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小説70(想い出の渚・幕間)

 ←番外編22(2-3)(サウンドオブサイレンス) →番外編23(年下の男の子)前編
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フォレストシンガーズストーリィ70

「想い出の渚・幕間」

1

 こんな目に遭うようななにをした。私はなんにも悪いことはしてないよっ、と怒りたくなって、けれど、怒るのは筋違いかとも思う。入った店がよくなかったとしか言いようがないのかもしれない。
 仕事帰りに空腹を覚えて目が回りそうになってきて、なんでもいいから軽く食べたくなって、目についたのは「向日葵」の看板だった。あったかそうな店の雰囲気に誘われて、足を踏み入れた店内にいた四人の男を見て、それこそ本当に眩暈がしそうになった。
 大学一年のときのはじめてのひと、星さん、大学四年のときの年下のひと、酒巻くん、ずいぶん前になるけれど、前後して私に告白してくれたひと、金子さんに徳永くん、なんとなんと、その四人が顔をそろえていたのだ。
「な、なぜ……なぜここに……」
 落ち着いて考えてみれば、彼らは全員が私のいた大学の男子合唱部のOBだ。星さんと酒巻くんには六歳の年の差があるものの、知り合いだったとしても決しておかしくはない。山田さん、美江子さん、と私の名前を口々に呼んでいる四人を目の当たりにして、とにかく落ち着くことにした。
「久し振り、一段と綺麗になったね」
 くわえ煙草で微笑んでいるのは、私よりも学年は三つ上で、年齢は四歳上になる星さん。会うのは実に久し振りの彼は、三十五歳になっているはずだ。電機メーカーオーディオ部門勤務。現在では中堅ビジネスマンといっていいだろう。
「久し振りでもないけど、会うたびに美人になるね、あなたは」
 これは私がマネージャーをつとめるフォレストシンガーズの同業者である、ソロシンガーの金子さん。私よりふたつ年上なので三十三歳。
「やあ、元気そうで」
 同じく、金子さんともフォレストシンガーズとも同業の、ソロシンガー、徳永くん。私とは同い年である。
「こんばんは」
 ぺこっと頭を下げたのは、このメンバーでは最年少になる酒巻くん。DJが本職で、私より三つ年下の二十八歳だ。
「ここって、みなさんの行きつけの店なんですか」
 尋ねた私に、金子さんが答えてくれた。
「俺は学生時代からしばしば来てるよ。星さんにとってもなじみの店だ。徳永と酒巻は俺が時おり連れてきて、常連になったんだよ。美江子さんははじめて?」
「はじめてですけど、向日葵って名前には聞き覚えがあったんです。乾くんが言ってたんだったかな。誰から聞いたんだかは忘れましたけど、女ひとりでも気楽にごはんを食べられそうかなって」
「女ひとりって慣れてるだろ。美江子さんでもそういう気を使うのか」
「慣れてはいるけどね、徳永くん、女がひとりでは入りづらい店もあるのよ」
 この店には入りづらさはまったくなかったけれど、あなたたちがいるんだったら入るんじゃなかった、と後悔していると、星さんも言った。
「先日帰国したんで、飲もうかって金子に声をかけたら、金子が徳永と酒巻を連れてきたんだよ」
「帰国って、どこかに行ってらしたんですか」
「長期出張でボストンに行ってた。うちの支社があるんだ」
 星さんのみが一般企業勤務のビジネスマンではあるのだが、彼にしても音楽に関わる仕事をしているのだから、音楽業界人種の後輩たちとのつきあいは続いていたのだろう。金子さんと徳永くんは同業だし、酒巻くんも音楽と深い関りのある仕事に就いているのだから、私はこの三人とは会う機会もある。なのに星さんについては話してくれなかったのは、三人してなにか勘ぐっていた? 遠い遠い過去だとはいえ、私が星さんを完全に忘れていないのだから、過去を知っている昔なじみには勘ぐられてもしようがないのかもしれない。
 しかし、星さんとは学生時代には知り合いではなかったはずの酒巻くんまでが、星さんと私の過去を知っているのだろうか。酒巻くんとは仲よくしている幸生くんあたりが、よけいな情報を酒巻くんの耳に入れたのだろうか。だとしたらとっちめてやらなくちゃ、と考えかけて頭を振った。
 あれは十三年も前。十八だった私が星さんと恋をして、卒業していった星さんに捨てられた。それからしばらくは失恋をひきずって悶々としていた。次の恋をしてもその次の恋をしても、社会人になってからでも、私の心には星さんがいた。星さんと別れてからの次の次の恋の相手が酒巻くんなのだが、そのころにも私の胸の奥深くには星さんが居座っていた。
 そして、フォレストシンガーズがデビューして、仕事がらみで星さんと再会して、あの夜から私の想いは形を変えた。少女だった私が好きだったひと、今でも好きなひとではなく「好きだったひと」なのだと。
 ならば、酒巻くんにまで知られていたってかまわない。幸生くんだって詳しく知っているわけでもないのだから、酒巻くんに話したとしても、表面だけだろう。乾くんが話したのだとしたらちょっときついけど、まあ、いずれにしても過去の話なのだから。今ではこだわりもなく、ただ、なつかしいのだから。
 だったら他の三人は邪魔だな、星さんとふたりっきりのほうがよかったな、と考えて、心でぺろっと舌を出したりできるようになったのも、なんのこだわりもなくなった証拠だ。卒業してからはじめて星さんに会った夜のような胸の痛みはもうない。そんなものがいつまでも残っていたら、どうしようもないではないか。
「そういうわけで五人がそろったんだ。ゆっくり飲もう」
 グラスを挙げる星さんにうなずいてみせると、金子さんも言った。
「五人ともに独身なんだから、帰っても待ってるひともいない。時間は忘れて飲みましょうか」
 あとの三人が独身なのは私も知っている。つまり、星さんも独身だと教えてくれるための金子さんの台詞だったのだろう。よく気の回るところは、金子さんは乾くんに似ている。こうなったら私も覚悟を決めてつきあうわ、と口の中で呟くと、酒巻くんが言った。
「美江子さんはお酒は?」
「このテーブルの料理、私もいただいていい? お酒はワインがいいな。白をグラスで」
「グラスなんて足りないでしょ。フルボトルですよね」
「みなさんも飲んで下さるんでしたら」
「美江子さんだったら、フルボトルでも足りないでしょうに」
「私はそんなに大酒飲みじゃありませんよーだ」
 ひょんなきっかけから私を好きになったと、酒巻くんが告白してくれたのは、彼が一年生で私が四年生の春だった。ストレートで純な告白にほだされてつきあうようになって、夏には私のほうから別れを告げたのだから、あれは恋ではなかったのかもしれない。今となっては星さんよりも酒巻くんほうこそが、苦い味になってかすかに残っている。
 あのころの酒巻くんは小さくて気が弱くて純情で、じきに真っ赤になったりべそをかいたりしていた。考えていることの半分も口にできなかった無口な少年だった酒巻くんは、合唱部の先輩たちに鍛えられ、今では職業柄もあって無口ではなくなっている。彼の口を鍛えたのは幸生くんだと、酒巻くんも幸生くんもともに言っていた。
「どんどん飲んで下さいね。料理もどうぞ。足りなかったら追加注文しますから」
「私は大酒飲みでもないし、大食漢でもないからご心配なく」
「失礼しました」
 やがてワインが運ばれてくる。じゃあ、乾杯、と星さんが音頭を取り、ウィスキーグラスや焼酎グラスやワイングラスが五つ、澄んだ音を立てて空中で触れ合った。


 すわっていても、他の三人と酒巻くんの身体の大きさの差は歴然としている。唯一の二十代なのだし、私よりも少々背が低いほどに小柄な酒巻くんは、むろんこの中ではもっとも若く見える。徳永くんと私は彼と一年間だけ合唱部での活動時期がかぶっているのだが、星さんと金子さんは大先輩だ。それでなくてもこういう性格になったのか。酒巻くんは細々と気配りをしていた。
 次に年が若いのは徳永くん。彼はいつに変わらずクールで、あまり口もきかずに飲んでいる。本橋くんくらいの身長で、本橋くんよりはやや細身。しゃれたジャケットがかっこよく決まっている。
 昔からつかみにくいところのあった金子さんは、さりげなく星さんの近況を私に教えてくれる。徳永くんよりも背が高く、ほどほどの筋肉のついた男っぽい体格に、何度見ても見とれてしまいそうな美貌。星さんに似た低く甘い声。美貌と美声にセンスのよさも兼ね備えていて、彼の前では外見的には乾くんも顔色がないだろう。
 それから星さん、やっぱりやっぱりかっこいいよね、と言いたくなる。金子さんと同じくらいの体格で、ビジネスマンであるだけに奇抜な服装はしていないけれど、中年になりかけの渋い大人の男の魅力が漂っていて、なんで独身なの? と訊きたくなる。あいかわらずもてすぎるのだろうか。
「金子も徳永も、美江子さんになにかしたんだったよな」
 ほんのちょっぴり酔いの影が差してきた星さんが問いかけ、金子さんは言った。
「なにかしたんじゃありませんよ。なにか言いましたけど、断られましたから。以前にも話したでしょう」
「俺とはとうに終わった彼女に、おまえや徳永がなにを言おうとなにをしようと、俺には関係ないってな。たしかにそうだ。どの道、どっちも美江子さんには断られたんだし」
「そうですよ」
 徳永くんも言った。
「俺がかつて愛した女は、ここにいるふたりの後輩にも口説かれるほどのいい女なんだって、誇っていいんじゃありませんか、星さん?」
「誇るのか。ここにいるはるか年下の後輩とも……だしな」
「え? はるか後輩? いえ、僕なんかはなにかしたってほどでも……さよならのキスはしてもらったな」
「酒巻くん、今さらだよ」
「はい、美江子さん」
 この中でたったひとり、僕と自称して私に丁寧語で話しかける酒巻くん。頬を赤くしていて、実年齢よりも十も若く見える。結果的には私は、星さんへの仕返しを彼にしたような、そんな悔悟の念が残っているのだった。
「酒巻くんには彼女はいないの?」
「いませんよ。ほんとだか嘘だか知りませんけど、先輩たちにもいないんですって。美江子さんったら罪な方なんだから」
「あのね、酒巻くん、私は関係ないでしょ」
「ありますよ。金子さんや徳永さんだって、美江子さんに恋をしてふられたんでしょう。ここにいる男はみんな、美江子さんへの恋が破れたんじゃありませんか」
「酒巻くん、酔ってる? 言わせてもらいますけどね」
 はい、拝聴しましょう、と金子さんが言い、徳永くんは微苦笑を浮かべ、星さんは複雑そうなまなざしで私を見る。酒巻くんは子供のような目で私を見返した。
「星さんには私がふられたんだよ。遠い遠い昔だからそんなのはもうどうでもいいけど、破れたのは私の恋だったの。金子さんと徳永くんは、特に金子さんは……」
「俺がなんだって?」
「悪いジョークだったんじゃありません?」
「ジョークで恋はしないよ」
「恋だかどうだか……まあ、それももういいんですよ。正直言って、あのときには嬉しくなくもなかったんですから。あれでももてたと言うとしたら、私がいちばんもてた時期だったな。徳永くんだって本音ではなにを考えていたんだか。だけど、他にももうひとりいたんだし。つきあって下さい、って三人の男性に告白されて、悩んでたのもなつかしいな。今となってはどれもこれも、学生時代なんてもっと古い懐旧談じゃありませんか。酒巻くんまで私を苛めないで」
「苛めてはいませんよ。美江子さんってなんて素敵なひとなんだろ、って思ってるんです。改めて僕の恋人になってもらえませんか」
「酒巻くんまで悪いジョークをやらないの」
「ジョークではありません。マジです」
「こんなところで……」
「じゃあ、ふたりで出ましょうよ」
 他の三人は黙って飲んでいて、酒巻くんが私の手を取ろうとした。
「酒巻くんは変わったね。あのころは可愛かったのに」
「僕だって三十が近いんですから、美江子さんに可愛いと思われていたころの僕ではありません」
「そりゃそうだよね。十八だったにしても、男性に可愛いだの子供っぽいだの言うとかちんと来るってのは、私も知ってるの。男性ってものの上っ面は見てきてるから知ってるつもりだよ。子供扱いはやめようね。でも、酒巻くんってやっぱり……ごめんね」
「これだもんな」
 意外と言っては失礼なのかもしれないが、酒巻くんはこの中でもっとも声が低い。星さんと金子さんはバリトンで、徳永くんはテナーだが、話し声はいずれも低い。それでも酒巻くんの声がいちばん低くて、目を閉じて聞いていたら大人の男性の声以外のなにものでもない。けれど、目を開けるとこれだから、うーん、ごめんね、しか出てこないのだ。
「昔から美江子さんにはよく叱られましたけど、ごめんね、ってのもよく言われましたよ。ごめんね、さよなら、ってふられたんだ」
「だから、そんな昔の話ばっかり……」
「だって、昔を思い出すんですから」
「私のせいなんだったら私は帰る」
「帰るなよ、美江子」
 どきっとした。この発言は星さんだったのだから。
「あのころのおまえは可愛くて気が強くて怒りっぽくて、いい女と呼ぶにはガキすぎたけど、今では本物のいい女になったな。酒巻なんかは気にしなくていいから、俺とふたりきりになろうか」
「星さんまでジョークはやめて」
「ジョークじゃないよ。こら、金子、口出しするな」
「しますよ」
 相手が先輩でも言いたいことは言う、というところも、金子さんは乾くんに似ている。星さんを押しのけるようにして言った。
「星さんだけなんだな。あなたをおまえと呼ぶのは」
「今さら、やめてほしい」
「そう? 俺は? あなたが本物のいい女になったっていうのは、俺もまさしく同感だよ。俺も昔からあなたを見つめていた。言ったでしょ? 気持ちは変わらない? 俺はあなたをおまえと呼びたい。美江子、おまえがほしい、って、ふたりきりになって言いたいよ」
「……やめてやめて」
「俺も言いたいけど」
 クールにニヒルに微笑んで、徳永くんも言った。
「このメンバーだと、あっちで睨んでる奴に遠慮なくぶっ飛ばされるのは俺だろうから、やめたほうがいいんだろうな」
「あっちで睨んでる奴?」
 しかめっ面で立っている本橋くんの姿が目に入ってきた。「向日葵」っていういい店があるんだよ、と教えてくれたのは本橋くんだったのだろうか。彼も星さんか金子さんに連れてきてもらったことがあったのだろうか。近寄ってきにくそうにしている本橋くんに、金子さんが呼びかけた。
「来いよ。聞いてたのか」
 険しい表情を顔に張りつかせて、本橋くんがやってきた。
「聞こえてましたよ。こまかいところまでは聞こえなかったけど、四人の男がひとりの女を口説いてる。なにやってんだ、あそこのテーブルの奴らは、って見てたら、俺の知ってる顔ばっかりじゃありませんか。星さん、金子さん、今さらなんなんですか。酒巻、おまえまでか」
 いえ、その、と酒巻くんはますます小さくなり、徳永くんは言った。
「俺は口説いてないんだから、男は三人だろ」
「俺も言いたいけど、って言ってたじゃないか。あれはよく聞こえてたぞ」
「すると、おまえが加わって五人になるんだな」
「俺が加わって?」
 すわれよ、と星さんに言われた本橋くんは、私のうしろに立った。
「山田、出よう、帰ろう」
「本橋くんもごはんを食べにきたんじゃないの?」
「ちっと飲んで帰ろうかと……いいんだよ、酒もメシも。おまえ、忘れたのか」
「本橋くんまで、こんなところで変なことを言い出さないで」
「言い出すんだよ。おまえは俺のものだ」
 ほおおー、と他の四人が声をそろえ、私は首をねじって本橋くんを見上げた。
「なにを言い出すのよ」
「言い出すんだって言っただろ。おまえは俺のものだ。過去はどうだっていい。今はおまえは俺のものだ」
「……私はものじゃない」
「ものじゃなくても俺のものだ。俺はおまえのものだ。それでいいだろ。出よう」
「……えと……待ってよ……ちょっと、あのね」
「いやだなんて言いやがったら、ひっかついで連れ出すぞ」
 やりかねないので、立ち上がった。
「外で話そうね。怒らないで」
「怒ってない。なんなんだよ、これは」
「偶然なの」
「偶然でこいつらと……いや、こいつらがふたりとこの方たちがふたりと……くそ、それもどうだっていいんだ。話は外で聞く。山田、来いって」
 肩を抱かれて曖昧にうなずくと、金子さんが言った。
「そういうわけか。星さん、またもやふられましたよ」
「うん、俺もふられたよ。酒巻、泣くなよ」
「僕ももう泣いたりはしませんけど、悲しいですね。二度も同じひとに失恋しちゃいましたよ、僕。徳永さんは?」
「そうなってたとはね……あってもなんら……そうか。美江子さんとふたりきりになれる権利は本橋にあったのか。ふられた男四人で飲みましょう。酒巻、酒が足りないぞ」
「はい。本橋さん、がんばって下さいね」
 うるせえんだよ、おまえは、と本橋くんは幸生くんに言うように酒巻くんに言い、私を促した。なんとなくためらっていると、本橋くんは私の肩を強く抱いた。
「行くよ。行くから怒らないで」
「怒ってねえよ。では、失礼します。酒巻、徳永、おまえたちには言ってないからな。星さんと金子さんにだ。山田、おまえも挨拶しろ。星さんと金子さんにだ」
「……えっらそうに。では、失礼します」
 先輩ふたりに向かって会釈して、ふたりして外に出る背中を、ひそやかに低い笑い声が追いかけてきた。
 
 
2

 相当に怒っている。私は本橋くんを怒らせるようなことはしてないのに、なんだってこうなるのよ、と私は私で怒りつつ、ふたりで黙って歩いていた。黙って歩き続けて数分後、本橋くんが私をビルとビルの間の路地に引っ張り込んだ。
「なにすんのよ……う」
 たった一度、突発的に発作的に、みたいなふうにして、本橋くんが私にキスをしたのは、一昨年の夏だった。気の迷いではないと彼は言ったけれど、あれからはなんにもなかったのだから、やはりそうだったのかと考えていた。
 お互いになんにもなかったような顔をして、すこしずつ売れてきて多忙になってきたフォレストシンガーズのリーダーとマネージャーとして、学生時代の延長のつきあいを続けていた。友達として仕事仲間として、キスをかわす前と同じような関係を続けてきたのだった。
 だけど、そうじゃなかったの? 本橋くんの中での私は、あの日を境に変わった? あの日よりも激しく情熱的なキスの嵐に巻き込まれていく。しっかり抱き合ってくちびるを合わせて、私は思い出していた。


 合唱部の夏の合宿は海辺でだった。私は歌の実力は可もなく不可もなくで、その他大勢にすぎなかったのだけれど、本橋くんと乾くんは一年生の中ではぬきんでていた。ゆえに、彼らは男子部で特訓づけだったのだが、女子部も合同の合宿だったから話す機会はあった。
「おまえはそんなに星さんが好きなんだな」
 妙にしみじみと本橋くんが言い、かたわらでは乾くんも真面目くさってうなずいていた。好きだよ、好き好き好き。私は星さんが好きだけど、本橋くんや乾くんに言ったって意味ないじゃないの。言うんだったら星さんに直接言うもん、と心で言って、口に出してはこう言った。
「そんなにってね……そうだよ。ところで、本橋くん?」
 なんだよ、と問い返す本橋くんに、私はもったいつけて含み笑いをしてみせた。
 合宿となると、高校生のしっぽをひきずっている一年生女子は、夜中に打ち明け話をしたりする。高校のときにはこんな彼とつきあってたの、だの、ファーストキスはいつだった、だの、そのたぐいの話がもっぱらで、私も言った。
「私のファーストキスは高校二年のとき。その彼とは大学が離れ離れになっちゃって、いつの間にか電話もしなくなったな」
「本橋くんとつきあってるの?」
 尋ねたのは、そのころはとても仲良しだったゆかりだった。
「本橋くんと乾くんと美江子、よく三人でいるじゃない? どっちかとつきあってるの?」
「つきあってないよ。ただの友達。だって私……彼、いるもん」
「ええ? うっそー」
 そちらの打ち明け話もゆかりにだけすると、彼女は頬を染めて言ったのだった。
「じゃあさ、本橋くんには彼女はいないのかな」
「乾くんにはいるみたいだけど、本橋くんにはいないんじゃない? もしかしてゆかり……」
 こういうことには女は聡い。ゆかりはこっくりし、よしよし、そんなら私が恋のキューピッドをつとめてあげようじゃないの、と話が決まったのだ。
「なんだ、山田、なんなんだ」
「なんだよ、ミエちゃん? 意味ありげに本橋を見つめちゃって……なに?」
「本橋くん、好きな子いる?」
「いねえよ」
 現在でもその傾向はあるが、当時はさらに恥ずかしがりだった本橋くんは、そっぽを向いて否定した。
「ほんとだね?」
「本当だ」
「乾くん、保証できる?」
「いるんだったらいるって言うだろ。ミエちゃん、本橋に誰か紹介……」
「じゃあね、またね、本橋くん。乾くん、ちょっと来て」
 誰か紹介してやって、ではなく、乾くんが言いたかったのは、誰か紹介するつもり? だったようだ。仏頂面でいる本橋くんを夜の浜辺に残し、乾くんをものかげに引っ張っていくと、私は言った。
「ゆかりなのよ。知ってるよね?」
「もちろん知ってるよ」
「ゆかりが本橋くんを好きなんだって。お似合いでしょ? 今からゆかりを連れてくるから、乾くんは本橋くんを引き止めておいて。ゆかりが来たらさりげなく、ふたりっきりにしてあげて」
「わかった。協力しましょ」
 他人の恋でさえも張り切る年頃だった私は、ためらうゆかりを浜辺に引きずり出し、本橋くんと対面させた。乾くんが消え、ふたりがいいムードになったのを確認して引き返そうとすると、うしろからいきなり抱きすくめられた。
「え? ……星さん?」
「同じところに合宿に来てるのに、ちっともふたりきりになれなかったな。美江子……」
 いろんなことを教えてくれて、いろんなところへ連れていってくれて、恋の囁きも聞かせてくれた。喧嘩もした。泣いたりもした。幸せも寂しさも胸の痛みも教えてくれた星さんとは、彼の卒業が近づいてきたころに別れて、二年の夏にはあの渚で思い出しては切なくなっていた。
 一生立ち直れないのではないかとまで思い詰めたのも、今となっては、若かったなぁ、といい思い出になっている。近いうちにはまた恋をするつもりでいた私のもとに、恋が訪れたのは三年生になってからだった。三年の夏には合宿所の近くでアルバイトをしていた、他校のサーファー大学生だった。彼が働いていた居酒屋に足しげく通っていた本橋くんが、ゆかりのときのように彼と私の仲をとりもった。お互いにお節介を焼いていた学生時代だったのだ。
「あいつとはうまく行ってんのか」
 新学期がはじまったころに、本橋くんが尋ねた。乾くんも本橋くんのとなりで笑っていた。
「それがねー、学校は近いんだけど、都会で会うと冴えないんだな。サーファーってのは海にいてこそよ。むこうもそう思ってるみたいで、自然消滅しかけてる。海辺の恋は蜃気楼だったの」
「早いなぁ」
「そういう本橋くんはどうなの? 乃理子ちゃんとは?」
「うーん、どうなんだろうな」
「乾くんは?」
「……右に、いや、左に同じかな。長続きしない者三人で飲みにでもいこうか」
 そうしよう、と三人で繁華街に繰り出した。
 恋もいいけど、私は三人でいるのがもっとも安らぐ、と思っていたのだけれど、四年生になったらまたしても恋が訪れた。今度はなんと合唱部の新入生。章くんや幸生くんより年下の、三つ下の坊やだった。
「酒巻って男として……」
 そう言いかけて、乾くんにがばっと口を押さえられていた幸生くん。シゲくんとヒデくんが酒巻くんと私の交際を知っていたのかどうかを私は知らないのだが、本橋くんには酒巻くんとのデートを目撃されて、お節介を焼かれて喧嘩をした。よくもあれだけ本橋くんとは喧嘩ばかりしていたものだと、それすらもなつかしい。とはいえ、今でも喧嘩はしているのだけど。
 私たちは四年生になっていたから、シゲくんも幸生くんも合唱部にいた。章くんはすでに大学を中退していて、消息不明になっていた時期だ。一事は仲間だった小笠原のヒデくんもいた。
「酒巻くんって子供すぎるよ」
「美江子、ほんとにほんとに酒巻くんがいいの? 彼のどこがいいの?」
「ほっといてくれないかな。誰と恋をしようと私の自由でしょっ」
「そりゃあそうだけどね……」
 のちの仲間たちのみならず女友達にも不評だった年下の男の子との恋は、彼のあまりの子どもっぽさに愛想をつかした私からエンドマークをつけた。その別れ話も、「想い出の渚」でおこなった。酒巻くんに泣いてすがられたのを甘酸っぱく思い出す。はなっから子ども扱いしていた私も悪かったんだよね、と今になって反省はしているけど。
 後輩たちについてはよく知らないものの、本橋くんも乾くんも何度か恋をしては、はかなく砕け散らせていたようだ。そうして失恋の歌を書いていた。若いころの彼らは女の子よりも歌が大切だったから、そのせいもあってふられたんだろうと私は推理している。
 卒業してからも本橋くんと乾くんは正式に就職はせず、アルバイトで生計を立てつつ歌っていたのだが、私は一応就職した。彼らがいつかプロになったら、私がきっとマネージャーになる。そのためには勉強しておかなくちゃ、と選んだイベント会社に入社したのだが、世の中そう甘くはない、と痛感したOL時代だった。
 日常の舞台がちがってくると、学生時代のようにはいかなくなる。アルバイター兼アマチュアシンガーズである本橋くん、乾くんと、新人OLの私が久々にゆっくりと語り合ったのも、「想い出の渚」でだった。四年間合宿に参加したあの浜辺。アマチュアシンガーズしてのフォレストシンガーズが、ノーギャラでイベントに出演した日だ。
 あのころにはヒデくんがいた。ヒデくんとシゲくんと幸生くんと本橋くんと乾くん、アマチュアのフォレストシンガーズのステージがおこなわれる前日に、宿を抜け出して三人で話していた。
「本橋くんも乾くんも暢気でいいよね。私にだってアルバイト経験はあるけど、正社員になるとまるっきりちがうんだから」
「それは想像しかできないけど、マネージャー修行してるんだろ。がんばってくれなくちゃ」
「簡単に言わないでくれる、乾くん? 修行ったって、私なんか走り使いだよ。コピーだのお茶くみだの掃除だの」
「洗濯だの?」
「乾くん、茶々入れない」
「……ごめん」
「山田、乾に当たってどうするんだ」
 言った本橋くんに、ふんっだ、と応じた私は、現在の境遇を思うと苛立っていた。
「最初からわかってんだろ。おまえは新入社員なんだから、責任ある仕事なんかまかせてもらえるわけもない。そういうのを経験して、一人前の社会人になっていくんじゃないか」
「聞いたふうな口叩いてるけど、本橋くんなんかそんな経験もないんじゃないのよ」
「……そりゃそうだけど……」
「ミエちゃん、恋人はできた?」
 険悪になりかけている雰囲気を和らげようとして、なのだろう。乾くんがそんな質問をし、言うつもりはなかったのに、ついつい言ってしまった。
「できたっていうか、つきあってるひとはいるの。だけどねー、なんつうかねー、障壁があるんだな」
「どんな障壁?」
「そうとは知らずに恋をしてみたら、彼には妻子がいたって障壁」
 しばし黙っていた本橋くんが、険しい目で私を見た。
「不倫か。山田、おまえが知らないわけはねえよな、不倫の意味を」
「なにが言いたいの?」
「不倫ってのは人の道にはずれてる、って意味だ。馬鹿野郎、今すぐそんなものはやめろ」
「本橋……過激すぎる」
「過激なんかじゃない。俺はそういうのは大嫌いだ」
「本橋くんは嫌いでも、私は彼が好きなの」
「どれだけの人間に迷惑かけてるか知ってんのか。おまえの勝手な思い込みで、その男は自業自得にしたって、奥さんや子供の気持ちを考えろ」
「奥さんには気づかれてないもん」
「いずれ露見する」
「なんであんたにわかるのよ」
「そういうもんだ」
「……親みたいな台詞はやめて」
 おいおい、ミエちゃん、シンちゃん……と乾くんはおろおろしていて、本橋くんは私を睨み据える。彼の言葉は正論だ。正論ゆえにいっそう腹立たしくなって、私は本橋くんの頬に一撃を……要するにひっぱたいてしまったのだった。本橋くんは一瞬ゆらめき、私をますます睨んだ。私は狼狽し、頬を押さえる本橋くんの表情を見ていると……目が霞んできた。
「ずるいよ、ミエちゃん」
 静かな声で乾くんが言った。
「殴ったのはミエちゃんなのに、泣いたら本橋は動けなくなる。怒りもできなくなる。殴り返すなんてのは論外だけど、なにも言えなくなっちまうよ」
「……ごめん。ごめんね、本橋くん、乾くんもごめん。わかってる。こんな感情的なマネージャーなんかいらないよね。私なんか……私なんか……」
 言ってる間にも涙がぼろぼろこぼれて、気がつくと乾くんと本橋くんが、両側から私の肩を抱いてくれていた。
「私なんか、じゃないぜ、俺たちがプロになったとしたら……」
「本橋、なったとしたら、じゃないよ」
「なったら、おまえの力は必要なんだ」
「そうだよ。俺たち、ミエちゃんを頼りにしてるんだから」
「うまいこと言って……なにたくらんでるの?」
「なにたくらんでるの、シンちゃん?」
「なにもたくらんでないよ。山田も含めて、俺たちは仲間じゃないか、とな、そう言いたいんだけど……うまく言えない。乾、続きを言え」
「ちゃんと言ってるじゃないか」
 いたずらっぽい目で、乾くんが私を見た。
「ずいぶんと力が強いね、ミエちゃんは。本橋の顔にばっちり手形がついてる。キスしてやらない?」
「いや」
「言い切りますか。キスはしなくてもいいけど、俺もそんな恋は反対だな。ミエちゃんは思い通りに仕事のできない苛立ちで、気の迷いを生じてるってことはない? それは本当に恋?」
「……そのつもりだけど」
「やめたほうがいいよ」
 大事な青春無駄にして……と乾くんが歌い出した。紙切れ一枚に身を焦がす、どこかで聴いた覚えのある歌だった。
「これは受験生ブルースだけど、ミエちゃんだって大事な青春だろ。そんなことで無駄にすんなよ。やめたほうがいい」
「やめたほうがいいんじゃない、やめろ」
 いつの間にか涙は止まっていて、私は本橋くんに向かってべーっだとやった。
「本橋くんはうるさいの」
 そんなにたやすくやめられるものなら苦労はしない、だったのだが、翌年の春に彼が転勤して、つきものが落ちたかのごとく私は彼への執着をなくした。それをしおに会社もやめた。たったの一年、下っ端社員では修行にもならなかったけど、私もアルバ
イターとなって、彼らと苦労をともにしようと決めたのだった。
 彼らがプロになったら、なんてずるい。プロになれると決まってから、なんてずるい。私が信じて賭けた彼らと、今後は一蓮托生だと決めたのだ。
 そうして彼らがプロとなったのは、最年少の幸生くんも大学を卒業したころだった。ヒデくんは脱退してしまい、章くんがかわりに入って、コンテストで敢闘賞を受賞し、目に留めてくれたプロデューサーと、現在のプロダクション社長との尽力でデビューを果たした。
「山田がうちの社員となって、いずれはFSのマネージャー、だな。はじめっからFSの担当はさせられない。まずは修行をさせるから、覚悟はいいな」
 言った社長に力強くうなずいて、私のマネージャーとしての日々が開始した。
 デビューしてもそうたやすく売れるはずもなく、私が他のシンガーのマネージャーをしている時期も、彼らの担当になってからも、売れない無聊は散々にかこってきた。当分は恋はお預け、私は仕事に生きるんだ、と自分に言い聞かせていたのだが、男性たちには恋が訪れては去り、訪れては去り、だったようだ。そのうちのいくつかは私も知っている。
 数年間は無我夢中だったけれど、私にも恋はなくもなかった。
 二十六歳の年に、一気に三人の男性から恋の告白をされて、私ってまだまだ捨てたもんじゃないのかな、とうぬぼれてみたりもしたけれど、どれにしようかな、と迷うのも面倒になってみんな断ってしまった。いい気なもんだな、と本橋くんには言われ、今回を逃したら二度とチャンスはないぞ、と脅かされもして、チャンスはきっとまたあるもん、と言い返したりした。
 そんな私にも恋がやってきては散り、そして二十九歳の夏に……あれはいったいなんだったのだろうかと、時がたつにつれて不思議に感じる、本橋くんとのキスがあった。

 
 そうしてまた時は流れ、今夜は二度目のキス。キスの嵐が本橋くんと私をどこかにさらっていってしまいそう。二度目ではなく何度もキスをかわして、本橋くんが私の耳元で囁いた。
「行こう」
「……?」
「わかってんだろうがよ」
「……わからない」
「とぼけてんじゃねえんだよ。おまえな、もてるってうぬぼれてるんだろうけど……」
「うぬぼれてないよ」
 あのころはうぬぼれたりもしたけれど、今では現実を知っている。さきほどの一幕はジョークだ。最高にうぬぼれてみたとしても、いささかでも本気だったのは酒巻くんだけだったはずだ。星さんは酒巻くんの妨害をしたのか、金子さんはいつもの悪い冗談だろうし、徳永くんは白けていた。
「星さんは過去すぎる。ほんとに今さらだよ。金子さんはああいう性格だって、本橋くんだって知ってるじゃないの」
「酒巻は?」
「言いたくない」
 いまだあまりに子供っぽすぎる、と口にしては失礼だろう。本橋くんは私がなぜ言わないのかを察したようで、そうだろうな、と呟いた。
「だからね、あんなのはもてたんじゃないの。知ってるよ」
「知ってるんだったらいいけどな」
「……なんなの? あんた、やけにえらそうだね。私があんたのもの? いつ、あんたのものになったの?」
「だからさ、身も心も俺のものになれよ。だから行こうって……」
「本橋くんがそんなひとだとは、知ってるようでいて知らなかったのかもしれない。まだ身も心もまでは……そこまでは……」
「俺が嫌いか」
「今夜の本橋くんはちょっと嫌い」
 そうか、と怖い顔をして言って、本橋くんは私から身を遠ざけた。
「帰ろう」
「うん」
 送っていってもらうと危険なんだろうか、などとちらっとでも考えるのは、生まれてはじめてではなかろうか。本橋くんにも乾くんにもシゲくんにも幸生くんにも章くんにも、数え切れないほどにアパートまで送ってもらっている。どちらかの部屋でふたりっきりになったことも幾度もある。けれど、危険だなんてこれっぽっちも考えたことはなかった。
 今夜は黄色信号。これ以上進むと危ない? そうなんだろうか。進んではいけないのだろうか。そんなふうに考えながら、微妙な距離を開けてふたりで歩き、本橋くんがタクシーを止めた。
 タクシーの中でも黙っていて、それでいて気詰まりではないのは、長年のつきあいだからなのだろう。身体は大きくても精神的にはかさばらない男だから、あまりにも気安すぎて、キスをかわしてさえも気持ちが甘くはならなくて、永遠に恋人にはなれないのかと思ってみたり。
 こんなときにはもう一歩踏み出して、強引に私を抱けば? なんて言えやしない。私のガラでもないだろうし、相手は本橋くんなのだから。言えないままにタクシーが私のアパートについた。
「降りろ。俺は俺の部屋に帰るよ」
「そう。じゃ、おやすみ」
 目で誘ったら気づく? 気づいても気づかないふりをする? タクシーから降りつつ振り向いて、じっと見つめたら、本橋くんは目をそらした。
「じゃあな」
 ひとこと残して、本橋くんの乗ったタクシーが遠ざかっていく。排気ガスまじりのため息の意味は、ため息ついた私自身にもよくわからないままだった。

END
 
 

 
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