番外編

番外編21(ラヴストーリィは突然に)後編

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番外編21

「ラヴストーリィは突然に」後編


3

 私が本庄恭子になってから季節が三つめぐり、夏が来るころに美江子さんが言ってくれた。
「ニューアルバムの打ち合わせの締めくくりっていうのもあって、合宿をしようって話しが出てるのよ。恭子さんも時間があるんだったら来ない?」
「私が行ってもいいんですか」
「シゲくんも恭子さんも仕事があるから、すれちがいが多いでしょ。合宿っていうのはバカンスも兼ねてるのよ。仕事オンリーじゃないから誘ってるの。海だよ。みんなで泳ごうよ」
「いっしょに行けるのは嬉しいんですけど、泳ぐとなると水着? うひゃあ、私の水着姿なんて、よその男のひとに見せたくないなぁ」
「なに言ってんの。恭子さんは若いんでしょ。私は三十路間近だけど、だからこそ、今こそ水着を着て泳がなくっちゃ。恭子さんはアスリートらしい引き締まったボディの持ち主じゃないの。細いだけの弱々しい女よりずっと綺麗よ」
「美江子さんったら、なんて上手に褒めて下さるんでしょ。美江子さんは私よりずっと綺麗ですよ」
「ありがとう。顔も肉体も綺麗な女ふたりで、うちのみんなを悩殺しちゃおうね。なんて言っても、若い人妻のセクシーさに私がかなうわけもないけど、心意気はそうでなくっちゃね」
「はい、私も心意気は高く持ちます」
 ふたりで水着を買いにいって、美江子さんが勧めてくれたビキニにした。うちに帰って見せると、シゲちゃんは絶句した。
「美江子さんが言うんだよ。恭子さんの身体つきだとビキニのほうが映えるって。着替えてくるから見てね」
「俺はね、そりゃあさ、俺はいいんだけど……」
「シゲちゃんはいいんだけど、なに?」
「恭子がビキニ着て、みんなの前に出ていくのか」
「どうして悲しそうな顔するの? ごっつい奥さんがビキニ姿なんて、他のひとに恥ずかしい?」
「そうは言ってないよ」
「顔が言ってる。いいもん。そんなら行かない」
「恭子……」
 寝室に閉じこもって鍵をかけ、携帯電話を取り出してパールにメールした。パールとはフォレストシンガーズの後輩ロックバンド「燦劇」のキーボード奏者で、彼のほうからメールをくれて仲良くなった。パールは女の子みたいに小柄で可愛くて、親しみやすくて、シゲちゃんったらね、シゲちゃんったらね、と愚痴をこぼすと、女友達のように親身になって聞いてくれる。
 恭子のビキニなんてみっともない、ってシゲちゃんが言うんだよ、などなどと大げさに書いてメールすると、折り返しパールから電話がかかってきた。
「恭子さんのビキニ? 何色?」
「濃いオレンジ。淡色は太って見えるから、濃い色にしたの。これ以上太く見えたら困るんだから」
「恭子さんは太ってないよぉ。恭子さんは俺なんかよりはたくましいけど、テニス選手なんだもん。たくましくないとやっていけないじゃん。シゲさんは照れてるんでしょ」
「そうなんだろうけど、もうちょっと言いようがあると思うの」
「乾さんには言いつけないの?」
「シゲちゃんが乾さんに叱られるとかわいそうだもん」
「そういうことで、シゲさんは乾さんに叱られるの?」
「そうみたいよ。シゲちゃんったらね……」
 前に喧嘩をしたときに、シゲちゃんがクマのぬいぐるみを放り投げた。それは結婚した年のクリスマスに、フォレストシンガーズや燦劇の所属事務所であるオフィス・ヤマザキの事務員さんの、玲奈ちゃんがプレゼントしてくれたものだった。
シゲちゃんが投げたぬいぐるみは悪い具合にドアの開いていたお風呂場に飛び込み、ぐしゃぐしゃのびしょびしょになってしまった。律儀なシゲちゃんは玲奈ちゃんにその話をして、あやまったのだそうだ。
「玲奈ちゃんは、いいんですよ、また作りますよ、って言ってくれたらしいんだけど、シゲちゃんは乾さんにも話したそうなの。そしたらすっごく怒られたって。すっごくって言ったって、乾さんは怒っても怖くないんじゃないの?」
「さあねぇ。どうだろうね」
「怖いの? 乾さんは私にはとっても優しいよ」
「そりゃ、恭子さんにはね。まあ、それはいいじゃん。恭子さんのビキニ姿か。俺は見たいよ。うん、ってことは、シゲさんは妬いてるんだよ」
「やきもちか。そういえばシゲちゃんって、けっこうやきもち妬きなんだよ。パール、男心を教えてくれてありがとう」
「いいんだけどね、なんだよ、おのろけかよ」
「おのろけになるの、これって?」
「なるの」
「ならないよ」
「なるよ」
 なるよ、ならないよ、と言い合っていたら、パールはきゃははっと笑った。ビジュアル系ロッカーだけあって、パールは素顔でも美青年だけれど、ルックスはどことなく三沢さんに似ている。背が低くて子供っぽくて、高い声までが三沢さんに似ている。三沢さんが整形して美青年になったらパールみたい? なんて言ったら、三沢さんの機嫌が悪くなるだろうから言わないけど。
「パールの笑い声って三沢さんにそっくりだよね。性格も似てるの?」
「性格は自分ではわからないけど、俺はあそこまで破格の人格はしてないでしょ」
「三沢さんって人格が破格なの?」
「恭子さんはそう思わない?」
 フォレストシンガーズの中に美江子さんまでを含めるとしたら、一番はじめに好きだと思ったのは美江子さんだった。かしこくて美人で大人で、それでいて茶目っけもあって、シゲちゃんが尊敬する女性の一番なんだろうとも思っていた。
美江子さんも本橋さんや乾さん同様、シゲちゃんの先輩なのだから、三人ともをシゲちゃんは大好きで、尊敬している。シゲちゃんを好きだと意識するようになってからも、シゲちゃんの身近にいる美江子さんには、嫉妬はちっとも感じなかった。
 本橋さんも乾さんも、私にはいつも優しくしてくれる。本橋さんは仲間たちからは、リーダーは鈍感、なんて言われているけれど、シゲちゃんよりは敏感なのではないだろうか。乾さんは敏感すぎて、ああいう性格って俺には信じられないよ、とシゲちゃんは言っている。本橋さんにはシゲちゃんに似たところがあるけど、乾さんはシゲちゃんとは正反対性格だ。
 三沢さんも私には親切で優しい。パールが言うように破格な性格だとは思えないけれど、いっぷう変わったひとなのはまちがいない。シゲちゃんはいつだって、三沢さんに頭の中をひっかき回されているらしい。木村さんは気難しいのか。躁鬱気質だったりするのか。私にはまだ彼がよくわからない。
 シゲちゃんと結婚してから一年弱。シゲちゃんの気性はほぼつかんだつもりでいるけれど、他の男のひとたちは、わかるようなわからないような、なのかもしれない。美江子さんとは結婚式の前にもふたりでごはんを食べたりお話ししたりしたけれど、他のひとたちはまだ、夫の友達としての存在でしかないのだから。
 もしもシゲちゃんと結婚していなかったら、パールとこんなふうに友達づきあいするなんて、絶対にあり得なかったはずだ。
ビジュアル系ロッカーなんてものは、私とはなんの接点もないところで生きている人種なのだから。その分、タクちゃんやテニス仲間の男の子たちとお喋りする機会は減っているけれど、音楽業界の知り合いが増えていくのは嬉しい。
「フォレストシンガーズのみなさんとも、合宿にお邪魔したらもっと親しくなれるよね。飯炊きおばさんでもいいから、行きたいんだけどな」
「飯炊きおばさんって、恭子さんはお姉さんじゃないか。フォレストシンガーズの誰よりも若いんでしょ」
「パールたちから見ても?」
 燦劇は全員が私より年下だ。全員に紹介はしてもらっているのだが、パール以外は近寄りにくい。ヴォーカルのファイは相当に背が高くて相当な美形。ギターのエミーはファイよりは劣るものの、背が高くて綺麗な顔をしている。ドラムのルビーとベースのトビーは小柄だが、パールよりは背が高い。ルビーとトビーは色でしか区別がつかない。
あいつらだって中身は普通の若い男だよ、とシゲちゃんは言うのだが、テニス選手の若い男の子たちとは、きっと頭の中身がちがいすぎると思ってしまうのだった。
 たぶんパールは三沢さんに似ているから、彼は否定するけれど、性格も三沢さんに似ていて人なつっこくて気さくだから、ビジュアルロッカーだなんて意識せずに話せる。女の子みたいなところがあるからかもしれない。そう言ったとしたら、パールは気を悪くするのだろうか。
「恭子さんは若くて溌剌としたお姉さんだよ。だからさ、シゲさんのやきもちなんかには負けず、ビキニを着て泳いでおいでよ。ところで、美江子さんもビキニ?」
「美江子さんはブルーのビキニ。そろそろ着られなくなるからって言ってたけど、まだまだ着られるよね」
「着られるよ。美江子さんもプロポーションいいもんね。俺もこっそり見にいこうかな」
「美江子さんのビキニ姿を?」
「両方見たい」
 こんなところはやっぱり男の子なのかな。私が笑っていると、パールはすっとんきょうな声を上げた。
「やーねっ、パールったらえっちっ!!」
「なに、いきなり?」
「そっくりだろ。三沢さんの口真似。合宿はいつ? その日か……なんとか……」
「燦劇は忙しいんでしょ? フォレストシンガーズよりも売れてるんだから」
「そうなんだけどね……」
「それに、私はシゲちゃんには、行かないって言っちゃったよ」
「恭子さんが行かないと、シゲさんが乾さんに問い詰められるよ。そしたらシゲさんは正直に言っちゃうよ。そしたらどうなる? シゲ、おまえはなんたることを言うんだっ、ってなるよ」
「乾さんの口真似も上手だね。そうか、そうなるか」
「そうそう、行きなよ、ね?」
「考えてみる」
 うまく言いくるめられてしまったんだろうか、と首をかしげていると、寝室のドアを遠慮がちにノックする音が聞こえた。恭子、恭子、と呼んでいる。ごめんな、とも言っている。私が黙っていると、パールが電話のむこうで叫んだ。
「シゲさんったらいーけないんだっ。乾さんに言いつけちゃおうっと!!」
「え? その声は幸生? 恭子、幸生に電話してたのか」
 じゃーねーっ、まーたねーっ、と三沢さんそっくりの声で言って、パールは電話を切った。シゲちゃんがドアのむこうで、ごめん、ごめん、ごめんなっ、と言っているので、鍵を開けてあげた。
「恭子、あのさ……」
 そろそろっとドアが開きかけている。私はきつい声を出した。
「入ってきたら駄目っ!!」
「恭子、そんなに怒るなよ。ごめんって言ってるだろ。入っていいか? 仲直りしようよ」
「……もうすこし。うん、いいよ」
「恭子? うわ」
 その間にビキニに着替えていた私を見て、シゲちゃんは目をまん丸にした。
「大胆だな。新婚旅行のときにはそういうんじゃなかっただろ」
「あのころはまだ、シゲちゃんにビキニを見せるのが恥ずかしかったから。どう? 最悪?」
「最悪なんてはずないだろ。だからだよ。だから……うん、でも、俺は覚悟を決めた」
「なんの覚悟? 太い私の身体を人目にさらす覚悟?」
「怒るなって。恭子は陽に灼けてるから、オレンジが似合うんだな。恭子、いっしょに行こうな。行くだろ」
「うん、行く」
 口が達者ではないシゲちゃんとしては、精一杯の褒め言葉だったのだろう。シゲちゃんはそおっとそばに寄ってきて、そおっと私の胸元に触れた。耳を澄ましてみるとちっちゃな声で、恭子、綺麗だよ、と呟いてくれていた。


 車を持っているのは乾さんとシゲちゃんだけなので、二台の車に分乗して海へと出発した。シゲちゃんが運転する車には助手席に私、バックシートに本橋さんと三沢さんが乗っている。乾さんの車には木村さんと美江子さんが乗っている。
三沢さんは胸にロゴの入った白いTシャツにショートパンツ。美江子さんが言うには、幸生くんは自分に似合うものをよく知っている、なのだそうだ。シゲちゃんよりはよほどセンスがいいと私も思う三沢さんは、本橋さんにしきりに話しかけてはうるさがられていた。
「寝不足なんだよ。俺は寝るから、恭子さんに相手をしてもらえ」
 そう言って、本橋さんは腕組みをして目を閉じ、あっという間に寝息を立てはじめた。三沢さんが本橋さんの鼻をつまもうとして、足を踏んづけられて悲鳴を上げた。
「寝てても隙が少ないね、このひとは。兄さんたちの影響なのかな。シゲさんは運転中は喋れない?」
「すこしだったらいいよ。なあ、幸生、この間は……」
「この間?」
「恭子は言ってくれないんだよ。盗み聞きなんて行儀が悪いから、俺も最後のほうしか聞いてなかったんだけど、恭子はなにを言ったんだ?」
 あれからだって仕事で顔を合わせていたのに、その話をするのははじめてなのだろうか。乾さんがいる場所では言えなかったから? シゲちゃんは完全に誤解しているので、私も本当のことは言っていない。三沢さんがどう反応するかと興味深々で聞いていたら、シゲちゃんは言った。
「乾さんもなんにも言わないけど、言いつけたのか」
「言いつけてませんよ。シゲさんの態度次第では、言いつけるかもしれませんが」
「脅かすな。仲直りはしたんだから、俺だってあやまったんだから、恭子、もういいんだよな」
「さあねぇ。三沢さんにおまかせしちゃう」
 運転しながらのシゲちゃんは苦い顔になり、ルームミラーで見てみると、三沢さんは面白そうな顔をしていた。彼も乾さん並に敏感だそうだから、およそは察したのだろう。
「愛しい奥方さまの怒りに火をつける言動をするなんて、それだからシゲさんは女心に疎いって言われるんだよ」
「疎いよ、俺は。俺は乾さんじゃないんだから」
「シゲさんは乾さんじゃないんだから、すべての女性の心を慮るのは無理だよね。乾さんにもその芸当はできないんだそうです。だけど、奥さんの女心はわかってあげなくちゃ」
「努力はしてるんだけど、女心はむずかしいんだよ」
「まさしく。で、なに言ったの?」
「恭子に聞いたんだろうが」
「聞いたけど、シゲさんの口からも改めて聞かないと。一方の言い分のみでは一方的でしょ」
「そうだよな。しかし、俺はたいしたことは言ってないぞ」
「たいしたことじゃないと思ってるのはシゲさんだけ。恭子さんにしたらたいしたことだったんだよ。だから恭子さんが怒ったんじゃないの」
「うん……かもな」
 すっごーい、三沢さん、うまい。なんにも知らないはずが会話がなり立っているし、誘導尋問ってこれ? 私はよけいなことを言わないように、架空の手で口を押さえているつもりで聞いていた。
「俺、なに言ったのかな。恭子がビキニを着てみんなの前に出ていくなんて、って、それしか言ってないぞ」
「ほおほお」
「そう言ったら恭子が先回りして、ごついとか太いとか恥ずかしいとか……」
「シゲさんったら、ひどーい」
「言ってないんだよ、俺は」
「目が語ってたんだね。そんな目で恭子さんを見てたんだよ」
「見てないよ」
「見てなくても、恭子さんにはそんな目に見えた」
「……三沢さん、ほんとにすごい」
 思わず言うと、三沢さんはちらっとウィンクした。
「そうなんだ。恭子さんは海ではビキニを着るんだね。楽しみだなぁ。シゲさんは恭子さんの水着姿を何度も見てるんだろうけど、水着程度だったらそれは夫の特権じゃないんだよ。若くて美しい女性の水着姿は、世の男の目に至福を与えてくれる。ケチケチしないで俺たちにも見せてよね。シゲさんったら心が狭いんだから」
「いや、あのな」
「男も海に行くと水着を着る。いちいちうちのみんなの水着姿にコメントはしたくないけど、そんなの見てもなーんにも嬉しくないの。恭子さんと美江子さんの水着姿を見るのは、俺の今回の最大の楽しみだったんだよ。恭子さんは隠そうだなんて、シゲさんったらそういうつもりだったの。見損なってたよ」
「そうじゃなくて……」
「そうなんでしょ? だからケチつけたんだ。だよね、恭子さん?」
「そうだったみたい」
「でさ、誰に電話で話したの?」
「パール」
「ああ、納得」
 なにをっ!! とシゲちゃんも叫び、ううっと唸った。シゲちゃんもようやく真相を悟ったと見える。
「乾さんには内緒にしておいてあげるから、恭子さんとふたりきりで泳いでもいい?」
「駄目だ」
「だったら言いつけちゃおうっと」
「幸生……ああ、俺は……恭子、きみもあんまりだよ」
「あんまりってなに? 私はなんにも言ってないよ。ね、三沢さん?」
「そうだよねぇ、ねええ、恭子さん? あなたの夫はこうやって駄目だと言ってますが、恭子さんの行動は恭子さんの自由なんだから、俺とふたりで泳ぎましょ」
「んんと……考えておきます」
「恭子、やめろ。幸生なんかとふたりっきりになるとどうなるか……」
 どうなるの? と三沢さんとふたりして見つめると、シゲちゃんはむにゃむにゃと言葉を濁した。
「とにかく、やめろ。恭子は俺のそばから離れるな」
「シゲちゃんったらえらそうなんだから」
「シゲちゃんってそんなにいばってるの? 知らなかったわーっ」
「幸生、おまえまでシゲちゃんと呼ぶな。声まで恭子の真似をするな。頭が変になるだろ」
 わざとふたりして、シゲちゃんったらシゲちゃんったらっ、と騒いでいると、本橋さんが目を開けた。
「騒々しいな。いつの間に女がふたりに……幸生、おまえはうるさいんだよ」
「恭子さんもけっこううるさい……きゃああ」
 またもや足を踏んづけられたらしく、三沢さんは悲鳴を上げ、本橋さんは私に言った。
「なんだか知らないけど、恭子さんも静かにしろよ。シゲが運転を誤ったら大変だろ」
「はあい」
「お、恭子さんもリーダーには素直だね。リーダーとふたりで泳ぐ? 恭子さんの趣味からすると、シゲさんでなかったらリーダーなんじゃないの?」
「ううん、三沢さん、私はシゲちゃんじゃなくちゃいやなの」
「うっ、すっげえセクシーなまなざし。俺、ノックアウトされちゃったよぉ。リーダー、どうしましょ」
「ノックアウトされたんだったら寝ろ。うるせえんだよ、おまえは」
 うしろの席では本橋さんと三沢さんが、うるせえ、寝ろ、ああん、寝られなーい、などと言い合っていて、私はシゲちゃんの肩に頭を乗せた。
「恭子も眠くなってきた。寝てもいい?」
「ああ、いいよ」
 うきゃきゃっ、と三沢さんがまたまたまた叫び、本橋さんは大きな吐息をつき、三沢さんは言った。
「暑い。冷房がこわれたんじゃないのかな。暑いを通り越して煮えたぎるやかんって言うか、炎の坩堝っていうかサウナっていうか……リーダー、俺、気絶しますよ」
「同感だけどな、最初から覚悟を決めてただろ。この車に乗る以上は」
「そうでした。俺も車を買おうかなぁ」
「うん、俺も考えよう。ただし、おまえとふたりでは乗らないぞ」
「なぜ?」
「言うまでもねえだろうが」
「わかんないよ。なぜですか」
「うるさい、やかましい」
「リーダーったらそればっか」
「おまえはうるさい以外の言葉の出てこない男だからだ。いくつだ、おまえは」
「リーダーは?」
 果てしなく言い争っているうしろのふたりは放っておいて、シゲちゃんの耳元で囁いた。
「シゲちゃんが決めた覚悟ってなに?」
「いいからさ、寝ろよ。海が見えたら起こしてやるから」
 海が見えたら起こしてあげるから、もうすこし眠りなよ、と三沢さんが歌って、歌ってから口を押さえた。
「リーダー、これって不吉な歌でした?」
「そのようだな。とにかくおまえは黙れ。喋るのも歌うのもやめろ。俺がシゲが寝ないように見張ってるから、恭子さんも幸生も寝ろ」
 不吉な歌ってどうしてかな? あとから教えてもらおう。そう思いながら、シゲちゃんの肩に軽く頭を預けていると、いい気持ちになってきた。三沢さんはまだなにか言っては、本橋さんに怒られていたが、それすらが子守唄に聞こえてきて、私は目を閉じた。
 

4

 たどりついた海辺の別荘に荷物を下ろして、シゲちゃんと私のふたりの部屋でくつろいでいたら、ノックの音がした。
「恭子さん、お散歩に行きましょうよ」
「幸生? 恭子……行くのか?」
「お散歩くらいいいじゃないの。駄目?」
「散歩だっていうんだったら、三歩ほどに……」
「なに、それ? シゲちゃん、シャレ?」
 きゃーっはっはっは、下手なシャレっ!! と三沢さんは大笑いし、いいですか、開けますよ、と断ってからドアを開けた。
「恭子さん、それってムームーっていうの? 恭子さんは花柄が似合うよね。水着は明日のお楽しみに取っておいて、これから黄昏の浜辺を僕と歩きましょう。今夜の夕食は乾さんと美江子さんが担当してくれるそうですから、シゲさんは力仕事でお手伝いして下さいね。シゲさんは心は狭くないんでしょ? いいんでしょ?」
「いいんだけど……」
「いいんだけど? シゲさんの服は……えっと、結婚してからは以前よりはちょっとは見られるようになったよ」
「俺の服なんかどうでもいいんだよ」
「うん、あいかわらずどうでもいいような服だね」
「だから、どうでもいいからどうでもいいんだよ。恭子、気をつけろよ」
「気をつけろってどういう意味? 僕があなたの奥さまに不埒な真似をするとでも? シゲさんったら、可愛い後輩をそんな目で見てたの? ユキちゃん、悲しいわ」
「おまえはなぁ……うるさいんだよっ。とっとと出ていけ」
 はいはい、出ていきますから、恭子さんも出ていきましょうね、と三沢さんがにっこりする。シゲちゃんがかわいそうかなぁ、とも思ったのだが、三沢さんとふたりっきりで三沢さんからフォレストシンガーズの話をしてもらう機会はそうはないのだから、行くことにした。
 なあなあ、恭子、ほんとに行くのか? 幸生、ほんとに行くのか? なあなあ、とシゲちゃんの声が聞こえる。三沢さんは私の手を握って、振り向きもせずに言った。
「シゲさん、往生際が悪いよ。恭子さーん、行きましょうね」
「はい、行きましょう」
 外に出ると、坂道のむこうに海が見える。海のほうへと歩き出しながら尋ねた。
「この別荘って大学時代のお友達の持ちもの?」
「うちの大学には金持ちの息子や娘がわりかしいるんだよね。章と俺は庶民の出だけど、乾さんだって金沢の名家の息子だし、リーダーも重役令息だし、シゲさんも大きなお酒屋さんの息子。他にも金持ちの子は多くて、その中でもきわめつけ、小倉物産のお嬢さんってのがいるんだ。本橋さんや乾さんと同学年の花蓮さんっていう女性なんだけど、空いてるときにはいつでも使って下さいね、ってそのひとが言ってくれたそうなんだよ。乾さんが尋ねてみたら、今だったらどうぞどうぞってことで、貸してもらったんだって。花蓮さんはとっくに結婚したんだけど、社長令嬢が社長の令夫人になって、実家の金と夫の金と両方使い放題。世の中って金のある人のところには、ますます集まるようにできてるんだね」
「小倉物産の社長さんの別荘なのね。さすが」
「さすがでしょ。こんなすっげえところに泊まるのって、俺ははじめてだよ」
「テニス選手も金持ちの子が多いから、私は友達の別荘に招待してもらったことはあるよ。それとね、私は夕食の支度を手伝わなくていいの?」
「恭子さんは明日でいいんじゃない? 乾さんと美江子さんは楽しそうにやってたから大丈夫」
「本橋さんと木村さんは?」
「リーダーが走ろうかって言って、章は辞退してました。シゲさんもひとりぼっちになってつまんないだろうから、章はふたりがかりで走らされるんじゃないかな。シゲさんはランニングが好きだよね」
「うん、私も好き」
 そんな話をしているうちに海が近づいてきた。
「雄大な景色だね。夕陽が沈んでいく」
「かたわらには美しい人妻がいる。危険な香り」
「……潮の香りが? 三沢さんとだと危険な雰囲気なんて全然ないのに、シゲちゃんったらなにを心配してるんだろ。三沢さんはナンパが趣味だと聞いた覚えがあるんだけど、そのせい?」
「ナンパ? 俺は一生に一度も、ナンパなんてしたことはありません。ナンパが趣味なのは章だよ」
「木村さんだったら、私となんか三歩も歩きたくないんじゃない?」
「お、そっちのほうがシャレとしてはシゲさんよりはうまい」
 ゆっくり歩いていくと、人だかりが見えてきた。
「仮設ステージができかけてるね。フォレストシンガーズのシークレットライヴとか?」
「聞いてませんよ、俺は。リーダーか美江子さんが内緒で画策したとか? そうでもなさそう。撮影会かな」
「ああ、そうみたい」
 作りかけのステージを囲んで、若い人たちがわいわい言っている。三沢さんたちも知らなかったのだそうだが、明日はここでモデルさんたちの水着ショーが行われるのであるらしい。近くにいた人が教えてくれて、三沢さんは嬉しそうな顔になった。
「三沢さんも見にくる?」
「俺は恭子さんと美江子さんだけでいいもーん。ここはうるさいから、あっちにすわろうよ」
 夕暮れの海でもまだ泳いでいる人がいたが、昼間よりは静かになっている。浜辺に平らな岩があったので、三沢さんがそこにハンカチを敷いてくれた。
「ありがとう。ね、三沢さん? シゲちゃんの知らない、フォレストシンガーズの話ってある?」
「シゲさんの知らない話か。あるにはあるんだけど、どれを話そうかな」
「ヒデさんの話は?」
「ヒデさんの話って、恭子さんはシゲさんからどこまで聞いてるの?」
 フォレストシンガーズがアマチュアだったころ、結成当時から仲間だったヒデさんは、結婚するから、俺は歌ではなく彼女を選ぶから、と言って脱退すると申し出た。シゲちゃんはヒデさんの恋人を知っている。知っているけれど、確実ではないからとその名前を口にはしない。
 ヒデさんはそれっきり行方不明になってしまった。調べる手立てはあるはずなんだけど、あいつが調べられたくないんだったら……とシゲちゃんは調べようとしなかった。だから、ヒデさんはそのまんまずーっと行方不明だ。
 メンバーが脱退するなんてありふれたこと、とは言うものの、シゲちゃんがヒデさんに会いたくてたまらないのは知っている。時としてシゲちゃんは、ヒデはこの曲、聴いたかな、ヒデは俺たちが出たテレビを観てくれたかな、恭子とやってるラジオを聴いたかな、どこかでライヴを見てくれたりしないかな、などと言っているのだから。
 たぶんシゲちゃんだって、私と知り合う前には恋人がいたのだろう。私にだっていたのだから、そんなのは当たり前。過去の恋はお互いに口にしないのがルールだと暗黙の了解をしているつもりだが、ちょっぴり気になったりはする。
 昔の恋人をなつかしむ以上に、シゲちゃんはヒデさんを……ううん、ヒデさんはシゲちゃんの中ではなつかしい人ではなく、彼が脱退した時点で途切れた絆をずっとひきずっている。
 こんなにもシゲちゃんはあなたを思ってるのに、あなたはどこにいるの? どうして行方不明のまんまなの? シゲちゃんの気持ちを考えないの? ヒデさんにとっては、シゲちゃんなんてもうどうでもいいの? 
 会ったこともないひとを、私も時として詰ってみたりする。ヒデさんに会えたとしたら、私はどんな顔をして、どんな挨拶をしようかな、なんて考えたりもする。ヒデさんって薄情者だよね、って口走ってしまって、シゲちゃんを慌てさせる想像をしてみたりもするのだった。
「いくらかは聞いてるよ。ヒデさんはシゲちゃんに、おまえはもてないもてないって言ったって。だからね、私、ヒデさんに会ったら言いたいの。シゲちゃんはあんまりもてなかったのかもしれないけど、こんなに素敵な恭子ちゃんと結婚したんだよ、どうだ、参ったか」
「参りました。あんまりじゃなくて……いえいえ、あんまりですね。すると、恭子さんは大まかな事情は知ってるんだ。きっと俺よりもよく知ってるよ」
「あんまりじゃなくて?」
「それを追求するのはやめましょう」
「私も追及したくない。だって、あんまりもてないって言ったって、あんまりかっこよくないって言ったって、シゲちゃんはシンガーなんだし……追求しないんだった」
「そうだよぉ。恭子さんがなにを言いたいのか、僕、ちーっともわかんない」
 嘘だろうとは思うが、信じているふりをしておいた。
「シゲさんと章と俺の三人の秘密ってのがあるんだけど、シゲさんは話してないだろうな」
「なになに? 聞きたい」
「だいぶ前なんだけど、乾さんが交通事故で亡くなったって誤報が飛び込んできたんだよ。誤報だよ。誤った報せ」
「それくらい知ってる。で?」
 ちらりとも聞いた記憶はないので、私は三沢さんをせっついた。
「その報せはリーダーのケータイに入ってきた。リーダーは焦りまくって、確認してくるって飛び出していった。その間のできごとだよ。美江子さんもいなかった。シゲさんは恭子さんとも知り合ってなかった。乾さんはもちろんいなかった」
「そりゃそうだよね」
「章がパニックの極地になっちゃってね。あのころの章は、乾さんなんて大嫌いだ、ってよく言ってたんだよ。恭子さんはそれは知ってる?」
「知らない」
「シゲさんはそんな話はしないだろうな。俺もパニクってたし、シゲさんも激しく激しく焦ってたんだけど、中でも章は口から泡を吹いて倒れそうなほどにパニック状態になって、言ったんだよ」
 乾さんがいなくなるんだったら、俺のほうがいい、だったのだそうだ。
「俺だったらいなくなったら、みんなはせいせいするだろ、って叫んだ章を、シゲさんがぶん殴った」
「え? シゲちゃんが……」
「あの非暴力主義の平和主義のシゲさんがだよ。それでむしろ、俺は冷静さを取り戻せました」
「わかる気がする」
「章は泣き出して、シゲさんは章にあやまって、俺は頭が攪拌されかけていたのをなんとか鎮めて、そうこうしているうちに、リーダーが正しい報告をしてくれた。乾じゃなかったーっ!! ってさ。あのときのシゲさんの顔は鮮やかに覚えてるよ。時間の前後関係はあやふやになってるんだけど、シゲさんはリーダーからの電話を受けて、へたーっと崩れそうになってた。誰がいなくなったとしても、俺たちはフォレストシンガーズじゃなくなるんだよ。章だってもちろんそうなんだけど、あのころの章はひがみっぽくってね。今でもその傾向は残ってるけど、あのころはかなりのものだったんだ」
 うんうんとうなずく私に微笑みかけて、三沢さんは続けた。
「けど、それで章の本音がわかったわけね。俺はそっちが嬉しかったんだけど、シゲさんは章を殴ったのを悔んでて、他の三人には秘密にしようって言ったら、それだと俺は卑怯者だろ、なんて言ってたよ。いつしかそのできごとも過去になったんだけど、さすがの章も誰にも言ってないんじゃないかな。優しくて穏やかなシゲさんが章を殴ったなんて聞いて、恭子さんは失望した?」
「しない。それって……なんて言うのかな。うまく言えないけど、シゲちゃんの気持ちもわかる気がする。シゲちゃんは怒ったっていうよりも……」
「怒ったのもあるでしょ。シゲさんって心底怒らせると怖いんだよぉ」
「三沢さん、私を脅迫してるの?」
「そんなんじゃないし、シゲさんが恭子さんに心底怒るなんて、地球が崩壊してもありっこないし」
「大げさ」
「俺が大げさだってのは、シゲさんは言ってないの?」
「いっつも言ってる」
 やっぱしぃ、と三沢さんは無邪気に笑った。
「シゲちゃんにだって意外な一面ってあるんだよね。そういうところを話してくれてありがとう。秘密なんだったら私も秘密は守るからね」
「お礼にキスしてくれる?」
「駄目」
「やっぱし。じゃあ、そろそろ帰りましょうか。恭子さんはおなかがすいたでしょ」
「うん、すっごくおなかぺこぺこ」
 帰り道でも、三沢さんはフォレストシンガーズのちょっとしたエピソードを話してくれた。アマチュアだった時代に、ヒデさんとシゲちゃんと三沢さんの三人で話した会話のひとこま。三沢さんがシゲちゃんにおごってもらったラーメン。シゲちゃんがいかによく食べるか。
「そうそう、思い出したよ。アマチュアのころ、ヒデさんがいたころに、仕事でとある田舎に行ったんだ。明日は天気になあれ、フォレストシンガーズの明日もぴっかぴっかの晴天になあれ、って、てるてる坊主をこしらえて、俺には手の届かない高い樹の枝に、ヒデさんに吊るしてもらったんだ。俺、今でもたまに夢に見るんだよ。何年も何年もたつのに、てるてる坊主があの枝で揺れてる。てるてる坊主ちゃんはヒデさんの顔をしてて、土佐弁で俺たちを……なんて言ってるんだろ。声が聞こえなくってもどかしい、そんな夢を見るんだ」
「三沢さんもヒデさんを……」
「ねえねえ、それはそうと、恭子さんが俺のほっぺにちゅってしてくれたって、シゲさんに言っていい?」
「してないのに、言ったら駄目」
「してないからこそ言うんじゃないか」
「嘘はいけません」
 でも、面白くなくもないかも。どうしようかなぁ、と迷っていると、むこうから本橋さんとシゲちゃんが走ってくるのが見えた。いくらか遅れて、木村さんもいやそうに走ってくる。三沢さんが言った通りだったので、ふたりで笑っていると、本橋さんが立ち止まって言った。
「シゲは本調子が出てなかったぞ。幸生、おまえが恭子さんをさらっていくからだろ」
「さらって? おーお、ほんとにさらいたい。恭子さん、俺と駆け落ちしましょうか」
「返事する気にもならない。シゲちゃん、お疲れ。汗かいてるね」
 駆け寄ってシゲちゃんの汗をふいてあげていると、三沢さんは言った。
「ふたりでお風呂に入ってきたら? 覗かないから」
「当たり前だろ。シゲ、一番風呂は恭子さんと、どうぞ」
「本橋さんまでそんなことを……いいえ、遠慮します」
「遠慮しなくてもいいのに。そしたら、恭子さん、僕ちゃんとお風呂に……うきゃっ、冗談ですよーっ!!」
 当たり前だろっ、と木村さんまでが言い、三沢さんは全速力で逃げていった。私はシゲちゃんといっしょにお風呂に入ってもいいよ、とシゲちゃんの耳元で囁くと、真っ赤になってぶるんぶるんとかぶりを振る。そんなシゲちゃんを見て、本橋さんも木村さんも大きな声で笑い出し、私も笑った。逃げていく三沢さんも笑っていた。


細いなぁ、背が高いなぁ、それ以外の感想なんか出てこない気分で、写真マニアだかモデルさんマニアだかの男の子たちのカメラに取り囲まれているモデルさんたちを見上げていた。
「あのひとたちのおなかの中には、ちゃんと内臓が入ってるんだろうか」
「真偽のほどは定かではありませんが」
「乾さん? 打ち合わせはいいんですか」
「うん、だいたいは終わったよ」
 午前中はフォレストシンガーズのみなさんはアルバムの打ち合わせをすると言っていた。専門的な会話には私はついていけないので、別荘を抜け出して散歩に来ていた。撮影会のステージを見上げてひとりごとを言っていたら、いつの間にやら乾さんがとなりに立っていたのだ。
「真偽のほどってなんですか」
「ハリウッドスターだのパリコレのモデルさんだのって女性は、極限までウエストを細くするために、肋骨を一本取り除くんだってね。本当なのかな」
「身体によくなさそう。長生きできなさそう」
「そうだよね。そこまでして細くなりたい女性の気持ちは、俺には理解不能だよ」
「私もスリムにはなりたいけど、そこまではしたくないな。でも、私、たくましいでしょ? 乾さんもほっそりした女性が好きですか」
「ああ、このひとは俺の好みだな、って外見を見て感じることはある。だけど、普通はね、外見ではないなにか、彼女の魂のどこかに惹かれ、魅せられ、引き合い、求め合って恋がはじまるんじゃないのかな。気づいてみたら互いに恋をしていて、好みじゃなかったはずなのになぁ、なんてこともあるよ」
「経験談ですか」
「どうだろうね」
 もてないもてない、と言いたがるシゲちゃんは、自分で言うほどではなかったんじゃないのではなかろうか、と私としては思わなくもない。自分で言うほどではなかったにしても、あまりもてなかったのはたしかだったのだろう。それに引き換え、乾さんはとってもとってももてるのだそうだ。
 本橋さんだって幸生だって章だってもてるんだぞ、とシゲちゃんは言う。中でもいっとうもてるのは乾さん。なのだそうだから、きっと経験談なんだろう。
「昼メシは章と幸生が作るって言ってたから、歩こうか」
「今朝は乾さんと散歩。嬉しいな」
「嬉しいと言っていただけると光栄ですよ」
 さりげなく腕を差し出したりして、こういうわざとらしくないところが、乾さんがもてる理由なのだろうか。シゲちゃんに較べれば数倍服装のセンスもいいし、ほっそり背が高くて、美青年というほどでもないにしても、現代的なかっこいい男なのかな、と私は思う。乾さんと腕を組んで散歩したりしたら、三沢さんとのときよりは危険な香りがしそうで、照れくさいのでわざと言った。
「私は人妻なんですから、腕を組んだりしちゃいけないわ」
「そうでしたね。ご無礼申し上げました」
 あっさり引っ込めちゃって、惜しかったかも、と思ってしまってから、シゲちゃん、ごめんね、と舌を出した。
「撮影会も終わったみたいだね。日本の女性も発育がよくなったもんだ。俺よりも背の高い女の子が何人もいるよ」
 ステージのほうを振り向いて乾さんが言うので、私も振り向いた。
「ほんとだ。でも、乾さん、その感想って明治時代みたいですよ」
「明治時代と来たか」
「乾さんのおばあちゃんって明治生まれですか?」
「大正だったな。俺は昭和生まれだからね」
「私もですよ。モデルさんの中には平成生まれの子もいるんでしょうね」
「だろうねぇ」
「……彼氏が迎えにきてるのかな」
 昭和は遠くなりにけり、だなんて、乾さんはおじいさんみたいに呟いていて、私はモデルさんに歩み寄っていく背の高い男の子をなんとなく見ていた。なんとなく見ていると、なんとなく見覚えがあるように思えてくる。目をぱちぱちさせてじーっと見ると、まちがいなく見覚えのある男の子だった。
「やだ、会いたくない。乾さん、行きましょう」
「会いたくないひと? 彼? ああ、行こうか」
 あの陽に灼けた長身の真っ白な歯の爽やかな男は、青山くんではないか。きみひとりの僕になるって言っても考え直してくれない? とまで言った青山くんの台詞は、嘘に決まっていると思っていた。やはり嘘だったようで、最新流行職業のモデルさんの彼女がいるのか。私が結婚してから一年近くになるのだから、青山くんが誰とつきあっていようと関係ないようなものだが、なんだかとっても腹が立つ。
 腹が立つので乾さんの腕に腕をからめて、さっさと歩き出した。乾さんは面食らったような顔をしていたものの、私の歩幅に合わせて歩いてくれていた。
 人影の少ない浜辺まで行って、昨日は三沢さんとすわった岩に、乾さんと並んで腰を下ろした。青山くんなんて忘れよう。今日も乾さんにフォレストシンガーズの話をしてもらおう。そう決めて乾さんにも、三沢さんにお願いしたのと同じお願いをした。
「シゲの知らないフォレストシンガーズの話ってのは、シゲが出てこないんだから、恭子さんにはつまらないんじゃないのかな」
「つまらなくないですよ」
「そう? そしたら、なんの話にしようか……なにかご用ですか」
 急に乾さんの口調が変わったので、見回すと青山くんがいた。
「恭子ちゃんの旦那ってこいつだった?」
「ちがうよ」
「だよね。結婚してるくせに……」
「このひとはシゲちゃんの先輩なの。なによ、その目つきは。青山くんこそ、彼女をお迎えにきてたんじゃないの? 彼女はどうしたの?」
「彼女? 彼女じゃないよ」
「ふられたの?」
 見てたのか、と青山くんは不機嫌になった。
 青山くんは背の高い細いモデルさんに恋をしているんだか、いつもみたいに遊び相手だと考えているのか、なににしても彼女と会いたくて撮影会がすんだところへやってきた。車で送ってあげようとでも言って断られたのか。ふられたからこそ機嫌が悪いのだろう。
「僕はただ、ここらへんを通りかかっただけだよ。そしたら恭子ちゃんが浮気しようとしてるから……」
「浮気なんかしてないよっ!! 無茶苦茶言わないで」
「浮気するんだったら僕としようよ。恭子ちゃんは独身のころってそれほどでもなかったけど、他人の奥さんになったとなると色っぽくなってそそられるんだよな。どうせ一度はあんなこともこんなこともした仲なんだから、もう一度あんなこともこんなことも……」
「あんなこととかこんなこととかって……バッカじゃないの。言わないでっ!!」
「彼は恭子ちゃんの旦那の友達だっけ。言われたら困るんだ。言わないから、あとでそーっと……」
「やめてってば」
 低い声で、乾さんが言った。
「やめろ」
「な、なんだよ」
「やめろと言ってるんだ。聞こえなかったのか。人間として最低限のルールも守れないような奴が、結婚してる女性を誘惑しようなんて言語道断だよ。おまえみたいな奴に女性を口説く資格はない。行け」
「な、なんだって……なんでそうやって……」
「強そうだね、きみ。やる?」
「なにをやるって……え……? いや、あの……ジョークだから」
「ジョークと呼ぶにはタチが悪すぎる。俺も聞かなかったことにするから、さっさと行きなさい、坊や」
 本物の坊やみたいに頬をふくらませて、青山くんは背中を向けた。
「もういっぺん彼女に当たろう。恭子ちゃんなんかよりよっぽどいいよ」
「そうそう。ああは言ったけど、独身女性を口説くんだったら許してやるよ」
「あんたに言ってねえんだよっ!!」
 言うが早いかだっと駆け出していった青山くんを見送って、乾さんはくすくす笑っていた。
「さっきの乾さんの声……いつもとちがって聞こえましたけど……」
「そう?」
「あの、あのね……あの、ええと……なにを言っても言い訳になるのかな」
「言い訳なんかしなくていいよ」
「人間として最低限のルールって?」
「俺はそれは知ってるつもりだから」
 だから、口止めなんかしなくていいよって? 乾さんがシゲちゃんに告げ口するなんて、私には夢にも思えない。だからなのかな、だから、こうだからこそ、乾さんはもてるんだろうか。そんなふうには言えなくて、ならばなにを言えばいいのかわからなくて、私はこっくりした。
 
 
5

 とっくに関係もなくなった青山くんが、モデルさんと恋をしていると知って腹が立った。腹が立ったのはまぎれもなくて、そのせいでバチが当たって、青山くんに言われたくないことを言われたのか。乾さんにまで聞かれてしまったのか。青山くんとあんなこととかこんなこととかをしたのは事実なのだから、私が悪いのか。
 そう考えていると食欲がなくなってきて、別荘に帰ってお昼ごはんを前にしても、食が進まない。せっかく三沢さんと木村さんがこしらえてくれたのに、具もとりどりで彩り豊かな冷やし中華がおいしくなくて、泣きたくなってきた。
「恭子、どうした? 腹が痛いのか?」
 横でもりもり食べていたシゲちゃんが、お箸を止めて私の顔を覗き込んだ。
「恭子がメシ食わないなんて、どうしたんだよ? 気分が悪いのか」
「私だってたまには食欲がないときもあるのよ。三沢さん、木村さん、食べられなくてごめんなさい。ごちそうさまでした」
「おいしくない?」
「ううん、三沢さん。おいしくないからじゃないの。なんだかこう……」
「恭子さん、顔色もよくないね」
 本橋さんも木村さんも、どうした? どうした? と言っている。乾さんはさきほどの一件を連想しているのか、弱ったな、といった顔をしているように見える。乾さんはともかく、私が食べないからって、そんなにみんなして心配しなくていいでしょっ!! と怒りたくなったのを我慢していると、美江子さんが私のおでこに手を当てた。
「熱っぽいかな。シゲくん、寝かせてきたら?」
「はい。恭子、休んだほうがいいよ」
「熱なんかないよ。食べます。食べられますから」
 食欲はなくても無理に食べようとすれば食べられる。おなかが痛いのでも熱があるのでもなくて、精神的に食べたくないだけなのだから。味のしない冷やし中華を全部食べると、シゲちゃんがほっとしたような声を出した。
「恭子は俺に負けないほどよく食うって、俺がいつも言ってるから、それでみんなが気にしてるんだけど、食ったら食えるんだよな」
「シゲちゃんほどは食べないよ」
「食うじゃないか」
「シゲちゃんの半分くらいしか食べないもん」
「倍だろうが」
「シゲちゃんの倍っていったらどれくらいになるのよ。あり得ない」
 無理やり詰め込んだら、本当におなかがしくしくしてきた。
「ごちそうさまでした。ごめんなさい。私、ちょっと寝てきていいですか」
「恭子、ほんとに腹痛か?」
「そうみたい。たいしたことはないから、シゲちゃんはここにいていいよ」
 ここにいていいと言ってもシゲちゃんはついてきて、ベッドに横になった私のそばにすわった。
「恭子、大丈夫か?」
「大丈夫。ちょっと眠いの」
「寝てもいいけど……病院に行かなくていいのか」
「うん、寝たら治るよ。シゲちゃんは優しいよね。シゲちゃん、大好き。大好きだよ、恭子はシゲちゃんだけが大好き。好き好き好き」
「あのさ……」
 どうしたんだよ、恭子ぉ、とおろおろしているシゲちゃんを適当にあしらっているうちに、眠ってしまったようだ。目を覚ますと、美江子さんとシゲちゃんがベッドサイドにいた。
「恭子さん、おなかはこわしてない?」
「寝たらおなかが痛かったのも治りましたけど……?」
「そんなら恭子さんは無事だったのかな。シゲくんもなんともないんだよね」
「俺は全然まったくなんともありません」
「恭子さんはけっこう長く寝てたのよ。そうしているうちに……本橋くんも私もなんともないんだけど、章くんと乾くんと幸生くんはおなかをこわしちゃったの。どうもね、冷やし中華に使ったなにかが傷んでたみたいなのよ。ハムや卵だったらひどい目に遭いそうだけど、植物性のなにかかな。胃腸の丈夫な四人は無事。胃腸の弱い男三人は下痢。ひどくはないみたいだけど、乾くんと幸生くんと章くんもベッドに入っちゃったよ」
「お医者さんに行かなくていいんですか」
「そこまででもなさそう。私は様子を見てくるね」
 美江子さんは部屋から出ていき、かわりに本橋さんが入ってきた。
「食っちまったんだから分析もできないけど、もやしかキュウリが古くなってたのかな。そんなんで腹をこわすもんかね」
「俺は野菜なんて古くったって平気ですよ。本橋さんだって、生まれてこの方腹をこわしたことはないんでしょ」
「記憶にはないな。恭子さんは?」
「私もほとんどありません」
「山田もそうみたいだな。胃腸の丈夫さってのにも差があるんだろ。だけど、恭子さんは腹痛を起こしたんだから、四人の中では弱いほうなのかな」
「私のおなかはすこしはデリケートなんですね。シゲちゃん、いたわってよ」
 量からするとシゲちゃんが一番、本橋さんが二番目に食べたのだそうで、やはりこのふたりの胃腸の丈夫さは並ではない。そんな話をしていると、三人ともだいぶおさまってきてるみたいだから、大丈夫そうだね、と美江子さんが報告してくれた。夕方になるころにはダイニングルームに全員が集まった。
「なにが古くなってたのか知らないけど、乾さん、恭子さん、すみません。俺がちゃんと確認しなかったから……ですよね」
 三沢さんが頭を下げ、本橋さんは言った。
「俺に古くなったものを食わせたのはいいのか」
「リーダーとシゲさんと美江子さんはけろっとしてるんだから、お詫びの対象外です。章と俺は作った本人だからしようがないとして、乾さんと恭子さんにはごめんなさい」
「私はほんのちょっとおなかが痛くなっただけだから、いいんですよ」
 実は精神的なものであって、古い野菜のせいではないはずだが、一応そう言うと、乾さんも言った。
「もうなんともないからいいよ。章はまだ痛いのか?」
「んんと……まだ腹が渋ってるってーか……まだやばいってーか。俺も作った本人だから自業自得ったらそうなんだけど、俺がいちばん弱いんですね。女は腹が丈夫にできてるって言うけど、リーダーとシゲさんはなんでそうなんでもかんでも強いんですか」
 知らん、とシゲちゃん、生まれつきだ、と本橋さん。木村さんはちょっとばかり頬がこけて見えるので、たしかに一番症状が激しかったのだと思えた。
「じゃ、章くんは今夜はお粥がいいよね。乾くんと幸生くんもお粥にする?」
「美江子さん、俺は晩メシはヌキでいいです。こういうときは絶食に限る。ガキのころからよく腹をこわしたんで、経験上知ってますから」
「章くんは絶食ね。乾くんと幸生くんは?」
「美江子お姉さまぁ、僕ちゃんは卵のお粥がいいな。乾さんは?」
「俺もそうしてもらおうかな。ミエちゃん、お世話になります」
「はいはい。まかせておきなさい」
 手伝いますよ、と言おうとしたら、恭子さんはすわってて、と美江子さんが微笑んで止めた。
 夜はお粥やら消化のよさそうなうどんやらお豆腐の煮物やらの食事にすると言って、美江子さんが作ってくれた。私の食欲も戻っていて、シゲちゃんと競争でよく食べた。
「うん。俺ももう平気みたいです」
 ひと口ふた口だけ食べた木村さんが言うと、美江子さんも言った。
「さっき、みんながダウンしてる間に本橋くんと買い物にいったの。月並みだけど花火でもする? 今日は午後から泳ぐ予定がこわれちゃったものね。花火パーティしようよ。シゲくんと本橋くんはビールを飲みたいでしょ。おつまみも買ってきたから」
お酒が好きなのも本橋さんとシゲちゃんが一番で、乾さんと三沢さんはあまり飲まないらしい。木村さんはお酒は好きだけど、飲むとじきに眠くなるのだと聞いていた。
「美江子さんも飲みますよね」
「私はたしなむ程度です」
「私もです」
「シゲさん、ほんと?」
 三沢さんが尋ね、シゲちゃんが答えた。
「恭子は食うのは相当だけど、酒はそんなに飲まないよ。甘党だし、酒より食うのが好きなんだよな」
「シゲちゃんはもっと好き」
「おい、人前で……」
 真っ赤になっているシゲちゃんを見て、みんなが笑っている。私もいっしょに笑いながら浜辺に出ていった。腹痛事件にあのいやなひとときがまぎれてしまったようで、みなさんには悪いけど、正直、私は古くなった野菜に感謝したくなっていた。
 男のひとたちが花火に火をつける。木村さんも元気になってはしゃいでいる。砂浜に埋めた打ち上げ花火が夜空に上っていくのを見上げていると、美江子さんが私の横にすわった。
「彼らを見てるとよく思うのよ。子供だったころの彼らに会ってみたかったな。今とあんまり変わりないのかしらね」
「美江子さんは十八のときのみなさんを知ってるんですよね」
「彼ら全員と、彼らが十八のときにはじめて会ったの。大学一年生だった本橋くん、乾くん、シゲくん、幸生くん、章くん、どんなふうな初対面だったかは、ひとつひとつ覚えてるよ」
「ヒデさんもですよね」
「ヒデくんも。どうしてるんだろうね、彼は」
「私もヒデさんに会ってみたい。美江子さんがうらやましいな。私も十八のときのみなさんと会いたかった。十八のときの美江子さんにも会いたかったです」
「私も十八歳の恭子ちゃんに会ってみたかったな。そのころ私は二十二歳か。社会人一年生だね」
 そのころの私は東京に出てきたばかりで、毎日が新鮮だった。私も社会人一年生。まだプロテニスプレイヤーにはなっていなくて、それを目指して練習に励みつつ、メーカーの製造部門の仕事もしていた。
年齢こそちがっても同じ社会人一年生だった美江子さんと私が出会っていたら、どんな会話をかわしたのだろう。
 プロにはなっていなかったものの、フォレストシンガーズは誕生していた。そのころに出会っていたら、美江子さんはフォレストシンガーズの話をしてくれたんだろうか。十八の私は、二十一歳だったシゲちゃんを好きになっていたのだろうか。
 写真でだったら見た二十一歳のシゲちゃんは、全体に四角い感じの生真面目そうな男の子だった。大学四年生だったシゲちゃんは合唱部の最上級生としても、アルバイトをしたりフォレストシンガーズの活動をしたりもして、一生懸命毎日をすごしていた。
 東京にはいたのだから、もしかしたらいつかどこかで、すれちがっていたのかもしれない。街角で出会っていたとしても互いに気づきもしないまま、歩いていってしまったのかもしれない。
「美江子さんは恋人は?」
「いません」
「ほんとに?」
「いないのよ。私、思うんだ」
 ふたりして花火を眺めながら、美江子さんは言った。
「シゲくんが真っ先に結婚した。次は誰だろ。案外、年下の章くんか幸生くんだったりして? 彼らって人の夫や人の父になってる姿が想像できないんだけど、年齢からしても結婚してもおかしくないんだよね。誰がシゲくんに続くのかは謎だけど、いずれはみんな結婚するのかもしれない。そうして私が置き去りにされるのかもしれない。そうなったとしても、フォレストシンガーズは永遠です」
「美江子さんは独身主義なんですか」
「そうじゃないけど、結婚なんてしたくてできるものでもないし、したくなくてもしちゃう、ってことはないのか。恋と同じなのかちがうのか、わかんないことばっかり」
「いちばんもてなかったシゲちゃんが一番に結婚したのも?」
「そうそう……あれ? 嘘よ」
「聞こえました」
「嘘だってば。ほら、恭子さん、夜空に花が咲きましたよ。綺麗ねぇ」
「ごまかしたってちゃーんと聞きましたから」
 えへへっと笑って、美江子さんは立てた膝に顎を乗せた。私も真似して同じポーズになって、ふたりで花火見物をしたり、こっちはこっちで線香花火をしたりしていた。
 むこうでは五人の男のひとが、ビールを飲んだり花火をしたりしている。おまえはやめとけって、と聞こえるのは、ビールを飲もうとしている木村さんを乾さんが止めているのだろう。どうしてだかふたつのグループに分かれていて、私は美江子さんとばかり話していた。
「今はいないっていうのを信じるとしても、前にはいたんでしょ?」
「恋人? いたよ。高校時代は計算に入れないとしても、十指に余る。そこまでじゃないか」
「十指に近い?」
「近いかな。乾くんほどじゃないだろうけど、私もこれでなかなかもてたのよ」
「そりゃあそうでしょうね」
「恭子さんったらお上手ね。ありがとう」
 冗談のつもりではなかったのだが、美江子さんは冗談めかして笑った。
「はじめてのひとなんて、はじめてっていうんだから遠い過去で、そんなのはいつまでも覚えてないってほんと?」
「……私は知りませんけど……」
「そうなの? 私はしつこく覚えてるんだな。今では遠い昔に好きだったひとであって、こだわりがあるわけじゃないの。でもね、ここんところにいるの」
 と、胸を押さえる。美江子さんのはじめてのひとって、どんなにか素敵なひとだったんだろうな。私はぼんやりと想像していた。青山くんのような見た目だけがかっこいい男じゃなくて、中身も素敵なひと。だからこそ美江子さんは今でも彼を忘れられない?
「あんなにも男を好きになったのは、あれが最初で最後だからかな。それからだって恋はしたけど、はじめてのあのひとほど好きじゃなかった。新しい恋が終わるたびそう思う。だからって、彼以上に好きになれるひとじゃないと結婚しない、なんて言うほどに若くもないし……」
「んんと……」
「若い恭子さんはそう言われても困るよね。恭子さんの立場からすると、過去の恋の話はできないの?」
「過去の恋ってほどの恋はありませんから」
 なくもなかったけれど、あんなのは恋じゃないし、と思えば思える。恋ではなく、単に男の子とつきあっただけだ。そうすると……?
「私の初恋ってシゲちゃんかも」
「それはあまりに嘘っぽいよ」
「そうでしょうか」
「そう思いたいんだったら思っててもいいんじゃない? 男は女のはじめての男になりたいと願い、女は男の最後の女になりたいと願う、って言うんだよね。そんなのは男により、女によるんだろうけど、どっちも最後の……最後の恋、最初の恋……うーん……」
「美江子さん?」
「ああ、いいのよ。シゲくんは恭子さんの初恋のひとだって言われたら、嬉しいのかな。言ってみた?」
「言いません。嘘っぽいから」
「そうだよね」
 美江子さんにも恋の悩みってあるんだろうか。あって当然なのだろうか。私は既婚、彼女は未婚といっても、年齢のせいばかりでもなくて、美江子さんは私よりもはるかに大人に思えて、気軽にそんな質問はできない気分になる。恋人はいます? と尋ねてみても、いつだって答えがむずかしくなってしまうのだから。

「あの日あのときあの場所できみに会えなかったら
 僕らはいつまでも
 知らないふたりのまま」

 ふたりともに黙ってしまったら、歌が聞こえてきた。
「ラヴストーリーは突然に? 乾くんの声にはなんともぴったりのメロディだよね」
「ほんとだ。綺麗な声……」
 まるで潮騒が伴奏してくれているみたい。美江子さんとふたりでうっとりと聴き惚れていた。

「誰かが甘く誘う言葉に
 もう心揺れたりしないで
 切ないけどそんなふうには心縛れない

 明日になればきみをきっと
 今よりももっと好きになる
 そのすべてが僕の中で時を越えてゆく」

 綺麗な綺麗な乾さんの歌声に、四つの声がハーモニーをつけている。世の中には音痴人種と歌の上手な人種がいて、その中間もいるのだとしたら、私はせめて中間になりたかった。だけど、シゲちゃんは歌の上手なほうの人種なのだから、私は音痴でもいいのかな。音痴の恭子の歌は味があっていいよ、なんて言っては歌わせようとするシゲちゃんを撃退するのは大変だけど。
「美江子さん、私、重大な秘密を告白します」
「ぎょ……なに?」
「私、音痴なんです」
「ええ?」
 きょとんと私を見返してから、美江子さんは吹き出した。
「そんなに笑わなくても……だからね、私も歌いたいけど、音痴が歌うと糠ミソが腐るから歌いません」
「ごめん。ああ、そうだったんだ。シゲくんが言ってた謎めいた言葉が腑に落ちたわ。糠ミソなんてないから歌ってよ。恭子さんの歌、聞きたいな」
「いやです」
「すねちゃった? 歌詞も恭子さんとシゲちゃんにぴったりだよ。ほらほら、あの日あのとききみに会えなかったら……」
「僕らはいつまでも……駄目、歌わない」
 あの日あのとき会えなかったら、いつまでも知らないふたりのまま。たしかにほんとに、シゲちゃんと私のための歌のようにぴったりだ。
甘く誘う言葉に心揺れないで、ってフレーズも? ううん、揺れたりしない。昼間だって揺れたりしなかった。あの歌を歌おうと言い出したのが乾さんだったとしたら、そのフレーズではなくて、美江子さんが言った部分がぴったりだから選んでくれたのだろう。
「恋ってそういうものかな。あの日、あのとき会えなかったら……そうだよね。そうして会わなかったら、恋ははじまらないんだから」
「美江子さん……」
 誰を思って言ってるの? とは尋ねずに、私は続いている歌を聴いていた。
 今では私がなによりも好きな歌は、フォレストシンガーズの歌。この世でいちばん好きな歌を、美江子さんとふたり占めにして聴いているこの瞬間はたまらなく幸せ。私の耳はしっかりシゲちゃんの低い声を聞き取っていて、誰にも聞こえないように、心の中でいっしょに歌っていた。

END

 

 
 
 

 

 
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~ Comment ~

NoTitle

恭子さんいいなーーシゲさんに愛されて、それにフォレォレストシンガーズと海行けて(>_<)私も皆と遊びたい(ToT)
幸生くんはなかなかやり手ですね(笑)私だったら完全に言いくるめられそう(^-^;
恭子さんとヒデさんの対面見てみたいな(笑)どうなるんだろ?他にも恭子さんのお話ありますか?

リアルチョコいいですか!? もし貰えるなら元気になり次第地の果てまで取りに向かいます!(笑)

たおるさんへ

いつもありがとうございます。

美江子を書いているときは、女性が彼女のことをうらやましがって下さったらいいなぁと思ってました。
恭子ちゃんもそう思っていただけるって、嬉しいです。
私もフォレストシンガーズの合宿にまぎれこんでみたい。合宿所のメイドさんとかでいいです。

恭子のストーリィはちょっとだけあります。
彼女が主役になっているものといえば。

193 英彦・恭子「情熱の薔薇」(4章)
http://quianred.blog99.fc2.com/blog-entry-378.html

キャラへの質問(本庄恭子です)
http://quianred.blog99.fc2.com/blog-entry-903.html

フォレストシンガーズ八月ストーリィ「夢花火」
http://quianred.blog99.fc2.com/blog-entry-992.html

このあたりですね。

ヴァレンタインはまだ先ですし、なんて言ってる間にあっという間にその日になりそうですが、近づいてきたらまた、ってことで(^o^)


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