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小説69(雨にも風にも)

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せんぱい
フォレストシンガーズストーリィ・69

「雨にも風にも」

1 隆也

 ついに三十路を迎えたと思ったら、あれよあれよで早一年。俺は三十一歳になった。幸生ならばみそひと文字の短歌だ、と言うやもしれない。
 我々フォレストシンガーズがデビューしてから、六年と半年が経過している。当初は専用ではなかったスタジオも、我々の専属スタジオとなった。借りものではあるのだが、いつでも自由に使える。歌の練習は我らの重大な責務なのだからして、現在でも暇があればスタジオに全員集合して、レッスンに励んでいるのだ。
 本日も歌の練習日。幸生と俺がほぼ同時にスタジオに到着したら、幸生が俺のジャケットのポケットに小さな包みを入れた。
「なんだ、これ?」
「愛する隆也さんにバースディプレゼント。今まではプレゼントなんかしなかったけどさ、節目の誕生日であるわけでしょ。隆也さん、おめでとう」
 もはや幸生の女声、女言葉バージョンなどにはみじんも驚かなくなった。本橋やシゲや章が過剰反応を示すほうこそ、いい加減に慣れろと言いたい。
「三十じゃなくて、三十一歳の誕生日が節目ってのは? 短歌だからか?」
「短歌ね。いえ、別に短歌だからじゃなくて、ふっと思いついたっていうか……開けてみてみて」
 なんなのだろうかと恐る恐る包みを開くと、薬ビンだった。
「……加齢による軟骨の衰えに絶大なる効果を発する薬。ああ、ありがとう、幸生」
「俺たち、体力だって必要ですもんね。ダンスだとか振り付けだとかの特訓してて、膝が痛いの腰が痛いのって、三十すぎたらありそうじゃん? だから、プレゼント」
「本橋にもプレゼントしたのか?」
「やだー、リーダーにそんなもんあげたら、俺、ぼっこぼっこにされちゃうよ。ちょっと……ちょい待ち。乾さん、乾さん……お鎮まり下さいませませっ。ませませーっ!!!」
 左腕を伸ばして幸生の頭を抱え込み、力を込めて頭頂部をぐりぐりやってやると、幸生はきゃはきゃはと騒いだ。喜んでいるのかもしれない。
「勘弁してよーっ!! 頭蓋骨が……」
「複雑骨折だったな。陥没か?」
「先回りされると言えなくなっちゃう。うふん、隆也さん。ふたりっきりなんだしさ、そんなんじゃなくて、ラヴシーンにしません?」
 結局は負けてしまい、幸生を解放してから言った。
「二十代は卵、三十代はひよこだ。男は四十からだよ」
 半ばは強がりでそう言ってみると、幸生はいつに変わらぬシャレで応じた。
「しじゅうから? 鳥の名前?」
「鳥の「しじゅうから」はどう書くか知ってるか?」
「四十の雀でしょ。四十歳の雀なのか、四十羽の雀なのか。しじゅうからって雀の仲間なんですか、乾さん」
「俺はそんな話をしてたんだっけ?」
「はて、なんの話でしたっけ?」
「なんの話だか忘れそうになるおまえの脱線も、毎度すぎて指摘する気にもならないよ。だからだ、三十代は四十歳からの男の季節を迎える準備期間なんだ。おまえも心しておけ」
「俺、まだ二十代だもーん」
「かろうじてひっかかってるにすぎないだろ」
「あと一年ありますよ」
 年齢の話をして、俺のほうが若いもーん、だなんて当然のことで、幸生が胸を張る日がこようとは。まさしく、時は流れたのである。
「ま、年の話は侘しくなる恐れもあるし、まだまだ若いんだしさ、乾さん、三十になって一年すぎちゃったからってそう気を落とさずにね。年の話なんかより楽しい話をしましょ」
「おまえがはじめたんだろ。ちがったか?」
「そおお? 乾さんが哀愁の三十男の顔してるからさ……はい、やめます。それよかさー、リーダーには彼女ができたんじゃない?」
「そうなのか。俺は知らないよ」
「またまたー、すっとぼけの乾さんなんだから。当人のいないところで彼の噂話をしてはいけないんだったら、柏原美里さんの話は?」
 なんたる聡い奴だ、そんな感慨も、幸生に対しては百万回も抱いたのではあるまいか。柏原美里の名を出して、俺の顔色から感情を読み取ろうとしている。
「田所先生の仕事は終了して、美里さんもレコーディングスタジオには来なくなっただろ。去るもの日々に疎しだよ」
「お互いに? 乾さんはそれでいいの?」
「悪いのか?」
「さあね。俺は知らないけど……ま、いっか。乾さんの問題なんだもんね」
 そのときちょうど、章と本橋とシゲの声が聞こえてきた。仲間たちがやってきたのだから、幸生もその話を続けようとはせず、そこで中断された。俺の気持ちの中でだけはじまって終わった恋の話なんぞ、したくなかった。


 止まったタクシーに乗り込もうとした俺のかたわらをすり抜けて、横入りしようとした人間がいた。思わずむっとしたが、女性だ。真夜中なんだから女性とあらば譲らざるを得まい。
「どうぞお先に」
「隆也、久しぶり」
 ん? 俺を隆也と呼ぶ女? 彼女は俺の手を取り、タクシーには乗らずに微笑んだ。
「菜月……」
 何年か前の……いわばモトカノって存在だった。売れないモデルだった菜月は、モデルであるのだから当然背が高い。ヒールを履かなくても俺とどっこいの身長だ。スレンダーすぎるほどに細いのも、モデルとしては当たり前だろう。
 背の高すぎる女も、細すぎる女も趣味ではない。モデルなんて俺のストライクゾーンじゃない。けれど、恋ってのはタイプだからするものではないと菜月が教えてくれた。一時はたしかに俺は彼女に夢中だった。
どうしてこんなところで遭遇する? 偶然にしてはできすぎているではないか。菜月は嫣然と微笑み、いっしょに乗ろうよと小首をかしげた。
「あ、ああ」
 ためらっている俺にドライバーが苛立っているようだったので、俺は菜月とともにタクシーに乗り込んだ。
「どこに行く?」
「隆也の行きたいところでいいよ」
「……ったって……」
 仕方がないのでドライバーには、時折行く終夜営業のカフェの名を告げた。
「隆也のアパートじゃないんだ」
「こんな真夜中に」
「あたしはどこでもいいよ。吸っていい?」
「近頃のタクシーは禁煙だよ。カフェも禁煙だ」
「シンガーの前でタバコは厳禁?」
「俺はいいけどね」
 あのころは菜月は煙草は吸わなかった。俺も彼女が煙草は嫌いだというので、吸わずにいた。煙草なんてものも、昔は吸っていて禁煙したり、その逆だってあるのだから、どうだっていい。
 たどりついたカフェには喫煙席もあった。うまい具合に周囲の客はまばらだったので、そちらに案内してもらうと、菜月はスリムな煙草に火をつけた。メンソールの香りの漂う外国煙草だった。
「とっても久しぶり」
「だね」
「隆也がどうしてたかは知ってる。活躍だよね」
「おかげさまで」
「かっこよくなったね」
「昔はかっこよくなかった?」
「そうは言わないけど、どんどんかっこよくなってきてるなぁって思って見てたの。ライヴにも行ったこともあるんだよ」
「ありがとう」
「あたし、隆也の声が好き」
 いつもいつも彼女はそう言った。何年ぶりに聞く台詞だろう。なつかしさはあった。
「もっと喋って。ううん、歌って」
「こんなところで歌えないよ」
「ギャラだったら払ってもいいよ」
「ギャラ? おごってくれるの?」
「そんなんじゃなくて……」
 なんだなんだ、変な雰囲気。菜月はくわえ煙草で、目を細めて俺を見つめた。
「こんな店で女がお金を出すなんておかしいじゃない。男が払うのが普通だよ」
「そりゃそうかね」
 コーヒーとカフェラテの代金ごとき、どうでもいい。おごってもらいたくて言ったわけではない。俺も煙草に火をつけた。
「隆也も煙草、吸うの? 似合うね」
「ありがとう」
「ちっちゃい声でいいから歌ってよ」
「お断りします」
「なんで? つめたいのね」
「つめたくないだろ。きみは今はもう、俺のなんでもない」
「彼女、いるの?」
「答える必要もない」
「だったらさ、隆也のアパートに行こうよ。アパートじゃなくてマンションに引っ越したの? 稼げるようになったんだもんね。個室でだったら歌えるよね」
「きみのために歌う気にはならないな」
「つめたいんだっ」
 今は俺のなんでもない、答える必要もない、そこからなぜこんな展開になる? 理解しがたい女だ。積極的なのは昔からだったけれど、切れたえにしをもう一度つなげる気にはならなかった。
「マンションじゃない個室でもいいよ」
「きみと俺はそんな仲じゃないでしょ」
「つまんないなぁ。据え膳食わぬはなんとやら、って言うじゃない。弱虫」
「なんとでも言え。据え膳を食う趣味なんかないよ」
「だらしない。卑怯者」
「あのねぇ、卑怯者はないだろ。言葉がちがう」
「なんて言うの?」
「自分で考えろ」
 だってだって、と菜月はタバコの吸い口に噛みついた。
「あたしさ、仕事もやめちゃってつまんないの。太ったでしょ?」
「きみはやせすぎだったんだから、少々太ったほうが見やすくなったよ」
「昔は醜かったって? 見るに耐えなかった?」
「そんなことがあるわけない」
 醜いと感じる女を好きにはならない。好きだったのだけは事実だが、すべては過去だ。
「仕事をやめてなにをしてるのか、訊かないの?」
「言いたかったらどうぞ」
「ほんっとにつめたいね。隆也ってそんなひとだったっけ」
 恋人と、そうではない女に対する態度を変えるのは当たり前じゃないか。菜月はいくつになった?それすらもわからない子供のままなのか。
「おとなしく主婦やってんの。子どもつくろうってことになったんだけど、昔の無理なダイエットがたたってるとか、医者に言われちゃってさ、なかなかできない」
「そう……おい、ちょっと待てよ」
 主婦? 子ども? 知らなかった。主婦になっていてさえも、菜月はこうなのか。
「びっくりしてるね。あたしなんか隆也とちがって、名もない売れないモデルだったんだから、引退して結婚しても記事にもならないもん。知らなくて普通だよ」
「きみねぇ、そんな女性が俺を誘惑してるのか」
「ダンナは出張だの仕事だの言って、ちっとも帰ってこないんだもん。そんなんで子どもができるわけないんだもん」
「……おいおい」
 有閑主婦の暇つぶしの相手か。
「隆也の子どもがほしいわけじゃないんだよ」
「当たり前だ。やってられないよ。それを飲んだら帰ろう」
「怒らないで。だってだって……」
 やかましい、黙れ、と言いたいところだが、女にはそうは言えないのも俺の弱点であろう。
「あたしがつまんないのはわかるでしょ?」
「退屈だったらなにかすればいい」
「なにすんの?」
「主婦は暇だとなにをするんだろうね」
「出会い系とか……」
「きみの思考はどうしてそこへたどりつくんだ。テニスやるとか、勉強するとか、なんだってあるだろ」
「そんなのつまんない。英会話はやってるんだよ。ダンナは海外出張もよくあるから、たまには連れてってくれたらいいのに、おまえなんか連れてってなんになる、だって。それじゃ英会話も役に立たないよ」
 ダンナって何者なんだろう。訊く気にもならないが、あのころの菜月には取り巻き連中が大勢いたのだから、そのうちの男なのかもしれない。
「どこかに行こうよ」
「俺は海外になんか行かないよ」
「そんなこと言ってない。わかってるくせに。勇気ないんだ。意地悪。馬鹿」
「なんとでも言え」
「ね?」
 声を低めて囁く。抱いて、だった。はじめて会った日にも菜月はたしかこう言って、俺を誘惑したのだった。過去を後悔などはしていないけれど、ちっとも変わってないね、そんなきみを俺は……好きだったよ、好きだった。だった、だった、と心で繰り返していた。
 ほんのすこし、たとえればあるかなきかのかそけき風に揺らめく、夜桜の花びらのごとき心の揺れを感じなかったと言えば大嘘になるけれど、俺はそんなに節操のない男じゃないっての。自分で自分に言って、揺れる想いを退けた。
「女に不自由してないのに、今さら菜月なんて、って?」
 不自由していないとは言えないが、手近なところで間に合わせるつもりはない。
「スキャンダルになると困る? 隆也は芸能人だもんね」
「帰ろう。……なんだよ」
 つんつくつん、と俺の肩をなにものかがつついた。険悪に振り向くと、帽子をかぶってサングラスをかけた男が立っていた。にやにやと携帯電話を振りかざしてみせる。男は身をかがめて俺の耳元で言った。
「撮っちった。特ダネ」
「……ポン」
「えっ、わかる?」
「声でわかるよ」
 変装してるつもりなんだろうけど、バレバレだ。小声でやりあってから、俺はポンの手を引いてカフェの裏口から外に連れ出した。
 なにすんだよぉ、と抵抗するポンの手から携帯電話を取り上げ、データフォルダを開いた。菜月と俺の写真が入っていたので、八つ当たりめいた気分になってフォトフォルダを全消去してやった。
「ほらよ、返す」
「あ、ああっ!! みんな消した。ひでぇぇっ!!!」
「うるせえな。自業自得だろ。騒いでると俺も大声出すぞ」
「脅迫すんの? そしたら俺も叫ぶぞ」
「どっちがインパクトあるんだよ」
 ラヴラヴボーイズのポンがここにいるぞーっと叫んだら、フォレストシンガーズの乾隆也がいるぞ、ごときではない大騒動が起きるのは必定だ。悔しいが、知名度は彼が格段上のはず。ポンもふくれっ面で黙った。
「そんなもん撮ってどうするつもりだったんだ」
「別に。面白いし」
「面白くねえんだよ。下らない遊びをやってるとぶっ飛ばすぞ」
「……乾さん、あんたってそれが地?」
「どっちでもいいだろ」
 窺うと、椅子の背に顎を乗せた菜月が、ふてくされた顔でこちらを見ていた。
 アイドルグループ、ラヴラヴボーイズの人気ナンバーワン美少年、ボン。仕事で縁があって親しくなったのだ。彼らも男五人、当方も男五人。彼我にはそれだけしか共通点はないのだが、むこうは多少は親しみを感じている様子だ。
「ボンくんは東京人か。近くに家があるの?」
「故郷は青森だよ。なんだよ、東北出身だと悪いのか」
「悪くないよ。俺は北陸出身だ」
「ふーん、そうなんだ」
 いくつなのだかは知らないが、アイドルなんてものは、未成年だとしても夜遊びをするのだろう。彼が未成年だとしても、俺は補導の教師ではないのだから、お節介を焼く必要はない。
「ねえねぇ、あの女、あんたのこれ?」
 立てた小指を叩き落した。
「いてぇな、なにすんだよ」
「下品な仕草はアイドルにふさわしくないぞ」
「俺はアイドルなんかやってたくねえんだよ。俺は歌で勝負したいのに」
 歌で勝負? 笑止千万。とはいうものの、この程度でアーティストでございます、なんて顔をしてる輩は掃いて捨てるほどいるのである。
「アイドルだからってあれもやるな、これもやるな。女ともこっそり会わなくちゃいけねえし、俺、爆弾宣言してやろうかと思ってんの」
「いきなり結婚するとかか」
「それもいいかな。脱アイドルってのやって、そこから先がどうなるか、だろ」
「多少はものを考えてるんだな」
「馬鹿にすんな」
「うん、ごめんな。たかがアイドルだと軽視してた部分はあるよ。おまえたちの歌は小学校の学芸会以下だ、なんて言ったら怒るよな」
「頭来るなぁ。ちっと歌がうまいからってよ、余裕の発言じゃん。よぉ、乾さん、あの女、ほっとくの?」
「ほっときたいんだけどな」
 先ほどと同じ姿勢で、菜月は煙草をふかし、フロアを爪先で蹴っていた。
「それはそうと、おまえはなぜここにいる?」
「つけてきたの。あんたがあの女とタクシーに乗るのが見えたから、あとから来たタクシーに乗って、尾行しろって言ったんだ。刑事さんですか、なーんて運転手が言うから、いや、私立探偵なんだ、なんて言ってさ、スリルがあって面白かったよ」
「すると……」
 あるいは菜月も、俺を尾行していたのかもしれない。偶然ではなく必然のほうが、この世にははるかに多いのだから。
「もてる男はつらいね、ってか」
「あんた、もてるの?」
「もてそうにないか」
「もてるんじゃないの。わりかしかっこいいもん」
「わりかしだよな」
 モトカノと少年アイドルにもてても、なんにもならないではないか。
「あんたらって同じ大学の先輩後輩なんだってね。マネージャーが言ってたよ。俺らはアイドル養成学校みたいのに入った仲間で、事務所が選んでくっつけたんだ。ヨシとはまあまあ仲いいけど、あとは十五と十六だろ。つきあってらんねえの」
「おまえはいくつだ?」
「十九」
 三十代になった男から見れば、十五も十九も大差なく思えるが、この年頃の三つ四つの年齢差は大きい。ヨシだのかっちゃんだのというラヴラヴボーイズのメンバーたちは、各々の区別がつきづらい。まだしも燦劇の奴らのほうがましだなんて、ボンたちよりもひどい、と思える若い奴らが、今後はうじゃうじゃ出てくるのだろうか。
「かっちゃんたちは小学生のときからアイドルになるってやってる奴らだから、世間知らずもいいとこだよ」
 きみらもだろ、とは言わずにおいた。ひるがえって考えてみれば、サラリーマン経験もなく歌ひとすじで生きてきた俺たちも、世間知らずの部類に入るはずだ。
「乾さん、女、立ったよ」
「ひとの連れを女、女と呼ぶな」
「あんた、うっせえね。女性かよ」
「逃げるわけにもいかないしな」
「困った女……女性? 俺がつきあってやろうか。美人じゃん」
「おまえの手には負えないよ」
 こいつが据え膳食う気になったらなんとする。それこそスキャンダルになったらなんとする。乾隆也、一生の不覚じゃないか。俺はポンに尋ねた。
「きみの本名は?」
「麻田洋介。麻は麻雀の麻で、麻雀のポン」
「複雑なネーミングだな」
「ガキのころからのニックネームだよ。ヨシやかっちゃんは名前のもじり。ちなみに、ヨシは錦織義信、かっちゃんは勝俣和己。あいつら、名前が硬いんだ」
「そうだな」
 そのとき、ポンの携帯電話が着メロを響かせた。なんと、フォレストシンガーズの歌だった。俺が作詞して、本橋が作曲したラヴソング「伸ばしたこの手に」だ。
「メールだ。ヨシかな」
「クミたんじゃないのか」
 綺麗に整えたポンの眉が上がった。
「……なんで知ってんだよ、俺の彼女」
「対談のあとで言ってたじゃないか、クミたんが待ってるしって」
「そうだっけ。覚えてねえよ。記憶力いいんだな」
 ポケットを探っているポン、改め洋介に手を上げて、俺は菜月に近寄っていった。飽き飽きして帰ってくれたらよかったのだが、そうは行かなかった。なんぼなんでもこんな時間に女性をひとりで帰らせられない。俺はお人よしなのだろうか。
「送っていくよ。帰るよな」
「つまんなーい。今のひと、誰?」
 彼がアイドルだとは気づいていない。それだけはよかった。
「仕事の関係者」
「子どもっぽかったね。あたしはまた、隆也の恋人かと思った」
「男だぞ」
「そういう趣味に変わったのかなって。だってさっ……」
「そういう趣味には変わってない。きみは人妻なんでしょ。だからだよ。わかるよね」
「離婚したら抱いてくれる?」
 返事をせずに背を向けた。結婚していてもこれで……ダンナって誰だか知らないけど、苦労してるんだろうな。あのころの俺と同様に、こんな菜月が可愛くてたまらないのだろうか。
「……帰ろう」
「ふーんだ」
 ようやく諦めてくれたようで、俺は安堵の吐息をついた。だが……ほんのちょっぴり惜しかったかな、ほんのちょっぴりそう考えかけて、安堵の吐息が自己嫌悪の吐息に変わっていった。


2・章
 

 なにがどうなってそこへつながったのかは知らないが、本橋さんが言い出した。
「男はたいていゲームが好きだろ。乾も好きだよな」
「嫌いじゃないけど、近頃はゲームやってる暇なんかないよ」
「昔はやり込んだんだろ。詳しいくせに」
 うん、俺だってゲームは好きだけど、本橋さんはなにを言い出すんだ? 俺が首をひねっていると、本橋さんは幸生にも言った。
「おまえもゲームは好きなんだろ」
「好きですけどね。章も好きだよな。シゲさんは?」
「まあな、暇だったころにはよくやったよ。ゲーセンとかプレステとか。野球とかRPGとか」
「やっぱりそうだよな。それだ、RPGを参考にして、冒険の旅に出る男の歌。男の血が沸き肉体が騒ぐ。秘めた野性が、原初の記憶がよみがえる。人間というものの創世記には、男は狩りに出た。マンモスだのサーベルタイガーだのを狩って、女子供の待つ洞窟に帰り、ひもじい思いをしていた家族に糧を与えて家長としての義務を果たしたんだ」
 なに言ってんだろ、このひとは、と感じていた俺の気分に、他の面々も同感であるらしき表情をしていた。
「RPGとは、そういうのを現代に持ってきたんじゃないのか? 剣と魔法を駆使する冒険談ではあるが、ゲームクリエイターにしたって、原始時代の強い男をイメージしてるんだ」
「……そうかねぇ。ゲーム好きの女性もいくらでもいるぜ」
 気のないそぶりの乾さんが言っても、本橋さんはなおも言った。
「女はこの際どうでもいい。俺は男の話をしてるんだ」
「本橋くん、どうしちゃったの? おまえらしくもなく雄弁だね。まあ、大筋は当たってるのかもしれないけど、なんかのゲームにはまったのか」
「乾、よけいな口出しをするな」
「……はあ、じゃあ、続きをどうぞ」
「続きったってここまでだけど、とにかく、そういった歌を俺は作る。男が男でいられる歌だ」
「現代は男が男ではいられないってのか。俺は男だぞ、っておおっぴらに言うのははばかられる時代だよな。おまえがそうやって張り切る気持ちはわかるけど、女みたいだって言われる俺はなにをすればいいわけ?」
「おまえは今までと同じたぐいの歌を書いてりゃいい」
 なぜだかわからない。今日は先輩たちがわけのわからん言動を取る。乾さんまでが不可解にも、怒り顔になった。
「いきなり俺たちが、おまえの書こうとしているような歌を歌ったりしたら、ファンのみなさまが戸惑うかもしれない、ってわけか? こんなのフォレストシンガーズじゃない、と言われる恐れもあるってか? だから俺は、甘いラヴソングを書いてりゃいい、ってのか?」
「いやなのか」
「いやじゃないけど……人には向き不向きってのがあるんだから、おまえには男の応援歌なんか書けないと言われてるような気がする」
「だから俺が書くんだよ」
 涙の数だけ強くなれる、だとか、勇気と強さが人間の宝だとかいうような歌詞は嫌いだ。本橋さんはそんな歌詞を書くつもりか。あり得なくはない。俺が嫌いだと言うと、章は好き嫌いでしかものを言わない奴だ、となるに決まっているので黙っていると、乾さんが立ち上がった。
「乾さん、そんなに怒らなくても……どこ行くんですか?」
 心配そうに幸生が問いかけ、乾さんは答えた。
「怒ってないよ。シンちゃんじゃあるまいし。ちょっと煙草を買ってくるだけだ。俺は獲物を狩ったりはできない現代の軟弱男だから、金を出してものを買ってくるんだよ」
「……それってシャレ?」
 幸生の問いかけに返事をせず、乾さんはスタジオから出ていった。
 乾さんって怒ると煙草を吸いたくなるのか、と幸生がこそこそ言っている。俺は乾を怒らせるようなことを言ったのか、と本橋さんも言っている。さあねぇ、とシゲさんは首をかしげている。乾さんが外に出た隙に、うまい具合にだったのか、シゲさんも立った隙に、本橋さんが幸生と俺を呼んだ。頭と頭を三つ寄せて、奇妙な密談の形になった。
「これはゲームの一種だ。喧嘩ではない」
「乾さんとリーダーの?」
「そうだ、幸生。俺はシゲを連れ出すから、章とおまえとで乾を怒らせろ。あいつが本気を出さないことには、あいつに勝ち目はない。おまえたちもそう思うだろ」
「章と俺に対して怒らせたら、俺たちに勝ち目はないでしょうに」
「おまえと章とにじゃない、俺にだ。俺に対して乾を怒らせるんだ。幸生は口から出まかせが得意なんだから、そのくらいできるだろ」
「乾さんが本橋さんに対して怒る……? 章、なんかあるか」
「んんと……みさ……」
 おそらくは幸生も気がついてただろう。本橋さんとシゲさんは気づいていない可能性が高いが、俺もおぼろげには知っている。以前にレコーディングスタジオに撮影にきていたカメラマンの田所氏の助手、柏原美里さんに、乾さんは惹かれていたはずだ。
 もはや撮影の仕事は終わり、田所さんとも美里さんとも会わなくなったので、自然消滅した恋心だったのか。乾さんはなんにも言わないが、美里さんがらみだったら、乾さんは怒るのではなかろうか。
 しかし、美里さんをどうする? 細かい部分は思いつかないのだし、本橋さんはなにひとつ知らないのかもしれないので、口にしてはならないのだった。
「みさ? 章、なんだって? おまえの作戦を言ってみろよ」
 幸生に訊かれて、俺はいやいや、とごまかした。本橋さんは言った。
「章は知らないかもしれない。幸生も覚えてないかもしれないけど、乾と俺とは何度か殴り合い寸前まではいってるんだ。しかし、いつでも邪魔が入る。邪魔の最たるものはシゲだ。あいつは見ようによっちゃ強面の男に見えるってのに、なんだってああ争いごとが嫌いなんだろうな」
「性格でしょ。俺も争いごとなんか嫌いですよ。章もだよな」
「俺、喧嘩は弱いもん」
 悔しくなくもないが、認めざるを得まい。幸生がうんうんと俺にうなずきかけてから言った。
「リーダーも章も聴けなかったときかな。すこし前に乾さんとラジオで、こんな話をしたんですよ」
 再現によるとこうだ。乾さんと幸生がふたりでラジオ番組に出演した際の話題だったらしい。幸生が口火を切った。
「喧嘩を売られたら、僕はまず口で撃退しようとする。乾さんもそうでしょ?」
「まあ、そうですね」
「章もそうだろうな。本橋さんがどうするかは想像できるんだけど、シゲさんだったらどうすると思います?」
「因縁でもつけられたとしたら……シゲは怒ってむしろ黙るんじゃないですかね」
 さもありなん、と俺も思う。
「本橋くんがどうするかは、きみの想像では?」
「決まってるじゃないですか」
 あの声が出せないのは承知の上で、幸生は本橋さんのもの真似をこころみた。
「てめえこの野郎、上等じゃねえか、表へ出ろ」
「その声は少年時代の彼かな。口調は似てますよ」
「そりゃあね、毎日いやってほど聴いてるんですもん」
「本橋くんの名誉のためにつけ加えておきますと、彼はそう無闇に喧嘩は買いません。正義感にかられたときぐらいですね」
「正義感に、ってんだったら乾さんもかなぁ」
「さあ、どうだろ」
 ストレートに暴力で喧嘩をした経験といえば、幸生と俺にならばなくもないのだが、俺は先輩たちに殴りかかったりしたことはない。先輩たちに怒りを覚えた記憶はいくつもあるものの、殴りかかったことはない。たとえ先輩ではなくても、本橋さんやシゲさんと喧嘩をしても勝てるわけがないと、はなっから諦めているせいだろうか。
 章は知らない、幸生は覚えていない、と本橋さんが言ったのは、章は寝てばかりいるからだ、という意味を含ませていたのだろうか。俺が寝ている間の他の四人の行動は、むろん俺には知る由もないのだから。幸生にしたって先輩たちに暴力で立ち向かうタイプではないし、シゲさんは非暴力主義者だから、暴力沙汰は本橋さんと乾さん、または幸生と俺にしかあり得ないはずだ。
「けど、口では決着がつかなかったらどうするかな。章はどうにかして逃げる算段をするでしょ? 乾さんはきっと、開き直って喧嘩を買う」
「相手がでかい男だったりしたら僕は負けますよ」
「負けてもいいつもりで買うでしょ? 我が矜持を守るために」
「どうでしょうね。で、きみは?」
「僕はそうなってもとことん口で勝負」
「口では決着つかないんだよ?」
「それでも言葉で勝負します」
「そうですか、健闘をお祈りします」
 と、乾さんは言ってましたよ、と幸生はしめくくった。
「正義と矜持のためにだったら、乾さんも喧嘩するだろうと思うんだよな」
「すると、リーダーが非正義的発言をする、もしくは行動をする。幸生、それってどんなだ?」
「わかんねえよ。本橋さん、無茶言わないで下さい」
「無茶かぁ、おまえにも無理かぁ」
 すっかり本橋さんに乗せられて三人で悩んでいると、乾さんが戻ってきた。本橋さんの頭の中で、なにがどう動いているのか俺には理解しがたい。そもそも今日は発端から、本橋さんの言動は理解しがたいのだった。
「俺も外へ出て頭を冷やしてくるよ」
 シゲさんはまだ戻ってこないので、本橋さんもそう言って外に出た。幸生と俺に目配せしていったのは、なんとかしておけ、であったようだが、なにをどうすりゃいいんだろう
「章は男の応援歌を歌うのに賛成か?」
 くわえ煙草の乾さんが言った。
「別にいやじゃないけどね」
「俺も反対ではないんだよ。しかしなぁ、どうもその、男だ男だって言われると反発したくなるんだ。本橋とシゲは根本的に男っぽいタイプだけど、幸生も章も俺の同類だろ。男らしくはないよな」
 ない、だろう。
「おまえたちは変なところは男らしいけど……」
「変なところってどんなところが?」
 訊き返そうとしたら、幸生が口をはさんだ。
「女が好きってところじゃないの? 若い子から熟女まで、俺は女のひとは大好きです。それを変なところと言われるのなら、否定はしませんよ。あああ、けど、章も俺も変なとこばっか男らしいのか。傷つくなぁ」
「俺はおまえほど女好きじゃねえよ」
「そお? ってか、乾さんと章は放っておいても女が寄ってくるんだもんね。うらやましい限りですよ。俺はそうはいかないから、若いころにはせっせとナンパに精出したの。悪い?」
「俺は乾さんほどもてない」
「俺は章ほどもてない」
 ふたりとも謙遜しちゃってぇ、と幸生はいやらしく笑った。
「章は惚れっぽいだろ? ちがうって言っても無駄だよ。今まで何度恋をした? そいでことごとくふられたんだよな。章や俺に較べたら、乾さんはそれほど女好きでもないのかもしれない。俺は乾さんの恋愛話ってあんまり知らないけど、ちらちらと垣間見えるところによると、むこうから惚れられて引きずられたり、情にほだされたり……でしょ」
「またまた脱線してるな」
「はぐらかそうったってそうは行きませんよ、乾さん。考えてみればね、シゲさんは恋愛には健全なんだよ。あとの四人は不健全で、だからこそ独身、ってな結論かな」
「独身男は不健全なのか」
 めったに吸わないというくせに、今日の乾さんはチェーンスモーキングをやっている。吸殻を空き缶に放り込んで、新しい煙草に火をつけて言った。
「その結論はおかしいぞ、幸生」
「独身男がすべて不健全ってわけでもないでしょうね。もてないからとか、女が怖いから……ってのも不健全の一種かも。章なんかはけっこう女が怖いだろ?」
「怖くねえよ」
「そっかー。女は怖いよ。ねぇ、乾さん?」
「怖い女もいるよ」
 どんどんどんどん果てしなく脱線していっている。これでは本橋さんの頼みを聞き入れるどころではない。
「俺にも一本」
 煙草に手を伸ばした幸生も、ふたりして煙を吐き出した。
「俺も」
「ありゃあ? 章まで? 遠い昔に禁煙したんだろ。悪い癖が復活するぞ」
「おまえに言われたくないんだよ」
 おまえに言われたくない、か。この台詞はなんべん口にしただろう。幸生といい俺といい、自分を棚に上げての台詞は絶え間ないのである。
「おまえもこないだ、もてたじゃないか」
 言ってみたら、幸生は返事をせず、乾さんが言った。
「もてるなんてのは……嬉しくないと言ったら語弊があるのかね。好きになれない女性にもてても無意味だろ」
 ごほん、と咳が聞こえてそちらを見ると、シゲさんがいた。
「贅沢な台詞だな。俺なんかには頭に来る」
 たなびいている三人分の煙を手で払いのけて、シゲさんは言った。
「俺なんかなぁ、自慢じゃないけどもてたことなんか一度もないぞ。なんなんだよ、三人して煙草なんか吸って。シンガーたる者、喉は生命線なんですよ。煙草なんかで荒らしてどうするんですか。乾さん、何本目ですか。章も、なんでおまえまで吸ってるんだ」
 あれ? シゲさんが怒ってる。幸生がへらへら笑って言った。
「シゲさんもどう? シゲさんはもてなくてもいいじゃん。八つ当たりなんてシゲさんらしくないなぁ」
「うるさいんだよ、おまえは」
「前にリーダーに言われたよ、俺。あれからも煙草は時々吸ってるけど、このガキ声は煙草ごときじゃ大人の声にはならないの。いっそうちのテナー三人、煙草で声をしゃがれさせましょうか。FSのコーラスの雰囲気がころっと変わっていいかも?」
「よくない」
「こんな声が出るようになったら……って、出ないけど」
 どんな声を出そうとしたのか知らないが、幸生の話し声はいつものごとくガキだった。
「三人のハスキーヴォイス、なんてことになったら、ファンのみなさまに心配かけちゃうね。乾さんも章ちゃんもユキちゃんも風邪? ってさ。だけどシゲさん、たまに吸う煙草なんかでハスキーヴォイスにはならないよ。乾さんと俺とで立証ずみでしょ。なに怒ってんの、シゲさん? リーダーになにか言われた?」
「リーダーとは会ってない。俺は怒ってない」
 すると、本橋さんはどこに消えたんだろう? シゲさんとは行き違いになったようなのに、戻ってこないのはなぜだ?
「探してくるよ」
 怒らせるのはやはり無理だったのだが、乾さんは不安に駆られたらしい。煙草を消して立ち上がり、控え室から出ていった。
「俺も見てくる」
 続いてシゲさんも出ていき、幸生と俺もあとを追った。四人で探し回ったのだが、本橋さんはどこにもいない。歌を歌わずに脱線している間に夜が暮れてきていて、スタジオのスタッフも数人しか残っていなかったのだが、尋ねてみても誰も知らない。ケータイに電話をしても出ない。家の電話も留守電だった。
「スタジオの中にはいないな。外か」
 表情が険しくなった乾さんが言い、四人で外に出た。外には夜の帳が下りていた。
「誰にもなにも言わずにどこへ消えたんだ。無責任なリーダーだな」
 こうやって乾さんを怒らせる予定ではなかったのだが、乾さんはだいぶ怒っていた。
「しかし、ってことはなにかあったんだ。でないと本橋が消えてしまうわけがない。社長に訊いてみようか。なにか突発事故でも……」
 突発事故? シゲさんと幸生と俺が顔を見合わせていると、乾さんは携帯電話を取り出した。
「社長も出ないぞ。そしたらミエちゃんだな」
 仕事ではないので、マネージャーは本日は別行動だ。乾さんは今度は美江子さんに電話をかけた。
「もしもし、ミエちゃん? えーっ?!  なんだってぇっ?!」
 普通に話していれば、乾さんの声は幸生や俺とはちがって大人の男だ。シゲさんや本橋さんほど低くはないが、甲高いというのでもない。が、今の声は裏返って甲高かった。
「わかった、行く。ミエちゃんは来なくていいよ。こっちには男が四人いるんだ。きみは来なくていい! 警察もあとにしてくれ。俺たちが見極めてくるから。あとで電話するよ。ミエちゃんは待機してて」
 きっぱりと美江子さんに言っておいて、乾さんは電話を切り、後輩たちを眺め回した。
「そこの公園だ。社長の危機だよ」
 なにがなにやらよくわからないのだが、駆け出した乾さんのあとを、三人で追っかけた。足の速いシゲさんは乾さんを追い抜かし、シゲさんにしては高い声で叫んだ。
「あそこだーっ! 社長、しっかりして下さいっ!」
「わっ、社長が倒れてるよっ!」
 幸生も叫び、乾さんも叫んだ。
「章、社長を介抱しろ。シゲ、あっちだ。幸生もついてこい!」
 あっちとはどこだろう? 俺も乾さんの指の方向を見たら、本橋さんと、四人の少年であるらしき男たちの姿があった。デジャヴュってこれか? 遠い遠い昔、俺たちがデビューする前の光景がよみがえってきた。他の三人は本橋さん目がけて走り寄り、俺は乾さんの指示に従って社長に走り寄った。太目の社長は重いのだが、なんとか抱き起こしたら、社長はうっすら目を開けた。
「ああ、木村か。すまんな」
「どうしたんですか。なにがあったんですか」
「きみらにさしいれをな、持ってきたんだよ。その前にここで一服してたら、あいつらが因縁つけてきやがって……」
 いわゆるオヤジ狩りってやつか。
「私もこれで昔は、喧嘩ぐらいはしょっちゅうやって強かったんだがな」
「昔の話はいいです。それでどうしたんですか」
「私も若くはないし、奴らは四人もいるし、呼びたくはなかったんだが、本橋にすがるしか考えられなくなって、電話したんだよ。ちょうどいい具合に本橋は外にいたらしくて、駆けつけてきてくれた。しかし、本橋がやってきたときには私はこのていたらくで……本橋は大丈夫か」
 すかし見てみたら、乾さんが本橋さんの前に立ちふさがって、少年たちになにか言っていた。シゲさんが本橋さんの腕を押さえていて、幸生が俺を見ていた。
「今のところは乱闘はしてないみたいですよ。どのくらい前の話なんですか」
「時間の経過はよくわからないよ。本橋より警察を呼ぶべきかとも思ったんだが、またしてもスキャンダルになるのは避けたくて……悪かった」
「俺はなんにもしてませんけど、じゃあ、美江子さんが知ってたのは、本橋さんが電話したのかな」
「そうかもしれないな。木村、私はちょっと殴られたり蹴られたりしただけだ。あっちの加勢に……いや、きみはここにいたほうがいいか」
「どういう意味ですか?」
「どういう意味でもないよ」
 訊かなくてもわかってる。どうせおまえは足手まといになるだけだ、と社長は言いたいのだろう。あっちは四対四のタイだし、本橋さんとシゲさんがいるんだから、相手が刃物でも持っていない限りは……って、持ってないのか? 社長に尋ねてみたら、私には刃物は向けなかったが……と言葉を濁した。
「オヤジ狩りなんでしょう。警察に電話したほうがいいじゃありませんか」
「オヤジかぁ。私も若者に狩られるオヤジになったのか。なあ、木村、きみらにはわからないだろうけど、哀しいもんだよ」
「そういうことを言ってる場合ですか。警察呼びますよ」
 社長は重傷ではないらしく、とりあえずは一安心したのだが、警察はあとにしよう、とこのオヤジは言い張った。
「なるだけスキャンダルは避けたい。乾がなんとかこの場をおさめてくれないものかな」
「ひどくなりそうだったら警察に電話しますよ。そのためには俺はこっちにいたほうがいいのか。社長、救急車は呼ばなくていいですか」
「私のために? なんのこれしき」
 強がりでもなさそうだ。スキャンダルにはしたくない、というのは社長の立場としては当然だろう。あっちに参加しないなんて、俺は卑怯者になり果てていないか? と自問し、こういう役割も必要じゃないか、と自答し、俺は社長とふたりであちらを観察していることにした。
 

3・幸生

 パソコンの画面を見つめて、俺は言葉をなくした。あろうことか言語中枢が空っぽ、真っ白になってしまった。ひとりの部屋でも常々ひとりで喋っている俺なのに、これは……絶句とはまさにこれ。なんにも言えなくなって無言でただ画面を見つめていると、ドアチャイムが鳴った。インターフォンから本橋さんの声が聞こえてきて、ようやく喋れるようになった。
「リーダー? なにかあったんですか」
「なにかあったと言えばあったし、なにもないと言えばなにもない」
「なにもないのにうちに来たんですか? そんなことはないでしょう」
「いいから開けろ。開けられないのか」
「開けられますけどね」
 焦る必要もないのだが、焦ってパソコンをオフにしてから、俺はドアを開けた。本橋さんのうしろに隠れるようにして立っている人物を見て、俺はまたしても絶句した。
「……なんで? なんで瑠璃ちゃんが?」
 今度の絶句はつかの間だったのだが、この事態をなんと考えればいいのだろう。本橋さんは弱り切った表情をしていて、瑠璃ちゃんは泣いている。俺は本橋さんにこそっと尋ねた。
「なにしたんですかー、リーダー? 女の子を泣かすなんて最低」
「俺が泣かしたんじゃない」
「だって、現に泣いてるじゃん。なにか悪いことしたの? 俺はリーダー見損なってた。恋人のいる身でありながら、女の子を泣かせるなんてぇ……本橋真次郎はそんな男だったのか」
 どさくさまぎれに恋人を持ち出して反応を窺ってみたのだが、本橋さんはその単語には言及せず、ただ、かぶりを振った。
「ちがう」
「悪いことしたんじゃなかったら、怒鳴ったとか? 瑠璃ちゃんは気弱なほうじゃないと思うけど、それでも女の子なんだもん。リーダーに頭ごなしにがんがん怒鳴られたら泣きますよ。瑠璃ちゃんがなにしたんだか知らないけど、穏便に話すってことができないんですか」
「おまえは次から次へと……ちがうと言ってるだろ。瑠璃ちゃん、入って」
「そうだったね。とにかく入れば、瑠璃ちゃん?」
 鼻をすすり上げてこっくりして、瑠璃ちゃんは俺の住まいに足を踏み入れた。彼女をソファにすわらせて、俺は本橋さんを寝室に引っ張り込んだ。
「リーダー、なにをしたんですか」
「なんにもしてない」
「なんにもしてないのに、どうして瑠璃ちゃんが泣くんですか。正直に白状したほうが身のためですよ」
「彼女がどうして泣いてるのかわからないから困ってるんだ。聞け」
「聞きましょう」
 ラジオ局で瑠璃ちゃんといっしょになり、帰りぎわに彼女に声をかけられたのだと、本橋さんは言った。
「本橋さん、送っていってもらえませんか」
「ああ、いいよ」
 本橋さんには単独仕事もよくあり、今夜もその一環でラジオに出演していたのだが、瑠璃ちゃんがひとりきりとは珍しい。時間も遅いので、ひとりで帰るのは心細いんだろうと本橋さんは考え、軽い気持ちで、いいよ、と応じたらしい。
 数年前に、大ベテランのおじさんスタジオミュージシャンたちが、かねてからの念願だったロックバンドを結成した。その名は「defective boys」、不良少年たち、だ。おじさん不良少年たちは、若くて可愛い女の子のヴォーカリストを探し、ロックシンガーの瑠璃ちゃんに白羽の矢を立てた。瑠璃&不良少年ズは一躍人気が出て、無名だった瑠璃ちゃんも有名になりつつある。
 defective boysにはFSとも旧知の仲のミュージャンが何人かいて、俺たちも瑠璃ちゃんとは顔見知りになった。小柄だがパワフルな歌声を持つ瑠璃ちゃんは、春日弥生さんをぐぐっと若くしたような女の子で、下手をすると弥生さんの孫といっても……などと言ったら弥生さんに怒られるだろうけど、弥生さんには内緒でいえば、そんな年頃なのである。芳紀十八歳なのだから。
「でな、タクシーに乗って……音楽の話をしてたんだよ。そしたらいきなり……瑠璃ちゃんが……」
「ほらね、なにか話してて、無意識でリーダーがなにか言ったんですよ。瑠璃ちゃんみたいな若い女の子には慣れてないんだから、美江子さんだったら言われてもなんとも思わないってか、逆にリーダーが言い負かされてしまいそうなこととか」
「俺はなんにも言ってない」
「だったら、章や俺に言うようなこと。おまえは阿呆かぁ、とかさ、この馬鹿野郎とかさ」
「言ってない」
 この馬鹿野郎と言われたくらいで泣く瑠璃ちゃんだとも思えないが、俺は言った。
「きみは歌が下手だとか?」
「言ってないったら言ってない」
「もっと勉強しろとか、苦労しろとか?」
「言ってないって言ってんだろ。横槍ばかり入れずに俺の話を聞け」
「聞いてますよ」
「聞いてないだろうが」
 続きがあるようで、本橋さんは再び話しはじめた。
「瑠璃ちゃんが言い出したんだよ。帰りたくないなぁ、ってさ」
「わっ、大変」
「大変なのか? どういう意味だかわからなくて、こんな時間なんだから帰らなくちゃ、明日も仕事だろ……ってな、俺はそう言うしかなくて……」
「そしたら瑠璃ちゃんは?」
「本橋さんに話を聞いてもらいたかったのに、って泣き出した」
「ふむむ、瑠璃ちゃんはもしかして……本橋さん、私はあなたをお慕いしています、って言いたかったとか? お慕いじゃなくて、押し倒したい……いてててぇ。俺に八つ当たりしないで下さいよ」
 この馬鹿野郎、とは瑠璃ちゃんには言えなかったのであろう。その分を俺に言って、本橋さんは俺の足を踏んづけた。
「ラジオじゃないんだからね、リーダー。ラジオで喋ってるときだったら、そうやって俺の足を蹴ったり踏んだりするけど、今はそういうのはなし」
「こっちがいいのか」
「それもなし」
 げんこつが目の前に迫ってくるのから身を遠ざけて、俺は言った。
「まさかいつもの癖で、そうやって瑠璃ちゃんをぼかっとか?」
「やるわけねえだろ」
「でしょうね。なんぼなんでもね。そんならなぜ?」
「知らないよ。泣かれて困り果てて、ここはおまえのマンションの近くだと思い出したから、こっちへ回ってもらったんだ。運転手は妙な目で見てるし、瑠璃ちゃんは泣くし、幸生んちに行こうって言ったら、瑠璃ちゃんもそうしてほしいと言うし……瑠璃ちゃんがお慕い申し上げてるのはおまえじゃないのか」
「ええ? 俺?」
「おまえだろ、瑠璃ちゃんといちばん親しくしてるのは」
 横須賀出身、同郷だとは聞いている。ともに仕事もしたのだが、親しいというほどでもない。本橋さんは俺の顔をしげしげと見て言った。
「おまえって奴は誰とでも、たとえ初対面であろうとも、十年来の知己ででもあるみたいに親しげに喋りまくるんだからな。前に瑠璃ちゃんたちと仕事でいっしょになったときにも、おまえがいちばん喋りまくってただろ。親しいからってわけでもないのか」
「そんなでもありませんよ。故郷の話に花が咲いてただけです。でも、あんときに惚れられたってのは考えられなくもない。恋されたんだったら嬉しいけどなぁ……十八ってのはねぇ……さすがにね」
「おまえには彼女がいるんだろ」
「いますけどね」
 ほったらかしにしてあった瑠璃ちゃんを見てみると、ソファにもたれてぼんやりしていた。涙は止まっているようだが、どうしたらいいんだろう。
「瑠璃ちゃんはリーダーに、なにか話したかったんでしょ? 聞いてあげるしかないんじゃないのかな」
「そうだよな」
「本橋さん、お慕い申し上げてます、だったらどうします? もうっ、やっぱり殴る」
「馬鹿か、おまえは」
 とうとうげんこつが飛んできた。
「おまえは隙だらけだからだよ。油断するな。それにだな、なんだっておまえはそう次々によけいなことばかり言うんだ。真面目に考えられないのか」
「考えてますよ。そりゃあね、最近のリーダーには浮いた話はないでしょうね。彼女が怖いから、そういうことが起きそうになったら敵前逃亡するでしょ? だけど、昔はあったんでしょうが。女の子に告白されたことだってあるでしょ? ないとは言わせませんからね。乾さんや章ほどじゃないにしても、俺ほどでもないにしても、リーダーだってそこそこもてたんでしょ? シゲさんは一度ももてたことないって言ってたけど、リーダーはそこまでじゃないでしょ? どうなんですか」
 再び彼女が、と言ってみたのだが、肯定も否定もしない。これはいるんだな、と俺はあたりをつけたのだが、その話をしている場合でもないのだった。
「今はそんな話はしてない」
「あとでだったらしてくれる?」
「瑠璃ちゃんと話してくるか。おまえもつきあえ」
 こう見えてけっこう、本橋さんは話しをそらすのがうまい。あまり追求するとまたもや殴られそうなので俺も諦めて、ふたりで瑠璃ちゃんのそばに行った。
「ごめんね、ほったらかして。どうしたの、瑠璃ちゃん? なにか悲しいことがあった? 本橋さんが苛めた? リーダー、コーヒーでもいれてあげて下さいよ」
「わかった」
 先輩を使うな、とは言わずにキッチンに引っ込んだのは、万が一を慮ったのだろうか。逃げ出したのに相違ない。俺は瑠璃ちゃんからなるべく離れてすわり、尋ねた。
「本橋さんは男が相手だと荒っぽいけど、瑠璃ちゃんがなに言ってもそんなに怒ったりはしないよ。怖がらなくていいから、なんでも言っていいんだよ。本橋さんとふたりきりになりたい?」
「別に」
「本橋さんに送って、って頼んだんじゃないの?」
「局で会ったから」
「ひとりで帰るのは心細かっただけ? お父さんがわりのおじさんたちはついてきてくれなかったの?」
「今夜はみんな、別の仕事があったの。瑠璃が代表してラジオに出たの」
 先日は俺のお喋りにしっかり反応してくれて、よく笑いよく喋りだったのに、今夜の瑠璃ちゃんは寂しげだ。本橋さんを好きになったの? とずばりと切り込んだら……やめておいたほうがいいかなぁ。どうもそういう感じではなさそうにも見える。すると俺か? 俺んちに来たかった? 
 たまたま出会った本橋さんに送ってもらって、三沢さんちに連れてって、とも言えず、本橋さんが好都合にも幸生んちに行こう、と言ったから喜んでついてきた。そんならなんだ、帰りたくない、は? 泣いてたのはなぜ? やっぱり本橋さんか。俺があれこれ悩んでいると、本橋さんがコーヒーを運んできた。
「ありがと」
 礼は言ったものの、コーヒーには手をつけず、瑠璃ちゃんはうつむいている。
 なんて夜なんだろう。俺の口が常のように動かない。本橋さんとだったらいつもの俺の調子だったけど、こんな雰囲気の女の子を目の前にしていると、ユキちゃんの本領が発揮できないではないか。
「瑠璃ちゃーん、なんで泣いたの? 本橋さんのせい?」
「そう」
「やっぱそうなんだー。リーダーが苛めたんだぁ」
「俺はなにも言ってないし、なにもしてないだろ。なにがきみの気に障ったんだよ。言ってくれないとわからない」
「そうだよ、瑠璃ちゃん。うちのリーダーは鈍感で有名なんだからね。誰が見てもわかる、誰かが誰かに恋してるってのも察しないひとなんだよ。リーダーの鈍感さは人知を超えてるんだ」
「じんちってなに?」
「人間の知恵」
 殴られる前に身をかわした俺をじろっと睨んで、本橋さんが言った。
「俺はそこまで鈍感じゃない、人知を超えるほどじゃない、と言いたいところだけど、そう言うと幸生がまたまた脱線しまくるからやめておくよ」
「言ってんじゃん」
「おまえはうるさいんだ」
「あっそ、だったら俺は黙ってますから、リーダー、あとはよろしく」
 俺が黙ってていいの? ひとりで解決できるの? そんな気分を込めて見つめると、本橋さんは剣呑なガンを飛ばした。その目に負けて俺は言った。
「言ってよ、瑠璃ちゃん。はっきり言って。あんまりこのひとを苛立たせると、とばっちりはみーんな俺んところに来るんだよ。俺がリーダーと出会ってから十年以上になるんだけど、その間になんべん言われたか、幸生、おまえはうるさい、黙れ、ってさ。黙ったら困るくせに。乾さんもいないんだから、本橋さんの喋りだけじゃ瑠璃ちゃんとの応対はできないくせに。言葉が尽きると殴るしね。ひどいでしょ。瑠璃ちゃん、こんな男に恋しないほうがいいよ」
 こら、おい、幸生、と本橋さんが慌てているのは知っていたが、俺は無視して言った。
「まあ、女の子には乱暴な真似はしないひとだけど、それにしたって彼には恋人がいるんだよ。彼女のいる男に恋するのも不倫の一種じゃん」
「瑠璃が本橋さんに恋?」
「ちがうの?」
 ちがうよっ、と瑠璃ちゃんはきっぱり否定し、本橋さんは安堵の吐息をついた。
「そんならまさか俺……?」
「三沢さん? あり得ない」
 ちょっと残念だけど、俺も安堵した。
「そんならなに? 恋は関係ないの? それとも、別のひと?」
「うん」
 恋愛相談じゃない、と言ってくれないかと期待したのだが、もろくも裏切られた。
「誰? 章?」
「ちがうよ」
「よそのひと? 俺たちとは関係ないひと?」
「んんとね……」
 関係ないひとだったらよかったのに、その期待も裏切られたようだ。
「シゲさん?」
「ちがう」
 すると残るは……
「もうひとりいる、うちの……?」
「……」
 うわー、どうしましょ? と本橋さんに目ですがると、本橋さんは目をそらした。
「そのひとでもないよね。ちがうよね? ちがうって言って」
「どうして? この間、瑠璃、訊いたよ。彼女はいないって言ってたよ。あれは嘘?」
「……本橋さーん、タッチタッチ」
「俺の頭と言葉数では、瑠璃ちゃんに対応はできないんだろ。おまえにまかせる」
「リーダー、意地悪言わないで」
「意地悪じゃないだろ。そうすると瑠璃ちゃん、きみが帰りたくないとか言って、泣き出したのは……?」
 可憐な仕草でもじもじして、瑠璃ちゃんは言った。
「本橋さんに相談したかったの。瑠璃の好きなひとのこと、本橋さんはよく知ってるでしょ。なのに本橋さん、駄目って言うから早く帰れって言うから……泣いちゃった。だって、好きなんだもん。前から好きだったけど、話をしたこともなかったから、ただのファンみたいなものだった。だけど、瑠璃もちょっとは売れてきて、ちょっとは近づけるようになって、この間はお話もできた。三沢さんばっか喋ってたけど、乾さんもお話してくれたから……」
 ついにその名が出た。
「お話したらもっともっと好きになったんだもん。駄目なの? 乾さんには彼女がいるの?」
「あいつも喋るって面にかけては、幸生と変わりないんだ。機嫌さえ悪くなかったら、幸生にも負けないほど喋りまくる。シゲや俺には人見知りが多少はあるってのか、いい年してこんな仕事してて、人見知りなんてお笑い沙汰だけど、たしかにそういうところはあるんだよ。章にもちっとはあるな。乾と幸生には人見知りなんてかけらもない」
「だからなに? 誰にでも乾さんはあんなで、瑠璃が相手だから楽しそうに話してたんじゃないって?」
「まあ、そうかな」
「それでも、好きなものは好きなんだもん」
「幸生、おまえもなんとか言え」
 瑠璃ちゃんははっきり言ったけど、本橋さんと俺にははっきり言えない理由がある。瑠璃ちゃんは乾さんの守備範囲ではない。ガキは趣味じゃない、と乾さんは公言しているのだから、十八歳の女の子ではとうてい無理だ。
 趣味ではなくても恋をする場合はあるけれど、瑠璃ちゃんと乾さんはあまりにも似合わない。十八歳と三十一歳だなんて、ほとんどロリコンの世界じゃん、と俺でさえ思う。しかし、そうは言えない。つらい。またまた俺は無口になって、本橋さんも当惑していた。


 ひたむきなまでのまなざしで、瑠璃ちゃんが乾さんを見上げている。わずかに眉間をしかめて、乾さんが瑠璃ちゃんを見返している。俺がスタジオへと伴ってきた瑠璃ちゃんに、他の三人は、俺たちは席をはずそうかと尋ねたのだが、いい、ここにいて、との返答だった。
シゲさんと章は事情を知らない。当人の乾さんも知らない。章は俺に内緒で尋ねたが、無視しておいた。
 それっきり無言が支配していた。瑠璃ちゃんは口を開かず、乾さんを見上げるばかり。乾さんも黙って瑠璃ちゃんを見つめるばかりで、俺が気詰まりになってきた。と、瑠璃ちゃんのアッパーカットが乾さんの顎に決まった。
「うげっ!」
「ぎゃぎゃっ!」
 うげっ、は章で、ぎゃぎゃっ、は俺だった。シゲさんは息を呑み、乾さんは上体をのけぞらせたものの、訝しいとしか言いようのない表情で瑠璃ちゃんを見ていた。
「すっとした」
 殴ったほうの瑠璃ちゃんが息をはずませていたのだが、おのれのちいさなこぶしを見つめて言った。
「乾さん、怒らないの?」
「驚いたよ。なんなの、今のは?」
「ねえねえ、瑠璃ちゃん、訊いていい?」
 口をはさんだのは、当然だが俺である。
「もしかしたら、乾さんに告白したの? んで、拒絶された。冷酷にもそっけなくも断られて腹を立てて、お返しに一発ってわけ? すげえなあ。乾さん、当たり?」
「告白ってなんの? 俺は瑠璃ちゃんとは久し振りに会ったんだぜ」
「ちがうのか。瑠璃ちゃん、そんならなに? この間のはなんだったの?」
 さすがに乾さんは憮然としていたが、告白といわれてその意味を理解したのかもしれない。章もなんとなく察したようで、ぼそぼそと発言した。
「言っていいのかな。つまり、瑠璃ちゃんは乾さんが好き。そういうのって前にもあったから、別に珍しくもないよね」
「そうなんだ」
「瑠璃ちゃん、怒った? 言ったらいけなかったのかな」
「言っちまったあとでなに言ってんだよ。章の馬鹿たれ。つまりそういうことなんだけどさ、だったらなんで瑠璃ちゃんは、好きです、じゃないの? なにゆえに乾さんを殴るの? 自分の胸にお聞きあそばせ、とでも? 乾さん、胸に聞いてみたら思い当たるふしはありますか」
「瑠璃ちゃんはそうは言ってないのに、またおまえが仕切ってんのか……自分の胸?」
 乾さんは自分の胸を見下ろし、瑠璃ちゃんはむっつりと黙り込んでいた。シゲさんは、小声で本橋さんに質問した。
「瑠璃ちゃんが乾さんを、ってのは、本橋さんは知ってたんですか」
「最初に聞いたのは、幸生と俺なんだよ。その話はあとでな」
「はい」
 刻々と重たくなっていく空気を破ったのも俺だった。
「瑠璃ちゃんが乾さんに会わせてって言うから、やっぱ瑠璃ちゃんが告白するしかないんだなって思って、連れてきたんだよ。断れたらそれもしようがないと思ってね。こうなるとは予想もしてなかった。瑠璃ちゃんの行動は意表をつきすぎだよ。俺たちが見てる前で乾さんをぶっ飛ばしたんだから、理由を説明してくれないとおさまりがつかない。瑠璃ちゃん、黙ってないでなんとか言えば」
「俺の胸はなんにも教えてくれないよ。瑠璃ちゃん、話して」
「……瑠璃が乾さんを好きだって言ったのは嘘」
 へ? 嘘? と俺が問い返すと、瑠璃ちゃんはうなずいて言った。
「そう言うしか思いつかなかったの。この間、本橋さんに会ったのは偶然なんだけど、送ってほしいって言ったのは、どうしたら乾さんに仕返しできるのかなって考えてたから。FSのひとたちはいてもいいんだけど、うちのおじさんたちとか、よそのひとだとかはいない場所で、なにかしたかったの。だからね、本橋さんに相談、相談って変かな。本橋さんとふたりで、どうにかする方法を思いつくようにしたかったの。なの本橋さんは帰ろうって言うから、こうなったら泣いてみるしかないかーってさ」
「泣いたのも嘘?」
「うん」
「涙がこぼれてたよ」
「瑠璃は悲しかったことを思い出すと、涙を出せるの」
 けろっと瑠璃ちゃんは答え、俺は本橋さんを見上げた。
「リーダーが先に怒っちゃ駄目ですよ」
「怒ってねえよ。瑠璃ちゃん、続けて」
「泣いてみたら本橋さんは困って、三沢さんちに行こうかって言ったんだよね。三沢さんちで三人だったらなんとかなると思ってついてった。本橋さんと三沢さんはふたりして早合点して、瑠璃ちゃんはFSの誰かが好き? って訊いた。そしたらそういうことにしておこうと思って、目的の乾さんが好きだって言ったの」
「その目的とはなに? 仕返しってなんの?」
 詰問口調になってしまった俺に、瑠璃ちゃんは言った。
「瑠璃がデビューする前だから、二年くらい前だったかな。横須賀のちいさいホールで、FSのライヴがあったでしょ」
 二年前の横須賀でのライヴは覚えているが、話がどうつながるのかはわからなかった。
「FSは人気が出てきてるのに、あんなちっちゃなホールでしかやってくれないから、チケットがすぐに売り切れてしまったんだよ。瑠璃がそのころつきあってた彼、モトカレってやつね。瑠璃もその彼もシンガー志望だったし、彼は乾さんに似た感じの声で、乾さんに憧れてたの。チケットは手に入らなかったけど、ホールまで行ってみようってことにした」
 ホールの外にもファンのひとがいるよ、いつの間にこんなになれたのかな、と章が嬉しそうに言っていたのも思い出した。
「けど、ライヴを聴けないんだからつまんないじゃない。退屈だった。瑠璃は彼とふたりでそのへんをぶらぶらしながら喋ってたの。そうしてるうちにライヴが終わって、熱心なファンの女の子たちが出口のほうへ押しかけたから、瑠璃たちもついてったの。出待ちのファンなんてのもいるんだよね」
 そんなことがあったのも、むろん覚えてはいた。
「そんなに大勢でもなかったけど、狭い出口で押し合いへし合いになっちゃったのね。回りは女の子ばっかりで、瑠璃の彼だけが男の子だった。彼は、乾さんじゃなくてもいい、FSの誰かと話をしたいって言ってたの。それで、女の子たちをかきわけて、瑠璃もほったらかして前へ前へと出ていった。そしたら乾さんが出てきたの」
「ああ、あいつ?」
 ようやく話がつながったのか、乾さんが言った。
「女の子たちを乱暴に押しのけてる少年がいたから、こら、そこの坊や、駄目だろ、って言ったよ、俺は。あれが瑠璃ちゃんのモトカレか」
「そうだよ。覚えててくれてたんだったら彼も喜ぶかもね」
 俺も言った。
「だからってなんで瑠璃ちゃんが乾さんを殴るの?」
「続きがあるの。あのときは若い女の子が十人ほどいたかな。乾さんが代表して出てきたんでしょ? サインしてあげて、こんなところでたむろしてたら怪我をするかもしれないし、すんだら帰りなさいね、なんて言ってたのは瑠璃も見てた。瑠璃は彼に、サインしてもらってきたら? って言ったんだけど、サインなんかほしくない、歌の話が聞きたいんだよ、だとか言ってすねちゃったから、そんなの無理だよぉ、って言って彼を引っ張ってそこから離れた」
 乾さんに怒られてすねてしまった少年と、瑠璃ちゃんは外に出たらしい。少年の名は宏夢、ひろむと読むのだそうで、瑠璃ちゃんはヒロと呼んでいたと言った。
「瑠璃たちみたいなのはただのファンだよ。歌の話なんかしてくれないって」
「えらそうにしやがって」
「えらそうっていうか、ヒロが悪いんじゃん」
「俺は悪くないよ。俺だって熱心なファンなのに、差別だ」
「差別かもしれないけど、ヒロが荒っぽいからよくないの」
「おまえはうるさいんだよっ」
 血の気の多い少年は、瑠璃ちゃんの手をふりほどいて駆け出し、ホールへと戻っていった。瑠璃ちゃんが見ていると、ヒロはホール内でなにをしたのか、ガードマンにつまみ出されて外にほっぽり出された。たむろしていた女の子たちの間に拍手が起き、瑠璃ちゃんも戻ってみたのだが、ヒロは瑠璃ちゃんを睨んだだけで、再び駆け出してどこかへ行ってしまったのだという。
「それからヒロは瑠璃とは口もきいてくれなくなって、どうしようかと思ってる間に瑠璃がデビューして、別れちゃったの。乾さんはなにがあったか知ってるんでしょ」
「彼がなにやら言いながら走り込んできたのは覚えてるよ。わめいてるってのか暴れ出しそうってのか、女の子たちが危険だと思ったから俺がとっつかまえてガードマンに引き渡した。だからほっぽり出されたんだろ。それ、俺のせい?」
「乾さんが彼にも優しくしてあげてくれたら、別れなくてもよかったのに」
「あのね、瑠璃ちゃん、それは逆恨みというんだよ」
「ちがうもん」
 はー、そうだったのかー、と俺は嘆息した。
「瑠璃ちゃんも手の込んだことをたくらむんだね。彼と別れたのは乾さんのせいだと決めて、仕返ししたかったんだ。そこまでやらなくても、ふらっとスタジオに遊びにきて、乾さんにパンチ一発でいいじゃん」
「そんなこと、できるかどうかわからなかったし、瑠璃もガードマンに放り出されるかもしれないとも思ったし、不意打ちのほうがいいかな、って」
「ドラマティックではあったけどね」
 乾さんが笑い出した。
「俺としては、こんなにも幼いお嬢さんに恋をされて困り果てるよりは、そっちのほうがよかったよ。本橋も知ってたんだろ。幸生と本橋が瑠璃ちゃんの打ち明け話を聞いたんだったよな。疑いもしなかったのか。本橋はともかく、幸生まで頭から信じたのか。十八の女の子に恋をされるほど……俺は落ちぶれてないんだよ」
「乾さん、ひどっ」
 ね、瑠璃ちゃん、なんとか言いなよ、と俺は瑠璃ちゃんに話しを振った。
「そうだよね、三沢さん。乾さんったら瑠璃をすっごく馬鹿にしてる」
「そうだよね、瑠璃ちゃん。俺は十八の女の子に恋をされるほどの男じゃないよ、ってへりくだるんだったらいいけど、落ちぶれてないだって。よくもまあ言ってくれるよ」
「まったくな、こいつは昔から、もてる男みたいな台詞ばっかりほざいてやがるんだよ」
 本橋さんも言った。
「瑠璃ちゃんが乾を殴ったのはたしかに逆恨みだけど、今の乾の台詞でおあいこだ。いい、瑠璃ちゃん、俺が許す。もう一発やってもいいよ」
「こっちの顎にやる?」
 パンチを受けたのとは逆の顎をさして乾さんも言い、瑠璃ちゃんはくちびるをとがらせた。
「どうせ瑠璃のげんこつなんて、たいしたことないって言いたいんでしょ。いいもーん。彼の仕返しっていうか、彼と別れてから瑠璃には彼氏ができないから、乾さんのせいだよってのか、そんなつもりで……っていうのかな。ほんとは殴るよりなにか言ってやりたかったんだけど、乾さんって口が達者なんでしょ。瑠璃だったら負けそうだったからこっちにしたの。ぼかーんってやっても勝ててない、本橋さん?」
「どうだったんだろうな」
「もう一発はリーダーがやれば?」
「幸生、やめろ。そっちは俺もお断りだよ」
 横須賀でのライヴでのささやかなる事件の話は、俺は乾さんから聞いていなかった。聞いていたとしても瑠璃ちゃんとは結びつけなかっただろう。章がふっと言った。
「おあいこですか。乾さんったらそのためにね」
「ああ、そのためにね。乾さんったらやーね。なぁ、章?」
「ほんとだよなぁ、幸生」
 本橋さんには理解不能だったようで、シゲさんに尋ねていた。
「わかるか」
「おあいこ? さて?」
 シゲさんと本橋さんは首をひねっているしかないようなので、俺は言った。
「やだやだ、乾さんって嫌い。ほんのちょっとなにかほのめかしたら深読みするし裏読みするし、なんだってこうゆがんでるんでしょうね、乾さんってお方は」
「そうか、おまえは俺が嫌いだったのか」
「嫌いですよ。瑠璃ちゃんも嫌いだよな」
「うーんと……うん、嫌い」
 よしよし、それでいいよ、と俺は言い、本橋さんも言った。
「俺は単純でも鈍感でもいいよ。乾みたいな性格だと生きてて疲れる気がする。深読み、裏読み、どうやったらそんなことができるんだ。幸生、おまえも相当ゆがんでるしな。おまえは疲れないのか、そういう性格で」
「俺は疲れませんよ。そもそも俺のは乾さんの悪影響です。リーダーとシゲさんの影響はあんまり受けなかったのは、生まれついての資質が乾さんのほうに近いからなのかな。リーダーやシゲさんのタイプじゃないからね、俺は。そりゃそうだよね。見たらわかるよね」
「どこをどう見たらわかるのか、俺にはわからないけど、おまえはなぁ、先輩に気を使ってるとか、遠慮してるとか言うのは表面上だけで、言いたいことはしっかり言ってるじゃないか。この間だって瑠璃ちゃんに、そこまで言うか、ってほど言ってたじゃないか。いつでもどこでも、自由気ままに奔放に生きてるのはおまえだけだよ」
「気は使ってますよ。だから俺、背が伸びなかったんだもん」
 章が横合いから言った。
「前は別のなにかのせいで、背が伸びなかったと言ってた気もするけど……」
「おまえのせいもあるんだよ、章」
「俺の背が伸びなかったのは、なにもかもおまえのせいだよ、幸生」
 ほっと息を吐いて、瑠璃ちゃんが言った。
「これですっきりしたし、おあいこなんだからいいんだよね」
 乾さんの顎は赤くはなっているが、所詮小柄な女の子のパンチだし、乾さんの言う通り、恋だのなんだのよりあのほうがよかったのだろう。俺も一安心して言った。
「いいんじゃないのぉ? 乾さん、気持ちよかったんじゃありません?」
「深い意味のない気持ちいいだったら、うん、ま、いい気持ちだったよ」
 情けなそうな表情を作って、天井を仰いでいる乾さんを見ていると、瑠璃ちゃんが本橋さんに連れられて、俺の部屋を尋ねてくる寸前の、パソコンの画面を思い出す。
 フォレストシンガーズファンサイトというものは、コアなファンが制作しているのだろうか。ホームページなんて俺には作れそうにないけれど、さほどのマニアでなくても作れるのだろうか。そんなサイトの中に、乾さんの熱狂的ファンであるらしき、女性であるらしきひとのものがあったのだ。
 だいぶ前に章の顔を死にそうになるほど美化して美しく描いてくれた男性がいたが、サイトの女性の乾隆也像はそれどころではなくて、俺は言葉をなくしたのだった。
 裸の上半身のみの絵の乾隆也の背中に顔を埋めて、陶酔しているかに見えなくもない人物もまた、男だった。あれは章だったのか。はたまた、もしや俺?
 章だったとしても気持ちが悪い。俺だったとしたらさらにさらに気持ちが悪い。芝居だったら大好きだけど、いくら絵でも、あれはないでしょ? ねえ、あなた? 誰なのかも知らない画家さんに話しかけ、やはりあの絵の話はしないほうがいいだろうと、俺は決意した。
 
 
4・繁之

 あの日、おまえはあっちに行ってろ、と本橋さんが幸生に言い、処置なしだね、幸生、警察呼べ、と乾さんが言い、不良少年たちは色めき立ち、とうとう恐れていた事態に突入した。
 恐れてはいたのだが、こうなれば俺も参戦するしかないではないか。幸生はこの場から離れて電話をかけている。警察が到着するまでの時間を持ちこたえるしかない。乾さんの説得にも聞く耳を持たなかった大馬鹿野郎の集団だ。多少怪我をしたって自業自得ってもんだ、とおのれに言い聞かせて、俺も拳と脚を使った。
 喧嘩の経験は俺にはほとんどないけれど、好都合にもむこうは武器は持っていないらしく、素手で闘うのは意外にも爽快でなくもなかった。乾さんと俺は殴られては殴り返し、不良たちのうちのひとりと一対一の対等の勝負をしていたのだが、さすがに本橋さんは強かった。
 横目で見ている余裕はないに等しかったのだが、ちらっちらっとは目に入った。本橋さんのふたりの兄上は空手の達人なのだそうで、にも関わらず本橋さんは空手の薫陶は受けていないらしいのだが、その闘志の鮮やかさといったら、身のこなしの俊敏さと的確さといったら、知らず知らず兄さんたちの教えを身につけているとしか思えなかった。
 やがて電話を切った幸生が、本橋さんにふたりがかりで飛びかかった少年たちのうちのひとりを、うしろから滅茶苦茶に蹴りつけた。幸生の喧嘩の技は破れかぶれにしか見えないが、俺も同様であろう。こういうのは経験がものを言うはずだ。
 そのわりに乾さんの立ち回りは堂に入っている。俺よりは経験豊富なのかもしれない。幸生は攻撃しては身軽に逃げ、あとはリーダーにおまかせっ、という態度だった。章はと見れば、社長とふたりで見物している。章にはあの役目がふさわしいだろう。相当に息が上がってきたあたりで、パトカーのサイレンが聞こえてきた。
「オヤジ狩りだってんだろ。俺たちはいわば正当防衛だ。本橋、この場合は正義の喧嘩だよ」
 警察官たちに取り囲まれ、乾さんは言った。
「我々も同行しないといけないんでしょうね。全員ですか」
「お願いします」
 丁重に警官が言い、章も社長も不良たちもパトカーに乗せられた。事情聴取を受けて開放され、警察署の外に出たら、美江子さんが待っていた。
「話は章くんから聞いたけど、しようがないよねぇ。社長が被害者だったんだもの。私も怒るわけにはいかないな。みんな、怪我してるじゃない。大丈夫なの?」
「俺は怪我はしてませんよ。章もしてない」
 けろりと幸生が言った。
「俺、逃げるのうまいんだな。再認識した。ってか、俺はリーダーのうしろでちょこちょこっとやっただけだけど」
「社長も本橋くんも乾くんも、シゲくんも怪我してるね。病院に行く?」
「いちばんの重傷は社長だよ。あとの三人はごく軽傷。社長、どうしますか」
 乾さんに訊かれた社長は、なんのこれしき、平気だ、と答え、本橋さんが言った。
「スタジオに戻ったら救急箱があるだろ。とりあえず行こうぜ。よぉ、乾、目の回りに青あざができてるな。色男が台無しだ」
「俺って色男? おまえにそんなことを言われる日が来ようとは、想像もしてなかったよ。おまえは顔には怪我してないのな。うまくよけたのか」
「まあな」
「シゲは俺とおんなじ顔になってるんじゃないのか。ま、しばらくは顔をさらす仕事もないし、いいんじゃないのかね、これしきは」
「はー、もう、寿命が縮まった」
 美江子さんがため息をつき、本橋さんを潤んだ目で見上げた。
「こういうことがあると率先して張り切るリーダーなんだから、乾くんやシゲくんはいやだったんでしょう?」
「いやとは言ってられないときもあるんだよ。な、シゲ?」
「あの場合はいたし方ありませんよ。警察も悪いのはあいつらだと認めてくれましたし」
 すまなかった、と社長が頭を下げた。
「私も狼狽してしまって、本橋じゃなくて警察を呼ぶべきだったとあとから気づいたんだ。どうせこうなるんだったらそうすればよかったよ。山田、すまなかった、この通り」
「私はいいんですけど……なんだかこのひとたち、楽しかった、って顔をしてるし」
 七人いるのでタクシーに分乗して、一旦スタジオに引き上げることになった。俺は乾さんと幸生と章の四人でタクシーに乗り、車が動き出すと章が問いかけた。
「美江子さんの言った通りなんですか。乾さん、楽しかった?」
「楽しくはないけど、本橋はきっと楽しかったはずだぜ」
「シゲさんは?」
「正直、ほんのちょっと楽しかった。俺は喧嘩ってのは大嫌いだと思い込んでたんだけど、正当な理由があればその限りではない。俺は認識を改めました」
 ひえぇ、こわっ、と幸生が呟き、乾さんは笑い声を立て、章は幸生に尋ねた。
「おまえはたいしてやらなかったんだよな。無傷だもんな」
「おまえはなんにもしなかった、って言いたいんだろうけど、社長のそばについててあげるのも大切だったんだよ。ひがまなくていいからね、章ちゃん」
「ひがんでねえよ。で、幸生、おまえは楽しかったのか」
「楽しくない。疲れた。俺は男らしくなんかなくてもいい」
「喧嘩なんかするのが男らしいんじゃないよ、ってミエちゃんには言われそうだけど、たまには大暴れするのも悪くないよな。ひたすら落ち込んだのは社長だろ。気の毒に……あとで本橋に言っておこう」
「乾さん、なにを?」
 幸生の問いに対する乾さんの答えはなく、タクシーがスタジオに到着した。今夜の一件はメディアに漏れていたりするのだろうか。公園には他人はいなかったし、漏れたとしてもスキャンダルではないだろう。俺たちもそんな心配をしなくてはならなくなったんだ、出世したってことか? 
 事務員の玲奈ちゃんは退勤したあとで、社長は安心したかもしれない。玲奈ちゃんがいたらたぶん、大騒ぎするだろう。
 救急箱を持ってきた美江子さんが、先に社長の手当てをした。社長は腹を殴られ、脛を蹴られているようだが、脂肪があるのでさしたる痛手でもない、と自分で言った。乾さんの手当ては幸生が、俺の手当ては章がしてくれて、章が赤チンを取り出した。
「シゲさんも目の回りが青黒くなってますよ。塗りますか」
「そんなもんを塗られるぐらいだったら、このままでいい」
 幸生は例の芝居をやりはじめた。
「隆也さんったらこんな怪我しちゃって、ユキちゃんに心配かけてばっかりで、悪いひとね。だけど、顔に怪我してる隆也さんってセクシーだわぁ。うん、もうっ、憎らしい」
「怪我してる俺をつねるとは、ユキちゃんこそ悪い子だよ」
「ああん、ごめんなさい。だってぇ……」
 ほうぼうがかゆくなってくる。乾さんまで乗らないでほしい。
「真次郎くんったら」
 むこうでは本橋さんの手当てをしている美江子さんまでが、芝居がかった口調で言った。
「このところは喧嘩なんかできない立場になっちゃったからって、自重してたのよね。今夜はおおっぴらにやれるからって張り切っちゃって、しようのないひとねぇ。ほらぁ、ここ、大きな痣ができてるわよ」
「……山田、やめろ」
「私が女言葉を使っちゃいけないの? ユキちゃんはいいのに?」
「幸生はなおさらよくない。幸生、乾にいちゃつくな」
「あらぁ、本橋さんったら妬いてる。隆也さん、もっとやりましょ」
「もういいよ、ユキちゃん」
「いやーん、もっとしたーい」
 まったく三沢は、と社長が苦笑いし、そして言った。
「きみらは私のことなんか小馬鹿にしてるのかとひねくれてたよ。そんなところもあるのかもしれないが、持つべきものは……なんというんだ、部下でいいのか、乾?」
「部下みたいなものですね。小馬鹿になんかしてませんよ。俺たちは社長のおかげでこうやってシンガー稼業を張っていられるんです。感謝しています。みんなもそうだよな」
 実のところ、時として社長の陰口は言っているのだが、みんなして乾さんの言葉にうなずいた。社長のおかげでプロになれたのは相違ないのだから。
「社長のためだったら、俺たちみんな、たとえ火の中水の中、ってもんですよ」
 三沢はあいかわらずだなぁ、と言う社長とも、デビュー以前からのつきあいだから、ざっと七年になる。怪我をしたところは痛いけど、社長に感謝もしてもらったし、本橋さんはけっこう楽しかったみたいだし、たまにはこういうことも悪くはないな、と俺は感じていた。


単独仕事も増え、単独行動も増えてきた俺たちが、久しぶりで五人で力を合わせて協力して、仕事ではないことをやった。だからこそだったのか、喧嘩は大嫌いな俺でさえも、楽しくなくもなかったのだ。
 今年の秋にはフォレストシンガーズは、デビュー丸七年を迎える。その先は八年目に突入する。俺も三十歳になって、恭子と結婚してからだってこの秋で三年になる。
 鈍感な俺は知らないことが、きっとみんなにはあるだろう。その反面、他のみんなが知らないことを俺だけが知っていたりもする。そういうものなのだろう。長年ともにやってきたグループだって、結局は他人なのだから。
 他人ではあっても、俺にとってはみんなみんなかけがえのないひとたちだ。美江子さんも社長も玲奈ちゃんも、みんなみんな仲間だ。フォレストシンガーズの四人は言うに及ばず。俺の力がほんのちょっとでも役に立つのだったら、この腕に抱え込んででもみんなを守りたい。
 天災であれ人災であれ、俺もいつだって、みんなといっしょに危機を乗り越えてきたのだ。過日の一件は俺たちの絆を深める役に立ったのだと信じていた。
「へええ、シゲちゃんもそんなことするんだね」
「喧嘩なんかする俺は嫌いか?」
「なにをしててもシゲちゃんは好きだよ」
「なにをしても?」
 うちに帰ると、恭子は俺の目の回りの痣に、そっとキスしてくれた。
「……なにをしても、ってのは限度があるんだよ。たとえば浮気とか……シゲちゃんが浮気したらどうなるか、想像してみて」
「俺は想像ってのが苦手なんだよ。仮定の話はできないって言っただろ。それにだな、俺は浮気はしない。絶対にしない」
「したくてもできないとか?」
「ああ、どうせもてないよ」
「そうでもないくせに」
 もてないと言うと、幸生や章は言う。そうでしょうねぇ、だ。乾さんは否定しようとしては、もごもごとごまかそうとし、本橋さんは困った顔をする。美江子さんなんぞは笑い飛ばす。そうでもないくせに、と言ってくれるのは恭子だけだ。
「あのさ、恭子」
 今夜も遅くなってからうちに帰り、出迎えてくれた恭子とふたり、ソファにかけて夜食をつまみに、ウィスキーを飲んだ。
「俺たちの悲願を話したっけ」
「悲願ってどれ?」
「悲願ってのもいくつかあるよな。世界中の人々が知っているシンガーズになりたいってのもある。大きな大きな望みだとそれだよ。他にもいろいろあるけど、そのうちのひとつがかないそうなんだ」
「どれ?」
 夜食と呼ぶには大量の料理を、競うようにして恭子と口に運ぶ。サイコロステーキまでが並んでいるのをほおばって飲み下してから、俺は言った。
「全国ツアーだよ」
「全国? 全都道府県?」
「規模はどの程度になるか、検討中なんだけど、できるだけたくさんの土地でライヴがやりたい。そしたらヒデにも……」
「そうだね。ヒデさんもライヴに来てくれるかもしれないね」
 テレビなんかではなく、ライヴが一番のミュージシャン、俺たちの目標はそこにあった。全国各地をライヴで飛び回る。うちの事務所の杉内ニーナさんのように、いずれはアジアの国やもっと遠い国にまで行きたい。
 外国でのライヴはまだ先になりそうだが、まずは日本全国ツアーだ。テレビも決して拒否はしないが、なんてったってライヴが最高。俺も幾度もライヴステージに立って、実感が深まってきていた。
 いまだにホールがソールドアウトになるのは稀なのだが、まちがいなく観客動員数は増加している。社長も大丈夫だと踏んだのだろう。ついについに全国ツアーが決定した。俺たちの仕事のメインはライヴだと、大声で言ってもいい段階までは来たはずだ。
「ただ、フォレストシンガーズってのは、幸生のあのおふざけのせいもあるんだろうけど、変な奴らだとファンの方々に思われてる傾向があるだろ」
「あるみたいね」
「だから、全国ツアーにしてもいっぷう変わった形態で、って意見も出てるんだよ。どう決定するのかは俺にはまだわからないけど、全国ツアーはやるよ」
「よかったね。だけど、シゲちゃん」
「うん?」
 俺の肩に頭を乗せて、恭子は甘え声を出した。
「全国ツアーって長い間、家を空けるんだよね。寂しいな」
「……そのあたりもどうなるんだろうな。ずっと空けっぱなしになるんだろうか。恭子、寂しいって……そう言ってくれるのは嬉しいけど……」
「ううん、我慢する。私も嬉しいもん。シゲちゃんが有名な成功したシンガーになるのは、妻の私としても最高の喜びだもんね。シゲちゃん、愛してる」
「う、うん、俺も」
 声に出してはいまだに俺は「愛してる」とは言えない。けれども心では何度も何度も言って、恭子を抱き寄せた。
「シゲちゃん、歌って」
「恭子は歌わないのか?」
「音痴の私に歌えって言うところだけは、シゲちゃん、きらーい」
「あ、ごめん。言わないよ」
「本橋さんが男の応援歌を書くって言ってたんでしょ? これなんかそうじゃないの?」
 俺の腕から抜け出して、恭子はオーディオにCDをセットした。

「汗と涙で洗い流せるはずさ
 いつだってそうして乗り越えてきたんだ」

 これぞ男の応援歌。「雨にも風にも」だった。

「俺のゲームさ、勝つまで続けるんだ
 OK いいさ、何度倒されたって
 立ち上がるときまた強くなれる」

「雨にも風にも勝てるときがあること
 思い出すんだ、立ち上がるとき」

「雨にも風にも負けた覚えはあるけど
 いつだって負けると諦めちゃいないさ
 なんだってできるさ、歩き出せばはじまる、愛を飲み干せば新しい俺」

「みじめな気持ちにとりつかれたとき
 心裸で叫んだ、これが俺
 OK いいさ、隠さずに見つめよう
 たとえどんなに、今は冴えない奴でも
 OK それでも俺は俺とつきあう」
 
 たとえどんなに今は冴えない奴でも、それでも俺は俺とつきあう、か。昔の俺にもこう言って励ましてやりたい。いや、冴えない奴なのは今でもたいして変わってはいないけれど、そんな冴えない奴も冴えない奴なりに、成長はしてきたではないか。進歩だってした。
 雨にも風にも負けた覚えは、俺にだってある。心を裸にして叫んだ覚えもある。そして立ち上がって歩き出し、走り出してここまで来た。
 今では俺には恭子がいて、近く、デビュー八年目に突入する記念の意味もあっての全国ライヴツアーが開始される。これからだって雨にも風にも、冴えない奴だなんて評判にも負けず、俺は走っていこう。
 改めて決意して歌っていたら、歌にも熱意がこもってきた。恭子はソファに腰かけて、愛情あふれる瞳で俺を見つめてくれている。聴いている恭子の態度にも熱意がこもっている。
 すこしずつ上向いてきているとはいえ、いつかもしも俺たちが転落してしまったとしても、俺にはきみがいる。そんなふうに考えかけて、かぶりを振った。
 恭子のためにも、いつか生まれてくるかもしれないわが子のためにも、俺は前進し続けるんだ。俺の意思は本橋さんや乾さんや幸生や章、美江子さんや社長の意思でもあるはず。だから、俺たちは断じて転落したりはしない。前進あるのみ。
 いっそうの熱意を込めて、二度目に「雨にも風にも」を歌う俺を、俺が世界で一番愛しているひとが熱く見つめてくれている。今このひとときだけは、俺もそんなに冴えない奴でもないのかも、だなんて、幸せな錯覚までを起こさせてくれる。
 負けても負けても立ち上がった俺が強くなれたのだとしたら、それはまぎれもなく、恭子のおかげだ。

END


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