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小説68(男と女の間には)

 ←番外編21(ラヴストーリィは突然に)後編 →小説69(雨にも風にも)
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フォレストシンガーズストーリィ・68

「男と女の間には」

1

 な、あっただろ、と乾が囁き、なにが? と問い返しそうになって、ああ、あったな、と応じた。真冬の川に飛び込んだ大馬鹿野郎は、歯の根も合わないほどにがたがたと身を震わせている。顔色もくちびるも青ざめているのを通り越して真っ白だ。シゲが近くの家でもらってきたという薪をどっさり抱えてきて、幸生は枯れ枝を集めてきて、ライターを取り出す。乾が新聞紙に火をつけて放り込むと薪が燃え出し、川べりで焚き火がはじまった。
 服を脱がせて大きなタオルで全身を包んでやった章は、今にも倒れそうな顔をして焚き火に当たっている。ここで焼き芋しようよ、などと言っている幸生の声も耳には届いていない様子で、ただ震えている。そんな章を見ていると、俺の高校時代の思い出がよみがえってきた。
 ふたりの兄貴がいて、そいつらは双生児で七つも年上、という家庭に育った俺は、空手一筋の兄貴たちを反面教師と見ていたせいか、運動部には背を向けていた。
最初は俺はひとりでランニングをしていたのだが。いつしかランニング仲間と呼んでもまちがってはいない、ひとつ年下の男とともに走るようになった。彼の名は野島、短距離走のスプリンターだった野島は、陸上部に所属していた。
 運動クラブの連中ってやつは心が狭くて、陸上部でもない本橋とばかり仲良くしてる奴は許せん、とばかりに、一年生だった野島を先輩たちが苛めていたのだ。そこに巻き込まれたのが俺で、いつからかその場面を見ていたと言って、兄の栄太郎までがしゃしゃり出てきて、とにもかくにも俺は高校の先輩や同年齢の奴らと、喧嘩をしなくてすんだのだった。
 栄太郎がしゃしゃり出てこなかったとしたら、陸上部の連中ともども俺は停学、あるいは退学処分を受けて、道を踏み誤ったやもしれぬ。井口さんが奴らを集めて話してくれなかったとしたら、野島は大好きな陸上から遠ざかり、俺とつるんで不良になっていたやもしれぬ。先輩後輩とは兄弟に近い関係なのかなぁ、とあのときの俺は感じていた。
 今日、章が川に飛び込んだのは、あのときとはまるっきりシチュエイションがちがっている。あのときは肌寒いとはいっても五月だった。今は真冬だ。気温の差も多大、野島と章の体力差もおそらくは多大であるだろうからして、章のほうが肺炎になる恐れはずっとずっと高い。
 俺も脱いで人肌であっためてあげようか? と幸生は言い、章は返事もせず、乾は章の額に手を当て、シゲは焚き火の具合を調べている。そんな現状を観察しつつ、過去を思い出していた。
「僕は大学へは行かないんです。だから、陸上も高校でおしまいなんですよ」
 家庭の事情やらなにやら、他人には窺い知れないわけがあるのだろう、とは思ったのだが、俺は野島に言ってみた。
「奨学金って手もあるし、陸上部のある職場もあるだろ。続けていけないのか」
「いけたらいいんですけどね」
 詳しくは話してくれない野島を追求するのはやめておいたのだが、そのわけを知る機会が訪れた。
「本橋も出るのか」
 体育祭のクラス対抗リレーの練習の際に話しかけてきたのは、となりのクラスの山城だった。
「おまえをぜひ陸上部に入れたいって、井口さんは言ってたよ。なのに、井口さんが誘っても、仲良くしてる野島が誘ってもうんとは言わない。本橋って奴は体力的にはスポーツ向きに見えるけど、性格的に協調性がなくて駄目なんだろう、って、井口さんは言ってた。陸上部で走るのはいやでも、クラスのためだったらみんなで走るのか」
「推薦されたんだよ。俺がひとりで走ってるのを見てたクラスの奴が、本橋くんはリレーに出たらきっと活躍してくれる、とかなんとか言いやがって……そういやああいつも陸上部だな」
「女の子か?」
「まあな」
「さすがのおまえも、女の子に推薦されたらかっこいいところを見せたくなったのか」
「そんなんじゃねえよ。俺は協調性がないわけじゃないんだ」
「そうかぁ」
「おまえは陸上部なんだから、リレーに出るのは当然だよな。しかし、陸上部であろうとなんであろうと、負けない」
「リレーはひとりで走るんじゃないぞ」
「俺はアンカーだ。ラストの時点でビリだったとしても、前を走る奴らを全員ごぼう抜きにしてトップに立ってみせる」
「豪語したな。俺もアンカーだけど?」
 まずいかも……とは思ったのだが、言ってしまった以上はあとには引けない。五月の川辺で起きた諍いなどはなかったかのごとく、余裕綽々でいる山城に向かって、それでも俺が勝つ、と睨みつけた。それから尋ねた。
「野島は大学にも行かないし、陸上は高校生のときだけだって言ってた。おまえはなにか事情を知ってるのか」
「おまえは知らないのか……聞きたいんだったらあとで話すよ」
「ああ、聞きたい」
 校庭ではあっちでもこっちでも、リレーに出場すると決まっている高校生たちが走っている。俺もおまえには負けないぞ、と言って、山城は走り去っていった。練習がすんでから、彼は野島の家庭の事情を話してくれた。
「親父さんが病弱で、主にお母さんが働いてるんだそうだ。お母さんは給料が安い。下には妹だか弟だかが数人いる。野島は高校にも行かずに働くって言ったらしいんだけど、高校だけは出ておけって両親に言われた。野島はずっと朝刊を配達するアルバイトをしてるんだってさ。あいつ、そのおかげで走るのが好きになって、脚が鍛えられて早くなって、井口さんも走って新聞配達してる野島を見て、陸上部に入れって声をかけたらしいんだ」
「おまえらはそんな野島を苛めてたのか」
「苛めてないって。あれは話し合いをしようとしたのに、野島が勝手に誤解して川に飛び込んだんだよ。そこへおまえが来て口を突っ込んだから、よけいに話がややこしくなったんだろ」
「結局すべては俺のせいか」
「いや、まあ、井口さんが野島に目をかけてるから、ちょっとばかり悔しかったのもあるかな」
 曖昧に認めておいて、山城は続けた。
「だからさ、野島は高校の間だけは好きなことをして、高校を卒業したら、すっぱり陸上もやめて、すこしでも稼げる仕事を探して就職するって決めてるんだそうだ。この話は井口さんから聞いたんだよ。あんときに河原にいた音無さんも、他の奴らもそれまでは知らなかった。誰が告げ口をしたのかも知らないけど、あのときの話しをどこかから聞いた井口さんが音無さんと俺たちを呼んで、こういうわけなんだから、高校時代だけはのびのびと走っていたい野島の邪魔をしてやるな、って言われたんだ。野島も来てからは、その話には触れなかったよ。おまえにも話してないところを見ると、野島はあまり言いたくないんだな」
「どうにかしてやるわけには……」
「どうにかって、どうしたらいいんだ? 方法があったら教えてくれ」
「……無理かな」
「無理だ」
 高校生にはよその家庭の事情をどうにかする手段が見つかるはずもなくて、山城とふたりしてなんとなく暗くなっていた。俺は野島よりも一年年上なのだから、もちろん一年先に高校を卒業した。だからもちろん、その後の野島がどうしたのかは知らない。当たり前みたいに大学に行かせてもらった俺たちって……と、焚き火を囲んでいる仲間たちに言いかけ、言いかけてやめて、ようやく顔色ももとに戻りつつある章に言った。
「仕事がすんだあとでよかったな。とりあえずは焚き火であたたまっただろうから、あとは風呂だろ。幸生、宿に走ってって頼んでこい。思い切り熱い風呂を沸かしておいて下さい、だ」
「ぐらぐらと湯を煮立たせて、釜茹で章を作るんですね。了解」
「章の着替えを持ってくるのも忘れるなよ」
「わっかりましたーっ!」
 幸生は走っていき、章は悄然とそのうしろ姿を見送り、シゲと乾は顔を見合わせて苦笑い。章の服はびしょ濡れになってしまったのだから、幸生が戻ってくるまではここにいなくてはならない。
 本庄繁之、小笠原英彦、乾隆也、三沢幸生、本橋真次郎の五名でフォレストシンガーズがスタートし、アマチュアとしての活動をしていたころに、ヒデが抜けた。学生時代の触れ合いは少なかったのだが、幸生とは親しかった木村章が参加して、紆余曲折を経てデビューした。それからだとほんの数ヶ月だ。
 真冬の風が身体を切り裂く勢いで吹きつけてくる。ささやかな仕事で訪れた佐賀県の山間の田舎町で、こうして五人して焚き火に当たっている。幸生が章の着替えを抱えて戻ってきたので、俺は言った。
「宿に戻って風呂に入らせてもらおう。章、もうなんともないか」
「なんともなくはないんですけどね……あの子は……?」
「あの子は大丈夫だろ。大人たちが抱えていったよ」
「……よかった」
 先ほど、九州ってもっとあったかいんじゃないの? 寒いよ、なんでこんな寒い季節に散歩なんかするんですか、と文句たらたらで、章が俺たちの先頭を歩いていた。寒いんだったら走ろうか、とシゲが言い、本庄さんは走るのが生き甲斐なんですか、と章が言い返し、そうしていると、突然章が駆け出した。
「……なにか? わっ、子供が川に……」
 乾が言い、俺も言った。
「落ちたのか? 章、早まるなっ!」
 時すでに遅く、後先も省みず子供に続いて川に飛び込んだ章が、情けなさそうな顔をして身を起こした。
「浅い。子供でも背が立つよ。なんだよ、俺って……俺ってなに?」
「背は立つにしたって、真冬の川に飛び込んだら肺炎になっちまう。章、上がってこい」
 あーあ、俺ってドジ、と言いつつ、章は差し伸べる乾の腕を振り払って川から上がってきた。その間に子供は地元の大人たちが救出していき、焚き火だ焚き火だとなって、シゲと幸生が薪と枯れ枝を積み上げたのだった。周囲の空気はつめたいけれど、心にも火がともっている。な、あっただろ? と乾が囁いた意味は、俺にも理解できていた。
 いつか乾が言っていた。あのつっぱり坊やにもいいところはあるよ、今は見えないけどあるよ、と言った。そういう意味なのだろう。たしかにあった。
「おまえまで飛び込まなくてもよかったんだけど、咄嗟の場合はああいう行動になるさ。おまえの体力は子供以下とも考えられるんだから、このままじゃやぱい。宿の風呂であったまろう」
 セーターに綿入れまでを幸生に着せられて、もこもこになった章に言って、五人で宿に向かって歩き出した。シゲは焚き火の後始末をしっかり確認してから、章の肩を叩いた。
「ドジかもしれないけど、他にどうすりゃよかったんだ? 最初に見たのが俺だったとしてもやってるよ」
 そうだよね、と幸生も言った。
「シゲさんのほうがよかったかもね。シゲさんだったら体力は満点だから、この川で寒中水泳やってもへっちゃらでしょ?」
「こんな浅い川で泳げるか」
「俺の体力は子供以下ですか」
 章がぶすっと尋ね、乾が応じた。
「子供って体力あるんだぜ。俺たちよりも若いんだから。日も暮れてきたし、帰ろう。それはそうと本橋、焚き火の間中、なんだか黙想してたな。なにを考えてた?」
「風呂で話そうか」
 宿に戻って風呂に飛び込んでから、俺は先刻の思い出話しを語った。
「俺にとっては初の後輩だったのかな。小学校のころから、下級生ってのはいたよ。だけど、そいつらはただの年下ってだけで、後輩だって意識はなかった。野島はひとつ年下の下級生、俺のランニング仲間。俺はクラブ活動もしてなかったから、後輩と呼ぶのも変なのかもしれないけど、俺の意識の中ではそうだった。陸上部の連中の先輩後輩意識ってのも見聞きしたからかな」
 川に飛び込んだ章を見ていて思い出した野島。当時の俺の意識は、自分ではわかっていなかったけれど、今となってはそうだったと言える。
「シゲは高校んときも合唱部だったんだろ。あとの三人はクラブ活動はしてなかったんだよな」
「俺、封建的運動部って大嫌いだったから」
 幸生が言った。
「クラブ活動っていうとスポーツでしょ。背が高くなりたいんだったらスポーツやれって言う友達もいたけど、絶対にやだって拒絶反応を起こしてましたよ。なのにね、大学で入った合唱部は封建的も封建的。愕然ってなもんだったな」
「俺もスポーツなんていまだに大嫌いですよ」
 章も言った。
「高校のときは友達とロックバンドやってましたから、封建的なんてかけらもなかった。ガキ同士でわいわいがやがややってました。なのにね、うちの先輩たちもこうだもんな、幸生?」
「こうとは?」
「知ってるくせに」
「知ってるけどね」
 んで? と幸生が続きを促した。
「たいした話しじゃないんだ。そこから連想して、高校時代を追想してたんだよ。協調性がないなんて言われた俺が、リレーの選手に選ばれてアンカーにされちまって……」
 そのときに、山城から野島の家庭の事情を聞いた。野島はシゲと同い年だ。今はどうしているのだろう。シゲと同い年のヒデもどうしているのだろう。高校二年の野島しか記憶の中にはいないので、二十三歳のシゲを見て、あいつもこんなふうになっているのかなぁ、と想像するしかない。
 いや、こんなふうではないだろう。シゲは中背だががっちりたくましい身体つきをしている。野島は小柄で瞬発力がありそうな体格だった。乾と幸生を足して二で割ったような、そんなタイプに成長しているのではなかろうか。外見の想像ならばできなくもないが、中身は? 現在の境遇は? 想像力が及ばない。
「本橋がアンカーとして走り出した時点では何位だった?」
 乾が尋ねた。
「ビリだったとしてもごぼうヌキでトップに躍り出る予定だったんだろ。並み居る陸上部の猛者も振り切って」
「陸上部の猛者は二年生アンカーの中にはひとりしかいなかったぞ。山城って奴だったんだけど、あいつは聞きしにまさると言っていいほど早かった」
 体育祭での情景もよみがえってくる。アンカーとしてバトンを受けた俺が走り出したときには、我がクラスは六人中の三位。山城のクラスがビリだったのだ。男女混合リレーだったから、アンカーが女子というクラスもあった。俺は前を走る女子を追い抜き、二位に立った。もうすこしで一位の奴も抜かせる。そう信じて必死で走っていたら、まさしく疾風のごとく、俺のかたわらを駆け抜けていった山城がいた。
 山城とデッドヒートを演じ、鼻の差で負けた。俺は二位だった。悔しくて悔しくて歯噛みしている俺の横で、ざまあ見やがれって感じで笑っていた山城も思い出す。
「僅差で俺が一位だった。俺は二位なんて我慢できねえんだよ」
「そう? 一位だったら今さらそんな顔をしなくてもいいんじゃないのか。負けたんだろ」
「……わかるか、乾。くっそー。思い出すと今さらながら腹が立ってきた。二年のときには山城に負けたんだよ。だからだな、三年の体育祭のリレーには自ら立候補した。今度こそ山城には負けないって決めて、ランニングにも熱が入ってたってのに、三年の体育祭には山城が出場してなかったんだ」
 山城は陸上部を引退して、受験勉強に熱中していたらしい。三年のリレーではアンカーの時点で我がクラスがトップに立っていて、そうなると張り切り具合が減って、うしろから来た女子に抜かれそうになって本気になり、トップでゴールを駆け抜けた。
「三年のリレーでは嘘偽りなくトップだったよ」
 くすっと笑った乾が言った。
「本橋の負けず嫌い人生のはじまりだな」
「その前から負けず嫌いだよ。負けるのが好きな人間なんているのか」
「負けるが勝ちとも言うね。幸生なんかはその主義もあるんじゃないのか」
「あるかもね。先輩には勝てませんから。さすが乾さん、よくおわかりで」
「嘘つけ。嘘を言うな、幸生」
「嘘なんか言ってませんよ。やーね、リーダーったら」
 やーね、はやめろって言ってんだろ、と章が言い、幸生と章は湯の中でじゃれている。
「野島くんは今は?」
 シゲが訊き、俺は首を横に振った。
「知らない」
 二十五年余りの短い人生で関わった者たちが、今はどこでどうしているのか、すべてを把握できるはずはない。ヒデのその後さえも知らないのだから。恋をした女の子たちのその後も知らない場合もあるのだから。だけど、おまえたちは……おまえたちとは……想いを払って言った。
「野島の家庭事情ってのを聞く発端になった事件もあってさ、章が川に飛び込んだから思い出したんだよ。乾にも話してなかったか。兄貴がさ……」
「どっちの兄貴?」
「あんときは栄太郎だったな。乾も見たことあるだろ。あんときは敬一郎だ。ややこしい奴らなんだよ、俺の兄貴たちは」
 瓜ふたつの兄貴たちにぶん投げられた記憶は幾度もあって、乾にも目撃されている。高校時代以前にもさかのぼって、きょうだいの話題が展開していく。幸生の騒々しくも可愛らしい妹たちも、幸生にそっくりだ。会ったことのあるシゲの姉さん、まだ会っていない章の弟、ひとりっ子の乾も耳をかたむけていた。
「雅美は銀行員なんですけど、輝美も短大を出たら銀行に就職するんだって。雅美や輝美の銀行に非常警報装置は不要ですよ。強盗が押し入ってきても、あいつらの声がサイレンになるもんね」
「龍とは長く会ってないなぁ。そろそろティーンエイジャーの仲間入りだな。でかくなってんのかな」
「うちの姉貴は結婚するんだろうか。二十六、七って適齢期じゃありません?」
「シゲさんの姉さんはもてないの?」
「うるさいな、幸生は。どうせ俺に似て、って言いたいんだろ」
「言ってないのにぃ」
「思ってるけど?」
「章までうるさいんだよっ。乾さん、言ってやって下さい」
「俺がか? んんと……こうか? おまえたちは先輩のシゲに向かって……」
 なんたる無礼者、と乾が言い、章と幸生は湯にもぐっていってしまった。俺は両手でふたりの頭を押さえ、しばらくそこで静かにしてろ、と言った。湯の中のふたりには聞こえないだろう。聞こえていたとしても、ふたりとも聞き入れるわけもない。そうして夜が更けていく。一日がすぎていく。こうして時がすぎていく。陽はまた登る。明日も歩いていこう、走っていこう、俺は声には出さず、仲間たちに話しかけていた。


2

 メジャーデビューしてから六年がすぎて、乾と俺は三十路に到達した。すこしずつはフォレストシンガーズも売れてきてはいるのだが、まだまだ有名でもない。だが、将来にはるかな展望が持てるのはよいことだ。人生はよいことばかりではないのだが。などと暗くなりそうになっていると、俺の横で暗い声がした。
「女って謎だよなぁ」
 男の喉からこんな声がなぜ出る? かといって決して女の声でもない、その差はどこにある? 力強さか、太さか、と俺を悩ませる常の美声ではなく、力なく弱い声だった。
「シンちゃん、そう思わないか」
 鏡をぼんやり眺めながら乾は言い、俺に答えを求めた。
「女なんてものは男にはわからないんだ。逆もまた真なりっていうだろ。女がわからないのは男としては当然至極。悩むな」
「しかし、お互いにわかり合おうと努力しなくちゃ」
「そんな努力は無駄だ」
 失恋でもしたか、乾? ふられたか。俺もおまえも何度女にふられたんだろうな。そのすべては知らないけれど、いくつかは知っている。俺が山田美江子に想いのたけを打ち明け、キスはしたものの、山田が、私たちはまた別の恋をするかもしれないね、などととんでもない反応を示して以来、俺もずっと悩んでいる。女は謎だ。
 あれからだって山田と俺の仲はなんら変わりない。フォレストシンガーズのリーダーとマネージャーという立場だから、ふたりで話をしていても、仕事の話だと皆は考える。疑われたりはしない。それならそれを好都合に、もうすこしなんとか、と思うのだが、なんの進展もない。あいつはいったい俺をどう思っているんだ。
 しかも、別の恋? 俺は別の恋なんかしない、つもりだったのだが、俺にも胸のざわめきがあって、別の女がいる。山田もなにやらやっている。
 徐々にFSも売れかけているとはいうものの、仕事が無尽蔵にあるわけでもなく、暇はたくさんある。ある日、暇になったので事務所に顔を出してみたら、山田が計理士の男と楽しげに話していた。
「本橋くんは三男なの。なのに真次郎って不思議でしょ?」
「次郎って次男の名前だよね」
 なれなれしい口調にむっとしたのだが、俺の噂だったので聞き耳を立てた。
「本橋くんにはお兄さんがふたりいらっしゃるのね。七つばかり年上のお兄さんズは双生児で、本橋くんから聞いたところによると……」
 粗忽者の親父がまちがえて俺の名をつけたのだと思っていたのだが、この名の由来は中学生のころに父から聞いた。山田にも話したことはある。父は言ったのだ。
「栄太郎と敬一郎は、ふたりともに俺の長男だ。よって、一郎と太郎の名をつけた。であるからして、おまえは次男だ。だからこそ真次郎だ。わかったか」
「理屈になってなくない?」
「なってる」
 そうかなぁ、と俺は首をひねり、兄たちにも尋ねてみたら、そうらしいぞ、とふたりして笑った。
「おまえが生まれたころには、俺たちにもまだよくわからなかったけど、変な名前のつけ方だね、とかなんとか、親戚のおばさんたちが言ってたのを覚えてる」
「そうなんだよな、上の子ふたりが一郎と太郎、下の子は次郎、変じゃない? ってさ」
「親父としてはつじつまが合ってるんだから、いいんじゃないの」
「いいと思うよ。真次郎は不満か?」
「いいけどさ」
 山田はそんな話をよく覚えているようで、計理士に話していっしょに笑っていた。
 おまえの別の恋の相手はそいつか。俺と喋っているときよりも美人に見える。俺みたいに不安定な職業の男と較べたら、そいつは経済力もあって頼り甲斐もありそうだってか? そんなら好きにするといい。頭に来たのでその場から立ち去り、ひとりで飲みにいったら、俺のとなりにすわったのが同業者の女、しかも売れてないところまでそっくりの、ヒカリだった。なんとなくその気になって、なんとなくつきあうようになったのだが、山田へのあてつけなのだろうか、という想いがつきまとっている。
 そんな想いをつきまとわせている男の気持ちは、勘の鋭い女にはすぐに見抜けるようで、誰か他にもいるんでしょ? 真次郎くん、二股かけてない? とふたことめにはヒカリは言う。ええい、うっとうしい、としか思えなくて返事もしないでいると、ヒカリはぷいっと出ていく。出ていかれると寂しくなくもなくて、追いかける。
「二股なんかかけてないって。俺にはきみだけだ。機嫌直せ」
「ほんと?」
「誓うよ」
「……真次郎くん、好き」
「ああ、俺も、好きだ」
「好き、じゃ足りない。愛してるって言って」
「愛してるよ」
「真心がこもってない」
「愛してる」
「嘘」
「本当だ」
 愛してるのかなぁ、嘘かもなぁ、と我ながら我が心を信じていないので、またぞろしばらくすると喧嘩が勃発して、うっとうしくてしようがないのに離れられない。腐れ縁ってやつかもしれない。
 七つも年上の兄貴たちは、いつだって俺が見上げる存在だった。俺も三十歳目前となり、大人になったはずなのだが、兄貴たちの前では形無しになる。後輩たちにこんな姿を見られたら嘲笑されそうなので、乾以外の奴には兄貴たちを会わせたことはない。乾ははじめて兄貴たちと会い、その場の俺の態度を見てあとで笑いころげていたが、口止めは可能な奴なのでいいことにした。
「真次郎はまだ結婚しないのか」
「派手な仕事をやってるんだから、女はよりどりみどりだろ」
 同じ顔をして、同じ大きな身体をして、兄貴たちはいまだに俺を見下ろす。俺も背は低いほうではないのだが、大学時代には双生児の本橋兄弟として空手の世界で名を馳せていた兄たちには、一生体格でもかなわないはずだ。
 両親ともに大柄で、おふくろは俺よりはちいさいものの、女としてはけっこうでかい。三十七歳となった現在も、兄貴たちは企業づとめをこなしつつ、空手の指導者、空手の猛者でもある。親父もサラリーマン。俺は異端者なのだ。その兄貴たちはとうに結婚し、意外に小柄な奥さんとの間には、子供がふたりずついる。シンガーになると宣言したときも、家族総出で猛反対したし、最近は会うと早く結婚しろとせっつく。
 が、それでも今は俺の仕事を応援してくれている兄貴たちに、俺は言ってみた。
「乾の奴は、女は謎だ、女は謎だ、ってふやけたことばっかり言って、暗い顔をしてるんだ。女なんてのは謎で当たり前だよな」
「ほぉ、おまえも一人前に……」
「ほざくようになったもんだな」
「誰かいるのか。まあ、飲め」
 酒を鍛えてくれたのも兄貴たちだし、昔は女の話もよくしていた。空手を教えてくれもしたのだが、俺は歌のほうが好きだと言ってじきに脱落し、この軟弱者、と怒鳴られてプールに放り込まれたりもした。乾は俺を古いタイプの男だというが、この兄貴たちとともに、兄貴たちとは同類の親父に育てられたんだから、ひとりっ子ばあちゃんっ子の奴とはちがう男になって当然じゃないか。
「男もいろいろだよな、兄ちゃん?」
 どちらにともなく言うと、兄貴たちは豪快に笑った。
「男もいろいろ、女もいろいろだ」
「人生いろいろって歌があったろ。真次郎、歌え」
「……俺は演歌歌手じゃねえよ」
 飲むだけ飲んで部屋に帰ると、アパートの前に乾が立っていた。
「……お帰り」
「なんだなんだ、暗い顔して」
「俺の顔はもともとこんなだよ。本橋、飲もう」
「俺は兄貴たちと飲んできたんだけど、つきあってやるよ」
 飲み直しだと街にとんぼ帰りした。コップ酒を酌み交わしつつ、俺は小声で言った。
「ちょっとばかり売れてきたのは嬉しいが、不自由にもなってきたな」
「贅沢言うな。なんにしたって、こんな店じゃ俺たちを知ってるひとなんかいないよ」
「たしかに」
 周囲で飲んでいるのは全員が男だ。乾との会話も盛り上らないのだが、気分もまったく盛り上らない。
「おまえのはじめてのひとってゆかりちゃん、じゃないのか。前にそのような話も……?」
 いきなり、乾が妙な話題を出した。
「高校時代にはなかったのか」
「おまえ……またふられただろ」
「またとはなんだ」
「まただろうが。おまえこそ、はじめてはいつだ?」
「いちいち覚えてねえよ」
「そいつはもてる男の台詞だ」
「ほっとけ」
 女と相対していると言葉遣いも態度も紳士的になるのだが、男同士だと乾はこうだ。二重人格の傾向ありかもしれない。
「抱こうが寝ようが話そうが、女はどこまでも果てしなく謎だ」
「……男と女の間には、長くて深い河がある」
 歌い出した俺のあとを、乾が引き継いだ。
「それでもやっぱり会いたくて、えんやこら、今夜も船を漕ぐ」
「暗くて長い河、だっけ?」
「どっちでもいい。意味は似たようなもんだ」
「俺は演歌歌手じゃないんだけどな」
「この歌は演歌じゃないよ。にしたって、こんな夜は演歌かブルースだよな。嘆き節だ」
「なにをそう嘆いてんだか。女なんてのはなぁ……」
「なんてのは?」
 あとが続かない。
「真次郎、口から出まかせはやめろ。途中で絶句するような台詞は言うな」
「口から出まかせはおまえか幸生の十八番だろうが」
「幸生にしても俺にしても、あとが続く」
 おい、そこの兄ちゃんら、喧嘩はよせよ、と見知らぬおっさんに声をかけられて、乾は愛想笑いをした。
「喧嘩じゃないんです。俺たちはいつもこんなもんで……」
「学生時代からの友達か。いいねぇ、若いってのは」
「はあ、どうも」
「仲良くしなよ。仲良きことは美しきかな、めでたしめでたし」
 酔っ払いオヤジが去ると、俺は言った。
「おまえの将来を見ているようだ」
「俺はあんなのか?」
「二十年もしたらああなる」
「ならない」
 二十年後の俺たち? よいほうに想像するのも可能だが、今の気分では悪いほうにしか行かない。俺は頭をふり、別の話題を探した。が、出てこない。
「乾、なにか喋れ」
「幸生でも呼び出すか」
「いらねえよ、幸生にけたたましく喋られたら、うるさくて頭が割れる」
「いっぺん割ってみるといいよ。なにが出てくるんだろうな、この頭をかち割ったら」
「それは俺の台詞だ。おまえの頭ん中にはなにが詰まってる?」
「深遠なる哲学と高邁なる理想と、果てもなき夢と甘美なロマンと歌と、運命の女性への憧憬と……」
「どこまで行く? もういい」
 掛け合い漫才は幸生と章だけじゃなくて、乾と俺もかな、と思う。
「シンちゃんの頭の中には、どうやってあいつに勝つ? ってのが詰まってるんだな」
「あいつって誰だ?」
「すべてのライバル」
「……好きにほざいてろ」
 うだうだしくもくだくだしい台詞を口にしてはいるものの、乾はたいして酔ってはいない。幸生は普段から酔っ払っているような奴だが、乾は計算づくで喋る奴だから始末に負えないのだ。台詞の裏読みをしようとしても、俺の頭ではついていけない。なんとか言い返してやろうとしていると、おっさん声ばかりの店の喧騒の中に、子供の声が聞こえた。
「お父さん、帰ろうよぉ」
「うるせえんだよ。ひとりで帰れ」
「お母さんが待ってるよ」
「待たせとけ。女は待つのが仕事だ」
「呼んできて、ってお母さんが言ってるんだもん。なにかあったのかもしれない」
「俺の知ったことか」
「だって……」
 見ると、七つ、八つの男の子だった。相当に酔っている父親の膝にすがり、帰ろう、帰ろうと繰り返している。父親は邪険に子供を押しのけ、男の子が吹っ飛んで乾の足元にころがってきた。乾は子供を助け起こし、えらく迫力のあるまなざしで父親を睨みつけた。
「子供になにをするんですか。坊や、怪我はないか」
「うん、怪我はしてないけど……」
「こんなに言ってるのに、帰ってやりなさい。もっとも、あんたが帰ったところで……」
「なんだと、兄ちゃん、喧嘩売ってんのか」
「喧嘩なんか売ってません。奥さんが待ってるんでしょ。子供に乱暴するなんて、最低の父親だな。この子はあなたに帰ってほしいとすがってるだけで、悪さをしたわけでもないじゃないか。これ以上子供に乱暴するんだったら、虐待してるって警察を呼びますからね」
「よけいなお世話だ」
「いいから帰ってやりなさい」
「いやなこった」
 今にも泣き出しそうな顔で、子供は乾と父親の顔を見比べている。俺は子供に尋ねてみた。
「おまえ、なんて名前だ?」
「浩太」
「こうた、か。いくつ?」
「九つ」
 九つにすれば小さい。栄養が行き届いていないのか。浩太は怯えた様子で俺のそばに立ち、乾と父親のやりとりを眺めている。
乾は相手が誰であろうとも、あるいは一国の総理大臣でさえも舌戦では勝てないのではないかと俺には思えるほどの口達者なので、言い負かされそうになった父親が、浩太に八つ当たりを向けた。
「おまえがこんなところに来るから、わけのわかんねえ奴にからまれるんじゃないか。とっとと帰れ!」
「わけのわかんない奴はあんただ」
「青二才が一人前の口ききやがって。表へ出ろ」
「出てやるよ。本橋、手を出すな」
「おいおい」
 そうだった、乾は自身のことではそうは怒らないのだが、他人のことで怒る奴なのだ。子供好きででもあるのか、何年か前には乾のアパートの隣室の親子が発端になって、ヤクザとすったもんだした。あのときは俺が怒ったのだが、乾はその顛末に理屈をつけて、ああだこうだとひとり合点していたものだ。
 肩を怒らせて先に出ていこうとしていた父親が、もののついでのように浩太を突き飛ばした。その行為が乾の怒りを燃え盛らせた、と俺には見えた。
「子供に当たるな! 本橋、その子を頼む」
「……あ、ああ、いいけど、俺が怒ったら……」
 冷静に止めるのはいつもおまえじゃないか。逆となるとどうしていいのか、にわかには行動が起こせない。相手はヤクザじゃないんだから、喧嘩してもいいのか? そうはいくまい。警察か? 喧嘩になる前に俺が止めるといっても、ふたりともに発火点を通りすぎて炎がごおごおしているのだから、俺の経験からしてもそうたやすくは止められない。
 多少は有名になれたのは喜ばしいが、こんなときはまったく不自由だ。名もなきアマチュアシンガーズだったあのころならば、俺も乾の助太刀にいって、もしかして無関係な奴らまでがしゃしゃり出てきて、大乱闘になって警察に引っ張られたとしても、若気の至りですんだものを。
 そういうのもたまにはいいさ、と笑い飛ばせない今、俺はどうしていいのかわからない。浩太、どうする? と問いかけてみたら、浩太はくすんくすんとしゃくり上げ、俺はいっそう困り果てた。


 警察に連絡するのは待って下さい、と頼んだら、店主夫婦がこともなげに言った。
「客の喧嘩ぐらいでいちいち警察呼んでたんじゃ、こちとら商売上がったりだわよ」
「表でやる分にゃかまやしないよ。片方は兄さんの連れかい?」
「そうなんです。ご迷惑おかけしますが」
「いいってことよ、慣れてらぁね」
「……江戸っ子ですね。俺もそうなんです」
「ほお、そうかね」
 おっと、江戸っ子談義なんぞやってる場合じゃない。店主とそのおかみさんは太っ腹にもそう言ってくれたが、他の客が警察に通報するってこともあり得るのだ。ふと気づくと浩太がいない。外に出てみると、浩太の父親と乾は睨み合いの真っ只中で、浩太が父親に突進していくのが見えた。
「お父さん、やめてやめてっ! お兄ちゃん、お父さんになにすんだよっ!」
「……息子にこんなこと言われて、それでもあんたはやるのか? 俺はやりたくないよ」
「逃げるのか」
「わからない人だな。逃げるのなんのって問題じゃないだろ。俺は子供の見てる前で喧嘩なんかしたくない。あんたがどうしてもやりたそうだったから、ここで断ったら卑怯者呼ばわりされるのもまちがいないし、そんならやってもいいとは思ったけど……」
「なにをうだうだ言ってやがんだ。浩太、どけっ!」
「やだ。やめて」
「ここまで来て引き下がれるか。どけ」
「俺は子供を巻き込むのだけはいやだ。本橋、浩太くんを遠ざけてくれ」
 案外乾は冷静だったが、相手がかっかとたぎっている。これではどうにもならないだろう、俺は乾にうなずきかけ、浩太を父親から引き剥がそうとした。が、断固しがみついて離れない。父親が浩太を殴ろうとしたので、俺もついかっとなってその手を押さえた。
「なにすんだよ、てめえはよぉ。赤の他人の乾が子供を気遣ってるってのに、父親のあんたはその態度か。そんなにやりたいんなら……」
「本橋、これは俺の喧嘩だ」
「どっちの喧嘩だって関係ないだろ。俺のほうが喧嘩は適役だ。おまえこそ、浩太を連れて下がってろ」
 結局俺はこのほうが気が楽なのだ。浩太を乾に押しつけ、そんなにやりたいなら、の続き、俺が喧嘩を買ってやる、と言おうとしたとき、女の声が聞こえてきた。こちらを目指して小走りにやってくる女を見て、浩太が叫んだ。
「お母さんっ!」
 なにっ、と父親がぎくっとし、俺たちは一斉に女を見た。女は、やめなさーいっ、と大声を出していた。
「やめなさい、やめてっ。ちょっとあんたっ、子供の前でなんなのよっ。浩太に呼びにいかせはしたけど、まちがってたかな、って思って来てみたら案の定じゃないか。あんた、喧嘩なんかするんじゃないのよ。そっちのお兄さんたち? どっち? ふたりとも? このひとがこんな若いのをふたりも相手にしたら、救急車を呼ぶ羽目になるわよ。あんたたちもやめなさい。いい? わかった?」
 下町のおかみさんの風情を持つ女は、一気にまくし立てた。みるみる乾の喧嘩相手は悄然となる。しおしおのパーとかいうのがあったが、青菜に塩とはこのことか。虚勢が消えうせてうなだれる。女は亭主と俺たちを交互に見て言った。
「どっちが悪いかなんてどうでもいいのよ。喧嘩なんてのはどっちも悪いんだから。だからね、私はあんたたちを怒ってるわけじゃない。やめるんだったらそれでいい。あんた、やめる?」
「……やめりゃあいいんだろ」
「そっちのあんたたちは?」
「あなたのご主人がやめるとおっしゃるんでしたら、僕には異論はありません」
「……なに気取ってんの? あんた、なにもの?」
「ただの若者……ってほど若くもないかな」
「変なひとだね。そっちのあんたは?」
「別にやりたかないんだから、やめとくのもやぶさかではない」
「そう。そんなら握手する? いや? 無理に握手ってのもなんだわね。握手しなくても仲直りだよね。浩太、よかったね」
「うん、お母さん」
 浩太は母親に走り寄り、にっこりと母親を見上げた。母親は浩太の頭を撫で、じろりと亭主を一瞥した。
「ちょっと、あんた、逃げるんじゃないよ」
 じりじりとあとずさりしていた浩太の父親は、くるりと振り向くと一目散に逃げ出した。女は大音響で叫んだ。
「浩太っ、お父さん逃げたよっ、追っかけるよっ!!」
「わーっ、お母さん、待ってーっ!!」
 母と息子は逃げた父親を追って駆け出していき、残された乾と俺は、ほとんど同時に笑い出した。一部始終を見物していた暇な野次馬たちも、そろって笑い出した。遠く遠くパトカーのサイレンが聞こえてきたので、俺たちも逃げることにした。
「あっけっけ、だよな」
 別の店に入ると、乾がテーブルに肘をついて肘に顎を乗せ、くっくと笑いながら言った。
「今どきでもあんなおかみさんっているんだな。本橋のおふくろさんはあんなタイプか」
「うちのおふくろはがらっぱちだけど、あそこまでではないかな。俺に似た親父ってのか、俺が親父に似てるんだけど、その親父と、でっかい三人の息子を抱えてるんだから、若いときはあれに近かったかもしれない。俺は兄貴とは喧嘩にもならなかったけど、ガキだった兄貴ふたりが取っ組み合いをやってたら、箒持って、こらーっ、やめなさーい、ってやってたな」
「俺にはそんな経験はないよ」
「おまえはひとりっ子なんだし、おふくろさんはほら、あれだから」
「上品ぷった奥さま、だろ」
「ぶってるんじゃなくて、上品そのものだろうが。それにしても、乾」
「なにか?」
「負けたな。おまえがあのおかみさんに負けるのを見て、俺は非常に気分がよかったぞ」
「負けた負けた、完敗だよ。カンパイついでに乾杯しよう」
 見事に喧嘩をやめさせたおかみさんに乾杯、だった。
「女も謎だけど、男も謎だよなぁ。あんなに強気だったあの男がさ、おかみさんの一喝で塩垂れて、やめりゃあいいんだろ、だもんな。あげくの果ては逃げ出して、浩太はお母さんの頼みを実行できないままだったけど、どこまで追いかけてったんだろうな」
「どこへ逃げようとも、地の果てまでも追っていく、じゃないのか」
「男は腕力でしか男をねじ伏せられないけど、女には別の武器があるってな。惚れてんだろうね。惚れたかみさんにはああいう男も弱い」
「そうらしいな。俺は独りもんだからわかんね」
 ま、喧嘩もしなくてすんだし、警察沙汰にもならなくてすんだし、まずはよかったことにしよう。おまえ、もの足りなかったんじゃないの? と尋ねる乾の声を、俺は聞こえぬふりをしておいた。
 三十にもなって、女の問題でうじうじしていてどうする。乾も俺も、ヒカリも山田もなるようになるさ。なるようにしかならないんだ。生涯何度目かに俺はそう考え、今夜何杯目かになるグラスの酒を飲み干した。

「男と女の 間には
 深くて暗い 川がある
 誰も渡れぬ 川なれど
 エンヤコラ 今夜も 舟を出す
 Row and Row
 Row and Row
 振り返るな Row Row

 お前が十七 俺十九
 忘れもしない この川に
 二人の星の ひとかけら
 流して泣いた 夜もある
 Row and Row
 Row and Row
 振り返るな Row Row

 あれから幾年(いくとせ) 漕ぎ続け
 大波小波 ゆれゆられ
 極楽(ごくらく)見えた こともある
 地獄(じごく)が見えた こともある
 Row and Row
 Row and Row
 振り返るな Row Row

 たとえば男は あほう鳥
 たとえば女は 忘れ貝
 真っ赤な潮(うしお)が 満ちるとき
 なくしたものを 思い出す
 Row and Row
 Row and Row
 振り返るな Row Row

 おまえと俺との 間には
 深くて暗い 川がある
 それでもやっぱり 逢いたくて
 エンヤコラ 今夜も 舟を出す
 Row and Row
 Row and Row
 振り返るな Row Row」

 歌が聞こえてくる。「黒の舟歌」だ。男と女はこの通りだ。まさしく、この通りなのだろう。


END
 
 
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