ショートストーリィ(花物語)

2016/花物語/十一月「胡蝶蘭」

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胡蝶蘭

2016花物語

「胡蝶蘭」


1

 残業をしていて気がつくと、課内の人間は誰もいなかった。僕のミスによる残業なんだからしようがないが、ひとりぼっちになると寂しい。もうじき仕事が完成する。そしたら帰ろう。自分に言い聞かせてパソコンに向き直って、またもや発見した。ここにもミスが……うわわ、これは長引きそうだ。

 覚悟を決めて性根を据え直して仕事を再開する。ようやく終わったときには夜が明けていて、これでは帰宅しても仮眠をとる時間もない。ならば応接室のソファで寝よう。

「……ん?」
「間野次郎さんだよね? こんなとこで寝たら風邪引くよ」
「あ、ああ……すみません」

 ソファで目を開けた僕を覗きこんでいたのは、掃除のおばさんだ。オフィスの掃除は契約している清掃会社から派遣されてきたスタッフが主に早朝に行う。掃除がすんでから僕らが出勤するので、掃除人と顔を合わせることはない。四十すぎくらいに見える女性は渡辺という名札をつけていて、彼女も僕が首からぶらさげているIDカードを見て名前を知ったのだろう。

「仕事で徹夜? 大変だね」
「いや、僕のミスですから」
「そっか。だったら当然か」
「当然ですね」

 起き上がった僕を、渡辺さんは母のようなまなざしで見てくれて微笑んでいる。ふっくらした身体を淡いピンクのユニフォームに包んで、時計を見上げて、始業時間まではだいぶあるな、と考えている僕に話しかけてきた。

「間野さんって独身?」
「そうですよ」
「いくつ?」
「二十七です」
「二十七? そーんな若いの?!」

 大げさにびっくりしてみせる渡辺さんに、僕も笑ってみせた。

「髪の毛が薄いですしね」
「それもあるかなぁ。三十五くらいに見えるね」
「よく言われます」
「それに、えらい痩せてる。ちゃんと食べてるの? ひとり暮らし?」
「そうです。大学からアメリカに留学して、むこうで院も終了して、その間に両親は田舎に引っ込んでしまったので、帰国してからはひとりです。食べても胃弱だから太らないんですよ」
「そんなだったら彼女、いないんだろ」
「図星です」

 応接室を片づけている渡辺さんにことわって、社外のコンビニへ朝食を買いにいった。戻ってきてもまだ始業時間までは間があるので、掃除をしながらの渡辺さんとさらに話をした。

「私は高校のときに母ちゃんを亡くして、親父の世話をしたり家事をしたりしなくちゃなんないから、学校は中退したんだよ。二十五歳も年上の男と結婚してからもパート主婦。十七歳からずっとパート主婦。私、いくつに見える?」

 四十歳はすぎているだろうと思えたが、やや少なめの年齢を口にした。

「三十八、九?」
「うん、もうじき四十」
「そうですか」
「ねえねえ、間野くん、遊ばない?」
「は?」

 遊ぶ、の意味が咄嗟にはわからないでいる僕に、渡辺さんはちょっぴり卑猥な笑みを向けた。

「独身で彼女もいないんだろ? 背は高いけど痩せすぎてるしハゲかけてるし、もてないよね。私は結婚してるけど、旦那は二十五も年上だから枯れちまってるんだよ。夜中にやろうよって言ったら、勘弁してくれ、そんなにしたいんだったら若い男と遊んでもいいぞって言うの。だからいいんだよ。気にしなくていいの。遊んであげるからホテルに行こうよ」
「は、はあ」

 昨夜はほぼ徹夜で働いたのだから、今日は定時で帰ろう。とはいえ、ひとり暮らしのマンションに帰ったところですることもない。だったら、渡辺さんとデートするのもいいではないか。十歳以上年上だけど、僕が三十五歳くらいに見えるのだから、見た目はそんなにちがわない。

 背が低くてふっくらぽってりした渡辺さんは、美人でもないけれど可愛らしくなくもない。嫌いなタイプではない。デートくらいだったらいいだろう。

 そんなつもりではじめた関係だったのだが、彼女とはすべてがしっくり合う。性格も趣味も、食べものの好みもあっちの相性も合いすぎるほどで、話をしているとすこぶる楽しい。姉さんのような恋人のような渡辺さんは世故長けていて、世間知らずの僕にさまざまなことを教えてくれる。人生勉強までさせてくれた。

「でしょう? 相性いいよね。そしたらさ、結婚してあげるよ」
「結婚? 則子さんと?」
「そう。私だって次郎といると楽しいし、なんでもかんでも気が合うってほんとだもの。結婚しよ、しよしよ」
「いや、しかし、あなたは結婚してるんでしょ?」
「ああ、あれ? 嘘だよ。馬鹿だね」
「嘘?!」

 お気楽に笑って、渡辺則子さんは本当のことを話してくれた。

「セックスレスの二十五歳年上の旦那と、二十五歳年上の実の親父。同じようなものじゃん?」
「お父さん?」
「そうだよ。十七歳で母ちゃんが死んじまって、私はそれからはほぼずっと団地の3LDKで父と娘のふたり暮らしさ」
「あああ、そうだったんだ」
「だから、気にしなくていいんだよ。結婚しよ」

 拒否する理由はなにひとつない気がした。

「えーっと、だけど、則子さんはお父さんを置いて出ていけるの?」
「なんで出ていかなくちゃいけないの? 次郎がうちに来ればいいんだよ」
「お父さんと三人で暮らすわけ?」
「そうだよ。決まったら善は急げ。うちの親父に挨拶に行かなくちゃ。いつだったらいい?」
「え、えと、えとえと……そうだね」

 手帳を取り出した僕に、則子さんはけろっと告げた。

「結婚するんだったら私の年、教えておかなくちゃ。遊び相手だったらあんたが想像してる通りでいいと思ってたんだけど、私、ほんとは五十だから」
「へ?」
「でも、四十くらいにしか見えないだろ? あんたは三十五にしか見えないんだから、五つくらいの年の差、どうってことないない。気にすんな」

 そう言われれば、そうだな。


2

 もと公務員だそうな則子さんの父、壮造さんは、娘に似た小太りで小柄な老人だ。御年七十五歳。健康で頑健そうだ。

「ふむ……則子と結婚したいとな? ならばきちんと挨拶しなさい」
「は、はいっ!! えとえと、お嬢さんを僕に下さい。幸せにしますっ!!」
「うむ、よろしい」

 お父さんったら古臭いんだから、と則子さんは笑っていて、義父になる人はいかめしい調子で言った。

「我が家に入るんだったら、俺の出す条件を飲みなさい。なに、条件といってもたいしたことはない。これからは俺の年金は小遣いにするから、おまえの収入で家賃やら光熱費やら食費を出すんだ」
「お父さんったら、そんなの当たり前じゃん」
「当たり前だな。あとは、月に一度の外食、年に四度の旅行程度か」
「そんなのお安い御用だよ。次郎はけっこう高給取りなんだから」
「……見た目はぱっとしないが、収入がいいんだったらそれだけはとりえだな」
「そうみたいね」

 ふむふむとうなずいてから、壮造さんは言った。

「ところで、おまえの両親は我が家に挨拶に来んのか」
「あ、は、うちの両親は……」
「次郎のお母さんもお父さんも、私と結婚するってのに反対してるんだって。なにが気に入らないんだか、失礼な親だよね」
「反対している? なぜだ? 則子が次郎よりも年上だからか」
「そうなんじゃない? 心が狭いんだから」
「まったくだな」

 憤慨した表情で僕をねめつけてから、壮造さんは腕を組んだ。

「息子が結婚してもらう女、女の家に同居もさせてもらう。ここは団地だから家賃も安くて助かる。なのに親は礼儀知らずで挨拶にもやってこない。なんたることだ。そんなだったらおまえも親とは縁を切れ、二郎」
「そうだよ。こんな不細工な息子、私が拾ってやらなかったら一生独身なのにね」
「かもしれんな」
「ま、いいじゃん。じゃあ、三人で焼き肉でも食いにいこっ」

 そうして、渡辺則子と間野次郎は結婚した。

「こんなの送ってきてさ……」
「うわ、豪華な花だね。どなたから?」
「妹」
「則子さん、妹さんがいたの?」
「いるんだよ。その話はまたね」

 諸般の事情により結婚式はしなかった。義父と則子さんと僕とで食事会をしただけだ。その日に送られてきた花は胡蝶蘭。華やかさは皆無の新婚家庭が華やいでいいではないか、と僕は嬉しかったのだが、則子さんはなぜか不満げだった。

「年子だから、母ちゃんが死んだときには妹は十六だったんだ」

 新婚旅行のようなものには、壮造さんと三人で北海道に行った。寒いの疲れたのと不平たらたらだった壮造さんが眠ってしまうと、則子さんが話してくれた。

「私は高校やめて家事をやってるってのに、妹は遊び歩いてばっかりで、親父に怒られて家出しちゃったんだよ」

 写真を見せてもらったところでは、母と次女、父と長女が似ている。母と次女、すなわち則子さんの妹は、すんなりした美人。それもあって、妹は男にもてたらしい。家出をして男のマンションを渡り歩き、妊娠した。則子さんに言わせると、父親が誰なのか定かではなかったらしいが、そのうちの確実性の高い男と結婚した。

「その男は妹の見た目に惚れてたらしいんだよね。で、結婚して子どもを産んだ。女の子だよ。姪はマリーナっていうの」
「マリナちゃん? 今どきの名前だね」
「マリナじゃなくてマリーナ、こう書くんだ」
「海那……ふぅん」

 海はマリンだから「海那」と書くのだそうだ。マリナではなくマリーナなのは、母親のこだわりであるらしい。

「そんでじきに離婚しちゃったよ。妹が浮気したからなんだって。マリーナは父ちゃんの親に引き取られて、妹は行方不明になっちまった。二度目の結婚をしたときに親父とは会ったらしいけど、姉ちゃんは独身? ひがむから会わないほうがいいね、なんて言って、ずーっと会ってない。失礼な奴だよ」

 離婚した夫の両親のもとで暮らす孫に、壮造さんは会いたかった。そういうところはおじいちゃんらしいのだ。

「おまえんちのバカ息子がしっかりしてないから、女房が浮気して家出したりするんだ。そんな息子に育てた親に育てられるマリーンの将来が心配だし、たまには小遣いだってやるから、どこそこへ来させなさい」

 と、次女の元夫両親に命令し、壮造さんはマリーンちゃんと時々デートしていたのだと、則子さんは語った。

「私はマリーンには会ったことないんだけど、親父もマリーンが小さいころにしか遊んでないはずだよ。ガキって十くらいになったら生意気になるもんね。こんな娘に育ったのは案の定だ、って、親父はよくこぼしてた」
「なるほどね」
「マリーンっていくつだっけ?」

 指を折っていた則子さんは、ああ、あんたより年上だ、三十すぎてるよ、結婚したって話は聞かないな。あんな躾の悪い娘が結婚できるはずないもんね、と笑い飛ばした。


3


 婿養子に入ったのではないが、3LDK団地の所帯主は渡辺壮造、娘の則子とその夫が間野姓で同居しているという形だ。僕は近所の方には渡辺さんのお婿さん? と訊かれたが、則子さんが、ううん、マスオさんだよ、と説明してくれた。

 サザエさんの夫であるマスオさんも婿養子なのかと思われがちだが、マスオサザエの姓はフグタである。あの漫画は第二次大戦後間もない時期にはじまったのだから、当時、長男のカツオがいるイソノ家に婿養子は取らないはず。

 漫画の詳細までは知らない人もよくいるので、マスオさんなら養子でしょ? と言われることもある。則子さんは、面倒だからと適当にあしらう。よって、僕に渡辺さんと呼びかけるご近所さんもいる。僕もめんどくさいので、近所での呼び名などはどうでもよかった。

 あれから十五年、親父もそう長くは生きないよ、と則子さんは言っていたのだが、齢九十歳の壮造さんはますます矍鑠としている。

「えええ? 間野先生って四十三歳なんですか?!」
「そうですよ。そんなにびっくりしなくてもいいでしょう?」
「いえ、あの……」
「五十五歳くらいに見えます?」
「そこまでは……」

 薄毛は進行するばかりだが、完全に禿げてはしまわなくて、いわゆるバーコードである。いっそスキンヘッドにしたいのだが、大学講師もしている身としては、堅気に見えないかもしれない髪型はご法度だ。百八十センチ弱で六十キロ強の痩せた身体も変わりない。渡辺さんたちって五つほど奥さんが年上? と長年言われてきた。

「ご結婚なさってるんですよね?」
「してますよ。うちの奥さんは逆に若く見えるから、僕ら、見た目は年の近い夫婦なんですよね」
「えーっと……それって……」

 講師としてときおり講義に赴く大学の同僚になった、新任の女性、天見さんは怪訝そうにしている。僕は常に持ち歩いている妻の写真を見せた。

「この方ですか……」
「僕とは正反対で、太ってるから肌もつやつやしてるでしょ。いくつに見えます? って質問をされてもあなたも困るだろうけど、僕よりちょっと年上に見えるでしょ?」
「まあ、そうですね」
「実は六十六歳なんですよ」

 絶句……といった表情の天見さん。僕の妻は実は……と告白するとこんな顔をする人は多い。その顔を見るのは僕には快感だった。

「間野先生……私の話も聞いて下さいます?」
「いいですよ」

 非常勤だから毎日は天見さんとは顔を合わせない。そんな話をしてから一ヶ月ほど後に、彼女に相談を持ちかけられた。

「私は三十九歳なんです」
「ああ、そうなんですか」
「私には恋人がいまして、彼、十一歳も年下なんですね」
「ふむふむ」
「プロポーズされまして……」
「それはそれは、おめでとうございます」
「嬉しくなくはないんですけど……」

 他人は皆、異口同音に言う。
 今はまだ天見さんだってそれほど年を取っていなくて、まだまだ綺麗だ。けれど、あなたが五十歳になったらどう? そのときには彼はまだ三十代だよ。彼はきっと後悔する。若い女性と浮気をしたくなる。そんなの惨めでしょ? やめておいたほうがいいよ。

「彼はそんなことはないって言います。私も信じたいけど、みんなの言うことも正しいんじゃないかって……」
「それで、僕に相談ですか」
「そうです。先生、後悔なさっていませんか?」
「ええ、後悔なんてしたことは一度もありませんよ」
「本心で?」
「本心です」

 うちの奥さんは出会ったときにも若くも綺麗でもなかったから、もっともっと年を取っている今だってたいして変わりはしない。義父は元気だとはいえ、さすがに年に四度の旅行が半分に減り、あとの半分は夫婦だけで出かけられる。僕たちが留守のときには老人施設のショートステイに行ってくれている。

 外食は僕も楽しみだし、義父が最初に言った通り、団地暮らしは家賃が安くて助かる。光熱費なんて二人でも三人でも大差ないし、子どもなんて考えられもしなかったのだから、お金がかからなくて貯金は増える一方だ。

「結婚することになったんだ。彼女、いくつだと思う? 二十八だよ」
「へぇぇ。おめでとう」
「間野くんの奥さんとだといくつちがう? 祖母と孫だよね」

 勝ち誇ったように報告してくれた友人もいたが、そんな小娘、どこがいいんだろ。
 こう見えて僕はまるでもてなかったわけでもなく、アメリカにいたときには欧米人女性と何度かつきあった。則子さんと結婚してからも誘惑がちらほらあったのだが、僕は妻一筋だ。

「相思相愛なんだったら結婚すればいいじゃないですか」
「先生は今も、奥さまを愛していらっしゃいますか?」
「んんん……」

 恋愛ではないので愛していると思ったことはないが、愛と結婚は別だ。天見さんが結婚すると決めたら、僕も彼女に胡蝶蘭を贈ろう。則子さんの妹とは一度も会っていないが、彼女が送ってくれた胡蝶蘭は記憶に鮮やかに残っている。胡蝶蘭は幸せな結婚の守り神なのだから。

END








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