novel

小説76(恋に落ちて)

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べと
フォレストシンガーズストーリィ76

「恋に落ちて」

1


「もしも願いがかなうなら
 吐息を白いバラに変えて
 会えない日には部屋中に飾りましょう」

 細く高い声を出して歌ってみる。俺の願いはなんだろう? 軽薄ですこしばかり馬鹿の三沢幸生、こんな男がこんな恋をするだなんて、自分でも想像もしてみなかったのに。

「ダイヤル回して手を止めた
 I'M JUST A MAN FALLING LOVE」

 もとの歌詞はWOMANなので字足らずになって、マーーンと音を伸ばして歌い、思い出す。夏のホーチミンシティ、気まぐれに出かけたベトナムの街で、あのひとと出会った。
 夏から秋にかけて、フォレストシンガーズデビュー八周年を記念して、政令指定都市コンサートツアーをやった。ツアーがすんでひとりで四国をドライブしたのだが、そのときには出会いもなんにもなくて、まあ、こんなものでしょう、と達観して東京に戻って仕事を再開したのだ。
 休暇の間にはみんな、なにやらあったらしい。そのすべてを俺は知らないのだが、なにやらあったのはまちがいない。俺にはたいしてなにもなかったので、仕事に精を出し、それからしばらくたって訪れた長めの休暇に、海外旅行をしようと思い立ったのだった。
 ホテルの部屋は快適だったし、戦争の日々も遠くなり、少なくともただの観光客の目には傷跡はほとんど見えなくなっている。ガイドつきの観光をする趣味はないので、戦争関連の地には行ったりしなかったからなおさらだろう。
 しかし、戸外の暑さは相当なものだった。ぶらぶら歩いていて知り合った、大阪からきたふたり連れの女の子と三人で、扇風機しかないカフェで、暑いね、たまんないね、などと語り合っていた。
「大阪は東京より暑いから、あたしら、慣れてるけど」
「大阪は亜熱帯だともいうから、夏にはホーチミンみたいな気候なんだね」
 互いに簡単な自己紹介だけしかしていないふたりの女の子は、原色のキャミソールに短い短いショートパンツ姿で、それでも暑いわー、と胸元に風を入れる。目のやり場に困った。名前はサキちゃんとマユちゃん。咲子と真由美なのか、沙紀と繭子だったりするのか、どっちでもいい。二十歳の短大生だと言っていたが、実際の年齢も職業もどうでもいい。
 俺もユキちゃんと名乗って、二十五だと嘘ばっかり言っておいた。彼女たちは俺がなにものなのかは知らなかったし、知られてないほうがやりやすい。
「それにしてもメッチャ暑いわぁ。お昼はエアコンのある店にしようよ」
「ユキちゃんもいっしょに行く?」
「お邪魔じゃなかったらね」
「邪魔なんかとちゃうよぉ」
「ユキちゃんがいっしょにおったらメッチャ楽しい」
 ころころ可愛い声で笑って、サキちゃんが言った。サキちゃんが、マユちゃんが、とどちらの発言なのかを書く必要もないほど、どうでもいいようなことしか言わないのだが、それは俺も大同小異だった。
「マユとふたりでも楽しいけど、ユキちゃんもいるともっと楽しいよね」
「うん」
「それにさあ、ユキちゃんやなんて呼んでるし、ユキちゃんは高い声で優しい喋り方をするから、女の子三人で旅してるみたい」
ぶりっ子してるなんて知らないで、俺を女の子みたいだと見誤ってると火傷するぜ、と言ってみたい気もした。
「ほんまほんま」
「女の子三人ってことで、お昼を食べたらショッピングにでも行きましょうか」
 昼メシ食ったら、とは言わずにおいた。
「ユキちゃん、お上品やわ」
「東京の女の子ってそんなん?」
「ちゃうちゃう、こんなん」
 下手な大阪弁で言って、俺は東京の若い女の子の話しようを真似してみた。
「昼を食ったらショッピング行こう。てめえ、なに買うの? ジーンズ? だせっ。ちげぇよ。デニムって言うの、とかさ」
 花が咲いたように、ふたりしてきゃっきゃと笑う。ただ、可愛かった。
「てめえ、ふざけやがって。浮気なんかしたらぶっ殺すって言っただろうが。あの女はなんなんだよっ、返答次第じゃただではおかねえぞ……嘘。これじゃやあさんじゃん」
「ユキちゃんって面白いね」
「大阪の女の子は面白い男が好きなんだって? 東京の女の子もそうかもしれないけど、大阪の女の子はどう? 俺は面白いんだったら好いてくれてる?」
「好き」
「うん、好き」
「嬉しいな」
 なんであっても、嫌われるよりは好かれるほうがいいだろう。
「俺はこれでも社会人だから、お昼ごはんぐらいはおごるよ。ベトナムは物価が安いんだから、三人分でも俺でも平気だし。面白いとか好きとか言ってくれたお礼にごちそうさせて」
「わーい、めっちゃラッキー」
「おごってくれるなんて最高」
 東京の若い子は「超」を連発するけど、大阪の若い子は「めっちゃ」を連発するんだな。この子たちは年齢のサバを読んでいるとしてもせいぜい二、三歳だろう。俺は四つもサバ読んでるけど。どうでもいいっちゃそれもどうでもいいんだけど、女の子たちが大騒ぎで安いお土産を選ぶのにつきあった俺は、疲れて言った。
「腹減ったよ。おっと、おなかがすいた」
「腹減ったーぐらいはあたしらも言うよ」
「自然に喋ったらええのに」
「不自然にしてるのはボロを出すもとだってね。じゃ、参りましょうか、レディたち?」
「レディやて」
「そんなん言われたんはじめてやわ。東京のひとってやっぱりちょっと気取ってるん?」
 普段は俺だって言わないよ。外国の街でゆきずりの相手、しかも相手はふたりでどうこうなりようもないから言うんだ。どこか醒めた気分で俺は考えていた。
 ガイドブックに載っていたこの店に行きたい、とマユちゃんが提案し、その店に出かけた。
 生春巻きにトリ入り炊き込みごはん、フォー、サラダ、などなどを注文しても、日本では考えられないほどに安い。この店はそれでも高級なほうなのだから、庶民の店ではさらにさらに安いのだそうだ。高級な店なので店員さんたちは英語がぺらぺら。日本語も多少は通じる。
「日本人にはベトナム料理は口に合うし、ベトナムが好きなひとが多いみたいね」
「あっちこっちに日本人がいてるよね。韓国人や中国人も多いけど」
「タイのひともいるでしょ。観光客には欧米人種もいるわけで、白い方々から見れば、我々アジア人種はみーんな同じに見えてるんじゃないのかな」
「そうなんや」
「そうなんかもね」
 料理が運ばれてくると、いそいそと食べはじめる。おいしいね、と俺もふたりの口真似をして言った。たしかにとってもおいしかった。
「そう、だったら好きにして」
 押し殺した女声が聞こえた。俺に意味がわかるのだから日本語である。
「私は私で好きにするから」
 それとなく見ると、三十代であろう女性の前の席から、男が無言で立ち上がったところだった。サングラスをかけた男は、彼女を一瞥もせずに立ち去った。
「喧嘩してはるんかな」
「あのひと、外国でひとりぼっち? かわいそうとちゃう?」
「そんなん言うてもしゃあないし」
「大人やから大丈夫よねぇ」
「そう思うけど」
 ひとり、席に残った女性がウェイターに英語でなにか訪ねた。俺は音楽で英語を学んだので、ほんのすこしは英語も理解できる。タバコ、いい? と尋ねたらしく、ウェイターが首肯すると、彼女はタバコに火をつけた。左手の薬指にプラチナのリング、なぜだかまぶしく俺の目を射た。
「タバコ、ええんや」
「禁煙かと思ってたね。サキ、吸うてもええよ」
「ユキちゃん、かまへん?」
「どうぞ」
 若い女の子の喫煙姿なんてかっこよくもなんともないけど、あのひとはサマになってる。女がタバコを吸おうと吸うまいと、別に俺は気にもならない。昔の彼女には吸うひとも吸わないひともいた。だけど、あんなに綺麗なポーズでタバコを吸う女性はめったといないはずだ。
「俺、ショッピングで疲れちゃったみたい。悪いけどお先に失礼するよ。支払いはすませて出るから」
「ええー、もう行っちゃうの?」
「もっと遊びたかったな」
「ごめんね。楽しかった。じゃ、いつかまた」
 ばいばーいと手を振るふたりに手を振り返して、俺は店から出て身をひそめた。さっきの女性が気になって仕方なかった。しばらく張っていると、彼女がひとりで店から出てきた。背は高くはないのだが、姿勢がいいのですらりと見える。俺は彼女の背中に声をかけた。
 ためらいがちにかけた言葉に、驚いたように振り向くきみに、季節が音を立てて……って歌があったっけ。そう、「シクラメンのかほり」。さしづめあなたは紫のシクラメン? 淡いパープルのワンピースが似合っている。シクラメンってどんな花だか思い出せないけど、きっとあなたみたいな花なんだろう。 
「あの店にいらした方ですね」
 甘さを含んだ低い声。
「お連れさんたちは?」
「連れといっても、ホーチミンで知り合っただけです。僕はひとり旅です」
「そうなの。……どこかでお見かけした顔ね。私と知り合いなんかじゃないでしょ?」
「僕は初対面ですよ」
「お名前を聞かせていただいてもよろしい?」
「三沢幸生です」
 三沢さん、三沢幸生さん……しばし考えていた彼女は、はっとしたように俺を見上げた。
「フォレストシンガーズの?」
「知っていて下さって光栄です」
「ああ、道理で見覚えがあるんだわ。失礼しました。私は遠藤詩織と申します。音楽業界に関わりがあるわけじゃないんですけど、三沢さんたちの音楽は好きでよく聴いてます」
「ありがとうございます。あの、歩きませんか」
「はい」
 並んで歩き出した。
「みっともないところをお見せしてしまったんでしょ?」
「みっともなくはないですけど」
「初対面でする話じゃありませんよね」
 してくれるんだったら聞きたいけど、初対面で話せというのは不躾だろう。
「暑くってざわざわしてるけど、私、ホーチミンって好きだな。永住してしまおうかしら」
「遠藤さんはお仕事は?」
「自宅で子どもたちに英語を教えています」
「さっきの発音、流暢でしたもんね。そうか、なるほど」
「流暢ですか? ちょっとしか英語は話してなかったのに」
「いや、俺は、僕は英語は駄目ですけど、英語の歌は聴き慣れてるんで、発音のよさはわかる、つもりです」
「そういうものなんですね」
「あの」
 意を決して俺は言った。
「夕食をごいっしょさせてもらえませんか」
「夕食?」
 驚いた顔をして、それから考え込んで、それから詩織さんは微笑んだ。
「食事はひとりでは味気ないですよね。三沢さんがよろしいんでしたらごいっしょさせて下さい」
 めっちゃラッキー、と叫びそうになったのを、俺はからくもこらえた。
 ゆきずりの女の子たちと歩いていた俺とはちがって、詩織さんの連れは本物の旅の道連れだろう。なにものなのかは知らないが……って、結婚指輪をしているのだから、普通に考えれば夫だろう。普通に考えればそうだけど、夫だとは限らない。夫だなんて思いたくなかった。
 いずれにせよ彼が戻ってくるのなら、俺とメシを食ってる場合ではないはずだ。ってことは、その可能性はない? あったとしても限りなく少ない? 実際はどうなのかよくわからないものの、俺は自分に都合のよいほうに考えることにした。


 夕食のあと、駄目モトで俺は言ってみた。明日は?
「ホーチミンをふたりで歩きたい」
「私なんかと?」
「なんか、じゃありません。詩織さんと」
「……どんな顔をしたらいいのかしら」
「その顔がいいです」
「……困ったな」
 困るのはあいつの存在ゆえ? あいつはあなたのなに? 訊けない。俺のほうこそ、あなたのなにでもないのだから。
 住まいは東京だと言っていた。職業は英語教師。趣味は映画と音楽鑑賞。ホーチミンには観光で来て、三日後には帰国する。ただいまは英語教室は休暇中だ。そんな話は聞いたけれど、肝心のポイントはひとつも押さえていない。いくつ? 独身? あいつは、あいつはあなたの夫? 彼氏? 訊けない。
「そうね、ひとりではつまらないから、つきあってもらえるんだったら嬉しいわ」
 ひとり……ひとりなのはいつまで? 俺がいなかったとしても、あいつが……黒い雲が胸の奥から湧き上がるのを払いのけて、俺は軽い調子で言った。
「及ばずながら、ボディガードもつとめさせてもらいます。あー、こんな細いのには無理、って言いたそう」
「想像してたよりも、ホーチミンは治安がいいみたいね」
 するりとかわされた。
「日本よりは悪いでしょ。日本も昔ほどよくないんだろうけど」
「三沢さんは日本の昔なんか知らないでしょ?」
「俺、いくつに見えます?」
「二十四、五?」
 今度は多くサバを読んでみた。
「三十五です」
「嘘でしょ」
「……嘘です」
 軽い調子に徹し切れなくて、詩織さんはくすくす笑う。じゃあ、あなたはいくつ? どうして訊けないんだろう。
 年なんかどうでもいいさ。もしかして詩織さんが四十歳だったとしても、俺はあなたが……あなたが、なんだよ? わかんないよ。わかってるんだろうが。わからないったらわからない。自問自答をしながら、翌日はそわそわわくわくと、詩織さんが指定した待ち合わせ場所に出かけた。どこに泊まってるの? とも訊けなかった。
 腕と腕をからめてみたい。ナンパした女の子相手にだったら、肘のあたりを差し出して、どうーぞ、エスコートするよ、って笑わせられるのに、あなたとだと調子が狂う。白い帽子をかぶった詩織さんとぎこちなくおはようの挨拶をかわして街に出ると、バイクが寄ってきた。
「どこいく? のる」
「このバイクに? 俺たち、ふたりいるんだよ」
「ふたり、オッケー」
「そっちはオッケーでも、俺ひとりならオッケーでも、レディに三人乗りなんかさせられるか」
「さんにん、オッケー。みんなやってる」
 日焼けした若い男は、かたことの日本語でしつこく迫る。
「やすいよ」
「タクシーだって安いよ」
「どこいく? あるくととおい」
「どこに行くかなんか決めてねえの。まだなんにも言ってないのに、遠いかどうかわかるのかよ」
「バイクでデート、オッケー」
「ノーサンキュー」
「オー、ノーサンキュー、わたし、かなしい。なく」
「泣いてもいいって。邪魔すんな」
 バイク乗りと俺のやりとりを聞いて、詩織さんは笑いをこらえている。
「しつこくされると俺も悲しい。泣くぞ」
「WHAT?」
「勝手なときだけ英語を使うな。この方は英語ぺらぺらなんだぞ。おまえは英語と日本語、どっちが得意だ?」
「わたし、ベトナム」
「知ってる」
「あなた、にほん」
「はいはい。ばいばいね」
「ばいばい? オー、ノー、のる」
「乗らない」
 行きましょうよ、きりがないわ、と詩織さんが俺の腕をつかんだ。半袖のシャツから出た素肌に、詩織さんのほそくて長い指が触れて発熱しそうだ。詩織さんは俺にはなにを言ってるのかさっぱりの言葉で、バイク乗りに話しかけた。バイク乗りは仰天顔になり、愛車にまたがって走り去った。
「今の、ベトナム語? 話せるんですか」
「すこしだけ覚えたの」
「さすがだなぁ。語学の才能あるんだ」
「才能ってほどじゃないわ。三沢さんって楽しいひとね」
「俺はそれだけがとりえですから」
「そうなの?」
 のらりくらりしてる、ってふうに見えてしまうのは、俺の邪推なんだろうか。
「バスに乗ってみない?」
「大丈夫かなぁ」
「ベトナム語の辞書みたいなのも持ってるし、きっと大丈夫。冒険しましょうよ」
「そうだね」
 あなたとならば、たとえ火の中水の中。バスごとき全然へっちゃらだよ。あああ、どうやら俺、フォーリンラヴなんだよな。とうにわかっていたことを、そのときはじめて俺は認めた。


2

 五人が交互にソロを取る歌だった。俺の番、次は俺の番。なのに俺は、俺のパートでとちってしまった。とちったというよりも歌い出せなくて、一瞬の空白が起きた。うわっ、まずいっ! となったときにはあとのまつり、だったはずなのに、章が絶妙のフォローを入れた。
「おっとっとっとっ」
 つんのめったふりをして、章はシゲさんにぶつかって、ふたりそろってステージでずっこけてみせた。客席から笑いが起こり、俺がとちったのは聴衆には気づかれないままだった。仲間たちは当然わかっていたけれど、乾さんもつっこみを入れてくれた。
「章くん、酔ってんの?」
「お酒に酔ってるわけじゃなくて、この場の雰囲気に酔ってます。ファンのみなさまの視線が熱くてよろめいてしまいました。みなさまー、失礼しました。リーダー、やり直していいですか」
「みなさま、まことに失礼しました。ってことでやり直します」
「ワン、ツー、ワンツースリー」
 ア・カペラの曲だった。指を鳴らして拍子を取って、乾さんが合図する。本橋さんが歌い出す。やり直しでは俺もまちがえずに歌えたけれど、泣きたい気分だった。
「生だからな」
「こういうことも間々あるさ」
「幸生、ドンマイ」
 ステージを終えて袖に引っ込みながら、うなだれている俺の肩を、先輩たちが軽く叩いて通りすぎていく。章は立ち止まって言った。
「おまえは近頃はとちらなくなったけど、たまにはあるよな。でもさ、幸生、どうかしたのか?」
「ただぼーっとしてただけだよ。ごめんな、章、ありがとう」
「なんのこと? 俺はマジでよろめいたんだ。おまえのことは言えないよな」
「章ぁ……」
 できるものなら章の胸にすがって泣きたかった。こんな貧相な胸でも、俺が女だったらすがりつけるのに。
「どうしたんだよ、幸生」
「なんでもない」
 休暇が明けて初のステージだった。俺の頭の中はホーチミンでの日々、いや、ホーチミンで出会ったあのひとでいっぱいだったけれど、仕事でミスをする言い訳になんぞなるわけはない。
「休みボケか」
「そうだな」
「しっかりしろよ」
 誰も俺を責めたりしないのがむしろ哀しい。この馬鹿、とリーダーに殴られたほうがすっきりするのに、リーダーも怒りはしなかった。その日のライヴが終了すると、俺はひとりで街に出た。ここは長崎。南国九州だが、ハートが寒くて身体も寒かった。
 フォレストシンガーズの三沢幸生だとは、知っているひとはいないらしい。騒がれることもなく街を歩き、ひとりで飲んでいると、声をかけてきた女の子がいた。
「ひとり旅ですか」
「そうだけど」
「私もなんです。ひとり旅は気楽でいいけど、お酒を飲みたいとなるとつまんないですよね。ここ、すわっていいかしら?」
「どうぞ。あなたは東京のひと?」
「神奈川です」
「俺は横須賀。あなたは?」
「厚木です」
「近いんだ」
「タエです、よろしくね」
「俺はユキ」
「女の子みたいな名前ね」
 同郷ってのは話がはずむ。あっという間に、きみ、タエちゃん、となって、ユキちゃん、と呼ばれるようになって、酒の勢いでホテルになだれ込んだ。
「きれいな肌だね。吸い込まれそうだ」
「ユキちゃんは細いけど、硬くてすべすべした腕がいい気持ち」
 自然に裸になって抱き合うと、タエちゃんは俺の腕に頬をすりつけた。
「よく灼けてるのね。どこかにリゾートに行ってたの?」
「セイシェルで泳いできたんだよ」
「ユキちゃんってなんの仕事してるの?」
「親が金持ちで遊び暮らしてる。一昨日はセイシェル、昨日はバリ、今日は長崎、明日はプーケット、いい身分だろ。タエちゃんは?」
「私は大学生だよ」
 大学生って年には見えないけど、ま、どうでもいいか。
「ね、ユキちゃん?」
「しーっ、黙って。ここからは俺がきみを褒めてあげるから」
「褒めて」
 白鳥のようにほそく長い首、華奢な腕、全身アラバスターのように白くて肌理がこまかくて、しっとりした美しい肌、ふくよかな女神の乳房、俺の手でひと回りにできそうな、スカーレット・オハラみたいにくびれたウエスト……スカーレット・オハラって誰? と訊きたがる口を、俺はくちびるでふさいだ。
「それからここは……」
「あん、ユキちゃん」
「好きだよ、タエちゃん。きみみたいに素敵な女性とこうなれて、俺は世界一幸せな男だ」
 そう、今だけはきみが世界一好きさ。
「きみがほしくてほしくて、気が狂いそうだ。食べちゃっていい?」
「食べて」
 けれども、ことが終わると虚しくなる。俺が本当にほしいのは……タエちゃんなんかじゃないのに。
 満ち足りた顔をして眠ってしまったタエちゃんの枕元にホテルの代金を置き、俺は忍び足で部屋から抜け出した。ごめんね、タエちゃん、だけど、きみも楽しかったんだろ? 俺もひと夜だけは楽しかった。ありがとう、二度と会うことはないだろうけど、幸せになれよ、なんて呟いてみた。
 あの時期、俺はあちこちでそんなことばかりしていた。幸か不幸か一度も誰にも気づかれず、いったい何人の女性とベッドインしただろう。
 ばれないのでリーダーや乾さんに怒られたりもしない。スキャンダルにでもなったらどうするんだ、って怒られたとしたら、俺はどう開き直っただろう。だって、俺……その先は言えない。
 あまりのおのれの馬鹿さ加減に疲れてもいたけれど、女の子と触れ合っている一瞬だけは楽しかった。ゆえにやめられない。一種の依存症だ。どうせ俺は昔からこんなことばかりやっているのだが、なぜだか今回は虚しさが強かった。
 ホーチミンから帰る日は、詩織さんのほうが俺より早かった。帰国の飛行機の時間すら教えてくれない、どこに泊まっているのかすら教えてくれなかった詩織さん。
 ホテルは尾行でもすれば判明するのだが、ぐっと我慢してつきとめずにおいた。が、日本に帰る前に詩織さんに会いたくて、彼女の帰国の日には空港で張り込みをしていた。どこかを経由する便もあるのだが、日本への直通便に的を絞れば、フライト本数はそう多くはない。
 午後の日本行き直行便の一時間ほど前に、詩織さんがタクシーで空港に乗りつけたのを発見した。さよならって言いにいこうか。さよならではなくて、帰国してからも会って、と言いにいこうか。俺が躊躇していると、詩織さんのうしろから早足で歩いてきて、彼女の手のバッグを取り上げた男がいた。
「……」
 あいつだ。名前も知らない、詩織さんのなにに当たるのかも知らない男。詩織さんは無言で彼と肩を並べ、お似合いのカップルは俺の手の届かない遠くへと歩み去った。
 日本へ帰った俺には、休暇が二日間残っていた。詩織さんから聞いた「キッズイングリッシュスクール・シオリ」の名前だけを手がかりにして英語教室をかたっぱしから調べ、どうにかその場所を調べ上げたのだけれど、俺はただただ煩悶していた。
 訪ねていってなにになる? 詩織さんにはおそらく、夫であろうあいつがいる。俺が会いにいったとしたら、詩織さんを困らせるだけだろう。
 ゆきずりの女の子にだったら身勝手な真似ばかりしている俺なのに、詩織さんにはどうしてこうなるんだろう。本当に好きになったから? 男ってほんと、勝手だよな。いや、男ってじゃなくて俺って、か。
 それでも会いたくて会いたくて、残るたった一日の休暇を使って、俺は詩織さんの英語教室を見にいった。閑静な住宅街の一角にある瀟洒な一軒家、「キッズイングリッシュスクール・シオリ」と洒落た看板のかかった家を見上げていると、庭に詩織さんが出てきたのが見えた。隠れようか、そう思ったときには詩織さんと目が合った。
「……三沢さん」
「こんなところに詩織さんのうちがあったなんて、いやぁ、偶然だな」
 白々しすぎる。詩織さんもまったく信じてはいなかった。
「……嘘だ。会いたかった」
「三沢さん、ちょっと待ってて」
 帰れ、とは言われなかったことにほっとしたような、それでいったいどうするんだ? と戸惑うような気分で立ちつくしていると、着替えた詩織さんがあらわれた。近くの喫茶店で向き合うと、詩織さんは言った。
「外国でだったらまだしも、日本ではまずいでしょう? あなたは有名なひとなんでしょ」
「全然」
「そんなことないでしょうに」
「俺はあなたが好きだ」
 ついに告白してしまったけれど、詩織さんの答えはため息だった。
「訊きたかったことがいっぱいあるんだよ。あの男はあなたのなに? あの家でいっしょに住むひと?」
「そうよ」
「結婚してるんだね」
「一応はね」
 一応? 一縷の希望はあるのだろうか。
「明日から仕事を再開するんだ。休暇は今日でおしまいなんだ。俺たちはライヴメインだから、ツアーでしばらく東京に戻らないけど、戻ってきたら会いにきていいでしょう? 俺はあなたを好きだと言った。気持ちだけは告げた。あなたがどうするのかを決めてほしい。俺は不倫だってかまいはしないけど、一応だなんて言うんだったら、円満じゃないんだよね」
「その通りよ」
「また会いにきていい?」
「駄目」
 きっぱりと言われ、呆然とするしかなかった。呆然となんかしなくていいじゃないか。わかり切ってることじゃないか。
「私なんかにこだわらないで」
「私なんか、じゃないんだよ。あなたしか見えてないんだ、俺は」
「あなたは歌をつくるひとでもあるのよね。歌の台詞みたいなことを言われたら、本気には聞こえない」
「本気だよ」
「……嬉しいけど、無理よ」
「嬉しいんだね。だったら……」
「あなたにもう一度会えたのは嬉しかった。訪ねてきてくれてありがとう。それだけ」
「詩織さん」
 立ち上がって微笑んで、詩織さんは行ってしまった。
 だから仕事でミスをして、だからゆきずりの女の子と触れ合って、刹那的な楽しみばかりを求めて、歌が命だったはずなのに、ときおり歌にも上の空になって、幸生はどうかしたのか? と聡い乾さんが尋ねているのを他人ごとのように聞き流し、どうもしてないでしょ、と答える章の声も聞き流した。乾さんや章はなにかしら感づいていたのだろうが、俺にはなんにも言わなかった。
 表面上は無難に仕事をこなして、そんな日々が意味もなくすぎていった。
 地方コンサートが一段落し、東京に戻った翌日の休みの日、俺はまたもや詩織さんに会いにいった。電話は二、三度したけれど、駄目、と言われて切られてしまう。その日は雨がふっていて、俺は詩織さんの家の前で傘もささずに立っていた。詩織さんが出てくるまで待つつもりだった。
「……三沢さん」
「幸生って呼んで」
「……なにをしてるの、この寒いのにずぶ濡れじゃないの」
「涙、涙、涙、涙BOYはずぶずぶびしょびしょ」
「なにを言ってるのよ。入って」
「それを狙って立ってたのかなぁ。あいつはいないの?」
「あいつ? いません。別居してるの」
「別居か」
 夫婦円満ではないどころか、そんな仲になっていたんだ。家の中に通されると、詩織さんがバスタオルを持ってきてくれた。
「シャワーを浴びる?」
「俺に裸になれっていうの? 裸になったら抑制は効かないよ。こんなに細っこいけど男だよ。狼になるよ」
「三沢さん、冗談はやめて」
「冗談なんか言ってない。俺の身体の半分は歌で、普段は半分は冗談でできてる男なんだけど、今はその半分はあなただ。冗談なんてものはどこにもない。あなたがほしいよ」
「やめて」
「やめさせたいんだったら追い出せばいい」
 困り果てる詩織さんを見ていると、露悪的な気分になってきた。
「あなたがほしかった。あなたはなんにも話してくれないから、あなたを抱きたいとは言えなかった。男の恋って肉欲をともなうに決まってるって、あなたは知ってるでしょ? だけど、俺はあなたを抱けない。代償行為として何人も何人もの女性を抱いたよ。抱いて抱かれて楽しんできた。あなたのせいだ」
 心ごと身体ごと、あなたを俺のものにしたい。歌の文句ならそう続くところだ。
「別居しててもあいつに操を立ててるの? それとも、俺が嫌い? 嫌いなんだったら追い出してよ。こんなのは蛇の生殺しっていうんだ。毒蛇になって噛みつくぞ」
 無茶苦茶を言っているのは自覚していたけれど、止まらなかった。
「詩織さん、好きだっ!!」
「落ち着いて話しましょ。コーヒーをいれるから」
「コーヒーじゃなくてあなたがほしいんだよ」
「駄々をこねないで」
「いやだ」
 大人の余裕であしらわないで。俺だってガキじゃないはずなのに、あなたの前では駄々っ子坊やになってしまう。詩織さんになだめられて、バスタオルで全身をぬぐいながらダイニングルームに入っていった。
「離婚寸前なのよ。子供はいないんだけど、むこうが離婚はしないって言い張って、調停に持ち込まざるを得ないかもしれない。ホーチミンにはゆっくり話し合う予定で行ったんだけど、結局ものわかれに終わった。あなたに目撃されたのは、レストランでそんな話をしていたときね」
「そんな時期に間男みたいな俺が出てきたら、詩織さんの不利になる?」
「そんなことは考えてない。だけどね……こんな時期にそんなのはたしかにいや」
「待てばいいの?」
「待つといってもいつになるのか」
「待てばいいのなら待つよ」
 私待つわ、いつまでも待つわ、他の誰かにあなたがふられる日まで、ってさ、ちょっと近いかな。ちょっとだけ光がさしてきた? 他の誰かをあなたがふるその日まで、俺は待つわ。待つわ、待つわ、待つわ~~ってか。
 こんなときにも心でそんな歌を歌っているのだから、おふざけがすぎるユキちゃんは健在である。元気が出てきた証拠なのだから、俺にとっては喜ばしい兆候だった。
「あなたが晴れて独り身になれるその日まで、待てばいいんだね」
「そうなったらあなたのものになれるって、そんな約束はできない。女はそんなに単純にできてないのよ」
「俺のものになってくれるように、口説くから」
「口説くのは得意なのよね。そんなあなたのものになったら、私はまた苦労しそうだわ」
「あいつとなにがどうなってそうなったのか、言いたくないなら訊かないよ。俺はただ待つ。あなたを待つ」
「待ってくれるんだったら……」
 やっと詩織さんはうなずいてくれた。
 それからだって俺の心は半分以上が詩織さんで占められているのだけれど、希望が出てきたら詩織さんを心の隅にしまっておいて、仕事に専念できるようにもなってきた。心の隅にすわり心地のいいソファを置いて、そこにかけた詩織さんが、俺の歌を聴いてくれる。魅力的なアルトが俺の歌に合わせてハミングしている。
 冗談が入り込む余地も多分に出てきた。ようやくいつもの幸生に戻れた。
 今でもまだ詩織さんは離婚の件で夫と話し合いを続けている。彼女の正確な年齢も知らないし、さまざまな彼女の私生活は、言葉のはしばしから推理するしかない。けれど、いつかはきっと彼女は俺のものになってくれる。抱けもしない女をこんなにも愛していられるなんて、俺がそんな男だったなんて、俺自身もはじめて知った。
 遊びの恋はやめたよ。時々あなたに会えるだけでいい。だからそばにいて。精神的にだっていい、手を伸ばせば届く距離にいて。やっぱり駄目、と言わないで。たまのデートとキスだけで、あなたの心は俺のものだと信じていい? 俺は丸ごとあなたのものだよ。だからお願い、そばにいて。
 そういう関係だからこそ、禁断の恋だなんて要素が加わっているからこそ、おまえは燃えてるんじゃないのか? 乾さんだったら皮肉っぽくそう言いそうな気がする。俺もちらっと、ほんのちらっとそんなふうに考えなくもないけど、冷静になんか考えたくない。今はただ、あなたにそばにいてほしい。


E N D

 
 
  



 
  
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