novel

小説73(F8・LIVETOUR STORY・3)

 ←小説72(F8・LIVETOUR STORY・2)後編 →小説74(F8・LIVETOUR STORY・4)
e65f517a592ef506.jpg
フォレストシンガーズストーリィ73

「F8・LIVETOUR STORY・3」

1

 片想いにしろ、相思相愛にしろ、恋をしてそのひとと別れ、二度と会えなくなったという経験は誰しもがしているだろう。このたびのツアー先に訪ねてきてくれたひとも、誰かが誰かに恋をしていた。
 初演の大阪に来てくれた泉水ちゃんは、ヒデに恋をしていたのか。私、ヒデとつきあってたんだよ、と数年前に彼女が漏らした言葉が心に残っている。つきあっていたといってもさまざまあるのだが、ヒデは泉水ちゃんをどう思っていたのだろうか。そんな質問をしてもいいのだとしても、ヒデはいないのだから訊けはしない。
 四回目の横浜に来てくれた幸生の妹たちも、それぞれに恋をした。二十代後半になっても少女のようで、人妻にはとうてい見えない雅美ちゃんは結婚したというし、下の輝美ちゃんも婚約したと言う。きょうだいのいない俺には兄心は推測しにくいのだが、幸生は実は寂しかったのだろうか。あんな女と結婚する男はド変態だなどと言って、本橋に怒られていた。
「ひでぇ。なんでリーダーに殴られなくちゃいけないんだろ。さっきのげんこつ、本気でしたよ。あったまぼこぼこ」
「おまえの心にもすきま風が吹いてるのか?」
「乾さん、あなたは兄と妹というものを美しく考えすぎてます」
「そうかもしれないね。俺に妹がいて、彼女が結婚してしまうとなったら、きっと寂しいだろうな、って思うんだけど、まちがってるか」
「まちがってますよ」
 姉さんだったらどうなんだ? と尋ねてみたら、シゲは幾度も首をかしげていた。第二回目の名古屋にはシゲの姉さんの希恵さんが来てくれたのだが、彼女はなぜだか独身で、弟に先を越された格好になる。
「んんと……俺は姉が結婚したら嬉しいですよ」
 長く考え込んでからよこしたシゲの返答は、しごくまっとうな弟としての模範解答だった。希恵さんも恋をしてるのかな、と俺は考えていた。繁之をよろしくお願いします、と挨拶してくれた希恵さんは、以前に会ったときよりもいっそう美しく見えたから、恋をしていたとしても、仕事に生きていたとしても充実しているのだろう。
 五回目の神戸には、思いもかけないひとが来てくれた。俺は下川乃理子さんと本橋真次郎の過去の関係を知っている。そうと本橋も知っているが、シゲは知っていたのだろうか。幸生は? 章はたぶん知らないはずだが、ツアーには同行していなかったミエちゃんも、もちろん彼と彼女が恋人同士だったのを知っている。
 本橋と俺が二年生で、ノリちゃんが一年生だった春の日の飲み会で話して、ノリちゃんのほうから本橋へと傾いていったのだと、俺の認識ではそうだった。一途に恋をして、ノリちゃんは本橋の心を求めた。本橋も次第にノリちゃんへと傾いていって、つきあおうと言ったのは本橋で、そうしてふたりは恋人同士になった。
 当事者ではないのだから、俺は彼女と彼の事情を深く知っているのではない。けれど、本橋の名が話題に上ったとき、本橋の姿を見つけたとき、乃理子、と本橋が彼女の名を呼んだとき、ノリちゃんが本橋に駆け寄っていくとき、いくつものときの、ノリちゃんの表情が目に浮かぶ。どの場面でも、彼女の微笑みはきらめいていて、瞳が輝いていた。
「よく喋るしよく怒るし、聞き分けはないし、困った奴なんだよ」
 そう言っていたときの本橋の表情も、困った奴だけど可愛くて、と言いたげだった。
「ノリちゃんは年下なんだから、こっちは大人の余裕でつきあわなくちゃ」
 十九や二十歳の男に大人の余裕があろうはずもないのに、俺はそんなふうに言い、本橋もうなずいていた。本橋とノリちゃんが別れてしまってから、十年もたつ。
ともに幾度も新しい恋をして、多少は大人の男と女らしくなっただろうか。しかし、ノリちゃんは本橋と短い会話をかわしただけで歩み去っていき、本橋も彼女についてはなにも言わなかった。
 終わってしまった恋が再燃した経験は俺にはあるけれど、彼と彼女にとっては、終わったものは終わったものとして、心の整理もついているのだろう。本橋と俺は別の人間なのだから、他人の気持ちを読むなんて芸当が俺にできるはずもない。そう考えておくしかなくて、そのくせ、俺までが切ない気分になっていた。
 続く六回目の北九州には、宮村美子さんが来てくれた。合唱部時代にはミコちゃんと呼んでいた彼女は、徳永に恋をしていたのではあるまいか。
夏合宿のある日、浜辺で徳永の背中を見つめていた彼女の、潤んだ瞳が俺の追憶の中にある。徳永が彼女をどう思っていたのかは知らないし、尋ねてみたところで、徳永が本音を口にするわけがない。なににしても、ミコちゃんはそんな恋心とはとうにさよならして、誰かの妻になった。
 仙台で本橋が立ち話をしていた女性も、ヒデに恋をしていたひとなのだろうか。俺は彼女とは会話もしなかったのだが、ヒデに会える日が来たら、おまえもなかなかもててたんじゃないか、と言ってやりたい。
 九回目の福岡には、シゲの現在進行形の熱愛のお相手、妻の恭子さんが来てくれた。恭子さんとシゲの結婚式で会って、紹介してもらった覚えのある男性が恭子さんと連れ立っていた。
「ああ、彼はたしか恭子さんの親戚のひとだったな、恭子さんは里帰り中だそうだから、親戚のひとといっしょにライヴに来てくれたんだよ」
「そういえば、俺も思い出しましたよ。いとこのタクちゃんって言ってましたっけ」
 章と話していると、恭子さんとタクちゃんがやってきた。こちらのふたりとあちらのふたりが挨拶をかわし、本橋さんにもご挨拶しなくちゃ、と恭子さんが行ってしまうと、控え室から幸生が飛び出してきた。幸生を追っかけてシゲも飛び出してきた。
「なにやってんだ、あいつらは」
「歌う前のトレーニングじゃないんですか」
「シゲの顔が怒ってたぞ」
「幸生がまたよけいなことを言ったんでしょ」
「だろうな」
 どたばたと追っかけっこをしていたシゲと幸生は、シゲが怒りの形相でいるにも関らず、たいそう楽しそうに見えた。
 そして、十六回目の新潟には、新潟出身の星さんからの差し入れが届けられた。来る人来る人、なにかしら差し入れを持ってきてくれて、都合で来られないひとも届けものをしてくれる。
毎回、花束だの食べものだのが楽屋に届いていて、じきに食事を忘れるタチの幸生は、腹が減ってたんだよ、うーれしいな、と言っては包みを開け、食事はすませたと言いながらのシゲも、幸生とともにもりもり食べていた。
 差し入れがありがたいのはむろんだが、俺は食欲よりも、なにかを届けてくれた人に気持ちが向く。とりわけ星さんとなると、ミエちゃんが大学に入ってはじめて恋をして、一年とたたずに別れてしまったひとなのだから。
 あのころのミエちゃんは、本橋に恋をしていたノリちゃんにどこか似ていた。一途に星さんを愛し、卒業していった星さんに別れを切り出され、悲しくてたまらなかっただろうに、けなげに耐えていた。ときおりは泣いたあとの顔をしていて、俺の胸までがきりきり痛んだのを昨日のことのように思い出す。俺は我知らず、彼女たちに声には出さずに話しかけていた。
 きみたちはとっくにそんな想いとも訣別したのだろうけど、あのころのミエちゃんも、あのころのノリちゃんも十八歳の少女だったんだね。目を閉じると、笑ってるミエちゃんの顔が浮かぶ。星さんったらね、と話してくれた声も聞こえてくるよ。泣きべそ顔のノリちゃんの顔も浮かんでくる。本橋さんなんて嫌いだもん、とすねていた声も聞こえるよ。
 十八だった俺も恋をしていた。その彼女はどこでどうしているのか。もしかしてライヴに来てくれたのだとしても、遠くから俺を見つめて、隆也くん、元気にやってるんだね、と微笑んでくれていたのか。
それとも、俺なんか忘れてしまったかな。それからだって恋はしたのだけれど、かつて愛したひとがすべて、俺を覚えてくれているわけもない。
 恋ではなくても、女ではなくても、別れて会えなくなったひとはいる。学生時代の友人や仲間たちの顔、顔、顔、がうっすらと、ぼんやりと、あるいはくっきりと脳裏に浮かぶその中で、いっとう鮮やかに見える顔は……ヒデ。ヒデはいったいどこでなにをしているのか。そろそろほとぼりも冷めただろ、俺たちの前にあらわれろよ、と言ってみても、彼に聞こえる道理もない。
 ライヴツアーが終わって休暇になって、そんなことを考えつつも、洗濯をしたり掃除をしたり料理をしたり、働く主婦のような休日をすごすのにも倦んできた。ごっそりと他人のCDを買い込んできて音楽を聴いたり、DVDで映画を観たり、作詞作曲にいそしんだりして、外出もあまりしていない。
 今日は酒巻が司会をつとめる、ビジュアルロックフェスティバルとやらがある。俺たちの後輩バンドの「燦劇」がフェスティバルのトリとなる。シゲが恭子さんと行くと言っていたのだが、俺はビジュアル系は得意とは言えないので、迷っていた。フェスティバルのプログラムは事前にもらっているのだが、知っているのは燦劇のみ。食指が動かない。
 華々しい漢字を連ねたバンド名やら、意味不明の外来語やら、どこの国の言葉だ? と言いたいようなものやら、どのバンドもビジュアル系らしいといえばらしい。
ビジュアルロックバンドの知り合いは燦劇以外にはいないが、燦劇と重ねて想像すれば、どんな外見なのかもおよそはわかる。俺の趣味ではないのだが、今どき流行りの音楽を生で見て聴くのも、悪い経験ではないだろう。行こうと決めて腰を上げた。
 ビジュアル系のライヴに行くからと言って、俺が派手なスタイルをする必要もない。ごくごく普通のジャケットを着て外に出た。タクシーでホール近くまで行くと、すでにフェスティバルははじまっているらしい。
チケットが買えなかったのか、中に入れないのであるようで、女の子たちがホールの外にたむろしていた。
「チケットは売り切れてるんですよ」
「俺は燦劇のファイと知り合いなんだよ。関係者なんだから、入ってもいいだろ」
「ファイさんと知り合いだという証拠は?」
「ファイに訊けよ」
 関係者通用口付近で、スタッフであろう男性と若い男が押し問答をしている。俺たちも昔は、知り合いのライヴ会場に入ろうとして、ファンはお断り、とガードマンに言われたことがあったっけ。今の俺もそう言われるのだろうかと危ぶみつつ、スタッフに声をかけた。
「僕はチケットは持ってるんですけど、ここから入ってもよろしいですか。えー、僕をごぞんじでしょうか」
「フォレストシンガーズの……乾さんですか」
「ありがとうございます。知っていただいていて感激ですよ」
「そりゃあ知ってますよ。燦劇とは同じ事務所ですよね。どうぞどうぞ、お入り下さい」
 燦劇と事務所が同じだから、スタッフは俺の顔を知っているのか。だとしても、追い払われるよりはいいだろう。お礼を言って入ろうとすると、不満顔で立っていた青年が話しかけてきた。
「フォレストシンガーズの乾さん? そしたら俺を知ってるんじゃないの?」
「あなたは?」
「俺も歌手なんだよ。さっきからそう言ってんのに、こいつ、綾羅木貢なんて歌手は知らないって言いやがって……」
「綾羅木貢ね。了解。きみも歌手なのだとしても、この方をこいつだなんて呼ぶな」
「たかがスタッフだろうがよ」
 気分を害している様子のスタッフに、俺は言った。
「こういう歌手がいるんですから、あなた方もご苦労なさってるんですよね。お仕事、ご苦労さまです。僕は彼と話してきますから、入るのはのちほどにします。またあとで、よろしくお願いします」
「は、はあ、あの……」
「個人的な用件ですので、あなたはお気になさらないで下さいね」
 来いよ、と貢に態度で示すと、彼はぷいっとそっぽを向いた。
「来いと言ってるだろ。来い」
「なんなんだよ。なんだってあんたにえらそうにされなきゃいけないわけ? 金子さんといい本庄さんといい、嘆かわしいだのサングラスはずせだのって、先輩だって言ったって、俺はあんたらになんかこれっぽっちも……」
「いいから来い」
 なにを誤解したのか、警察を呼んだほうがいいですか、とスタッフが問いかける。俺は彼にかぶりを振って、貢を促した。
不満のあまりか、叫び出しそうな顔をしてはいるものの、いやそうにいやそうに貢がついてきた。ホールの外には広場があって、女の子たちが三々五々、集まってお喋りしている。その中のベンチに貢と腰を下ろした。
「酒巻にも聞いたし、シゲにも聞いたよ。デビューおめでとう」
「演歌なんて……」
「演歌は嫌いか」
「俺はR&Bが歌いたいってのに、演歌でデビューさせられて、ファイが言いやがったんだよ。そのうちにはR&Bを歌いたいって言ったら、演歌歌手はこぶしが回るから無理だって……くそ、あの野郎、下手くそのくせしやがって」
「ふーむ、きみの言いたいことはなんとなくはわかったよ。俺は演歌は門外漢だから、なんとも言えないけど、なせばなるんじゃないのかな。それより、こんな仕事だって礼儀は大切だろ。おまえが金子さんと酒巻にはじめて会ったときに、金子さんに叱られたんだそうだな。金子さんがなぜ怒ったのか、わかってないのか」
「知らねえよ」
「その態度だよ。俺はおまえになんにも世話はしてないけど、仮にも先輩だよ」
「関係ねえってんだよ」
「時間の浪費だと金子さんがおっしゃった理由も、その場にはいなかった俺にもわかったよ」
 そんな昔の話は……と貢はつべこべ言っているのだが、わかっていないのでもなさそうだ。自身が歌いたい音楽を歌わせてもらえず、それでも歌手になりたくて、不本意な演歌の道を選んだのか。同情の余地もなくもない。
「俺、広島のフォレストシンガーズのライヴにも行ったんだよ。本庄さんに来なくていいって言われたけど」
「礼儀知らずな態度を取るからだ。こんなところで話してるのもなんだし、お茶でも飲もうか」
 喫茶店に移ると、貢は言った。
「俺が三年のときだったかな。フォレストシンガーズと金子さんが学園祭に来たでしょ」
「おまえ、いくつだ?」
「二十三」
 そのころの貢は二十歳か。三年前、俺が二十八歳だった年に、たしかに母校の学園祭に行った。金子さんも招かれていた。
「俺、見にいったんだよ。フォレストシンガーズも金子将一も、名前くらいしか知らなかったけどさ」
「売れてなかったからな。金子さんは俺たちよりは売れてたけど、一般受けするシンガーでもなかったから」
「けど、俺たちは合唱部の後輩なんだから知ってたよ。合唱部出身のプロの歌手が学園祭に来るって、みんなで楽しみにしてて、見にいったんだ。合唱部出身のヴォーカルグループなんてのは、クラシックか童謡でも歌うのかと思ってたら、かっこいいダンスナンバーだったじゃん。金子さんはR&Bっぽい歌だった。俺もあんな歌を歌いたいな、ってさ」
「それでプロのシンガーになろうと決めた?」
「そうだったのかな。そうだったのかもしれない。俺、そのとき、金子さんにサインをもらいにいった。金子さんは優しくしてくれたよ。なのにさ、兄ちゃんに言われて酒巻さんに会いにいったら、上から見下ろしてものを言うんだから、頭に来たんだよ」
「金子さんは本橋や俺の二年上だから、学生時代から世話になってた。世間に出てからも世話になってる。今でももちろん、金子さんは俺たちを見下ろしてものを言う。俺たちはそれを当然至極と受け止めて、頭には来ないよ。先輩なんだから」
「酒巻さんだってそうじゃん。なーんにもしてくれなかったくせに、えらそうにだけはした。本庄さんだって、乾さんだって同じじゃないか」
 先輩にえらそうにされると腹が立つ、と若いころの章はよく言っていたが、貢も章と同類の思考回路を持っているのだろうか。えらそうにしているのではなく、と言う前に、質問してみた。
「おまえがいたころの合唱部は、先輩が後輩にえらそうにしなかったのか」
「ちっとはしてたけど、俺が合唱部だったころの先輩には、おごってもらったりもして、世話になったから……」
「そんな毎日は楽しかっただろ。学生ではなくなったら、先輩たちがなつかしいだろ。利害関係なんかなくて、こうしてやったからこうしてくれるのが当たり前だなんて、そんなふうにも考えず……俺も先輩にはたびたび叱られたよ。説教されたり怒鳴られたり殴られたり、そういうのって……今どき、流行らないのかな。流行すたりではないと俺は思うけど、おまえもおまえで考えてみろよ。いずれにせよ、どんな世界だって礼儀作法は大切だよ」
「……あんた、説教好き?」
「いつもいつも、誰にでもそう言われる。どうやらそうらしい。やはりおまえにもそう聞こえるか」
「聞こえるよ」
 そんな話をしているうちに、喫茶店からさほどに距離のないホールのほうから、ざわめきが伝わってきた。フェスティバルは終了してしまったようだ。
「俺も燦劇のメンバーとは知り合いなんだよ。ライヴは聴けなかったけど、打ち上げをやるだろうから顔を出してくる。おまえも行くか? ファイとは友達なんだろ」
「友達なんかじゃない。行かない」
 ロッカーと演歌歌手がどうやって知り合って、友達ではなく罵り合いをする仲になったのか。ファイに訊こうと決めて、俺は喫茶店を出た。


 ホールのスタッフの方に教わった燦劇の打ち上げ会場には、シゲも恭子さんも酒巻も来ていた。恭子さんはフォレストシンガーズのライヴにも来てくれていたので、その際の感想などを聞いていると、店にものすごいカップルが入ってきた。
 俗に言う電信柱か独活の大木か、というほどに男は背が高い。痩せた長身に暗青色の革のスーツをまとい、ウルトラマリンの超ロングヘア、その髪に孔雀の羽のごとき髪飾りを満艦飾につけている。覗かせた片耳にはピアスがいくつもいくつも。顔を見るとくちびるにも鼻にもピアスがついている。
 女も背が高い。俺と同じくらいはあるだろうか。黒の短い丈のジャケットを羽織ってはいるのだが、その下は水着? 下着? 真紅のブラにピンクのラメのスパッツ、真紅のブーツ。ロングヘアを七色に染め分けて、四方八方に乱れさせている。こちらは大きなピアスが臍にある。化粧もはなはだ濃くて、燦劇の面々が地味に見えそうないでたちだった。
「ビジュアル系の方? パンクス?」
 そっと尋ねると、恭子さんがそっと教えてくれた。
「さっき、ステージに出てきてました。女の子は「美妖魔」の子ですね。名前は知らないけど、アンちゃんの仲間ですよ。男の子は……あの衣装は……「ラピスラズリ」です、たぶん」
「ステージ衣装のまんまで店に来たのか。じゃあ、ビジュアル系の方だね。燦劇の友達なんだったら、こっちに来ても不思議はないんだろうな」
「そうなんでしょうね」
 よお、ゴリ、とエミーが男のほうに声をかけ、男が言い返した。
「ゴリなんて呼ぶな。ゴルディアスだよ」
「おまえんとこのメンバーって、舌を噛みそうな名前ばっかなんだもん。ゴルディアスなんて呼ぶのは面倒だから、縮めてゴリ、いいだろ」
「よくないよ」
「いいっていいって。気にすんな。サラちゃんもよく来たね」
「あたしはサラじゃないよ。アンだって正式な名前は……」
「サラとアンでいいじゃんかよ。なんだっておまえらって、ゴルディアスだのサラ……なんだっけ、忘れた。ゴリとサラでいいんだ。面倒くさいから」
 面倒くさいとはなんだ、と怒っているカップルを、パールが紹介してくれた。
「女の子は「美妖魔」のサラちゃん。正式名称はサラマンダーサラティミングだっけ? ちがった? いいって、言わなくても。男は「ラピスラズリ」のゴリ。乾さんもそう覚えてね」
「はじめまして。フォレストシンガーズなんてごぞんじないかもしれませんが、彼はフォレストシンガーズの本庄繁之、そちらの女性は本庄の奥さんの恭子さんです。僕はフォレストシンガーズの乾隆也と申します」
 自己紹介してもろくろく聞いてもいない。燦劇以外にも知り合いにロッカーはいて、たいていの奴らが礼儀なんて歯牙にもかけていないのは知っている。演歌歌手とはまたちがうのだろうから、とやかく言ってもまさに時間の浪費だ。サラちゃんはパールに言った。
「あたしの正式なステージネームは、サラマンダー・ティミー・サラティっていうんだよ。覚えろよな」
「どっから来たの、その名前? プロレスラーみたいだね」
「プロレス技もやれるよ。やってあげようか」
「わーっと、勘弁して下さい」
 パールはシゲの背中に隠れ、ルビーが言った。
「乾さん、サラマンダーってなんだっけ?」
「火とかげ」
「ラピスラズリってなに? 宝石の一種じゃないの? こいつら、俺たちの真似してるんだ」
「燦劇は宝石がコンセプトだっていうけど、バンド名は宝石じゃないじゃないか。真似とは言わないよ。はーん、それで暗い青のステージ衣装なんだね。ラピスラズリとは、こういった石、宝石というより貴石なんじゃないかな」
 本で読んだ知識を開陳した。
 ラピスラズリには古代エジプト時代までさかのぼる歴史があり、その群青色は王の権威を象徴していた。日本では瑠璃と呼ばれ魔除けや幸運を呼ぶ石として古くから重んじられてきた。
モーゼが十戒を刻んだ石ともいわれて、精神や魂を浄化し直感的で自然な思考が機能するように助けるので、アイデアやうまく言葉にできない思いをスムーズに伝える働きをする。さらに、本当の自分を見つめ、もはや自分に合わなくなった精神・思考を放り出す手助けをもしてくれる。
 へええ、とシゲは感心している。なんとなく知ってる、と恭子さんはうなずき、ゴリとサラはつまらなそうな顔になり、トビーとルビーは両側から酒巻の耳元に口を寄せてなにやら言っている。エミーとパールもひそひそ話をしている。ファイはと見ると、やや離れた場所で険しい表情をしていた。
「……こんな話、どうでもいいよね。きみたちは友達なんだろ。どうぞ、楽しくやって下さい。あのね、ゴリ……ゴルディアスくん、くちびるピアスって痛くないのか」
 つまらない話をしたせいで雰囲気がよくなくなってきたのかと、どうでもいいような質問をしてみると、ゴリが胸をはだけた。両方の乳首にまでピアスが輝いていて、つまり、くちびるピアスなんてどうってことはない、と言いたいのだろう。思わず背筋が寒くなっていると、サラも言った。
「あたしもピアスしてるんだよ。見せてあげようか。見たい?」
「ええ? おっぱいピアス?」
 トビーがサラの胸元を覗き込もうとする。サラはうふっと色っぽく笑う。今度はいたたまれない雰囲気になってきたので、逃げようかと思っていると、恭子さんが発言した。
「女の子のロッカーって露出狂ばっかり? シゲちゃん、見たいの?」
「見たくないよっ」
「乾さんは?」
「シゲに同じです」
「酒巻さんは?」
「とんでもありませーん」
 酒巻とシゲの常の低音が、いくぶんトーンが上がって聞こえた。俺が気づいたのだから恭子さんが気づかないわけもなく、ぎろぎろっとシゲを睨みつけた。
「見たいんだったら見せてもらったらいいじゃない」
「見たくないって言ってんだろ」
「アンって子もサラちゃんもものすっごく胸が大きいよね。私はどうせバストじゃなくて胸板ですよっだ」
「そんなこと、言ってないだろ」
「前に言ったじゃないのよ。おまえの胸は……」
「恭子、あんなの冗談だよ。ごめん、な、ごめん」
「知らない」
 喧嘩をして失言したのか。シゲも奥さんにそのようなことを言うんだなぁ、と感慨にふけっている場合ではない。恭子さんは怒っていて、シゲはうろたえている。酒巻が当惑のていになった。
「乾さん、恭子さんとシゲさんが喧嘩をはじめそうで……」
「うん、そのようだな。俺たちは出ようか。恭子さん……怒りを鎮めて」
「乾さんだって見たいくせに。男って若い女の子の大きな胸にはでへへーってなるんだから。さっきだって、シゲちゃんはアンちゃんのバストを食い入るように見てたじゃないの」
「見てないよ」
「見てた」
 アンちゃんとはサラのバンド仲間らしいのだが、ここにいない女の子はどうでもいい。それよりもなによりも、これはまずい。酒巻もおろおろと、恭子さん、落ち着いて下さい、と嘆願している。恭子さんの怒りは酒巻にも向けられた。
「酒巻さんもだいたいね、うじうじしすぎなのよ。もてないもてないって、シゲちゃんだって最低にもてなかったんだよ」
「はあ、そうらしいですね」
「そうらしいとはなによっ」
「……あ、ごめんなさいっ!!」
 まずい、大変にまずい。俺は声を荒げ気味にしてシゲに言った。
「恭子さんを外に連れていけ」
「は、はい、恭子、行こう」
 夫婦なのだからして、ふたりきりになったらムードも変わるだろう。とりあえずあっちのふたりは、ふたりで仲直りしてもらうしかない。恭子さんもシゲについて外に出ていったので、とりあえず安心した。


2

 夫婦喧嘩中のふたりが外に出ていって安心したのもつかの間。サラが自らの手で自らのバストを持ち上げて寄せてみせたり、谷間を誇示したりして、見まいとしても俺の視線もついつい吸い寄せられてしまっていると、ドアが開いた。
「誰、あんた?」
 問いかけたのはパールで、ドアを開けて突っ立っているのは綾羅木貢だった。ファイがつかつかと貢に歩み寄って、彼の胸を両手で押した。
「なにしに来たんだよ。てめえになんか用はないんだ。出ていけ」
「なんだとぉ。てめえは俺の顔を見るといつもいつでも……」
 ファイは貢の胸をぐいぐい押して外に出そうとしている。そうしていると、どやどやと男たちが店に入ってきて、はずみでファイと貢が押し出されてしまった。
「ゴル、ここか?」
「サラもいるんだな」
「アンは?」
 口々に問いかける男たちは、ラピスラズリのメンバーであるらしい。ゴリと似た服装でぞろぞろと入ってきた彼らに、エミーが言った。
「メンバーもゴリって呼んでるじゃないか」
「ゴリじゃねえだろ。ゴルだよ」
「おんなじようなもんじゃん」
 エミーとゴリだかゴルだかは実に下らない口論をしていて、俺はパールに近づいていった。
「貢とファイがどういう関係なんだか、パールは知ってるのか?」
「あいつ、貢っていうの? 何者? 俺はあんな奴は知らないよ」
「僕は知ってます。初対面のときから犬猿の仲になりかけてました」
 言った酒巻に、ならば、俺と外に行こう、と言いたかった。が、大柄な若い男ふたりが殴り合いでもはじめたとしたら、酒巻がその場にいては危険だ。が、そう言っては酒巻に無礼であろう。
「ひとまず、俺がファイと貢を見てくるよ。酒巻はここにいてくれ」
「は、はい。でも、乾さん、大丈夫ですか」
「エミー、ついていってくれるか」
 ラピスラズリの連中は強そうな男たちだが、口をきいたこともない相手には頼めない。他に頼りになりそうなのは、エミーのみ。
とはいえ、エミーは背は低くはないが俺以上に細いし、気性は決して強くないと知っている。とはいえ、それも言っては無礼なので、頼るふりをしてドアに向かいながら振り向くと、エミーの前にサラの姿が目に入った。
「ゴルだかゴリだか知らないけど、彼女はきみの恋人なんじゃないのか。なんとかしろっ!!」
 叫んでおいて飛び出すと、外にいたファイと貢がそろって俺を見つめ、ファイが尋ねた。
「どうしたの、乾さん? なにをわめいてたの?」
「サラだよ。はずしてしまった」
「なにを? え……もしかして?」
「もしかしてってやつだな。なんだよ、あの子は。恭子さんの言った通り、露出趣味があるのか」
「さあね。俺は知らないけど、せっかくだから見にいってこようかな」
「行くな。おまえたちはなにをしてたんだ。喧嘩でもなさそうだな」
 無言で立っていた貢が言った。
「乾さん、あれからホールに戻ってって、スタッフに訊いてただろ。燦劇の打ち上げはどこでやるのか、って聞こえたから、俺も来てみたんだよ。そしたらこいつが……」
「おまえに来てくれなんて頼んでねえだろ」
「そりゃあそうだけど……」
「な、なんだよ、その顔は……」
 このふたりもおかしな雰囲気だ。だが、暴力沙汰になりそうには思えないし、子供ではないのだから話し合えば解決する、と信じたい。
「ふたりで話し合え。恭子さんとシゲは……ああ、むこうでしっぽりやってるな」
 しっぽりってなに? と問い返すファイに、なんでもないんだよ、と言って店に戻ろうとした。歩き出したところで声をかけられた。
「乾くん、やっぱりここにいたのね」
「その声は沢田さんですか」
 振り向くと、沢田愛理さんが優しい笑みを浮かべて立っていた。ファイも貢も好奇の色をあらわにして、彼女と俺を見比べていた。
「紹介するよ。彼女は俺の合唱部時代の先輩。ラジオ局のアナウンサーだから、ファイも貢もひょっとしたら知ってる?」
「うちの局はビジュアル系ロッカーの方とはおつきあいはないよ。私も近頃は音楽番組を担当させてもらったりはしてるから、知識はあるんだけど、ファイさんって燦劇のヴォーカリストよね。私とは初対面でしょう? はじめまして」
「は、はじめまして」
「貢も知りません? 綾羅木貢、彼もまたうちの合唱部のはるか後輩です」
「綾羅木貢さん? 知ってる。合唱部出身の初の演歌歌手なのよね。はじめまして」
「はあ」
 もうすこしまともに挨拶しろよ、と言うのも疲れたので、俺は沢田さんに言った。
「ビジュアル系の奴らには慣れていらっしゃらないんでしたら、中には入らないほうがいいかもしれません。男女ともに面妖なロッカーたちが、店の中で乱痴気騒ぎに近い行動をしてますから」
「そうなの?」
「時に、沢田さんはなぜここに?」
「店に入らないほうがいいんだったら、乾くんとふたりでお話ししたいな」
「光栄です。参りましょうか」
 近くに静かなバーがあるから、そこへ、と言う沢田さんと歩き出す俺を、ファイと貢はぽけーっと見送っていた。
「礼儀知らずの若者たちで申し訳ありません」
「綾羅木さんは男子部の後輩で、ファイさんは事務所の後輩だから、乾くんがあやまってくれるの? 私なんて彼らには関係ないんだから、挨拶なんてどうでもいいんでしょうね。そういう若い子の考え方には慣れてるよ」
「そうですか。そうでしょうね」
「酒巻くんは中にいるの? 大丈夫?」
「大丈夫でしょう。いや、いささか心配ですが……」
 バーに入ってウィスキーソーダをオーダーすると、沢田さんが話してくれた。
「酒巻くんから聞いてたの。彼が今日のフェスティバルの司会をするから、沢田さんもお時間があればいらして下さい、って。酒巻くんは礼儀正しいよね」
「まあまあでしょうね。俺の礼儀もご年配の方から見れば、なっちゃいないのかもしれませんが。と、こんなふうに沢田さんのお話しを遮るところからしてなってませんね。失礼しました。続けて下さい」
「酒巻くんが誘ってくれたんだけど、私は仕事があって、フェスティバルには行けなかったの。でも、予想よりは仕事が早く終わったから、打ち上げをやってるのかな、酒巻くんもいるかなって、ホールに来てみたのよ。そしたらスタッフの方が、酒巻さんはたぶん燦劇の打ち上げの店にいるでしょうって、あの店を教えて下さったの。乾くんも来てたんだね」
「酒巻に会いにこられたんでしたら……」
「ううん、乾くんと話すほうがいい」
 淡いブルーのパンツスーツ、薄化粧、やわらかな風貌。若いロッカーたちの突飛な衣装や化粧や乱暴なもの言いに触れたあとでは、沢田さんの優しくあたたかな声や穏やかな外見にホッとできる。沢田さんは静かに続けた。
「私もフォレストシンガーズのライヴに行ったのよ。川崎と千葉にお邪魔してたの」
「控え室にはいらっしゃいませんでしたね」
「差し入れもできなくて、ごめんなさい」
「それはいいんですけど、お顔を見せて下さればよかったのに……」
「乾くん、私はあなたの先輩だよね」
「はい」
 なにを言い出すのかと思ったら、沢田さんは妙なことを言った。
「乾くんの礼儀が年配の方から見たらどうこうって、私は年配の方?」
「そういう意味ではありませんよ」
「礼儀なんてどうだっていいから、友達みたいに喋ってよ」
「沢田さんがそうしろとおっしゃるのでしたら、努力はしますが、長年こうやって話してますから短時間では……」
「じれったいのね」
「……は?」
 穏やかに聞こえていた沢田さんの口調に、苛立ちが忍び込んでいる。なにが彼女の機嫌を損ねたのかと考えていると、沢田さんは言った。
「煙草、ちょうだい」
「煙草? この店は禁煙ではないんですね」
「バーが禁煙だったらお客が減るんじゃないの? 灰皿もあるよ。乾くんは吸うんでしょ。持ってないの?」
「持ってますが、沢田さんが煙草を吸ってる姿は見た覚えがないんですけど……」
「あなたの前では吸わなかっただけ。ちょうだいよ、つべこべ言わずに」
 ポケットから取り出すと、沢田さんは煙草を一本抜いて、火を催促する仕草をした。火をつけてあげると深く吸い込んで、途端にむせた。
「沢田さん、どうしたんですか。その反応は喫煙者じゃないでしょう。やめたほうがいいですよ」
「隠れ煙草やってむせてる高校生みたいだね。いいの、ほっといて」
「苦しそうな顔をして……俺は高校生のときにはじめて煙草を吸ったんです。当時の彼女がいたずらで吸っていて、俺にも勧めたから吸うようになりました。深くは吸い込まずにいたら、彼女が馬鹿にするんですよ」
 遠い遠い昔だ。金沢の高校生だった俺は、煙草ってそんなふうに吸うものじゃないよ、とまゆりに笑われて、思い切り吸い込んで眩暈を起こした。くらっとして倒れそうになり、それでも意地を張って吸い終えて、二本目の煙草も深く深く吸い込んだ。
「それでどうしたの?」
「河原にぶっ倒れました。気がついたら彼女が、泣きべそかいてましたよ。乾くんが死んじゃったぁ、なんて呟いてて……」
「飛び起きて抱きしめた?」
「心配させてごめんって、俺があやまりました」
「乾くんってそういうひとよね。私も失神しようかな。そしたらどうする?」
「沢田さん、なにが言いたいんですか」
 小さく咳き込んで、沢田さんは煙草を灰皿でもみ消した。
「ほんとは吸うのは二度目なの。大学一年のときだったかな。あのころの私は精神的に不安定で、思春期をひきずってたのよね。田舎の女子校出身の真面目な高校生だった私が、東京の大学に入って精神的に眩暈を感じてた。その上、私をくらくらさせる悪い男がいたのよ」
 灰皿の煙草を仇敵のごとく、ぎゅうぎゅう押しつけている。悪い男とは誰だ。見当はつくのだが、俺は黙って聞いていた。
「その男を見るたびに腹が立った。どうして腹が立つのかは知ってたよ。本当に言いたいひとことが言えない、弱気な私が悪かったの。でも、言えなくてね、彼はそんな私をなんだと思ってたんだろ。優しくしてくれて可愛がってくれて、私が無茶を言っても怒りもしないで、すれちがいざまに蹴飛ばして、蹴ったのはあなただって言ったら、ごめんって言って、ケーキをおごってくれたら許してあげるって言ったら、ケーキのおいしいお店に連れていってくれた。何度かそうしておごってもらったの」
 そんなある日、沢田さんは彼の前で煙草を取り出したのだと言った。
「あれ? 煙草、吸うの? 未成年が煙草なんて、まして女の子が、って彼が言って、ほっといてよ、って言い返して煙草をくわえて、深く吸ったの。私もくらくらっとして、貧血症状みたいになるのよね、あれって」
「はい」
「はいってなによ? でね、彼は心配してくれた。俺のアパートに行く? ここから近いんだよ、って言ってくれて、連れていってくれたの」
「アパート? 彼は……いえ、どうぞ続けて下さい」
「顔色が青いよ。大丈夫? 煙草なんて吸いたくて吸ったんじゃないんだろ。言ってごらん。そうやって子供みたいなふるまいをするなんて、十八にもなったレディにはふさわしくないよ」
「と、彼が言った」
「そうよ。そうして私を抱きしめて、捨てようね、煙草なんて、って。うん、捨てる、私も捨てたいの、って……」
「はあ」
「言いたかったの。捨てたかったの」
「言いたかったけど言わなかった。彼は察した?」
「どうなんでしょうね。なにを私が捨てたかったのか、乾くんは知ってるの?」
「少女の純情」
 ぷーっと吹き出してけらけら笑ってから、沢田さんは言った。
「なんてことはなかったのよ」
「なかったとは?」
「ケーキをごちそうしてもらったのは本当。そういうことは幾度かあった。でも、煙草のくだり以下は作り話よ。煙草を見てたら思いついたの。そういうことでもあったら、いまだにこんなじゃないのになぁって。煙草なんて生まれてはじめて吸ったのよ。三十二にもなって煙草初体験って、すごいでしょ?」
「すごいんですかね。煙草なんて一生未経験でもいいんじゃないんですか」
「白けちゃった?」
「いいえ、興味深いお話でした」
「軽蔑してる?」
「してませんよ」
 ねぇ、と沢田さんは俺を見つめた。
「アパート、彼は……なに?」
「なにか言いましたか、俺?」
「言ったじゃないのよ。知ってるの? 彼が誰だか」
「知りません」
 疑わしそうにいっそう俺を見つめ、沢田さんは言った。
「彼って、彼って……なにを訊けばいいのかわからない」
「厄介な男に……」
「やっぱり知ってる」
「知りませんが、一般論としてですね、沢田さんは彼が好きなわけでしょう? 十八歳だったころから、彼をずっと好きなんですよね。しかし、気が弱いだとか、できれば彼から言ってほしいとか、心の中で葛藤が渦巻いて言い出せなかった。彼が察しているのかいないのかも謎で、そのまんま現在に至ってる。そうなんですよね」
「そうみたいね」
「だったら厄介な男じゃありませんか」
「さっすが乾くん。上手な詭弁」
「お褒めに預かって恐縮です。いっそあなたから告白を……いや、そうも……いや、いやいや、困ったな」
「どうして困るの?」
 一年年上の沢田さんと、彼女よりも一年年上の厄介な男。彼女が彼に恋しているとは、学生時代は知らなかった。
先輩たちの恋愛相関図なんてものは、気づいた場合もあればまったく気づかなかった場合もある。沢田さんとはさしたる関りはなかったので、個人的に会話をしたとしても、通り一遍の世間話程度だったはずだ。男のほうとだったら深く関りはしていたのだが、彼は恋愛話はしてくれなかった。 
 卒業してから仕事の関係で、沢田さんとは以前よりは親しくなった。彼女が彼に向けるまなざしを見て、んん? あれれ? と感じたことはあるのだが、彼女はなにも言わないのだから、俺が関知するような問題ではないと考えていた。
 が、名前は出さなかったにせよ、彼女は俺に話してくれた。その男が誰なのか、俺の推測は正しいだろう。
だからといってどうすればいいのか。彼の恋愛関係も現在では多少は知っているが、まぎれもなく厄介な男。そちらの方面では、俺は彼には意見などできない。そちらの方面ではなくても、俺は彼には頭が上がらない。どうしようもない。
「俺にはなにもできません。すみません」
「乾くんにどうにかしてもらおうと思って、話したんじゃないよ。言ってみたかっただけ。こんな話をするのもはじめてなのよ。私は十八のときから彼が好きだったけど、彼じゃない恋人だっていたんだから。溝部くんに告白されたのは知ってた?」
「溝部さんが?」
「知らなかったの? その話がらみで、私が溝部くんに殴られそうになったときに、乾くんが助けてくれたじゃないの」
「……そういえば」
 夏合宿の浜辺でだった。すっかり失念していたそのシーンがもやもやと蘇ってきたのだが、前後の記憶は欠落している。沢田さんはよく覚えているのか、微笑んで言った。
「私、乾くんもタイプだって言ったでしょ? 忘れた?」
「言っていただいたような記憶はなくもなく……」
「あんなことがあって、ますます乾くんのファンになったの。外見的には乾くんってタイプよ。彼より細いけど、あの彼よりもあの彼よりも細いけど、スリムな男性は好みなの。乾くんには恋人はいるの? 困ってるね。いないって言って口説かれたらどうしようって? 乾くんは私は好みじゃないんだよね。乾くんもスリムな女が好き? 私は豊満すぎる?」
 返事をする前に、沢田さんは立ち上がった。
「やばい」
「え?」
「やばいからね、行こうよ。酒巻くんが心配してるんじゃないの?」
「そうですね」
 なにがやばいのだかよくわからないままに、意識から抜け落ちかけていた酒巻を思い出した。恭子さんとシゲも、ファイと貢も気にかかる。沢田さんとの会話はたしかに、もしかしたらやばい方向に向かいかけていたのかもしれないので、好都合といえば好都合なのだった。


 いつしかだいぶ時間が経過したようで、戻った店は静かになっていた。
「乾さん……あ、沢田さん、いらして下さったんですね」
 立ち上がって迎えに出てくれたのは酒巻で、沢田さんと挨拶をかわしている。店の中を見回すと、恭子さんとシゲとエミーが残っているばかりで、他の若者たちは消えてしまっていた。
「パールとルビーとトビーは、ラピスラズリのいる店に行っちまったよ。サラちゃんもそっちに行った。ファイと綾羅木って奴も、ふたりでどっかに行っちまった。俺は乾さんたちに聞いてもらいたいことがあったから残ったんだ」
 話してくれるエミーに沢田さんを紹介し、初対面ではない恭子さんと沢田さんも挨拶をかわし合う。沢田さんと恭子さんはふたりで話しているので、男四人でテーブルを囲んだ。
「エミー、話って?」
「……うん、乾さん、俺さ……だいぶ前から考えてたんだけど、ビジュアル系ってのは俺には合わないんじゃないかと……」
「何年もやってるのにか」
「何年もやってるからだよ。俺はもともと、ハードロック志向なんだ。木村さんにはちらっと話したんだけど、おまえたちの問題はおまえたちで解決しろって言われたよ。乾さんやシゲさんもそう言う?」
 それは要するに、とシゲが言った。
「燦劇を脱退するのか。みんなとは話し合ったのか」
「言ってねえよ。言えないじゃん。燦劇は売れてきて、あんなにいっぱいファンがいて、エミーエミーって、俺を見てきゃあきゃあ言ってくれるファンもいる。エミーがいちばん好き、エミー、いつまでも燦劇のエミーでいてね、って、ファンレターなんかも来るんだよ。プレゼントももらったよ。ステージにいるエミーが私を見てくれたら、私は明日からまた強く生きていけます、なんてカードがついてたよ。ライヴやっててファンの子なんていちいち見ちゃいねえけど、そう言ってくれると嬉しいよ。燦劇のエミーだからこそ、こんな俺に騒いでくれる女の子がいるんだって……」
「そこにおまえのレーゾン・デートルってやつがあるわけだよな」
「なに、それ、乾さん?」
 存在意義、存在理由、と解説してから、酒巻が言った。
「そうやって悩んでて、乾さんに相談したかったんだね。ファイは薄々は感づいてるんじゃないの?」
「かもしれないな。俺はハードロックがやりたいんだよ。ハードロックギタリストになりたいんだ。燦劇がハードロックやるなんてあり得ないんだから、あいつらは、ハードロック? 古臭い、って言う奴らなんだから。俺は古くてもいいから、好きな音楽がやりたいんだ」 
「ファイたちに話すしかないだろ」
 結論としてはそうしか言えなくて、俺が言うと、シゲも言った。
「音楽的見解の相違ってのか。そういうのでバンドが解散したり、誰かが抜けたりってよくあるんだよな。エミーがいなくなるなんて……いや、俺には関係ないったら関係ないんだけど、ねぇ、乾さん?」
「おまえの想いがどこにあるのかは、俺は知ってるつもりだよ。しかし、この際、それは別問題だろ。エミー、メンバーと話し合ってみろよ」
「うん」
 そうしかないか、と元気のなくなった風情になって、エミーは言った。
「ごめん、俺の……ありがとう。そうするよ。じゃ」
 エミーは店から出ていき、話を聞いていたらしい沢田さんが言った。
「乾くんって相談役? 大変だね」
「大変ではありませんが、若者にはなにかとありますよね」
「私は若者でもないけど、なにかとあるのよね。私も帰ろうかな」
「お送りしますよ」
「あの、あの……」
 酒巻がためらいがちに口をはさんだ。
「僕はここで待ってますから、沢田さんを送っていったあとで、戻ってきていただけますか」
「おまえも俺になにか?」
「はい」
「そんなら」
 シゲは言った。
「恭子、ふたりで沢田さんを送っていこうか。俺たちは沢田さんを送ってから帰ろう」
「そうだね。沢田さん、行きましょうよ」
「いいのに……そんなの、悪いよ」
 遠慮する沢田さんを、恭子さんとシゲが連れて店から出ていった。さて、おまえの相談ってなんだ? とふたりっきりになった酒巻を凝視すると、彼は頭をかきむしった。心の整理がつかないのであるようだから、重大事なのだろうか。俺は酒巻が話しはじめるのを待っていた。


3

「言ってはいけないんです。言ってはいけないんですけど、言わないと破裂しそうなんですよ」
 そう前置きして、酒巻が打ち明けたのは、重大すぎるほどの重大事だった。
「僕が神戸のFMでの仕事をやってるって、話しましたよね。会ったんですよ。ファイと貢が会ったのと同じ日でした。ファイが僕の番組にゲストに来てくれて、その日に貢も局に新人歌手として挨拶に来てて、番組が終了してから、港の見える酒場にファイといっしょに行きました。「酔っ払いカモメ」って、髭のマスターがやってる店です。そこはヒデさんの行きつけの店でした」
「……ヒデ?」
「酔っ払いたちに因縁つけられて、ファイとふたりで出ようとしていたら……ヒデさんが……僕、泣いちゃいましたよ。だから、ファイも知ってるんです。口止めしたからファイは守ってくれてますけど、詮索したがるのを退けるのに必死です。乾さんによろしくお願いしちゃうからねって……」
「なんだよ、それは。そんなのどうでもいいから、ファイはどうでもいいから、ヒデは?」
「ヒデさんは僕を忘れているようでしたけど、思い出してくれて、店の外で話しました。僕が泣き止んでから話しました」
 その光景が目に浮かぶ。ヒデに抱きついて泣きじゃくる酒巻。泣かれて困り果てているヒデ。
 港を歩きながら、ヒデと酒巻は会話をかわした。酒巻も詳しくは知らないのだそうだが、おそらくヒデは結婚して離婚して、ひとりになって神戸で働いている。電気屋の従業員になっているのだそうだ。
酒巻はヒデに、「酔っ払いカモメ」で会おう、と言い、ヒデは時おりその店にあらわれると言う。酒巻は週に一度、神戸に通っているのだから。
「フォレストシンガーズのライヴツアーの話もしましたよ。神戸にも来るから、僕といっしょに行きましょうって、お願いしましたよ。でも、怒られるばっかりで、くどい、うるさい、行かないったら行かないんだーっ、ってね、土佐弁やら神戸弁やらのまじった言葉で怒られるんです。しつこく誘うとヒデさんが二度と会ってくれなくなりそうで、諦めました。連れていけなくてすみません。あれからもヒデさんとは会ってるんですけど、シゲさんには……」
「ああ。いきなり……俺も神戸に行きたいよ。シゲだって行きたがるだろ。だけど、いきなり行ったらおまえの立場が悪くなるし、ヒデも態度を硬化させる恐れがある。じっくりやらなくちゃな」
「そうですか。そう言ってもらえたら……今度、シゲさんが僕の番組に出てくれる予定ですよね。その話もヒデさんにはしましたから、あるいはあるいは……」
「あるいは……」
 あるいは、を祈ろう。あるいは、が逆作用すれば、シゲを落胆させるだろうから、シゲには告げないでおこうと言い合った。
「そうですね。僕もそうしたほうがいいと思います。乾さんに話してよかった」
 ぐすんと鼻をすすり上げる酒巻を見ているとじんとしてくる。おまえもそんなにもヒデを……ありがとう、と心で言いながらも、突然すぎる話に呼吸困難になりそうだったのを整えていた。酒巻もしばし息を整えていたようだが、やがて口を開いた。
「それともうひとつ、乾さんによろしくお願いしなくちゃいけない話があるんです」
「もうひとつか。今の話ほどの重大事なんてもうないだろ。言えよ」
「実はですね」
 今度はいきなり、過去へと遡った。
「僕の初恋、一度目の恋は乾さんもごぞんじですよね。たったの数ヶ月でふられて、僕は泣きました」
「うん、聞いたよ」
「二度目の恋の話はしましたっけ」
「……聞いてないはずだよ」
 二十八年の酒巻の人生の恋物語を、一度目から現在まで聞かされるのだろうか。いったいいくつあるのだろう? 恋の話しがどう進展していくのかは知らないが、腰を据えて聞くつもりで煙草に火をつけた。
「二度目の恋はひとつ年下の女の子でした。彼女は僕のはじめての……いわゆるその……」
「うん、わかった。で?」
「彼女との恋もはかなくも短い期間で破れました。僕はそのときにも泣きました。それから三度目の恋は、ひとつ年上のひとでした。その恋は告白を断られた形で破れました。そのときには泣かずに耐えました、そして四度目の恋は、つい最近です」
「四度か」
「少ないでしょう?」
「恋は数ではない。深さだよ」
「深くもないんですよね、どれもこれも。そのひとは仕事の関係で知り合った女性です。僕は……僕は、彼女にほのかな恋心を抱いていました。打ち明ける機会を探していたら、彼女のほうから誘ってくれたんです。酒巻さん、食事でもしない? って」
「……おめでとう、とは言えない顛末のようだな」
「おめでとうだなんて言われたら、僕は乾さんを……」
 目に涙がたまっている。おめでとうと言ったらなにがどうなるのか知らないが、煙草を一服して水割りを一口飲んで、酒巻を見つめていた。
「彼女が言うには……彼女が言うには……どうせそうなんだ。僕なんか僕なんか……」
 泣くな、と言っては酷な仕打ちなのだろうか。酒巻は涙をぽろぽろこぼし、絞り出すように言った。
「背の低い男はもてないんですよね。知ってますよ。シゲさんだってもてないって、恭子さんは言ってましたけど、シゲさんは身長はあるじゃないですか。木村さんだって三沢さんだって、おまえといるとでかくなったような気がするから、おまえは好きだよ、って言ってくれて、好いてもらえるのは嬉しいですけど、僕がちびだからって……三沢さんや木村さんは百六十センチはあるんですよね。僕はないんですよ」
「……うーん」
 話しが脇道にそれていっているのだが、酒巻の気持ちはわからなくもない。いや、俺には背の低い男の悲哀は芯からはわからないのだろう。せめて百七十センチあったらなぁ、と幸生や章が昔から始終言っていたが、そんなときに俺がなにか言うと、背の高い男に言われたくないよっ、と章は怒った。
 背の高いも低いも個性だとか、遺伝だとか生まれつきだとか、男は身長ではないだとか、本人だってそれは知っている。俺もかつては、金子さんや徳永や本橋を見ては、男は身長と筋肉か、などと羨んだ覚えがある。酒巻の場合、せめて百六十センチあったらなぁ、なのだから、言ってみたとしたら、贅沢言わないで下さい、とやっつけられるだろう。
 身長が低いからとふられたのか。それはもうまったくもう、どうにもならない。俺にはなにも言えない。男の身長なんか気にしない、おおらかな心の女性に恋をしろ、とも言えなくて困っていると、酒巻がキッと俺を見据えた。
「今回は打ち明ける間もなくふられました。彼女ったらね、僕になにを言いたかったのかっていえば、こうなんですよ。酒巻さんはフォレストシンガーズの乾さんの大学の後輩なんだってね? 紹介してほしいな。私、乾さんが好きなの。すらっと背が高くて優しそうで、思いやりがあって、乾さんの恋人になれたら幸せになれるだろうな」
「……そっか」
「上っ面だけ見て、つきあってもいないくせに、なにが思いやりだよ」
「うーむ」
「うーんだのそっかだのうーむだの、乾さんらしくないじゃありませんか。まともな返事をして下さいよ」
「できないよ」
「たしかに乾さんは優しそうに見えますけどね、そんなの、つきあってみないと本質なんかわかりっこないでしょう。女って直感でものを言うんだから。その直感は必ずしも当たってるのかよ。僕は背は低いけど、乾さんよりも優しいのに……」
「うん」
「……乾さん、どうするんですかっ!!」
 ついに怒り出した。酒巻がこんなふうになるのは珍しいのだが、要は八つ当たりだ。俺には落ち度はないはずだが、酒巻の胸中では、乾隆也のせいでふられた、となっているのだろうから、どうにもこうにも、なのだった。
「……ふられてばっかりですよ、僕。子供っぽすぎる、昔の彼女と較べないで、高校生じゃあるまいし、私、乾さんが好きなの、四度のふられ文句をみんな覚えてるんです。忘れたいよぉ。どうしたら忘れられるんですか」
「人は悲しい生き物です。忘れたいのに忘れられなくて、澱のようにたまっていく追憶が、夜毎胸を噛む。人は哀れな思い出の虜囚」
「なんですか、それはっ」
「詩だよ」
「……詩になんか逃避してないで、現実を見て下さい」
 恋をなくした友達が、こうして俺に失恋の話をした経験もかつて幾度もある。昔の俺はどうしただろう。
 たとえば本橋? ふられちまったよ、もしくは、近いうちに終わるんだろうな、そう言って向けた彼の背中は、若いころにだって男の哀愁を漂わせて、そのくせ、表面上では強がっていた。なぐさめなんて拒絶していた。
 たとえばシゲ? ふられたとはあからさまには言わなくて、そのくせ、胸の中で泣いていた。シゲは恭子さんと出会うまでは、悲しい恋の思い出しかないのであるらしい。彼もまた甘ったるいなぐさめの言葉は欲しないであろうと感じて、俺は強いて荒っぽくふるまった。
 たとえば幸生? 彼は本橋やシゲのような単純な性格はしていないので、失恋するとむしろハイになって自身をも欺いた。ふられちまったよ、などとは誰にも告げなかったのではあるまいか。
俺は幸生の妙にねじれた恋の顛末を聞いて、俺のほうが苛立って彼を殴りつけたことがある。幸生の恋の話は、あれっきり聞いていない。聞いたとしても諧謔だらけで、俺には読み取れなかった。彼の失恋をなぐさめた記憶は一度もない。
 たとえば章? あんな女は大嫌いだ、いなくなっちまってせいせいしたよ、と、章も章なりに強がって、虚勢を張って肩を怒らせていた。彼は自らの想いを曲にして、消化して昇華させて、幾度もの失恋を乗り越えてきたのだと、俺はそう理解していた。
 それから俺? 学生時代に愛していたひとにふられて、気持ちの後始末ができなかったころに、弱音を吐いて金子さんに殴られた。
遠い遠い昔の頬の痛みは、なつかしくもほろ苦い感触になってかすかに残っている。先輩の手荒な励ましは、俺の自己憐憫を吹き飛ばして爽快な気分にさせてくれた。
 あれともこれとも、酒巻の失恋は形がちがう。ちがうようでいて失恋は失恋だ。さて、彼にはどうやって対処しようか。荒っぽいのがいいのか、肩を抱いてやるのがいいのか。
「乾さん、黙りこくってないで……どうするんですか」
「なにをどうするって……困るんだよ、俺も。そのひとをどうするかって? 知らないひとをどうにもできないだろ」
「紹介しましょうか」
「困らせないでくれよ」
「困らなくてもいいじゃありませんか。もてるのなんて慣れっこのくせに」
「慣れてないよ。酒巻、おまえは俺を誤解……」
「あれ? 乾さん?」
 手で顔を覆ってみせると、酒巻はうろたえた声を出した。
「い、い、乾さん、そんな……そんな……泣いてるんですか。嘘でしょ?」
「俺は幸生じゃないんだから、嘘泣きなんかしないんだよ」
「……だって……ごめんなさい。僕が無理を言ったから……すみません。そんなつもりじゃ……」
「んん?」
 今日は厄日なのであろうか。次から次へと厄介ごとが持ち上がる。酒巻が嗚咽を漏らしはじめ、ますます困っていると、ファイの声が聞こえた。
「なんだ? ふたりして泣いてんの? なに、これ?」
「酒巻さんと乾さんだよな。いい年した男がふたりして泣いてる? なにがあったんだろ」
 応じる声は貢で、ファイは気持ち悪そうに言った。
「近寄らないでおこうぜ。貢、あっちにすわろう」
「そうだな。こういう眺めって不気味だもんな」
「うん、吐き気がするよ」
「吐き気はないんじゃない?」
 泣いていたにしては平静な声を出し、酒巻がばあーっとやってみせた。俺も真似してばあっとやると、ファイと貢はそろってため息をついた。
「なにやってんだよ、あんたらは。気持ちの悪い芝居かよ。いい大人がめそめそとなにを喋ってたんだよ」
「ファイ、えらく威勢がいいじゃないか。おまえたちの問題は解決したのか」
「なんだ、乾さんも泣き真似か。変な奴らだね、あんたらって。俺たちっつうか、問題なんて別にないんだからいいんだよ。それよりさ、いつまでこんなところにいるの? みんな帰っちまったんだろ」
「俺たちも帰ろうか。いつまでも居座ってると店の方に迷惑だな。酒巻、帰ろう」
「乾さん、あれはどうするんですか」
「おまえの知り合いなんだからおまえにまかせるよ」
「ずるい」
「ずるいだなんてのはガキの台詞なんだよ。俺は知らない。以上」
 言い捨てて立ち上がると、酒巻も恨めしそうな顔で立ち上がった。ファイと貢と酒巻の四人で外に出て、三人がなにやらひそひそやっているのは聞こえないふりで、俺は考えていた。
 次から次へと起こる厄介ごとの大半は、俺にはどうにもならないことばかりではないか。演歌を歌うのが不本意な貢。貢とファイの確執のようなもの。ラピズラズリと美妖魔と燦劇。沢田さんが恋をしている厄介な男。燦劇を脱退したがっているエミー。酒巻の失恋と、その彼女の一方的なる想い。すべては自分で解決するしかない。
 ただひとつ、俺には無関係だと切り捨てられないのは、その後の話題で横合いに押しやられていたヒデだ。他のことを考えるのはやめて、気持ちをヒデに集中させよう。
 神戸で暮らしているヒデ。神戸にはつい先日、ライヴツアーで訪れていたというのに、そのころにはまったく知らなかった。
酒巻はすでに知っていたのだが、話してはいけないと自らを戒めていたのだろう。神戸にいるときにそれを知っていたとしたら、シゲは彼を探しにいきたくなっただろうから。シゲだけではなく、きっと他の者たちも。
「俺にその話をしたとは、彼には言うな。念のために」
「彼に、ですね。承知しました」
 なになに? とファイが首を突っ込みたそうにしているのは無視して、酒巻はうなずいた。とにもかくにも、ヒデの居場所は判明したのだ。ヒデがまたしてもどこかに行ってしまわないように、監視は酒巻に頼んでおいて、俺は今後の対策を練ろう。ヒデと一番に再会するのはシゲ。そうできるように。


 わりあいに久々のスタジオに顔を出すと、裏から本橋と幸生と酒巻が入ってきた。幸生と酒巻はなんとも形容しがたい表情をしていて、それはなんのせいかといえば、本橋の頭だろう。俺も瞬時、本橋の頭に見とれていた。
 綺麗さっぱり剃り上げた、ひねたスポーツ少年のような丸刈り。本橋の気性からすると、なにかしらしでかしてその始末をつけるため、自らの心を清らかにするため、誰かに謝罪するため、なにかの理由があるに相違ないとは思ったのだが、彼は心境の変化だと言う。
 シゲはかなり仰天していた。章は本橋の頭以上の気がかりがあると見えなくもない。ミエちゃんは笑いころげ、酒巻は当惑していて、幸生はわざとらしく軽く、任侠のお方みたい、などと言っていた。とにもかくにも久々の歌の練習をして、一旦休憩となると、酒巻と章が連れ立ってスタジオの外に出ていった。
「寒くなってくると頭から風邪を引くんじゃないのか。帽子でもかぶる? ニットの帽子をかぶるとあったかいよ」
 言ってみると、本橋はへんっと鼻であしらい、シゲに言った。
「ボールは他にもあったかな。さっき、酒巻とキャッチボールやってて魔球を編み出したんだ。酒巻はキャッチングが下手だからボールがどこかに行っちまったんだけど、シゲだったらうまいだろ。俺の魔球を受けられるか」
「ボールはありますけど、魔球ですか。見たいですね」
「キャッチボールやろうぜ」
「その前に」
 キャッチボールでごまかそうとしているらしき本橋に、俺は言った。
「社長に見せてきたほうがいいんじゃないのか」
「俺の頭を?」
「うん。ミュージシャンがどんな髪型にしても問題はないとはいえ、スキンヘッドってのはかなりのものなんだから、報告はしておくべきだよ」
「そっか。じゃあ、行こうか」
「俺も行くよ」
「おまえは……」
 来なくていい、と言いたそうだったが、俺もついて事務所に行くと、事務員の玲奈ちゃんがぽかーんと本橋を見た。本橋はなにげないふうに彼女に言った。
「おはよう、玲奈ちゃん、社長は?」
「今朝は遅くなるって……本橋さん、その頭……」
「海坊主とでも言いたいのか」
 小柄な玲奈ちゃんは背伸びして本橋の頭を見ようとし、あげくに言った。
「本橋さん、すわってみて下さい」
「こうか」
「……そうしないと私には本橋さんの頭のてっぺんが見えない。ジャリッパゲとかはないみたいだから、綺麗な丸刈りですね」
「ハゲはねえんだよ。玲奈ちゃん、社長に言っておいてくれ。本橋はイメージチェンジのためにスキンヘッドにしました。見たかったらスタジオに来て下さい。頼んだよ」
「はい。言っておきます」
 事務所への報告をすませ、スタジオに戻ると章も帰ってきていた。そこから歌の練習が再開され、昼時には幸生と外に出て食事となった。
「休暇中は俺は四国にお遍路さんに行ってたんだけど……」
「お遍路さん……幸生、バチが当たるぞ」
「なんで? 俺だって時には殊勝な心がけで旅をするんですよ。やがて来る老後のお祈りをしてきたんだもーん」
 四国といえばヒデの故郷なのだが、今回のツアーでは四国には訪れていないので、行きたくなったのだろう。無事に帰ってきているのだから、幸生が休暇中になにをしていようとも、別段かまわないのだった。
「シゲさんは恭子さんとふたりで甘い生活をしてたんですよね。乾さんはほぼうちにこもってたんでしょ。章とリーダーが謎だな。章なんてのはどうでもいいったらいいんだけど、リーダーが頭を剃るに至った休暇の顛末はいかに。気になりません?」
 気にはなるが、本人が言わない以上は問い詰めるべきでもないし……と俺が考えていると、玲奈ちゃんの声が聞こえてきた。
「お昼ごはんですか。ごいっしょしていいですか」
「玲奈ちゃんもランチ? おいでよ。乾さんがおごってくれるって」
「はいはい、おごらせていただきますですよ」
「わーい、ごちそうさまでーす」
 三人になると、幸生が玲奈ちゃんに問いかけた。
「社長はなにか言ってた?」
「彼らは会社員でも営業マンでもないんだから、丸刈りだって五分刈りだって虎刈りだってモヒカンだってアフロだっていいんだし、話題性もあっていいのかもしれないよ。やっちまったもんは戻せないんだから、いいったらいいんだよ、だそうです」
 そしたら私もモヒカンにしようかな、などと玲奈ちゃんが言い、女の子はやめなさい、と社長が言ったと話してくれてから、玲奈ちゃんは続けて言った。
「男性が頭を剃るのは、わけありだって社長が言ってましたけど、ほんとにそうなんですか」
「そうとも限らないかもしれない。髪型チェンジは珍しくないけど、リーダーだからさ。あの本橋真次郎だからこそ、わけもないのに剃らないだろうと思うんだよね」
「どういったわけですか」
「それがわかれば苦労はない」
「そうですよね。酒巻さんも言ってましたよ。先輩の事情を詮索するな、って三沢さんにはよく叱られるって。三沢さんは酒巻さんより先輩なんですものね」
「玲奈ちゃん、酒巻に会ったの?」
「千葉でお茶を飲みました」
 幸生と玲奈ちゃんのやりとりを聞いて、俺は言った。
「玲奈ちゃんもライヴに来てくれてたんだね」
実は玲奈ちゃんは浜松にも来ていた。俺とだけ会って、ちょっとした出来事があったのだが、言わぬが花、としておくべき出来事だったのだから、とぼけておいたのだ。
「千葉にだけ。さいたまや横浜や川崎にも行きたかったのに、社長が残業させるから行けなかったんです」
「どうだった?」
「最高でした」
 指でVサインを作ってみせる玲奈ちゃんに、幸生が言った。
「酒巻とだったら、ホテルのスゥイートルームでお茶を飲んでも危険はないのかな。そうなんだろうか」
「興味もない女とだったら、どこでお茶を飲んでも変な気分になんかならないんじゃないんですか」
「玲奈ちゃん、きみは自分を知らないんだね」
 いつものように大げさに、幸生はため息をついた。
「それをして変な気分とは言わないけど、玲奈ちゃんとふたりっきりでいたら、男は誰しもゆらゆーらするよ。俺も今、たった今、こうしてゆらゆらしてるんだから」
「寝不足ですか」
「……きみも一筋縄ではいかないひとですね」
「意味わかりませーん」
 社長も一応は納得してくれたようだ。他の四人が釈然としない心持なのは致し方なくて、練習を終えてひとりになって、玲奈ちゃんが知らせにきてくれた俺の単独仕事に向かった。雑誌社のインタビューが長引いたのも終了すると、携帯電話で自宅の留守電をチェックした。
「乾さんの結論は出ましたか? 酔っ払いカモメの件、お返事をお待ちしています」
 この声は酒巻だ。名乗っていなくても声でわかる。酔っ払いカモメとはヒデの一件。彼の名を出すとまずいと判断したのだろう。それは上出来なのだが、続きに変な伝言が入っていた。
「金子さんに……あっと、これは……あっと……ちがいますから。そうじゃなくて……えと、失礼します。よろしくお願いしまーす」
 首をかしげつつ、車を自宅に向けずに酒巻のアパートにつけ、インタフォンに呼びかけた。
「金子さんがどうした?」
「……乾さん、いえ、あれは口がすべったと言いますか、入って下さい」
 ドアが開くと、またしても唐突な名前が出た。
「吉崎香奈さんって覚えてます?」
「香奈さんがなにか?」
「……乾さん、怖い。なにを察してるんですか」
「なんにも察してないから聞いてるんじゃないか。金子さんと香奈さんとヒデがどこでどうつながるんだ」
「つながりません。三つとも別件です。香奈さんって名前は……ええと、金子さんと沢田さんと三人で食事をして、そのときに聞いたんです。そうです。それでね、乾さんの昔の恋人だって……」
「そうだよ。そうなんだけど、なんだかしどろもどろしてるな」
「ええとええと……香奈さんがご結婚なさったと……」
「……そうなのか」
 そうなのか、そうなのか。香奈は結婚したのか。心を鎮めて俺は言った。
「そうか。ま、いいさ。でな、例の件だけど」
「ヒデさんの?」
「俺も神戸に行きたいとも思ったんだけど、俺が行くとヒデの態度が硬化する恐れはおおいにあるだろ。おまえがヒデを説得してくれ。説得といってもあからさまにじゃなくて、ヒデをその気にさせるように持っていくんだ」
「シゲさんが僕の番組に出てくれる日に、ヒデさんがシゲさんに会いにいってくれるように、ですね」
「おまえも口で仕事してるんだろ。その口で食ってるんだろ。できるよな」
「自信はありませんけど……うわわ、どうしよう。脚が震えてきました」
「それ以外の方法は思いつかないんだ。酒巻、頼む。この通り」
「……乾さん」
 現時点では他のやりようはない。酒巻の口を信じよう。
「頭を上げて下さい。僕にできる限りの努力はしますから」
「駄目だったとしてもおまえのせいじゃないんだから、そんなに深刻に考えるな。だからといって軽く考えてもらっても困る。努力してくれ」
「わかりました」
「香奈が結婚したって誰に聞いた?」
「木村さん……わっ!!」
 おそらく、香奈はライヴに来てくれていたのだろう。章はひとこともなにも言わなかったが、香奈に口止めされたのか。章は香奈を知らないはずだが、香奈が話したのだとしたら、章も俺のかつての恋を知ったのだ。そうだとしてもまずくはない。
「さしずめ、章が香奈とどこかで会ったんだな。章には言わないよ。そうか、そうだったんだ。本橋のスキンヘッドは?」
「うっ……知りません」
「そうか? そんならいいよ」
 よく見ると、酒巻の頬が腫れぼったい。目も腫れぼったい。誰かに殴られて泣いた? あるとしたら金子さんだ。沢田さんではないだろう。
「酒巻、その顔はどこかにぶつけたのか」
「え? あ、ああ、そうです」
「気をつけろよ」
 まずまちがいなく、酒巻には他にも秘密がある。本橋にもなにかしらある。章にも幸生にもか。シゲにもあるんだろうか。俺にもある。少なくともヒデに関する秘密がある。
 だが、酒巻の部屋を出て車の中でひとりきりになった今、ほんのすこし浸っていたかった。家に帰りつくまでの間だけでも、香奈を偲んでいたかった。結婚したんだね、香奈。きっと誤った情報ではないだろう。結婚したからって幸せにつながるとは必ずしも言えないかもしれないけど。
 昔愛したひと、俺を愛してくれたひと。二度も恋をした香奈、二度も失恋した香奈。あなたが幸せな日々を歩んでいけますように。その心の片隅にいたのかもしれない俺は捨てていいから、あなたが幸せでありますように。俺もこれっきりあなたを忘れよう。家についたら忘れよう。
 あなたを忘れて、俺は考えるべき別件に頭を切り替えるよ。だけど、香奈、もうすこしだけ、ほんのすこしだけ、あなたとすごした日々を思い出していたい。

E N D


スポンサーサイト


  • 【小説72(F8・LIVETOUR STORY・2)後編】へ
  • 【小説74(F8・LIVETOUR STORY・4)】へ
  • Tag List 
  •  * |

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【小説72(F8・LIVETOUR STORY・2)後編】へ
  • 【小説74(F8・LIVETOUR STORY・4)】へ