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小説72(F8・LIVETOUR STORY・2)後編

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フォレストシンガーズストーリィ72

「F8・LIVETOUR STORY・2」後編

3

広島という地名から連想するのはもみじ饅頭で、恭子への土産はこれで決まり。連想する人は高倉大先輩。本橋さんと乾さんにとっては、高倉さんの住まいに足を向けて寝られない、というほどの大恩人だ。
現在の高倉さんは音楽プロデューサーであるので、フォレストシンガーズがデビューしてからは、俺も幸生も章もお世話になった。幸生の初の単独仕事は、高倉さんの口ききでやってきたのだ。
 そもそも東京の大学には西の出身者は少なくて、俺の学年に大阪やら岐阜やら三重やら高知やら淡路島やらの出身者がいたのを、珍しがられていた。すると、中国地方には他には合唱部の仲間はいなかったか。考えて思い出した。いるではないか。はるか年下の後輩、俺とだと六つも年下の男がいる。
 あいつは山口の出身だったな、と思い出しつつ、もみじ饅頭を買って穴子メシを食ってホールに行こうとしていたら、背の高い若い男が俺の眼前に立ちふさがった。
「フォレストシンガーズのひと?」
「は、はい、そうです」
 ホール近くの信号の近く、サングラスをかけた彼は俺たちのファンなのだろうか。ひとりひとりでいれば目立たない俺たちのうちでも、とりわけ目立たない中背で平凡な顔立ちの俺は、めったにファンの方に声をかけられることなどない。
フォレストシンガーズには男のファンが少ないのもあって、男性ファンに声をかけられるのは初体験だった。
「えーと、人だかりができたりしたら……なんてことはないのかな。僕はこういうのは慣れてませんので、どうしていいのかわからないんですけど、サインでしょうか。握手でしょうか。写真でしょうか」
「俺を知らないんだよね、あんた」
「……存じませんが」
「俺も歌手なんだけどさ……俺の兄貴は知ってるんじゃないの? 本庄さんでしょ?」
「はい。あなたの兄さん? あなたも歌手?」
「綾羅木です」
「あ、酒巻の言ってた……」
 ついさきほど思い出した、山口県出身のあいつではないか。
「まずは地元、故郷から、キャンペーンを張ろうって話になって、山口県近辺を回ってるんだよ。でさ、今日はフォレストシンガーズが広島でライヴをやるって聞いて、時間があったから来てみたわけ。ソールドアウトにはならなくて、当日売りのチケットが残ってるんだってね」
「ああ、まあね」
 二年ほど前だったか。合唱部の後輩に歌手になりたいと熱望している青年がいると、教えてくれたのは酒巻だった。酒巻の一年年下、つまり、俺よりは三つ下の綾羅木圭太ならば、俺も知っている。実松がキャプテンだった年に入部してきた奴だ。
歌手志望の青年とは、その綾羅木圭太の弟の貢。貢が大学を卒業する前に、兄の圭太に頼まれて、酒巻が彼と会った。その場には金子さんもいた。
 貢はえらく無礼な奴だったのだそうで、金子さんを怒らせたという。その話を聞いた本橋さんや乾さんも口をそろえて、そんな奴はほっとけ、と切り捨てた。酒巻としても歌手志望の青年に協力してやれる立場ではないのだからと、貢を忘れ果てていたのだそうだ。
「それがね、なにがどうしてどうなったんだかは知りませんけど、貢はデビューしたんですよ。「桜散る散る錦帯橋」って歌がデビュー曲だそうです」
「演歌みたいなタイトルだな」
「演歌ですよ」
 山口県出身の貢が歌うはご当地ソングだった。酒巻は仕事で貢と会ったのだと話してくれ、デビューするまでは苦労したんでしょうけど、あいかわらず無礼者でしたよ、とも言っていた。酒巻の言う通りで、とんでもなく無礼な奴だ。
「年長者の前ではサングラスをはずせって、教わらなかったのか」
「なんだよ。急に態度が変わったじゃん」
「おまえは俺の後輩なんだろうが。最初はファンの方かと思ったんだけど、後輩なんだったら態度が変わるのが普通なんだよ。で、なにか? フォレストシンガーズのライヴを見にきてくれたのか」
「そうだよ。そしたらファンとおんなじようなもんじゃないか」
「サングラスをはずせ」
「やだね」
 体育会体質で先輩と後輩のけじめが歴然としていた合唱部なのだから、俺たちと同年齢の男どもなんぞは、一年生のときにはキャプテン金子さんの前に出るとへりくだっていた。ヒデあたりは酔うと暴言を吐いたりもしたが、素面に戻ると叱りつけられていたものだ。
 幸生や章だって、本橋さんや乾さんには後輩としての態度を示す。幸生や章には俺は先輩視されていない節があるが、それはともかくとして、大先輩の金子さんの前では引き気味になる。幸生より年下の酒巻は性格もあるのだろうが、先輩の前ではかしこまっている。
なのに、それから数年後の後輩となるとこうなるのか。体育会体質だなんて過去の産物なのか。俺が合唱部の体質を是としていたせいなのか、貢を見ていると悲しくなってきそうだった。
「そんなこと言われるんだったら、ライヴになんか行かないよ」
「来なくていいよ」
「なーにが先輩だよ。なんにも世話にもなってないのに……」
 演歌歌手の世界には徒弟制度が残っていて、先生に師事してしごかれるのではなかったか。礼儀作法も叩き込まれるのではなかったか。俺は演歌の世界をよく知らないのでなんとも言えないが、綾羅木貢って奴は、そんな業界にいてもこうなのか。
 ふんっだ、と言いたそうな顔をして貢は行ってしまい、ひとりになってホールに行くと、高倉さんから大きな花束が届いていた。
高倉さんは故郷には帰ってこられないようだが、大恩人の大先輩がこんな心づくしをして下さっているというのに、大後輩はあのざまだ。貢と会ってかくかくしかじかで、と話すと、ライヴ前に本橋さんを怒らせそうなので、話すのは後日にしようと決めたのだった。

 
 東北地方唯一の政令指定都市、杜の都、仙台。城好きの俺は青葉城を見なくてははじまらない。城を見て笹かまぼこや真空パックの牛タンなどを買って、ホールに行った。仙台出身の合唱部の仲間たちはいただろうか。岩手や山形だったらいるけれど、仙台は思い出せない。
 誰か忘れてなかったかな、と思い出そうとしながらホールの裏口に回ると、本橋さんが女性と話していた。俺には知り合いはいなくても、本橋さんにはいるのかもしれない。まさか、また昔の彼女? そうだとしたら近づいていってはいけないのだろうか。ちっちゃな男の子を連れたそのひとと、本橋さんの会話が聞こえてきた。
「私、小笠原くんと学部が同じの同級生だったんです。小笠原くんはやめちゃったんですね」
「はあ。いや、僕はあなたを……」
「ごぞんじなくても無理ないんですけど、ご挨拶だけでもできてよかった。がんばって下さいね。応援してますから」
「ありがとうございます」
 あの様子では本橋さんの昔の彼女ではない。そのひとは子供の手を引いて立ち去っていったのだが、小笠原の名前を出したのが気になって、追いかけていった。
「あの、あの、ちょっといいですか」
「あら、本庄さん」
 向き合ってよく顔を見ても、思い出せない。ヒデと同じ学部だったのならば、俺は知らないとしても不思議はないのだった。
「小笠原の友達でいらっしゃるんですか」
「私も心理学科だったんですけど、大学に入って間もないころでしたか。小笠原くんにデートに誘われて、私、都会の男のひとじゃないといや、なんて言って……」
「はあ、そうでしたか」
「仙台だって田舎だろ、って感じでしたね、小笠原くんの反応は。それからはかえって嫌われちゃって、教室で会うと、ふられた女の顔なんか見たくない、あっち行けって」
「ひどい奴だな」
「ひどくはないんじゃありません? 私がうぬぼれてたんですよ。小笠原くんを嫌いではなかったくせに、デートに誘ってもらって嬉しかったくせに、つんつんして気を持たせるっていうのか、そういう若い女の子の心理もあったんですよ。せめて友達になりたかったけど、小笠原くんって短気だったんですよね」
「そうですね、まさしく」
 息子なのであろう。二、三歳に見える男の子がむずかりはじめ、彼女は子供を抱き上げた。
「ゼミも同じでしたから、小笠原くんがフォレストシンガーズのメンバーになって、プロになるんだって言ってるのは聞こえてきました。小笠原くんの歌を聴いたこともあったから、私、いつしか楽しみにしてたんです。昔、フォレストシンガーズの小笠原英彦にデートに誘われて、私がふったんだよ、なんて言える日を」
「はあ、なるほどね」
「なのにね、フォレストシンガーズがデビューしたのを知ったときには、小笠原くんはいなかった。どうしちゃったのかな、ってずっと思ってましたけど、私なんかにわかるわけがないじゃありませんか。私は大学を卒業して故郷に帰って、職場の同僚と結婚して、十年近くも仙台で暮らしてて、東京にも行かなくなりました。フォレストシンガーズが仙台でライヴをやるのははじめてでしょ。私はみなさんとは同窓生ですから、そう言ったら誰かに会わせてもらえるかもしれない。駄目でもともとだし、ってスタッフの方にお願いしてみたら、本橋さんが出てきて下さったんです。だからって、たいしてなにも言えませんでしたけどね」
「そうだったんですか」
「小笠原くんはどうしてらっしゃるの?」
 かぶりを振って、俺も知りません、と告げるしかなかった。
「そうなんですか。そんなの、よくあるんでしょうね」
「よくあるんでしょうね」
 だけど、俺は……よくあろうとなかろうと、ヒデに会いたい。俺ばっかりがしつこくそう考えていて、ヒデは俺なんかは忘れてしまっているのかもしれない。ライヴは十一回目になるのだが、ヒデはどこにもあらわれなかった。
「この子を親に預けて、私、ライヴに行きますから。一度、出直してきます」
「はい、いらして下さい」
 ライヴがすんだらもう一度ゆっくり話したいと、言っていいのかいけないのか判断がつかなくて、言わずじまいだった。彼女の名も聞かなかったと気づいたときには、眠ってしまった息子を抱いたそのひとの姿は遠ざかっていた。名も知らぬ彼女には、ライヴがすんでも会えなかった。
 

 どのホールにも誰かしらが来てくれて、本橋さんはリーダーとして、大概の人と対応している。千葉に来てくれたのは酒巻だった。酒巻も本橋さんと会話をかわし、俺を見つけて頭を下げた。
「本橋さんにも乾さんにも言いそびれてたんだけど、綾羅木貢に会ったよ」
 故郷でデビュー曲のキャンペーンをしているらしい、と本人から聞いた話をし、その際の貢の態度なども話すと、酒巻は大きく息を吐いた。
「嘆かわしい後輩ですみません」
「おまえがあやまらなくてもいいんだけど、たしかに嘆かわしい後輩だな」
「金子さんもそうおっしゃってました。貢にはきびしそうなマネージャーさんがついてるんですけど、教育が行き届いてないんですね。ところで、時々は東京にも戻ってるんでしょ?」
「通常のライヴツアーだったら、たとえば関東地方だったら、関東近辺を順繰りに回るよな。今回は政令指定都市として成立したのが古い順に回ってるから、アトランダムっていうのか、京都、横浜、神戸になったり、広島から仙台に飛んだりする。その合間には東京に戻ってるよ」
「じゃあ、長く恭子さんに会ってないわけじゃないんですよね」
「東京に帰ったら会うけど……またその話か」
 どうも俺は後輩に軽く扱われる傾向があって、この酒巻でさえも俺をからかおうとする。俺には人間的重みが足りないのだろうか。酒巻は本橋さんが怖いのだそうだし、乾さんは敬慕しているし、幸生をも尊敬しているのだそうだが、俺をなんだと思っているのだろう。恭子の名前を持ち出しては俺を照れさせて楽しんでいるところは、幸生にそっくりだ。
「おまえは仕事で来てるんだろ。恭子はどうでもいいから、ちゃんと仕事しろ」
「はい、かしこまりました」
 直立不動で敬礼の真似なんぞして、それすらも俺をからかっているように見える。幸生にしろ章にしろ酒巻にしろ、学生時代から長くつきあっているのだから、こうなるのもしようがないのかもしれない。軽く見られているだなんて卑屈に考えずに、親しみを覚えてくれているのだと考えておこう。
「そうそう、シゲさん。遠くに行くと毎日、お菓子だのなんだの買ってるって聞きましたけど、千葉では恭子さんへのお土産は買わないんですよね」
「誰から聞いたんだよ。幸生か」
「風の噂に聞きました。近頃、僕は仕事でよく神戸に行くんですよ。シゲさんがたこ焼き好きだっていうのも風の噂に聞いたんですけど、そんなシゲさんに僕からの神戸土産です。これだったら恭子さんにも持って帰ってあげられますよね。神戸に行かれたときに買いました?」
 背負っていたリュックから酒巻が取り出したのは、平べったいふたつの箱だった。
「たこ焼きせんべいか。神戸では見なかったな」
「どうぞ。ひとつはお召し上がり下さい。ひとつは恭子さんに」
「ありがとう。みんなで食うよ」
「みんなで食べたら足りなくなりません? 三つ買ってきたらよかったかな」
「おまえは俺がどれだけ食うと思ってるんだ」
「お酒はざる。食欲は底なし。シゲさんの胃袋はべらぼうにでかくて、その先がブラックホールにつながってるって、風の噂に聞きましたよ」
「その風って、幸生って名前がついてるんだろ」
「そうだったかなぁ、風さん、きみの名前は幸生っていうの?」
 今しも吹きつけている風に話しかけている酒巻は、みんなが言う通り、日ごとに幸生に似てきている気がする。
外見は幸生以上に小さくて子供じみているのだが、声は俺に似ていて、声質ゆえもあって言動は落ち着いて見える。今のところは幸生ほどにはぶっ飛んでいないので、これ以上奇怪な性格にならないように、祈っておいてやらなくてはならない。
「たこ焼きせんべいなんてあるの? シゲさん、食いたいな。開けましょうよ」
 風ではなく、幸生がそばにやってきた。
「酒巻が持ってきてくれたのか。気がきくじゃん。おまえ、大物になれるよ」
「僕は三沢さんに似てきたって言われてるんですけど……」
「だったらなおさらじゃないか。まちがいなく大物になれる。身体の小さな男は、中身はでかいんだよ」
「そうなれるといいですけどね」
 箱の中の袋の封を切ると、たこ焼きのソースの香りが食欲をくすぐった。早速ひとつつまんで、うん、いける、とうなずくと、幸生が言った。
「やっぱシゲさんって、なにか食ってる姿が似合うよね」
「シゲさんは恭子さんと寄り添ってるのも似合いますよ」
「酒巻、おまえがそうやって、シゲさんの顔を見ると恭子さん、恭子さんって言うのは、うらやましいからか」
「そうなのかなぁ。無意識でそうなのかも……」
「ふーん、すると」
 幸生、おまえもか、と俺が言うと、てへっ、ばれちゃった、と幸生は舌を出した。


 千葉、さいたまと東京からの通勤圏が続き、家に帰って恭子と食事をしたり話したりもできた。さいたまには、俺が会うのはずいぶんと久し振りになる、俺が二年生のときのキャプテン、渡辺さんが訪ねてきてくれた。
 続く静岡には、金子さんとともに、高倉さんの前のキャプテン、福田さんが来てくれた。渡辺さんとは面識もあるが、福田さんは本橋さんや乾さんでも知らない大先輩だ。渡辺さんは検事、福田さんは政治家のもとで働いているとかで、あまりに世界がちがいすぎて、俺はなんの話をしたらいいのかわからなくて、挨拶程度でお茶を濁しておいた。
お茶といえば静岡の名産品だ。千葉やさいたまは土産を買うほどでもなかったので、静岡では上等のお茶の葉を買った。お茶に合わせて上品な和菓子も買った。
 ライヴツアーも残すところあと三回となり、静岡での夜には本橋さんの部屋に五人で集まって酒を飲み、遅くまで語り合った。
ここまで十四回やったライヴの話、訪ねてきてくれた人々の話、各地で見聞きしたその土地の話。こういった会話は乾さんが先導して、幸生が茶々を入れたり、かと思えば的確な質問をはさんだりして盛り上げていくのが常だ。章も常のごとく、早々に酔っ払ってベッドで寝息を立てはじめ、俺は綾羅木貢の話をした。
「そっか。サングラスって目上のひとの前でははずすのが礼儀なんですね」
「幸生、おまえ、知らなかったのか」
「知らなくはなかったっていうか、俺はサングラスってかけないもん。眼鏡もはずさないといけないの?」
「眼鏡はいいんじゃないのか」
 街を歩くときにはこれをかけるんだと言って、幸生が伊達眼鏡を取り出した。
「度は入ってないんですよ。俺は視力は抜群にいいからね。変装の小道具。どう、シゲさん、似合う?」
「似合わなくもない」
「今どきって眼鏡の似合う男がもてるんだって。乾さんもかけてみて」
 ジョン・レノンみたいな丸い眼鏡は、乾さんがもっとも似合う。俺もかけてみたら、幸生が吹き出した。
「シゲさんがかけると……ジョン・レノンっていうよりも、ジョン・ノレン」
「なんだそれは。俺のどこが暖簾なんだよ」
「いいえ、ただのシャレですよ」
 こら、先輩に向かって、と本橋さんが幸生を睨んでみせたが、まったくこたえてもいない。くすくす笑っては、いや、失礼、と言ってから、乾さんは暗い窓のむこうを見た。
「今は見えないけど、この先には富士山があるんだよな。天気によっては霊峰富士の美しい姿がくっきりと見える。富士山の詩ってどんなのがあったっけ」
「歌だったら……」
 頭を雲の上に出し、と幸生が歌い、乾さんは短歌を口にした。「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪の降りける」
「万葉集、山部赤人、かの有名な歌だよ」
 雪の降る季節ではないが、明日の朝の富士の姿はどんなだろう。富士は刻一刻と姿を変えていき、あっという間に雲に隠れてしまう。
俺たちもすこしずつ上向いていっているとはいえ、境遇があっという間に変化するってこともあり得るのだから、ますます心してかからねば、俺がそんなふうに思っていると、幸生が箸で皿を叩きながら歌い出した。

「富士の高嶺に降る雪も
 京都先斗町に降る雪も
 雪に変わりがないじゃなし
 溶けて流れりゃ皆同じ」

 なんだよぉ、その歌は、と寝言のように章がむにゃむにゃと言い、幸生が応じた。
「お座敷小唄だよ。乾さんも知ってるでしょ?」
「ばあちゃんに教わった記憶があるよ。章は知らないか。本橋は?」
「聴いたことはあるな。乾、それって演歌か」
「演歌の一種なんだろうな。昔の歌謡曲っていうか……シゲは知ってるか」
「俺も聴いたことはありますよ。すると、そういう歌も貢の守備範囲なんでしょうね」
「綾羅木圭太は俺も知ってますよ。シゲさんも知ってるんだよね。あの圭太の弟か。俺も会ってみたい。会ったらこの歌をデュエットしようって言ってやろ。えーと、続きは……」
 幸生が言って続きを歌った。
 
「好きで好きで 大好きで
 死ぬ程好きな お方でも
 妻と言う字にゃ 勝てやせぬ
 泣いて別れた 河原町」

 あーらよっと、と掛け声までかけて歌い続ける。こんな歌でも幸生の喉は絶好調で、まったくもって器用な奴だ。感心していると乾さんまでが歌い出し、ホテルの一室がまるでじいちゃんたちの宴会場みたいになっていった。


4

実松の結婚式のあとで、旧姓宮村さんが言っていた。
「結婚式でフォレストシンガーズが歌ったのって、本庄くんと実松くんのときだけ? 合唱部仲間の結婚式でも歌ったことはないの? 私は思いつかなかったんだけど、思いついたとしてもためらっちゃって、お願いするのはちょっと、って感じだっただろうな。他のひとたちもきっとそうだよ。ああいう図々しいお願いを簡単にやってのけちゃうのは、実松くんと本庄くんの仲もあるんだろうけど、実松くんのあの性格のなせるわざだよね」
「図々しくなんかないよ。宮村さんも言ってくれたらよかったのに」
「この次にはお願いしようっと」
「この次? 宮村さん、この次ってのはよくないよ」
「次もあるかもしれないじゃないの」
 結婚式に次があってはいけないではないか、宮村さんはそんなことになってはいけないよ、と俺は思うが、泉水にはあるかもしれない。泉水はバツイチなのだから、次があってもかまわない。その泉水は神戸でも言っていたように、堺にはやってこなかったのだが、以前からの約束通りに、実松が来てくれた。
 宮村さんが言った「図々しいお願い」とは、実松の結婚式で、我々に歌ってほしいというものだ。実松は結婚相手のひとみさんに交際を申し込む前から、結婚できると決まったら、式で歌ってくれと俺に言っていた。結婚どころか、つきあってほしいと言ってOKしてもらえるんだろうか、と俺は危ぶんでいたのだが、ひとみさんは実松の告白にうなずいてくれ、結婚も実現した。
「シゲ、俺、結婚するで。ひとみちゃんとや。前に話したやろ。橋本ひとみちゃんや。結婚式場の手配やらなんやらをせなあかんから、フォレストシンガーズのスケジュールを教えてくれや。いつやったら歌ってくれられる?」
 電話で実松が報告してきて、俺は本橋さんたちと相談した。実松とも連絡を取り合い、式場の空きと我々のスケジュールを突き合わせて日取りを決定した。
が、その日は夕方から仕事が入ってしまったのだ。フォレストシンガーズは披露宴会場で新郎新婦の入場に合わせて「満開の薔薇」を歌い、各自がお祝いを述べただけで、慌しく式場をあとにせねばならなかったのだった。
 俺の結婚式にも来てくれた友人たちが招かれていた上に、司会は酒巻がつとめたので、最後までいたかったな、と本橋さんたちと言いかわしつつ、名残惜しい気分で式場をあとにした。
 大阪市でのライヴには実松は仕事の都合で来られなかったのだが、我々のライヴに合わせて休みを取り、ひとみさんと連れ立って堺へやってきてくれた。ライヴの前に待ち合わせをして、俺は新婚夫婦の邪魔者みたいな形になって、三人で堺の街を歩いた。
「ひとみさんは東京の方なんですよね」
「東京生まれの東京育ちです。彼は東京の女とだけは結婚しないって決めてたそうですけど……」
「そんなん、言うたか」
「聞いたよ」
「いやぁ、それはひとみちゃんと知り合う前やろ。ひとみちゃんを好きになったから、ひとみちゃんの作る東京の味の料理も好きになったんや」
「味が濃いって言うくせに」
「ううん、ひとみちゃんの作ってくれるもんはなんでもおいしいよ」
「塩分を摂りすぎるのはよくないから、関西ふうの味にしてみようとするんですけど、どうしても私には物足りなくて。だって、弾のお母さんの料理って味がないんですもの」
「味はあるんや。東京のひとには……ええよ、ひとみちゃんの好きなようにこしらえて」
「弾の好きな味にしてあげたいから、だんだんとそうしていくからね」
「うん、俺、嬉しいな。ええ嫁さんやろ、な、シゲ?」
 本当にいい嫁さんだな、と応えたものの、当てられる。熱すぎる。恭子が恋しくなってくる。俺が恭子の話をすると、いや、俺がしなくても自らそっちへ話題を持っていっては、熱いの甘いの言いたがる幸生の気持ちがすこしわかった。
「堺って私ははじめて。弾はよく来るの?」
「よくは来えへんけど、大阪と堺はお隣さんやから、子供のころからなじみはあったわな。シゲ、恭子さんへのお土産は、けし餅やで」
「俺も堺には来たことはあるから、けし餅ってのは聞き覚えがあるよ。他には堺の名産品ってないのか」
「堺は刃物やな。包丁を買うていったらどうや。恭子さんは料理は上手やねんやろ。ほんなら喜びはるで」
「恭子は料理は得意だよ。恭子は長崎出身だから、味つけは関西ふうではないんだけど、俺のほうが恭子の味に馴らされつつあるな。包丁か。よさそうだ」
 いつも食べものばかりだから、たまには別のものもいいだろう。
「そういえば、川崎に幸生のお母さんがみえてて、肉じゃがのレシピを教えてもらったんだ。うちに帰って恭子に作ってやったら、感激してくれたよ。我ながら上出来だった。実松、おまえも料理しろよな」
「へえ、本庄さんって優しいんですね。いいなぁ、恭子さん。きゃ、熱い熱い」
「ほんまや。熱いな」
 あんたらに言われたくないぞ、であったのだが、曖昧に照れ笑いを浮かべておいた。


 新潟にもうまいものはいっぱいいっぱいあって、海の幸やら和菓子やら洋菓子やら、なにを買えばいいのか迷ってしまう。新潟ライヴを終えると、東京には戻らずに最終日の浜松に向かうので、いろいろと見繕って恭子のもとへ送ってもらった。恒例となった買い物をすませてホールに行くと、幸生が嬉しそうに話しかけてきた。
「星さんが差し入れを届けて下さったんですよ。今日は俺、昼メシ食ってなかったから腹ペコで、最高のプレゼント。鮭せいろごはんってのもあるよ。シゲさん、いただきましょうよ」
「俺は昼メシは食ってきたよ」
「シゲさんにはデザートみたいなもんじゃん」
「おまえがそういうことばっかり言うから、酒巻も俺を食欲のかたまりだって……」
「食欲のかたまり夫婦でしょ」
 ちがうとは言えないので、幸生の昼食につきあった。
「星さんって、美江子さんとなにかあったのか」
 このたびのツアーには美江子さんは同行していない。いないひとの話をするのは気が引けるのだが、前々から気になっていたのだ。
俺が星さんとはじめて会ったのは、フォレストシンガーズがデビューした翌年だったか。電機メーカーの新製品キャンペーン会場で歌う仕事の際に、そのメーカーの社員になっていた星さんと会ったのだった。
 星さんは俺よりも四年上だから、幸生や章もそのときが初対面だったはずだ。仕事のあとで美江子さんも含めて七人で酒を飲み、その席で、いくら俺が鈍感だといっても、いくらなんでもわかるだろ、というような、乾さんや本橋さんや美江子さんの態度を見て気づいた。
 気づきはしたものの、細かくは理解できないままで、俺はそれっきり星さんには会っていない。もともと学生時代には知らなかった大先輩なのだから、会っても話題に困るとも言える。本橋さんや乾さんや美江子さんは、時には星さんに会っているのだろうか。だからこそ、差し入れを届けてくれたのだろうか。
「そっかあ、シゲさんは知らないんだね。いえいえ、俺だって知りませんよ」
「ちょっとは知ってそうな口ぶりじゃないか」
「なんとなくだったらわかるけど、知ってるんじゃないもん。ただね、あの美江子さんがね……駄目よ、駄目駄目。勝手な想像したら、美江子さんに叱られちゃうわ」
「だったら聞かないよ」
「やっぱシゲさんってそうだよね」
 なにがやっぱなのかは知らないが、美江子さんと星さんは恋人同士だったのだろうか。俺にはその程度の想像しかできないが、合唱部では誰かと誰かがつきあっているという話しは頻繁だった。
本橋さんにも乾さんにも合唱部の女の子とつきあっていた時期があったのだし、幸生からもちらりとそのような話を聞いた。一年間しか合唱部にいなかった章も、女の子とならやらあったらしいと聞いた覚えがある。
 ヒデが結婚した相手も、おそらくは合唱部の女の子だ。俺も紹介してもらった、柳本恵。彼女は茨城県出身だったはずだから、もしかしたらヒデは、茨城にいるのか。だとしても、柳本さん、ではなく、小笠原夫人になっているのであろう彼女の実家までは俺は知らない。
 調べるつもりになれば可能だろう。ヒデの高知の親元ならば知っているのだから、そちらに当たるという手段もある。宮村さんに尋ねれば、手かがりがあるかもしれない。その気になればヒデの行方を調べる手立てはいくつかある。だけど、ヒデが知られたくないのならば、と考えると、実行に移す気にならないのだった。
 待てば海路の日和あり、とも言うが、待ってばかりではなにも起きないかもしれない。それでも待つしかない。ヒデが進んで俺の前に出てきてくれる日。そんな日は決して来ないのかもしれないのに、俺はただ待つばかり。
「シゲさんにも合唱部の女の子と、ってのはあったんだよね」
「片想いだったらな」
「それだけ? あ、あれも……忘れたけど」
「うん、俺も忘れた」
 金子さんの妹のリリヤさんへの片想いは、苦くてしょっぱくて、それでいて月日に洗われてほのかに甘くもある追憶に変化している。もうひとつの恋の想い出は苦いばかりで、忘れたほうが身のためだ。なににしたって、今の俺には恭子がいる。過去の恋なんか心底からどうでもいい。
「おまえの話だって詳しくは聞いてないぞ。俺はどうでもいいから、おまえの合唱部時代の恋愛話をしろよ」
「そんな話は化石化してるっつうの」
「じゃあ、現在ただ今の恋愛話は?」
「なんにもないのよね、それが。ユキちゃん、寂しいわ。悲しいわ。だからね、哀れな独身男同士でくっついちゃったらどうかしら。シゲさん、どう思う?」
「やめろ」
「なんで? 乾さんがいいって言っても?」
「言わないよ」
「乾さんじゃないシゲさんに、どうしてそう言い切れるの?」
「言い切れるから言い切れるんだ。おまえが話をそこへ持ってくと……」
「食欲が減退するんじゃなくて、増幅するんだよね」
「そうだよ。これ、うまいな。もうひとつ食っていいか」
「……どうぞ。うげ、俺が食欲減退しそう」
 うまくごまかされたふりをして、俺はどさどさっと積み上げられたせいろごはんをもうひとつ開いた。本橋さんも乾さんも章もまだ来ていないのだが、この量からするとスタッフにも行き渡るであろうから、俺がふたつ食べても大丈夫だろう。
それにしても、我が食欲は我ながら驚異的だ。これが俺の歌うためのエネルギー源なんだから、と自分で自分にいいわけしておいた。

 
 とうとう最終日となった。現在では最新の政令指定都市、浜松。浜松といえばうなぎであろう。かの有名なうなぎパイなどを買い、ホールに行くと、幸生と章が先に来ていた。
「女だったのか」
 章が言い、幸生は真面目な顔でうなずいた。
「ほら、俺の中には女の子のユキがいるじゃん。実物は男の幸生で、心には女の子が住んでる。男の心には女の人格ってのか、誰にでもそういうのがいるんだよ」
「リーダーやシゲさんにもか」
「いるんじゃないの。出てきてほしくないけどね」
「おまえの中のユキにも出てきてほしくねえよ」
「やーね、章ちゃんったら遠慮しないで」
「遠慮したいよ」
 なんの話なのか読みづらいままに、俺は黙って聞いていた。今日も誰かが差し入れを届けてくれたようで、うなぎのタレの香りが漂うのに鼻が反応していると、幸生が言った。
「さかさまだったんだな。外見は女の子のユキちゃんで、心には男の幸生が住んでるんだ」
「だからって、裸になって自分の身体を見るのかよ」
「見たいじゃん」
「俺だったら……うーん、女ったって自分なんだろうが」
「俺って女顔なんだよね。はじめて知ったよ。顔の造作は幸生が基本なんだけど、女になると美少女そのもの。鏡に見とれちゃったよ」
「誰が美少女だ。子犬か小猿だろうが」
「ちがうもーん。美少女顔なんだよ。若返って十代の美少女そのまんまになってたんだよ。それで鏡の前でヌードになってみたら、美少女の裸身が俺に眼福を与えてくれた。ここはこうでここはこうで……」
「たった今、おまえの中にいるユキは、幸生の裸を見たがらないのか」
「見たくないみたいだね。男の裸を見て喜ぶ女もいるんだろうけど、ユキちゃんは見たがらないよ。章ちゃんは見たいの? 脱いであげようか」
「見たくねえよ」
 いったいなんの話なのか、まだ読めない。うなぎの匂いに食欲も反応しはじめた。
「そんでさ、裸になって鏡にうっとり見とれてたら、ノックもなしでドアが開いて男の影が見えたんだ。美少女ユキちゃんは慌てふためいて、入ってこないでーーっ、きゃああっ、って叫んだ。声も可愛い女の子だったな。俺、彼女に恋しちゃいそう」
「……シュールだね。で、そこで眼が覚めた?」
「自分の悲鳴で眼が覚めた。寝なおしても続きは見られなかったよ。残念」
 夢の話かとようやく理解し、幸生が女になった夢の詳細なんぞは聞きたくもなかったので、俺は尋ねた。
「これはどなたの差し入れ?」
「知らないんですよ。名前が書いてないんだ。誰だろうね。浜松って合唱部の誰かがいます?」
 いい香りだな、腹が減ってきたよ、と章が続けて言い、幸生も応じた。
「浜松には知り合いはいないと思うんだけど、リーダーや乾さんにはいるのかもしれないね。食っていいかな。腹減ったよ」
「幸生、おまえは俺を食欲魔人呼ばわりするけど、ほぼ毎度、腹減ったと言ってるのはおまえじゃないのか」
「詩作をしたり思索をしたりしてると、俺はメシを忘れちゃうんだもん。ホールに来ると食べものがあるから、そこで腹が減ってたのを思い出すわけです。うな丼でもなさそうだね。なに、これ?」
 開いた包みから出てきたのは、うなぎの乗っかった寿司というのかおこわというのか、昼食はすんでいたのだが、こんなもののひとつやふたつ、幸生の言う通りで、俺にはデザート並だ。三人でごちそうになっていると、本橋さんと乾さんも控え室にやってきた。
 最終日の本日は、なんとなんと、徳永さんが予告もなしにステージに上がってきてくれた。そうすると、差し入れも徳永さんだったのだろうか。打ち上げに来てくれたらお礼を言うつもりだったのだが、徳永さんはステージで歌って踊って、俺たち以上に目立って拍手を浴びて、さっさと帰ってしまった。
「むろん第一に感謝を捧げるべきは、ライヴにいらして下さったファンのみなさまです」
 最終打ち上げ会場のレストランで、本橋さんがシャンパングラスを手に、挨拶に立った。
「ファンの方々には改めてお礼を申し上げるとしまして、今日はライヴスタッフの方々に感謝を捧げます。長期間に及ぶライヴの間、本当にありがとう。みなさんのおかげで、「八年目のフォレストシンガーズ・政令指定都市を旅する」ツアーを、無事、終えることができました。来年は趣向を変えて、他人のやらないライヴツアーをやりたいと、企画を練っています。決定しましたあかつきにはまたよろしく。では」
 かんぱーいっ!! と幸生の声がひときわ高く響き、みんなしてグラスを挙げた。そのうちには乱れてきて、シャンパンかけをやっている人たちもいる。俺もまごまごしているうちに頭から浴びせられた。
「シャンパンなんかもったいないよ。こっちにしよう」
 お返しにスタッフにビールをぶっかけてやったりして、プロ野球の優勝祝賀会のごとき様相になってくる。幸生と章は大はしゃぎで会場中を走り回っている。本橋さんはスタッフの誰彼と握手している。乾さんの姿が見えなくなっていたので探していると、バルコニーで煙草を吸っていた。
「ライヴの祭りも果てて、この宴もやがては果てる。宴の終わりは寂しいな」
「そうですね。でも、楽しかった。いいツアーでしたよね」
「もちろんだよ。俺はもっとやりたい。十七ヶ所なんて物足りないよ。来年は倍ほどやりたいな」
「やれるといいですね」
「徳永も来てくれたらよかったんだけど、あいつは来ないほうがらしいのかな。あのタップダンス、かっこよかったじゃないか」
「乾さんもやります?」
「こう?」
 バルコニーの床に靴音を響かせ、乾さんはダンスステップを踏んだ。俺が拍手をすると、乾さんはステップをやめて寂しげに微笑んだ。
「会いたいひとたちの中で、会えなかったひともいるけど、彼もきっとね。彼も彼女もきっと……だよ、シゲ」
「彼も彼女も……はい」
 ドアの内側では大盛り上がりの大騒ぎになっているのだが、バルコニーではしんみりと、乾さんと俺は、彼や彼女に思いを馳せていた。
各地を訪ねてきてくれたひとたち、来なかったひとたち、俺たちがここへたどりつくまでに関った、幾多の人々。俺がもっとも会いたくて、会えなかったあいつの顔も、乾さんの脳裏に浮かんでいたのだろう。
「シゲ、濡れてるな。風邪を引くなよ」
「俺のソウルにはライヴの余韻が燃えてますから、濡れてるのも蒸発しますよ」
「そっか。俺もかけてもらってこようかな」
 そうしましょうよ、と中に入ると、幸生と章が走り寄ってきて、乾さんと俺の頭になにやらぶっかけた。
ビールだかシャンパンだか、あるいは他の変な液体だったのかもしれないのだが、嗅覚が狂っていて匂いがよくわからない。今夜くらいはひたすら狂態を演じてもいいじゃないかと、乾さんも俺も大騒ぎの仲間たちの真っ只中に飛び込んでいった。


5

 耳で音を聞くと「病魔」かと思った。なんたるバンド名を名乗るんだ、だったのだが、字を見ると「美妖魔」。「びょうま」ではなく、「びようま」だ。
「女の子のビジュアル系ってあるんだね」
「ビジュアル系ってのは要するに、あの格好が定義だって章が言ってたよ。ビジュアルっぽい格好をしていたら、なんだってビジュアル系なんだって、章に言わせるとそうみたいだな」
 なのであれば、女の子ビジュアルロックバンドもあるのだろう。事実、ここにいる。「美妖魔」は沖縄出身のガールズバンドだ。
バンド名といい服装といい、俺には暴走族のレディスに見える。格好もけたたましければバンド名もけたたましい、化粧も音も異様な奴らが勢ぞろいするビジュアル系ロックバンドフェスティバルにやってきたのは、恭子が行きたいと言ったから、加えて、酒巻が総合司会をつとめるからというのもあった。
 ビジュアルロックとパンクには激烈拒絶反応を起こす章は、そんなもん、死んでも行かない、と言った。本橋さんもげっそりした顔で、酒巻の司会は見たいけど、ビジュアルはいいよ、と言った。幸生は、酒巻によろしく、だったし、乾さんは、ちょこっと顔を出すかもしれないけど、行かないかもしれない、と言っていた。
そういうわけで、恭子とふたりでやってきたビジュアルロックフェスティバル。フォレストシンガーズのライヴを行ったホールよりも大きな会場を埋め尽くすのは大部分が若い女性で、彼女たちの風体もおおむねけたたましかった。
 ライヴツアーを終えて休暇に入ってから、恭子と海外ミュージシャンのライヴを聴きにいったりもしたのだが、ビジュアル系のライヴは恭子も俺もはじめてだ。恭子も派手なワンピースを着ているのだが、こんなところにいると、私、おばさんに見えない? と言っていた。
「おばさんになんか見えないよ。恭子はまだ二十代なんだから。俺こそ……」
「スカウトに来てる業界のおじさんに見えたりして」
「業界のお兄さんだろ」
 などと話していると、酒巻がステージに登場した。出演バンドに倣ったのか、酒巻は銀いろの地にゴールドの刺繍でドラゴンが飛翔しているジャケットを着込んでいて、恭子とふたりで苦笑した。
「みなさーん、こんにちはーっ!! 司会の酒巻國友でーすっ!! え? とっとと引っ込め? ちょっとだけ待って下さいね。僕も仕事をしなくちゃいけないんですよ。いけないんじゃなくて、ですね。楽しい雰囲気ですよね。客席のみなさんの熱気が僕にもびんびん伝わってきまして、ドラゴンが服から飛び出して、ホールの天井で火を噴きそうですよ。さて、お待ちかねのライヴです。まずは「美妖魔」。美しき女性ビジュアルロッカーの演奏をお楽しみ下さい」
 最初はごく尋常に司会をしていた酒巻も、美妖魔がすんで次々に若いロッカーたちが出てくると、徐々にテンションがおかしくなっていった。この異様な雰囲気では無理もないが、酒巻、押さえろ、発狂するなよ、とばかりに、俺は酒巻に気を取られっぱなしだった。
 うきゃあ、すごーい、すごーい、きゃあ、綺麗、あれ、男の子? うわわー、ってな調子で、俺のとなりの恭子もテンションが狂いはじめている。
しまいには恭子も回りの若い女の子たちとともに、総立ち、歓声、悲鳴、手拍子、ぴょんぴょん飛び跳ねる。服を脱いでしまう女の子までが出てきて、俺は目のやり場に困った。
「恭子……脱ぐなよ」
 こっそり言ってみても、興奮している恭子には聞こえてもいない。まさか恭子は脱いだりはしないだろうけど、万が一があったら俺のジャケットで覆って……と考えていると、会場のボルテージが最高潮に達した。
 本日のメインとなる、燦劇の登場だ。ファンの女の子の狂態は、俺たちの打ち上げの比ではない。飽和点をすぎてホールが爆発しそうな恐れを感じた。
 凄まじい嬌声で耳が変になりそうな中、燦劇の音楽世界がステージで構築されていく。デビューしたころよりは演奏も歌も上手になってはいるものの、達者なバンドとは言いがたい。リズムセクションがずれたり、エミーのギターがとちったりする。ファイの歌も怪しげに音程が揺れる。高音が上ずる。だが、そんなものはファンは気にもしていないのだろう。恭子もきゃあきゃあ叫んで楽しんでいた。
「みんなーっ、今日はありがとうーっ!! 俺たちを見にきてくれたんだろ。他のバンドなんておまけだよな。メンバー紹介はしなくていい? しなくても知ってるんだろうけど、一応、やっとこうか」
 きらきらしたブルーの衣装をつけて、ブルーのロングヘアでブルーのメイクのファイが、大きく片腕を広げた。
「ギター、エメラルド」
 グリーンのエミーがぎゅいーんっ、とギターを鳴らせる。俺のうしろの女の子が絶叫する。エミー、エミー、エミーっ!! 周り中で叫ばれて、発狂しそうなのは俺だ。この子たち、大丈夫かいな、と俺は言いたかった。
「ドラム、ルビー」
 重々しいドラムの音、シンバルの音。女の子の絶叫が轟く。
「キーボード、パール」
 シンセサイザーが電子音で幻想的な音を立てる。女の子の絶叫が激しさを増していく。
「ベース、トパーズ」
 ベーシストがパフォーマンスを演じる。満足そうな顔をしているファイの紹介は、エミーがおこなった。
「うちの王子さま? 我らがヴォーカリスト、サファイア!! よーっ、かっこいいぜーっ!!」
 もはや耳が割れそうで、俺までが失神しそうになった。耳をふさぐと失礼だろうからできないのだが、女の子の悲鳴が重なり合って耳を打つ。ふと見ると、恭子も声の限りに叫んでいた。
「ああっ、楽しかったっ!!」
 すべてのバンドの演奏が終了しても熱狂がおさまらない客席から、こそこそと出ていくと、恭子がまたまた叫んだ。
「ビジュアル系っていいじゃないの。燦劇は中でも特によかったよ。そりゃぁ売れるよね。彼らにはオーラがあるんだもん」
「俺たちにはないのか」
「別のオーラだったらあるのかもね。ねえねえ、シゲちゃん、燦劇の楽屋に連れてって」
 所属事務所が同じなのだから、俺たちは燦劇とも長らく関っている。ビジュアル系ロックバンドは別世界の住人とはいえ、素顔でいれば彼らも俺たちの若いころとさしたる差はない。
 パールは幸生に似た人なつっこい奴なので、恭子とはメールのやりとりをしたりして、お茶を飲んだりもしているようだ。他の四人とも恭子は会って話しているのだが、楽屋を訪ねて七人で会うのははじめてだった。
「本庄だよ。シゲだ。恭子もいっしょだよ。入っていいか」
 楽屋のドアをノックすると、どうぞーっ、と五人分の返事が聞こえた。俺も幾度も経験している、ライヴ終了直後の余韻が聞き取れる声だった。
「恭子さーん、やっほーっ」
 これはパール。
「恭子さん、楽しんでくれた?」
 これはルビー。
「お、今日の恭子さん、いつもよりもっと美人。俺たちが美人にしたのかな」
 これはファイ。
「俺たちのライヴはいいでしょ? フォレストシンガーズよりいいよね、恭子さん?」
 これはトビー。
「恭子さんは若いんだからさ、俺たちのほうがいいのは当然じゃん。どうしたの、ふたりとも、なんで入ってこないの?」
 これはエミー。恭子は目を丸くして俺の腕をつかみ、俺は言った。
「いや、あの、そのひとは?」
 なぜ楽屋に入っていけないのかといえば、中に女の子がいたからだ。女の子がいてもいいのだが、彼女は上半身にはビキニの上のようなものだけをつけている。下はピンクのラメのスパッツというのだろうか。近寄りがたい格好をして、くわえ煙草で恭子と俺をじろじろ見ていた。
「美妖魔のアンちゃんだよ。暑いって脱いじゃったんだけど、裸じゃないんだから気にしなくてもいいんじゃない? とはいっても、俺も……いいからさ、恭子さん、入って」
 エミーに促されて、ふたりして楽屋に入っていった。パールはアンちゃんとやらに、俺たちを紹介してくれた。
「フォレストシンガーズの本庄さんと、奥さんの恭子さん。ふたりとも有名人だよ。アンちゃんも知ってるだろ」
「知らない」
「知らないの? フォレストシンガーズって知らない?」
「知らない」
「恭子さんはテニス選手なんだけど、知らない?」
「知らない」
 知らないとしか言わないアンちゃんは、険のある美人だ。背が高くてプロポーションもよくて、胸がやたらにでかくて、目がそこに……恭子に睨まれて、俺は視線を戻した。
「フォレストシンガーズってのは……」
 言いかけたファイを、アンちゃんが遮った。相当に低い声だった。
「どうだっていいよ。おじさんバンドなんて」
「バンドじゃなくて、ヴォーカルグループだよ。俺たちの事務所の先輩なんだから、もうちょっとこう……」
「そんなのもどうだっていい。不細工な男」
 ビジュアルロッカーというよりも、ファッションモデルみたいな今どき美女なのだが、アンちゃんは性格がよくないのだろうか。不細工な男とは俺のことであろうが、燦劇の面々と比較すれば俺は不細工だろうから笑っているしかない。が、恭子の眦が吊り上がった。
「なんなの、その言い方は」
「ほんとじゃん。あんた、そいつの奥さん? 不細工な男と野暮ったいだっせえ女。お似合いだね」
「お似合いだって言ってくれてありがとう」
 ぞぞっとするような冷ややかな響きが恭子の声に含まれて、俺はびくんとした。恭子は俺が相手だと怒りもするが、人当たりはやわらかな性格だ。こんな声を他人に向かって発するのははじめて聞いた。燦劇の五人も顔を見合わせてから、パールが言った。
「やめなよ、アンちゃん。初対面の年上のひとに向かって」
「初対面も年上も関係ないだろ。あたしは言いたいことは言うんだよ。邪魔だね、こいつら。追い出せよ」
「きみこそ、出ていけよ」
 パールの声までが冷ややかになり、おい、パール、おい、とファイが焦っている。パールはファイにはかまわずに言った。
「俺には彼女はいるんだから、きみとなんかつきあう気はないよ」
「そんなこと、言ってないだろ」
「言いたかったんじゃないの? きみの態度を見てると、目当ては俺だって気がしたよ」
「うぬぼれてるんじゃねえんだよ。誰がてめえみたいなちび。あんたよかエミーのほうがいい。エミー、どっか行こう」
「いや、俺もさ……」
「これでも?」
 アンちゃんの手が、胸元にかかった。俺は目を閉じ、恭子が言った。
「馬鹿じゃないの。あんたって露出狂?」
「うるせえな。てめえに言ってねえんだよ。エミー、見せてあげるしさわらせてあげるし、他にもなんでもしていいから、行こうよ。こいつらなんかほっとこうよ」
「俺、これから打ち上げが……シゲさんと恭子さんも来てくれてるし……」
「じゃ、ファイでもいいよ」
「俺も行かない。アンちゃん、外に出よう」
「いやだ」
 耳元で恭子が囁いた。
「シゲちゃん、ひょいって抱っこして外にほっぽり出したら?」
「いやだ。手が……」
「素肌だもんね。私が力持ちだったらやってあげるんだけど、アンちゃんって背が高いから、体重もありそう」
 あんたほどはないよっ、と恭子に言い返すアンちゃんにファイが近づき、その手を引っ張った。ちょっとっ、なにすんだよっ、離せっ、と抵抗しているアンちゃんの手を強引に引いてファイは外に出ていき、パールが言った。
「ごめんね、恭子さん」
「いいよ。でもさ、ファイが連れ出してくれなかったら、私、怒ってあの子になにかしてたかも」
「なにかってなんだよ。恭子、きみは気が荒くはないだろ」
「そう思う? シゲちゃんったら、意外と知らないのね」
 わー、こわー、とトビーが言い、ルビーとパールは笑っている。エミーは不安そうにドアを見ている。やめろっての、離せっての、とアンちゃんの凶暴そうな怒り声が廊下を遠ざかっていき、怖いのはあの女だろ、とエミーが言った。
「よそのバンドの子はいいとして、酒巻さんからの伝言。シゲさんが来てくれるだろうから、あとでみんなで飲みましょうって。酒巻さんは事後処理とかあって、すぐには行けないけど、待ってて下さいねってさ。シゲさん、行くでしょ? 恭子さんも来てくれるよね」 
 問いかけたパールに、うんっ、と恭子が応える。機嫌は直っているようなので安心して、俺もうなずいた。やがてファイも戻ってくる。顔をひっかかれたと見えて傷がついていたが、アンちゃんの話はしないままに、みんなで席を移した。
 出演バンドは打ち上げを各々でやるのだそうで、酒巻はそのすべてに顔を出してから、燦劇の面々やスタッフたち、恭子と俺も集まっている店にやってきた。
「シゲさん、フォレストシンガーズのライヴも大成功でしたね。おめでとうございます。恭子さん、お久し振りです。今夜はまた可愛いドレスですね。美人度がアップしてますよ」
「私は美人じゃないけど、ありがとうございます。酒巻さんも仕事でシゲちゃんたちのライヴに行ってたんでしょ。私も福岡のライヴに行ったのよ」
「僕は千葉にお邪魔しました」
「そうでしたね。たこ焼きせんぺいをもらったんだった。おいしかったよ」
 酒巻は恭子よりひとつ年上だが、先輩の俺の妻だからなのか、丁寧な言葉遣いをする。そんな酒巻も、年下のファイたちには砕けて話しかけていた。
「やっぱり燦劇はファンの熱狂度が桁外れだよね。こんなに人気があるんだって、僕もびっくりしちゃったよ。知ってはいたけどこれほどか、って感じ。フォレストシンガーズのファンの方々も熱烈に応援してくれるけど、年齢層がやや高いのかな。猫が絞め殺されるような悲鳴を上げる女性はいないもんね」
「完成度はどっちが……いい、言わなくていい」
 言ったファイに、うん、僕も言いたくないよ、と酒巻は微笑んだ。
「ねえねえ、酒巻さん、あのときさ……」
「ファイ、言ったら駄目だって言ったはずだよ。乾さんに言いつけていいの?」
「言いつけたらやだ。けど、気に……」
「気にしなくていいの」
 なんなの? と口をはさんだ恭子にも、気にしないで下さい、と酒巻は言った。
「そおお? ファイって乾さんが怖いんだっけ」
「怖くはないけど、おっかないっつーか」
「怖いとおっかないって同じじゃないの? 乾さんって私にはとーっても優しいけどな。どう怖いの?」
「どうと言われても……あの目かな。酒巻さんは乾さんは怖くない?」
「叱られると先輩は怖いよ。精神的に怖いんだね。乾さんはあれで案外、効果的だと考えたら暴力も用いなくもない。暴力って肉体的恐怖なんだけど、精神的恐怖のほうが強いでしょ」
 え? ちょっと待ってよ、と恭子が言った。
「乾さんって暴力ふるうの? シゲちゃん、ほんと?」
「暴力じゃないよ。制裁だったらやるけどな」
「制裁と暴力ってちがうの? 怖いとおっかないもちがうの?」
「俺にはむずかしいけど、体罰っていうのか、ファイが乾さんにやられたのはそれだろ。わかってるんだろ、おまえも」
 ちぇっ、とファイはふてくされ、恭子はなおも言った。
「酒巻さんも乾さんに?」
「あれは乾さんの、年下の男に対する思いやりです。本橋さんは気安くぽかっとやってくれますけど、あれも後輩への面倒見です。金子さんもです。シゲさんや三沢さんは僕は怖くないんですよ。むしろ徳永さんがいちばん怖い。シゲさんにだったらわかるでしょ?」
「うん、徳永さんは不気味だから怖い」
 燦劇の他の四人は別の場所で飲んでいて、酒巻はファイに言った。
「きみらは金子さんや徳永さんは知ってる?」
「名前は知ってるし、会ったこともあるけど、話はしてない」
「金子さんや徳永さんだったら、こいつらをどういう扱い方するんだろうな。酒巻、おまえ、金子さんや乾さんに殴られたことがあるのか」
 本橋さんは男の後輩にだったら、バカヤロ、ぽかっ、なんてのは日常茶飯事だ。俺だってこづかれた経験なら何度もある。乾さんにも軽くこづかれたことはあるが、本橋さんにも乾さんにも、本気で叱りつけられて殴られた記憶は一度もない。
 そのかわり、乾さんは俺のふやけた精神をぶん殴って活を入れてくれた。本橋さんには怒鳴りつけられて、精神をしゃっきりさせてもらった。
「どうだったかなぁ。忘れました」
 こう言われると、あるのかないのか謎だが、ないと断言しないところを見ると、あるのかもしれない。言いたくないんだったら追求はしないでおこう。
「とある先輩にだったら、思い切り殴られたんですよ。僕は泣き虫だったから、今でも泣き虫は残ってますけど、あのころは情けない泣き虫で弱虫で、落ち込んで泣いてたら、男が人前で泣くな、ばしーんっ、だった。ああやって殴られたのなんて生まれてはじめてで、よけいに泣きました。乾さんが言うでしょ。殴られたこともない男なんて、男としてはどうしようもないんだって。あとになって、ほんとにそうだなって思いました。泣き虫は直らないけど、ちょっとずつ精神的に強くなっていったのは、先輩たちに鍛えてもらったおかげです。こないだも失恋したんですけど、泣きませんでしたから」
 失恋したからって泣いててどうすんだよ、とファイが言い、恭子は言った。
「酒巻さんは泣き虫じゃなくて、涙もろいって言うんじゃないの? 繊細な男のひとなんだよ。酒巻さんっていいひとだよね。きっと近いうちに素敵な彼女ができるよ」
「そう言ってくれるひとは、先輩の奥さんですからね。独身の女のひとは言ってくれないんですよ」
「言ってくれるよ、そのうちには」
「そのうちっていつですか」
 こいつは泣き上戸のからみ上戸なのか。たいして飲んでもいないのに、僕はちびでもてなくて、などとくだを巻いている。ファイは辟易のていで立っていってしまい、恭子も困った顔になった。そのとき、酒巻の頭上から迫力ある低音が降ってきた。
「なにをうだうだ言ってるんだ。酒巻、立て」
「はいっ!!」
 かっきーんっ、と音を立てそうな勢いで立ち上がった酒巻に、乾さんが言った。
「気をつけ。腹の底から声を出せ。恭子さんを困らせてどうする。ごめんなさい、だろ」
「……乾さん、いいんですよ」
「恭子さんはしばし黙っててね。酒巻、恭子さんに詫びろ」
「はいっ。恭子さん、ごめんなさいっ!!」
 いっそう困り顔になった恭子は、乾さんに目で合図されて言った。
「よしよし、いいよ、それで」
 言っておいて、きゃははっ、と笑い出す。酒巻は頭をかき、乾さんは言った。
「すっかり遅くなっちまった。ホールのスタッフのひとに訊いたら、ここで燦劇が打ち上げやってるって言うから、来てみたんだよ。酒巻もいたんだな。酔ってるのか」
「いえ、乾さんに叱られて酔いは醒めました」
「飲むのはいいけどからむなよ。恭子さん、ビジュアルロックフェスティバルはいかがでしたか」
「はい。すっごく楽しかった」
 乾さんと恭子は本日のライヴについての会話をはじめ、酒巻は俺にも言った。
「すみません、シゲさん、恭子さんを困らせちゃって」
「いいけどな。乾さんって普段は優しい穏やかな声で話すけど、ああなると底力のある峻烈な声音になるんだよな。昔は章なんかも怯えてたよ」
「ですよね。あの、気をつけ、っての、僕が合唱部に入部しようと決めて部室に行って、乾さんとはじめて会ったときにやられたんですよ。これからはおまえは俺の後輩なんだから、びしびしやるぞって言われて、気をつけ、返事しろ、ってきびしい声で言われて、僕もびびりました」
「そうだったのか。さっき言ってた、とある先輩って誰だ? 乾さんじゃないんだよな。金子さんでもないだろ。徳永さんか?」
「徳永さんはそういうときに、後輩を殴りつけないんじゃありません?」
「だろうな。そしたら誰だ? 俺の知ってる奴? 男だよな」
「男の先輩ですよ」
 そういうことをしそうな男には、本橋さんでもないのならば、もうひとり心当たりがある。ヒデ? と俺の顔に書いてあったのか、酒巻は首肯した。
「おまえ、ヒデと……会ったのか。それとも、風の噂でも聞いたのか」
「幸生って名前の風は、ヒデさんの行方は知らないんです。僕が聞けるわけもないじゃありませんか」
「……そうか」
 熱心にライヴの話をしているものの、乾さんは俺たちの会話にも耳を向けていると感じられる。酒巻は言った。
「会いたいですよね。シゲさんだけじゃなくて、本橋さんも乾さんも三沢さんも。木村さんも?」
「章はそれほどでもないかもしれないけど、他の四人は会いたいんだ。たまには言ってるよ」
「そうですよね」
 酒巻の表情をよぎる色がなんなのか、俺にはさっぱり読み取れない。ただ、彼もまた、ヒデに会いたいと願っているのだろうか。
 フォレストシンガーズの四人だけじゃないよ、恭子だっておまえに会いたがってる。酒巻もだ。なのにおまえはどこにいる? 心でヒデに呼びかけるのは、何百回目にもなるのに、ヒデの返事はただの一度もなかった。今夜もそれは同じだった。そんなの当然なのに、俺は無性に寂しかった。


END

 
 
 
 
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