番外編

番外編26(2-4)(どうにかなるさ)前編

 ←小説77(風になりたい) →番外編26(2-4)(どうにかなるさ)後編
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番外編26

「どうにかなるさ」前編


1

天変地異でも起きない限りは言ってはならない。ヒデさんとも固い約束をかわした。しかし、僕の小さな心には秘密が重すぎて、吐き出さずにはいられなかった。たったひとりにだけ打ち明けようと決めて話した相手が乾さんだったのは、乾さんだったのだけは、ベストな選択だったはずだ。
 話さずにはいられなかったのだから、だけど、でも、だけど……してはいけないことだったのか、僕はおのれのしでかしたことによって戸惑いを味わっていた。
 そんなころ、「八年目のフォレストシンガーズ・政令指定都市を旅する」と銘打ったライヴツアーが終了し、休暇も明けてフォレストシンガーズの先輩たちがスタジオに集合すると聞いて、僕もスタジオを訪ねた。
「よお、酒巻、来てたのか」
 ドアが開いて聞こえた声は本橋さん。振り向いた僕は、棒っきれみたいに硬直した。おはようございます、と言いかけた声も途中でつっかえた。
「お、お、お……も、ももも、本橋さん……キャプテン」
「キャプテンってのはいつの話だ。俺はおまえにそう呼ばれる者じゃないって、幾度か言ったよな」
「は、はい、はい。言われてます。言われてはいますけどあまりにもびっくりして……ええと、あの、あのあの……ええと……かっこいいですね」
「馬鹿野郎」
 叱られなくてもいいと思うが、この際他になにを言えばいいんだ。いったいなぜ、なにが原因で本橋さんの髪がなくなっているんだ。心労のあまり一夜で髪が抜け落ちた? いや、気を落ち着けてよく見れば剃り跡青々。剃ったってわけか。
「まだ誰も来ないはずだけど、聞かれたくない。誰にも聞かれたくはないんだが、すこしは話したいんだよ。おまえに言っても意味もないかもしれないけど、おまえだったら事情の一部は知ってるんだもんな。酒巻、こっち来い」
「はい」
 連れていかれたのはスタジオの裏手で、本橋さんは僕にグローブを手渡した。
「キャッチボールをやろう」
「キャッチボールですか」
「偽装だよ。密談してたなんて思われたくないんだ。キャッチボールのついでの雑談だよ。おまえもそのつもりでやれ」
「承知しました」
 キャッチャーをつとめる僕のグローブに剛速球が決まり、本橋さんの低い声も届いてきた。
「向日葵だ。星さんと金子さんだ。あのときにはおまえもいたよな。あのときとはなんのときか、言いたくない」
「言われなくても覚えてます」
「あれが俺にはひっかかってたんだ。あいつがどう考えてるのかは知らないけど、俺はこだわってたんだよ。くそ、小せえな」
「的がですか。すみません」
「的じゃないんだ。俺だよ。キャッチャーが小さくてもキャッチャーミットの大きさは同じだろ。手に合わないか」
「なんとかやってますので、続けて下さい」
 グローブではなくミットか。なんだっていいんだけど、本橋さんの球は重くて早くて手が痛い。雑談ではなく密談なのだから距離も近い。本橋さんは機嫌がよくないようで、弱音を吐くと怒鳴られそうなので耐えて受け止めていた。
「小さいのは俺さ。身体はでかいほうでも気持ちが小さいんだ。そいつを思い知らされた。先輩たちってのには永遠に勝てないんだよな」
「先輩って星さんと金子さんですよね。それで、なにが?」
「ああ。俺、酔ってたから細かくは覚えてないんだけど、星さんに喧嘩を売ってかわされて、水をぶっかけられて、金子さんに殴られて、従業員控え室に運ばれて椅子に投げ出されて、金子さんに説教されて……」
「先輩ふたりがかりでって……ずるい」
「馬鹿野郎」
 こわっ。口をはさまずに聞こう。本橋さんはいつだって怖いのだけど、今日のおっかなさはひとしおだ。
「ずるいのなんのって話じゃねえんだよ。全面的に俺が悪いんだよ。だから頭を丸めたんだ。乾がやれって言ったような……あれ? 乾はいなかったのに、なんで乾だ? 乾じゃないんだよな。俺がそう決めて坊主になったんだ。誰にも言うなよ」
「なんとなくはわかりましたけど、言いません」
 またまた誰にも言うな? 僕は身体も心も小さいってのに、秘密がふえたらパンクしてしまうのではないだろうか。そうとは言えないのでうなずいて、キャッチボールを続けた。手がしびれてくる。本橋さんのボールが力強さを増していくのは、怒りが込められているのか。後悔か、悔しさか、自己嫌悪か。
「本橋さん、そうしてると高校球児に見えますよ。いい球ですね。今から甲子園目指します?」
「渾身の魔球を受けられるか」
 にやっとして投げた本橋さんの魔球は変な角度がついて変な方向へ飛んでいき、きゃああーっ!! と悲鳴が轟いた。驚いてそちらを見ると、三沢さんが倒れていた。
「本橋さんっ!! 三沢さんを直撃しましたよっ!!」
「そうかぁ?」
「そうじゃないですかっ!! 救急車っ!!」
「慌てなくていいさ。どうせ……」
 どうせ? どうせいつもの人騒がせ? 恐る恐る見にいってみると、三沢さんは地面に倒れているものの、とがった石でいたずら描きをしていた。
「三沢さん、ボールが当たったんですか?」
「っていうよりも、リーダーの頭を見て気が遠くなっちゃったんだよ。ボールはどっかに飛んでったんじゃないかな。リーダー」
 身軽に立ち上がった三沢さんは、本橋さんに頭を下げた。
「出所なさったんですね。おつとめ、ご苦労さまでした」
「出所ってどこから?」
「あんな頭をした男が出所するったら決まってんじゃん。喧嘩でもして逮捕されて豚箱から出てきたんじゃないの? 頭を丸める刑罰か。警察も粋なはからいをするね。あれ? 指は詰めなくていいんだろうか」
「三沢さんったらなんてことを言うんですかっ」
 要所が当たっている。三沢さんの勘ってどういう動きをするんだろうと悩みつつも怒ってみせると、本橋さんは言った。
「頭が暑いから剃ったんだよ」
「知恵熱ですか。これから寒い季節に向かうのに、やるんだったら春にすればいいのに。だけどさ、似合いますね。強面全開」
「似合うか。そんならいいよな」
「いいんですけど……」
 詳しい事情を尋ねようとはしないが、三沢さんは本橋さんの気持ちを読み取ろうとするかのように見つめている。ボールがなくなってしまったので三人でスタジオに戻っていくと、乾さんも来ていた。
「……お、本橋、スキンヘッドか。涼しそうな頭だね。涼しそうだけど髪がないと寂しそうでもあるから、口紅でイラストを描こうか」
「乾さん、それ、いいですね。俺、口紅持ってますよ」
 なぜに三沢さんが口紅を? と僕の頭には疑問が浮かんだのだが、本橋さんは知らんぷりをし、乾さんはさらに言った。
「イメチェンってやつ? サラリーマンだったらいきなりスキンベッドってのは物議をかもしそうだけど、俺たちは髪型なんていいよな。似合うよ、本橋」
「サラリーマンだったらいけないのか。そうか、そこまでは考えが至らなかったけど、そう言われてみればそうだな。ミュージシャンでよかったよ」
 三沢さんは大げさにも倒れてみせたけれど、冗談だったのだろう。乾さんはたいしたことではない素振りをしている。僕ほどびっくりしなくてもよかったのかな、と考えていると、どすんと音がした。
「も、本橋さん? な、なんで? なんでですか。え? あれ?」
 シゲさんはまごついているのか、手に持っていたバックを落っことしてしまっている。やっぱりこっちの反応が尋常なのだろう。シゲさんはバッグを拾い上げて言った。
「休暇の間になにか?」
「なんにもねえよ。心境の変化だ」
「そう……なんですか。だったらいいんですけどね」
「あれぇ? リーダー、失恋でもしたんですか」
 続いて聞こえてきた声は木村さん。本橋さんは苦笑いで応じた。
「女が失恋したら髪を切るって話があるよな。男は頭を剃るのか。そんなんじゃねえよ。気にすんな」
「そうですか。似合ってますね」
「酒巻もかっこいいと言ってくれたよ。シゲはどうだ?」
「はい、似合います」
 なぜ本橋さんが頭を丸めたのか、そのわけを知らないからもあるのだろうが、みんなたいして問題視はしていない。僕にしたってそのわけは上っ面を聞かされたにすぎないのだが、本橋さんもこう見えて豪放磊落ばっかりの先輩ではないんだな、と意外の感に打たれていた。
 彼をこうしてスキンベッドにさせた理由の一端を担う張本人は、どんな反応を示すのだろう。そう考えつつも、ライヴツアーやロックフェスの話をしていると、その彼女がスタジオにやってきた。
「おはよう。久し振りだね。私も燦劇の仕事はやっと一段落。え? 本橋くん?」
 頭を撫でて本橋さんは笑っている。山田さんは本橋さんをたっぷり一分間近くも凝視し、それから笑い出した。
「ミュージシャンじゃなくてアスリートみたい。本橋くん、そのほうがいい男だね。スキンヘッドがすっごく似合うんだ。素敵よ」
「そっか。ありがとう」
「俺にはパンクスに見えなくもないんですけど、アスリートって言われたらそうも見えますね」
 木村さんがコメントし、本橋さんがなにに見えるか、の話題が展開されていった。
「俺には俺の頭が海坊主にも見えるぞ」
「おー、リーダー、なかなか適格な感想ですね」
 本人は海坊主だと言い、三沢さんが切り返して本橋さんの頭をつつこうとし、アスリートだのパンクスだの高校球児だの任侠道だのと、みんなして好き勝手に言っている。山田さんは声を立てて笑っている。
 僕には本橋さんの気持ちはわからなくもないけれど、山田さんの気持ちはなんにもわからない。どうしてこうやってけらけら笑っていられるんだろう。女のひとってどこかしら魔性の生き物だったりするのかな、だなんて、ちらっと考えてみたりしていた。
 スキンヘッドショックがひとまずおさまると、休暇中になにをしていたかの話になる。シゲさんはこう言った。
「俺は恭子とほうぼうのライヴに行ったり、買い物に行ったりしてました」
「俺は作詞作曲に音楽鑑賞、映画鑑賞。のんびりすごしたよ」
 乾さんは言い、本橋さんも言った。
「幸生は旅行に行ってたんだろ。どこへ行ってたんだ?」
「こんな感じ」
 三沢さんは歌い出した。

「今夜の夜汽車で旅立つ俺だよ
 あてなどないけどどうにかなるさ
 有り金はたいて切符を買ったよ
 これからどうしよう
 どうにかなるさ」

 どこに行っていたのかの返事にはなっていないのだが、誰も突っ込まない。本橋さんはなにをしていたのか、僕は聞かされたが、他の四人は知らないはずだ。木村さんもなにをしていたのか言わないが、誰も突っ込まない。シゲさんの言葉に偽りはないだろうけど、乾さんはすべてを告げたのかどうか。
 彼らの休暇中、僕は三沢さんとは電話で話し、シゲさんと乾さんには燦劇の打ち上げをやっていた店で会っている。僕はその期間は「ビジュアル系ロックフェスティバル」の準備と実行と事後処理とに動き回っていたのだ。
 総合司会を担当したフェスティバルには、シゲさんが恭子さんとともに来てくれていた。乾さんはライヴが終わったあとで、打ち上げの店に来てくれた。そこで僕はヒデさんとの約束を破り、乾さんに彼について打ち明けた。ヒデさんとの約束は他の誰にも言ってはならない。本橋さんとの約束もだ。そうして僕の心に、持ち重りのする秘密がふえていく。
「みなさん、楽しく休暇をすごされたんですね。僕はいろいろなお礼を言いたくて来ました。フォレストシンガーズのライヴリポートも、ビジュアルロックフェスもおかげさまで成功しまして、ありがとうございました。みなさんのおかげです」
「ご丁寧に、痛み入ります」
 美江子さんが挨拶を返してくれ、本橋さんが言った。
「今日は衰えてるかもしれない喉の復活だ。歌の練習だよ。酒巻も時間があるんだったら聴いていけ」
「仕事は夕刻からですから、聴かせていただきます」
 各自の住まいでも歌の練習はしていたのか。五人で生で歌うのは数日振りなのだろうけれど、彼らの歌には衰えは感じ取れない。最初から息もぴったりで、そんなの当たり前だよね、長くやってるんだもの、と考えつつ、僕は彼らの歌に耳を傾けていた。やがて、僕が仕事に行くべき時間が近づいてくる。そろそろ失礼しようと腰を上げると、木村さんが言った。
「俺もちょっと休憩してきます。酒巻、いっしょに出よう」
 そういうことになって、ふたりしてスタジオから出た。なーんとなく悪い予感。まさかまさかまさか、と横目で窺っていると、木村さんはなにげないふうに言い出した。
「ライヴの旅先で……誰にも言うなよ。誰にも言えないんだけど、俺ひとりの胸にしまっておくには重過ぎるんだ。聞いてくれよ」
 またですか、とも言えなくて、うなずくしかなかった。
「俺の……俺のはいいんだよ。乾さんと本橋さん……ったってな、おまえは知らないんだろ。知らないからこそ、おまえにだったら話せるんだ。酒巻、おまえは口は堅いんだろうな」
「そのつもりです」
 保証はできかねますが、とも言わなかった。
「本橋さんの高校時代の後輩が、パチプロになってるとか、そのせいで本橋さんに会いたいのに会いにいけないとか、乾さんだか本橋さんだかのもとカノらしき女に会って、彼女は結婚したらしいとか、そういう話なんだよ」
「えーと、そう言われましても、僕は本橋さんの高校時代は知りませんし、本橋さんや乾さんの恋愛についても知りませんし」
「だからいいんだろ。だから、おまえにだったら話せるんだよ。俺は他言無用だの口外厳禁だのってのが死ぬほど苦手でさ」
「僕もです」
「おまえもか。酒巻、おまえさ、リーダーからなにか聞いた?」
「なんにも聞いてませんっ!!」
「否定のしようが激しすぎる。ないないなーいのないないなーい、ってのは、あるあるあーるって意味なんだぞ」
「ありません」
 そうかぁ? と疑わしげに僕を見やって、木村さんが話した。
「男のほうは俺を尾行してきたんだ。俺はそいつの話をたしかに本橋さんから聞いたんだけど、記憶がはっきりしない。でも、まちがいない。だからってどうすりゃいいのかわからなくて、ちょこっと話してそいつとは別れた。それだけだよ。もうひとり、女のほうもはっきりとは言わなかったけど、どっちかの昔の彼女なんだ。きっとそうだ。だからってどうしようもないけど、カナって名前らしいよ」
「カナさんですか。知りません」
合唱部の女性であり、本橋さんや乾さんと同年か年下だとしたら、僕はその方を知っているのかもしれないのだが、思い出せなかった。
「俺も知らないんだ。おまえも俺も知らない話をしてたってなんにもならないんだけど、胸の中にたまってた内緒話をすこしだけ外に出したらすっきりしたよ。誰にも喋るなよ」
「わかりました」
 まったく、先輩ってのはずるい。スタジオに戻っていく木村さんのうしろ姿を見送りながら、僕はぼやいていた。
 まずひとつ目の秘密は、向日葵でのできごと。星さんと金子さんと徳永さんと本橋さんと美江子さんがからんでいる。僕を含めて当事者が六人もいるのに、あれからだいぶたった今日、本橋さんがほんのひとこと口にしたのみで、あとの先輩たちはまったくその事実に触れようともしない。星さん以外の先輩たちとは顔を合わせているってのに。
 星さんと金子さんと徳永さんと僕が四人でいて、そこに美江子さんがあらわれて、そこまではまだよかった。そこに本橋さんまでがあらわれたから話がややこしくなったのだ。本橋さんのスキンヘッドは、そこからつながっているのだとは僕にもわかる。
 もうひとつは、それこそひとりで抱えているには重すぎて、死にそうになりかけていた秘密。神戸の酔っ払いカモメで会ったヒデさん。それだけは乾さんに半分重荷を押しつけたのだが、乾さんの肩にはどうのしかかっているのか、その後は乾さんとも話していない。
 今日は今日で、本橋さんと木村さんに秘密の一端を打ち明けられた。その全部に関っているのは「先輩」だ。年下の僕に先輩たちってのはなんだってこう……重い、重すぎて倒れそう。倒れないように必死で踏ん張って歩いて、仕事場に到着するのに膨大な体力を要した。
 本日の仕事は、沢田愛理さんが勤務するラジオ局での番組収録だ。仕事は格別なにごともなく終了し、沢田さんも仕事が終わったとかで、ふたりで食事に行った。
「フォレストシンガーズも休暇が終わったんだってね。政令指定都市ツアーだと東京ではライヴはやってないんだから、次は東京?」
「そのようですね。東京のファンのみなさんは、不公平だよ、って言ってらっしゃるようですから」
「千葉や横浜や、東京近辺のライヴもあったけど、東京そのものでやってもらわないと不満なのよね」
「そうなんでしょうね。しかし、ファンの方は本橋さんのあの頭を見たら……」
「頭って?」
 うぐっと口を押さえそうになったのだが、本橋さんはあの頭で人前に出るのだろうから、沢田さんが知るのは時間の問題だろう。言ってもかまわないはずだ。
「本橋くんがスキンヘッド?」
「そうなんですよ。僕は休暇明けの先輩たちにお礼に行きまして、部外者としてはトップに見たんだと思います。仰天しちゃったんですけど、お似合いでした。あれって本橋さんのけじめなのかな」
「けじめってなんの?」
 スキンヘッドは言ってもいいのだろうが、けじめとまでは言ってはいけないではないか。今度こそうぐぐっと口を押さえると、沢田さんは目で僕を脅迫した。続きを言いなさい、であろう。
「聞かないで下さい」
「なんにも聞いてないけど、なにを焦ってるの? 私には言えないの?」
「沢田さんではなくても、誰にも言ってはいけない……嗚呼、僕の馬鹿」
「馬鹿じゃないよ。酒巻くんはとってもいいひと。話して」
 甘く優しく脅迫されては、僕はお手上げだ。ここだけの話ですよ、と前置きして、発端へと遡っていった。
「沢田さんは星さんをよく知ってらっしゃるんですよね」
「星さんって合唱部の? 星丈人さんだよね。よく知ってるってほどでもないけど、過去の話だからいいか。美江子ちゃんの……んんと、なんて言えばいいんだろ。聞きたい?」
「よろしければ」
「美江子ちゃんには言わないほうがいいのかな。過去も過去って話だけど、美江子ちゃんは知らないんだろうから、言わないほうがいいよね。言ったら駄目よ」
 またまたまた……僕が打ち明け話をするはずが、なんでこうなるんだか。だが、僕としても星さんと美江子さんの過去をよくは知らないので、黙って聞いていた。
「星さんの昔の彼女っていうのを、私は知ってるの。ひとりだけだけど、たぶん何人もいたのよ。星さんってあのルックスなんだし、女あしらいは手馴れたものっていうのか、もてて当然だったんだけど、そんな男であろうとも、恋は盲目」
「美江子さんがですか」
「そうよ。そんな感じだった。美江子ちゃんと星さんがつきあってたころも私は知ってる。あ、酒巻くん、ショック?」
「いいえ。過去ですから」
 それって僕が美江子さんと知り合う前の出来事のはず。今さらショックなんて感じない。感じないはずだ。
「美江子ちゃんはほんとにほんとに、星さんを盲目的に愛してた。私にはそんなふうに見えたな。なのに、星さんは卒業するからって美江子ちゃんを捨てたの。美江子ちゃんはけなげにも耐えていたけど、あの強い女の子が一時はげっそりしちゃってたよ。けっこう長くひきずってるようにも見えた。今でもたまにそのころの思い出話が出ると、美江子ちゃんは言うの」
 大学時代にもその後にも、何人かの男と恋をした、だけど、私の心に強く残っているひとは彼だけ。「昔、好きだったひと」としてだけど、いまだに残ってるんですよ、なのだそうだ。
 美江子さんのその後の恋ってのは、僕も含めて? ううん、きっと僕は数には入っていない。そうだとするとショックもなくはないけれど、そうなんだったら仕方ないじゃないか。その彼って誰だかわかる? と沢田さんは、彼女のほうこそ切なそうな顔をした。
「星さんなんだろうな。はじめてのひとってそういうものかな。半ばは私の勝手な想像だけどね」
「金子さんや徳永さんは?」
「金子さんは美江子ちゃんが好きだったのよ。徳永くんはどうだったんだか知らないけど、徳永くんも関係あるの?」
「徳永さんはこの際、どけておいてもいいと思います。少なくとも今回のスキンヘッドには関りないでしょう、たぶん」
「そこから本橋くんのスキンヘッドとどうつながるの?」
 どうつなげようか。困った。
「いえね、それでね、本橋さんがね……なにかがどうかしてどうにかなって、星さんや金子さんに喧嘩を売ったんだそうです。先輩ってのはずるいでしょ。いくら本橋さんだって、本橋さん以上に身体が大きくて強そうで、立場も上の星さんと金子さんのふたりがりではかなうわけもなくて、水をかけられて殴られて負けちゃったんだそうです。そしたら本橋さんが悪いんじゃないのに、喧嘩を売ったのは本橋さんだからって、けじめをつけなくちゃならないからって頭を剃ったんだそうですよ」
 一気に言うとぐったりして、うなだれた僕を、沢田さんは丸い目で見つめていた。
「沢田さん、カナさんって誰ですか」
 もののついでに質問すると、沢田さんはあっさり答えてくれた。
「合唱部のカナちゃんだったら知ってるよ。吉崎香奈ちゃん。私よりひとつ年下の、乾くんが一年生のときの恋人。カナちゃんもそこにからまってるの?」
 ならば僕も会っているのだろうが、覚えていない。女子部の先輩は美江子さんしか覚えていないのでもないのだが、美江子さんとの思い出が強烈すぎるのか。質問の答えを待っている沢田さんに、僕は首を振ってみせた。
「いいえ、全然」
「そしたらなによ?」
「ふっと頭に浮かんだ名前です。それだけです」
 疑わしそうに僕を見て考え込み、しばらくしてから沢田さんは言った。
「喧嘩になった事情は、酒巻くんも知らないの?」
「知りません」
「本橋くんが喧嘩を吹っかけたのか。彼だったらやりそうだけど……酔ってたのかな。あの本橋くんが酔うとどうなるのか……まさか美江子ちゃんを取り合って?」
 ぎくぎくっのぎくっ。三沢さんも喧嘩というひとことをなんのヒントもなしで口にしたのだが、沢田さんの推測は核心に切り込もうとしていた。
「本橋くんも美江子ちゃんが好きなの? そうじゃないかとは思ってたんだよね。星さんにしたって金子さんにしたって、本橋くんにしたって、美江子ちゃんとは長い長いつきあいじゃないの。星さんと金子さんは過去だけど、本橋くんは現在進行形か。それでもって、どこかで三人で飲んでて、そんな話になったのよ。美江子ちゃんの心には星さんがいる。金子さんの心には美江子ちゃんがいる。だからじゃないの?」
「だからと言われましても……僕には……」
「美江子は俺のものだ、って本橋くんが宣言して、あんたたちは美江子を忘れろって、そこで喧嘩になった。あの三人の喧嘩だったら……うわぁ、すごすぎ。どこで喧嘩したんだろうね」
 向日葵であるようだが、沢田さんはあの店を知っているのだろうか。僕が口をはさむ間もなく、沢田さんの想像が核心に触れつつ拡散していった。
「大きいよね、三人とも。私は星さんには長く会ってないけど、昔のまんま? 太ったりもしてない? 三十すぎたんだから老けてはいる? 老けるほどの年でもないか。そしたらあのまんま……すごぉ。あの三人が格闘? 死闘? ちょっと、金子さんは大怪我しなかったの?」
「そこまでは……ないと……」
「誰がいちばん強いの? 金子さんと星さん対、本橋くんだったの?」
「そのようですが……」
「だったら、本橋くんにもかなわないよね」
「僕は最初にそう言いましたが……」
 なんとか口をはさもうとしても、沢田さんはいささか興奮の面持ちで話し続けていた。
「そうすると、金子さんは怪我はしてないのね。よかった。私は星さんはそんなによくは知らないし、金子さんだって真実の姿なんて見せてくれないから、男同士でなにをやってるのかは知る由もないのよ。でもね、金子さんって強いんだと思う。絶対に強い。あの体格の男が弱いはずはないけど、金子さんは精神的にも強いんだもの。大きな大きな男に脅されたって怯んだりしなかった。私はそういうところだったら見てたから知ってるの。金子さんは私を守ってくれたの。金子さんだったら本橋くんと一対一だって負けないよ。負けるはずないけど、本橋くんが金子さんに暴力をふるったりしたら……許せない。そんな奴は頭を丸める程度では許さない。頭を丸めたついでに出家しなさい」
「あのぉ、沢田さん、落ち着いて下さいね」
「落ち着いてられないのよ。酒巻くんは金子さんに会ったの?」
「それからですか。会ってません」
「そしたらやっぱり……」
 突然立ち上がって、沢田さんは駆け出した。
「沢田さんっ、どこに行くんですかっ」
「決まってるでしょ。金子さんの無事を確認してくるのっ」
「金子さんのマンションに? いきなり行ったりしたら……」
 走っていく沢田さんを追いかけて、レストランの戸口のところでようやく止めた。
「ちょっとだけ待って下さいね。支払いしますから」
「私が払う」
「僕が払います」
「四つも年下の後輩におごってもらうわけにはいかないのよ」
 食事の途中だったのを思い出したのか、沢田さんはレジの女性にはにこやかに言った。
「ごめんなさいね。急用ができたんです。今夜はこれで……おいくらでしょうか」
 レジの女性もにこやかに応対し、支払いがすむと、沢田さんはいくぶん気を落ち着けた様子で外に出た。僕ももちろんついていった。
「沢田さん、せめて割り勘にしてもらえませんか」
「お金はどうでもいいのよ。いきなりマンションに行ったりしたら?」
「金子さんは帰ってらっしゃらないかもしれませんよ」
「そうじゃなくて、女がいるんじゃないの?」
「そこまでは僕は存じません」
「知ってるくせに」
「知りません」
 いったいどうするつもりなのか、沢田さんはとぼとぼ歩き出しながら言った。
「いいのよ。そうだとしてもいいの。いつもいつも言ってるよね。私は金子さんの単なるファンなんだから、他に女がいたってへっちゃら。スターにスキャンダルはつきものだし、そんなんでショックを受けるほど純情でもないわ。そうでなくっちゃ、金子さんが好きだなんて思っていられないんだから……」
 これはとっくに知っていたけれど、沢田さん自身の口から聞くのはたぶんはじめてだ。ほんとにほんとにほんとにもう、先輩ってのはみんなみんな、僕のちっちゃな心を混乱ばかりさせてくれる。僕はどうすりゃいいの? そんな気分で見つめていたら、沢田さんはぽろぽろっと涙をこぼした。
「う……沢田さん、待ってて下さいね。金子さんに電話しますから」
「しなくていい」
 しなくていいと言われても、こうなったら金子さんにすがるしかないではないか。僕は携帯電話を取り出し、登録してある金子さんの番号を呼び出した。


2

 いつだったか、似た光景があった。沢田さんとごはんを食べてお酒を飲んでいたら、酔っ払った沢田さんが言い出したのだ。金子さんのマンションに連れてってよ、と。
 あのころの金子さんには恋人がいて、僕はそのひとについてもよくは知らなかったけれど、そんな金子さんのもとに沢田さんを連れていくわけにはいかない。どうにかして沢田さんをなだめて帰らせようとしたのだが、僕ではどうにもならなかった。
 電話をしたら金子さんが駆けつけてくれて、まともに歩けない沢田さんを抱き上げて運んでくれた。沢田さんは僕よりも背が高くて、まちがいなく体重も多いだろうから、僕ではその行為は断じてできない。金子さんは軽々と沢田さんを抱いて歩いていた。
 ああ、僕もこんなふうに背が高くて力があって、酔って歩けなくなった女性を抱えて送ってあげられたらな、だなんて、やるせない気分で金子さんのあとからついていったのを思い出す。
 タクシーに三人で乗って金子さんのマンションに行ったら、金子さんの恋人はいなかったので安心した。安心はしたものの、沢田さんになにやら当り散らされて、僕はますます困り果てた。しまいに金子さんが沢田さんを叱りつけ、沢田さんが泣いて、僕はもっともっと困った。いっしょに泣きたくなって、僕も金子さんに叱られた。
 困ってばかりいたあの夜の僕は、こんなだから僕はもてないんだよな、沢田さんの言う通りだよな、とも考えていた。金子さんのような男になりたい。金子さんが無理だったら、せめて三沢さんのようになりたい。僕はいつになったら、一人前の男になれるんだろう。
 何度決意したんだろう。僕はもう二度と泣かないと。なのに、困った事態が起きたらべそをかいて、こんなんじゃ一人前の男以前に、一人前の人間でもありゃしない。そのようなことを、後日、会ったときに沢田さんにも言った記憶がある。すると、沢田さんはこのように応じた。
「この間の夜ってなにかあった? 忘れちゃった。酒巻くんも忘れたらいいのよ」
「そうしたほうがいいですか」
「そうして。でも、一人前の男か。一人前の男と一人前の女ってどっちが上なの?」
「どちらが上か下かってものではないでしょう」
「いい答えだね。だけど、一人前の男の金子さんは、半人前の女の私より上なの。上なんだから……駄目だな。私、ますます……」
 だから知っている。その前から知っていた。沢田さんは金子さんに恋してる。その形は妙に屈曲しているようにも思えるが、恋であるのはまちがいないだろう。半人前以下の僕にはむずかしすぎる恋だとしても。
 僕が彼らと出会うずっと前から、沢田さんと金子さんは合唱部の先輩と後輩として、それだけではないつきあいを続けてきた。僕も双方からちらほらと話を聞いて、想像もまじえて考えていた。これは沢田さんの片想い? 金子さんは気づいていない? 
 それとなく尋ねても、金子さんにははぐらかされる。彼が実際にはぐらかしているのかどうかがわからなくて突っ込むと、叱り飛ばされる。沢田さんには質問できない。金子さんはああいった男であるのだから、あなたが告白すればいいのに、とは言えないではないか。
 けれど、今日こそははっきりさせたい。僕にはなんの関係もないのだとしても、こんな沢田さんを見ているのはつらすぎる。金子さんが来てもいいと言ってくれたので、沢田さんとふたりで彼のマンションに向かうタクシーの中で、僕は決意していた。
「いらっしゃい。どうぞ」
 ドアを開けた金子さんを見上げてから、沢田さんは手を伸ばして彼の頬に触れた。
「怪我はしてないの?」
「怪我? なぜ?」
「本橋くんがスキンヘッドになっちゃったわけを、酒巻くんに聞いたの。喧嘩したんでしょ?」
「本橋がスキンヘッド? あの馬鹿たれが……とにかく入って」
 当然のごとく、金子さんはほぼすべてを察したのだろう。僕が本橋さんから聞いた話を、こうなればおよそ全部、沢田さんも補則してくれてかわるがわる話し終え、最後に沢田さんが言いかけた。
「……金子さん、私が無理やりせがんだのよ。酒巻くんを叱らないで……きゃっ!!」
 ぎろっのばしっ、で僕は吹っ飛んだ。
「金子さん、ひどい。そんなのないじゃないのっ」
 抗議してくれる沢田さんには目もくれず、金子さんは僕を抱え上げてベランダに放り出した。
「おまえはあいかわらず殴られると泣くのか。泣き止むまでそこにいろ」
「……泣いてませんから、ごめんなさい。泣きませんから」
「それではまるっきり、親に叱られてるガキじゃないか」
「僕、実の父親には叱られるってこともほとんどなくて、叩かれたりベランダに放り出されたりなんて、いっぺんもされたことがないんですよ。そのせいでこんなに情けない……そうなんですか」
「本格的に泣き出したか。そこで泣いてろ」
 涙がこぼれると止まらなくなって、子供みたいにベランダでしゃくり上げていた。ガラス戸は半分開いていたので、沢田さんと金子さんの会話が耳に届いてくる。沢田さんは僕のために怒ってくれていた。
「あいかわらずってなに? 前にも殴ったの?」
「殴ったよ。あいつは男だ」
「男も女もないでしょ。人間として暴力はいけないんじゃないの?」
「それは建前。いいんだよ」
「先輩が後輩を殴るなんてシャレにならないんでしょ」
「シャレで殴ったんじゃないからいいんだよ」
「本橋くんだったらね、本橋くんだったら……金子さんに殴られたってどうってこともないかもしれない。でも、酒巻くんなんだから。酒巻くんは……私も泣けてくる。私は泣き虫だよ。私はいいの?」
 いいんですよぉ、僕が悪いんですから、そう言いたくて言えなくて、僕は心のうちで誰にともなく言い訳していた。
 なにも殴られたから泣いてるんじゃない。僕だってそこまでの子供じゃない。ただ、自分が情けなくて悔しくて、涙が止まらないんだ。こうして泣いてる自分が悲しい。悲しいとよけいに泣けてくる。悪い連鎖ばっかりだ。僕はどうしてこんなに……悔しいのと悲しいのがごっちゃになって泣き続けている僕の耳には、沢田さんが泣きながら訴える声が聞こえていた。
「酒巻くんは小さくて、優しくて……悪いのは私なのに、私が話してって頼んだからなのに……あんなのひどすぎる。ひどすぎるよ」
「きみが泣くのはいいんだけど、冷静になって考えてごらん。酒巻は男だよ。男の酒巻が女のきみにそんなふうにかばってもらったらむしろ?」
「金子さんって性差別主義者なのね」
「そうだよ」
「そうだよって……ちがうって言わないの?」
「ちがわないから」
 ふっと沈黙が降り、しばしののちに金子さんが言った。
「酒巻、悔しいんだろ。悔しいんだったらやってみろよ。おまえがやってみたいことはわかってるよ。本橋のように、やってみろ」
「それで、僕もスキンヘッドになるんですか」
「いいんじゃないのか」
 やめなさい、と沢田さんは僕を睨み据えた。
「なにを言ってるのよ。暴力に暴力で対抗したら、酒巻くんも金子さんと同類になっちゃうよ。金子さんってそんなひとだったんだね。ごめんね、酒巻くん。帰ろう。二度とこんなところに連れてきてなんて言わないから。ごめんね、ごめんね、帰ろう」
「僕ねぇ、僕、先輩に殴られるたびに、身長が一ミリ伸びる気がするんですよ」
「殴られて泣くと二ミリ縮むぞ」
「……あ、そうですね。一ミリ伸びて二ミリ縮んでたら、殴られるたびに一ミリ縮むんだ。そしたら、そのうち消えてなくなりますね。そうするとやはり、殴られるのは避けたいな。そうは言っても僕が悪いんですから、沢田さんにごめんねなんて言っていただく必要はないんですよ」
 沢田さんの頬にも涙がこぼれていて、彼女の泣き顔を見ていると次第に落ち着いてきた。
「金子さんはそんなつもりで僕を殴ったんですよね」
「そんなつもりって? おまえを殴ったのは罰だよ」
「口の軽い罰ですか。それもあるんでしょうけど、じゃあ、本橋さんを殴ったのは?」
「酔いを醒まさせて冷静にならせようとしたのがひとつ。あとのひとつは言いたくない」
「そこんところが、金子さんと僕の大きな差です。僕は自分の重荷をひとに預けたくて、言ってはならないことを口にしたんです。本橋さんには、誰にも言わないって約束したのに……」
 もひとつおまけに、ヒデさんとも……いや、これだけは絶対に、他の誰にも言わないでおこう。もはや手後れなのかもしれない、とは考えないでおこう。
「だって、私が話してって言ったからだよ」
「そうだとしても、です。秘密を守るっていうことも、約束を守るっていうことも、人間として大切な信義ってやつでしょう? 男だ女だじゃないんです。僕は人間としてしてはいけないことをした。それで金子さんに叱られて、そんなんで泣いて、そっちは男としてなっちゃいないんですね。でも、本橋さんのようなふるまいは無謀ですからやめておきます。金子さん、中に入っていいですか」
「戸は開いてるんだから、入りたかったら入れ」
「はい。もう泣きませんから」
 部屋の中に入って、沢田さんと並んでソファにかけた。金子さんはタオルを二枚持ってきて、それぞれに手渡してくれた。
「それでね、酒巻くん、さっきは私、かなり無茶苦茶言ったような気もするんだけど、酒巻くんの考えではどうなの?」
「美江子さんですよねぇ。金子さんはどう考えてらっしゃるんですか」
「愛理ちゃんの考えってのは?」
「整理してみると……」
 考えをまとめようとしているらしき沢田さんは、ややあってから言った。
「私は美江子ちゃんから直接聞いた覚えがあるの。過去に恋をしていたひと、とただし書きをつけた上で、星さんを忘れてはいないと言ってた。星さんだと明言はしなかったけど、星さんなんだと私は思った。美江子ちゃんの中での星さんがどれほどのウェイトを占めてるのかは知らないけど、完全に過去のひとではないんじゃないかな。星さんの中ではどうなの?」
「星さんはいいんだよ。続けて」
「星さんはいいの? 星さんの気持ちには関知しなくていいの?」
 いいんだ、と金子さんはきっぱり言い、沢田さんはさらに尋ねた。
「金子さんはどうなの?」
「俺はたしかに、一時は美江子さんを好きだったよ。好きだった」
「過去ってわけね」
「まぎれもなく過去なんだけど、美江子さんにも言われるんだけど、俺も悪いな。言ってしまおうか」
 は? と沢田さんとふたりしてきょとんとすると、金子さんは苦笑を浮かべた。
「時としてよくない冗談をやる。俺の悪い癖なんだそうだ。美江子さんはそう言う。まちがってはいない。そのせいで本橋に誤解されている。俺は一時は美江子さんを好きだと感じていて、彼女に告白もしたよ。彼女は俺の告白を蹴った。こんな男と恋人同士になったらろくでもない末路を迎えると、女の勘とでもいうのか、直感で見抜いていたからだとも考えられる。俺はそういう男なんだよ。要するに、こんな男が美江子さんのような真面目なひとを、結果的にはからかったような格好になった。俺はおまえを叱責できるような男じゃない。酒巻、あまり俺を過大評価するな」
「……そう言われましても……それってなにか……ええと……」
「なんだよ、もがもがと」
 はっきりさせたい、沢田さんの想いと金子さんの想いを明確に知りたい。僕の想いへの答えが、金子さんの今の台詞なのだろうか。沢田さんの想いは知っているつもりだが、金子さんの想いはこう? そんなのって……僕にはやっぱりむずかしすぎる。
「言いたくはなかったんだけど、こうなったら多少は言うしかないか。星さんは本橋の背中を押してやろうとしたんだよ。あとは本橋次第だ。美江子さん次第でもあるが、美江子さんが本橋じゃ駄目だと言うんだったら、それはもうどうにもならないだろ」
「あとは当人同士次第?」
「そうだよ、愛理ちゃん」
「金子さんってすっごく悪い男?」
「そうかもな」
「俺って悪い奴なんだ、ってかっこつけてるんだね。むらむらと腹が立ってきた。ほんとにそうじゃないの。それでよくもまあ、先輩面して酒巻くんをひっぱたいたりできたものよね。それとこれとは話しが別だなんて言ったって、聞いてあげないから」
「言わないよ」
「……金子さんって……金子さんって金子さんって……」
「どうぞ」
「なにが? なにを? いやです」
 どうぞ? いやです? ええ? ええっ、ええっ、ええーっ!! 中腰になってうろたえている僕の手を、沢田さんが強く引いた。
「酒巻くん、帰ろう」
「え? えとえと、あのあの……」
「捨て台詞を発したいんだけど、なにを言ったら効果的なのかわからないのよ。私って……金子さんって……ううっ、憎たらしい。帰ろうよ、酒巻くん」
「ええと……そのほうがいいんでしょうか」
「金子さんにお伺いを立てなくてもいいの。帰るのっ!!」
「はいっ」
 ゆったり微笑んでいるようにも、なにか別の感情が漂っているようにも見える。金子さんはそんな不思議な表情で言った。
「酒巻、ちゃんと愛理ちゃんを送っていけよ」
「わかりました。おやすみなさい。お邪魔しました」
「うん」
 沢田さんは挨拶もせず、僕の手を引っ張って外に出た。外に出ると、ほーっと大きく息を吐いた。
「捨て台詞としては、大嫌いっ!! って叫びたかったのよね。だけど、大嫌いじゃないんだもの」
「はあ、やはり……」
「知ってるんだよね、酒巻くんは。そうよ。やはりなの。金子さんのあの、率直なんだかわけがわかんないんだかもわからない、あの奇妙な言動に幻惑されてる。きっとそうだろうと思うんだけど、私は昔からずーっと彼に幻惑されっぱなしだから、今さらもうどうにもならないのよ。あれってかっこつけてる言動なの?」
「さあ、どうでしょうか」
「酒巻くんにもわからないんだね。でもでも、ああやって叩かれたり、自分を棚に上げて叱ったりされて、それでも酒巻くんは金子さんを尊敬してるの?」
「してます。心から」
「……酒巻くんと私って同類なのかも。私は尊敬してるわけじゃないけど……」
 尊敬じゃなくて、恋心? みなまで言ってはくれなくても、そうでしかないはずだ。
「どうぞって金子さんが言ったのは、ひっぱたいてもいいよって意味だったんだよね。できるものなら思い切りひっぱたいてやりたかった。そうしたとしたら……そうしたとしたら……私、どうなっちゃったんだろ。彼の胸に……ううん、そんなんじゃない。わかんないよぉ」
「沢田さん……」
 両手で目の下をごしごしこすってから、沢田さんは僕ににっこりしてくれた。
「すこおしちがって、すこおし同じ、酒巻くんと私は、金子さんをはさむとそうなるんだね。親近感沸きまくりだよ。帰ろう」
「はい」
 手をつながれて一瞬どきっとしたものの、そのまま歩いているうちに、どきどきではなくほかほかあたたかくなってきた。金子さんがお父さんだったら、沢田さんはお母さんなんだろうか。ソウルマザーとソウルファザーか。そうなのかもしれない。
 そうして歩きながら考えた。今夜は話があちこちにそれていったりはしたけれど、結論は出たではないか。本橋さんと美江子さんに関しては当人同士次第。本橋さんのスキンヘッドは馬鹿たれ。沢田さんの気持ちは、金子さんがたとえどんな男であろうとも揺るがない。一時的に揺れはしても、最終的には「私は金子さんが好き」の位置で止まる振り子なのか。
 金子さんに関しては僕も同じだ。彼が清廉潔白謹厳居士なんて男じゃないのはとうに知りつくしているし、勝手でずるい先輩なのも承知の上で、僕は彼が好きだ。好きなものはどうしようもない。むろん僕の気持ちは沢田さんとは非なるものではあるけれど、僕はこんなにも金子さんを好きなのだと改めて認識したら、沢田さんの想いもすこしはわかる気がした。
 あとふたつ、みっつ、僕の肩には「秘密」という名の重荷が乗っかっている。ひとつずつ解決していかなくてはいけない。木村さんが言っていたカナさんとやらの本名と、乾さんの昔の彼女だということが判明したのを思い出したが、それについてはあとで考えよう。
 本橋さんの後輩さんなんてのは、僕が考えても意味もない。そうすると、どうしたって最大の問題はヒデさんだ。乾さんはどうするつもりだろう。
「今夜は金子さんにかなりきつく叱られましたけど……」
「あんなの、気にしなくていいのよ。金子さんって身勝手なんだから」
「はい、そうなんですけどね」
 だけどだけど、私は金子さんが好き、なんでしょ? と沢田さんには言わず、僕は心で言った。やっぱり頼りになる先輩の両先鋒は、金子さんと乾さんなんだな。荷物の重さを軽減してもらえたのだから、殴られたのなんてものの数でもない。そういうことにしておこう。
 タクシーに乗って沢田さんを先に送り届け、僕もアパートに帰りついて、ものの数でもないけど痛いなぁ、とほっぺたをさすりつつ、電話を取り上げた。
「……乾さん? 留守ですか」
 応答は留守番電話だ。僕はこほんと咳をしてから話した。
「乾さんの結論は出ましたか? 酔っ払いカモメの件、お返事をお待ちしています」
 ヒデさんの名を出すと、他人が留守電を聞いた場合にまずいことになる。そこでそう言ってから、よけいなひとことをつけ加えてしまった。
「金子さんに……あっと、これは……あっと……ちがいますから。そうじゃなくて……えと、失礼します。よろしくお願いしまーす」
 留守電に吹き込んでしまうと消せないではないか。なんだって金子さんの名前を出すんだよ。ほんとにまったく僕の馬鹿。乾さんのマンションに行って留守電を消してくるってのは可能だろうか。くよくよしてしまっていて寝付かれないでいると、夜中に玄関のチャイムが鳴った。
「金子さんがどうした?」
「……乾さん、いえ、あれは口がすべったと言いますか、入って下さい」
 出先で留守電の内容を聞いたのだそうで、帰らずに僕のアパートに来たのだと言いつつ、乾さんは部屋に入ってきた。言ってしまった金子さんの名前をどうごまかそうかと悩んでいた僕は、乾さんに正面から見据えられて、より以上によけいなひとことを発した。
「吉崎香奈さんって覚えてます?」
「香奈さんがなにか?」
「……乾さん、怖い。なにを察してるんですか」
「なんにも察してないから聞いてるんじゃないか。金子さんと香奈さんとヒデがどこでどうつながるんだ」
「つながりません。三つとも別件です。香奈さんって名前は……ええと、金子さんと沢田さんと三人で食事をして、そのときに聞いたんです。そうです。それでね、乾さんの昔の恋人だって……」
「そうだよ。そうなんだけど、なんだかしどろもどろしてるな」
「ええとええと……香奈さんがご結婚なさったと……」
「……そうなのか」
 これで僕がしどろもどろの弁解になったのだろうか。ますますしどろもどろになりそうな僕に向かって見せた乾さんの表情は、さきほどの金子さんの不思議な微笑みに似ていた。
「そうか。ま、いいさ。でな、例の件だけど」
「ヒデさんの?」
 聞いている者はいないはずだが、ふたりともに声をひそめていた。
「俺も神戸に行きたいとも思ったんだけど、俺が行くとヒデの態度が硬化する恐れはおおいにあるだろ。おまえがヒデを説得してくれ。説得といってもあからさまにじゃなくて、ヒデをその気にさせるように持っていくんだ」
「シゲさんが僕の番組に出てくれる日に、ヒデさんがシゲさんに会いにいってくれるように、ですね」
「おまえも口で仕事してるんだろ。その口で食ってるんだろ。できるよな」
「自信はありませんけど……うわわ、どうしよう。脚が震えてきました」
「それ以外の方法は思いつかないんだ。酒巻、頼む。この通り」
「……乾さん」
 深々と頭を下げられて、僕は焦って言った。
「頭を上げて下さい。僕にできる限りの努力はしますから」
「駄目だったとしてもおまえのせいじゃないんだから、そんなに深刻に考えるな。だからといって軽く考えてもらっても困る。努力してくれ」
「わかりました」
「香奈が結婚したって誰に聞いた?」
「木村さん……わっ!!」
 不意打ちはずるいよーっ!! と叫びたくなった僕に、乾さんはウィンクしてみせた。
「さしずめ、章が香奈とどこかで会ったんだな。章には言わないよ。そうか、そうだったんだ。本橋のスキンヘッドは?」
「うっ……知りません」
「そうか? そんならいいよ」
 一度ならず二度までは、その手は食いません。けれど、僕がなにか知っていると乾さんは当たりをつけているのであろう。僕の口も迂闊だが、乾さんの洞察力ってのは聞きしに勝る。あるいは金子さん以上か。
「酒巻、その顔はどこかにぶつけたのか」
「え? あ、ああ、そうです」
「気をつけろよ」
 またもや口をすべらせるところだった。僕の頬を見つめてなにかしら読み取ろうとしているそぶりの乾さんは、すさまじく恐ろしい。
 頼りにもなるけど危険でもある先輩ふたりのおかげで、僕は寿命が縮まったり、身長が縮まったり、肩の重荷を肩代わりしてもらえたりして、嬉しいような悲しいような……追求されたら負けてしまいそうな……が、乾さんはそれ以上は尋ねず、僕に再び頭を下げて、頼んだよ、と言い残し、さっさと帰っていってしまった。


3

 二十八年生きてきて、恋愛経験は皆無ではないつもりでいた。二度目のさっちゃんとは恋人同士として交際したのだと言ってもよいだろうが、考えてみればあとは片恋だったのではなかろうか。
 一度目の美江子さんだって、僕の一方通行の想い。三度目の映子さんには一瞬でふられた。四度目のチャミさんは、いいなぁ、素敵だなぁ、つきあって下さい、って言えるかな、言ったとしたら承諾してもらえるかな、これって恋? そうみたい、と気づいたころに、彼女のほうからお誘いがかかった。
 生まれてはじめて、女性から告白してもらえるんだろうか。胸ときめかせて待ち合わせたカフェに出かけた。年齢も本名も知らないのだが、チャミさんは声優で、少年声を得意としている。見た目はごく普通の小柄な女性で、年下だとしても年上だとしても、僕と年頃に差はないはずだ。
「酒巻さんってフォレストシンガーズのみなさんの、大学の後輩なんだってね?」
「そうですよ。木村さんとは学生時代はすれちがいでしたけど、他の四人の先輩にはお世話になりました」
「合唱部だっけ? フランさんに聞いたよ。フランさんはフォレストシンガーズのひとたちはあまり知らないって。酒巻さんに聞いたら? って言われたから誘ったの」
 フランさんも声優で、チャミさんの先輩に当たる。映子さんもフランさんの友達だった。
「チャミさんはフォレストシンガーズのファンなんですか。後輩の僕としても、そう言ってもらえると嬉しいです」
「どんな先輩だったの?」
「本橋さんは僕が合唱部に入部した当時のキャプテンで、きびしさもあたたかさも併せ持つ先輩でした。そのころの僕は子供でしたから、ただただおっかなくてびびってたんですけど、立派なキャプテンでしたよ。乾さんはその当時の副キャプテンで、本橋さんがおっかない分、ソフトタッチに後輩と接してくれていました。シゲさんは不言実行型に見えました。実際は無口でもないんですけど、照れ屋さんなんですよ。三沢さんはシゲさんとは反対で、有言実行型ですね。口を超高速回転させながら、頭も超高速回転させるんです」
 もしもあなたと僕が恋人同士になったら、もっともっと彼らを深く知ることができますよ。恭子さんがシゲさんの奥さんになって、フォレストシンガーズを深く知り、私の夫は素晴らしいひとたちの仲間なんだと認識を新たにさせていったように、あなたもそんなふうになりますよ。
 そう言うべきだろうか。だが、それではフォレストシンガーズをダシにして、彼らのファンだと言うチャミさんを口説いているようで気が引ける。
 ただいま、フォレストシンガーズは全国ライヴツアーの真っ只中。僕は千葉でのライヴのリポートをやるんです、いっしょに行きましょうか、と言おうか。それでもフォレストシンガーズをダシにしているのは同じか。僕が迷っていると、チャミさんは言った。
「フォレストシンガーズの歌は好き。あのハーモニーもソロでの歌も最高だよね。紹介してくれる?」
「ライヴはまた格別ですからね。フォレストシンガーズのライヴは……」
「ライヴは聴いたことはないんだけど、それよりも前に、乾さんに個人的に紹介してほしいのよ」
「乾さんですか」
「そうよ。乾さんってすらっと背が高くて、顔立ちも優しそう。心の中も優しそう。考えが深くて思いやりがあって、女心もわかってくれるひとなんじゃない? ああいうひとと恋人同士になったら、幸せになれるだろうな」
 そうか、乾さんですか。うつむいている僕の想いも知らぬげに、チャミさんは続けた。
「私は細身で背の高い男のひとがタイプなの。私は小さいんだけど、小さいからこそなのかしら。ふたりで歩いて彼の顔を見上げて、うんうん、そうだね、って話すの。その顔が乾さんだったら最高に幸せ」
 ねえ、三沢さん、女のひとの趣味ってこんなのばっかりかな。細身かがっちりしているか、そのいずれにしても、背が高い、っていうのが絶対条件なんだ。それでも三沢さんはもてるみたいなのに、僕と三沢さんの差は何処に? 精神力か。
 すでにふられたというのか、ふられる以前の問題だというのか、現実から目をそらしたいのもあって、僕は心で三沢さんに話しかけていた。
「紹介してくれる、酒巻さん?」
「はい、機会があれば」
 食事をしている間も、チャミさんは乾さん、乾さんばかり言っていた。
 その後に千葉で乾さんと会ったのだが、あの日は僕も忙しくて、「ビジュアル系ロックフェスティバル」が終了し、燦劇の打ち上げをやっていた店で、乾さんにチャミさんに頼まれた件を話した。話していたら自然に愚痴がこぼれた。
「……ふられてばっかりですよ、僕。子供っぽすぎる、昔の彼女と較べないで、高校生じゃあるまいし、私、乾さんが好きなの、四度のふられ文句をみんな覚えてるんです。忘れたいよぉ。どうしたら忘れられるんですか」
「人は悲しい生き物です。忘れたいのに忘れられなくて、澱のようにたまっていく追憶が、夜毎胸を噛む。人は哀れな思い出の虜囚」
「なんですか、それはっ」
「詩だよ」
「……詩になんか逃避してないで、現実を見て下さい」
 怒ってみせてはいたけれど、人は哀れな思い出の虜囚、なんていうフレーズが哀しく胸に迫っていた。
 そんななのだから、四度の恋のうちの三度までは僕の片恋だったのだ。二十八年も生きてきて恋愛経験が四度というのも少なすぎるだろうけど、女性とつきあったのは二度っきりで、女性と男性が一般的にする行為をした相手はふたりっきり。ひとりは過ちの相手。これって今どきの男としては異常なのでは?
 男として異常なのではなく、東京に生きる二十代の人間として変なのではないだろうか。僕の周囲にいる同年輩男女を考えてみても、僕のような人間はまずめったにいないだろう。
 学生時代からもてていて、つきあった女性は何人もいたのだろうと、沢田さんが言っていた星さん。美江子さんは僕との短いつきあいはまたたく間に忘れたくせに、星さんをいまだに心に住まわせているらしい。それほどに素敵な男だったのか。
 俺は悪い男だ、なんてかっこつけて、悪い男なのだとしてもそれすらもかっこよくてさまになる金子さん。金子さんは恋には疎いなんていうけれど、それは嘘だとは僕にでもわかる。沢田さんの心にはずっとずっと金子さんがいる。
 恋愛経験じゃなくて女性経験が豊富なんだろ、と金子さんが呆れた顔で言ったのは徳永さん。それはつまり……うん、まあ、意味はわかる。徳永さんの恋についてはまったく聞いた覚えもないが、ひそかな恋愛が巧みなのだろうか。彼だってもてるのは想像に難くない。背が高くて顔がいいのだから。
 あれでリーダーはもてるんだよ、と本橋さんについて教えてくれたのは三沢さんだ。本橋さんは顔はともかく、背は高い。男らしい男はもてるのだろうから、もてて当然だ。
 チャミさんの例を引くまでもなく、乾さんも女性には人気がある。金子さんとどこか似ていてどこかちがっている、女性に対する態度は、どこが似ていてどこがちがうのか、僕には上手に表現できないが、金子さんのほうがクール度が高いのか。
 俺はもてないんだよ、と恭子さんにまで言っているらしきシゲさんだって、僕ほどもてなくはないだろう。もしやほんとに僕ほどもてなかったのだとしても、彼は伴侶を得た。恭子さんとラヴラヴ全開のシゲさんは、恋愛を成就させた既婚者なのだから。
 背は低くても木村さんも三沢さんももてる。木村さんは顔立ちが綺麗だし、三沢さんは自分で言ってるのを信じるとすれば、ナンパの達人。僕にもナンパの仕方を伝授してくれたが、僕は彼のように強気で押す芸当ができないので、伝授してもらっても無駄なのである。
 美江子さんもやったらめったらもてていたそうだし、沢田さんにだって昔の彼ってのはいたそうだし、フランさんも結婚したし、あの実松さんでさえ結婚した。
 ほとんどが又聞きだが、そう考えていくと、めったに、ではない。ひとりもいないではないか。三十年前後生きてきた僕の先輩たちは、みんなが恋愛経験を経て、あるいは結婚し、あるいは独身を続けている。現在は恋人がいないのだとしても、なんにもなんにもない僕とは次元の異なる恋の渦中にいたりもする。
 年下のひとたちは? 綾羅木みつぐのプライバシーは知らないが、燦劇の連中なんぞはあのルックスなのだから、もてたくなくてももてるだろう。パールなんかはかなり小さいが、顔だけでももてる。そもそもロッカーはもてる。パールにも恋人はいると言っていた。
 知り合いの誰彼の顔を思い浮かべ、彼女や彼の恋愛事情を想像してひとりでいじけていると、失念していたあることを思い出した。燦劇のエミーだ。燦劇の内部事情は僕には関係ないのだが、エミーはハードロックに転向したくて、燦劇を脱退したいと言っていた。脱退といわれるとヒデさんを連想するのは、エミーからその話を聞いたときのシゲさんも同じだったようだ。
 どこのグループにだって見解の相違だのぶつかり合いだのがあるものだけど、エミーはあれからどうしたのだろう。この数日、先輩たちに苛められて疲労困憊気分だったのだが……いや、三沢さんみたいに言ってはいけない。苛められたのではないが、苛められたような気分になって疲れていたのだ。年下の青年と話すのも、別の意味で疲れるけど、ついでがあるのだから、燦劇のスタジオにも顔を出してこよう。
 フォレストシンガーズの専用スタジオと燦劇の専用スタジオの中間地点に、「オフィス・ヤマザキ」の事務所がある。社長の山崎氏には僕もなにくれとなくお世話になっている。ライヴリポートの仕事も社長さんが回してくれたのに、お礼をしていなかった。近いうちに神戸のFMで僕が担当している番組に、シゲさんが出演してくれる。その話もしなくてはいけない。
 「オフィス・ヤマザキ」といえば、事務員さんの露口玲奈さんと千葉でのフォレストシンガーズライヴの際に会ってお茶を飲んだ。僕よりも五つも年下の玲奈さんにまで叱られて、僕ってまったくもう、だったのだが、僕がぐじぐじしていると叱りたくなるのは、人みな同じなのかもしれない。
 事務所に行くと社長さんも玲奈さんもいて、玲奈さんがおいしい紅茶をふるまってくれた。社長さんは僕のお礼の言葉にうんうんとうなずき、それから言った。
「本庄が神戸に行くって件な、あれは延期だ」
「延期なんですか」
「フォレストシンガーズのCDを韓国で発売するって案が出ていて、そうなると韓国にも行くべきかって話になって、スケジュール調整にてんてこまいしてるんだよ。山田は知ってるけど、本橋たちにはまだ話していない。本決まりになったら話すつもりだ。酒巻くんも言うなよ」
 またまたまたまた、重大な秘密を打ち明けられてしまった。
「本庄さんのゲスト出演は延期。フォレストシンガーズの韓国進出は、現段階ではみなさんには秘密ですね。両方ともに堅く承知致しました。酒巻國友は秘密は厳守します」
「大げさだね、きみは。きみが三沢に似てきたって誰かが言ってたけど、当たってるんじゃないのか」
「当たってるようですけど、似るんだったら三沢さんのあの満々たる自信も分けてもらいたいです」
「ありゃあ自信過剰とも言うんだが、卑屈よりはいいわな」
「僕は卑屈ですか」
「きみのことは言ってないだろ。なにを気の弱い顔をしてるんだ。しっかりしたまえ」
「はい」
 社長さんにも叱られている僕を見て、玲奈さんがくすっと笑っていた。
「しっかりします。えと、それでですね、燦劇もライヴツアーは終了したんですよね。今日はスタジオにいるんですか。彼らにもフェスティバルではお世話になりましたから、お礼がてら訪ねたいんですけど」
「いるよ。玲奈、案内してあげなさい。で、これ、パールに渡してきてくれ。昼メシもすませてきていいぞ」
「はーい」
「返事ははい、と短く」
「はい」
 ファイルを社長さんから受け取った玲奈さんは、僕にだけ見えるように舌を出した。
「燦劇は前から売れっ子だったんですけど、ライヴもとっても評判がよかったから、DVDを出すって決まったんですよ。今日はスタジオで録画した分を見てるんじゃないかな」
「すごいですよね、燦劇は。なのにねぇ……」
「なのに?」
「いえ、なんでもありません」
 秋たけなわの気持ちのいい風に吹かれて、玲奈さんと世間話をしながらスタジオにたどりついた。
「お、酒巻さん、来たの? 玲奈ちゃんもいっしょか。俺はメシを食いにいくところなんだ。行こうよ」
 出てきたのはエミーだった。中ではパールとファイがライヴDVDについての議論の真っ最中で、トビーとルビーは逃げ出したと言う。
「パールもファイも熱くなってるから、巻き込まれたくないんだよ。腹も減ってるしちょうどいい。三人でメシにしよ」
「エミーって案外つめたいね。ほっといていいの?」
「いいんだよ。パールは女の子みたいな顔してるわりに気は強いんだけど、ファイが怒ったら丸め込む手段を持ってるから大丈夫。殴り合いなんかしないよ、あのふたりは」
「あれ?」
「そう、あれ」
 あれってなんだろ? と首をかしげつつ、エミーと玲奈さんについて近くのファミレスに行った。
「スターなのにこんなところでお昼ごはん食べるの?」
「スターかぁ。俺はうんざりって言うのか……ま、いいんだけどね。俺はここのハンバーグが好物なんだ。スターなんだったらおごってやるから、玲奈ちゃんも好きなものを食えよ。酒巻さんにもおごってあげようか」
「僕の分は僕が出すよ」
「そう? いいんだけどね」
「エミー……うんざりって?」
「あとで話す」
 してみると、エミーは玲奈さんには話していないのだろう。してみると、あれもまた秘密のひとつか。それとも、エミーは食事がすんだら玲奈さんにも話すつもりだろうか。
「私は燦劇よりフォレストシンガーズのほうが好きだから、燦劇のライヴは別に見なくてもよかったんだけどね。ビジュアルロックのフェスティバルってどんな感じだったの?」
「玲奈ちゃんは若いのに、おじさんグループのほうがいいのかよ」
「若くったって歌の趣味は渋いの。酒巻さんが総合司会だったんでしょ?」
「そうだよ。酒巻さんの服を見せてやりたかったな」
「酒巻さんはなにを着てたの?」
「ジャケットの中でドラゴンが火を噴いて吼えてた。酒巻さんもけっこう吼えてたよ」
「それだったら見たかったな」
「まあね、あの雰囲気では僕も普通の心持ちではいられなくて、ハイテンションになってましたよ。いつもの僕じゃなかったみたいに」
 ハンバーグランチが三つ、運ばれてくるのを待つ間には、燦劇のライヴやらロックフェスやらの話をしていた。
「打ち上げにもお邪魔したんです。燦劇の打ち上げ会場には別のビジュアル系の若い子たちが来てたんだよね。面白い名前の女の子もいたよね」
「美妖魔の女の子たち? あの子たちには参るんだよな。そろいもそろって変な名前でさ、俺、教えてもらっても覚えられない。あいつらに較べたらファイだのエミーだのって平凡だよね」
「平凡なのかな。きみたちのルックスにはぴったりだよ。エミーは本名の鈴木一夫くんよりも、エメラルドのほうが似合ってるよね」
 途端に、エミーの顔がみるみる険悪になった。玲奈さんは瞬時絶句し、それからぷっと吹き出した。
「ええ? エミーって鈴木一夫くんって言うの? やだ……あまりにも……やだ、おなかが痛い」
 おかしすぎておなかが痛いのか。玲奈さんは文字通りの抱腹絶倒のていになり、おなかを押さえて笑いころげている。エミーは黙りこくり、僕はうろたえて言った。
「エミー、玲奈さんはきみたちの本名を知らなかったの? 秘密にしてたの? 僕ったらまたまたまたまた……何度目だろ、口がすべったのは……知らなかったんだよ。玲奈さんが知らないって知らなかったんだ。だって、彼女は事務員さんなんだから」
「社長は知ってるけどな」
 ものすごく低くてこわーい声で言って、エミーは僕をものすごーく怖い顔で見つめた。
「社長に聞いたのか」
「ううん、ファイ……わっと、これも言ったらいけなかったんだっけ」
 たしか、内緒だよ、とファイは言っていた。ファイは武者小路蒼というかっこよすぎる名前がかっこ悪くていやだと言い、エミーは鈴木一夫という、武者小路蒼とは両極端の凡庸な名前がいやだと言う。ともに本名が大嫌いで、公式には名乗っていないのだと言っていた。
 しかししかし、玲奈さんは知っていると思い込んでいた僕には落ち度はないのでは? 玲奈さんの笑いはいっこうにおさまらず、あなたが笑いすぎるからでしょ、笑いやんで下さいっ!! と言いたかったのだが、八つ当たりになるだろう。それではみっともなさすぎるので、僕はエミーに頭を下げた。
「他のみんなの本名も聞いたよ。言ったらいけないんだったら言わないから、そんな怖い顔をしないで。ごめん、僕が悪かったっ!!」
「他の奴らはいいだろ。ファイの名前がかっこよすぎていやだなんて贅沢なんだよ。あいつは顔に似合った名前なんだから」
「そうだよね。実松弾とはちがうもんね」
「実松弾? 誰だよ、そいつは」
「いいえ、こっちの話。そうだよね。贅沢だよね。乾さんだって贅沢なんだから」
「乾隆也って名前は普通じゃないか」
「名前の話じゃなくて……」
「俺は名前の話をしてるんだよっ!!」
 もともとエミーの声も低いほうなのだが、いっそう低くなって怒りが充満している。ついにエミーの怒りの矛先は玲奈さんにも向いた。
「てめえ、笑うな。黙れ!!」
「エミー、僕にだったら怒っていいから、耐えるから、僕は怒られるのは慣れてるから……きみが怒ると怖いけど、耐えてみせるよ。玲奈さんを怒鳴りつけたりしないで」
「こいつがげったげた笑うから悪いんだよ」
「玲奈さんは悪くないよ。悪いのは僕だ。ごめんね、ごめんなさい、すみません。エミー、どうしたら許してくれる?」
「逆立ちでもする?」
「ここで? それで許してもらえるんだったらするよ」
「土下座は?」
「してもいいよ」
「だったらやれよ。土下座してから逆立ちしろ」
「やります」
 そのとき、低い声が割り込んできた。いい加減にしなさいよね、と言っているのは玲奈さん? 笑いが引っ込んだようではあるのだが、玲奈さんの怒りの声も相当に怖かった。
「酒巻さん、やらなくていいよ。なんなのよ、エミーは。本名なんて知られたってどうってことないじゃない。それほど怒るようなこと?」
「あんたはいいよな。露口玲奈っていい名前じゃん」
「ありがとう。でも、鈴木一夫だっていい名前だよ」
「そんならなんで笑うんだよ」
「エメラルドとはちがいすぎるから。笑ったのは私も悪かったけど、エメラルドの本名が鈴木一夫って……意表をつきすぎてるって、三沢さんだったら言いそう。だけど、酒巻さんも下手に出すぎですよ。そんなにへいこらしなくてもいいんです」
「そう……ですか。でも、悪いのは僕ですから」
「誰も悪くないの」
「俺のじいさんが悪いんだよ」
 やけっぱちみたいにエミーが言い、ようやくうっすらと笑った。
「俺、長男だからさ。姉貴がいるんだけど、俺が生まれたころにはじいさんが生きてて、いっしょに住んでたんだ。はじめての男の子が生まれた。一番目の男の子には一をつけるんだ、ってじいさんが言ったんだって。そんなら一郎にしてくれたらまだましだったのに、男の子はいずれは人の夫になるって……だから、一と夫で一夫。素晴らしい名前だってじいさんは言ったらしいよ。父ちゃんと母ちゃんは、なんだかなぁ、だったらしいけど、じいさんっていばってたらしいから、さからえなかったんだってさ」
「おじいさまは今は?」
「死んだ。いばってるじいさんなんて死んでくれてよかったよ。俺が幼稚園のころに死んだから、俺はよく覚えてないんだけど、ファイが親に連れられて葬式に来たのを覚えてるって。おまえ、泣いてたじゃないか、ってファイは言うんだけど、泣くわけねえだろ」
「可愛がってもらってたんじゃないの?」
「覚えてねえよ」
「私にもおじいちゃんとおばあちゃんがいるよ。四人とも生きてる。同居はしてないけど、ちっちゃいころはいっぱい可愛がってもらった。今はたまに会うと、早く玲奈の花嫁衣裳が見たいな、って、四人とも言うの」
「ふーん」
 玲奈さんとエミーはしばらく祖父母の話をしていて、エミーの怒りも鎮まってきたところで、僕は言った。
「エミー、ほんとにごめんね」
「言っちまったもんはしようがないし」
「僕にも祖母や祖父はいるよ。山形に四人とも生きてる。姉もいるんだ。エミーにも姉さんがいるんだね。エミーも玲奈さんも東京で生まれて育ったんでしょ」
 そうだよ、とふたりともにうなずいた。
「エミーとファイってそんなに小さいころからの友達なんだね。そうなんだから……あ、ごはん、来てるよ」
 危ないところだった。また言ってしまうところだった。エミーもランチを見て言った。
「ハンバーグ、来てるんだ。もめてたから気がつかなかったよ。食いながら話そうか。じいさんもばあさんも姉貴もどうでもいいんだった。玲奈ちゃんも聞いてくれる?」
「なあに?」
 どうやら本題に入るらしい。本題がどう展開していくのか、僕はごくりと唾を飲んだ。

後編に続く
 
 

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