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小説87(想い出の渚・そして……)前編

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結婚式
フォレストシンガーズストーリィ87

「想い出の渚・そして……」前編

1

 低い男の声が私の名を呼んだ。成田空港で山田さん、と呼びかけてくるのは誰? 見渡すと、背の高い男がふたり、私を見ていた。両名ともに色の濃いサングラスをかけて、ニットの帽子をかぶっている。服装はなんの変哲もないのだが、空気がうろんに感じられて、私は足を早めようとした。
「逃げなくてもいいでしょ」
 早足で歩いても、脚の長い長身の男にはじきに追いつかれてしまい、身をかがめた彼は言った。
「ここではやばいんで、来てもらえないかな」
「お断りします」
「俺を忘れた?」
「人違いではありませんか。急いでますので……」
「ちらっと顔を見てくれないかな」
 さっさかさっさか歩いているのに、彼は悠然とついてくる。もうひとりもついてくる。悲鳴を上げてやろうかと考えて振り向いたら、話しかけてきているほうと視線が合った。彼はサングラスを頭の上にずらして、ウィンクした。
「……沢崎さん?」
「覚えててくれたんだ。なーにもったいつけてんだよ、ってなものだろうけど、やばいってのはわかるでしょ。あいつは悠介。来てくれますか」
「は、はい」
 心臓がどっきんどっきんしてきた。たった一度会ったきりの私を彼が覚えていたのも、こんなところで私に話しかけてくるのも不可解だ。なにかしら魂胆があるのだろうか、ナンパ目的? などと考えたら、うぬぼれてんじゃねえよ、と言われそうだし。
 こんなところではやばい、と彼が言うのはもちろん理解できる。グラブダブドリブの沢崎司と中根悠介がふたりでいて、ファンの方やメディア人種に発見されたら大騒動が起きる。フォレストシンガーズの誰かがそのたぐいの人々に発見された場合とは、騒動が桁外れになりそうだ。
 なにか用事でもあるのだろうか、と穏健に考えておくことにして、私は沢崎さんについていった。中根さんもそ知らぬ顔でついてきて、連れていかれたのは駐車場だった。
「乗って」
「あのぉ、沢崎さん、なにかご用なんですか」
「別に用はないんだけど、下手な場所で話せないでしょ。車の中なら話せる。山田さんも車?」
「私は車は持ってませんから」
「海外旅行に出かけるんじゃないよね」
「妹を見送りにきて、帰ろうとしてたんです」
「そんならいいでしょ。俺たちも帰るんだから、送っていくよ」
「そんな……」
 いいから乗れよ、とうしろから中根さんも言い、とりあえず車に乗った。私がバックシートにすわると、中根さんが運転席、沢崎さんが助手席に乗り込み、沢崎さんが言った。
「仕事でニューヨークに行ってたんだよ。あとの三人はニューヨークに残って、悠介と俺は帰ってきたんだ」
「車は駐車場に置いたままで?」
「そうだよ」
 駐車料金はいかほどになるのだろうか。さすがに稼ぎのある方は……ため息しか出ない。もったいなーい、と言いそうになったのだが、彼らにははした金であろうから、お節介はやめておこう。なんとなく気分を害していた私に、沢崎さんが質問した。
「妹さんを見送りに?」
「妹が念願のパリに留学することになったんです。両親も弟たちもいるんですけど、東京で暮らしてるのは私だけだから、代表して見送りにきたんですよ」
 妹の佳代子は五つ年下の二十四歳。デザイン専門学校を卒業して、一旦はアパレルメーカーに就職した。デザイナーの卵として働いてお金を貯めて、かねてからの夢だったパリ留学を実現させた。
 専門学校時代から佳代子はパリに行きたいと熱望していた。そのためにはお金がいる。いっそ風俗にでも……などと言い出して、本橋くんに相談して、やめろと言われて怒り狂い、本橋くんの手に噛みついた。やっぱりおまえの妹だよな、と本橋くんは言っていた。気性が荒いのはそっくりだと言いたかったのだろう。
 なのに本橋くんは、みんなにカンパを募ってくれて、佳代子に渡してくれとお金をくれた。どうせ行くなら長期留学がしたいというわけで、佳代子はそのお金を貯金し、働いてふやして旅立ったのだった。我が妹ながらよくやったよ、と肩を叩いて、飛び立つ飛行機を見送った。さて、帰ろうかとなったところへ、うろんな男のふたり連れに声をかけられたのだ。
 うろんではないのは知っている。しかし、帽子を脱いだら、中根さんは長い長い鳶いろの髪が背中までこぼれるし、沢崎さんは脱色してエメラルドのメッシュを入れた、中根さんよりは短いとはいえ、普通の男にはまずない長い髪。ロッカーなんだから普通じゃないのは当たり前だろうけど、変装してたんだろうけど、私の周りにいる男たちとは風体がちがいすぎる。
 サングラスもはずしてまじまじ見つめられたら、どぎまぎしてしまう。ふたりとものあまりの美貌に、平静ではいられない。こんなにも綺麗な男がこの世にいるんだね、だ。送ってもらうとも言っていないのに、中根さんは勝手に車をスタートさせ、沢崎さんは言った。
「山田さんはどこの出身?」
「栃木です。あのね、けっこうですから。ひとりで帰りますから」
「別件の用でもあるの?」
「帰るだけです」
「そんならいいじゃないか。取って食ったりしないから。こっちはふたりいるんだし、車をホテルにつけたりしないよ」
「司、馬鹿言ってんじゃねえ」
「馬鹿じゃねえだろ。おまえとはちがって、俺は美人は好きなんだよ。俺はフリーなんだから、山田さんもフリーでさ、一晩つきあってくれるってんだったら話は別だぜ。そうする? そうするつもりだったらどこかで降りて、悠介は帰ればいいよ。この車、悠介のだから」
 ロッカーという人種ともつきあってきて慣れてきているつもりだが、これほどの大物でもロッカーはロッカーなのか。バカらしいので返事をしないでいると、沢崎さんが低く笑った。
「冗談ですよ。そんなおっかねえ顔しないで」
「そういうのは、もっと若い子がやることですよね」
「そう? 俺、若いよ」
「失礼ですけどおいくつですか」
 ほとんど口をきかずに中根さんは運転に専念していて、喋っているのは沢崎さんばかりだ。ルームミラーで私の顔を見て、沢崎さんは答えた。
「あんたらと変わりない年頃だよ。山田さんは年寄りなのか」
「まだまだ若いつもりです」
「だろ。そしたら俺らも若い。俺たちはみんな同い年で、俺がリーダーだってことにされてるんだけど、俺は見ての通りの馬鹿だから、リーダーにしておいたらちゃらんぽらんもちっとはましになるかって、そういう意味なんだな。あんたらんとこの本橋とは、リーダーったってリーダーがちがう」
「本橋くんをリーダーにしたのは、乾くんのそれに近い謀略があったとも噂されてるんですよ」
「そうなのか? あいつ、貫禄あるじゃないか」
「リーダーになったからこそ、もあるんじゃないかな」
「ほぉ、そういうもんかね。この間は……」
 この間とは半年ばかり前だ。去年の冬のはじめごろに、ロックバンドのジョイントライヴにみんなして出かけた。みんなして、ではあったのだが席は別々で、並びの席は私と章くんだけだった。章くんがグラブダブドリブのドラマーであるドルフ・バスターと昔なじみだと聞いて、会わせてよ、と軽い気持ちで言ったのは私。章くんは渋っていたのだが、ライヴ終了後に会場で本橋くんとも会い、章くんをせっついてグラブダブドリブの控え室を訪ねた。
 初対面にも関わらず、ヴォーカルのジェイミー・パーソンが、本橋くんに挑戦して、ジェイミーVS本橋&章の歌の勝負とあいなり、私も横で聴いていた。勝敗はつかなかったものの、余興のようなそんな場面でも、ジェイミーの歌は素晴らしかった。本橋くんと章くんの歌も素晴らしかったからこそ、ジェイミーも、勝負はつかなくてもいい、と引っ込んだのだろうけど。
 そのあとで飲みに誘われたのを本橋くんが辞退し、章くんもついてはいかずに三人で帰ったのだが、翌日はグラブダブドリブの話題でもちきりとなった。あれ以来、ジャンルちがいとはいえ、フォレストシンガーズのみんなはグラブダブドリブに心酔している。
 彼らのプライベートの姿は控え室で垣間見たけれど、完全にプライベートとなるとこうなんだねぇ、と私は、がっかりしたような、人間的でいいのかもね、といったような、複雑な気持ちに浸っていた。そのこの間の話を、沢崎さんがはじめた。
「あんとき、俺は本橋と木村を見てて思ったよ。あいつらだってたいして年は変わらないんだろ」
「章くんは本橋くんのふたつ年下です」
「そんなのは同い年と変わらない。なのに、木村の本橋に対する態度……なぁ、悠介?」
「人はそれぞれだろ」
 ひとこと答えて運転に戻る中根さんの横顔は、ちらりと見えただけでも心臓の鼓動が激しくなる。なんてなんてなんてなんて綺麗なの……としか言いようがなくなる。沢崎さんも美青年ではあるのだが、沢崎さんはどこか荒削りでワイルドで、この程度だったらそう不思議でもない。けれど中根さんときたら、このひとは本当に人間だろうか、と肌をつついてみたくなったりして。
 そういえば章くんが言っていた。章くんはやたらにグラブダブドリブ情報に詳しくて、あれからも折に触れては彼らの話をする。中根悠介は、となぜだか必ずフルネームで呼んで、噂話をする。章くん情報によると、中根悠介はフィリピン人の母と日本人の父を持つ混血なのだそうだ。すでにご両親は亡くなっている。
 欧亜混血には時としてびっくりするほどの美貌の持ち主が生まれるそうなのだが、亜亜混血もこんなにも美しく生まれるのだろうか。ご両親もさぞかし美しいひとだったのか。その血がブレンドされてここまでの美貌を? 音楽は顔でやるものではない、が本橋くんの持論なのだが、私の意識はどうしても、中根さんの顔に向いてしまう。ここまでの美青年は心臓に悪い。
「山田さんの目は悠介ばっか見てるな」
 見抜かれたらしくて、沢崎さんがまたもや笑った。
「無理もないけどさ。悠介は山田さんのタイプ?」
「こんなにも美しい男性にそばにいられると居心地が悪いですから、タイプではありません」
「俺は?」
「沢崎さんも美しすぎます」
「俺はたいしたことないだろ。ほらほら、悠介の機嫌がどんどん悪くなってきてるぞ」
 どうして? と思っていたら、中根さんが言った。
「顔の話はもういいよ。音楽の話にしてくれ」
「おまえの面を間近で見てると、女はこうなるんだよ。おまえの面が罪つくりなんだろ」
「好きでこんな顔に生まれたんじゃねえよ」
 章くんあたりが言ったのだったら、傲慢すぎだよ、と言い返せるのだが、中根さんには言えない。中根さんは煙草をくわえ、火、と沢崎さんに命令した。沢崎さんも煙草をくわえて火をつけ、あの日の控え室同様に車の中が煙でもうもうしてくる。
「煙草は嫌い?」
 煙草なんか私はどうでもいいので、尋ねた沢崎さんに、どうぞ、と返事をしてから言った。
「だけど……グラブダブドリブってみんながみんなルックスがいいじゃありませんか。燦劇っていう、私たちの後輩ロックバンドがいて、彼らも美形ぞろいではあるんですけど、みなさんの足元にも及びません。その輝くぱかりの美貌と、背が高くてかっこいいっていうのもみなさんの価値のひとつなんじゃありません? 音楽的才能やテクニックも並外れてるんでしょうけど、素人の女が見れば、ぱっと目が行くのはルックスですもの」
「俺らの外見からファンになってくれて、そこからうちの音にはまってくれるっての、それはそれでいいんだよ。悠介を見て電撃に打たれて、なんて綺麗なのぉ、からファンになってくれたっていいんだ。悠介にだってわかってるんだ。けど、こいつはひねくれ者だから、顔の話をされると不機嫌になる。俺は嬉しいけどね、沢崎さんってかっこいいわ、って言われるの」
「好きにすりゃあいいけどな」
 好きにするよ、と言い返して、沢崎さんが振り向いた。
「山田さんも美人だもんな。寄ってくる男は数知れず? 男はいるの?」
「一応はいます」
「いるのか。いるんだってよ、悠介」
「いたっていいだろ。俺にもおまえにも関係ない」
「こいつは女嫌いでね」
 ここまで綺麗な男だと、女嫌いだといっても似合う気がする。妙に納得していると、中根さんが言った。
「俺は女嫌いじゃない。美人に興味がないんだ」
「だそうですよ、美人の山田さん」
「私は美人じゃないからいいんですけど、よろしかったらそのお説を聞かせていただけません?」
 説ってほどのもんじゃねえよ、と言ったものの、中根さんは話してくれた。
「美人なんて一皮剥けば骸骨だ。どっちみち年を取ってよぼよぼになったら骸骨に近づいていく。そんなものに値打ちはない。人間は中身だ、だなんて空々しい台詞も言いたくはないけど、美人ってやつはたいがい中身がよくねえんだよ」
「山田さんも中身はよくないのか」
「一般論だよ」
 はじめて会った日には、中根さんと沢崎さんは無愛想だと感じた。こうして話してみたら、沢崎さんの印象はいくぶん変わったのだが、中根さんはあまり変わらない。低い声で無愛想きわまりない喋り方をする。本橋くんも章くんもぶっきらぼう傾向はあるけれど、ここまでではない。
 けれど、これだけ綺麗な男だと、無愛想も絵になるのだから始末に悪いのかもしれない。この顔で幸生くんみたいな性格だったら……と考えかけてやめておいた。私はやっぱり、たいしたことのない顔立ちのフォレストシンガーズのみんなとつきあってるほうがいい。圭祐も顔はたいしたことないしね。想いがふと圭祐に向いた。
 去年のクリスマス間近のころに、ひょんなことからつきあうようになった、仁科圭祐。だけど……早くも……まあいい、圭祐についてはあとから考えよう。私は思いをグラブダブドリブの音楽へと移らせた。彼らの歌の作詞作曲は大部分が中根悠介であると聞いている。ライヴで聴いた彼らのレパートリーや、章くんが貸してくれたCDに収録されていた曲を思い出してみると……
「中根さんの詞は性格を反映してるんですよね。素人の私が言うのはなんですけど、こうしてすこしお話してみたらわかりました。わかったのもすこしだけですし、私がなんだかんだと言ってもなんにもなりませんけど」
「はっきり言えば? ネガティヴ、ペシミスティック、だろ? 性格を反映してるってのはまさしくその通りだよ。悠介が書いたんじゃない歌は、俺たちの友達の真柴豪って男が作ってるんだ。悠介も豪も天才肌だから、他の奴らが書いた歌はハナであしらう。だもんで、うちの歌はほとんどが豪か悠介の作だ。それでいいんだけどね」
「どの歌がどちらの作品かまでは覚えてませんけど、暗い詞が多いですよね」
「そうだよ。曲はがーんと派手でも、明日なんか本当に来るのか、夢も希望もありゃしないぜ、って感じで、現実はそうだろ」
「そうかもしれないけど……」
 その点、フォレストシンガーズの曲は前向きだ。乾くんはひねくれ者ではあるけれど、中根さんほどではないのだろう。幸生くんの詞は深くつきつめると醒めていたりもするのだが、甘い言葉でくるまれた糖衣錠のようになっている。本橋くんは素直な甘いラヴソングを書く。中では章くんの詞がもっとも破壊的だったりするのは、これすなわちロッカーの特質か。だからロッカーなんてのはつきあいにくいんだ、と私は合点した。
 気心が知れつつある章くんは今ではそれほどでもないけれど、中根さんとはとうてい親しくおつきあいはできそうにない。沢崎さんとは別の意味でつきあいたくない。私はやっぱり普通の男がいい。
 そんなふうに考えつつも、途切れ途切れに会話はしていた。乾くん以上に皮肉っぽくて冷笑的な中根さん、性格は本橋くんに近そうだけど、底意地の悪そうな沢崎さん、私の印象はすっかりそうなってしまった。煙草の煙がもくもくする車の中で、居心地のよくない長距離ドライブを耐えて、都内に入ったら沢崎さんが尋ねた。
「どこまで送ろうか」
「適当にそのへんで」
「私の家でお茶でもいかが? とは言ってくれないわけ?」
「お礼をしなくてはいけないのでしたら、後日改めてご挨拶します」
「司」
 じろりと沢崎さんを睨んで、中根さんが言った。
「純情な世間知らずのお嬢さんをからかうな」
「へええ、三十前の、売れてるとまでは言えないまでも、このごろ上昇気流に乗りつつあるフォレストシンガーズのマネージャーの、男五人と渡り合ってる山田美江子さんが、世間知らずの純情なお嬢さん? おまえの感覚にはついていけないよ」
 最後の言葉は本橋くんが乾くんに言っているのと似ているが、似て非なるものとは、乾くんと中根さんの性格であろう。むかっとしたので、私は言った。
「言わせていただけば、無理やりのようなものだったじゃありませんか」
「たしかに、頼まれてないもんな。俺らが無理やり車に乗せて、あんたを拉致してきたんだよな。だったらものはついでだから、どこか素敵なところにご案内しましょうか。世間知らずのお嬢さん?」
「いい加減にして……」
 下さいっ! と叫ぶ前に、中根さんが片手で沢崎さんの頭をぼかっとやった。
「馬鹿たれ。怒らせるな」
「ほらね、これだからね。リーダーってのはメンバーをリードしていく存在のはずなんだけど、うちの奴らはリードなんかできっこない。悠介はこれだし、ジェイミーはあれだし、ドルフはなに考えてんのかわかんねえし、ボビーはぬぼーっとしてるし、俺は本橋が……うらやましいって言ったら笑う?」
 はい、と答えて声を立てて笑ってみせると、中根さんも大声で笑った。
「俺は名ばかりリーダーだからな、本橋のほうが苦労してんのか」
「別種の苦労なんでしょうね。私は沢崎さんのご苦労は窺い知れませんけど、本橋くんの苦労だったら知ってます。本橋くんには乾くんがいて、しっかり補佐してくれてますけど、中根さんも?」
「俺は補佐なんかしてねえよ。俺たちはあんたたちとは……なあ、山田さん?」
「はい?」
「あんたは切り口上でものを言うんだな。普通に話せないのか」
「……普通ではない方に、普通になれと言われる筋合いはございません」
 ほらほら、そこそこ、とふたりしてげらげら笑う。むかむかーっ、が倍増している私に、沢崎さんがなにか言いかけた。うるせえんだよ、おまえは、と中根さんにさえぎられて沢崎さんは黙ったのだが、そういうことだと男に嫌われるぜ、と言いかけたように聞こえた。ほっといて、と口の中で言い返すと、沢崎さんがくわえ煙草で尋ねた。
「ついでだから家まで送るよ。上がり込もうなんて気は毛頭ないからご心配なく」
「結局、私をからかって楽しんでたんですね。悪趣味」
「趣味の悪い奴がロッカーになるんだぜ。知らないの?」
 なにかと言えばロッカーロッカー……ロッカーはそんなにえらいのか、と言いたいところだったのだが、中根さんがふいに話題を変えた。
「俺たちは休暇なんだよ。明後日から知り合いの山荘にこもって歌作りをする予定なんだ。司も暇だから来るって。気が向いたらあんたたちも来ないか」
「……」
「司ともうひとり、来る予定になってる。あんたも本橋でも乾でも木村でも三沢でも、えと、あんたんとこは五人だったよな」
「本庄繁之をお忘れです」
「ああ、声の低ーい奴だな。そいつら全員でも連れて来ていいよ。俗世間を離れて命の洗濯」
「ロッカーらしくない台詞」
「そうかね。地図を渡しておこう」
 偶然にも私たちも、明後日から休暇になる。返事は本橋くんたちと相談してからにしようと決めて、地図を受け取った。章くんは行きたがるだろうか。私も興味はあるけれど、さあ、どうしよう。
 住まいの近くで車から降ろしてもらうと、彼らはあっさり帰っていった。わずかに拍子抜け気分を味わいながらケータイ電話の電源を入れると、着信記録がいくつか、メールもいくつか。誰からかはわかっていたけれど、なんとはなしにたしかめる気にならなくて、私はケータイをしまって部屋に入っていった。

 
2

 既婚者のシゲくんは、恭子さんと休暇を合わせて旅行に行くと言う。幸生くんも予定があると言う。章くんは残念がっていたが、彼にも予定があると言う。幸生くんと章くんは彼女とお出かけであろうか。二十七歳の独身男性に休暇の予定がないほうがおかしいのだろうから、じゃあ、三人で行こうと相談をまとめて、本橋くんと乾くんと私の三人で、乾くんの車に乗り込んだ。
「二十九歳の男女三人に休暇の予定がないなんて……本橋くんも乾くんも彼女はいないの?」
 おまえは? あなたは? と質問に質問を返されて、都合のよくない話題は避けることにして、私はバッグを持ち上げてみせた。今日は乾くんが運転していて、本橋くんが助手席。私がバックシートにすわっている。
「学生のころにこうしてドライブに行ったときに、本橋くん、言ったよね。覚えてる?」
「どの話だ?」
「お弁当を作るのは女の仕事、運転は男の仕事」
「んなこと言ったか」
「それに近いことは言った。だから今日は、運転は男性おふたかたにおまかせします。私は女らしい役割に徹するからね」
「ミエちゃん……その言葉には裏がある?」
「乾くん、そういう発想をしてると、あなたも中根さんみたいに性格が悪く悪くなるよ」
 ふむむ、とわざらしく考え込んでから。乾くんは言った。
「この顔であの顔の男ほど性格が悪かったら、俺は生きてる値打ちがない。そうか、ミエちゃんの言葉の裏にはそれがあったんだ。そうは言ってない? そうかなぁ」
「ひとりで会話しないで」
「失礼しました。女らしい役割ってなに? 弁当?」
「作ってきてあげたから、景色のいいところで食べようね」
 ほおお、と今度は本橋くんが振り向いた。
「嵐が来るぞ」
「本橋くんの台詞は普通だし、慣れてるからなーんにもこたえない。ああいう普通じゃない男性ふたりと車に乗ってるより、こうして普通の顔した普通のひとたちと、昔ながらにわいわいやってるほうがずーっといいな。乾くんも本橋くんも変人ではあるけど、ロッカーじゃない分は普通だよね。安らぐわ」
「勝手に言ってろ」
「勝手に言ってる。ねえねえ、乾くん?」
 なんでございましょうか、お嬢さま? などと問い返すので、私はうしろから乾くんの頭をこちんとやった。
「お嬢さまはやめて。私は世間知らずの純情なお嬢さんなんかじゃないよっだ」
「その言葉の裏は……もういいか。なに?」
「乾くんだって美女を見ると心がざわめくよね。でも、美男だったらざわめかないでしょ」
「美男ってのは中根さん? 彼は性別を超越しているほどの美貌の持ち主だよね。それでも男なんだから、俺は男の美貌にはざわめきません。そんな趣味はこれっぽっちもありません」
「よかった」
「よかった? 俺にそんな趣味があるのかと疑ってたの?」
「疑ってないけど、ユキちゃんとは倒錯芝居をやってるから」
「あれは幸生とのコミュニケーションだよ」
 なんなんだ、なにが言いたいんだ、と短気な本橋くんが口をはさみ、私は本題を口にした。
「だからね、私はこれでも女だから、あそこまで綺麗な男性といると普段の毒舌が出てこなくなるのよ。切り口上でものを言うって言われたけど、中根さんや沢崎さんと話してると、普段よりはぐーんと控えめだったんだよ。だからね、男性の美貌には心を動かされない乾くんに頼む。口で勝ってね」
「ミエちゃんが勝てない相手に、俺が勝てるだろうか」
「勝てるさ、おまえだったら」
 こともなげに言う本橋くんに、俺みたいな無口な男が……と乾くんが言い、誰が無口だーっ、と本橋くんが怒っている。ほんとにほんとに、私はこの雰囲気のほうがいい。招かれた山荘に行ったらあのふたりがいるわけだけど、本橋くんと乾くんがいてくれたら怖くない。って、まるであのふたりは妖怪みたいだけど。
 都会を抜けて景色がよくなってきたあたりのドライブインで車を止めて、外の広場でお弁当を取り出した。乾くんはそんなには食べないけど、本橋くんは馬並みに食べる。私もよく食べるほうだから、大きなおにぎりやらおかずやらをしこたま作ってきた。こんなに食えるかよ、と言ったくせに、もりもり食べている本橋くんに言ってみた。
「中根さんってなに食べて生きてるんだろ」
「あのなぁ、あいつらだって人間だぞ。こういうものを食ってるんだよ」
「花でも食べて生きてるみたいなひとだよ」
「花食って生きてられるか」
 大口あけておにぎりにかぶりついている本橋くんは、私の台詞を一蹴したのだが、乾くんが言った。
「霞を食って生きてるのかもしれない」
「それだと仙人じゃないの。仙人って感じじゃないのよね。吸血鬼でもないから、美女の生き血でもないんだろうな。ミルクとクリームとチョコレートで生きてるのは美少女でしょ」
「美少女はミルクとクリームとチョコレートしか食わないのか」
「そう言うんだよ。本橋くんは知らない? 乾くんは知ってるよね」
 聞いたことはあるけどね、と乾くんは笑い、本橋くんは言った。
「美男子でも美少女でも、人間である以上、握り飯だって食う。焼肉も食う。もっと言ったら……」
「下ネタはなしだよ、本橋」
「なにも言ってねえだろ」
「言いそうな予感がした」
 こんなに食えるか、と言ったわりには、本橋くんの食欲のおかげでお弁当が空になった。
「ほんっとによく食べるねぇ」
「おまえは俺のことが言えるのか。女がそんなに食うと……」
「本橋、やめろ」
「おまえはさっきから、俺がなにか言おうとしたら止めやがって……」
「俺は覚えてるよ。ミエちゃんが言ってた、弁当や運転の話題が出た学生時代のドライブ。おまえがその手の台詞を吐いてどうなったか、おまえは忘れたのか」
「忘れたよ」
 いくらかは覚えているのか、思い出したのか、本橋くんもそれ以上は言わなかった。弁当作るなんて女らしいことをおまえがするわけがない、と本橋くんが言い、そこに端を発して喧嘩になって、買ってきたお弁当を私がゴミ箱に放り込んだり、頭を冷やせと乾くんに言われた本橋くんが、湖で泳ぐと言い出したり。
 あんまり食うとぶくぶくになるぞ、だなんて本橋くんが言って、私が怒ったりして、乾くんは仲裁におおわらわになっていた。本橋くんとは昔から喧嘩ばかりしていたけれど、決定的な仲違いは決してしなかったのは、いつもとりなしてくれた乾くんのおかげかもしれない。
 喧嘩は乾くんともした。章くんともした。シゲくんは私には遠慮がちだし、幸生くんは争いごとが嫌いだから、彼らと私とは喧嘩にはならない。幸生くんが章くんともめるのは、一種のリクレーションなのだと今では知っている。
 幸生くんと章くんのは喧嘩ではなくてじゃれ合いなのだけど、本橋くんと乾くんも時には喧嘩をする。私のいないところでだったら、殴り合い寸前までいったこともあるらしい。そんなときにはシゲくんが身体を張って止めたと聞いている。人間の集団にもめごとはつきものだけど、いつだって誰かが誰かを止めて、私たちはうまく回ってきたのだろう。
 プロシンガーズとしてのフォレストシンガーズが誕生してから、四年と半年になる。上天気の春の景色の中で、おなかいーっぱい、なんて言って空を見上げて平和なひととき。幸生くんも章くんもシゲくんも大切な大切な仲間だけど、私にとっては本橋くんと乾くんが特別中の特別なんだとも思うのだった。
「さてと、そろそろ行く? ミエちゃんは実は行きたくないのかな。いやなんだったらよそに行こうか」
「乾くんは行きたくないの?」
「行きたくないんだったら、ミエちゃんが誘ってくれたときに断ってるよ。俺はグラブダブドリブの面々と個人的に話したことはないし、休暇中の彼らがどうしてるのかには多大なる興味がある。本橋だってそうだろ」
「まあな」
「私も。うん、行こう」
 よーし、行こう、となって、車は一路、中根悠介の知人所有である山荘目ざして走り出した。
 東京からは比較的近い山間に建つ、こじんまりしたログハウスだ。山間にあるだけに東京よりは空気がひんやりしている。東京では桜の蕾がほころびかけていたのだが、この地には残雪も見える。一泊の予定なので小さな荷物をそれぞれにぶらさげて、私が門扉のチャイムを押した。
「山田さん? 入って」
 応じた声は沢崎さん。中根さんも沢崎さんも本橋くんとシゲくんの中間あたりの低い声だが、区別はつく。沢崎さんのほうがやや少年っぽい声といえばいいのだろうか。門扉の鍵はかかっていず、玄関の鍵も開いていた。
「いらっしゃい」
「よ。本橋と乾がおともしてきたんだな」
 いらっしゃい、と言った沢崎さんは、髪のメッシュに合わせたのか、エメラルドいろのセーターにベージュ系のチェックのパンツ。中根さんは濃い紫のタートルセーターに淡いグレイのパンツ姿だった。最新流行でもないのだろうけど、ひどくおしゃれに見える。
 一方、乾くんはジャケットを脱ぐと、ダークグレイのセーターに白のパンツ。本橋くんはいつに変わらず、Tシャツに紺系チェックのシャツを羽織って、下はジーンズ。乾くんはともかく、本橋くんはまったくおしゃれでもない。私も赤いセーターにジーンズなのだから、本橋くんの服装をあれこれ言える立場ではないけれど。
 二階の部屋に案内されて、荷物を下ろした。中根さんと沢崎さんは階下の部屋を使っているようで、二階の南向きの一部屋を私が、となりの部屋を本橋くんと乾くんが使わせてもらえることになった。私の部屋は見晴らしがよくて、ところどころに雪の残る山間の風景と、ふもとの街までが見下ろせた。
 着替えるほどでもないので三人ともそのままで下に降りていくと、あらららら……と目を見張るようなファッションの女の子がいた。どこかの喫茶店のウェイトレスででもあるかのような、衿とカフスの白い臙脂のワンピースに、白のフリルたっぷりのエプロン姿だ。彼女がコーヒーを五つ運んできて、なぜだか挨拶もせずにキッチンに引っ込んだ。私は思わず訊いた。
「中根さんってああいう趣味が?」
「趣味?」
「あれってウェイトレスっていうよりも、流行のメイドファッションでしょ? 彼女はメイドさんなんですか? ここでキッチンの仕事をしてもらうために雇って、わざわざあんな服を着せたの?」
「あれはあいつの趣味だよ」
「あいつ?」
「もうひとり来るって言っただろ。それがあいつ。おい、挨拶しないのか」
 お客さまのひとり? あいつ、おい、なんて呼んでいるところを見ると、中根さんの恋人? 女性にまちがいはなかったはずだが、顔は見えなかった。小柄で華奢なタイプだった。
「俺の親戚の娘だ。この山荘の持ち主も親戚で、そこから聞きつけたあいつが、そんなら連れてけ、って言うから、来てもいいけど働けよ、と言った。すると、あんな格好で働きはじめたんだ」
「俺も驚いたよ。悠介にはそんな趣味が……ってな。山田さんだってそう思うよな。彼女が言うには、男が何人も来るんだったら、こういう格好だと喜ばれるかと思って……だそうだよ。本橋や乾はああいうの、嬉しいか」
 別に、と本橋くんは答え、俺にもそんな趣味はないけどね、と乾くんは苦笑いを浮かべている。ロッカーなんていう悪趣味人種の親戚の子は同類の悪趣味なのかと思っていると、中根さんがキッチンに呼びかけた。
「出てこい。挨拶しろ。おまえもこいつらを知ってるんだろ」
 知ってる? 誰だろ? と本橋くんと乾くんと三人で顔を見合わせていたのだが、彼女は出てこない。中根さんが立っていき、ほどなく手を引かれて出てきた彼女の顔を見て、私たち三人は同時に言った。
「ミズキちゃん……」
 親戚の子? ミズキちゃんと中根さんが親戚? エターナルスノウ、章くんによるとシンフォニックロックと名づけるらしい、燦劇と同時期にデビューしたロックバンドのヴォーカリストだ。グラブダブドリブをメインとしたジョイントライヴにも出演していたし、その翌日にスタジオで燦劇のメンバーもまじえて、グラブダブドリブの話題に花が咲いていた際にも、ミズキちゃんはその場にいた。
 グラブダブドリブの話ばっかりして、俺たちはどうだった? 私たちは? と燦劇の誰かと、ミズキちゃんも言っていた。あのときもあれからも、ミズキちゃんは中根悠介を知っているとはひとことも言わなかったのに。私はミズキちゃんとはたいして話もしていないが、言ったのならば、誰かが教えてくれるだろう。ミズキちゃんが中根悠介の親戚だなどと知ったら、燦劇もフォレストシンガーズも、全員びっくり仰天するにちがいないのだから。
「だってね」
 なぜ言わなかったのかを、ミズキちゃんは話した。
「あのグラブダブドリブの中根悠介だよ。彼が私のお兄ちゃんだなんて知られたら、その七光りでデビューさせてもらったんだろ、って言われるに決まってるんだもん」
「お兄ちゃん? 兄妹?」
 ごく幼いころに、中根さんはご両親を亡くしていると聞いている。ミズキちゃんと中根さんだと十以上は年の差があるだろうから、計算が合わない。頭の中で素早く計算してから尋ねると、中根さんはかぶりを振った。
「妹なんかじゃねえよ。俺は口をすっぱくして言ってんのに、こいつがひとりでそう決めてるんだ」
「だって、そうなんだもん。戸籍上はあたしは、悠介さんのお父さんのいとこの子なんだよね。悠介さんのお父さんと、あたしのお母さんがいとこ同士だって話になってるの。小学生のときにお母さんが死んで、お父さんがあたしの面倒見切れないからって、誰か引き取ってくれないかって言ったの。そしたら、悠介さんのおじいちゃんが、ってことは、あたしのお母さんの伯父さんなわけだけど、よし、引き取ろうって言い出したんだって。そんなのおかしいじゃん。あたしがおじいちゃんの本当の孫だっていうんだったらわかるけど、姪の娘なんかを引き取る?」
 おかしくないんだよ、と言ったのは沢崎さんだった。
「ちょうどそのころ、悠介は高校を卒業して家出した。どこやらの電気屋で住み込みで働いて、苦学して大学を出たわけだ」
「俺の話はどうでもいいだろ」
「どうでもよくない。おまえの話からしないと説明できない」
 いやそうにしている中根さんにはかまわず、沢崎さんは続けた。
「悠介はほんのガキのころに、じいさんばあさんに引き取られたんだよ。込み入った話はしてもいいのか、悠介?」
「しないと説明できないんだろ。しろよ」
 悠介さんの父は、若き日に仕事でフィリピンを訪れた。生活のために夜の仕事をしていた悠介さんの母と知り合い、恋仲になった。恋をしたと考えていたのはお母さんばかりで、お父さんとしては現地妻感覚だった。仕事をすませたお父さんは、彼女を置き去りにして帰国した。そのときすでに、悠介さんが母の胎内に宿っていた。
 愛したひとの息子を産んで育てて、母はひとかたならぬ苦労をしたらしい。日本の両親に頼る気もなかったのだが、ある日、日本から探偵がやってきた。悠介さんの父親が亡くなり、フィリピンに落としダネがいると知った悠介さんの祖父母が手を回して、私立探偵を派遣したのである。
 当時、フィリピンの少年として育っていた悠介さんは五歳。母はこの子は絶対に離さないと言ったのだそうだが、周囲のひとに説得されて泣く泣く手放すことにした。悠介さんの祖父母は会社を経営する富裕層の日本人なのだから、フィリピンで貧しい暮らしをしているよりははるかにいい、と言われたのだろう。
 母と涙の別れをして日本に来た幼い悠介少年に、祖父母はつらく当たった。おまえのせいで息子が死んだ、とまで言われたのであるらしい。そのくせ、おまえは跡取りだ、しっかり大きくなって会社を継げ、とも叱咤した。悠介さんは、ものごころつくころにはそんな生活にほとほと嫌気が差していたものの、独り立ちできるまでは我慢しようと、ぐっとこらえて祖父母の言いなりになるふりをした。が、とことん反抗的でもあったのだそうだ。
 子供のころからギターの腕前には後の才能の片鱗がうかがえ、勉強はできるしメカには強いしで、電気屋のおじさんに見込まれて働かせてもらうことになって、高校を卒業すると同時に家出を敢行し、大学は独力で卒業した。学生時代からギタリストだった中根悠介は、あちらのバンド、こちらのバンドと渡り歩き、そして……と沢崎さんは、推測もまじえて淡々と話した。
「ギターの天才、中根悠介の名はその筋では鳴り響いていたから、俺も知ってたよ。大学を卒業する間際だったな。コンテストで悠介と知り合った。ボビーもドルフもジェイミーも俺も悠介も、別々のバンドでコンテストに出たんだ。そこに真柴豪が審査員として名を連ねていた」
「プロデューサーの真柴さん、ですよね」
 ロック畑の方ではあるが、私も名前は知っている。辣腕プロデューサーとしてその名も高く、ソングライターとしても著名だ。私が問いかけると、沢崎さんは言った。
「そう。この前も話したよな。豪と俺と、もうひとり、大学時代は剣道部三羽烏なんて言われてたんだ。こう見えて俺は、剣道二段なんだぜ」
 ほえーっ、と本橋くんがおかしな声を出し、沢崎さんは言った。
「俺の話はまるきりどうでもいいんだけど、話しの流れな。そういうわけで、豪と俺とは長年の友達だ。豪は学生のときにロックバンドの一員として華々しくデビューして、あっけなくもバンドを解散して、大学四年ですでにプロデューサー稼業をやってたんだよ。その豪が俺たち五人を見て、おまえたち、バンドを組め、絶対に売れる、と太鼓判を押した。すぐには売れなかったけど、豪の見る目はたしかだったわけさ。そんなふうに知り合って、悠介と俺は現在に至ってる。悠介のガキのころの話も聞いてる。つまり、悠介の実の親父はこいつが五歳のころにはこの世にいなかったんだ。二十年以上前におっ死んでるんだよ。十八のミズキが悠介の妹だってのは、物理的に無理だろ。ちなみに、悠介のおふくろさんも、その二年ほどあとに亡くなってる。悠介の両親が死んだあとに生まれたおまえが、悠介の妹なはずがないだろ。わかったか、ミズキ」
 改めてミズキちゃんにも聞かせるために、沢崎さんは長々と語っていたのであるらしい。それでもまだ、そんなのわかんないよ、と言っているミズキちゃんに、中根さんが言った。
「おまえをじいさんたちが引き取ったのは、俺にこりごりしてたからだよ。手塩にかけて育てた跡取り孫息子は反抗の限りをつくした末に遁走して、なにをどう諭されても、脅されても家には戻らなかった。しかし、跡取りは必要だ。男は二度といやだ、ってんで、そんな時期に引き取ってほしいと頼まれた、女のおまえを迎えて、英才教育しようとしたんだよ」
「だが、ミズキもさすがに悠介と血のつながりのある女の子だ。結局はやっぱりじいさんばあさんに反逆して、高校中退、あげくはロッカーだもんな。気の毒だよな」
「あいつらを気の毒とは言わない」
 このひねくれ者気質は筋金入りなんだなぁ、と私は中根さんを見つめ、黙って聞いていた乾くんが言った。
「事情はわかった。だったらミズキちゃん、きみが中根さんの妹だってのはあり得ないよね。あり得るとしたらその理屈は?」
「えーとね、お父さんは死んだふりしてどこかに隠れてた」
「中根さん?」
「葬式も出した。中根皓一の遺骸は荼毘に付された。死亡証明書もある」
「そんなのニセモノだよ。えーと、他には……お母さんが生きてた」
「おまえは純粋日本人だろ」
「それもわかんないよ。えーとえーと……他には思いつかないけど、悠介さんと私は兄妹なの。決まってるの」
 その根拠は? と乾くんに質問されて、ミズキちゃんは中根さんの顔に顔を寄せた。
「顔だよ、そっくりでしょ? 乾さん、似てない?」
「血はつながってるんだし、ミズキちゃんも中根さんも美貌の持ち主ではあるから、まったく似ても似つかないってわけではない。けど、顔立ちは兄妹である根拠にはならないね。DNA鑑定でもしても……いや、沢崎さんの話からすると、きみが中根さんの妹だってのは百パーセントない」
「……だから乾さんって嫌い。山田さんは?」
「へ? 私? 中根さんとミズキちゃんが似てるかどうか? んんと……」
 まじまじとふたりを見比べ、私も言った。
「乾くんに賛成。兄妹だって言われても疑うには値しないけど、美貌ってものは、醜貌ほどにはバリエーションがないんじゃない? たしかに中根さんとミズキちゃんはどことなく似てるけど、中根さんの顔のエキゾチックさがミズキちゃんにはないのかな。ミズキちゃんは美少女なんだけど、日本人の美少女顔」
「山田さんはブスじゃないけど、悠介さんとは全然似てないよ」
「そりゃそうよ。似てるわけない」
「あたしは悠介さんに似てるんだもん。お兄ちゃんだからだもん」
 かたくなに言い張って、ミズキちゃんはぷいっとキッチンに引っ込んでしまった。あたしはここではメイドだからねっ、の捨て台詞を残して。


 てきぱきてきぱき、てきぱきしすぎるほどにミズキちゃんは働いている。メイドルックに身を包み、当たるもの皆なぎ倒す勢いで、沢崎さん、邪魔っ!! 乾さん、どいてっ!! 本橋さん、ぼさっと立ってないでっ!! と八つ当たりしまくって、しまいには私を突き飛ばした。
「ミズキ、なにを当り散らしてるんだ」
 お兄ちゃんだと決め込んでいるからなのか、中根さんにも素直ではないのだが、態度があきらかにちがう。だーって、と甘い声を出してそばに寄った。
「ミズキ、疲れちゃった。こき使われっぱなしなんだもん。そこにも女がいるのに、なんにもしないしさ」
「山田さんは客だ。おまえもそんなにしゃかりきになって働かなくてもいいだろ」
「あたしはメイドだもん。こんな服着せられて、可愛いからって虐げられて、そこにいる女はなーんにもしなくていいのに、あたしばっかり働いて……」
「文句言うんだったら働かなくていい。すわってろ」
「そうよ、なんだったら私がするから」
 言ってみたら、ぎろりっと睨まれた。
「山田さんはお客さまなんだから、なんにもしなくていいんです。あたしは悠介さんの妹だから、ホステスの立場なんでしょ? お客さまのおもてなしをしなくちゃね。ああ、忙しい」
 他にも女はいるのに……とぶつぶつ言いながら、またしても立ち働きはじめたミズキちゃんに、乾くんが言った。
「俺は男だけど、いくらでも手伝いますよ。ホステスのミズキちゃん、なんでも言いつけて下さい」
「乾さんが言うと、あたしはバーのホステスになった気分。乾さんは嫌いなんだからあっちに行っててよ」
「そんなら俺が手伝うよ。あんまり必死になると貧血を起こすぞ」
「俺も手伝うよ。ほどほどにしろって」
 本橋さんと沢崎さんならいいかな、とミズキちゃんはうなずき、残された三人にいーっだ、とやってから、沢崎さんと本橋くんを従えてキッチンに入っていった。
「なにかあったのか」
 残された三人のうちの、中根さんが乾くんに訊いた。
「なんだってああミズキに嫌われてるんだ? DNA鑑定だとか言い出したせいでもなさそうだよな」
「ずっと前からですよ。初対面の日から嫌われてました。原因は俺にも不明」
「ふーん。ま、小娘なんてのは気まぐれなものだけどな。それより、乾」
「はい」
「はいはやめろ。中根さんもやめろ。丁寧語もやめろ。ケツがむずむずするよ」
「その美しいくちびるから、ケツなんて言葉が出ると、ケツがケツではなくなるような……」
「てめえはなにをほざいてやがるんだ。あんたもだぞ。丁寧語はやめてくれ」
「私も? 悠介とでも呼べと?」
「中根でも悠介でもいい。さん付けはやめろ」
 男同士だったらいいけど、私が呼び捨てってのもねぇ、恋人でもないのに。男同士だったらいいけど、と考えるのは、差別だろうか。しかし、私は本橋くんだって乾くんだって呼び捨てにはしないのだから、章くんや幸生くんやシゲくんにだって、くんをつけて呼んでいるのだから。恋人だったら呼び捨てにもするけど、友達でも呼び捨てにする習慣がなくて呼びづらい。中根くん、悠介くん、言いにくい。
「ミエちゃんは中根さんでもいいだろ。俺はまあ、おいおいに……丁寧語はやめようか」
「そうだね。じゃあ、こんな感じでね。中根さんって……その性格の一端が、さきほどの沢崎さんの話でなんとなく……」
「育ちがこういう男を作ったんだと言いたいんだろ。そうかもしれないな。それはそうと、あんたもミズキに嫌われてるのか」
「あんたはやめて」
「おまえか」
「おまえもやめて」
「……美江子さん、でいいかな」
「それならよろしい」
 私がミズキちゃんに嫌われる理由? 乾くん以上に思いつかないので考えていると、中根さんが言った。
「本橋と司は嫌いじゃないらしいな。わけのわからない奴だよ、ミズキは。わけのわからない奴だから、って理由にしておこう。ところで、乾、おまえ……おまえでいいか」
「俺はいいよ。同い年だっけ?」
「そうみたいだな。三十路目前。年の話もどうでもいいんだが、おまえもギターを弾くんだって?」
 や、やめて、とオーバーに言って、乾くんは一歩後退した。
「現役でありながらレジェンドの域に達しているギタリスト、と章がきみを評していた。俺のレベルはアマチュアだよ。ギターの話はやめよう」
「きみなんて呼ばれると……」
「ケツがむずむずすると?」
「おまえもケツなんて言っても似合わないな。どうでもいいけどな。ギターの話はいやなのか。俺はしたいけど……」
「意地悪はナシ。しかし、俺がギターを弾くなんてよく知ってるね」
「おまえたちの名前も、半年前よりはほうぼうで耳にするようになってるよ。売れてきてるじゃないか」
「おかげさまで」
 中根さんも沢崎さんも杉内ニーナさんと同じくらいにヘヴィスモーカーで、山荘の中のそこかしこに灰皿が置いてある。FSでは乾くんと幸生くんがたまに吸う程度で、仕事場ではまず吸わない。私もいたずらで吸うくらいなので、煙草には慣れていないのだが、くわえ煙草の中根さんの姿ときたら、まさに一幅の絵だ。美江子さん、シャレ? と言いそうな幸生くんはいないのに、黙っててよ、と架空の幸生くんに言い返して、私は知らず知らず中根さんに見とれていた。
「山荘ではソングライティングの仕事を?」
「そのつもりだよ。一週間ほど休暇が取れたんでさ」
「それほど長く休めるのは稀有でしょう」
「だな。しかし、ミズキがいると気が散る。おまえたちが帰るときに、あいつも連れてってくれないか」
「中根くんが言い聞かせてくれて、彼女もうなずいてくれたら、そうしてもいいけど、俺はなぜかかなり嫌われてるから……」
「その原因を究明する必要があるか」
「ないよ、いいよ、いらないよ」
 わりあいに無口なのかと思っていた中根さんだが、けっこう喋るのだ。沢崎さんと本橋くんとミズキちゃんは、今夜の食卓を整えている。料理はケータリングだそうだが、おいしそうな香りが漂ってきていた。
 乾くんと中根さんは作詞作曲の話題に熱中している。ミズキちゃんは私の近くを通るたびにイヤミを言ったけれど、沢崎さんが苦笑まじりに、気にしなくていいよ、と目配せしている。本橋くんも、おまえはそこにいろ、と言う。私は手持ち無沙汰ではあったのだが、音楽には素人とはいえ、ソングライターふたりの会話は興味深くて、聞いているだけでも決して退屈ではなかった。そうしていると食事の支度が出来上がり、ミズキちゃんが言った。
「あたしはメイドだから、いっしょに食べたら駄目なんだよね、お兄ちゃん?」
「お兄ちゃんじゃない」
「親戚のお兄ちゃんって意味でもいけない?」
「そんならいいけどな」
「うん、お兄ちゃん。じゃ、あたしは部屋で食べようっと」
「なにをひがんでるんだ。おまえもここで食え」
 わーい、そんなら着替えてこよっと、と駆け出していき、クリームイエローのワンピース姿になって戻ってきたミズキちゃんは、中根悠介の妹だと言っても誰ひとり疑いもしないであろう、水際立った美少女ぶりだった。

 
3

 仙人でも妖怪でもないのだから当然だけど、中根さんも沢崎さんも人間の食べものを食している。和風がベースになった料理がテーブルに並び、お酒も数種類並んでいる。私たちがお土産に持ってきた缶ビールがどんどん空になり、ワインボトルも空になる。ミズキちゃんもお酒が飲みたいと言い、ガキはこれにしておけ、と中根さんに言われて、シードルを飲んでいた。
 シードルだってお酒ではあるのだし、未成年に飲ませていいのかな、と思ったのだが、ミズキちゃんの監督はお兄ちゃんの役目なのだろうから、中根さんにおまかせしておいた。
 ここに集っている人々は、私以外は全員がミュージシャンだ。ミズキちゃんは歌う一方であるそうで、沢崎さんも作詞作曲はほとんどしないのだそうだが、あとの三人はソングライターでもある。歌、楽器、作詞作曲、ミキシングやアレンジ、音楽の専門的な話題が広がって、私は聞き役に徹していても楽しかった。
「ギターはわりとわかるんだけどね」
 ほんのりと頬を染めて、美少女ぶりに磨きがかかったミズキちゃんが言った。
「ベースのうまい下手ってちっともわからない。リズムセクションでもドラムだったらまだわかるけど、ベースって駄目。沢崎さん、ベーシストの腕はどうやったらわかるの?」
「ベーシストの技量のほどか……ベースはたしかにわかりにくいな。ギタリストには有名な天才が大勢いるだろ。ざっと数え上げただけでも……」
 ジミ・ヘン、クラプトン、ジェフ・ベック、イングヴェイ、ヴァンヘイレン、ジミー・ペイジ、リッチー・ブラックモア、沢崎さんが並べ立てた名前は、私にも聞き覚えのあるものだった。
「ロック畑以外にも、日本人にもいくらもいる。ドラムやパーカッション、ピアニストにも有名な達人はいる。が、しかし、ぱっと言って誰でも知ってる天才ベーシストとなると、容易には思い浮かばないんだ。ベースは地味なんだな。そこがまた奥が深いっつうのか、そこがまた面白いんだよ」
「ミズキにはわかりっこないって?」
「早い話がそういうこと。おまえ、超有名ベーシストの名前を挙げられるか?」
「ひとつも浮かばない」
「プッツイー・コリンズ。ジェイムズ・ブラウンのバンドでベースを弾いてた」
 中根さんが言い、本橋くんと乾くんも、ああ、いたいた、と反応した。私はその名は知らないのだが、沢崎さんは言った。
「ロックじゃないな。ファンクか。有名なベーシストはそりゃあいるよ。けど、ギタリストほどに誰でもが知ってる奴は少ない。ギターをやりたかったんだけどベースがいなくてやむを得ず、なんてのでベースに転向したバンドマンも多いんだそうだ。俺はベーシストでよかったよ。ギターをやってたとしたら……」
 現役でありながら伝説、である中根悠介がいる以上、グラブダブドリブにはいられない、とでも言いたいのか、食事の途中なのに煙草に火をつけて、沢崎さんはそこで言葉を途切れさせた。
「悠介さんってそんなにギターがうまいの? ギターの腕前っていうのも、ミズキにはあんまりよくわかってないんだけど……悠介さんは自分でどう思う?」
「てめえではまだまだだと思うさ。聴く側がどう判断しようが自由ってものだけど、自己満足してちゃどうしようもない」
 それでまだまだねぇ、上限なんてないんだな、と乾くんが呟いた。
「才能には限りがあるんだから、俺はギターがうまくなりたいとは考えてないけど、歌はまだまだだな。本橋、精進しよう」
「当然だろ。俺は歌でだけは、おまえたちには負けたくないぞ」
「本橋はジェイミーとは歌でいい勝負をしたんだけど、歌だったら悠介も俺も負けるよ」
 沢崎さんが言い、乾くんは言った。
「沢崎のソロは聴いたことがないけど、中根は歌も達者だったね。あのフィリピノで歌う「イエスタディ」、いい味があったよ」
 ライヴで中根さんがギターの弾き語りをした歌だ。静かにしみじみとした趣深い歌だった。そこから四人の男性の話題は素人にはむずかしい分野に移っていき、それでも私は聞いていて楽しかったのだが、ミズキちゃんが言い出した。
「デザートがなーい。甘いのが食べたい」
 そうだったか、という顔をして、中根さんが言った。
「おっと、しまった。俺は甘いものは食いたくもないから忘れてたよ。美江子さんもデザートがないと物足りないか」
「私は甘いものはなくてもいいし、乾くんも本橋くんも甘いものは嫌いだけど、沢崎さんも中根さんも?」
「俺は甘いものなんて見るのもいやだ。酒飲みだからな。本橋ものんべみたいだから辛党なんだろうけど、乾もか」
「俺も甘いものは嫌いだよ」
 男性四人の嗜好は一致しているようだったのだが、ミズキちゃんはなおも言った。
「デザートがないなんてつまんない。夜ごはんだってさ、田舎っぽくってださい料理ばっかり。なんで和食なの? フレンチとかイタメシとか、そういうののほうがおしゃれなのに」
「食いものはおしゃれでなくていいんだよ。男ってのは和食が好きなんだ。おまえも覚えとけ。男はいいんだけど、美江子さんは和食は好きじゃなかったか」
「私も和食は好きよ。ミズキちゃん、つまらない駄々をこねないの」
「駄々なんかこねてないもん。悠介さんったら、美江子さん美江子さんばっかり言って、妹がお菓子がほしいって言ってるのに無視して……なにかないの?」
「果物でも食ってろ」
「果物なんかやだ。ケーキが食べたい。悠介さん、買ってきてよ」
「酒を飲んでるのに車は出せないよ。俺だけじゃないだろ。みんな免許は持ってるけど、みんな飲んでるから運転できない。車でないと買いものには行けない。都会じゃないんだから我慢しろ。明日、ケーキでもなんでも買ってきてやるよ」
「やだ、今」
 意地を張っているのか、ミズキちゃんは言いつのった。
「悠介さんや乾さんはそんなには飲んでないじゃん。運転しても平気だよ」
「飲酒運転でぱくられたくねえよ」
「そんならタクシーは?」
「めんどくせえ」
タクシーでだったら買ってきてあげてもいいかな、とは思ったのだが、私も言った。
「そうだよね。お兄さんたちは休暇でくつろいでるのよ。ケーキは明日にすればいいじゃない。インターネットで検索して、ケーキバイキング情報を探さない? 私も甘党ではないけど、ケーキだったらつきあうよ。明日、いっしょに行こう」
「山田さんとなんか行きたくない。ケーキがまずくなるもん」
「あっそ」
「悠介さんと行きたいな。ケーキを食べにつきあってくれる?」
「俺はケーキなんぞ食いたくもないんだよ。買ってきてやるからひとりで食え」
「今?」
「明日だと言っただろ」
 そういえばミズキちゃんは、半年ほど前に燦劇のファイとエミーにつきあってほしいと言われて、両方をはねつけたと聞いている。他に好きなひとがいるとは言っていなかったようだが、もしかしたら中根さん? 兄妹ではないのはミズキちゃん本人もちゃんと理解していて、中根さんのそばにいる口実にしているのではないだろうか。
 単なる親戚だとしても口実にはなるのだが、兄妹だと主張すれば恋人同士にはなれない。十一歳年上の超大物ロッカーたる中根さんの恋人にはなれないのは承知しているから、せめて兄として慕う? 複雑な乙女心なのかもしれない。私にはミズキちゃんの心のうちを知る由もないが、そのような感情があるのではないかと察せられた。
 皮肉屋傾向は乾くんと似ているものの、乾くんにはない冷笑的、他人を見下す侮蔑的態度を持っていると感じていた中根さんの印象は変わりつつあったのだが、なににしてもミズキちゃんではてこに合わないだろう。駄々をこねてお兄ちゃんを困らせて、そんな自身の心を持て余して……乾くんに対していた菜月さんもそんなだったのだろうか。
 恋って切ないんだね。かなった恋でさえも、圭祐と私のように……うまく行く恋なんて恋じゃない、と歌っていたのは、さきほどの話題にも出ていた日本人の天才ギタリストだった。ふくれっ面のミズキちゃんはとうとう中根さんに相手にしてもらえなくなって、そうこうしているうちに食事も終わった。
「メシがまずくなっちまったよな。席を移そう」
 中根さんが言って立ち上がり、ごちそうさま、と手を合わせた乾くんが言った。
「後片付けは俺がやるよ。本橋、手伝え」
「ああ、いいよ」
「私もする」
「ミエちゃんはいいから。中根くん、女性たちのためにロマンティックなギター曲でも弾いてあげて」
「そうしようか」
 別室に導かれてソファにかけると、中根さんがギターを抱えた。アコースティックギターが奏ではじめた旋律は、「パリの散歩道」だと沢崎さんが教えてくれた。佳代子がいるパリの街角か。成田空港で会った夜の私の話を思い出して、中根さんが弾いてくれているのだろうか。
 超絶技巧超早弾き、ってテクニックが中根さんの得意技なのだそうだけど、パリのロマン漂うこの曲も絶品だった。私は陶酔しそうになっていたのだが、ミズキちゃんはまだ不平を言っている。だーれも買ってきてくれないんだったら、あたしがケーキを買いにいく、とまで言って、沢崎さんは言った。
「こんな遅い時間になにを言ってるんだ。甘いのが食いたいんだったら、冷蔵庫にイチゴが入ってたぞ。あれに砂糖をごってりかけたら甘くなるよ」
「イチゴじゃなくてケーキ……」
「いい加減にしろよ。おまえは知ってるのか。悠介が怒ると……」
 脅迫手段に出たらしい。中根さんは怒ると怖いのだろうか。あるいは、乾くんのような怒った演技をするのだろうか。ミズキちゃんはふくれっ面の上にもふくれてみせて、身をひるがえして部屋から出ていった。
「なにがケーキケーキだ。メシは食ったんだろうが。腹はいっぱいなんだろうに」
「女の子には別腹ってのがあるみたいよ。私はさしたる甘党じゃないからわからないんだけど、ケーキと食事は別の胃袋におさまるそうです」
「別腹ってのは話には聞くけど、俺にはそんなもんはない」
「お酒の入る別の胃袋はあるんじゃないの?」
「かもな」
「それにね」
 ん? と眉を上げる沢崎さんに、中根さんには聞こえないように言った。
「沢崎さんは気づいてない? 乾くんは気づいてるんじゃないかな。ミズキちゃんは中根さんに恋してる。恋心がいかほどの強さなのかは不明だけど、恋してるよ、きっと。だからなのね、あの駄々っ子ぶりは」
「……ガキだな」
「そうよね。だけど、ああしかあらわせないのよ。ミズキちゃんも子供のころからなにかと苦労はしてるんだろうけど、なにせ十八歳なんだから、大人のようにはいかないでしょ」
「美江子さんはどうやって恋心をあらわすの?」
「私の話はしてません」
「俺はミズキの話しなんかより、きみの話を聞きたい」
「沢崎さんの話をして」
「なんの話し? 恋の? とんとご無沙汰してますがね」
 とぼけ顔で沢崎さんは言い、知らんぷりして中根さんはギターを弾いている。次なる曲は私も知っている。グラブダブドリブのギターソロ曲「Temptation of Latin」だ。情熱的なフラメンコナンバー? 沢崎さんがサイドテーブルをパーカッションに見立てて叩きはじめ、私の足も自然にリズムを取っていると、ミズキちゃんが戻ってきた。
「甘いカクテルがあったよ。缶カクテルだけど、甘い甘いの。山田さんも飲む?」
「ありがとう」
 カクテルってきつくないのか、たいしたことないよ、と沢崎さんとミズキちゃんは言い合い、中根さんも止めはしなかったので、ミズキちゃんも私もちびちび飲んだ。ミルクいろの薫り高い甘いお酒だ。イチゴミルクめいた味はデザートがわりにぴったりだった。
「おいしい。甘いお酒は私も大好きだよ。でも、ずいぶんアルコール度数が強いみたい。ミズキちゃんは全部飲まないほうがよさそう」
 グラスに移し変えたカクテルは、缶を半分こしたのだろう。食事時にワインも飲んでいたからか、にわかに世界が回ってきた。
「ちゃんぽんしたせいかな。ああ、でも、気持ちいい」
「美江子さんが突然……ミズキ、おまえはやめとけ」
「あたしは平気だもん。おーいしい。お兄ちゃん、もっとギター弾いて」
 次なる曲はフォレストシンガーズのダンスナンバーだった。フォレストシンガーズの彼らの前で歌うなんて、私には恥ずかしくて考えもできないはずだったのに、乾くんも本橋くんもいないんだからいいか、と、口ずさんでみた。

「レディ、お手をどうぞ
 レディ、ためらわないで
 レディ、この胸においで

 この腕で抱き寄せて 
 この胸に頬を伏せて
 僕の鼓動に耳をかたむけて
 僕の想いを受け止めて」

 作詞は幸生くんなのだが、乾くんと菜月さんの出会いのシーンが彷彿としてくる。作曲が乾くん。乾くんはどんな心持ちで、この歌詞に曲をつけたのだろう。酔いが手伝ってひどく切なくなってくる。手伝っているのは酔いばかりではなく、私自身の恋の顛末も……歌っていると、ミズキちゃんが言った。
「山田さんも合唱部にいたんだったよね。下手だね」
「歌わずにいると歌唱力は衰えてくるのよね。前からうまくはなかったんだけど、いっそう下手になったみたい。声が出ない。この歌のリードは本橋くんだし、男性の歌だし、なのに彼って、地声は低いのに高いキーもこなせたりして、私じゃ無理よ。お手上げ」
「でも、いい歌だよね。続きを歌って」
「中根さんのギターの調子が狂うんじゃない?」
 いいよ、歌って、と中根さんが言い、曲調が高まっていく。キーも高まっていくのできわめてつらいのだが、続きを歌おうとしたら、ドアが開いた。
「レディ……わっ、降参。来ないで、聴かないで」
 おやぁ、ミエちゃんが歌ってるとは珍しい、と乾くんが笑い、本橋くんも言った。
「なんでやめるんだよ、歌えよ」
「やだ」
「歌ってよ。それにしても、ミエちゃん、その姿はいささかしどけないよ」
「しどけないってなに? 私は歌はやめようっと。踊らない?」
 夕食前に着替えたので、私もドレス姿だ。お行儀よくしようとしても、裾が乱れてしまう。裾を引っ張って乱れを整えて、私はじたばたしていた。
「どうした? ミエちゃん、酔った?」
 眉間に皺を寄せた乾くんが近づいてきたので、私は立ち上がろうとした。
「踊ろうよ……酔ってないよ。とってもいい気持ち……でも、なんだか……きゃ!!」
 立ち上がろうとしたのに足がもつれてころびそうになって、乾くんがささえてくれた。
「変だよ。酔ったにしてもミエちゃんらしくなさすぎる。すわってて」
「すわってるなんてつまんない」
「ふらふらじゃないか。すわってなさい」
「いや」
「ああ、そう」
 ひょいと抱き上げてソファに私をすわらせて、乾くんはそのままじーっと私の目を覗き込んだ。
「……なによ?」
「瞳孔が開いてる。まさか、誰か……なにか飲ませたんじゃないだろうな」
「なんだとぉ? 沢崎、おまえか」
 途端に怒り声になって、本橋くんが沢崎さんの胸倉をつかみ上げた。
「そんなことをするのはてめえしかいないだろ。山田に一服盛ったのか」
「冗談じゃねえんだよっ!」
 こちらも声に怒りが含まれ、沢崎さんは本橋くんの手を叩き落した。
「六人も人間がいるところで、俺がそんなことをするわけねえだろ。よく考えてからほざけ」
「山田とふたりきりだったらやるのか」
「やらねえよ。彼女に惚れたってんだったら正当に口説く」
「惚れた?」
「惚れたとしたらの話だ。やめろって言ってんだろ」
 叩き落された本橋くんの手が、再び沢崎さんの胸元に伸びる。乾くんは冷静に言った。
「沢崎はやってないよ。中根……じゃないよな」
「俺は司みたいな節操のない男じゃない」
 なんだとぉ、と沢崎さんは怒りを中根さんに向け、乾くんは言った。
「本橋も俺もやるわけはないんだから、すると……まさかな。まさかだよね、ミズキちゃん?」
 じりじりっとあとずさりして逃げ出そうとしていたミズキちゃんに、中根さんが大股で近づいて抱き上げた。
「尋問してくるよ。美江子さんを頼む」
「やだ、お兄ちゃん、あたしはなんにもしてないよっ!!」
「なにもしてないのになぜ逃げる? 話はむこうで聞く」
「やだってばっ!!」
 もしかして、さっきのカクテル? 思い当たったのだが、そうだとしてもどうでもいいじゃない、と投げやりに考えていた。なにを盛られたのか知らないけど、気持ちいいんだから。中根さんがミズキちゃんを抱えて出ていくと、乾くんが尋ねた。
「ミエちゃん、気分はどう?」
「いーい気持ち」
「……なにを飲ませたんだ。こんなミエちゃんははじめて見たよ。まったくもう、女の子とはいえロッカーなんてものは……言いたくないけど、つきあう相手が悪いんだ」
「山田、大丈夫か?」
「美江子さん、なんともなく……はないか。俺があやまるのも筋違いだな。本橋、てめえは……」
「ああ、すまんすまん。おまえしかやらないと思ったんだよ。ミズキちゃんだなんて想像もしないだろうが。誤解して悪かった。気がすまないんだったらあとで殴られてやってもいいから、今は静かにしてくれ」
「てめえが先にやったくせに……」
 ただただ私はぼーっとして、三人のやりとりを見ていた。話している内容も聞こえてはいたのだが、もうひとつ意味が理解しにくい。三人が口々に、気分は悪くない? 部屋に行くか? 大丈夫か、などなどと尋ねるのに生返事をしていると、泣き声が聞こえてきた。
「ミズキちゃんが泣いてる……」
「そのようだな」
 沢崎さんが言った。
「ミズキの仕業にまちがいないんだろうから、悠介がきつく叱りつけたんだろ。あいつは女にも容赦ないところがあるから、ことと次第によったら一発ばしっと……」
「中根は女を殴るのか」
 問いかけは本橋くんで、乾くんは言った。
「あんな真似をしたんだから、一発ぐらいいいよ。それこそお仕置きだろ」
「おまえがそんなふうに言うのか。男が女に手を上げるのは、断じて許せない、じゃなかったのか」
「それもことと場合による」
 きっぱりと乾くんは言い、本橋くんと沢崎さんは、しかしなぁ、と困惑顔でいる。ミズキちゃんの泣き声が続いている中を、中根さんが部屋に入ってきた。
「美江子さん、すまない。ミズキだったよ。バンドの誰かが持ってた合法ドラッグだそうだけど、そいつをミズキが美江子さんに渡したカクテルに入れたんだそうだ。冷蔵庫から出して缶の中身をグラスに注ぎ分けて、美江子さんに渡すほうに入れてきたんだ。確信犯だな」
「なんのために?」
「美江子さんは嫌いだから、としか言わない」
「嫌いだからってドラッグなんか使われたら……」
 本橋くんと沢崎さんは無言でいて、乾くんが中根さんと会話をしている。乾くんの声は苛立っていて、中根さんが言った。
「一過性の効果があるってだけで、一晩でもとに戻るはずだそうだ。ミズキの話なんだからどこまで信じていいやらわからないけど、効果っていうのは、人によってあらわれ方が異なるんだそうだよ。薬漬け、病気の薬のほうだけど、そういう薬を常習している者だと、なんの効き目もない場合もあるらしい。美江子さんは薬好きか?」
「薬なんてめったに飲まない。頭痛持ちでもないし……」
「なら、効き目は強いだろうな」
「で、中根、ミズキちゃんをひっぱたいたのか」
「当たり前だ」
 それは……と本橋くんと沢崎さんは言いかけ、乾くんが言った。
「そのくらいはあの子にはいい薬だ。薬、薬って……ミエちゃん、部屋に行こう」
「部屋?」
「意識朦朧? 行こうね。今夜は寝なさい。そうしかどうしようもない」
 ふわりと身体が宙に浮き、乾くんの腕で運ばれていくのを感じた。
「乾くん……私の喋り方、変? なにを言ってるかわかる?」
「わかるよ。多少呂律が回ってないけど、身体はふらふらだろ。我慢して」
「乾くんに抱っこされてるのを我慢しろって? うん、我慢してあげる」
「ありがとう」
 歩けそうにないんだもんね、だけど、ふーわふーわしていい気持ち。いい気持ちなんだから、我慢もなにもあったものじゃない。一服盛られた、というのは理解できていたのだが、あいかわらず、それがどうかした? でもあった。
 階段を登っていって脚でドアを開けて、乾くんがそおっと私をベッドに降ろしてくれた。ゆっくりおやすみ、と囁いて出ていこうとする乾くんに、私も囁き声で言った。
「行かないで」
「うん?」
「ひとりにしないで。寂しい」
「ミエちゃん、あのね」
「あのね、じゃないの。乾くんもここに寝て」
「寝ろ? 困るなぁ。あなたは俺を男だと思ってないのかもしれないけど、俺は健康な生理現象を持つ男だよ。あなたは純情で世間知らずのお嬢さんじゃないんでしょ。俺がそこに寝たら……」
「寝てもなんにもしちゃ駄目。そこに横たわるだけ」
「……無茶な」
「無茶じゃないの。寝て」
 ひでっ、と呟いたものの、乾くんは私の横に寝そべって、身体を横向きにして私の顔を覗き込んだ。
「今夜の乾くんは私のお兄ちゃん。私は長女で、姉も兄もいないの。乾くんもひとりっ子で、妹はいないでしょ? 擬似兄妹になろうよ」
「兄と妹だとしても、大人になったらひとつベッドで同衾はしないよ」
「同衾だなんて言葉はやめて」
「あなたとだと兄と妹じゃなくて、姉と弟だね」
「そんなのいや。弟なんかふたりもいるからいらない。お兄ちゃんがいいな」
「わかりました。あなたが寝るまでお話しようね」
「うん、それがいい」
 やーれやれ、といった顔をして、片腕を枕にして顔を乗せ、乾くんは優しく微笑んだ。
「乾くんってどうしてそんなに優しいの? 優しいだけじゃないのは知ってるつもりだよ。時には乱暴もしなくはないし、ガラの悪い言葉も使うし、皮肉も言うし意地悪だし、ひねくれてるし頑固だし、理屈っぽくて手厳しくて辛辣で……」
「それのどこが優しいんだよ」
「それでも優しいの」
「本橋のほうが根は優しいよ」
「うっそ」
「知ってるくせに……俺なんかはね……」
「俺なんか? 乾くんってばじきに私の保護者面をしたがるんだよね。時々とってもえらそうにするし、さっきだって……」
「さっき?」
 さっきもだけど、前にもね、と私は言った。
「美江子さん、熱があるんじゃありません? さわっていい?」
 仕事先の地方で、おずおずと私のおでこに手を当てた幸生くんの、ひんやりしたてのひらの感触を思い出した。
「熱、あるよ。だるくない? 休んだほうがいいですよ」
「こんなのたいしたことないよ。仕事しなくちゃ」
「仕事も大事だけど、身体はもっと大切です。足元がふらついてるよ。風邪かな。医者に行きましょう。俺が連れてってあげる」
「幸生くん、私をいくつだと思ってるの? キミより年上だよ」
「年は関係ないの。待ってて下さいね。タクシー呼ぶから。タクシーだったらここらへんの医者も知ってるでしょ。美江子さん、逃げたら駄目ですよ。逃げたらとっつかまえてかついで……あー、笑ってるな。俺にはできないと思ってるんだ。できるんだからね。やってみましょうか」
「やってみたら?」
「そうやって俺を馬鹿にしてると……」
「どうするの?」
「章ではない誰かを呼んできますよ」
「章くんじゃ駄目なわけ?」
「あいつは役に立たない」
 言ってる内容はいつもの幸生くんだったけど、目はシリアスだった。その目に負けて医者に行って、仕事場の控え室に戻ったころにはむしろ熱が上がっていた。
「山田、どうした?」
 尋ねたのは本橋くんで、他の四人も心配そうに私を見つめていた。
「インフルエンザみたい。うつすといけないよね。ごめん。ホテルに引き上げる」
「インフルエンザ? やばいじゃないか。幸生、なんで山田をひとりで行かせるんだ」
「だって、ひとりで行くって……美江子さん、怖いんだもん。俺がついてくって言ってるのに、ひとりで行くって言い張るんですよ。強いてついてったら蹴られそうだったから」
「あり得るな。そんならしようがないか。仕事がはじまるまでまだ時間はある。俺がホテルまで連れてくから、おまえらは準備してろ。全速力で帰ってくる」
「ひとりで行くったら」
「意地を張るんじゃない」
 えらそうに言って、本橋くんは背中を向けた。
「おぶされ」
「いやよ、みっともない」
「意地を張るなと言ってるだろ」
「いやです。ひとりで歩く」
 あくまでも意地を張っていると、うしろから抱き上げられた。乾くんの腕だった。
「本橋、タクシーつかまえてこい。行くぞ」
「こらっ、乾くん、降ろしなさい。インフルエンザが感染するよ、そんなことしたらっ」
「あなたこそ、わめくと熱が上がるよ」
 私を抱えて走り出した乾くんに、章くんと幸生くんが言っていた。
「落とさないで下さいねー、乾さん」
「美江子さんに噛みつかれないように気をつけて下さいねー」
「幸生、あとで噛みつかれるのはおまえだぞ」
 シゲくんも言った。
「章、おまえも乾さんに失礼だろうが。美江子さん、お大事にして下さいね」
 そうすりゃよかったんだな、と苦笑いしながら、本橋くんも走ってきた。発熱といえば章くんもたびたびで、章くんのときにもみんなで面倒を見ていたのだから、私が女だからではないのだろうけど、今となっては、意地を張ってごめんね、ありがとう、と彼らに言いたい思い出のひとつだった。
「あのときだって……」
「まあ、たまにはね」
「だけどねぇ……」
「んん? ……ミエちゃん、ミエちゃん?」
 意識は起きているのだが、口が動かなくなってきた。まぶたも重くなってくる。そのとき、ドアが開く音と本橋くんの声が聞こえた。
「……乾? おまえ……なにを……」
「しーっ!! 今夜のミエちゃんはちっちゃな女の子だったんだから、寝かしつけてたんだよ」
「それはおまえの得意な詭弁ってやつだろ」
「ようやくねんねしたんだから、下に行こう。心配すんな。なんにもしてないって」
「そりゃまあ……」
 静かな足音、静かにドアが閉まる音。私の意識もそのあたりで急速にとぎれていった。


後編に続く


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