が百八十度ちがうのかもしれない。
 かっこいいんじゃなくてかっこつけなんだよ、と私は乾くんを悪し様に言い、彼も認めていたけれど、ほんとはあなたはかっこいいよ、自信を持ちなさい、って言ってあげようかな。
「駄目、美江子さん」
 もの想いに割り込んできたのは、幸生くんの声だった。
「乾さんを自信過剰にさせるとろくなことにならないよ。俺にも乾さんって謎だらけなんだけど、あの理論武装のハリネズミ体質に、俺ってかっこいいんだ、ミエちゃんも保証してくれた、そうだ、かっこいいんだ、ってのが加わると怖い。天下無敵の乾さんになっちゃいますよ。あのぐらいでいいの、彼は」
「ひとは自信ばかりだと鼻持ちならない?」
「そうそう。かっこいいって台詞は俺に言って」
「幸生くんはかっこよくはない。可愛いってほうだね」
「……可愛いなんて聞き飽きたよぉ」
 これは以前にかわした会話の再現だ。理論武装のハリネズミ、ただし、針をあからさまにとがらせずに毛皮のコートを着てるんだよね、と幸生くんが言ったのは言い得て妙だったのでよく覚えていた。
「なにを思い出し笑いしてるの、ミエちゃん?」
 どのくらい時間がたったのか、乾くんが口を開いた。
「笑ってないよ。いろいろと思い出してはいた。楽しかったね、私たちの過去は」
「うん」
「楽しかった日々は続いていくんだよ。また何年もたって……私は想像してるの」
 何年後の未来だろうか。大人数の集団が想像の中にいる。乾くんにも幸生くんにも章くんにも、女性が寄り添っている。顔は見えないけど、彼らの伴侶。シゲくんと恭子さんもいる。本橋くんと私もいる。周囲を駆け回る子供たち。いつかは私たちにも……? 子供たちの顔も明確には見えない。誰が誰の子供だかもわからないけど、シゲくんの子供はまちがいなくいた。男の子に見えた。
 最年長のお兄ちゃんになったシゲくんの長男が号令をかけて、一斉にいたずらをはじめたりして……泣いたり笑ったり叫んだり、あばれたり取っ組み合ったり、ママやパパがそんな子供たちを微笑ましく眺めている。しまいに本橋くんが怒鳴るのかな。
「おまえらはうるさいんだ。いい加減にしろーっ!!」
 永遠のリーダーはいつになっても怒り役で、おじちゃん、怖いよーっ、と子供たちがそれぞれのパパやママに駆け寄る。幸生くんや章くんはどんな顔してパパをこなしているのだろう。幸生くんや章くんの子供のママはどんなひと? あなたたちに会いたいな、早く実像になって私の前に出てきて。
「乾くんはどんな想像をしてた?」
「ミエちゃんは?」
「勝手な想像だよ。ひとりよがりかもしれないね。なんにしたって私たちは未来も楽しいはず。前向きに生きなくちゃ」
「さすがに本橋と同じことを言うね」
 帰ろうか、と乾くんが言い出したとき、歌声が聞こえてきた。本橋くん? なんともよく伸びる甘く艶っぽい声で、彼は歌っていた。Only you~~と語尾を長く長く伸ばす歌が、本橋くんのあの声で耳に届いてくる。ファルセットになっても美しく艶めいていて、乾くんも歌い出した。

「Only you
can do make this world seem right
 only you make the darkness bright
only you and you alone
can thril me like you do
and fill my hear
with love for only you」

 歌となると私に出る幕はないので、無言になって聴きながら考えていた。あなただけ。あなたはただひとりのひと。俺のただひとりのひと、私のただひとりのひと。乾くんの言う未来のひとにも「only you」を歌ってあげて。
 ゆっくりと本橋くんの姿が近づいてくる。歌を続けながら手を振っている。直接言うのは照れくさいけど、あなたは私のただひとりのひとだよね。これからも永遠に、だといいね。
 ずっとずっと、私たちは一緒。住まいは神戸にあるものの、戻ってきたヒデくんも、近く家族のふえるシゲくんの一家も、幸生くんも章くんも、乾くんの伴侶になるかもしれない女性も、そうしてずっとずっと永遠に。こうしている瞬間、私の願いはただひとつだった。


END

                                                 


 
 
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