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小説80(紫陽花いろの)

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紫陽花
フォレストシンガーズストーリィ・80

「紫陽花いろの」

1

 五月の空を吹き渡る風を薫風と呼ぶのか。風がひどく気持ちいい。今年も合唱部に新入生が入部してきて、彼らも大学生活になじんできたころだろう。俺も二年生になった。
「おまえはどうして、大学では合唱部に入らなかったんだ?」
 部室の裏手に広がる芝生に腰を下ろしているのは、合唱部での友人の本庄繁之、通称シゲ、シゲの小学校のころからの幼なじみである瀬戸内泉水、それから俺、小笠原英彦。三人で話していると、シゲが泉水に尋ねた。
「中学高校では泉水ちゃんも合唱部だったんだろ?」
 俺も尋ね、泉水は言った。
「そうなんだけど、うちの大学の合唱部って実力者が多いだろ。私なんかじゃついていけないかと思ってさ」
「泉水も歌はうまいじゃないか。今からでも入るか」
「バイトも忙しいし、やめとく」
 泉水とシゲは三重県の片田舎だと彼らが言う地方の出身で、こうして標準語を使ってはいるものの、言葉のはしばしには関西なまりのような、それともややちがうようななまりが覗く。三重県とは中部地方のはしっこのようでもあり、関西地方のはしっこでもあるような土地なのである。
 生まれ育った地域は奈良に近いから、俺たちは関西人なんだ、とシゲは言う。関西人でも都市部の人間は、東京にいても関西弁を使う。大阪出身の合唱部同級生の実松などは、古い感じの大阪弁全開で、時には俺にも伝染する。
だが、シゲや泉水は使わない。
懸命に標準語を使おうと努力していて、近頃はかなり板についてきてもいるようだ。泉水は言葉遣いが荒くて、シゲや俺と大差ない喋り方をするのだが、そのほうがテンポもリズムも俺たちと合っていていいのかもしれない。
 田舎出身者のコンプレックスは、高知県生まれの俺にもある。俺はふとした拍子に土佐弁が出てしまうのだが、普段はシゲや泉水と同じに標準語で話そうと努力している。東京で暮らしていると、田舎出の人間には苦労も多いのだ。そうなんぜよ、などと言おうものなら、おまえは坂本竜馬か、と言われたりするし。
 大学に入って合唱部に入部して知り合ったシゲとはつきあいも一年を越えて、彼の気性が次第にわかってきた。田舎者のコンプレックスに加えて、女が苦手というのもあるらしい。そんなシゲなのだが、泉水とはごく自然に口をきく。幼なじみゆえなのか、シゲが女の子の名前を呼び捨てにしたり、「おまえ」と呼びかけたりするのは、泉水に限られている。
 去年の夏にシゲは恋をした。合唱部で一、二を争う美少女が相手だなんて、おまえには荷が重いぜよ、だったのだが、その通り、シゲは見事にふられたというのか、告白もしないで諦めたというのか、なんともだらしなくも歯がゆい奴なのだが、そこがシゲなのだろう。
 初恋だったのかどうかは知らないが、シゲが大学ではじめて恋をして、はじめて失恋した相手の金子リリヤの噂が、一時期合唱部を飛びかっていた。
 なんでも彼女はできちゃった結婚ってやつをするのだそうで、彼女を「できちゃった」にさせてしまった張本人はむろんシゲではなく、どこやらのサラリーマンであるらしい。
単なる噂ではなく、リリヤは結婚式もすませて、あとは出産を待つばかり。合唱部は退部してしまったようだが、たまさかリリヤをキャンパスで見かけると、シゲはなんともいいようのない表情になって視線をそらすのだった。
 いまだにシゲの心にはリリヤがいるのだろうか。いたとしてもどうなるものでもない。十九歳にして母になろうとしているリリヤなのだから、シゲなんぞは目の端にも止まっていないだろう。そんならすっぱり切り捨てて、身近にいる彼女と恋人づきあいしたらどうだ? と言ってやりたいのだが、言ったら泉水もシゲも怒るだろう。
 誰がシゲなんかとっ!! と泉水は言い、おまえなんかとっ!! とシゲも言い、喧嘩になるやもしれないので言わずにおいて、けど、けっこう似合いそうだけどな……と考えていると、数人の女性の声が聞こえてきた。
 女子合唱部の先輩たちが、戸外でランチタイムってところなのだろう。弁当やらサンドイッチやらを口にしながら、彼女たちは賑やかにお喋りをはじめていた。
「なに、それ? コロッケサンド? 太るよ」
「そっちはなに? チョコレートパイ? それは太らないとでも言いたいの?」
「美江子はおにぎり? おにぎりのほうが太らないかもね。取り替えて」
「やだ。あげない」
 美江子、の名に俺は耳をそば立てた。美江子とは山田美江子さんであろうか、とちらりと見ると、たしかにそうだった。五人の女性は全員が三年生であるらしい。山田美江子さんが合唱部の同年の仲間たちと連れ立っているのだ。互いにタメ口をきいているので、同年なのだろうと推測はできた。
 合唱部は男子部と女子部に分かれている。交流も頻繁ではあるのだが、部としては別々で、部長も個別にいる。そのために俺は女子部のメンバーの顔と名前が一致しない場合もある。
 男子部の先輩たちは名前も顔も覚えたのだが、なにしろ人数が多いので、時おり記憶がごっちゃになる。女子部となるとなおさらだ。
 その中で山田さんが鮮やかに記憶の中にあるのは、現在の男子部では突出した存在の本橋真次郎、乾隆也両名と仲がいいからだ。
 本橋さん、乾さんには、シゲが失恋したころにお世話になった。彼らも三年生なのだが、四年生にさえも、本橋、乾を超える歌い手はいないと言われている。言われているのではなく、事実だと俺も信じている。
 太るの太らないの、カロリーが高いの低いの、女の話題としては日常茶飯事であろう会話を続けながら、女子部の三年生たちはぱくぱくもりもり食っている。会話の内容はどうでもいいのだが、さすが女子合唱部のメンバーたち。耳に心地よい声の持ち主ぞろいだ。
「シゲ、私もおなかすいたよ。お昼を食べにいこう」
 泉水が言って立ち上がり、シゲは俺を見た。
「ヒデも行くか」
「俺は腹は減ってないから……」
 シゲと泉水は立ち去り、俺は女性たちの会話を聞いていた。故郷からの仕送りが遅れていて、バイトの給料もまだ入らなくて、昼飯代がないんだよ、と内心でぼやいていたのだが、金を使いすぎた報いなのだからしようがない。ああ、しかし、うまそう、と女性たちの弁当を見ていると、山田さんと目が合った。
「小笠原くん? お昼はもう食べたの?」
「ダイエット中でして……」
「キミがダイエットなんかしたら、痩せすぎてなくなっちゃうよ。わけあり? こっちにおいでよ。どうせみんな、太りたくないからってお昼ごはんを残すんだから、小笠原くんに分けてあげる分はたくさんあるよね」
「あるよぉ。いらっしゃいいらっしゃい」
 名前は知らない先輩に手招きされて、頭をかきかき寄っていった。
「小笠原くんって土佐のいごっそうとかってやつ? 女のメシを分けてもらうなんて、小笠原英彦の名がすたる、とか言うの?」
「山田さん……俺はいごっそうってほどの者ではありませんので、喜んで分けていただきます。実は金がなくて……」
「そうだろうと思ったの。さっきは本庄くんもそこにいたよね。女の子もいっしょだった。ふたりとも立っていったから、お昼を食べにいったのかなって思ってたんだけど、小笠原くんは残ってる。おなかがすいたぁ、って顔をしてるのに」
「ものほしそうでした? すみません」
「そこまでは言わないけどね。はい、どうぞ」
 どうぞどうぞ、と女性たちが食いものを恵んでくれた。武士は食わねど高楊枝ではない、腹が減っては戦ができない、のほうにかたむこう。食いものを見ると空腹感がいや増して、かっこ悪い、の気分も失せた。
 顔と名前が一致するのは山田さんだけだが、見覚えはある女性の先輩たちに囲まれて、サンドイッチにおにぎりにおかずにデザートまでをどかどかっともらって、まずは食欲を満たしていると、土佐弁喋って、だの、土佐出身の幕末の志士って……だのと、女性たちが話しかけてくる。
 土佐といえば世の人々の頭に浮かぶのは、幕末の志士なのだろう。ゼミ仲間や合唱部の仲間などにも、坂本竜馬がどうたらこうたらと議論を吹っかけてくる輩がいるのだ。
「食べ終えてからにしてあげたら?」
 山田さんが止めてくれたのだが、他の女性たちはかまわず、ひとりが言った。
「土佐弁のアイラヴユーって、おいはあんたに惚れてるぜよ、っていうの?」
「それは薩摩弁がまじってますね。正しくは、あしはおまんに惚れとるぜよ、です」
 きゃああ、本物だぁ、と女性たちが笑いさざめく。本物に決まっとろうが、わしは本物の土佐人やきに、と内心ではまたまたぼやいていたのだが、こうしているのは決して不快ではなく、いや、たいへんに楽しかった。
「ごちそうさまでしたっ! おかげさまで小笠原英彦、飢え死にを免れました。みなさまの一宿一飯の恩義は一生忘れません」
 食べ終えて深々と頭を下げてみせると、きゃああ、大げさーっ!! とまたしても笑いさざめく。先輩とはいえ、二十歳そこそこの女の子ってのはけたたましい。苦笑するしかないような、だけどやっぱり気持ちいいなぁ、と思うような、そんな気分でいると、うしろから肩を叩かれた。
「一宿一飯ってメシと宿だろ。おまえ、この中の誰かの部屋にころがり込むつもり?」
「……あ、乾さん……」
「おまえは国定忠治か」
「……本橋さんも……」
 たかが一年年上にすぎないとはいえ、俺のようなその他大勢部員から見れば、本橋さんと乾さんは憧れの存在なのである。シゲのおかげで多少はお近づきになれたとはいえ、平素は親しくしてもらっているわけでもない。先輩後輩のけじめにきびしい体育会系合唱部、とりわけ男子部では、先輩になれなれしくするなどとは相当の勇気がいる。
 五人の女性たちとランチ、なんてのも楽しかったけど、本橋さんと乾さんとも話せるなんて、今日はなんとついているのだろう。
 シゲ、俺、金がないんだ、おごってくれよ、と言ったら、シゲは快くおごってくれただろうけど、そんなみっともない真似ができるかと、考え直してよかった。女性に恵んでもらうのもみっともないのだろうけど、お言葉に甘えさせていただいてさらによかった。
「一宿一飯じゃありませんね。一飯の恩義でした」
 俺が言うと、乾さんは俺の右隣にすわった。
「そんならいいよ。ミエちゃん、昼メシはすんじまった? きれいさっぱり空っぽだな」
「乾くんと本橋くんに分けてあげる分は残ってません。小笠原くんがみーんな食べちゃったから、悪しからず」
「分けてもらおうと思ってたわけでもないんだけど……」
「乾、見栄を張るな」
 左隣にすわった本橋さんが言うには、乾さんも金欠なのだそうだ。本橋さんは東京っ子で、親元から通学していると聞いている。
 であるからして、メシも食えないほどに金がない事態には陥らない。切羽詰まれば、母ちゃん、腹減った、ですむのだろう。乾さんは金沢出身なので、俺同様からっけつになる恐れもおおいにある。
 腹減った、金がない、と嘆く乾さんに、俺はちっとは持ってるぞ、と本橋さんは言ったのだそうだが、借金は俺の性に合わない、メシなんか一度くらい食わなくても死なない、と乾さんは意地を張った。
 が、部室の裏手にいる女性たちを見つけて、近寄っていったのは……と本橋さんは、乾さんを横目で見た。
「彼女たちは食事中みたいだな、なにか残ってないかなぁ、と言いたかったんだろ、乾?」
「言ってないだろ」
「言いたそうな目をしてた」
「してないよ。彼女たちと話をしたかっただけだ」
「おまえはメシより話が好きなんだよな」
「そうだ。喋ってたら空腹は忘れる」
「おまえはそうかもしれないけど、俺の腹はどうしてくれるんだ」
「おまえは勝手に食いにいきゃあいいだろ」
「……まったくこの、意地っ張り」
 ひとりの女性がバッグを探り、チョコレートを取り出した。
「こんなのでよかったら……乾くん、食べて」
「ありがとう。しかし、ああ言った以上は俺は意地を貫く……」
 いきなり本橋さんのげんこつが出た。乾さんの頭をがんっとやろうとしたようなのだが、乾さんはひょいと身をかわし、本橋さんのげんこつは勢い余って、俺の頭にぶち当たった。
「いてっ!!」
「お、すまん。乾、おまえがよけるからだろ」
「よけずに殴られる義理はない。小笠原、大丈夫か? 本橋の拳骨の威力は相当なものだからさ、頭に穴が開いてないか?」
「そこまででは……でも、どうして本橋さんは乾さんを殴ろうと?」
「乾がいいかっこしすぎるからだよ。なにが意地を貫く、だ。甘いものは嫌いだからだろ」
「言うなよ、せっかくのハルミちゃんの好意なのに」
「なーんだ、乾くん、甘いものは嫌い? がっかり」
「女の子をがっかりさせるのか? 食って食えないものはない。乾、食え」
「はい、そうまで言っていただけるのでしたら……」
 ハルミと呼ばれた彼女が乾さんに板チョコを差し出し、乾さんは澄ました顔でそれを半分に割り、おまえも食え、と本橋さんに手渡した。
「うへぇ……勘弁してくれ」
「本橋くんも嫌いなの? おなかがすいてるんでしょ? 空腹にまさる調味料はない、って言うんだよ」
「へいへい、ありがたくいただくよ」
 ふたりとも甘いのは嫌いであるらしいな、と俺が笑っていると、そろってチョコレートをばりばりと噛み砕き、ヤケクソみたいに乾さんが言った。
「ごちそうさまでしたっ。うまかった」
「うますぎて甘すぎて……山田、水でもお茶でもいいから……」
「ミエちゃん、俺にも……」
 甘いものは嫌いだとシゲも言っていたが、俺は好きだ。そんなにいやなら俺が食えばよかった、と本橋さんと乾さんを見ていると、別の女性が水のペットボトルを差し出した。本橋さんが手を伸ばそうとするのから遠ざけて、彼女は乾さんにペットボトルを渡した。
「ありがとう」
「……きゃ、間接キス」
 ペットボトルに直接口をつけて一気飲みをする乾さんを見て、彼女は嬉しそうに笑い、間接キス? 古ーい、と他の女性たちに言われている。と、また別の女性が、魔法瓶の蓋にお茶を注いだ。
「はい、本橋くん」
「ああ、サンキュ」
「そこから飲んで」
「ここ? ここでないと駄目なのか」
「やーだ、ユッコも間接キスをたくらんでる」
 口をつけかけていた本橋さんがぶっとお茶を吹き出し、むせて咳き込み、ユッコと呼ばれた女性が本橋さんの背中をさすっている。乾さんは間接キッスごときではたじろがないようだが、本橋さんは焦ったらしい。
 この場にいる女性は、山田美江子、ハルミ、ユッコ、あとのふたりはなんという名前だろうか。会話の中に名前も出てきていたのだが、はっきりとは聞き取れなかった。名前の判明しないあとのふたりのうちのひとりが、もうひとりの姓名不詳女性に話しかけ、残るふたりの名前もわかった。
「ユッコは本橋くんみたいね。ハルミは乾くんなんだね。チエは?」
「アミは?」
「チエが言ったら言う」
「アミが先に言ったら?」
 アミ、チエか、とうなずいていると、ふたりはこそこそっと内緒話をかわし合い、きゃははっ、と笑った。
「それで、美江子は?」
「美江子は両方でしょ」
「どっちが好きってわけでもなくて?」
「両方と友達なんだって」
「いいなぁ」
「ねぇー」
 ねぇー、ねぇ、とふたりはうなずき合う。してみると、山田さんを除く四人の女性はいずれも、乾さんか本橋さんに気がある? いいなぁ、とは俺こそが言いたい。むせるのが止まったらしき本橋さんはこちらの会話は聞いてもいないようで、立ち上がった。
「チョコレート食ったら腹が減ってたのをよけいに思い出したよ。乾、まともなメシを食いにいこう」
「俺は金がない」
「いいから来い」
「……こら、離せ……俺はおまえに強引に引っ張られる趣味は……」
「うるさい、つべこべ言うな」
 本橋さんに引っ張られていきながら、乾さんがバイバイと女性たちに手を振った。女性たちもにこにこと手を振り返していたのだが、ふたりの姿が消えていくと、誰からともなくため息をつき、こうなるとまたまた誰が誰やらわからなくなったうちのひとりが、山田さんに言った。
「ほんとにただの友達? 両方と?」
「そうだよ。何度も言ってるじゃないの。乾くんも本橋くんも友達。あなたたちだって彼らとは友達でしょ?」
「友達ではあるんだろうけど、美江子は特別っぽいからうらやましいんだもん」
「今は両方と友達だなんて言ってるけど、そのうちにはどっちかと……ねぇ?」
「そんな気もするなぁ」
「そんなのないってば」
 山田さんは否定し、他の四人は疑わしげに山田さんを見つめる。あるかもよ、ないよ、と押し問答が繰り広げられていたら、ふとひとりが言った。
「よく考えてみたら、乾くんも本橋くんもルックスはそんなにたいしたこともないんだよね」
「そうそう。ふたりとも背は高いし、そこそこかっこいいけど、最高にかっこいいってほどでもないよね」
「なのにあんなに私の心を騒がせるのはなぜ? 歌?」
「歌なんだろうか。彼らのデュエットって……」
 かわるがわる言った四人がそこで黙り、一拍置いて声をそろえた。もうっ、最高!! だった。
「私はできるものだったら、ふたりとも私のものにしたい。私のそばに置いておいて、聴きたくなったら歌ってもらうの」
「ハルミ、朝だよ、起きて、って言われて、乾くんのあの歌で目覚めたい」
「アミ、起きろ、って、本橋くんが目覚まし時計をしてくれるの? 素敵。チエは乾くんでしょ? ふたりともなんて図々しいよ。乾くんが、チエ、起きないと遅刻するよーっ、って……あの声であの声で」
「うん、それでもいい」
「それでもいい、なんて贅沢なの。私も本橋くんに起こしてもらいたいな。母さんの声なんかじゃなくて、本橋くんに、ユッコ、起きろ、起きろって……それで、ついでにおはようのキス……」
 きゃああーっ、の四人分の悲鳴が耳をつんざく。俺としては逃げ出したくもなっていたのだが、山田さんも呆れ顔で吐息をついていた。
「おはようのキスと歌で目覚めて、本橋くんと腕を組んで学校に行って、みんなにうらやましがられて、学校が終わったら腕を組んで部屋に帰って……夜は……いやーん、はしたなくってこれ以上言えないわっ!!」
「はいはい、きゃーっ、はもういいからね」
「美江子、あんたねぇ……」
「ちょっと待ってよぉ」
 そこからは大騒ぎ、そおっと腰を浮かせて逃げる体勢に入っていたら、一斉にみんなが俺を見た。
「小笠原くん、さっき、本橋くんにぼかってやられたよね?」
「はい……あ、でも、たいしたことでは……」
「かわいそう。たんこぶになってない? 見てあげる」
「いえ、はずみで当たっただけですから……」
「頭の横がふくらんでるよ。かわいそかわいそ、よしよし」
「どれどれ? ほんとだ。痛かったねぇ。かわいそうに」
「本橋くんって荒っぽいけど、そういうところも好きなのよね、私。変?」
「変ではないのでしょうけど……いえ……あの……」
 もしかしたら、俺は彼女たちの格好のおもちゃなのかもしれない。山田さんまでが俺の頭を調べて、たんこぶができてる、痛そう、と言っては、五本の手が俺の頭を撫でる。
 たんこぶなんかできてるはずはないのだが、綺麗な五本の手に交互に頭を撫でられるなんてはじめての経験で、頭の表面ではなく、頭の中身がぽわわーんとしてきていたのだった。
 それにしても、本橋さんと乾さんとはなんともまあ、もてるのである。知らなかった。ようやく解放されて、それでもまだ足が宙に浮かんでいるような心持ちで歩いていたのだが、俺は子供扱いされておもちゃ扱いされただけだ。ほわわんとしている必要なんかない。問題は本橋さんと乾さんだ。
 彼女たちも言っていた通り、ふたりともそんなにルックスがいいとは思えない。本橋さんも乾さんも俺よりいくらか背が高い程度で、並外れた長身でもないし、顔立ちもどうってことはない。醜くもないが美形でもない。女性の目にもそう映るのであるらしい。やはり歌か。あのふたりの歌が、女心をとろとろにさせるのか。
 個人的に本橋さんと乾さんのデュエットを聴かせてもらえたのも、シゲのおかげだった。乾さんのアパートに連れていってもらって、本橋さんも含めて四人でビールを飲んで、フォークソングやらソウルミュージックやらを歌った。シゲは潰れてしまったので、三人で歌った。あの日は四人で、乾さんの部屋でごろ寝した。あれは去年の夏の終わりごろだった。
 男のシゲや俺が聴き惚れるしかないデュエットだったのだから、女性が聴けば数倍も惚れてしまうのだろうか。
 三年生女子が五人集まったうちの、ふたりずつが乾さんと本橋さんに恋しているらしい。一年生から四年生の女子が集合したら、その中の何人が、あるいは本橋さん、あるいは乾さんに恋心を抱いてる? 全校女子学生のうちの何人が? 部外者の女性までもを集めたら? 羨望の涙が出そうだ。
 もてたいがために音楽を志すというのは、若い男にはありがちであろう。ロックバンドの連中なんぞには、そういう奴らが掃いて捨てるほどいる。俺の友人にもいる。
 ロックバンドではなくコーラスでもか。不純な動機なのかもしれないが、あんなにもてるんだったら、俺も歌がうまくなりたいなぁ、とこっそりひとりごとを言ってみた。


2

 二年生の夏合宿、副キャプテンの溝部さんが巻き起こした騒ぎがどうにかおさまり、シゲと俺は入浴中だった。
 アホ、ボケ、タコ、カス、とぼそっ、ぼそっとシゲが言い、じゃっかましいわぃっ、と言い返していたら暑くなってきたので、風呂場の窓を開けた。
「わかっちゅうちや。乾さんにも山田さんにも怒られたんやきに、おまんにまで言われのうても……」
「ヒデ、方言全開になってる」
「ああ。合宿に来てから興奮することが多くて……いかんいかん。田舎者に逆戻りしてしまう」
「土佐ったって、おまえは高知市の真ん中で生まれたんだろ。俺ほどの田舎の出でもないじゃないか」
 一番風呂は追い出され、ごたごたしているうちにしまい湯になってしまった。大勢の若い奴らが入浴したあとの湯なのだが、シゲとふたりきりで内緒話もできるからよしとしよう。今日一日のできごとをかいつまんで話し、おまえがそんなに喧嘩っ早いとは知らなかった、自重しろ、とシゲに説教され、あげくはアホだのカスだのと言われつつの入浴タイムなのだった。
「去年の合宿は平和だったけど、今年は波乱万丈だな。あ、波乱万丈の一端が来た」
「波乱万丈の一端? ああ、あいつか」
 なんで僕ちゃんが波乱万丈なんですかぁ? と自覚の足りない奴が入ってきて、にっこにこと俺たちに笑いかけた。
「三沢、おまえは先に風呂には入ったんだろ。四年生以外は順番なんか気にしないでいいって言われて」
「そうなんですけどね、小笠原さん。うーん、小笠原さんって長いね。七つも文字がある。長いフレーズを口にすると疲れますよね。俺もヒデさんって呼んでいいですか。シゲさんヒデさん、きゃはっ、漫才コンビみたい。シゲヒデ」
「そこまで口のよく回る奴が、小笠原さんごときのフレーズで疲れるわけないだろ。誰が漫才コンビだ。ひとり漫才の達人が」
「おー、小笠原さん、うまい。ただし、ひとり漫才は漫談と申しますんですよ」
「おまえのは漫談じゃなくてひとり漫才だよ。シゲヒデだなんて言う奴には、ヒデさんと呼ばれたくない」
「そおお? じゃあ、疲れるけど小笠原さん。小笠原さんはね、ヒデって言うんだほんとはね、だけど先輩だからヒデさんって呼んだら怒られるんだよ、きびしいね、ヒデちゃん」
 さっちゃんはね、サチコっていうんだほんとはね、ってな歌の替え歌であろう。字余りの替え歌を口ずさみながら、三沢は巨大な浴槽に飛び込んだ。
「結局どうなったんですか、あれは?」
「知らないよ」
「小笠原さんが知らないんだったら、本庄さんも知らないんでしょうね。あ、本庄さん、お背中をお流ししましょうか」
「いらん」
「いらんいらんはしてしての裏返し」
「裏返してない」
 遠慮なんかいやんいやん、と薄気味の悪い声を出して、今入った浴槽から飛び出てきて、三沢はシゲと俺の背中をかわるがわるごしごしこすった。こすりながらもひとりで喋っている。
「もはや誰も入ってきませんよね。俺は本庄さんや小笠原さんじゃなくて、乾さんと本橋さんのお背中をお流ししたいんですけど、いっしょに風呂に入る機会はあるんでしょうか? 去年の合宿は平和だったって小笠原さん、言ってましたよね? 今年はなぜにこうなの? 言いたくないけど誰かさんのせい? あの方は特異性格ですか? なんだってああ乾さんや本橋さんに?」
「質問が多すぎて、どれから答えればいいのか……あのボケが乾さんや本橋さんに遺恨を持つ理由は、今日一日でもふえたみたいだけど、そもそもは乾さんと本橋さんが入部してきた当時に端を発しているらしいんだよ。シゲも俺も田舎の高校生だったころだから、俺たちは当然、その事情は噂でしか知らない。当時のキャプテンの高倉さんが、乾さんと本橋さんの歌唱力を見出した。高倉さんが乾さんと本橋さんを大抜擢して、新入生デュオを組めと命令した。今の四年生の中にはそれを妬んで本橋さんたちを白眼視してる輩もいるそうだって、そういう噂だ」
「去年の四年生は?」
「去年は金子さんがいたからな」
 思い出せば、シゲが女の子に抱きつかれて泣かれたのは、去年の金子リリヤで経験ずみだった。リリヤは泣きはしなかったのかもしれないが、兄の将一さんと喧嘩をしているところにやってきたシゲに抱きついて、兄の暴力から守ってもらおうとしたらしい。
 今日のカエデも兄とはぐれて迷子になったのだから、妹という存在とシゲは縁があるのかもしれない。それがきっかけでシゲはリリヤに片想いとなった。単純な奴ではあるけれど、その気持ちはわからなくもない。
 リリヤはいまや母となり、シゲにとってはとうてい手が届かな遠い存在になってしまっている。その兄の将一さんもすでに大学を卒業したのだが、去年の男子部キャプテンは金子さんだった。金子さんは渡辺さんよりずっと歌の実力もあり、ルックスもよくて女子学生には絶大な人気を誇っていた。校内にファンクラブがあったほどなのだ。
 であるから、金子さんは押し出しも強かった。性格的にも渡辺さんよりはるかに強く、男子部に睨みが利いていた。渡辺さんもいざとなれば溝部さんを止めてくれたけれど、男子部全般をコントロールするにはいかにも弱いのだろう。去年の合宿の平穏さは、金子さんのおかげだったのだと気がついた。
 平和だと感じていたのは、俺たちが一年生だったからもあるのかもしれない。二年生以上には確執もあったのかもしれない。いずれにせよ過去の話だ。
 来年のキャプテンは本橋さんだと、暗黙の了解はできている。乾さんが副キャブテンとなるのだろう。投票なんかしなくても、結果は目に見えている。名実ともに本橋さんと乾さんが合唱部のボスになったら、合宿にも平和が訪れる。その前にあいつだ。俺は合唱部の癌細胞を排除したい。
「やっぱりな、これだけの大所帯で我も強くて個性も強いメンバーの集まりなんだから、がんっとやれるひとじゃないと、キャプテンはつとまらないんだよ。本橋さんは適任だよな。最初から本橋さんがキャプテンに就任すればよかったんだ」
「小笠原さんはそう言うけど、三年がキャプテンになったらなったで、別の問題が起きますよ。男の集団は七面倒だね。女子部は和気藹々してるのにさ」
「女子には別の問題もあるんだろうけど、女子部までかまってられないんだよ。あいつ、自分からやめたらいいのに。シゲ、おまえの意見は?」
 しばし考えてから、シゲが発言した。
「本橋さんや乾さんは、特別な才能の持ち主だよ。常人じゃないんだよ。天性のあの声に、歌唱力に表現力に……並の人間がどれだけ望んでも手に入れられないものを、生まれつき持ってるんだ」
「おまけにもてもてのもてもてだし」
「そうなのか? それはまあいいとしても……」
「よくない」
 そうだ、よくない、と三沢も言った。
「本橋さんも乾さんもそんなにもてるんですか。いえ、その話はあとにして、本庄さん、続きをどうぞ」
「うん……俺は上手には言えないけど、そんな本橋さんと乾さんを見てて、溝部さんが腹立たしくなる気持ちは理解できなくもないな。俺は普通すぎるってのか、普通以下かもしれないから」
「おまえの歌も相当なレベルじゃないか」
「そうですよ。本庄さんの低い声、俺なんかうらやましいもんね。俺はこんなガキ声でさ、ぴいちくぱあちくさえずって、黄色い声だとか、うるわしき小鳥の歌声だとか……あれぇ? 謙遜になってない?」
「なってない。おまえは謙遜できない体質だろ」
「はい、できません。さすが小笠原さん、早くも見抜かれましたか」
 きゃっはっはーっ、と三沢がけたたましく笑ったとき、窓からにょきっとなにかが入ってきた。きゃっ、蛇っ!! と三沢が叫んだのは、むろんわざとの見間違いである。長くにょろにょろっとはしているが、鮮やかなブルーの蛇はいないだろう。ホースだ。なぜここにホースが? と見つめていると、ホースが散水をはじめ、俺たち三人は全身につめたい水を浴びせられた。
 うきゃっ、うへっ、きゃきゃっ、と猿のごとき悲鳴を上げつつ、三沢が窓に走り寄ってホースをつかんだ。ホースがひとりでに散水はしないはずだから、その先にはあやつっているなにものかがいる。三沢もそれをつきとめようとしたらしいのだが、そいつはホースを放して逃げていったのだろう。手ごたえをなくした三沢がホースともども吹っ飛んできた。
「きゃーっ!! うわわーんっ!! 蛇にからみつかれたよぉ」
 長いホースにがんじがらめにされて、三沢が格闘している。シゲとふたりがかりで解き放ってやると、三沢は風呂場の床にへたってため息をついた。
「風呂場に放水するってなんの真似? 俺たちがターゲットでしょ?」
「夏だから水をぶっかけられてもどうってことはないけど、やったのが奴だとしたら、ターゲットは俺だな」
「はーん。小笠原さんね。奴ってのは……奴ね。なんの意味があるんですか」
「幼稚な報復かな。おまえがけたたましい声で笑うから、奴は窓から覗いてみたんだろ。そしたら俺がいた」
「俺のせいですか」
「窓を開けたのはおまえだろ、ヒデ」
「そうだったな。閉めよう」
 これ、便利かもね、ついでに、と三沢が、彼の手には余りそうな長いホースを水道につないで、風呂場の掃除をはじめた。ついでだついでだ、俺たちもやろう、とシゲも働きはじめ、俺も手伝うことにした。風呂洗いの洗剤まで持ってきて鼻歌まじりで働いている三沢を見て、俺は思った。
 来年のキャプテンは本橋さんで決まりだろうけど、再来年は誰だろう? シゲも俺もキャプテンの器ではない。シゲは地味だし、俺には統率力がはなはだ不足している。すると、あいつか、あいつか。先のことは先になってから考えようと決めて、気がかりを訊いてみた。
「なあ、三沢?」
 シゲが三沢に話しかけたのは、夏休み直前のキャンパスでだった。シゲと三沢が親しくなって、俺はシゲとは一年生のころから合唱部ではいちばんの友達だったから、俺も三沢と親しくなったのだ。 三沢は本橋さんと乾さんともお近づきになりたいようだが、いくらドあつかましい三沢でも、二年年上の先輩には近寄りがたいのだろう。一年上の俺たちには短期間ですっかりなじんでしまっているのだが。
 それはともかく、三沢には一年生の中にも親しくしている奴がいる。三沢は誰とでもたやすく仲良くなる特技を持っているようでもあるが、三沢と同い年の合唱部の友人といえばあいつだろう。三沢と似たタイプの、小柄で細身で子供っぽくて、声が高くて、までは同類で、しかし、気質はかなりちがうのであるらしい木村章だ。
「はいはーい。でもさぁ、なんでこうなるのかな。小笠原さんと本庄さんに、いろいろと話を聞かせてもらいたくて風呂場に来たのに、夜中に裸で風呂掃除してるってなに? 水をぶっかけられたのはけっこう気持ちよかったし、夏なんだから風邪も引かないだろうけどね。そうだ、ついでもついでにあとで泳ぎましょうか」
「三沢、俺の質問に答える気はないのか」
「ありますっ」
 なんでございましょうか、とかしこまって問い返す三沢に、木村の名を出してみた。
「いないよな。来てないよな。今日はなんやかんやでざわざわしてて、木村どころじゃなかったけど、合宿には来てないんだろ。木村はどうした? 帰省してるのか」
「帰省はしてないでしょ。どうしてだか知らないけど、合宿には行かない、としか言わないんですよ。あいつってロック志向のひねくれ者だし、どこかしら、うちの合唱部って合わないんじゃないかとも思うんですよね。前に喧嘩したときに、ロック同好会へ行っちまえ、って言ったら……」
 口論程度ならば、シゲと俺もしょっちゅうやっている。シゲはそう喋るほうではないが、俺が相手ならそれなりの口もきくのである。
 三沢はその気になれば乾さんにでも対抗できそうな舌の回転技を持っているし、木村もあれでなかなか弁は立つのだから、木村と三沢の口喧嘩は面白いかもしれない。ふたりきりのときには会話というより舌の回り加減の競争をやっているようなものであるらしく、たとえばこんなの、と三沢が再演してみせた。
「うちの合唱部って封建的じゃん。今どきの大学生のわりには、先輩だ後輩だってうるさくてさ、男子部は特にそうだろ。先輩の命令には絶対服従だなんて、横暴専横独尊的先輩には断固反対!!」
 口火は三沢が切り、木村は賛成した。
「けどさ、先輩ってのはいばってる分、後輩の面倒も見るものなんだよね。俺が情報収集したところによると、高倉大先輩は本橋さんや乾さんにはえらそうにしてたけど、目も手も心もかけて鍛えたらしいぞ。三年、四年の先輩は高倉さんと面識がある。だからリアルタイムで見聞きしている。高倉さんが本橋さんと乾さんに向ける気配りってのは並大抵ではなかった。歌のアドバイスから私生活まで、心をつくして面倒見たんだってさ」
「そんなのうざいじゃん」
「そうとも言える」
 一年生同士の会話は去年のシゲと俺の会話とはいささか異なっている。脚色もされているのかもしれないが、三沢は木村の台詞までをすらすらと述べ立てた。とすると、俺が話すまでもなく、本橋乾伝説を三沢は知っていたのだ。知ってたよ、と暗にほのめかすつもりで言い出したのかもしれない。そこでふたりの会話が方向転換した、と三沢は続けた。
「それで、章と取っ組み合いもしたんですけどね」
「へええ、おまえらも取っ組み合いなんかするんだな」
 俺が言うと、シゲも言った。
「じゃれてるくらいだったらいいけど、怪我をしたりさせたりすんなよ」
「シゲ、こいつらがそこまではしないだろ。見てたらわかるきに」
「…ま、そうだろうな」
「そうですよ。そんなもんですよ」
このふたりの取っ組み合いならば、本橋さんだの谷村さんだのが参加しているような壮絶なものにはなりっこないだろう。事実、ふたりはほとんどじゃれ合っているような喧嘩をして、その間も互いに口も駆使していて、三沢は叫んだ。
「叫び声でも喧嘩でも、俺はおまえには負けないぞっ!! 俺はか弱いけど、おまえにだけはなんであろうとも負けない。おまえにだけじゃなくて、そのうちには合唱部のトップに登りつめる予定なんだからなっ!」
「合唱部のトップ? なーんてちっぽけな夢なんだろな。せいぜいがんばれよ」
「馬鹿にしたな?」
「したよ、悪いか」
 この野郎、馬鹿野郎、と蹴飛ばし合っていても、通り過ぎる学生たちは歯牙にもかけていない様子だった、と三沢は言った。大学見学に来た高校生がふたり、じゃれていると見られたのだろう。三沢は木村の脛を蹴ってから飛びのき、言った。
「おまえは合唱部自体を馬鹿にしてるだろ? 隠したって俺にはわかるんだ。ロックロックって言ってるんだったら、合唱部はやめてロック同好会に去れ」
「はじめはそのつもりだったんだけどな……」
「ん?」
「いいんだよ。ロック同好会なんか大嫌いだーっ!!」
 耳が割れそうな金属質のハイトーンで叫び、木村はすたすたと歩いていってしまった、と三沢はしめくくった。
「ロック同好会でなにかあったんでしょうね。はじめっから破門されたのか……あるいは……その理由は俺には推測するしかないんですけど、だからやむなく、合唱部に入部したんですよ、あいつ。合唱部はロックはやりませんもんね。田舎者のくせしてじゃんじゃん言ってさ、ロッカー気取りは似合ってねえっての。そんなこんなで、章は合宿には来ないんです。封建的とはいっても、合宿に参加しないって言ってる奴の首根っこつかまえて引きずってくるほどでもないし……」
「そこまではやらないな。ところで、三沢?」
「はい?」
「シゲと俺はじゃんって言っていいのか? シゲも俺も西のド田舎出身なんだけどな……」
「あらぁ? 僕、そんなこと言いました? 過去の話は忘れましょうよ。ねぇ、本庄さん?」
「じゃんだなんて俺は言わないからいいよ。ヒデも言わないじゃないか」
「ほがな語彙は土佐もんにはないがだ」
「がだ?」
 きょとんとする三沢に、土佐弁だぜよ、と言うと、ほおほお、と感心してみせた。ぜよ、はわりに知られているのだが、他の高知弁は口から飛び出すとあとが困る。実際には「土佐弁だぜよ」などとは言わないのだが、関東人にもわかりやすい言葉を使ってみせたのだ。
 土佐の高知のはりまや橋で、坊さん、かんざし買うを見た……「よさこい節」の一節を口ずさみ、三沢は再び掃除に戻った。あの手この手、ああ言えばこう言う。その上歌ではぐらかす。木村が合宿に来なかった理由の一端は、三沢と朝から晩までつきあうとぐったりするからではないのだろうか。
 変な奴だなぁ、とつくづく思うのだが、反面、これはこれでたいした奴なのかもしれないとも思う。俺たちが四年生になったあかつきのキャプテンは……と考えていたのを、心の中で蒸し返してみた。
 そしてその翌年、俺たちも卒業し、三沢が四年生になった年には? キャプテンといっても適任の性格はひとつきりではないだろうから、この、こりないめげないの典型であるらしき三沢幸生も、案外キャプテンにふさわしいやもしれない。
 気が早すぎるだろうけど、そのころの合唱部はさまがわりするかもしれないなぁ、と想像して、ちょっとばかりにやにやしてしまって、小笠原さんったら不気味、と三沢につつかれた。
  

 しばらくはなりをひそめていたのだが、溝部さんがまたぞろ……なのであろうか。一年生の男声合唱をする、「森の静寂と喧騒」をやる、と決めたのは渡辺さんなのだが、その後、渡辺さんと溝部さんの企画会議の際の噂が耳に届いてきた。
「一年生にそんな大曲は早いよ。四年がやればいい。俺たちにはラストステージになるんだから」
「誰がメインをやるんだ? 四年生にはテナーの実力者はいないだろ」
「テナーか。テナーが重要だな」
「テナーの最高の実力者は、うちでは乾だ」
 言った渡辺さんへの溝部さんの返答は、鼻先での、へんっ、だった。どこからともなくの噂なのだが、信憑性はおおいにある。
「だが、乾の声は小鳥や花のお喋りに似合うタイプではない。普通、男の声ではそのあたりのパートを見事にはこなせないんだ。おまえも知ってるだろ」
「知ってるよ。だったら混声でやればいい」
「僕は男声のみでやらせてみたいんだよ。今年の一年にはできる者がふたりいる。だからこそ、今年こそやらせたい。一年生の男子のみで、「森の静寂と喧騒」に挑戦させたい。できる。きっとできる」
「……渡辺はそっちが向いてるのか。やけに熱が入ってるな」
 そんなにやりたいんだったらやらせたらいいよ、俺は知らないからな、と溝部さんは席を立ったのだそうだ。
 かつて、高倉さんが本橋さんと乾さんを見出したように、木村と三沢は渡辺さんのプロデューサーとしての熱情を向けられたのだ。渡辺さんはそうは言ったものの、危ぶむ気持ちも残っていたのかもしれない。一年生たちを呼び集め、直前までは他の者には言うな、と緘口令を敷き、秘密裡にことを進めた。
 キャプテン直々の特訓を受けつつ、一年生たちは秘密を守った。三沢も木村もひとことも言わなかった。したがって俺も、つい最近まで知らなかったのだ。
 一年生オンリーの男声合唱は見事に成功し、キャプテンは満悦のあまり泣いていたとも聞いた。が、溝部さんは苦々しい思いでいたのだろうか。またなにやら勃発しなかったらいいけど、と思わなくもなくて、憂鬱気分もなくもない。まったくあの癌細胞め、とっとと卒業しちまえよ、であった。


3

 故郷に帰省中の者もいるので、合唱部四年生の送別会の席上は、いつになく人数が少ない。三沢もいない、シゲもいない。俺は数人の二年生男子たちと飲んでいたのだが、三年、四年が集まっている席のあたりで、なにやら騒動が起きている様子だ。座の中心にいるのは柳本恵だった。
「……言ってませんってば。私はなんにも言ってません」
 耳を澄ましていると、四年生女子の声も聞こえてきた。
「えー? そうだったの? 話がちがわない?」
「溝部くん、空振り?」
「あらぁ、気の毒に……」
「だあれ? 溝部くんを張り切らせたのは……」
 その周囲にいる者たちの視線を一斉に注がれ、乾さんは言った。
「俺の誤解でしたか。まずったな。早とちりしましたね。すみませんでした」
 ま、よくあることさ、と鷹揚にも応えたのは溝部さんだったのだが、頬がぴくぴくひきつっていた。なんだ、あれ? と同い年の男どもが尋ねるのをシカトして、俺は素早く頭を回転させた。
 おそらく、好かれていると知った溝部さんが恵に告白したのだろう。が、この期に及んで恵は言を覆し、私はなんにも言ってません、と逃げたのだ。俺はそのほうがいいと思うが、溝部さんの立場も乾さんの立場も悪くなる。乾さんが溝部さんになにをどう言ったのかは知らないが、告白しろとそそのかした形になったのかもしれない。
 女にばっか甘いからそうなるんだよ、乾さんの最大の欠点はそこだよ、と俺はひそかに毒づいた。それでもまあ、たしかによくあることだ。女の子につきあってくれと言って断られるなんて、長い人生には何度でもあるさ、とも考えて、それきり忘れた。恵はあんな男となんかつきあわないほうがいい。賢明な判断であろう。
 我が合唱部の貸し切りとなっている居酒屋では、あっちでは男子の先輩が男子の後輩に訓示をしていて、こっちでは女子の先輩が女子の後輩と抱き合って泣いていたりもする。女子の先輩と男子の後輩がデュエットしていたりもする。
 男子の先輩と女子の後輩がこっそり抜け出したり、酔い潰れた男子の先輩を男子の後輩が介抱していたり、同輩同士が議論していたり、一年生が四年生に合唱についての教えを乞うていたり、飲み会の際にはよくある光景が見えていた。
 探してみると、本橋さんは三年生女子の八幡さんと話している。乾さんは四年生女子の沢田さんと話している。乾さんたちの近くにすわって聞き耳を立てていると、沢田さんにじろっとやられた。
「乾くんとはもう会えなくなるかもしれないんだから、別れを惜しんでたのよ。邪魔しないでよね」
「いつでも遊びにいらして下さい。沢田さん、そんなに飲むと……」
「うるさい。飲みたいの。乾くん、注いで」
「そのへんにしておかれたほうが……」
「男子は男子の先輩の言いつけしか聞かないっての? 私も先輩なんだけどね、乾くん、女子部の先輩命令は聞かないの?」
「聞きますよ。でも、飲みすぎるとよくありません。もうやめましょうね」
「それだから乾くんは……ああ、ありがとう」
 誰かが沢田さんのグラスにビールを注ぎ、彼女はグラスをひと息で干した。
「あーあ、一気飲みはいけませんよ」
「ビールごときへっちゃら……あ……どうしたんだろ? 急に世界が回ってきたわ。乾くん、踊らない?」
「踊るって……そんな状態で踊れっこないでしょう。沢田さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫だってば……踊ろうよ。誰かダンスミュージックでも歌って。乾くん、チークダンスやろう」
「無理ですよ。わわっと……」
 踊ろうよぉ、と言いながら、沢田さんが乾さんにしなだれかかった。まーたこんなにもててる、としか俺は思っていなかったのだが、どうも様子がおかしい。沢田さんは酔ってはいたようだが、正体をなくすほどでもなかった。そこにビールをグラス一杯足しただけでこんなにもなるものだろうか。
 ビール一杯プラスで限界を越えたというのは、なくもないのかもしれない。乾さんはグラマーな沢田さんに首ったまにしがみつかれて、突き飛ばすわけにもいかないようで困り果てている。山田さんが席を立ってやってきた。
「沢田さん、どうしちゃったんですか? なんだか変ですよ」
「ああ、美江子ちゃん? そうなの。なんだか変なの。こうもやもやっと……」
 もうひとり、席を立ってやってきた男がいた。四年生の岡田さんだ。彼は沢田さんのグラスを調べ、残ったビールをなめてみてから、誰にともなく言った。
「ビールになにか入れたんじゃないのか? 僕は薬学部だから、こういう知識は豊富だよ。ビールではない味がする。沢田さんの近くにいたのは誰だ? 乾と小笠原か。乾、なにを入れた?」
「なにも入れるわけがないでしょう。妙なことを言わないで下さい」
 乾さんがそんな細工をするはずもないし、俺も見てましたよ、と俺が言ったら、岡田さんは薄笑いを浮かべた。
「小笠原は乾の取り巻きじゃないか。おまえの台詞なんか信用できないな。グルだとも考えられる」
「なんのためになにか入れるんですか。乾さんが沢田さんに一服盛って、それでなにをしようってんですか? 人聞きの悪いことを言わないで下さい。沢田さんが乾さんのグラスになにか入れるってほうが、あの状況だったらあり得ますよ」
「ヒデ、おまえはまたよけいなことを……」
 乾さんは言い、山田さんも言った。
「ヒデくんってひとこと多いタイプだね。取り巻きといえばね……ね、乾くん?」
「ミエちゃんも勘繰りはやめようよ、こんな席で」
「勘繰りなんだったらいいけどね。本橋くんも理学部でしょ。ビールになにが入ってるのか分析してよ」
「無茶言うな。俺の専門外だ」
 いつの間にかそばにいた本橋さんも言い、キャプテン渡辺さんも寄ってきた。
「僕もまったくの専門外だけど、岡田、本当なのか? 確証もなく人を陥れかねないようなことを言うのは人権侵害だよ。名誉毀損になるよ。民法による名誉毀損とは……」
 ああ、渡辺さんは法学部だっけ、と俺が思い出していると、自身の専門分野をキャプテンが述べ立て、岡田さんは引き気味になった。
「まちがいないと言うんだったら立証してくれ。乾はなにもしてないんだろ? 沢田さんもなにもしてないはずだ。事実、ビールに誰かがなにかを入れたってことになったら、合唱部の不祥事じゃないか。僕らの卒業を下級生たちが祝ってくれる席上で、不祥事が起きるなんて僕は耐えられない。岡田、どうなんだ?」
「……いや、そうじゃないかな、って……溝部がさ……」
「溝部? 溝部、溝部、どこにいる? 逃げたか」
「そのようだな。畜生。言うんじゃなかったよ」
 岡田さんが言うには、溝部さんの企てであったらしい。最後にどうにかして乾に吠え面をかかせてやりたいな、と溝部さんは、沢田さんと話している乾さんを見て岡田さんに囁いた。岡田さんがそこで一計を講じて、こう言ってみたらどうだ? と提案したのだ。
 おそらくは溝部さんは、恵にふられたのも乾さんが悪いと思っているのだろう。その溝部さんの姿は消え失せていて、渡辺さんは軽く舌打ちをした。
「そんならどっちもどっちだよ。おまえも溝部の口車に乗ったんだろ」
 怒り顔の渡辺さんが言い、乾さんに頭を下げた。
「ごめん、乾。最後の最後まで溝部がきみに……」
「誤解がとけたんだったらいいんですよ。誰にでも好かれようだなんて、人間には不可能なんですね。こういう集団の中に身を置いて、俺には勉強になりました。なにかと勉強させていただいて、先輩方、ありがとうございます。今後ともいっそうのご指導、ご鞭撻のほどをお願いします」
「……乾、最後までかっこつけるな」
 横合いから本橋さんが乾さんの頭をはたき、どっと笑いが起きる。俺のとなりには三年生の徳永さんが来ていて、ため息まじりに小声で言った。
「いいコンビなんだな、本橋と乾は」
「そうですよ。徳永さんも入ってトリオになったらどうですか」
「いやだ。死んでもいやだ。なんだ、あの乾の台詞は。選挙演説か」
「徳永さんもうまいこと言いますね」
 結局、この場をおさめたのはキャプテンだったのだから、きちんと役割を果たして卒業していくってわけだ。春になって本橋さんがキャプテンになったら……と、俺は苦虫を噛み潰しているかの表情でいる徳永さんを横目で見た。
 このひとがいると、無風状態ひねもすのたりの春の海にはならないかもしれない、のではないだろうか。そんな全員を尻目に、沢田さんは穏やかに寝息を立てていた。

 
 大方の予想通り、今年のキャプテンは本橋さん、副キャプテンには乾さんが選出された。変な奴もいた去年の四年生たちは卒業し、合唱部にも新入生たちが入部してきて、世間も大学も春だ。俺は無事に三年生になった。今日も合唱部の男子部室に入っていこうとしたら、中からギターの音色が聴こえてきた。
「誰が弾いてるんだ?」
「さあ?」
 話しかけてきたのは徳永さんで、ふたりしてメロディに耳をかたむけた。哀愁を帯びた美しい曲調だった。イントロに続いて歌声も聴こえてくる。涼しげなハイトーン、乾さんの声だ。
「乾か……聞き覚えのない曲だな。あいつのオリジナル?」
「そうかもしれませんね。いい曲ですよね」
「そうかな。聞き覚えはないけど、なにかに似てないか」
「んんと……」
 さらに聴いていると、歌詞も聞き取れた。

「この街で暮らして、この街で恋をした
 この街のひとを愛して、この街のひとになった
 あなたの愛が私を変える
 私の愛があなたを変える
 ちょうどこの紫陽花の花のように

 清廉無垢な純白
 淡く揺れる桜貝
 勿忘草の薄紫
 ひとつひとつの花びらに
 水のいろを映す青
 空のいろに溶ける青

 赤紫は牡丹花
 つめたく拒む青紫
 妖精の羽は瑠璃のいろ
 赤から紫、紫から青へと
 移り気な花の心のように
 私の想いもうつろう」 

 マイナーコードのメロディに合わせて、乾さんの優しく高い声が歌う。合唱部のステージでは本橋さんとのデュエットかコーラスの一員としての歌を披露している乾さんのソロは、紫陽花の花のごとく彩りを変化させていった。徳永さんがドアを開けると、他には誰もいない部室の中で椅子にかけ、ギターを抱えて歌っていた乾さんが、やあ、と手を上げた。
「いやに感傷的な歌だな。おまえが作ったのか」
「そうだよ。正式に発表はしてないけど、キャプテンの提案で、今年の夏のコンサートにはオリジナルにも挑戦しようってわけで、俺も作ってみたんだ。習作段階だけど、完成しつつあるよ。徳永もヒデもやってみないか」
「俺には作詞作曲能力なんかないよ」
「ヒデは?」
「俺もやったことはないんですけど、メロディが頭に浮かぶ瞬間はありますね」
「それを形にしてみろ」
 歌うというただそれだけに気持ちを入れていた。俺にしても合唱部のメンバーなのだから、合唱に心を注いでいた。詞や曲を自らの頭で生み出す。考えてもみなかった。そうか、音楽に携わる者としては、そんな道もあるのだと目からうろこがぽろっと剥がれた瞬間だった。乾さんは俺にうなずきかけて言葉を継いだ。
「本橋の考えによると、学年を問わず、大々的にオリジナル曲を募集して選んで、合唱にするなりデュエットやグループでやるなり、ソロが向く曲ならばひとりで歌うなりして、今夏のコンサートはそんな形にしようって。俺も賛成だな。かつてはうちのコンサートでは、先輩方が作った曲を歌ったりはしたものの、各自のオリジナルってのはほとんどやってないだろ」
「そういう伝統だったんだから」
「伝統もいいけど、既成概念をぶっこわすところからはじまるものもあるよ」
「そのようなたぐいのことがらを決定するのは、キャプテンと副キャプテンだろ。そこんところは伝統じゃないか」
「キャプテンはさまざまなことがらをまとめていく役割だ。そのためにキャプテンがいるんだから、そこんところまでぶっこわすんだったら、キャプテンは不要になるね。そうすると烏合の衆の集まりになりかねない。我々は大学合唱部として存在してるんだから、基本的な部分は変えなくてもいいと思うんだ。学生たちが集って歌を歌う。そのためには種々雑多な仕事もある。責任者を決めて彼や彼女がそこに当たる。キャプテンの主たる業務はそれだろ。ちがうかな」
「そのためには後輩の頭を押さえるのもやむを得ない、と?」
「結果的にそうなるのはやむを得ない。すべてのメンバーの意見をすべて採用するわけにはいかない。集団というのはそういうものだ」
 乾さんと徳永さんの会話は、なにを踏まえているのだろうか。俺が無言で聞いていると、乾さんは言った。
「キャプテンが決めたんだから従え、なんて強制する気はないよ。アマチュアとはいえ、我々はミュージシャンのはしくれなんだから、作詞や作曲をする者もいるだろう。楽器に堪能な者も多々いる。そういうメンバーがオリジナルを提供して合唱の世界を広げていくのも一興じゃないか」
「俺には作詞も作曲もできないんだから、ミュージシャンのはしくれとも呼べないんだろうな」
「歌は作らないミュージシャンだって数多いるよ」
「ソングライティングの才能までを持つおまえは、一段階上のミュージシャンか。素晴らしい。自信が過信につながらないことを祈るよ」
「ありがとう。肝に銘じておくよ」
 ところで、と乾さんは言った。
「今年のコンサートについては、学年の枠は取っ払う。真に実力のある者がステージに立つ。真によい曲を選んで歌う。異論があれば聞く。聞いた上で検討する。議論もしよう。なにせ人数が多いから、議論ってのも大変になるんだけど、キャプテンの一存では決めないよ。歌を書くのは一朝一夕ではできないかもしれない。けれど、作りたいという意欲のある者は作ってほしい。うちの体質には旧態依然とした部分があるだろ。俺たちが打破していこう、徳永」
「打破ね」
「……ヒデ、そうしておまえたちが、それを引き継いでいってくれると嬉しいよ」
「俺たちが……ですね」
「なにもかもを打破しなくてもいいんだよ。残していくべき伝統、打破したほうがいい伝統、その取捨選択も大切だね。大学生活はたったの四年間だ。俺たちは来年には社会に出るんだろ。最上級生として、下級生たちによいものを残して巣立ちたいじゃないか。これまでの先輩方が創り上げてきた合唱部を、俺たちがさらに磨いて飛び立ちたいんだよ」
「燃えてるね」
「ああ。もちろん協力してくれるよな、徳永?」
「俺はどうも……おまえみたいに情熱込めて言われるとむずがゆくなってくるんだよな」
 肩をすくめて、徳永さんは言った。
「だいたいからして乾は白々しい。どこまで本音だ?」
「今、言ったのは全部が本音だよ」
「そうかなぁ。詭弁を弄して人を煙に巻く癖があるだろ、おまえ? こういう副キャプテンに対していくのは、後輩たちは去年以上に骨なんじゃないかと……キャプテンの性格はああだから、ちょうどいいのか。適材適所ってやつか」
「ああって?」
「知ってるくせに聞くな。俺は……やめた。おまえの考えはわかったよ。俺も考えておく」
 よろしく、と微笑んだ乾さんに一瞥をくれて、徳永さんは出ていった。
「全員が協力してくれないと、集団はなりたっていかないんだよ。もっとも厄介なのは徳永だな」
「ナンバースリー的存在だからですね」
 あまりにも群を抜く才能の持ち主たる本橋さんや乾さんの影で目立ちにくいのだが、徳永渉、そのひとならば、本橋さんや乾さんをライバル視しても不足はない。本橋さんと乾さんが存在していなかったら、満場一致で徳永さんがキャプテンに選ばれていただろう。同じ四年生に上には上を行くふたりがいたのが、徳永さんの不幸だったのかもしれない。
 当人が不幸だと考えているのかどうか、そこまでは俺は知らない。ともあれ、彼が現在の合唱部ではナンバースリーだとは、アンケートを取るまでもなく、衆目の一致するところだろう。
「ナンバースリーか……彼としてはそう言われたくないだろうな」
「言われたくなくても事実ですから。まあ、乾さんだったら、あんな徳永さんにも負けないってのか、適材適所って当たってますね。本橋さん対徳永さんじゃどうなることか……」
「ヒデ、おまえも……いいか。出よう」
 乾さんとふたり、キャンパスを歩いていくつもの話しをした。
 タイトルは聞いていなかったのだが、俺の耳元にはまだ、乾さんの美声、乾さんの自作の歌が聞こえている。俺もあんな歌が書けたらいいな、とも思う。
 「紫陽花いろの……」ってタイトルはどうだろう。紫陽花って春の花ではないよな、いつの季節の花だったっけ? なんて思いながら、心に忍び込む将来への不安には気づくまいとしていた、俺の青春期のおしまいごろだった。


 窓の外、雨に打たれている花が紫陽花か。紫陽花とは梅雨のころの花だったのだと考えていると、十年近くも前の想い出が脳裏に映る。長く会っていないみんなは元気でいるだろうか。
 学生時代にも、卒業してからも、俺はみんなとともにいた。俺が彼らを裏切ったのは、ちょうどこんな季節だ。あれから何年たつ? 思い出したくもないのに、いや、思い出したいのだろうか。自分の気持ちさえもがよくわからず、放心状態で花を見ていた。
 あのころのみんな……乾さんの影響ではじめた作曲もしなくなって、歌もほとんど歌わなくなって、きっとみんなに忘れ果てられてしまったであろう俺は、それでもこうして生きている。俺にも青春があったんだな、と思い出す味は苦い。
 けれど、みすぼらしいアパートの庭に咲く紫陽花の花は美しいのだ。紫陽花の花の色が移り変わるがごとく、人の運命の変遷もあるのだとしたら……俺もいつかは? かぶりを振ってこぼした笑みの味は、ひどく苦くてしょっぱかった。

END


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