番外編

番外編20(Blue illusion)

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番外編20

「Blue illusion」

1 大河

 俗世間を超越して寄生虫と共棲する男、加藤大河。世評では私はそういった男であるのらしいのだが、部分的には当たっているのかもしれない。表現を変えれば、頭の中では寄生虫が蠢いているばかりで、世事にはとんと疎い。そうなのかもしれない。
 事実、私と世間との細いつながりは、数少ない友人のみだ。友人たちは俗世に生きているので、恋だの名誉だの名声だのといった欲望にがんじがらめにされている。私の古い友人の徳永渉もまたその一員なのであろうか。彼に言わせれば私は寄生虫馬鹿であるのだが、そうすると、彼は歌馬鹿か。
 学生時代には私にも趣味があった。ロンドンで暮らしていた際に、両親に勧められてはじめたフェンシングだ。渉と出会ったのもフェンシングゆえだった。
 日本の大学に進学しようと志して、十七歳で単身帰国し、伯父夫妻の住まいに身を寄せた。子供のころから両親に日本語を習っていたので言葉には不自由しないつもりでいたのだが、大学に入学した当初は、私の日本語は変であったらしい。
 私が先に入部していたフェンシング部に見学にきた渉との初対面の際には、言葉遣いを咎められて戸惑った。渉はフェンシング部には入部せずに、合唱部に行ってしまったのだが、その後も会うたびに言葉遣いに駄目出しを受けた。
「男はメシを食うと言うんだよ。おまえも言ってみろ」
 学食でふたりで食事をしたときに、渉にそう言われたのが強い印象になって残ったようで、私はそれを守っている。
「加藤さんは言葉遣いが丁寧なのに、メシを食うって言うのだけが乱暴なんですね」
「悪い言葉なのですよね。知ってはいるんですが……お聞き苦しいですか」
「いいえ。普通ですけどね」
 いまだに時おり人に不思議がられるのだが、あのころの私は日本語を闇雲に吸収して、消化もせずに口に上せていたのだろうか。取捨選択はしたはずなのだが、「メシを食う」は残った。
 会うひと毎に変わっていると言われ、渉にも言われ、次第に私は、私は変わっているのだと自覚するに至った。そう言う渉は普通の人間なのだろうか。否、断じて普通ではない。寄生虫馬鹿の私には言葉では言い表せないのだが、渉も変人である。
 別種の変人同士が親しくなって、彼も私も友人が少なかったのもあって、そういったたぐいの人間は数少ない友人との縁が途切れにくいのか。いまだに彼とは交流が続いている。
 十年間も母校に居座り、二十八歳の齢となっても学生である私のもとには、時々卒業生が訪ねてくる。渉もやってくる。彼はこのたび積年の野望をかなえたのだが、そうなってからもふらりとキャンパスにやってくる。むろん彼は歓迎すべき客人ではあるのだが、時として私には向かない問題を持ち込んできて、私を困らせてもくれるのだ。
 彼の積年の野望とは、職業歌手になりたいというものだ。歌でメシを食いたいというものだ。彼は学生時代から私にも歌を聴かせてくれた。歌にも疎い私ですらも感動を覚える、素晴らしい歌だった。平素は低音で愛嬌も愛想もなく荒々しく話す彼の声が、歌うと輝きを帯びる。
 抒情的にも哀愁的にもなるかすれ気味の高音は、世の女性の心を震わせる。女性ではない私の心も震わせる。あの歌唱力や表現力に加えて、渉は風采もきわめてよい。背が高くて顔立ちもよいというのに、なんの要素が欠乏していて歌でメシを食えるようになれないのか。
 あまりに愛想がなさすぎるせいかとも私は思っていたのだが、渉もそうするべきときにはにこやかにもふるまえるようで、昨年、欠乏要素を乗り越えて歌手となった。
 歌手になったら人気も出てきたようだが、それでも時には大学にあらわれる。近頃は私ではなく、大学職員の下川乃理子さんに会いたいがため、とも考えられるのだが、彼の気持ちは定かではない。世事に疎い私の最大の疎さは「男と女」であるのだから。
 こんな私にも学生時代には、フェンシング部に恋人がいた。私の恋は後にも先にもあれっきりで、彼女とは卒業してから一度も会っていない。そのかわりのように、別の男性や女性がひょっこりと私の前に顔を見せるのだった。
「タイガー、ここにいたんだ」
 夏休みどきで学生の姿はなく、私がキャンパスのベンチでのんびり昼メシを食っていると、なつかしい声が聞こえてきた。
「……喜多さん。中国からお帰りになったのですか」
「そうだよ。暑いのにこんなところでお昼? 熱中症になっちゃうよ」
「暑いですか。ここは木陰ですから、僕は暑いとは感じませんが」
「タイガーはあいかわらずだね。口のききようも、浮世離れしてるところも昔のまんま。まだ寄生虫やってんの?」
「寄生虫とはやるものでしょうか」
「研究やってるんでしょ?」
「ああ、そうなると正しい日本語ですね。やっておりますです」
「私も二十五から中国にいたんで、日本語が変になってきてるのかな。日本語が変な同士で話してると、金子さんあたりにかたっぱしから治されそう」
 喜多晴海、渉の数少ない友人のひとりだ。私も顔見知りではあるが、長年会っていなかった。彼女が口にした名は、金子将一。彼もまた渉の少ない友人のひとりなのだが、友人だと言うと渉に訂正される。喜多さんは同年だから友人でいいのだが、金子さんはふたつ年上なのだから、友人ではなく先輩なのだそうだ。
 先輩だとしても友人ではないのか、と私は思うが、先輩と友人は別なのだそうで、日本語はいつになってもむずかしい。
「ちょっと前に帰ってきたんだけど、徳永はデビューしたら売れてきたんだよね。すぐにはあいつには会えないみたいだけど、電話で帰国報告はしたの。そしたら、タイガーはずーっと大学にいるから、会ってきたらどうだ、って」
「僕に会いにきて下さったとは、ありがとうございます」
「改まらなくていいんだってぱ。まあ、タイガーはそういう奴だったよね。なんにも変わってないから安心したよ。徳永とはよく会ってるんでしょ。金子さんやフォレストシンガーズとは?」
「金子さんとは長らくお会いしていません。フォレストシンガーズはほとんど会う機会もありませんね」
「じゃ、知らないよね。本庄くん、結婚するんだって」
 フォレストシンガーズとは、渉の永遠のライバルである。私は事情を詳らかには知らないが、多少は知っている。本庄さんとはそのフォレストシンガーズの一員で、喜多さん、渉、私の一年年下に当たる。私は数年前に彼に会ったのだが、彼もあのときには、徳永さんは友達ではなくて先輩です、と言っていた。
 喜多さん、金子さん、五名のフォレストシンガーズは、いずれも合唱部時代の友人であるはずなのだが、渉にとってはフォレストシンガーズは友人ではなくライバルだと言う。またもやむずかしい。日本語もむずかしいが、渉の脳内もむずかしい構造になっているのだろう。
「本庄くんはテニス選手の川上恭子さんってひとと、秋に結婚式だって。そのあとでフォレストシンガーズが学園祭に来るって聞いたんだけど、タイガーは知らないの?」
「存じませんでした」
「学園祭には金子さんも来るんだそうだけど、徳永は呼ばれてないみたい。あいつは母校でも嫌われてるんだろうか」
「嫌われてはおりませんよ。金子さんにしろフォレストシンガーズにしろ渉にしろ、我が校出身のプロシンガーなのですから、母校の誉れです。合唱部では特に名誉としているんでしょうね。僕は合唱部とは関りはありませんので、実情には詳しくないのですが、恐らくそうだろうと思われます」
「金子さんはけっこう売れてるけど、フォレストシンガーズはそれほどでもないし、徳永は新人だもんね。徳永は当然、呼ばれてもいないのに行くかよ、って言ってたけど、私は学園祭に来ようかな。今は失業中で暇だし、つきあってくれる?」
「僕は学園祭にも関っていないのですよ。寄生虫の展示をしても見に来て下さる方もいないかと、僕の研究室ではとりたててなにもしませんので」
「そうでもないんじゃない? 寄生虫好きっていなくもないよ。博物館があったりもして、徳永よりは人気があるって聞いた。やれば?」
「やるとすると来年ですね。今年は準備が間に合いませんよ」
 しかし、喜多さんが来ると言うのならご案内役はつとめよう。しかししかし、私には気がかりもあった。
 近頃の渉が彼女に会いたくて大学に来るのではないかと、考えなくもない乃理子さん。彼女は学生時代にフォレストシンガーズの本橋さんの恋人だったのだそうだ。私は彼女自身の口から聞いた。彼女が長らく、本橋さんを心に住まわせていたのだとも聞いた。
 現在の乃理子さんは過去の恋は振っ切ったのだと言っていたが、さて、どうなのだろうか。乃理子さんは本橋さんに会いたいのか、会いたくないのか。学園祭にフォレストシンガーズが来ると、彼女は大学職員なのだから知っているはずだ。なのに顔を合わせても私には告げないということは……?
 渉は乃理子さんを憎からず思っているのか。乃理子さんも渉に好意を持っているのか。互いに悪感情を持っているとは決して思えないのだが、では、互いの感情がどういうものなのかは、私には見極めがつかない。あのふたりにはなにかしらあったような気もするが、それもどうなのか、聞いていないのだからわからない。
「どうかした? むずかしい顔して」
 黙ってしまった私に問いかけてくる喜多さんに、相談してはいけないのだろうか。私にはさっぱりわからない。むずかしすぎるのだから、顔もむずかしくなるのだろう。
 男と女の間には友情が成立する。喜多さんと渉はかつても現在も恋人同士ではないだろう。男女間の友情の証明が彼と彼女だと私は確信している。ならば、渉の色っぽい話をしてもいいのかもしれないが、話すと渉と乃理子さんに悪いような気もして、当事者ではない喜多さんに言ってはいけないのかとも思う。
 こういう問題はなにしろ私には向かないのだ。友情ならば理解できるが、恋情はむずかしすぎる。日本語以上にむずかしすぎる。乃理子さんに直接尋ねるとしても、どう切り出せばいいのだろう。そ知らぬふうでいるのがいいのか。
「タイガー、どうしたの?」
「いいえ。僕も金子さんやフォレストシンガーズの歌を生で聴けるのは楽しみです。お供させていただきますので、当日にはよろしくお願いします」
「学園祭デートか。うん、私も楽しみにしてるね」
「それをしてデートと呼べるのだとしましたら、デートなんて何年ぶりでしょうか」
 その件についてはあとでじっくりみっちり、考えてみようと決意している私の耳に、喜多さんの呆れ声が聞こえてきた。タイガーってほんと……までは聞こえたが、そのあとがどう続くのかも、私にはまったくわからなかった。


 いくら考えても結論を出せないでいるうちに夏休みが終わり、学園祭が近づいてきた。渉はこのところ連絡してこない。乃理子さんとはちょくちょくキャンパスで出会うのだが、学園祭の話題に触れようとはしない。そうなると私からは言い出せなくて、果てしもなく困っているうちに、学園祭当日が訪れた。
「タイガーの私服って白衣?」
「いけませんでしょうか」
 約束の時刻に門まで迎えにいくと、喜多さんは今日も呆れ声を出した。
「こんな日でも白衣を着てるんじゃ、そりゃあ、デートは何年ぶり、ってことになるよね」
「着るものが悪くて、僕はデートができないんでしょうか」
「したいの?」
「したくなくもなく……したくもなく……ですが、喜多さんとデートさせていただくのは嬉しいです」
「私はタイガーがなにを着てたって気にしないからね。行こうか」
「参りましょう」
 職業歌手の舞台は午後からなので、喜多さんとふたりでそちらこちらのサークルの催しを見物したり、屋台をひやかしたりして歩いていた。そうしていると、華道部の前衛的なる活け花を眺めている男性のうしろ姿が目に入ってきた。
「金子さんだ。私も金子さんに会うのは久し振りなんだよ。金子さーん、金子さん、覚えてますか」
 駆け寄っていく喜多さんを認めると、金子さんの表情がほころんだ。私も喜多さんについていき、金子さんに会釈した。
「晴海ちゃんだね。ずいぶんと久し振り。元気そうだね」
「はい、金子さんもお元気そうで、ご活躍のご様子ですね」
「ご活躍はまだまだですよ。タイガーも久し振り。晴海ちゃんとタイガーが連れ立っていて、徳永は来てないのか」
「あいつは呼ばれてないからってひがんでて、来ないんだそうですよ」
「ひがんでるんだかどうだかは知らないけど、徳永だったらそうだろうな。タイガーは研究室に残ってるって徳永から聞いていたから、会えるかもしれないとは思ってた。晴海ちゃんについては徳永からは聞いてなかったんだけど、帰国したんだね」
「わりあい最近に帰ってきました」
「そうか。俺の出番まで時間はあるから、どこかで話そう。俺は学校に来るのも久し振りだからなつかしいよ。どこで話そうか」
「よろしければ僕の研究室にいらして下さい。本日は寄生虫学科はなにもしておりませんので、研究室は空き部屋になっております」
 喜多さんと金子さんを研究室に案内していく途中で、私は言った。
「飲みものを求めてきますので、先にいらしていて下さい。あの窓が僕の所属する研究室です。中に入ると愛らしい生物の標本が並んでいますので、可愛がってやって下さいね」
「可愛がるのは金子さんにおまかせしますね」
「寄生虫ってメスか、オスか、タイガー?」
「雌雄同体もいれば雌雄異体もおります。金子さん、寄生虫を可愛がるとすると、雌雄によって話しかける言葉が異なるのでしょうか」
「そうしたほうがいいのか」
「標本は生きてはいませんので、話しかけても聞こえません。よしんぱ生きていたとしましても、彼らは人語は解さないのではないかと……そこまではまだ研究していませんので、僕にも不明ですが」
「ああ、わかったよ」
「金子さんは頭の回転が速いのですね。僕にはわからないことばかりで……」
 わからないこと、というのは寄生虫についてではなかったのだが、この話の流れ上、寄生虫だと思ったのだろう。もういいよ、と辟易した顔で金子さんに言われ、私はひとまずふたりと別れて、屋台で飲み物を買おうと歩いていった。
 秋とはいえ晴天で気温も高いので、つめたい飲み物の屋台は繁盛している。私が行列の最後尾につくと、またしてもなつかしい声が聞こえてきた。
「ビールは売ってないんだな。学園祭では酒は禁止だったか、幸生?」
「俺たちのころはこっそり……いいえ、学内は禁酒ですよ。ディズニーランドみたいなもので、酒は販売も摂取も禁止。あったり前じゃん。それにですね、リーダー、俺たちはこの後、なにをするんですか? なんのために母校に来たんですか」
「おまえらしくもなく真面目な面をするんじゃねえよ。飲みたいから言ってるんじゃないんだ」
「じゃあ、なんのため?」
「たしかめてみただけだろ」
 学部生当時は彼らとは親しくなかった。本橋さんと乾さんは私と同年だが、学生数の多い大学では、学部もサークルも別々ならば親しくなる機会は少ない。本橋さんとは渉に紹介されて会話をかわしたこともあれば、異種サークル交流会で会った記憶もあるのだが、彼らは芸術系、私はスポーツ系サークルだったので、交流会では話はしなかった。
 紹介してもらったとはいえ、渉は常に本橋さんには喧嘩腰だったし、交流会では校内ではスター的存在だった合唱部のキャプテン本橋さんと、四年生はふたりしかいなかったので、私がキャプテンになるしかなかったフェンシング部代表とでは、会話も成り立たなかったかもしれない。本橋さんがフェンシング部の存在を知っていたのかどうかも怪しいし、加藤大河という男などは覚えてもいないのではあるまいか。
 が、たしかに今、本橋さんがすぐ近くにいる。本橋さんをリーダーと呼んでいる小柄な男は、フォレストシンガーズの三沢幸生だ。本橋さんは彼を幸生と呼んだ。私はプロの歌い手集団としてのフォレストシンガーズを知っているので、顔からしても三沢さんにまちがいないと思えた。
 周囲の学生たちは、金子さんにもさして意識を払っていなかったが、フォレストシンガーズも同様なのだろうか。あまり売れてはいないらしいのは、学生たちの態度を見ていれば実感できる。私が彼らに声をかけたとしても、あんたは誰? と問い返されるであろうから、飲み物を三つ買ってきびすを返そうとした。本橋さんと三沢さんも、なにやら言い交わしながら遠ざかっていこうとしていた。
「おや?」
 足が止まったのは、やや離れた場所にいる乃理子さんの姿が見えたからだ。乃理子さんの視線の先には本橋さんがいる。本橋さんは乃理子さんに気づいてはいない。しばし本橋さんの背中を見ていた乃理子さんは、くちびるを噛んで歩き出した。
 ここで私はどう行動すればいい? 喜多さんから学園祭の話を聞いて以来、胸の中にわだかまっていた、どうしていいやらわからない、が噴出してきそうになる。噴出したとしても、どうしていいやらわからないのは同じだ。本橋さんにも乃理子さんにも話しかけることもできずに、私は突っ立っていた。
 と、かなり遠ざかっていっていた三沢さんが振り向いた。乃理子さんは三沢さんに背を向けて逆方向へ遠ざかっていこうとしている。三沢さんは本橋さんに小声でなにか言い、ひとりで早足でこちらへと歩いてきた。乃理子さんの足はどんどん速まり、学生たちにまぎれて見えなくなっていく。私は思い切って、私の横をすり抜けていこうとした三沢さんに話しかけた。
「……あの、失礼ですが……」
「はい? 先生ですか」
「いえ、私は院生です。フォレストシンガーズの三沢幸生さんでいらっしゃいますね」
「そうですけど、ただいまちと取り込み中でして、あとで……あーん、見えなくなっちまったよぉ」
「乃理子さんを追っていらしたんですね。本橋さんにはなんとおっしゃったんですか?」
「……あの、なにかごぞんじなんですか」
「三沢さんもごぞんじの様子ですね。三沢さんと話したからといって、なにがどうなるものでもないのでしょうけど、お話しできますか」
 背伸びして学生たちの人込みを見やっていた三沢さんは、諦めたように私に向き直った。
「加藤大河と申します。本橋さんや乾さんとは同学年です」
「加藤さん……合唱部ではありませんよね?」
「私はフェンシング部でした。あったのですよ、フェンシング部というサークルも」
「はい。そのフェンシング部の方がなにか……?」
「ご不審の点は話をしていただければ……本庄さんからはなにもお聞き及びではありませんか。徳永渉くんからは?」
「シゲさんに徳永さん……なにも聞いてないと思うんですけど、下川さんの話でしたら、それについてご存知なのでしたら、俺も加藤さんとお話ししたいです」
「では、歩きましょうか」
 金子さんと喜多さんのいる研究室に伴ってはいけないのかもしれないので、ふたりして歩きながら簡単な自己紹介をした。
「寄生虫の研究ですか。っうと理学部?」
「我が校の寄生虫学科は医学部です」
「おーーっ、天才」
 天才と言われて面食らっていると、三沢さんは奇怪な生き物を見る目で私を見つめた。
「だって、うちの大学って他はたいしたことないけど、医学部と法学部は別格だって評判じゃありませんか。医学部の院生は天才じゃん」
「医学部医学科は難関ですが、寄生虫学科は医学部の中でも別格です。難易度が低いという意味の別格なのですよ。私は医者ではなく、寄生虫の研究者なのですから、天才などではありません。医者もおおむねは天才でもないのですが、その話は後ほどに致しましょうか」
「後ほどに致していただきましても、わたくしにはちんぷんかんぷんだと思われますが、あの、加藤さん、加藤さんって俺より二年先輩でしょ? 敬語は無用です」
「私はこんな話し方しかできないのですよ。学部生にも丁寧語で話すものですから、変な奴だと言われております。十七歳までロンドンで育ちましたので、日本語は不自由なのです」
「不自由だとは思えませんが……ロンドン生まれのタイガー?」
「愛称はタイガーですよ」
「なんだかこう……本橋さんだったかな。ロンドン生まれのタイガーさんの話をしてくれたような記憶はあるのですが、不正確な記憶であいすみません。って、俺もなんか日本語が変」
「私よりはまっとうでしょう」
「……すみません。俺、人の話を脱線させるのが特技でして、本題をどうぞ」
 本題と言われても、なにをどう話せばいいのかとためらいつつ、私は言った。
「私は学生時代から、徳永渉とは親しくしてもらっていました。現在でも親しくしてもらっています。彼は私を訪ねて大学に来てくれます。フォレストシンガーズのみなさんにつきましては、渉からの情報によって、多少は知っているつもりです。乃理子さんが大学職員をなさってるのもごぞんじですか」
「俺が学生だったころにはそうだったのは知ってましたけど、今でもなんですか」
「それからずっとですよ。私もずっと大学にいます。乃理子さんも同じです」
「乃理子さんと加藤さんは恋人同士?」
「いいえ。友達のつもりです。では、三沢さんは、乃理子さんの本橋さんに対する想いもごぞんじなんですね。であるからこそ、先刻はああいった行動を取られたと解釈してよろしいのですね」
「はい、よろしいです。でも、今でも?」
「はて、そこが私にはよく……三沢さんは本橋さんから離れる際に、本橋さんになんとおっしゃったのですか?」
「おしっこ」
 渉が話してくれる内容から、三沢幸生という人物の多少の知識はあったのだが、この返事には笑いそうになって、慌てて表情を引き締めた。
「お手洗いにまでは本橋さんは同行なさらないと」
「そりゃそうじゃん。連れ……いえいえ、失礼しました。加藤さんと話してると、俺のほうこそよっぽど日本語が不自由だって気分になってきますよ。重ね重ねのご無礼の段、平にご容赦下さいませませ」
「はい、ませませ」
「ませませっ……えーとね、そんでね、つまり、早い話が、乃理子さんはまだ本橋さんに? 何年たつの? あのころは……俺が四年のときだったかな。すると、乃理子さんは俺よりひとつ上だから、大学の事務員さんになったばかりの年ですよね。乃理子さんと事務所で会っていっしょに昼メシ食って、話してたら彼女の本音が聞けたんです。過去の恋だと彼女は言ってたけど、ひきずってるんだな、って俺は思いましたよ。それからだって何年たつの? 本橋真次郎って男はそんなにも、昔の彼女の心に翳を落とすような奴なのか。くーっ、うらやましい」
「うらやましい?」
「いえいえいえ、なんたる罪な奴!!」
「三沢さんは私よりも二年下ですね。すると、二年間は同じ大学で学んでいたのですよね」
「その計算になりますが、生憎、まったく記憶にございません。ごめんなさい」
「私の記憶にもないのですが、本庄さんとはずいぶんと性格に差がおありのようで……当然でしょうけど」
「シゲさんは硬派で、俺は軟派のきわめつけですから」
 本橋さんとはほんの一瞬程度の会話をした。乾さんとは話もしていないはずだが、彼も私の印象には強く焼きついている。なんといっても彼らは合唱部の、引いては校内でのスターだったのだから。
 本庄さんとは彼が大学にやってきた際に、いくらか話した。フォレストシンガーズが結成当時にメンバーだった、小笠原さんの話をしたのではなかったか。あのころの渉は職業歌手にはなれていなくて、そんな渉を本庄さんは気遣ってくれていた。ともあれ、本庄さんとも小笠原さんとも、学生時代には触れ合いはなかった。
 木村さんとも三沢さんとも、私はなんらの接点もない。渉から聞いた話をあれこれつなぎ合わせてみても、私には彼らの像は明確には結べずにいた。
 けれど、こうして三沢幸生本人と話していると、本題は本題として、興味深い人物だと思える。私の苦手な問題は一切なくて、酒でも飲んで話したらさぞや楽しい相手だろうと思えるのだが、乃理子さんが気がかりであるのも事実だ。いったいどうしたらいいのか、私の胸のわだかまりが、乃理子さんの心の翳が、消える日は来るのだろうか。
 
 
2 大河

 そもそも私は、乃理子さんの心をはっきりとは知らないのだ。三沢さんもむろん、乃理子さんとはそれっきり会っていないのだそうだから、現時点での彼女の心は知らない。ふたりでキャンパスを歩いて話していても、彼には言えないこともある。彼にも、私には言えないこともあるのかもしれない。
「三沢さん、そろそろstand byのお時間ではありませんか。お仕事の前でいらっしゃる三沢さんに、お手間を取らせてしまいまして申し訳ありません」
「スタンバイって英語だとそう発音するんですね。さすがってーか……いえ、まだもうすこしはいいんですよ。あ」
「あ」
 同時に声を発した。乃理子さんがいたのだ。
「三沢さん、タイガーさん、私のいないところで私の話をしないでよ」
 怒っているのか、泣きたいのか、わずかに笑ってもいるのか。そんな表情で、乃理子さんは独言めいて呟いた。
「徳永さんもデビューして、プロシンガーになって私からは離れていくんだね。寂しいけど、ううん、それでもいい。私が昔知ってたひとが、大学の先輩が何人もプロシンガーになるだなんて、後輩としてはすっごく嬉しいんだもの。私ね、フォレストシンガーズを見たり聞いたりすると思うの。こんなふうに」
 澱みなく、彼女は言葉を続けた。
「つきあおうか、ってあなたに言われずにいたら、あんな悲しさも切なさも知らずにすんだんだろうか。長い間の胸の痛みとも無縁に、気楽に生きていけたんだろうか。だけど、私は知ってしまったんだから。あなたに恋をして、おまえが好きだと言われて、おまえがほしいと言われて、キスも、ベッドで抱き合うってことも知った。さよならの苦しさも知った。想い出に苛まれるつらさも知った。それでもきっと私は、あのころに戻れるんだったらもう一度、あなたと恋をする。幼かったあのころに知ったすべてを抱きしめて、私は生きていくの。遠くからあなたたちを見ていよう。愛してくれたひとと抱いてくれたひとを、遠くからいつまでも応援していよう」
 そう決めたから、もう大丈夫だよ、と乃理子さんは、三沢さんと私を交互に見た。
「好きだった。大好きだった。そうして終わったの。遠い遠い昔にはじまって終わったの」
「俺に……じゃないよね。愛してくれたひとと抱いてくれたひとかぁ。じゃあね、乃理子さん、いいの? 今、あなたが言ったそのひとと話さなくていいの?」
「いいの」
「そうか。そうだね」
「何年か前だけど、三沢さん、ありがとう。行かなかったんだけど、チケットは宝物にしてしまってあるから、いずれは本物のお宝になるように、もっともっと成功してね」
「おーっ、がんばりまーすっ!!」
 じゃあねっ、と乃理子さんに手を振って、私には頭を下げて、三沢さんは駆けていった。
「タイガーさんは三沢さんとは初対面だったの?」
「ほぼ初対面に等しいです」
「面白いひとでしょ」
「そうですね。機会があれば別の話をしたいです。乃理子さん、あなたのいないところであなたの話を勝手に展開させまして、まことにすみませんでした。どこから聞いていらしたんですか」
「ちょっとだけ。いいんですよ。三沢さんも今でも、タイガーさんもずーっと、私を気にしてくれてたんだって、嬉しかったから。ただね、もしも、もしも、私がフォレストシンガーズのライヴを聴きにいって、本橋さんが気づいたとしたら、そんなのないだろうとは思うんだけど、絶対になくはないかもしれないから、私は行かない。タイガーさんは聴きにいってきて」
「よろしいんですか」
「うん、そう決めたから」
 当て推量でしかないのだが、乃理子さんはもしや、生身の本橋さんを目撃して本当に吹っ切れたのか。私にはその推量が正しいのかどうかもわからない。ただ、乃理子さんの表情は以前よりも明るく見えた。
「あのね、乃理子さん、喜多晴海さんがいらしてるんですよ。お知り合いでしょう? 喜多さんとでしたらお話しされたいのではありませんか」
「喜多さんだったら会いたいな。中国に行ってらして帰ってらしたの? 中国の話も聞きたい。ライヴがすんだら会わせて下さいね」
「承知しました」
 本当の本当に、乃理子さんはフォレストシンガーズの歌を聴かないのか。それでいいのか。私にはやはりわからないでいるうちに、彼女は立ち去った。
 研究室に戻ると、喜多さんは待ちくたびれて怒り顔になっていた。金子さんは仕事のスタンバイのためにとうに出ていったと言う。タイガーはなにをやってたの? と怖い顔で尋ねられて、私は応じた。
「すみませんでした。学部生に学問についての質問を受けておりました。そうしていると乃理子さんにも会いました」
「乃理子さんって下川のノリちゃん? ノリちゃんも学園祭に遊びに来てるの?」
 この表情からすると、喜多さんは乃理子さんが職員として母校に奉職していると知らないのか。渉は話していないのか。言ってはいけないのかもしれないので、曖昧にうなずいた。
「乃理子さんなんて呼ぶって、タイガー、ノリちゃんと親しいの?」
「いえ、乃理子さんは喜多さんとお話したいとおっしゃっていましたので、乃理子さんからお聞き下さい」
「そお? まあいいか。じゃあ、ライヴに行こうよ。もうじきはじまるよ」
「はい、参りましょう」
 歌手の公演などというものには、私はとんと縁がない。渉の歌でさえ舞台では聴いたことがないのだから、金子さんの歌もフォレストシンガーズの歌も、生で聴くのは初だ。
 素晴らしい、としか表現のしようのない彼らの歌は、実に素晴らしかった。乃理子さんがこれを聴かないなんて、なんともったいない。隅の目立たない場所で聴いていないのだろうかと、ひそかに見回してみても、彼女の姿は確認できない。
 耳では歌を聞きながら、脳裏に彼女の先ほどの言葉を蘇らせた。愛してくれたひとが本橋さんならば、抱いてくれたひととは渉か。抱いてくれたというのはつまり? 単純にシンプルに抱きしめたのではなく? holdsではなく、make love か。
 英語のほうが胸に落ちやすい私は、翻訳して納得して、ああ、やはりそうだったのか、とぼんやりと考えつつも、歌に耳を集中させていた。
 生の舞台が終了すると、乃理子さんとの約束通りに、喜多さんを乃理子さんのもとに案内した。再会を喜び合っていた女性ふたりが、ふたりでなんの話をしたのかは知らない。私は私で、金子さんに呼ばれて彼らの打ち上げの席へと連れ出されたのだった。
「加藤さん、ご無沙汰しております。あれっきりご挨拶もしませんですみません」
「覚えていて下さったとは、嬉しゅうございます。私も本庄さんとはもう一度お会いしたかったのですよ。ご結婚おめでとうございます」
「はっ、ありがとうございます」
「あれぇ、シゲさん、加藤さんを知ってるの? はじめまして。三沢幸生です」
 なんとも巧みにとぼけてくれる三沢さんに、私も話を合わせておいた。
「はじめまして。お噂だけはたびたび伺っておりますので、三沢さんともぜひお会いしたかったのです。感激致しております」
「ああ、思い出してきたよ。加藤くん、タイガー。ロンドン生まれで広島出身のご両親を持つ、徳永の友達じゃないか。本橋です。お久し振り」
「おなつかしゅうございます。本橋さんはご立派になられました」
「俺とは初対面でしたか。乾です」
「私は乾さんは知っていますが、乾さんはごぞんじないのでしょうね。お会いできまして光栄です」
「木村です。俺とはほんとのほんとに初対面ですよね」
「そうだと思います。はじめまして」
 そうして挨拶をかわし合い、酒になった。木村さんは私には関心を示さず、三沢さんは強いて近くに来なかったようで、乾さん、本橋さん、本庄さんの年長三人と主に話していた。
「そっか、シゲは会ってたんだ」
 乾さんが言い、本橋さんも言った。
「デビューした翌年の正月か。おまえ、そんな話したか?」
「どうだったかな。古すぎて忘れました」
 本庄さんは頭をかき、乾さんが言った。
「本橋からも加藤くんの話を聞いた覚えはないな。徳永からもないよ」
「乾さん」
「はい、加藤くん?」
「金子さんには卒業後に渉に紹介していただいて知り合ったのですが、そのときに金子さんはおっしゃいました。タイガーか、ふたつ下だよな、おまえはえらく言葉遣いがいいけど、俺はおまえより年上だからこういう口のききようをするぞ、でした。乾さんは私とは同年なのですから、友達同士の口をきいて下さい」
「あなたは……おまえはって言いにくいよ。加藤って呼び捨てでいいのか。言いづらい」
「タイガーとお呼び下さい」
「タイガーだったらまだいいけど、タイガーがそんな口のきき方なのに、俺は友達同士の口って、やりにくいよ。本橋、おまえは平気でタイガーをおまえ呼ばわりしてるんだよな」
「同い年なんだからいいじゃないか。変な気を使うな。な、タイガー?」
「はい、その通りです」
 そっちも丁寧語は……と言いかけて、乾さんは苦笑した。
「その言葉遣いが身についてるんだったらしようがないのかな。だけど、タイガーは徳永を渉と呼んでるんだろ。俺も乾でいいからね」
「はい、乾さん」
「ほら、さんがついてる」
 打ち解けてきてもなお、本橋さん、乾さんと呼んでしまい、指摘されたりもしたが、酒を酌み交わして彼らと話すのは、予想のままにたいそう楽しいひとときだった。
「金子さんは最近、バックバンドのメンバーを決めたんだ。プレイメンって言って、むこうで金子さんを囲んでるオヤジさんたちだよ。大ベテランスタジオミュージシャンの集団なんだけど、ひとりだけ若いだろ。金子さんは詳しくは教えてくれないんだけど、あいつ、まだ十九だったよな、乾?」
 本橋さんが言い、乾さんがうなずき、私も彼らに目を向けた。中年男性が数人、金子さんの周りにいる。たしかにひとりだけ若い男性がいる。乾さんが彼を手招きした。
「こう書くんだけど、タイガーは漢字の読みは堪能?」
 紙ナプキンに乾さんが綴った文字は、「忍野樹」だった。
「おしの・いつき? たつき?」
「いつきだよ。正解。たいしたもんだね。って、当然か。樹、金子さんから彼の素性は聞いたんだろ。おまえも挨拶しろ」
 乾さんに言われて、樹くんは軽く私に頭を下げた。「プレイメン」とやらの構成員たちも私に挨拶してくれ、私も挨拶して、ふへー、寄生虫? うげー、などと奇声を発せられていると、金子さんが言った。
「寄生虫と聞くと一般人はこういう反応を示すんだよ。タイガー、悪いな」
「悪くはありませんですよ。慣れておりますから」
「タイガーさんって大人の風格がありますよね」
 いつしか本庄さんもタイガーさんと呼んでくれている。「たいじん」と言われて、私は本庄さんに微笑みかけた。
「私は大人などというものではありません。養いがたき小人です」
「タイガーはシゲと似た体格だね。体格からすると中人かな」
 乾さんが言い、けっこうごついから逞人じゃないのか、などと本橋さんも言う。そしたらあんたは長人だと、プレイメンのひとりが背の高いひとりに言う。スーパーマンの超人か、と長身の男は聞き返し、それじゃない、と長人だと言った彼が言い返し、みんなが笑いさざめいている中を、私は席をはずした。
 寄生虫をうげーだのうへーだのと言われるのは慣れているが、酒の席には慣れていない。雰囲気にもいささか酔った気分で、洗面所で顔を洗っていると、背後で樹くんの声がした。
「タイガーさんって呼んでいい?」
「よろしいですよ、ご遠慮なく」
「タイガーさんってロンドン生まれなんだってね。いくつまでいたの?」
「十七歳までです」
「それだったら……どうなんだろ。そういうのには慣れてる?」
「そういうのとは?」
 鏡を見ると、樹くんの上気した顔が映っていた。
「メッカじゃないの?」
「なんのですか」
 ゆっくりした口の動きは、「ゲイの」だった。
「そのメッカはサンフランシスコのはずですが、ロンドンでも盛んですよ」
「そっかぁ、タイガーさんはそうじゃないの?」
「ちがいますが……」
「あのさ、俺さ……あ、なんでもない、なんでもないって」
 靴音が響き、金子さんが顔を見せた。
「樹、タイガーはおまえよりはるかに年長だ。おまえがプレイメンの年上の男たちにああいった扱いを受けるのは、おまえの無作法にも原因があるんだぞ。タイガーとおまえの口のきき方はあべこべじゃないか。きちんとした喋り方をしろ。さっきのおまえの挨拶もなってない」
「うるせえな」
「樹」
「うるせえんだよ」
 樹くんは走り出ていってしまい、金子さんは私に頭を下げた。
「すまない。若いからなんて言い訳にもならないんだけど、これから矯正していく予定だから、今のところは大目に見てやってくれ」
「金子さん、僕は樹くんの年頃の大学生と常日頃つきあってるんですよ。慣れておりますから」
「そうだったか。にしてもだよ。まったく近頃の若い奴は……っと、年寄りの愚痴になっちまうな」
 苦笑を残して金子さんも出ていき、私は樹くんの言葉を思い起こしていた。
 乃理子さんの独言は半分ばかりは理解できたのだが、樹くんのあれはなんだったのだろう。一般論か。あのさ、俺さ、のあとはなにを言いたかったのか。まさかまさか。私は男女間の恋愛にも疎いが、同性間だとしたらさらにさらに疎い。
 そのような相談を持ちかけられなくてよかった。渉からの又聞きによっても、金子さん本人を見ていても、金子さんにはその傾向は皆無だ。であるのだからして、樹くんがまさかの恋をしていたのだとすれば気の毒だが、それでなくても悩ましい頭に、悩ましさを増やさないでほしい。切実にそう言いたかった。


 その後の乃理子さんは、ごく自然にフォレストシンガーズの話題を口に上せるようになった。
「だんだんだんだん売れてきてるよね。金子さんも徳永さんも売れてきてて、三人じゃないな、三つのグループでもないけど、三組? みんな競争で売れてきてる。私としてはフォレストシンガーズがトップになってほしいな。本庄くんが結婚して、プライベートでもおめでたいし、ライヴをやるホールも大きくなってきてるのよ。ものすごく大きなホールでライヴをやったら、客席の一ファンなんてステージにいるひとの目に留まるはずもないんだから、そしたら私もライヴに行くの」
 目に留まってもいいのではないか。そんなふうに言うのは、完全には吹っ切れていないのか。私は乃理子さんに質問できずに、相槌を打っていた。
「近く、ライヴをやるんだよ」
 それから一年近くがたったころに、渉が私の研究室にやってきて言った。
「ジョイントライヴだ。金子さんとフォレストシンガーズと俺」
「ほおお、フォレストシンガーズとの確執のようなものは、払拭されたのですか」
「されてねえよ。俺の一方的なのは根強く残ってる。俺は執念深いんだろ。それはそれとして、仕事なんだからやるさ」
「乃理子さんには知らせましたか」
「いいや」
「大きなホールなんですか」
「それほど大きくはないけど、金子将一の名前でお客さんは呼べるから、まあまあでかいかな」
「金子さんの名前ですか」
「金子さんがメインだよ」
 あれは、樹くんのあれはどうなったのか。思い出すと悩ましくなるのだが、彼は私の管轄外だ。気にしないでおこう。
「タイガー、変な顔してどうした?」
「変な顔はしておりませんが、変だとしても僕はこんな顔ですし」
「……ああ、ノリちゃん、あのな」
 私の話などはろくに聞きもせず、渉は携帯電話を取り出している。かけている相手は乃理子さんであるようで、公演の話をしようとしたらしき渉は顔をしかめた。
「……そうか。急だな。決まったのか……うん、おめでとう。おめでとうには早い? 俺のデビューが決定したときにも、タイガーとノリちゃんとで祝ってくれたじゃないか。俺も祝いを……そうか、おい、ノリちゃん、待てよ。今、タイガーの研究室に……切っちまいやがった」
 なんだよ、あれは……と渉は顔をしかめたままで、私は尋ねた。
「おめでたい話ですか」
「なのかね。結婚するんだってよ」
「乃理子さんが、ですよね。おめでたいではありませんか」
「故郷の淡路島で縁談が起きてるから、帰って結婚するって言うんだぜ。現在つきあってる男ってんじゃなさそうだ。それってめでたいか」
 お見合い結婚という日本の風習はすたれつつあるのだそうだが、現代にもなくはない。乃理子さんはお見合い結婚をするのか。それはめでたくないのか。
「これから淡路島で見合いするってんなら、決まるかどうかはわからないんじゃないのか。おめでとうには早いだとか、祝いなんかしていらないだとか、結婚するの、決めたの、だとか、首尾一貫してない。矛盾だらけだった。退職届も受理されて、仕事はやめたと言ってたぞ。おまえは知らなかったのか」
「しばらく会ってませんから、知りませんでした」
「そうか……ノリちゃんはどこにいるんだろうな」
 あるいはすでに、アパートも引き払ったのか。もっと早く話してくれなかったのはなぜだろう。
「携帯電話だったら居所は不明ですね。渉、反対なんですか」
「俺が反対する筋はねえよ」
「なくはないでしょう。渉は乃理子さんに恋をしていたんですか」
 沈黙してしまった渉に、私は彼女の口から聞いた言葉を告げた。
「愛してくれたひと、抱いてくれたひと、と乃理子さんは言いました。ともにプロのシンガーだそうですから、誰なのかは鈍感な僕にもわかりますよ」
「ああ、抱いたよ」
「ということはすなわち……」
「抱いた女にいちいち恋をしてたら身の破滅だ」
「渉……ああ、渉……」
「なんだよ?」
 なにを言えばいいのか、なにが言いたいのか、この期に及んでも私にはわからない。
「おまえこそどうなんだ。深刻そうな面しやがって、おまえは乃理子に惚れてたのか」
「惚れてるという感情すらも、僕にはよくわからないんです。かつて一度だけ恋をしましたが……」
 渉は心底、呆れ果てた顔になった。
「一度って富子さんだけか。本当かよ」
「本当ですよ。あれだってね、恋ってこういうものなのかな、とは思いましたが、確固たる自信はないんです。恋愛は僕には向きません」
「恋愛体質とかいうのがあるらしいな。金子さんが言ってたんだったか。恋は天から不意にふってくるとも言うけど、体質的に恋をしにくい人間はあきらかにいる。金子さんもそうだと言いたいらしいんだけど、おまえはまちがいなくそうだろ。おまえは寄生虫に恋してりゃいいんだよ」
「渉は歌に恋をし続けるんですか」
 けっ、下らない、と口癖を発してから、渉は歌い出した。

「Blue illusion,
 Pardon this rude intrusion,
 Why did you start by thrilling my heart,
 In playing the part of love?

 Blue illusion,
 Why did you bring confusion?
 Why must you stay while love flies away,
 To brighten the gray above? 」

 この歌を私は知らないが、歌詞の大意はわかる。「なぜにあなたは私の心を震わせ、愛を演じていたのだろうか。なぜにあなたは、私を惑わせるのだろうか。あなたの愛は消えてしまっているのに、なぜにあなたは、私のそばで心の曇りを晴らそうとするのか」。
 「Blue illusion」と渉が呟いたのがタイトルであろう。青い幻覚、幻影、錯覚。あるいは、はかなく、切なく、暗鬱な? さまざまな意味を含ませた題名なのか。
 かすれた声が切なさを増幅して私の心をも震わせる。渉は乃理子さんを? 私は乃理子さんを? 結婚するのならば祝福してあげるべきなのに、私の心は晴れない。渉も同じ気持ちでこの歌を歌っているのだろうか。そして、肝腎の乃理子さんの心は?
 無表情で歌っている渉の心の底も、私自身の心すらもつかめなくて、ただ歌を聴いていた。それきり乃理子さんの足取りは消え、季節がすぎ去っていった。


3 晴海

 お節介焼きの噂好きの金棒引きのと、学生時代には徳永に冷笑されていた私は、三年ばかり日本を離れて帰国してみたら、そのころの噂と再会する羽目になった。
 再会した人間は何人かいるのだが、男はいい。金子さんも徳永もタイガーもあいかわらずだ。以上、コメントなし、ってなものである。もうひとり、母校の学園祭を見にいったら、タイガーが会わせてくれた下川ノリちゃんが問題といえば問題なのだった。
「ノリちゃんも学園祭見物? 誰と来たの? タイガーとは昔から友達だっけ?」
「喜多さんは知りませんでした? 私は大学を卒業してから、学校の事務所で働いてるんです」
「ああ、そうだったんだ。ね、時間ある? ゆっくり話そうよ」
 目当てのライヴも終わっていたし、タイガーはノリちゃんと私を引き合わせて消えてしまったので、学校を出て夕食がてら、近くのレストランに腰を落ち着けた。
「私は合唱部の噂には通のつもりだったけど、ノリちゃんは途中で合唱部をやめちゃったし、ノリちゃんの卒業後の進路は知らなかったな」
「私は喜多さんの近況を、徳永さんからすこし聞いてましたよ」
「徳永か。もしかしたらノリちゃんは、徳永とつきあってるの? あいつはなんにも言ってなかったけど、国際電話で話したり、メールしたりする程度だったから、込み入った話はしなかったのかな」
「徳永さんって、自分が関係している話をしないこともありますよね」
「あるね」
「つきあってはいません。昔の先輩後輩の延長みたいなものです」
 情報通のつもりだった私は知っている。ノリちゃんが大学一年生から二年生にかけて、彼女は本橋くんの可愛い彼女だった。本橋くんは私と同い年だから、気安く口をきいて気安く軽い口喧嘩をしたりもした。徳永も合唱部にいたのだが、徳永がノリちゃんについて特別ななにかを言ったのを聞いた覚えはない。
 今日、私が母校を訪ねたのは、学園祭で金子さんとフォレストシンガーズのライヴを聴くためだ。タイガーと約束して待ち合わせて、学園祭の催しの見物をしていたら、金子さんと会った。タイガーは金子さんと私に寄生虫の研究室に先に行けと言い置いて、飲み物を仕入れに行った。
 うようよぐねぐねと寄生虫標本が並んでいる研究室で、なかなか戻ってこないタイガーを待って、金子さんと話していた。
「上海で日本語教師をしてたんですけど、ややこしい出来事があったりして、一旦帰国したんです。また行くかもしれないし、行かないかもしれない。ややこしい出来事っていうのは、聞きたいですか」
「晴海ちゃんが聞かせてくれるんだったら」
「金子さんって、なんでも人に責任を持たせるっていうか……でもないのかな。私は金子さんをそれほど深くは知らないんですけど、話したいから言っちゃおう。上海の男にプロポーズされて、彼の家族の反対に遭って結婚できなかったんです。それだけのありがちな出来事なんですけど、ちょこっとこたえまして、徳永に電話をしたら、彼、なんと言ったと思います?」
「きみと徳永の関係をよく知らないから、なんとも言えないな」
「金子さんだったらなんて言います?」
「これもありがちではありますが、古い恋を忘却の彼方に吹き飛ばす特効薬は、新しい恋だよ。帰っておいで。俺と恋をしよう」
 言い回しは別だが、徳永の台詞に似ていなくもない。だが、金子さんの場合は、相手が私だからではなく、なじみのある女にだったら誰にでも言う常套句のようなものなのだろう。
「ふむ、参考にはなりますね」
「きみが男にそう言ったとしたら、男はうぬぼれが強いのが大概だからその気になるよ」
「私は言いません。そういう台詞は軽い気持ちで言うものではないと心してますので」
「恐れ入谷の鬼子母神。古すぎて新鮮だろ」
「そうですかね。でね、そんなおりに日本語学校との契約期間が切れたんで、日本に帰ってみようかなって思ったんです。とりあえず親元に帰って、徳永のケータイに電話したら、学園祭に金子さんとフォレストシンガーズが出るって教えてくれたんですよ。タイガーに会いにいってこいよ、とも言ってましたんで、夏休みのころに学校に来て、タイガーと約束したんです。タイガーはなにやってるんだろ。客を待たせて」
「タイガーは学校の関係者なんだから、野暮用もあるんだろ。いいじゃないか」
「金子さんはよくても私はよくない」
 そんな話をしていても、タイガーはいっこうに帰ってこない。金子さんはライヴ準備の時間が迫っていると出ていってしまい、しばらくしてからやっと戻ってきたタイガーと、ライヴを聴きにいった。
 そのあとでノリちゃんと再会したのだが、タイガーはノリちゃんの話を詳しくはしなかった。徳永なんぞは前からひとこともノリちゃんについては言わなかった。ノリちゃんが言うには、卒業以来母校の職員として働いているノリちゃんが、院生として大学に残っているタイガーに会いにきていた徳永と、偶然にも会ったのだそうだ。
 それから三年ほどの間、ノリちゃんとタイガーと徳永は友達としてつきあっている。ノリちゃんと徳永が邂逅を果たしたのは、私が中国へ渡って間もなくであったらしい。
 私が上海の男と別れてから、徳永はメジャーデビューした。夏に帰国すると、フォレストシンガーズの本庄くんが結婚するとの報を聞いた。メディアがニュースにするほどの有名人ではないので、結婚式は地味だったようだ。徳永も金子さんも列席していなかったのだから、私は結婚式の様子ももちろん知らない。
 日本に帰ってくると、昔の知り合いの誰彼と連絡を取り合った。学生時代からの友人で、今や子持ちの有閑マダムになっている旧姓小倉花蓮にも電話をした。花蓮は子供がいてさえも暇人なので、学生時代の私以上の情報通になっていて、徳永が話さなかったフォレストシンガーズや金子さんの噂を聞かせてくれたりもした。
 花蓮に負けないほど暇があった私も、情報収集に熱中していたのだが、ノリちゃんの噂は聞こえてこなかった。母校の職員になっていたとは、灯台もと暗しってやつだろう。
 それはともあれ、ノリちゃんは学園祭ライヴには来ていなかったと言う。本橋くんに会いたくなかったのだろうか。昔の恋は恋だと割り切っているのならば、本橋くんの目の前にあらわれて、久し振り、と笑えばいいのに。私だったらそうするのに。
「そうすると、ノリちゃんは今は恋人は?」
「いないんですけど、結婚願望ってあるかな。穏やかな幸せがほしい」
「私は穏やかってのは性に合わないみたい。私にも恋人がいたんだけどね」
 秘密なんてものも性に合わないので、ノリちゃんにも上海での恋と恋の破綻の話をした。学生時代の友達の噂話もした。フォレストシンガーズの話題も出た。フォレストシンガーズの話題は自然に、本橋くんとノリちゃんの過去へと遡っていった。
「喜多さんは知ってるんですよね。あのころはみんな知ってたんだし、内緒にもしてなかったから、同い年の女の子たちには冷やかされてました。私は本橋さんが大好きでした。しつこく本橋さんを想ってると、胸の中で想い出が美化されていくみたい。喧嘩ばっかりして、すねるな、泣くな、怒るな、黙ってろ、ふてくされるな、我慢しろ、俺は忙しいんだから、会えないからって不平ばかり言われたらつきあってられねえんだよ、ってね、本橋さんに叱られたのを思い出すの」
 可愛い声を低めて、本橋くんの真似をして怖い顔を作って、ノリちゃんは続けた。
「こーんな顔して怒るんですよ。叱られたって素直にはいって言わなかったし、ごめんなさいなんて言わなかったから、喧嘩がエスカレートしていくんですよね。本橋さんが手を振り上げて、叩かれるのかと怯えたこともありましたよ」
「叩かれたの?」
「いいえ。怖くてぎゅって身体を縮めたら、本橋さんの腕の中にすっぽり入ってた。頭の上から声がふってきた。俺は怒りっぽいんだから、あんまり怒らせるな、頭に血が上ったら、俺はなにをするかわかんねえぞ、なんて脅かされて、そんなに怒らなかったらいいんじゃないの、って言い返して、キスされて……喧嘩の記憶が甘いシーンにつながっていくんです」
「そっかぁ」
「私が駄々をこねてたら、聞き分けのないのもいい加減にしろ、って怒鳴られて、そしたら泣いちゃうから、うしろを向いてわあわあ泣いてた。勝手にしろ、って声が聞こえて、ほっぽって帰っちゃったのかな、って思って、それでも涙が止まらなくて泣き続けてた。学校の近くの公園でだったかな。そうしてたらうしろから肩に手が乗っかって、知らない男のひとの声が、どうしたの? なに泣いてるの? って。びっくりして逃げ出したんですよ。夜だったから怖くて心臓がばくばく言ってた。必死で走ってたらむこうから乾さんが来て、私を背中にかばってくれて、その男を撃退してくれました」
「乾くんらしい態度かもね」
「でしょ? それから本橋さんも来て、本橋さんは乾さんに叱られてました。喧嘩したからって夜中の公園に彼女を置き去りにするとはなにごとだ、ってね、乾さんもこんなふうになると怖いなぁ、って、私が怯えちゃってたんですけど、本橋さんは言いましたよ。乃理子、ごめんな、乾、ごめん」
「本橋くんはノリちゃんをほっぽって帰ったんじゃなかったんだね」
「本橋さんはそんなひとじゃありませんから」
 遠い昔の思い出話ではないみたいに、ノリちゃんは頬を染めて話していた。
「喧嘩のエピソードはいっぱいあるんです。つきあってた間に何べん喧嘩したんだろ。キスの数より多かったりしてね。そうでもないのかな。仲直りしたらキスしてくれたから。公園の樹の幹に相合傘を彫って、真次郎、乃理子、なーんて描いてたら、うしろからいきなり抱き上げられて、いたずらしたら駄目だろ、って叱られて、私があばれたから落ちそうになってしがみついて、通りがかったおばあさんが、近頃の若いひとは臆面もなく、ってぶつぶつぼやいて、本橋さんに言いました。そういうことは人のいないところでやりなさいって」
 それからね、それからね、とノリちゃんの追憶がとめどもなく口からこぼれる。
「おまえがガキみたいないたずらしてるからだろ、変なことするからでしょ、ってまた喧嘩になって、そのまんま草むらに連れていかれてキスしたの。キスもいっぱいしたんだな。本橋さんの手がスカートの……あ、ここまで、ストップ。キリがないからやめます」
「すでにキリなくいっぱい聞いたよ」
「ごめんなさい」
「ノリちゃん、忘れてないんだね」
「ううん、いいの」
 忘れなくてもいいと言いたいのか。本橋くんはたぶん忘れているだろうに、とは私には言えなかった。
「あのころに一生分の恋をして、一生分愛してもらって、一生分の想い出を作ったのかな。私、もう余生みたい」
「なに言ってんのよ。若いくせに」
「そうですね。結婚したいのにね。タイガーさんや徳永さんも知ってますよ。いろんなふうに徳永さんやタイガーさんには、私の今の気持ちを話しました。だけど、時間がたつと揺らめくんです。さっきも本橋さんを見かけた。本橋さんは私には気がついてもいなかった。気づいたとしても忘れてるんだろうな。ああいう仕事をしてる男のひとなんだし、本橋さんは昔よりもかっこよくなってるから、恋はあれからだって何度もして、恋人もいるんでしょうね。今度こそ忘れようって誓ったつもりだったけど……私、大学にいるからいけないのかもしれない。学校には想い出が多すぎるんです」
「そうかもね」
「徳永さんも……かな。よく考えてみます」
「うん」
 食事をすませて、これからはちょくちょく話そうね、と言い合って別れた。
 けれども、生活がちがうのだから会う機会はない。私は日本で中国語学校の教師になり、自分自身の暮らしに忙殺されていた。ノリちゃんはノリちゃんで仕事に精を出しているのだろうと思って、いつしか電話も間遠になり、一年余りも彼女とは会わないままに時がすぎた。
 東京にいると、フォレストシンガーズや金子さんや徳永のライヴはたまにある。たまの中にもたまには私も聴きにいったのだが、一般人の私がプロシンガーの楽屋に顔を出すのは気が引けて、忙しくなった彼らとも口をきかずにいるうちに、金子将一、徳永渉、フォレストシンガーズのジョイントライヴが開催された。
「ライヴなんて久し振り」
 子供はベビーシッターに託してきたと言う花蓮とふたり、大き目のホールの二階席にすわった。花蓮は場違いではなかろうかと言いたくなるような、ブランドものの高価そうなドレスでめかし込んでいて、ダイヤのピアスとネックレスも光っている。なのに、私にはこう言うのだった。
「晴海ちゃんはかっこいいよね。私なんかやっと三十なのに、そういう都会の働く女性のファッションとは無縁だったから、くすんだおばさんになっちゃったでしょ」
「お金持ちの華やかなる、おばさん予備軍ってところだね。プチマダムって言うんじゃないの」
「プチマダムなんてかっこ悪い。ねえねえ、晴海ちゃん、ライヴのあとでみなさんの楽屋に行くの?」
「行かないよ」
「なんだ、がっかり」
 無理に連れていけとは言わない花蓮と、ライヴを堪能してホールのロビーに下りていくと、見覚えのある小柄な男がいた。
「……んんと、んんと、誰だっけ」
「合唱部のひとじゃない? 小さくて若いよね。年下だよね」
「どう見てもあれは年下だね。そうだ、酒巻くんだ」
「DJやってる酒巻さん? 彼も私たちの大学の合唱部出身だって聞いたわ。私は彼のファンで、ラジオを聴いてるの。晴海ちゃん、紹介してよ」
 三歳年下のはずの酒巻くんがDJになっているとは私も知っている。彼とは学生のころにもたいして話もしなかったのだし、ラジオの仕事でライヴに来ているのだったら迷惑になるかとも思ったのだが、花蓮が瞳をきらきらさせて催促するので、酒巻くんに近づいていった。
「喜多さんですよね。お久し振りです」
「覚えててくれたんだね。彼女は花蓮ちゃん。合唱部じゃないけど、私の友達で同窓生だよ」
「乾さんから伺っております。お会いするのははじめてですね」
「ごめんね、晴海ちゃん、忘れてたんじゃないんだけど、主人の仕事の関係で、フォレストシンガーズのみなさんとはお会いしたのよ。先だってはみなさんに、うちの別荘をお貸ししたの」
「そうだったのか。いいけどね」
 お久し振りの挨拶をかわしたり、私、酒巻さんのファンなんです、と花蓮が感激の面持ちで言ったり、酒巻くんが照れたりして、話しが一段落すると、酒巻くんが言った。
「実松さんもいらしてたんですよ。ご記憶にはありますよね」
「大阪弁の実松くん、覚えてるよ。徳永と私が合唱部に引っ張り込んだんだから」
「僕もそう聞いています。実松さんはライヴ前にみなさんとお話をされたので、明日は仕事だからとお帰りになりました。僕も仕事がありますので、ご案内は致しかねるのですが、控え室に行かれますか。バックステージパスでしたらお渡しできますよ」
 行きたいなぁ、と花蓮が呟き、どうぞ、と酒巻くんがパスをくれて、なりゆき上、控え室に行くことになった。楽屋が三つ並んでいるうちのひとつ、「徳永渉」とプレートのかかった部屋のドアを、私に訊かずに花蓮がノックした。
「花蓮でございます」
「花蓮さん? これはこれはそのせつは……」 
 がたがたっと物音がしてから、ドアが開いた。
「晴海も来てたのか」
「私がいたら邪魔なんだったら、帰りますわよ。人妻の花蓮とふたりっきりでしっとりしんねり?」
「下らん。入れ。花蓮さんもどうぞ」
 毎度毎度、私には徳永は無愛想だが、花蓮にはそれなりの対応もする。中に入ると徳永は花蓮に椅子を勧め、晴海は勝手にどこにでもすわれ、と言った。
「実松やら酒巻やらが持ってきてくれた差し入れがあるよ。和菓子じゃないのかな。お茶はペットボトルだけど、花蓮さん、どうぞ」
「私は?」
「晴海も食いたいんだったら食えよ。金子さんや本橋たちは打ち上げに行くって言ってたから、おまえたちも行くか。俺は帰るけどな」
「徳永は帰るんだったら、先に聞きたい」
「なんだよ」
「ノリちゃんは元気?」
 花蓮も一時期は女子合唱部に遊びにきていて、女の子たちとお茶を飲んだりおやつを食べたり、談笑したりしていた。ノリちゃんを覚えているのかどうかは知らないが、顔見知りであるはずだ。花蓮は徳永と私の会話に口をはさまず、上品にお菓子を食べていた。
「知らなかったか。やめちまったよ」
「学校の仕事を?」
「その面は知らねえんだな。ノリちゃんはおまえの話もしてたけど、去年だったか。突然淡路島に帰って縁談に乗るとか言って、仕事もやめてアパートも引き払っていなくなっちまった。淡路島に帰ったんだろうから、タイガーも俺もめでたいんだと考えてるんだよ」
「それでいいのか」
「それでいいよ。俺になにができるんだ」
「……そうだろうね」
 結婚願望があると言っていた。穏やかな幸せがほしいとも言っていた。淡路島に世話焼き仲人さんだか親戚のおばさんだかがいて、年頃のノリちゃんに縁談を持ってきたのか。私にだって世話焼き叔母がいて、晴海は結婚しないの? と聞きたがるのだから、よくある話なのかもしれない。
 ノリちゃんからはいくらか聞いたものの、タイガーや徳永は彼女の話題をあまり出さなくて、私も聞かなかった。三人で友達づきあい。それにはおかしな点はないけれど、徳永やタイガーは実のところではノリちゃんをなんだと考えていたのだろうか。
 それでいいよ、と言ってるくせに、寂しくなくもない顔をしている。徳永はどうやら気に入った女には手が早いらしいとわりに最近になって気づいたのだが、ノリちゃんになにかしたのではないだろうか。まさかそうは訊けなくて、声には出さずにノリちゃんに話しかけてみた。
 忘れようと決めても忘れられずにいた遠い昔の恋を、完全に忘れるために故郷に帰ったの? 結婚したの? 大学にいるから想い出に縛られるとも言ってたね。結婚して穏やかな幸せを手に入れて、安らかに笑って暮らしてる? そうだったらいいけれど。
「では、俺は失礼してお先に。今日はありがとう」
 考えに耽っている私をよそに、帰り支度をしていた徳永は、花蓮にだけ言った。
「徳永さんはどうして……?」
「いいんだよ、花蓮、ほっといてやって」
「そうなの?」
 外に出ていった徳永の声と、本橋くんの声が聞こえてきた。
「花蓮さんが来てるよ。晴海もいるぜ」
「友達をほっといて帰るのか」
「俺は疲れたから、おまえたちとライヴのあとでまでいっしょにいたくねえんだよ」
「年だな」
「お互いにな。明日の朝、腰痛で起きられないようにと祈ってる」
「起きられなくないように、じゃねえのか」
 じゃあなでもおやすみでもなく、徳永が立ち去る足音が聞こえ、続いてノックの音が聞こえた。
「どうぞ。開いてるよ」
「よ、喜多。喜多だよな、まだ」
「そうだよ。本橋くんも独身だろうに」
「ああ。金子さんも徳永も乾も幸生も章もだ。シゲだけしか結婚してねえよ。おっと、挨拶が遅くなった。花蓮さん、今夜はいらしていただいてありがとうございました」
「本橋さん、私にも友達みたいに話して」
「花蓮さんはどうもね……そうしろと言われるんだったらそうしようか。徳永は帰っちまったけど、花蓮ちゃんも喜多も、打ち上げに来いよ」
 そうそう、そう喋ってくれると嬉しい、と言いながら、花蓮が私を見た。
「私はそういうの、経験ないからさ……」
「おまえらしくもなく臆してるのか。経験とはなにごとも初体験からはじまるんだ。行こうぜ」
「晴海ちゃん、私は行きたいな」
「ミュージシャンなんていう魔物の群れの真っ只中に、純情可憐な人妻の花蓮ちゃんを放り込むと危険だね。私も行くよ」
「魔物の群れ……おまえもあいかわらずだな」
「本橋くんもね」
 きゃっきゃとはしゃいで少女に戻っている花蓮と、本橋くんと三人で楽屋から出ると、賑やかな男たちの声が聞こえてきた。
「晴海ちゃん、来てくれてたんだ。花蓮さんもようこそ。別荘を貸していただいてありがとう」
 乾くんが言い、三沢くんも言った。
「今夜は美江子さんは来てないんで、女のひとがいなくて寂しいなってところを救ってもらえるんだ。喜多さん、花蓮さん、ぱーっとはじけましょうね」
「お久し振りですね、喜多さん。花蓮さん、俺からもありがとうございました。恭子も……その話はあとにしましょうか」
 本庄くんも言い、木村くんも言った。
「喜多さんって俺はあんまり……なんですけど、昔の本橋さんや乾さんの話し、聞かせて下さいね」
「まかせといて」
 おいおい、やめろよ、と本橋くんは言い、乾くんは笑っている。木村くんは続けて言った。
「花蓮さん、夏にはどうもでした。徳永さんは帰っちゃったんですね。俺はあのひともどうも……だから、あ、金子さん」
 金子さんも控え室から出てきた。
「花蓮ちゃん? あなたがいらしてくれるとは感激ですよ。晴海ちゃんが連れてきてくれたんだね。晴海ちゃんが奥まで入ってくるのは珍しいんじゃないのか」
「酒巻くんと花蓮に連れ込まれました。酒巻くんは仕事中ですけど、あとで来るんですか」
「来るかもしれないから、俺たちは先に行っていよう。この裏のレストランだよ。花蓮ちゃん、よろしかったら腕をどうぞ」
「どうしましょ……でも、素敵」
 嬉しそうに嬉しそうに、花蓮は金子さんと腕をからめて先頭に立った。晴海ちゃんは? 喜多さんは? とばかりに私を見つめ、乾くんと三沢くんと木村くんが腕を差し出す。もててるみたいで嬉しいな、と私も言って、本庄くんを見た。
「妻帯者の本庄くんは私と腕は組んでくれないの?」
「お、俺ですか」
「恭子さんに悪い? 遅ればせですが、ご結婚おめでとう」
「ありがとうごさいます。俺でよければ……乾さん、いいんですかね」
「俺は知らないよ。幸生、章、ふられちまったな」
「いいないいなぁ、恭子さんに言いつけちゃおっと」
「幸生、おまえはふたこと目にはそれを言うのはやめろ」
「シゲさんがなにか言ってるけど、聞こえないったら聞こえない。恭子さんに告げ口するのは楽しみだなっと。章、しようがないから、いやだけど俺と腕を組まない?」
「断る」
「つれないね。乾さんは? あらら、返事もしてくれないの。つまんねえの」
 彼らのプライベートなんて私は知らないけど、いつもこうなのだろうか。だとすると、学生時代とちっとも変わっていないのだ。彼らも本当にあいかわらずなのだと微笑ましく感じつつ、本庄くんと腕を組んでいちばんあとから歩き出した。
「恭子さんに言いつけられると困る?」
「いいんですけど、幸生はあることないこと言いますんで」
「幸せそうだね」
「はあ、まあ……」
 そこはかとなく赤くなっている本庄くんは可愛い。いかついタイプの男なのに可愛いとは不思議だが、根が可愛い男なのだろう。歩いていて思い出した。フォレストシンガーズがデビューした直後に、八幡早苗から聞いた打ち明け話をだ。本庄くんはそんなものはとうに吹っ切っただろう。なにしろ結婚して幸せいっぱいなのだから。
「もっともっとビッグになってよね。みんな見てるから。金子さんも徳永もだけど、フォレストシンガーズも、私たち同窓生の誇りなんだから。タイガーも言ってたよ。タイガーは知ってるんでしょ?」
「学園祭のあとでも話しました。ありがたいです。みなさんに勇気づけていただいてるんですし、ファンの方もついていて下さるんですから、我々もいっそう励みます」
「うん、がんばって」
 みんなの中には、淡路島に帰っていったらしきノリちゃんも含まれてる。あんたは忘れてしまったとしても、ノリちゃんはきっと、死ぬまであんたを忘れない。私にはそこまでの経験はないけど、そんなふうな女もいるって、あんたは知らないんじゃないの? 本橋くんの背中に話しかけていると、耳元に先ほど聴いた歌が聞こえてくる気がした。
 青い幻影がまなこの裏をかすめる。私にもあったいくつかの過去。耳元をかすめるのは、徳永がライヴで歌った「ブルーイリュージョン」だ。そのせいで青い幻影を連想したのか。
 あれはどこかでほんのちょぴり、ノリちゃんを想って歌った曲だったんだろうか。本橋くんとは遠い過去にああして、徳永とは近い過去にそうして、「そうして」の内容を私は知らないに等しいけど、なにかあったにちがいない。
 だからね、ノリちゃんは若いころにいい思い出をいっぱい作ったんだよ。想い出は捨てなくてもいい。ひっそり抱きしめて生きていったらいい。そうして淡路島のたくましい妻となり、母となったらいい。そうなったノリちゃんにいつか会えるよね。
 前を歩いていく男たちの声に、花蓮の声もまじってざわめいている。ざわめきがふっと遠くなり、ふっと昔に戻っていった錯覚に包まれて、その次の瞬間には現在に戻って、私も彼らのざわめきに参加していた。

END



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