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小説72(F8・LIVETOUR STORY・2)前編

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フォレストシンガーズストーリィ72

「F8・LIVETOUR STORY・2」前編

1

日本の政令指定都市は現時点では十七都市。その正確な数と場所を知ったのは、今回のライヴツアーのおかげだった。俺は不勉強だったと反省しつつ、新幹線に乗った。第一回の目的地は「八年目のフォレストシンガーズ・政令指定都市を旅する」という長い名前のついたツアーの初演場所、大阪だ。
 三重県で生まれて育った俺は、子供のころにも、学生時代にも、フォレストシンガーズがプロとしてデビューしてからの仕事でも、幾度も大阪を訪れている。
しかし、こうして初の全国ツアーのために訪れる気分は格別だ。全国ツアーができるようになったのは、我々が売れてきた証拠。とはいえ、我々は個々でいると目立たない普通の人間である。特に俺はひとりで歩いていたら、人に声をかけられることもない。
 フォレストシンガーズのファンの方ならば、俺を知っている人もいるのかもしれないが、大阪の街を歩いていてもまったく注目もされない。その分、緊張もせずに歩いていられた。
「大阪と名古屋と京都が続くから、その間は連泊で会えないね。シゲちゃん、恭子、寂しいな」
 妻の恭子は出がけにそう言って、ぎゅっと抱きついてきたのだが、キスをかわしたあとで言った。
「大阪では肉まん。泉水さんが送ってくれる、大阪でしか売ってないやつね。名古屋ではういろう。京都では生八橋。他にもおいしいお菓子があったらお願いね」
「よし、まかしとけ。しかし、恭子、大阪では肉まんとは呼ばないんだよ。豚まんだ」
「おんなじじゃないの?」
「おんなじだけど、豚まんって言ったほうが、俺にはうまそうに聞こえるよ」
「そうかな。じゃ、豚まん、よろしくね」
 土産の約束をしたのだから、買って帰らなくてはいけない。恭子は大阪在住の泉水が時おり送ってくれる豚まんの大ファンなのだ。俺とのしばしの別れが寂しいのも本当だろうけど、帰ってきたらお土産がある、とばかりに、そちらをより以上に楽しみにしているのではあるまいか。
 街を歩いて土産を買って、ライヴが行われるホールへと足を向けた。ホールの関係者通用口から入って中庭を通っていると、幸生の声が聞こえてきた。
「ちがうだろ。「君をのせて」ってジュリーの歌だよ」
「ちがう。ZIGGYの歌だ」
 話している相手は章だ。なにをもめているのかと覗いてみたら、幸生が歌い出した。

「風に向かいながら、革の靴を履いて
 肩と肩をぶつけながら
 長い道を歩く」

 風に乗って幸生の高い声が響いていく。喉の調子は絶好調であるらしい。この歌はいつか幸生が教えてくれたので知っている。俺もいっしょに歌おうとしたら、章が別の歌を歌いはじめた。こちらも喉は絶好調だった。

「まやかしの恋に溺れ
 我を忘れてさ
 みっともないねと誰かに冷やかされ
 嘘でもいいんだきっと
 口実がほしいだけさ」

 この歌もいつか章に教わって知っている。幸生が歌っているのは静かな曲調で、章が歌っているのはポップロックタッチ。
ふたりして高い声を張り上げて別々の歌で張り合っているのだが、幸生と章が歌うと一種のコーラスのように聞こえる。曲はいいにしても、歌詞がばらばらで耳が変になりそうだったので、俺はふたりに割り込んだ。
「どっちの歌も「君をのせて」なんだろ。同じタイトルで中身のちがう曲ってのも、そう珍しくないじゃないか。「クレイジー・ラブ」って曲もあるぞ」
 ohohohohクレイジーラヴ……と、ふたりして即座にその歌を歌い、別のクレイジーラヴはこんなの? と言いかけた章に頭を振ってみせた幸生が、「君をのせて」に戻った。

「人の言葉、夢の虚しさ
 どうせどうせ知ったときには
 ああー、あああー、君をのせて
 夜の海を渡る船になろう」

 章も章の「君をのせて」を歌った。

「君を乗せて僕の船は
 雨に濡れた闇をころがる
 君を乗せて航海に出る
 約束の場所へ」

 結局、言いたいことは同じなんだよ、と結論づけようとした俺に、章が言った。
「ZIGGYの歌詞はそんなに単純じゃないし、このあとはもっとシュールになってくっていうか、幸生の歌ってる古い歌みたいにきれいごとでもないんだぞ」
「そりゃあね、古いっちゃ古いよ。章の「君をのせて」を歌ってるひとは、俺の「君をのせて」を歌ってるひとがこの歌を歌ってたときって、いくつだった?」
「さあ……小学生かな」
「だろ。だから、俺の歌ってるほうが上なんだよ」
「そんな理屈はないだろうが。古いだけだよ」
「おー、俺の敬愛するシンガーを貶めたな。この歌詞は単純なんじゃないんだよ。でもさ、君をのせて、って言ったらさ、船っていったらさ……どうせだったら彼女をこうやって身体の上に乗っけて、って……言いたいことってそれ?」
「かもな」
 このままでは話しが果てしなく落ちていきそうなので、ストップをかけた。
「幸生、下品な話にするな」
「なんで下品? 人類の崇高な営みでしょうが。シゲさんはそれをさして下品と言うんですか」
「シゲさんだってやってるくせにさ」
「章、おまえの言い方が下品なんだよ」
「言い方はなんでもいいんだ。たどりつく先は同じだろ。するとつまり……」
「この歌詞もその歌詞も、たどりつく先は同じってわけね」
 そうかなぁ、と章は首をかしげ、そうだよそうだよ、と幸生がうなずく。幸生は作詞が得意だし、章は作曲のほうが得意だと言うものの、作詞もしなくはない。対して俺には詞を書く能力はないのだから、こんな話になるとしっぽを巻くしかなくて、勝手に言ってろ、と呟いた。
「シゲさん、降参?」
「ああ、降参するよ」
「降参ついでに、なに持ってんの? その匂いは……腹減ったよぉ、ちょうだい」
 豚まんというものは、かなり匂いがきつい。厳重に包装してあっても隠せない。幸生は俺が持っているものの正体に気づいたようで、手を伸ばそうとする。俺は包みを遠ざけた。
「駄目だ。恭子と約束したんだから」
「シゲさんったら、どこに行ったのかと思ったら、恭子さんへのお土産を買いにいってたんだ。肉まんでしょ?」
「豚まんだ」
「豚まんか。なんだっていいけどさ、東京に持って帰るつもり? 腐っちゃうよ」
「あ、そうか。帰るのは数日後だよな。送ってもらえばよかったか」
「もう一度買えばいいじゃん。それは食っちゃおう。ごちそうさまでーす」
 食いものでも負けてしまった。幸生は包みを強奪し、章とふたりして、冷めちゃってるけどうまいうまい、とかぶりついている。そんなら俺も食おう、と手を伸ばすと、くすくす笑いが聞こえてきた。
「おーっ、泉水さん、来てくれたんですか」
 半分かじった豚まんを口にくわえて、幸生が手を振る。章も言った。
「こんにちは、泉水さん、いらっしゃい」
「おやつの最中だったの? そうしてると子供みたい」
 にこにこと近づいてきつつ、泉水も言った。
「幸生くんも章くんもシゲも、甘いのは嫌いだよね。私もさしいれを持ってきたんだけど、スタッフの人に渡しておいた。甘いお菓子じゃないからね。シゲ、どう、元気?」
「元気だよ」
「今日は楽しみにしてる。がんばってね」
「うん」
 ありがとうございます、と幸生と章が最敬礼し、泉水はそれだけ言って背を向けた。背を向けて歩み去っていきながら、泉水は言った。
「おめでとう。フォレストシンガーズもここまで来たんだね」
「まだまだ大物でもスターでもありませんけど、そこを目指して励みます」
 言った幸生に、首の動きで泉水はうなずいた。あいつは会うたびに大人になっていく気がする。俺は泉水と同い年だっていうのに、下らないことを言ってもめている幸生と章に加わって、豚まんだの肉まんだのと言っているなんて、なんだか恥ずかしい。泉水と会ってそんな気持ちになるのは、たぶんはじめてだったはずだ。


 大阪の豚まんは恭子のもとへ発送してもらい、名古屋ではういろうだのきしめんだの、腐りにくいものを買った。
「食い気夫婦の面目躍如」
「そういうときに面目躍如なんて言わないんだよ」
「だって、乾さん、シゲさんったら、ツアー先で毎日毎日、食いものを買うんですよ。恭子さんもそれを楽しみに待っている。これをして食い気夫婦っていうんでしょうが」
「食い気夫婦は当たってるな。いやいや、シゲ、失礼」
 今日は乾さんと幸生がそうやって恭子と俺を肴にしている。たしかに当たっているので言い返せずにホールの控え室に行くと、目の前に花束が差し出された。
「あ、ありがとうございます……って、姉さん」
「繁之もファンの方に花束をもらったりするの? こんなの、慣れた?」
「慣れてないよ。花なんかいらないのに」
「食べもののほうがよかったか」
「食べものも別にいらないけど……」
「元気そうだね。恭子さんとは……聞くまでもないか」
「うん、まあな」
 こんな場所で姉と改まって話すのは気恥ずかしくて、なにを話せばいいのか戸惑っていると、控え室のドアを開けて顔を出した男がいた。
「安斉。よく来てくれたな」
「お取り込み中だったか」
「取り込んでないよ。姉貴だ。紹介するから入れよ」
 三十三歳になった姉は、大人なのは当たり前だ。中年に近づきつつある、などと言ったら怒るのは目に見えているので、言わずにふたりを引き合わせた。
「合唱部のころからの友達だよ。同い年の安斉。こっちは俺の姉」
「希恵です。はじめまして」
「安斉と申します。よろしくお願いします」
 礼儀正しく挨拶をして、すこしだけ安斉と世間話をして、姉は控え室から出ていった。
「俺、邪魔しちまった? 姉さんと話しがあったんじゃないのか」
「ないよ。姉貴となんか」
「そうなのか。なあ、本庄、いや、シゲ、シゲって呼んでいいのかな」
「もちろん」
「……なんとなく……いや、嬉しかったよ、俺。合唱部のころからの友達だって言ってくれただろ。今でも友達って意味だよな」
「それももちろん」
「うん。な、シゲ……」
 同い年の友達を見ると思う。三十歳。俺たちも三十路に到達したのだ。安斉はなぜか口ごもり、それから言った。
「ヒデは……なんて、言っても意味ないんだよな。ヒデはいいのか。ヒデじゃなくてシゲだよな。俺だけじゃなくて、昔の友達はみんな、きっとそう思ってる。シゲは……」
「なにが言いたいんだよ。俺は鈍感なんだから、はっきり言わなきゃわからないよ」
「昔の友達じゃなくて、今でも友達。うん、そうだよな」
「なに言ってるんだよ」
「うん、うんうん。シゲはずっとシゲだよな」
「そりゃそうだ」
「ところで、おまえの姉さん、なかなか美人じゃないか」
 急に話題が変わって、安斉はにやにやした。
「シゲの姉さんだなんて思えなかったから、こりゃあ俺が入ったらいけないのかな、ってためらったんだ」
「姉貴でなかったらなんなんだ」
「シゲはそういうことはしないよな」
「そういうことってなんだ」
「いやいや、まことに失礼しました。じゃあな、本橋さんとは話したけど、乾さんや三沢や木村にもよろしく言っておいてくれ。安心したよ、俺は」
「……なんなんだか……」
 意味不明のような、そうでもないような言葉をいくつか残して、安斉はにっこりして控え室から出ていった。


 京都にはうまいものがたくさんある。俺は甘いお菓子は嫌いだが、恭子は好きだ。生菓子は腐る恐れがあるので、賞味期限を確認して、日持ちのしそうな土産を買い込んだ。名古屋にも京都にも何度も何度も来ているが、結婚してからはどこかに行くたびに土産を買う。恭子が喜ぶ顔を見るのが楽しみだからだ。
「今日も泉水ちゃんが来てくれてたぞ」
 買い物をすませてホールに行くと、本橋さんが言った。
「で、今日はなにを買ってきたんだ?」
「京都のお菓子です。泉水には大阪でも会いましたから、もういいと言えばいいんですけど」
「大阪には実松は来てなかったな。今回は来られないのか」
「実松は堺のライヴに来てくれると言ってました。本橋さんは大勢の来客の応対に大変ですね」
「大変なんかじゃないさ。千客万来。ありがたいじゃないか。ライヴのお客さまも入りがいいし、ソールドアウトになったホールもあるし、歌い手にはやっぱりライヴが一番だよな」
「そうですね」
「おまけに、明日は帰って恭子さんに会える。シゲは気持ちが舞い上がってるだろ」
「本橋さんまでそういうことを……恭子ではなく、俺だってライヴが一番です」
 そこにあとの三人も入ってきて、幸生はまたもや言った。
「腹減ったよぉ。シゲさん、なにか食わせて」
「おまえはせっかく京都に来てるのに、午前中はなにをしてたんだ」
「思索」
「寝てたんだろ。メシも食わずにか」
「昼メシは食ったけど、思索って頭を酷使するんですよ。シゲさんの専門の国史じゃなくて、ひどく使うって酷使ね。だから腹が減るんです」
「漫才の台本を思索して、頭を酷使してたのか」
「漫才まじりのMCの思索だよな」
 章が言った。
「俺は神社にお参りしてきましたよ。すべてのライヴが大成功をおさめますようにって祈願してきました。乾さんは?」
「俺も京都の街を散策してきたよ。思索もした。詩作もした。詩を書くって詩作な」
 昔は仕事で旅に出ると、自由時間には五人そろって行動することが多かった。最近は個別行動が増えてきている。俺たちももはや、いつだってつるんでいる若者たちではなくなってきたという意味か。来年には幸生も章も三十代に突入するのだから、若者ではなくなっていくのも当然だ。
「シャレはいいんだよ、乾も幸生も」
 なのに、乾さんと幸生のシャレ合戦は健在である。変わったところも変わらぬところもあるのも当たり前だろう。シャレはいいんだよ、と言ったのは本橋さんで、俺の買い物を探っていた幸生も言った。
「お菓子ばっか。こんなのいらない」
「おまえに食わせるために買ってきたんじゃないよ。人の持ちものを勝手に漁るな」
「泉水ちゃんの差し入れがあったぞ」
 大阪でも持ってきてくれたのに、今日も差し入れてくれていたらしい。本橋さんが取り出したのは、大阪で泉水と会ったときに幸生と章と三人でほおばっていた豚まんだった。幸生は大喜びで豚まんに食いつき、章も乾さんも手を伸ばす。俺もちょうだいして、明日には帰るんだな、と恭子を思った。
 ライヴが一番なのは言うまでもないけれど、恭子は俺にとっては、ライヴとは別の一番だ。恭子、もうじき会えるな、と口には出さずに言ったのに、幸生は俺の顔色を読み取ったか、あじいあじい、と手で顔を扇いでいた。

 
 一日の休みが明け、我が家から通勤できる距離にある横浜のホールに行くと、幸生が言った。
「今日はお土産は?」
「横浜で土産を買わなくてもいいだろ」
「俺はいいけど、恭子さんは不満なんじゃないの? 久々の再会のお熱い夜だったんでしょうね。いいわねえ」
「久々ってほどでもないだろうが」
 幸生はなにかにつけて恭子の話をしたがる。俺が照れるのを面白がっているのはとっくに知っているのだが、照れないでおこうとしても照れてしまうのだから、どうしようもない。これだから幸生にいいように冷やかされるのだ。わかってはいても、性格は性格なのだからどうしようもない。
「うちの妹たちが来てますよ。リーダーと話してるんだけど、あいつら、なに言ってるんだろ」
「おまえが横で聞いてたらいいじゃないか」
「お兄ちゃんは邪魔だからあっち行って、って追い払われたんだもん。雅美も輝美もリーダーのファンなんだよね。変な趣味。変な趣味っていえば、もっと変な趣味。雅美が結婚したってのは話したでしょ。兄の俺はプロのシンガーなんだから、結婚式で歌ってやるって言ってんのに、ヤクザな仕事の兄ちゃんは引っ込んでて、って冷淡きわまりないあしらいをされたんですよ」
 その話は聞いていたので先を促すと、幸生は言った。
「でね、変な趣味っていえば、輝美も結婚するんだって。あいつにプロポーズした男ってどんな趣味なんだろ。会いたくないけど会いたいな、みたいな」
「なんだ、それは、やきもちか」
「なんで俺が妹の婚約者に妬かなきゃなんないんだよぉ」
 実は妹たちがふたりとも結婚してしまうのが寂しいのではないか。それとも、妹ふたりに先に結婚されて悔しいのか。単に輝美ちゃんや雅美ちゃんが、本橋さんとなにを話しているのか気になるだけか。
「そんなら俺が探偵してきてやるよ」
 そう言って外に出たら、本橋さんが幸生の妹たちに手を振って、歩いていくのが見えた。俺も雅美、輝美姉妹には会ったことがあるので、かわりに近づいていった。
「シゲさーん、お久し振りです」
 よく似たふたつの声が挨拶してくれる。俺が雅美には結婚の祝いを、輝美には婚約の祝いを述べると、輝美が言った。
「お兄ちゃんがね、私の彼をド変態だって言ったって、本橋さんに言いつけたんです。お兄ちゃんを怒ってやって、って言いたかったんだけど、本橋さんは……」
 思い切りぶん殴っておいてやるよ、と本橋さんが言ったのだと、輝美は心配そうな顔になり、雅美は問いかけた。
「本橋さんって、お兄ちゃんを殴るんですか」
「冗談半分だったらやってるよ。妹の婚約者をド変態だなんて言う奴は、殴られたらいいんだよ。俺もぼかっとやっておこうか」
「んん……シゲさんと本橋さんにぼかっとやられたら、ねえ、輝美ちゃん?」
「お兄ちゃんの首が折れない?」
「そこまではやらないけど、なんだったら折ってやってもいいよ」
「駄目」
「そんなの駄目」
 あいつは俺には、輝美にプロポーズしたとは、変な趣味の男だと言っていた。雅美ちゃんにしろ輝美ちゃんにしろ、幸生の妹なだけに小さくて、ソプラノの声も愛らしい。
彼女たちと結婚したがる男を変な趣味だとは、あれは幸生の諧謔ってやつなのか。それを言ったら、彼女たちはどんな反応を示すか。知りたい気もするが、さしもの幸生も妹たちふたりがかりの口攻撃にはたじたじするらしいので、言わないほうがいいだろう。
「殴ったりしないで、よーく言い聞かせておいて下さいね」
「わかった。しかし……」
 手後れかもしれない。俺の予想は当たっていて、雅美輝美と別れて控え室に戻ると、幸生の嘘泣きが聞こえてきた。やはり手後れだったようだ。
が、少々リーダーに怒られようと殴られようと、ああして幸生は気分を高めていくのだから、今夜のライヴのMCもテンションが上がりっぱなしになって、むしろいい方向に向かうに決まっている。
 そっか、幸生の妹たちもひとりはすでに結婚し、もうひとりも結婚するのか。しかし、うちの姉貴は? あれは結婚しない女なのだろうか。しないのか、したくないのか、できないのか。そんなことを真面目に考えるのも、もしかしたらはじめてだったかもしれない。
 
 
2

神戸のホールにも、泉水が来てくれた。あいつは仕事はいいんだろうかと俺が心配になっていると、泉水のかたわらに女性がいるのが見えた。
「えーと、誰だっけ?」
「シゲさんったら、忘れたの?」
 幸生が言い、章も言った。
「俺は……合唱部のひと? 知らないな」
「章も会ってるはずだけど、忘れてもしようがないかな。シゲさんは忘れるはずないよ。思い出しなさい」
 知らないよ、覚えてないよ、と章はどこかに消えてしまい、幸生は俺をじっと見た。ホールの廊下の端っこで、本橋さんはそのひとと立ち話をしている。泉水は俺たちのいるところに歩いてきた。
「ええとええと……泉水、あのひとは……おまえの友達だったら俺が知らなくても……なんかこう、あのひと、べそかいてないか? 本橋さんも……なんとも言えない顔をして……あ」
 思い出すのが遅いね、と泉水も幸生も言う。頭のめぐりが遅いのも俺の性格なのであろうが、ようやく思い出した。下川乃理子さんだ。本橋さんが二年生で、下川さんと俺が一年生だったころに、新入生同士で時々は話した。一年生たちが集まって遊びにいったりもした。
 彼女はいつだって本橋さん、本橋さんと言っていて、にも関らず俺はそれがなぜなのかを気づいてもいなかったのだが、ヒデが教えてくれたのだったか。本橋さんと下川さんは恋人同士だったのだ。
 淡路島出身の下川さんは、東京出身の本橋さんと交際して、当初は残っていた関西なまりが消えていった。
けれど、いつしかふたりは別れてしまって、下川さんは合唱部もやめてしまった。下川さんが合唱部に来なくなった時期と、本橋さんと別れた時期はおよそ一致するのだろう。あのころ、俺は二年生だったか。幸生は一年生だったはずだ。
 新入生だった幸生は、下川さんが記憶にあるのだろうか。俺は本橋さんと下川さんの関係をだいたいは知っているが、過去の出来事にしても、幸生が知らないのならば口にしてはいけない。どうなんだろうかと考えていると、泉水が言った。
「学生時代には、合唱部のグループにまぜてもらって、私もいっしょに遊びにいったりしたよね。下川さんもその中にいたよ。私は下川さんとはそうは親しくなかったけど、ちょこちょこ話はしたんだ。ひょんなことから最近下川さんと会って、フォレストシンガーズがライヴツアーに出るんだよ、って、シゲに聞いてた話をしたの。下川さんも知ってはいたらしいんだけど、ためらってたみたいで、そんなら関西でのライヴに行こうよって、私が誘ったの」
 故郷の淡路島にもっとも近い神戸に決めて、下川さんは泉水と連れ立ってやってきた。
「幸生くんにまつわる話も聞いたよ」
「幸生は下川さんを?」
「まあね。なにかと……ってほどでもないけど、知ってますよ。だけど、リーダーには言わないでおこう。礼儀として見ないふり。ね、シゲさん?」
「おまえがそう言うんだったら……」
 乾さんもやってきて、泉水ににっこりしてから言った。
「ああ、ノリちゃん……泉水ちゃんを探してるんじゃないのかな」
「はい。私もあんまり仕事をサボるのもまずいから、あとのライヴには行けそうにないんだよね。広島と堺には行きたかったんだけど、無理そう。シゲ、じゃ、これね」
 なにやら包みを俺に押しつけて、泉水は小走りになった。本橋さんから離れた下川さんは、涙ぐんでいるような顔で、泉水とふたこと、みこと、やりとりしている。下川さんの心になにが……今さらではないか。こんなときの女心なんて、俺にはわかるはずもないけれど、泉水にはなにかわかっているのだろうか。
「なにもらったの、シゲさん? 豚まん?」
「なんだろうな。あったかいぞ。たこ焼き……明石焼きだよ。神戸は本場だもんな。あたたかいうちに食おう。章にも……」
 開いた包みの中には、ぬくもりの残る明石焼きが並んでいる。だし汁も添えられている。しばしたたずんでいた本橋さんも近づいてきたので、みんなで食おうと、章を探しにいった。


 ライヴツアーがはじまるだいぶ前に、宮村美子さんの結婚式があった。仕事があって俺は出席できなかったので、北九州のライヴに来てくれた彼女に言った。
「ご結婚おめでとう。宮村さんは佐賀県出身だよね。旦那と里帰りついで?」
「ついでじゃないよ。フォレストシンガーズのライヴなんだもの。前々から楽しみにしてたの。旦那はほったらかして、妹を連れてきたのよ。妹は博多で働いてるから、福岡か北九州が近いでしょ。私たちにだってスケジュールの都合はあるんだから、今日がよかったの。里帰りがついでだよ」
「そうだったんだね。来てくれてありがとう」
「ありがとうって言ってくれるんだよね」
「そりゃあそうだよ。神戸には……」
 学生時代にみんなで遊びにいった中には、宮村さんもいた。下川さんの近況を彼女は知っているのだろうか。だが、無闇に口にしてはいけないかもしれない。泉水だって詳しくは言わなかった。
「神戸でなにかあった?」
「友達が明石焼きを持ってきてくれたんだ。たこ焼きと似てるけど、やわらかくてふわふわっとした卵の多いやつで、出汁につけて食うんだよ。知ってる?」
「東京には明石焼きなんてないよね。佐賀にも福岡にもないんじゃないかな。それにしても本庄くんったら……」
「食い気の男だよ、俺は」
「自分で言うんだ。その通りだよね」
「ところで、榛名さんは来られないのかな」
「沙織ちゃんはねぇ……どうなんだろ」
 気楽な大学生としてみんなで遊びにいったり、卒業してからも時には会って話したりした合唱部の同年の仲間たちのうちでも、ヒデ以外にも消息不明になっている者がいる。俺の結婚式に来てくれた友人たちは、長年交友が続いているほうだ。
宮村さんは榛名さんについてはっきりとは言わず、うふふっと笑っていたが、俺にはその意味が読めないので諦めた。
 神戸から福岡は新幹線で一直線なので、東京には戻らずに直行した。次は札幌。福岡札幌間も飛行機ならば一直線だが、明日は一度東京に帰る。ライヴをすませて軽く打ち上げをやって、ここまでの六度のライヴの成功を祝した。ホテルの部屋も個室になって、待遇もよくなってきている。俺はもう、これ以上は望まない。
「お帰り、シゲちゃん。今回もいいライヴだった?」
 家に帰ると、恭子が迎えてくれた。
「ライヴはよかったよ。お客さんの反応も上々だった。できもよかったって、みんなで言い合った。で、お土産は、神戸の明石焼きは冷凍のを売ってたんだけど、とけちゃうだろうから断念して、生チョコレート。これも溶けてないかな。冷蔵庫に入れたら固まるだろ。それから、福岡では明太子。月並みだけど、酒の肴にぴったりだろ。今夜はふたりで飲もう」
「おいしい焼酎を買ってあるよ。でも、私はチョコレートがいいな。とけてない?」
「アイスボックスに入れてきたんだけど、とけてたらごめん」
 何日ぶりかで会ったら、食べものの話になるんだから、食い気夫婦といわれてもうなずかざるを得ない。食い気女と食い気男が結婚したら、食い気夫婦になるのも当然だ。食欲旺盛な恭子は料理も好きで、食うことになると探究心も旺盛になるのだから、今夜は料理をたくさん作ってくれた。
「俺、ここまで来られたら幸せだよ。恭子もいるし、全国ライヴもできるようになったし、会場には友達が来てくれて、おめでとう、がんばって、って言ってくれる。これ以上は望まなくていいって言ったら、本橋さんに叱られるんだけど、俺はこれで腹いっぱいなんだから、幸せなんだから。ただ……」
「ヒデさん?」
「ごめんな、恭子。ヒデヒデヒデって……俺はいつまでヒデを……」
「忘れなくていいんだよ。忘れたら駄目。きっとたった今は、ヒデさんも思ってる。シゲに会いたいな、って。ヒデさんは知ってるのかな、どこかのライヴに来てくれないかな」
 来てくれたらどんなにか。だが、そんな望みはかなわないのだろうか。ヒデがどこにいるのかすらわからない今、どこに向かって祈ればいいのかもわからないのだから。
「シゲちゃん、泣き上戸?」
「泣いてないよ」
 もしもヒデに会えたら、泣いてしまうかもしれない。泣いてしまってもいいから、ヒデがライヴ会場にあらわれて、よっ、シゲ、と声をかけてくれないだろうか。泣く前に殴りつけてしまいそうな感もあるが、そうなったとしてもかまわないのだから。

 
 札幌は章の故郷に近いのだからあり得ると、本橋さんと乾さんが言い交わしていた。スタッフに伴われて、俺にお辞儀をした小柄な女性、その予感が当たっていた。
「フォレストシンガーズの方でいらっしゃいますね? そのお姿からしますと、本庄さんでしょうか」
「そうです。あの、章……章くんのお母さまですか」
 スタッフの女性が言った。
「受付を訪ねてこられたんですよ。お名乗りになられなくても、スタッフたちにだってわかりました。お顔が似ていらっしゃいますものね。では、本庄さん、よろしくお願いします」
「はい、わかりました」
 誰も章の家族とは一度も会っていない。章はいまだに親父さんに勘当されたままなので、お母さんも会いにこられなかったのだろうか。章には弟がいるが、十二歳年下の高校生だ。
彼も兄貴の前には出てこないようで、現在の姿が浮かばないと章も言っていた。兄弟の別れは、章の弟の龍くんが小学校に入った年だったのそうだから。
「おひとりですか」
「はい、私なんかがこんな……」
「私なんかって、お母さまじゃありませんか。章くんは控え室にいるはずですよ。いらして下さい」
「よろしいんですか」
「もちろんです」
「札幌にだってめったに来ないんですよ。田舎者の婆さんですから、都会に出てくるのは気が引けます。章に会ったら、帰れって言うんじゃないんでしょうか」
「婆さんってお年では……」
 せいぜい五十代であろう。六十にはなっていないと見える。地味な服装で老けて見えるのだが、章が苦労をかけて、老けてしまったのかもしれない。痩せて小柄な姿も、整った顔立ちも章に似ている。若作りをすればいいのに、と俺には言えないけれど、章が札幌で洋服でも買って、プレゼントしてあげないものだろうか。
 帰れだなんて、そんなことを言いやがったら張り倒してやる、とは母親の前では言えないが、俺がやらないまでも、本橋さんがやるだろう。乾さんもやりかねない。殴らなくても章が言うはずがないと、言い切れないのがこころもとなくあった。
「頑固なお父さんは今でも……」
「親不孝なのはまちがいないんですよね。僕も親には歌手になりたいと言って反対されました。親父はいまだに、もっと堅実な職業がよかったのに、って言ってますよ」
「そうなんですか」
「僕が言うのは生意気でしょうけど、親ってそんなものなんでしょうね。章だってお父さんの気持ちも慮れる年齢になってますよ。お母さん、章がいます。どうぞ」
 控え室のドアを細く開くと、章が中で、お母さんってシゲさんの? と言っているのが聞こえた。
「出てきて見てみろ」
「へ?」
 もはやお母さんは顔をくしゃくしゃにしている。え、えええ、悪い予感、だとか失敬な台詞をほざきつつ、章が出てくる。出てきた章とお母さんは、無言で見つめ合っていた。
「章、いいか、わかってるんだろうな」
「なにが? えーと……えーと……シゲさん、俺、どうしたらいいの?」
「章、本庄さんはあんたの先輩なんだろ。なんだね、その口のききようは」
「うるせえな。なにしに……いいから入れ」
 息子と母なんてこんなものであろう。これ以上言わなくても章もわかっているだろうから、ふたりが控え室に入っていくと、俺は本橋さんたちに報告にしにいった。
 残り三人は中庭にいて、乾さんと幸生は煙草をふかしている。本橋さんが、歌う前に煙草は……とぶつぶつ言いながら振り向いた。
「章のお母さんがいらっしゃいました。案内してきました」
「お、そうか。俺も会って挨拶したいんだけど、あとにしようか」
「そうだよ、本橋。大久々の再会なんだろ。俺たちは挨拶はあとにしよう」
「シゲさん、章のおふくろさんってどんなひと?」
 幸生が問い、俺は言った。
「よく似てたよ。スタッフのひとにも一目瞭然で、こりゃ、章のおふくろさんだって一発的中したみたいだ。似ててよかったよな。似てなかったら、お母さんはうまく言えなくて、スタッフのひとも困っただろうから」
「似てるのか、そしたら美人だね」
「おやおや、幸生、おまえ、章が美形だって認めるのか」
 言った乾さんに、幸生はきっぱり応じた。
「歌は顔でも身長でもないんでしょ。そんなの気にしませんよ。章は顔は綺麗だけど、俺のほうがすべての点で上なんだもん。背も俺のほうが高いし、声は高けりゃいいってもんでもないし、それよか、章のお母さんはなにか持ってた、シゲさん?」
「包みを持ってたな」
「稚内名産のなにかかな。楽しみだなーっと。シゲさん、札幌でもお菓子を買ったんでしょ?」
「買ったよ」
 札幌にも銘菓はいっぱいあるのだから、いっぱい買った。川崎は通勤圏なのだから、札幌から一度東京に戻って、恭子に会える。お菓子を見て喜ぶ顔が目に浮かぶ。明日も暑くなりそうだね、と幸生が言っているのは無視して、恭子に心で言った。ヒデには会えないままだけど、お土産は買ったよ、と。
 立て続けに後輩たちの母に会った。次なる川崎は幸生の故郷の横須賀に近いので、今回は幸生のお母さんが来てくれたのだ。お母さんは賑やかに我々に挨拶し、どんっと包みをテーブルに乗せた。
「来てもいいけど、食べられるものをなにか持ってこいって、幸生が申しますもので、肉じゃがをこしらえてきました。私の得意料理なんですけど、みなさんのお口に合いますかしら。幸生はいつもみなさんにご厄介になってますし、横浜には娘たちも伺いまして、また騒いでいたんでしょうね。私の育て方がよくなかったのか、息子も娘たちも騒々しいったら。あら、私に似たのかしら。私もうるさいですか」
「とんでもありません」
 先に本橋さんとは挨拶をしていたのだそうで、幸生はお母さんを見て逃げていった。そこで肉じゃがの大きな包みを抱えて、控え室にやってきたのであるらしい。乾さんは包みに鼻を近づけた。
「幸生くんから聞いてますよ。お母さんの肉じゃがは最高なんだそうですね。いささか空腹でしたので、いただいてよろしいですか」
「はい、どうぞ。早速食べて下さるなんて、嬉しいわ」
 いそいそとお母さんが肉じゃがを取り分けてくれる。食べてみると俺にはやや味が濃すぎたが、乾さんは、感極まったように、うまい、と言い、章も言った。
「なつかしい味ですよ。札幌には俺の母親が来まして、煮物だのなんだの持ってきてたんです。うちは稚内ですんで、横須賀のお母さんみたいに洗練された料理じゃないけど、味は近いです。うまいです。シゲさん、作り方を教えてもらって、レシピを恭子さんに持って帰ってあげたら?」
 なかなか章も上手に褒める。俺も言った。
「うちの嫁は煮物はあんまり得意じゃないと言ってますんで、よろしかったらぜひ」
「レシピなんてしゃれたものは……」
 そう言いながらも、お母さんは肉じゃがの作り方を教えてくれた。恭子にレシピを渡すのもいいけれど、帰ったら俺が作って恭子に食べさせてやろう。
 

 しばらくぶりに実家に行ってくるね、と言っていた恭子が、長崎から福岡のライヴ会場へと来てくれた。本橋さんに挨拶をしてから、恭子が控え室に入ってくる。恭子は男と連れ立っていて、俺はぎくっとした。
「お久し振りです。結婚式でもお会いしましたよね」
 まったく覚えていない。恭子にはテニス仲間の女友達が大勢いて、彼女たちが集まっている披露宴会場のテーブルは見事なまでに華やかだった。恭子は二十四歳だったのだから、友達も若かった。
 美々しいドレス姿の若い女性たちに、幸生が花々に引き寄せられるミツバチのごとき様子だったのは覚えているが、男友達なんか覚えていたくもない。こいつは覚えていないのだが、覚えているふりをしておいた。
「はあ、お久し振りです」
 なまりはないので、東京の男か。恭子のテニス友達には男も女もいて、東京出身者も数多い。東京の男は俺から見ると都会的で苦々しかったりするのだが、なぜ、東京の男が福岡にいるのだろう。
「次は広島だから、東京には帰れないんだよね。その次は仙台だったら、帰ってくるの?」
「うん、帰れるよ」
「明日から休みだったらいいのに。そしたらシゲちゃんもいっしょに、九州をドライヴできるのにね。シゲちゃんは休めないんだから、タクちゃんとドライヴに行ってくるね」
「恭子ちゃんとドライヴできるなんて楽しみだな」
「タクちゃん、新車を買ったんだよね」
「繁之さん、奥さんをお借りします」
 恭子ちゃんだの繁之さんだのと、なれなれしい奴だ。恭子もなれなれしい。夫の留守に男友達とドライヴ? 許さん、と言ってやれたらいいのだが、俺はそこまで理解のない夫になりたくない。
「シゲちゃんったらね……」
「恭子ちゃん、いいの?」
 ふたりしてひそひそ言い合っているのが一部聞こえると、怒りたくなってきた。シゲちゃんはこのごろ怒りっぽくなってきたね、と恭子に言われそうで鬱屈していると、恭子が言った。
「結婚式で会ったの、覚えてないんだ」
「覚えてるよ」
「だったら、彼は誰?」
「恭子の友達だろ。東京のテニス選手のタクちゃん」
「覚えてないじゃないの」
「やっぱりそうか」
 顔を見合わせて笑われると、むかむかっと腹が立つ。そこに幸生がやってきて、一歩引いた。
「あらら、お邪魔でした?」
「邪魔じゃない。ここはおまえたちの控え室でもあるんだから」
「そうですか。では、遠慮なく。恭子さんもお元気そうで、いつに変わらぬ初々しくも瑞々しい新妻ぶりでいらっしゃいますね」
「新妻って、三沢さん、もう三年くらいになるんですよ」
「いえいえ、心は新妻でしょ。えーと、そちらさんは」
 タクちゃんとやらを見た幸生は、おー、と手を叩いた。
「紹介していただきましたよね。恭子さんのいとこの卓夫さんでしたっけ」
「ほら、シゲちゃん、シゲちゃんは忘れてるのに、三沢さんは覚えてるって、なんなの、それ?」
「いとこ?」
 一から恭子が教えてくれた。
「結婚式のときにも紹介したけど、うちのお父さんとタクちゃんのお父さんが兄弟なの。私の父さんが兄。家も近くて年も同じで、男の子と女の子の双生児みたいって言われてたって、話したよ。シゲちゃんったらそういうのはすぐに忘れるんだから」
「シゲさんは歌詞は忘れないけど、人間関係は忘れるんだよね」
「うるさいんだよ、幸生は。そういえば思い出した。すると、タクちゃんって長崎のひと?」
「そうです。僕は長崎の観光案内所で働いてます」
「それも言ったよ」
 恭子はため息をつき、幸生はくっくと笑っている。観光案内所勤務か。だからなまりもなければ、東京の男のように都会的なのだ。ようやく納得できた。
「ライヴがすんだら長崎に戻って、タクちゃんの家でごちそうになるの。そのまま泊めてもらって、明日はふたりでドライヴに行ってくるね。シゲちゃんもがんばって」
「ああ、明日は天気もよさそうだし、楽しんでこいよ。卓夫くん、恭子をよろしく」
「はい、繁之さんもライヴ、がんばって下さいね」
 いとこ同士が肩を並べて出ていくと、幸生が言った。
「シゲさん、誤解してたんでしょ? 恭子さんが秘密の恋人を連れてくるわけないじゃん」
「恋人だなんて思ってないけど、友達だと思い込んでたんだよ」
「いとこだと思い出して気が晴れた? けどさ、いとこは兄弟じゃないんだから、そういう関係になるってのはなくもないよね。車の中でついついムードが妖しくなって、あらあらあら、いけないわ、タクちゃん……恭子ちゃん、僕はきみを繁之さんから奪って僕のものにしたいんだ、なーんてことは……きゃああ、嘘ですよぉっ」
 まったくあいつは、なんだってそういう方面にばかり頭が回るんだっ、今度こそ本気で腹が立ってきたので、逃げ出した幸生を追っかけていった。幸生はちょこまかと逃げていき、きゃはきゃは笑っている。そのうしろ姿は十年も前といっこうに変化もなくて、俺たちってまだアマチュアシンガーズだったっけ、と錯覚が起きそうになっていた。


後編に続く
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