番外編

番外編23(年下の男の子)後編

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番外編23

「年下の男の子」後編


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 年下の男の子だって恋人だった。尚吾には子供っぽいところもあったけど、私を全身で愛してくれていると信じていた。喧嘩もたびたびしたけれど、あんなふうにおしまいになるなんて、尚吾がいなくなってみると、心に隙間風が吹いている心持になってしまう。
 だけど、終わった恋を追いかけてなんになる。楽しかったよ、尚吾、ありがとう、と心で呟いて、ミコちゃんや実松くんには、尚吾とは別れたの、とだけ告げた。
 卒業してから一年半、二十四歳の秋に、実松くんからの電報が届いた。電報だなんてなにごと? 息せき切って開いてみたら、文面はこうだった。
「サクラサク。フォレストシンガーズデビュー!!」
 自分のことのように嬉しくて、ミコちゃんに電話をした。
「うん、やったね。うちにも電報が来たよ」
「やっぱり? 実松くんのやりそうなことだよね。らしいよね」
「ほんとにね。私も一度、母校に行きたくなってきたな。沙織ちゃんも行かない?」
「合唱部に? 私はいい」
「ああ、そうか。ごめん」
 尚吾も四年生になっているのだから、合宿もコンサートも終えて半ば引退の形になって、合唱部には出入りしていないかもしれない。女子部を訪ねたら尚吾とは会わないかもしれない。けれど、行きたくない気持ちになってしまうのは、まだひきずっているんだろうか。
 だって、三年以上もつきあってたんだもの。片想いだった金子さんや、ほんのしばらくの仲だった太田さんとはちがう。太田さんなんかは顔も思い出せなくなっているのだが、尚吾は特別なひとだったのだから。
「じゃあ、フォレストシンガーズのライヴがあったら行こうね」
「そっちは行く」
 ミコちゃんと約束して、ライヴを楽しみにしつつ、仕事に精を出していた。そんなある日、実松くんから携帯電話にメールが入った。
「シゲはケータイ持ってないそうで、しけてるやろ。ケータイくらい買えっちゅうねん。言うても、そんな金はないそうや。まあ、それはええとして、シゲとデートするねん。沙織ちゃんも来えへん? ミコちゃんも誘ってみてんけど、今は忙しい時期なんやて」
 メールまで大阪弁。私も真似して大阪弁もどきの返信をした。
「デートの邪魔したら悪いっちゅうねんやんけ、ちゃう? 行きたいんや。連れていってほしいんや」
 実松くんの返信はこう。
「大阪弁の体は成してるけど、どっか変やで。まあええわ。三人でデートしよな」
 幾度かメールのやりとりをして、三人でのデートが実現した。
「ミコちゃんはお歳暮の季節だから、今はちょっと無理みたい。私しか来られなかったけど、本庄くん、元気そうだね。フォレストシンガーズはどう?」
「売れないけどがんばってるよ。榛名さんは?」
「私も売れないけどがんばってる」
「沙織ちゃんのなにを売るねん? 嫁に行くっつう意味か。そんな言い方は古いやろ」
「古くても新しくても、私も売れないのよ。そんなのどうでもいいや。今夜は飲もうよ」
 売れないからこそこうして、居酒屋で飲んでいても誰にも注目されない。サインして下さい、と言ってくるひともいない。それはプロのシンガーズとしてはつらいのだろうか。が、本庄くんはさばさばと言った。
「章なんかはアマチュア時代からのファンの方がいるから、街角でサインして下さいって言われたり、花束をもらったりするんだよ。俺はそんな経験はゼロだな。売れたとしても俺は地味だから、一生なかったりして」
「だったら私が言ってあげる。本庄さん、サインして下さい」
「はいはい、喜んで」
「俺にもして」
「おまえはあとだ」
「本庄さんったらつめたいわぁ。男のファンには薄情やわぁ」
 そうやって楽しく飲んで食べて、別れ際に私は言った。
「フォレストシンガーズの他の方たちのサインもしていただけます? ライヴはいつ?」
「ソロライヴの予定はないんだ。その他大勢のジョイントライヴみたいのだったらあるから、今度は榛名さんにもお知らせを送るよ。他のみんなのサインはそのときでいい?」
「うん、楽しみにしてるね」
 本庄くんと別れて実松くんとふたりになって、ぶらぶら歩き出した。
「実松くん、彼女はいる?」
「いっぱいおるで」
「いっぱいか。それって彼女って言うの?」
「ファンかな。俺にはシゲよりもファンがいっぱいいてるんや」
「ふーん。本庄くんも変わってなくて安心したけど、実松くんも変わらないね。実松くんは芸人さんになったらよかったんじゃない?」
「笑われるんはいやや」
「笑わせるのは好きなくせに。ね、もう一軒行こうよ」
 いささかためらうそぶりを見せてから、実松くんはうなずいた。
「ええけど、明日、二日酔いになっても知らんぞ」
「平気」
 ふたりで飲んでもなにが起こるわけでもなくて、実松くんと恋をしたらよかったな、と言ってみても、彼はお笑いにしてしまう。そんなところが気楽でよくて、尚吾とも恋にはならなかったらよかったのに、と考えてしまう。私はいつしか愚痴っていた。
「尚吾と別れてひとり者の隙ができたのか、誘惑の魔の手が忍び寄ってきてるんだよね」
「誘惑って、悪い奴なんか?」
「悪くはないんだけど、上司」
「結婚してる男か」
「そうだよ。どうせ結婚はしないんだったら、既婚者でもいいんだけどね」
「ようないやろ」
「いいんじゃないの?」
 話題を変えて笑って、お開きになってタクシー乗り場まで送ってくれて、気いつけて、と言ってから、実松くんは真顔になった。
「不倫はやめとき。俺も古いんかもしれんけど、女の子のほうが傷が深くつくんとちゃうか」
「やめとき……やめときくかかく? あれれ? なんて返事したら大阪弁になるの?」
「岩手弁で言うて。やめておくよ、って」
「あんべあ悪いわ、不倫なんて」
 あんべあって按配か? と首をかしげている実松くんに手を振って、タクシーに乗り込んだ。心細くなるとふっと故郷に帰っていきたくなるけれど、私はもっと東京でがんばるんだから。卒業してもつきあいの途絶えない学生時代の友達がいて、私は幸せなんだから、がんばらなくちゃ。不倫はやめとき、と友達が言ってくれたのだから、心の迷いも捨てた。
 それからまた一年以上がすぎて、その間にもたまさかは会ったり電話をしたり、メールのやりとりをしたりしていた実松くんからメールがあった。
「シゲが誘ってくれたんやけど、俺はその日は行かれへんねん。フォレストシンガーズがソロライヴをやるんやて。ミコちゃんと沙織ちゃんは行けるんやったら行ったって」
 早速ミコちゃんにもメールをしたら、彼女のところにも実松くんからのメールが来ていると言う。合唱部の仲間たちは、女の子とのほうが疎遠になっていて、今では私はミコちゃんとしかつきあいがないのだが、男の子たちは連絡を取り合っているらしい。
「本庄くんはシンガーズの一員になって、実松くんと安斉くんと野呂くんと毛利くんは東京でサラリーマンになって、沙織ちゃんと私も東京で働いてて、だから友達関係を続けていられるんだろうけど、合唱部の他の学年のひとたちはそうでもないんだって。前にユッコさんがうちの店に買い物に来てくれて会ったんだけど、ミコちゃんたちの学年は仲がいいね、って言われたよ」
 小さな会場でのフォレストシンガーズのソロライヴを見て、帰りに食事をした店で、ミコちゃんが話してくれた。
「ユッコさんはなんの仕事をしてるのかな。お客さまと立ち話もできないから、あまり話はできなかった。ねえねえ、それはそうと、金子さんもデビューしたでしょ? 金子さんのライヴにも行きたいな」
「徳永さんのほうがいいんじゃないの?」
「徳永さんはまだプロになってないみたいじゃないの。金子さんのライヴだって見たい。行こうよ、沙織ちゃん」
「うん、私も実はとっても行きたいんだ」
 フォレストシンガーズのも金子さんのも、シングルもアルバムも買った。俺たちのCD売り上げには合唱部の仲間たちが貢献してくれてるんだよな、と本庄くんが言っていた通り、卒業して遠くに行ってしまったひとたちも、プロになった彼らに注目しているのだろう。
 まるっきり消息もつかめなくなった小笠原くんも、フォレストシンガーズをどこかで聴いてる? 尚吾も聴いてる? 会えなくなって日々遠ざかっていくなつかしい人の名が、ミコちゃんといると口から出てくる。心にも浮かぶ。尚吾とは二度と会えないにしても、金子さんとはスターとファンとして会えるのだから、会いたいと願ってしまうのだった。
「金子さんは卒業してからも、合唱部のコンサートにいらしたりしてたよね。ちらっとお見かけしたんだけど、近づいてはいかなかったの。今度はおおっぴらに会えるんだ。一方的な出会いだとしても会えるんだから、行こうね、ミコちゃん?」
「うん。それはそうと、沙織ちゃんは結婚は?」
「まだ早いよ。ミコちゃんは結婚するの? 彼ができたの?」
 いつ会っても、いつ訊いても、彼なんかいないよ、としか言わなかったミコちゃんが、嬉しそうに報告してくれた。
「デパートのお得意さんの中年の女性が、なぜだか私を気に入って下さったらしいのね。ある日、その方が息子さんを連れていらしたのよ。お見合いの変型みたいなものだったのかな。あとから、うちの息子、どうでした? って訊かれて、素敵な方ですね、って答えたら、つきあってみない? なんてことになっちゃって、売り場の主任さんまでが熱心に勧めるのよ。上得意さまなんだから、つきあってもみないで断るなんて許しません、って態度だったから、渋々ふたりで会って……」
「渋々? その顔は渋々には見えないな」
「そう? 話してみたら悪くない男性だったし、お母さまにも気に入ってもらってるんだし、何度かデートしてるの。沙織ちゃんは?」
「私はあいかわらずだから」
 書店の若い仲間たちの紹介で合コンしたり、そのうちの誰かとつきあったり、簡単にさよならしたり、尚吾と別れてからは恋人と呼べるほどの男はいない。ミコちゃんにもそんな話はしているので、彼女は突っ込んで尋ねようとはしなかった。
「金子さんのライヴがあるよ。行こうよ」
 チケットを手に入れてくれたミコちゃんとふたり、金子さんのライヴに出かけたのは、私たちが二十六歳の秋だった。しばらくぶりに会う金子さんは二十九歳になっている。薄暗い照明のライヴハウスに登場した金子さんは、息を呑むほどにかっこよかった。
 たったの一年間そばにいて、今の私からは考えられない純情な片想いをして、打ち明けてふられて悲しくて、二年生になっても金子さんを想って泣きべそをかいていた。私の知っていた大学生の金子さんもかっこよかったけれど、だからこそ私は恋したのだろうけど、今ではさらにさらにかっこよくなった。
 そして、尚吾が金子さんへの片想いを完全に吹っ切れさせてくれた。太田さんなんてのは暇つぶしだったとしか思えない。金子さんを見ていると尚吾をも思い出して、胸がきゅんきゅんした。
 淡い紫のスポットライトのもと、淡いグレイのスーツの金子さんが歌っている。グレイのスーツはいっぷう変わったスタイルで、肩から胸元へと紫の濃淡のスカーフがふわふわしている。スカーフを留めた大きな紫の薔薇のコサージュが、金子さんの美貌に似合っていた。
「沙織ちゃん、目が合ってる。見てるよ」
「それって錯覚でしょ。ステージからは客席は見えないよ」
「見てるってば。金子さんは沙織ちゃんを見てるよ」
「見てたとしても覚えてないよ。ファンのひとりとして見てるんじゃないの?」
「見てる。あの目は……」
 しっ、と周囲のお客さんに鋭く制されて口を閉じたものの、私の胸はときめいていた。本当に金子さんは私を見ていたのだろうか。八年前に金子さんに恋心を打ち明けた榛名沙織がここにいると、気がついてくれていたのだろうか。
 見ていたのかどうか、気づいていたのかどうか、いずれにしてもステージで歌っているひとと、彼を見つめているファンのひとりでは、それだけの触れ合いでしかない。ライヴが終わって陶酔気分を抱いて店を出る私たちは、金子さんのファンにすぎなかったのだから、ただそれだけだった。


 実家同士がごちゃごちゃしていて長引いたのだそうだが、ミコちゃんははじめてできた恋人と結ばれると決まった。
「彼は東京のひとだから、これからも東京で暮らすの。子供ができるまでは仕事も続ける。沙織ちゃんも結婚しても東京にいられるといいのにね」
「私は結婚なんて話はかけらもないから、相手ができてからでいいよ。先に本庄くんの結婚式だよね」
「本庄くんが結婚するんだよね。歌手とプロテニス選手の結婚式って派手なんだろうか」
「派手なのかもしれない。なにを着ていく?」
「着物にしようかな。振袖を着られるのは最後だろうし……でも、着物だと窮屈でご馳走が食べられない。沙織ちゃんはなにを着るの?」
 着るものの相談をしながらも、私は思い出していた。
 成人式は故郷でと言っている子たちもいたのだが、大学三年生になる前の冬休みには、ミコちゃんも私も里帰りをしなかった。大学の近くの会場でやる成人式に出席しようと決めて、私は岩手の親が送ってくれたお金でスーツを買った。ところが、当日、ミコちゃんは振袖姿でやってきたのだ。
「だって、成人式なんだから振袖は当然でしょ、ってお母さんが言うんだもの。妹も着られるんだからって言って、私が帰省しなかった分だって言って、佐賀から出てきて慌しく振袖を買って、美容院に着付けの予約もしてくれて張り切ってるんだよ。いやだとは言えないじゃないの」
「いいじゃないの。私はこれでいいから」
 会場に行ったら振袖新成人の花盛りで、私は場違い気分を味わっていたのも思い出す。あれからだって七年たって、ミコちゃんは振袖はもう着られなくなる。私はいつまでだって着られそうだけど、着物なんて着たくない。
 結局はふたりともドレスにしようと相談がまとまって、レンタルドレスを借りて結婚式に臨んだ。あまり売れていないとはいえ、プロのシンガーの本庄くんと、プロテニスプレイヤーの川上恭子さんの結婚式は、が、意外にも内輪の集まりで地味だった。
 ゲストもそう大勢ではなくて、親族の方やら友達やらが中心だ。メディアの取材などはないらしい。本庄くんは晴れがましすぎると照れてしまうだろうから、こういう趣向にしたのかもしれない。ミコちゃんとふたり、式がはじまる前に恐る恐る、フォレストシンガーズのみなさんに挨拶に行った。
「えーと、覚えて下さってますか」
 フォレストシンガーズの四人と山田さんが話している場所に近づいていって声をかけると、乾さんがにっこり応じてくれた。
「ミコちゃんと沙織ちゃんだね。よーく覚えてるよ。ライヴに来てくれたりもしたんだってね。楽屋に顔を見せてくれたらよかったのに。今度のライヴには楽屋にも遊びにきて。大人になったね。ドレスも綺麗だけど、ミコちゃんも沙織ちゃんも学生時代より格段に綺麗になったよ」
「シゲさんの友達って男ばっかかと思ってたんだけど、榛名さんと宮村さんが来て下さったとは感激。俺のことも覚えてます? 三沢幸生でーす」
「異性の友達は結婚式に招待してはいけないと……そんなこともないのか。噂には聞いてますし、お会いしたこともあるはずなんですが、俺は一年で中退したからよく覚えてません。木村章です。シゲさんってもてないとか言ってたけど、女友達はいるんだね」
「章、よけいなことを言うな。やあ、久し振り、本橋です。覚えてる?」
 覚えてるに決まってるじゃありませんか、と三沢くんと本橋さんに言うと、山田さんもあでやかに微笑んで口を開いた。
「こうして学生時代の友達に会えるのも、結婚式ならではなのかな。ほんとに大人になったよね。あのミコちゃんと沙織ちゃんが……私は忘れた?」
「忘れるはずがないじゃありませんか。山田さん……」
 思わずといった感じでミコちゃんが嗚咽を漏らし、山田さんはミコちゃんの肩を抱き、三沢くんは私に言った。
「沙織ちゃんは僕の胸においで。……いてえな、章、蹴るな。おまえは忘れられてるからってひねくれてんじゃねえよ」
「先輩に向かってちゃん付けとはなんだよ。俺は忘れられてて当然だからひねくれてはいないけど、まさか……幸生……」
 木村くんだって忘れてはいないのだけど、私が口をはさむ間もなく、三沢くんと木村くんは蹴飛ばし合いをはじめ、やめろ、やめんか、と本橋さんが止めている。山田さんは言った。
「ミコちゃんも沙織ちゃんも大人になったのに、後輩はいまだにこうなのよ。合唱部の女性で参列してくれているのは、ミコちゃんと沙織ちゃんだけみたいね。二次会にも出てくれる? そのときにゆっくり話そうね。あ、シゲくんも来た」
 タキシードを着込んだ本庄くんもやってきて、ミコちゃんと私に丁寧に挨拶してくれた。
「本庄くん、おめでとう。ミコちゃんもねぇ……」
「沙織ちゃん、そんなのあとでいいってば」
「ミコさんもなに? なになに? ご結婚? おめでとうございますっ!!」
 三沢くんが昔ながらの高い声で叫び、時ならぬ祝福の言葉を浴びせられて、ミコちゃんも本庄くんといっしょに恥ずかしがっていた。
 背はそう高くないが、アスリートらしくなかなかにたくましい恭子さんと、同じく背はそう高くもないが、昔からたくましかった本庄くんはお似合いの新郎新婦で、実松くんは言っていた。
「シゲとの夫婦やったら、泥棒なんか入ってもふたりが家におったら、一撃で撃退するやろうな」
 横で相槌を打っているのは酒巻くんだ。私たちのテーブルには同い年の実松くん、安斉くん、野呂くん、毛利くん、ミコちゃんと私が集っていて、ただひとり、年下の酒巻くんも同席している。酒巻くんだけはサラリーマンではなくてDJになっていて、私も彼がパーソナリティをつとめているラジオを聴いたことがあった。
 たいして仲はよくないと尚吾は言っていたが、酒巻くんと尚吾は同い年だ。酒巻くんは尚吾のその後を知っているのだろうか。尚吾は就職したのか、今でも演歌歌手になりたがっているのか、敢えて誰にも問い質さないでいるうちに普段は忘れていたけれど、酒巻くんを見ていると思い出す。
 けれど、そんなのなにもかも昔話じゃないか。金子さんも、その後にデビューした徳永さんも式には来ていなくて、それもちょっぴり寂しかったのはミコちゃんも同様だったようだが、私たちは彼らとは生きている世界が別々になったのだ。それでも結婚式に招待してくれた本庄くんに、私は感謝していた。
 それからミコちゃんの結婚式があって、酒巻くんが司会をし、実松くんも結婚して、フォレストシンガーズが実松くんと花嫁さんのために祝福の歌を披露してくれた。私も歌ってもらいたかったな、とミコちゃんは言っていたが、実松くんのあつかましさには誰もかなわない。
 三十路が近づいてくる年頃になると、私の周囲では結婚式ラッシュ。私には結婚なんて影も形もなくて、出費がかさむわ、なんてこぼしながら日々が過ぎ去っていった。

 
5

美少女でありながらアイドルではない。クラシックの素養があるとかで、抜群の歌唱力で華麗なるソプラノで歌う歌手がいる。マルセラ・ユーフェミナという名前からしても、ルックスからしても日本人ではない。むむ? 大学時代の誰かを思い出す。
 あれは轟ジザベル。彼女はあれからどうしたのだろう? 帰国子女の彼女は大学に編入してきて、いつの間にやら消えてしまったので、消息は知らない。小笠原くんの消息は気になるが、ジザベルは気にならない。上流家庭の奥さまにでもなっているのかもしれない。
 とはいえ、ジザベルとマルセラは大違いだ。その程度の興味はあったのだが、女の子の歌手なんてどうでもいいし、とも思っていた。
「マルセラは今年高校を卒業して、歌手は一時休業して大学に入学したんだそうだよ」
 大学を出てから私は、書店勤務のはしごをしている。職種は同じだが、三つばかり職場は変わった。三十歳になる直前に転職した先も書店で、そんなら同じところでいいんじゃない? などとミコちゃんには言われるのだが、いづらくなったりなんだかんだとあったりして、二度の転職をしたのである。
 不況のおりではあるが、幸いにも新天地が見つかって勤めはじめた書店の同僚、鎌ヶ谷くんはマルセラの大ファンだそうで、ある日、私にとってはどうでもいい情報をもたらせてくれた。
「マルセラって高校生だったんだ」
「そうだよ。知らなかった? それでさ、彼女の入学した大学は……」
 なんとなんと、私の母校ではないか。鎌ヶ谷くん情報によると、マルセラはごく普通の女子大生として学生生活を送りたいのだそうで、サークル活動もしたい。サークルではやっぱり歌いたい、ということで、さらになんとなんと、合唱部に入部したと言う。
 鎌ヶ谷くんもその大学が私の母校だと知っていて教えてくれたのだから、俄然、どうでもいい情報ではなくなってしまったのだ。
「合唱部の男子部からは、最近では、金子将一に徳永渉にフォレストシンガーズに、それから、なんとかいうロックバンドのベーシストも出てるんだよ。ロックのひとは合唱部じゃなかったから、彼はいいとして、男子部には私のいたころからスターがきらきらといたの。女子部にはいなかったから、近来初のスター登場じゃないの。大騒ぎしてるんじゃないかな」
「騒がれたくないから取材なんかも受けないって決めてて、ニュースが入ってこないんだよね。インターネットをチェックしても、マルセラ情報がないんだ。僕は寂しいよ。ねえ、沙織ちゃん、きみはOGなんだから、合唱部を訪問したりしないの?」
「目当てはそれか。卒業してからは一度も行ってないんだけど、行ったとしても追い払われたりはしないだろうな。今年、私のいとこが岩手から上京してきてうちの大学に入学したの。サークルはまだ決めてないって言ってたけど、合唱部に入ったら? って言ってたんだよ、私。希美香を合唱部に連れていって、OGの私からもよろしく、って手段はあるんだけど、鎌ヶ谷くんは関係ないし」
「そう言わないで連れてってよ。マルセラに会えるんだったらなんでもするから。お願い」
「なんでもする?」
 なんたるミーハー男だ、とは思ったのだが、私のミーハー心も刺激されて、いとこの希美香にメールをし、鎌ヶ谷くんを伴って、大久々で母校を訪ねた。
 卒業してから十年近くになる母校のたたずまいは変わってはいないものの、合唱部は変貌している。現在では男子部と女子部は分かれていないのだそうで、部室には男子も女子もごちゃ混ぜにいた。今年はキャプテンも副キャプテンも女子であって、御手洗と名乗った頭のよさそうなキャプテンが私たちを出迎えてくれた。
「副キャプテンの浜野は今日は来てないのですけど、入部志望の新入生を大先輩が直々に連れてきて下さったとは、ありがとうございます」
 そういうことにしてあったので、希美香はぺこっと頭を下げた。
「榛名希美香です。よろしくね」
「こら、もっとちゃんと挨拶しなさい」
 いいんですよ、と鷹揚に微笑んでみせつつも、御手洗さんの視線は鎌ヶ谷くんに向いている。あんたは誰なの? と言いたそうな御手洗さんに、鎌ヶ谷くんが言った。
「僕は榛名沙織さんの婚約者でして、希美香ちゃんの兄貴がわりみたいなものですので、大学に慣れていない希美香ちゃんにつきそってきたんです。お邪魔だったらすみません」
 おいおい、と言いたいのを我慢して、私も微笑んでみせた。
「そうなんです。ふたりもつきそってきてごめんなさいね。希美香には東京には他に知り合いはいないし、友達もまだできないって言うし、気が弱いんで、ひとりで合唱部に行くなんて……ってもじもじしてて」
「人前で歌うと度胸もつきますよ。希美香ちゃん、これからいっしょにやっていきましょうね」
「うん」
「こら、先輩への返事ははいでしょ」
「いいんですよ。榛名先輩にはおなつかしいでしょう? ゆっくり見学なさっていって下さいね」
 キャプテンは礼儀正しいのだが、私のいとこは敬語なんて使えないと見える。十八歳だった私とはちがって、岩手なまりなんぞはものともせず、早速、部室にいる男女に話しかけている。これでは気が弱いなんて言えっこないのだが、希美香は放っておいてもいいだろう。
 さて、マルセラは? それとなく見回しても姿はない。彼女の名前を出すと、目的はそっちか、と笑われそうなのでどう切り出そうかと悩みつつ、私は御手洗さんと会話をしていた。
「榛名先輩は何期生でいらっしゃるんですか。ええと、その年ですと……」
「フォレストシンガーズの本庄繁之、通称シゲと同年です」
「シゲさんと? じゃあ、お友達だったんですか」
「彼の結婚式にも呼んでもらいました」
「きゃあ、素敵。詳しく話して下さいな。私、シゲさんの大大大ファンなんです」
「シゲくんの?」
 変わった趣味かも。フォレストシンガーズでは若い女性の人気ナンバーワンは木村章だと聞いていたのだが、こういう女の子もいるのだ。彼女につられて、私も本庄くんをシゲくんと呼び、結婚式や昔のエピソードなども披露していると、話がいい方向に向かっていった。
「このたび、うちにはすごいひとが入部してくれたんですよ。榛名先輩ももちろんごぞんじですよね。マルセラはフォレストシンガーズとはジャンルちがいでして、はっきり言って彼女のほうがずっと売れてるんですけど、彼女の入部志望動機にはこんなのもあったんだそうです」
 去年、マルセラがまだどこの大学を受験するとは決めていなかったころに……御手洗さんが話しはじめたときに、華やかな空気をまとった女の子が部室に入ってきた。手持ち無沙汰にすわっていた鎌ヶ谷くんの顔が輝き、希美香もぼーっと見とれている。他のメンバーも注目している。私もテレビでは見たことのあるマルセラ・ユーフェミナだった。
「御手洗さん、私ね……あ、お客さま?」
「合唱部の大先輩よ。ご挨拶しなさい」
 御手洗さんが私を紹介してくれ、鎌ヶ谷くんは目でせっついている。僕も紹介してっ、と叫びたい様子だがひとまず無視していると、マルセラは言った。
「私が合唱部に入るって決めた理由? 私は高校のときにデビューして、普通の高校生はやってなかったんだよね。中学生まではクラシックを歌ってて、クラシックの歌手になりたかったんだけど、高校一年でスカウトされたじゃない? ポップスも面白いかと思って歌手になったの。でも、学生もやりたかった。それで相談したんだ。ラジオでごいっしょした金子将一さんに」
 この子も敬語は苦手だと見えるが、金子さんの名前が出たものだから、私としては意識がそちらにそれていっていた。
「そしたらね、うちの大学はどう? 合唱部でも歌の勉強もできるし、楽しいよ、って話してくれたの。金子さんも大先輩なんだよね。学部もいっぱいあるし、工学部はそれほど難易度は高くないけど、学問もじっくりできるよって。金子さんに教えてもらって受験して、合格して合唱部にも入った。金子さんも言ってくれたよ。おめでとう、って。今も時々金子さんにメールして、アドバイスしてもらってるの。榛名先輩は金子さんを知ってる?」
「金子さんは三年先輩で、私が入部した年の男子部キャプテンだったの」
「わあ、いいんだ。いっしょに合宿に行ったの? 金子さんってかっこいいよね。はじめて会ったときには、金子さんはそんなには売れてなくて、私は売れてたから頭が高かったんだって」
 うっとりした顔になって、マルセラは続けた。
「そのときは私、苛々してて、金子さんにもつんつんしたの。そしたら……なんて言われたのかは忘れたけど、優しくてきびしい調子で、新人歌手としての心得っていうの? そんなのを教えてくれたの。私は腹が立ったから、私のほうが売れてるもん、この世界は売れてるほうが上だもん、って言い返したんだよね。そしたら、じーっとじーっと見つめられて……私、金子さんの手を取って外に出ていったの。そのあとは言わない」
 周りの学生たちも聞き耳を立てているのに気づいたのか、マルセラは口を閉じ、チャンスと見たか、鎌ヶ谷くんが近づいてきた。
「あの、えと、僕、マルセラさんのファンなんです。握手とかサインとか、駄目ですか」
「榛名先輩の婚約者の鎌ヶ谷さんだよ」
 言葉を添えてくれた御手洗さんにはうなずきかけたものの、マルセラは鎌ヶ谷くんには冷淡ないらえを返した。
「私、今は普通の学生だから、サインとか握手とかなんてしたくない。そんなことしたら、大学中のみんなにサインしなくちゃいけなくなるじゃん」
「そうですね、すみません」
「婚約者とか言って、鎌ヶ谷さんって私の顔を見にきたの? まさか雑誌記者じゃないだろうね」
「いえ、とんでもありません」
「本当? 怪しいな。そんならなにしに来たの? え? なにしに来たの?」
「マルセラ……お客さまに失礼よ」
「御手洗さんは黙ってて。こういう奴だっているんだよね。ファンだとか取材だとか言って、私につきまとったりつけてきたりする奴。ストーカーみたいで大嫌い」
「いえ、そんな……」
「マルセラったら」
 鎌ヶ谷くんも御手洗さんも困惑顔で、学生たちはざわざわしている。私もなにを言えばいいのかわからなくて困っていると、ドアが開いた。
「やあ、これはこれは。沙織ちゃん、何年ぶりだろうね」
 あちこちで一斉に声が湧き上がる。金子さん? 硬直してしまって声を出せないでいる私ににっこりしてくれてから、金子さんはマルセラに歩み寄った。
「マルセラは大学を卒業したら歌手に復帰するんだろ」
「そのつもりだけど……」
「だったらファンの方は大切にしなさい。きみの言い分も理解できなくはないが、そういう言い方はしちゃいけないよ。キャプテンにだってなんだ、その態度と口のききようは。大学生になったんだから、いつまでも子供のふるまいをしていたらいけないだろ。あとは自分でよく考えてみなさい」
 先輩や部外者には態度が大きかったマルセラは、金子さんに頭を撫でられてしおらしく応じた。
「はい。来てくれたの?」
「たまたま通りかかったんでちょっと寄ったんだよ。沙織ちゃんがいるとは、なんとも奇遇だね。俺は仕事に戻らないといけないんだけど、夜には時間ない?」
「私? 私ですか」
「沙織ちゃんだよ。酒でも食事でも、つきあってもらえませんか」
 まるで、俺とつきあってくれない? と言われた気分。昔々に言ってもらいたかった言葉とは意味がちがうのはわかっていたが、返事のしようがなくて目を見開いていたら、横合いからマルセラが言った。
「私も行く」
「マルセラは未成年だろ。それに、きみは今は普通の学生なんだから、早く帰って勉強しなさい」
「ずるーい。私も連れてって」
「駄目だよ」
 ふくれているマルセラと、金子さんしか目に入らない。鎌ヶ谷くんも希美香も他の面々も完璧にどうでもいい。じゃ、あとでね、と私に言っている金子さんに、ただ見とれていた。


「鎌ヶ谷さんは?」
「連れてきませんでした」
「婚約者なんだってね」
「ちがいます。あれは方便です。マルセラは?」
「方便なのか。大人同士の時間には子供はいてはいけないよ、ってわけで、置いてきた。希美香ちゃんも置いてきたんだろ」
 約束の場所に車で迎えにきてくれて、車に乗って金子さんのなじみの店につくまでにかわしたやりとりは、ふわふわの気持ちの中でかわされていて、店についても私はふわふわのまんま。人生には偶然があるものだけど、こんな偶然があっていいのだろうか。
 ひっそりしたレストランで、再会を祝してワインのグラスを合わせる。ふたりっきり、金子さんとふたりっきり、それしか考えられなくて目を伏せる。伏せた目を上げると微笑みにぶつかる。間近で見るといっそういっそう素敵な金子さんを見つめていられなくて、また目を伏せた。
「本庄の結婚式には参列してたんだってね。実松も結婚したんだろ。ミコちゃんも」
「はい」
「そんな年になったんだな」
「三十ですから」
「俺は三十三だよ」
「知ってます」
 なにを怖気づいてるんだろう。しっかりしなくちゃ、とは思うのだが、言葉がなめらかに出てこない。ワインをちびちび飲んで、金子さんが選んでくれたフランス料理を食べて、金子さんの話すフォレストシンガーズやら徳永さんやらの話題に相槌を打って、すわっているのが落ち着かなくてワインをがぶっと飲んで、その繰り返しで時間がすぎていった。
「沙織ちゃんって無口だったかな」
「いえ……金子さんのお話って私の知らない世界の驚異に満ちていますので、聞いてるのが楽しいんです。金子さんの声を聞いてるのも気持ちいい」
「俺はきみの話も聞きたいな」
「そうは言っても、私にはなんにもないし……」
「なくはないだろ」
「私の話なんてつまらないですよ」
 いつしかワインを飲みすぎていたのか。心地よい酩酊感と金子さんの声に誘われて、私はぽつぽつ話しはじめた。
「金子さんが卒業なさってから……年下の男の子に告白されたんです。酒巻くんはよくごぞんじなんですよね。その酒巻くんと同い年の男の子。だけど、喧嘩別れしちゃって……高校のときにひとりと、大学のときにもひとり、私が経験した男はふたりだけだった。岩手県出身は進んでるなんて言った子もいましたけど、全然進んでませんよね。片想いだの年下の男の子だのって、私は大学時代は可愛いもんだったんだな」
「今でも可愛いよ」
「……大学時代の年下の彼と別れてからは、遊びだったらしましたよ。合コンで知り合った男と寝たりはしたけど、恋なんかにはならなかった。むこうは私をお手軽な遊び相手だと思ってたんだろうけど、私もおんなじ気分でつきあってたんだから、遊ばれたってわけでもない。お互いに遊んでたんです」
「なるほど」
「強がりじゃないんですよ。ああ、酔ったみたい。いい気持ちだな。ゆーらゆーらしてる。だからね、私は結婚なんかしないの。男って結婚してても、女との遊びは別ってところがあるでしょ。深入りはしなかったからいいんだけど、そういう男とも寝ました」
 不倫はやめとき、って大阪弁で言ったのは誰だったっけ。誰だかは覚えているから、不倫なんかじゃなくてただの遊びだったらいいじゃないの、そんなふうに彼に心でいいわけしたこともあった。
「そのたぐいの経験だけはいくつもして、すれちゃったかな。あのころの私には純真さのかけらは残ってたけど、もはやそんなものは……」
 ぱーっと散らばらせる仕草をすると、金子さんはわずかに眉をひそめた。
「こんな話は聞きたくありません? 私の話ったらこんなんしかないから……仕事の話し……ったってね、本屋の店員なんて変わり映えのしない毎日で、私はこの仕事が好きだから楽しくなくもないけど、人に話したってつまらないから」
「俺も本は好きだよ。高校時代は読書クラブだったんだ」
「へえ……私も本は好きだけど、読書で身につけた知識なんか役に立たない。実世界に出て痛感しました」
「そうかもしれないね」
「だからやっぱり、金子さんの話のほうが面白い。金子さんだって歌手になって、珍しいっていうか、週刊誌にスクープされたら困るような経験もしたんでしょ? そういう話はできないんだ」
「たとえば?」
「乱交パーティとか麻薬パーティとか」
「沙織ちゃん、なんだかぶってない?」
「ぶってる? 露悪ぶってる?」
 苦笑いでうなずく金子さんを見ていると、もっと言いたくなってきた。
「ぶってるんじゃありません。金子さんは一年生のときのまだまだ可愛かった沙織しか知らないでしょうけど、もはや私は可愛くないんですから」
「すれたって? そりゃあね、十代のころと較べれば、成長にともなってすれもするんでしょうけど」
「成長なのかなぁ。単に汚れていってるだけかも」
「汚れていくのも仕方ないけど、沙織ちゃんらしくもない。汚れたのすれたのばかり言うのはやめろよ」
「だって、すれたんだもん」
「すれてる女が、俺を見た途端に頬を染める?」
「らしくもないって……私を知らないくせに……頬?」
 両手で頬をはさんだら、金子さんはくっくと声を立てて笑った。
「俺の魂だって綺麗じゃないよ。乱交パーティや麻薬パーティの経験はないけど、薄汚い部分も多々ある世界に身を置いて、俺も汚れてきてるよ。すれてもきてる。疲れてもきてる。おのれで選んだ道を後悔したり、嫌気がさしたりなんてことはないけど、ため息がこぼれるときだってある。そんな日々の中で沙織ちゃんとめぐり会った。マルセラはどうしてるかな、って訪ねてみた部室に、俺を見て頬を染めてるきみがいたんだ。一服の清涼剤を与えられた心持になったんだよ」
「私が清涼剤? 毒薬だったらどうします?」
「こんな可愛い毒薬があるもんか」
「金子さんはどうしても私を、可愛いまんまにしておきたいんですね。私なんかちーっとも可愛くないんだから」
「可愛いひとに限ってそう言いたがる。マルセラも悪ぶりたがるけど、沙織ちゃんだってあのレベルだろ」
「口説いてみて。そしたら私がどんな女かわかるから」
 ほっと小さなため息をついて、金子さんは席を立った。
「不愉快になりました? いえ、あの、今のは……金子さんに向かってただの女の私が……後輩だからって……ごめんなさい。図々しいですよね。私なんかを金子さんが口説くはずがないのに……」
「出ようか」
「私も?」
「もちろん」
 こんな馬鹿な女とは同席していたくない、とでも態度で示されたのかと思っていたので、安堵してついていった。
「あの、えと、今夜の食事代……」
「後輩は金の心配なんかしなくていい。昔からそうだっただろ。ここはつけがきくんで、気にしないで」
「……ごちそうさまでした」
「俺も飲んだから車はここに置かせてもらうよ」
 ゆっくり歩き出しながら、金子さんは言った。
「きみがその気だったら、きみの行きたいところへ行こう。きみを抱いて、今夜のうちにさよならして、明日になれば忘れる。きみが行きずりのひとだったとしたら、男なんてものは簡単にそうできるんだよ。女にはさまざまいるから一概には言えないんだろうけど、きみもそうできる? 今夜、はじめて会ったふたりだったとしたら、できるのかな」
「……金子さんだから?」
「そう。沙織ちゃんだから、俺にはそうはできない気がするな」
「それって……?」
「あのときの沙織ちゃんは可愛かったよ。俺はくらくらっとした。あのときの沙織ちゃんはなんて言ったかな。私は金子さんが……そこまで言ったきみを遮って、俺は俺の言いたいことを言ったんだったね」
 目を閉じると、夏の海辺の生ぬるい潮風を感じる。あのとき、金子さんが言った言葉も、私の心も、昨日のことのように思い出せた。
「金子さんが好き、ってまなざしで雄弁に語ってくれた沙織ちゃんは、俺のここにいる。俺の魂がほこりっぽくなってきたら、顔を出して笑いかけてくれる。そしたら魂がすこし光るんだ。ありがとう、沙織ちゃん、嬉しかったよ」
「それって結局……」
「魂ってものは、表面が汚れたって磨けば光るんだよ。人間はちっとやそっとじゃ汚れ切ってしまったりはしない。今の沙織ちゃんも可愛い。くらくらしてる。後輩じゃなかったら抱きたいけどね」
「それも方便ですね。またふられたんだ、私」
「俺は口下手でね、うまく言えないんだよな」
「うそっ!!」
 思わず叫んでふたりで笑ってから、私は金子さんを見上げた。
「あのね、あの、じゃあ、スターの金子さんがファンの沙織ちゃんにキスっていうのは?」
「そうしてきみの魂を、ほんのすこし綺麗にできたら……いいや、きみは汚れてなんかいないよ」
 囁いて身をかがめて、あの日と同じにおでこへのキスをくれる。十八歳だったあの日に、この胸に抱きついて泣けたなら……けれども、もうそうはできない。私は想いを払い飛ばして言った。
「ここで見送っていたいんです。ファンの憧れのまなざしを送ってますから」
「タクシー乗り場まで送るよ」
「ううん、私が送りたい。遅い時間でもないから平気ですから」
「そう? じゃあ、また」
「ごちそうさま、おやすみなさい」
 歩み去っていく広い背中、一度だけ振り向いて手を上げて、去っていく大きなうしろ姿。アスファルトの道には足跡は残らなくて、立ち尽くしていると知らず知らずに涙がこぼれていた。
 

6

 どのくらい立ち尽くしていたのか。しばらくして私は歩き出した。タクシーに乗る身分ではないのだから、私は私らしく電車で帰ろう。
「沙織ちゃん……」
 駅のほうへと歩いていると、背中におずおずした声がかかった。
「鎌ヶ谷くん?! なんだってあんたがここにいるの?」
「いや、あのその……」
「帰ったんじゃなかったの?」
「帰ろうとしたんだけど……いや、あのね、沙織ちゃん、泣いてるじゃないか。あいつになにかされた?」
「あいつって誰?」
 たしかに私は泣いていたのだから、涙の跡が残っているのだろう。はねつけるわけにもいかなくて、鎌ヶ谷くんのジャケットで顔を拭いた。
「沙織ちゃんがあいつと飲むって言うから、僕は帰ろうとしたんだよ」
「だったら帰ったら?」
「帰れなかったんだよ。僕も金子将一って知ってはいるけど、たいして興味はなかったんだよな。なんだかマニアックなむずかしい歌を歌ってる歌手だとしか知らなかったよ。沙織ちゃんがマルセラには興味なかったように、僕も中年男の歌手になんか興味ないんだから」
「金子さんは中年じゃないよ。大人の男の魅力にあふれた三十三歳」
「僕より五つも年上じゃないか。おじさんだよ」
 ぶつぶつ言っている鎌ヶ谷くんも背が高くて、金子さんと較べたら顔立ちは天と地ではあるが、その顔ははるか高みにある。彼がなぜここにいるのかを知りたいのもあって、ふたりして歩き出した。
「だけど、実際に会ったらすっげえかっこいいんだよな。合唱部の連中は男までが見とれてた。僕もついつい見とれた。沙織ちゃんはぼーっとしちまって、あいつがあらわれてからはろくになんにも言わなくなって、鎌ヶ谷くんは帰って、としか言わなくなっただろ」
「そうだったかな」
「そうだよ。あいつは沙織ちゃんの先輩だとは言うけど、ふたりきりにしたら……って思ってさ、だからって僕はついていけないし、どうしようかと困ってたら、沙織ちゃんが学校の裏門で待ってるのが見えたんだ。そこに車が寄ってきた。都合よくタクシーも寄ってきた。慌ててタクシーをつかまえて、あの車をつけて下さい、ってドライバーに頼んだんだよ」
 私立探偵気取りの鎌ヶ谷くんは、金子さんの車をタクシーで尾行してついてきて、このあたりで待っていたのだそうだ。私も立ち尽くしていたのだが、鎌ヶ谷くんはもっと長時間立ち尽くしていた。なにをするでもなく、なにをすればいいのかもわからないでただ立って、彼は私を待っていた。
「そしたら沙織ちゃんが……泣いてる。どうしたんだよ」
「どうもしない。思い出しただけ。私、金子さんが好きだったんだ」
「いつ?」
「大学一年のとき。初恋ではないんだけど、十八の沙織ちゃんの純情な恋物語だよ。聞きたい?」
「聞きたくない」
「聞きたくなくても聞いてよ。あれ? 鎌ヶ谷くんは晩ごはん食べたの?」
「食ってないよ」
「じゃ、おごってあげるから話を聞いて」
 通りすがりの居酒屋に入ると、鎌ヶ谷くんは空腹だったらしく、酒じゃなくて飯、と言った。聞いていなくてもかまわないので、巻き寿司にかぶりついている鎌ヶ谷くんを前に、私は話した。
「片想いだったんだよ。告白したって無駄だろうとは思ったんだけど、言ってみなくちゃなんにもはじまらないじゃないの。だから、告白したの。当然ふられた。金子さんにふられてから恋人ができて、彼とも別れて、私はけっこうな遊び人女になったんだ。金子さんにもそんな話をして、汚れたのすれたのって言って、魂は汚れないよって言われて、沙織ちゃんは今でも可愛いよ、って言われて……あのころにもくらくらしてた、なんて言ってたけど、嘘だよね。金子さんって優しいから、今さらながらそう言ってくれただけ。わかってるの。でも、嬉しかったのかな。キスもしてくれた」
「……キス? 悪い奴だな」
 途中からは聞いていたようで、鎌ヶ谷くんは仏頂面で言った。
「嬉しかったのに泣いてたの? 他にもなにかあった?」
「なんにもないよ。金子さんが先に帰って、私は彼の背中を見送ってたの。十八に戻った気分で、金子さんの背中を見てたら泣けてきた。泣くなんて何年ぶりだろ。すれてしまった沙織ちゃんが綺麗な魂を持っていたころを、金子さんがちょっぴりよみがえらせてくれたのよ。涙も綺麗だったでしょ?」
 どこが? と言い返すだろうと思っていた鎌ヶ谷くんは、真顔でうなずいた。
「沙織ちゃんはすれてなんかいないよ。あいつが好きだったのって何年前だよ。ふられて次の恋人ができたのだって何年前だよ。遊び人だったなんて言うなよな」
「全部聞いてたんだね」
「聞いてたよ。僕だって学生のころは遊んだよ。高校のときだって予備校のときだって……沙織ちゃん、僕は大学には行ってないんだけど、いい?」
「いいんじゃない? 私には関係ないけど」
「関係あるんだよ」
 口元にごはん粒をくっつけて、鎌ヶ谷くんは私の手を握った。
「なに、この手?」
「いいから聞けよ」
「いばってる」
「いばってるんじゃないんだ。いいから聞いて」
「聞くから言えよ」
 以前にも一部は聞いていたのだが、まとまった話になった。
「僕は高校時代は勉強が大嫌いで、大学になんか行きたくもなくて、卒業したら働くって言ったんだよ。でも、親が大学に行けって言って、強制的に受験させられた。受験したって僕が受かるわけもないんだよ。まったく勉強しなかったんだから。案の定試験は全部落ちて、今度は強制的に予備校に入れられた。予備校でも勉強しないで遊んでたから、一浪して受けた大学も全滅だったよ。そこで親に見捨てられて、就職しろって言われたんだ」
「ふんふん」
「就職もしたくなかったんだけど、おまえにはなにか好きなことはないのか、って親父に言われてさ、本だったら好きかな、って……本といっても読書ではなくて、情報誌ってやつが好きだったんだよね。タウン誌の編集部でだったら働いてもいいかなぁ、って……」
「それは甘いよね」
「甘いね。親父にもそう言われたよ。本が好きなら本屋で働けって言われて、今の店でバイトを募集してたから、面接に行ったら採用してもらえた。本屋って重労働だからしんどいんだけど、働くってのも悪くないよね。自分で稼いだ金を自由に使えるんだから」
「そうだね」
「それだけにすがりついて僕は働いてきた。バイトから正社員になって、高卒でも長年働いてたら、そのうちには主任くらいにはなれるだろうって言われてる。鎌ヶ谷はなかなかの有望株だって言われてるのは、沙織ちゃんも知ってるだろ」
「知ってるよ」
「僕は本屋の仕事は好きだよ。主任になるのもいいけど、夢は大きく、将来はチェーン店のオーナーになりたいなぁ、なんてね」
 さらに強く手を握って、鎌ヶ谷くんは私の目を覗き込んだ。
「沙織ちゃんと夫婦で本屋をやりたいな」
「それ、なに? なに? プロポーズ?」
「うん」
「いきなりなにを言い出すのよっ!」
 焦ってしまって手を振りほどこうとしても離してくれず、鎌ヶ谷くんはなおも言った。
「あいつとあの店に入っていった沙織ちゃんを待ってる間に、考えてたんだよ。僕は前から沙織ちゃんが好きだった。沙織ちゃんがうちの店に転職してきて、店長に紹介してもらったときから好きになってたから、沙織ちゃんとランチをしたり、お喋りしたりするのが嬉しくて、今日だってマルセラに会いたいなんてほうが口実で、沙織ちゃんといっしょにいたかったんだ」
「マルセラは口実?」
「マルセラに会えたのも嬉しかったけど、沙織さんの婚約者です、って言えたほうがもっと嬉しかったよ。本当のことにしようよ」
「……んん……早すぎない?」
「ここで結婚式しようって言ってるんじゃないんだよ。沙織ちゃんは大卒で僕は高卒だけど……」
「そんなんじゃないの。もしも私と関係あることになったとしても、学歴なんてどうだっていいよ。本屋のオーナー夫婦の学歴を誰が気にするの?」
「じゃあ……そんなら……」
「早すぎるって言うのはね、深く知り合ってないからって意味だよ。性格は不一致ではないだろうけど、他にもいろいろあるじゃない?」
「他にも? いろいろ? そっち?」
「そっちもとーっても大切だよね」
「うん。そんなら行く?」
「行くのも後日にしましょうね。遊び人は返上しないといけないし」
「僕ももちろんそうします」
「当然ですね」
 今日は一日中、夢を見ているみたい。ううん、マルセラだの金子さんだのと会って、金子さんとレストランですごしたひとときまでは夢で、金子さんのキスで眼が覚めたのかもしれない。
 そこからあとは私の現実。現実の世界にはただの同僚だったはずの鎌ヶ谷くんがいて、思いがけなくもいきなりプロポーズしてくれた。彼はふたつ年下で、思い起こせば誰かと同い年で、年下の男の子だ。ただいまのところは私のほうは恋でもないけれど、プロポーズからはじまる恋もあるかもしれない。
 本気の恋をするふたり目の年下の男の子。鎌ヶ谷綱紀、「かまがやこうき」だなんて、字面も堅くて立派な名前に似つかわしくないタイプに思えるが、私はけっこうそういうタイプが好きだし。
「これからはふたりともに、お互い一筋。遊び人はやめて真面目に恋をしようね、綱紀」
「綱紀って呼んでくれるんだ。嬉しいよ」
 同僚の鎌ヶ谷くん改め、今夜からは恋人になった綱紀は、私の手をぎゅーっと握って頬ずりした。


 春がすぎ、夏もすぎていこうとしている季節に、フォレストシンガーズの全国ライヴツアーがはじまった。近頃だいぶ売れてきた彼らの初の全国ツアーだ。ミコちゃんや実松くんも都合のいい日に行くと言っていたが、私も行きたい。綱紀に相談してみたら、彼は言った。
「政令指定都市ツアーって変わってるんだな。だったらこうしない?」
 もともと綱紀の両親は静岡出身で、東京で職場恋愛をして結婚したのだそうだ。お父さんが定年退職して、夫婦そろって静岡に帰って悠々自適の毎日を送っているという両親に、顔見せがてらに静岡のライヴに行こうと、綱紀は言うのだった。
 全会場ソールドアウトとはいかないようで、静岡のチケットは残っているらしい。いい席ではなかったのだが、チケットが確保されたので静岡に向かった。
 前日に静岡に到着し、綱紀の両親のおうちで挨拶をしたりご馳走攻めに遭ったり、綱紀をよろしくね、と涙ながらにかきくどく綱紀の母に手を握り締められたり、はじめて泊まった婚約者の家で寝坊して焦ったりの一泊二日のあとで、静岡市のホール前の広場に、綱紀とすわって開場待ちをしていた。
「沙織の故郷にも挨拶に行こうね」
「うん、それはいいんだけど、印象悪くなったかな。寝ぼすけ嫁だって思われたりして?」
「沙織ってそんなことを気にするタマ?」
「タマとはなによっ」
 広場のベンチでほぼ口喧嘩のようなじゃれ合いをしていると、近づいてきた人がいた。
「榛名沙織さんでいらっしゃいますね。お連れの方は鎌ヶ谷さんでいらっしゃいますか」
 見知らぬ若い男性に曖昧にうなずくと、彼は声をひそめた。
「金子さんは自ら声をかけるとおっしゃったんですよ。だけど、私が止めました。俺はなにさまだ、って金子さんに怒られたんですけど、万が一がありますので、私が声をかけさせていただきました。私、こういう者です」
 手渡された名刺には、音楽事務所の名前がある。金子さん、金子さん、と言っているところを見ると、金子さんの所属事務所のスタッフなのだろうか。
「はい、金子将一のマネージャーです。榛名さんと鎌ヶ谷さん、来ていただけませんか」
「どこへ?」
「こちらに」
 名刺によると彼の名は鈴木さんだ。合唱部の鈴木さんとは無関係の鈴木さんに招かれて、綱紀と私は彼についていった。連れられていったのはホールの裏口で、そこに金子さん本人が立っていた。
「鈴木さん、ありがとう」
「はっ、では、私は……」
 一礼して去っていく鈴木さんに、金子さんも丁寧に頭を下げてから言った。
「うちのマネージャーさんは心配性でね、俺がファンの方に囲まれて騒がれたらなんとする、って言うんだけど、ここらへんにいるのはフォレストシンガーズのファンの方々だろ。そうであっても、沙織ちゃんと鎌ヶ谷さんに声をかけるのはおまかせ下さい、と鈴木さんが言うんでまかせたんだよ。びっくりしたでしょう? 失礼しました」
「いえ……金子さんもいらしてたんですね」
「沙織ちゃんは知らないだろうけど、静岡に先輩がいてね、彼は本橋たちから見ても大先輩だから、双方を知らないんだよ。紹介してくれって頼まれたから、俺も静岡に来たんだ。前置きはこのくらいにして、鎌ヶ谷さんといっしょにライヴに来たの?」
「ええ、まあ」
 紹介するまでもないのだろうか。どうしようかと迷っていると、綱紀が金子さんに言った。
「俺、あんたは嫌いだ」
「綱紀、失礼だよ」
「失礼でもなんでもいいんだよ。俺はこいつの後輩でもないんだから」
「こいつとはなによ」
「こいつでいいんだ。こいつはこいつなんだから」
 すでになんとなくは察しているのだろう。笑い出したそうな顔をしていた金子さんが言った。
「俺は鎌ヶ谷さんの先輩ではないけど、年長者ですよ。こいつ呼ばわりはないな」
「こいつじゃなかったらこの野郎かよ」
「まあ、野郎ではありますが」
「野郎なんてガラじゃねえっつうか……むかつくな。あんたなぁ」
「はい」
 かっかしている綱紀、涼しい顔の金子さん、冷や冷やしている私。遠くから鈴木さんがそんな三人を窺っている気配を感じる。金子さんも気づいているようだが、綱紀はなんらかまわずに勢いよく言った。
「俺らに声をかけるのにマネージャーを使う大スターだかなんだか知らないけど、てめえ、沙織になにをしたんだよ」
「最後に会ったときには、沙織ちゃんの聡明な広い額にキスをさせていただきました。手の甲へのキスは尊敬をあらわし、くちびるへのキスは恋情をあらわす。おでこへのキスは男から女への友愛だね」
「友愛? スターからファンへのキスでしょ?」
「いいえ、沙織ちゃん、あれは友達としてのキスだよ」
「友達……先輩ですけど」
「先輩だって後輩だって、いまや友達だよ」
 ぐっと割って入ってきて、綱紀は金子さんを睨みつけた。
「ごまかすなよ。沙織は昔はあんたを好きだったって……」
「ああ、嬉しかったよ。生まれてはじめてだったからね、可愛い女の子に、あなたが好き、って瞳で見つめられるのは。俺の宝物のごとく素敵な思い出だよ。そんな沙織ちゃんが大人になって、鎌ヶ谷さんに恋をしたんだね。この果報者」
「え……」
 たじろいで一歩下がった綱紀に、金子さんは言った。
「彼女が昔、俺を好きでいてくれたからってなんだって言うんだ。それでおまえの恋心が薄らぐのか。揺れるのか。過去にこだわって彼女を詰るのか。そんな奴に彼女の恋人だと名乗る資格はない。沙織ちゃん、こんな奴は捨てて俺と改めて恋をしよう」
 うっすらと意図が読めたので、金子さんのそばに行こうとしたら、綱紀の腕が引き戻した。
「沙織は僕のフィアンセだっ!! もうじき結婚するんだからっ!」
「それはそれは、おめでとう。方便が実現したんだな。沙織ちゃん、おめでとうと言っていいの?」
「はい、ありがとうございます」
「ええと……あの……あれ?」
「綱紀、無理して俺って言ったり、凄まなくてもいいんだよ。こんな歌、知ってる?」
 遠い遠いあの日に、誰かもこうして怒っていた。誰かが怒っていた相手は、今はホールで出番を待っているひと。怒っていたほうの誰かは、どこでどうしているのか知らないけど、私の最初の「年下の男の子」だった。私はその歌を口に乗せた。

「真っ赤なリンゴをほおばる
 ネイヴィブルーのTシャツ
 あいつはあいつは可愛い年下の男の子

 寂しがり屋で生意気で
 憎らしいけど好きなの
 L O V E 投げキッス

 私のこと好きかしら
 はっきり聞かせて」

 いくら年下の男の子とはいっても、三十近い綱紀はここまで可愛くはない。どうやらこの歌も知らない様子できょとんとしている綱紀に、金子さんが耳打ちした。すると、綱紀は叫んだ。
「好きだよっ!! 沙織、好きだよーっ!!」
 金子さんは、はっきり聞かせてやれよ、とでも言ったのだろうか。続きは金子さんもいっしょに歌ってくれて、それから言った。
「可愛いだけじゃ男はどうしようもないんだから、しっかりな。鎌ヶ谷くん、沙織ちゃんをよろしく」
「は、はあ、はい」
「女は可愛いだけでもいいんですか」
「そうは言ってませんよ。沙織ちゃんが可愛いだけのひとじゃないのは、鎌ヶ谷くんもよく知ってるだろ」
「知ってます。見た目はすっごく可愛いけど、中身は……」
「……んん? うん、まあ、女は……」
「ですよね……ええとね……」
 ところどころ聞こえる内緒話に、私は参加させてくれない。が、牙を剥きかけていた綱紀は、金子さんに懐柔されてしまったらしくて、ふむふむ、そうですか、としきりに感心しては耳打ちし合っているので、気にしないことにして言った。
「金子さん、実松くんの結婚式ではフォレストシンガーズが歌ってくれたんですけど、私たちの結婚式では金子さんに歌ってほしいな、っておねだりしてもいいですか」
「可愛い後輩のおねだりにはかなわないよ。不肖、金子将一、全精力をかたむけて歌わせていただきます」
「ほんとに? わっ、やった。沙織、よかったな。金子さん、よろしくお願いします!!」
「こちらこそ」
 中年の男の歌手になんて興味ない、って言ってたくせに、綱紀までが喜んでいる。沙織ちゃんったらずるーい、うらやましいーっ!! と身をよじっているミコちゃんの姿が浮かんでくる。負けてしもた、とうなだれている実松くんの表情も目に見えてくる気がした。

END
 
 
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