番外編

番外編29(Fairy tale at Christmas)後編

 ←番外編29(Fairy tale at Christmas)前編 →小説85(テネシーワルツ)
番外編29


「Fairy tale at Christmas」後編

3 eri

心臓がどきどき、足元がゆらゆら。金子さんったら私を呼び捨てにした? 長い間、沢田さんとしか呼んでくれなかったくせに、単なる心境の変化なのだろうか。
 だとしても、「愛理」と呼ばれた。「おいで」と呼ばれた。呼ばれても男性たちが入浴中のバスルームに入っていけるはずもないけれど、金子さんの声の余韻が耳元に聞こえていて、心を落ち着けるのに骨が折れる。私はキッチンに行き、気持ちを鎮めるためにも料理をしようとした。
 半月前のあの夜、酒巻くんがいつになく私にえらそうな口調でものを言うのでかちんとしたのもあり、脅かしてやろうとしたのもあって、泣き真似をしてやった。酒巻くんは完全に本気にしてうろたえていたのだが、金子さんは疑っていたのかもしれない。
 疑っていたとしても、私をなだめてくれようとしたのだろう。だからこそ、ここへ連れてきてくれた。酒巻くんもいっしょだからこそ、私も軽い気持ちでついてこられた。酒巻くんが来ないのだったら私も来ない。金子さんとふたりきりで海辺のコテージだなんて、私はそんな身分じゃないんだから。
 冷蔵庫にはワインが数本、チーズや生ハムも入っている。ワインに合うおつまみを作ろうと材料を取り出していると、キッチンの窓から顔を出したひとがいた。
「金子さんのお連れの方ですか。お友達と三人でいらっしゃるって聞いてたんですけど、お友達って女性だったんですね」
「もうひとりは男性ですけど、あの、どなたですか」
「コテージの管理人の孫です。東京の料理専門学校に通ってますんで、今夜は出張料理人としてやってきました。小百合っていうんです」
「私は沢田愛理です。どうぞよろしく」
 ぽいっと窓から飛び込んできた小百合さんは、長身ですらりと痩せた今ふうの女の子だった。
 管理人さんは小百合さんのおじいさんとおばあさんで、掃除をしてくれて食料品を買っておいてくれたのもその方たちだったらしい。小百合さんは休みなので祖父母の家に遊びにきていて、料理人を仰せつかったのだと話してくれながら、てきぱき料理をはじめた。
「沢田さんって独身? 金子さんの友達なんだったら音楽関係?」
「ローカルラジオのアナウンサーです。独身ですよ」
「キャリアウーマンなんだ。そんなら料理なんてできないでしょ? 東京で働いてる女って、家事ができないのを自慢にしてるもんね」
「家事はできなくもないけど、得意でもないかな」
「そうだよね。じゃ、沢田さんはすわってて。私にまかせて」
「手伝いますよ」
「いいからいいから。包丁で指を切るよ」
「小百合さんっていくつ?」
「二十歳」
 すると、私よりも十二歳も年下だ。なのにこの口のききようは……彼女は後輩でも仕事の関係者でもないのだから、これも今ふうなのだろうから、お説教じみた台詞はやめておこう。
「沢田さんって三十二? それで独身? キャリアウーマンっていうか、うちのばあちゃんに言わせたら行けず後家だね。行かず後家はわざと嫁に行かない女で、行けずになるといけずだから行けない後家。いけずって意味、知ってる?」
「知ってる」
 関西弁の「意地悪」だ。意地悪はあんたの口調じゃないのよ、と思ったのだが、言うとよけいにいけずだと笑われそうで、私はいつしか無口になっていた。
「ばあちゃんが言ってるよ。東京で勉強してるからって、東京の女の真似なんかしちゃいけないよ、女の幸せはなんたって結婚なんだから、小百合は早く結婚して、料理の腕は主人のために役立てなさい、ってさ。東京には三十、四十の独身女が多いよね。独身男も多いんだから、なんでくっつかないの?」
「さあね」
「金子さんも独身だよね。金子さんはかっこよすぎて結婚しないのかな」
「……さあ」
「沢田さんって金子さんのどういう友達? セックスしたの?」
「……」
「男と女なんだから、セックスもしない友達ってないんじゃないの? 金子さんって遊んでそうだね。私も抱いてって言ったら抱いてくれるかな」
「……知らない」
「私、けっこう美人でしょ? 若いんだし、私から迫ったら断られないよね」
「……言ってみたら?」
「そうしようかなぁ」
 頭が噴火しそうなのをこらえて、どうにか返事をしているうちに、料理が次々に完成していく。味見してみたらおいしかったので、料理の腕は認めてやってもいいけれど、私はこの子は大嫌いだと決めた。
 やがて、お風呂上りの金子さんと酒巻くんがキッチンに入ってきた。金子さんがぎょっとした顔になったのは、彼も小百合さんの存在を知らなかったからだろう。酒巻くんはもっとぎょぎょっとした顔をして、私にもの問いたげな視線を向けた。
 放っておいてもよかったのだが、小百合さんも紹介してほしそうだったので、私は簡潔に彼女がなにものなのかを話した。
「佐伯さんご夫妻のお孫さんか。料理をしにきてくれたんだね。ご苦労さまです」
 金子さんが言い、酒巻くんもぺこっとお辞儀をした。
「俺は知っててくれるんでしょう。おばあさまやおじいさまから聞いてくれてるんだよね。愛理ちゃんとも知り合ったんだろうから、残るは彼だね」
「酒巻です。お世話になります」
「はーい。もうちょっとでできますから、待っててね。金子さん、まずはビールにします? ビールのおつまみだったらできてますよ。私、料理には自信があるんだ。食べて」
「うん……うまい」
「でしょ? ビールを持ってきますね」
「いえ、僕が持ってきます」
 酒巻くんが冷蔵庫からビールを取り出し、四つのグラスに注ぐと、小百合さんも遠慮もせずに乾杯に加わった。
「食べてて下さいね。私は料理を仕上げたら帰りますから」
「帰らないといけないの? おじいさまのお宅は近いでしょう? あとで送っていくから、小百合さんもいっしょに食べていけばいいよ」
「ほんと、金子さん? 嬉しい」
 言わなくていいのに、金子さんは愛想よく小百合さんを誘い、小百合さんもまったく遠慮もせずに、料理が完成すると四人でテーブルを囲んだ。
「私、金子さんのファンなんですよ」
「そうですか。ありがとう」
「酒巻さんは学生?」
「いいえ、僕は……」
 質問したのは小百合さんなのに、酒巻くんの返事を待たず、彼女は金子さんのグラスにビールを注いだ。
「嬉しいな。こんなふうにしてもらえるなんて思ってなかった。金子さんって優しいんですね」
「コテージの管理をしてくれているご夫妻のお孫さんなんだから、食事をともにするくらいは当たり前でしょう」
「でも、金子さんってスターなのに、私なんかに優しくしてくれるって感激」
「そもそもスターではないけど、休暇中はひとりの男だよ」
「かっこいいのに気取ってないし、小百合、金子さんを好きになりそう」
「ファンだと言ってくれるだけで光栄ですよ」
 そろそろっと篭絡して、あわよくば今夜早速? そのつもり? 金子さんも表情がゆるんでいて、小百合さんとばかり楽しげにお喋りしている。私は適当なところで席を立った。
「ごちそうさまでした。今夜はすこし疲れたから、早めにやすみます」
「疲れた? だるい?」
 聞き返してくれたものの、金子さんは私なんかいないほうがよさげに見えて、私は無表情で応じた。
「慣れない場所だからですよ。気にしないで。おやすみなさい」
「酒巻、愛理ちゃんを部屋まで送っていけよ」
「はい」
「送ってくれなくていいよ。階段を上がったらすぐなんだから」
「いえ、落ちたりしたら大変ですよ」
「落ちないったら」
 ふふふん、ざまあみろ、と言いたそうに見える小百合さんの顔。私の邪推なのかもしれないが、彼女の気分はしてやったり、なのだろうとしか思えない。金子さんはおやすみ、と私に言って、小百合さんに向き直った。小百合さんがなにをしたいのだとしても、金子さんがそれを受け入れたとしても、私には関係ないのだから、悲しくなるなんて馬鹿なのだから。
「私、明日になったら帰る」
 部屋まで送ってきてくれた酒巻くんに言うと、彼は表情を曇らせた。
「今日来たばかりですよ。どうしてですか。えーと……さっきの……」
「お風呂は冗談みたいなものなんだから、どうってこともないの。見てないからね」
「見てないのは知ってます。僕は見られても……」
「どうってことない?」
「すこーしどうってことはありますけど、いいんですよ。それより、沢田さん……元気がなくなっちゃって……風邪ですか」
「ううん、平気」
「平気じゃなさそうだけどな」
「寝たら治るから平気だよ」
「おやすみになるんでしたら、僕がここにいてはいけませんね。あったかくして眠って下さいね。風邪薬をもらってきましょうか」
「うん、風邪薬は早目がいいんだよね」
 気遣いのすぎる酒巻くんがうるさくなってきたので、もらってきて、と言うと、彼は部屋から出ていった。
 キッチンでは金子さんと小百合さんが楽しくお話ししていて、もしかしたら今夜は小百合さんは、金子さんの部屋に泊まるのかもしれない。もしもそうだとしても、私には関係ない。関係ないけど悲しいな。来なかったらよかった。
 悲しいだなどと感じるのが馬鹿。愛理の馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿、自分で自分を罵っているうちにまどろんだようで、ドアにノックの音がして眼が覚めた。
「僕です。風邪薬をもらってきたんですけど……」
「いいよ、入って」
「沢田さん、服のまんまで……」
「ああ、あとで着替える」
「パジャマは持ってきてらっしゃるんでしょう。ちゃんと着替えて寝て下さいね。薬を持ってくるのが遅くなったのは、沢田さんがさっきは眠ってらっしゃったようだったからです。ノックしても返事がなかったんですよ」
 言われて時計を見てみると、二時間ほどが経過していた。
「金子さんはタクシーを呼んで、小百合さんを送っていかれました」
「帰ったの、彼女?」
「もちろんですよ。タクシーの音は聞こえませんでした?」
 まどろんだつもりが熟睡していたのか。酒巻くんは水の入ったコップと小皿に乗せた錠剤をベッドサイドのテーブルに置いて、お大事に、と言い残して出ていった。
 風邪ではなくて神経が疲れているのだろうけど、せっかくだから薬を飲んでパジャマに着替えて、ベッドに横たわった。が、再びの眠りが訪れてくれない。金子さんは小百合さんを送っていった。送っていくなんて嘘で、金子さんこそ今夜は帰ってこないんじゃないだろうか。そうだとしても関係ない。金子さんがなにをしようとも、私には一切関係ない。
 関係ない、でも、悲しいな、ふたつの相反する想いの中を堂々巡りしていたら、外でひそやかな車の音が聞こえた。酒巻くんは眠ったのだろうか。玄関のドアが開いて閉まる音が聞こえても、酒巻くんが出迎える気配は感じ取れない。我慢できなくなって起き出して部屋から出ていった。
「お帰りなさい」
「……愛理ちゃん、風邪じゃないのか。そんな格好でうろうろしてたら風邪がひどくなるよ」
「風邪なのかな。薬を飲んだからふーらふーらするの。そうだ、私、お風呂に入ってない」
「風邪薬でふらついてるのに、風呂はやめなさい」
「命令しないでよ。なによなによ。金子さんなんか……」
「俺がどうした?」
 金子さんが小百合さんを送っていってからだと、時間はどれくらいたったのだろう。なにかするほどの時間はたっていない気もするが、素早くすませれば……
「小百合さんに恋されちゃったんだよね。若くて綺麗な女の子に迫られてその気になった?」
「ならないよ」
「迫られたの?」
「意味深な台詞は出てたみたいだけど、きみは俺をそんなに節操のない男だと思ってるのか。小百合ちゃんは祖父母の家に泊まっている学生だ。おじいさまとおばあさまのもとに送り届けて、おやすみなさいと言い交わして帰ってきたよ」
「小百合ちゃん?」
「あの子は子供なんだから、ちゃん付けでもいいだろ」
「私は子供じゃないのに愛理ちゃん?」
「困った子だね。薬のせいで正気じゃないんだろ。寝なさい」
「命令しないでって言ってるでしょ」
「薬のせいで子供になってるんだな。さあさ、愛理ちゃん、ねんねしようね」
 たしかに私はどうもおかしい。頭か胸かに私ではない私がいて、金子さんにからみたがる。薬のせいなのか。風邪薬ってものは体質に合わないと人を変にさせる作用が……そういうことにしておこう。
「今だったら水着を着てお風呂に入ってもいいよ。温泉なんだから一晩中お湯はあるんだよね」
「あるけど、倒れたらどうするの」
「金子さんが抱いて運んでくれるからいいの」
「では、お望み通りに」
「……望んでないよ」
 けっこう重たい私をひょいひょいっと抱き上げて歩き出す。こうされるのははじめてではないけれど、何度目だってときめいてしまう。抱えられてあらがおうとした私を、金子さんは甘い口調で脅迫した。
「おとなしくしないと、正気に戻ったらお仕置きだよ」
「お仕置きってなに?」
「なんだろうね。なにがしてほしい?」
「なんにもしてほしくない」
「はいはい、今のところはベッドに運んであげるから、いい子でねんねしなさいね」
「金子さんったら、また私をリリヤちゃんの娘さんみたいに扱う。私はあんなにちっちゃくないし、重たい大人の女なんだからね」
「重くはないけど、リリヤの娘たちなんかよりずーっと可愛いよ」
 どういう意味? 子供に対するあやし言葉? 酒巻くんの部屋は静まり返っていて、起きているのか寝ているのかも定かではないのだが、ここには彼がいる。酒巻くんは防波堤なのか、あるいは……あるいはなんなのかも定かではないままに、部屋に運ばれてベッドに入れられた。
「熱はないね。明日になって薬も切れて、元気になってたら風呂に入ろう。約束したよ」
「約束なんかしてないし、人を麻薬中毒みたいに言わないで」
「どうも失礼。おやすみ」
 あっさり言ってドアを閉め、金子さんは出ていった。小百合さんとはなんにもしなかったって信じていいの? 私がいるから? いなかったらした? 小百合さんは趣味じゃないの? 子供だから? 私も年のわりには子供? だから趣味じゃないの?
 頭の中はぐちゃぐちゃしていたのだが、風邪薬が眠りをもたらしてくれて、ぐっすり眠って目覚めた私は、ベッドの中で赤面した。
 昨夜、私はなにをした? なにを言った? 全部は覚えていないのが幸いといおうか、まずいのかもしれないが、断片的には覚えている。覚えている部分を思い出すと赤面が激しくなりそうなので、頭を振って着替えて顔を洗って、手早く化粧をしながら思い出した。
 化粧を落とさずに寝て途中で起きて、そうすると化粧は剥げていただろうから、酒巻くんにも金子さんにもほぽすっぴん顔を見られたのだ。他は思い出さないでいるとしても、それだけでも赤面の至り。せめて今朝はしっかりメイクして、爽やか愛理ちゃんの顔になって出ていかなくては。
「おはよう、愛理ちゃん」
 キッチンに行くと金子さんが新聞を読んでいて、酒巻くんが朝食を作っていた。
「沢田さん、おはようございます。野菜が残ってましたし、お味噌もあるから野菜たっぷりのお味噌汁を作りますね。昨夜は洋風でしたから、今朝は純和風です。お味噌汁にごはんにアジの干物。沢田さんはお好きですか」
「和食は好き。酒巻くん、手伝おうか」
「いいんですよ。味付けは大目に見ていただければ、僕だってなんのこれしき」
「酒巻くんっていいお嫁さんになれそうだね」
「沢田さん、僕はお嫁さんにはなりません。お嫁さんがほしいんですよ」
 新聞をたたんだ金子さんが、笑い声で言った。
「愛理ちゃん、朝風呂に入ろうか」
「……なんのことだか全然わからない」
「忘れちまった? 薬を飲んだんだったらそういうこともあるんだろうな。具合はどう?」
「元気溌剌」
「顔色からしても元気そうだね。よかったよかった。昨夜はあんまり食ってないんだから、今朝は酒巻作の純和風朝食をどっさり食えよ」
「食べないほうがいいの。ダイエットできるから」
「ダイエットなんてしなくていいって」
「そうですよ。ダイエットは身体によくありません」
「男には私の苦労はわからないんだからほっといて」
 ふたりしてため息をついているのを見ていると、お風呂場で金子さんが言った「アバンダンディア」を思い出した。そのあとにも金子さんはなにか言ったが、そこは思い出さないようにして、ちょっと失礼、とことわってキッチンから出ていった。
「おーい、愛理ちゃん、朝メシは?」
「ちょっと待って。あった」
 コテージに到着した日に探検したので、図書室があるのは知っている。もとの主は本好きの金子さんのおじいさまらしく、本好きの紳士だったのだろう。古びた蔵書が並んでいる中に「ローマ神話」のタイトルの本を見つけた。紐解いてみると……
「愛理ちゃん、なにしてたの?」
 戻ってみるとテーブルには朝食ができていて、私は聞こえないふりでお箸を取り上げた。
「いただきます。うん、おいしい。酒巻くん、ほんとにいいお嫁さんになれるよ」
「まったくだな。酒巻、結婚したら主夫業もやれよ」
「兼業主夫だったらやりますよ」
 アバンダンディアとは、書物によるとローマ神話の豊穣の女神だ。豊穣の女神の身体つきは私のようなのだろうか。ダイエットしたら豊穣タイプではなくなるのかもしれないが、元気が出たら食欲も出てきて、酒巻くんの作ってくれた朝ごはんをしっかりいただいてしまった。
「腹ごなしにスポーツをやろう。プールだったらいいだろ」
「水着? 金子さんは持ってこいって言ってたけど、水着姿になりたくないから持ってきてない」
「そうなの? たしか昨夜は……」
「昨夜なにを言ったのかなにをしたのかは、生憎本人はすべて忘れました」
「そっか、残念だな。では、酒巻、泳ごうか。愛理ちゃんは見物してるといいよ」
 裸と水着って変わりないんじゃありませんか、と酒巻くんはぶつくさ言っていたが、しまいには水着に着替えて三人でプールに行った。温水プールにも温泉を引いてあるのだそうで、室温も高い。薄手のワンピースを着てデッキチェアにすわって、私は泳いでいるふたりを眺めていた。
「酒巻くーん、がんばって。意外に酒巻くんも早いじゃないの。もうちょっとで金子さんに勝てそう……あーあ、惜しかったね」
「金子さん、もう一度やりましょう」
「よーし、何度でもかかってこい」
「……余裕なんだから」
 バスルームではなにも見ていないが、プールでは酒巻くんと金子さんの半裸を見ている。金子さんも言っていたように、学生時代の合宿では、私も金子さんも水着姿になっていたのだから、お互いの半裸は見ている。私は十代の終わりだった金子さんの若々しい裸身を覚えている。
 あのころから金子さんが好きで、恋してるのに言えなくて、そのままずっと言えなくて、十八だった私が三十二歳になってしまって、それでもやっぱり心はあのころのまんま。
 まるっきりのまんまではないのかもしれないけれど、私は今でも金子さんが大好き。夜が明けたら心から、金子さんが小百合さんとなにもしなくてよかったと思えてくる。私には関係ないにしても、小百合さんと金子さんが一夜の夢をともに見るなんて、耐えられないのだから。
 小さいのと大きいのがプールで競泳をしていて、二度目も金子さんが勝って、プールサイドに手をついて、やったよ、愛理ちゃん、と微笑んでみせる。僅差で追いついた酒巻くんはうなだれている。私にはもう金子さんしか見えない。プールから出た肩の筋肉のまばゆさに目を細めて、あなたは太陽神みたいだね、と小声で呟いた。
 明日になったら帰る、と酒巻くんに言った記憶は残っていたが、薬のせいにしてなんでもかんでも忘れたふりをして、三人で休暇を楽しんでいた。
 その翌日には小百合さんのおばあさんとおじいさんが掃除をしにきてくれた。食料も買ってきてくれておばあさんが料理をしてくれて、私にも料理を教えてくれて、酒巻くんも横から覗いていて、男のひとは料理なんてしなくていいんですよ、とおばあさんが苦笑いして、金子さんは言った。
「お言葉ですが、男だって料理はできたほうがいいですよ」
「男が台所に入ってくるとかさばるから邪魔になるんですよ。酒巻さんだったらまだいいけど、金子さんみたいな大きなひとは入ってこないほうがいいんです」
「ここのキッチンは広いからいいじゃありませんか」
「うーん、小さいから有利になる場合もあるんですね。佐伯さん、ありがとうございます」
 酒巻くんが言い、おばあさんは笑い出した。
「山椒は小粒でぴりりと辛い。独活の大木。大男、総身に知恵が回りかね。日本では昔からそう言うんですよ。日本人は小さくてもいいんです」
「そうですよね。佐伯さん、僕、嬉しいなぁ」
「俺は嬉しくないよ」
 おばあさんも小柄なので、小柄な酒巻くんと意気投合して金子さんを腐らせている。私は中間だから大木でもぴりりと辛いでもないし、そんなふうに言っていっしょに笑ってから、庭仕事をしているおじいさんにお茶を持っていった。
「お孫さんは?」
「これはどうも。小百合は今日、東京に帰ると言ってましたよ。友達と約束があるそうでね」
 いくら金子さんが趣味ではないと言っても、小百合さんは金子さんが趣味なのだから、彼女が近くにいるといつあらわれるかと心配でおちおち眠れない。残りの休暇もこれで心置きなく楽しめる。来なかったらよかった、なんて考えたのも忘れて、おじいさんとふたりでお茶を飲んでお菓子を食べていると、遠くにきらめく海が見える。冬の海は静かに凪いでいて、安心した私の心を反映しているかのようだった。


4 kuni

長身で大胆な女性とは、僕がもっとも苦手なタイプだ。金子さんとでも身長に大きな差がないのだから、僕だと見上げないとならない小百合さんは、沢田さんが部屋に引き取ったあとで、金子さんに粘っこい視線を向けていた。
 恋愛経験も乏しければ、女性に口説かれた経験は皆無。ごく稀に彼女から告白してもらえるのかと心を浮き立たせていたら、逆ナン泥棒だったり、乾さんに紹介してほしいなぁ、だったり、悲惨な経験だったらなくもない僕にも、小百合さんが金子さんと邪悪な関係になりたいのだと察せられた。
 独身男女が互いの合意にもとづいてベッドインしたとしても、邪悪ではないだろう。小百合さんだって成人なのだから、一夜の恋もありなのかもしれない。だけど、僕には絶対の絶対の絶対に許せない。金子さんは沢田さんの……沢田さんの片想いのひとか。
 沢田さんが部屋に入ったあとで三人で食事を続け、僕はさりげない敵意を込めて小百合さんをちらちらっと見ていたのだが、彼女は僕なんかはまるで眼中にもない様子だった。
 粘っこい視線に意味ありげな台詞。金子さんが小百合さんの真意に気づかないはずはないが、愛想よく微笑んで、身をかわしている。女性にそれとなく口説かれるのは慣れているのだろう。畜生、僕もいっぺんくらいは……え? 國ちゃん、小百合さんに誘われたいの?
 いらないよ。絶対にいらない。僕が小百合さんとベッドに行ったら、あざ笑われるのがオチではないか。酒巻さんったらはじめて? だなんて言われたりして。はじめてじゃないんだけど、僕にも女性経験はなくもないんだけど……もごもごもご、となりそうだ。
 しかし、僕だってもててみたい。金子さんにはあんなにも恋してくれている沢田さんがいるんだから、もてるって部分のかけらくらい分けてくれてもいいんじゃありません?
「よーく考えてみな、酒巻。身長は? 体格は? 顔は? 金は? 性格は? 金子さんとおまえでは、男としての資質が生まれつき差がありすぎるんだよ。神さまって不公平だよな。俺にはおまえの気持ちは痛いほどわかる。痛くて痛くて寝込みそう。酒巻、俺、寝込むから看病して。救急車を呼んでよぉ」
 誰かが心で、なぐさめてくれてるんだかからかってくれているんだか、の台詞を発していた。
 人間は身長でも顔でも体格でもお金でもない。だけど、性格や資質ってのは重大要素だね。あなたのおっしゃる通りです。先輩方のうちでは僕に少々似ていて、それゆえにもっとも影響を受けやすい三沢さんが、この場にはいなくても時おりひょっこり心に顔を出す。架空の三沢さんなので、僕は現実ではやれないこともやれるのだった。
 あなたのおっしゃる通りではありますが、三沢さんは引っ込んでて下さい。いばって言って心の中の三沢さんの頭をぼかっとやったら、おー、先輩に向かってなにをする、てめえは、と三沢さんに睨まれる。思わず、ごめんなさいっ、と叫んだ。
 架空の三沢さんと架空のバトルを繰り広げて、僕は表面はほぼ無言でいた。その間にも小百合さんは金子さんにべっとりねっとりしんねりしていて、金子さんは上手にはぐらかし、食事が終わると言った。
「そろそろ帰ったほうがいいよ。送っていこうか」
「車? 金子さんの車って外車でしょ? ああいうの、乗ってみたかったんだ」
「飲酒運転でぱくられたくないから、タクシーにしようね」
「田舎では警察なんていなんから大丈夫だよ」
「大丈夫ではありません。法律を守るのは国民の義務だ。そうしてこそ国家も国民を守ってくれるんだよ」
「そんな話はいいから……」
「よくないよ。片づけは酒巻に頼んだよ」
「はい、やっておきます」
「つまんないの」
 金子さんが呼んだタクシーが間もなくやってきて、小百合さんは不満顔で帰っていった。金子さんもタクシーに乗っていき、僕は取り残されて、沢田さんに薬を運んだり、食器洗い機を操作したりして、金子さんの帰還を待っていた。
 佐伯さんご夫妻の自宅は近いのだそうだけど、金子さん、遅いなぁ。沢田さんは寝ちゃったのかな。僕も眠くなってきた。先輩が帰ってこないのに寝たらいけないよね。でも、眠い。食事の後半は黙っていて、ワインをすごしたのだろうか。眠くて眠くてたまらなくなってきて、キッチンのテーブルに突っ伏したら眠ってしまった。
 どのくらいの時間がすぎたのか、ふと眼が覚めて顔を上げたらむかいに金子さんがすわっていて、水割りのグラスを揺らしていた。
「あ、金子さん、おはようございます」
「まだ夜中だよ。そんなところで寝てるとおまえも風邪を引くぞ。部屋で寝てこい」
「金子さん……金子さんは……」
「んん? なんだ? 眠くて駄々をこねたくなったのか。抱っこしてやろうか」
「ふざけないで下さい。小百合さんとはなにかあったんですか」
 ずばっと訊けたのは酔いが残っていたからか。金子さんは黙って首を横に振り、天井を見上げていた。
「僕は……沢田さんを……」
「おまえは愛理ちゃんが好きなのか」
「好きです」
「好きって感情にも微妙なちがいがあるだろ。抱きたいのか、結婚したいのか」
「そんなんじゃないんですよ。知ってるくせに……知ってるくせに……」
「彼女はおまえを?」
「僕は沢田さんとは魂の姉と弟です」
「ふーん、おまえだったら……」
「沢田さんが僕を根本のところでどう考えているのかまでは知りませんが、僕にとっては沢田さんは姉であり母である、大切な大切な女性のひとりです。実の母や姉に近い、大好きなひとです」
 涙がこみ上げてきて、泣くまいと努力しながら言った。
「いくら金子さんだって、沢田さんを悲しませたら承知しませんからね」
「どう承知しないんだ。やってみろ」
「……沢田さんを悲しませるんですか」
「リリヤの娘たちがさ」
 お会いしたことはないが、金子さんの妹さんのリリヤさんの娘さんたちについては聞いている。可愛い姪御さんたちの話をするときには、金子さんの目は慈愛に満ちて見えた。
「幼児ってのは心にあふれてる言葉をうまく表現できないだろ。俺も身に覚えがあるけど、きょうだい喧嘩をしたら、上が親に叱られる。姪たちの中では長女のユリカが、次女のマリン、三女のサリナと派手に取っ組み合いなんかしてると、決まってユリカが叱られるんだよ。そうするとユリカはママに食ってかかる。私が悪いんじゃないもん、マリンが……サリナが……って言いかけて、だけど、上手に言い表せなくて泣き出して、おじちゃまぁ、って、俺がそばにいると飛びついてくるんだ。俺はユリカを抱き上げて、そうだね、ゆっくり落ち着いて話してごらん、ってね。そうすると俺がリリヤに叱られる。お兄ちゃんはユリカに甘いんだから、ってさ。今のおまえの顔は、そんなときのユリカにそっくりだよ」
「話をそらさないで下さい」
「いつのころからか気づいたよ。愛してる」
「……え? あの……」
「馬鹿野郎、おまえじゃないぞ」
「知ってますよ。金子さんに愛されたくありませんから」
 ちがった意味でだったら、後輩としてだったら愛してもらっているのだとも知っているが、金子さんが愛しているのは?
「おまえの大切な魂の姉上は……おまえと争奪戦なんてやりたくないもんな。徳永の大馬鹿くそ馬鹿馬鹿たれ野郎が……」
「金子さん、下品ですよ」
「下品だっていいんだよ。あの野郎、今度なにか妙な真似をしやがったら……しかし、あいつにはどうすりゃいいんだ。殴ったってしらっとしてるし、怒鳴りつけても薄笑いを浮かべてやがるし、腕をねじり上げて骨折させてやろうとしたら、まちがいなく応戦されて、下手をしたら俺があべこべにやられる。徳永だけはどうにもこうにも、始末に終えない。あいつをなんとかする方法を考えてくれ」
「徳永さんがどうかしたんですか」
「うん、まあな」
「えーと……徳永さんが沢田さんを?」
「本橋か乾だったらまだしも……本橋だったらなんとかなるかな。乾のほうが強敵か。いや、本橋も乾もそうではない。徳永はどうだか不明だ。あいつは俺をためそうとして……」
 水割りをひと口飲み、金子さんはしばらく黙ってから言った。
「そうなんだろうな。だと信じたいよ。俺はいつかも……大馬鹿野郎は俺さ」
 一部分は理解できる台詞のあとで、金子さんは本当に無言になり、僕も黙って金子さんを見ていた。
 ずいぶんとふたりして黙ってから、寝ろ、と言われて僕も自室に引き取り、金子さんの中では決着がついたのか、その決着とはいかに? 徳永さんがどう関ってくる? 承知しませんだなんて、金子さんに向かってよく言ったよね、國ちゃん、などなどと考えているうちに眠ってしまった。
 翌日には沢田さんも元気を取り戻していて、金子さんも昨夜の会話には触れず、金子さんとプールで競泳をしたり三人で散歩をしたりした。沢田さんも明るくふるまっていた。
 それからは小百合さんは二度とあらわれず、管理人の佐伯さんご夫妻のおばあさんに料理を教えてもらったり、おじいさんに大工仕事を教えてもらったりもした。そうして休暇は平穏にすぎていき、東京に帰る日がやってきた。
 オペルのザフィーラ、僕は車は持っていないので、往復ともに金子さんの車に同乗させてもらって帰路についた。金子さんはこの車がお好みのようで、二台目だ。金子さんが運転し、沢田さんと僕は後部座席に並んですわって、沢田さんは言っていた。
「私は免許を持ってないのよ。取っておけばよかったな」
「今からでも遅くありませんよ。僕は免許は持ってますけど、ペーパードライバーなんで大きな口は叩けませんが、あるともしものときに便利ですよね」
「私、運動神経も反射神経もないし、運転したら世間に迷惑かけそう」
「案外沢田さんは気の荒いドライバーになって……」
「そこのじじい、ちんたら歩いてるとひき殺すぞ、ってか」
「金子さん、ひどい。私がそんなことを言うように見えるの?」
「見えませんよ。愛理ちゃんは優しいもんな」
「そうですよ。酒巻くんもなによ」
「ごめんなさい。またまた失言でした」
 車の中でも和やかに話し、途中のドライブインで休憩して、佐伯夫人が持たせてくれたお弁当を三人で食べた。
「酒巻くん、楽しかったよ。またいっしょにどこかに行こうね」
「沢田さんがいて下さったおかげで、僕も金子さんに叱られるのは最小ですんだんですよね。感謝してます。ありがとうございました」
「また食事もしようね。約束」
 先に沢田さんをアパートに送り届け、指きりをして、続いて金子さんが僕を送ってくれた。
「金子さん……?」
「なんだ?」
「僕は邪魔を……」
「馬鹿」
 答えはそれだけ。あれっきり、ひと晩目にかわした会話を金子さんは蒸し返そうとしない。僕もそうなると言えなくなって、送ってくれた金子さんの車を最敬礼して見送っていた。外車に乗れなくて残念だったね、小百合さん、あの車はほんとにかっこよくて、金子さんにはぴったりだよ。僕もお金を稼げるようになったら車を買おう。僕には外車じゃなくて軽自動車のほうが似合うかな。そんなふうにも考えていた。
 おそらくは邪魔者でもあったのだろうけど、休暇は楽しかった。東京に帰ると仕事が再開される。昼間のラジオの仕事を終え、夜は暇なので、故郷の両親や祖父母、姉夫婦、僕にもいる姪にプレゼントを贈ろうと、クリスマスムードに彩られた街に出かけていった。
 恋人とクリスマスをすごした経験は一度だけで、さっちゃんと食事をした。あのころの僕はお金がなくて、イヴにこんな晩ごはん? 酒巻くんみたいに貧相だね、と言われたのだが、今となってはなつかしい。
 今年のクリスマスもひとりぼっちだけど、恋人はいなくても大好きなひとは何人もいるんだ。イヴは仕事だけど、プレゼントを贈るひとはいる。母さん、父さん、姉さん、義兄さん、姪の美菜ちゃん、おばあちゃん、おじいちゃん、元気でいますか。僕は元気だよ。ほら、僕はこんなに幸せだよ。
 幸せだけどふと人恋しくなって、立ち止まって携帯電話を取り出した。フォレストシンガーズのみなさんにはしばらく会っていない。こんなときには三沢さんがかけやすいので、電話をしたら出てくれた。
「メリークリスマスって早いんですけど、早めにメリークリスマス。三沢さん、元気ですか」
「元気だよ。おまえもテンション高いね。ナンパに成功した?」
「三沢さんではありませんから、僕はナンパはしないんです。話しててもいいですか」
「今はライヴハウスで出番待ちだからいいよ」
 夏から秋への全国ツアーもすみ、大物への道を歩いているフォレストシンガーズ。本橋さんも乾さんもシゲさんも木村さんも元気だと言う三沢さんに、僕は言っていなかったことを話した。
「つい先日まで、金子さんの別荘にお招きいただいてたんですよ」
「男ふたりで別荘滞在? 襲われなかったか?」
「三沢さんまで……あり得ません。男ふたりじゃないし……」
「なにをっ。女がいたのか。それでおまえのテンション高いのか。乱交でもしてたのか」
「三沢さん、馬鹿を言わないで下さい」
「先輩に向かって馬鹿とはなんだ、馬鹿とは、いい度胸じゃねえかよ。今度会ったら覚えてろ」
「忘れます」
 で、女って? と声を低める三沢さんに含み笑いをしてみせると、くそくそくそっ、と毒づいているのが聞こえる。変な誤解をしているようなので、真相を打ち明けた。
「沢田さんがいたの? 金子さんと沢田さん? そこにおまえもいたの? その意味を理解してる?」
「意味ってなんですか。三沢さんは理解してるんですか。とりあえずご報告まで。三沢さんはこれから仕事なんですよね。がんばって下さいね」
「がんばるけどさ、詳しく聞かせろよ」
「またの機会に。では、失礼します」
 こらっ、待てっ、と三沢さんの声が聞こえている中で電話を切り、小百合さんの話までしたら彼はどんな反応を示しただろうか、と考えつつ歩き出した。
 勘の鋭い三沢さんや乾さんは、沢田さんの金子さんへの想いを知っているのだろう。本橋さんやシゲさんは知らないって可能性もあるが、美江子さんも知っている。徳永さんも知っているのだろうか。木村さんはきっと、俺には関係ないもん、と言うだろう。
 ぶらぶら歩いて、食事をしようと周囲を見回したら、「向日葵」の近くに来ていた。クリスマスイヴの近い今日はシンガーさんたちはライヴやテレビ出演で忙しいだろうから、金子さんも徳永さんも来ていないはずだ。僕はひとりで早めのクリスマスを祝おう。僕も顔見知りになっているアルバイト青年が近づいてきたので、オーダーを告げた。
「シャンパンをグラスで。クリスマスディナーってもうやってるんですね。それも」
「酒巻さん、ひとりでクリスマス?」
「そうですよ。僕は日本人で、キリスト教徒じゃないから、ひとりでもいいんだ。クリスマスディナーは食べたいんだけどね」
「奥に徳永さんがいらしてますよ」
「ええ? 徳永さんにそんな時間があるの?」
「あるからいらしてるんでしょう。この店は落ち着くから、ひとりでメシを食うには最適だっておっしゃってました」
「そうなんだ。だったら僕も無視できないね。挨拶してくるよ」
 有名人は個室でないと落ち着かないのだろう。その点、ラジオが好きな方々には多少は名を知られていても、顔は知られていない僕は気が楽だ。邪魔をしてはいけないので挨拶だけのつもりで個室に行くと、徳永さんが言った。
「おまえもひとりか。つきあえよ」
「同席させていただいてよろしいんですか。それでは」
「酒巻のオーダーもこっちに頼みますよ」
 深夜にテレビ出演があるので、食事がてら出番待ちだと言う徳永さんは、暇ではないのであるらしい。それでも時間はあるので、ゆったりすごしていたのだろう。テーブルには文庫本と煙草、食べかけのサンドイッチが乗っていた。
 夕食なのにサンドイッチか。徳永さんも食生活は充実していないのか。仕事前だからお酒は控えているようで、ミネラルウォーターとサンドイッチとは、粗末な食事に思える。
「そんなんでおなかがいっぱいになります?」
 基本的には無口ではないはずだが、徳永さんは気が向かないと無口でいる。三沢さんや乾さんや金子さんとは、口の資質が生まれつきちがう。つきあえと言ったくせに黙って煙草を吸っている徳永さんとでは間が持てないので、僕が口を開いた。
「もうすこしきちんと食べないと、身体に毒ですよ」
「歌う前に満腹すると重たいんだよ」
「そうですか。なら、あとで食べるんですか」
「あとは酒だな」
「お酒と煙草では栄養になりません」
「おまえは俺の女房か。口うるさい女みたいだな」
「……すみません」
 うるさいんだったら誘わなかったらいいのに。僕も黙って運ばれてきたディナーを食べはじめたのだが、無言で食事をしていると気詰まりでならない。前菜のブロッコリを示して言ってみた。
「召し上がりませんか。緑黄色野菜は身体にいいんですよ」
「いらねえよ」
「これは? じゃがいも」
「うるせえな、おまえは。黙って食え」
「黙ってたら楽しくないじゃありませんか」
「おまえは俺といたら楽しいのか」
 皮肉な笑み。皮肉っぽさが徳永さんの持ち味だと知っているが、抵抗してみた。
「徳永さんも僕の大切な先輩のおひとりなんですから、楽しいというよりも、ためになるお話を聞かせていただけると嬉しいです。お仕事はいかがですか」
「順調だよ」
「今夜はクリスマスソングを歌うんですか」
「ノーテンキな歌じゃなくて、暗いやつを歌うんだ」
「暗いクリスマスソングってあります?」
「暗鬱なロンドンの霧の夜のようなクリスマスソングだよ」
 タイトルは「Christmas and the Beads of Sweat」。僕の知らないその歌を、徳永さんが口ずさんだ。

「Watch the sunrise
 Say your goodbyes
 Off we go
 Some conversation
 No contemplation
 Hit the road

 Car overheats
 Jump out of my seat
 On the side of the highway baby
 Our road is long
 Your hold is strong
 Please don't ever let go Oh No

 I know I don't know you
 But I want you so bad
 Everyone has a secret
 But can they keep it
 Oh No they can't」

 まさに暗い。クリスマス気分がぶっこわれるような歌だ。徳永さんの声質と性質には似合っているのだが、テレビでこの歌を聴く視聴者の方々が早めのパーティでもしていたとしたら、テレビは消したほうがいいと忠告してあげたい。
「この世でもっとも暗いクリスマスソングだって評判の歌だよ」
「徳永さんの気分も暗いんですか」
「いいや。俺はいつもこんなだよ」
「……あのね、あの」
 言ってはいけないのかもしれないが、口止めされているのでもないのだから、僕は話した。
「金子さんのおじいさまが遺して下さったという、海辺のコテージに……」
 三沢さんにも話した内容を繰り返すと、ふむふむと聞いていた徳永さんは、しかし、だからどうした? と言いたげに僕を見返した。
「どうもしないんですけど、そのときに金子さんが……徳永さんは沢田さんに……えー、あのー、特別な感情を……」
「馬鹿か、あいつは」
「あいつって金子さんですか」
「そうだ」
「徳永さん、金子さんを馬鹿呼ばわりするとは、聞き捨てなりません。取り消して下さい」
「馬鹿じゃねえかよ、あの男は」
 しらしらっと徳永さんは言った。
「馬鹿鋭敏で馬鹿お節介で、馬鹿説教好きで、馬鹿に頭がよくて、馬鹿に口がうまくて、馬鹿力もあって、馬鹿のつく特質が馬鹿ほどあるだろ」
「逆説的褒め言葉?」
「褒めてねえんだよ。おまえも馬鹿か」
 馬鹿を連発されると、そのあとにつく言葉が混乱してくる。ひとつずつ噛み締めて噛み砕いて、徳永さんなりの褒め言葉なのかと納得するしかなかった。
「馬鹿じゃなかったら阿呆だな。阿呆なまでに鋭いのかと思ったら、阿呆なまでに間抜けだ」
「それはなにをさして言っておられるんですか」
「おまえはなにをさしてるんだ? ちゅうけん坊や」
「ちゅうけん? 僕は中堅DJってほどにもなってませんが」
「阿呆」
「……徳永さん、わかりやすく話して下さい」
 答えてくれずに、徳永さんはひとりごとめいて呟いた。
「ふーん、そうか。あれがああしてああなったか。金子さんは沢田さんをなんと言った?」
「言えません。僕が言っては叱られますから」
「おまえが口にすると金子さんが怒るようなことを言ったんだな」
「怒るんではなくて叱られるんです」
「同じだろ」
「同じではありません」
「どっちだっていいけど、あの馬鹿先輩もてめえの気持ちに気づくのは馬鹿に遅いんだな。そのほうがいいかもしれない。早く気づいてたら今ごろはとうに破局……どうなんだろうな。俺も他人に馬鹿お節介を焼いてないで、そろそろ行くよ」
「徳永さん、ちゅうけんってなんですか」
「うん」
 手帳を破ってペンを走らせ、紙片を僕によこして、徳永さんは部屋から出ていった。手帳の文字は「忠犬國友」、僕は忠犬ハチ公かっ!! しかし、どこかしら当たっているのかもしれない。
 いいんだ、いいんだいいんだ、犬扱いされたって、僕はこれからも陰で魂の兄と姉、あるいは父と母のために、できる限りの力になるんだから。けど、僕にできることってなんだろう。坊やだと言われる僕が、大人である先輩になにができるんだろう。
 それにしたって、徳永さんったら金子さんに向かって馬鹿だの阿呆だの……許せない。許せないと息巻いてみても本人は消えてしまったし、彼がここにいたとしても僕にはなにもできないし、馬鹿だの阿呆だののあとに褒め言葉がついていて、徳永さんがなにを言いたかったのかも、僕にはほとんどわからなかった。
 わかりづらい徳永さんに頭を悩ませるのはやめて、頭の中の歌の引き出しから明るいクリスマスソングを探した。クリスマスイヴの当日には、僕もラジオの仕事で歌おう。「今宵、彼に安らぎを」って歌があって、あれはクリスマスソングではないが、「今宵、沢田愛理さんに幸せを」という歌を、僕に作る能力があったらいいんだけど。
 

5 eri

 メリークリスマス、の声と同時に、目の前に花が咲いた。黄色やオレンジを基調にしたとりどりの花のむこうで、金子さんの笑顔も咲いていた。
「クリスマスイヴにオフなんて、シンガーとしては寂しいんじゃないの?」
「そうなんだけど、今年はなぜだかオフになってしまったんだよ」
「私も就職してからは、クリスマスには仕事をしてたんだけど、今年はオフだよ。突然だったからなんにもないんですけど、入って」
「突然の闖入者なんだから、それなりの手配はしてきたよ」
「それなりの手配?」
 お邪魔します、と部屋に入ってきた金子さんの片手にはブーケが、片手にはシャンパンがあった。
 お互いにオフなんだったら会おうよ、と言ってくれたのは金子さん、私の部屋に来ませんか、と誘ったのは私。電話をかけてきた金子さんが躊躇している気配は伝わっていたのだが、こうして訪ねてきてくれた。大急ぎで用意したクラッカーやチーズやワイングラスをテーブルに並べ、生まれてはじめての、金子さんとふたりきりのクリスマスイヴ。
 シャンパンで乾杯して、学生時代の話をして笑っていると、金子さんが手配してくれたケータリングの料理が届いた。思いもかけない豪華なご馳走になって驚いてしまったのだが、なによりも豪華なのは目の前にいるひとだ。
 なにげない普段着に見えて、一部の隙もない。寒くなってきたので厚手のコートを着込んでいて、コートの下は、微妙な色合いの紫のセーターにグレンチェックのパンツ。こんな服装がまたとなくおしゃれに見えるのは、金子さんのルックスがあってこそなのだろう。私も外出用のワンピースを着てはいるのだが、みすぼらしくて恥ずかしくて、嬉しいのか悲しいのか、涙がこぼれてきた。
「愛理ちゃんはあいかわらず泣き虫だな。楽しい時間が泣いたら台無しだよ。なんで泣くの?」
「なんでだかわからない。泣けてくるんだもの」
「泣いてる子にはあげないからね」
「なにを? 金子さんったら、またリリヤちゃんの娘さんたちとおんなじ扱いをしてない?」
「いえいえ、とんでもございませんですよ」
「してるじゃないの。私は幼児じゃないんだからね」
 ぷっとふくれてみせたら、目の前に鏡が差し出された。
「その顔は幼児のふくれっ面だね」
「……ほんとだ。肌は三十代、表情は十歳以下。金子さん、変なものを出さないで」
「変なものじゃなくて鏡なんだけど、お気に召さないんだったら引っ込めますよ」
「変な顔を見たら涙も引っ込んだみたい」
「それはよかった」
「でも、金子さんがかっこよすぎるから、私がみすぼらしく見えるんだよね」
 かっこよすぎる? と不思議そうに問い返して、金子さんは自分の服装を見下ろした。
「どこが?」
「昔から金子さんってそうなんだから。もてるっていうのにも、かっこよすぎるっていうのにも気づいてないの。ううん、そうじゃないよね。希代の嘘つきなんだわ」
「俺が?」
「嘘つきじゃなかったら、希代の鈍感男」
「そっちかもな」
 遠い昔には私の想いに気づいていなかったのか。今となっては昔はどうでもいいけれど、いつからか気づいたはずだ。なのにこうして笑ってる。ふたりきりでいる相手が素敵な女だったとしたら、金子さんは態度をころりと変えて、甘いムードを醸し出すのだろうに。
「私なんか、金子さんの好みじゃないんだよね。そんなことないよ、なんて言っても無駄だよ。とっくに知ってるんだから」
「ふむふむ」
「太ってるし、センスもないし美人でもないし、いいのは声だけで、無名のアナウンサーだし」
「それで?」
「……腹が立ってきた。寝る」
 ふくれっ面以上に台無しになるのは承知の上で、私はクッションにもたれかかって足を投げ出した。金子さんが私のかたわらにやってくる。どきっとしたのを押し隠すためにも、私はねちねちした口調で言った。
「金子さんには私はふさわしくなさすぎるのよね。知ってるからなぐさめてくれなくていいの」
「うん、それから?」
「金子さんなんて次から次へと女をこしらえて、飽きたらぽいぽい捨てて次の女に乗り換えるんでしょ。女は電車じゃないんだからね」
「はい、で?」
「今夜、どう? って誘ったら、うなずかない女はいない。むこうから誘ってくる女もひきも切らず。もてまくりすぎて感覚が鈍化してるのかもしれないね」
「そうだったのか。それから?」
「それから……」
 そんなにネタが続くわけもないので、最初に戻ってやり直し。で、それから、それで? の合いの手も同じで、小面憎くなってきた。
「小百合さんとは……」
「小百合って誰?」
「とぼけないで」
「怖い顔だね。そんな名前の女がいたっけな。俺のじいさんの海の家にいたんだったね」
「あの休暇はとっても楽しかったんだけど、なんのために私をあそこに連れていったの?」
 いきなり抱きすくめられて、顔が胸に密着した。
「……金子さん……」
「口説きたかったんだよ。きみがふたりきりではって難色を示したから、たまたまそばにいた酒巻を誘った。おかげで口説けなかったんだ」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「嘘、嘘、嘘、嘘」
「何度嘘って言うのかな? 数えててあげようか」
「嘘つき、意地悪。大嫌い」
 朦朧としてきそうな意識の中で、私であって私ではない女が言っている。金子さんにはただの一度も、嫌いだって言ったことはなかったね? 嫌いだよっ!! と罵ってやりたくても言えなかったのは、嫌いではないからだって。
 今は嫌い? それこそ嘘よね。嫌いは大好きの裏返し? 言ってごらんよ、金子さん、好きです、って。今だったら言えるよ。金子さんが言わせてくれるよ。
「口説くって言うと遊びに聞こえたかもしれないけど、俺は真剣だよ。過去は置いといて、いつからだったのかもいいとして、いつのころからか、俺は合唱部の後輩の愛理ちゃんを、一個の女性として意識するようになった」
 けれど、私が言えないでいるうちに、金子さんが言ってくれた。
「愛理ちゃんはもちろん、昔からずっと女の子だよ。女の子だと知ってはいても、特別に意識はしてなかったんだ。正直に言えば、最近までは愛理ちゃんは、可愛い後輩のひとり、仕事でもつきあいがあって、私生活でも楽しくつきあえる友達のひとりと見ていた。人の心って変化するものだろ。愛していたひとを嫌いになることもある。嫌いだった奴を好きになることもある。愛理ちゃんは以前から好きだったけど、ありふれた言い方をすれば、ライクがラヴに変化したんだよ」
「……たしかに、金子さんにしたらありふれてるね」
「こういうときってうまく言えないな。ありふれている上にもありふれた言い方で言おう。愛理、愛してる」
「……嘘」
「嘘で愛してるなんて言うわけないだろ。信じろ」
 ごくごく稀には金子さんも私にきびしい口調でものを言うのだが、たった今の口調はきびしいというのでもなく、それでいて命令口調で、それでいて……
「命令しないで」
「愛してるよ、愛理。おまえの愛を俺にもくれないか」
「おまえ?」
「いちいちつっかかってくる子だね。ふたりっきりだったらおまえでもいいだろ。俺は愛する女はおまえと呼びたいんだ」
「何人の女をそう呼んだの?」
「おまえだけだよ」
「嘘」
「嘘じゃない。黙れ」
「黙らない」
「そうか。そんなら俺が黙るよ」
 愛してるよ、と言った次の瞬間から、金子さんの口調になにかが忍び込んでいる。愛理、おまえ、黙れ。コテージでも私を愛理と呼んだのは前段階だったのか。命令しないで、なんてつっかかってみても、心がほんのり甘くにじんできて、どんどん彼にかたむいていっていた。
「金子さん、なにか言って」
「黙れって言われたから黙ってるんだけど?」
「私は言ってないじゃない。金子さんが言ったんだもん。私は黙らないといけないの?」
「嘘、以外だったらどしどし喋って下さい。愛理の声は聞いてて心地がいいんだから、甘い言葉を囁いて」
「甘い言葉ってどんなの?」
「はい、真似をしてごらん。愛してる」
「そんな声は出ない」
「声帯模写をしろって言ってるんじゃないよ。じゃあ、返事をして。愛理、おまえは俺を愛してる?」
 うっ、ううう、うん、返事は涙にくぐもって、遠い遠い昔から……とは言えず、夢中で首を縦に振っていた。広い胸に頬をくっつけて、このまんまで死んでしまいたい、なんて考えて、長い間じっとしていた。
「愛してるって証拠を見せて」
 ややあって囁きかけると、顎にそっと手がかかり、そっとくちびるがくちびるに触れた。
「三十二歳と三十三歳にして、金子さんと愛理ちゃんのファーストキス」
「そうだね。長かったね」
 頬を胸から遠ざけて、身体も遠ざけて、私は尋ねた。
「なにかくれるんじゃなかった?」
「うん、これ、プレゼントってほどのものでもないんだけど……」
 ポケットから出てきたのは、小さな包み。金と銀のリボンをほどいて取り出してみると、小さな小さなオルゴールだった。蓋を開けるとメロディがこぼれ出す。
「なんの曲?」
「Fairy tale at Christmas」
「歌詞はどんなの? 歌ってみて」
「歌詞はないんだよ。知ってるだろ? 俺は作詞はしないんだ」
「……ってことは、金子さんのオリジナル?」
 ほんのちょっぴりはにかんだ顔をして、もう一度腕を伸ばして、抱きしめてくれた。
 季節は冬、私は冬に生きている。けれど、心の中には春が来た。クリスマスの夜の一夜限りのフェアリーテールでもいい。愛理のために、愛理のためだけに曲を書いて、オリジナルのオルゴールにしてもらったんだよ、と囁く金子さんの声は、私ひとりのための曲に乗せた歌に聞こえていた。
 こんな形で夢がかなうだなんて、神様のいたずら? あなたは本当に私を愛しているの? ちらりと頭をかすめた想いもじきに砕けて消えて、私は金子さんの腕に身をゆだねていた。


夕刻から降りはじめた雪が、東京の街に積もっていく。夜半には大雪警報が発令されて、雪に慣れない都会では交通も一部遮断され、私はどうやって帰ろうかと戸惑っていた。仕事は終わったのだが、バスはのろのろ運転をしているそうだし、近くのホテルにでも泊まろうかと考えつつ外に出ると、スノウタイヤで重装備した車から、金子さんが降りてきた。
 スノウブーツを履いた金子さんはいたずらっぽい目をして私の手を取り、車に乗せて発車させる。迎えにきてくれたの? どこに行くの? 目顔での私の質問を読み取って、金子さんは言った。
「今日は俺は休みだったんだよ。仕事は明日の午後からだ。俺んちに行こうか」
「……いいの?」
「よくないわけがないでしょう。今日は一日、ラジオをつけっぱなしにしていたんだ。時おりきみの声が聞こえてくる。天上のしらべのごとききみの声がニュースを読んだり、天気予報を読んだりする。積雪に厳重注意して下さいと呼びかけるきみは、はて、どうやって帰るんだろうか。この空模様とこの渋滞ではタクシーもなかなかつかまらないだろうし、送り届けてくれる誰かがいるのかな、なんて考えてたんだよ」
「金子さんじゃあるまいし」
「俺は迎えにくる立場だよ。俺は局の誰かが、って言おうとしたんだけど、すぐにそっちに頭を回すんだな。何度も言っただろ」
「信じられないんだもの」
 ありがとう、嬉しいわ、って肩に頬を寄せて素直に微笑んだら、恋人同士の時間が甘くはじまるだろうに、私はいつだってこうなってしまう。けれど、金子さんは気分を損ねた様子も見せずに言った。
「何度も言ったけど、何度でも言うよ。今の俺にはおまえだけだ」
「……口でだったらなんとでも言えるじゃないの。証拠を見せて」
「証拠か。全世界の女性を連れてきて、あなたは金子将一の恋人ではありませんね? って訊くのか。中にひとりふたり、そうよ、恋人よ、って嘘をつく女性がいたとしたら、それでもはや愛理のご機嫌が破綻するんだな。だから、証拠はお見せできません。悪しからず。混んでるな、抜け道を通ろう」
 外の灯りを反射して、暗い車内に金子さんの横顔が浮かび上がる。はじめて会ったころよりもぐんと大人になって、年齢相応の男の翳さえもを漂わせて、私がなにを言っても怒ったり気を悪くしたりしないところは、若いころよりも顕著になった。
 去年のクリスマスにファーストキスをして、そのままベッドで抱かれて、あれから私はずっとずっとフェアリーテールの中で生きている。
 三十四歳と三十三歳のカップルなのだから、世間的にも立派な大人のはずだ。金子さんは昔は大人っぽすぎたけれど、現在では年齢にふさわしくなってきている。なのに私は子供のまんまで、こうなってからも、金子さんに意地悪ばかりしている。
 こうなってからむしろ、わがままや意地悪がひどくなった? 感情的になって金子さんに無茶を言うのは、困らせたいから? だけど、あなたはちっとも困ったりしなくて、私を余裕であしらうからああなるんだよ。
 私は太ってるし美人じゃないし、ローカルラジオ局のアナウンサーなんていう仕事をしてるし、年も取ってるし、あなたには似合わない、って台詞は、あなたをちょっぴり怒らせる。ううん、怒った顔をするだけだね。
 あなたも知ってるんでしょう? 否定してほしくて言ってるんだって。あなたのあの言葉を何度でも聞きたいからなんだって。おまえは俺にとっては、最高にいい女だよ、って言わせたいの。
 もうひとつあるよね。さっきも言ったけど、あなたの過去。もしかしたら現在も? 過去はともかく、現在を疑ってはいないんだけど、それだって否定してほしくて言ってるの。結局は甘えてるんだってわかってるの。あなたもみーんなわかってる。
 困らせたくて甘えたくて、からんでばかりいる私を、あなたはいつでも大きく優しく包んでくれる。昔から優しいひとだったけど、今ではその優しさは私ひとりに向けてくれてる? 現在は信じられても将来を信じられないのは、あなたが素敵すぎるからだよ。
 かっこよすぎるのが玉に瑕、だなんて、男の後輩たちも言ってる。酒巻くんなんかはあなたを偶像視している。男から見れば、女といろんなことがあった男はかっこいいんだよね。そういうのもひっくるめて、やっかみも含めて、あなたは男から見てもかっこいい男なんだから、女が見たらなおさらじゃないの。
 黙って車を運転している金子さんの横顔に見とれながら、私は思いをさまよわせ、このひとと私が今は恋人同士? と考えると、嘘でしょう? と言いたくなって、車が止まったときには眉をしかめていた。
「ついたよ。先に部屋に行ってて。俺は買い物を運んでいくから」
「買い物?」
「長い夜をすごす酒や食料だよ」
「ひとりで行くのはいや」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
「待つのもいや」
 おやおや? と言いたそうに私を見て、金子さんは車から降りた。バックシートに積んであった荷物を両手にぶら下げて、窓から私を覗き込んでいる。つんっとしてみせると、おいで、愛理、おいで、と口が動く。おいで、と呼ばれると胸がいっぱいになってきた。
「どうした? 冷えてくるよ。早く部屋に行こう」
「抱いていって」
「それは無理でしょ?」
「できないの? 力持ちのくせにだらしないんだから。ただし、荷物は持ってあげないからね。なんとかして抱っこして」
「荷物はあとにしようか」
「駄目」
 さすがに困っているらしくて、笑おうとしたら涙がこぼれた。
「……金子さんって優しすぎるんだから」
「ほお、叱られたくて駄々をこねてるのか。部屋に入ったらうんと叱ってあげようね。抱っこは無理だけどおんぶだったらできるよ。おぶされ」
「嘘だよっだ。叱ってなんかほしくない」
 車から降りて、背中を向けている金子さんの脛を蹴飛ばして、私が先に立って歩き出した。困った子だね、と苦笑しながら、金子さんが歩いてきて私のとなりに並んだ。
「昔から私は金子さんに荒っぽいことをいっぱいしたけど、いつもそうやって苦笑してるんだよね」
「愛理の暴力なんて可愛いものだからさ」
「その態度が腹が立つの」
「怒ってるのも可愛いよ」
「可愛い可愛いって、三十すぎた女に向かって……」
「俺の前ではちっちゃな駄々っ子になるおまえは可愛い。他人の前では大人のふるまいができるんだもんな。ふたりきりのときだったらなにを言っても、なにをしてもいいよ。俺は甘んじて受けるから」
「ひとつしかちがわないくせに」
「はいはい、そうだね」
 今日もこうして余裕の態度。心の半分はとろりととろけかけていて、それでいて半分は悔しくて、鍵を開けようとする手からキーを奪い取って私が開けて、キーを持ったまま中に入って施錠した。
「そうやって閉め出されても悠々としてられる? 泣いたら入れてあげる。前に酒巻くんをベランダに放り出して、彼はドアが開いてるのに入ってこなかったよね。金子さんはどうするの? マンションの外壁をロッククライミングするって手もあるよ」
「その手があったな。そうしよう」
「泣かないの?」
 返事がないのでドアを薄く開けてみると、廊下を遠ざかっていこうとしている背中が見えた。荷物はドアの前にあって、足の速い男はさっさと歩いていっている。私も駆け出して背中にしがみついたら、くるっと振り向いた金子さんの腕に抱き上げられていた。
「泣き真似でいいのに」
「このいたずらっ子」
「いや。離して」
 怒ってはいない。笑ってる。その顔が近づいてきて、くちびるをくちびるでふさがれて黙らされて、そのまんま部屋に運んでいかれた。私はぽんっとベッドに投げ出されて、荷物を足で部屋に入れた金子さんは、大股で近づいてきた。
「今夜の愛理は可愛いの限度を越えてるかな。部屋に入ったらうんと叱ってあげる約束だったね」
「また脅かす」
「脅しだと思ってるな? 俺はリリヤの娘たちの扱いには長けてるんだから、あの子たちとおんなじようになった愛理の扱い方だって知ってるんだよ」
「あんなちっちゃな子供たちといっしょにしないで」
「今の愛理はいっしょだよ」
「金子さんったら、姪っこちゃんたちを裸にするの? セクハラ伯父さんじゃないのっ」
「ここんところは別の扱い」
 なんて器用に脱がせるんだろう。ベッドにすわっている私のコートのボタンとスーツのボタンとブラウスのボタンを素早くはずしていっぺんに腕から抜いて放り投げ、スカートのジッパーが下ろされて床に落ち、片腕に抱え上げられて下着も取り去られて、たちどころに裸にされてしまった。
「寒ーい」
「エアコンは効いてるだろ。いい眺めだ。しばらくその姿でいなさい」
 とびきりセクシーな笑みを浮かべて、金子さんも服を脱いでいる。脱ぎながら部屋から部屋へと動き回って、あらわれたときにはバスローブを着ていた。
「金子さんはなにか着てるなんてずるい」
「男の全裸は間抜けだからだよ。なあ、愛理、いつまで俺を金子さんって呼ぶんだ?」
「金子さんは金子さんだもの。何年も何年も……」
 全身がシルクのバスローブに包まれる。大きな手が私の素肌をなぞっている。長い指とくちびるが私の身体にいくつもあるスポットを刺激して、まとまった言葉は出てこなくなる。堅く目を閉じて愛撫に身をゆだねていると、身体が浮いた。
「綺麗だよ、愛理」
「太ってるから綺麗じゃない」
「なんでそう言いたがるんだろうな。愛理の豊満なここもここも……」
「……豊満すぎる」
「豊満すぎたりしないよ。バストやヒップはたわわに実り、ウェストはほそく締まり、首も腕も脚もすんなりしてる。愛理は俺の豊穣の女神だよ」
「豊穣っていうのは太めって意味で……アバンダンディアってローマ神話の豊穣の女神なんでしょ?」
「そうだよ。愛理は俺のアバンダンディアだ」
 髭の伸びかけた頬が私の胸に触れて、ちくちくっと刺激する。
「金子さんってけっこう毛深いよね」
「毛深くないだろ。普通だよ」
「髭も濃いほうだし、脚ももじゃもじゃしてる」
「これが普通なんだよ。愛理の肌はすべすべだな」
「私は毛深いの正反対だから、肌だけは自信があるかな。でも、年だから肌も衰えて……あんあん、なにするのっ」
「俺が思い切り愛してあげるから、愛して愛して愛し抜いて、おまえのすべてを輝かせてあげる。こうして……こうすると……」
「駄目、いや」
「いやじゃないんだろ?」
「……いや……じゃ……ない」
 両腕に包まれてバスタブに身を沈める。こうしていると本当に、リリヤちゃんの娘さんになったみたい。大きくて優しくて強い伯父さんにお風呂に入れてもらってるみたい。それにしては伯父さんはえっちだけど、そこんところだけは別扱いなんだものね。
「この無駄なお肉が、お湯の中にとけていったらいいのにな」
「無駄な肉なんかないよ」
「あるじゃないの。ここにもここにも」
「ここ、ここ、感じない?」
「……言わせないで」
「感じるってことは無駄じゃないからだよ」
 口がうまいのも知っていたけど、恋人になったら別種の言葉をシャワー以上に降り注いでくれて、とろんとろん、とろっとろっとなってくる。
 小さな女の子になった気分で膝にすわっていると、てのひらで石鹸を泡立てて身体を洗ってくれる。髪も洗ってくれる。その合間にはキスと愛撫と囁きで、無駄なお肉なんてどうでもよくなってしまうのだけど、ふっと意識が戻ると言いたくなる。
「ここも太いよ、私」
「太いのが太腿だろ。俺の太腿はさらに太い」
「男と較べないで。こんなところにまで毛が……」
「痛い」
「痛いの?」
「当たり前だろ。引っ張るな、つねるな」
「だって、男のひとの身体なんて、愛理ちゃんは知らないんだもん。愛理ちゃんはちっちゃな女の子だから、男のひととお風呂に入るなんてはじめてなんだもーん」
「前にも俺と入ったじゃないか」
「嘘嘘。やだ、セクハラ伯父さん。ちっちゃな女の子がこんなにずしっと重いのか、って言いたいんでしょ? いたいけな女の子を襲おうとする伯父さん、嫌い」
 わははと笑って取り合ってくれずに、金子さんは私を抱えてシャワーの下に立った。
「おなかがすいた……きゃあ」
 激しい勢いのシャワーに黙らされて、きゃあきゃあとしか言えなくなって、騒いでいるうちに再びバスタブの中。私はたくましい首にしがみついた。
「色白で毛深い男は気持ち悪いんだけど、金子さんは色は白くないのね」
「地黒なんだな。愛理が色の黒い男が好きでよかったよ」
「金子さんはほんとは華奢な女が好きなんでしょ? ほっそりしててちっちゃくて、はかなげで健気で可憐で素直で従順で、そういう女が好きなんでしょ? 正直に言って」
「俺は愛理が好きだよ。愛理は俺よりずっとほっそりしててちっちゃくて、健気で可憐だよ。あとの台詞はあてはまらないようだけど」
「はかなげで素直で従順? そんな女はどこにもいないの」
「いないね。俺は従順な女なんか求めてない。我を張って駄々をこねて泣いてる愛理も好きだよ」
「……おなかがすいたんだけど」
「あとでね」
「なんのあと?」
「知ってるくせに」
「知らないもん」
 お風呂から出てベッドに運ばれたら、私は小さな女の子ではなくなる。
「おまえは俺にとっては世界一の女だよ、愛理」
 そう言って抱きしめてくれる彼の腕の中で、フェアリーテールが完結する日が来ないようにと祈って目を閉じたら、身も心も天空へと舞い上がっていく。このまんま死んでしまいたいと、こうして抱かれるたびに思う。でも、死ぬのはもったいないかな、もっともっともっと何度でも抱かれたい、と願っている私もいるのだった。


END
 

 

スポンサーサイト


  • 【番外編29(Fairy tale at Christmas)前編】へ
  • 【小説85(テネシーワルツ)】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【番外編29(Fairy tale at Christmas)前編】へ
  • 【小説85(テネシーワルツ)】へ